停滞のハイアラーキー


「こりゃー、駄目だな。あと二時間はかかるぞー」

 右隣で唸る先輩の台詞に、僕はげんなりした。げんなり具合を、態度で全面に現した。
 隠そうともしない僕の不満げな態度に、先輩は器用に片眉をあげる。
「何だ、随分と嫌そうだな」
「そりゃーそうですよ。先輩と二人だけ、しかも密室で二時間とか耐えられませんもん」
「嫌な言い方すんなやぃ」
 互いにガンを飛ばしあってから、僕らは車のフロントガラスから見える景色に深い溜息をついた。

 僕らの(正確には会社の)車の前にも後ろにも延々と車の列が続いている。蟻だってこんな規則正しい隊列は組まないだろう。
 つまり僕ら人間は蟻以上の存在にはなれたわけだが、その事実はこのイラつきへの慰めにもならない。

「やっぱ時期がなぁ。帰省ラッシュともろ被りだからな、畜生」
「もー畜生なんて汚い言葉使わないでくださいよ、変態…じゃなかった、先輩」
「あっれぇ、俺、お前より年上だよなぁ」
 くだらないやり取りは息休めにもならなかった。そもそも年末の休暇始めに営業の仕事を任せてくるなんて、聞いていない。

 やっぱり会社、間違ったかな。
 こんな時でさえ、ここ暫く僕の頭から黴のように離れない考えが浮かんでくる。
 勤め先である個人経営会社の社長と知り合ったのは、大学生のときだ。割の良いバイト口に飛びつき、だがその割の良さはウキだった。そして僕が飛びついたのは鈎だった。どうやら末永く留められる獲物を探していたらしい。社長の善意という名のリールを引かれ続け、気が付けば正社員だ。
 こんな表現だと社長が密漁者のようだが、社長はいい人だ。ただまあ、時折無意識の計算高さが目立つだけで。

「おい、じめつくなら別の場所でやってくれよ」
「スンマセン」
「やけに素直だな」
「先輩は何でこの会社入ったんですか?」
「いきなりだな」
 荒い口調に反して先輩が怒った様子はない。案外懐の広い人なのだ。と、内心でだけ褒めておく。

「まあ、暇つぶし程度にはなるかねぇ」
 と前置きして、先輩は口を開いた。

「お前、この会社が社長一代で築いたことは知ってるよな」
「ハイ。バイトの面接の時にぽろっと言ってましたよ」
「んで、だ。創立当時は社長と奥さんと、二三人の身内だけの、まあ親戚経営だったワケよ。
就職難でもなしに、いつ潰れるかも分からない会社に就職する物好きもいないからな。絶賛人手不足だ。そんなときに俺に白羽の矢がたった」
「その格好良くないカッコつけた表現やめてくださいよ」
「ちょっと誇張気味のほうが退屈しないだろうよ」
 先輩の少し得意げな表情に、僕を楽しませるもの以外の何かを感じないわけでもなかったが、話の腰を折るのも何なので肩を竦めるに留めた。

「何で先輩だったんですか」
「そりゃあ、俺が社長の奥さんの愛人で、ヒモだったからだ」
 ちょっと奥さん今日特売日よ、なんですって行かなくちゃ。ぐらいの何てことない調子で先輩の口から出てきたのは、僕にとって小型の爆弾だった。
 これには流石に咄嗟の軽口も出ず、僕はぎょっと先輩から仰け反った。
「嘘ですよね」
「さあな。そこらへんの判断はお前に任せるわ」
 一番嫌な投げ出し方をされた僕は、むっつりと黙り込むほかない。

「で、社長にバレた」
「修羅場突入じゃないですか」
「俺もお命を頂戴される覚悟はしたねぇ。でも社長はそこで取引に持ち込んだわけだ」
「それが、社員になれっていうことだったんですか?」
「いや、そんな簡単じゃなかったなぁ。まず一つ目の条件として、愛人関係はやめること」
「当たり前ですよ」
「で、二つ目の条件をクリアしたら、俺を正社員にすると社長は言った。
俺もね、金がありゃヒモなんてやってないさ。正直、俺には社長がそこらの神様よりもよっぽど尊いものに見えた」
「恋敵に助け船出したんですか。なんというか…善人ですね」
「そういうならば、ウルトラ善人だな」
 社長がM78星雲出身であることが確定した。
「で、二つ目の条件は何だったんですか?」
「ああ、それが中々知らされなかったのよ。で、ようやくある冬の日の夕暮れ時に、電話がきたわけだ。
そう…俺の何でもバッチコイな気分を描写したような、凄まじい吹雪の夜だった…」
「うわ最悪」
 僕は思わず腕にういた鳥肌をさすった。そこまで劇的な演出なんて、誰も求めてない。ところが先輩は僕の憐れな姿を見て、くつくつと楽しそうに笑った。どうやら気分がノリノリであらせられるらしい。

「電話の向こうで社長はこう仰った。『頼みたいことなんだけど―――』」
「あ、普通でお願いします。物真似とか勘弁です」
「ちっ。まあ要約すると――――急用で書類を隣町まで届けなければならなくなった。しかし社長は手が空いていない。
さらには朝のうちにその書類を届ける必要がある。で、俺に朝一で会社のほうへ来て、書類を受け取り、それを隣町まで早急に届けてほしい、と」
「朝一で行かなくても、電話かかってきたその日のうちに受け取りに行けばいいじゃないですか」
「馬鹿野郎、ここが社長の優しいところだ。今日は夜通し吹雪が酷いから、翌日でいいと言ってくださったのよ。
天気予報では、次の日の朝には雪がやんでいる予定だったからな」
「おお。そこまで行くと、社長に後光が見えてきますね」
「だろう。いやいや、こんなもんじゃない。なんとだ、俺が最寄りの駅に着くと、携帯に社長から電話がかかってきて、会社までの道を細かく教えてくれた」
「そのまま社長にすんなり会えたんですか」
「んーまあ、ちょっと迷ったけどな」
「え? だって電話で道順教えてもらいながらだったんでしょ? それで迷うって、先輩の方向感覚は羊並みですか」
「それがな、玄関前にあった新商品入りの段ボール箱をついでに持ってきてくれってお願いされて、社長からの電話は切れちゃってなあ。
社長のいる部屋が最上階の、まあつまり三階だな、そこにいるってことは教えてもらったんだがな」
「エレベーターは? あの玄関入って目の前にあるものを見過ごすはずもないでしょ」
「いや、前日に壊れたらしい。
で、会社の階段って、大分奥まったとこにあるし、目印もないし、教えてもらわなきゃ分かり辛いだろう。しょうがなく外の階段で、三階まで」
「へぇ」
「へぇ、って、お前なあ。雪が積もってて大変だったんだぞ」
「社長には会えたんですか」
「ああ。無事段ボールを渡して、書類を受け取って、屋内の階段の場所を教えてもらって、そこからは楽だったな。
そんでもって無事正社員というわけだ」
「気まずくないんですか。社長が愛人の夫ってことでしょ、それ」
「社長が気にしない様子なら俺が気に病む必要はないだろ」
「その強靭な精神は尊敬に値しますよ」
「まあな。やっと俺の偉大さが分かったようだな」
「はい。よく分かりました、先輩の矮小さが」
「あれ、空耳かねぃ…お、動いた」

 車間距離が徐々に開いてきた。いつの間にか渋滞を抜けていたらしい。先輩の無駄話も暇潰しになったようだ。
 視界の端々で点滅していたブレーキライトも、続々と消えていった。喉の詰まりに水を流し込んだ時の、すっとした感覚がする。
 横目に先輩を一瞥した。あっけらかんとした顔でハンドルを傾けているその様子は、疚しさのやの字も伺えなかった。
 案外と惚れた腫れたの恨み辛みを、当人達は重く捉えないのかもしれない。
 社長の行為を額面通りに受け取るならば、だけど。

 少し気にかかった点がある。
 まず大前提として、書類を先輩が持っていく必要はない。社員は他にもいるからだ。つまり社長はわざわざその任務を先輩に課したことになる。
 積雪の翌日、晴れた早朝。まだ日も出ていない時刻。更に、前日にエレベーターが止まった、乃ち多くの社員が外の階段を利用したということだ。踏み固められた積雪は、アイスバーンと化しただろう。
 そして社長は段ボール箱を持ってこいとお願いした。でも、本当にその新商品のモデルを社長は必要としていたんだろうか。
 段ボールを抱えれば、足元は自然と不注意になる。その状態のまま三階分。古い建物だから、階段の踊り場は狭い。
 滑りやすい階段。荷物による重心のズレ。死角となった足元。
 まるで、階段から転び落ちる条件を並べたような。
 エレベーターを止める方法なんて、点検だとでも偽ればいい。社員一人を残らせて、車で届けたほうが余程楽だ。
 はたして社長の御心はどちらに、などと心中嘯いて車窓から曇った空を眺めてみた。どうも先輩のカッコつけが感染している。

 まあ、考えすぎか。そもそも僕に関係ないし。
 そう区切りをつけて、僕は明日から迎える連休の計画に心を馳せた。

停滞のハイアラーキー

停滞のハイアラーキー

僕の勤める会社の社長は、例えるならば爪をすべてカッターに改造した兎である。 暇潰しに、と先輩が語り始めたのは、社長との出会いだった。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted