硝子玉



憂鬱が音を立てて降ってくる。
細い糸の雨が灰色をして、第二音楽室から見える一切を流し去っていく。埃くさく湿った、黴の生えたこの箱の中で何もかもが朽ち果ててしまうのではないかという錯覚が沈殿している。この椅子も、窓も、黒板も、積みあがった楽譜も、黒々と光るピアノもすべて、時間の流れが止まって、瞬間的に冷凍されてしまったじゃないかと思う。そしてやがては私もそうなってしまうんだろう。皮膚に包まれた水分が蒸発し、筋肉はひび割れ、乾いていって骨だけが残る。いや、骨すらも残らないかもしれない。粉になって、砂になって、ビンに詰められて海へと放たれるのだ、きっと。

彼の制服の袖からは、男とは思えないくらい白くてたおやかな腕が伸びていて、その先にはほっそりとたたずむ指が鍵盤を叩いている、真っ黒な髪、下からのぞく首筋、唇さえ色を失っている。肩も腰も、太さはあるのに薄くて、うらやましい。そこからは、およそ人間だという認識はわかないんじゃないかと思う。

「サエ」

目だけで彼は振り向く。奥底がない、終わりが見えない目をしている。
音楽が止まる、ショパンの別れの曲、彼の十八番だ。いつもいつも飽きもせず壊れたレコードのように繰り返す、彼の好きな曲だ。

「もう一回、弾いて」

彼が人から何かを要求されるのが嫌いだってことを、私は知っている。知っていてわざと言う。彼がその要求を絶対に拒否しないと分かっているからだ。

少しの沈黙がピアノの上に落ちて、彼はまた鍵盤を叩き始める。

もう何度も聴いてきた旋律が、もう一度流れ出す。褪せない、弱まらない、音だ。
世界が音に隷属する。意識が音だけを拾い出す。ピアノから、彼から、全てが遠ざかっていく。

そうさせるだけの音だ。そうさせるだけの力を、彼は持っている。


――桜の花が窓から見えた、それが最初だった。

薄紅色の嵐の中でピアノを弾いていた彼を見たとき、ああ、人間じゃないなと思った。多分、音楽室に良く出るとかいう噂の幽霊なんだろうなと思った。学校の七不思議みたいな感じの。その時もショパンで、別れの曲だった。あれ、ベートーヴェンのエリーゼのためにじゃないんだっけ、と思ったけど、何もいえなかった。考える暇すらも無かった。すごい、それだけだった。この人は、すごい。全てが人間離れしている少年。

私は音楽室に来るようになった。彼はそれについて何も言わなかった。私が初めて彼のピアノを聴いたときも、何も言わずに繰り返し繰り返し弾くだけだった。
名前は、言わなかった。
だから私は彼を、サエと呼ぶことにしている。


音が消えて、彼がふ、と一つ息を吐いた。
顔を上げた彼が、ようやく私に目を留める。

「ユキ」

身体が強張る、これだけはいつまでたっても慣れないんだなと自嘲する。
彼が椅子から立ち上がって、私の肩を掴む。あのたおやかな腕からは考えられないほどの強い力で。私は彼の顔を見上げた。彼は無表情だった。目は相変わらず底が見えない。



第二音楽室には古いソファがあって、誰も使わないものだから埃だらけになっている。
そこでいつも彼は私を抱く。抱く、というより、交わる、という言葉のほうがしっくりくる。私と彼は交わる。獣みたいに、何の加減も無く。私の二つの手をひとまとめに押さえつけて、ひたすら私を蹂躙する。

気持ちいいか気持ち悪いかと言われれば、もちろん気持ち悪かったし、痛かった。普通に考えたら狂った行為だろう。強姦と同じだ。行為をしている最中の彼の目は、きらきら光っていた。窓の間抜けた光を受けて、揺らめいていた。普段の目はそこには無かった。息だけが荒くて、死んだように静まり返った埃くさい部屋の中で、汗びっしょりになって動く。

「サエ、」

返事は無い、彼が私の声にこたえるのは、ピアノを弾いているときだけだ。
人間味を全く感じない、機械のように整った彼が、今は私の上で汗をかいて、あの瞳を獰猛に光らせて動いている、何だか変な心地がした。どちらが本当の彼なのか良く分からなかった。

終わると、何事も無かったかのように衣服を整え、彼は音楽室を出て行く。

放り出された足が空中を彷徨っていた。押さえられた手首は鬱血して痣が出来ている。下半身が酷く重くて、ずしんと痛んだ。ぼうっとした頭で、今何時だっけ、と考える。あたりはもう暗い。よろけながら立ち上がって服を整える。

次に来るのはいつになるだろう、と考える。私と彼との関係性は、行為は、いつまで続くんだろう、と考える。



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担任が休みだったため、自習時間の教室はやはり話し声で一杯になった。
いっせいに多くの人間が話し出し、教室の中の空気がわっと膨れ上がる。昨日のテレビの話、アイドルの話、誰と誰が付き合っているだの、あの先生がムカつくだの、電光掲示板の文字のように流れていく言葉たち。

「えーもうなにそれ!アヤ絶対危ないって!」

キンキン声で騒ぎ立てる女の子たちが携帯電話をいじりながら円を描いて座っている。
みんな画面を見ようと俯いていて、相手の顔を見ていない。飾り立てた睫毛に、明るい茶色に染まった髪が異様な迫力をかもし出している。

「やっぱりそう思うー?最近冷たくってさあ、会うたびすぐにしちゃうしさ、もう何なのって感じ、どこかつれてってて言ってもあいまいな返事しかしないしさーもうほんと最悪だよ、浮気してるよねこれ、あーもう最初はいーっぱい『愛してる』とか『好きだよ』とか言ってくれたしメールもしてたのにい」

ほら、結局そうなんじゃないか、と内心で呟く。男子高校生が口にする「愛してる」や「好き」という言葉ほど薄っぺらいものは無いのだ。彼らは、身体のうちにたまる性欲を解消したいだけで、そのために何かしら大義名分を得たいだけなのだ。だいたい世の中の「恋愛」から、この女の子が言う、「愛してる」だとか「好き」とかいう言葉を、関係性を取り除いてしまえば、後は本能しか残されない。その延長上にある行為しか。それは、生き物としていちばん純粋な行為であり、感情だ。身体のうちにある熱を、欲を、解放したくてたまらなくなるのだ、行き着く先が何処にも無いと分かっていても。

まるで、私とサエのように。

ぞくっ、と。背骨の奥から震えが這い上がってきた。



初めて彼と行為に及んだ日のことを思い出す。

蝉が鳴いていたのを憶えているから、多分夏だったはずだ。だから、あれは一年以上前のことになる。いつものように彼のピアノを聴いていて、ふいに音が止まったから、何事かと思って目を上げたら、すぐそこに彼が立っていた。急に彼の回りの輪郭がはっきりした気がした。彼は何も言わずにこちらをじっと見下ろしていて、だから私は彼の目を下から覗き込む形になった。彼はしばらくそこに立ち尽くして、私が焦れて口を開いたときにやっと動いた。

いきなり手首を掴まれ、ずんずんと引っ張られてソファに投げ出された。背骨を打って息が詰まり、視界が反転してくらくらした。起き上がる間も無く彼に全体重を乗せて圧し掛かられた。着ていた制服のシャツからボタンが飛び散った。投げ出された肌に彼の手が伸びた。

目の前の彼は長く息を吐き出し、目元を紅くしながらこちらを見つめていた。
シャツの襟首を掴んだ指先が震えていた、あの鍵盤を優雅に踊っていた細い白い指が。それだけではなかった、彼の全身が細かく震えていた。興奮していたのかもしれないし、そうではないのかもしれなかった。

そのときに、何故大声で助けを呼んだり、抵抗したりしなかったのかは自分でもよく憶えていない。

ぼうっと霞んでいた意識がはっきりしたころには、全てが終わっていて、彼が顔をゆがめて息を吐いていた。それだけだった。私が始めて抱かれた記憶は、それだけだった。重苦しい痛みがその後数日にわたって続くとは知らず、暴風雨のように過ぎ去った行為の早さとあっけなさに、ただひたすらに呼吸していた。行為をする前と同じように衣服を整え、振り向いた彼は普段と全く変わらない表情をしていた。

「君の、名前は」

初めて彼の声を聴いた。予想を裏切らない、細くて透明な声だった。

「ユキ」

彼は静かに頷いた。



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行為自体に意味は感じなかった。何故、とか、どうして、とは考えなかった。いつもいつも遠巻きに見ていた、部外者として見ていた彼がいきなり目の前にきちんと現れ、世界を構築する一つとして存在することに驚いていて、それを考える余裕が無かったのかもしれなかった。そこから彼に抱かれる回数は週に二、三回もあれば、一ヶ月全くなくなることもあった。彼は自分から出向くことをしなかった、いつも音楽室にいてピアノを弾くだけだった。私は気が向くと音楽室へ通って、相変わらず彼のピアノを聴いた。彼は時々気が向いたように私の肩を掴んで、ソファに押し倒した。私が音楽室にいても、全くピアノの前から動かないときもあった。そんなとき、私は大人しく扉を押して家に帰る。

でも、と考える。
でも、今は違う。

教室での会話を聞いた日から、私は初めて自分から、あの行為を求めるようになっていた。
音楽室へ通う頻度も格段に多くなった。彼は相変わらずピアノに熱中していたけれど、どうにかしてあの行為を彼にさせようとした。彼に近づき、背中に抱きついた、彼の首筋や耳に舌を這わせた。本能で、生き物として、彼が欲しいのだと示した。彼はどうやら私の思惑にちゃんと気づいたらしかった。行為の回数は日に日に増していった。多いときは学校に来るたびにしていた。あの、埃くさい古いソファの上で。

私たちは純粋なんだ。
純粋で強固な関係なんだ、生き物としての本能の上の。

前よりもずっとずっと興奮していた、彼も同じだった。とうとうピアノより多くの時間を彼は私との行為に費やすようになった。ほの暗い胸の奥から汚れた愉悦が湧き上がってきて体中を駆け回った。このまま彼とずっと繋がっていればいいのに、とさえ思った。純粋なひとつの生き物として、固体として。

「ユキ、・・・ユキ」

彼は私の名前を呼ぶようになった。所有されたみたいで気持ちよかった。
だから私も彼の名前を呼んだ、私も彼を所有するのだ。彼を名前で支配するのだ。
そうしてお互いを傷つけあう、求め合う、私たちの間には、それしかいらないのだ。
ざまあみろ、あの女子たち。これが人間だ。

彼のピアノは聴こえなくなった。嬉しいのか哀しいのか良く分からなかった。



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私は学校を休むようになった。学校も授業も友達も、必要だと感じなくなっていた。
そんなものの為に時間を過ごすくらいなら、彼といたほうがマシだからだ。
狂ったように息を吐く彼の両の目が、日の光を受けて光るのが好きだった。硝子玉の中の屈折した光線が乱反射して、ゆらゆらゆらゆら揺れる。普段の彼には無い、濡れた硝子玉みたいな目。私はあの目が欲しかった。

毎朝いつもどおりの時間に起きて、いってきますと言って学校に向かい、まっすぐ音楽室へ向かった。使われない方の音楽室だから人は来なかった。窓際に座って日を浴びてうとうとと眠った。目覚めると大抵彼がピアノの前に座っていた。鍵盤の蓋は開いていなかった。私が目覚めたことが分かると、彼はすぐさま私の肩を掴んだ。容赦無い力で掴まれた部分に鳥肌が立った。
いつものようにソファに押し倒されて、服に手をかけられて、それで。

――その日は、終わった後に彼がいつまでもソファの上から退かなかったから、あれ、変だなと思った。

はあはあと荒い息の音がまだ空気中に漂っていた。服を整える気配も無く、いつまでも私の上に圧し掛かったままだった。また目元を紅くした彼は無表情にこちらを見下ろしている。両の目が揺れている。

「サエ」

彼は答えなかった。私の手首をぐっと掴んでいた。その手にますます力がこもった。
開いた彼の唇から形を成さない声が漏れているのに気づいた。声なのかすら判断に苦しむような音がひゅうひゅうと鳴っていた。私は理解できそうに無かったから、怪訝な顔を作って彼を見つめ続けた。彼は唇をなめた。もう一度口からひゅうと音がした。

「・・・好きだ」

その三文字の言葉を認識した瞬間、周りの色彩がいっせいに凍った。
大きく目を見開いたのが自分で分かった。多分私は今完璧に無表情だろうなと思った。
私の表情を勘違いした彼はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「好きだ、ユキ」

彼の目が、彼の濡れた硝子球が一センチも無い距離まで詰まった。視界が透明な光で一杯になる。揺れていた、明らかに、これは本当の彼の目だ。私が欲しいと思い続けた、求め続けた美しい光だ。それが今、おもちゃのプラスチックにしか見えない。


――私は目の前の身体を渾身の力で突き飛ばし、思い切り彼の頬をひっぱたいた。

彼は驚いたようにのけぞった。彼の目が大きく見開かれる番だった。唇が震えているのが見えた。でもそれはどうでもいいことだった。

「違う」

咄嗟に私は叫んでいた。かあっと顔の周りが熱くなった。もう一度振り上げた手が彼の上で止まって、間抜けた格好を晒していた。違う、そんなんじゃない、そうじゃない。叫んだと思っていた言葉に声が追いつかなかったらしく、私の口からは意味不明な獣染みたうめき声が零れ落ちるだけだった。相手から不意打ちを食らった野良犬のように惨めで情けない声だった。

私は急いで服をかきあわせ、乱暴に扉を開けて外に出た。
彼は追ってこなかった。ただ肩を揺らして俯いていた。

暗くなって人も居ない廊下を走って、手足を動かすことにだけ集中した。何も考えたくなかった。ひたすら何かを叫びたかった。遠くで耳鳴りがした。壁とか柱とかいろんなものにぶつかったけれど、痛みを追い抜いてただ走った、走った、走った。どこか違うところに行ってしまいたかった。

家へ帰ってベッドへ飛び込んで枕に顔を埋めると、あっという間に睡魔に押しつぶされた。
夢を見ないで眠った。身体が泥のように重たかった。


その一週間後に彼は首をつって死んだ。



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葬式に出たのは先生と彼のクラスメートと家族だった、と思う。よく憶えていない。
みんな重々しい黒に身を固めてマニュアルでも読んだみたいに揃って型どおりに泣いていた。そもそも彼に友達が居たのか、泣いてくれるような人間が傍に居たのかと軽く驚いた。

私は泣かなかった。

無表情でお経が読み上げられるのを、先生が悲痛な顔で手紙を読み上げるのを、クラスメートが彼の名前を泣きながら呼ぶのを聞いていた。棺を覗くと普段と変わらない彼の顔がそこにあった。ドラマや映画でよく見るみたいに、寝ているみたいだなと思った。そのまま目を開ければ、またあの綺麗な硝子球が戻ってくるんだろうか。

彼は火葬され、煙になって空へ上っていった。
そのときになって、初めて彼が人間だったという実感がわいた。

葬儀が終わった数日後、彼の母親だという女性が私の前に現れて、何事かと顔を上げた私の胸に小さな紙切れと楽譜を押し付けた。彼が弾いていたショパンの別れの曲の楽譜と、彼が死ぬ前に書いたメモだった。彼がこれを渡すように書いていたので、と彼の母親は泣きつかれた目をこちらへ向けて言った。彼がどうして死んだのか、分からないんです、もともと細くてたよりない子だったんですけど、全部が耳をすり抜けて落ちて消えた。

開いた紙の上には細く薄い文字で「ごめん」と書かれていた。

何がごめん、だったのか分からない。聞きたくても当の本人はもうこの世には居ない。



――ざあざあと、細く振る雨の音に似ている。憂鬱の音だなと考える。

海は馬鹿みたいに青かった。砂浜に素足で降りる感触は随分と久しぶりのものだった。風は少し冷たくて、思い出したように強く吹いた。足跡は点々と明るい日差しをたどった。

彼の骨は粉になって小瓶に入れられた。そして案の定私の元へ来た。

しばらくゆっくりと海岸を歩き回る。足の指に砂が食い込んだ。波がつま先のすぐそこまで迫った。


彼は私を好きだ、と言った。
確かにそう言ったのだ、私を好きだと。私が彼のピアノをずっと聴いていたから、彼に近づいたから、だとしたら、今まで彼が私にしてきた行為は、私が求めた行為は全て彼の愛情表現だったというのだろうか。ただ、加減が分からなかっただけの、ベクトルの向け方が下手だっただけの、彼の恋だったということなのだろうか。そして私に突き飛ばされ、拒絶され、絶望して彼は自殺した、ということなのだろうか。

私は笑った。それじゃあ、自分が今までしてきたことは、あの茶髪の女の子たちとなんら変わらないんじゃないか。自分だけが喜んで、ひねくれて、偏屈ぶって、愛だの恋だのを馬鹿にしていただけにすぎないんじゃないか。



彼は死んでしまった。
私は、あの硝子球も、ピアノも、失ってしまった。

私は何になりたかったんだろう。


ポケットから小瓶を出して、中の白い粉を波にまいた。
一瞬だけきらりと光って、青の中に沈んでいく。硝子玉みたいだった。

硝子玉

硝子玉

20120217 改訂

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-02-15

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