お化けの話

 本当はお化けなんていないんだよ、僕がお化けの夢を見た時にママはいつもそう言って宥めてくれた。お化けは人間が考えたものであって、お話の中にはいっぱい出てくるけど実際にはいないの。お化けを怖がってばかりいると、学校でお友達に笑われちゃうよ。
 昔からそうやって教えこまれてきたおかげで、僕はお化けを信じない子供になった。遊園地のお化け屋敷も、学校の友達とやる肝試しも、出てくるお化けは作り物だと分かっていたので、全く怖いと思うことはなかった。夢や本の中にしかいないお化けなんて怖いはずがない。僕は自分が正しくて強い子供であることを誇りに思っていた。肝試しでお墓の中を歩いても全然怖がらない僕を見て、友達が感心するのが内心嬉しかった。そういう時はつい調子に乗ってしまって、その友達をもっと脅かせてやろうとした。
 でもどうやらお化けは現実にもいるらしい。それを知ったのはつい最近のことだ。人に聞いて知ったのではない。僕自身が実際に遭遇してしまったのだ。
 はじめてあいつを見た時、あいつは机の下にいた。姿は見えないのに、僕はそいつと目があった気がした。机の下の薄っすらとした陰に潜んで、そいつは笑った。僕は慌てて目を逸らしたんだけど、そいつの姿が見えないなら見えないで、襲い掛かってくるかもしれないと不安になった。そっと机の下に目をやると、そいつは闇の中で行儀の良い犬のように大人しく座っていた。襲い掛かってくる様子が無いので僕はほっとしたんだけど、そいつと二人きりで部屋の中にいることが怖くて仕方なかった。
 そもそもあいつは何処から入り込んできたんだろう。玄関の鍵はいつもママが寝る前にチェックしているし、窓も僕が寝る前にちゃんと閉めたはずだ。もしかすると今日入ってきたんじゃなくて、もっと前からそいつは僕の部屋に隠れていたのかもしれない。よく今までこんなものがいる部屋で安心して眠れていたものだ。僕はそう思い、明日からもこんなやつのいる部屋で寝るのは嫌だったので、勇気をだしてそいつを追い払う決心をした。
 でも僕の手は動かなかった。寝ぼけていたからかもしれない。金縛りって、脳は目覚めているのに身体が眠っているから起こるんだって聞いたことがある。まるで自分の手ではないかのように、僕の手は思い通りにはならず、僕は困り果てた。自分の身体に裏切られたら、一体僕は何を信じればいいんだろうか。手は僕の一部であるはずなのに、この時は指一本動かすことさえ難しかった。
 それ以来、お化けは僕の身の回りの至るところに現われるようになった。眠りに着く前の机の下、一人で居残りしている時の教室の隅っこ、帰り道の僕の背後。
 ふとした瞬間にお化けは姿を見せて、僕の胃をキリキリ痛ませた。今もお化けが机の下にいやしないか、不安で仕方がないくらいだ。また今夜も眠れずに、蒸し暑いなか身体にタオルケットを巻きつけて震えるはめになるんだろうか。

 二十日ぶりに目覚まし時計のアラーム音が鳴り響いた。カーテンから差し込む太陽の光がまぶしい。そうだ、今日は登校日だった、僕は慌てて布団から身を起こした。
 母親に急かされる前に身支度を済まし、今日提出する夏休みの課題がちゃんと鞄に入っているか確認してから家を出た。少ししか眠れなかったから、朝の光が目に突き刺さるように痛い。太陽に毒づきながら前かがみ気味に歩いていると、誰かに背を叩かれた。いつも一緒に登校している学校の友達だった。
「おはよう。終業式振りだね。宿題やった?」
「ドリルとかは終わったよ、今日提出だしね。でも自由研究は手もつけてない。自由研究って、まず何から手をつけたらいいのか分からないし」
「俺もそんな感じ。毎年夏休みの最後の方になってから焦りだすんだよね」
 自由研究が苦手な子供は少なくないと思う。例に漏れず僕も自由研究が苦手だ。ドリルのようにやることがはっきりしているものは、夏休みのはじめに張り切って終わらせてしまうんだけど、自由研究はいつもお盆を過ぎてから嫌々やり始める。
 眠くて頭が回らないのに、友達に会うと舌が思ってもいないことまで喋り散らす。まるで二人で独り言を言い合ってるみたいだ、僕はそう思いながらため息混じりにつぶやいた。
「眠いし、家で寝てたいな。何で僕達行きたくもないのに学校に向かってるんだろう」
 友達はあくびをしながら、やる気なさそうに答えた。
「さあね。足が勝手に動いてるんじゃない?」
 その言葉はさっきまでの会話と同じく特に意味のない内容なんだろうけど、僕は妙に納得してしまった。
 学校について、僕はすぐに机に突っ伏して眠った。しばらくするとチャイムが鳴って先生が来たので、僕は顔をあげて先生が話すことに耳を傾けた。
「みなさん、絵や自由研究の宿題は進んでますか。何をしたらいいのか悩む人もいると思いますが、まずはテーマを決めましょう。みなさんが日頃気になっていること、興味を持っていることを思い出してみて下さい。きっと良い題材が見つかりますから」
 先生は他にも夏休み中の生活態度だとか夏休み明けのテストの話について話していたけど、僕はあまり聞いていなかった。僕が興味を持っているものって何だろう。僕は先生の言葉を頭の中で反芻した。ゲームは好きだけど、ゲームを自由研究の題材にできるわけないし。
 しばらく僕は自分の関心があることについて悩んでいたけど、やっぱり思い当たるものなんてなかった。

 登校日なので授業はなく、ホームルームが終わると午前中に解放された。家に帰って昼ごはんを食べてから、僕は自由研究に取り掛かることにした。とりあえず学習机にレポート用紙を広げてみたものの、そこからどうしたらいいのか分からなくなった。
 テーマを決める足掛かりを作るために、僕は去年のことを思い返してみた。確か去年、クラスメートがアサガオの自由研究で先生に褒められていた。毎日花がいくつ咲いたとか、ツルが何センチ伸びたとか記録していたらしい。写真を貼ったり、難しいそうなグラフを書いたりしていて、露骨に親が協力してる感じだったけど。
 そういえば、昔は夏休みといえばいつも虫取りをして遊んでいた。あの頃はまだゲーム機も買ってもらってなかったし、毎日遊んでいても母親は嫌な顔をしなかった。友達と一緒に近所の公園でセミとかバッタを毎日追いまわしていた。まだ夏休みは半分しか終わってないんだし、昆虫の標本を作ってみてもいいかもしれない。内容が図鑑の丸写しみたいなものでも、標本をつけて出せば形になるし、昆虫採集なんかで宿題が終わらせられるのは小学生のうちだけだろう。我ながら子供のくせにせこい考え方だと呆れたが、僕の周りにいる子供で、こういう計算をしない無邪気な奴なんていない。多かれ少なかれ、みんな上手く生きていくための技を周りに叩き込まれて学んでいくのだ。
 眠くて仕方なかったが、僕は昆虫採集に出かけることにした。数年前に通いつめた公園なら色んな樹が植えられていて池もあるから、標本として見栄えのする数は集められるだろう。早く宿題を終わらせて、安心して寝ていたい。僕はそう思いながら、兵隊のように規則正しく足を動かして歩いた。午後の道路はアスファルトの照り返しが激しくて、公園に着く頃にはすっかり汗だくになっていた。
 久しぶりに訪れた公園は、以前と所々変わっている部分があった。不運なことに、池の周りに柵が作られていて、危険と書かれた立て札が立てられていた。そういえば去年、この池で小さい子が溺れたってママが言ってたな。これじゃアメンボを採ることが出来ない、出鼻を挫かれて僕は悔しくなった。何とか柵の間から虫取り網を使えないかと池の縁を見ると、コンクリートの上でカエルが張り付いて干からびていた。それも一匹だけではなく数え切れないほどのカエルが死んでいた。柵を取り付ける工事のついでに、今まで石組みだった池の縁をコンクリートで補修したらしい。
 熱くなったコンクリートはカエルの足を張り付かせ、逃げられなくしてしまう。補修前の石もコンクリートも、僕から見れば同じ石の塊なんだけど、カエルにとっては生死を分けるほどの違いがあったらしい。それでもやはり触ってみなければ、カエルにはコンクリートの恐ろしさは理解できなくて、結果としてこんなに死体が張り付いている。
 僕は怖くなって、その場から離れようとした。でも僕の足は動かなかった。僕の足までコンクリートに張り付いて取れなくなってしまったのではないか、不安になって僕は自分の足を見た。僕の足はズボンに覆われていて大方見えなかったけれども、ズボンと靴下の間から、灰色の肌が顔をのぞかせた。その時僕は理解した。カエルは自らコンクリートに張り付いているのではなく、コンクリートに侵食されてしまったから離れられなくなったのだと。
 そんな事を考えながらしばらく立っていると、僕の足はいつの間にか機嫌を直していたようで、僕は動く事ができるようになっていた。炎天下でずっと立ち尽くしていたから、僕は日射病になりかけていた。少し気分が悪かったけど、僕は虫取りに励んだ。
 日が暮れるころにはもう目標の三分の二ほど集め終わった。この分だとあと一日来れば虫の数は足りるだろう。宿題を終わらせる目処がたったので、僕は安心した。体調も良くないし早く帰らなきゃ、そう思って僕は帰り道を歩いていたんだけど、何故だか急に帰りたくなくなった。嫌な予感がした、多分お化けのせいだ。振り返るとすぐ後ろにお化けはいて、いつものように楽しそうに笑っていた。何が嬉しいというんだ、僕が普通に生活を楽しもうとしているのに、いつも邪魔ばかりして。
 お化けは僕の一歩後ろにぴったりくっついて、ずっと付きまとっていたようだ。僕が歩くとお化けもついてきて、離れようとしない。走って振り切ろうとしても無駄だった。だから僕はお化けを倒そうと思った。そのためには武器がほしい、自分用のカッターも欲しかったところだし、コンビニにカッターを買いに行こう。夕暮れのなか、僕はコンビニに向かって走った。あまりに必死になって走っているものだから、道を歩いている人がこちらを横目で見ることがあった。
 ここにはたくさんの人がいるけれども、僕が今なぜ走っているのか分かる人なんて一人もいないんだろうな、と思った。お化けが怖くて、その辺にいくらでも転がってる一本数百円のカッターにすがろうとしている。あの人たちはそんな気持ちになったことがないだろうし、そもそもあの人たちは僕のお化けを知らない。あの人たちどころか、お父さんもお母さんも友達も、誰一人として今日の出来事を話しても理解してくれないだろう。みんな僕のお化けを知らないし、僕のすべてを見ているわけではないから、これから知ることさえできない。
ようやくコンビニに着いた。夕方になって空気が冷えていたので、僕の頬は赤くなっているにもかかわらず冷たかった。走っている時の高揚した気分のままカッターを探しはじめた。文具コーナーは一目で見渡せる狭さだったが、何度見てもカッターは見つからなかった。商品棚はすき間なく埋められているから、売り切れというわけではなさそうだ。いつも要らない時には置いてあるくせに、欲しい時に限って置いていないだなんてひどいじゃないか。僕は苛立った。
 でも店に入ったからにはこのまま手ぶらで出て行くのは気まずい。仕方なく僕は何か買う物を探し始めた。ペットポトルのジュースを持ってレジに並ぶ。店員が僕に声をかけた瞬間、僕の胸はわなないた。身体の中で何かが膨張して、僕の身体は水風船のようにぱちんと弾けてしまうんじゃないかと思った。店員の顔を見るとおかしくもないのに吹き出しそうになるから、僕はうつむいて歯をくいしばっていた。僕が何も言わずに置いた品物を店員が勝手にレジに通すものだから、僕は自分のことを店員なのではないかと錯覚した。僕の頭だけがもぎ取られてこちら側にあって、首のない身体がレジを打っているのを見ている、そんなおぞましい光景を想像した。
 こんな事を考えてしまうのもきっとお化けのせいだ、ぐずぐずしているとお化けに捕まっちゃう。店員からお釣りを受け取ると、早足でコンビニを出た。

 結局カッターは買えなかったから、僕は走って家に帰った。お化けから逃げられたのかどうかよく分からなかったけど、台所からお母さんの作るカレーの匂いがするとおなかが空いてきた。さっきは何で帰りたくないって思ったんだろう。僕はさっきまであんなに焦っていた自分を可笑しく思った。
 夕ご飯を食べながらテレビを見ていると、今日の事が夢だったのではないかと思えてきた。いや今日の事だけでなく、今までお化けに苦しめられたこと全てがきっと嘘だったのだ。ママの言ったとおりだ。お化けなんて気のせいで、本当はいるはずないんだ。
 だから大丈夫だ。ちゃんとママの言うことを聞いて良い子にしていたら、僕はいい学校に行けて、楽しい学校生活をおくることができる。今は夢なんてないけど、大きくなったらやりたい事ができて、一流の会社に就職してやりがいのある仕事をするんだ。みんなと同じように勉強をもっと頑張って、友達と仲良くしていたら大丈夫だ。何の心配もない。みんなと同じテレビを見て、何となく楽しかったらこの先も僕は生きていけるんだ。だから大丈夫なんだ。
 ご飯を食べた後、お風呂に入っている間もずっと、僕は頭の中で大丈夫と唱え続け、上機嫌だった。昼間によく動いたので、お風呂からあがると眠気が襲ってきた。それでいつもより早めに布団に入ることにしたんだけれど、横になってみても頭が冴えて眠れなかった。何となく部屋の隅が気になって仕方がない。そこにお化けがいるような気がする。
 お化けなんていないんだから気のせいだろうと思って、僕は部屋の隅から視線を逸らせた。折角今晩はしっかり眠れそうだったんだから、ちゃんと寝なきゃ。そう思って目を閉じたんだけど、顔の上の空間で何か怖いものが渦巻いている気がしてならなかった。目の前が見えないことが急に不安になってきて、僕は目を開けてしまった。視界の端っこに机の下の陰が見えて、戦慄が走る。お化けはいないから大丈夫なんだ、そう自分に言い聞かせつつ、僕はタオルケットを手繰り寄せていた。今日は疲れていたのに、やっぱり部屋の隅が気になって眠れなかった。

 次の日、僕はまた昨日と同じ公園に来た。昆虫採集の続きをするためだ。今日も太陽は燦々と輝いていて、地面から熱気が立ち上っていた。ニュースで今日は猛暑だと言っていたな、僕は寝不足で乾いた目で虫を探した。しかし辺りを見渡しても死んだ虫ばかりだった。踏み潰されたバッタや、ひっくり返ったセミが舗装された通路にまで転がっていて、避けて歩くのに苦労した。死んでいても身体を潰してしまうのは気が引けた。もし今風が吹いて虫の死骸が動いたならば、僕のできそこないの眼には生きているように映るかもしれない。だって生きている僕でさえ、手は自由に動かないし、口は思ってもいないことを喋り散らすし、足は行きたくもない学校に自然に歩むのだから。
 僕はセミを捕るために、樹がいっぱい生えているところに行った。クマゼミやアブラゼミは昨日捕ったから、今日はニイニイゼミを捕まえようと考えていた。図鑑で調べてみると、ニイニイゼミの幼虫は湿った土に住んでるから、土が乾いている公園には少ないらしい。それに見えにくい色をしている上に小さいから、見落としていたのかもしれない。大きいセミばかりより小さいものもある方がいいし、少しマイナーなニイニイゼミを標本に入れるとより標本らしくなるんじゃないかと僕は思った。
 樹の下に入って目を凝らすと、たくさんのセミが枝にとまっていた。ひっそりと隠れているかのようなものもいれば、突然大声で鳴きだしてびっくりさせるものもいた。ニイニイゼミはなかなか見つからず、僕はいろんな樹を見て回った。セミを捕るだけでなく、探すのにも虫取り網は役立った。枝や葉っぱで上の方が見えない時、虫取り網は僕の手の代わりに邪魔な枝を避けてくれた。僕の手も長かったら自分で避けられるんだけどな、と僕は思った。でも虫取り網があれば僕の手はいらないんだから、仕方ない。そういうものは虫取り網だけじゃなくて、僕の周りに色々あるんだけどね。便利なものが増えて身体が延長されればされるほど、僕自身は内面に凝り固まっていく。まるで身体が縮んでいって、このまま死んじゃうんじゃないかって思えるくらい。実際身体は縮まなくって、多分さっきの虫の死骸のように転がってるだけだろうけど。
 何本も樹を見て回るうちに、僕はとうとうニイニイゼミらしきセミを見つけた。図鑑で見たのと同じ、小さくて泥みたいな色の羽。他のセミが大音量で鳴いているなかで耳を澄ませてみると、ジーと弱々しい声で鳴いていた。僕は息を潜め、そっとセミに近づいた。セミは僕に気が付いていないのか、大人しく樹にとまったままだった。隙を見て、僕は一気に網を下ろした。だけどその瞬間、セミは素早く網と幹の間をすり抜け、僕の頭上を飛んでいった。
 セミを取り逃がしたので、僕はがっかりした。またニイニイゼミを探さなきゃいけない、だんだん面倒な気分になってきた。ずれた帽子をかぶりなおそうと帽子に手を伸ばすと、何故か帽子がちょっとだけ濡れていた。最初は何だか分からなかったけど、僕はじきにその正体に感づいた。セミのおしっこだ。僕はあんな小さくて泥みたいなセミにおしっこをひっかけられたんだ、僕は情けない気持ちになった。せいぜい帽子にかけられただけなのに、セミに馬鹿にされたように思えた。網に付いただけでも多分同じように思っただろう。
 帽子を取ったまま俯いていると、いつの間にか樹の根元にお化けがいた。お化けはいつものように笑っていた。僕はお化けなんか見たくもなかった。怖いし、ママがいないって言ってたんだから。だから僕は虫取り網も帽子も放り出して、泣きながら家に逃げ帰った。

お化けの話

お化けの話

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-15

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