さまよう蝶
一応、完成しているのですが、少しずつ投稿します。
時間の経過などおかしな点もあるのですが、滅多に完成しない私がどうにか完成させた、自分としては比較的長い作品であり、愛着もあり、書いたのは1年以上前で発表することは考えてなかったのですが、思い切って投稿することにしました。
1
その人は明るくて可憐な、タンポポのような女性だった。
仕事も真面目に取り組み、残業も嫌がらない。定時過ぎに突然、急ぎの仕事が入っても嫌な顔をせず、対応してくれた。
「いいですよ」その人、渡辺さんは笑顔で言う。「明日早めに必要なんですよね。今日中にやっちゃいます」
「すまないね。お客さんも明日でいいと言いつつ、結局は明日の早めだからね」
「1時間くらいで終わりますから、気にしないでください」
渡辺さんに制作を依頼して、私は見積もりなどの事務処理をしに、営業部に戻った。
私の勤める会社は中堅どころの印刷工場だった。私のような営業が広告やカタログなどを作りたいというお客さんの依頼を受けて、彼女のような制作部の人にパソコンで形にしてもらい、そのデータを元に工場で刷り上げ、納品するという仕事をしていた。
しばらくして営業部に渡辺さんが顔を出した。お客さんに制作物をメールする前に確認してほしいという。私はプリントアウトされたものを確認し、そのデータをメールするように頼んだ。
作業が終わった彼女が帰り支度をして、作業の終了を報告に来た。
「駅まで送ろうか」と私は彼女に声をかけた。
この辺りは工場地帯で、駅まで距離があった。バスもあったが遅くなると本数も減り、残業した時の通勤には少し不便なのだ。夜になると閉まっている工場もあり、事件があったなどとは聞いたことはないが、帰り道を怖がる女性社員は多かった。そんなわけで自動車で通勤している社員は、電車で通勤している人を駅まで同乗させてあげるのが慣例になっていた。
「仕事、もういいんですか?」と渡辺さんが訊いた。
「うん、そろそろ帰ろうと思っていたんだ」
「そうですか。すみません、じゃあお願いします」
駅までは車で10分弱だ。駐車場に向かう間、歩きながら彼女が言った。
「できれば10分後に出る電車に乗りたいんですが」
「ああ…、わかった」私はキーを取り出しながら応える。私たちは車に乗り込み、駐車場を出た。
「ごめんね、今日何か用事があった?」運転しながら私は訊いてみる。
「いえ、さっき友達からメールが来て、今日会うことになったんです。残業だって言っても、どうしても会いたいって言って…」
「ふうん。何か大事な用があるのかな」
渡辺さんは黙っていた。運転しながら、ちらりと彼女の様子を見てみる。
「いえ、彼なんです」考えた末、話し始めた。「まだ、つき合い始めたばかりなんですけど。いつも一緒にいたいみたいで…」
「そうなんだ」私は少し胸が締めつけられたが、平静を装った。「つき合い始めたころは嬉しいものだものね」
「佐藤さんもそうなんですか?」と彼女が訊いた。
「いや、自分は様子を見て、少しずつ遠慮がなくなっていく感じかな」と、私は動揺を隠しつつ笑顔を作る。
「そういうものですよね」と彼女も笑った。
信号などで足止めされることもなく、駅には電車が着く3分前に着くことができた。
渡辺さんは「ありがとうございました」と言って車を出た。
私は、駅の階段を急ぎ足で上がって行く彼女を車内から見送った。
渡辺さんは私にとって理想の女性だった。整った容姿であるが冷たい印象はなく、柔らかな表情は親しみやすい雰囲気を醸している。性格も穏やかで、仕事で無理を言っても、困った顔はしても怒ったりはしなかった。
勤務態度も真面目で、信頼できた。そして何より、私に対して他の人に対するのと同じように接してくれていた。営業でありながら会話が苦手で、男性からは若干蔑まされ、女性からはちょっと引かれ気味だった私に対しても、彼女は小馬鹿にした態度をとることがなかった。私が仕事でミスをしても、あげつらうことなく、黙ってフォローしてくれた。渡辺さんなら私のことを好きになってくれるかもしれない。気持ちの片隅でそんな思いをもっていた。
いや、彼女ほどの人なら、きっともっと優秀で素敵な恋人がいるだろう。現実を見なければ駄目だ。そう戒めながらも私は淡い期待を抱いてしまっていた。
そして今、私は渡辺さんから恋人がいるという話を聞いた。
私は寂しい思いもあったが、安堵する気持ちも強かった。これで変な期待をもたずにすむ。淡い恋心とは言えない邪な妄想に思い悩むこともない。気持ちに線を引いてこれまで通り、会社の同僚としていい関係を維持して行けたらいいと気持ちを切り替えることができる。
渡辺さんもきっとそのつもりで、私にその話をしたのだろう。
つづく
2
ある日、私が休憩用に設けられた一画に行くと、渡辺さんと、彼女と同じ制作室の女性、高橋さんが二人で話をしていた。
そこは制作室の外の廊下の端に、古い自立式のパーテーションを無造作に立てて、小さなテーブルと灰皿を置いただけの空間で、喫煙所ということにはなっているが、煙草を吸わなくてもちょっとした息抜きに社員が集まる場所だった。
「私なら耐えられないな」と、高橋さんが言った。
「私はうれしいの。私もいつも一緒にいたい方だし…。外で堂々と自由に振る舞っている人が、私のそばでは甘えてくるの。そういうのよくない?」渡辺さんは休憩用のスペースに他の人が入ってくるのに気づいて、途中から声を低めた。
私は彼女たちから離れて立ち、缶コーヒーをあけた。一口飲んでテーブルに置くと、そこにあった誰かのスポーツ新聞を手にとる。
「佐藤さんは彼女から、一日の予定を細かく決められても気になりませんか?」高橋さんが訊いてきた。
私は新聞から目を離して二人の方を見た。
「えっ…と、旅行か何か?」私が聞く。
「違いますよ。普段から、いつもです」
「うーん、どうだろう。ちょっと息苦しいかも」よくわからないが、締め付けの程度がはなはだしければ嫌になるだろう。
今度は渡辺さんが訊いてきた。
「じゃあ佐藤さんは恋人にいろいろ要求するタイプですか?」
「えっと、あんまりしないかも。いや、わかんない。どうだろう…」基準がわからず返答に詰まる。
「渡辺さんは彼氏がうるさい方がいいんですって」高橋さんがからかうように渡辺さんを見る。
「うるさい方がいいわけじゃないけど、彼がそう言うなら仕方ないかっていうか…」渡辺さんは恥ずかしそうに答える。
「へー」私は愛想笑いをした。私はこのままここにいてもいいのだろうか? 話題に入れてはくれたが、参考になりそうにない私には、渡辺さん自身はプライベートな話を聞かれたくないかもしれない。
高橋さんが誰にともなく言う。
「まぁ、愛してくれてる感じはするかもねぇ…。渡辺さんがいいなら、何も言えねっ」と、男口調でおどけた。
「なにそれぇ」と、渡辺さんが笑う。
私は缶コーヒーを飲み、腕時計を見た。スポーツ新聞をテーブルに戻し、私はコーヒーを飲み干した。
「これから部長に同行するんだ。ちょっと緊張するなぁ」もう少し時間があったが、私はそう言ってその場を離れる。
「お疲れ様です」二人が声をかけてくれた。そして高橋さんの、わたしたちも戻ろうか、という声が背後に聞こえた。
それからしばらくして、渡辺さんが残業を敬遠するようになってきたと、営業部で話題になった。これまで社内での評価が高かっただけに、残念に思う社員は多かった。
一時間くらいの残業は普通だったが、それ以降の残業は頼みづらくなってきて、近頃では定時になるとすぐに帰っていった。もちろん仕事がきちんと終わっていればいいのだが、若干のしわ寄せが、彼女のチームのリーダーなど、他の社員に行っているようだった。
それでも仕事は一生懸命やろうとしているようだった。自分でも周囲に迷惑をかけてると自覚はしている様子で、依頼すると今まで以上に感じよく受けてくれた。しかし思いがけないミスも増え、ふと見ると何かに思い悩んでいるように見えた。
定時以降、制作室に行くと廊下で、彼女が携帯電話で話をしているのを見かけることがあった。小声で必死に何かを訴えている。そして電話が終わると席に戻り、渡辺さんは慌ただしく作業をこなすと、挨拶だけして呼び止められる前に部屋を出ていった。
つづく
3
取引先を回って事務所に戻るのが夕方遅くなることはよくあることだ。事務所には小まめに連絡を入れて、作業が滞らないようには気をつけている。それでも思い違いや間の悪さは生じてしまい、思いがけない事態に絶望的な気持ちになることもある。
その日、私が会社に戻ると机の上に、進行中だった仕事の納期が早まり、今日中に入稿してほしい旨のメモが置いてあった。メモと一緒に修正箇所を記したFAXもある。メモを置いてくれた時間は定時前になっていたが、その時にはもう定時を一時間以上過ぎていた。連絡をくれればいいのに、と心の中で文句を言ったが、メモを残してくれた事務の女性はもういなかった。
制作室は、空いている席もあったが多くの人がまだ黙々と仕事をしていた。しかし今になって納期の早まったこの仕事を担当している高橋さんは、この日に限ってもう帰ったらしかった。
高橋さんと同じチームでは、近頃では珍しく渡辺さんがまだいた。彼女はパソコンの電源を落としているところだった。彼女はせわしげに帰り支度をしている。
「高橋さんは?」と、とりあえず訊いてみる。
「もう帰りましたよ」
「高橋さんはこの直し、やってたかな?」そう言い、私はFAXを見せる。
「さあ、わかりません。あの、今日はもう帰りたいのですが…」渡辺さんが申し訳なさそうに言う。
「これ、今日中に入稿しないといけないんだ。申し訳ないけど、代わりにやってもらえないかな」私は頼んでみた。
「すみません、誰か他の人にお願いしていただけませんか」彼女は落ち着かな気に言った。
ふいに彼女のバッグの中で携帯電話が振動し始めた。彼女はバッグを抱きかかえて振動を抑えようとする。
私は誰かできる人はいないかと、周囲を見回した。だが、残っている人は皆自分の仕事に没頭している。
「わかりました」彼女は諦めたように言った。そして高橋さんの席に行ってパソコンを起動する。
携帯はまだ振動している。
「申し訳ない」噛みしめるように、私は言った。
作業は少し面倒だった。渡辺さんが作業している間に他の人が数人帰って行った。作業が終わった時、私は彼女に駅まで送ると言うと、彼女は憔悴したようにうつむいて「お願いします」と言った。私たちは慌ただしく会社を出た。
駅に着くと、彼女は車が止まるのももどかし気にドアを開けると「お疲れ様でした」と言って、駅の階段を上がって行った。
電車はすぐに来るだろうか。心配して見ているとホームに流れるアナウンスが聞こえてきて、間もなく電車が到着した。私はそれを見て、駅前のロータリーから車を出した。
会社に戻ると部長が帰り支度をしていた。
「何だ、帰ったのかと思ったぞ」と、部長が言う。
「すみません、まだやることがあるので」私は曖昧に愛想笑いをして、机に向かった。
「時間をかければ一生懸命やったってことにはならないんだぜ。時間をかけた分、成果をあげろよ。成果を」部長は苦々しい口調で言う。
「すみません」私は顔を隠すように頭を下げた。
つづく
4
翌日、渡辺さんはうつむき加減で出社した。すでに出社している社員に対して挨拶をしてはいたが、バスで一緒だった他の社員の影に隠れて目立たないようにしているようだった。髪の毛で顔を隠しているようにも見えた。
「昨日はありがとう」私は営業部を通り抜けていく彼女に( 営業部が来客の窓口になるので、この会社では入り口は営業部に直結していた。)自分の机から、残業してくれたことについてお礼を言った。
彼女は何か返事をしたようにも見えたが、足を止めることなく制作室へ向かっていった。
それから始業時間になり、私がいつものように制作室へ行き、パソコンに向かっている彼女に仕事について話しかけても、少ししかこちらに顔を向けてくれなかった。作業の手を止めても、パソコンの方を見たまま返事をする。しかし話が長引くとこちらに顔を向けないわけにはいかなくなってくる。化粧を少し厚めに塗っていたが、向こう側の目の下の辺りが、少し腫れて青くなっているような気がした。
「あの、後は校正紙を見ますから…」彼女が顔を伏せた。。
「あぁ、そう。でも見づらいところがあるから…、ちょっと書き足してくるよ」私が言った。
「すみません」彼女は少し頭を下げて、再びパソコンに向かった。
営業部に戻ると、他の社員が雑談していた。私は机に向かって仕事をしつつも、つい聞き耳を立ててしまう。
…あれは男に殴られたんだな。
…本人は階段ですべったって言ってたらしいぜ。
…だからって顔をぶつけるか?。
…最近仕事にも身が入ってないみたいだしな。
…困るねぇ。仕事とプライベートはわけてくれないと。
…お前、わけてるのかよ。片言の日本語で、女から電話かかってくるじゃん。
…あれは失敗した。もう大丈夫。携帯に電話するように言っといたから。
…お前も好きだなぁ。
昨日、私が彼女に無理に残業を頼んでしまったから、きっと彼女は恋人から責められたのだろう。
私は校正紙に書き込みを追加すると、彼女のところまで持って行った。
「ごめん、ぼくが昨日残業させてしまったから…」私はパソコンに向かっている渡辺さんにそう言った。
「どういうことですか?」彼女は少しだけこちらを向いた。見たことのない苛ついた表情をしていた。
「あ、いや、何でもない。じゃ、これを頼むよ」私は校正紙を彼女の机の、書類などが立てかけてあるところにに載せた。
「わかりました」作業を続けながら、彼女は返事をした。
その日から、ますます彼女に仕事を頼む営業は少なくなった。
仕事はその種類によって制作室内の個別のチームに依頼して、チームリーダーがメンバーに割り振ることになっていた。リーダーとしては各メンバーの能力や適性をみつつ、メンバーに均等に仕事を頼むのだろうし、メンバーから希望があれば考慮するのだろう。一応そういうことになっていた。しかしそれほど厳格な決まりでもなく、ちょっとした仕事なら、営業が頼みやすそうな人に直接依頼して、リーダーに事後報告することも多かった。
だが、今では彼女に直接依頼する人は減り、チーム内でも彼女はもっぱら他のメンバーの手伝いをすることが多くなった。それはそれで、仕事はうまく回っているようだったが、定時が過ぎるとすぐに帰ってしまう彼女に、制作室の中には不快感を感じる者もいたようだ。
私も以前にも増して彼女に頼む仕事はよく考えた。仕事なので思いがけない変更などはあり、気を使ったが、そういう場合、お客さんには頭を下げて、彼女の負担にならないように調整した。
それでも私は出来るだけ、彼女にも依頼するように心掛けた。彼女を無視というか、敬遠するようなことはしたくなかったし、彼女だって他の人の手伝いばかりより、自分の責任で完成させる仕事を少しは持っていた方が、チーム内での立場としても、仕事から得られる充実感としても良いのではないかと考えたからだ。そういう風に自分では考えていた。だが、今思い返せば、単に彼女との繋がりを維持したいという下心があったのだろうと思う。
それに、彼女の側から見て、それが良かったのかどうかも、わからない。
気を使いながらも彼女に仕事を依頼し続けていた私に、彼女のチームリーダーが言った。
「よく来るねえ、気があるんじゃないの〜」
何人かがこちらを向いて笑った。でも嫌みな感じではないので、私も笑顔で返した。
「ここの仕事は前から彼女にやってもらっていたので、安心して頼めるんですよ」
「ふーん、他の人もやったことあったと思うけどねぇ」リーダーが少し意固地になって言う。
「まあそうですけどね」実際に、彼女がやることが多かったのは事実なのだが、私はやんわりと同意した。
彼女は依頼書を確認しながら、笑顔でやりとりを傍聴していた。
そんな風に私たちは仕事を続けた。
しかし、普段の仕事以外にも気がかりなことがあった。
三ヶ月に一回、季節ごとにダイレクトメールで発行されるカタログの制作が、そろそろ始まることだった。それは納期の割に量が多く、後半になるにつれ、徐々に終電間際まで制作しなければならなくなってくる仕事だった。
つづく
5
「そろそろ通販の季刊誌が入ってくる予定ですけど、他の仕事の状況ってどうですか?」と、私は制作部の中の、渡辺さんが所属するチームのリーダー、山田さんに訊いてみた。
「今訊かれても何とも言えないよ。今は良くても実際に原稿が入ってきた時にどうなってるかなんてわからない。それより早く原稿をもらってきてくれよ。制作期間を長くとれれば他の仕事が詰まってたって、どうにでもなるんだから」
彼の言うことはもっともだった。ただお客さんの方も、売れそうな商品を選定するのに苦労していて、無闇に原稿を渡すのを引き延ばしている訳ではなく、こちらにも気遣いを見せてくれているので、向こうにもあまり強くは言えない。
「そうですねぇ」愚問だよな。私は気まずい気持ちになった。
チームリーダーの山田さんは、仕事は速く正確で、どちらかというと人にも自分にも厳しいタイプだった。客観的に見るとのんびりしているらしい私のことをうっとうしく感じているようで、私自身も苦手だった。この会社に転職したばかりのころ私が大きな間違いをして、ほぼ出来上がっていた制作物が大幅なレイアウトの変更になってしまったことがあった。彼はどうにか間に合わせてくれたのだが、その後しばらく口をきいてくれなかった。仕事なのでなるべく話しかけるようにして、多少の話はするようになったが、今でも私がミスをすると、露骨に嫌な顔をしたり、いら立った様子で吐き捨てるように文句を言うことがあった。私以外の人に対しては、少し構えたところはあるが冗談も言うし、対人関係は良好なので、単純に私が仕事ができないことが悪いのだが…。
渡辺さんの最近の様子に対しては、元々彼女は仕事ができたし意欲もあるので、残業をしなくなっていても仕方ないといった感じで受け入れているようだった。
そして数日後、いよいよ通販の季刊誌の原稿が入ってきた。制作期間は二週間弱で、これまでより多少短く、しかもページ数は増えていた。これを通常の仕事に加えてこなして行かなければならないので、どうしても残業は増えた。今回は前回からの流れで、順番通りに渡辺さんと、チームリーダーの山田さんが専任で制作にあたり、他の人が二人がいつもやっていた仕事を引き受けた。そしてそれでも厳しい場合は、これまで通り、他のチームにも少し協力してもらうということになった。
渡辺さんもこの仕事に関しては何も言わずに集中し、これまで通り残業もこなした。一度、廊下の奥の方で携帯電話で話しているのを見かけたが、彼女はすぐに電話を切ると、毅然とした態度で自分の席に戻っていった。そして納期が近くなるにつれて、少しずつ残業時間は増えていった。
「家の方は大丈夫?」私は心配になり、残業している渡辺さんに声をかけた。
彼女は一瞬怪訝な表情になって私を見返したが、「ええ、大丈夫ですよ」と、笑顔で応えてくれた。
ある晩、私が制作物の校正などをしながら残業をしていると、渡辺さんがやってきた。彼女は夜食として取り寄せた出前を、食べ終えたところらしかった。
「佐藤さん、麺が伸びちゃいますよ」彼女が言った。
「ああ、そうだね。今行くよ」私は言った。
「すみません。ここ間違えてました」そう言い、彼女は私の手元にあった校正紙の一部を指差した。私は彼女が作ったページを見直していたのだ。彼女が今指摘したところは、まだ見ていなかった。
「本当だ。赤字入れとくよ」
赤ペンで修正することを赤字と言う。
「佐藤さんもいつも遅くまで仕事してますね」彼女が言った。
「自分は要領が悪いだけだよ」私は苦笑した。
「そんなことないですよ。制作の方のことも考えて、うまく調整してくれています」
「そうかな。こっちこそ無理を言うこともあるのに、いつもちゃんと対応してくれて、感謝しています」私は言った。
彼女は黙っていた。私は校正を続けた。
「じゃ、わたしは制作に戻ります。佐藤さん、夜食食べちゃった方がいいですよ」と言い、彼女は去っていった。
「うん、ありがとう」私は机から顔を上げて、彼女を見送った。
そうして制作は続いていった。私は、少しまとまったところで出来上がったページをお客さんへ提出したり、後から決まった商品を受け取ったり、制作が忙しいときは商品の撮影を変わりにやったり、レイアウトや企画、商品の変更などをチームリーダーに伝えてうんざりされたりした。
残業していると、夜食の前後などに渡辺さんが話しかけてきた。
「佐藤さんは今やってるドラマ見てます?」渡辺さんが、その日、残業している間に放送されているドラマの名前を言う。
「あぁ、見てない。その前にやってる方を見てるんだ」私は言った。
「それも面白いですよね。録画してるんですか?」
「うん、日曜日にまとめて見るかな」
「そうですね、今週は見る時間ありませんものね」
日曜日、彼氏と一緒に見るのだろうか? と、私はつい余計な推測をしてしまう。
彼氏とはどうなったのだろう? あんなにうるさく渡辺さんを束縛していたのに、今週は自由に残業している。この期間は忙しいということを、どうにか理解してもらったのだろうか? それとも先日渡辺さんが顔に痣を作ってきたとき、何があったかわからないが、彼氏が反省して束縛するのを控えているのだろうか? あるいは、別れたのだろうか? 別れたのならいいのだが。仕事に支障があったし、彼女が悩んでいるのを見るのは辛かった。
渡辺さんと話をしていたところへ、チームリーダーの山田さんがやってきた。
「最後のページ、お客さんの方に送っておいたよ」山田さんが言った。
「ありがとうございます」私は言った。
「他の直しは明日かな?」
「はい、今日はもうありません」
「明日納期だからね。早めに直しを戻してくれるように言っといてよ」山田さんが私に念を押した。そして渡辺さんに言う。「それじゃ、今日はもう上がろう」
「はーい。あの、駅まで乗せてってもらえます?」渡辺さんが山田さんに訊いた。彼は、いいよ、と答える。
「佐藤さんはまだ仕事ですか?」渡辺さんが振り向いた。
「うん、高橋さんに作ってもらった新聞広告の校正をやらなくちゃ」私は答えた。
「ごめんなさい、仕事邪魔しちゃった…」渡辺さんが言う。山田さんはさっさと制作室へ戻っていった。
「そんなことないよ」と、私は否定する。
「すみません、お先に失礼します」そう言いつつ、渡辺さんは山田さんの後を追って制作室へ向かう。
「うん、お疲れ様でした」私は渡辺さんに声をかけた。
彼女は以前の彼女に戻ったようだった。奥ゆかしいけど明るくて、責任感もある。きっと別れたんだ。私はちょっと嬉しかった。
翌日は制作の最終日だった。
順調に進んでいたはずだったが、最終日になって案の定、商品の変更がいくつか入ってしまった。しかも今になってカタログ以外にチラシも入れたいと言う。そしてその日も残業になってしまった。
その日遅く、どうにかカタログの方は最終的な修正もすみ、印刷の方に回すことができた。後は追加されたチラシの校正がお客さんからくれば、その直しをして校了となるはずだ。チラシはリーダーである山田さんが担当したので、カタログが終われば渡辺さんの仕事は終わりだった。
「お疲れさま。後はチラシだけだから、渡辺さんはもう上がっていいよ」山田さんが言った。
「何かやることがあれば手伝いますよ」と、渡辺さんが言った。
「うーん、ないな。大丈夫」山田さんはそう言い、「佐藤さん、渡辺さんを駅まで遅れる?」と訊いてきた。
「いいですよ。自分も後は刷版の確認に立ち会うだけですから」データを印刷機にかけるための版に起こすことを刷版と言う。
私は渡辺さんを自分の車に乗せて、駅へ向かった。
「ようやく羽を伸ばせるね」私は助手席の渡辺さんに声をかけた。
「まだわかりませんよ。価格が変わったって、印刷寸前でストップになったことがあったじゃないですか」渡辺さんが冗談めかして言う。今回のお客さんの仕事ではなかったが、折り込みチラシの広告で昔そんなことがあった。
「あのときは参ったね。工場の方からは怒鳴られるし。印刷のスケジュールは変えられないし。焦ったよ」
「油断できませんよ」渡辺さんが笑って言う。
「そうだね。でも今回は今晩中に印刷しちゃうから、まあ大丈夫」私もとりあえず笑った。
駅に着いた。夜の駅前は酔っぱらった人やこれから帰る人、迎えの車を待っているらしい人などで賑やかだった。
「あ…」駅前のロータリーに車が入ると、外を見ていた渡辺さんが小さく声を上げた。私は特に気にせず、駅の階段の前あたりで車を停めた。
「じゃ、明日もよろしく」私は渡辺さんに声をかけた。
「はい、ありがとうございました」彼女はにっこりとした笑顔を向けて車を出た。
彼女は駅前に立つ、一人の男性に向かって歩いていった。そして何か言葉を交わすと二人は並んで階段を上がっていった。
何だ。恋人が迎えにきてたのか。私は自分の感情が急速にしぼんでいくのを感じていた。
つづく
6
翌日、彼女は会社に来なかった。
印刷は無事終了し、カタログもチラシもすでに配送センターに送られているので、急ぎの仕事はもうなかったが、私はまた、彼女のことが心配になった。
チームリーダーの山田さんに聞くと「君に何の関係があるんだ」と苛立たし気に睨まれた。仕事はチーム内で割り振っていくので口を出すなということらしい。後ほど営業部を通りかかった高橋さんに聞いてみると、彼女から「熱があって休みたい」という連絡があったそうだ。
そして土日をはさんで月曜日になった。彼女はその日も休みだった。
一体何があったのだろう? 朝には連絡があったのでみんな気にしていないようだが、本当に大丈夫なのだろうか。駅で見かけたあの男が彼氏だろうか。彼にまた酷いめにあわされているのではないか。渡辺さんは優しすぎるのだ。男性の不安定な精神を放っておけないのだろう。だが、それでは彼女自身が不幸になってしまう。彼女にはそんな不幸は似合わない。
私に話しかけてくれたときの、渡辺さんの姿が思い出される。彼女は私のところに来て、他愛ない話にも楽しそうに笑ってくれた。また彼女は、無理な依頼でも笑顔で受けてくれた。そして廊下の端で、携帯に向かって必死に何かを言い訳している彼女の姿。仕事をしながらも何か思い詰めた様子の渡辺さん。
私に、彼女のためにできることはないだろうか。
翌日渡辺さんは出社した。
私は、もしかしたらこのまま彼女は会社を辞めてしまうのではないかと心配していたので、朝、普段通りに渡辺さんが出社してきたのを見て安心した。
彼女はまた、髪で顔を少し隠しているような気がした。だから私は彼女の顔を注視しないように気を使った。しかしその表情は明るく屈託がないように見えた。私は思い込みが過ぎるのだろうか?
営業部を通りかかった彼女に、私は声をかけた。朝の挨拶をすると、彼女はしばらく休んでしまったことを詫びた。私は通販の季刊誌も無事終わり、何の問題もなかったことを伝えた。
「それより今日、新聞広告を頼みたいんだけど、どうかな」私は何事もなかったように話した。
「山田さん(リーダーのことだ)に聞いてみないと…。でも多分できると思います。いいですよ」彼女は笑顔で答え、制作室へ歩いていった。
私はある考えに取り付かれていた。
今日、彼女が笑顔で仕事をしたとしても問題はきっと解決していない。解決していたなら、していたでかまわない。とにかく私は渡辺さんの役に立ちたい。すぐにでも、その思いを伝えなければならないと、私は切迫した気持ちで考えていた。今日伝えなければ、彼女はまた酷いめにあわされてしまうかもしれない。一刻も早く、彼女の味方になる人間がここにいることを伝えて、彼女を安心させたい。そして二人で具体的な対策を考え、彼女をその恐ろしい困難な状況から救い出してあげたい。
これは愛の告白ではない。彼女が困っているようだから、力になりたい。それだけのことだ。だから一言、何か困ったことがあったら力になるよ、と言えばすむことだ。だが、そんな伝え方ではきっと彼女は心を開いてくれないだろう。きっと遠慮するし、迷惑をかけたくないと思うだろう。だからきちんと、誰もいないところで、自分の思いを話さなければ…。迷惑でもなければ無関係でもないのだと…。
私はチャンスをうかがった。私はあらゆるシーンを想定していた。だが、どれもうまくいかなそうだった。仕事もしなければならないし、彼女が一人になるタイミングもわからない。 時間は何かの錯覚のように過ぎていく。私は徐々に焦りだしていた。ちゃんと言えるのだろうか? 誰もいないところで、きちんと自分の気持ちを…。
昼休み、食事が終わり、私はトイレに行った。鬱々と考え込みながら、会社で一番広い工場のトイレまで歩いた。
工場のトイレといっても、一階にあるというだけで、来客も会社の人もみんなが使っていた。比較的広々としていて、凹凸ガラスも大きく、雰囲気が明るかった。トイレは当然、男性用と女性用に分かれ、それぞれに手洗い場もついているのだが、それに加えてここのトイレはトイレの外に、身だしなみを整えられるように、大きな鏡と洗面台が三つ並んだスペースが設けられていた。
そこに渡辺さんがいた。
彼女は洗面台の向こうの大きな鏡を覗き込んでいた。私は混乱し、知らんぷりしてそのままトイレに入ろうとした。だが、これはチャンスだと瞬間的に考え直し、思い切って話しかけた。
「あの、恋人とはうまくいってますか?」かしこまった言葉になってしまった。
「え、はい、おかげさまで」彼女は戸惑いつつも笑顔で応えた。
「そう、ですか…。でも自分にはそう見えない。あの、私には渡辺さんが苦しんでいるように見えるんです」
「え、そうですか。すみません。あの、大丈夫ですよ。ご心配なく」彼女は困ったように笑う。
「余計なお世話だとわかっています。でも、あの、今の恋人とは…別れた方がいいと思う」私は話しているうちに、どんどん緊張が高まり、ますます考えて話すことができなくなっていった。
渡辺さんは笑顔だったが、目だけは突き放すような冷たい光を放っていた。
「本当に余計なお世話ですね」彼女は微笑んだが、感情を殺した平坦な口調で言った。
「すみません」私は慌てて謝った。「でも、自分は渡辺さんの力になりたくて…。あの、私はあなたを守りたいんです」そうだ、私はこれが言いたかったのだ。
渡辺さんは困った顔をして、視線をそらせた。
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」彼女は俯き、何か言うことを考えたのかもしれないが、そのまま洗面所を出て行った。
出て行くとき、渡辺さんは誰かと鉢合わせしたらしく、驚いた様子で、すみません、と言った。そして彼女に替わって営業部の同僚が入ってきた。彼はそそくさと男子トイレに消えていった。
私は呆然と力無く、自分の席に戻った。
昼休みで営業部はさっきまでガランとしていたのに、今はお昼から戻って来た人々で賑やかだった。おそらく私が渡辺さんに、何かを訴えていたこと( 告白になるのだろうか?)はすぐに噂になるだろう。
行動を起こす前は、彼女にあのようなことを言うことは、とても切迫した大事なことだと思っていた。だが今、冷静になってみると自分勝手な愚かしい行為にしか思えなかった。彼女はなんと思っただろう。怒らせてしまった。確かに私の言ったことは余計なお世話だった。私は何か勘違いしていたのだ。彼女が親切だったから、きっと私の気持ちをわかってくれるだろうと、勝手に思い込んでいた。客観的に考えれば無意味な出来事の積み重ねを、私は過大に評価していた…。いやしかし、もしかしたらいつか彼女の心に響くときが来るかもしれない。いや、ないか。そんなことは…。
ただ明確なことは、これからしばらくは周囲の好奇の目に耐えていかなければならないということだった。
確かにみんなの間で噂にはなっているようだった。
比較的仲のいい同僚が雑談の中で、渡辺さんに告白したのか、と遠慮がちに、それでいて好奇心いっぱいに訊いてきた。私は、彼女が何か問題を抱えているように見えたから、何か力になりたい、と言っただけだと答えた。それは好きだっていうことでしょ、と言うので私は、同僚として心配しているだけだよ、と言った。
しかし直接聞かれたのはそれだけだった。それについてからかってくるような人はおらず、何となくみんな優しかった。いつも口うるさい部長も、私がぐずぐずしていると怒鳴ってくるが、すぐその後、まぁお前ももう少ししっかりしなくちゃな、と穏やかな声でフォローした。
要領が悪く、いつも仕事に追われて冗談もあまり言えない私が、あの件で多少の親近感をもってもらえたのかもしれなかった。
肝心の渡辺さんの方は、距離を置かれてしまった。仕事の話はするが、よそよそしく雑談に発展することはなくなった。もちろん彼女の方から話しかけてくることもなかった。
渡辺さんの仕事ぶりは、かつてのようにしっかりしていた。もう問題はなくなっていたようだ。思い悩む様子もなく、仕事に集中し、残業もこなした。私はやはり余計なことを言ってしまったのだ。渡辺さんと楽しく会話をするなんてことはなくなってしまったが、それはそれとして、彼女が元気になったのは良かったと思った。
私は彼女のことを吹っ切ろうと仕事に集中した。彼女のことは頭に浮かんできてしまうが、それを仕事の忙しさで覆い隠した。相変わらずダメ社員ではあったが、迷いが減ったせいか、自分としては仕事は順調に進んだ。ふと虚しさを感じることもあったが、仕事をしているあいだは充実していた。
新しい仕事を持っていくと、渡辺さんのチームのリーダー、山田さんが私に言った。
「近頃がんばってるねぇ。何か良いことあったの?」
「いやぁ、何にもないです。相変わらず寂しい毎日ですよ」と、私は自虐的に笑った。
「そうかぁ、前より何か前向きな感じがして、感心してたんだけどね」リーダーがチームの人たちに同意を求めるように、ブース内に顔を向けた。渡辺さんがこちらを向いて微笑んだ。
「いつもと同じですよ。要領が悪くて仕事に追われているだけですよ」私は少し恥ずかしくなり、そう言うと早歩きでその場を離れた。
つづく
7
しばらくすると渡辺さんとも、また普通に話をするようになった。私は変わらず、一生懸命だけど成果の上がらない営業マンだった。そして、頑張っていればいつかは渡辺さんも振り向いてくれるかも、という淡い期待を心の中で打ち消す毎日だった。
その日も、また仕事で失敗をしてしまった。
「どうして言わなかったんだ。もう納期がないじゃないか」リーダーの山田さんが怒鳴った。
「すみません。制作室が忙しそうだったので、少し余裕が出てきてから頼もうと思っていまして…。それで、依頼するタイミングを逃してしまって…」私はしどろもどろになって答えた。
「タイミングってなんだよ。忘れていただけだろう。それに余裕が出てきてからなんて、そんな気を使わなくていいんだよ。こっちで段取り考えてやるんだから。それで明日までなんて言われても間に合わないっての」山田さんはまくしたてた。
「すみません。でも何とか明日までにお願いしたいんですが」
「本当にいい加減にしてくれるか? 無理だよ」
確かに忘れてしまった自分が悪いのだ。私は自己嫌悪と焦りで青ざめていた。だが、あのときは仕事を追加すると散々文句を言われたので、どうしても遠慮せざるを得なかったのだ。
そこへ、見かねたらしい制作部の課長が声をかけてくれた。ちなみに制作部に部長はおらず、営業部の部長が兼任している。
「もし大変なら私がやろうか」課長が言った。
山田さんは視線をそらして顔をしかめた。
「いえ、課長にお願いするならこちらで何とかします」
「忙しいのはわかっているから。私じゃなくても他のチームで、誰かできる人がいるかもしれないよ」課長は穏やかな口調で諭す。
「いえ、このチームで何とかします」山田さんは絞り出すように言った。
「すみません。お願いします」私はどちらにともなく頭を下げた。
山田さんは溜め息をつき、憤然とした表情でパソコンに向かった。
私は自己嫌悪と無力感を感じながら営業部に戻った。
夜になり、担当しているお客さんに向けた販促用品の企画を考えていると、渡辺さんが帰り支度をして営業部を通りかかった。
「お先に失礼しまーす」渡辺さんが営業部に声をかけてきた。営業部には、まだ三分の二くらいの社員がいた。
「お疲れさまです」私は挨拶を返すと、立ち上がって渡辺さんのところに歩いた。「山田さんはどうかな。まだ忙しそうだった?」制作室も半数ぐらいはまだ仕事をしているはずだ。
「もう帰れるみたいですよ。わたし、山田さんに駅まで送ってもらうんです」渡辺さんが言った。
「そうなんだ。よかった。あんまり遅くまでやってもらうと申し訳ないから」私はほっとした。
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」彼女が笑った。
制作室の方からリーダーの山田さんが歩いてくるのが見えた。山田さんは私を避け、出力したプリントを無言で私の机に置くと階段の方へ歩いていった。
「あ、ありがとうございました」私は声をかけ、自分の席に戻りプリントを手にとった。きちんとできてはいたが、パッと見て、依頼書に書いておいたお客さんの指示が反映されていないところが、いくつかあった。修正を依頼したかったが、彼の背中は私の要望を受け付けそうになかった。とりあえずはできている。この程度の間違いなら、まずはお客さんに提出して、おかしい部分は私が謝っておけばすむはずだった。
「じゃあ、失礼します」渡辺さんが笑顔で会釈して、山田さんの後を追っていった。
私はプリントを持って彼女に、ぼんやりとした笑顔で挨拶を返したが、心の中では再び深い自己嫌悪に陥っていた。私は渡辺さんに、あなたを守りたい、なんて大層なことを言ったことがあったが、本当に程度の低い冗談にしかならない発言だった。人を好きになる前に、仕事をしっかりやれっ、というところだ。それにしても、山田さんも渡辺さんの前で、私のことをあんなにボロクソに言わなくても良いのに…。いやでも、やってくれたのだからありがたい。自分がしっかりしないのが悪いのだ。
「お疲れさまでーす」
プリントを見ながらぼんやりとしていると、高橋さんが声をかけてきた。
「お疲れさまです」と言って、私は顔を上げた。高橋さんも肩からバッグを提げていた。「あ、山田さんと渡辺さんならもう行ったよ」ぼんやりしていたことを隠すように、私は慌てて言った。
「あー、そうですね。まあいいです」高橋さんは特に落胆した様子もなく「お先しまーす」と、階段の方へ歩いて行く。高橋さんの仕事が終わるタイミングが悪かったのだろう。二人は高橋さんも帰れるということに気づかなかったようだ。
「あ、それなら、高橋さん、送ろうか?」と、私は高橋さんに声をかけた。まだそれほど遅い時間でもないし、歩けない距離でもないので、私の仕事でないときは知らんぷりすることもあるのだが、今は自己嫌悪に陥った分を善行で補いたいという気持ちがあったのかもしれない。
「いいですよ。まだそれほど遅くないですから」高橋さんは足を止めて振り返った。
「自分ももう帰ろうと思ってたんだ」と、企画のアイデアをごちゃごちゃと書いた使用済みのコピー用紙を畳みながら、私は言った。
「本当にいいですよ」と彼女は遠慮したが、私は「いいからいいから」と、カバンを持って出口の方へ歩いた。事務所に向かって挨拶をすると、おつかれー、と何人かから気の無い返事が返ってきた。
車の中ではたいした話題もなく、仕事のことを単発的に話すくらいだった。
信号待ちで会話が途切れ、沈黙が少し気になってきたところで、高橋さんが訊いてきた。
「渡辺さんに告白したって本当ですか?」
「え、何? いや、告白じゃないよ。ほら、渡辺さん少し悩んでいるように見えたときがあったでしょ。何か自分にも役に立てることがないかなって、言っただけだよ」唐突な質問に、私は慌てて答えた。
「そうなんですか…」高橋さんは考え込むようにして前を向いた。「じゃあ質問を変えます。佐藤さんは渡辺さんのこと、好きなんですか?」彼女は唐突にこちらを向き、まっすぐな視線で聞いてきた。
「いや、好きとか嫌いとか…。仕事にも影響があるし、同僚として心配しただけだよ」私は言った。車数台分、先にある信号が青になったので、私は話すのを中断した。信号待ちをしていた先頭の車が右折するのが見えた。その車は山田さんの車だった。私の前にいた車は直進したので、右折した私は山田さんの後ろにつけることになった。
「ふうん。それならいいですけど」高橋さんは前を向いて黙った。私は彼女の意図することがわからず、質問をしたかったが、口を開くと墓穴を掘りそうだったので、私も黙った。
もうすぐ駅前の交差点だった。左折すると駅に着く。山田さんの車も左折するだろうと思っていたが、彼の車は当然のように直進して交差点を通り過ぎた。私は訳がわからず自分が間違えているのかと思い、周囲を確認したが、やはりここは駅前で、自分は駅に向かおうとしているので、左折するのが当然で、疑問に思いながらも左折した。私はロータリーに入って、駅の階段の近くで車を停めた。
「ありがとうございました」高橋さんはそう言って車を降りた。私が、お疲れ様でした、と声を掛けると彼女は笑顔で会釈をした。私も会釈を返して、車を発進させた。高橋さんは階段に歩いていった。
つづく
8
山田さんはどうして駅に向かわなかったのだろう? もしかして二人で食事でも行ったのだろうか? あるいは家まで送ってあげたのか? 駅までしか送らない私は、実は気が利かない人間だったのだろうか?
私は悶々と考え続けた。二人はつき合っているのだろうか? いや、そんなはずは…。渡辺さんはあんなに親し気に、私に話しかけてきてくれていたのに…。彼女は誰にでも感じがよかったし、私に大して彼女は恋愛感情がないのはわかってはいたが、男性社員の中では自分は彼女と親しい方だと思っていた。私はもっと積極的になった方が良いのだろうか? いや、力になりたいと言っただけで、あんなに避けられてしまったのだ。自分には仕事を頑張るしかないのだ。自分にはこれ以上にやりようがなかった。
そうだ、まだ二人がつき合っていると決まった訳ではない。彼女は私がミスをしても怒らずフォローしてくれた。落ち込んでいると気にすることないですよと、慰めの言葉をかけてくれた。自分は考え過ぎているのだ。同僚と食事に行くことくらい普通のことだ。私はこれまで通り、普通に接していれば良いのだ。
私は自分に言い聞かせた。
翌日、渡辺さんはいつものように明るい笑顔で、私に挨拶をしてくれた。私もいつものように笑顔で挨拶を返した。渡辺さんと山田さんがつき合っているなんて、よくない妄想だ。まるでストーカーだ。変な考えにとらわれて、おかしな行動をとらないように気をつけなければ…。
午前中、私は得意先を回った。昨日山田さんに作ってもらった広告は、そのまま採用された。昨日は修正を頼まないでよかった…。直しはいくらかあるが、この程度なら今日中にやってもらえるだろう。私は昼過ぎに会社にもどった。事務所内は節電のため蛍光灯が消され、薄暗い。私は持ち帰った新しい仕事や進行中の校正紙を、制作室の担当者用に分類した。午後はまたすぐ出かけなければならなかったので、昼休み中に依頼書や資料、校正紙などをメモと一緒に各担当者の机の上に置いていこうと思っていた。
書類を書き上げると、私はいろいろもって制作室へ向かった。制作室も節電のため、昼休みは薄暗くなっている。人気が少なく、机に腕と頭を乗せて寝ている人や、パソコンでネットを見ている人などがちらほらいた。
山田さんの席には渡辺さんが来ていて、私はドキリとした。私は、進行中の仕事の担当者の席に校正紙を置いてから、平静を装い、二人に近寄っていった。チームの他の人たちは男性社員が居眠りしているだけで、高橋さんや他の人はまだ戻ってきていなかった。
「山田さん、昨日作っていただいた広告の直しです」
私は校正紙を差し出したが、山田さんは返事をしただけでパソコンを見つめたままなので、彼の机の端の方、視界に入る範囲においた。そして「新規の依頼書もはさんでありますので、そちらもお願いします」と私は付け加えた。
「ああ、そう」と、山田さんは応えた。
渡辺さんは山田さんのすぐ脇に立っていて、一緒にパソコンの画面を見ていた。
「佐藤さんはどれがいいと思いますか?」渡辺さんが訊いてきた。
「え、何?」と言い、私は画面が見える位置に移動した。
画面には新しく開店するショッピングモールで配られる予定のリーフレットの草案が表示されている。渡辺さんは、山田さんの手元からマウスを借りて操作すると画面が切り替わり、四つのアイデアが順々に表示される。そして最後に画面を四分割して全ての案が一画面に表示された。
「うーん、でも自分がどれかを選ぶと、後で角が立ちそうだし…」と、私は言った。何だ、二人は仕事の話をしていたのか、と内心ほっとした。
「じゃあ、どれを誰が作ったかわかりますか?」彼女が訊いてきた。
私はだいたいの予想を言ってみた。自信がなかったので曖昧な言い方になってしまったが、全て正解だったので安心した。
「山田さんのはメリハリが効いていて見やすくて、洗練された印象がありますね。渡辺さんのは個性的なのは評価できますけど、もう少し整理するともっと見やすくなると思いますよ」私は山田さんもいるので二人に対して敬語で話した。
「そうですかぁ、ありがとうございます」渡辺さんは冗談めかした様子で落ち込んだ振りをした。
「ほら、言った通りだろ。余計な飾りが多いんだよ」山田さんがからかうように言う。
私は渡辺さんに何か言ってフォローしようとしたのだが、渡辺さんがすぐに話し始めたので言えなかった。
「何よ、ありきたりなものを作ったってしょうがないじゃない」渡辺さんが山田さんにむかって言った。
私はドキッとした。渡辺さんが同期の高橋さん以外にタメ口をきくのを初めて聞いた。
「いやいいんだよ、奇抜なものを作ったって。ただクライアントが言いたいことがぼやけてしまっては、何のために作るのかわからないだろ」山田さんが言う。
「そんなこと、わかってるわよ」渡辺さんがふてくされたように言った。
私には一瞬にしてその場の雰囲気が変わった気がした。職場の雰囲気から、痴話げんかする二人の親し気な空間へ。
「じゃあ、資料おいていきますので、よろしくお願いします」私は山田さんの机においた校正紙などを指して、そこから離れた。
「あ、はい」渡辺さんが山田さんの代わりに応えた。
二人はいつからつき合っていたのだろう? 渡辺さんがくだけた口調だったからといって二人がつき合っていると断定するのは早計だろうか? 私には明白すぎるサインに思えた。
そうか、だから高橋さんは昨日私にあんなことを訊いたのだ。私が渡辺さんのことを好きなのかどうか。知らなかったのは私だけなのかもしれない。制作室のみんなは口に出さなくても、二人の会話を聞いた人なら誰でも、二人の関係を察するだろう。山田さんは私が渡辺さんに、力になりたい、と言ったことをどう思っただろう? あれは客観的には告白したとしか思えない。私が渡辺さんによく仕事を頼むのも、好きだからとしか見えないだろう。
私は恥ずかしさで体が熱くなり、背筋にじっとりとした冷や汗が出るのを感じた。二人は私のことを何と噂しているだろう? 山田さんはどういう思いで、渡辺さんの前で私を罵倒するのだろう? もちろん、私がミスをするのが悪いのだが…。しかし、自分が渡辺さんとつき合っていて、私が渡辺さんを好きだとわかっているなら、また別な意味合いを帯びてくる気がした。
どうして渡辺さんは私に親し気に話しかけてくるのだろう? 好意を持ってくれている? 私のことを好きでないのは明白だ。私はこれまで好意を示してきたのに、いつも彼女は別の男性とつき合ってきた。しかも私が苦手なタイプとばかり( 最初の男のことは知らないが、暴力的なことはわかる )…。
渡辺さんがよく私に話しかけてくるのは、山田さんとつき合っていることのカモフラージュだろうか? 本当の恋人と異なる親しい異性を作ることで、周囲の関心を逸らし、しかも私となら本命の彼氏が見ても嫉妬を抱くこともなく、誰が見ても変な噂をたてることもないだろう。そして渡辺さん本人が心変わりして好きになる心配もなく、そして私自身お人好しの鈍感さで、何も知らずに適度な距離を置いたまま好意を寄せ続けるだろう。実際、そうだった。そんな計算もあったかもしれない。無害な相手からなら、好意を寄せられるのは自分の価値が高まったように思えて気分がいいものだろう。
だめだ。ひどい被害妄想だ。社内恋愛は一般的に秘密にしたいものだろうし、私に知らせる必要なんてないのだ。ただ単に私がバカだっただけだ。
私もみんなみたいに知らない振りをしてあげなければ。せっかく二人は恋人同士になったのだ。祝福してあげなければ…。いや、何かするという意味ではなく、気持ち的に、ということだ。みんなみたいに黙って見守ってあげるのだ。
私にとって恋愛はとても貴重なものだ。その貴重なものを二人は手に入れたのだ。私の変な嫉妬や、私は気づいていますよ、的なおかしな行動で二人の恋愛に水を差すのはよくない。渡辺さんにはいい夢を見させてもらった。渡辺さんが私のことを好きになることはない。それならこのまま、二人の幸せが続いてほしい。余計なお世話だが…。そうすれば私もおかしな妄想に囚われずにすむ。
私は気持ちを切り替え、二人のことを頭から振り払った。営業部の自分の席に戻り、書類をカバンに詰め込み、ホワイトボードに午後の予定を書き込んだ。昼休みはまだ終わっていなかったが、私は仕事に向かった。
つづく
9
私は仕事に打ち込もうとした。しかしやる気は今までもあったのだ。さらにやる気を出したとしても、突然仕事ができるようになるわけでもなかった。
相変わらず泥のような現実の中を、必死にもがいて進んでいるような感じがしていた。仕事は遅く、見落としや勘違いも多かった。それでも私はこの現実に、どうにかしがみついていた。
こんな奴が異性から好かれるわけはないのだ。
「どうしてこんな間違いをするんだ。やる気あんの?」山田さんが怒鳴る。
「すみません」私は言い訳しつつも、どうしてこんなミスをするのか自分でもわからない。
「え、どういうつもりなんだよ。もういい加減辞めてくれよ」山田さんの怒りはなかなか治まらない。やはり山田さんとは合わないのかもしれない。自分が悪いことはわかっているが、それでもここまで怒りを露骨に表す人は他にいなかった。
山田さんは唐突に怒るのをやめると、ムッとした表情でパソコンにむかい自分の作業をしはじめた。キーボードをバチバチと叩き、書類をバサバサと乱暴にめくる。私は、すみませんでした、と小さな声でもう一度謝り、出口に歩いた。
その夜も残業だった。事務所に残って書類を書いていると、高橋さんがやってきた。渡辺さんと山田さんはもう帰っており、山田さんのチームでその日残業していたのは高橋さんともう一人の男性社員だった。
「お茶でもいれましょうか?」修正した広告のプリントアウトしたものを私に渡して、高橋さんが訊いた。
「え、いいよ。どうしたの急に」
「いつも大変だなーと思って。少し息抜きしてくださいよ」
「そんなに仕事漬けじゃないよ。他の人に比べたら自分なんて全然…」私は控えめに笑った。
「お茶とコーヒー、どっちがいいですか?」高橋さんが優しく訊いた。
「じゃあ、コーヒーを」と言って、私は笑みを作った。
高橋さんは給湯室に行って、インスタントコーヒーを作って戻ってきた。
「砂糖とミルクはわからなかったので持ってきました」高橋さんはお客さん用のカップと小分けにされた砂糖とミルク、そしてスプーンを机の空いているところにおいてくれた。
「すみません、ありがとうございます」私は頭を下げた。
「わたしたちの方はもう帰ります」高橋さんが言った。
「そう、送ってもらえるの?」私は彼女と一緒に残業していた男性社員のことを訊いた。
「はい、送ってくれると言ってました」
「そう、じゃあお疲れ様でした」私は微笑んで、頭を下げた。
高橋さんは制作室へ戻っていった。
その日から高橋さんは、時々私に話しかけてくるようになった。そのころ私は渡辺さんと少し距離をおいていたので、高橋さんと会話することが一番多かった。おそらく高橋さんは、私に同情してくれていたのだ。
始めのうち、高橋さんとの会話は楽しく、いい気分転換になった。だが少しずつ、彼女との関わりの中で、これまで自分でも思ってもいなかった不安が芽生えてきてしまった。
私は恋愛経験が少ないため、女性に対して過剰に意識してしまうところがあった。先の先を考えてしまう。不安にかられ、極端な展開を予測してしまう。嫌われたくない、という気持ちが強くなりすぎ、挙動不審になってしまう。
私は大した人間ではない。高橋さんは私のことを本当はどう思っているのだろう?
嫌われてはいないと思う。多少は好かれているだろうか? 今後の私の様子によっては、好きになってくれるだろうか? …微妙なところだ。
どうせボロが出るに決まっている。私はつまらない人間だ。きっとすぐに飽きられる。それでいい、それでいいのだ。そうは思っても、言動には気をつけてしまう。無難なことを言おうとしてしまう。自分でもつまらないことを言ったなと思う。
私は彼女とうまく話せなくなっていった。高橋さんがどう感じていたのかは、わからないが…。
営業の後輩が、高橋さんに話しかけていた。ダメだ、そいつは女癖が悪いんだ。そんな奴に心を許してはいけない。
高橋さんは私の存在に気づいて、こちらを見て微かに微笑んだ。私もほっとして、わずかに笑った。
夕方、高橋さんが話しかけてきた。私は嬉しかったが、どう対応していいかわからない。私は曖昧な返事をして仕事に集中するふりをする。彼女は何を言っていいのかわからなくなったらしく、去って行った。
私は自己嫌悪に陥った。高橋さんに嫌な思いをさせたと罪悪感を感じる。だが、考え方を変える。 仕方ない。私はダメな人間なのだ。
もし仮に、本当に高橋さんが私に好意を持っていてくれたとしたら? 私にはその好意に答える自信がない。彼女の今後に責任を持てない。私は自分を支えるだけで手一杯なのだ。一緒にいたら、きっと不幸にしてしまう。
こんな奴を好きになる人なんていない。高橋さんが私に好意を持ってくれているなど、都合のいい妄想だ。また渡辺さんの時と同じように、くだらない思い込みをしているだけだ。
高橋さんのことは放っておけばいい。彼女は私のことなど何とも思っていない。私が自意識過剰になっているだけだ。私は勝手に思い込んでいるだけだ。まるでストーカーだ。だから私はストーカーにならないように、彼女のことは放っておく。高橋さんだって、私のことは何とも思っていない。だからこれで問題はないはずだ。
それでも、もし、高橋さんが私のことを好きだとしたら…? 私は彼女のその感情に対して責任を感じずにはおれなかった。私は高橋さんにどう接したらいいのかわからない。私は高橋さんから嫌われたくなかったし、かといって彼女の感情を受け止められる度量もなかった。
自分はダメな人間で、将来性も何もなかった。そんな自分を好きになってくれる女性は希少だということは、わかっているつもりだった。しかしそれでも、自分には自信がなかった。高橋さんのことが好きではあったが、私には将来にわたって生じる責任というものを負う覚悟ができなかった。
自分がもっとちゃんと仕事ができていたなら、女性に対してももっと気楽に接することができるのに…。しかし私には、どうしても踏み出せなかった。
きっと高橋さんは私のことを誤解している。私は高橋さんが思っているような人間ではない。私はダメ人間なのだ。
高橋さんは単に、私を同僚としてみているだけなのだ。だから私も意識せずに、これまで通りにしていればいいのだ。
もし彼女が私のことを好きでもなんでもなければ、その方が納得できた。それが普通だし、振られる方が自分には似合っている。
それはそうなのだが、でももし、高橋さんが私に対して本当に好きだったとしたら? 私は自分の『好き』という気持ちと『責任』という不安の間で、感情の対処の仕方がわからず、逃げ出してしまうかもしれない。
私は気持ちを定めることができず、高橋さんを避け続けた。
私は高橋さんにあまり仕事を頼まなくなった。全てリーダーの山田さんに依頼するようにして、そのとき以外は制作室に行かないようにした。
高橋さんは私の変化を敏感に察知したが、訳がわからないようだった。当然だ。彼女には何の落ち度もない。仕事が割り振られると、これまで通り私のところに質問に来たりした。私も普通に受け答えした。嫌っているわけではないのだ。私の理性としては同僚として自然に対応しなければならないとわかっていた。彼女がいい人だというのはわかっていたし、自分ももちろん高橋さんのことは好きだった。
それでも無駄な話はしなかった。
彼女が私の対応に混乱しているのはわかっていた。でも雑談がなくなってしまった。足が制作室に向かわなくなってしまった。談話室でみんなの話に加わっているときでも、私から彼女に話しかけることがなくなってしまった。なぜか視線を合わせることができなくなってしまった。自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
まるで知らぬ間に、催眠術にでもかかっしまったかのようだった。
自己弁護をさせてもらえば、誰かから好かれることに慣れていなかったと言えるかもしれない。いや、わからない。心の奥で、いろいろな計算が働いていたのかもしれなかった。
高橋さんは急におしゃれ(?)をするようになった。派手になったわけではないが、なんとなくスカート姿が多かったり、今風のデザインの服装だったり、した。そして仕事と無関係に話しかけられている回数が、増えたように見えた。華があって誰にでも愛想のいい渡辺さんの影で、話題にはあまりならなかったが、もともと社内ではひそかに人気があった人なのだ。
私はそういった彼女の振る舞いや彼女に対する周囲の反応から感覚を遮断するようにして、仕事に集中した。
しばらくすると高橋さんは少し怒ったような顔を私に向けるようになり、やがて彼女の方も私を避けるようになった。そして彼女もまた、以前と同じように淡々と仕事に向かうようになった。
自分でも、自分のことを迷惑な奴だと思う。高橋さんは私のことなど何とも思っていなかったのに、私が異常な反応をしたために、高橋さんも私の行動に振り回されることになってしまった。
恋愛において、自分はこれまでどちらかというと被害者(?)であったのに、私は加害者になってしまった。
私は高橋さんを傷つけてしまった。
何をしているのだろう…。私は…。
つづく
10
皮肉なことに、仕事にはさらに意欲的になった。渡辺さん、山田さん、そして悔やんでも悔やみきれない高橋さんとのことと、問題は重なっていたが、私はそこから目を逸らすように仕事にのめり込んだ。高橋さんに対する自分の無慈悲で残酷な仕打ちで、自分が本当にダメな奴だということは痛いほどわかっていたので、仕事を頑張ることで挽回したいという意識も働いたのかもしれない。
私は、お得意様には新たな広告の企画を考え、新規の顧客を獲得しようと飛び込み営業もした。新しい仕事で山田さんのチームに負担がかかりそうだと思えば、制作室の室長に相談して他のチームにも分散して対応してもらった。
そんな日々の中、ひさしぶりに渡辺さんが話しかけてきた。
談話室には私と渡辺さんの二人だけだった。始めのうち談話室には、制作室の渡辺さんたちのチームでない別のチームの男性社員がいたのだが、彼が出て行くと入れ替わるように渡辺さんが入ってきた。私自身、談話室にくるのは久しぶりだった。渡辺さんや高橋さんと会いたくないな、と思っていたからだが、しばらく時間がたって気にしすぎるのも変だと思い、何となく来たのだった。そしたら渡辺さんと二人きりになってしまった。
私は現在のぎくしゃくした人間関係を改善したいと考えていたので、すぐに出て行いくことはなかった。
「こんにちは」彼女が言った。
「お疲れ様です」私は言った。特に話題もなく、少ししたら出て行こうと私は考えていた。
「近頃、わたしたちお話しすることなくなっちゃいましたね」彼女が近寄ってきた。
「ここのところ、ちょっと忙しかったから…」
「そうですね。佐藤さん、忙しそうですよね」
私は何となく出て行くきっかけがなくなった気がした。
「高橋さんと何かあったんですか?」渡辺さんが訊いた。
「え、何もないよ。どうして?」私はドキリとしたが、何もないのは事実だった。
「いえ、何かよそよそしいように見えたから、何かあったのかなって」
「そう、別に何にもないけど…」顔には出さなかったつもりだが、高橋さんに対する罪悪感が、胸の奥にじわりと重く感じられた。
「そうですか」彼女は私の顔を見つめたまま、にっこりと笑った。
相変わらず、彼女はきれいだった。私はどことなく居心地悪く感じた。
「自分は、もう行かなくちゃ」私は言った。
「また、話しかけていいですか?」彼女が言った。
「あ、あぁ…」私は曖昧に答えて出て行った。内心、私はうきうきしていた。それと同時に高橋さんに対する罪悪感も感じていた。そして渡辺さんは山田さんとつき合っているんだ、という事実を思い出して自分を戒めた。
途中、廊下で、山田さんとすれ違った。山田さんも談話室に行くのだろうか? 山田さんは私を忌々し気に睨みつけた。私は廊下の端を歩き、ちらりと会釈してすれ違った。
夜、渡辺さんがまた話しかけてきた。
これまでは出力されたプリントを渡しに来てくれても、お礼だけ言って雑談には取り合わないようにしたり、頃合いを見て自分の方からもらいにいって、受け取るだけで雑談せずにすぐ戻ってきたりしていた。しかしその時は、昼間の談話室でのことがあり、少し雑談につき合った。渡辺さんは山田さんとつき合ってるんだと思うと、やはり距離をおいてしまうが、それでも少し楽しいと感じてしまった。
渡辺さんは一体どういうつもりなのだろう?
深い意味はないと思う。私が彼女のことをしばらく避けていたから、彼女の方も関係を修復したいと思っているのかもしれない。以前は私が渡辺さんと山田さんの関係を知らずに告白じみたことをしてしまい、私が勝手に恥ずかしく感じて彼女を避けるようになったのだ。彼女が山田さんとつき合っているというのは、何となくみんな知っているだろうし、それを前提に同僚として多少会話をするぐらいなら何の問題もない。
彼女は自動車通勤について私に意見を聞き、私は維持費について話をした。彼女は他の人にも意見を聞いているようで、やっぱり無理かな、というところで話は落ち着いた。終わりに私は彼女に免許はもっているのか聞いてみた。
「いやぁ、ないんですよ」
「そこからかいっ」
会話が一区切りついたところで、彼女が訊いた。
「あの、もし今日はもう帰るのなら、駅まで乗せてもらえませんか?」
私は帰ろうと思えば帰れる状態だったが、少し用心した。
「ごめん、もうしばらくかかるんだ。山田さんはまだ帰れない?」
「わかりません。まだやってくみたいですよ」と、彼女は言った。「すみません、あつかましいこと言って。気にしないでください」彼女はほほえんで、制作室へ戻っていった。
私は少し罪悪感を感じた。この辺りで事件が起きたという話は聞いたことないが、定時で閉まる工場も多く、林もあり、夜は暗く人通りも少なかった。大通りに出てしまえば安心だが、途中まで女性にとっては確かに怖そうな道なのだ。だが、まだそんなに遅い時間ではないし…。彼女のチームで今日、残業しているのは山田さんと高橋さんと渡辺さんだった。山田さんもそんなに遅くはならないと思っていたのだが…。
山田さんが二人を送っていくだろうとは思っていたが、渡辺さんと山田さんが上がってくれれば、私が高橋さんを送ってあげれるとも思っていた。私は彼女を避けてはいたが、気になっているには違いない。相反する行動を取っていながら、高橋さんの役に立ちたい、守りたいとも思っていた。送ってあげるという行動は同僚として当然の行為で、それなら私の葛藤する気持ちも納得させられる。だが彼女自身が私には頼まないだろう。ただ心配なのは私に頼みたくないばかりに、暗い道を一人で歩いていくことだった。
しばらくして、自動車通勤をしている制作室の男性社員とともに、渡辺さんと高橋さんが帰り支度をして現れた。彼らは営業部に向かって、お先に失礼しまーす、と口々に挨拶して帰っていった。渡辺さんはこちらを見て会釈してくれたが、高橋さんは微妙に視線を外す。高橋さんが帰ってしまうことは少し残念だったが、彼女たちが送ってもらえることにほっとして、私も「お疲れ様でした」と挨拶を返した。
それから少し雑用をこなした。
山田さんはまだ制作室から出てこない。今日は遅くまで仕事をするのだろうか? 仕事をいろいろ頼んでいるので、先に帰るのは少し気が引ける。私は山田さんの様子を見に行った。山田さんはマウスをカチャカチャと動かし、キーボードをバチバチと叩いて仕事に集中していた。
「お疲れ様です」と私は声をかけた。
「ああ」山田さんは仕事の手をとめずに、画面を見ながら応えた。
「自分はもう帰っちゃいますけど、大丈夫ですか?」
「あ、そう。じゃあ、ちょっと」山田さんは言い、脇によけてあった校正紙を手にとった。「ここの意味がわからないんだけど」一点を指差し訊く。
「これはですね」私は説明した。
山田さんは今の説明を校正紙に書き加えて仕事を続けた。この仕事の納期はまだ先だが、山田さんはできるだけ進めておく気らしい。
「もう大丈夫ですか?」と、私は訊いた。
「ああ、ありがと」
「じゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ」山田さんは画面を見たまま応えてくれた。
つづく
11
朝会社に出ると私の机の上に、昨夜山田さんが残業して仕上げた広告のプリントアウトがどっさりとのっていた。そして山田さんは、制作室での朝礼が終わると営業部の私のところにやってきた。
私が、残業して仕上げてくれたことについてお礼を言うと、山田さんは仕事をどんどん回すようにと言った。
「別のチームに振り分けていた仕事も、できるだけこっちのチームでやるから。勝手に仕事が大変そうだからとか思って、遠慮しないでいいから」山田さんは、これまでは何ともいってこなかったのだが今は、私が勝手にバランスを考えて仕事を調節してしまうことに、強い苛立ちを覚えているようだった。
山田さんは有能で、もともと処理できる仕事量は多かったが、無理をするタイプではなかった。忙しければ遅くまで残業もするが、たいていは無理のない範囲で、外部に依頼するなどして仕事量を調整していた。
それが今は、全部自分でやってしまいそうな勢いだった。談話室で見かけることもなくなり、いつ制作室に行っても、彼はパソコンの画面を凝視し、キーボードを叩き、マウスをせわしなく動かしていた。そして適度にリーダーシップも強化しているようだった。増えた仕事を自分のところに溜め込まず、誰でもできそうな簡単な作業はチームのみんなに手伝ってもらっていた。「これ、やってもらえる?」とか、「この作業を手伝ってもらえる人いる?」など、山田さんはメンバーに活発に声をかけた。
チームで処理する仕事量が増えれば、チームの評価が上がるから、とみんなには言っているらしい。ほとんどは山田さんが引き受けているので、不平を言う人もいなかった。
チームに活気が増したようにも感じたが、息抜きのようなちょっとした雑談もなくなった。山田さんは話したり指示を出したりするときは愛想がよかったが、作業中は無言で怒っているように感じられることもあった。
チームのみんなは何も言わなかったが、私には彼が、頑張っているいい上司であるように自分を必死にアピールしているように見えた。私に対しても苛立った顔はしても、ぐっと怒りを押し殺して、むやみに怒鳴り散らすことはなくなった。
渡辺さんは私に話しかけてくるが、山田さんが忙しくしているせいか、彼のことが気になるようだった。これまでは私と話をしているときに、山田さんが通りかかっても特に気にした様子はなかった。それが、近頃は彼が通りかかると、気まずそうに私から離れていった。私自身も、渡辺さんと話をしているのを高橋さんに見られるのが、何となく申し訳なかったので、その点は渡辺さんと適度な距離を保てるので丁度良かった。
それでも渡辺さんは何かと私に声をかけてきた。そして私は渡辺さんと会話が長引かないよう気をつけた。山田さんは時に陽気に冗談を飛ばしたりしたが、鬱屈した怒りを抱えてだんだんと消耗していくようだった。
私は渡辺さんと山田さんがどういう状態にあるのかわからず、そして渡辺さんが私に話しかけてくる意図がわからず、少しずつ渡辺さんを避けるようになった。
つづく
ある日昼休みに、私が外の自販機に飲み物を買いにいくと、渡辺さんも外へ出てきて自販機のところへきた。
一階は印刷工場で、玄関の横にはシャッターを上げた大きな搬入口が開いている。その奥には輪転機が見えた。外には巨大なロール紙を三つ積んだ大型トラックが停まって、昼休みが終わるのを待っている。工場で働く人が雑誌を顔にのせて、木枠でできたパレットの上に寝転がっていた。
「コーヒーですか?」笑顔で渡辺さんが訊いてきた。
「いや、ドリンク剤」私は苦笑して、ボタンを押した。ガコンという音がして商品が受け取り口に出てきた。
「お疲れですね」と渡辺さんが微笑んだ。
「まだまだこれからですよ」私はハハハと、冗談めかして笑った。
社内に戻ろうとした私を、あの、と渡辺さんが呼び止めた。
「前…、佐藤さん、私に、困っていることがあれば力になりたいって言ってくださいましたよね」渡辺さんがまっすぐ見つめてくる。「今も、そう思ってくれていますか?」
私はドキリとして、恥ずかしさだけではない微かに気持ちが高揚する感覚をおぼえた。
「あ、うん、自分にできることがあれば力になるよ。同僚として仕事に関係があることなら…」私は目を逸らした。ドキドキと緊張していたが、返答は冷静な、はぐらかすようなものだった。
「でも前に言ってくださったときはそんな限定的なことではなくて、もっと別な意味もありましたよね」渡辺さんが真顔で言った。
私は渡辺さんを見て、また視線を逸らした。
「今は…、その役目は自分ではないと思っている」私は言った。
「山田さんのことを気にしてるんですか? 何か勘違いされてるようですけど、わたし、山田さんとは何もありませんよ」渡辺さんは私の表情をうかがっている。
私は渡辺さんを見た。「え、そうなの?」
「やっぱり、そう思っていたんですね」渡辺さんはやさしく微笑んだ。「だから他の人のことは気にしなくていいですよ」
渡辺さんは屈託のない笑顔で私を見ている。私は一瞬幸福感に包まれた。だが、私はすぐに、そんなはずはないと思いなおす。状況証拠にすぎないが、私は山田さんと渡辺さんが交際しているのを確信していた。それに今の山田さんの状態も、渡辺さんとの関係が原因ではないかと思っていた。いや思い過ごしか。本当に渡辺さんとのことは関係なく、山田さんはもっと別な家庭の事情でがんばっているのかもしれない。しかしそれまで、ずっと二人の間に感じてきたあの独特な雰囲気は、何もないの一言で払拭できることではなかった。
私はまた視線を逸らした。
「わかりません…」と言って、私は俯いた。「もう事務所にもどらなくちゃ」と私は言った。工場の敷地に入る門のところに、外に昼食を食べにいった人が何人かもどってくるのが見えた。
「じゃあ」私は渡辺さんの方は見ずにそう言って、フラフラと会社の玄関に入っていった。
渡辺さんは何を考えているのだろう? 私のことを好いてくれているのだろうか? だとしたら、こんなに嬉しいことはない。しかし、そうだとしたら山田さんに対して、高橋さんに対しても、悪い。
つづく
さまよう蝶