平成御伽草子 桃太郎
プロローグ
「鬼の匂いがするな」
新月の夜。
ひとり夜道を歩く少女に、突然学生服姿の男女ふたりが声をかけた。
声のした方に向き返る少女。
腰まで伸びた長い髪。
観る者全てを吸い込むかのような漆黒の瞳と、それを囲む長いまつげ。
筋の通った小さな鼻。
淡い桜色の唇。
そんな少女を見て、少年の方が眉根を顰め、言う。
「なんだ、人間にしか見えねえけど……まぁいい。臭いがするって事は、お前もオニなんだろ? なら『狩る』のが仕事だ」
それに応えるように少女が頷く。すると閑静な住宅街の光景がモノクロの景色に塗り替わった。
少年は胸元に光る勾玉に右手を宛てる。すると勾玉は眩い光を放ち、たちまちその姿を刀身の長い刀に変える。
「鬼刃、咆哮丸!」
少年はニヤリと笑うと刀の切っ先を少女に向け、左の構えで柄を握る。そして上半身をかがめると、右足で大きく地を蹴り、一瞬にして黒髪の少女との間合いを詰める。
刺突一撃。
鋒は寸分の違いなく黒髪の少女の左胸に突き立てられる。
だが、手応えはなかった。
見ると黒髪の少女は右手で文字の書かれた護符を胸の前にかざし、刃を防いでいた。
「っ!?」
少年はそれを見るやまたも一蹴りで黒髪の少女と間合いを取る。少年は隣の少女に向き返り、
「おい姉ちゃん、ありゃ何だ?」
少女は答える代わりに左手小指に着けた青白い宝石の埋め込まれた指環を摩る。するとやはり指環は光を放ち、その姿を弓に変えた。右手には光る矢の矢尻が握られている。
少女は矢を弓に宛てがい、左手の人差し指で狙いを定め、弓を引く。
そして放たれる光の矢。
矢はシュルシュルと周囲の空気を焼きながら目にも留まらぬ速さで一直線に黒髪の少女に突進する。
黒髪の少女は再び護符を胸の前にかざす。護符が光の矢を受け止めると、四方八方に光が弾け飛び消失する。衝撃で巻き起こった砂埃が霧散すると、黒髪の少女の大きな瞳がふたりを見据える。
「あら、まあ」
少女は垂れた糸のような目で黒髪の少女を見詰める。
「鬼火矢も効かねえ? どうするよ、姉ちゃん」
少女は下唇に右手の人差し指を宛て「そうねえ」と間の抜けた声を漏らし、
「退散しましょう」
と言って指を畳む。左手の弓は再び光を放ち、元の指輪に戻る。ちっ、と舌打ちした少年が刀をくるりと回すと、その刀身も光を放ち元の勾玉に戻った。
「次はこうはいかねえぞ」と威勢良く少年が咆えるとふたりは地を一蹴り宙に舞い、夜空に姿を消した。
モノクロの景色が色を取り戻すと、一陣の風が残された黒髪の少女の髪を撫でる。
それは新月の夜のことだった。
第一章
翌日。
少年は教室の机にヒジを突き、昨夜の黒髪の少女を思い出していた。
少年の名は最上犬彦。
短い金髪。
尖った眉と吊り上がった目尻。
左耳のピアス。
首からは勾玉のついたチェーンを提げ、スソの短い学生服と幅の広い学生ズボンに身を包んだ「いかにも」な少年である。
犬彦はこれまた尖った犬歯を剥き出しにしながら奥歯をガリガリと噛む。
ああムカつく。思い出せば思い出す程にムカつく。どうしてあんな小さな女に俺の咆哮丸が防がれたのか。しかも姉ちゃんの鬼火矢まで効かない。一体あの女は何者なのか。
そんなことを考えていた。
犬彦は歯軋りだけでは治まらず、貧乏ゆすりを始める。
やがてチャイムが鳴り、担任教師の花山千春(二三歳・独身)が教壇に立ち、言う。
「席にー、着いてくださいー。今日はー、初めに転校生をー、紹介しますー」
どこか舌足らずな千春先生の合図で転校生が扉を開け、教壇に上る。
転校生は少女だった。
腰まで伸びた長い髪。
観る者全てを吸い込むかのような漆黒の瞳と、それを囲む長いまつげ。
筋の通った小さな鼻。
淡い桜色の唇。
犬彦は思わず椅子を倒し立ち上がり、素っ頓狂な声をあげる。「犬彦くんー、しずかにー」と千春先生が制止する中、犬彦は大口を開けてわなわなと震えていた。
少女は、
「百々田桜子」
とだけ言うと軽く頭を下げる。そして千春先生の指す席、犬彦の隣の席に着くと未だ大口を開けている犬彦を見遣り、
「よろしくね、犬彦」
と言って教科書を広げた。
四限目が終わった昼休み。
犬彦は隣のクラスに駆け込むなり、
「姉ちゃん!」
と叫んだ。「姉ちゃん」と呼ばれた少女は扉に手を付く犬彦を見遣る。
学校指定の質素なセーラー服を上品に着こなす少女の名は最上飛鳥。
ポニーテールに結った亜麻色の長髪。
細く垂れた糸のような細い目。
それに似合わぬ豊満なバスト。
犬彦とは真逆な容姿をしたこの優等生は、犬彦の双子の姉である。
犬彦は飛鳥を見付けると大きく手招きをする。廊下に出た飛鳥に開口一番、
「あの女! 昨日の女がウチのクラスに!」
突然の大声に何事かとふたりに振り返る他の生徒たち。それにも構わず言葉を続けようとした犬彦を飛鳥が制し、
「屋上に行きましょう」
と言った。
屋上に着くや犬彦はまた大声で叫ぶ。飛鳥はそれを頷きながら聴き終えると、右手の人差し指を下唇に宛て「うーん」と思案する。
「そうですわねえ。あの方、確かにオニの臭いがしてましたから。でも、うーん」
長考に入った姉を見た犬彦は、
「そうだよ、オニだ! 臭いがしたんだし、絶界の中でも動いてたんだから! あいつもきっとオニだよ!」
まくし立てる犬彦。すると、
「あいつってのはあたしのこと、犬彦?」
不意に後ろから声が聞こえた。
声のした方を見る。そこには落下防止用のフェンスに腰掛ける桜子の姿があった。桜子は飛鳥を見遣るとふっ、と目を細めた。
「ちょうどあなたを探してたの。犬彦を見張ってたら案内してくれると思ってたのに、犬彦ったらあたしのことジロジロ見るだけでちっとも教室から出て行かないから」
「じ、ジロジロなんて見てねぇよ!」
抗議の声をあげる犬彦を横目に桜子はフェンスから飛び降り、飛鳥の前に立ちその豊満なボディを上から下までパンする。その視線に身体をモジモジさせる飛鳥の「なんでしょう」という問いに桜子は「ふーん」と答え、
「その指環……『鬼封じの神器』ね?」
「はい。祖父から譲り受けましたが……」
「最上錬太郎、ね」
その名を聞いた飛鳥は細い目をピクリと動かし、
「祖父を、ご存知なのですか?」
問う。
しかし桜子はそれには答えず、くるりと半回転し飛鳥に背を向ける。そして肩ごしに飛鳥を睨み付けると、
「でも、あんたたちが最上錬太郎の孫でも鬼封じを持っていても、あの程度の力じゃいつか痛い目見るわね。怪我しないうちにヒーローごっこは辞めなさい」
「何だって?」
声をあげたのは犬彦である。
「俺たちはこれまで何匹ものオニを狩って来たんだ! 昨日のだって実力の半分も出しちゃねえ!」
桜子を睨みつける犬彦。だが桜子は意に介した様子もなく、
「忠告はしたわよ」
短く言って屋上を後にした。
「っああムカつく!」
その日の夕時、街を巡回しながら犬彦はまた咆えた。その横では飛鳥が眉尻を下げながら「まあまあ」となだめている。しかし犬彦は治まることなく、
「あのチビ女、偉そうに。今夜は百匹は狩らなきゃ治まんねえ!」
犬歯を剥き出しにしながら奥歯をギリギリと鳴らす。飛鳥は右手の人差し指を下唇に宛て、何やら思案している。
ふと自分の左手小指を見る。
そこには青白い宝石が埋め込まれた指環。
この指輪はとある鬼の頭髪が封じられたもの。故に『鬼封じの神器』と呼ばれる。犬彦の首の勾玉も、同じくとある鬼の牙を封じたものだ。そしてそれらは祖父、最上錬太郎の形見である。
ふたりは錬太郎のことをよく知らない。顔すらよくは覚えていない。ただ二年前に錬太郎の遺言状と二つの鬼封じを父から受け取っただけ。ふたりはただ錬太郎の遺言に従って鬼を狩っている。
それだけだった。
鬼を狩る理由すら聞かされていない。それでもふたりは毎夜、跋扈する鬼を狩り続けてきた。
だから飛鳥は、桜子を気にしていた。
他人の口から聞いた祖父の名。もしかしたら彼女は、自分たちの知らない祖父を知っているのではないか。鬼封じのことも、鬼狩りのことも。絶界の中で動けたことも、あの強力な護符のことも。
飛鳥はそう思いながら、すっかり日の暮れた夜道を巡回していた。
その時である。
突然背後で犬彦が叫んだかと思うと、身の細い短刀のような月明かりを遮り「何か」が地をつん裂いた。
飛鳥は咄嗟に身を捻りながら「何か」をかわす。
雷を打ったかのようにアスファルトが裂け、砂埃が巻き上がる。砂埃が風にさらわれるとそこには、細い月明かりを浴びた、異形で、醜悪な、体長が二メートルを越そうかというまさしく怪物の姿があった。
「姉ちゃん、絶界だ!」
犬彦の言葉に慌てて四縦五横を切る。すると世界から色彩が消え失せた。
「大丈夫か、姉ちゃん?」
飛鳥に走り寄る犬彦。飛鳥は犬彦の肩を借り立ち上がると、
「気付かないなんて……考え事してたらいけませんね」
鬼封じを摩り神器「鬼拔」を構える。
怪物の瞳がギロリと動き、飛鳥を見据える。
「女か……久しく喰うとらんのう……」
地の底から響くような悍ましい声と、血生臭い口臭に顔をしかめるふたり。
鬼は頭髪を数本引き抜くと宙に散らす。すると頭髪が見る見る膨らみ四肢と頭が生え、背の低い魑魅になった。
「男は引き裂け……」
その言葉を合図に犬彦に飛びかかる四匹の魑魅。犬彦は鬼封じを握り締めると、具現化した咆哮丸を構える。
「上等だぁ、まとめて刻んでやるぜ!」
横薙ぎの一撃で一匹の魑魅を切り裂く。そのまま上段に構え、後続の一匹を両断する。
「今日の俺はご立腹なんでな!」
他方、飛鳥は鬼と睨み合ったまま動けないでいた。
(鬼火矢を射るには近すぎる……)
「くっくっく……逃げもせんとはなかなか気丈な女よ……噴っ!」
鬼の右腕が繰り出される。飛鳥はそれをかわしバックステップで距離を取り、鬼火矢を鬼拔に番う。
「この距離なら!」
鬼拔を構える。
そこに血生臭い空気の塊が襲いかかる。咄嗟に身を捻りそれをかわすも、態勢を崩し鬼火矢を射れない。
「ふはははは……踊れ踊れ……噴っ!」
次々と吐き出される空気の塊。それらは致命傷を与える為ではなく、まるで遊んでいるかのように飛鳥の避けられるギリギリを狙っていた。
(こいつ、遊んでるの……? っ!?)
鬼拔を構える暇も与えられずに回避し続ける。
足がもつれ膝を付く。だがやはり、そこに必殺の一撃は飛んでこない。
「つまらんのう……」
そう言いつつも、口角を釣り上げながらゆっくりと一歩ずつ飛鳥に歩み寄る鬼。そして地にぺたんと腰を付ける飛鳥に手を伸ばす。
そこにガキン、と鈍い音が響く。
見ると犬彦の咆哮丸が鬼の腕を食い止めていた。
「姉ちゃんに触るな、バケモンが!」
「犬彦っ!」
「早く立てよ、姉ちゃん。俺が抑えてる間に頼むぜ」
飛鳥は頷くと立ち上がり、鬼と距離を取って鬼拔を構える。そして鬼火矢を番えると弓を引き、射る。
鬼火矢は真っ直ぐに鬼の額に目掛け飛んでゆく。しかし鬼は空いた腕で鬼火矢を防ぐ。
「!?」
「鬼火矢が!?」
鬼の腕からシュウシュウと煙が上がる。鬼は焦げた皮膚をペロリと舐めると、
「温いのう……」
飛鳥は直ぐ様鬼火矢を三本番い、射る。
だがそれも鬼の掌で防がれてしまう。
「温い……温い温い温い温い温い!」
鬼は腕を振り払い犬彦を跳ね除ける。そして再び頭髪を引き抜き、宙に散らす。頭髪は一瞬にして魑魅となり、犬彦と飛鳥を取り囲む。
「魑魅なんか相手になんねえんだよ!」
上段からの切り落としと切り返しで瞬く間に魑魅を薙ぎ払うと地を蹴り、そのままの勢いで鬼に刺突を繰り出す。
だがその一撃も掌一つで防がれ、鬼の放つ衝撃波で弾き飛ばされる。
飛鳥に抱き起こされた犬彦は咆哮丸を構えるも、その表情には陰りが見えた。
「終わりだ、人間っ!」
ふははははと低く悍ましい笑い声を上げる鬼。
そこに。
天空で眩い光が弾けたかと思うと光の筋が四散し、魑魅と鬼の脳天に突き刺さる。瞬間、鬼の身体から青白い炎が上がり、その巨体を瞬く間に灰に帰した。
ふたりは頭上を見遣る。
軒を連ねた民家の屋根の上に、漆黒の黒髪を風に棚引かせた少女がひとり、立っていた。
「オニを一撃で……まさか……」
少女は屋根から飛び降りると音もなく着地し、犬彦たちに向き帰る。
桜子だった。
「やっぱり……転校生……」
桜子は手にしていた護符を制服のポケットに仕舞うと飛鳥に歩み寄る。
「あ……ありがとうございます、ええと……」
礼を言う飛鳥。しかし桜子は全く意に介さず、言った。
「忠告したはずよ、辞めときなさいって。あたしが来なかったらどうなってたか、わかるわよね」
飛鳥は目を伏せる。桜子の言う通りだったから。
犬彦は歯軋りする。言い返す言葉がなかったから。
自分たちが一太刀も浴びせられなかった相手を一撃で粉砕した桜子に、ふたりは恐怖すら感じていた。
そんなふたりに桜子が掌を差し出す。飛鳥が顔を上げると桜子は、
「返しなさい」
飛鳥を射抜く桜子の瞳はどこまでも冷徹だった。
「身に染みたでしょ? あんたたちには荷が重すぎる。諦めてその鬼封じを渡し――」
「どけ、姉ちゃん!」
突然の斬撃。
しかし桜子は犬彦を見もせずそれをかわす。食い下がる犬彦の連撃をも、最低限の動きだけでかわし続ける。
「これはっ――」
刺突。
「俺がもらった――」
袈裟斬り。
「力なんだ!」
切り上げ。
「誰にも――」
犬彦は大きく宙に舞い、
「渡さねえ!」
渾身の一撃を桜子の脳天に目掛け一閃。だが桜子は左足を半歩下げ、一撃をかわす。
咆哮丸の切っ先でアスファルトに亀裂が走る。
桜子は膝元にある犬彦の顔面に蹴りを入れる。犬彦はみっともなく地面に転がった。
「もらった?」
ボタボタと鼻血を垂らす犬彦ににじり寄る桜子。
「力ってのはね、」
ズンズンと足音が響く。
「耐えて堪えて苦しんで、唇噛んで血を吐いて、そうやって努力の末に身に付けるもんなのよ」
犬彦の首根を掴み、小柄な少女とは思えない力で持ち上げ、
「人からもらった力なんてのはね、何の役にも立たないのよ!」
振り被る。
鈍い音が闇夜に響いた。
何回も何回も。
何度も何度も地面に体を叩きつけられた犬彦はもうボロボロだった。だが一向に咆哮丸を封じようとはしない。
「頑固な奴ね」
桜子の額を一筋の汗が流れる。
桜子は犬彦を離す。それを見て飛鳥は安堵のため息を漏らす。しかし桜子の冷徹な瞳の色は変わらない。その瞳を見て飛鳥は再びぞっとした。
「謹製奉ルハ我ガ左腕ニ封ジシ鬼ノ力以テ悪鬼ヲ祓エ――退魔滅却、急々如律令!」
桜子が呪文を唱え出す。そして左手を大きく挙げ、指を開く。その掌に集まるように稲妻が走り、バチバチと空気を焼く。やがて火を入れた鉄のごとく左手が赤く発光する。
「鬼怒っ!」
一際大きな稲妻が桜子の周囲に走ると、背後に巨大な、赤く焼けた鬼の姿が浮かび上がる。
飛鳥は得心した。
昨夜少女から感じた鬼の気配の正体はこれだったのかと。
そして悟った。
犬彦は殺されると。
咄嗟に叫んでいた。
「待って!」
と。
哀願するように。
自身の鬼拔を封じると桜子に走り寄り、鬼封じを差し出す。
「もういいでしょう、これ以上は……」
そして犬彦の傍に座り込むとその右手を優しく包み、咆哮丸を封じ勾玉をかすめ取る。
桜子はそれを乱暴に引っ手繰ると、
「ヒーローごっこはもう終わりね」
鬼怒を封じ、夜の闇へ音もなく消えていった。
犬彦の傷は打撲痕は見られるものの見た目ほどひどくはなく、翌日も学校に出席していた。
犬彦は思う。
俺だって努力はしてきたのだ、と。
物心ついた時から父の元で剣術を習ってきた。この学校に剣道部はないが、中学までは常に全国レベルの実力を誇っていた。今だって休まず身体を鍛えている。
そんな俺を見込んで、祖父も鬼封じを託したのだ。桜子の言うような、一朝一夕で得た力では決して無い。
そう思っていた。
しかし見せつけられた力の差。圧倒的なまでの力。犬彦の剣術家としての本能が告げていた。
桜子には勝てない、と。
首のチェーンに手を遣る。そこに勾玉は無い。あったところで桜子には敵わない。
隣の席を盗み見る。
桜子は平然とした様子で、板書きされた方程式をノートに写している。教師に指された桜子は静かに立ち上がり、すらすらと方程式の解を読み上げる。
どうやら頭の方も敵いそうにない。
目が合った。
何故か桜子はふんと鼻を鳴らし、意味深な笑みを浮かべた。
放課後。
飛鳥は特別に顧問の教師に許可を得て、アーチェリー場に居た。
リカーブボウを構え、ドローし、リリースする。
矢は寸分の狂いなく的の中央に刺さる。
腕が悪い訳ではなかった。ただ、昨夜の鬼が強すぎたのだ。そしてそれ以上に桜子が強かったのだ。
その圧倒的な力に恐怖し、結局祖父のことさえ聞けなかった。
しかしそれももうどうでもいい。鬼封じを失った以上、祖父のことを知っても今更なことだ。
そう思い至り、矢を放つ。
今度は左に大きく逸れた。
腕が悪い訳ではなかった。
鬼の気配がした。
上履きを脱ぎ捨て靴を履き、途中で飛鳥と合流し裏門へ周る。
視界の先には身の丈二メートルを超えた異形で醜悪な鬼が数匹の邪鬼を引き連れ、学校へ侵攻してくるのが見えた。だが下校中の生徒も校舎に残っている生徒も、鬼の存在に気付いていないかのように振舞っている。
いや、実際気付いていないのだ。
異界の存在である魑魅や鬼の類は通常の人間の目には映らない。故に鬼による破壊や殺害などの物理的な被害は事故や災害として処理される。希に通常の人間が鬼と遭遇してしまうこともあるわけだが、それが一般に逢魔や百鬼夜行と呼ばれる現象である。
「姉ちゃん、あれを」
飛鳥に目配せする。飛鳥は頷き、左手を縦に横に動かしながら四縦五横を切る。途端、自分たちと鬼以外の色彩が消え失せ、世界が停止した。
絶界。
人間界へ被害を及ぼさないよう自身と対象を閉じ込める為の結界。この絶界での破壊は人間界には影響しない。
犬彦は捨て置かれたホウキの頭を抜き、構える。飛鳥もそれに倣った。
「昨日のでっかいのに邪鬼が五匹か……分が悪いな」
鬼拔も咆哮丸も無い。分が悪いにも程がある。
しかしふたりは戦わなければならなかった。鬼が見える者の義務として。
「むう?」
異形の瞳がふたりを捉える。鬼は、
「喰ろうてくれよう」
と咆え、一気に跳躍しふたりの眼前に迫る。
右腕を振り被る鬼。
振り下ろされた一撃を跳んでかわし、犬彦は鬼の脳天に一撃を見舞う。
ジンジンと掌に痺れるような痛みが走る。先制で眩暈のひとつも起こさせられれば時間を稼ぐぐらいはできるとだろうと考えたのだが、鬼はびくともしない。下品にニタァと口角を歪ませると左腕を薙ぐ。
身を捩り右足の裏でそれを受けると、勢いを利用して後方へ跳び間合いを取る。その隣では飛鳥が邪鬼五匹を相手に奮闘している。
小対巨。一対五。分が悪いにも程がある。
ホウキの柄で邪鬼の目を突き、やっとのことで一匹を退ける飛鳥。
鉄臭い衝撃波を横っ飛びでかわしながら、巨躯に一撃ずつ叩き込む犬彦。
「きゃあっ!」
不意に飛鳥の悲鳴が聞こえた。肩に邪鬼の爪を喰らったようだ。
犬彦は右脚を踏み込み、天に爪をかざす邪鬼の懐に飛び込み一閃。邪鬼は悲鳴をあげながら灰塵となる。
「大丈夫か、姉ちゃん?」
「ええ、でも……」
完全に囲まれていた。最早退路すらない。
「ふはははは、もう終わりか?」
巨体の鬼が高らかに笑う。
「焼いて喰うたほうが美味かろう」
ぼうっと右手から炎を出し、大口を開けて息を吸い込む。身体ごと持って行かれそうな勢いに、ふたりは脚に力を入れ踏ん張る。そして鬼が息を吐こうとしたその時、
上空で眩い光が破裂した。
光の筋が放射状に広がり周囲の鬼たちに降り注ぐ。
耳を裂くような断末魔が響き渡ると、邪鬼たちは青白い炎に包まれた。
「ようやく来やがったか……転校生!」
屋上のフェンスの上で護符を胸の前にかざした桜子が、真っ黒な瞳で鬼を見下ろしていた。
はっ、と声を発し飛び降りる。そして背中を合わせるふたりを見遣り、
「神器も無しに戦うなんて無謀にも程があるんじゃない?」
にっ、と笑う。
犬彦は鼻先を親指で弾き、
「そう思うんならもっと早く助けに来いよ」
へへっ、と笑った。
「しょうがないじゃない、まだこの学校に不慣れなんだから」
そう臆面なく言ってのけると飛鳥に向かい、
「その腕、まだ動くでしょ?」
と言いながらポケットから指輪と勾玉を取り出し、ふたりにそれぞれ投げつける。
「これは……」と飛鳥。
「あたしはお腹空いてるの。とっとと倒してごはん食べに行くわよ」
「けっ。偉そうに命令してんじゃねえよ」
「なら共同戦線といこうじゃない」
「仕方ないですね」
鬼封じを掌に握る。鬼拔と咆哮丸が具現化する。
「本気で行くわよ。鬼怒っ!」
桜子の背後に鬼怒が顕現する。鬼怒は左腕を振り上げ巨躯の鬼に振り下ろす。
ガキン、と音がして拳と拳がぶつかり合う。その下方から犬彦が滑り込み切り上げる。鬼がそれを左腕で防ぐと、鬼の両腕が塞がれた。
そこに後方から鬼火矢が襲いかかる。
「むっ?」
鬼火矢は目玉に直撃し、鬼は低い悲鳴をあげて仰け反る。
すかさず犬彦が横薙ぎの一閃、鬼の左腕を切り落とす。
「転校生!」
鬼怒の振りかざした左腕が鬼の頭蓋を貫き、鬼は灰となって散った。
鬼の消滅を確認した飛鳥が絶界を解くと、モノトーンの世界に色彩が戻った。三人は誰からともなく顔を見合わせ、笑いあった。
「あの、これ……」
飛鳥が左手を差し出す。小さな掌の上には鬼封じの指環が載っていた。犬彦も慌てて倣い、勾玉を差し出す。
それを見た桜子は一通り思案すると、
「預けとくわ。アンタたち、少しは役に立つみたいだしね」
薄くふふふと笑った。そして飛鳥に右手を差し出し、
「あたしは百々田桜子。よろしくね」
「はい。最上飛鳥です」
握手を交わす。そして犬彦に向き直り、
「アンタも、一応ね」
「ああ。よろしくな、モモコ」
「モモコぉ?」
「モモタサクラコだからモモコだ。いいじゃねえか」
「なによそれ、変なの。――まぁいいわ。お腹空いた。なんかおごりなさいよね」
「俺が?」と嫌そうな表情を浮かべる犬彦。
「命助けてあげたじゃない。それも二回も」と桜子、もといモモコ。
「だったらわたしが出しますよ」と飛鳥。
三人はワーキャー言いながら教室に戻って行った。
第二章
「ハッキリ言うわ。修羅を封じる力が弱まってる」
犬彦のおごりのファミレスでモモコは言う。
「もう何十年前になるかしら。最上錬太郎は多くの鬼と戦い、やっとのことで親玉である修羅を倒し、封じることに成功した。でもその封印も完全なものではなかった。だから錬太郎は後世修羅が覚醒した時のことを思い、修羅の身体の一部を神器に封じ、人間界に遺した。それが――」
犬彦の胸元と飛鳥の左手を順に見遣り、
「その神器」
ハーブティーを一口すすり、続ける。
「もっとも誰が持っても力を発揮するわけじゃない。神器の力を具現化させるには相応の力、鬼力を必要とする。その辺、何か聞いてない?」
ふたりは首を横に振る。
「まあ、いいわ。大事なのはここから。犬彦、アンタ最近やけに邪気が多いと思ったことない?」
犬彦は腕を組むと、
「そういや……そんな気もするな」
「昨日や今日の煉鬼……二メートルくらいの中くらいのやつね。あんなのが増えてる」
それには飛鳥が頷いた。
「確かに、最近多いですね」
モモコは頷き、
「これから修羅の封印が弱まるに連れ、煉鬼レベルの鬼がうじゃうじゃ出てくるわ。覚悟はいい?」
「ちょっと待て」
犬彦が手を上げる。
「なによ? ビビってんの?」
「ちげーよ。その修羅って奴の狙いは何なんだ。狙いがわかればちったぁ戦いやすいんじゃねえか?」
「アンタたち、そのことも聞いてないの?」
「なんのこと、ですか?」
モモコはこめかみに手を遣ると溜め息を吐き、
「錬太郎のバカ……」
ふたりに聞こえないように呟いた。
モモコと別れ自宅に戻り、飛鳥は左手の小指を見詰めていた。そこには祖父・錬太郎から授かった鬼封じの神器である指輪が嵌められている。
夕方のモモコの言葉を思い出す。
『修羅の狙いはその鬼封じ。修羅の完全覚醒には封じられた自身の身体の一部が不可欠なの。だから修羅は配下の鬼を遣い、アンタたちを狙ってる』
明確な敵の正体と目的。そんなもの父からも、もちろん祖父からも聞かされなかった。
何故?
何故自分たちも知らないことを、あの少女……モモコは知っているのか。
父を問い質そうにも、鬼封じを託されてすぐに事故で他界してしまった。真実を知る人間は身近にはいなかった。
飛鳥は立ち上がり部屋を出ると、犬彦の部屋の扉を叩いた。
「久しぶりだな、姉ちゃんと手合わせするのも」
犬彦が愛用の竹刀を摩りながら言う。
「大丈夫なのか? しばらく竹刀なんて握ってないだろ」
「犬彦こそ、筋トレばかりで素振りもしてないでしょう。忘れました? 中学時代はいつもお姉ちゃんに負けてたこと」
ピクン、と犬彦の眉尻が吊り上がる。
「おもしれえ。今日こそ積年の屈辱晴らしてやんぜ!」
言うや否や高く跳躍し飛鳥に一撃を打ち込む。飛鳥は正面から受け止めると、
「相変わらずバカ正直に正面から。それでは勝てないと言ってますでしょうに」
「うるせえ!」
犬彦得意の刺突が繰り出される。
「甘いっ!」
飛鳥は身を捩りかわし反撃の横薙ぎ。
中学まではこの一閃で勝負が着いていた。
そう、中学までは。
竹刀を垂直に立て受け止める犬彦。
犬彦はニカっと笑う。
「いつまでもガキの俺じゃねえんだぜ!」
「そのようですね」
飛鳥も笑って応える。
犬彦の連撃。
それを防ぐ飛鳥。
バシンバシンと道場に打ち合う音が響く。
そして連撃を防ぐ飛鳥の竹刀を、犬彦の切り上げが弾き飛ばす。
「もらったぁ!」
上段からの切り落とし。
バシン、と。
飛鳥が犬彦渾身の切り落としを白羽取りしていた。そして竹刀をぐっと掴むと犬彦の手から掠め取り振り下ろす。
「だっ!」
犬彦の首筋に一撃が下る。
「奥義、刀狩り」
犬彦はぺたんと床に腰を落とす。そしてしばらくすると目尻を釣り上げ、
「も、模擬戦で奥義出してんじゃねえよ! 殺す気か!」
「常に本気で当たれとお父様も言っていたでしょう?」
「むっかあ! だったらもう一本だ! 今度こそ本気でやってやる!」
「何度やっても一緒でしょうに」
「黙れこんにゃろ! ってうわっ!?」
びたーんと床に叩きつけられる犬彦。
「まだまだ……ですね」
「む……無刀取りとか他流派の奥義会得してんじゃねえよ!」
「いってててて。ちったあ手加減しろってんだ」
首筋を摩りながら風呂釜に薪を焼べる犬彦。試合に負けた代償は風呂焚きだった。古風な最上家は未だに薪風呂で、犬彦は吹子片手に火加減を見ていた。
「弱い犬彦が悪いんです」
浴室から飛鳥が薄笑いを浮かべながら答える。汗を流したことで幾分か気は晴れたようだった。そんな姉の様子に犬彦も笑う。双子故、互いに何かあれば気づいてしまう関係。それがふたりの絆だった。
「なあ、姉ちゃん」
「何?」
「じいちゃんのこと覚えてるか?」
飛鳥は少し考えてから、
「よく飴をくれたくらいしか覚えてませんね」
「だよな。俺もそうだ。親父から鬼封じをもらった時だって、じいちゃんの顔なんか思い出せなかったよ」
「そうですね」
「でも遺言状で名指しで俺たちを指名してたんだ。必要とされたのは親父じゃなくて俺たちだったんだ」
「そうですね」
「だったら今はそれでいいじゃねえか。じいちゃんの素性を探ったりしないでさ、必要とされたことを喜ぼうぜ」
「……犬彦に諭されるなんて思ってもみませんでしたわ」
「俺だってたまにはいいこと言うぜ?」
にっと笑う犬彦。
「そうみたいですね」
飛鳥も笑って答えた。
犬彦たちが住むこの港市は太平洋に面した街で、古くは東海道の要所の港街として栄えていた。現在では大手自動車メーカーの下請け企業などを擁した企業都市に変貌した。
人口は二○万人弱。更に市外からの通勤通学者を含めると、朝晩のラッシュ時には大都市に勝るとも劣らない混沌っぷりを発揮する。
ラッシュ時の電車移動は必要以上の体力と精神力を消耗するため、犬彦と飛鳥は早目に家を出るようにしており、今日も同じ時間に家を出た。
古風な建家の玄関先を掃き掃除する近所のおばさんに挨拶し、最寄り駅の改札を抜け、ホームで五分ほど電車を待つ。もう五分遅く家を出てもいいのだが、何かと心配性の飛鳥の勧めで余裕を持って電車を待つことにしていた。
反対側のホームに電車が停まる。時間が早いので降車する人影もまばらだ。そのまばらな人影の中に、身長一四○センチで長い黒髪をなびかせた少女が混ざっていた。
モモコであった。
モモコが渡し通路を歩いてくる。犬彦と飛鳥に気付いたモモコは肩の位置に右手を上げながら声をかけた。
「おはよう。ふたりとも早いのね」
「お前こそ何でこんなに早いんだ?」
「日直だからね。アンタたちは? 朝練?」
「いえ、ラッシュの人混みが苦手なものですから」
「いつもこんなに早いの? 頑張るわね」
などと言っている間に目的地行きの電車がやってきた。
乗り込むとやはり人影はまばらで、座席も余裕で空いていた。
「そういやモモコん家もこの辺なんだな。初めて遭ったときもこの辺りだったし」
「そうよ。でも引っ越してきたばっかだから土地勘が無くて。買い物が不便だわ」
「だったら案内しましょうか? 休みの日にでも」
「助かるわ。でも早いほうがいいわね。そろそろ冷蔵庫の中が空っぽだわ」
「それは困りましたね」
人差し指を唇に宛て考え込む飛鳥。そこに、
「今日はダメなのか? ちょうど半ドンだし」
犬彦が提案した。
「あたしは大丈夫だけど……飛鳥はいいの?」
「わたしも構いませんよ」
「じゃあ決まりね」
にこっと笑ってみせるモモコ。その表情は実年齢より幼く感じられた。
やがて電車はターミナル駅に着き、三人は駅を出てバスに乗った。バスは市街に向けてハンドルを切る。
目的地の停留所で降りる。辺りには潮の香りが漂っていた。そこから十分ほど歩いたところに、犬彦たちが通う県立港高校は居を構える。
校門を潜り昇降口を抜けたところでモモコが、
「あたし職員室寄ってくから」
「ああ。じゃあ学食に居るから後で来いよ」
「了解」と言って歩き去るモモコを見送り、犬彦と飛鳥は学食へ向かった。
この学校の学食は朝、昼と解放されており、どちらの時間帯も食事を提供している。朝練終わりに利用する生徒も居るためである。
他の生徒が洒落たカウンターでドリンクを受け取る中ふたりは例に漏れ、自販機でコーヒーと紅茶を買った。飛鳥の財布の紐は固く、飛鳥に小遣いを管理されている犬彦もまた出費に敏感になっていた。しかし――
「缶コーヒーも味気ねえなぁ」
愚痴は漏れてしまうものである。
「別にあちらで買えばいいでしょうに」
言いながらカウンターを指差す。
「じゃあ小遣いくれよ」
手のひらを差し出す。
「後々渡す分が減りますけど?」
にこっと笑う飛鳥。犬彦は舌打ちし、手を引っ込めた。
そこにモモコがやってきた。手には小洒落たグラスに入ったカフェモカが握られていた。
「お前……ひとが一○○円のコーヒーで我慢してるところに……」
「え? なによ、ちょっと? なにそんなに落ち込んでんの?」
「じゃあ後で」
教室の前で飛鳥と別れる。あの後他愛ない会話で時間を潰し、三人が食堂を出た頃は予鈴の五分前だった。
席に着くや予鈴が鳴り、千春先生がやってくる。
こうして今日も、いつも通りの一日が始まる。
放課後。
三人は市街に繰り出した。
駅から徒歩圏内に二つのデパートが存在する港市のこの地区は、下校時刻ともなると学生でごった返すようになる。三人も漏れずにその人波の中に居た。
「学校から近いのはこのデパートかしら。品揃えは良いけど家からはちょっと遠くなりますね」
「とりあえず見て周りましょ。地元の方は帰りに案内して」
と言ったモモコは楽しそうに辺りを見回している。それを見て犬彦は、
「なんだ、やけに単しそうだな」
するとモモコはピタリと動きを止め振り返り、
「だって、友達とこうやって出歩くの、初めてだもの」
「初めて?」
モモコはうん、と頷き、
「ずっと旅しながら鬼を狩ってきたから、友達なんて作ったことなかったわ。アンタたちがはじめてよ、多分」
またにこっと笑った。
犬彦もそれに応えるように笑い、
「そいつぁ光栄だな。じゃあ友達記念にパーっとメシにしようぜ。おごってやるよ」
「懐具合は大丈夫なんですか、犬彦?」
心配そうに小声で尋ねる姉。
対照的にモモコは「いいの?」といった表情で目を輝かせている。
「大丈夫だよ。モモコ、何食いたい?」
「じゃあね……」
三人はフードコートのワズバーガーでハンバーガーを買い(支払いは犬彦)、空いているテーブルに陣取った。
ちなみにモモコは一番高いワズスペシャル(セットで九七○円)を、飛鳥はきんぴらライスバーガー(同六七○円)を、その煽りで犬彦は一番安いワズバーガー(単品一七○円)をそれぞれ注文した。「だから言いましたのに」とは飛鳥の談である。
ハンバーガーを咀嚼しながら犬彦が、
「モモコ、こっち来る前はどこに住んでたんだ? ずっと旅してたって言ってたけど」
モモコは咀嚼する手を休め、
「京都が一番長かったかしら。次が奈良、鎌倉。東京にも一時期住んでたわ」
「転勤族ってやつか?」
「いえ。ずっと鬼を狩ってた。人が多いところに自然と鬼が現れるからね」
「そうなのか?」
モモコはアイスティーをひと口啜り、
「そうよ。人の気の流れは気流みたいなものなの。気流が乱れると雨が降るでしょ。それと一緒で人の気が乱れると次元のズレが生じやすくなる。人が多ければ乱れも大きくなって、ズレも大きくなって鬼が行き来しやすくなるの。今回みたいに鬼が特定の誰かを狙って出てくるなんて希なケースなのよ」
「やっぱり狙われてるのはイレギュラーなんですね」
そう言って飛鳥は小指の指輪を見遣る。そして顔を上げ、
「この修羅というのはどんな鬼なのか、知っていますか?」
「強大な鬼よ。何度も人間界に現れては破壊の限りを尽くした。江戸三大大火って知ってる?」
「確か……明歴、明和、文化に起きた江戸時代の火災でしたね」
「そ。原因は放火とか幕府の陰謀だとか言われてるけど、実際は修羅を筆頭にした万を越える鬼たちによる侵攻が原因。奴らは町人を殺し、裂いて、放った火で焼いて屠った。これは逸話だけど、元禄地震は修羅が人間界に顕現した時のエネルギーによる間接被害だったわ。こんなふうに居るだけで害になる厄介な存在なのよ」
「そんな厄介なのが俺たちを狙ってるってのか……」
顔をしかめる犬彦。その手は無意識に胸の勾玉を握り締めていた。
「なによ、怖じ気付いたの?」
嫌味っぽく笑いかけるモモコ。しかし犬彦は、
「いいや、逆だ。絶対に鬼封じは渡さねえ」
にっと笑って応えた。
「言うわね。ならもし鬼封じが奪われそうになったら……あたしはアンタたちを殺してでもそれを防ぐ。覚悟しときなさい」
ふたりは力強く頷いた。
食事を終えると三人はデパート内を宛てもなく歩くことにした。いわゆるウインドーショピングである。
宛てもなく、とは言ったものの大概こういう場合女子は服やアクセサリーを見て回るのが常道で、モモコと飛鳥は楽しそうに夏物のキャミソールを宛てがってみたりブレスレットをはめてみたりしている。
ことこうなると暇なのは男子の方で、犬彦は楽しそうにキャピキャピしているふたりを尻目に欠伸をしていた。するとそこに犬彦のよく見知った顔が現れた。
犬彦はそのカップルの少年に声をかけた。
「よう、仙石じゃねーか」
仙石、と呼ばれた少年が振り返り返答する。
「犬彦、珍しいな、ひとりか?」
「ひとりじゃねーよ。ほら」
と言って犬彦は親指で後ろを指差す。
「姉ちゃんは転校生と冷やかし中だ。おまえこそ珍しいじゃねえか、女嫌いのお前が彼女連れか?」
仙石の連れの少女に会釈する。少女もそれに応え、
「どうも、ウリエルでしゅ」
挨拶した。
「外人さんか? 尚更珍しい。最上犬彦。よろしく」
「まぁ……外人っちゃ外人だな。ところで転校生って?」
「こないだうちの学校に転校してきた女だ。っと、戻ってきた」
犬彦が振り返ると、そこには紙袋を抱えたモモコと飛鳥が居た。飛鳥は犬彦の隣の仙石たちに気付くと、
「あら、仙石くん。お久しぶりです」
挨拶した。
「久しぶり、最上。こっちは彼女のウリエル」
「あら、仙石くんが彼女なんて。最上飛鳥です」
ウリエルに微笑みかける飛鳥。
「こちらは百々田桜子さん。モモコさん、こちらは中学の同級生の――」
「仙石貴俊です」
「ウリエルでしゅ」
ペコリと頭を下げるふたりにモモコは笑顔で応え、
「百々田桜子よ。よろしく」
握手を求めた。
デートの邪魔をするわけにもいかないと犬彦たち三人は仙石たちに別れを告げ、学生率が急上昇したデパートを出、地元の小さなデパートに向かうことにした。
バスに乗り、電車に乗り換え、地元の駅で降りる。そこから一五分程歩くと、人影のまばらな三階建てのやや小ぶりなデパートが見えてきた。
「日用品の買い出しならこちらの方が便利かしら」
とは飛鳥の弁。
中に入ると一階にはスーパーが、エスカレーターを昇ると小さな専門店が並んでいた。
「確かにこっちの方が便利ね。近いし。あたし夕飯の材料買ってくるからふたりはどこかで時間潰してて」
「何言ってんだ。ここまで来たんだから付き合うぜ。な、姉ちゃん」
「そうですよ、水臭いですね」
「そう? 悪いわね」
と言って三人はスーパーへ入った。
犬彦に持たせた買い物かごに肉や魚や野菜を放り込むモモコ。その様子を見た犬彦が、
「お前料理すんのか?」
「そりゃするわよ。一人暮らしだもの」
「一人暮らし? だったら生ものじゃなくてレトルトの方がいいんじゃねえか?」
「レトルトなんて体に悪いもの食べてらんないわよ」
「さっきワズバーガー食ってたじゃねえか。しかも一番高いの」
「ワズはいいのよ、無添加だもの」
「そうかい。しかし一人暮らしか。羨ましいな」
「そうでもないわよ。毎日レシピ考えるのは面倒だし、掃除も洗濯もしなくちゃいけないし。アンタもやってみたら苦労が分かるわ」
「んー。まあ料理はできないけど掃除洗濯はやってるからな」
「食事はどうしてるの?」
「食事はわたしが」
今まで黙っていた飛鳥が手を上げた。
「そうなの。出来の良い姉が居て親御さんも大助かりでしょうね」
「ああ、うち親居ねえから」
犬彦の台詞に立ち止まるモモコ。申し訳なさそうな表情を浮かべたモモコに飛鳥が苦笑し、「気にしないでください」と言った。そして、
「一年半前になります。飛行機の事故で母と一緒に他界して。それ以来犬彦とふたりなんです」
「そう……ごめんなさい」
「気にすんなって。もう慣れたしよ。ほら、早く買い物済ましちまわねえと主婦のオバサン方でレジが混むぞ」
「ねえ、今日も夕食はふたりだけなのよね?」
「ええ」
モモコは何かを考えた様子でうんと一度頷くと、
「だったらうちに来ない?」
モモコの家は駅から徒歩一五分ほど、デパートとは反対方向に歩いた小さなアパートだった。築年数は新しいようでその白い外壁も綺麗で清潔感が漂っている。
「ここよ。入って」
案内された部屋は1K。内装はモモコの趣味なのかシンプルでTVが無く、脚の短い座テーブルと座椅子、二個のキャラ物のクッションが置いてあるだけだった。
「悪いわね、まだ来客用の座椅子が無いからこのクッション使って。あたしは食事の用意するからくつろいでて」
「わたしも手伝いますよ」
「そう? 助かるわ。犬彦、勝手に漁ったら殺すわよ?」
「わかってるよ」
とは言ったものの料理のできない犬彦は手持ち無沙汰もいいところだ。TVも無ければ雑誌も見当たらない。とりあえずキッチンに声を掛けてみた。
「なあ、なんか手伝うこと無いか?」
「無いです」
「無いわね。こういうときは男は黙って座ってるもんよ」
「……と言われても……」
座テーブルに肘を突き、何の気なしに部屋を見回す。壁掛け時計の針が止まっているのが目に入った。
「おいモモコ、時計止まってるぞ?」
キッチンに声を掛けてみる。だがふたりは料理に夢中で返事がない。犬彦は立ち上がり、壁掛け時計に近付いてみた。
時計を壁から外し裏返してみる。
「……ん?」
時計には電池が填まっていなかった。そして、一枚の色褪せたセピア色の写真が貼られていた。写真に写っているのは少女と青年。写真は損傷がひどくぼやけてしまっていたが、よくよく見るとその少女はモモコに似ている――ような気がした。青年の方もどこか見覚えがある顔立ちのような気がした。
「だれだっけかな……っと」
キッチンから足音がした。犬彦は時計を戻すと音もなく壁から離れ、元居た座テーブルの脇に座り、
「おお、美味そうな匂いがすんじゃねえか」
何事も無く振舞った。
モモコが鉄鍋を座テーブルの中央に置く。
「口に合うかわかんないけど、ワズのお礼よ」
「お、すき焼きか。いいねえ。じゃ早速」
言うや否や箸を伸ばした犬彦の手を飛鳥が叩く。
「いただきますをしてからでしょう。子供じゃないんですから」
「はいはい。じゃ、いただきます」
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
談笑しながら食事は進み、食べ終える頃には太陽は山の向こうへ沈んでいた。
「お茶淹れるわね。もう少しゆくりできるでしょ?」
「ええ。でもよろしいの?」
「いいのよ。こうしてひとと食事したりお茶したりって久しぶりだから楽しくて」
鍋と食器を抱えキッチンに向かうモモコ。その背中からは本当に楽しそうな雰囲気が伝わってくるような気がした。
急須と人数分の湯呑みを持ってモモコが戻ってくる。モモコは笑顔のまま、
「あたしが小さい時に両親が鬼に喰われてね。それ以来誰かと食卓を囲むなんてなかったわ」
湯呑みにお茶を注ぐ。ほのかに甘い香りがした。
「いいものね、友達って」
夜空に星が瞬きだした頃、犬彦と飛鳥はモモコの部屋を出た。
「ねえ、モモコさん」
「何?」
「今度はうちにいらしてください。夕食ご馳走しますから」
飛鳥は笑った。モモコもそれに応え、
「うん、是非」
にっこりと笑った。
第三章
体育の授業。
四月なのに初夏並みの暑さの中男子はマラソン、女子はソフトボールであった。
この高校の体育の授業は奇数クラスと偶数クラス合同で行われる。ちなみに犬彦とモモコは三組、飛鳥は四組である。
チーム分けはそのままクラス別となり、軽いランニングとストレッチの後三組の先行でゲームが始まった。
ちなみに男子の方は何の面白味も無く校庭一○周であった。
四組のピッチャーはジャンケンで飛鳥に決まった。スリングショットでの投球練習の後、三組の第一打者・佐金が右バッターボックスに入る。
初球は高め。佐金がバットを振るも空振り。ワンストライク。
第二球目も高め。これを佐金が打ち返すもセカンドゴロ。ワンアウト。チームメイトから「ナイスピッチー」と声が掛かる。
続く第二打者はモモコ。バッターボックスに入り、二、三度バットを振ると腰を軽く落とし構える。
スリングショットからの投球。モモコは見送りワンストライク。
続く第二球目。完全に振り遅れて空振り。首を捻るモモコ。
「あと一球だよー」
「飛鳥ちゃんがんばー」
ベンチのチームメイトからの声援が届く。それに笑顔で頷いて応える飛鳥。
そして第三球。バットを振るモモコ。ボールはファースト方向へ天高く飛んで行き、切れた。何かを確かめる様に頷くモモコ。
四級目。モモコ渾身のフルスイング。カキーン、と心地良い金属音を響かせ、打球はセンターの頭上を越え本校舎の壁時計に直撃した。
女子全員が絶句する中、モモコは淡々とダイヤモンドを一周し、どこかたどたどしくホームベースを踏む。
「も、百々田さん、力強いのね……」
引き気味のチームメイトに迎え入れられたモモコは、
「え? 何? あたし何かマズいことした?」
続く第三打者・山里、第四打者・西森は凡退し、四組の攻撃に移る。
第一打者・早川が三振。第二打者・末盛はピッチャーゴロ。
そして第三打者・飛鳥がバッターボックスに立つ。
三組ピッチャー・吉田は現役ソフトボール部員であり、中学時代は非公式戦ではあるがノーヒットノーランをやってのけた豪腕であった。
対する飛鳥は知る人ぞ知るアーチェリー公式戦無敗という伝説を持ち、総合的な身体能力の高さも既に周知の事実となっていた。
ふたりは小学校からの同級生であったが特に仲が良い訳では無く、むしろ吉田は(一方的に)飛鳥をライバル視していた。
スリングショットからの第一球。外角高めのコースを見送り、判定はボール。
「飛鳥ちゃーん、がんばれー」
声援に笑顔で応える飛鳥。その余裕振りが癪に障ったのか、吉田はこれまでのスリングショット投法からウィンドミル投法へ変更し、第二球。直球ど真ん中の速球を振り遅れワンストライク・ワンボール。
キャッチャーからの返球を受け取った吉田は飛鳥に視線を遣りニヤリと笑った。飛鳥の眉間に一本の皺が走る。
そして第三球。これもど真ん中速球。飛鳥は見送りツーストライク・ワンボール。
もう一度飛鳥に視線を遣る吉田。
「そうですか。勝負がしたいと、そういうことですか。でしたら」
バットを一度ぎゅっと握り、力を抜く。そして目を瞑ると神経を集中する。吉田の第四球。やはりこれもど真ん中の速球である。飛鳥は細く目を開けると、
「最上無限流奥義、流し切り」
すっ、と糸を引くようにバットを振る。バットの真芯でボールを捉え、甲高い金属音と共に打球はレフトの頭上を飛び越えていった。
「やったー!ホームラーン!」
沸き立つベンチ。崩れ落ちる吉田。
飛鳥は悠々とホームベースを踏んだ。
飛鳥の一打で意気消沈した吉田はピッチャーズサークルを降り、リリーフはジャンケンでモモコになった。
吉田からピッチングの手解きを受けるモモコ。どうやらウィンドミルで投げたいらしい。
第四打者・兼末がバッターボックスに入る。
ウィンドミルからの第一球。
スパン、と音がした。ただそれだけだった。
兼末もキャッチャーの中谷も一体何が起きたのか解らなかった。
モモコのモーションの直後に、知らぬ間にボールがミットに収まっていた。
そして二球目三球目も何が起きたか解らないまま兼末は三振。攻守交替となった。
モモコと飛鳥の投手対決の手合いとなったゲーム。やがて回は進み四回裏。ついにモモコの【見えない魔球】対飛鳥の【奥義・流し切り】の直接対決と相成った。
この頃になるとチームメイトも慣れたもので、
「わたし飛鳥ちゃんが勝つ方にカフェラテ」
「じゃあ私は百々田さんにアイスティー」
賭けの対象にする程であった。当の本人たちは、
「モモコさん、悪いですが手加減はできませんよ」
「あたしだって、負けるのは嫌いだからね。本気でいくわよ」
結構乗り気であった。
バットを握り、力を抜く。
ボールを握り、上半身を屈める。
ウィンドミルからの一球目。スパン、と音がしてボールがミットに収まる。飛鳥は動かずワンストライク。
二球目。ウィンドミルのモーションの途中で飛鳥が動いた。チッ、と音がした後バックフェンスからガシャンと音がした。なんと誰も軌道を見ることすらできなかった【見えない魔球】をチップしたのだ。
僅かにモモコの表情が歪み、対する飛鳥は笑みを浮かべる。
「飛鳥ちゃんいっけー」
「百々田さーん、あと一球ー」
各々のチームメイトから声援を受けての三球目。モモコのモーション中に左足でトントンとタイミングを取る飛鳥。そしてモモコの手からボールが離れた瞬間。
「見切りました!」
カキン、と金属音が鳴り響いたかと思うと、ガシャンという音が二箇所から聞こえた。
チームメイトが恐る恐る音のした方を見やると、半分に切れたボールがシュウシュウと煙をあげていた。
「すごい……」
「ねえ、これってどっちの勝ちなの?」
「……」
チームメイトはみんなドン引きしていた。
放課後。
飛鳥はアーチェリー部の練習場に居た。フェンスの外では犬彦とモモコが練習の様子を見学していた。
飛鳥の射る矢はこ気味良い音を立て的の中央に突き刺さり、その度に周りから歓声と拍手が沸き起こる。これに気を良くした飛鳥は「取って置きですよ」と言うとリカーブボウを構え、リリースする。
すると放たれた矢は先ほど刺さった矢の矢尻に突き刺さり、そのまま矢をふたつに裂いて的に刺さった。
周囲からさらに大きな拍手が送られる。
それを見たモモコも、
「やるわね」
「我が姉ながら流石にすごいと思うぜ。スポーツ万能で頭が切れて、俺が言うのもなんだがそこそこ美人で性格もいい。ったく、どこの世界のスーパーコーディネターだっての」
犬彦はフェンスにもたれかかり、どこか不機嫌そうに言った。
「何拗ねてんのよ?」
「お前もあんな姉を持ってみろ。プレッシャー半端ねえぞ。何かある度に周りや教師に比較されるしよ」
「アンタだって剣道は全国レベルなんでしょ?」
「剣道が強くたってなんの役にも立たねえよ。姉ちゃんには適わねえし勉強出来ねえし見た目が悪いからよく不良に絡まれるし小さい子には怯えられるし女の子にはモテねえし」
どんどん落ち込んでいく犬彦。
「まあまあ。でもいいじゃない。アンタはアンタなんだから」
「よかねえよ――っ!」
急に険しい顔になり校舎に振り返る犬彦。モモコもそれに倣い振り返る。
「気付いた?」
「ああ。姉ちゃん、先行くぞ!」
フェンスの向こうの飛鳥に声を掛け、ふたりは駆け出した。
談笑する生徒らを避けながら廊下を駆ける。
靴に履き替える時間は無いのでそのまま運動場に出ると、そこには身の丈五メートルに届こうかというほどの巨体のしなやかな肢体をした鬼が、邪鬼一○匹を引き連れ学校方向へ侵攻してくるのが見えた。
「なんだ、あのデカさは?」
犬彦が困惑気味に叫ぶ。
「豪鬼……もうここまで修羅の封印が弱まってるなんて」
「モモコ、お前絶界張れるか?」
モモコはうんと頷くと両手で印を組みながら、
「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前!」
絶界を張る。世界から色彩が消え失せた。すると鬼がふたりに気付き、
「絶界? そうか、お前たちが」
甲高い声で笑いながらふたりの元へ跳躍してきた。ふたりを舐めるように観察すると、
「あら、いい男じゃないさ」
キャハハと笑った。
「やかましい! いくぞ、モモコ!」
勾玉を握り咆哮丸を具現化させると横薙ぎの一閃。
鬼は後方に跳んでそれをかわすと、腕を鞭のように伸ばし犬彦に叩きつける。
頭上で咆哮丸を構え受け止める犬彦。
「であっ!」
鬼の腕を押し返すとそのまま跳躍し鬼の頭頂部へ咆哮丸を振り下ろす。
「甘い甘い甘い」
もう片方の腕で犬彦を払いのける。
「うぶっ!」
「犬彦!」
走り寄ろうとするモモコの前に邪鬼が立ち塞がる。邪鬼たちは一斉にモモコに飛びかかる。
モモコは腰元から護符を取り出し天にかざす。光が弾け、光の筋が邪鬼に突き刺さる。 邪鬼たちは青白い炎に焼かれ灰になった。
犬彦に走り寄るモモコ。
「大丈夫、犬彦?」
「ああ、大丈夫――モモコ、後ろ!」
突然モモコの背後から、どこに隠れていたのか邪気が飛びかかってきた。体勢的にふたりには迎撃出来ない。
シュパッ、と。
邪鬼の頭蓋を一本の光の矢が貫いた。
「間に合いましたわね」
飛鳥が三○メートル離れた昇降口から鬼火矢を射ったのだった。
「遅っせえぞ、姉ちゃん」
ふたりに走り寄る飛鳥。
「ごめんなさい。後でカフェのコーヒーおごりますから」
「その約束忘れんなよ?」
ニッ、と笑う犬彦。
「姉ちゃん、モモコ、バックアップ頼んだぜ」
「ええ」
「任せなさい。破っ!」
モモコがかざした護符から光の筋が走る。
「当たらない当たらない」
器用に身体を捩りながらそれをかわす鬼。その動きを先読みし鬼火矢を放つ。
「きゃっ! 痛い! この阿婆擦れが!」
鞭のような腕が飛鳥に伸びる。
「やらせるかよっ!」
飛び込んで受け止める犬彦。
「いい男。殺すには惜しいわね」
もう片方の腕が伸びる。
「喰らうか!」
先の腕を払いのけるとニ撃目を斬り落とす。
「きゃあああああああ!」
「キャーキャーうるせえんだよ!」
一気に鬼の懐に飛び込み膝を切り上げ切断する。
「とどめだ!」
高く跳躍し脳天に一撃を極めようとした時。
「噴っ!」
口から衝撃波を吐き出して犬彦を弾き飛ばすと両腕を乱暴に振り回す。辺りに砂埃が舞い、風が過ぎるとそこに鬼の姿は無かった。
「なんだ、逃げたのか?」
見回してみても鬼の姿は見付けられない。どうやら本当に逃げたようだ。
「犬彦、大丈夫?」
「ああ、平気だ」
パンパンと服に付いた砂埃を払う。
「もう絶界を解いても大丈夫ね」
絶界を解いた世界に色彩が戻り、世界は何事もなかったかの様に動き出した。
「でもなんで逃げたのでしょう」
放課後。
三人は最上家の飛鳥の部屋に集まっていた。話題は専ら先の戦闘の事であった。
「臆して逃げたんじゃねえか?」
「だとしたら問題ね」
「何がだ?」
「奴らは本能で破壊や殺戮をやってるの。だから基本的に頭が悪い。でも高等な鬼は別。そういう奴らは手下の邪鬼や百鬼を操る頭脳もあるし、損得や利害で動く知能もある。もしさっきの奴があたしが思ってるより高等な鬼だとしたら、それこそ修羅レベルの強力な鬼だわ」
鬼にはランクがあり(飽くまで人間が付けたものだが)、下から順に邪鬼、百鬼、煉鬼、豪鬼、覇鬼とその力の強さで呼び分けられている。この内煉鬼より高等な者は人語を解し、豪鬼より上は人間と同等の頭脳を持つとされる。三人を狙う鬼の親玉・修羅は覇鬼クラスである。
「前にも言ったけど修羅の封印が弱まるに連れ高ランクの鬼が出てくる。つまり、修羅の封印がかなり弱まってるって事になるわ」
「それって……」
飛鳥が不安そうにモモコに視線を送る。モモコはそれに頷き、
「よくない状況ね」
神妙な面持ちで言った。
「でもよ」
犬彦が手を上げる。
「何?」
「この鬼封じの中にある身体の一部が無いと完全覚醒出来ないんだろ。だったらそこまで危惧する状況でも無いんじゃねえか?」
「頼もしいわね。……と言いたいところだけど、犬彦。アンタあの豪鬼が大挙して攻めてきて勝てる自信ある?」
「それは……むぅ」
「それに例え完全覚醒に至らなくても、修羅の力は強大すぎるわ。なんせ何百もの陰陽師や退魔師が反攻しても江戸の大半を消失したくらいだから」
「じゃあどうしろってんだよ? 修羅を覚醒させないようにしつつ豪鬼を狩り続けるのか?」
「いいえ。ここは先手を打ちましょう」
と言ったのは飛鳥。
「今人間界に出てきている鬼は修羅の命令で動いているのですよね?」
「ええ。邪鬼や百鬼が理解してるかは別だけど、少なくとも煉鬼以上の鬼は修羅の命で動いてるのは確かね」
「そして豪鬼は損得勘定が出来る?」
「その程度の知能はあるわね」
「どういうことだよ、姉ちゃん?」
飛鳥は一度うんと頷くと、
「でしたらあの豪鬼に鬼封じを奪うのは不可能だと思わせれば、仲間を呼んだり新しい命令を受けに修羅の元へ戻るんじゃないでしょうか。それを尾行して攻撃できれば、覚醒前の修羅を叩けます」
「かなり危険な作戦だけど……」
「攻めて来るのを指咥えて待つわけにもいかねえしな」
「では」
モモコは強く頷き、
「それでいきましょう」
そして翌々日。
準備万端整えた三人の元に、鬼が来た。
「先日はどうも。お礼に来たわよ」
言いながら腕を伸ばし地面にバシンバシンと打ち付ける鬼。それを跳んでかわしながら咆哮丸を具現化させる。
「いちいちうるせえんだよ!」
腰溜めの姿勢から刺突を繰り出す。が、鬼は身を捩りかわす。
無防備になった犬彦の背中に腕が伸びる。
「滅っ!」
光の筋が鬼の背中に突き刺さる。
「うしろからは卑怯だわ」
振り返り腕を伸ばす。跳んでかわすモモコ。
「喰らえっ!」
大振りで背中を切りつける犬彦。
「い痛いっ」
両腕を振り回しながらモモコに突進する鬼。
「モモコさん、跳んで!」
モモコが跳ぶと背後から鬼火矢が降り注ぐ。
「っぐう」
それでも構わず突っ込む鬼。
モモコは呪文を唱える。
「謹製奉ルハ我ガ左腕ニ封ジシ鬼ノ力以テ悪鬼ヲ祓エ――退魔滅却、急々如律令! 鬼怒っ!」
モモコの背後に鬼怒が顕現する。鬼怒は左腕を振り被り、鬼の直前に振り下ろす。
地面に亀裂が走り鬼の脚を巻き込み陥没する。
「ぐぬっ」
「犬彦っ!」
「でやああぁぁぁ!」
大きく跳躍した犬彦の切り下ろしが鬼の左腕を切断する。
「きゃあああああああああ!」
鬼の悲鳴。
「姉ちゃん!」
飛鳥が鬼火矢を五本番え、射る。
鬼火矢は鬼の両目に突き刺さり、鬼は悲鳴をあげ倒れ伏す。
鬼ににじり寄る三人。鬼はピクリとも動かない。
「やりすぎたか?」
「いえ、まだ生きてる」
コツン、と鬼の肢体をつま先で突くモモコ。すると鬼の右腕が伸び、飛鳥の身体に絡み付く。
「!?」
「つかまえた」
「飛鳥!」
鬼は高く跳躍すると民家の屋根を伝い跳び去った。
「追うわよ、犬彦!」
「当たり前だ!」
屋根に飛び乗るふたり。鬼の姿を見失わないように全力で駆ける。
「くそっ、姉ちゃんを拐うなんて下衆な奴だなおい! モモコ! 足止められねえか?」
「…………」
「どうした、モモコ?」
「このまま追うわよ」
「あんだって?」
「奴の目的は鬼封じを修羅の元へ届けること。なら、放っておけば修羅の所へ案内してくれるわ」
「てめっ! 姉ちゃんがやられちまったらどうすんだ? それに身体の一部を渡したら封印が解けちまうんじゃねえのか?」
「もうひとつの神器がこっちにあれば完全覚醒は防げるわ。飛鳥は――最悪見捨てるしかない」
その一言に犬彦の足が止まる。
「お前、マジで言ってんのか?」
モモコも脚を止め振り返る。見据えた犬彦の顔は怒りの表情に満ちていた。
「人ひとりの命と世界の平和。秤に掛けるまでもないでしょ? それに神器を預かった時から覚悟してるはずよ。いいえ、覚悟してなければいけないのよ」
そう言い切ったモモコの瞳は、最初に会った時の様にどこまでも冷たい色をしていた。
犬彦は苦虫を噛んだような表情をしてから踵で屋根を蹴り、
「あぁくそっ! ぶん殴りてえけどそんな時間も無え。今はとにかく負うぞ! 姉ちゃんになんかあったらお前も許さねえからな!」
ふんと鼻を鳴らし跳躍する。モモコはその背中を見ながら、
「ったく。筋金入りのシスコンね」
一瞬だけ微笑んで跳躍した。
他方の飛鳥は身体をぐるぐる巻きにされ、まるで宅配便の荷物のように鬼に抱えられていた。
(わたしを殺す気配はなさそう……でしたらこのまま抱えられていればいずれ修羅の元へ案内してもらえるはず。でも……)
目だけを動かして後ろを見る。追ってきたはずの犬彦たちの姿は見えない。
(見失った? でしたら)
下唇を強く噛む。口中にベトベトした鉄の味が広がった。
そのままちゅう、と血を吸い取るように口に含み、下品とは思いつつもぺっ、と吐き捨てる。
(犬彦……気付いてくださいね)
「まずったわね」
思わず舌打ちするモモコ。たった数秒脚を止めてしまったしまっただけで、鬼の姿を見失ってしまったのだ。これにはモモコも表情を曇らせる。
しかしあれほど苛立っていた犬彦はむしろ落ち着き払って、あっちを見たりこっちを見たりしながらスンスンと鼻を鳴らしている。そしてある方向を見据えると、
「こっちだ!」
と言って走り出した。
慌ててモモコも後を追う。
「ちょっと、どこ行くのよ? 今鬼怒を呼び戻して――」
「こっちで合ってる!」
「なんでわかんのよ?」
「血の匂いだ。これは姉ちゃんの血の匂いだ」
「はぁ?」
「いいから着いてこい! 血の匂いがするって事あ姉ちゃんがピンチかも知れねえんだからな!」
「わかったわよ。ほんとにシスコンなんだから」
そしてふたりは人気のない、寂れた小さな寺社に辿り着いた。
「ここ?」
「ああ。ここで匂いが途切れてる」
苔生した引き戸を開けると、むわっとした黴臭い臭いが鼻を突いた。
「モモコ、あれ!」
犬彦が指差す先を見る。本堂の一番奥、暗く陰った闇の中に、小さな稲光が静電気を散らすように瞬いている。
「絶門……」
「絶門?」
「ええ。異界と人間界を繋ぐ、まあゲートね。要するに」
「それがここにあるってことは……」
「ええ。ここが異界の入り口。この先に修羅が居るわ」
「だったら早く行くぞ!」
「いいの? もしかしたらもう戻ってこれないかもよ?」
「んな事より姉ちゃんだ! 来ないなら俺ひとりでも行くからな!」
叫ぶや否や何の躊躇いもなく絶門に飛び込んでいく犬彦。
モモコは溜め息をひとつ吐いて、
「まったく。姉ちゃん姉ちゃんって、もう」
犬彦を追って絶門を潜った。
第四章
絶門を潜った先は岩肌の洞窟だった。所々松明が燃えているものの薄暗く、湿った生臭い臭いが鼻の奥を突き、犬彦は思わず顔をしかめる。
「なんだよ、この臭いは……まるで――」
「人間の肉の臭いよ」
犬彦より遅れてやってきたモモコが答えを告げる。
「人間って……うっ」
喉元に酸っぱい物が込み上げる。犬彦は必死にそれを飲み込むと、詰襟の袖で口元を拭った。
ふっ、っと犬彦の足元が揺らいだ。それは松明の明かりに伸びた、邪鬼の影だった。
「ニンゲン……ニク……」
ゆらゆらと、一歩ずつ近付いてくる鬼。暗くてよくは見えないが、その後ろに何匹もの鬼の影が見えた。
「さすが鬼の巣ってとこね。犬彦、大丈夫?」
「ああ。一気に突破するぜ」
咆哮丸を構える犬彦。
護符を胸元にかざすモモコ。
「ニク……喰わせろおぉぉ!」
大挙し突進してくる鬼。
「滅っ!」
光の筋が走り、鬼の群れの最前列を焼き払う。青白く燃える鬼の死体を飛び越えて、更に大量の鬼が攻め来る。
「うらぁっ!」
水平のひと振りで鬼を薙ぐ。そのまま腰に溜め得意のひと突き。鬼を串刺しにしたまま突進し道を拓き、その後ろをモモコが駆ける。
桃子の背後に鬼が飛び掛かる。
「斬!」
護符で鬼を切り払う。
「ちゃんと着いてこいよ!」
「わかってるわよ! 滅!」
光の筋に打たれぼうぼうと燃える鬼。
だが鬼は次から次から湧いて出る。救いは洞窟は広くなく、実質対峙する鬼が少ないといったところか。
だが奥からまた鬼が攻めて来るのが見えた。
「くそっ、キリがねえ」
「一気に焼き払うわ。伏せて!」
そう言うとモモコは腰元から護符を五枚取り出し胸の前にかざす。そして頭上に投げると、護符は空中で静止し五芒星を描いた。
「滅却五芒陣!」
一枚の護符から一○の、合計五○の光の筋が一篇に前後の鬼の群れを焼き払う。
「行くわよ!」
青白く燃える鬼の死骸を飛び越え駆け抜ける。
すると突然目の前に、一際巨躯の鬼がぬっと現れた。
鎖鎌を振り回しながら飛び掛かる鬼。紙一重でかわす犬彦。打ち付けられた分銅が地面を陥没させる。
「神器を頂きたく候」
ギロリと犬彦を睨みつける鬼。
「そういう訳にはいかねえな」
親指で鼻を弾く犬彦。
「あらば死んで頂く」
地を蹴り駆ける鬼。振り被り放たれた分銅が犬彦を捉える。
「甘い!」
分銅を打ち落とす。鬼は鎖を引き戻し左手に構えた鎌を振り被る。
咆哮丸を上段で構え受け止める。ガキンと金属音が響いた。
「主、やりおる」
「お前もな」
両者とも武器を払い間合いを取る。
「モモコ、手出すな。コイツは俺がやる」
そう言った犬彦はどこか嬉しそうだった。
再び分銅が放たれる。
「甘いっつってんだ!」
分銅を打ち返そうと振り上げる。
だが寸でのところで分銅は軌道を変え、咆哮丸に絡みついた。
「なっ!?」
鬼が鎖を引き戻す。咆哮丸が犬彦の手を離れた。
間髪入れずに突進する鬼。左腕の鎌を振り上げ犬彦の脳天目掛け一気に振り下ろす。
「もらった!」
「犬彦っ!」
バシン、と。
鎌を白羽取りする犬彦。
「奥義……刀狩り」
鎌を掠め取り鬼に振り下ろす。鎌は鬼の右肩に突き刺さる。犬彦はふんっと鼻を鳴らすとニっと笑い、
「殺すにゃ惜しい使い手だな。修羅を倒したらまた相手してやるよ」
モモコを伴ってっその場を後にした。
鬼を倒しながら洞窟を走ること数分。たどり着いたのは松明の明かりも届かないほど広く、空気の冷え切った空間だった。鬼の声も姿も見えず、自分の心臓の鼓動さえ聞こえてきそうなほどの静寂が耳を突く。すると――
「犬彦っ!」
ぼっっと小さな明かりが灯ると、奥の壁際に磔にされた飛鳥の姿が浮かび上がった。
「姉ちゃん!」
駆け寄る犬彦。しかし飛鳥の周りには結界のようなものが張り巡らされ近付けない。すると奥にもう一つ明かりが灯る。その小さな明かりに浮き彫られたのは、齢二○半ばほどの端整な顔立ちの男の顔だった。
その男の顔を見るや、モモコの表情が凍りつく。
「あんた……見たことある顔だな」
その顔は、以前モモコの部屋で見た壁掛け時計の裏に貼ってあった写真に写っていた男だった。
「おいおい、どーいうこった? なんで人間がこんなところに……」
犬彦が言い切る前に、男は人差し指を立てる。そして、
「犬彦、伏せて!」
モモコが叫ぶと同時、男は指をくいと折る。すると凄まじい衝撃波がふたりを襲った。
ふたりは衝撃波に弾かれ壁に激突する。
「犬彦……そうか、お前が犬彦か」
「あぁ? 誰だてめぇは?」
「儂の顔を忘れたか? まあ仕方あるまい。お前はまだ赤子だったからの」
「? なんの話だ?」
「……太郎……」
ぽつりとモモコがこぼす。
「錬太郎……なぜ、あなたが……」
「錬太郎って……まさか……」
男は口角を釣り上げる。
「そうだ。お前と飛鳥の祖父――最上錬太郎だ」
「お前がじいちゃんだと? 敵意しか感じねえぞ」
「そうだな。今の儂は最上錬太郎でもあり、修羅でもある」
「なん……で……?」
膝から崩れ落ちるモモコ。大きな瞳からは涙の雫が今にもこぼれ落ちようとしていた。
「修羅の力が強くなりすぎたのだ。もう何年も前から儂の力が及ばんようになっての」
そう言って錬太郎は指を立て、はりつけられた飛鳥のほうへ指先を向ける。錬太郎が指を折ると、飛鳥の足元の壁が爆発した。
「この通り精神の半分を修羅に喰われてもうて身体の自由も利かん。儂の意識ももう長くは保たんだろう」
「そんな……」
モモコの留めていた涙がぽたぽたとこぼれ落ちる。
「儂を討て、桜子。まだ儂の意識があるうちに」
「そんなことできない! できるわけ……ないじゃない……」
嗚咽を漏らし、まるで駄々をこねる子供のように泣き出すモモコ。
「モモコ……」
「私は……あなたを救うために……」
「ならば犬彦。お前が討て」
「じいちゃん……」
「今この時のためにお前たちに鬼封じを託したのだ。解るな、犬彦?」
無言で咆哮丸を構える犬彦。しかしモモコは犬彦の腰元にしがみつき首を振る。それでも犬彦は構えを解かない。
「それでよい」
犬彦の足が地を蹴る。犬彦必殺の刺突が、錬太郎の眉間目掛け繰り出される。
だが。
咆哮丸の切先は錬太郎まで数センチのところで、まるで見えない壁に阻まれたかのように止まっていた。
「!?」
「温いわ……」地を這うような低い声で、「人間風情が」
連太郎の両目が妖しく光り、体中から妖気が立ち上る。
「桜…子……」弱々しい声が、「討…て……早く……」
「錬太郎! 錬太郎!」
「ダメだ、モモコ。あれはもうじいちゃんじゃない」
両目を赤く光らせ妖気をたゆらせながら不気味に笑う姿は、犬彦の言う通り既に人間ではなかった。その異様の怪物はねっとりとした唾液を引きながら口を開く。
「貴様は……そうか、面白い」
「お前が……修羅……?」
怪物は咆哮丸の刀身を掴み、強引に引き寄せる。そして犬彦の鼻先に息が掛かる程の距離で、
「そう……吾が名は修羅。世界を屠る者ぞ」
にたあと笑う修羅。修羅は更に強く咆哮丸を引き寄せる。
「さあ。吾が牙を返してもらおうか」
犬彦の手から咆哮丸を引っ手繰ると、口を大きく開け咆哮丸を頬張る。
「なっ!?」
「犬彦、離れて!」
飛鳥の叫びとほぼ同時に修羅は口を開き、噴と口から血なまぐさい衝撃波を放つ。犬彦はもろに衝撃波を喰らい、受身を取る間もなく壁に打ち付けられる。
修羅はゆっくりと立ち上がると飛鳥を視界に収め、
「後はそれひとつ」
言いながら右腕を上げ指を開く。そして目を細めると、掌から妖気の塊が放たれる。妖気の塊は真っ直ぐに飛鳥に向かい飛んでいく。
だが寸でのところで、顕現した鬼怒の腕に弾かれる。
「自動防御……?」
怪訝な目で鬼怒とモモコを交互に睨む修羅。
「哀れよの、鬼怒よ。魔界の王が人間の犬に成り果てるとはのう」
鬼怒は黙って修羅を睨みつける。
「まあ良い。髪など又生える。今主と拳を交えるのも得策ではないしのう」
修羅はそう言うと天井に向かって腕を上げ、また妖気の塊を放つ。天井に亀裂が走り、大きな音を立てて崩落する。
三人はそのまま岩盤の下敷きになった。
崩れ落ちた岩盤の山の一部がごそりと動き、大きな腕がのそりともたげる。鬼怒の腕だった。その鬼怒の腕の下から、無傷の飛鳥がゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。
「犬彦! モモコさん!」
するとまたごそりと瓦礫の山が動き、大きな鬼の腕がもたげた。瓦礫を払い除け上体を起こした姿は、洞窟で犬彦と対峙した鬼だった。
その鬼は脇に犬彦とモモコを抱えていた。飛鳥は咄嗟に身構える。
だが鬼は飛鳥に向かい、
「案ずるな。主と争うつもりはない」
ふっと笑い、脇に抱えたふたりをそっと降ろす。だが鬼は急に険しい顔になり奥歯を噛み締める。モモコはすっくと立ち上がると鬼の背後に回り、口元を手で覆った。
「アンタ、この傷……」
鬼の背中には先の落盤でできたであろう傷が大きく深く刻まれていた。
「死ぬほどの傷ではない」
「モモコさん、ちょっとどいてください」
飛鳥は鬼の背後に立ち、両掌をそっと傷口に宛てがう。するとその手がまばゆい光を放ち、傷を見る見る塞いでいった。
「応急処置ですが」
「かたじけない」
「ふたりを助けていただいたお礼です」
「そうか。時に主ら、まだ修羅と戦うつもりか?」
鬼の言葉に三人は目を伏せる。
錬太郎の身体を乗っ取った修羅。犬彦の鬼封じを奪い半覚醒した修羅。放っておけば人間界にどんな被害が及ぶか計り知れない。
だが。
犬彦は鬼封じを奪われ。
飛鳥は手足を封じられ。
モモコは戦う意志をくじかれ。
各々が改めて敵の強大さを思い知る。
しかし。
犬彦は立ち上がり、拳を強く握り締める。そして、
「俺は戦う。じいちゃんは俺たちに鬼封じを託したんだ。だったら俺たちがやるしかねえ」
しかしモモコは不安そうに、
「でもアンタの神器はもう……」
「それでも! 俺たちにしかできねえんだ」
「犬彦……」
「俺はやる。たとえ素手でだって奴を……じいちゃんをあんなにした修羅をぶっ倒す」
強く固く握り締められた犬彦の拳を、飛鳥の両手が優しく包む。
「わたしもやります。わたしの鬼封じはまだここにありますから」
「姉ちゃん……お前はどうする?」
言って犬彦はモモコに振り向く。
「あたしは……あたしは――連太郎を冒涜した修羅を許さない!」
モモコも犬彦の手を取る。三人は視線を交わすと頷き合う。するとそれを黙って見ていた鬼が突然立ち上がり、犬彦の前に立ち塞がる。
「その決意……誠か?」
「ああ」
睨み合うふたり。すると鬼が突然ぷっと息を溢し、終いには顔を反らし大声で笑い始めた。
「人間風情が修羅を討つか、面白い」
「てめえ、何笑って――」
怒声を上げようとした犬彦を手を上げて制する鬼。
「その心意気、気に入った。吾れの力を使うが良い」
「??」
「修羅程ではないが吾れも鬼の端くれ。相応の力がある。よもや本気で素手で彼奴と遣り合う気ではあるまい?」
「それは……けど歯向かう真似していいのか? 修羅はお前の親玉なんだろ?」
鬼はふっと優しく笑うと、
「魔界の者全てが修羅の配下ではない。渋々従っておる連中も数多おる」
そう言って右手を差し出す。
「どうする?」
犬彦も倣い右手を差し出し、拳を突き合わせる。
「吾が力、うぬと共にあらん。見せてもらおう、うぬが修羅を討つ様を」
「お前――名前は?」
「嚴(きび)」
ふたりの足元から赤い光が立ち上り、稲光とともにふたりを包む。やがて赤い光は凝縮し、犬彦の右腕に収まった。犬彦は右腕をぐーぱーさせながら見詰める。そして拳を握り締めるとうんと頷き、両足を開き腰を落とし、右腕を天高く突き上げる。そして、
「出ろ! 嚴丸!」
叫ぶや犬彦の右腕に赤い稲光が走り、鬼の雄叫びと共に大太刀・嚴丸が顕現する。
嚴丸を上段に振り被り、そのまま一気に振り下ろす。すると何もない空間が裂け、そこに絶門が出現した。
「行くぞ。ねえちゃん、モモコ!」
「ええ!」
「うん!」
第五章
絶門を潜り、三人は薄暗い空間を駆ける。すると飛鳥が、
「でもあそこで修羅を逃してから時間が経ってます。今こうして走っている間にも修羅が人間界に侵攻して来ていたら……」
不安気な表情で視線をモモコに送る。するとモモコは事も無げに、
「心配ないわ。この絶門は現世の時間軸から隔絶されてるから」
「なんだそりゃ?」
モモコは溜め息を一つ吐き、
「とにかく今の今はまだ修羅は人間界に攻め入ってないってこと。それに修羅が本気ならさっきのあの時点であたしたちを撃ってるはず。それをしなかったってことは――」
「まだ攻め入る準備が出来ていない。ということですね」
モモコが頷く。
「解ったら行くわよ」
「それよりモモコ、訊きたい事がある」
「何?」
「お前、随分じいちゃんと近しいみたいだったけど……どういう関係だ?」
その質問にモモコの足が止まる。釣られて犬彦、飛鳥も足を止めた。
「お前の部屋でじいちゃんと女の子が写ってる写真を見た。あれは……モモコ、お前だろ?」
びくんとモモコの身体が跳ねる。そしてどこか観念したような表情で、
「そう……あれを見たの……」
モモコは思い出を語るような面持ちで遠くを見詰め、目を細める。
「あれはそう……80年とちょっと前の話よ」
「はちじゅ……」
「お前、歳いくつだ?」
「数えで97になるわ。80年前のある日、あたしの暮らす山村が鬼に……修羅の率いる一味に襲われた。その時にあたしは瀕死の重傷を負ってね。その時助けてくれたのが錬太郎だった」
「それにしても……見た目はわたし達と同じくらいですけれど……」
「瀕死のあたしを救うために、錬太郎が特殊な陰陽術で鬼怒の力をあたしの体内に宿したの。でも鬼怒の力が強すぎてね、この体躯であたしの時間は止まってしまったの」
「そんなことが……」
「まあそれはいいでしょ。それからあたしは修羅を討つために連太郎と行動を共にした。そして遂に連太郎とふたりで修羅を追い詰め封じることができた。でもその方法は錬太郎の鬼力で錬太郎の身体ごと修羅を封じるという不完全なものだった。だからあたしは連太郎を救うため、鬼封じの神器を探して日本中を周り……錬太郎の意志を継ぐアンタ達を見つけた」
「それでこの街に……」
モモコの話が終わる。すると犬彦が、
「なるほどな。ま、だからどうだって話でもねぇよな」
「どうだ……って、あたしは百年生きた魔女なのよ? 何かないの?」
「無ぇよ。今ここに居るお前が今のお前だろ」
犬彦の言葉に薄らと頬を赤らめるモモコ。不覚にもそれを自覚してしまったモモコは顔を背け、
「こ、これでいいでしょ。さっさと行くわよ!」
先頭に立ち駆け出す。しかし心の中で犬彦に『ありがとう』と呟いた。
再び走ること数分。
「! モモコ、止まれ!!」
ドゴン! と。
モモコの目の前の地面から突然三本の槍が突き出てきた。槍はそのまま天井部分に突き刺さると音もなく灰になった。
「まさか!?」と犬彦。
「絶門に鬼が!?」
煙の様にもわもわと広がる灰が視界を遮り、敵の姿を視認できない。三人は正面に意識を集中させる。
と、煙の一部が僅かに歪んだのをモモコは見逃さなかった。
「犬彦、そっち!」
「っ!」
嚴丸を薙ぎ間一髪で槍を切り落とす。しかし切り落とした槍も又、灰の煙を吹き上げた。
「しまった!」
煙のせいで互の姿を見失う三人。完全に連携を絶たれてしまう。
すると飛鳥が、
「二人とも、伏せてください!」
言って鬼火矢を五本番え、無作為に乱れ射る。壁や天井に当たった鬼火矢は音を立てて爆発する。その爆風が灰の煙を散らし、飛鳥の正面に槍を構えた鬼の姿が見えた。
飛鳥は素早く鬼火矢を番え、音もなく射る。鬼火矢は鬼の眉間に突き刺さり、鬼の全身を火達磨にしていった。そして燃え盛る鬼の向こうに、空間の切れ目が見えた。
「出口だ!」
空間の切れ目を飛び出す。するとそこでは何百何千もの鬼がそれぞれに獲物を携え三人を待ち構えていた。まさに四面楚歌。
三人は背中を合わせ身構える。一斉に鬼が飛び掛かってきた。
「なめるんじゃねえ!」
嚴丸をひと薙ぎに目の前の鬼を一蹴。その隣では飛鳥が鬼火矢を射り鬼を消滅。更にその隣ではモモコが護符をかざし鬼を滅却。それでも鬼は波のように後から後から迫ってくる。
「くっそ、大したことねえけどキリがねえ!」
「任せて!」とモモコ。
モモコは護符を五枚取り出し、
「滅却五芒陣!」
五枚の護符から一〇の光の矢が、合計五〇の光の矢が一斉に放たれる。光の矢は大挙となって押し寄せる鬼の群れの一角を焼き払う。
「犬彦!」
大きく跳躍する犬彦。落下の勢いと合わせて嚴丸を振り下ろす。四方に衝撃波が広がり、鬼の群れを薙ぎ倒す。
砂煙を巻き上げ、犬彦たちを取り囲んでいた鬼の群れが消滅した。
目の前の砂煙が歪む。そこから妖気の塊が一直線に飛んできた。飛びずさりそれをかわす三人。飛んできた先を見遣るとそこには、肉眼で視認できるほどの妖気を身体中からたゆらせた男が――修羅が立っていた。
「ほう、よく避けたものだ……」
修羅は下品ににたあと笑う。
「笑ってんじゃねえ!」
叫ぶや地を蹴り修羅との間合いを詰め刺突をくりだす犬彦。修羅はその一閃を右手の指先ひとつで受け止めると、
「嚴よ、儂を裏切るか?」
『元より貴様の臣になったつもりはあらぬ』
その言葉を聞いた修羅は左腕を振り上げる。と、その左腕に鬼火矢が当たり小爆発を起こす。
ガキン、と嚴丸を薙いで修羅と距離を取る。
「犬彦、勝手しないで!」
「わあってるよ!」
「来るわ!」
すすす、と足音のしない歩みで距離を詰める修羅。両の手のひらに妖気が集約し、サッカーボールほどの大きさになったところで三人目掛け放たれる。跳躍しかわす三人。
飛鳥が鬼火矢を番え修羅の足元目掛け射る。サイドステップでかわす修羅。
すかさずモモコの護符から放たれた光の矢が修羅の行く手を遮る。
犬彦の切り下ろしが修羅の脳天から脚までを真っ二つに切り裂く。
が、手応えが無かった。
と、犬彦の背後に気配がした。その気配に振り返る間もなく犬彦は足蹴にされ五メートルほど吹っ飛ぶ。
「犬彦!」
駆け寄る二人。犬彦は自力で立ち上がる。
「大丈夫、犬彦?」
「ああ、大丈夫だ」
ぺっと血を吐き捨て再び嚴丸を構える。すると修羅はつまらなさそうに笑い、
「その程度の力で儂を討とう等と本気で思うておるのか?」
妖気の塊を右手に集中させる。すると妖気の塊は長く細く伸び、刀の形を取った。
「これなら少しは楽しめよう?」
ブンッ! と妖気の刀――妖剣を振るとだらんと腕を垂らし無形の位を取る。
「遠慮すな。全員で掛かってくるがいい」
嘲笑う様ににたぁと笑う。
犬彦のこめかみに青筋が走る。
「馬鹿にしやがって……」
嚴丸を握る手に力が入る。だがモモコはそれを制して、
「落ち着いて、犬彦。今は修羅を倒す事だけ考えて」
冷静に言う。
「ちっ……わあったよ。バックアップ、頼んだぞ」
言うが早いか修羅に突進し袈裟斬りを仕掛ける。修羅は右足を半歩退いてそれをかわし、妖剣を振りかぶる。
その振りかぶった妖剣が突然爆炎に包まれる。飛鳥が放った鬼火矢が命中したのだ。
だが突然の爆発にも怯まず修羅は再び右手に妖気を集中させる。
その間一秒未満。
しかし犬彦はその隙を見逃さなかった。
素早く嚴丸を逆手に構え直すとそのまま切り上げる。
流石に怯んだ修羅はバックステップで嚴丸の切っ先をかわす。そしてバックステップの二歩目に力を込め体重を前に移し、その勢いのまま妖剣を振り下ろす。
振り下ろされる妖剣を額の位置で水平に構えた嚴丸で受け止める。ガキン! という鈍い音が響いた。
その音に合わせるようにモモコがかざした護符から光の矢が放たれる。
「!?」
犬彦から身を離し光の矢をかわす修羅。
犬彦は大きく一歩を踏み出し、必殺の刺突、一閃。
嚴丸は修羅の腹を貫く。
「ぐぅおおおぉぉぉぉ……」
嚴丸を引き抜くと修羅は大きく身を反らし背中から倒れる。どしん、と。
「終わっ、た……」
とすん、と膝から崩れるモモコ。
「修羅を……倒したんですね」
鬼拔の構えを解く飛鳥。
しかし。
倒した修羅の身体が操り人形のようにぬっと起き上がる。
「!?」
修羅の口から禍々しい妖気が溢れ出て、大きな塊となり、やがてそれは巨大な、巨大な鬼の姿となった。
だがその姿は完全ではなく、肩から肉がそげ落ち、地面にべたっと落ちる。しかし肩口から直ぐに妖気が噴出し、また新たな腕を形成する。
「モモコ、どうなってんだ!?」
「修羅の完全体……いえ、未熟な完全体といったところね。錬太郎の器から出たことで溢れる自分の妖気を制御しきれていない」
「つまり今の内にならまだ勝機はあると?」
飛鳥がモモコに向き直る。
「本当はこうなる前に倒したかったんだけどね……」
「だったら話は簡単だ」
犬彦は再び嚴丸を構え、
「今、こいつを討つ!」
飛びかかり修羅の右腕を切り落とす。切り落とされた腕は地面に落ち、べちゃっ、と音を立てて弾けた。
「――――――!」
大地を裂くような低く重い絶叫が響く。修羅は左腕を振り上げ、目の前の犬彦目掛け振り下ろす。
頭上で嚴丸を構え受け止める。
が、予想以上に一撃は重く、
「がっ!」
嚴丸ごと地面に薙ぎ倒される。
「犬彦っ!」
飛鳥が鬼火矢を五本番え、射る。
修羅は避けようともせず五本の鬼火矢を浴び、全身が真っ赤に燃え上がる。そのまま犬彦を掴み上げようと手を伸ばしたところに、
「謹製奉ルハ我ガ左腕ニ封ジシ鬼ノ力以テ悪鬼ヲ祓エ――退魔滅却、急々如律令! 鬼怒っ!」
顕現した鬼怒の拳が修羅の腕を弾き飛ばす。
「犬彦! 立てる?」
「ああ……」
ゆらりと立ち上がる犬彦。
修羅を見遣る。
ごうごうと燃え盛る炎に包まれても尚、異形の怪物は進撃を止めない。しかし切り落とした腕の再生は止まっている。
「鬼火矢の効果ね」
とモモコが言う。だったら、と犬彦に考えが浮かぶ。
「姉ちゃん、ありったけの鬼火矢を撃ってくれ。その間に俺が奴を切り刻む。そしたらモモコ、お前に任せる!」
「分かりました!」
「任せなさい!」
飛鳥が鬼火矢を連射する。その間に犬彦は修羅の背後に回り、背中を切りつける。
振り向き様に犬彦に裏拳を打ち付ける修羅。犬彦は弾き飛ばされる。
「犬彦!」
思わず叫ぶモモコ。しかし犬彦は、
「構うな! お前は最後の一撃に集中しろ!」
立ち上がり修羅に斬りかかる。
犬彦の細かい連撃によって少しずつ身体が欠けていく修羅。斬! という音と共に左腕を切り落とす。
大きく仰け反る修羅。
「これで……」
必殺の刺突を修羅の腹目掛け構える。
「終わりだぁ!」
繰り出される刺突は修羅の腹に大きな風穴を開けた。
「モモコ!」
すかさず飛び込んだ鬼怒の右腕が、腹の風穴を抉るように突き破る。
「―――――――…………」
修羅の巨躯は灰となり、乾いた風に流された。
エピローグ
「犬彦、お湯が温いわよ。サボらないでちゃんと炊きなさい」
「分かってるよ」
窯に薪をくべ、ふいごで空気を送る犬彦。
中ではモモコと飛鳥が仲良く湯浴みしている。
「それにしても……今日は一段と疲れました」
「そうね。でも――ようやく修羅を討てた。それもこれもみんなアンタ達のお陰。あたしひとりじゃ多分……無理だった」
「えらく弱気じゃねえか。俺らから鬼封じを奪ってった奴の台詞とは思えねえな」
「そうですね。あの時は犬彦が殺されるかと思いましたわ」
「それは……ごぼごぼごぼ」
顎までお湯に浸かって言葉を濁すモモコ。
「ふふ、冗談ですわ」
にっこりと笑う飛鳥。
「じゃあわたしは夕食の用意をしますから。モモコさんはゆっくり浸かっていって」
飛鳥は湯船から上がり、脱衣所へと戻って行った。
残されたモモコと薪をくべる犬彦。
「なあ、モモコ」
不意に犬彦が声を掛けた。
「何?」
「いや……残念だったな」
「何がよ」
「じいちゃん……助けられなくて」
「…………」
「…………」
「これで……良かったのよ、きっと。あたしたちは修羅を討った。それは同時に、修羅の封印という呪縛から錬太郎を解いたことになるわ。だから、きっと、これで良かったのよ」
「だったら……何で泣いてんだ?」
「…………」
「好きだったんだろ? じいちゃんのこと」
「…………うわああああああああぁぁぁ…………」
夕食を三人で摂り、食べ終わる頃にはすっかり夜も更けていた。もう遅いからと飛鳥は自室に客人用の布団を敷き、モモコとふたりで眠った。
草木も寝静まる深夜。
モモコはもぞりと布団から這い出て、飛鳥に借りたパジャマを脱ぎ、自分の服に着替えた。
「ありがとう。アンタ達と過ごした時間、あたしの人生で多分……一番楽しかった……」
音も無く障子を開け、部屋を後にした。
そして靴を履き、玄関を出たところで、
「どこ行くんだ、こんな夜中に?」
犬彦が呼び止めた。
モモコは振り返らずに視線を足元に落としたまま、
「修羅は討った。もうあたしがここに居る理由は無いわ」
「理由、か。いいじゃねえか、そんなもん無くたって。それとも……ここは居心地が悪いか?」
「……悪くない……むしろ良すぎるくらいよ」
「だったら、いいじゃねえか」
「いいわけ無いじゃない!」
突然感情を顕に叫ぶモモコ。
「あたしは百年生きた魔女なのよ!? 鬼怒を宿した人外の化物なのよ!? アンタ達とは違う! もう二度と人間の和には入れない! 入っちゃいけないの!」
「…………」
「だからお願い……黙って行かせて……それであたしのことは忘れて……」
「ダメだ」
「なんでよ!」
「友達だからだ」
「…………」
「お前が百年生きた魔女だろうが鬼怒を宿した身体だろうが関係ねえ。お前は俺達と一緒に戦った仲間だ。その仲間を黙って行かせられねえ。じいちゃんに怒られちまうからな」
「…………」
「仲間であって友達だ。友達が居るからここに居る。ほら、理由が出来たじゃねえか」
「…………何よ、そのクサい台詞……似合わないわよ……」
「うるせえ」
言いながら右手を差し出す犬彦。モモコも倣い右手を差し出し、ふたりは堅く握手を交わした。
翌朝。
「飛鳥、おはよう」
にっこり笑顔で朝食の用意をしている飛鳥に声をかけるモモコ。
「おはようございます、モモコさん」
「何か手伝うことある?」
飛鳥は下唇に右手の人差し指を当て『うーん』と思案する。
「料理は大体終わってしまったから……お皿を並べていただけるかしら?」
「了解」
「おはよー」
そこに犬彦が寝ぼけ眼を擦りながらやってくる。犬彦はお腹をぼりぼり掻きながら席に着く。
「アンタ、寝癖くらい直してから来なさいよ」
「んなもん後あと。とにかく飯だ」
「もう用意できたから。さあ、モモコさんも座って」
食卓にはごはん、目玉焼き、あさりの味噌汁、焼き海苔、納豆が並べられた。
「さ、みんなで――いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
平成御伽草子 桃太郎