思わぬ不運


 中央線の車内は明るさに満ちていた。沢山のボーナスが出て、いい正月が迎えられそうである。少なくとも利夫にはそう見えた。ふと先日、姉から来た手紙を反芻した。その中の一部にこんな一文があった。――ところで和子のことですが、あの子は夫と別れて、女手一つで子供を育てています。同じ東京都内に住んでいるのだから、たまには立ち寄って上げてください。きっと喜びます――しかし、そんな気にはなれず、それどころか彼は、
「あいつは、負のイメージしかない」
 不快そうに呟いた。和子は一つ年下の妹である。抑圧されている者の体質を身に付けていて、卑屈でへたれで自信のない女だった。そして平気で利夫を卑しめる言葉を口にした。それがかなわなかった。いくら血が繋がっていても敬意の念は払えない。一体あの性格で専制君主的な夫とどんな会話を交わしていたのだろう。
 一度、和子の家を訪ねたことがある。当時は所沢市で結婚生活を送っていた。気が効かない性格だが、昼間からビールを出してもてなしてくれた。工場を経営をしている夫は、出かけていて留守だった。家の中は置き去りにされたように寂寞とした雰囲気があった。それでついこんなことを聞いた。
「旦那さんの趣味は何なの」
「仕事から帰った後、お茶を飲みながら、テレビを観て、お菓子を食べるくらいかな」
 和子はのんびりと答えた。そんな善良で単純な男がいるのか。もしかしたら愛人がいるのではないか、騙されているのではないか――利夫は直感した。
「今の暮らしに満足しているのかね」
「しているわ。幸せよ」
「夫を疑ったことはないのか」
「どうして、疑わなきゃいけないのよ」
「聞いただけだ」
 和子は余計な詮索をするなという顔つきをした。だが利夫はよからぬことしか考えなかった。それが奇しくも当たった。二ヵ月後、義弟に愛人がいることが発覚した。それからというもの、郷里の山梨県の親たちは日夜悩まされることになった。最後的には和子が離婚を申し出た。しかし夫は多額の借金があるとかで、慰謝料も養育費も払おうとしなかった。和子は食料品会社でパートの勤めをしていると聞いたが、今はどうしているのだろうか。六歳の一人息子は素直な性格をしていて、訪ねた日、近くの公園で遊んでやったら大喜びした。甥のためにいくばくかの援助をしてやりたいが、そんな余裕はない。三十五歳の利夫はトラックの運転手をしていて、椎名町の低家賃のアパートに住み、結婚しているわけではない。
 その日は仕事納めの日で、好きな高円寺にやってきた。この街だけは自分を受け入れてくれるような気がしていた。南欧の風景を思わせる路地などを散策してからパル商店街に来ると、人々であふれ返っていた。通行人たちに紛れているうちに路上の一角に目を奪われた。それは財布のようで一瞬光って見えた。それからの彼は俊敏な動きをした。あたかも自分が落としたかのように拾った。駅まで引き返し、トイレに入って、中身を確かめた。札が詰まっていて手が震えそうになった。数えたら万札が十三枚入っていた。
「ついているぞ!」
 これぞ天意の賜物である。その時、甥にお年玉をやろうかと慈悲の心が芽生えた。ただちに電車に乗り、次の中野駅で降りた。和子達はこの町に住んでいる。ついでに正月用の食料品でもとブロードウェーの商店街に来た。ここも大勢の人々が行き交っていた。適当な店を捜していたら、白地の上っぱりを着た店員らしい女が駆けていく。
「あなた、待ちなさい」
 店員風は前を歩いていく小柄な女をつかまえた。利夫は立ち止まって様子を伺った。何の気なしに見ているうちに鳥肌が立った。女は和子だった。五十がらみの警備員がやってくると、和子は甘えたような声で哀願した。「私は何もしていません。手を放してください」
「パック詰の蟹を盗ったでしょう。こんなことをされては困りますよ」と女店員。
「とにかく、店に戻ってくれ」
 警備員がぞんざいな口調で命じた。何人かの通行人が物珍しげに見ている。和子は色の褪せた茶色のジャパーに膝のふくらんだパンツという身なり。化粧もしていない浅黒い顔。都会でこんなみすぼらしい服装をした者を見たことがない。
「家には幼い子供がいます。お見逃しください」
「そんなこと関係ない」
「お願いします。ほら、この通りです」
 薄い胸元で両手を合わせた。その卑しげな振る舞いといったらなかった。利夫は見ていられず、逃げるようにそこを離れた。早足に中野駅に向かい、電車に乗った。甥へのボランティア精神も完全に失せて、打ちのめされていた。新宿で降りた。雑踏の中を当てもなくさ迷った。靖国通りから歌舞伎町に来ると、《出会いカフェ》という看板が目に留まった。あれは何だろう、そこへ行くと女が抱けるというのか。彼は我を忘れて陶酔できるものがほしかった。それから戻ってきて二丁目の喫茶店の前を通りかかったら、店の前に女がいた。妖しい香水の匂いがした。彼女は中に入るのをためらっている。利夫は声をかけた。
「ここは、いいお店ですよ」
「初めてだから、どんな雰囲気かと思って」
「客の質はいいですね」
「だったら、入ろうかしらん」
「ぼくもコーヒーを飲むところです。ご一緒しませんか」
「ご迷惑ではないですか」
「いいえ、一向に構いません」
 カウンターで二人分の代金を払い、奥の丸テーブルに座った。正面から見ると、女は濃い目のメークをし、いくらか派手派手しい。
「仕事は終わったの」利夫が尋ねる。
「いいえ、私は失業中なの」
「それは困ったね」
「捜しているんだけど、見つからないのよ」
 コートを脱いだ女はタートルネックのざっくりしたセーターを着ていた。胸が盛り上がり、エロチックだった。いくつくらいだろう、そんなに若くもないけれど、老けてもいない。
「大学では応用化学を専攻したんだけど、まるで役に立っていないわ」
「ほう、あなたは相当レベルの高い方だね」
「大学はお茶大なの」
 できる女なのだろう。
「経歴を生かして、いいところに入れますよ」
「でも私、将来が不安なの」
「あまり気にしないほうがいいね。人生は時には素晴らしいことが起こります」
 彼は大金を手にした経験で言った。女の悩みを聞いていると、弱きを助け、という義侠心すら抱いた。金を持っているので自信があった。
「こういう時は気晴らしが大事です。どこかへ飲みに行きませんか」
「そんな余裕はないわ」
「任せてください。ぼくはプロレタリアだけど、お金は沢山持っているから」
「頼もしいわね。お金のない男なんて、無価値も同然だものね」
「言うねえ」
「あなたは男の中の男よ」
 店を出た。少し歩いて、通りかかりの地下のスナックに入った。広い店内の円形カウンターに座り、利夫はビール、女はカクテルをオーダーした。朝美と称する女はジン・リッキーを飲みながら、酔ったら介抱してあげると親切だった。そんな言葉を女人に囁かれたことは近年にはないことだ。
「私、今何がほしいと思う?」
「仕事じゃないかな」
「他にもあるの、男の愛よ」
 愛ならいくらでもあると言いたいところだが、空々しいのでやめた。そんなものは態度で示せばいいのだ。しかし、彼女の相手はさぞかしエリートだろう。一部上場企業の社員とか、クリエーターとか弁護士とか。底辺で日本を支えている自分には関係なさそうだ。もっとも、行きずりの恋なら可能もしれない。朝美は三杯目のカクテルを頼んだ。肩と肩、腕と腕が触れても避けようともせず、むしろ挑発的だった。
「朝美さんの飲みっぷりは豪快だね」
「だって、今夜は飲まずにはいられないもの」
「ぼくも飲んで忘れたいよ」
 和子のことがあって、眉間にちょっと皺を寄せた。
「何か心配事でもおありなの」
「いや、大したことはないけれどね」
「悩みは誰しもかかえているわ。私だって早く安定したいもの」
「ぼくは苦境に立っている人を放っておけないたちでね」
「まあ、優しいのねえ」
「優しくなければ、男は生きていく資格はない!」
「聞いたことのあるような言葉ね。でも、なけなしのお金をはたいても助けてくれる男って、最高よ。グッとくるわ」
 知り合ったばかりの両人はなかなかの会話をはずませる。朝美はベッドインをオーケーしているに違いない。
「そろそろ、出ようか」
 利夫は彼女の肩を抱いて歩いた。タクシーをつかまえ、大久保までと指示した。車内では終始利夫の手を握って、ジッとしていた。いい女だ、悪くないぞ、応じてくれたら小遣いを上げてもいい。一万円では少ないから二万円にしようか。それ以上は見栄を張ることはない――ホテルの散らばっている所で降ろしてもらった。体がふらつき、眠気を覚えながら門をくぐった。最初に代金を払っておいた。部屋に入るとシャワーもそこそこにして激しく求め合った。お互いに酒の匂がしたが頓着しなかった。
「重いわ。両肘をつくといいわ」
「ごめん、ごめん、うっかりして」
 エチケットもテクニックも忘れていた。体勢を立て直してから、柔肌を愛撫し、空腹の獣に似た声を発しなが挑んだ。時間が過ぎるのも忘れて夢中になっているうちに、やがてダッタリした。
「超気持ちよかったわ」
「ぼくもだよ、体は空っぽになったよ」
 素人を抱くのは何年ぶりだろう。何分もしないうちに急激な睡魔に襲われ、深々と眠った。どれほど時間が経ったろう。
「お客さん、お時間ですよ」
 年配の女の声がした。朝になっていた。それも遅い時間である。パンツの中には外れたコンドームがそのままになっていた。
「お連れの方は、用があるからと、お先に帰られました」
「えッ、いつごろ」
「深夜です」
 係の女がいなくなってから、動転するようなことが起こった。財布を見たら紙幣は一枚も入っていなかった。ポケット中を捜し、さらに周囲を当たったが、どこにも落ちていなかった。
「畜生、盗まれたか……」
 急いで旅館を出た。念のために周辺を見て回った。目安は豹柄の短めのスカートに網目のタイツだ。だがいるはずはない。警察に行くわけにもいかず、腹が立ってならなかった。利夫は路地から路地を歩きながら、ああ、悔しいけど、どうしようもないと嘆いた。あげくは、
「ペテン師のクソおまんこめ!」
 声に出して罵倒した。振り返って見た人がいた。拾った金で幸せになろうなんてどだい無理ってことか。新宿駅から電車に乗った。勤め人の少なくなった車内はただ虚ろだった。


思わぬ不運

思わぬ不運

妹が万引きして・・・・・・

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-15

Copyrighted
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