世界は音でできている
ピピピ、ピピピ。いつもの時間に鳴り響く目覚まし時計はファの音かな?
眠気まなこでキッチンに降りて行く。お母さんのおはよう、の声はミの音?
洗面所の蛇口から流れる水の音は…わかんないや。歯を磨く音も。
いただきます、と家族みんなでテーブルに座ってお母さんが作ってくれた朝ご飯を食べる。お姉ちゃんの食器のカチャカチャ、お父さんの新聞のガサガサ、お母さんのスリッパのパタパタ。色んな音が混ざり合っている。
小学校に行く道の途中にも音はたくさん。車、自転車、鳥、一緒に登校している高学年の子達の楽しそうな笑い声。学校に着くと校門の前で同じクラスの水田さんに会った。水田さんが窪田君おはよう、と手を振るので僕も水田さんおはよう、と小指の無い右手で手を振り返した。
僕には右手の小指がない。幼稚園の時に同じクラスの子が思い切り閉めたドアに挟まれて僕の右手の小指はちぎれてしまったみたいだ。その時の事は全然覚えて無いけど、痛かった、とか怖かった、とかも覚えて無いから良かったと思う。でも小指の無い僕の右手をお母さんが両手で包んでまた生えてくるからね、と泣いていた事だけは覚えている。
「今日もおじいちゃん家に行く?」
一緒に二年二組の教室まで歩いていると、水田さんが言った。
「…今日も行っても良いのかな」
「もちろん、おじいちゃん退職してヒマだから。喜ぶよ、きっと」
昨日の体育は鉄棒で、昨日から逆上がりの練習が始まった。前回りなら出来るけど、逆上がりはダメだ。小指が無いから右手に力が入らない。それは僕が逆上がりが出来ないただの言い訳かもしれないけれど…先生も仕方ないね、と言う。男子は窪田だけずるいと言う。指がないから、とヒソヒソ話し始めて昨日はイヤな感じだった。体育の後の給食の時間に同じグループの女子の水田さんが、僕の右手をじっと見てきて僕はますますイヤな気持ちになった。なんだよ、ジロジロ見るなよ。
「窪田君は指が長いね、いいな、うらやましいな」
え、そうなの?と僕はビックリした。小指が無い事を言われた事は何度もあるけど、指が長いなんて初めて言われた。
「私、指短いんだよね。おじいちゃんにピアノ教えてもらってるんだけど、全然うまくならないの。おじいちゃんは指が短いからだろうって。ひどいでしょ?窪田君なら、ピアノ絶対上手に弾けそう」
ピアノが弾けるなんて水田さんはすごいなぁ…と思った。
「ね、おじいちゃん家に遊びに来ない?私もピアノの練習したくないし、一緒に行こうよ」
僕は返事をしなかったけれど、放課後にほとんど無理矢理に窪田君行くよ、と水田さんに連れられて僕は水田さんのおじいちゃん家に遊びに行く事になった。
「私のおじいちゃん変わってるけど、気にしないでね」
そんな事言われて気にしない訳がないじゃないか…と思った。
「音楽が好きなんだけど、あ、昔音楽の先生だったみたい。クラシック音楽とかいつも聴いてる。私は他のが聴きたいのに。おじいちゃんには内緒だからね。世界は音でできてる、とか世界は音であふれてる、とか言うの。ね、変わってるでしょ?」
僕はそれを聞いてなんだか楽しくなってきた。そんな僕も変わってるのかな?
突然遊びに来た僕に、水田さんのおじいちゃんはとても優しかった。水田さんの為に用意していたおやつのシュークリームを半分僕にわけてくれた。水田さんはちょっと怒ってたみたいだけど。部屋にはピアノがあって、どこかで聴いた事のある曲名は知らないクラシック音楽の綺麗な曲が流れている。
僕が何の曲だろう、と思っていると水田さんのおじいちゃんがこれはバッハのなんとかと言う曲で…と話し始めた。水田さんがおじいちゃんの話しは長いから、と口をはさむ。水田さんのおじいちゃんは笑って、ピアノを弾き始めた。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。世界は音でできてるんですよ。
昨日は家に帰ってからずっと音の事ばかり考えていた。色んな音にドレミをあてはめると楽しくなって来た。目の前がぱあっと明るくなって嬉しくてドキドキして、もう二度と小指の生えてこない右手を見てなんだか泣きそうになった。
今日は僕の分も水田さんのおじいちゃんはおやつのドーナツを用意してくれていた。今日のBGMはショパンのなんとかと言う曲ですよ、と教えてくれた。綺麗、と僕は思った。
「音を感じる、とても素敵な事ですね。たったそれだけで少し得をした気持ちになれます」
「僕…指が9本だから逆上がりが出来ないんだけど…ピアノは弾けるかな」
僕は思い切って聞いてみた。
「もちろん弾けますよ。逆上がりは出来ないけど、ピアノは弾ける。これで出来る事がプラスマイナスゼロになりますね」
水田さんが楽しそうにクスクスとレの音で笑った。
世界は音でできている