バウンディング・フェイト
イントロ
《因果律》
ある物事は必ず何かしら他の物事との関連性および連続性をはらんでいる、という考えに基づいた論証法のこと。
しかしながらそれは常に経験則のみに基づいて語られ、歴史上その正当性を証明した者はいない。さらに皮肉なことに、近年、近代物理学の根幹とも言える量子力学の世界において因果律が全く成立しない種々の事例が報告されている。
しかし我々人間は因果律という偏った《錯覚》を頑に信奉する。
それも本能的に。
まさにそれこそが人間を縛り付ける因果そのものである。
それがまさに、余命わずか3ヶ月となった私が求めるものだった。
― 指宿(いぶすき)の章 MOON ―
1
「これで終わりじゃないからな。覚悟しておけよ」
取り調べの警官の口から漏れるありきたりでクソッタレな台詞に腹を立てる元気も今のおれにはない。ここへ連れてこられた時は、付き添いの警官をブン殴りパトカーのドアを蹴り飛ばしすぐにでも逃げ出したいくらいだった。
しかし実際、今は警察署の前で呆然としていた。とりあえず解放された。まずはその安堵感を噛み締めた。目の奥が重くぼうっとしている、あまり物事を考えられない。
「おい、あまりここにいるなよ。釈放されたならすぐ帰りなさい」
守衛から声をかけられる。
「あ、はい、すいません……」
背を曲げ、消え入るような声しか出ない、が……
今だけだぞ、散々取り調べで消耗させやがって、第一、何時間拘束されたんだ。たかが満員電車でバカ女が悲鳴を上げたくらいで。思い出すだけでムカムカする。
しかも何の根拠でおれなんだ。みんなあのアホ女の言うことをあっさり信じやがって。周囲のクソ連中も乗せられて口々に勝手なことばかり言いやがった。
「やだ、毎日見る人だよ。痴漢だなんて」
「最低だな」
「明日から乗る車両変えなきゃ」
「キモッ」
「痴漢はバレないようにやらなきゃー」
「まったく、迷惑なことしてくれるよね」
「おい、否定してみろよ、この野郎」
「犯人の写メ撮って流そうぜ」
「ちょっと女の方タイプだった」
「いっつも怪しいと思ってたんだよね」
「捕まって良かったー」
「なんで痴漢って小太りの汗かきが多いかね」
「やっぱ人間顔に出るっていうか」
「トモくん勇気あるね、痴漢捕まえるなんて」
「あ、私もあいつにやられたことあるー」
「やっぱりサラリーマンってどこかストレスがあってさ」
「見たとこ30代?人生終わってるってカンジ」
お前ら何の確信があって優良な一般庶民のおれを卑下するような目で見てやがるんだ。おれが痴漢なんてチンケなことやるわけねぇだろ、この愚民どもが。
極めつけは鉄道事務所から警察に連れて行かれる際のあのメス豚の言葉だ。
「お巡りさん、そういや、あいつまだ捕まってないどこだったかの殺人犯にそっくりじゃない。ほら、ちょっと前まで手配書あったじゃない。ちゃんと調べた方が良いですよ」
なんだその事件は、なんだその手配書は、痴漢冤罪の上にさらに汚名をかぶせようっていうのか、お前のどこにそんな権利があるんだ。
茂みの方へ向かって怒りをあらわにする。すると業を煮やした守衛が警棒をチラつかせながら歩み寄ってきた。
「すぐ、すぐ、行きますので……」
門の方へ身体を向けるとバッグを開けて荷物を確認する。ひとつひとつ。
メンソールのタバコ、真っ黒のジッポライター、財布、定期入れ、マンガ、ゲーム機、メモ帳、名誉、プライド、自尊心、安定した日々、あのクソアマ、知ったかぶりの税金泥棒、どんなに訴えても他人事のクソ鉄道職員。
疲労で身体から漏れかかっていた恨みの欠片と汚濁を確認し、掬い、拾い上げていく。
一息つき、顔を上げて歩き始める。シャツ一枚は若干肌寒かったがそれが理由ではない。
怒りで、冬でもないのに震えた。
月は頭上で優しい弧を描いていたがおれはそれを賛美する気にはなれなかった。
*
家に着くと服を脱ぎ捨てすぐさまノートPCを開いた。とにかくぶつけずにはいられなかった。
テリトリーにしているチャットルーム、掲示板、SNS、ひとしきり書いたところで一度立ち上がり、冷蔵庫から取り出したビールの缶を開けた。
すると会社の同僚、杉浦からチャットが入った。
「お前大丈夫かー?今日休んだろ、もう会社で話題になってんぞ」
確かに思い起こすと今朝の一件は通勤中の出来事だったから、同じ車両に会社の人間が乗っていたとしてもおかしくない。そこから話が回ったということか。会社に風邪で休むと仮病を使ったのは無駄だったか。
「別に、完全な冤罪だよ。騒ぐ方がくだらん」
「そうは言うけどよ、処分どうなんの?」
「部長から留守電入ってた。とりあえず自宅待機」
「まじで?」
「休暇だと思ってのんびりするわ」
ビールをひと飲みする。つまみを買い忘れたことが惜しい。何か冷蔵庫にあっただろうか。
「あ、それうらやましいかも。笑」
「てかマジあのクソオンナむかつくわ」
「痴漢冤罪なんてリアルじゃなかったからなー」
「ぶっ殺してぇ」
殺していい権利があったら殺す。戦場だったら真っ先に殺す。
「一度痛い目見るべきだな」
「怒りが止まらねぇ」
「やっちゃえやっちゃえ」
「おれはどうせヨゴレだから今更不名誉もクソもねぇが」
「おま、キモヲタと犯罪者じゃ天と地ほども違うぞー。泣」
「会社辞めるかな」
そうは言ったものも世間は30代の転職に冷たい。当然冗談だ。
「そのまま有給消化に入ればよい」
「無論」
「ま、とりあえず元気で良かったぜ。ではまた」
立ち上がり2本目のビールを開ける。500ミリリットルにすれば良かった。
そう言えば昼は動転して考えることができなかったが、あの女、どこかで見たことがある。なんだったか。濃い化粧と全く交換が持てない真っ赤な口紅。明らかに若作りし過ぎなラメ入りのチーク。派手なミニスカートに盛り過ぎの頭が悪そうな茶髪。およそ普通の会社員とは思えない出で立ちだった。
一方、気付くと《痴漢冤罪》のスレッドの方にコメントが入っていた。
「大変な目に遭いましたね、同情します。ひょっとして今朝の京王線の上りですか?私も現場にいたかもしれません」
驚いて食いつく。
「コメントありがとうございます。おそらく間違いないと思います。現場で何か見ませんでしたか?証言していただけると助かります」
「すみません、私は現場からは遠くにしかも座席に座っていたので正直何も見ていません。何が起きていたのかも周りの方々が口々に話す内容から理解した程度で……申し訳ありませんがあまりお力にはなれないと思います。それにしても殺人事件の犯人だと疑うような発言まで……心中お察しします」
この役立たずが。酔いも助けて怒りのボルテージが上がっていく。ビールをかっ込む。本当に500にするべきだった。
「ただ、相手の女性ってあれ、芸能人の三ノ輪(みのわ)結女(ゆめ)でしたよね?最近見ないですけど。それは鉄道職員の方と歩いていくところが見えました。どうでしょう?以下にリンク貼ります」
三ノ輪結女、そうだ、確かに。何度かテレビで見たことがある、が、今はもう完全に全盛期を過ぎた三十路女のはず。リンクの先を見ると公式ブログで腹立たしいほどすました「私美人でしょ」とも言いたげな写真が貼付けられていた。
美人か美人じゃないか?そんなことは問題じゃないんだ。空気の読めなくなった女は怖い。間違いない、このクソアマだ。
「間違いないと思います。情報ありがとうございました」
すぐにそのスレッドはおれたちのやりとりを見ていた《冤罪撲滅派》のいいコちゃんたちの溜まり場になった。
あーだこーだ、そりゃ援護射撃は心地良いがそんなぬるいものに溺れる気はおれには無い。おれは放置して席を立ち3本目のビールを開けた。
タバコをくわえるとお気に入りの黒で塗られたジッポライターをポケットから取り出しタバコに火をつける。マットな手触りが気に入って衝動買いした代物だ。
「灰皿、灰皿……」
メモ書きやらコンビニの袋やらが散らかった机の上をかき回すと、茶封筒の下に煤けた銀色の物体が見えた。茶封筒を手に取りタバコをあるべき所定の位置へと落ち着ける。
「この封筒なんだったけか」
手でひらひらと裏表すると、切手の貼られていないその封筒の表には「206号室 指宿環 様」と書いてあった。指宿(いぶすき)環(わたる)、おれの名前だ。大家からの手紙のようだ。家賃は引き落としだし自治会費は一年分を払ったばかり。どのみちたいした用事ではないだろう。
そう思い、手で適当に封筒の端を千切ると、中の紙がかなり破れてしまって一瞬焦った。しかし中身を確認すると問題は無さそうだった。
《ご連絡とお願い》
ここ最近、当アパートの住人の方とご近所の方との間でトラブルが発生するケースが増えています。
不審な人物を見かけたり、知り合いではない人から声をかけられたり、何か周辺住人の方から迷惑行為を受けた場合は、決してご自分で解決しようとなさらず、すみやかに大家までご相談下さい。
連絡先は03―××××―××××
ふーん、と紙を発掘現場へと戻す。だいぶ濁して書いているが、何のことを指しているのかはわかっていた。最近近所を徘徊しているじいさんのことだ。確か山崎と言った。
最初に山崎のじいさんの話を聞いたのは、確かうちの1階に住んでる女子大生をストーキングしてたんだとか。それで一度警察に捕まったがかなり痴呆が進んでいて、孫と勘違いしたんだとかなんだとか。その後もじいさんの徘徊は止まらず、登下校中の小学生にからんだり、通勤中の会社員に後ろから抱きついたりした。アパートの駐車場で寝ていたこともあった。
おれは面倒なので極力直接の関係を持たないようにしてきたが、隣の部屋の面倒見のいい好青年が、ボケじいさんの肩を抱いて1ブロック向こうの家まで送っていくのを何度か見たことがある。しかしじきにその好青年もその好意にも陰りが見えていった。なんでもじいさんが頭の割には身体がしっかりしていて、簡単に言うと、手が出るらしい。思いやりを拳骨で返された日には、好青年の笑顔もそりゃ苦笑いに変わるだろう。
そんなこんなで今や山崎のじいさんは近所の有名人にして大迷惑人物になっていた。それにしても家族は何を考えているんだ。あんな状態の老人を放置しているなんて……
まぁ、ボケジジイの素性などまったく知ったことではない。大家の手紙にあるとおり、君子危うきに近寄らずだ。
そのときPCの画面を見て「お、来た来た」と思わずニヤリとしてしまった。おれ主催のコアなチャットルームで常連のクソッタレどもがおれの書き込みに食いついてきている。当然ネタは三ノ輪結女をいかにして《処刑》するか、だ。
「そのメス、マジで死ぬべき」
「どーぜドブスでしょ」
「ブスなら死ねばいい」
「ブスじゃない方が殺し甲斐がある」
「男をバカにしてる雌は全て処刑だ」
相変わらずの野蛮人どもが。先ほど得た情報を付け足す。
「最新情報。処刑対象のメスはなんと芸能人の三ノ輪結女だった。確認済」
すぐに亡者どもがヒートアップする。
「うわー、落ち目のババアが痴漢でっちあげ」
「ググらないと誰だかわからんかった」
「女を利用したストレス解消か」
「火ぃつけるぞ、火」
「三ノ輪は某俳優と不倫お泊まり」
「性器だけでできてる雌ですから」
「とりあえずリンク先のブログ炎上させてくる」
「じゃそっち集合で」
「ブログじゃねぇよ、家燃やそう、家」
「コラ作ってみた。タイトルは《三ノ輪、アソコが炎上》」
リンク上のファイルを開くと、どこかのヌードモデルのM字開脚ポーズに、顔は三ノ輪の写真、アソコは《炎上画像》を貼付けたものが表示される。やっぱりここの住人はクールなクソ野郎どもだ。
「マジ最高」
「こんなアソコいらない」
「ネットから制裁を与えよう」
「マジ、殺せるしな」
「このチャットルームのチカラを使えば余裕だ」
「実績あり」
「女子高生は可哀想だったがな」
「ジョシコーセーだからって萌えるとは限らんぞ」
「いや、おれは100%萌える」
「この鬼畜が。笑」
「ただいまー。とりあえず炎上ではなくホーム画面の画像を《アソコ炎上》に貼り替えてきたぞ。やっほい」
「マジ天才」
「いつもながら神」
「そのハッキングの腕を世界平和のために使って欲しいカモ」
「キミがいると作り甲斐がある」
「一回ルーター落とすので。クソ野郎どもサヨウナラ」
机の下のルーターを電源タップから抜いてタバコに火を付ける。ブチまけるだけブチまけたら少し頭がスッキリして来た。
ケータイで別のスレッドに書き込んだ《例の殺人事件》の方をチェックする。考えてみたら事件の全貌をあまり良く知らないのだ。
すると、世の中親切なヒマ人がいるもので、こんな書き込みがあった。
「話に上がっている少女殺害の犯人は別にいます。ほぼわかっているのですが捕まっていないのです。リンクはこちら」
たどって行くとそこは個人のページで、つらつらと端から端まで述べてあったのでおれは斜め読みをする。情報をかいつまむとつまるところこうだった。
《神御黒(かみぐろ)小学校少女殺害事件》
ちょうど3年前の今頃、当時小学生の少女が校舎地下の備蓄倉庫で餓死していた事件。(おれも覚えている)
事件発生当初は事故の見方が強かったが、しばらくして死体に首を絞めたような痕跡が見つかり事件化。しかし少女の死体がほぼ白骨化していたこともあり、有力な情報を掴むことができなかった。
唯一付近に髪の毛が残されていたのは当時アリバイも無く第一容疑者だったある男Y。しかしYは証拠不十分で起訴には至らなかった。Yは事件の数年前に廃校になった神御黒小の関係者で校舎に出入りするだけの理由が十分にあったためだと言われているが、Yが容疑者として取り調べられた際には痴呆が相当進んでいて責任能力に欠け、その点においても警察が実刑にこぎ着けるのが困難だと判断したという話もある。なおこれらの情報は一般には非公開である。(お前はなんで知ってるんだよ)
また周辺での目撃情報から第二の容疑者が上がるも、似顔絵が公開されたのみで結局は的外れだったのではとの見方が強い。(これのせいで……)
なお少女が閉じ込められた部屋には避難用の備蓄が未処理のまま随分と残されていて、もし少女がそれを知っていたら、どうにか生き抜いて捜索を待つことも不可能ではなかったと言われている。
残念な悲劇ってとこか。つくづくおれには関係の無い話だ。
2
翌日、結局2週間の出社禁止と処分保留を言い渡されたおれは大人しく家に引きこもることにした。やることなんていくらでもある。
ブログの更新、趣味でやっているプログラミングとバグ取り、サーバーの管理、サイトチェックとそれぞれの住人との交流、違法ダウンロード、オンラインゲーム、チャット、動画視聴……
やはり、やることなんていくらでもあった。
夜になってふと一息つくと家にある非常食のストックが少なくなっていることに気付き、コンビニへ行くことにした。家から一番近いコンビニは大通りに面しているのだが、不思議と気がとがめて裏道に入った普段は寄らないコンビニへと歩いた。別に後ろめたいことがあるわけではないが、誰にも会いたくないという気持ちが強かった。
裏通りのコンビニはすでに時刻が20時を越えていたこともあり、人通りはまばらで、通り過ぎるサラリーマンが2人、それに中学生くらいの3人の男子たちがコンビニの向かいのの駐車場でタムロしているだけだった。店内に入るとレジには若い小柄な男性がひとり、レジの金を数えていた。立ち読みの客もいない。本当に暇なコンビニだ。
おれはそれこそむしろ好都合とまずは雑誌コーナーへと向かう。平積みにされた少年誌を広げ、毎週読んでいる2、3の漫画を読み終えると、次は青年誌のコーナーへ行き今度は全誌の表紙グラビアをサラッとチェックする。お目当ては見つからずおれは嘆息を漏らす。
最近飛ぶ鳥を落とす勢いで売れてきている注目株のアイドルグループがある。アイドルでありながらトークが面白く、単なるお飾りのアイドルグループではないところがおれ好みだ。《GALETTA(ガレッタ)》は、元は別々で活動していた仲川みなみ、柏木夏希、小嶋晴香の3人がある特番イベントをきっかけに一時的なユニットを結成し、それが好評だったこともあり正式なアイドルグループでの活動を始めたものだ。
おれはそれまでアイドルのような男に媚びた人種は吐き気がするほど嫌いだったのだが、会社の同僚、杉浦に勧められてテレビを見てみたら一気にハマった。彼女たちはアイドルらしく可愛く活き活きしているだけでなく、知的でそしてどこか親近感を覚える凡庸さも兼ね揃えていた。そこらへんにいる可愛い子のワンランク上、というのがおれ自身の評価だ。人形のような顔の整った美人が好きならば整形美女でも探せばいい。スタイルを重視するならば、欧米人のアイドルのレベルの高さったらないだろう。
しかし一般に男性が求めているものはそれではない。遠い偶像を追いかけることで充実を感じる輩もいるが、おれから言わせると信じられない。性格もわからない飛び切りの美女や8頭身モデルでありえない妄想を繰り広げるよりも、少し手を伸ばせば届きそうな気持ちを呼び起こしてくれる彼女たちを見ている方が何倍も力が湧いてくるのだ。
ガラスの向こう側では先ほどまで談笑していた中学生たちがどこかに消えていた。視界には誰もいない。裏通りとは落ち着いて良いものだ。おれは入り口側から丁寧にひとつひとつ雑誌の中身を確認していく。
GALETTAの3人は一番歳下が仲川みなみで14歳、柏木(かしわぎ)夏希と小嶋(こじま)晴香(はるか)の2人が16歳という構成だ。今年はすでに4回彼女たちのイベントに行っているが、いかにも売り出し中で頑張っている姿が印象的で、特に仲川みなみのトークが好きだ。彼女は静岡県出身で、デビュー当初はわざわざ新幹線で通って芸能活動をしていたが、その移動の際にも常に気さくに新幹線内での周囲の人との会話やファンサービスを惜しまなかった。実のところおれもわざと彼女の乗る新幹線に乗り合わせ、サインと握手をしてもらいに声をかけたことがある。どうせ「サイン、握手、さようなら」だと思っていたら、むしろこちらが気後れするくらい普通に会話をしてくれた。全く飾ったところが無く、その時に一生彼女を応援してあげたいと思った。そのくらい衝撃的に彼女のことが好きになった。
雑誌棚をひと通り舐め回して、残念ながら彼女たちのグラビアや特集がどの雑誌にも無いことを確認した。彼女たちは徐々にコアなファン層を増やしているとはいえ、まだまだデビュー1年だ。世の中をGALETTA一色に染めるところまではいかないものだ。
そうするともはやコンビニには用は無い。いつものカップラーメンとスナック菓子と炭酸飲料のペットボトルを、今日は少し多めに買って帰るだけだ。レジの小柄な男性は近づいてみると意外と若く学生バイトかと思われた。おれは籠をレジカウンターに乗せると無愛想に1万円札を置いた。彼も無愛想にバーコードを読み取り1万円札を取った。釣り銭を受け取り袋の中を覗くと割り箸がカップラーメンの数だけ入っていた。まったく、エコの精神に欠けたヤツめ。やはりコンビニは経済活動の意味では有能だが環境的ダメージについては釈明のしようも無いほどマイナスな存在だ。こんな数の割り箸は不要だなんて少し考えればわかることなのに考えることを放棄している辺りがいかにも怠惰で腹が立つのだが、何かを話すのも面倒でそのまま袋を左手にぶら下げコンビニを後にする。
「ありあとあしたー」
出口のガラス戸に写る自分のシルエットはまた若干ボリュームが増えているように見えた。「ゆったりめの服を着ているからだろう」と嘘だとわかりきった言い訳で脳内を慰める。
軽く息を吐きながら右手でドアを開けると、その持ち手の向こう側の公衆電話の脇に小学生か中学生くらいの少女がいた。毛糸のセーターの上にいかにも目立つ白いノースリーブのダウンが気候よりも厚着に思えて思わず凝視してしまった。ショートボブの横髪が顔にかかっていて表情は伺えないが、何かを待っているか、考え事でもしているかのようだった。もう23時近いのにこんなところをうろついてるということは、不良で家族から見放されているか親が夜の仕事か、それか男か。
いずれにせよおれには関係ない。
それより家に帰ったら仲川みなみのブログを読もう、と考えながら歩き出すと後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。
「指宿くんじゃありませんか」
わざわざ離れた裏通りのコンビニに来たおれの苦労は、その一撃でかき消された。おれの今の格好ときたら、下は高校のジャージで上はパジャマのスウェットだ。近所のジジババにあった方が遥かにマシだった。よりによって取引先の人間に会うなんて最悪だ。
とはいえサラリーマンたるものここで対応に問題があってはいけない。かったるいがきちんとしなくては。気持ち背筋を伸ばしながらおれよりも20センチ近く上方向に目線をあわせて話しかける。
「あー、朽津木(くちつき)先生。こんばんわ。妙なところでお会いしますねー」
仕事の帰りらしきスーツ姿にビジネスバッグ。190を越えるスラッと伸びた長身に整った顔立ちはいかにもやり手ビジネスマン、という感じだが、こう見えて彼、朽津木周一(しゅういち)は大学の研究所勤めの教授様だ。こういうあらゆるものに恵まれながら、研究などという価値がよくわからないものに熱を上げている。しゃべりも決して社交的ではなく、饒舌なようで教授特有のよくわからない話ばかり。あんなので好感が高まるとは思えない。
このひと割と不器用なタイプなのか?と一時は軽い親近感を抱いたものだったが、あるとき「朽津木教授が元モデルと交際している」という噂を聞いて、世の中はやはり顔かとショックを受けた記憶がある。
実際、朽津木教授は研究者の世界ではかなり有名らしく、他の営業先でもよく話題に出るほどだ。「世界初の」とか「業界最大級の」とか大仰な枕詞が並んでいたが、話のちょっとした触りの部分ですらおれの理解能力をあっさり越えていていずれも「はぁ……はぁ……」と聞き流した。
しかし国内外での実績と名声に加え、黙っていれば相当な美男、とくればモテない理由は特にない。何だったっけか、朽津木教授が米国で教鞭を取っていた時に付けられた異名があったはずだ。思い出せないが何か《悟りきった者》みたいな意味だった。それは教授の専門範囲が、専門なんていう言葉が陳腐になるほど多岐に渡り、各業界でその手の第一人者を打ちのめし続けた故の異名だったはずだ。なんにせよ、朽津木教授はおれが親近感など感じて良い存在ではないのだ。はなから。考えが甘かった。
何はともあれおれは朽津木教授があまり得意ではない。なんとか精一杯の愛想笑いを浮かべるが、心の中では全力で「とっとと切り上げて帰ろうぜ!」と訴えていた。顔から出ていたらどうしよう。
「指宿くんはこの近所に住んでいるのですか。私の家は1駅先なのですが、たまたま今日は歩きたい気分だったもので」
「いやぁ、それは偶然ですね……」
そんなのに引っかかるとはツイてない。運動したけりゃ家帰ってからジョギングでもウォーキングでもやれよ。
「少し今は涼しいので空気を肌で感じることができるようになってきていますね。汗腺の開きと躁鬱とに関係性があるという論文を以前目にしましたがなるほど感覚的に同意できるものですよね」
「はぁ……」
「そうだ。すみません、仕事の話で大変恐縮ですが、先日、指宿くんが送ってくださったパンフレットを拝読しましたが、もう少し入力感度の良いものが必要でした。できればあのパンフレット以外にもっとラインナップの全体像がわかるものを用意していただけると助かります」
「あ、えーと、あれ以外の機種はあるにはあるんですけど、パンフとしては……」
「無いのですか?それはよくありませんね。私はもとより、顧客のニーズは他にもあると思いますし、何より他社はラインナップ全体の詳細比較が可能なドキュメントの用意があるところが多いかと思います。顧客満足の視点からも競合他社がやっている内容はカバーすべきかと思いますね」
朽津木教授は取引相手の中でも正直苦手な部類に入る。この人の語り口はよくわからないしマイペースで、なんとも掴み難いのだ。しかも毎度ツッコミどころが適格で右往左往させられる。
おれが自社商品を売り込みに行っているのだからその分野での《プロフェッショナル》は一応おれだというのに、彼はほとんどの場合でこちらが全く知らないような専門的なことまで調べた上で会話をしてくる。いかにも「勉強が得意です」という感じで大学教授としては模範的なのだが、商売相手としては極めて営業がしにくいと言わざるを得ない。
しかし極めてアンバランスで理解し難いことにどうやら彼はおれを気に入っているフシがある。理由はよくわからないが。毎年なんやかんやいって2、3台の大規模な測定機器を買ってくれるし、現行納入品の載せ換え提案に応じてくれることも多い。まぁ、はぁはぁ言って彼の話を聞いていれば営業成績に反映してくれるんだから、そう考えれば安いものだ。
「指宿くん、聞きましたよ。担当外れたらしいですね」
「え?」
「先日若い営業の方から電話がかかってきましたよ。これから担当が変わるので、まずは挨拶しに来たいとのことでした」
あっけに取られてキョトンとした。課長から聞いていたのは「処分保留」とだけだ。おいおい《保留》という意味を理解しているのか、あのハゲ。いや、違うな、きっと《あいつ》が言葉巧みに課長を丸め込んだに違いない。
「いや……聞いてないです……新しい担当、誰でした?」
おれは半ば確信しながら一応確認する。
「浅田拓也さんと名乗られました」
やはり浅田か、やられた。朽津木研究室は学内でも規模が大きく予算もあるようで、誰からどう見ても明らかにお得意様だ。決して突出した営業能力を持っているわけではないおれが、ここ数年安定した結果を出せているのは朽津木教授のお陰だと言っても過言ではない。
常日頃に皆に羨まれてるだろうと思ってはいたが、今回の事件にかこつけてこんな形で狙われるとは……
浅田は3つ下の後輩で、営業成績が飛び抜けて優秀なことだけではなく、その貪欲さと狡猾さにおいて周囲を大いにドン引きさせていた。うちの会社は全世界で手広く産業用の測定器や部品を売っているメーカーで、営業拠点は世界各地にあった。そうすると自然と《海外駐在》というものがステータスであるだけでなく出世の最短ルートである。他社の営業の人間と飲んだ時も同じようなことを言っていた。「行きたかないんだけどキャリアアップのためには仕方ない」とかなんとか。
しかしアグレッシブなやつにとっては非常にわかり易いターゲットなわけで、浅田はそれを狙って目下猛アピール中なのだ。
おれは自分の身の丈を知っているつもりだし、そもそも出世なんて相当の位置まで上り詰めない限り意味が無い。どうせ自分よりちょっと偉い人の愚痴と自分よりちょっと下の面倒な部下との板挟みで延々苦しみ続けるだけなのだ。おれはサラリーマンになってから重々と理解した。というか実況生中継で見せつけられ続けている。誰でもわかるさ、そのくらい。
さらに言えば海外駐在と言えば英語が必須だ。大概の日本企業の海外拠点では公用語が英語で、当然取引先とのやり取りも英語だ。もう想像するだけで頭が痛くなる。
おれは、日々上司の文句をほどほどに受け流しながらそこそこの仕事をして、メシの食いっぱくれさえなければそれで十分なのだ。
世の中のほとんどの人間の仕事に対するスタンスなんてそんなものだ。しかし浅田はそれを世迷い言として信じていない。
どうやら浅田の脳ミソの中の世界を分析すると、皆が浅田並、いや、むしろそれ以上にアグレッシブに日々骨肉の競いを繰り広げ、皆お互いの寝首をかくつもりで日々虎視眈々とチャンスを待っていると思っているのだ。救いがたいバカだ。しかしそのバカな想いが浅田のアイデンティティを支えている。
《そんな厳しい世界でがんばってるおれってスゴい》という病だ。
社会人になると2年目から3年目の頃に多くの人間がかかる典型的な社会人病だが、一般に一過性で何も処方せずとも自然治癒するものだ。不幸なことに浅田はそれがたまたま長引いているだけなのだ。
おれは今までそのことを哀れみ目でもって見ていた。「浅田……早く真人間になれよ」って。それが……こんな形で自分の立場を脅かしにかかるとは想像もしていなかった。
「多分……一時的なものかと。私がここ2週間ほど出社できないもので……」
「それは浅田さんから伺いました」
朽津木教授がおれと目線をじーっと合わせたまま不自然に固まる。彼と会話しているとたまにあるのだが勘弁して欲しい。これって大抵が何か考え事をしているときなのだが周囲から見たら明らかに変な空間だ。いい歳した男性2人が向かい合い、片方はまるで処理の遅い旧型ロボットのようだ。最初は「怒ってる?おれ何かやっちゃった?」と戸惑ったものだが……まぁもう慣れた。
「浅田から何か、聞きました?」
「……伺いました」
「やつが何を言ったかわかりませんが、事実無根ですよ」
自然と語気が強くなってしまった。浅田め、おれをどこまでおとしめるつもりだ。
「私もそう思っています。そのことは、ここで指宿くんに対して私から自発的に声をかけた、ということで証明されていませんでしょうか?」
「そのとおりですね……ありがとうございます」
おれは軽く会釈した。教授様に信頼いただけるとやはりそれなりに嬉しいものだ。
「まぁ私のことを良く知っている人間は皆そう言ってくれているので、幾分気は楽なのですが」
「しかし会社でそう捉えられていないようでは問題ですね」
なるほど墓穴だった。上司の理解は得られていない、ってことだもんな。相変わらず朽津木教授の指摘は鋭い。おれは苦い表情を浮かべる。
それにしてもあのクソ上司め、浅田なんかにたぶらかされやがって。しかし「明日の早朝に上司に電話して文句のひとつでも言ってやる!」というのは今の引きこもりモードのおれには無理だ。
「はぁ……」
とりあえず深いため息をついてみる。今日何度目だろうか。
「私は以前から、こと会社という共同体は、この手の話題に対して過剰に反応を示し過ぎる傾向があるように感じていましたが、このように近い距離でその問題を突きつけられると少し思うものがあります」
「なんとか、朽津木先生からお願いできませんでしょうか……」
去年の売り上げデータなどという覚えていても脳ミソの無駄なものはとっくの昔に記憶の彼方に追いやってしまったが、感覚的には、朽津木教授の分が無くなるだけでおれの売り上げはほぼ半減する。それは絶対阻止しなければならない。おれの今後の人生が《楽をしながらボチボチ》でいけるかどうかは決して大げさではなく朽津木教授の双肩にのしかかっているのだ。
懇願の視線を送ると、彼はいつもの「計算中。しばしお待ちください」だ。あれ、考えてみたらこの人の情にうったえかけて上手くいったためしが無いぞ。
「……指宿くんのお願いは、《不名誉を取り払う》と《朽津木研究室の担当を保持する》のどちらか、もしくは両方かと察しますが、前者は言うまでもなく私には無理です。現場にいたわけではありませんし、例え現場にいたとしても痴漢冤罪というものは証明が難しいものです。そうすると後者についてですが、御社の決定事項に対して私が口を挟むというのは私にとってそれなりの事情というものが必要になります。私にはお付き合いをするメーカーを選ぶ自由がありますが、御社の人事に口出しをする権利はありません。気に入らなければメーカーを変えるのが筋と言えるでしょう。その状況であえて私が指宿くんを固辞する理由があるとしたら、そこは私と指宿くんに関する特殊な事情があり、それの固辞に対して私とっても何かしらのメリットがあると言うことです。それはつまり」
「いや、すみません。やっぱり朽津木先生にお願いすることではありませんね。自分で……どうにかします」
まったく、いつもながら頭が固い。スペックとデータと《イエスorノー》の分岐でしか物事を処理できないやつに何を言っても無駄だ。というか、普通に他意無く「うまくいくかわかりませんが言ってみます」とか適当なことを言っておけば良いのに。それが例え本当ではなかったとしてもいくらかおれの慰みになるし、この場は間違いなくうまく収まる。
そもそもおれと朽津木教授の《関係性》なんかを必死に掘り下げたところで、そんなの単なる取引先の相手というラインから1ミリたりとも前にも後ろにもズレがあるわけがないではないか。
グッと疲れた。もう帰りたい。早く仲川みなみの笑顔が見たい。
「わかりました。私もそれが好ましいと思います。それではそろそろ失礼させていただきます。長話に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、また、よろしくお願いします」
一応「また」を付けた。もう二度と会うことは無いかもしれないが。
朽津木教授が向こうの角に見えなくなるまで頭を下げ続ける。営業の悲しい習性だ。頭を上げるとそのまま「ふぅ」と深いため息が漏れた。気付けば白いノースリーブのダウンを着た少女はいなくなっていた。
*
アパートの階段を上がった2階の一番奥の角がおれの部屋だ。ドアを開け、靴が散乱した玄関を抜ける。片足のスニーカーがすんなり抜けずにひっくり返って他の靴の上に乗ったが気にしない。朽津木教授との立ち話で消耗したおれは全ての些事がどうでも良くなっていた。ああ、脳内を癒したい。
リビング兼ベッドルームでテレビをつけると画面内は華やいだ男女で溢れていた。何かの特番のようで新番組の宣伝とクイズを兼ねたよくある形式だ。もうそんな時期だったか。
狭いキッチンでカップラーメンにお湯を注ぎながら画面上を注意深く走査する。いた。GALETTAの3人だ。先々クール、先クールと連続で非常に評判が良かった彼女たちの冠番組が、とうとう今度ゴールデンに進出するのだ。この手のスペシャル番組への出演は当然と言えるだろう。
おれは彼女たちの番組は当然第一回の放送から全て生で観ている。そしてこれもまた当然ながら録画し、何度も何度も見返している。本当に彼女たちのトークは爽快だ。毎回有名ゲストを招きながら視聴者の疑問や質問に答えていく番組なのだが、彼女たちの、特に仲川みなみは一言一言に常にキレと愛嬌があり、持ち前の愛らしいルックスとあいまって今年1年で彼女の人気はうなぎ登りだ。
「それでは、残念ながらGALETTAのお三方は次の収録があるので、ここまで、ということでー」
3人がカメラに対して行儀良く会釈しながら去っていく、売れてきているのに大物ぶらない、こういう殊勝なところも好感だ。おれはハードディスクプレイヤーの録画ランプを確認し、停止ボタンを押す。
少し伸びてしまったカップラーメンを手にテレビのチャンネルを回すが面白い番組は無さそうだ。そもそもおれは録画しておいて後で都合の良いときに見て楽しむ《タイムシフト派》なので、テレビを目的もなくつけていることは普段からほとんどないと言っていい。おれからすると、テレビにどっぷり浸かりきってしまう輩の気が知れない。世の中にはもっとハラワタが煮え返るほど面白く、腸がよじれるほどくだらないことが腐るほどあるというのに。そう考えながらルーターの電源を入れ、ノートPCを開いた。
三ノ輪結女のホームページはすっかり炎上し収拾がつかなくなっていた。おれが直接手を下したのはわずかな部分だったのだが、やつらはすぐに調子に乗る。完全に遊び感覚だ。ひとつのきっかけや《しかるべきターゲット》があればそこへ向けて堰を切ったように漏れ出してくるうっぷん、不満、暴力性。ターゲットはなんでも構わなくて、要するにやつらはネットというツールを使って暴れたいだけなのだ。まぁそれにしてもホームページ炎上くらいなら他愛のないものだ。このくらいで済んで良かったじゃないか、三ノ輪結女。
ふとさっき話題に出ていた女子高生のことが頭をよぎった。あまり良い思い出ではないが、おれがこのチャットルームを仕切るきっかけになった出来事でもある。
いや、そんなことを思い出すのはやめよう。ただでさえ今は謹慎食らうわ、その隙に朽津木教授の仕事を失うわでヘコんでいるのだ。誰が好き好んでこの状況に追い打ちをかけるものか。
今のおれの姿は、ひとり三十路も越えた独身男がPCに向かいながらカップラーメンをむさぼっている、というものだ。しかしおれにむなしさはない。それを堂々と言うことではないということ、社会的には存分にみすぼらしい行為であるということは自覚している。しかしおれは人生をそこまで合理的にこなすつもりもないし、悪いこと良いことの境界を明確にすることも好まない。おれは今、上は安物スウェット、下はジャージでカップラーメンを食っているしょぼいサラリーマンだが、何が良くて何が悪いかなんてそれぞれの価値観次第であって、それが人からどう見られていようとどう言われようとそれは《おれ》を直接揺るがす問題にはならない。
他人がおれをどう扱おうと良い、なのでおれが他人をどう扱おうと良い。その際にそれぞれが感じる不満や不合理は当たり前のことで、それを発露しようとしまいとそれもまたそれぞれの勝手だ。発露しなければそれで終わりだが、発露することで生み出される衝突の積み重ねが社会であり、つまりその衝突はごく当たり前の生産性に満ちた行為なのだ。ポジティブに迎えるべきだ。社会として。
だからおれが何をどうしようと構わない。それがハッキングを正当化するだけの理由だ。とまで詭弁をたれるつもりはないが、少なくともおれの中では自己解決していた。「事実を白日のもとにさらしているだけのこの高貴な行為が何故批判されなければならないんだ」とか明らかに屁理屈にしか聞こえない腐ったジャーナリズムを掲げる気もない。「今の時代インターネットリテラシーの向上は重要な社会的課題であって、私は自らその警鐘を」とか小難しいことを言う気もない。
ただおれの主張は「むかついたら仕返ししたって別にいいじゃん」だわ。シンプル。
それにより溢れる、怒り、悲しみ、壮快、焦燥、それら全てが社会の底辺を支える構成要素だ。そこに一役買っているに過ぎない。むしろ人間として健全過ぎるほど健全な行為なのだ。
今日のチャットルームのログを見直しながらそんなことを考えていると、ふと苦笑が漏れた。以前はおれももっと卑屈な人間だった。何も行動に移すことができず、一人で抱え込んでは苦しんでいた。「王様の耳はロバの耳」だなんて穴の中に叫んだってスッキリするわけがなく、溜まったものはきちんと人に向けて出さなければならないのだ。「王様の耳はロバの耳なんですよ、スゴくないっスか?」って。それを教えてくれたのがこのチャットルームであり、前任の管理者、アカウント名だった。
彼は特に人の心の深い位置にある内言を引き出すことが巧みで、引っ込みがちな人間を好んでチャットルームに受け入れた。そして《クチだけ》の人間を嫌っていた。そのため、このチャットルームに集まる人間は何かしら自分のスキルを活かして《行動》ができる輩ばかりになった。あるものは趣味を活かして動画や画像の作成、またあるものはホームページの作成、そしてまたあるものは社会的立場を活かした情報収集(おれはこいつのことをきっと警官だとみているんだが、本当のところはわからない)、そしておれは前々職で身につけたITセキュリティの専門知識を活かしたハッキングだ。
kuitは「何かしらの形で構わないから関わりなさい」と言った。そして、その貢献度の多寡を取り上げて誰かを贔屓するようなことはまったくなかった。彼は素晴らしい管理者で素晴らしいリーダーだった。おれは彼に感謝の気持ちを持っていて、そのため彼がいなくなった後の後任も喜んで引き受けた。
ふとその時、携帯の着信音が鳴った。画面には「杉浦良一(りょういち)」と表示されている。
「もしもし」
「おう、元気かー。ひきこもり」
杉浦は部署の同僚でおれと同じ中途採用組だが、社会人歴の上でも同期にあたる。年齢が近い人間が部署にはほとんどいないという状況と杉浦の人懐っこい性格が相まって必然的に付き合いが生まれて、以降何かとつるんでいるが、とはいえ依然なかなか掴めないやつだ。元々は全く別の業種の営業をやっていたとかであいつは随分と《濃い》営業スタイルに染まっている。「計測器メーカーの接待って地味だね。いいの?こんなんで」あいつが以前そんなことを言っていたのを覚えている。
「ひきこもりってのは身体も心も不健康と相場が決まってるだろ」
「はは、違いねぇ。それでさ、電話したのは他でもない」
杉浦がおれの人生に大きな貢献をしているとしたら、それは間違いなくGALETTAだ。やつに勧められるまでアイドルってものに全く興味が無かったおれは少なからずともやつに感謝しなければならいと素直に思う。
当然杉浦自身が強烈なGALETTAファンだということは言うまでもない。やつは特に小嶋晴香がドストライクらしい。彼女はどちらかというとGALETTAのメンバーの中では一番アイドルっぽいルックスで、小柄でパッチリした目に髪は巻き髪、声は若干アニメ声だ。とはいえGALETTAメンバーたるもの皆ひとくせがある。彼女は中学時代、なんと少林寺拳法の全国覇者だったらしい。したがって身体の鍛え方も半端ではなく、握力は50キロ以上、ベンチプレスは80キロ持ち上げるというから驚きだ。番組のトークなどでは、得意の体育会的発言で軟弱な男どもを容赦なく切って捨てる姿が見ていて爽快だ。柔らかいルックスに似合わぬ活動的な一面、そのアンバランスな魅力が杉浦の心を捉えて離さないらしい。
「今週末金曜日に、GALETTAが」
「ラジオ公開生放送、だろ?」
杉浦がいかにも「悔しい」という感じのうめき声を上げる。
「なんだよー、知ってたのかよ。さすがひきこもり、恐るべし」
杉浦から電話があった時点で予想していた話題だったが、お互いの情報入手ルートや時期の確認、それにイベントで流しそうな曲や当日のスケジュールへの洞察などを交えて2人でワイワイ話しているだけで、鬱陶しい残り3日をすっ飛ばしてもうすでにその日がやってきたかのような高揚感を得られた。
「観に行く?」
「そりゃ行くでしょ!」
「おれはひきこもりだからいいけど、杉浦は金曜も仕事だろ?」
「だからお前は場所取りだ。最前列確保がミッションだぞ、オンエアのタイミングには必ず行く!」
杉浦はバランスの良い人間だと以前から思っていた。営業成績はトップではないが常にその近辺をフラフラ。ストレスもあまり無い様子で愚痴ることも無く、たまには仕事をサボり趣味も楽しむ。人付き合いもおれのような内向的なタイプに声をかけるかと思えばノリの軽いアカ抜けた集団ともうまくやっていて、さらに特筆すべきことに、やつは部署内外のめぼしい女性とは必ず友達になっていて、オフィスの廊下や休憩室でよくお茶飲みがてらに仲良く立ち話をしている姿を見かける。
ちなみにおれはというとアカ抜けた集団とはうまくやれず部署内の女性ですら恐らくおれの名前など知らないはずだ。あ、事務所をしてる女性は別だが。
そんなおれのような人間だけならばまだしも、バランス良くいろいろなものを楽しめる杉浦のような人間の心も掴んで離さないのだから、そういう意味でもGALETTAはたいしたものだ。
杉浦と金曜日のイベントに向けての入念な対策を練り、それぞれがやるべきことと事前にチェックが必要な項目を確認し合った後、くだらない雑談を2、3した。切りが良いところで電話を切ろうとすると杉浦が思い出したように切り出す。
「あ、そうだそうだ、浅田の件は聞いたぜ。あいつ、どうかしてるよなぁ」
「ああ、おれは気にしてないよ。どのみち誰かに任せなきゃ業務が滞るわけだし」
「親切のお手伝いだってか?お前なぁ、あいつはそんな生温いやつじゃねぇぞ」
「まぁ、わかってるけど……」
「明日おれから課長に言ってみるよ。一時的な措置ならわからんでもない。でも浅田の狙いはそうじゃない」
「いや、いいって……」
杉浦の気遣いは嬉しかったが確実に《もめ事》になる。おれにはその処理をする自信が持てなかったため、あえてこのありがたい申し出を拒絶した。杉浦は本当に裏表のないやつで、おれと話している時も部署で他の同僚と話している時も、課長と話す時も、おそらく部長、社長と話す時も変わらないと思う。自らの主張を常に自信を持って主張できるタイプの人間だ。多分杉浦がその気になったらあらゆる意味で浅田なんて足下にも及ばない。
しかしおれは違う。仕事に関してはノミの心臓だ。いや、社会に対して、と言えなくもないが。杉浦がおれを表立って擁護したら部署内でそれはすぐにわかる。そうすると浅田擁護派と真二つになるだろう。浅田は少なくともおれよりは優秀な営業能力を持っているので、やつの腹黒さを認識できないバカどもからはそれなりに信頼と支持があるはずだ。課長は板挟みになり、場合によっては部長の耳にまで話が届く、そこまでいったらどれだけの人が話に巻き込まれ、そしてそこにどれだけの良い事と悪い事が発生し皆に刻み込まれるのか想像に難くない。そもそもおれが社会に示せる痕跡なんて、業界、会社、部、課、グループ、いずれの階層においても多寡が知れている。それを杉浦と浅田の影響力で分不相応に拡大しないで欲しいのだ。
おれは社会に対し不満はあるがそれを発露しない。それは社会とおれとの根絶を意味していて、その分、おれが社会から傷つけられることも堪え難いのだ。どっちが先だったかなんて忘れてしまったが、つまりはそういうことだ。
おれはどうにか杉浦をなだめると、金曜の約束だけ確認して電話を切った。
「困ったら言えよ。じゃあな」
少し疲れた。杉浦とはGALETTAの話だけをするつもりが、思わぬ方へ話が飛んでしまった。あの手の話は会社の外ではもとより、仮にオフィス内にいる時だとしも極力ご勘弁願いたい。それは別に仕事の話は億劫で面倒くさい、というわけではない。いや、それも多少なりあるのだが、メインはもっとメンタルな、愉快/不愉快の次元の問題にある。
杉浦の好意を「友情から言ってくれているんだ。ありがたい」と捉えるのが一般的思考なのだろうが、おれはすぐにそうは思えない。むしろ「こう言わなきゃいけない、と思って言ってねぇか?」という悪態が先を突いてしまう。つまりその人間の《社会的バランス感覚》から打ち出されている行為であることを最初に疑ってしまうのだ。打算、というほど汚い言葉にするつもりは全くないが、本人の示す表層と言葉の出自の違いを疑わざるをえない。
その疑いの心は虚しくそして忌むべきことだが、自分自身で容易に処理することはできない正直な気持ちでもある。しかも人は自分が言葉を発する時に、その《人情や感情》と《社会的バランス感覚》のどちらに基づき発言しているのかを大抵の場合で意識することができていない。もしくは勘違いをする。偽善とそこから生じる好意のボタンの掛け違いは、これが全ての元凶だと言って良い。そしておれはその存在を否定する気はない。
別にいいのだ。
そんなものだ。
だから聞きたくない。
杉浦とは良い関係でやっている。お互いの共通項ははっきり言ってほとんど無いのだが、《会社の同僚》と《同じアイドルグループのファン》という細い2本の糸だけでうまくバランスを取って成立させている。そこに仕事のことや個人の性格や価値観を持ち込んできたら、2人のバランスは圧倒的に崩れると感じた。杉浦の好意をおれは好意としては取れず、杉浦もそんなおれの態度に辟易するだろう。
いいのだ。だから聞きたくない。
少しため息をついて、再度の癒しを彼女たちのホームページに求めた。GALETTAのブログは常に3人でローテーョンしながら書いているもので他のアイドルや芸能人のそれと比べると非常に写真が多く、その点においても評判が良い。今日は柏木夏希の番だったがまだアップデートされていなかったのでおれは昨日の仲川みなみの日記を読む。元よりそれで構わなかったのだ。昨日は彼女1人でロケだったらしく、途中にあった神社に参拝したエピソードや移動中のインターチェンジで撮った写真などが載せられている。何でもない日常的な風景が彼女の存在だけでこんなにも楽しく輝いた光景に一変することに毎度ながら感心する。そして彼女はいつもながら丁寧な文面だ。
みなさん、こんばんわ!今日は「発掘!となりのリストランテ」のロケで箱根に行ってきました☆
今年に入ってレポーターの仕事をいただいた地域の隠れた美味しいお店を紹介する番組なのですが、みなみとしては食べ歩き番組って初めてなのでとてもウキウキ♪
1軒目が夫婦2人でやっている小さなフランス料理のお店だったのですが、とにかく素敵なご夫婦で感動してしまいました!(一緒に写真を撮らせていただきました☆)
ご主人が元々某有名レストランに勤めていて、奥様はそこのスタッフだったそうです。(キャ〜職場恋愛!)
そして結婚を機に独立されてから25年、夫婦で常に同じ方向を向いて支え合っているって、なんかグッと来ますよね?
みなみも将来そんな相手が……見つかるのかしら?笑
さて、2軒目以降のお話はオンエアで!ぜひ観て下さいね☆
他にもスタッフさんと移動中に撮った写真が何枚かあるのでアップします。最近パワースポットで有名な神社に行ったり、サービスエリアで噂のB級グルメを堪能したり、ホントに最高のロケでした♪
こういう仕事が、もっともっとたくさんいただけるように、また明日からもがんばります!!
《出演情報》
本日 19時〜……
ああ……癒されるなぁ……。
おれはノートPCを離れて目を閉じた。彼女がいる空間はなんて心地良いのだろう。それが例えブログという媒体を介したものだとしても、彼女が確かに彼女らしく存在していることを確認できる喜びに程度の差はない。
グルメ番組でロケに行っておきながら夫婦の人間性に目をつけてしまう大人びたところ。そして逆に恋愛でキャーキャー言ってしまう少女らしさ。その両方を兼ね揃えているところが、彼女のファン層を広げている要因だと思う。
特に彼女は同世代の女子のファンも多いという。よく《カッコいい系》のモデルや歌手ではそういうことがある。いわゆる手の届かない《憧れに基づく偶像崇拝》としてのファンだ。一方、仲川みなみのようにアイドルとして売り出しているにも関わらず女性ファンに恵まれるというのは、彼女の人間としての魅力の高さを証明していると言えるだろう。
少し気持ちが落ち着いた。
深呼吸しながらベッドにゴロリと横たわると、惰性に満ちた眠気が襲ってきた。食後だからだな。引きこもりのおれにはその強力な勧誘とわざわざ格闘するだけの理由を持ち得ない。三大欲求に身を委ねる行為は突き抜けて気持ちが良い。おれはすぐに観念し、されるがままに堕ちていった。
3
メールにビックリして飛び起きた時には時刻は23時を回っていた。いや、正確に言うとメールの着信音でビックリしたわけではない。着信音とバイブを感じて鬱陶しいなと思いながらケータイを開き、差出人の欄が目に入った瞬間にビックリして飛び起きたのだ。興奮でつい無意味にベッドから起きあがると床に置いてあったペットボトルを蹴飛ばした感触にヒヤッとしながらキャップが開いていない事をその挙動から確認して安心した。
23時13分。
「kuitからのメール?」
おれは畏敬から来る歓喜と恐縮が共存したむずがゆさを感じていた。kuitからのメールなどこれまで一度も無い。チャットルームの引き継ぎの時ですらkuitは掲示板へのメッセージの書き込みで済ませたのだ。
おれは注意深く、呼吸にすら注意を払いながらゆっくりと文面を確認する。
[差出人]kuit
[宛先]後任の管理者様
[本文]
お久しぶり。キミの一挙手一投足をいつも見守っているよ。
そして今のキミに何が足りないか、私にはわかっている。
明日、添付の場所に行くと良い。因果の鎖がキミを待っています。
[END]
よくわからない文章だが、kuitのことだ。何か重要な示唆があるに違いない。添付されてきたファイルに示された場所には最近見た記憶があった。それは例の少女殺害事件があった神御黒小のあたりだ。さらにもうひとつのファイル。こちらはパスワードで保護がかかっていた。
「kuit、おれをなめてもらっちゃ困りますよ」
つぶやきながら舌をぺろりと出すと、先週作ったばかりの自作のパスワードクラッキングツールを走らせた。ものの数秒で画面には《クラック成功》の文字が表示される。
ロックの解除されたフォルダ内を覗くとそこにあったのは《神御黒小学校校長プロフィール》と書かれたファイルだった。開いてみると如何にも調査資料という様子の装丁に、赤で《機密》の印が押されていた。ページの左上には60がらみの男性の写真、口髭をたくわえて如何にも貫禄のある雰囲気だ。さらに右側には小さな文字で上からびっしりとその人物の情報が、これでもかというほど細かく列挙されていた。経歴、血縁者、親しい関係の友人と最近会った日時、関係者それぞれの住所と連絡先、その他個人情報のオンパレードだ。なんでこんなものをkuitが持っているんだ、とは考えなかった。kuitなら何でもあり得る。そういう男(多分)なのだ。思慮深く、弁論が立ち、かつ常に本質を捉えてくれる。どこにでもいるようで、どこにいるかわからない謎の男(多分)、それがおれの尊敬するkuitだ。
このメールもおれには意味不明だが、彼がおれに何かを見せようとしているのだろう。直々の指名だ。返事はわかりきっている。したがって即時返信なんて野暮なことはしない。おれは明日、神御黒小で彼のメッセージを受け取ってから彼への返事を書くことにした。
しかも謹慎中(正しくは出社自粛中)の今は絶好のタイミングだ。と考えておれはハタと気付く。
「kuitはおれの今の状況を知った上でこのメールを送ってきたのでは?」
それは十分にあり得る話だ。チャットルームから抜けるときにkuitは自らのアカウントを消し、管理者の権限をおれに譲ったが、その後おれは当然管理者パスワードを変更した。しかし実は既に彼にクラッキングされていた、とも限らない。一挙手一投足を見守っている、というのはそういう意味だと取れる。おれの管理するサーバーが?いや、kuitが相手ではさしものおれも敵わないだろう。そして彼が今日の会話を見ていたとしたら、間違いなく事のあらましを理解しただろうし、少なからずおれが社会的にマズい状態になっていることくらい容易に想像がつく。
しかしそんなことはどうでも良い。kuitがおれに何かを用意してくれている。そう考えるだけで心が浮かれた。
彼のことを思い出すのも本当に久しぶりだ。最近は完全に管理者としての立場に馴染んできていてある程度惰性がなかったとも言えない。しかも仮に相手がkuitだとしても自分のパスワードをクラックされていた日には管理者の名折れだ。そこも含めて今のチャットルームの状況を見直す良い機会なのかもしれない。
ちなみにこのチャットルームには名前がある。
《SOULFLY》
ソウルフライ。魂が漂ってるとかそんな意味だが、名付けの経緯は不明だ。でもなんとなく皆この名が気に入っている。
首を鳴らしながら立ち上がる。一度冷蔵庫の中から350のビールの缶を取り出すが、適当なところで切り上げて寝る事を考えてここは烏龍茶と交換した。酔い覚ましがてら窓を4分の1くらい開けて冷えた空気を招き入れ、窓際に座ると本日最後のタバコに火をつけた。
*
SOULFLYはkuitが管理者をやっていた頃からメンバー個々の入れ替わりはあれど、人数はさほど変わらなかった。日々コアなトークが繰り広げられ、さらには何かネタがあれば機会に乗じて世に対してアクションも行っていく。そんな集団に面白がってついてこれる人間はそれほど多くはないのだ。さしずめ、プレミアムメンバーといったところだ。総じて皆クチが悪く過激、悪ノリ好き、そして社会通念よりも自らの価値観を優先して行動するというポリシーを共有していた。
おれはそんなクソ野郎どもに愛着こそあれ嫌悪感を抱いたことなど無い。そもそもメンバー集めというものは管理者の嗜好の現れなのだ。皆が自分と同じだと日々確認してホッとできるというのも事実なのだが、彼らSOULFLYのメンバーに囲まれていると様々な社会的観念について通常よりもハードルを下げてくれるところが心地良いというのもある。社会ではハッキングやコラージュの名手だとしたところではっきり言って使い道がない。ハッキングならそれを転じてセキュリティのため、コラージュが得意ならそれは画像処理の腕が良いということなのだから出版系の仕事などが向いているのだろう。しかし、それとこれとは違う。何が違うのかわからない浅田のような輩には一生わからないのだろうが、わかるやつにはわかる。
実際おれは前々職を1年足らずで辞めている。理由は非常にシンプル。「面白くなかった」からだ。
もっと世の中「面白いか」「面白くないか」で判断して良いと思う。ほとんどの問題がそうだと言って良いと思う。なんてことを発言したら社会では一気につまはじきものだ。なので当然おれも言わない。
しかしSOULFLYでは全ての判断基準は「面白いか」「面白くないか」であり、そんな世界をおれは求めていたのだ。結局転職もうまくいかず面白くない生活を続けていたおれはふとしたきっかけで旧メンバーの一人に推薦をもらい、このグループへと招待された。
当時からすでにkuitはカリスマ的存在で、コミュニティに加わったばかりのおれにも皆の態度からありありと感じ取れた。あるものは彼に判断を求め、あるものは彼に諌められ、またあるものは、大げさではなく、彼に生き方を教わった。
とはいえkuitはおれたちを抑圧的に縛ることはなかった、そもそもSOULFLYに顔を出す頻度もさほど多くはなく、仮に来ても長時間入り浸るようなことはなかった。そうするとその間、日頃おれたちはバカ騒ぎと非社会的行動を繰り返しているわけだが、たまに彼が顔を出すと、冷静な口調ながらそれは面白そうに皆に声をかけて帰る。コミュニティの古株も新人のおれにも分け隔てなく。
荒々しく、穏やかで、まったりとしていて、激しい、そんな空間がとても居心地良かった。
おれがそんなことを感じ始めていた頃にあの《祭り》は起こった。
すでに炎上気味のプロフがある、と情報を持ち込んで来たのはおれよりも少し前にSOULFLYに加わったというzazenだった。
「メス豚はけーん」
すぐに食いつくメンバーたち。おれはそういえばその時も今日と同じカップラーメンを食べていた。
「ウェルカム!メス豚!」
「情報よこせコラ」
「おー起きててよかった」
「zazenからのネタフリとは珍しいな」
「きたきたー」
皆の反応に対して意気揚々とzazenが応える。
「そろそろおれもSOULFLYの立派な一員ってことでね。リンク送るぜぃ」
貼付けられたリンクの先は女子高生のプロフで、写真を見ると黒髪のセミロングにパッチリとした目。高校生にしては若干大人っぽい整った顔立ち。プロフの写真にも関わらずおちゃらけた感じではなく真面目そうな所作は好印象だ。細かい個人個人の趣味趣向のことを言わなかったら10人中9人は「カワイイ」と答えるレベルのコだ。
しかし一方サイト自体はどうもヒドいことになっていた。
「すげぇ盛り上がってんな」
「オウオウ豚っぷりがオウ」
「いいねぇ、こういう痴情のもつれって酒の肴にサイコー」
「もうひといきだね」
「オトコもオンナも終わってんな」
その炎上(まだボヤか)の内容をかいつまんで言うと、物語の始まりはその高校1年生の女子Aが部活の3年生の先輩男子Bのことを好きになり、積極アピール。その結果女子Aと先輩Bは付き合うことになったのだが、実はそのBは同じ部活の3年女子Cと付き合ってたのをわざわざ別れてAと付き合ったのだ。よくある話だ。
そしてそれをしばらくして知らされたAは複雑な気持ちを持ちながらもBと付き合い続けたが、Cの執拗な嫌がらせを受け続け思い悩む。そして勇気を持ってそれをBに打ち明けるが、BはCに怒りの矛先を向けるばかりでAの痛みに同情を感じてくれない。逆にBはCに対して気を取られる時間が増え、AのBへの気持ちは加速的に冷めていった。そしてとうとうBへ別れ話を切り出すA。当然Bはそれを拒否する。しかし疲弊しきっていたAは一方的にその場を押し切る。
チャンスとばかりにCがBへアプローチをかける。「あんなガキより私の方が良いでしょ」と言ったかどうかはわからないが、Bは再びそれを突っぱねAとの復縁を訴える。「おれは何も悪くないだろ!なんで別れるんだよ?」その一言でAはBとやっていけないと考えていたのだ。結果Bのアピールは裏目に出て、Aはより一層Bを避けるようになる。
そして現在に至る。
BとCそれぞれのAへの愛憎、それらがかけ合わさった結果がプロフへの書き込みから滲み出ていた。
SOULFLYのメンバーといってもそこは人の子、さすがの荒れ具合には目を覆う思いだった。いや、嘘ですヨダレ出てました。
さて、A本人としたらここのことは既に放棄したつもりなのだろう。しかし、依然畳み掛ける中傷と暴言は、まだ何も終わっていないということを強く主張していた。
何でそんな詳細な経緯を知ってるかって?kuitが光の速さで調べてくれたのだ。どこから情報をひっぱってきたのかなんてわからないが、ものの10分後にはこの感動小説がSOULFLYのメンバーには配られていた。
そしてそのさらに10分後には自称マルチクリエイターのnobi(三ノ輪結女の見事なコラ画像を作ってくれた天才)が装丁を付け、電子書籍が作成された。そしてそれとほぼ同時に情報屋のbobo(おれが警察だとにらんでいるやつ)からA、B、Cそれぞれの同級生たちのメールアドレスのリストが提示され、すぐさま彼らに向けてその電子書籍が配布された。
考えてみたらこの時がSOULFLYの破壊力をリアルに感じた最初の瞬間だった。
おれがそれまで見てきた常識では量りきれない非常識集団。
愉快極まりない。
しかしその時誰かが言った。
「まだちょい物足りないねぇ」
一瞬、皆の書き込みの手が止まる。その刹那におれは痛烈に思った。「おれも何かやりたい」
おれにできることは少ない。しかしそれは種類の次元で見ると少ないだけで、ここで十分に活かせるだけの深さはあるつもりだ。むしろこの瞬間にこそ最も適切な能力。
ハッキングだ。
ITセキュリティを学ぶということは、ハッキング手法を学ぶこととほぼイコールだ。特に前々職の会社は業界最高峰の技術を持っていて、つまり他社のシステムからはハッキングされず、他社のシステムをハッキングできるだけの能力におれは鍛え上げられていたのだ。その腕を用いれば個人のPCへのハッキングだなんて簡単極まりない。
おれはすぐに先輩Bのネット上での所在を捉え、都合良く起動中だった彼の自宅PCへと潜り込んだ。無防備なことに先輩BはP2Pのファイル共有ソフトを使っていたため、ハッキング作業自体はハナクソをほじりながらできるぐらい楽勝だった。
めぼしいファイルを見繕うと自分のローカルにコピーし、痕跡を消しながら撤退する。
すると、収穫は予想以上に大きかった。
BとA、Cそれぞれとのメールのログ。写真フォルダにはそれぞれと遊びに行った時の写真が割ときれいに整理されていた。そして最大の成果は《秘密》と書かれたフォルダ。「秘密にしたいものに《秘密》って書いちゃダメだろ。《不要》とか《旧ファイル》とか書けよ……」と心の中でツッコミを入れながら開くと、それは、写真だった。
画面一杯に広がる肌色。
絡み合う肌色。
時折カメラ目線で恥ずかしそうに局部を隠す肌色。
当然隠せていないものの方が大半な肌色。
そんなフォルダだった。
先ほどプロフで見た写真と比べたところ、これは女子Aのもので間違いない。
思わぬ大収穫に奮えると同時に無理矢理脳ミソに冷静さを要求する。ここはクールに行け。この《高級材料》をどう調理するかが今後のおれの立場を分ける、というくらい深刻に考えていた。誰かを頼るのはカッコ悪いが、boboのお陰で既に関係者のメールアドレスはひととおりわかっている。これは利用させてもらおう。
とりあえず一回抜いて落ち着いてから、結局おれは厳選した数枚を女子Cへと送ることにした。
あとは女子Cが何なりとアクションをおこなってそれが明るみに出れば、と考えながらタバコに火をつけ一息つく。爽快な深呼吸だ。
「おーい、ringはいるのか?」
ringとはおれのアカウント名だ。名前の環(わたる)から取って、輪、すなわち《リング》としている。
「オイ、2秒で返事しなかったらコロスゾ」
おれは急いでキーボードを叩く。
「ただいまー。ミッションコンプリート。やっほい」
「ミッション?」
すでにチャットルームは別の話題へと移行しかけていた。すかさず「それは興味がありますね」とはkuitの書き込み。
この呼び水にまたおれは悩んだ。せっかくkuitが機会を振ってくれているのだから「これしめたものだ」と説明口調で今日の大収穫について偉そうに語ってもよいのだが、それは不思議と抵抗感があった。一種美学に近いものなのだと思う。自分の成果について自らで口にするという行為は、その成果自体をおとしめることになるように感じた。
その時、うまい具合に助け舟が入る。zazenだ。
「ちょっと見て見て!さっきのリンク!」
皆が一斉にリンクを探っている空白の時間、おれはすでに開いていた女子Aのプロフをリロードした。すると狙い通りの光景が広がる。書き込みには疑惑を投げかけるものも多かった。
「合成じゃないのか?」
しかし事実は事実。ねじ曲げることはできない。これは一点の曇りもない本物だ。
見るものが見ればわかるし、何よりそれらしさがあればそれで十分だ。加えて本物とあればこの破壊力はおれの想像を超えた。
クチコミがクチコミを呼び、すでにサイトは女子Aとも先輩Bとも先輩Cとも全く関係のない人間どもで溢れ返っていた。こりゃサイトが落ちるか書き込みが管理者側に消されるのも時間の問題だな。そう判断するとおれはここまでのログをローカルに記録し、チャットルームへと戻った。
その後、おれはサッカーの試合で点を決めた選手のごとくにもみくちゃにされ(チャット上で)そうしてSOULFLYのメンバーとしての立場を確立した。
そしてその翌日、女子Aは自宅で首つり死体で発見された。
以降、メンバーの誰もそのことをクチにすることはなかった。すぐさま次の盛り上がるべきターゲットが出てきた、ということもあったのだが、そもそもさすがに人が死んだ話を聞いて愉快になるほど非人間的ではない。面白くならない話題を取り上げることはSOULFLYの中では絶対のタブーだったからだ。
「面白いか」「面白くないか」
それを絶対的な判断基準として置くというのは、すなわちそういうことなのだ。
特にzazenは自分のネタフリをおれに持っていかれたのが気に入らなかったのか、結果に納得がいかなかったのか、それからしばらくの間大人しくなってしまった。
タバコの最後の一息を吸い込み灰皿に押し付けると、ふと、kuitとの直接のやりとりはあの事件以来のものであることを思い出した。管理者権限の移管も事務的だったし、チャットルームにもほとんど顔を出さなくなっていった。一度kuitがどうしているのかが気になり一番古株のboboに訊いてみたこともあったが、彼もよく知らないとのことだった。
そんな彼からの久しぶりのコンタクト。さらに明日の待ち合わせ。まるでデートの前日の気分だ。いや、まともに人並みの恋愛をしてきていないおれはそんな高尚な感覚を持ち合わせていない。
とにかく楽しみ。まぁそれでヨシとしよう。
さて、明日はいつ頃に行くのが良いのだろうか。kuitは「明日」としか言っていなかった。これはつまりおれの自由にして構わない、という意味なのだろう。とはいえ神御黒小学校はすでに廃校になっているわけだから、電気がきていない可能性が十分にある。とすると昼か。極力早いうちに神御黒小にたどり着けるよう、明日は朝起きたらそのまま現地へと向かうことに決めた。
4
さながら遠足の気分だ。
そういう意味合いで、案の定寝過ごした。
昨日はほぼ一日家でゴロゴロしていただけだというのに、よりによってこの大事な日の朝を寝過ごしてしまう怠惰な身体を心底恨めしく思う。
朝飯はコンビニで買えば良い。とにかくまずはヒゲだけ剃って顔を洗った。そして最近少し太腿がきつくなってきたカーキのチノパンに無理矢理足を突っ込み、上は何を着るべきか迷ったがとりあえずかしこまった体裁で襟付きのシャツにした。最後に、一昨日あたりから若干肌寒いことを鑑みて茶色のスプリングコートを羽織った。割としっかりとした恰好になっている。まるでこれから営業に行くようだ。
鏡に向かって髪の毛を手櫛で2、3回なでると右後頭部の寝癖が若干気になったが目をつぶることにした。時計の針はすでに12時を指していた。
神御黒小までは最寄り駅から急行で30分、さらにそこから徒歩かバスかという感じだった。案外近い。
コンビニで買ったカレーパンにかぶりつきながらホームで電車を待っていると、コートのポケットの中の振動を感じた。こんなときに電話だ。それも課長から。一瞬「バックれるか」と頭に浮かんだが、謹慎中の人間が「すみません、忙しくて電話取れませんでした」ではスジが通らない。とはいえ騒がしいところで電話を取るわけにもいかない。
仕方無くホーム近くの便所に入ると身を隠すように縮こまって通話ボタンを押す。
「はい……指宿です」
「もしもし、指宿くんかね。ん?周りが騒がしいが、ちゃんと大人しくしてるのか?」
相変わらずデカイ声だ。恫喝課長と呼ばれるだけのことはある。彼に中身は何もない。ただ声がデカイだけだ。
「いや……今は……食事に出ているところで……」
「ああ、それはそうだな。メシを食わなかったら死んじまうからな」
電話口でケタケタ笑っている。極めて腹立たしい。ていうか今すぐお前が死ね。
「電話したのはな、キミがこういう状態になってだな。おれも担当の再編成をしなきゃならんわけだよ。わかるか?第一な」
ここから5分くらい、やつのどっかの本からパクった組織論のご披露と、つまるところ「お前のせいで面倒なことになった」という愚痴が続いた。とにかくおれはひどく大便が詰まった人のように足が痺れるほど便器に腰掛け、頭を垂れたままひたすらに耐え続けた。なぜ5分くらいかというとその間に急行と各駅がそれぞれ1本ずつ通り過ぎたからだ。場内アナウンスや鉄道職員の安全確認の合図が響くたびにおれはバレやしないかとビクビクしたが、その間アホ課長は《どれだけ息継ぎをせずにしゃべり続けることができるか》という世界記録にでも挑戦しているように必死で、外のこともおれのことも全く意に介していない様子だった。
電話相手のことを意に介さない、って、何のために電話しているんだこいつ。幼児教育用の《お電話キット》でも買い与えてやろうか。
「……でだな。朽津木研究室の件だが」
よりによって一番聞きたくない話題だ。
「……あの……ある程度話は聞いてますんで……」
「あ、それは昨日の話か?結局どうしようか考え中でな。それで電話したんだよ」
意外な発言だった。昨日から状況が変わっている?
嫌な予感がした。
「キミがこういう状態だから浅田くんに担当を替えようと考えてた。知っての通り朽津木研究室はうちのお得意様だからな。営業の穴が空くことは許されない。営業の本質は《すぐそこに在る》ことだからな。何かあったら相談できる。何か欲しいな、と思った時にすぐそこにいて話を振ってもらえる。そういう地道な努力の積み重ねが後々の大きな売り上げを気付き上げるわけだ。したがって誰かを早急にアサインするべきだ。そこで今ちょうど浅田くんが大沢工業の案件が設置まで終わってあとはアフターフォローだけという形で手があいていてな。そのまま当てはめようと考えた。至極妥当だろ?」
何が妥当だ。断言しても良い。今やつが読み上げた《文面》の9割は浅田が言った言葉そのままだ。やつには脳ミソなど無い。断言しても良い。
「はぁ……おっしゃる通りかと」
しかし面倒は御免なのだ。
良いと悪いとか、好きと嫌いとか、それらはお互い双極を成すものではなく「良い」の反対も「悪い」の反対も「好き」の反対も「嫌い」の反対も「どうでもいい」だとよく言われる。そのとおりだとおれは思う。良いとか悪いとかの結論を求めた時点でベクトルは合っている。その結果が良いのか悪いのかはあくまで結果や価値観でしかなくて、全く相容れない可能性がある、どこまで行っても交わらないようなものではない。つまり好きも嫌いも《ちょっとズレたベクトル》であって、《絶望的な逆向きのベクトル》ではない。
その点おれの持っているベクトル、特に仕事において抱えている感情というベクトルは彼らとはおよそ交わる可能性がない。おれは全てが「どうでもよい」のだから。
「良いのか?ちょっとの理不尽さはあるだろ?朽津木研究室がお得意になっているのだって、ここ数年の話だ。その間の担当はキミだったわけだ。最初の契約にこぎつけるまでのハードルや日々足を使って通い続けた成果としてお得意様関係が続いているわけだから、言い換えればキミの成果じゃないか。それを取られるだなんて納得いかないだろ?周囲にもそれでは示しがつかない」
これの9割は杉浦の言葉なのだろう。ありありとわかる。
「はぁ……」
その後はまた、今度は何分だったんだろうか、途中で数えるのが面倒になってしまうくらいの間おれの仕事に対するスタンスやこれまでの成果量、営業努力、身だしなみ、口調、製品知識、エトセトラ。途中でもうすっかり引いてしまって(実際、電話口から50センチくらい離れて)ただただ聞き流していた。この人はおれをどうしたいのか?フォローしたいのか?けなしたいのか?励ましたいのか?へこませたいのか?わからないのは当たり前だ。この人に意見なんてないのだから。それならば流してくれればいい。周囲の流れに沿って流してくれればおれはそこを流れていくのだ。
自分の意見を持たない電話口の相手と、万事「どうでもよい」と思っているおれではケリがつくわけがないと判断して切り出した。
「……あの……大変申し訳ないのですが……一旦現状として、しばらくお時間をいただけませんでしょうか……」
伝家の宝刀だ。「一旦現状」がポイントで、最終的にはこれから生まれる《現状》の流れに任せれば良いのだ。
恫喝課長にもこれはそれなりに効果があったようで、その後の小言はプラス10分程度で済んだ。
「はい、はい、わかりました。それでは失礼します……」
通話停止を押し携帯を閉じ、おれは深く嘆息した。その息に乗って流れるようにこぼれ落ちた言葉。「死ね」結局それは意味も無く宛先も無い戯言で中空を漂っていった。
おれはふと先ほどの携帯画面の残像を思い浮かべ2つの意味で冷や汗が出た。ひとつ、時間がすでに13時を回っていた。ふたつ、電池残量が既に20%を切っている。長時間通話と……よりによって昨晩充電し忘れたようだ。
最悪の気持ちで便所を出るとちょうど列車がホームに入ってきた。満身創痍でそれに乗り込むとドアから一番近いシートに向けて自由落下のごとく座り込んだ。
*
電車を降りるとおれはバス乗り場を探した。初めて降りる駅だったので勝手がまったくわからない。重い気持ちを切り替えて改札を出た正面にある案内板と向き合う。あのクソ課長のせいだ。畜生。
小学校が廃校になるようなところということで元々想像していたとおり、駅周辺は閑散としていた。たかが電車数駅分でずいぶんと田舎っぽい雰囲気に変わってしまうものだ。
東京都民ならばみんながみんな《都会人》だと思っているとそれは大きな勘違いだ。窓から見える光景は埼玉や千葉、その他の地方都市で見るそれよりも遥かに、なんというか落ち着いたものだった。空気が1度くらい冷たくなっているように感じる。
当然バス乗り場もさほど迷うようなところにも無く、路線も3、4種類ほどだった。おれはすぐに目的の乗り場を探し当てると停車位置のすぐそこにあるベンチに座り込んだ。携帯は……電池が少なくなっているから使用を控えよう。kuitから連絡があるかもしれないし。
同じ車両に乗り込んだのはおれの他には右手にハンドバッグ左手には土産物らしき手提げ袋を下げた背の曲がった老婆が一人だけだった。本当に閑散としてる。こりゃ廃校にもなるわ。仮におれが結婚していて子供がいたとしてもこの土地に住みたいとは思わない。
確か聞いた話では、神御黒小が廃校になる数年前まではここら辺もそこそこの規模の街だったんだとか。しかし当時の市長が強攻に進めた改革が軒並み大失敗し、企業誘致、イベント開催、もろもろ全てコケてしまって大赤字を抱えたんだとか。それを受けて市長はさらなる愚行を重ねた。市民税の増税に踏み切ったのだ。すると当然のごとく、土地に思い入れの薄い若い世代から順に離れていき、子供もいなくなり、彼らをターゲットにした商店が撤退し、当然税収は下がりより一層の財政悪化をもたらし、そして都内のデッドスポットが出来上がった。窓から見える光景には人影も、開いた商店も、コンビニですらまったく見られない。まるで歴史から抹消された土地のようにひっそりと、ただただゆっくりと滅び行くためにそこに在るかのようだった。
「あの……」
消え入るような声。
「あの……すみません……」
ひょっとしたらおれか?当たり前だ。このバスには三人しかいない。
「すみません……」
振り返ると先ほどの老婆が手すりにつかまった状態で中腰になりおれに目線を送っていた。おれは突然のことにかすれた声で応えた。
「はい?」
老婆はおれからの反応を得たことで、ようやく居心地の悪さから解放されたという表情を見せる。
「あの……次のバス停とその次のバス停だと、神御黒公民館ってどっちの方が近いですか?」
「あ、おれ、あの……」
「一度来たことがあったんですけど、忘れてしまって」
「あー、うん、うーんと……」
おれが言葉に詰まっていると前方で淡々と運転していた運転手が助け舟を出してくれた。
「お婆ちゃん。神御黒公民館は次の次、多坂上(おおさかうえ)のバス停ですよ。次のバス停は旧神御黒小学校前。降りても近くには何も無いですよ」
「あ、そうですか。ご丁寧にありがとうございます」
老婆は運転手に向けて深く頭を下げて、そしておれに軽く会釈して自分の席へと戻っていった。
「あ、すみません。おれ、次で降ります……」
「はい。次の停車駅、止まります」
なんとなく展開のせいで言ってしまったが、ちょっと早過ぎたようでその後しばらくの間バスは森緑の中を走った。
「失礼ですが、廃墟マニアの方とかですか?」
突如運転手が前方を向いたままバックミラー越しに話しかけてきた。
「いやぁ、たまにいらっしゃるんですよ。ほら、神御黒小って結構立派な建物ですし。それに、《いわく》も、ねぇ」
おれはしばらく考えたが結局適当に答えた。
「……ええ。そんなものです」
《いわく》とは例の少女殺害事件のことだろう。確かに廃墟と殺人事件がセットになれば、そりゃその筋のマニアは小躍りして喜ぶに違いない。
「この路線、見てのとおりですので。例え廃墟でもなんでも構わないから人気が出てくれないものかな、なんて思うんですけど」
「いやぁ、以外と有名ですよ」
おれはまた適当に答えた。次の質問のためにも。
「今日は……先客がいそうですかね?」
「うーん。いや、今日は常連さんのおじいちゃんが一人降りただけですね」
その言葉を聞いて少し安心した。kuitは少なくともバスでは来ていない、ということだ。願わくはおれより先に着いていないで欲しい。さながらデートの待ち合わせの……いや、無意味な形容は止めよう。
おれは小銭を支払い、バスを降りると、降り際に運転手に教えてもらった方角へと歩き出した。神御黒小は小高い丘の上にあり、周囲はさほど背が高くないが森林に覆われていて見える範囲には集落も無い。
「本当に、学校しかないところなんだな……」
しかも丘の上。どうやって子供たちは通学していたのだろう。通学バスでもあったのか?それとも以前はもっと開けていたのだろうか。その解答はものの数分歩いた先に校舎が見えるてくると、すんなりと理解できた。
極めて斬新な形状に広大な敷地。お台場で見たことのある建物を一瞬思い出した。何だったっけ。校舎は5階か6階建ての全面ガラス張りの構造をしていて、一方その隣にある体育館らしき建物の表面には何かしらのデザインがほどこされていたようだ。すでに塗装は剥げ、砂やツタにまみれているため、そこにあったであろうアートの兆しを感じることはできなかった。
校庭はサッカー場が2面取れるほどあり、その緑色と灰色の入り交じった残骸が示しているようにどうやら人工芝だったようだ。校庭の脇にはネットで区切られたラバーコートが4面、それぞれテニスやバスケットボール、ハンドボールなどで使うらしき線が引いてあった。線はかすれて一部やその大半が無くなっていたのだが、それらスポーツの基本的なルールすら把握していないおれにとってはその不完全な線が織り成す欠落した幾何学模様はどれも似たようなものに見えた。
とにかく広大な敷地に押しつけがましいほど近代的な建物。つまり相当なお坊ちゃんお嬢ちゃん学校だったのであろうことが容易に推察できた。送り迎えの爺やの生き霊が見えそうだ。
「これは、廃校っていうよりは廃業か……」
例の市長の時代に誘致の流れに乗って参入してすぐに撤退、というところなのだろう。ま、どうでもいいことだが。
おれは一度、この広大な神御黒小の全景が見える位置で立ち止まって考えた。この校舎の中でちゃんとkuitと出会えるのか?お互い動くものを見つけたらそれが相手であることには疑いの余地が無い状況だが、なんとなしに仮にkuitの方がおれを見つけたとしても声をかけてくるようなことはない気がしていた。わざわざおれをこんなところに呼び出して自分から「よ、久しぶり。あ、面と向かって会うのは初めてだったっけな」では全くもってkuitのイメージに重ならない。もっと遊び心を持ちながら、おれを泳がせ、用意してある何かをおれに見せ、そして最後は迎え入れてくれる。そんな展開をおれは期待していた。
そうとなったらまずは探索だ。敷地内外を探索してまずはkuitのメッセージを探そうではないか。おれは張り切って、以前は正門を構成していたらしき2つの門柱の間を通って校舎へと向かった。
*
鬼ごっこ、隠れんぼ、宝探し。どれも楽しかった思い出なんて無い。
平均点的なルールにのっとったゲームは得てしてその平均点から外れた人間には楽しめないようにできているのだ。運動神経もそれを補う知略も無いおれは、とにかく時間が過ぎるのを待って過ごしていたものだった。
しかし、今日のkuitとの鬼ごっこのような宝探しのような隠れんぼのようなゲームは別格だ。おれは夢中になり時間が経つのを忘れた。校舎内を隈無く捜索すると手書きの見取り図に順にバツ印を付けていった。
おれは数時間かけて全ての部屋にバツをつけていったが手掛かり無し。しかしおれは徒労感どころかほぼ全てを回りきってからこそがさらなる楽しみだとすら思っていた。
「ここにはおれの現状の理解を越えるものがある」
見落としにワクワクすることなんて普段あるわけがないが、今日に限っては見落とし、ミス、勘違い、既成概念は全てこのゲームを楽しむためのスパイスのようだった。おれは何かのレクリエーションホールらしき広い部屋で歩みを止め、タバコを吸いながら一時思考することにした。
全ての部屋は回りきった。そして取り立てて何も無いことは確認した。全て廃墟だ。ところどころ小学生が書いたらしき黒板のメッセージがあった。「これがひょっとしてkuitの暗号か」とも考えたがどうにも結びつきを見つけられなかった。純然なるラクガキにしか思えない。したがって一度その線は捨てることにした。
「そうすると……隠し部屋?」
自らのスムースな思考に感嘆する。そうだ。校舎の中を歩いて感じていた違和感は「こんな奇抜な学校の割に校舎内は割と普通だな」だった。何か仕掛けがあるくらいの方が、不思議と納得感がある。
おれはさらに重要な見落としを思い出した。
《神御黒小少女殺害事件》
そうだ間違いない。あの事件でも少女は首を絞めただけでは死なずにどこか貯蔵庫のようなところに閉じ込められてそこで餓死したんじゃなかっただろうか。
「チクショウ、もっとしっかり調べておくべきだった……」
おれは手のひらで太腿を叩いたが後の祭りだった。
しかし過ぎてしまったことは仕方がない。見つけてやろうじゃないか、隠し部屋を。
「ある程度のサイズの空間を隠すことができる場所か……」つまりは通常ならば地下、もしくはここの立地の特殊性を利用するならば山側だ。
地下なら1階の全てが候補、山側なら候補は限られる。1階の体育館側だ。効率を考えると体育館まで移動しながら1階の各所を見直していけば良い。そう判断するとすぐさまタバコを床で消して歩き始めた。
1階をなめて歩いたところでそれらしき物は見つからなかった。正確に言うと、おれは《体育館裏》に賭けていた。いや、半ば本能的に正解だと感じていた。
スッと入ってくる感覚。一本に繋がった感覚。
幸福なことにその感覚は裏切られなかった。
おれは2人がギリギリすれ違える程度の幅の通路を生い茂った草木を踏み分けながら体育館裏へと進んだ。そこには少し開けた空間があり古く錆びた焼却炉が設置されていた。ゴミの収拾コーナーかと一瞬思えたがよく考えると他のゴミを置くようなスペースは無い。如何にも不自然だ。
おれは焼却炉の扉を開けて覗き込んだ。案の定明らかに焼却炉として使っていた形跡がない。灰なども落ちていないし、汚れも無い。第一に焼却炉にしては扉も中の空間も広過ぎる。4つんばいになればかなり大柄な大人だとしても余裕で入れるサイズだ。安全性を考えてもこれが焼却炉であるはずがない。
ライトの類いは持ってきていなかったのでジッポを取り出し、火をつけた。そして注意深く焼却炉の中を見渡すとその向こうにさらに別の鉄の扉を見つけた。やはり焼却炉自体がダミーでその扉が本命だったのだ。
おれは立て膝の姿勢で焼却炉の中へ入ると自分の身長の半分程度の第二の扉を開けた。
中は真っ暗で何も見えないが、扉を開けた音の反響から、かなりの広さであることが伺えた。信じ難いがひょっとして体育館1個分くらいあるのかと思えた。
一歩目を踏み出す。第二の扉の中は余裕で立ち上がることができた。手を上に伸ばしても天井には届かない。それどころか天井は相当遠くにあるように感じた。おれは内部に向けて目を凝らしたが依然内部を見渡すことはできない。ジッポの光はひどく指向性が広く、目的のものを照らすためにはあまり役に立たないのだ。
中へ進むしかない。一歩一歩と中へ進むたびに温度が1度ずつ下がっていくように感じた。ピンと張りつめた空気の中で反響する靴の足音。その反射は音の周期をメチャクチャに乱し、まるで何人もがそこにいるようだった。
「あ」
なんとなく声を上げてみた。反響は勝手なハーモニーを生み出し、音がどこから生まれどこへ行ったのかを認識不能にした。そうすると人間の脳ミソは不思議なもので、自分の頭の中から聞こえているように感じるのだと何かの教養番組で観た記憶がある。その時はどうでも良い話だと流したが、自分が発したものを自分で享受しているだけにも関わらず、物理的空間は広いにも関わらず、心理的には狭く自分の脳みそしか世の中には存在していないような神秘性を感じると、あながちそれらも無意味なようには思えなかった。
「神秘だなんていつからおセンチになったんだかー」
もう一度声を上げる。反響音は混じり合ってまるで他の言葉のように聞こえた。自分の台詞ですらないように聞こえた。そして別の台詞が聞こえた。
「や、っ、と」
背後なのだろうか。脳内なのだろうか。やたらボヤケた感じの声が聞こえた。
頭部に直接打ち込まれたような声だ。
冷静に考えて自分の台詞ではない、幻聴でもない。
その声がどこから生まれたナニモノなのかが気になったが、おれは振り返ることも顔を上げることもできなかった。そう思ったときには既に身体が言うことをきかなかったからだ。
ただ、唯一動いた左手で後頭部を確認するようになでる。ヌメッとした感覚。連続して押し寄せる巨大な頭痛。
これは内部からなのか?外部からなのか?
いや、どっちでもいいよ。
え、なんだろ、おかしいだろ。
kuitは?
いやいや、まだおれ彼に会ってないし。
ちょっと待ってよ。おれ今日の目的がさ。
あれ?kuit?kuit?
おれは叫び続けた。
「kuit?」
きっと叫んではいないんだが、とにかく叫び続けた。
― 三ノ輪の章 SUN ―
1
「ゆめちんって先月はどこかに行ってたんだっけ?」
三ノ輪結女は上品なグラスに半分ほど注がれた赤ワインを口に運ぶと、ゆったりと堪能した風なため息をついた。
「……ロスよ」
結女の向かいに座った香月(こうづき)綾乃は続けた。
「へー、収録か何か?グラビア、は無いか」
「ちょっとバカンスにね……」
「そうなんだー、それはそれは」
「そっちはどうなの?仕事は」
結女はグラスを置くと魚介のテリーヌとズッキーニのアンティパストに手を付けようとナイフとフォークに手を伸ばした。
「うーん、最近はバラエティとかクイズ番組ばっかでね。まぁ、悪くはないんだけど、ポジションっていうかなんていうか」
「観てるわよ。《男のコ・女のコ》だっけ」
「あれはねー。あの番組かなり視聴率取れてて、それはそれでいいんだけど、事務所があの仕事を受けた時点で今の私の芸能界でのポジションが決まっちゃったのよ、ハッキリ言って。三十路女が若いコたちに囲まれてさぁ、もうやることなんてわかってるじゃない?そこまで空気読めない人間にはなれないでしょ?」
結女は興奮気味の綾乃をよそにグラスの残りを空ける。
「観てるからわかるわよ。正解じゃないの。あれから仕事増えたでしょ」
「そう、そこなのよ」
話に夢中になっていた綾乃はようやく自分の持っていたナイフが肉用のナイフだったことに気付き持ち直す。そしてそのままテリーヌとズッキーニのスライスをフォークで串刺しにするとナイフで3分の1ほど切り取り裏、表、切断面、とソースを染み込ませた。
「仕事は増えたよ。確かに」
口に入れると綾乃は恍惚の表情を浮かべる。
「やっぱりここは美味しいよねー。最高」
続けてもう3分の1、そしてワインを口に含むと最後の3分の1。あっという間に結女を追い越しナイフとフォークを置いた。
「あんた、相変わらずね」
行儀良く小さめに切り取ったテリーヌをゆっくりと口に運びながら結女がつぶやく。横では服装だけでなく髪型もパリッと固めた細身のウエイターによって結女のグラスへ2杯目のワインが注がれていた。
「そういえばゆめちんはもうアルコール大丈夫なの?」
結女はグラスに目線を送ると無言で口へと運ぶ。
「何年前だか、あったじゃない……」
「そんなの随分前の話だよ。もうとっくの昔に治ってる。大丈夫だよ」
結女の口調はゆったりしながらも重苦しかった。それを感知すると綾乃はすぐさま話題を変えた。
「それにしても久しぶりだよねー。こう、しっかり会うのも」
「そうね」
「多分、去年の事務所の忘年会とかが最後じゃない?ゆめちんそういうイベントものほとんど顔出さないからー」
「去年は行ってないわよ。一昨年は行ったけど。社長がGALETTAのステージ衣装のコスプレして痴態をさらしてた時」
「あ、それそれ、一昨年かー。そうそう、あれは最低だった」
「何が最低って、《処理》が万全だったところだな」
「そう。『今年見事デビューを飾った彼女たちを支えるために、おれは文字通りひと肌でもふた肌でも脱ぐつもりだ。当然、毛くらいいくらでも剃る!』とか言ってね」
「まぁ、昔からあのオッサンはあんな感じだったけどな」
「あ、そう言えば私たちがまだユニット組んで1、2年の頃にもさ、誰だっけ。お笑いのコンビが事務所にいただじゃない。当時は」
「ある程度売れてたやつらだとしたら、《ネオ・そふと》じゃない」
「そう、そんな名前のコンビ。彼らが渋谷でライブやったときに乗り込んで社長自ら舞台に立ったって逸話があったはず」
「へぇ」
「コントに出たんだって」
「何の役で?」
「踏まれて悶える豚奴隷」
見合って場違いに爆笑する2人。綾乃がテーブルを叩かんばかりの勢いで両手を振りかぶったが、さすがに思いとどまって膝の上に降ろす。結女も口に含んだワインを吹き出さないよう必死にナプキンで口を押さえる。
「SMねぇ……くっくっく、そっちの趣味があったとはねぇ。うちらもヒールで踏んでやるか」
息も途絶え途絶えに結女が言う。
彼女たちの呼吸が整いかけたところで様子を伺っていたウエイターが魚料理をテーブルに並べる。彼が落ち着いた口調で『平ビラ目のムニエルとジェノバソース』と言ったが含み笑いを耐えるので精一杯の彼女たちの耳には入っていなかった。
「そういえば、GALETTA。売れてるよねー。彼女たち。事務所の後輩としては誇らしいわー」
「そうね……」
「去年から始まった冠番組も好調だし、この夏に始まったドラマには3人とも主役か準主役で出てるしさ。それにここだけの話、みなみちゃんに某有名報道番組からコメンテーターでのオファーがあるらしいよ。事務所は年齢がまだ若過ぎるってのを理由を断ってるみたいだけど、ありゃ時間の問題ね。それに確かオンエアは明日か明後日だったと思うんだけど、例の《男のコ・女のコ》の4半期の特番。私も出てるけどね。GALETTAが司会でやったのよね。こりゃあもう、そういうことよね」
「そういう例はいくつもあるわね」
「そうするとさ、来期は司会が2本、ゴールデンの冠番組が1本、ドラマ、CM、レギュラー番組は数え切れず。ふぅ、疑いの余地無き売れっ子だわ」
清々しく完敗、とばかりに綾乃が手を広げたポーズを取る。
「前にさ、3ヶ月だか4ヶ月だか前にみなみちゃんが突然レギュラーに穴空けたことがあったじゃない。確か、かなり近い親戚に不幸があったとかで。それで一時期すごく落ち込んじゃって、とてもじゃないけど仕事はできない、って。あの時は同じ事務所の先輩としてはヒヤヒヤしたよ。やっぱ芸能界って厳しいところだからさ、ちょっとの隙を狙ってすぐに新人が出てきてポジション奪われちゃうわけじゃない。でもその点、彼女たちは自力があったよね。すぐに持ち直して今はこうだもん。私も彼女たちが司会ならやりやすくていいわー」
「ふうん。あまり接点が無いからわかんないな」
「あれ?ゆめちんそうだっけ?」
「GALETTAの3人で挨拶以外の会話をしたことあるのなんて……あの、一番若いコ、仲川みなみか。彼女とだけだと思う。その時、綾乃もいただろ?」
しばらく小首を傾げる綾乃。ああ、と口を開けて手を叩く。
「そうそう。彼女が《となりのリストランテ》のレポーターに抜擢されて、それでうちらのとこに聞きに来たんだっけね。よく初代がうちらだってことを知ってたよね。あれって最初は微妙な時間帯だったじゃない。確か夕方。そんなマイナーな時期をよく知ってたなって思った」
「どうせマネージャーか事務所の誰かが吹き込んだんだろ」
「まぁそうかもしれないけどね」
結女が2杯目を空けると酒のまわりのせいか熱っぽく話だした。
「あの番組さ、うちらがやってた頃はもっと情報番組っぽいテイストだったよ。私はあれの方がいい番組だったと思ってる。今は芸能人の顔だけで見せるような構成になってて内容が薄いし、実際紹介する店の質も落ちて来てて本分を失っているように私には見えるよ。ろくに下調べもせず、そこそこ売れててしゃべれるアイドルやらお笑い芸人やらを見繕って、はいロケです、はい食べました、はい撤収?そんなんで良い番組作れるの?はん。視聴者だって今はついて来てるみたいだけど、いずれこうよ。こう」
親指を下に向けてみせる。綾乃は圧倒されて乾いた笑みを浮かべる。
「はは……ゆめちん、まるでプロデューサーさんみたいだね……」
そんな綾乃に助け舟を出すがごとく絶妙のタイミングでパスタ料理が運ばれて来た。
「ラビオリのトリュフソースでございます」
今回は2人とも無言でウエイターの説明に耳を傾けた。そしてそのまま無言でフォークとナイフを手に取る。
綾乃は話題を変えようと必死に考えていたが、結女の口火の方が先んじた。
「第一、GALETTAだって最近仕事抱え過ぎなんじゃない?一時に比べると一個一個の質が落ちて来ているように私には見えるわ。当然そもそもは彼女たちの意識の問題ではあるんだけど、そこはまだ彼女たちは駆け出しなんだからもう少し周りがきちんとコントロールする必要があると思うの。彼女たちのポテンシャルと伸びしろを正確に把握して、仕事をきっちり管理して」
「GALETTAは……よくやってると思うよ」
綾乃のふてくされた口調と低いトーンに些か興を削がれて結女もトーンを下げる。
「ま、私には関係無いことだけどね」
無言のテーブル上にフォークとナイフが奏でる控えめな金属音だけがトツトツと響く。最初に重なった音は結女のグラスにワインが注がれる音、次に重なったのは綾乃の上唇が張り付いたような声だった。
「あ、そうね……ゆめちん、最近彼氏とかいるの?」
「いるよ」
結女は最後のラビオリを半分に切りながら答える。
「へーそうなんだ。どういう人?」
「IT系」
「へー、ベンチャー?外資大手?」
「そういうんじゃないよ。一応社長だけど、いわゆるリスクを取って博打を打ってるような会社じゃなくって、もっと固い商売。綾乃、いい?人生を仕事にかけてるような男と一緒にいたって、そこに女の幸せは無いわ。もっとゆとりを持って女性を愛してくれる存在じゃないとね。男ってものは」
「いい人なんだねー。それじゃあロスは彼氏と?」
「いや、今回は一人。買い物と馴染みのエステに行きたくてね」
「へえ、そうだったんだー」
ようやく無難な話題を見つけた綾乃は、ラビオリに続けて登場したメインの肉料理とデザートのケーキ盛り合わせを普段の3割り増しくらいの速度で食べ切ると、すでに5杯目のワインを空けようとする結女を尻目に「ちょっとトイレ」と言い残して席を外した。
「はぁ……社長さんから『最近結女がオチてるからたまには食事にでも行ってやれ』って言われたから仕方なく誘ったけどさ……ホント疲れる。せっかくの美味しいイタリアンが全然食べた気しないし……最低。時間の無駄無駄。今度からもし頼まれたら後輩にでも振ろうっと」
そのあと綾乃は社長からせしめた金で会計を済ませ、適当な言い訳と挨拶をして結女と別れた。
2
「頭痛い……」
照りつける日差しは、結女が両手で握りしめた日傘の効力を圧倒的に無効にせんがばかりの暴力的な熱量を誇っていた。結女は立ち止まりハンカチを取り出すと、額の汗を拭いながら恨めしそうにサングラス越しの太陽を睨みつけた。
「はぁ、めんどくさ……なんで私がこんなこと……よりによってこのクソ暑い日に……」
ブロック塀沿いに日陰を見つけると即座にその黒の陣地に入り込み数分間身を休める。蝉の声がうざったくなってきたところで再び歩みに切り替える。そんなことを繰り返しながら駅から数百メーターの距離をかれこれ30分はかけて歩いていた。
「結女は今、日本にいるとね?そしたらちょうどいいけん、宗次郎(そうじろう)伯父ちゃんの様子見たってよー。結女が訪ねたら伯父ちゃん喜ぶよー。せっかくだから久しぶりに顔見せたって。ね」
結女の母、靖子の言葉だ。
《宗次郎伯父ちゃん》こと山崎宗次郎は彼女、三ノ輪結女の母親の兄で彼女から見て伯父にあたる。福岡出身の結女が18歳で上京する際には伯父の宗次郎を頼って一時期世話になった。しかし当時から結女は宗次郎が苦手だった。
宗次郎は各地の名門小学校の校長を歴任し、教育改革による学力とスポーツの両立的向上を成果に教育委員会の委員長なども務めたバリバリの教育エリートだった。しかるべくして想像に難くないことに、当時結女が一歩目を踏み出した《タレント》という道は宗次郎にとっては決して好意的に受け止められるものではなかった。
一方結女としても、学業でも仕事でも順風満帆にエリート路線をひた走る宗次郎に、勉強もスポーツも中途半端だった彼女が、たまたま友人と一緒に応募した雑誌の読者モデルをきかっけにどうにか掘り当てた彼女なりの《線路》をとやかく言われることは我慢できなかった。
しかし幸か不幸かその結女が宗次郎に世話になった数年はちょうど宗次郎が抱えていた《街をあげた壮大なプロジェクト》の立ち上げへ大詰めのタイミングでもあったため、結女は留守の多い宗次郎とほとんど顔を会わせることなく、目立った大きな直接的衝突を起こすこと無く、双方お茶を濁すことができた。
実質宗次郎の妻、由紀子と結女の2人暮らしのような状態だった家にはそれを気遣って頻繁に息子夫婦が訪ねてきていた。息子の正宗(まさむね)は一人息子ということもあり宗次郎の基盤を受け継ぐ形で教師の道を歩んでいた。しかしそれは本人が100%望んで歩んで来た道というわけではなく、それなりの気苦労やプレッシャーと自らの折り合いをつけて選んだ道だった。そういう経緯もあって正宗は宗次郎に比べ柔軟性に富んでいて、結女にとってはある意味良き理解者でもあった。
また当時6歳の正宗夫婦の娘、柚子(ゆず)が結女によく懐いていて、結女もまたその愛らしさに魅せられていた。
当時東京ですっかり夜遊びの味をしめていた結女。それが大人しく家に帰る唯一の理由といえば「正宗たちが今晩食事に来るけど結女ちゃんは家で食べる?」だった。
宗次郎もまた初孫の柚子に対しては威厳もへったくれもなく猫可愛がりをしていた。《人格が変わる》とはこのことだった。そして正宗一家が加わった場では結女と宗次郎もいがみ合うことは無く、至極平和な一家団欒が構築されていたのだった。
しかし、そんな幸せは、転がり落ちるように終わりを告げられた。
結女はある程度仕事が入るようになるとすぐに宗次郎の家を出た。
そして結女が23歳になった春、正宗夫婦は事故で帰らぬ人となった。
信号無視のトレーラーとの衝突事故で合計10数台の玉突きの先頭が正宗の運転する車だった。前列の正宗夫婦は即死、後部座席にいた由紀子と柚子は重体で病院に運び込まれた。結女はロケで海外にいたためその場に居合わせることはできなかったが、彼女が帰国した時に聞いた知らせは「死者は3名。重傷は小学生の少女が1名」だった。
結果、親を失い生き残った柚子は唯一の肉親である宗次郎に引き取られた。しかし同時に妻、由紀子を失った悲しみに暮れる宗次郎はその反動か柚子の教育に対して異常なまでの執着を見せるようになった。そして宗次郎はプロジェクトにより一層打ち込むことで問題と向き合うことから逃げ、結女はこれらを見て見ぬ振りをし続けた。こうして山崎家の一家団欒は崩壊した。
その後、より一層の《鬼の形相》で改革を押し進める宗次郎は市長選に立候補し、そして見事当選した。命を削るような彼のスタンスに、誰しもが圧倒されるか惹き込まれるかのどちらかにならざるを得なかった。やがて宗次郎の前に立ちはだかる者は誰もいなくなっていた。
そして事故から5年後、彼の押し進める《教育改革産学連携プロジェクト》は莫大な費用と人間を巻き込み、皆に期待と新時代の到来を予感させ、そしていくつかの小さなほころびからあっけなく破綻した。
それとほぼ時期を同じくして柚子が自宅で自らの命を絶つ。原因はいじめだと報じられた。
こうして、伯父、山崎宗次郎の人生はほぼ終わった。
元々「昔から宗兄ちゃんは雲の上の人ごたるスゴか人やけん」が口癖だった結女の母は、宗次郎に対して変に気を使うことは彼のプライドを傷つけると考えていたし、実際一度は「福岡で一緒に住まないか」と誘ってはみたものも全く取りつくしまも無く断られた、という話を結女は母から聞いていた。
他の兄弟も一様に声をかけ、そして一様に断られたようだった。
「柚子ちゃんに、お線香もあげないとな……」
結女にとっても数年ぶりとなる山崎の家へとしぶしぶ歩を進めていた。暑いから、面倒だから、と理由を挙げてみたものも、気後れしている、という言葉が結女としてはしっくりくるのも事実だった。
山崎家の悲劇的なトラブルを目の当たりにし、それでも距離を取り続けた結女にとって、山崎の家は《若き日を過ごした懐かしの場所》どころか、むしろ知るべきものが詰まっていることを自覚しながらも開けずに放置し続けたさながらパンドラの箱のように思えた。
真夏の太陽は昨日より今日、今日より明日と地表の温度を押し上げ続けていた。
*
閑静な住宅地の中にある如何にも《旧家》という雰囲気の広大な木造一軒屋。ひとつの番地分の土地が宗次郎の家だった。ブロック塀の外からも手入れの行き届いた緑が伺える。結女は門柱をくぐると玄関でひと呼吸戸惑った。やはり気が進まなかった。
しかしその思考する数秒間ですでに額から汗がしたたり落ちると、結女は観念して呼び鈴を押した。
「…………」
留守なのか、応答が無い。もう一度押してみる。応答は無い。
さらにもう一度くらい押してみようかと浮かせていた右手を宙で翻し、額の汗をはじき飛ばす。
「留守なら留守で構わない」と結女はむしろホッとしてた。元々靖子から最近連絡がついていないと聞いていたので、これは想定の範囲内だった。とはいえ普通なら炎天下の中ここまでわざわざ歩いてきて「はい、不在でした」では徒労感が大き過ぎる。せめて冷たい麦茶くらい飲ませろよ、と言いたいところだが結女は慌てなかった。彼女はショルダーバッグに手を突っ込むと靖子から預かっていた鍵を取り出した。
そもそもなぜ母が宗次郎の家の鍵を持っているのか結女にとっては疑問だったが「伯父ちゃんから預かっとるとよ。私が持っててもなかなかよう使わんけん、結女ちゃんが持ってて」とのことだった。
鍵穴を回すと真夏の蒸し暑さには似合わない乾いた音が響いた。戸を開けると、中にはひんやりとした空気が漂っている。結女は勝手知ったるという所作で靴を脱ぎバッグを下ろすと、
「とりあえず死んでないことの確認くらいしとくか」と戸を施錠しながらつぶやいた。
口にしてはみたものも、結女は十分に確信していた。宗次郎が《自宅で孤独死》なんて考えられない、と。
長年、校長であり理事長であり教育委員会の委員長、さらには市長まで務めた宗次郎。全ての職は例の事件の直後に退いたが、そのほとんどが《勇退》の扱いであり、依然教育や市政に対して影響力を持っていることは明らかだった。「客観的には老害に他ならない」と結女は毒づいてみたが、この場ではその方がありがたい。どうせ何か用事があって家を空けているだけだろう、と結女は高をくくった。
玄関から廊下をすり抜けながら左右の部屋をひとつひとつ開けていく。居間、客間、台所、あの頃からほとんど変わっていない。正宗夫婦がいて、柚子がいて、由紀子もいたあの頃。
宗次郎の家の構造はいわゆる純和風家屋で、板の間の廊下は庭を横目に見るようにして伸びていた。そしてその一番奥、一階の最後の部屋が宗次郎の寝室だ。
「寝起きに……とかね」
襖を前に一応の心の準備をする結女。両手を揃えてまずは中が少しだけ覗ける程度、そしてそこから一気に開ける。
結女はほっと安堵の息を漏らした。入って左側にはノートや筆記用具が並べられた文机に座椅子、そして右側にはびっちりと何やら厚い書籍ばかりで敷き詰められた本棚と衣装箪笥が並べられている。いずれも和室らしい木のテイストで統一されていて畳からは藺草の香りがした。部屋の中はそれだけだった。
いずれにせよ宗次郎の不在の可能性は高まった。結女はため息をつくとそのまま踵を返し、続いて2階の探索を手早く済ませた。
「あー、もしもし、お母さん」
「結女ちゃんね。伯父ちゃんどうしとった?」
「やっぱ留守だったよ」
結女は来る途中のコンビニで調達したペットボトルのお茶で喉を潤す。すでに室温とほぼ同等で冷却効果はなく、あくまで水分としてしか機能していなかった。台所に行き冷凍庫を開けたものも、氷の作り置きはなかったようですぐに諦めた。
「そうね……困ったねぇ」
「何か用事でもあるの?」
「あんた、義男(よしお)叔父ちゃん覚えとうね?」
お茶で口内を湿らす作業に必死な結女は無言でスルーする。さすがにいくら10数年福岡に帰っていないとはいえ、母親の弟のことくらい覚えている、との無言の主張だ。いや、単に疲れ果てて返事が面倒だっただけか。
「今度、義男叔父ちゃんとこの長男の雅義(まさよし)くんが結婚式やるとよ。それで宗次郎伯父ちゃんも来れんかなーと思ってね。それが訊きたかったと」
「なるほどね」
自分はどういう扱いなんだろう、と一瞬思ったがそこも結女はスルーした。
「あんたさ、悪いけど伯父ちゃんにメモ残してってくれんと」
結女は「ああ、ちょっと待ってね」と声をかけるとリビングに戻り、先ほどの探索の際に見た記憶のあるメモ帳とボールペンをテーブルの上に発見した。母親から電話越しに受け渡される内容をひとつひとつ過去の記憶に照らし合わせながらメモ用紙の上に落としていく。日時、場所、駅前から、バス停の方を通って、ああ、高校の時の通学路だ、へーそこがホテルになったんだ、といった具合に。
「はい……はい……うん、オッケー」
「結女ちゃんありがとうね。助かったわー」
「これをわかり易いとこにでも置いとけばいいね」
「あ……そうだ、結女ちゃん。できたらね、同じのをもう一個書いて電話に貼っておいてくれない?」
「え、別にいいけど、何で?」
靖子は一拍置くと少し緊張感の増した口調で言った。
「結女ちゃん、あんたいつ頃から伯父ちゃんと会っておらんと?」
「そんなの……わかるでしょ、お母さん。4年くらい前だよ。ちょうどまだ4年経たないくらいか。柚子ちゃんがああなってから……」
「……そうね。そうよね。そうすると結女ちゃんは知らんかもしれないけど、あれ以来、宗次郎伯父ちゃんちょっとボケが来とるとよ」
結女にとっては理解を越えた一言だった。あの威厳の塊。強固な壁。知識と意地とバイタリティで構成されていたような男が、そんな一般的な老人のごとくボケるようなことがあるなんて、彼女にはにわかに信じがたかった。
「やっぱりショックなことが重なったけんね」
疲労と困惑からその後の靖子の話に結女は生返事を繰り返すのみだった。
好きだったわけではない、むしろ対極だ。憧れがあったわけではない。むしろ対極だ。
しかしあまりにも対極であり過ぎた故に結女はある種の喪失感を覚えた。
「最近は徘徊もあったんよ」
靖子の話によると完全にボケている、というわけではなく、いわゆる《斑ボケ》の状態のようだ。ほぼ普通の生活が送れているのだがところどころボケていて、本人からすると記憶が飛んでいたり突然自分が何をしていたかわからなくなったりする。つまり一緒にいる人間からすると、さっき話したはずのことをすぐに訊き返されたり、話をしている途中に突如まったく別の話を始めたり、という状況に出くわすわけだ。
記憶がごちゃ混ぜになるため、過去のことと現在のことが話の中で合成されたり、一般的には虚言としか分類できない荒唐無稽なことを言ったりすることもある。宗次郎の場合も例外ではなく、靖子によると
「おい、由紀子。いないのか」
「さっき柚子が生き返った」
「今日は教育委員会の会議があるから」
「いま正宗を呼んでくる」
「大地震で学校が崩れた」
「柚子が殺された」
「由紀子が病院で手術なんだ」
「誰かが向かいのビルから狙ってる」
「明日の朝礼でしゃべる原稿を作らないと」
「正宗のミルクの時間だ」
「みんなおれを殺すつもりだ」
以下、なんでもありだったようだ。
「本当はそれがわかってきた時点で兄妹みんなが伯父ちゃんを引き取ろうとしたとよ。でも《斑》やけん、平気なときは全く平気なんよ。でも逆にそういうときに説得しようとしても……そもそも私たち兄妹の世話になるのは伯父ちゃんのプライドが許さんけんね。だからそれならむしろ老人ホームに入ってしまえばね……伯父ちゃん、お金は持っとうけん」
その状況は結女にも想像は難くなかった。宗次郎は長男でその上優秀、エリート街道をひた走った男だ。学も無く、平々凡々とした兄妹たちを見下していたようなフシを子供ながら感じたことがあったからだ。
「でも、留守ってちょっと心配やね……」
「お母さんは……どのくらい会ってないの?」
「最後に会ったのはあんたと同じで柚子ちゃんのお葬式の時。あれが最後たい。そのあと電話で話したのも……もう随分前になるね……」
「私もできる限り顔を出すようにしてみるよ」と力なく言うと結女は電話を切った。
勝手にどこかへ行っている可能性も十分にあると結女は自分に言い聞かせた。
そうでなくては困る、そう本能的に感じたからだ。
一体、以前と比べて変わり果てた姿の宗次郎に会ったら「私は彼に優しくすることができるのか?」痴呆の老人に?そんなの当たり前だろう。しかし過去のしがらみというものはそう簡単に雪解けするものでもない。いっそ私の前では昔の厳しい伯父のままでいてくれた方が気楽だ。
結女はそんな葛藤を抱きながらも、とりあえず電話には先ほど机に置いたものより二回りも大きな紙に黒マジックで大きく「結婚式出欠の件、靖子に電話」と書いて、目立つ位置にでかでかと貼り付けた。お陰で電話自体はほとんど見えなくなってしまった。
「あ、お線香……」
仏間は廊下を通って宗次郎の寝室のひとつ手前にあった。6畳ほどの畳敷きの部屋にぽつりと仏壇がひとつ。明らかに空いていた部屋に取って付けた様子が見て取れた。全体の規模も部屋も比較的大きい宗次郎の家において、その一室だけが異質な雰囲気をまとっていた。生活感も無く、ただ冷ややかな死の雰囲気のみがそこにはあった。部屋の空気が唯一の生存者、結女の歩みをきっかけに循環を始める。戸から漏れ入る湿った外気。戸から漏れ出るひんやりと透き通った空気。その中間を結女は居心地の悪さを噛み締めながら歩いた。
仏壇は一般的なサイズで特別豪奢な代物ではなかった。開き戸は開いていて中に位牌と写真がいくつか置かれていた。正宗夫婦、由紀子、そして柚子。
仏壇は丁寧に掃除されていた。線香は少し湿気っていたが一束ほどあり、蝋燭も比較的新しいものが立てられていたのを見て結女はホッとした。結女は小さな引き出しからマッチを取り出すと蝋燭に火をつけた。左右両方に点けてしまったあとで別に片方だけで十分だったことに気付いたが、大事なのは雰囲気なのだから、と良しにすることにした。
線香を立て、手を合わせる。
結女は目の前の写真を見つめた。柚子のあどけない笑顔が印象的だ。しかしこれは彼女の享年からすると明らかに若過ぎた。その理由は結女にはわかっていた。この写真は正宗たちが亡くなる前のもの。それ以降の柚子にとっては、楽しい思い出も、こんな笑顔で写真を撮ることもなかったのだ。少なくとも結女の記憶では。だから遺影はこれなのだ。
写真の時期は柚子が小学校高学年の冬のものだった。その頃の柚子は同年の女子たちと何も変わりなく自然とオシャレに目覚め、何やら髪型を必死にいじっていた時期でもあった。と言っても髪を染めたりパーマをかけたりといったような年齢を逸脱したものではない。むしろどちらかと言えば大人しい、というほどではないがクラスでも特別目立つタイプではなかった柚子のオシャレは、非常に慎ましく質素でその分可愛らしいものだった。
「あの頃はいろいろと相談されたなぁ」結女は懐かしく振り返る。写真はショートボブにしていた時期のものだ。肩の数センチ上の綺麗なラインで切り上がったボブヘアーにピンクのピン留めが彼女なりのポイントだった。黒のタートルネックのニットに白のダウン。背景から察するにスキーか何かに行った時の写真のようだった。
「情けないお姉ちゃんだこと」
結女はつぶやくと指で軽く目元を拭った。柚子の死は結女にとっても強いショックと深い後悔の念を感じるには十分なものだった。正宗たちが亡くなった事故が起こる前、結女の仕事は順調だった。テレビのレギュラー、CDのセールス、グラビアの露出度、どれを取っても一流とは言えないまでも芸能界でそこそこのポジションを確保することに成功していた。しかしそれと前後して、事務所への仕事の依頼のレベルにおいてはひっそりと、徐々に、コトは始まっていた。ユニットでの依頼が減少しソロでの依頼が増えていたのだ。
それも、綾乃単独の。
結女がそれを感じ始めた時には既に遅かった。
あるときソロでの海外長期ロケの仕事を貰ったことがあった。写真集の撮影だった。それなりに際どいショットもあったが、そこは「自分もそろそろ大人の魅力を出さなければならない時期だ」とむしろ前向きに捉え、充実のロケをこなした気分でいた。そして帰ってきた時には、綾乃の仕事と結女の仕事は以降全く接点の無い分岐点をはっきりと二手に歩まされていた。
そして正宗夫婦と由紀子はこの世の者ではなくなっていた。
もう戻れない。
当初はその現実とシビアに向き合い、乗り越えるべく努力を重ねた結女だったが、現実は厳しかった。
事務所であぶれた仕事を拾う。必然仕事の質は低下し、自らの尊厳が踏みにじられる。もう諦めてしまおうかと心が揺れる日々が続いた。対照的にアイドルからマルチなタレントとして仕事の幅を広げていく綾乃。そして皮肉なことに綾乃が売れれば売れるほど、おこぼれにあずかることは増えていった。《元相方》として。
試行錯誤と自己批判にまみれた日々。結女の頭からは自分を慕ってくれていた可愛い姪っ子のことなど消えてしまっていた。彼女が亡くなる日まで、すっぽりと。
人が人のためにできることなんて多寡が知れているということは結女も自らの人生の中で理解していたが、話を聞いてもらえることだけでも随分とその痛みを和らげ、熱を下げる効果があるということもまた知っていた。
自分が何かできたのではないか?
そんな当たり前の後悔と自責の念を、絶やすこと無く灯し続ける線香のように、日々思い起こし心の端を焦がすことが結女なりの柚子への弔いのようなものだった。
「よし、切り替え、切り替え」
溢れた数滴の涙を拭うと、結女は宗次郎の家を後にした。
3
「今日も暑いですねー。もう夕方になったってのに外は昼と全然変わんないですもんねー」
アシスタントの友野(ともの)比市(ひいち)は回転椅子のロックを足で踏みながら言った。鏡越しに結女と目線があったが、結女はすぐに外す。
「そうね」
「それじゃ、まずは流しますんでこちらへどうぞー」
結女の素っ気ない返事に動じること無く比市の業務的定型句は続いた。
「足下お気をつけ下さいー」
「こちらですー」
「はい、倒しますー」
「首、苦しくないですかー」
椅子にもたれかかりながら目を閉じる結女。無言継続。
比市は結女の顔の上に薄いガーゼをかぶせると洗髪台へお湯を出し始めた。そして結女の髪を手に取ると丁寧に湯をつける。
「お湯加減、大丈夫ですか?熱くないですか?」
完全な疑問系で問いかけられようと無言を貫く結女。彼女は宗次郎の家の捜索で些か疲労していた。とりあえず静かに過ごしたかった。
比市はそれを敏感に感じると静かに、しかし卑屈ではなく落ち着いた雰囲気で結女の髪を洗う。最後に力強く絞り、花形が象られた上品なヘアクリップでまとめる。
「お疲れさまです。椅子起こしますー」
先ほどまで炎天下の中歩いていたこともあって少し汗ばんでいた頭皮が、一枚皮でもめくったかのようにスッキリしていた。新鮮な空気が注ぎ込まれているのが肌でわかる。結女は小さく深呼吸すると満足げに立ち上がり席へと向かった。
結女が席に座ると比市は回転椅子を正面に回し、ロックをかける。
「こう暑いと、シャンプーってスッキリしますよね」
比市の問いかけは明らかに結女のその様子を見取ってのものだった。パーマをかけた前髪の間から注がれた視線に、結女は少しの間だが油断していたことを後悔した。しかしすぐに観念して「そうね。気持ち良かったわ」とだけ応える。
比市は素直そうにニカッと笑うとカットクロスを整え「それでは、堀内(ほりうち)に替わりますので少々お待ち下さい」と言い残して次の仕事へと向かって行った。
ほどなくして美容師、堀内エリが現れた。腰から下げたシザーケースにはたくさんの道具が収められていてそれらがエリの動きと調和して金属音を奏でた。
「結女、久しぶりねー」
「そうね。久しぶり」
エリは結女の後ろに置かれた丸椅子に腰掛けると鏡越しにわざとらしく仰々しい様子で話しかけた。
「えー、本日はどのようなカンジで」
「いつものようなカンジで」
結女も少しふざけた口調で返す。
「りょーかい。結女、しばらく髪型変えてないけど、どうなの?色とかは?」
「色はまだ保つでしょ。今度でいいよ。髪型もねー。変える気はないな」
「あそー。ま、おっけーよ。今のバランス、結女に似合ってるしね」
「エリがそう言うならおっけーよ。エリがマズいと思ったら変えて」
「おお、一任かぁ。責任重大だね。美容師冥利に尽きるってか」
おどけるエリ。それを見て微笑む結女。
所々をヘアクリップで留め、外しては切り、切っては留め、また外しては切る。
「エリ、最近どうなの?店は」
「ん?順調だよ。お陰さまで」
ハサミを軽快に操りながらエリが応える。結女は目の前にあった雑誌に興味が持てなかった、という風で、手はカットクロスの下に収めたままだった。エリは特にそれを気にする素振りもなくクシとハサミを走らせる。たまにしか会うことのない中学の同級生。雑誌よりも雑談に華を咲かせたいのが女性の心理というものだ。
「そういえば、アシスタント。あれ新しいコ?」
「お、結女、気に入った?何なら紹介しようか?友野比市、22歳、彼女無し!」
「ばーか、何言ってんのよ」
口を開けてカッカッカと剛胆に笑うエリ。
「今月から入ったアシスタントでね。カワイイでしょ。仕事もできるしさ、お客さんからも評判良いのよ」
「ふーん」
「接客大好きっコでね。こうやってアシスタントやってるけど、美容師免許取ってないのよ、あのコ」
「ふーん、どういうこと?」
「大抵うちらの業界ってさ、高校出たら専門学校通って美容師免許取って、その後お店に勤めてアシスタントから始めてゆくゆくはスタイリスト、髪切る人ね、それになるのが目標」
「で、さらにゆくゆくは独立、と」
「そうね。私なんかはまさにそのパターン」
「高卒で勤めるコもいるでしょ」
「うん、いるいる。アシスタントのバイトしながら専門に通って、とかね。彼も入ったとき免許持ってないって言うから最初はそのパターンだと思ってたんだけどさ。なんか、取る気がないみたいね」
「何それ?ずっとアシスタントで良いってこと?」
「うーん、まぁ働きながら専門ってのも大変だし……あと、それより何より今の仕事が楽しいんだって」
「へぇ……あんま感心しないけど」
「あら、手厳しい」
「だってそうでしょ。ずっと今のままでいいなんて若者の考えることじゃない。怠惰だわ」
「まぁそういう見方もできるかもしれないけどさ、それって私たちが歳取ったから思うことかな、とか思うよ」
「昔は私たちも……って?」
「結女はどう?私はそうだった気もするなぁ。とにかく得意なこと、っていうかやってると楽しいことをやりたかっただけで、その先のことなんて考えてなくってさ。やり続けた結果が私は店を持つところまで来た、ってだけで。スタイリストになったときには『一生このままだったらそれで幸せ!』とか思ったもんだったよ」
「…………」
「結女は比較的勉強できたじゃない。ありゃ、私がひど過ぎただけかな?なかなか得意なこと見つけるの大変でさ、高校のときに悩んだもんさ、あー悩みましたさ。それで結果的には東京出て専門通って……結局は正解だったとは思うけど、あの時に今の姿まで予見してたか、なんて訊かれたら、もう当然ノーだよね」
ケラケラと笑うエリ。ハサミは止まらずに小気味良い反復運動を繰り返している。
「ま、いずれにせよ比市も考える時期がくるんだと思うんだよね。この後どうしようかって。それはそれであいつも分かってることだし、その上であいつは《今》を取ってるんだろうな、と私は思ってるんだ。なかなかカワイイもんでしょ?」
「そんなに言うならエリがたぶらかせばいいじゃない」
「あら、それはできませんことよ」と言いながら左手をヒラヒラさせる。薬指の指輪が店内の照明に反射して不規則な光を放つ。
「ふう。そもそも男がアシスタントだと気を使うんだよ……」
「あー、昔っから結女はそうだよね。芸能人なんかやってるくせに男性苦手でー」
「それとこれは関係ないでしょ」
「あー……うん、そう?」
目を見開いて口を尖らせるエリ、シャープな鼻息とともに答える結女。
「そうだよ。ふん」
「でもああいうコなら癒し効果もあるじゃない。なんかスッキリした好青年ってカンジでさ」
「ふん、そんな軽い判断で経営者が勤まるのかねぇ。堀内さん」
「むしろ今日び美容室は技術だけじゃ差別化なんてできないのよ。その点うちはね、技術は当然として(自分の胸を軽く叩く)それに加えた心理的癒しがコンセプトなの。知らなかった?」
「同郷の腐れ縁で来てる客に言わないで」
「あ、ひっどい、結女は私のウデを信用していないとでもー」
冗談っぽく睨みつける動きをするエリ。
「あらあら、お得意様から一任されてるんだから、もっと自分に自信を持ってくれないかしら」
「おー、そうだね。ヨシ、暑くてかなわんからバッサリ短くしよう、そうしよう、結女に似合うよ、間違いない。私に任せなさい、ヨシ、今日そうしよう、今そうしようー」
「ありゃ、変なスイッチ入っちゃった?」
鏡越しに笑い合う2人。そんなバカ話をしている間にもしっかりとカットを終えているエリ。さすがプロ、といったところだ。
「はい、じゃあちょっと切ったから一回流してまた整えるね。えーと、比市、手ぇあいてるかな」
「だから、いいって……」
「あら、いいコよー。そういや結女、いま彼氏は?」
「……あんた……仕事暇なの……」
「都合の良いことに結女の後は、今日は上がりの予定なのだ」
「……今は普通にいるよ」
「そっか、普通ね。良かった」
ハサミを片付けながらエリはつぶやく。普通という形容が文脈上どこにかかっているかはひどく曖昧で各々の解釈次第だったが、エリは彼女の質問の意図に対応した文脈で捉えた。エリの座る丸椅子が結女の背後に入っていたため、結女からはエリの表情は伺えなかった。
その後、結局結女にはしっかりと比市をあてがわれ(エリがわざわざスタッフヤードまで行ってひっぱってきた)流しそして続けてヘッドスパへと移行した。比市の接客は所々に慣れないバタツキを感じさせながらも一貫して丁寧で誠意がこもっていた。
終始無言だった結女が最後に「気持ち良かったよ」と一言だけ言うと比市は弾けんばかりの笑顔を見せた。
髪を乾かすところからは再びエリに役回りが変わった。ここら辺は店の混み具合に応じて流動的だ。エリは最後に毛先を整え全体を合わせ鏡で結女に見せる。
「うん、ありがと」
結女がそう言い立ち上がると別のスタッフが迎えに来た。奥から比市が顔を出し歩き出す結女を見送る。彼はこのエリアのスタッフなのでここまでのようだった。
会計を済ませ店を出ると空は赤と青のグラデーションにアンバランスなコントラストも手伝って、子供が絵の具をこぼしてしまった床の上のようだった。結女の歩みに合わせるように徐々に徐々にと混ぜ過ぎた絵の具は黒く黒くなり彼女の視界をゆっくりと支配していった。
「《今》が楽しい……そんなの私が言ったら言い訳にしかならないんだよ。わかるでしょ、エリ。過去なんていつもとげとげしていて、攻撃的で悲劇と後悔ばかり。未来なんてなんて、もやがかかってて真っ暗て見通せない。《今が一番》なんて消去法の気休めでしかないのよ。そんなもんでしょ。そんなもんじゃない……」
結女はつぶやいた。
4
「結女ちゃんはいつ見ても綺麗だよね」
結女は向かいに座る男性の言葉に一瞥もくれず、手元のオマール海老と格闘していた。
「知り合ってからかれこれ5、6年は経つけど。ホント、昔と変わらないよねー。いや、女性としての魅力はむしろ増しているように感じるよ」
結女は海老とのせめぎ合いに一段落つくとナプキンで軽く口元を拭い嘆息とともに言った。
「……丸岡さんはいつでもどの女性にもそれを言ってるんですよね」
「そういう誤解は勘弁してよ。おれはそんなんじゃないって」
丸岡は慌てて弁解するようなアクションを取るが、結女は怪しいものだと思っていた。
結女は客観的に整った顔立ちとスタイルの所持者だった。男性が10人いれば10人振り返る、と言うには趣味趣向という人類の神秘たる強固なハードルが存在するため困難だが、まず7、8人は固い、と言っても差し支えない容姿を持っていた。そのため丸岡の弁解は普段のそれよりも少し意味合いが濃い弁解だった。「結女は特別」そこまでは本音という意味で。しかしそんなことは結女にとってはどうでも良いことだった。
大手ホテルの庭園の中に作られたオープンテラスのレストランで2人は食事を取っていた。如何にも豪奢。一般人は立ち入ることが困難であろう雰囲気を否応なく醸し出している。
この店ではオープンながらも暑さに対応するために庭園の木々の間に冷気を噴出する機械を設置していた。店内のところどころに置かれた冷却装置があちらこちらでソフトなモーター音を立てていた。
「でも、結女ちゃんがこうやって食事の誘いに応じてくれて、嬉しいよ」
結女は「こいつ、いい加減しゃべってないで料理を食べろよ」と心の中で言いながら愛想笑いを浮かべた。いや、本人は浮かべたつもりだったが不十分で、まるでオマール海老のスジが歯にでも挟まったような動きになっていた。結女はその動きの不自然さを感じると、その《仮想オマール海老のスジ》をワインで流し込んだ。
丸岡隆二(りゅうじ)は元朽津木研究室の助手で、博士課程の際に開始した研究テーマにおける実験成果を元に起業し、今や日本有数の技術ベンチャーとして世界の注目を集める実業家の一人だった。実際は朽津木の的確なテーマ設定によって成果が上がり、起業の際には朽津木の人脈を利用して金策するなど、多くの部分で《世に広く影響力を持った朽津木教授》の助手、という立場が導いた結果だったのだが、当人はわかりやすく調子に乗り易いタイプだったため、研究と事業だけでは飽き足らず、今ではコメンテーターとしてテレビに出演しタレントまがいのことまでやるようになっていた。
結女とは《当時》からの古い顔見知りだった。しかし結女にとっては極めて気の重いことに、丸岡の存在はそれだけに留まらず、《朽津木教授と結女の関係》についての詳細を知っている数少ない人間のひとりだった。それもあって結女は《当時》以降、意図的に丸岡を避けていたのだが、再三のアプローチに根負けしたのと、このレストランに来てみたかったのと、そして今晩特に予定が無かったのでとうとう折れた。
しかし結女は明白に後悔していた。素敵なお店と美味しい料理とエロ心むき出しのアラフォーのおっさん。ひとつ欠けてくれていたらとても幸せに過ごせたのに、と。
「ワイン、ボトルもう一本開けようか」
もう飲むしかないな、と判断した結女は力強くうなずく。飲めばいいのだ。飲めば。
ウエイターが丁寧に注いだワインを計ったように3分の1ずつ3口で飲み干す。ウエイターが注ぎ、また飲み干す。一番高いボトルを頼み、また開けまた飲み干す。そんなことを繰り返した。
「結女ちゃん、今更だけど、アルコールは……もう良かったんだっけ?」
「もうとっくの昔よ……」
もうとっくの昔に結女の目は座ってきていた。丸岡もさすがに飲ませ過ぎたことに反省した様子だった。
「でも……《アレ》が3年前だよね。それからだったから……まだ《センター》から出てきて1年くらいだよね」
「十分昔の話でしょ。もう無茶飲みはしなくなったし。安心してよ」
冷静にしゃべっているようで普段の結女らしい毅然とした口調はすっかり消え失せていた。
「そういえば、ちょうどそっちの話になったからさ。僕も聞いた話で、教授のことなんだけど、実は彼……」
「その話はやめて!」
酔っぱらいの加減無しの声が響き渡った。幸いなことにオープンテラスであったのと周囲と席が離れていて緩衝地帯が広く取ってあったため、場を支配するほどの事態には陥らずに済んだ。しかし丸岡に結女がどれほど《その話題》を避けたいか、そして傷ついていて、さらには本人もそれを自覚していることを理解させるには十分な破壊力だった。
「もう……昔の話だから……あの頃は仕事とか、身内のこととか、いろいろあったのよ……だから彼と付き合ったこと自体が間違いだったのよ……」
「4年前のこと、だよね……聞いてるよ。親しい姪っ子が……」
「その後もいろいろあったのよ……いろいろ……」
「…………」
「……いろいろよ……いろいろ……」
結女はゆっくり首を斜め後ろに傾げると突如そこからまるで紐が切れた人形のように勢い良く首を前に突き出し丸岡の目を見つめた。
「いろいろよ、いろいろしたわね!彼を付け回したり、風評を流したり、手紙で嫌がらせしたり!いくつか彼の仕事をダメにしてやったりもしたわ!奥さんも見たんでしょうね、あの手紙!」
「結女ちゃん……」
「丸岡さんだって軽蔑するでしょ?だってさぁ、手紙で嫌がらせってさ、どうかしてるじゃない。綴るのよ、恨みつらみを。そんなんで気持ちが届いたら……届いたら……苦労しないわよね」
アルコール摂取による毛細血管の膨張と、憤慨と感慨と懐古と恥辱が結女の頬と眼球を赤く染めた。
丸岡は優しく結女の肩に手を触れる。
「結女ちゃん……ここのホテルに部屋が取ってあるんだ。スイートだよ。ちょっと酔い覚ましに休憩していかないか?」
彼女の口から出た言葉はYESだった。
一つ漏れていた。丸岡の誘いを受けたもっとも大きな理由。独りで夜を過ごすのが嫌だったのだ。
5
結女のマンションは閑静な住宅街の中にあった。
入り口はオートロックで監視カメラ付き。仰々しいスロープは「このスロープがあることで、必ず皆がここを通らなければマンションの中には入れません。そうすると必ずカメラに映ります。わかりますか。つまり防犯の一環なんですよ」とセールスの際に愛想の良い販売員から説明された。
全31階建ての中央は吹き抜けになっていて、その中庭はちょっとした庭園としていつも手入れが行き届いていた。
結女は近所付き合いなど皆無のため、このマンションに誰が住んでいるのかなど全く把握していないが、他の住人にとってしてもほぼ同じことが言えるのだろう。こんな高級家屋に住む人間というものは、それぞれ多寡は違えど様々な事情があって然るべきというものだ。関わらないに越したことがない。お互いに。
結女は昼過ぎに帰宅するとシャワーを浴びベッドに倒れ込んだ。目を覚ますと既に夕方とはいえない時間になっていたが、結女はそれをむしろホッとした思いで受け止めた。こんなにもぐっすりと眠ることができたのは久しぶりだった。
携帯を手に取るとメールの受信音は何回かなった記憶はあるのだが、受信トレイにはひとつもメールが無かった。以前バーで知り合った、このテのことに詳しい男性に頼んで設定してもらったのだった。不要なメールはゴミ箱へ。迷惑メール、宣伝、チェーンメール、別れた男、そもそも興味の無い男。つまり、丸岡からの愛をささやくメールは本日も結女の目に触れること無くゴミ箱送りになったのだ。
結女には最近ハマッていることがあった。それはネット上での様々なアクティビティだった。元々ネットいってもメールや買い物くらいでしか利用していなかった彼女だったが、当然それはネットのごくごく一部でしかない。
ITという言葉がすでに時代遅れであるように、ネットはすでに《テクノロジー》などといったなんだか仰々しいだけでボヤけた特別な価値のあるものではなく、ヒトのコミュニケーションや自らを高める上での《便利な道具》という極めて明確な形に醸成されている。彼女はそれを《センター》にいるときの更生プログラムの中のひとつで学んだのだった。本来は就業訓練的な側面を意識して設立されたプログラムだったが、彼女にとっては新たな出会いと言っても過言ではない非常に貴重な体験だった。
特に最近のネットでのコミュニケーションは、特別なツールやソフトウェアの知識が不要になっているところが注視すべき点だ。現に、携帯の迷惑メール設定もろくにできない機械音痴の結女が、少し勉強しただけでとあるコミュニティの中心人物になっていたりする。
世のアフォーダンス(パッと見ただけで使い方やそれが何物なのかがはっきりと解る機能美)はソフトウェアの革新によって押し上げられている。プログラミングの文章構造のことを《言語》と言うように、テクノロジーは複雑なことを噛み砕き、一般常識さえあれば感覚で右も左もわかるような世界を構築してきた。もはや《ハードウェア恐怖症》は必ずしも《ソフトウェア恐怖症》に繋がるものではなくなっているのだ。
結女の主催するコミュニティは女性の悩みをぶつけ合うことを趣旨としたものだった。結女がネット上に吐露していた愚痴に徐々に反応を示す女性たちが集まりだし、いつしかそれと申し合わせてコミュニティを立ち上げた。
立ち上げる、と言うと如何にもひどく困難な作業を苦心に苦心を重ねて達成したかのようだが、あるベースになっているSNSが存在すればそれは極めて容易い。実際、結女たち数名の《機械音痴》たちの力で十分に可能な作業だった。
立ち上げて1年、現在のメンバー数は1万を越え、1日あたりのアクティブユーザー数は1000から2000を誇るそれなりの規模のコミュニティに発展していた。結女は他数名とともに管理者の権限を持っていて、手分けをして書き込みの監視と不適切な文書の削除や、不適切な行為におよんだユーザーからのアクセスのブロックなどを行っていた。
モデル、アイドル、などという結女の経歴からは全くもって真逆と言ってもよい平凡な作業だったが、結女は気に入っていた。
「管理するという行為は、悪くない」
所有欲や自己顕示欲を手軽に満たすことができる場でもあった、ということだ。
PCを開くと昨晩もいくつも書き込みや新規の話題があったようだ。
彼氏の浮気の相談、職場での上司のセクハラ、こういう男性と結婚すべきかどうか、キャリアアップのための転職について、オススメの婚活サイト、女性ならではの病の悩み……
様々な話題が共有され、サポートやアドバイス、ときには叱咤激励が、それらもまた共有されていた。順にそれを舐めていく。
そして昨日アップされた新規のスレッド、その最後のひとつで結女の手が止まった。
「初めまして、ringといいます。今日は初めて書き込みをさせていただきます。今、私は不倫をしています。でも、不倫だということを知らなかったんです。彼は奥さんも子供もいることを隠していたんです。彼が家族といるところを偶然見てしまったのです。彼は明らかに私のことに気が付いていたのに、まるで赤の他人のように振る舞いました。私は何も言えずに立ち尽くしました。こんな状況、どう思いますか?ぜひ皆さんの意見をお聞かせ下さい」
新しくアカウントを作ったばかりのユーザーからの書き込みだった。昨日の夜の書き込みにも関わらず、すでに多くのコメントが書き込まれていた。擁護する声が大半で中には「自分も似たような経験がある」と自らの体験談を書き込んでいる人もいた。かなり盛況なスレッドだ。
「コメントありがとうございます。皆さんの言う通り直接会うべきだと思って、実はそのあと彼と会いました。すると彼は完全に開き直っていて、自分の何がいけなかったのかわからない、という態度でした。私は彼を散々なじったのですがそんなことでスッキリするわけがありません。むしろ虚しくなってしまって、私はすっかり落ち込みました。もう、全てがどうでもよくなってしまって。ちょうどその時期は仕事でも落ち込んでいたのもあってダブルパンチでした。元々アルコールは飲む方だったのですが、それがきっかけで私はひどく酒に溺れてしまい身体を壊して入院しました。それで最近アルコール依存症の更生施設から出てきたところなんです」
かなり深刻な話に展開したため第一声に対するものよりも幾分コメント数が減っていたが、その分心底彼女の身体を気遣った反応ばかりだった。
「皆さんの優しさに涙が出そうです。勇気を出して書き込んで良かったです。身体はもう大丈夫です。でも、最近は不眠症と、仮に寝れた場合でも眠りが浅いのかよく夢を見ます。それも大抵が良い夢ではありません。先日も最悪な夢を見ました。しかもそれを何度も見るんです。かなり辛いです」
夢は深層心理の現れるものと言われているが、脳科学から考えてもそれはさほど間違った話ではないという。海馬のいたずらか、大脳の入出力系のノイズか、いずれにせよ、夢は外からではなく内側から生まれたものであり、したがってそれを読み解くことは重要で、その自らの深層心理に背を向けてはいけない、という意図の書き込みが入っていた。
「私の汚い部分を見せるようで少し気が引けますが……わかりました。やっぱりみなさんにも話してみます。彼はある大学の教授なのですが、夢の舞台は恐らく大学のどこか校舎の屋上で、ぼんやりとしながらも暗かったから夜なんだと思います。彼はこちらに背を向けて何かを話しているんです。話しながら彼は徐々に屋上の端の方に向かっていくと、そこは柵が無くて膝下程度の段差があるだけでした。私は一言も発しませんでした。いや、発することができませんでした。しばらくして彼が何か短くつぶやくと、私の身体が何かに取り憑かれたように制御不能になって、彼の背中を全力で押すんです。そして彼は声も上げずに視界から消え、すぐに鈍い音がどこか遠くで響きました。私は怖いのに逃げられず、屋上の端から顔を出そうとしたところで……毎回夢が覚めるんです。不思議とその夢を見たあとは、彼のことを許してあげようと思ってしまうんです。苦しいのに苦しくない、というか」
結女は肚の奥からの吐き気を感じた。
彼女の書き込みにいくつも解釈やアドバイスが書き添えられていた。
結女は胃液の這い上がる感触を覚えた。
彼女の書き込みには批判も寄せられていた。
結女の身体は無様に前屈みに折れ曲がり漏声とも身体の軋みとも判別のつかない低い悲鳴を上げた。
彼女の書き込みはメンバーたちの関心を集めていた。
結女の視界は歪んでいた。
彼女の書き込みはそこで止まっていた。
結女の手は《削除》のボタンを押していた。
そしてその場で昨日摂取した全てを吐き出した。
*
「比市。お前、明日の夜ってヒマ?」
床のモップがけをしていた比市は壁に立てかけるとシザーケースに入れてあった手帳を取り出して指でなぞる。言うまでもないがカットすることのできない比市のシザーケースは手帳とピンがいくつか入っている程度でほぼ空っぽだ。
「えーと、ですねぇ……」
ペラペラと手帳をめくる比市に業を煮やしたエリが手帳を覗き込む。
「ほら、今月はこのページ、で、今日はここでしょ、だからここ」
「あ、すみません。ありがとうございます。えーと」
「ん?なんか変だな、この手帳」
突然のエリの言葉にキョトンとした表情の比市。
「この手帳ってほら、日曜が一番右端に来てるのな。普通って日曜は週の始めだよな」
「あー、確かにそうですね。全然意識してなかったですけど。でもそもそも日曜が最初って違和感ありますよね。普通の人は土日が休みなわけだから」
「キリスト教から来てるってをどっかで聞いたことあるけどな」
「ああ、日曜日が確か《安息日》ってやつですよね。あれー、でもこれイタリアのブランドなんですけどね。イタリアって敬虔なクリスチャンの国じゃありません?」
「……お前、妙なことに詳しいな」
「いや、《ローマ法王》っているじゃないですか。それでなんとなくです」
「意外と意見はいろいろってことじゃないの?ビジネス用途なら間違いなく月曜が週の始まりの方がスッキリするだろうしな。こう見ると、確かにお前の手帳の並びは見易いよ」
「いやー単純にデザイン気に入って買っただけなんですけど」
エリはピンクっぽい装丁でまとめられたファンシーな手帳を見ながら苦笑いする。しかしそれはそれで不思議と比市に似合っている、とも思った。
「まぁ週がどうのなんて、どのみちうちらには関係ないけどな」
「いやぁ何せここで働き始めてから平日休みなんで周りのみんなと休みが合わないのが当たり前になってたから、ぶっちゃけ月曜も水曜も金曜も大差ないですよね」
「そういやあんたってここに来る前何やってたの?専門学校じゃないんでしょ?」
「えーと、専門は専門でもグラフィックの専門を出てて……そのあとちょっと働いてました」
決まりの悪そうな態度の比市。
「えー、すげぇじゃん、初耳。グラフィックデザイナーってことでしょ?びっくり」
「いやぁ、全然。たいしたもんじゃないですよ……確かに仕事に名前をつけるならグラフィックデザイナー……なんですよね。広告のレイアウト作ったり、グラビアとか、ファッション紙の紙面を作ったり」
「そんな特技があったとはねー。今度うちのチラシのデザインお願いするわ」
「いやぁ、そもそもおれの得意分野って画像の加工とかCGとかなんですよ。で、仕事でやってたこともほとんどが例えば芸能人の肌きれいにしたり、足を細くしたり、不自然じゃない範囲で目を大きくしたり、とか。整形ですよ、整形。くだらない話です。そりゃ腕には自信はありますよ。絶対バレないようにできます。でもやっぱり仕事にするようなことじゃなかったなぁと思いましたね。前職で」
比市にしては珍しい吐き捨てるような口調から、謙遜ではなく本気で嫌だったということがエリには伝わった。
「そりゃ、嫌になちゃうよな」
「ま、それでもうスッパリそっちの道は止めようと思いまして。それでたまたまここの求人を見つけてお世話になることになった次第なんですよー」
短くため息を吐くエリ。
「はぁ、なんか真剣なようでどっかでノリが軽いわねぇ、お前は……そうだ。で、明日は?」
比市は再び手帳に目線を戻す。
「はいっ、ヒマです、ね」
「よーし。たまにはお姉さんたちに付き合いなさい。いいね!」
「はい、かしこまりました!」
左手で再びモップの柄を掴み、右手に持った手帳で敬礼するようなポーズを取る。
「お姉さん《たち》ってことは、他には誰がいらっしゃるんですか?」
すぐに比市の動きは仕事へと切り替わり、床に散乱する毛髪の塊をモップで巧みに集める。
「結女って昨日来たじゃない。私の同中の。あいつ誘うつもり。確か明日空いてるって言ってたから」
「3人ですか?」
「あん、不服かね?」
エリはハサミを逆手に握りしめると比市をギラリと睨みつける。
「逆ですよ、逆。両手に花だなんてラッキーだな、って」
比市はまったく慌てた様子もなく切り返す。エリは「どうだかなぁ」と言いながらも口元は笑顔だ。
「でも、どうしたんですか、突然。エリさんから人を誘うなんて珍し過ぎですよー」
「何よ、そのまるで私が偏屈な社会不適合者みたいな言い方は。私だってまともな社交性は持ってるのよ」
エリの不機嫌そうな態度に比市はたじろぎながらも応える。
「いやぁ、でもスタッフの皆さんは、エリさんを飲みに駆り出すのは大変だって。あと」
「あと、何だよ」
エリの下からのえぐるような上目遣い比市はマトリックスのごとくかわしなが誤魔化す。
「えーと、ですね」
「ふん。出不精だってんだろ。ま、自分でも自覚してんだけどねー。休日とかめったに出かけないしね」
「なんか、意外ですよね。イメージと違うって言うか」
「まぁね。私わりかしワーカホリック気味だからね。休日はボーッとしちゃうのよ。何もやる気しないしねー」
「それはあれですよ、仕事をやり切ってるから休日はしっかり休養したいっていう、オンとオフの切り替えがしっかりしてる、ってことじゃないですかね」
比市はエリの表情を伺いながら明るく切り返す。エリはそれを感じて感心しつつ呆れたようにため息をつく。
「あんたってつくづく気遣い男よねー」
「それが取り柄だと思ってるんで」
「たいしたもんだわ」
比市は再びモップ仕事にせいを出し始める。エリは手際良くハサミを始めたとした自分の道具を丁寧にケースにしまう。
「実際、今回は特別結女に話ときたいことがあってさ。メインはそれで、あんたは酒の肴。ひょっとしたら脇から舞台をひっくり返すかもしれない私所有の魚雷よ」
「あはは、魚雷でもパトリオットでもやりますよー。エリさんの御用命とあらば」
比市はおどけて見せながらもエリの若干曇った表情を敏感にとらえた。
「……ひょっとして何か深刻な話なんですか?」
「いやぁ、まぁ別に、そこまですぐに何かってわけではないんだけど……嫌な話っちゃ嫌な話だね」
比市は無言で掃除の手を動かした。エリが言いたいなら言えば良いし、言いたくなければ言わなければ良い、という気遣いだった。
エリはそれを感じ取ると「お前にならいいや。どうせ明日話題にするんだし」と切り出した。
「私の従兄弟に警察官がいてさ。まぁたまにいろいろと情報を流してくれるんだわ。そりゃ当然他人のプライバシーに関わるような情報とかじゃないよ。むしろ周りの近しい人たちに関わるような情報についてね。結女はその私の従兄弟、嵭崎(ぼうざき)望(のぞむ)って言うんだけどさ。その望とも顔見知りでね。飲みに行ったり一緒に遊んだり程度の付き合いはあったんだよ」
「なるほど」比市はとりあえずの相槌を打つ。
「で、その望が言うには、最近結女のマンションの周りで不審者がいるって周囲の人たちから通報があったらしい。それで捜査に駆り出されていろいろと住民の人たちの話を聞いていくと、その不審者、30前後のやせ型の男らしいんだけど、そいつがマンションを出入りする人とかにしつこくいろいろ聞くんだって。根掘り葉掘り」
「はぁ、あからさまに怪しいですね」
「それを統合して、整理していくと……やつが訊いてるのって完全に結女の部屋についてなんだよ」
「……ストーカーって、ことですかね」
「まぁ十中八九」
エリも比市も完全に手を止めていた。
「これは望の受け売りなんだけどさ。一見セキュリティの固そうな最近のマンションって意外と危険なんだって。まず、結女の住んでるとこって閑静で小洒落たとこでさ。そういうところって間違いなく近所付き合いが皆無。だから不審者の境目って判断難しいんだよ。加えて住人がお互いに不干渉を貫いちゃってるから不審者情報自体がなかなか入ってこない。今回の通報も発端はマンション以外の周囲の住人からだったらしいよ」
「我、関せず、ですか。世知辛いですね」
「おま、言うことオッサン臭いなぁ……ちなみに望の情報によると結女が住んでる階の2個下の階には不法入国の斡旋してる組織の元締めがいて、両隣の部屋に一時的に住まわせてるっていうし。そういうのの温床になってたりするだよな」
「そう考えると恐いっすね」
「そして建物も豪華な造りをしてると得てして形状が複雑になるもんだ。そうするとその分いろんなところに死角も多い。そりゃ当然防犯カメラとかもあるんだろうけど、死角の無い監視体勢なんて見たことないって望は言ってたよ。結局は経費と割が合わないんだとかでなんやかんやいって隙間だらけなものだってさ。あと出来が良い壁や床だと何かあったときに音が響かない。他のマンションの話では、ヤクザ屋さんの37口径が火を噴いたのに隣の住人がまったく気付かなかった、なんて例もあるっていうよ」
「うち、ボロッちいアパートなんで、隣の人のため息が聞こえるんですよ。しかも夜の仕事の人みたいで、その人が家に帰ってくるとコンビニ袋を下ろす音とワンテンポ遅れて《ふぅ……》って。でもそっちの方が逆に安心、ってことですかね」
「そういうことだね。もしお前が何かから狙われるような事情があるんだとしたら、今の住まいはベストチョイスかもしれんよ」
「はは、狙われるなんて。借金取りくらいですかね」
「ま、防犯って意味ではまずは極力一人にならないこと、とはいえさすがにいつもってのは現実的じゃないから、次に意識するべきは極力行動パターンを固定しないことらしい。帰り道や電車の降りる駅や時間を日々変えてみたり、朝出かけたり、夜出かけたり。で、ことストーカー対策って意味では一番良いのはしばらく別の場所で暮らすこと。それでも続くようだったらいい加減警察も動くつもりだって言ってた」
「なかなか、女性の一人暮らしは大変ですよね……彼氏の家とかに避難した方がいいんじゃないですか?」
「あ、お前聞いてた?」
しまった、という顔をする比市。すぐに観念して「いやー、はや。口が滑りました」
そしてきっちり90度に身体を曲げ、頭頂のとことで右手で「ゴメンナサイ」をする。
「あれ、嘘だよ」
乾いたトーンでエリが言う。
「え?そうなんですか?」
「まぁ、勘だけどね。多分当たってる。あいつそういうとこあるんだよなぁ。弱みは見せない。いらん嘘をつくっていうか」
「はぁ、複雑な女心ですね……でもそれじゃあ一時退避するにしても場所はどうするんでしょうね」
「ま、普通に考えればホテルとか友達の家とかな。実家に帰るっつう距離じゃないし。福岡だからな。あ、でも、防犯上一番優位なのはお前のボロアパートか」
比市は両手を広げながら「結女さんが戦前古来の建築様式にご興味がお有りでしたら」とおどける。
「とはいえまだ何が起こってるわけでもないからさ、過剰に心配させちゃってもアレだから、電話やメールじゃなくて直接会って話そうと思ってね。せっかく肴もいるし」
「肴……ですね。ハイ」
「ま、そういうことでキミには明日はお姉さんたちが奢ったるよ。お前の給料は経営者の私が一番よく知ってるしなー」
エリが剛胆にカッカッカと笑うと比市は弱々しくいじけたそぶりをする。
「……一度の奢りより給料アップの方がありがたいんですけどぉー」
「お前、今のは失言だな。よし、明日は割り勘だ。少なくとも私は奢らん」
「えー、あんまりですよ、それなら前言撤回ですっ!」
比市の強めた語尾もエリにはまったく意味を持たない。否、最初からからかい目的なのだが。
「もう手遅れだねー。まぁ、結女におねだりするんだな」
「えー、そんなぁー」
*
携帯のLEDが点滅している。メールだ。しかし結女は床に突っ伏したまま身を起こすことができなかった。
通常、人間は他者からの悪意を向けられることについて強い恐怖心を抱く。
人によっては自らの悪意に対する耐性を誇らしく語るような愚か者もいるかもしれないが、それは精神力の強靭さの証明ではなく想像力の欠如の現れだ。畏怖の念が想像から生まれるものである以上、その多寡はまさに等号で結んでも差し支えない写し絵だ。
結女に突きつけられた悪意は彼女に多くのことを想像させ、その意図するところか意図せざるところか、彼女の心を見事に打ち砕いた。
私に向けられたメッセージ
狙われている
何が、どんな理由があって
わからない、確実に、でも、悪意、危険だ
気力を振り絞ってどうにか起き上がると神経質にカーテンを一度閉め切って、そしてその手で少し隙間を開けて窓から外を垣間見た。すっかり真っ暗になった周囲にを見下ろすと足下の点々とした住宅の明かりと遠方の繁華街の明かりが結女の視界を少しだけ癒した。
結女がこのマンションを買った際の決め手のひとつはこの夜景だった。五月蝿過ぎず、すこし寂しさを感じさせながらも優しさをたたえる明かりの集合を見ていると、自分が世の中の一部であること、そして世界が自分を歓迎してくれているように思えた。
しばらくぼんやりと夜景を眺めていた結女は、呼吸が整ったのを感じるとスッと目線を部屋へと戻した。
「…………」
時刻はもう0時を回っていた。大通りも人はまばらで、ましてやマンションの前の道など人通りはない。あるとしてもこのマンションや近所の家へと帰宅する住民だけだ。
違和感。
自らが唾を飲み込む音が、結女にはまるで蛇が蛙を丸呑みした生々しい殺戮の音のように聞こえた。そして飲み込んだ唾液は深く大きな陰鬱の味をしていた。結女は指先で軽くカーテンを開けてそこから再び覗き込むとすぐに飛び退いた。勘違いではなかった。結女は急いで部屋の電気を消し、息を潜めた。
路地から誰かがこちらを見ている。
身を隠すつもりなどない堂々たる態度で、街頭の灯りが煌々とさす場所に立っていた。髪が長くサングラスをかけているようで人相はほとんど伺えなかったが、結女の見立てでは30代前後。痩せ形の男性だった。
「私のこと……知ってる……?」
昨日の今日のことでは、結女にとっては全てのことを結びつけて考える方がむしろ自然だと考えられた。
携帯を手に取る。
「誰か、誰か……」通話ボタンを押し、アドレス帳の上からなめていく、下ボタンをカチカチと素早く押しながら。
誰か、誰か、一緒にいてくれて、頼りになって、安心できて……
心が安らぐ人……
やがて結女の下ボタンを押す動作は虚しく空転した。アドレス帳の一番下だ。
そんな人間、結女にはいなかった。そんな場もなかった。友人らしい友人も、真剣に想ってくれる人も、頼りになる人も。
結女は自らの業を噛み締めた。友人らしい友人を作ろうとしなかったし、真剣に想っている人もいないし、自らを頼ってきた手を振り払って、そして今があるのだから。
頼りになる、頑健、というイメージで一人の名前が浮かんだが、そもそもアドレス帳に入っている者ではなかったので意識の中に閉じ込めた。
画面上では携帯のメール受信を示すLEDが点滅している。そしてそのメールの主、堀内エリも結女にとっては例外ではなかった。メールには添付ファイルがあった。恥ずかしがる比市をエリが無理矢理撮ったと思われる写真で本文には「明日3人で飲むぞー」とある。
元々エリと結女との仲は《同じ中学校の同級生》というフレーズで過不足無くきっちりそのまま表現できるものだった。結女はクラスでも比較的大人しい存在で、真面目ではあるが特別優秀なわけではなく、何か自分から主張するわけでもない。そんな存在だった。
彼女の容姿は幼い頃から整っていたが、それは中学生にとってはあまり有効な用途のあるものではなかった。実際、たまの《恋愛イベント》では男子からのありがたくないアプローチによって結女としては鬱陶しくて面倒な目に遭うくらいで、それ以外において彼女の存在は見事に周囲に埋没していた。
それに対してエリは極めて活発で、その活発さが余り余ってか、《善くも悪くも》と言ったら明らかに擁護し過ぎなくらい悪い意味で日々の話題をさらっていた。わかり易く具体例を用いて表現すると、制服を改造し、バイクを改造し、トイレでタバコを吸い、夜ごと溜まり場で乱痴気騒ぎをやる、といった類いのやんちゃっぽりだ。
そんな2人は在学中にまったく交わることもなく、以降交わることもお互い考えるまでもない関係性のまま卒業していった。
しかしきっかけはエリが最初に勤めた店。結女は以前からそこに通っていて2人はスタッフと顧客という形で再会した。その際にお互いが口にしたようにその日は2人が「まともに会話した初めての機会」になった。
中学当時から見ると一見劇的に変わったように見える結女。エリはその表面的にはきらびやかな明るさの奥に何か暗いものを抱えていることを感じた。
中学当時から見ると劇的に丸く友好的になったエリ。結女はそれに薄ら寒さを感じた。
しかし、お互いに思った。
「まぁやっていけないことはないな」と。
そして友人付き合いに《似たようなもの》が始まった。そして続いている。それだけの話だ。
甘えても良いけど頼りになんてならない。そんな関係じゃない。この男もどんな人間かわかったものじゃないし、そもそも私のことをわかってる人なんていない。
結女はエリに断りのメールを入れ、携帯を閉じた。
6
移動は日中だと考え結女は8時になったところで行動を開始した。通勤ラッシュの時間帯だ。
結女は《例の男》を撒くことにした。
この時間帯は周囲に極めて人が多くこちらが《例の男》を補足することが困難であるのは確かだが、しかし逆に向こうにとっても人が多く動きにくい上に常に目撃者がいるためうかつな行動に出ることはできないはず、と考えたのだ。
結女はあからさまに大きめのボストンバッグに当座の荷物を詰めて家を出た。《例の男》が見ているだろうことなど覚悟の上。むしろそれを利用することを考えていた。
結女は不思議とワクワクしていた。
手始めに通勤の列に混ざり、最寄り駅へと向かった。駅に着くとそこから電車に乗り2度の乗り換えをしながら目的地の駅を目指した。そして駅の改札を出るとそのままタクシーに乗り込みホテルへと向かった。
電車とタクシーを使い分けたのは、仮に《例の男》が結女についてきていたするとタクシーを利用するしかないがこの駅はオフィス街に隣接していてほとんどの者が徒歩だ。したがってタクシーは否応なく目立つのだ。結女は運転手に行き先を告げると視線をタクシー乗り場へと向けた。
信号待ち、赤から青へと変わり車が緩やかに動き始めるまで凝視し続けたが、結女のあとにタクシーに乗り込む者はいなかった。結女は大きく息を吐くと背もたれへ思い切り寄りかかった。これでほぼ、振り切ったと見て良いだろう。
このまま姿を眩ませば《例の男》ともおさらば。どこかでほとぼりを冷ましているうちにいなくなるだろう、と考えていた。
しばらくするとタクシーは大通りを外れた。そして2、3の角を右へ左へと折れるとオフィスビル郡の合間に鎮座した高級ホテルへとたどり着いた。
結女は運転手に料金を払うと微笑を浮かべてタクシーを降り、カウンターへと向かった。
結女がカウンターで用件を伝え終わったところで、入り口にタクシーが一台乗り付けられた。当然結女もそれに気付いていたが、あえて気付いた素振りはせずに愚鈍として振る舞った。
結女の計画の前には、あのタクシーに乗ってきた人間が《例の男》であろうとあるまいとどちらでも構わなかった。いずれにせよ、ここでケリだ。
結女はポーターが案内するがままに無造作にエレベーターに乗り込んだ。そしてそれにポーターが同乗する。エレベーターの表示は上階を目指して上がっていき、やがて最上階を指し示したところで止まった。
そしてしばらくすると表示は下降し始め、ポーターひとりが地階へと降りてきた。
*
「んー、ミッションコンプリート」
結女は伸びをしながら代官山のオープンテラスで食事を取っていた。
「我ながら凝った仕掛けをしたものだなぁ」
そもそもどこまで《例の男》が付いて来ていたのかもわからない。さらに言えば本当に《例の書き込みの主》と《例の男》が同一人物なのかもわからない。さらに言えば、本当に《例の男》がストーカーだったのかどうかも定かではない。
とはいえ、ひとしきり児戯のごとき行為を遂行した効果か、そんなふうにポジティブに物事を考えられるくらいまで結女の心は軽くなっていた。
結女は携帯を取り出し、リダイヤルからコールする。
「お電話ありがとうございます。ナルミロイヤルホテル支配人、高園(たかぞの)でございます」
「三ノ輪です。先ほどはありがとう。助かったわ」
「こちらこそ、ご連絡ありがとうございます。何も問題ありませんでしたでしょうか?」
「問題無し。振り切ったわ。それにしても《アレ》も久しぶりに使わせてもらったわ。わざわざ悪かったわね」
「いえ、とんでもございません。三ノ輪様には長年ご贔屓にしていただいておりますので」
「ねぇ、高園さん。興味本位なんだけど、《アレ》って他に誰が知ってるの?」
「ホテルの人間でもごく僅かに抑えさせていただいております。実際エレベーターの特殊キーを所持しているスタッフは私とあのポーターの2名だけです。あとは当然、三ノ輪様も含めたご利用者の方々と、あとは……警察ですね」
「なるほど、安心したわ。あ、ごめんなさい。食事が来ちゃったので、これで」
「はい。わざわざお電話いただきありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「次は宿泊させていただくわ。それじゃあ」
結女は嬉々として目の前の前菜を口へ運ぶと、緊張から解放された空っぽの胃が心地よくそれをキャッチするのを感じた。「そういえば朝食を抜いていた」と気付き、すぐにサイドメニューをいくつか追加した。
*
「よ、ring」
「boboさん、お久しぶりです。今回もありがとうございました」
「ま、nobiも情報提供してくれたしな」
「へー、nobiさんが?」
「珍しいけどな。あいつは《作る》《加工する》の専門だと思ってたから」
「ちなみにどの部分が?」
「彼女は今日独りで行動する、ってとこだよ。あいつもあいつで情報のネットワークを持ってるのかもしれないな」
「なるほど。ありがとうございました。みなさんには迷惑ばかりで……」
「SOULFLYの結束は絶対だからな。しかしkuitも去った、ringも去る、じゃ寂しいもんだよ」
「申し訳なく思います」
「効果あったかどうかわからんけどおれからもプッシュしといたぞ。お前に任せると全部危ない端を渡りそうだったから」
「ありがとうございます」
「で、状況はどうだ?目的達成できそうか?」
「それは、問題ありません。きちんと捕捉しています」
「なら良かった。警察の方の動きもないから安心しろ」
「本当にお世話になりました」
「……なぁring。うちら、これまで散々バカやってきたけどさ……なんていうか、《意味のあること》なんて求めるなよ?」
「…………」
「何事も愉快/不愉快の軸で判断しろってことだよ」
「SOULFLYの基本理念ですよね」
「そうだよ。世の中にはハマッちゃいけないループがふたつある。正しいか/正しくないか、意味があるか/意味がないか、そんなことをグジグジ考えるループだ。いいな、そんなんにハマるなよ。そこに出口なんてないんだぞ」
「痛いところ突かれてますよ」
「……やっぱりか」
「でもいいんですよ。ループの環の中にいる人間にとっては、出口が無いことはもとより、その環の外に《世界》があることですら価値の無いことなのですから」
「普遍的に正しいことなんてひとつも存在しないし、全てのことに意味は無いんだ。突き詰めて考えちまったらな」
「ひとつの解答が見つかれば、それが普遍的であるかどうかも環の外の話ですよ」
「……ま、それがお前の結論なら文句は言うまいよ」
「kuitの遺志でもあります」
「それならなおさらだ。達者でやれよ」
「本当にいろいろありがとうございました。せっかくだから最後に教えてくれませんか?」
「なんだ?」
「boboさんって警察の方なんですよね」
「……最後と言われちゃ、余計教えるわけにはいかないな」
「ですよね。それが良いと思います」
「じゃあな」
「それでは」
ringはチャットから抜けた。そして二度と現れることはなかった。
7
結女はバッグの中の鍵を漁っていた。《例の男》を撒いたことを結女は確信していたが、これで家に帰ってしまっては意味が無い。行きに通ったところを戻るのもリスクがある。そう考えた時にふと、一度はよぎった名前を違う経路から思い出した。
「宗次郎伯父さん、帰って来てるかな……」
都合の良いことに宗次郎の家までの道程は帰宅の方向とも違い、必然自宅からホテルまでに通った経路ともまったく接点が無かった。結女は一度明るいうちに先日靖子と交わした口約束を果たしておくことにした。
宗次郎の家の前に着くと、今度は呼び鈴を鳴らすこと無く鍵を取り出した。家の雰囲気が先日と同じ、すなわち相変わらずの不在だと結女は感じていた。
「こんにちわー。おじゃましまーす」
一応の声を上げたものも、結女が想像した通りに家の中に人間の気配は無かった。廊下の電話に結女が貼付けた紙もそのままだ。
「やっぱり帰ってないのか……いい加減警察に捜索願とか出すべきじゃないのかなぁ」
応えを求めるでもなくブツブツつぶやきながら戸を閉め施錠する。
ひと通り家の中を見回るが先日と変わった様子は無かった。結女はため息をつくと、靖子に連絡をいれる前にひと息入れることにした。考えてみたら今日は朝の鬼ごっこから向こう歩き通しだった。さすがにふくらはぎが少し張っている。バッグからミネラルウォーターのペットボトルを取り出すとリビングのソファーに腰掛けた。天井からぶら下がるレトロなシャンデリアがこの純和風な家の中で明らかな異彩を放っていた。結女は「嫌いじゃなかったなぁ」とぼんやりと見上げる。
ふと結女が目線を落とすと、彼女の目の前、綺麗に片付いたローテーブルの上には吸い殻が1本入った灰皿と一冊の大学ノートが置かれていた。
「前に……あったかなぁ」
正直結女は思い出すことができなかったが「これだけ広い家なんだから。それは見落としくらいあるでしょう」と結女は自分を納得させた。
大学ノートは誰かが持ち歩いていたものなのか、日焼けなどが見られない割には表面や角だけはボロボロで、表紙に書いてあったらしき表題も擦れて読めなかった。結女が手に取ってパラパラとそのページをめくると、そこに示されていたのは、《ある人間の罪の邂逅》だった。
「これ……何……」
結女はすぐに文章に釘付けになり読みふけった。しかしひととおり目を通した後、結女は混乱していた。
内容は《ある犯罪者》の日々の記録と犯行の詳細だった。
考えられる可能性はふたつある。このノートは、宗次郎が何かしらの事情があって手に入れた《誰かしらが自らの罪状を吐露したもの》である可能性。もう一つは《宗次郎自身の懺悔文》である可能性だ。
文面では時系列とともに記録者の心情と事実が事細かに記されていて、日記や手記というよりは《分析結果》に近い冷徹な客観性を結女は感じた。しかし精神的に不安定な状態で書いたことが伺えるように、時折文章が乱れ、後悔や憤りなどストレートな感情をぶつけていることもあった。
いずれにせよ確かなことは、
《この著者》が神御黒小で少女を絞殺し遺体を倉庫に放置した、
ということだった。
その前後に書いてある内容は若干客観性を欠き、思考も霊的な方向へ発散していた。
《この男》は若い孫娘を失ったが、彼女はある時期以降「すでに違う人間だった」と記している。比喩なのかそれとも筆者の主観を表しているのかは結女には判別はつかなかった。
しかし彼女が死んでわかった。彼女の生まれ変わりが別の場所にいた。そして《この男》はそれに遭遇した、と書いてあった。
最初は廃校になった神御黒小のグラウンドでその《生まれ変わり》の少女を見かけただけだったが、すぐに《この男》は彼女を見るために神御黒小に入り浸り始めた。そしてついに話しかける日がやってくる。
彼は《生まれ変わり》に確信をしながら記憶の錯乱と過去の後悔の記憶の塗り替えが行われていく。もはや孫娘との《実》は《虚》であり、その《少女》との虚構の日々が過去も未来も支配する《実》にすげ替わっていた。
しかしある日、唐突にその《実》が《虚》に真実へと戻される。
そしてその日が《生まれ変わり》の命日であり、《この男》が決定的な転落へと陥る日でもあった。
結女は気持ちが悪くなりテーブルにノートを置いた。ノートの中身は手書きだったが、結女に宗次郎の筆跡など分からないし、そもそも走り書きに近い様なよれた字で書かれていて筆跡もクソもなかった。
「ちょっと待ってよ……本当に伯父さんの話なわけ……?」
結女は動揺した気持ちを落ち着かせようとペットボトル片手に目的も無く家の中を歩き回った。そして廊下に差しかかった時、そこには線香の香りが漂っていた。すぐに仏間の前へ行き襖を開けると、直射日光が入らないひんやりと仄暗いその部屋の中で、ほぼ根元だけが残った線香がポツンと1本灯っていた。
「伯父さん……帰って来てる。それも今朝、いや、昼くらいまではいたってこと……?」
結女の知っている宗次郎は、決して《善い人》と言える人間ではなかったが、少なくとも見ず知らずの無関係な少女を自分の道理で手にかけるような論理的に破綻した不整合で非合理的な行為を行うような人間ではなかった。
むしろひどく現実主義で。ひど過ぎるくらい現実主義で。それに結女は苦しめられたのだ。
会ってどうする?ノートについて問い詰めるのか?もしYESと言われたらどう反応すれば良いのか?なじるのか?それとも悲嘆にくれるのか?
結女は宗次郎待つことにした、というわけではなかったが、動く気力を無くしてリビングのソファーへと倒れ込んだ。
*
ピンポーン
聞き慣れない音で結女は飛び起きた。ソファーでうっかり眠ってしまっていたようだ。
鳴っていたのは宗次郎の家の呼び鈴だ。
ピンポーン
結女は最初居留守を決め込もうかと思ったが、じきに玄関やいくつかの部屋の灯りを点けっ放しにしていたことに気付く。そしてそれには道路に面した側の部屋も含まれていたため、さすがに居留守にも無理があると考え応対に出ることにした。
また、可能性は低いが、宗次郎が鍵を持たずに出て行ったということはあるのだろうか、と結女は一度頭を捻るがそれはあり得なかった。今日の昼に結女がここに着いた時には玄関には鍵がかかっていたのだから。
ピンポーン
玄関まで来て戸に向かって声をかけようとしたところで、結女は思考した。宗次郎に用があってきた人間に対して、自分がどう対応したものなのか?
以前に少しだけ一緒に住んでいた姪が、母親から頼まれて様子を見に来ている。「それをそのまま言うより他に無いか」と頭の中で整理を終えるとさほど大きくはない声で「はーい」とだけ発声した。
戸の向こうから返された反応には「3回も呼び鈴押すほど待たせやがって」という苛立ちも、宗次郎以外の人間が対応したことによる意外さを微塵も感じさせず、ただ、落ち着いたトーンで、こうつぶやいた。
「三ノ輪結女さんですね」
結女は心臓を素手で鷲掴みにされたような気がした。膝下から力が抜けた刹那、防衛本能が外的から身を守るために筋肉を収縮させる動きがわかった。しかし身体の反応と心の反応の同期が取れず、結果、言葉も発せず身体も動かせず立ち尽くした。
戸の向こう側の男は間をとって続ける。
「三ノ輪結女さん。因果の環を完成させに来ました」
「山崎宗次郎さん、朽津木周一さんと私は因果でつながれています」
「そして私があなたを殺すことで因果の環が閉じます」
「因果は人の救いなのです」
伯父さん?朽津木?因果の輪?それより……私を殺すって?
結女の脳内で疑問は疑問を呼ぶことでその総数を加速度的に増大させ、またそれぞれが絡み合い足を引っ張り合うことで巨大な《混乱》を編み上げ、身体を包み込んだ。
「逃げなきゃ……逃げなきゃいけない」
結女は硬直した身体を無理矢理反転させようとしたが、神経細胞がそれを処理することができず、その場に倒れ込んだ。板の間の冷たさを全く感じることができないほど結女の血も身体も凍りついていた。
玄関から遠ざかるべき無様に這う結女の背後で乾いた音が鳴る。
続けて戸を開ける音。
結女は反射的に振り返ると悠然と近づく長髪の男性、《例の男》だ。
すぐさま結女は悲鳴を上げようとしたが声を上げることは叶わなかった。男が逆手に握った漆黒のダガーナイフによって、すでに結女の気管は切り裂かれていたのだった。
結女は切られたノドを押さえながら打ち上げられた魚のようにただ口をパクパクとさせた。
男は結女を仰向けに転がし馬乗りになると途端に豹変し雄叫びを上げた。
そして結女の顔を見ているようで、そこではない先の何かを見ているように次々とまくしたてる。
「朽津木さんは言ったよね。そう思うって。おれもそう思うよ!キミも言いなよ、そう思うって!あ、失敗、もう言えないか!」
ダガーナイフを握り直す。
「ね、キミは後悔したんだろ?苦しくない?苦しくないかい?ねぇ」
結女の右の頸動脈へと斬りつける。
「でもそれで良かったんだよ。彼はキミとの関係性を結び因果の環の中にきれいに収まった」
結女の左の頸動脈へと斬りつける。
「これでキミも入ることができたよ。おめでとう」
左右両側の頸動脈を切断された結女はどこをどう押さえたら良いのかわからず、ムンクの叫びのようなポーズを繰り返した。
否、むしろ叫べるものなら叫びたかったに違いないが。
血の海だった。
床も、
壁も、
天井も、
恍惚をたたえる男の顔も、
そして穏やかな結女の死に顔も。
― 朽津木の章 VENUS ―
1
私が初めて《人は何故生きているのか》について考察したのは小学校4年生の時だった。
当然のごとく明確な結論など得ようがなかったが、以降重ね続ける宿命にあるその考察において極めて重要な第一歩であったことは言うまでもない。
まず《生きている》ということ自体は単なる物理現象でしかなく、心臓が動き血液が流れ、生体としての活動を行っているか否かの状態を表現するオン/オフのパラメータでしかなく、そこにはなんの哲学も誇りも尊厳も存在しない。つまり《生きていること自体》は検証する価値の無い些事だと判断したのだ。
したがって《生きたいと思う心》にこそ私の求める解答は存在するものだと考えた。
その点について当時の私が最初に立てた仮説は《死が怖いから》だった。古代脳に鎮座する極めてベーシックで根源的な本能に突き動かされて我々は生きたいと《思わされている》と。
小学4年生の時に、私は論理整合性を計る手段として《対偶、逆、裏》を評価するという古典論理学の手法を学習した。シンプルに言えば《AならばBである》という命題の正当性について評価するにあたって《BでなければAではない》という対偶を持ち出し、それを満たすか否かを検証することで元々の命題に対する結論を得るといったものだ。
しかるところ《死が怖いから生きたいと思う》の対偶は《生きたいと思わないのならば死は怖くない》となり、これは明らかに矛盾を孕んでいると思われた。
例えば不治の病を患った末期の男を想定する。身寄りは無く天涯孤独。病床に誰も見舞いにはこない。病が治ったところでそれを笑顔で迎えてくれる友もいない。彼は生きたいと思うだろうか?「もう終わりでいい」と思うかもしれない。
しかし例えそのような状況においても《死の恐怖》は人間にとって普遍である。
したがって《生きたいと思うこと》の理由として《死が怖いから》では説明不足であることを私は理解した。この思考法は小2の時に学習した背理法に基づくものだ。
また逆については死が普遍的な恐怖をもたらすものという立場に立つと真。裏は想定するに難い境地だったが《ギリギリ真》だと理解した。死を超越した人間にとっては生きたいと思うことがひどく滑稽で愚かなに行為に見えるのではないかと考えたのだ。
そうすると、これら《死の恐怖》と《生の渇望》の関係性は古典論理学的手法ではあくまで《死の恐怖》は必要条件、言い換えれば《単なる前提》でしかなく《生の渇望》との因果的結合性は認められなかった。
つまり「死にたくないから」というセリフでは例え100人がそれで納得したとしても私は納得できないということだ。
そんなのは当たり前のことだ、と。
今日もかれこれ数十年繰り返し続けた考察をまた繰り返す。
生について考えることは死について考えることと同義であり、その逆もまた然りだ。
容赦なく不可逆で一片の妥協も許さない境界線。それが生と死。
これほどまでに論理と精神一切のが妥協なくひとつの価値基準に準じようと素直に受け入れられるファクターがどれだけ存在するだろうか。
主題にして唯一克明とまでは言わないが、老若男女・地域・国籍問わず共通かつ不整合だらけの論理を導くことができたとしたら、それは、論理という単語の定義や理屈という単語の明確さを木っ端微塵に破壊する手だてになるのかもしれない。
私はそのいくつかの要素を取り出し植え付けてみた。すると苗は独自の主張をしながらもやがてひとつの結論へと収束していった。
それがまさに、余命わずか3ヶ月となった私が求めるものだった。
私は急いで収穫しなければならない。
朽津木周一の人生を。
生とはどういうものであるのかを。
2
古典論理学は《神の論理》とも呼ばれる。これは尊敬と畏れの現れである一面、仮面の下には傲岸不遜が見え隠れする。「そんなに人間は単純じゃねぇんだよ」と。
そしてそれは直感的に正しい。
得てして不整合な論理でアンバランスに組み上げられたものたちが蔓延し、さらに言えばよりアンバランスで整合性に欠けるほど得てして人の世では支持を得やすいものなのだから。
私が「世に整合を求めること自体に無理がある」という思考にたどり着いたのは小6の頃だった。
論理的整合性は結果としてのアウトプットの方向性を決めるにあったって一切の関与をせず、所詮前提は一個人の価値観や不整合をともなった論理によって容易に覆されるのだと。
そして得てして人はその不整合を愛し、歓迎する。整合性が取れてるなんて気味の悪いものを人間は本能的に受け入れられないのだ。極めて健全な自己防衛手段と言えよう。世の中が不整合と理不尽で満たされるわけだ。
直観主義論理では「わからない」ということを認め、代数的に物事の真偽を示す手法を提案した、と中1の際に読んだ本に書いてあった。個人的には非常に好感が持てる思想だった。基礎的な数学的法則であってもそれが正しいのかはわからない、と考えるだけで不思議とワクワクしたものだった。
と同時に「綺麗ですっきり筋が通っているものが不安定になることに喜ぶ」それが人間なのだと私は噛み締めた。
私は幼い頃から周囲の人間の理不尽な行為や世の中の非論理的な構造を嫌い呪っていたが、なんのことはない。自分も同じだった。
ファジイ論。量子論理。
一見論理的に一見非論理的な思考にたどり着く、という曖昧な行為が極めて論理的であることがようやく整理できたのは中3の頃だった。
「世の中は不確定で非論理的で不安定で、そして人間はそれを愛している」
数学がとかく好きだった少年は、一般人が経験則的に辿り着く境地に論理的思考を頼りにようやく達することができた。通常とは異なる手法を使役することによって過大な歳月を費やしたが、当時の私はそのことについて徒労感ではなくむしろ充実感を覚えていた。
積み重ねというものは揺らぐことがない。土台がしっかりと慎重に正しい手順と法則によりならされていれば、その上の建造物は間違いなく安定と言えるだろう。
「先生、朽津木先生」
部屋をノックすると同時にドアの向こう側から声がした。
「どうぞ。開いてますよ」
「失礼します」とノートPCを片手に白衣姿で入って来たのは、村崎(むらさき)深彩(みあや)さん。私の研究室の助手で大学院生の時から朽津木研究室に在籍している。私の研究室がこの大学にできてから今年で10年、その歴史の全てを見て来たのは教授である私と彼女だけだ。
私はデスクで読みふけっていた論文にポストイットを貼付けるとデスクの赤いトレイの中に入れ、立ち上がった。デスクには赤と青のオフィス用トレイが並べられていて、赤は未処理、青は処理済の意だ。
「今日はM2の定例発表でしたね」私は椅子から立ち上がると手帳を手に取った。
「はい、第一会議室です。今日は、えっと」彼女は足で戸を開けたままにしながらノートPCを開く。
「えーと、今日は今西(いまにし)くんと善(ぜん)くんですね」
研究進捗が思わしくない2人だ。
M2というのは大学院修士課程2年生のことで、修士課程のことを英語で Master Course と呼称するのでその頭文字を取った形だ。修士は通常2年で卒業するものなのだが、皆がそうとも限らない。実際、後者の善正良(まさよし)くんに関しては、さらにもう一年研究を継続した方が彼のためだと私は考えていた。
「あれ?先生、エアコン入れてますか?」
「入れてませんよ。最近は過ごし易くなりましたからね」
彼女は部屋を見渡し「あ、本当だ。エコですね」と清楚な笑顔でつぶやく。何か実験をやっていたところだったのか彼女はセミロングの髪を後ろでまとめていた。
以前から彼女の器量は大したものだと考えている。一に美形であり、一に聡明であり、一に愛嬌があり、一にスタイルが良く、一に社交性に富んでいて、一に研究に熱意を持っていて、一に服装は爽やかで清潔感があり(今は白衣だが)、一に優しさと包容力に溢れ、一に後輩の面倒見も良く、一に笑顔が素敵であり、あえて最後に加えて言えば独身だ。
彼女の年齢は30を越えているが美人というものは得である。彼女は元来濃い化粧をすることなくその整った顔立ちを上品に主張することができていた。美人の特権と言っても良い。そんな彼女はやはり年齢より若く見え、どこに行っても男性の目を引くことは間違いないだろう。
そんな彼女にもひとつだけ欠点がある。致命的かつ決定的な欠点。
それは男を見る目が無いことだ。
何せ私のことが好きだと言うのだから。私しか愛せないと言うのだから。
当然、私は彼女の気持ちには応えていない。それは立場、年齢、価値観、その他の形式上の拘束条件などに基づくものではない。もっと根本的な前提条件。《彼女は私を必要としていない》からだった。
彼女は私を恋愛対象として見ている。その時点で男を見る目がないということを8割方は説明できているように思う。私を恋愛対象として見ることは間違っている。一方でそれ以外の寄り添う対象であるならば成立はそう困難なものではないのだが。
例えば、私に憧れ目標とする人間。
他者への同化欲求というものは少々堕落的で感心できるものではないが、それをそのまま偽とするのは些か乱暴だと言える。
アインシュタインと仲が良いから明晰な頭脳を持つ訳ではないし、オードリーヘップバーンの隣に住んでいるからあの気品が少しでも移るかというと残念ながら気品が空気感染することを立証した論文は見たことが無い。美空ひばりの幼馴染みだからといって彼女と一緒にハーモニーを奏でられるレベルの歌い手である道理もないし、世界一の大富豪が友人にいたとしても自らの財産がそれに正比例する訳ではないだろう。逐次彼の収益を恵んでもらえばそれは実現可能だが、それは友人と呼べるのか?
以上のとおり、極めて堕落的だ。
しかしながらその非合理的な欲求を真っ向から否定するだけの材料は無い。夢は叶わないものであり、叶わないこそ憧れであり、憧れであるからこそ《夢見る》などという生産性の無い単語で表現される。しかしそのループから出てしまっている、もしくはループを回り切れず袋小路に入ってしまった人間はむしろ不幸であり健全ではないかもしれない。どちらが正しいかの断定は難解だが、どちらが好ましいかは断定できる。ループの中で回り続ける人間の方が圧倒的に好ましい。一生涯という果敢ない刹那を存分に楽しむことができているという意味でだ。
また別の角度では、例えば、誰かが支えなければ倒れてしまう人間。
もし私がその人間に近しい存在であったとしたら、その彼/彼女の支えとなることに合理的根拠を要求するほど私は冷徹ではない。他人を頼る行為を私は怠惰だとは言わない。状況や困難に溺れることは人間誰しも多かれ少なかれあるだろう。つまるところお互い様なのだ。
人は他者がいなければ《自分》を確立できない、立ち位置は常に相対的なものだ、とはよく言われる。それでもなお「自分には絶対的な価値観がある」と思い込んでいるとしたらそれは絶大なる勘違いだ。今すぐその妄想を正すことをお勧めする。
そもそも人間の根幹が《基準》無しには成立しない。
例えば脳の神経細胞で日々時々刻々と取り交わされる電気信号。これもどこかに便宜的な《基準》を設定しないと全く意味を果たさない。《便宜的である》ということがポイントで、ここで言うその《基準》すらも絶対的なものではないのだ。
例えば神経細胞は電荷をやりとりすることで信号をやりとりしている。その信号の判断はどうなっているか?例えば信号がブール的な「0」もしくは「1」だったとする。「ON」と「OFF」と言っても良い。その判断は?0があるならば、そこから1増えたら1なのだろうし、OFFの状態があるなら、そこから活性化すればONなのだろう。しかし、今が0だと誰が定義した?今がOFFだと誰が確認した?それらは全て便宜的基準なのである。
定常状態、平衡、平均、共分散、正規分布、様々なものがその便宜的基準を定義づけるために考案され、実用化されている。その全ては、人は、いや全ての自然物はと言っても差し支えないだろう。全ての物は、その特性を相対的にしか語ることができないからだ。
脆く、曖昧で、不成立で、あやふやで、ブレる存在。昨日は天地万物に誓って右だと確信したことでも今日になれば「実は左かも……」と不安に思ってしまうような切なくなるほど弱い存在。10年前の悲惨な失敗談が気付けばサクセスストーリーに記憶ごと塗り替えられているような自己防衛手段に長けた不安定な存在。
それが人間だ。
しかし人間はその社会性を保持するが故の極めて幸福なことに、他者との関係性によってまた自らを正すことができるという性質を持つ。そしてそれを日々行っているものなのだ。誰しも。
ここでもまた「自分は例外」と思っている者はその考えを捨てるべきである。人間はみな相対的で、個人でいる限り意味も価値も発生しない物なのだから。
従って、もし自分が他者から寄りかかられた場合は、「人は常に特定の他者もしくは他者の集団を中心にしていったり来たりブレ続けているものであって、それがたまたま接点を持ったのが今である。従っていずれくる順番の、今は単に相手の番なだけだ」と考えるべきである。そして自分にできる限りの範囲で、寛容と博愛をもってそれを受け入れるのがしかるべき対応であろう。
前者と後者で求める背景は対照的なれど求めるものは同じで、私はこれまでの人生においてそれをいくつも受け入れて来た。
しかし彼女はそのどちらでもなかった。
恋愛というあくまで対等に求め求められるべき共依存の関係性を私に当てはめるのはいかにも愚かな行為だ。そこまで愚かでなければ、この美しく魅力的な女性のために私にできることはいくつもあっただろうに。
「先生、どうしました?」
「いえ……それより先日提出された善くんの実験レポートなのですが、村崎さんの意見を聞かせて欲しいですね」
私は彼女と連れ立って部屋を出た。
*
「先生、コーヒー飲みますか?井手伊(いでい)くんは?」
私たちは学生の発表とそれに対する講評を終え再び教授室へと戻って来ていた。私はソファーで書類に目を通しながら小さく首肯すると井手伊くんは「いやいや、僕がやりますよ」と立ち上がった。そしてコーヒーメーカーの前にいた村崎さんと入れ替わりに流しでカップを用意し始め「深彩さんは座っていてください」と自分が元いたソファーへ促した。
井手伊くんはD3の学生だ。Dは博士課程 Doctor Course の略だ。そうすると立場は村崎さんの方が目上にあたるため日本的文化においては極めて当たり前の彼の行動なのだが、彼の真の目的は彼女の好感を稼ぐことにある、と私は知っている。
なんのことはない。彼は彼女からの好意を求めて止まない十把一絡の一人なのだ。
「そういえば、最近指宿さん見ないですよね」
村崎さんはローテーブルを挟んで私の向かいの位置に座ると言った。
私はシンプルに答えた。
「彼は随分前に担当を外されたんですよ」
指宿くんの代わりに担当になった浅田拓也という男は、誰の目から見ても明らかなワーカホリック(仕事病)だった。世の中でワーカホリックは基本的に悪い意味で使われる言葉だが、大筋でその認識は間違ってはいない。しかし私は解釈の角度によってはさほど悲観する話でもないのではないかと考えている。
つまるところワーカホリックの欠点は没入的なところだ。仕事に集中してしまって、それが世界の全てになってしまって、周囲との軋轢や不規律、圧迫感、自らの健康への気配り、そういう配慮が一切できなくなってしまうのだ。
しかしそれは《残念なことではあるが悲しいことではない》のだ。確実にその彼の没入の先にゴールは無いが、それでも目の前に何も無いよりは幾分マシだと言えるからだ。
何も無い。それは掛け値なしに悲劇的なことだ。
とはいえ彼、浅田拓也は仕事の利に関係性の薄い物事は一切行動論理に反映させない性質のようで、担当が変わってから約半年経つというのに助手の村崎さんや他の学生などとの面識は一切無かった。一点突破で頭を説得しにかかる。当たり前だが勇気と度胸と腕さえあれば最も有効な戦略だ。
その点、指宿くんはしょっちゅう用事もなくアポイントを取って訪ねてくると、私とのビジネストークはほとほどに切り上げ、村崎さんを口説いたり(何か成果があったようには見えなかったが)学生とゲームをして遊んだりして夕方になると帰っていった。
不完全で、不真面目で。私は彼のような男の方が好みだった。
「それが、ちょっと古い話なんですが指宿さんしか知らない案件なんで彼に連絡とってもらえるよう会社にお願いしたんですが、会社からも連絡がつかないらしくて……」
「ほう。それは心配ですね」
村崎さんは乗り出すように私に視線を向ける。何かしら私が回答を持っているだろうと思っての行動なのだろうが。そのとおりなので処理に困る。
「ま、a.k.a. (as known as) Informed Manの異名を取る朽津木先生でもわからないことくらいあるでしょ。はい、どうぞー」
井手伊くんがローテーブルに3人分のコーヒーを置くと当たり前のように村崎さんの隣に腰掛けた。
「その異名はやめてくれませんかねぇ……」と私は大学時代の2つ名に苦笑しながら「まったく、斜め前に座るのが最も好感度が高いのに。ダメな男だ」と心の中で思うがそこは口にしない。
「コーヒーありがとう」
「そう言えば先生のあだ名って誰が付けたんですか?」
私はため息をつきながらも応じる。むしろ指宿くんから話題がそれて良かった。
「大学院でアメリカに留学していた時の同僚です。寮は当時相部屋になっていて、ある日お互いに休日の暇を持て余していたので、私が遊び半分で簡単な心理テストと状況証拠に基づく推理で彼のことをズバズバと言い当ててからかったのですよ。そうしたら彼が『お前は Informed Man だ』と言い出しまして……」
「神の啓示でも受けていると」
井手伊くんがクスクス笑いながら相槌をつく。私も首をすくめて返す。
「ま、その後は私がテスト問題を当てたり研究で良い成果を出したりするたびにそれを言われて……すっかり超能力者扱いでした。アメリカ人って好きなんですよね。そういうの」
井手伊くんと2人でおどけて笑う。
「指宿さんも言ってましたよ。先生相手だとビジネスがやりにくいって。何でもお見通しみたいで」
ようやく話に参加したと思ったら指宿くんの話か。やはり村崎さんは何かを感じているようだ。
会話が途切れる。コーヒーで1度2度クチを濡らしながらさてどう言ったものかと私が思案していると井手伊くんが先に切り出してくれた。
「そういや……実はおれ、指宿さんがよく書き込みしてるサイトで見たんですけど。担当外された理由は……」
視線を私に向かって送る井手伊くん。私は無表情に返す。彼はそれに少し戸惑っていたが、一方の村崎さんが横からかける圧力には耐えられるわけもない。
「なんか……電車で痴漢したって」
「痴漢?」
村崎さんが語気を強めて敵意と不快感をあらわにする。
「いや、言い方が悪かったです。なんでも痴漢容疑で捕まってひどい目にあったとか。本人は当然冤罪だって言ってましたよ」
「本人が言うことなんてまったくあてにならないじゃない」
「ま、そうなんですけど……」
まるで自分が責められているような図式になってしまって決まりの悪い井手伊くんは首をすくめる。
ここら辺で助け舟を出しておくことにしよう。
「私も聞きましたよ。その話は。出社自粛になったような様子でしたが」
「でも、それが半年前の話なわけですよね?おれも、最近はすっかり忘れてましたが当初は指宿さんからの書き込みがパッタリ無くなって、変だなーって思ってました。しかもその前の書き込みの内容が内容だったから……」
言葉の上では空白が漂ったが村崎さんは脅迫的な目線を井手伊くんに注ぎ続けていた。井手伊くんは当然すぐに負けてクチを割る。彼の目的は前に進んでいるのだろうか。私には手順が良いようには決して思えない。
「……えーっと……要するに、その冤罪の相手がそこそこの有名人だったんですよ。それで身元も割れてるし、絶対見つけ出してぶっ殺してやる、っていう血相でした。書き込み自体はすぐに管理者に削除されましたけどね」
行き過ぎた話に少し冷静になったのか、村崎さんが普段通りの落ち着いた口調で言う。
「ふぅ。置換冤罪は社会的にもデリケートな話ですし、冤罪証明が非常に困難だというのも通説ですよね。目撃証言と状況証拠以外有効な物証も無い場合がほとんどですから。そういう意味では訴える側にも非常に勇気がいることですよね」
「でも訴えられた側としては《状況》に不運が重なったそれで終了、ってことですよね。で、場合によっては職を失ったり……信用はいうまでもなくだし。まぁ、殺してやるっていうのはさすがにアレですけど、恨みを持つっていうのはわかりますよ」
「確かに殺意だなんて行き過ぎよね。あり得ないわ」
「いやぁ、怖い。おれ電車通学やめようかなぁ」
「あら、井手伊くんはきっと大丈夫よ」
「え?そうですか?何でそう思いますか?」
「痴漢する度胸があるようには見えないから。実際無いでしょ?」
「はぁ……複雑ですね」と情けなくうな垂れる井手伊くんが村崎さんの気を引けるようになるには相当な挽回が必要だが、村崎さんの幸せを願う私は特にその未来を希望はしない。
「村崎さん。殺意が何によって生まれるか、なんて考えたことがありますか?」
村崎さんはマグカップを握ったままギョッとした表情を見せる。
「殺意……ですか?」
頭脳明晰で論理的かつ柔軟性をも持ち併せる美女。それら形容からはおよそ殺意にはほど遠い存在であろう彼女。私は彼女がどう答えるか興味があって訊いたのではない。私が期待した通りの回答を返せるかどうかを確認するために問うたのだ。
「そうですね……何かしら理由や、本人の中での論拠に基づく殺意、ならわからないでもないです」
70点。
「そして、その論拠が本人以外に理解できない、というケースも稀にあるようですが」
75点。
「でも何かしら理屈があって、殺さなければならない、ということが正当化されているということは間違いないのだと思います」
残念だが、こんなところだろうか。
彼女は私の因果の環には入らないし入るべきではない。別の絆、別の運命、別の因果が彼女のことを待っているのだろう。私は切にそれを望んだ。
「おっと、もうこんな時間だ。雑談ばかりしているわけにもいきませんね」
「そうだそうだ」と井手伊くん。「ですね。それでは善くんと今西くん、とりわけ善くんのレポートについてなのですが」と村崎さんが言いながらテーブルの上に置かれた彼のレポートをめくる。
もし殺意を覚えたことなど無いとしたら「それは幸せなことだ」と断定するのは少々短絡的だ。全ての感情や可能性は皆に等しく存在しながらもあくまで際どい、微妙なボタンの掛け違いで《出会っているか》《まだ出会っていないか》という個人差が存在しているだけでしかない。明日自分が死ぬかもしれないし、それが隣の人かもしれない。自分も隣のひとも死ななかったとしても、どこかで明日突然の悲劇が訪れる人はいるのだ。
とはいえ、それらをまったく知らないまま、まったく出会わないままに最後の最後まで生涯を閉じることができるケースも無いわけではない。それはある意味で幸せだったと捉えることが可能であろうか。しかし無用な贔屓を潔く捨て去れば、そういう類いの楽観的思考は真っ先に排除するべきだろう。誰しもに悲劇は訪れる。
仮に何も見えない真っ暗な部屋で生まれ、日の光というものの存在を知らずに育った少年がいたとしよう。彼があるとき日の下に出たとする。間違いなく彼の網膜はその瞬間の刺激の大きさに耐えかね、重大な負傷、最悪失明するかもしれない。しかし、彼はどちらの方が幸せだったのか?一度も日の下に出ること無く、空の青さも花や森林の美しさも知らずに生涯を閉じた方が幸福と言えるのか?
否、私はそうとは思えない。否、人間の本能がそのようにはできていない。
実際社会には「知らない方が彼のためだ」などというお題目を見かけるが、本質的にその論理が通用する箇所など存在し得ない。それは情報や集団を《統率する側の詭弁》だ。
全ての事象、感情に出会い、向き合い、自分なりの解答を出して進んでいくことが本当の意味で幸せに近づくことになる。
ちなみに私は知っている。
殺意も、憎悪も、悲愴も、理不尽も。
あの神御黒小での事件は私に多くのことを与え、そしてひとつのものを奪っていった。
与えられたものは多く、それらとの折り合いをつける過程で私の思索は高まり、精度を増していった。マクロな視点で客観的に考えれば私は人としてのより本質的な幸福に近づいたのであろう。
奪われた唯一のものが娘の命でさえなければ。
*
今日は随分と遅くなってしまった。
村崎さんは先刻挨拶をして帰っていった。また、ゼミ生のほとんどは連れ立って飲みに行っているようだったが学生室の灯りが点いていたことから井手伊くんか誰かが残っているようだった。
とはいえ大学などまさに不夜城。昼にきちんと通ってくる学生、バイトが終わってから夜に研究室へ顔を出す学生、ほぼ大学に住んでいるような常時見かける学生。まさに24時間営業そのものだ。
私は教授室の灯りを消し、ドアに鍵をかけると研究棟を後にした。
外に出ると夕方に降った通り雨の水分が火照ったアスファルトに跳ね返され湿気が充満していた。
「過ごし易い時期というのは本当にわずかなものですね」
私は小さく独り言をつぶやきながら正門へと向かった。
正門までの道のりでは学生たちがベンチに腰掛けながらああだこうだと何やら議論をしていたり、芝生の上で酒を飲んでいたり、端の方ではサックスの練習をしている学生もいた。
時刻はもう22時を回っていたが学内のそこかしこで学生の姿を見かけるその光景を私は嫌いではない。
学生というものは、暇はあれど金は無いものだ。校内は部屋などいくらでも空いているし、冷暖房もある。研究棟によってはシャワーも仮眠室もある。大学にいれば食費以外の金を使うことは無いのだ。
それには何処か世の無情を感じざるを得ないが「むしろとても贅沢過ぎて逆に有意義なものだ」という捉え方もできる。つまり目の前の小さなことからその深淵に潜む多くのことを学ぶチャンスというわけだ。実際学生時代というものはそれ以降に比べると精神的成長においては濃度が極めて濃い。人生の分岐点とも呼ぶべき時間を友人や知人が集う大学で過ごすというのはすこぶる健全で素晴らしいものだ。
一方、社会に出ると視界は広くなるが足下は狭くなる。足下は年々狭まっていき逆に視野は広くなっていく。この背反もまた無情だ。生涯という長いプロセスにおいて仮にそのどちらかしか経験ができないとすると人生はとても虚しいものだろう。
暇があれど金が無い生涯では何を成すのも困難であろう。視野は広くとも足下に重い鎖が繋がっていては常に生殺し状態。憤りを抱えて暮らすことになるだろう。
青春とは失った物だから美しいのだという。《失ったが確かにそこにあったもの》というのは少々短絡的ながらも非常に心地良いセンチメンタリズムに溢れている。
後悔や懐古は人生に彩りを与えるものであり、彼らは今それを生成している真っ最中だと思うととても感慨深い。私が大学教授として行っていることは彼らのその思い出の情景に愛をもって躓きを設置することだ。愛をもって。スコッチウイスキーの臭みのように。ミョウガの苦味のように。大人になってから噛み締める旨味というものを。
私は空を見上げながら善くんのことを思い浮かべた。彼は今後よっぽどの挽回が無い限りまず間違いなく留年することになるだろう。いつだか彼は修士卒業後に就職するつもりだと言っていた。恐らくそろそろ内定も出る時期ではないだろうか。しかし彼は留年する。躓きから多くのものを学び成長して欲しいものだが、それも私は安心して村崎さんに委ねることにする。いや、村崎助教授に。
私は死ぬ。そうすると教授のポストがひとつ空き、そこへ助教授がひとり滑り込む。そして必然助教授のポストがひとつ空き、そこへ村崎さんが収まるよう根回しは済んでいる。もちろん彼女の実力ならばそんなものは必要無いのだが、これは私の最後のおせっかいだ。
正門を出ると私は近くのマンションへと向かった。家は大学から電車で1時間ほど行ったところにあるのだが、私はそれとは別に大学の近くにマンションを借りていた。
研究者というものは大げさではなく寝食を忘れるもので、何か明確なテーマや目的を見つけてしまうと他の物事に対する興味が劇的に薄れて全てが全てある一点に集中してしまう。そういう時期があるものだ。そして得てしてそういった時期は間違いなくその研究者個人としての《トップパフォーマンス》を発揮できる数少ないタイミングでもある。《それ》が非常に短期間で終わってしまう人間もいるし長い間続く人間もいる。若い時期に《それ》がくる人間もいるし老齢してこそチャンスが訪れるタイプの人間もいるだろう。得てして研究者は《それ》が強度としては緩やかに、しかしその代わりに期間は長期に渡ることが多いのだ。
そのご多分に漏れず、いやむしろ一般よりも度がヒドかった私は昔から研究室に泊まり込むことが多かった。そんな私にマンションを借りるよう進言したのは当時助手になりたての村崎さんだった。いわく「先生がそれじゃあ学生に示しがつきません」とのことだ。
正門を出て徒歩5分。最寄り駅から数百mほど遠ざかったところにある15階建ての新築マンションの一室を購入したが、結果、非常に具合が良かった。僅かばかりの徒歩の時間が脳内のリフレッシュには非常に効果的であること。そして充実した睡眠が知的労働者にとって非常に重要な《仕事》であることを認識し、この時ばかりは研究室のソファーで平気でゴロ寝して過ごしていた過去の自分の愚かさに苦笑いしたものだった。
以来、実験が詰まっている時期や帰宅が遅くなりがちな時期、気になっていることが頭から離れないような時期はほぼそのマンションで過ごした。
しかしそうすると上述したもので年間のほぼ9割はカバーされてしまうため一時間向こう側の家に帰ることは1ヶ月に数えるばかりだったかもしれない。特にここ数年は家に帰る機会は極端に減っていた。
家に帰る合理的理由など持ち得ない。
家に帰ったところでそこには誰もいないのだから。それならどこだろうと同じだ。
オートロックを非接触のカードキーで開けるとエレベーターが自動的に1階へと移動してくる。私は1501号室の郵便受けからもろもろを掴み取り出すとエレベーターの中でそれを仕分けた。
カードの支払い明細やほとんどの事務処理の類いをネットに移譲してからは郵便物などほぼ意味を持たないものばかりで、大抵が広告か学会や某かの勧誘などだった。しかしその中にあって異形を放つ茶封筒があった。
全くの飾りも素っ気もない茶封筒はこれら広告たちの中に混ざって逆に劇的な存在感を醸し出していた。当然送り主もそれを狙ってのことなのだ。私に見落とされないように。
私には送り主はわかっていた。
「三ノ輪結女」
やはりそうだった。
*
私はリビングでソファーに腰を下ろすと茶封筒を丁寧に開封した。手書きの文面は論理的で《今回は》落ち着いているときに書いたものだと思われた。
しかし要件は常に変わらない。こんな便箋を3枚も4枚も使う必要は無く、ましてや私もそれをわざわざ精読する必要など無いと理解しているのだが。
全てがわかりきっていた。
彼女は私を恨んでいる。何があろうと許すことはできない。私を日々監視している。いつでも私を狙っている。
要件という意味合いにおいては以上だ。
私はカーテンを開けた。マンションの前の通りに三ノ輪結女の姿は無い。こんな遅い時間に駅から遠ざかったこの辺りを歩いているのなど近くの住人だけだ。私が通りを見わたすとそこにいたのはガードレールの上に座り込む長髪の男と白のノースリーブダウンに身を包んだ少女の2人だけだった。カップルというには不自然な2人が並んで腰掛けている姿を数瞬眺めるとカーテンを閉じた。
私はリビングのワインセラーからシャトーマルゴーの88年物を取り出すとグラスに注いだ。
窓際のソファーに腰掛け、マルゴーのフルボディらしい濃密なコクと香りで喉を満たすと、私はふと《イーカリオス》の物語を思い浮かべた。
イーカリオスは一説でうしかい座の由来と言われるギリシャ神話上の人物で、豊穣の神ディオニューソスから授けられた葡萄酒の醸造法を広めようとした。
しかしイーカリオスがその葡萄酒を羊飼いたちに振る舞ったところそれを飲んだ羊飼いたちがアルコールに酔うという不思議な感覚に「毒を飲まされた」と勘違いをし、イーカリオスはその場で殺されてしまった。
そしてそれを不憫に思った神々がイーカリオスを天に召し上げたのが《うしかい座》だと言われている。
出会った頃の彼女は上も下も真っ白な部屋の中でたたずんでいるようだった。
《何も見えない真っ黒》ではない。《何も無い真っ白》だ。
手を伸ばしまさぐっても何にも当たらない。
足を踏み出そうと伸ばしても空転する。
どちらが上なのかもわからない。
自分がいるのかいないのかもわからない。
他人がいるのかいないのかもわからない。
世界があるのかないのかもわからない。
そんな虚ろな状態だった。
そんな彼女に、私は手を差し出す、という選択をした。彼女がそれを取るかどうかは彼女次第だったが、結果は推して知るべし。彼女は私に溺れた。
「私はあくまで彼女のある一時期を支えただけであって、そこに愛を求めるのが間違っている」
表層だけをかいつまめばその程度で片付けることができる愛憎話なのだろうが、私はそんな台詞を吐くつもりは寸毫も無い。
なぜなら彼女が求めたのは《関係性》だからだ。それは歪んでいようと曲がっていようと太く固い絆のことだ。
つまり仲むつまじく不倫関係にあった時期も、こうして距離を取り彼女がこのような手紙を送って来ている今も、その固さには何も変わりは無い。
彼女はこの手紙を書いている時、充実しているだろう。私との関係性を噛み締めることができているのだろう。例え歪んだ形だとしても、彼女はいつも純粋だった。そんな彼女だからこそ私も彼女との関係性を深めるという思い切った決断に自分の中で納得してしまったのだと思われる。
彼女は手紙には「貴方の罪を認めて下さい」と書いてあった。
当然彼女の主目的はこのおよそ戯言に近いやりとりに依存し狂信することなのだが《罪》という言葉はあながち私に当てはまらないものではない。むしろ私にとってはすぐそこの見知った隣人といったところだ。
キリスト教の世界では《ルターの小教理問答書》の派生的な一教義として罪を《四つの非ず》と読む解釈がある。《非》は《人》という字を2つに割った様と言われ、不安定で軸が無い生き方のこと。また4つの非なる行為はそれぞれ《不善》《不法》《不義》《不信》の意味だという。
不善は良い行いを行わないこと
不法は法を犯すこと
不義は不正を行うこと
不信は神に背を向けて生きること
不信の部分を一段階抽象的な理解へと落とし込むと「不信は信用に足るものを持たず生きること」と解釈できるだろう。
そうすると、見事に私は罪だらけだ。およそ頭髪から脚の爪の先まで罪で満たされている。彼女に認めて下さいと言われ、それを口頭で肯定するまでもない。それすらも馬鹿らしいほど罪とともに過ごして来た。いっそ清々しいほど罪だらけだ。
しかも図々しいことにそんな私が最後に《信》だけは手に入れたいと切望している。否、そのための作業はもうすでに終っている。手に入るだろう。彼女が私の手紙を読んでくれていれば。私が信じる愛と絆の形を完成させてくれることだろう。
カーテンを開け、空を見上げると東京にあっては珍しいほどのきらめく星空が見えた。
私はイーカリオスを探す。イーカリオスは金星と寄り添い、優しい光をたたえていた。
3
翌朝、私は目を覚ますと休日にも関わらず慌ただしく出かける支度を始めた。日課にしていた早朝のランニングをやめてからどうも早起きができなくなってしまって自分のことながら非常に情けない。
「近々死にゆく者が健康に気を遣う必要性など無い」とまで言うと少々シビア過ぎる気もするが、それも半分、そもそも病状が緩やかに進行しランニングなどできない身体になっているというフィジカルな事情が半分だ。
クローゼットから黒のカットソーにベージュのカバーオールジャケット、それとチャコールグレーのコットンパンツを取り出し手早く着替える。そして洗面所で口髭をおざなりに揃えるとマンションを後にした。
最近はもっぱら電車で移動するようにしている。マンションの地下にはシトロエンのC5が鎮座しているのだが、もう乗ってやることは難しいと思われた。あれの処分も考えなければならない。いつか井手伊くんが、ため息が出るほど羨ましがっていたことが思い出した。しかし彼は未だ現在博士課程に在籍中の身の上だ。まだまだ苦労を重ねるべき立場にある若人にあの車は似合わないと思いその案を棄却した。
私は外苑前で電車を降りると青山霊園を横目に見ながら西麻布の方角へと歩いた。青山でもなく、六本木でもなく、麻布でもない中途半端な位置にある小さな喫茶店が私たちの待ち合わせ場所だった。それは相当古くからそこにあると想起させる外観とそれに違わぬ老夫婦が迎えてくれる老舗の喫茶店で、私が大学で東京に出て来た頃からの古い馴染みだ。
前回来てから少し時間が経ってしまっていたが寸分違わぬ外観とまるで時がそこだけ切り取られたかのような郷愁に、店の前でしばし立ち尽くした。
「ぎゅー」
そのとき後ろから聞き慣れた声がした。背後から私の腰に回した細腕は私のことを全力で締めているようだったが、すべからく抱擁の域を出ていなかった。
「んー、んー、んー…………ぷはぁ」
全力で締め上げることに観念したのか背後の彼女は腰に腕を回したまま私の前にぐるりと回り込んだ。
「パパ、久しぶり」
弾けるような笑顔はまた少し見ない間に大人の女性へと近づいてきていた。まだ15歳。高校生になったばかりの子供だと思っていたが、女子も三日会わざれば刮目するべきだということを痛感させられた。
「久しぶりですね。みなみ」
私たちは窓際の席に向い合って座った。私はエスプレッソを、みなみはちょっと背伸びでもしたのかアイスコーヒーをブラックで頼んだ。私はその彼女の《無理をしている分》を計算に入れてワッフルを頼むように促した。せっかくだから私も注文して2種類食べよう。ブラックコーヒーの苦みをワッフルの甘い成分によって補完するという意味でも申し分無いのだが、理由はそれだけではなく昔からここのワッフルは絶品なのだ。
きちっとした格好の妙齢の女性は、年齢を感じさせぬしっかりとした足取りで私たちのテーブルへと給仕をしてくれた。
みなみはアイスコーヒーをひとくち含むとすぐさまに
「ねぇパパ、パパ、聞いてよ」
こうなるとそこからの話は長い。
夏希ちゃんの話。晴香ちゃんの話。
みなみがいかに2人のことを大好きかという話。
冠番組でいろいろなゲストの人たちとの交流が広がったという話。
先週買ったちょっと大人っぽいワンピースの話。
今度始まるドラマで主役が取れそうだという話。
静岡で食べた絶品のハンバーグの話。
GALETTAの3人で住んでいるマンションに最近出没する猫の話。
初めてもらった司会の仕事を日々七転八倒しながらもなんとかやりきっているという話。
事務所の綾乃さんという先輩と伊豆に遊びに行った話。
その時綾乃さんに「ここまで来ればすぐそこじゃない」とゴリ押しされ結局そのまま静岡のおばあちゃんのところまで連れて行った話。
歌のレッスンの話。
演技指導の厳しい先生の話。
先々月に発売したDVDの売れ行きが好調で第二弾を企画中だという話。
聞くのはもう何度目かになる忘年会の社長のとんでもない話。
みなみは社長のその行為に感激し涙が出てそれを見たみんなはセクハラが過ぎたと社長を大非難して大変なことになった話。
いま目を付けているバッグの造作。でもおこづかいでは買えない。一生懸命貯めてるけど売り切れないか心配、という話。
社長が今年の忘年会では何をやるのかについてのみんなの予想。
バックバンドの人たちの中で誰が一番カッコ良いかメンバーの中で意見が割れていること。
収録で海外に行った際の珍道中。
練習中のシングルの新しい振付け。
昨日放送された歌番組。
今日の午前の収録。
明日放送になる4時間特番のこと。
彼女がひとしきり話したところを見計らって私は「みなみは頑張ってます。すごいですね」と言う。
彼女はそれを聞くと、とたんに一変した照れ顔を見せ「そんなことないよー」と甘ったるい声を出す。ここまで武勇伝を散々述べ賜ったくせに何だ、と軽くこづいてやりたくなるほどだ。
いつもの、至っていつものやりとりだった。
自家製ブルーベリージャムとバニラアイスを乗せたワッフルは相変わらず絶品で、向かい合うみなみの顔が緩む。
天気の良い休日に南向きの静かな喫茶店で向き合う親子。こんな状況に水を差して本当に心苦しいが、今日私には彼女と話しておきたいことがあるのだ。それは確認であって整理ではないのだが、しかしどんなにわかりきっていても口に出さなければスッキリしないものというのはある。否、そんなものばかりだ。
私は目線をワッフルに落としたままみなみに問いかける。
「みなみは、最近のことを思い出すことはありますか?」
彼女は顔を上げると大きな目をより一層大きく見開いて驚きをあからさまにする。
私は小首を傾げ「何か変なことを言いましたか?」と確認するように顔を覗き込んだ。
みなみはそれにハッとするとブルブルと首を振りながら言う。
「パパからその話をしてくることってなかったから……」
そしてフォークとナイフをおくとしばらくアイスコーヒーのストローをもてあそび「……ちょっとビックリした」とつまりながら言った。そしてそのままコーヒーを口に含むと「にがぁ」という表情を浮かべた。
みなみはコーヒーを飲み込みひと呼吸置くと声のトーンを落としながら言った。
「私は……それはあるよ。といっても楽しい思い出ばっかりだけどね。小さい頃まゆちゃんと遊んだ記憶とか、遠足のこととか。不思議と……あんなことになる寸前とかのことは思い出さないなぁ。当日も私、家にいなかったからね……」
「そうですか……」
今日みなみに告げるべきか迷っていた言葉がある。
言うべきか言わざるべきか。
彼女が自ら知りたいという意思を見せない限り私は触れるつもりはなかった。それが何故この最後の瀬戸際で悩むのだろうか。
私の心は揺れたが、しかしそこは親の甘さが出たかも知れない。
結局私はいつも通りに《その言葉》を飲み込むことにした。
「パパはどうなの?」
みなみが身を乗り出すようにして言う。
まゆなの事があって以降、ほぼ生活を別にしていた私たちはこの話をしたことが無い。今となっては実の親子が実の双子の妹の話をしない、というのも不自然極まりない恣意的状況だ。その当事者がそれを述べるなど先なきことなのだが。
「私も……ありますよ」
みなみは私の瞳を見つめながら押し黙っている。しゃべらない、という決意すら感じる。
「でもね。私が思い出すのはあの日々のことばかりです。まゆなが行方不明になって、無力と不安を感じ、平衡感覚すら失ったような虚無感に襲われたあの日々のことを。何もできず、何かをしなければという意識ばかりが高く、実際は無力極まりない自分を突きつけられ続けた。辛い日々でした」
みなみは黙っている。
私も黙る。
「……もう3年半経ちますね」
「……お母さんとは……連絡取ってないよね」
みなみの言葉を私は静かに首肯する。するとみなみは喉元に用意していた言葉を呑み込み、別の言葉にすげ替えた。元の言葉が何だったのかは私にはある程度予想はできていたが、しかしそれもどうでも良いことだった。
私が「もう知っていますよ」と一言ウソをつくだけで、みなみから様々な情報が漏れ出てきたに違いない。しかし関係性の構築に失敗した私と元妻の間には《修復不能》などというかろうじて見出すことのできる細い糸すら存在しない。きっぱりと正しく表現するならばそこには寸毫の余地無き《無関心》のみが存在するのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「まゆなの事が私たちの間を決定的に裂いたというのは客観的に正しい認識ではありますが、あの時はあの場で私がどうするべきかが判断できませんでした。悲しめば良いのか、怒れば良いのか、泣けば良いのか、そのレベルでね。それがお母さんに不信を与えたのは間違いがないことで、私からそれを弁解する余地は無いと思っていますよ」
一度心を許したが故、一度委ねたが故、一度因果の環に並びかけたが故。振れ幅はまったく同じままでベクトルだけが回ってしまったような形になった。相反するわけではない全くの捻れの位置。二度と出会うことの無いベクトルに。
私は正直な気持ちを打ち明けた。それをみなみは受け止めてくれるとわかっているから。
「うん……わかってる。わかってる。私にはわかってるよ。パパ」
みなみは頭が良く優しい子だ。辛い経験、苦い経験、失敗、心底の失敗が彼女を高め、強くしている。
この娘が将来大きくなれば、私が繰り返して来た積年の考察に関して、私には決して及びもつかないような超絶美なる解答を見せてくれるかもしれないと常々思っているのだが……残念ながら私にはそれを見届けるには圧倒的に時間が不足している。
私は私なりの解答を辿りその道を踏破するよ。みなみはみなみの道を見つけて下さい。
私たちはその後小一時間ほど談笑すると店を出た。みなみは次の仕事の準備で移動しなければならない。事務所の方が車ですぐそこまで迎えに来ている、とのことだった。
みなみが六本木方面に身体を向けたところで私はその場に留まった。ここで別れよう。
「パパ……」
「どうしました?」
振り返ったみなみが微笑を向ける。
「……長生きしてね」
微笑は微笑。健康的な朗笑なのか、私と会えたが故の嬉笑なのか、それとも何かを抑えた上での苦笑なのか、それを他者に判断させるだけの絶対値を持たぬ微笑。
それに対し私ははっきりとした笑顔で応えた。
「どうしたってみなみよりは先に死にますよ」
みなみはそれに応じるように今度は大きく微笑むと、手を振りながら小走りに駆けていった。
私はその背中を見送りながら思った。みなみも覚えてくれたに違いない。今日の私の笑顔を。最後の父の顔を。
*
私は大通りでタクシーを拾った。最後だと思ってわざわざ表参道から歩いたが、それをもう片道分やる体力はもはや私には残されていなかった。
タクシーの窓から見えるビル郡の側面はそこかしこが広告で溢れていた。飲料、ファッション雑誌、医薬品、携帯電話。その中に混ざってトランペット奏者ランディブレッカーのものがあった。CDの宣伝だろうか、ライブの告知だろうか。私は反射的に目で追ったが都合の悪い事にタクシーは加速しすぐに高架の下へと潜っていった。
愛用していたトランペットも仕舞い込んで何ヶ月になるだろう。バンドのメンバーには悪い事をした。彼らには何も告げずに別れることになるだろう。
「もう一度ステージに立ちたい」などという緩い思考が途端に湧いて出た自分に狼狽しながらもすぐさま掻き消した。なんということだ、そこまで精神的に弱くなっていたとは。
私は気を落ち着けるためにバッグから一冊の大学ノート取り出すと目を通した。しっかりと立ち戻らなくてはならない。これが、ここが私の因果なのだから。
やがてタクシーは完成な住宅街の中にある一軒家の前で停まった。私はタクシーの運転手に用事はすぐ済むので少し待つように伝えると門柱をくぐった。
私はポケットから革製のキーケースを取り出すと鍵束の中からそのひとつを鍵穴に差し込む。鍵が開くカシンと乾いた音、扉の取っ手。私はひとつひとつを確認しながら家の中へと入る。この立派な和風家屋の持ち主が不在であることは確信していたが、僅かながら持ち主ではなく他の関係者がいるという可能性があったことにすでに玄関を踏み込んだ後で気付いた。
しかしその心配は杞憂過ぎるほど杞憂だった。家の中は長い間空気が止まっていた空間独特の《人間味が無い》感触を帯びていた。そして玄関に脱がれた靴も無い。まず家内は空だと見て間違いないだろう。
「さて、どこに置いたものか」
いずれにせよ早く済ませなけえばならない。
私はとりあえず勝手のわからぬまま廊下を歩いていくと、リビング、客間、台所が順に板張りの廊下沿いに並んでいた。そしてそのままに抜けていくと今度はガラス戸の向こうに開けた庭が見えた。家主が不在でも手入れは継続的に行われるようになっているのだろうか。室内が醸し出す空虚さとは不釣り合いに庭だけが整然と活き活きとしていた。
そして庭を横目に見ながらさらに奥へと進んでいくと長い廊下の一番奥には如何にもといった感じの大仰な和室があった。私は家主の部屋と見て間違いがないと判断し襖を開けた。部屋の中は左側に最近では非常に珍しい上品な文机、右側は書籍棚と箪笥がいくつか、奥側と文机に向かって正面に明かり取り用の窓という非常に簡素ですっきりとした構成になっていた。
私は調度にこれといった興味も持たず室内を一瞥すると、先ほどの表面がすっかり煤けて字がかすれたノートを取り出し文机の上に置いた。
「私には必要無いものです。お返ししますよ」
私は来た道のりを引き返すと戸に鍵をかけ静まり返った一軒家を後にした。
4
「あなたは既に与えられている」
新約聖書の著者の一人であるパウロが聞いたといわれている神の言葉である。
パウロは元々持病持ちで身体が良くはなかった。そんな彼が神に「この身体を治して欲しい」と祈った際の神からの返事がそれであったとされる。その真意は「むしろあえて与えている」と解釈できるのだそうだ。
さらにこう続く「弱きときこそ力は十分に発揮される」と。
身体が蝕まれ、肉体的条件、環境的条件に恵まれず、その時に、その時こそ発揮される力とはなんだろうか。
それは精神的な強さ、思いやり、共感力、そういった類いのもののことなのだろう。キリスト教ではそれを霊的なものとして捉えているが例えクリスチャンではなくともそれは感覚的に十分理解できるものだと私は思う。
膝が悪く歩くのに不自由な者は、両足を切断し車いすを余儀なくされている者に共感し寄り添うことができるだろう。
子供を失った者は、親を失った者と悲しみを分かち合うことができるだろう。
不治の病に苦しむ者は、絶望的な状況に囲まれ生を諦めかけている者を励まし支えることができるだろう。
「人間は平等だ」「いや不平等だ」
そんな議論したりそこに疑念を持ったりすること自体がくだらない。
弱きこと、不遇、場合によっては死。
それらは与えられ、恵まれ、慈しまれている結果なのだ。
しかるべくして私も例外ではない。
死を意識することで結果的に周囲をよく見渡すことができた。
私の周りには何人かの救われない人間がいる。それは何かがちょっと足りない、という次元ではなく、決定的に何も無いという意味だ。
真っ白な部屋。そこにいるだけの人間。
全てが見せかけで全てが本物で触ることも触る勇気もなくあるのか無いのか不明確で不安定なまま。
太陽も浴びず、風も感じず、土の暖かさにも包まれず。
自分が満たされぬということを理解しながら、その行為にただ溺れることしかできない者。少しの関係性と少しの名誉と大半の屈辱と挫折で世の中が構成されていると勘違いしている男。
他者と比較することでしか自分の価値を確認できず、ただひたすら羨望と敬愛を求める者。それは自ら真に求めているものではないと気付きながらも信じ続けるフリをする純粋な女。
誤解と慢心で積み上げ続けた塔が崩壊し、その残骸をただ呆然と見つめているだけの者。どうしたら良いのかわからない、自分が良いことを求めているのかどうかすらわからない、本当の虚無に包まれた男。
私は彼らと手をつなぎ、我々の位置確認の旗を立てることにした。
見失うことはない。我々はここにいる。
それは一般的な概念では幸せとは言えない行為かもしれないが、彼らにとっての救いであり私にとっても救いであることを切に願った。
私はきちっと整理整頓された教授室を見渡した。
学生室とパーティションを挟んだところにある村崎さんの机の引き出しには私からの手紙を入れておいた。
私がいなくなったあとの研究室の運営について、学生のこと、研究成果のこと、他大学や研究機関との関係について、そしてこの文書の存在を隠したままそれらを実行することを《最後の願い》として記した。
「聡明な君ならいくつも不自然な点に気がつくこともあるかもしれないが、そこには関与しないで欲しい」
「不可解で達成困難かもしれないが、遺言なんだ。守って欲しい」と。
あからさまに彼女の好意を利用するようで気が引けた。しかし墓場まで持っていく秘密があるということは彼女の魂の一部を《朽津木周一》に縛り付けることになり、それも彼女が選んだ幸せだと考えた。
解放されないこと、それが彼女の位置確認のひとつの軸になってくれれば非常に喜ばしいことだ。
私が教授室の扉を開けると廊下の向こうで学生室の灯りがついていることに気が付いた。廊下に設置している離席表からすると善くんと今西くんの2人が学生室にはいるようだった。音楽を流しながらワイワイと話している様子からすると「休日も真面目に研究しています」というわけではなさそうだった。
私は鍵をかけずに照明だけを消し戸を閉めると学生室から漏れ聞こえる会話に耳を傾けた。
「マジで!お前、すっげーじゃん」
善くんは「おいおい、今西声でけぇよ」とすかさずそれを制しながらも「ま、とにもかくにもコレ見てみろよ」と得意気に言う。
しばらく2人とも無言でマウスのカチカチという音だけが部屋の中に響いた。
今西くんが嘆息する。
「……すげぇなぁ……すげぇ。すげぇとしか言いようがねぇよ。どうやってるわけ?」
「昔から、ちょっとしたコネクションがあってな」
「それにしても、こんな情報、絶対警察しか持ってないじゃん。まさか……」
「あぁ、そのまさかだよ。多分警察の人間だと思ってる」
「おいおい、やりたい放題じゃねぇかよ」
「とはいえ基本はギブアンドテイクだぜ。向こうは情報を持ってるし、おれはネットのスキルを持ってる」
「確かに善は異常にネットについていろいろと詳しいよな、確かに。でも……お前、なんでこんな研究室いるの?情報系の研究室いけば良かったじゃん」
「ん?まぁ、それは言いっこ無しだよ」
善くんは決まり悪そうにひとつ咳払いをする。
私は担当教官として当然知っているが、彼ら、善くんと今西くんは大学院の入試の際にどちらも私の研究室は第一希望どころか第二にも第三にも入ってはいなかった。しかし試験において決して良い結果とは言えないが落第させるほどではない微妙な成績に終わった彼らは《非常に厳しくて容易に卒業できないことで有名》な私の研究室に渋々やって来たのだった。大学側にとっても研究範囲も予算も多い朽津木研がそういう輩の受け皿としては適切なのだ。
しかしその忸怩たる思いが彼らの研究スタンスにも出てしまっているのは当然ながら極めて遺憾だが、如何にも世渡りが不器用な感じがして、あくまで個人的感情で言えば私は彼らのことは嫌いではなかった。
「昔はさぁ。おれが大学入ったばっかの頃だけど、とあるコミュニティがあってな。それがさっきのboboってやつと出会ったきっかけでもあるんだけどさ。あの頃は良かったなぁ。今よりよっぽどメチャクチャで理不尽で、カッコ良かったよ。まぁリーダーが突然いなくなっちゃってさ、今はかれこれ半年近く開店休業状態だよ」
「へぇ、そのコミュニティって?」
「名前はSOULFLY」
そこまで聞くと私は学生室の扉の前から離れて再び歩き出した。
未成熟な善くん。不完全なる善正良くん。
否、「君はまだ足りないよ。zazen」
君はまだ因果の環の中に入るのは少々早い。もっと生きて、もっと苦しんで、もっと後悔してから、自分に合ったメンバーを探すと良い。
「あいにく私が入る環はもう満員だ」
私は声に出して言ってみた。当然それは善くんに届くことはないのだが、言の葉を中空に投げ出すことによって私は不思議と爽やかな気持ちになれた。
*
さすがの不夜城といえども休日の夜とあって校内に人影は少なかった。
私はゆったりと並木道を歩く。長い直線が得られるこの並木道は昼には体育会系の部活がトレーニングをしている姿で賑わっているのをよく見かけるものだが、今は対照的にひっそりと静まり返っていた。
そこに在るのは、両脇にそびえる研究棟、等間隔に配置された古めかしい街頭、昼に受けた太陽の熱を放出しているアスファルト、青く茂った銀杏、そこかしこで囁く虫たち、そして私、そして《彼》だけだった。
私は振り向かずに歩く。彼の存在を背後に感じながら歩く。
そして講堂脇の芝のスロープまで来ると少し中に踏み込んだところで芝生に直接腰掛けた。
両手を後ろに付いて伸びをすると、今日は天気が良かった分芝生にはまだぬくもりが残っていた。
私は大きく息を吐き視界の外の《彼》に向かって語りかけた。
「私は昔から疑問だったんですよ。自分が何物かってことに」
返事は無い。私は構わず続けた。
「それは社会的とか、生きる意味とか、そういうものではありませんでした。もっと根本的な、捉え方によっては……人間不信、いや、それ以前の生物不信だったかもしれません。私の思考、今考えたこと、今しゃべったこと。これって何物なんだろうか、と思い悩みました。物理を理解することは容易です。言葉なんて送り手が声帯の振動と人体の共鳴で作り出した空気振動を受け手が鼓膜で受け止めそれによる耳小骨の振動を蝸牛の基底膜で神経細胞が信号として受信したものを視床下部経由で脳内に伝達させただけです。思考は脳内のニューロンが電気信号のやりとりを行い活性化しているだけです。理解など容易いですよね。しかもまだまだ今述べたことなど生体物理の表層でしかなく、もっと掘り下げることは当然可能です。これがまた極めて愉快な話ですよ。そんなことをしていてもいつまで経っても真に疑問の解決にたどり着くことはないというのに」
私は鼻で笑ったが反応は無い。私は続けた。
「私はもっと本質的な思考にまで歩を進めるべきだと思いました。それは人体の組成、ひいては分子物理、さらには量子物理です。ある有名な思考実験ですが《シュレディンガーの猫》についてはご存知でしょうか。波動方程式で有名なエルヴィン・シュレディンガーが提唱した量子論の基礎概念を前提とした哲学的思考です」
私は空を見上げた。最後の講義、といったところか。
「ある箱の中に閉じ込められた猫がいたとします。その箱の中の換気や食料の供給は万全で一切自動。ただし、その箱の中は外からは一切見えないものとします。さらにその箱には重大な仕掛けがあります。それは即効性の毒ガス装置です。その装置が起動するトリガは2つ。ひとつはアルファ崩壊により発生した放射線をガイガーカウンターが検出した時、そしてもうひとつが《光子》つまり光を検出した時です。箱の中には放射性物質が入れてあり、ある一定確率でアルファ崩壊を起こすものとします。また一方で光がその箱の中に入るとすぐさま装置は作動し瞬時に猫は死に至ります。その箱の中に猫を入れました。そしてしばらく経ったのち、《その猫は果たして生きているのかどうか?》」
私は一息切って続ける。
「箱を開けると間違いなく光子が入り込みます。仮に全く光が存在しない部屋で箱を開けたとしても我々が猫の生死を確認するためには《見る》必要があります。光が全く存在しない部屋ではそれもできない。手探りで探る?棒で突いてみる?如何にも不明確です。やはり明るいところで箱を開けるしか手段は無いのだがそれは猫を即座に死に至らしめるという矛盾を招きます。仮にその箱を閉めて10年経ったとします。さすがにもう生きていないのではないか、と考えても無理はないですよね。しかしそれが真に、必ず正しいということを如何にして証明できるでしょうか。猫の寿命はせいぜい10年くらいだから、放射性物質の崩壊頻度がどのくらいで今までにアルファ崩壊を起こした可能性はどのくらいで、などと言ったところでそれらはあくまで確率や一般的な認識の話でしかなく、たまたまアルファ崩壊が発生しなかったら、たまたまその猫が長命だったら、それで崩れてしまう程度の脆い論理です。確率は状況によって変動するでしょう。しかしあくまで《不明》は《不明》のままなのです」
答えはもうほとんど提供しているのだが私はあえて口に出す。
「したがって先ほどの問いに対する正解は《わからない/知り得ない》です。もっと言えば、猫は《生きていて/死んでいる》のです。同時成立のパラドックスということですね。量子力学の世界では、量子の軌道、軌道上での位置、数、これらのものは全て確率分布でしか語ることはできません。これは先ほどの猫が閉じ込められた箱と同様に《観測する》という行為が量子の状態に干渉してしまうからです。量子の世界ならそれでも『まぁよくわからないけどいいや』とほとんどの人が考えるでしょうね。これはあまりにもミクロな世界の話で実感が湧かないからというのが最も大きな要因のように思います。しかしシュレディンガーの猫で思考されたように、アルファ崩壊というよくわからないミクロの世界の現象がマクロに干渉することは可能です。猫は《生きていて/死んでいる》そんなことも起こり得るわけです」
まだ空気が変わるような気配は感じないが私は少し抑揚を上げて続ける。
「私は思います。これって《起こり得る》《可能》なんて生温いものなのでしょうか?マクロスコープ、つまり巨視的で一般的な視点で物事を考えると、量子の世界における不確定性や同時成立というパラドックスは実用上問題にならず、我々は量子力学を活用しながらも普通に暮らしています。なぜならマクロでは同時成立というものは認識困難だからですね。わかりますよね。あなたは《生きていて/死んでいる》、あなたは《あなたであって/私である》なんて言われたって感覚的に理解を越えてしまいます。しかしそれは論理的に接続可能な現象について人間は心理的決めつけによって認識できていないということでしかなくて、《功罪》もしくは《堕落》と形容されるべきものです。人間の知覚能力を超えていることは認めます。人間の粗末な認識能力では0.1秒以下の時間はよくわからないといいますし、肉眼で見えるものなんてせいぜい1ミクロンくらいが関の山です。しかしイメージはできるはずです。人間は想像力を持つ生物ですから」
私はつくづく偉そうなことを言っている。そんな自分も不確定な物質であるにも関わらず。
「先ほどはシュレディンガーを引用しましたが、そもそも考えてもみて下さい。私たちは不遜なる勘違いで私たちを《私》とか《あなた》という個体で存在すると認識しがちですが、あくまで我々の構成要素は数々の《身体の部品》であり、その部品を構成する《細胞》であり、それを構成する《分子》であり、《原子》であり、そして物理量の最小単位である《量子》なのです。その量子において常識的に当てはまる《不確定》の法則を私たちが無視できる道理というのはどこに存在するのでしょうか?そんな特殊なカバーでもつけてあるんでしょうかね?私たちの身体には」
また小さく鼻で笑う。
「量子物理を理解する初歩は『時間や空間に関する概念を一度スッパリ捨てることだ』と恩師からは言われました。中3くらいの時でしたかね。時間や空間は《場》の持つエネルギーによってねじ曲げられる。時間は連続ではなく離散的で絶対的な支柱と呼べるものではない。時間が連続だと認識しているのは今この瞬間でしかなくて、次の瞬間は別の場所、別の思考かもしれない。今、私の思考は、どこか別の空間で誰か他人がした思考の別の可能性かもしれない。過去の私の記憶も、どこか別の空間に存在する記憶の別の可能性かもしれない」
「生きていたものが死に、死んでいたものが生き返っているかもしれない」
「因果律なんて人間が作り出した幻想でしかないのですよ。都合良く世の中の理をわかった風に振る舞うための。本当は全てが不連続で1に1を足しても2であったり3であったり。今日の次の日は明日であったり明後日であったり昨日であったり……恐ろしくなってきませんか?私が《私は朽津木周一です》と自分で言ったところで真の意味でそこには何の確証もない。私が私だと認識している私は私ではなくそんな私の話を聞いているあなたもあなたではないかもしれず私の話を聞いたつもりで私ではないかもしれず今日は今ではないかもしれない。恐ろしくなってきませんか?」
恐ろしい。私は私が恐ろしいし私でないことも恐ろしい。
「認識がマクロかミクロかという疑問を投げかけると、十中八九マクロだという返事が返ってくることでしょう。目の前に見えているものが全てであって、古典物理学で語れるものが全てであって、それ以外はオカルトだ、と。マクロだと思っているのは人間がそれを《希望》しているからです。いかにも保守的なスタンス。万物の霊長たる人間様が考え出しそうな結論です。でも真実はそうではない。人間が正当な結論を下すことができている世の自然現象なんて二桁パーセントには乗らないでしょう。現に人間の脳みその90%以上が未だにその役割や動作原理を解明することができていません。その程度ですよ。人間の認識というものは」
私はそのまま寝転び星空を見上げた。芝生から熱気が空へと上がっていくのを背中で感じた。
「私は救いを求めました。認識というパラドックスの迷路の脱出口を切望しました。認識は不正確で不明瞭過ぎます。残念ながら信用するには値しません。変な話ですけどね。私がこうやってしゃべってることも、あなたがそうやって聞いていることもいずれも《認識》しなければ意味がないことなのですが、それだけでは信じることはできない。正確に言うと信じきることはできない。これだけでは」
私は空に向かって両手を上げた。
「ちょっとセンチメンタルなことを言いますよ」
自分で言いながら自ら鼻で笑ってしまう。
「世の真実はミクロにあります。でもマクロを心底信望する人間は残念ながらそこには辿り着けない。それについてはひとりの例外もありませんよ。いや、たまにいますかね。周囲の人間には全く理解できないような夢想や幻想を感じ取ったりそれを現実に落とし込んだりする超人が。まぁ彼ら彼女らは本質的に超人なんでしょう。私はそれを参考にするほど自惚れていません。そこで、もっとイージーな手段。ミクロな認識をマクロで捩じ伏せる便利なツールがあります。人間が生まれながらに与えられているものです」
私は天に届けとばかりに手を伸ばす。
「それがコミュニケーション。相互認識ですね」
「とてもローテクでしょ?」
大きく息を吐く。彼も息を吐いたように感じた。
「例えば解り易い物理的接触」
私は寝転がったまま芝生に手をつく。
「私が今握っている芝生は多分そこに存在するんだろうし、さらにこの石は小石であって、私は私ではないかもしれないけど、確かに、いや、多分そこにある。あなたと私が仮に触れ合っていたら、私は私ではないかもしれないけど、あなたは多分そこに存在します。もしあなたを同じ様に私は私ではないかもしれないけど私は存在すると言ってくれたら……それでお互い存在することになりませんか?戯言のように感じるかもしれませんが、至って論理的ですよ。人は人を通してしか、自分の存在すら認識できない。それゆえ、人は人を求め、関係性を求めるのです」
私は芝生を指で摘んで宙に放った。
「私が私は朽津木周一だと言ってもそれは無意味だが、他者に呼んでもらえれば、認識してもらえれば、私は私であり今日は今日であると思っても良いかもしれない。思いたい」
風は弱く数本の草は私の目の前へと落ちた。
「認識はよく嘘をつきます。触ったところで、嗅いだところで、舐めたところで、見たところで、考えたところで、判断したところで……嘘かもしれません。ねじ曲がっているかもしれません。しかしその恣意的かもしれない偶然を重ね合わせて自認を他認で補正し自認を他認で代用すれば人間は自分を見失わず《在る》ことができる。先ほど因果律は幻想だと言いましたが、幻想結構。マクロにのみ通用するご都合主義の概念ですが人間はその上でしか生きられません。ミクロな上位概念として絶望的な法則が存在するからといって、それに身をやつし絶望する必要はありません。私は人間の関係性の因果の中に身を落とし、その環の中で死ぬことにしました。皆に囲まれて」
私は勢いをつけて起き上がるとそのまま立ち上がった。時間だ。
「ねぇ、ring」
「君には因果の環を閉じる役割を担ってもらいます。本当は自分の手で成し遂げたいのですが私には時間も無いし、正当に考えてその役目は私ではなさそうです。これも運命と言えるかな。君には私の全てを仕込んであると言っても過言ではありませんよ。特に思想の面においては他者から《洗脳》だと揶揄されてもしかるべきなくらいにね」
私は小さく笑った。最後の笑いだろうか。
「私は心配していません。先に逝きます」
右足を踏み出したところで私は一度歩を止めた。
「ひとつ言い忘れていました。我々の親愛なる山崎宗次郎さん。彼のノートを君も読むと良い。彼の家にあります。鍵はここに置いていきますから」
ポケットからキーケースを取り出すと古ぼけたひとつの鍵を外し「私にはもうこれしか必要ありませんからね」とそれをポケットへ、キーケースを芝生の上へと放った。
*
「深彩ちゃんてさー。彼氏いんのかねー」
「おまっ、《深彩ちゃん》だなんて、村崎さんがどっかで聞いてたらまたしばかれるぞ」
「大丈夫だよ。こんな時間に来やしねえだろ」
「まぁそりゃそうだけど」
「なぁ。今西はなんか知らねえ?深彩ちゃんの男関係」
「うーん、そうねぇ……」
「深彩ちゃんってさ。毎日きっちり八時五時勤務でサラリーマンみたいに帰るじゃん。それを見てっとね。ひょっとして彼氏がサラリーマンで、学校から帰った後に毎日会ってんのかなーとか思う訳よ」
「善……お前村崎さん狙ってんの?」
「そこまでガッツリでもないけどな。ま、チャンスがあったら食ってみたいとは思ってる」
「まったく……お前って前から年上好きだとは思ってたけど、村崎さんにまで手を出す気だったとは……」
「おいおい、別におれは年上の方が好みってわけじゃねえよ。高校生の頃には純粋に後輩に恋したりとかしたわけよ」
「マジでー、信じられんなぁ。お前、大学に入ってひとが入れ替わったんじゃない」
「いやいや。そもそも年上とか年下とか関係ないじゃん。やっぱなんつうの。グッと惹かれる魅力さえあればね」
「村崎さんもそうってこと?」
「そりゃそうだろ魅力たっぷりさ。あんだけの上玉物件なかなかないぜー、今西さん。しかも学生と助手という立場ながら毎日一緒の生活。これを活かさない手は無いってこと」
「とはいえねぇ……おれはあまし得意じゃないなぁ、村崎さん」
「え、何でよ?」
「確かに美人だとは思うんだけど、何て言うか……」
「この阿呆が。そんなものは深彩ちゃんの魅力のわずかな一部だ」
「そうかね……」
「おいおい、あのいいカンジのサイズの乳、揉んでみたくね?」
「法に触れないなら」
「あのレポートとか持ってった時に後ろから見えるうなじとか、良くね?」
「大人の魅力ってやつ?」
「あのパリッとしたシャツから覗くブラチラとか、たまんなくね?」
「まぁ多少は」
「ホント、今西くんはダメなんだから……とか、言われたくね?」
「え、普通に嫌だよ」
「あのたまにスカートで白衣着てる時とか、グッとこねえ?」
「いや……それはもうよくわかんない……」
「こーの腐れ××が!老人かお前は!」
「はいはい、ストップストップ。そこら辺にしときましょうね」
「……まったく……今西はなーんもわかってないなぁ……」
「……あのさ。ワリぃ、善……おれ、ちょっと知ってることがあってな」
「あん?何だよそれ」
「村崎さんの男性関係」
「おいおい、何だよ、まずそれを言えよ!お前、ひでぇやつだな!」
「いやぁコレがまた言いにくいんだって」
「何だよ、はっきり言えよ!」
「だってなぁ……朽津木先生なんだよ」
「あー?どういうことだよ、先生って」
「まぁぶっちゃけ見ちゃったわけ。先生って学校の近くにマンション借りてるじゃん。おれが住んでるとこってそのマンションの近くでさ。たまたまコンビニに行こうとしてブラブラ歩いてたら先生がマンションに入ってくのが見えてね。『へぇ、先生このマンションだったんだー』なんてボンヤリ眺めてたら……」
「……」
「……村崎さんが先生の後を追ってマンションに入って行ったよ」
「マジか……」
「しかもそれで終ったらまだマシだったんだけどさ」
「まだ何かあんのかよ?」
「どうも、村崎さんの熱烈アプローチを朽津木先生が断り続けてるって構図みたいなんだよ」
「おいおいおいおいおいおいおいおいおーい!あのおっさん、何やってんだよ!」
「でも間違いない。その時はさ、あまりにも衝撃的なものを見ちゃったから、おれはしばらく外でタバコ吸いながらボーッとしてたんだよ。そしたらものの数分もしないうちに村崎さんがマンションから出てきた。しかも入る時に大事そうに抱えてた包みはそのままでな。ありゃ多分夕食かなんかだったんだろうな。つまり村崎さんが用意して持ってきて、そして先生がそれを断った、と」
「おいおい、えー、ホントかよそれ?何か別の用事とかあったんじゃねぇの?」
「うーん、村崎さんのあの残念そうな表情とか……から考えるとね。ま、それに一回じゃ無かったし。そういうこと」
「マジかよー……」
「当然おれが見てるだけで、だからね」
「うう……もっと頻繁に、もっと昔から同じようなことやってると考える方が妥当だと」
「はい、よくできました。だからかなー、ちょっと村崎さんに対しておれは引いた目で見てるっていうか」
「……ん?あれ?そもそも先生って結婚してんの?」
「詳しいことは知らないけどお子さんはいるでしょ?」
「え、そうなの?あのおっさんに結婚なんてできんのかよ?」
「お前って、朽津木先生のこと好きじゃないだろ」
「ああ。寸分の疑う余地無くな」
「何でよ。おれはそんなに悪い人じゃないと思うけどなー」
「はぁ?あの偏屈変人のどこを取り上げて肯定的な発言ができるわけ?あいつの良いとこなんて研究者としての成果くらいだろ。人間としては下の下だ。あんなの。細かいことにうるせえし、何でも理屈っぽいし、明らかにおれのこと目をつけて陰険にいたぶってきやがるし、実績があんだか評価が高いんだか知らねえがおれらのこといちいち見下した態度取りやがってよ。で、こっちのことなんか何もわかってないくせに『わかってますよ』ヅラしやがる。あんなんで女にモテんのか?はん、おれが女だったら願い下げだぜ」
「ま、憧れの助手の心を奪われてしまったペーペーの学生が吠えたところで見事なまでに虚しいばかりだがな」
「チクショウ、朽津木め、どっか別の大学に飛ばされろ!」
「もし先生が飛ばされるならその時に村崎さんは付いて行くだろうね。そして先生も有能な助手として彼女を欲しがるだろうね」
「朽津木め、とっとと引退しろ!」
「先生はまだ40ちょいだよ」
「朽津木め、うーんと、化学実験棟で飼育されてるハブに噛まれて死んじまえ!」
「そうして朽津木先生が亡くなることで、村崎さんの心には永遠のヒトとして刻み込まれるのでした……」
「おーい……一体どうすりゃいいんだよ?」
「だから村崎さんはやめとけって。あ、そうだ来週土曜にコンパのお誘いがあるんだけど行くか?」
「おーい。お前は。まったく。それを先に言えよー。順序がなってないやつだ。そんなだから留年するんだぞー」
「いーや留年するのはきっとお前だよ」
*
私は研究室のある棟とは離れた古い6階建ての実験棟へと向かっていた。老朽化により建て直しが検討されている棟で、既に研究室や実験室は全て出払っている建物だ。朽津木研究室立ち上げ当初にあてがわれた思い出の場所でもある。
私は実験棟の裏口に回ると非常階段へと繋がる鉄扉を開ける。
「ここは私しか入れないんだ」
誰へともなくつぶやき階段を上がっていった。
私の靴底が奏でる歩みのリズムとは遅れた反響音が小さく重なる。ひとつ、ふたつ、頑強なコンクリートが音を共鳴させ、私のものなのか、他者のものなのか、それはわからなかったし確信を持っていたしどうでも良いことだった。
突き当たりまで上がりきるとまた鉄扉があった。同じ鍵でそこを開けると最上階、屋上へと歩を進めた。
建物は6階建てとたいした高さではないが大学自体が周囲よりも幾分高台になる位置にあるため、屋上からは周囲を十分に見渡すことができた。屋上は給水タンクや幾つかの電気系統の器具が置いてあるだけで人がデイルする場所としての配慮があまりされておらず、床面は粗雑な舗装、周囲には鉄柵も施されていなかった。
しかしその分、端まで歩いていくと見晴らしが格別で私は研究に詰まるとよくここに来て空を見上げたものだった。
端から1m以内。首は上方向に60度以上。
そうするともはや視界は空一色。俗物が目に入る余地など無かった。空気と光と圧倒的な物理量で満たされ晴れ晴れとする。
人間の視野と言うものは案外広い。何かを見ている時は120度程度と言うが、逆に何も見ていないときは180度以上あるとも言われる。何も見ずに何も見えなくするためにはこれくらいのことが必要なのだ。
私は久しぶりに同じようにやってみた。
私が何なのか、私は、あれ?30の頃の私だっただろうか、こうやって初めて夜空を見上げた時の私だっただろうか。
愉快だった。
一転して足下を見る。レンガ調の壁面は見えないが地面のアスファルトは見える。これが今か。そして先か。
私は次に真っ正面を見据える。幻想と現実と意識と恣意の間。その曖昧な世界。私はその曖昧さに耐えかね明確な世界を選んでしまったが曖昧さもまんざら悪いものでもないのだろうか、と考え鼻で笑う。
これが本当の最後の笑いだろう。
後ろから小さく足音が近づいて来て、そして止まった。
私は72度を見上げる。
背後の声はこう言った。
「あなたが悪いのよ」
私はそれが用意された台本であったかのように答えた。
「そうですね。そう思います」
そして小さく微笑んだ。これが最後の笑いだった。
どっと背中に衝撃を受けると私の身体はそのまま宙を舞った。屋上の端までもう一歩も踏み出すスペースは無かったので然るべき物理軌道だった。
こういう時は走馬灯が見られるのかと思っていたが全くそのようなことはなかった。時間は不連続で絶対ではないはずだが、ここでは私のマクロ的信念、いや妄想が際どく競り勝ったらしい。きっちりと6階建て屋上から転落したとおりの時間、距離、空気抵抗の算出も万全だ。ああ、古典物理学はすばらしく明快である。これはミクロ的不確定性という上位概念に醜く抗って一本の糸を通そうとする私にとっては吉兆と言っても差し支えないだろうか。
もはやそんな戯言に苦笑することすら身体は許さなかった。
私が死ぬ。
私の脳髄ははみ出していたのだろうか。
私の脛骨は折れ曲がっていたのだろうか。
私の因果の、糸はどこ、かへと、繋がっ、ただ、ろう、か
― 山崎の章 MERCURY ―
1
「柚子……柚子……」
「なぁに。おじいちゃん」
「おお。そこにいたのか」
「外で遊んでたんだ」
「そうかそうか。最近寒くなってきたからね。ちゃんと上着を着るんだよ」
「大丈夫、ほらコレ。あったかいよ。このダウンジャケット」
「正宗に……最後に買ってもらったものだもんな」
「うん、大事にする。お爺ちゃんも寒くない?」
「お爺ちゃんは大丈夫だよ。歳を取ると寒さにも暑さにも鈍感になるようでね」
「ダメだよー。お爺ちゃん、トシとか言ってちゃー。これから私が中学生になって、高校生になって、大学生になって」
「うんうん」
「いずれ結婚して、子供を産んで。おじいちゃんから見たらひ孫だね」
「おいおい無茶を言うなよ」
「無茶じゃないよー」
「そうだね。どうだろうなぁ」
「ずっと見守ってね」
「せめて柚子が成人するまでは生きてないといけないなと思ってるよ」
「そんなの嫌だよ。お爺ちゃん。もっともっと長生きしてね」
「できる限りでね」
「うふふ。頑張ってね。私はいつでもおじいちゃんのそばにいるから」
「……柚子」
「なに?」
「本当は……その台詞を言わなきゃいけないのはお爺ちゃんの方なんだよ」
「……」
「由紀子と。お婆ちゃんとね。約束したんだ」
「…………」
「柚子のことはおれが守るって。何があろうと」
「ありがとう……嬉しい」
「う、うぅ……」
「どうしたの?お爺ちゃん大丈夫?」
「柚子、お前は優しいなぁ……お爺ちゃんは約束を守れなかったんだよ……」
「…………」
「柚子?お爺ちゃんは約束を守れなかったんだよ?」
「…………」
「柚子?柚子?」
「…………」
「あれ?喉が渇く、痛い、痛み?乾き?苦しい、苦しみ?」
「…………」
「わからない、わからない」
「…………」
「柚子?柚子?」
「…………」
「乾いてる、いま乾いたのか?乾いてたのか?」
「…………」
「水……水をくれ……柚子……」
2
白が白過ぎて、視界がはっきりとするには時間が必要だった。
目の前は一面の雪。私は渡り廊下の端で生徒用らしき椅子に腰掛けていた。
またここに来てしまっていたか。グラウンドを見ていたのだろう。ここはグラウンド以外からは全て死角になっていて非常に落ち着く場所だった。といっても校長職にあった頃はそんなこと全く考えもしなかったのだが。
降り積もる雪は全てを覆い隠しその上で白に染め抜いていた。
「まるで死に装束だ」
私はつぶやいた。
「私もそう思います」
後ろの男も同意した。
声の位置からすると体育館の入り口辺りに腰掛けていると思われた。
いつからからそこにいたのか、私は彼を認識していたのか、それともたった今現れたのか、そんなことはわからなかったが、男の落ち着いた口調に私は警戒心どころか旧知の中であるような心地良さを感じた。そもそもそんな感情自体が既に削がれているかと思っていたのだが。
私は視線を変えずに言った。
「でも……美しい白です」
男も座った姿勢のまま応えた。
「そうですね」
男の声は透き通っていて妙に現実感が無かった。
しばらく私たちはお互い無言のまましんしんと降り積もる白雪を眺めていた。外はかなりの積雪で、扉が壊れて開け放しになっている渡り廊下はほぼ外気と同じ寒さと思われたが、私は寒さを感じなかった。
もしかしてこちらが夢なのか?とも一瞬思ったが、雪が空へに昇っていくようなことがないので、とりあえず現実だと思っておくことにした。
「タバコ……ですか」
また透き通った声で男が言った。その声には聞くものを魅了する何かがあった。
私は自分の足下に目線を落とした。吸った記憶は無いが、普段私が吸っている銘柄の吸い殻が散乱している。
「昔から。いや、若い頃はそうでもなかったんだが、歳をとってから止められなくなってね」
「ご自愛を」
私は苦笑いを浮かべた。タバコを止めることなんてもう無理だと思う。
「ま、そうは言ってもタバコも悪い事ばかりじゃないから」
「タバコは場面によっては役に立ってくれるということですか」
男は興味を持ったようだったので私は持論を展開する。
「そうなんだよ。何かとね。例えば秘密事のほとんどはタバコを吸う場に存在する。コミュニケーションツールのひとつさ。私もそれが原因で止められなくなったのだったかなぁ」
「口を物理的に塞ぐことが逆にコミュニケーションの成立を促進する訳ですから、人間というのはやっかいにできているものですね」
「違いない。でも《タバコを吸う》っていう行為がある以上はその場にいる理由が立つってことでね。多少の気まずさには目を瞑れる。向こうも目を瞑ってくれる。その結果、自然と会話が生まれるわけだ」
実際そういう経験がいくつもある。あれはいつのことだったか。
「学生とベテラン教授。20代の新入社員と部長。本来なら会話が成立しない相手との会話が発生するというのはタバコの効果ですね」
「そうそう。私もそうだった。あれは下にとっても上にとってもありがたいことでね。私が校長をやっている時にも毎年配属や転属されてくる教員がいるものだが、大抵はなかなか輪に馴染めないものだ。しかし時間はそう悠長には流れないし、そうこうしているうちに行事は目白押しだ。すぐに学校に馴染んでもらうために私は喫煙者から押さえていったものだよ。喫煙室という密室で2人きりにでもなれば必然的に皆ある程度心を開く。便利で効率的なやり方だったよ」
私は戯れに足下の吸い殻ひとつ拾って指で捻ってみる。
すぐにフィルターがポロリと外れて落ちた。そしてそこから茶色から焦げ茶色に変色した葉がボロボロと続けざまにこぼれ落ちた。
「タバコなんてなくても密なコミュニケーションが取れれば問題ないのですが」
男は言った。もっともなことなのだが私は反論する。
「そうは言ってもなかなか難しいものだよ。タバコは生きづらい世の中を生きやすくしてくれる。居づらさ、決まりの悪さを掻き消してくれるんだ。そんな便利な物、そうそう捨てられないさ」
私は手に残ったタバコの破片を指でピンとはじいた。破片は何の風情も無く床へと落ちた。
あれ私は、タバコなんて吸って、いたんだっけ。
「様々な物質的問題を解決する上で物理的ツールを使うのは悪い事ではありませんね。それが人間ですから。しかしこと生きにくさについてはどうなのでしょうか。例えば喫煙というのは吸って吐く動きですよね。それは深呼吸の要領です。多くの喫煙者が《一息つけること》をタバコの良さとして挙げています。逆に言うとほとんどの喫煙者はタバコが無ければ一息つくことができていない、席を立つことも、ましてや深呼吸することもできていない、ということですよね。非常に生きづらいことです」
「それは、一理、あるね」
スッと応えようとしたのだが、言葉に詰まる。このポンコツが、また、ガタがきやがった。
「そんなに現象をねじ曲げなければ生きられないのであれば、そんなに生き難いのであれば、生きなければいいのに。そう思いませんか?」
男は、きっと笑顔で、言っているの、だろう。背中の向こう、でありながらもそう感じ、た。
「ねぇ、そう思いませんか?」
男の声が、近く、に感じた。
あれ、私は、タバコ、あれ、何が問題だっけ、問題?いや、問題なんて無、順風満帆、そんな、嘘なんかじゃ……
*
「えーと、まず……あそこで何をしようとしてたのかな?」
私の正面に座った青年が言った。
「家の近くを、散歩、して何が、悪いんだ」
気付いたらあそこにいたんだ。きっと理由はあるのだけど申し訳ないことに記憶が無いんだ。
「じゃあ、何で小学生に声かけたのかな?」
「ちょっ、と道を訊こう、と思ったんだ」
「家の近くなのに?」
青年の表情が歪む。明らかな疑念。
孫の柚子に見えたんだ。悪気は無いんだ。
「サラリーマンの男性に後ろから抱きついたのは?」
「つま、ずいてよろけた、んだ」
正宗に見えたんだ。
「ま、いいや。さて……」
青年は体勢を立て直して私の方を覗き込むようにして言った。
「あのね。さっきおたくが女のコに対して手ぇ上げたのって、覚えてる?」
「…………」
申し訳ないことにまったく覚えていない。柚子に似ている子だったのだろうか。
私はどうなるのだろうか。何をしてここにいるのかすら解らない私にそれを考えることはひどく困難だった。
「うん。わかりました。いいよ。オッケーオッケー」
青年はそう言うとドッカリと椅子に深く腰掛けた。
「そういうことあるよね。あるある」
私の中でも何も解決どころか手がかりも無い状況だったが、青年の態度はまるで全てが片付いたかのように落ち着いていた。
「はー、それにしても何度かあそこら辺で保護されてるよね。実は他にも苦情が来てるんだよなー。困った困った」
青年はペラペラと机の上の書類をめくりながら言う。
恐らく近所の住人からの苦情なのだろう。私が客観的には周りに距離を取られるボケ爺だということはわかっている。わかっているさ。
無関係の人に話しかける。
誰もいなくても話しかける。
でも、正宗が、由紀子が、柚子が、友人たちが現れるんだから、嬉しくてつい話し込んでしまうのだ。それが嘘だなんてわかっている。でも、辛い本当よりも緩い嘘に溺れたい。
私にはそんな権利すらも無いのだが。
「これはおれの興味本位なんだけどさ。なんか基本的にさ。うん、やっぱあの周りだ。今日保護された場所。他の場所では苦情とか証言が無いねぇ」
青年は資料をめくり続ける。あのスピードでしっかり要点を捉えて読めているのだとしたら随分と優秀なんだな、と思った。それとも警察なら皆持っている特殊技能なのだろうか。
「さて」
青年は最後まで読み切ると書類を投げるように横の椅子の上に放り、机に肘をつきながら私の顔をじっと見つめた。
「そこでさ。何か……理由があるなら教えてもらえないかな?」
それは、それは、孫を、柚子を、殺した敵がいるんだ。
「きっとあの場所。もしくは周辺に何かあるんだよね」
犯人が近くにいるんだ。
「いや、むしろ何か《いる》かなぁ?」
指宿環。私は知っているんだ。
私はどうにかして脳みそから単語を口へと伝達させる。その行程は想像よりかなり困難になっていた。
「柚子の……敵だ。犯人だ。いるん、だあそこ、に」
「うん。それ、詳しく聞かせて欲しいな」
あいつが柚子を殺した。柚子を。大事にすると誓ったのに、私は、私は大事にしていた。大事にしていた?あいつが殺した。全てを無にした。許せない。
「殺す……殺す、殺す、殺す」
殺す?いや違う。本当は彼に反省して欲しいんだ。彼の行いがどうなったか、結果として何を生み出したか、知って欲しい。そして後悔して欲しい。そして繰り返さないで欲しい。
そして、できることならば、柚子を返して欲しい……
「殺す、殺す、殺す、あいつ、殺す、あいつ」
しかし私の口は脳の指令を裏切りお経のような平坦なトーンで繰り返し続けた。
「ちょっと、ちょっと、興奮しないで」
青年は手で私を制すると、私の肩に手を置きさするようにして「まったく……誰も聞いてないよな……?」と周囲を見渡しながら小さくこぼした。
すると奥の部屋から男性の怒鳴る声が聞こえた。
「おい、ボウ!ちょっと来い!んな爺さんの相手やってサボってんじゃねぇぞ!」
「あー、はいはい。いま行きますよ」
目の前の青年は私に「ちょっと待ってね」と言い席を立つと、部屋を出て先ほどの怒鳴り声の主と会話し始めた。
「……うーん、どうも、ただのボケじゃない感じですけど。うちの爺ちゃんがボケたときには、最近のことはわからないんだけど自分のこととか昔のことは事細かに覚えてたんですよね。戦争のこととか年号入りでスラスラ言うんですよ。逆に脳みそはすごく立派なんだと思いましたもん」
「ボケにもいろいろあんだろ。それよか此処と此処。空き巣と強盗だ。行って来い」
「はいはい、わかりました。とりあえずあのお爺さんはおれのとこで処理しちゃいますよ。いいですよね?」
「好きにしろ。終ったらすぐ行けよ」
青年は「はーいはい」と気の抜けた返事をしながら再び部屋に入って戸を閉めた。
「ま、傷害と言ってもたいした話にはなってないから、ま、問題なく書類送検で済むでしょ。安心していいよ。あ、ここにサインもらっていいかな。名字と名前ね」
「名字……名前……」
《山崎宗次郎》だよ。ほら、動け。私の手。
「……な……まえ……」
動けって、まずは《山》からだ。
「ま、時間あるから良いよ。ゆっくり考えてちょうだい」
情けない。もう何もかもが噛み合ない。
私はゆっくりと一文字ずつ正気を確保しながら書いていった。
「うん。よし、おっけー」
紙を覗き込みながら青年は言った。
「親切、な青年だね。君、は」
「あははは、こんな商売してると『親切だ』なんて言われることないからなんかむず痒いねー」
青年ははにかむと私に対して笑顔を向けながら言った。
「えー僕は嵭崎望って言います。ま、これからは何かあったらここに来て直接おれに言ってくれればいいからさ。その代わり、あんまり他のひとにはさっきの話しないようにした方がいいよ。変な疑いかけられちゃうからね」
私は青年が何を言わんとしているのかよくわからなかったが、とりあえず彼の誠意ある対応に対する報いとして小さく頷いておいた。
3
「やはり私はジャスミンですかね。凡庸が故の汎用性に優を見るというのも乙なものです」
「……ジャスミン?」
私はギョッとしてただ復唱した。
すると背後からは一拍置いて男の声がした。
「……ああ、紅茶の話ですよ」
目の前は白い。真っ白な雪化粧だ。
「先ほどから紅茶の話でして、いやぁ、あなたの造詣の深さに感服しました」
紅茶の話などしていただろうか。そんな気がしなくもないし、そんなこともないような気もする。しかし紅茶は確かに私の得意とする領域だ。元々は由紀子の趣味だったのだが彼女の話を聞いているうちに私も徐々に身に付いてしまったものだった。
「さてと。そろそろ本題に入りませんか」
男は相変わらずの透き通った声で言った。
「私がここに来たのは偶然ではありません。あなたに話さなければならないことがいくつかありましてね」
驚きはなかった。不思議と想定していた言葉だった。
「以前から何度かこちらに足を運んでいたのですが、今回ようやく会えました」
私は振り向かない。男は淡々と続ける。
「山崎柚子さん」
急激に頭がクリアになった。脳内の温度が10度くらい下がったように感じた。大型のハンマーで横から殴られたように感じた。
すかさず私は振り返る。
視界は相変わらずボヤけていたが、そこには体育館脇の割れたブロック塀に腰掛けている長身の男がいた。
「柚子さんのことに関してはご愁傷さまです。謹んで弔意を申し上げます」
男の言葉には白々しさは無く、心からの発言のように聞こえた。
「柚子さんの死因。それは自殺でしたが、その原因については厳密には学校でのいじめではなかった……あなたはそれを知っていることと思います」
私は言葉を発することができなかった。目の前の男の存在感がまるでボヤけて感じて、これは現実のことなのか、頭の中のお得意の暴走なのか判別がつかなかった。
「きっかけはある少年からの告白からです。あなたの元教え子、善正良くんからのね」
私ははっきりと脳裏に蘇ってきた。あの時の記憶が、封印したはずの記憶が。
「ここからは少々昔話にお付き合いいただきますか」
男はブロック塀から立ち上がると大きく伸びをした。
「彼、善正良くんには高校生のときに好きになった女性がいました。それは同じ高校の後輩でしたが残念ながらその恋は実りませんでした。その女性には彼氏がいたのです。しかし元々陰湿で引っ込み思案な性質を持っていた彼にとっては《気になる》《好き》《告白する》《付き合う》というような一般的な恋愛リテラシーに対する意識がそもそも非常に低かったため、その女性に彼氏がいること自体は彼の恋心を遂行するにあたってあまり関係の無いことでした。彼はその女性を監視し、彼女の情報を集め、彼なりに彼女のことを愛で続けていたのです」
私は無言で耳を傾けていた。その、よく見知った昔話に。
「しかしある時その女性が彼氏から手痛い裏切りを受けました。彼氏はその女性と後輩との二股をかけていたのです。そして後輩の方を選びました。善正良くん、彼は自分のことのように怒り狂いました。その後輩を呪い、おとしめたい気持ちで一杯になりました。しかし彼にはそんな度胸も行動力も無かった。そこで彼が選んだ手段は《あるコミュニティ》への投稿でした。その後の惨状は本当にひどいもので、ごく数人の忌むべき技術と精神の持ち主たちのせいで後輩の女子は自殺へと追い込まれました。善正良くんは激しく後悔しました。そんなつもりではなかったのに、と。そしてあなたに自らの過ちを打ち明け、許しを請うた」
私は男の表情を凝視した。
「山崎柚子さんの唯一の肉親である山崎宗次郎さんにね」
緩んだ視界のせいで細かいところは読み取れないが男は少し微笑んでいるように見える。
「その時のあなたの様子は聞いています。『話を聞いているのか聞いていないのかよくわからなかったけど、話したことで随分気が晴れやかになりました。ありがとうございます』だそうです。呑気なものですよね」
男は小さく鼻で笑った。
「……なぜ、君はそんなことを知ってる?」
男は立ち上がると胸に手を当てながら言った。
「それは簡単です。私が彼、善正良くんを諭した人間だからです。あなたに全てを打ち明けるようにね」
私は複雑な気持ちだった。私にとってそれは非常にありがたい行為であったことは疑う余地がない。彼の告白によって、私は全貌を理解し《ring》という人物の存在を知った。
男は私の思考を見透かしたように続けた。
「あなたはそこでringという人物の名を聞き、当時コネの深かった警察幹部の知人にねじ込んで調べさせた。しかしなにぶんネットでのスキルに秀でた輩の仕組んだこと。調査状況は芳しくなかった。するとそこであなたは知人からその道のスペシャリストである《ある人物》を紹介された」
「そうだ……そのとおりだよ。君は何でも知っているんだね」
「そうです。お久しぶりですね。私がkuitです」
私は不思議と落ち着いていた。その答えはどこか、男が姿を現したときから、いやとっくの昔に確信していたように思えた。
「君からもらった情報の通りに調べたら、すぐに指宿に辿り着いたよ」
私は観念して彼の誘導に合わせて応える。
「そして私は知人へプッシュした。指宿を調べろ、捕まえろ、とね。しかし……」
「仮にその情報を軸に裁判にこぎ着けたとしても証拠として扱えないと言われたのでしょう?《違法収集証拠排除法則》違法な手段により入手した証拠については刑事訴訟法に基づいて排除される。それを教えずに私を紹介するとは随分不親切な知人でしたね」
「それは私も多少は理解していたよ。しかし君からもらった情報を元に正当な手段で捜査を進めればいずれ辿り着くものだと期待していた……その期待は虚しく裏切られたがな」
「ringの腕もそれなりですから仕方のないことです」
「ふふ。君は何でも誰でも知っているという口ぶりだね。まぁ本当にそうなのだろうな」
「何故そう思いますか?」
「君の言葉には嘘を感じないからだよ」
「なるほど。ご想像にお任せします」
相変わらずボヤけた視界は男の顔を正しく捉えることはできないが、確実に男は笑っていたのだろう。素敵な笑顔のように思った。
「さて、もうふたつほど私からの話があります。お付き合い下さい。まずひとつは指宿くんの話。彼とこちらで無事会えましたか?」
情報も何もかもを持っているこの男に対して私は徒手空拳。もはや身を任せるしかあるまいと感じた。むしろ私に質問などしないで欲しかった。どうせ知っているのだろう。
「……君の、知って、の通りだよ」
男は小さく声を上げて笑った。
見抜かれているとわかっていながらも、あの時のことを思い出すと私の胃液は少し逆流する気分だった。
胃液の臭い、機能を果たすことも許されず、機能を果たす能力だけ持ち合わせた虚しい消化器官。そもそも私はいつから食物を取っていないのだろう。それとも今日何か食べたのか。わからない。
胃液の感覚と人の圧力や罪悪との関係性について感じるのはいつぶりだろう。捨ててしまったはずだったのに。
頭が痛い。頭がぼうっとする。何も感じない。痛みを感じる。
男はひとつ嘆息し言った。
「それで、どうです?指宿くんを殺して、スッキリしましたか?」
……ど、うせ、わか、っている、んだろ、それ、も君に、は
*
気が付くと私はいつもの通りに渡り廊下に置いた生徒用の椅子に腰掛けていた。
寝入ってしまっていたのだろうか。寝起きのように頭がぼうっとした。
私は何をするでもなくただ正面を見据えていた。グラウンド横の立ち並ぶ木々たちは夕日に照らされ赤色に染められていた。そもそも何をするためにここにいたのか。頭が働かない。
すると遠くで足音がした。いやかなり近くで。小太りの男が何か探るように見回しながら体育館裏へと向かっている。私はこの男を知っている。指宿。柚子を自殺に追い込んだ元凶だ。何故知っているのかわからないがそんなことどうでも良い。
私は軽快な足取りで音の鳴った方角へと向かう。注意深くやつが向かった方向を覗き見るとやつは体育館裏にある焼却炉の扉を開けていた。そこはわずかな人間しかその存在も把握していない極秘シェルターへの入り口だった。
やつはしばらくの間いぶかしげに中を眺めると覚悟を決めたようにその中へと進んでいった。
私は廃材を手にそれに続いて焼却炉へと入っていった。
シェルターの中は主電源が切れたままで内部の設備は動いておらず、シンと静まり返った真っ暗闇だった。距離感も空間の広がりもまったく掴めなかったがやつのライターの灯りが私の進むべき方角を教えてくれる。
お互いの足音はシェルター内で複雑に反響し合い足し合わせた掛け合わせたような音の塊へと変貌していった。
私は怒りをじっと押さえながら、呼吸すらも押さえながら近づいていった。
未だやつは気付いていない。
「こいつに……こんなやつに、柚子を殺されたというのか」
言葉に漏れそうになる情動を抑えつつ進む。妙な音の反響のお陰で私は足音を隠す必要なくやつの背後に近づくことができた。
あと数m。
私は確認するように手元の廃材を両手で握り直す。少し湿っていたが、そのささくれた角を撫でるだけで威力の高さを確信できた。
あと1m。
私は廃材でやつの後頭部を殴りつけた。
廃材が折れて木片が床へ飛び散る音と、やつが持っていたライターが転がる音がシェルター内に響いた。ライターはその衝撃でも消えることなく、倒れた《やつ》の姿を照らしていた。私はそのライターを拾うとやつが倒れている方へと歩み寄った。
大量の血痕。
ピクリとも動かない身体。
砕けた頭蓋骨。
飛び出した脳髄。
完璧だ。完膚なきまでに私はやつを打倒したのだ。
私がやつの死体を見下ろしながら歓喜の雄叫びを上げた。するとそれはシェルター内へと響き渡り、やがて妙なうねりと重低音をまきこみ、そして耳をつんざくような怒号へと変わっていった。
私は思わず耳を覆った。
「……ス……ゥ」
「……サレタ……ァ」
「……イ……ィ」
「……クナイィィィ」
四方八方に響き渡ったうめき声は方向感覚を失いまるで私の頭の中から聞こえているようだった。
耳が痛い。こめかみがうずく。
これは私の声ではない。
私はふと足下に目線をやるとその光景に思わず手にしていたライターを落とした。
先ほどまで伏して私に対する服従と屈服をあらんばかりに示していたやつの身体が起き上がり動き出そうとしている。
不自然に曲がった首はそのままだ。
飛び出した左目もそのままだ。
血まみれの顔面。
裂けた口。
その口の奥の喉よりもさらに奥から私の脳へと直接叩きかけて来る。
「殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ殺ス殺サレタ痛イ痛クナイ」
私は逃げ出した。
真っ暗な闇の中を。
何も考えられない。
扉は閉められ出口の光は見えない。
しかしひたすらに走った。
背後からは悪寒を伴う獣の気配。
前方には何かあるようで何もない空間。
見えないし触れない。
ただ背後にある気配だけがこの空間の全て。
身体に風を切る感覚はない。
しかし進んでいる。
いや、進んでいない。
やがて私は地に対して空転を始め、私は私の身体を感じることができなくなった。
4
「よくわかりましたよ」
男は私の目の前でどこからともなく持って来たパイプ椅子に座っていた。私の顔を覗き込むその姿はまるで幼児でも相手にしているようだった。
「何、がわかった、んだ……」
私は精一杯の力で切り返した。
「あなたの心ですよ」
目の前の男は優しい声で言った。視線は私の目を見つめているように感じた。
「まる、で事実、は何でも知、っていると、言わ、んばか、りだな」
私はひとつ悪態をついたがそれは全く意味を持たず男はあっさりと答える。
「そう捉えていただいて構いませんよ。お互い、説明とか言い訳とか、非効率的ですからね」
私は力なく「そうか」とだけ言った。そうだった。この目の前の男には敵わない。私が何を彼にしゃべりそして彼が何を感じたかはわからないが、どちらにせよ私は彼に料理されるのみだった。
「……彼の、遺体は、体育館、裏。焼却炉の奥の、地下シェルターの中だ」
男は動じずに頷く。
「はい。先ほどあなたから鍵を受け取りましたので扉を開けておきました。彼もいい加減に白骨化しているでしょうけれど、発見されずにそのままというのはあまり気持ちの良いものではないですから」
これまで守り続けて来た秘密があっけなく崩壊することも私は静かに受け入れた。
徒労?諦め?
「それにしてもあの扉。外からは普通の鍵なのですが内側は……アレはどうなってるんでしょうね?ふふ、私は怖くて入れませんでしたよ。何のために作ったのか。そんな詮索はしませんがね」
頭は相変わらずぼんやりとモヤがかかっていたが、男が考えていること。男が欲していること。そして私の行き先だけはわかっていた。それに比べれば過去の罪のオチがどうつこうとそれはもはやどうでも良いことだ。
「全て、君に、任せる、よ」
「ありがとうございます」
男は座った姿勢のまま行儀良く会釈すると表情が少し緩んだように見えた。
「少、し疲、れた」
私はうつむいた姿勢でつぶやくと男はそれを無視して席を立った。そしてどこかへと歩いていく姿がぼんやりと視界の端を横切った。
*
「父さん、それはさすがに無茶じゃありませんか?」
私は家の廊下で正宗と話し込んでいた。
「いや、勝算は十分にある。現市長のバックアップが得られているからな。彼は今回の任期切れでもう再選はできない。少しでも市政にパイプを残すためにも息のかかった人間を次の市長にあてがいたいのだよ。私は教育委員会時代から彼とは懇意にしている。当然彼は私を《身内》として捉えているだろうからな」
私は得意げに続けた。
「そして私が市長になった暁には。やつにはとっとと隠居してもらうがね」
正宗は考え込むように深く嘆息する。
「とはいえ、市長選まであと1年ちょっとじゃないですか。票集めとか、もろもろ選挙対策。どうにかなるものなのかなぁ……」
「票集めに関してはまずは私のネットワークから教育関係者を固める。そしてお前のネットワークからはな」
「おじいちゃん、こんにちわー」
扉を開けて入って来たのは、上は黒のタートルネックに白のノースリーブのダウンジャケット、下はデニムパンツという姿の柚子だった。
「おお、柚子、いらっしゃい」
私は玄関の方を向き直りにこやかな笑顔で返す。
「おじいちゃん、見て見てー。これね、お父さんに買ってもらったの」
柚子は玄関を駆け上がりながらダウンジャケットを指差す。
「この前ね、お父さんとお母さんとお買い物に行ってね、お店がね、すっごいオシャレなのー」
「おいおい、お爺ちゃんその話を聞くのかれこれ10回は越えてるよ」
柚子はそれを受け流すように「だってぇ」と愛らしい表情を見せハイテンションをキープする。
「このダウンの手触りがすごく気持ち良くって、しかも白が可愛いでしょ。それにこの肩のところの刺繍が可愛くってね」
柚子はくるりと横を向いて肩口のところをつまむ。
私は卸立ての真っ白な表面の上に在る違和感を覚えた。
「あれ?柚子。お気に入りのダウンに汚れが付いてるじゃないか」
私は柚子に歩み寄ると大きくはないものもいかにも目立つ赤黒い点を注視した。
「うーん。正宗、何か拭くものはないか?」
「はい、お父さん」
私は正宗から受け取ったハンカチでその点を軽く擦ると赤黒かった点が真紅に染まった。さらに擦るとその赤は鮮度を増し、そして広がった。さらに擦るとまた広がった。そしてさらに擦ると瑞々しさを増していった。
「おい、どうなってるんだ、全く取れないじゃないか!正宗」
私は必死にダウンを擦りながら叫んだ。
すると背後で正宗が囁いた。
「あ、お父さん、ごめんなさい。それ僕の血なんです。柚子は運転席の後ろにいたから。でも大丈夫ですよ。柚子は大丈夫」
私が振り返ると正宗の頭部は右半分が削れ、血飛沫が上がっていた。
思わずぐっと握りしめた手元のハンカチからは一層血が噴き出し、ダウンをさらに真っ赤に染めていった。
私は言葉にもならぬ叫びとともに擦り続けた。
白に、白に、白に戻そうと必死に。
*
私は洗面台でダウンを拭いていた。随分と薄まったがまだ赤は取れない。
むしろ赤黒さの中にあった黒だけが凝縮され、絶対的な存在として除去不可能なものになってきているようにも感じた。
「ただいま」
玄関で戸の開く音がした。柚子が返って来たようだ。私は水道の蛇口を止めると玄関へと向かった。
柚子はローファーを脱ぐと私の靴に気付いて言った。
「珍しいね。おじいちゃんが私より先に帰ってるなんて」
「柚子、こっちに来なさい」
私は廊下を抜けリビングへ向かって歩きながら言った。
「制服、着替えちゃっていい?」
私が「早く来なさい」とだけ言うと柚子は観念した様子で応じた。
柚子がリビングへ入ってくると私たちはローテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
「なんか、お爺ちゃんとこう向かい合うと……緊張しちゃうね。最近、ほら、柚子いいコにしてるでしょ?」
私は無言で受け流す。
「お爺ちゃんも市長のお仕事忙しいんだし、ね。私、自分のことは自分でやるから、ね。お仕事戻った方がいいんじゃない?」
私の表情を伺うように覗き込んだ。
「……率直に言うぞ。私の知人から聞いたんだが、お前、住北高の学校案内に行ったらしいな」
言葉に詰まる柚子。図星だということが表情から十分に読み取れた。
私は深いため息をつく。
「前に言っただろう、柚子。住北は教育環境がなっとらん。教員の育成制度もあやふやで機能していないし、校舎も古い。それに今どきカウンセラーも置いていない学校など時代遅れもいいところだ。そんな高校に行ってはいかん。お前は神御黒高校に行きなさい。無受験で行けるんだ。何も問題ないじゃないか」
柚子は無言でうつむいている。
「ちなみに住北の何がいいんだ?言ってみなさい」
「……制服が可愛いから……」
「何を考えてるんだ!お前は!」
私は怒りを覚え、ローテーブルを力一杯手のひらで叩いた。柚子はその音に驚き肩をビクッとさせた。
「あんなのただの公立校の昔からの制服じゃないか。うちはちゃんとしたデザイナーを入れて毎年毎年リニューアルしているんだぞ」
「……お爺ちゃんには……わからないんだよ……」
肩をすくめて涙目の柚子。
ダメだダメだ。私は柚子の良き理解者になってやらなければならないのだから。
私は深く息をつき気を落ち着けるとソファーに深く腰掛け直しできる限りの優しい口調で語りかけた。
「制服なんてどうとでもなる。お爺ちゃんは偉いんだ。神御黒高校の制服を柚子の好みに変えることだってできるさ。柚子だってそんなことくらいわかっているんだろ。本当の理由を、聞かせてくれないか?」
柚子のすすり泣く声だけが聞こえた。
「進学がエスカレータ式だからか?今の中学のクラスメイトと上手くいっていないからか?一応、その辺については話を聞いているよ。あまり馴染めていないって話は。でもそれは逃げたからって解決する話じゃない。高校になればいくらか新しく同級生が加わるし、クラス替えもある。別の高校に行けば全てうまくいくなんて甘い話じゃないぞ。この環境でがんばった方が絶対柚子のためになるとお爺ちゃんは思う」
じっと柚子の顔を見つめるが柚子は目線を合わせてこない。
しかし少し考え込んだ末に小さくつぶやいた。
「……通学路が……嫌なの」
私は全く理解ができなかった。
どういうことだ。
私は柚子の次の言葉を待った。
「……神御黒高校に向かうと……どうしても通っちゃう……」
私は頭の中で地図を描き線で辿ると、ふと洗面台に置き放しのダウンジャケットを思い出した。
そうだった。柚子が言っているのは、正宗夫婦と由紀子の命を奪い、柚子と私を悲劇の底に突き落とした事故の現場となったあの交差点のことだ。
しかし仕方の無いことではないか。
柚子は今を、そしてこれからを生きなければならないのだから。
私は柚子に優しく語りかけた。
「柚子。気持ちはわかるよ。でもあの事故は終ったことで取り返しのつかないことだ。乗り越えて行かなければならないんだよ。柚子も、お爺ちゃんも悲しんだ。十分に悲しんだよ。でもそのあとは前に進まなくちゃならない。あの場所を通らずに一生過ごすつもりか?あの事故を一生忘れて過ごすつもりか?それは解決ではないよ。悲劇と向き合い、自分なりに消化することが柚子にも、お爺ちゃんにも必要なんだ」
気持ちは痛いほどわかる。むしろ私たちは唯一あの悲しみを共有できる肉親同士なのだから。
「……お爺ちゃんには……わからないんだよ……」
柚子の意外な返事に私は少し憤慨した。
「わかるよ。なんでそんなこと言うんだい」
「……わかってない。わかってないよ……」
「何を言ってるんだよ。柚子はお父さんお母さんとお婆ちゃんを亡くした。お爺ちゃんは息子夫婦と最愛の妻を亡くしたんだ。そこに悲しみの違いなんてないよ。一緒じゃないか」
「そうじゃ……そうじゃないよ」
柚子は目元に手をあてながらうつむいた。
私にはわからない。
わかっている。
いや、わかっていない。
「お爺ちゃん……」
私にはわからない。
わかっている。
いや、わかっていない。
「みんなが、お爺ちゃんみたいに強いと思ったら大間違いなんだよ」
わからない。
いや、わかっていた。
わからないフリをしていた。
*
「お爺ちゃんはね。弱いんだ」
「そんなことないよ。私はお爺ちゃんのこと大好きだよ」
「柚子には謝らなきゃいけないことが一杯だ」
「私はお爺ちゃんに感謝の気持ちで一杯だよ」
私はいつもの渡り廊下の椅子に腰掛けていた。風が冷たくなってきたが不思議と寒気はしなかった。
柚子はグラウンドを歩きながらどんぐりを集めている。
「今日はそのダウンを着てるんだね」
「お父さんに買ってもらったお気に入りだからね」
「似合ってるよ」
「ありがとう」
柚子は笑顔で答えた。
私は「赤がキレイに取れて良かったよ」とつぶやいた。
5
「私としてはですね。やはりセンターポジションというのはマーケティング要素も含めセンシティブかつ企業理念の出易い判断機会だと思うんですが」
男はポスターを手に熱弁を振るっていた。どうやら私に向かって言っているようでほぼ反射的に私は応える。
「君、の言うこと、はよ、くわから、ないな」
とりあえずそう言ったものももう頭がよくわからない。
「死に、たい」と口から漏れたが男はまるで聞こえていない様子で続けた。
「そうですねぇ、学校ひいては市というように歴々大きな組織を率い続けてきたあなたならではの見識をうかがいたかったのですが残念です。それでは話題を変えましょう」
男は先ほどポスターを身体の前にかざした。いわゆる駅構内などに貼ってあるようなサイズで、パステルカラーの背景に3人の少女が並んでいる。
「これ、このポスターは来月発売のミュージックDVDの広告らしいんですがね。私、正直なところアイドルには全く興味が無いのですが、あなたもそうですか?」
「く、だら、ん」
私は目線を逸らしながら言った。
「でも、このポスターは……ぜひ見て下さい」
私は朽ち果てたタイル床を見つめた。
「ちょっと……違いますよね」
それでも見つめ続けた。
ボケてしまった私の視界でも十分にわかった。
「彼女たちGALETTAというグループでして、最近とても売れてるんですよ」
3人の少女の中央。
「昨日の24時間テレビとか、見ました?その中で彼女たちの司会で2時間番組があったんですよ」
よく知った少女の面影があった。
「まぁまさに飛ぶ鳥を落とす勢いと言っても過言ではないのでしょうね」
とても愛しい面影が。
「なかでもこの中央のコが一番人気なんですよね」
涙が溢れそうになった。
「あなたはどう思いますか?」
私は横目で男の持つポスターを見た。
もう一度ポスターを見つめた。
「柚……子……」
涙が溢れた。
男は私のことをしばらく眺めてから低く冷たい声でつぶやいた。
「本当に似ていたんですね」
男は深く深く嘆息した。
「……山崎柚子さんと仲川みなみ」
私は嗚咽とともに椅子から落ちてへたり込み、力なく床に伏した。
「……そして朽津木まゆなは」
私は無様にうな垂れたまま囁くように繰り返した。
「柚子……柚子……なんでこんなことに……柚子……」
後悔と自責の念をいくつ重ねても適わない。
柚子、柚子、そして、誰だったか、誰だったか、柚子、柚子、指宿め、死んだ、殺した、殺した、なんで、柚子、もうわからない、いやわかっている、わかっているのにわからないフリをするのは、もうやめよう、やめたくない、ホッとしておいてくれ、誰か助けてくれ、このままじゃ、私は……
その時、私は強引に肩を掴まれ引き起こされた。泣き崩れる私の顔をじっと正面から見つめる男の顔。近くで見ることでぼやけた私の視力でも男の表情が見て取れた。
男は悟りきったような温かい笑みを浮かべていたが、それを見た私の心臓は逆に凍り付いた。最後通告ということだろう。
「もう、やめましょう」
男は私を椅子に座り直させた。
「今から私は独り言を言います。あなたは聞かなくても良いです。知っている話でしょうから。反応もしなくて良いです。辛い話でしょうから。ただ……もうやめましょう」
男はきっぱりとした口調で言うとグラウンドの方へ歩いていき私に背を向けたまま話し始めた。
「あるところに少女がいました。彼女には双子の妹がいました。活発な姉と大人しく引っ込み思案な妹。少女の夢は女優。そして妹の夢はケーキ屋さんでした。ある日、少女は打ち捨てられた廃校舎で遊んでいたところ、とある老人に出会いました。老人は少女のことを知り合いの誰かだと勘違いをした様子で話しかけてきました。老人はどこか夢見心地で意味不明なことを繰り返しました。少女は、最初は不信に思いましたが結局それに付き合うことにしました。戯れが半分。そして残り半分は老人があまりにも可哀想でとりあえず話を合わせてあげたという気遣いでした。それからしばらく老人と少女の交流はひっそりと続きました。どうやら老人は少女のことを亡くなった孫だと思っているようで、少女にいろいろな話を聞かせました。老人自身のこと。老人の家族のこと。老人自身と家族に起こった悲劇のこと。後悔、罪の意識。まだ幼い少女にはそれらのほとんどがよくわかりませんでしたが老人が何やら悲しそうに人恋しそうに語るため、時間の許す限り老人のその行為に付き合いました」
私は頭を抱える。痛い。痛い。頭頂をコンクリートのブロックで殴り続けられているような痛みだ。
「しかしそんなある日、少女はいたずらを思いつきました。妹に自分が普段着ている白のノースリーブのダウンを着させてその廃校舎へと向かわせたのです。老人と妹をびっくりさせるつもりだったのでしょう。案の定その日も老人は廃校舎のいつもと同じ場所にいました。老人は妹を見ると普段少女にするのと同じように話しかけました。彼らが具体的にどういうやりとりをしたのかは残念ながら定かではありません。少女は少し離れたところに隠れて聞いていたのですが、細かい会話内容まではわかりませんでした。しかし突然謎の老人に親しげに話しかけられ怯えた妹は明確に老人を拒絶しました。うろたえる2人を見て少女は物陰でクスクスと笑いました」
私はすでに嗚咽が漏れるほど泣き崩れていたが男はそれをまったく無視して続ける。男の声は不思議と私の声とは別の物質を伝搬してきたかのように、しっかりと澄んだまま私の脳へと訴えかけ続けた。
「そしてそろそろ種明かしをしようと彼女が物陰から出ようとしたところで、突如何かのきっかけで妹は老人の逆鱗に触れたようで老人の悲しみの怒号が辺りに響き渡りました。そしてそれを聞いた少女が怯んだその刹那に妹は老人に首を絞められ、殺されてしまいました」
喉が裂ける。心臓が止まる。私はありとあらゆるものを吐き出した。
「少女は逃げました。とにかく逃げました。次は自分が殺されるかもしれないという恐怖に駆られたのでしょう。彼女は無事逃げ切り、家にたどり着きました。しかし彼女はその日のことを誰にも話しませんでした。それからしばらくして少女は両親の離婚がきっかけで母親の実家に引っ越しました。そうしてその後老人と少女は二度と会うことはありませんでした。おしまい」
男は私に背を向けしばらく白に染まったグラウンドを眺めていた。
私はすでに涙も嗚咽も枯れ果て、ただ、ただ、呆然としていた。
「私が『やめましょう』と言ったのは、あなたの自らに対する嘘です。山崎宗次郎さん。あなたは気付いているんでしょう?むしろ、気付いていたんでしょう?みなみが柚子さんではないことに気付いていながら、自分の心を慰めるために自分に嘘をついた。まゆなに拒絶された時も、まゆなが柚子さんではないことに気付いていたのに自分が傷つきたくなかったから嘘をついた。嘘、と言えば少女も嘘をつき続けています。これは精神的ショックからの自己防衛だと思われるのですが、少女は記憶を自分で封印してしまいました。書き換えですね。本来は唯一の貴重な目撃者だったのですがその事実に耐えられるほど少女の精神力は強くはなかったのですね。しかし2人とも愚かなものです。嘘をつくことによってより長い時間をかけてより傷つくことになるというのに」
私はただ黙って首を縦にうな垂れた。首肯の意図にしては中途半端な所作は男の機嫌を損ねたようだった。
「わかっていますか?あなた、欲張り過ぎなんです。柚子さんの死にショックを受け、しかし復讐対象は明確になった。それでいいじゃないですか?どちらかにしましょうよ。柚子さんの死を受け入れ、復讐に生きるのか。それとも徹底的に柚子さんの死は忘れて全てを誤摩化しながら生きていくのか。あなたはどちらなんですか?」
男はこちらを向き直ると私の顔を睨みつけた。さきほどの温かい笑顔ではない。その奥にひっそりと隠れていた冷徹さが今は表面へとあらわになっていた。
「指宿の調査は進まない、立件は困難、それならばと自らの手を汚す。結構。非常に結構じゃないですか。あなたはあなたの人生をやりきった。完結です。良かったですね。しかしあなたはその《結構な人生》をまっとうできず横道にそれたせいでそこで全く罪のない少女を殺した。前後不明瞭。償ってもらわなければなりません。非常に大きな罪を。さて、あなたはどんな罰を受けることでしょうか」
唐突にまた私の視界が緩んで来た。
男の顔が歪み、右が左に、上が下に、今が過去に、ねじ曲がっていった。
男は私の顎に手を当て私の表情をしげしげと見つめると「おや、またですか。しばらく待つしかなさそうですね」と独り言のようにつぶやいた。
*
何故ここで結女のことを思い出すのだろう。
「伯父さんは、勝手過ぎるのよ!」
「伯父さんは、なんでも思い通りになると思ってる!」
「伯父さんは、自分の知ってる世界が全てだと思ってる!」
「伯父さんは、理不尽を知らない!」
「伯父さんは、自分が一番理不尽だとわかってない!」
「伯父さんは、一度も失敗したことが無いんだわ!」
「伯父さんは、理想は実現すると思ってる!」
「伯父さんは、夢は叶うものだと思ってる!」
「伯父さんは、何も取り柄のない人の気持ちがわからない!」
「伯父さんは、何やってもうまくいかない人の気持ちがわからない!」
「伯父さんは、全部手に入ると思ってる!」
「伯父さんは、みんなが言うことを聞くと思ってる!」
「伯父さんは、自分に不幸は無縁だと思ってる!」
「伯父さんは、自分に不運は無縁だと思ってる!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
「伯父さんは!」
もういいだろう。結女。やめてくれ。そのとおりだ。全部そのとおりだったんだから。
6
「はぁ、オイルショックですか。私は小さかったのでよく覚えていませんが当時の混乱や安易な風潮はゾッとしませんね。やはり集団心理というのが最も恐ろしい狂気だということでしょうか。戦争もしかりですしね」
私は強烈にむせた。揮発性油独特の酸素が奪われるような感覚があった。
「……灯、油、か?」
男は私の周りを回りながらポリタンクから灯油を私へと注いでいた。
「あ、そうですよ。説明はもう3度目ですが」
男は空になったタンクを放るとズボンのポケットを漁りながら言った。
「さて、最後に何か言いたいことはありますか?これも3度目ですが懺悔は不要です」
男はポケットから真っ黒なジッポライターを取り出した。
「私の、理事長室の、机の、中に、手記がある。少女を、殺した、際のこと、も書いてある。手書きで、私のサイン、も入っている。自由に、使ってくれ」
言い切ったところで私はハッとした。
「……まさ、か、それも知ってる、だなんて、君は言うのか?」
ライターを手でもてあそびながら男は言った。
「……知っていると言っておきましょう。何せ私の異名はInformed Manですからね」
「全て、の知識、と、情報、は君の、下へ、か……」
男の表情は穏やかに見えた。
「あ、と……」
「なんですか?」
「君は……朽津木くん、なのだろう?」
「だとしたら何ですか?」
「結女が、君を、恨んでいる。強い、殺意を持って、いる。君を殺すかも、しれない」
「そんなことですか。知っていますよ」
「姪を、殺人者に、したくない、頼む」
男はしばらく考え込んだ。いや、考えているフリをしていたのだろう。結論はわかりきっていたのだから。
「申し訳ありません。そればかりは呑めませんね。彼女には私の命を差し上げることに決めているので」
「君の、命を?な、ぜ?」
「どのみち私の余命はあと半年もありませんから。病でね。仕方のないことなのです」
男は表情も変えずライターを宙に投げてはキャッチした。
「さて、そろそろよろしいでしょうか。私が用意したのは焼身という手法ですが問題ありませんか?」
「私には、もう、まともに考える、ことができない。死に、方は君が決めて、くれればいい」
「了解しました」
男はかしづくと後ろに置いてあった黒いケースを手にした。
「最後に、一曲いかがですか?あなたが死にゆく側でBGMを奏でようと思って持ってきました」
男が手際良くケースを開けるとそこからトランペットのような形状をした楽器が取り出された。
「あなたくらいの年代の方にはスタンダードジャズの方がよろしいですかね。今日持ってきたのはフリューゲルホルンなので、うーん、スローなナンバーがいいですね。では、BlueMoonなんてどうでしょうか。私はランディブレッカーのアレンジが好きでして。若干ジャズフュージョンぽい曲調になってしまうかもしれませんがその点はご了承下さい」
私はくすりと微笑む。微笑むなんていつぶりだろうか。しかもよりによって今際の際で。
男は右手にフリューゲルホルンを持ったまま左手でライターを点けようとするが火花だけが飛び散る。ガス不足のようだ。
「うーん、先ほどシェルターの中で拾ったものなんですがどうやら使い切られているようです。仕方がないので自分のを使いますか」
男は上着のポケットから真新しい100円ライターを取り出す。
「さて、あなたはこれから焼死します。焼死自殺というのは一般的には政治的・宗教的パフォーマンスなどでよく使われます。自殺の姿が派手で目立つからですね。そして焼死というのは上手くやれば比較的痛みや苦しみの少ない自殺の方法でもあります。意外な気がしますよね?例えば火事に遭遇した時、熱気で喉を焼かれる苦しみというのは、それはそれは相当のものですし、皮膚表面が焼けただれる痛さも言うまでもありません。しかしそれが何故さほど辛くないのかというと、焼身自殺のようなかなり直接的な火による焼死の場合は、そもそも身体が熱に耐え切れなくなり神経が麻痺しすぐさま意識が混濁してしまうのです。焼身自殺者が立ちながらフラフラしている映像を見たことはありませんか。そして通常の人間の肉体組成ならば身体はすぐに炭化してしまって死に至ります。その頃には意識はすでに一足先にあの世逝きというわけです」
淡々とまるで学生に授業でもするように男は弁舌した。
そして淡々とした口調のまま続けた。ただの事実を述べるかのように。
「そこで私は、火を消します。あなたがある程度焼けたところで火を消します。これはつまり炭化による焼死ではなくなるわけで、あなたの死因は熱に喉を焼かれ皮膚がただれた中での《窒息死》になりです。人の死因の中で最も苦しい部類の死に様です。私はこれをあなたに奉じます。よろしいですか」
私は無言だった。言葉を発することも難しいほど思考がぼやけてきた。
すると男は私の顔を正面からじっくりと見つめた。ビタリと私の目の前で静止し、微動だにせずしばらくの時間が経過すると男は言った。
「わかりました」
私は何のことかわからなかった。それが表情に出ていたのか男が続けた。
「私はね。昔からちょっとした特技がありまして。こうやって正面から人の顔を見据えると、心が読めるんですよ。正確に言うと言葉ではなくイメージみたいなものが伝わってくる形なのですが。ある程度思考を読むことができます。今のあなたのようにコミュニケーションを取ることが多少困難だったり、三ノ輪結女のように言うことと本心が複雑に食い違っていたりする人間を相手にするときには非常に有効です。ちなみに今確認したのはあなたの罪の意識でしたが」
私は懐疑的な視線を向けた。
「あなたは……後悔はしているが反省はしていない。悔しい思いで私に殺されてくれそうです。これは強い因果の構築が期待できます」
男は私から一歩離れると新聞紙をちぎったものにライターで火を点けた。
「いいんですよ。あなたは指宿を許す必要はありません。私もあなたを許しませんから。それでいいんです」
私は最後の力を振り絞って意識を保った。
「それ、間違っ、てるよ。その、特技あて、にならないから、もう使、わない方、がいいよ」
男は私の顔を見据えながら微笑んだ。
「確かに。私が読み取った内容をその相手に伝えたのはこれが初めてです。今までも全て間違っていたとしたらお笑いですね。わかりました。あなたの貴重なご意見を汲ませていただきます」
私は男の手に携えられた炎を見つめた。吸い込まれるようだ。
「そうか……君は、kuit、英語の、Quit、つまり《終わらせる者》ってわけか……」
「ふふ、ただ単に名前をもじっただけでそんな凝ったものじゃありません。買いかぶりですよ。それにそもそも、私は終らせるんじゃない。始めるんです」
男はそう言うと燃え盛る新聞紙を私に向けて放った。私はそれをじっと見送った。新聞紙はスローモーションで私の目の前に落ちると足下の灯油に引火し、すぐさま燃え広がった。
目の前が真っ赤になると衣類、皮膚、空気中の不純物、様々な物がパチパチと焼き焦がれる音が聞こえてきた。
その中に混ざって朽津木周一の奏でるフリューゲルホルンの音は優雅で、寂しく、優しく、そして永遠のように愛しく私の心に響き渡った。
*
「あなた……ずっとそこに?」
「しゃべらなくていい、大人しくしてろ」
彼女は苦痛に顔を歪める。
ベッドサイドで見守る私はその言葉の通りにただ見守っているだけだった。医者から言われたことは「やるべきことはやった。意識があるのは不幸中の幸いだったが如何せん内臓の損傷が激しく、早いうちに何度かの手術が必要。それに奥さんの身体が耐えられるかどうか次第」だった。
当然彼らの言い分には手術で殺す訳にはいかないので由紀子の体力が回復しない限り他の手術は行わずほぼ応急処置のままのような状態で状況を見る、ということが含まれていた。つまりいろいろな条件を差し引いて見ても状況は極めて悪い。
「……柚子は?」
「まだ意識が戻らない。この病院にいるよ。集中治療室に入ってる」
「う、ぅ……可哀想に」
由紀子の目から大粒の涙が溢れた。
「あと……正宗たちは……ダメだった」
彼女はそれを承知していたのだろう。変わらず泣き続けた。
「私のことはいいから……柚子を助けて欲しい」
「何言ってるんだ。そんな弱気なことを言うのはやめろ」
私は由紀子の手を強く握った。ひどく冷たく弱々しい手だった。
「あなた……」
「ん?なんだ?」
「こんなときに言うのなんだけれど、私、あなたと結婚してからまったく死ぬことが怖くなくなったのよ」
「死ぬとか言うなよ」
「あら……でも大事なことなのよ。昔から思っていた大事なこと」
彼女は途絶えそうな呼吸で続けた。私は無言で涙をこらえていた。
「例え私が今ここで死んでも、私とあなたの絆の糸をしっかりと固く結ばれてる。私がいなくても、あなたがいる」
彼女は私の手を握り返した。絆の確認のように。立ち位置の確認のように。
「あなたと私は常に一緒なの。そう思えれば、死ぬのはまったく怖くないわ」
それと同時に彼女の横で今にも泣き出そうとしている私を励ましていたのだと思うと情けなくなる。
「だから……たまに私のことを思い出して……そして泣いてね。でもそれでいいの。私の居場所はあなたの中にあるから。それで十分。あとは柚子のことをよろしくね。あなたが私に向けてくれた愛を柚子に注いであげてね」
私は……私は……
*
ひらりひらりと舞い降りる結晶が積み重なり、周囲全てを白に染め抜いた。
森の木々も、駅前も、バス通りのアスファルトも、道路脇の田畑も、かつて子供たちが駆け回ったトラックも、サッカーゴールも、テニスコートも、奇抜なデザインの建築物も、その外装の欠片も、グラウンド脇に放置された椅子も、焼けただれたひとつの死体も、その場を後にする2つの人影も。
生あるものもまた無いものも、一緒くたに、無差別に、乱暴なまでにひとつにする力が雪にはあった。
春が来れば開けられるパンドラの箱。それでもすぐさまに雪に埋もれ、雪によって隠され、雪によって美しく飾られ、雪によってそれらは過去のものとならず永遠のものとなった。
― 暗闇と男の章 MARS ―
暗闇の中にいた。
本当はすぐにでも暗闇から出たいのだが仕方がない。暗闇に閉じ込められてからもう随分時間が経つはずだ。
まだしばらく続くだろう暗闇をじっと見つめ、おれは暗闇と友達になる方法を模索した。
しかしそんなおれの努力も虚しく、暗闇というやつはまったく掴みどころが無かった。
おれはしばらく暗闇の中をぶらつく毎日を続けていたが、それにさしたる甲斐がないは無かった。むしろ何かにぶつかったり足をひっかけて転倒したりする危険性の方がよっぽど高く、おれは自然といつしかひとところに留まるようになった。
暗闇の中では目を閉じていても開いていても変わらない。
最初は無意味に怖かったものだがもうそれにも慣れた。
おれは暗闇の中で目を瞑る。
一瞬。
しばらく。
いや、ずっと。
するとあるとき突然暗闇がおれに向かって問いかけた。
「君は僕のことが見えるかい?」
おれの答えは自然にスッと口から出た。気負いも焦りも驚きもない。
「普通に考えると見えてないんだろうな。でも見えていると言えば見えてるようにも思う」
暗闇は答えた。
「君は優しい人だね」
おれは少し照れくさくなった。
「いや、元々少しばかり暗闇に馴染みがあるってだけのことさ」
暗闇は微笑んだようだった。
確かに普通の人間は暗闇の中に長い間閉じ込められるとまともではいられなくなるのだろう。PTSDだとかなんとか。
「君は少し変わっているね」
「そうかな?」
「うん。とても落ち着いてる。以前、僕はここで少女に会ったんだけど、そのコはてんでダメだったよ」
おれは鼻を鳴らした。
「まぁそうかもな。でも気持ちはわかるよ」
暗闇は少しヘソを曲げたようだった。
「なんでそうなのかなぁ……そんな怖がらないで欲しいよ。暗闇だろうとなんだろうと、僕はここにいるし君もそこにいる」
おれは答えた。
「でも、やっぱりお前のことは怖いよ。おれですらふと油断すると自分がよくわからなくなりそうな感覚に陥る」
暗闇は考え込んでいるのか何も言わなかった。おれは続ける。
「おれの状況だってヒドいもんだぜ。携帯は電池が切れた。ライターのオイルも使い切った。何も見えない、何もできない。完全に万策尽きた思いだよ。無策だ。虚無だ」
暗闇はグッと溜めた言葉を吐き出すように言った。
「違うよ。それは違うんだよ」
暗闇の物言いは力強かったがしかし押し付けがましさは無く、その真摯な雰囲気におれはむしろ惹き付けられた。
「君が想像しているのは、それはむしろ真っ白ってやつさ。暗闇のことじゃない」
「どういうこと?」
「真っ白には何も無いんだよ。光はある。でも光しか無い」
おれは暗闇が言いたいことがさっぱりよくわからなかった。
「お前の言うことは難し過ぎるよ。おれの頭はそんな上等じゃないし」
おれは目を閉じながら大きく深呼吸をした。
「それに、そもそも今はもういろいろ物事を考えるのにも疲れてるんだよ」
暗闇はムッとしたのか何も言わなかった。おいおい短気なやつだ。
しかしまずい。おれは暗闇と仲良くならなければならないのだった。この状況で唯一の話し相手を失うことは避けたかった。
「すまん。もうちょっとお前のことを理解するよう努力するよ。お前とは今日初めてしゃべったけど、正直おれはお前のことを元々知っていたように感じているんだ」
暗闇は自らの大人げなさを恥じたのか優しく切り返してきた。
「いや、こっちこそゴメンね。確かに僕らは怖い。怖いよね。それはわかるよ」
「あくまで一般的にってことだけどな。でもまぁおれも多少はあった。恐怖心は。なんでだろうなぁ……なんか本能的にって言うか……」
暗闇は「うーん」とひとつ唸るとおれに問いかけた。
「あのさ。何で僕らって怖く見られるんだろうね?」
おれはハッとした。
「それ、それ、今お前が言った《見る》が重要なんだよ。見えない恐怖っていうかな。おれみたいに暗闇に多少の馴染みのあるような特殊な人間を除けば100人中99人はお前のことを《見えない》と、それはもうスッキリハッキリ答えるだろうよ。そうするとそもそも人間の想像力ってそんな大したものじゃない。得てして《見えない》イコール《無い》に結びつけて考えちゃうんだろうな。むしろ導入の順序はその逆なのかもしれない。《無い》ということは《見えない》はずだってね」
暗闇は大きくため息をついた。
「やっぱりそこなんだよねぇ……僕らってさ、ホント損な役回りだよなぁ。嫌になっちゃう」
「損な役回り。確かにそういう見方もできる」
おれは相槌を打つ。そして続けた。
「きっと光との対比なんだよな。光があるから闇はしかるべきして設置されたような。対照的なものとして宿命づけられるためだけに創られたような……」
「光との対比ね……確かにそのとおりかもしれないね」
しばらく2人とも無言が続いた。
おれはいまいちフォローの仕方が見つからずに往生していたのだが、突如暗闇の方から切り出した。
「ねぇ。逆に考えてみようよ」
「どういうこと?」
「逆っていうのは、暗闇の欠点を見つめるんじゃなくて、暗闇の利点について考えるのさ」
「なるほどね」
おれは短く相槌を打った。
暗闇は「うん」と自らの思考を確認すると続けた。
「あのね、暗闇ってさ、自分の身体や息づかい。床の材質や音の反響。いろんなものを身体一杯受け止めるチャンスなんじゃないかなと僕は思う。つまり今まで気付いていなかったこと。最も近くにいながらも気付いていなかった自分のこと。見るだけで触れていなかった近くの物。いろんなものを高い感受性でとらえ直すチャンスと考えられるんじゃないかな。僕はそう思う」
正直すぐにはピンとこなかった。
おれのその様子を見てか暗闇が少しシュンとなってしまった。
「おいおい、いじけんなって」
おれは少々おちゃらけた調子で返し、すぐさまフォローをする。
「……すぐには理解できないかもしれないけどさ……でもおれはお前のことを理解したいと思ってるよ」
暗闇は小さく「ありがと」とだけ言うと無言になってしまった。
やはりなかなか人間と暗闇の交流は難しいようだった。
それはそうかもしれない。人間は大抵の場合で生まれてこのかた光とともにあり、闇を見つめることははっきり言って稀だ。
そう考えると生まれつき光を知らない人間はどうなのだろうか。
光を知らない人間は自己の存在を確認できないかと言うと……正直そこまでのことは無い。
確かに、人の顔とか自分の顔とか、肌の色とか絵とかデザインとか。わかないことは沢山あるだろうがそれが自己の存在の否定に繋がるようなものではない。むしろ暗闇の言う通りに丁度良い理解のチャンスなのかもしれない。
「なぁ暗闇。おれ、お前のことちょっとわかったかもしれないよ」
「本当?」
暗闇のやつめ、あからさまに嬉しそうな口調で応えやがる。あいつも仲間が欲しいんだろうな。恵まれないが故の人恋しさだろうか。
とはいえ、冷静に考えると眠るときには必ず目をつぶる。暗闇だ。電気も消すし。
暗闇は睡眠だ。
そう考えると、とても身近で、とても日常で、とても不可欠なものだ。
しかしやつの言う《真っ白》について考えると、そんなものは日常ではあり得ない。おれの貧困な想像力で精一杯がんばってみても、どういうものなのか想像もつかない。
「真っ白かぁ……」
ついポロッとつぶやくと暗闇が不機嫌にかぶせた。
「僕は真っ白は嫌いさ」
おれは「対極としてはさもありなん」とは思ったものも、ここはとりあえず突っ込まずにもう少し暗闇の主張を聞くことにした。
「だいたい光ってどういうイメージ?」
おれはしばらく考えてから返した。
「明るい……希望……とか」
「うん、大抵そういうものだよね……」
暗闇はしばらく黙り込んだ。おれは暗闇が切り出すのを大人しく待った。
「光で真っ白な状態ってさ、それで満たされてる《気がする》んだよね。僕に言わせれば誤魔化しだよ。本来世の中は細かい情緒や、小さいけど価値のある希望や、素朴な楽しみに満ちているんだ」
「真っ白は……飽和か」
「そう。容赦のない真っ白はそれら細かな機微をまとめて理不尽な《絶対的な光》で塗りつぶしてしまう。そこには何も無い」
「そうすると、暗闇は逆か……」
「うん。暗闇はむしろ全てのベースなんだ。そこに何かを植えることができる。暗闇の中なら細かいうつろいもわかる。そりゃ、希望や明るいことの素晴らしさは僕も認めるよ。当然。でも真っ白って間違っている。光であればそれでOKだろ?だなんてあまりにも乱暴だ」
「そりゃおしつけがましいな」
「だけど暗闇は違う。暗闇の中なら……むしろ暗闇の中でこそ、きちんと希望と向き合うことができるはずなんだよ。だから、もっとみんな、暗闇に目を向けて欲しい……」
暗闇は言いたいことを言い切ったというスッキリした様子でおれのことを見つめた。おれは優しく微笑むと暗闇に向けて語りかけた。
「おれはもうお前のことを見てるよ。お前が何なのかをわかりたいと思ってるし、お前と仲良くなりたいと思ってる。お前の言うとおり、その先に本当の生き甲斐とか本当の希望が見えるんだろうなと感覚的に感じてるんだ」
「良かった。ありがとう……」
暗闇は少し涙ぐんでいるようにも感じた。おれは久しぶりに気持ちが安らいだ。こんなに安らいだのは人生で初めてではないだろうかと感じるほどだった。
その時、おれが押そうが叩こうがビクともしなかった頑強な扉が突如開け放たれた。
すでに存在すらも忘れかけていた扉が。
か細く鋭利な光の強襲。
その突然の白の来訪におれの網膜は耐えられなかった。
迂闊に直視してしまったおれは真っ白な空間の中に閉じ込められる。まるで宙に浮いたような感覚、何が在って何が無いのかわからなくなる。
その白の空間の中に響き渡るように光は言った。
「久しぶり。君にはやってもらいたいことがあるんだ」
おれは戸惑いからか言葉を発することができなかった。
すると光はそんなおれの様子を見て優しく諭すように言った。
「私に付いてきて欲しい。そして全てを見て、全てを知って欲しい。そうすれば、君が何をすべきか。君はどこにいて、どこへ行くべきか。自ずととわかるはずだよ」
おれはそれを聞くと光の主張を素直に受け入れた。
闇を心に留めながら、光と闇の接点を探し、さらにはそれらの融合のために尽力する覚悟が固まったのだ。
「暗闇、じゃあな。おれに何ができるのか、おれに何が在るのかを探してくるよ。また会おうぜ」
そして慣れ親しんだ暗闇から一歩目を踏み出すことに決めた。
寂しくなんてない。目を閉じればやつはここにいるのだから。
アウトロ
《絆》
物理的論拠を伴わない精神的なつながりのこと。その成立に至る動機付けは得てして主観的で独善的であるにも関わらず、相互で成立するケースが多く、事例も枚挙に遑がない。
しかしそれらのほとんどは肉親や血縁など前提とする関係性に依存するものである。
また大きな社会的枠組みによる拘束を表現するためにこの言葉が用いられる場合もあるが、それらのほとんどが概念的には非常にぼやけたものであり、そのため個々人の関係性にまで落とし込むことがほぼ不可能である。
これらは本来明確に分けて捉える必要があるが、しかし人はそれら2つが同義的に通ずるものであると錯覚し、特に集団的枠組みの概念にあえて捕われることによって、何かしら特別な関係性の代替とすることが多い。
また既に挙げた血縁等の縁故や社会的枠組み以外により絆を構築するというケースは極めて稀であるが、それらは強烈な経験の共有、あるいは愛情とは相反する負の感情(怒り、恨み、妬み)などによって生じる。
しかしながら通常それらのケースにおいては相互関係性をバランス良く構築することが極めて困難であり、一方通行の主観的概念を脱することは容易ではない。
(終わり)
バウンディング・フェイト
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