ラナンキュラス
西大井2―23―3ブラウネスハイム202号室です!
厚く灰色に曇った雲は、数日間、容赦なく雨を降らせ続け、学校の校庭にも、アスファルトの通学路にも、大小さまざまな黒く濁った水たまりを作っていた。雨は大地に降り、都会にも人々の住む街にも降り、そして陽一の頭上にも容赦なく降り注ぐ。
そんな雨の降る坂道を青井(あおい)陽一(よういち)は歩いていた。
降り続ける雨は相変わらず止む景色が無い。雨はしんしんと立ち並ぶ家々の屋根にも路上にも降っている。陽一は、一人、傘を差しながら学校から家までの道を急いだ。慣れっこになったなだらかな坂道を過ぎ、古風な和風の建築の傍らを通り、大通りを曲がり、家へと続く道へ出た。後はここをまっすぐ行けば、すぐに辿り着く。マンションの真下まで来ると、傍(そば)の電柱に一匹の犬がつながれていた。茶色の毛のながい小型の犬である。息を弾ませ、飼い主を待ち続けている。この犬はいつまで主人を待ち続けるのだろう。ふとそんなことを陽一は思った。
陽一の父が失踪したのもこんな日だった。あまり激しくはない、まばらな雨が降り、終日止む景色が無かった一日だった。止むかと見えて雨は止まなかった。まだほんのりと寒さの残る四月、自らの吐息で曇った窓ガラスごしに見た雨を陽一は忘れない。
父に異変が生じたのは母から聞いたところによると、前日に手紙を受け取ってからだと言う。手紙の差出人は今ではわからないが、父はその手紙を受け取った瞬間、ひどく真剣な顔をしたという。青い封筒に入った手紙だった。ただらなぬ父の様子を見て誰からかと母が聞くと、父は昔の知り合いだと答えた。その夜(よ)はそれきり何もなかった。次の日になると、父は出かけた。まばらに降る雨の中、行き先も告げずに。
それっきり父は帰って来なかった。四月の雨の降る日曜日のことだった。
自宅には、例のごとく、誰も居なかった。母は仕事だし、陽一は一人っ子なので、当然だ。居間でいつものように牛乳を飲み、一息つくと、自分の部屋に入り、ベッドに寝転んだ。見慣れた天井が視界に入った。この十数年間が走馬灯のように蘇ってくる。
あれから、二人きりになった、この家で母はよくやってくれたと思う。再び仕事を見つけ、(母は結婚する以前にも仕事をしていて、父の俊一とは見合いで知り合った。)女手ひとつで母は当時まだ一才だった自分を育てあげた。簡単なことでは無かった筈だ。母に感謝の思いが堪えないと共に、陽一の内には失踪した父に対する悲しみが湧きあがっていた。それは陽一の内で止めどなく回り続けていた。どうして自分達を見捨てたのか。父が何か事件などに巻き込まれ、帰れなくなったではないことは確かだった。父は自分の意志で陽一たち家族を見捨てたのだ。それは後から来た父からの手紙で明らかだった。そこには、「離れなければいけない事情ができた。何も聞かないでほしい。戻れる日は来ないだろう。自分のことは忘れて欲しい。すまない。」とだけ書かれてあった。投函先は東京の品川区、陽一達の住む所から近くだった。陽一はこの文面を何度も何度も繰り返し繰り返し読んだ。そうしてやりきれない悔しさ、みじめさ、悲しさがこみ上げてきた。なぜ事情が話せないのか。何も聞かないでくれとはどういうことか、何度も何度も陽一は手紙の意味を推し量った。けれど、全ては無駄だった。父はそれ以来何の音沙汰もなかった。そうして季節が過ぎ、年がめぐり十五年の歳月が流れた。
夕食の席は慌ただしかった。母は毎晩七時ごろに帰り、そこから料理を始める。仕事を抱えながら、家のこともこなすのは大変なのだろう。それでも母はほぼ毎日、こうして夕食を作ってくれる。その為夕食は少し遅く、八時半くらいになるのが普通だった。テーブルから台所で料理をする母の後ろ姿をぼんやり眺める。もう十年以上見慣れた光景だ。この日々がいつまで続くだろう。あと六年ほど、つまり陽一が大学に通えるまではこのままかもしれない。この穏やかな日常は悪くない。続けられる限りは続けていよう。包丁がまな板を叩く音を聞きながら、陽一はふと今、父が帰ってきたらどうなるのだろうか?そんなことを頭の隅で考えた。
「あまり塩が効きすぎていないといいんだけど」
そう母は言いながらテーブルに並べられた料理を眺めた。今日の料理は、アスパラガスとハムのパスタとしめいわしのマリネだった。さっぱりとした風味の簡単なパスタにあっさりとしたマリネが食卓を彩った。母の作る料理に陽一は不満を感じたことが無かった。少し時間が遅かったがいつもおいしく味わっていた。
「これ、おいしいね」
パスタを一口食べて陽一は言った。お世辞でなく本当にそう思った。そう言うと心持、母は顔をほころばせた。母は本当によくやってくれる。いつも夕食をつくり、家じゅうを掃除し、洗濯をし、そうして会社に勤めている。それには、陽一も頭が下がるばかりだ。小さい頃はそれが、当たり前だと思っていたが、この頃(ごろ)は母の毎日していることが、どれだけ大変かしみじみ感じるようになっていた。父がいれば、どれだけ楽にやれただろう。ふと、陽一は母が父の不在をどう感じているか、気になった。けれど、聞くことはためらわれた。父の話題をこの頃はめっきり聞かなくなっていた。
「お父さんは今頃どうしてると思う?どこかでちゃんと生活してるのかなあ。」
ふいに母がそんなことを口に出した。珍しいことだった。
「もう、父さんのことはよそうよ。」
そう言って陽一は音がするほど強くフォークを置いた。
「もう帰ってこない人のことは・・・・」
事実、彼はそう考えていた。父がどうして陽一達の元から去ったのか・・・一つの考えしか陽一の心には浮かばなかった。その考えは彼を苦しめた。
「お母さんはね、まだ父さんを信じてる。それは理屈ぬきでそう思うの。なにがあったかはわからないけど、きっとあの人には差し迫った事情があったんだって。じゃなければ、あの人が私達を見捨てる筈が無い。お母さんはお父さんのことを恨んでいないわ。お父さんは優しい誠実な人だった。きっとその優しさが裏目に出たのだとお母さんは思ってるの。」
そう言って母は立ち上がった。
「食器、食べたら台所に置いておいてね。後で片づけるから。」
薄明りの中、母の眼は輝いていた。それは、無限の信頼を寄せる眼だったのかもしれない。母はいつもそうだった。父を責めることも恨むこともしなかった。その純粋な信頼を見る度に陽一は何故かいらだった。自分は父をよく覚えていない。顔も写真でしか知らない。陽一は母の父に寄せる信頼が羨ましかった。父との思い出を沢山持った母が羨ましかった。
翌日は穏やかな快晴だった。雨あがりの道はどこか爽やかだった。いつもの坂道を登り、学校につくと、陽一のクラスはざわめいていた。
「何かあったの?」
そう陽一は隣の席の生徒に聞いてみた。すると、
「今日うちのクラスに転校生が来るんだって。」
そう答えが返ってきた。
「男かな?」
「さあ、わからないけど」
そう答えてその生徒は再び読みかけの本に眼を映した。
転校生。陽一は関心がなかった。半ば聞くのが礼儀なような気がして無意識にそう聞いた。教室はその話題で持ちきりのようだった。陽一は窓を見た。やわらかそうな緑の葉が朝露に濡れて、ゆれていた。
「朝霧(あさぎり)真(ま)夜(や)です。」
そう言って彼女は頭を下げた
「趣味はスポーツ全般とバイオリンです。前の学校では弓道部に所属していました。よろしくお願いします。」
そう転校生、朝霧真夜が挨拶すると教室は拍手に包まれた。彼女は野生の花を思わせるような清楚な美少女で、体つきは非常にほっそりとしていたが、黒い意志の強さを感じさせるような美しい眼をしていた。官能を思わせるところはまるで無い。清楚で可憐な花そのものといったような少女だった。男子の多くは彼女に見とれていた。溜息をつく生徒が多かった。それは彼女の美しさに打たれてのものだったのかもしれない。陽一もまた、彼女を見ていた。美しさに魅せられながらも、どこか懐かしさを感じさせる眼だった。真夜は席に着いた。それは陽一のちょうど後ろの席だった。彼は妙に緊張した。それと同時に自分には彼女など関係の無い存在だという頑な冷めた気持ちが湧きあがっていた。自分には恋に値するものが無い。そんな考えが彼の心を占めるようになったのは彼が中学の頃に遡る。
父が失踪して十年以上が経っていた。中学生になった陽一は若々しい樹木の芽のごとく溌剌としていた。父のことも普段は思い出さず、新しい生活を彼は期待と幸福の内に過ごしていた。何も問題は無かった。
しかしある日のこと、同級生の一人が陽一につっかかってきた。まだ入学して浅い日のことだ。昼休みの時間、陽一が席に座り昼食を取っているとおもむろに彼が近づいてきた。その言葉は直截的だった。
「おまえの親父、おまえの家族を捨てて女と逃げたんだって?」
いやらしいひきつった笑みを浮かべて同級生のひとりはこう切り出した。周囲が静まった。陽一は言うべき言葉も浮かばず、とっさに彼を殴った。何も考えられなかった。騒ぎになった。結局、陽一はその後、彼と殴り合いを演じた。騒ぎを聞きつけて教師がやってくるまで、周囲が止めにかかったが陽一は落ち着こうとはしなかった。
根も葉もない噂だった。けれど陽一の心には一つの疑惑が黒く渦巻いた。
ひょっとして彼のいう通りかもしれない。父は外に作っていた愛人を優先して、陽一達を裏切ったのかもしれない。そう考えるだけで、気が重くなった。そうして愛というものについて陽一は考えるのだった。
愛というもの。それが陽一達家族を惑わしたのだろうか?父は恋人への愛ゆえに家を出て行き、母は愛ゆえに父を待ち続ける。どうしてこんなに苦しい結末になるのだろう。愛がいけないのだろうか?陽一はそう考えると、心が頑なになり冷えていくのを感じた。それから、彼は恋を恐れるようになった。自分の心を閉じ込め、蓋をした。別に結婚しなくても生きてはいける。女というもの。それを自分は一生避けていこう。そう彼は思い、それからの月日を過ごした。
真夜はすぐクラスに馴染んだ。休み時間になると、男女問わずクラスメートが集まってきて彼女に質問を浴びせた。彼女の周りはにぎやかでそこだけ一際明るく感じられるのだった。陽一は当然のようにその輪に加わらなかった。
下校の時刻になった。陽一は校舎をでて校庭を横ぎり、校門に向かった。校門を出ようとしたところ、朝霧真夜に話しかけられた。
「青井君、待って。」
そう言って彼女は陽一の前に回った。
「青井君、青井陽一君だよね?私の前の席の。私、朝霧真夜っていうの。今日転校してきた。よろしくね。」
「うん。よろしく。ところで何か用?」
そう言われると彼女ははにかんだ。少し恥ずかしそうな笑顔だった。
「青井君、青井君って帰りの方向どっち?」
「そこを左に曲がって、坂道の方を通って、大通りの方だけど。」
「私も大通りの方角なの。よかったら一緒に帰らない?」
この申し出に陽一は眼を丸くした。すぐに、警戒心と疑問が湧いてきた。
「どうして?」
「え?」
「どうして僕と一緒に帰ろうと思ったの?」
真夜は黙った。その黒目がちな美しい眼をふせると、言葉を紡いだ。
「同じクラスで前の席だし、話をしたいと思って。」
「普通そういうのは女の子同士でやることだよ。僕は男だ。そういう風に仲良くするのは付き合ってる人同士じゃないと。」
「そうだったら?」
「え?」
「私が君のこと、好きだったら?」
「え・・・・」
陽一は言葉を失った。恐れと戸惑いとそして若干の嬉しさが心に浮かび上がった。彼は何か言おうとした。おそらくは拒絶の言葉を。しかしそれでいいのかと心の奥で迷った。
「なんてね冗談だよ。男と女でも友達にはなるでしょ。一目みて陽一君とは気が合いそうかなって思ったから話掛けたんだけど・・・・駄目?」
陽一は安堵した。今、心を占めていた感情からは正面から向き合いたくない。そんな気持ちだったから、真夜の言葉に心底ほっとした。
「今日だけだよ。」
安心から思わずそんな言葉を彼は発していた。
マンションや家が立ち並ぶ、ゆるやかな平和な坂道はあまり人が見かけられない。二人は黙って坂道を下りつづけた。坂の下には家々の屋根や、ひときわ高いビルが見える。陽はまだ傾いていない。四月の太陽は白い雲ごしに光の眼のように輝いていた。陽一が口を開いた。
「家はどの辺にあるの?」
「大通りのすぐ近くよ。」
「そっか。」
そうしてまた沈黙が流れた。何故一緒に帰るのに自分を選んだのか、陽一は不思議に思っていた。そうしてさっきの「好きだったら?」という言葉が胸に浮かんだ。その事を思うと彼の心は複雑な気持ちになった。湧きあがろうとする自分の心を抑えつけるのは苦しいものだ。陽一の心の中にはある種の恐怖と期待が綯交(ないま)ぜになって存在していた。それは愛に対する恐怖と恋に対する期待であった。陽一は思わず、真夜を横目で見た。均整で優しげな横顔と歩くたびに揺れる髪が目に入った。彼の彼女に対する気持ちはまだはっきりとした恋ではなく、期待であった。それは彼女の容姿から想像される美しい心情だった。美しくとも心の冷たい人もいる。けれど、まだあったばかりの真夜の容姿や言動から感じるのは溌剌とした、泉のように美しい心情だった。それに陽一は憧れ、同時に恐れた。それは自分の魂がこのように美しい心に相応しくないという卑屈さ故であり、愛に対する不安故だった。もっと言えば愛すれば、いつかは裏切られるのでという不安故だった。
「陽がだんだん傾いてきたね。」
そう言って真夜は陽一を見た。
「まだ見られないけど、私はもう少したった夕焼けが好き。あの溶けそうな赤い陽とその向こうに広がる雲が素晴らしくて、前の街でも夕焼けを見ながら、下校するのが好きだった。」
「好き」という単語を聞いた瞬間、陽一の心臓が跳ねた。そんな心配する必要もないのに彼は今の鼓動を真夜に聞かれなかったかを恐れた。
「陽一君は?好きな風景とか景色とかある?」
陽一は言葉につまった。なぜか父が失踪した日のあのまばらな雨が思い出された。あの日の雨は止むことが無く、今も心の中で降っているのではないか。ふと、そんなことを思った。
「僕は特に好きな景色は無いよ。でも嫌いな景色はある。」
そう言って彼は真夜を見た。彼女は不思議そうな表情をした。
「それは雨だ。止みそうで止むことが無いまばらな雨。小さい頃、その雨が降った日にとても嫌なことがあった。それ以来、僕は雨が嫌いだ。」
そう言うと彼は襟元を軽く触った。真夜の方は見なかった。故に彼は気づかなかった。真夜が辛そうに眼を伏せていたことを。
やがて大通りに着いた。しばらく歩くと、この近くだからと真夜が足を止めた。
「また明日学校でね。」
「ああ。」
そう言って陽一は別れようとした。すると後ろから、
「陽一君。」
思わず彼は振り返った。
「その辛かった思い出はいつか必ず癒されるから。」
真夜がそう言った。不思議な程に優しげな眼だった。
それだけ言うと真夜は後ろを向いて歩き始めた。あっけにとられた陽一が一人残された。陽が傾き始めていた。一台の車が二人の間を通りぬけた。通りは静かだった。
しばらくすると陽一は家に向かって歩き始めた。
一夜が明け、クラスに入ると昨日同様、真夜の周りには男子女子問わずクラスメートが集まっていた。ホームルーム前のひと時を笑いとざわめきが支配している。陽一が席に座ると、今まで話していた真夜が「おはよう。」と陽一に声を掛けた。陽一もそれに返事をしたが、話に加わることは無かった。彼は一人、学生鞄から文庫本を出すとそれを読み始めた。
陽一はクラスメートとも必要以上には話さなかった。それは父の一件とあの同級生の意地の悪い言葉もさることながら、なんとなく人が好きになれない為であった。互いに笑い合いながら話をし、影では人の悪口を言う生徒達。あるいは粗暴な男子生徒達。こっちがおとなしくしていると、甘く見て、高飛車な態度を取る生徒。陽一にはそんな人間のいやしさばかりが目につきそれに過敏に反応してしまうのだった。彼が仲良くたまに話をするのは弱いおとなしい生徒だった。どちらかと言うと日陰者と言われる少年達である。彼らと話すか本を読むかして、陽一は休み時間を過ごしていた。本を読むことは楽しかった。知らなかった色々な知識が得られるし、さまざまな物語は彼を魅了した。彼が特に愛したのは、ライトノベルとミステリーである。どちらも異なる魅力で彼を魅了し離さなかった。
昼休み、陽一はきまぐれに学校の図書館へと歩を向けた。読む本は家から持ってきていたが、たまには図書館の本を物色してみようと思ったのだった。スポーツやファッション、植物関係の棚を通り過ぎ、目的のミステリーの棚から目当ての本を取り出した彼は座る席をさがした。とそこに居たのは他でもない朝霧真夜である。読んでいるのは古風な装丁で分厚い本で誰かの全集のようだった。陽一は一瞬ためらった後(あと)、声を掛けた。
「誰の全集?好きな作家なの?」
そう言って自分でも驚くほど自然に言葉が出たのにびっくりした。 真夜が本から眼をあげた。
「陽一君が声をかけてくるなんて意外だなあ。」
そう言って真夜は悪戯っぽく笑った。
「誰だとも思う?」
真夜はそう言うなり本を後ろに隠した。
「さあ・・・・僕はあまりこういう作家は読まないから。全集が出るような作家は・・・有名な人?」
「絶対知ってる名前よ。」
「夏目漱石?」
「ううん、もっと暗い人。」
暗い・・・その言葉から彼はある作家の名前を連想した。たしかに彼も名前くらい知っている。
「太宰治」
そう言うと真夜がはにかむように笑った。
「うん、正解。」
彼女が出した本には、太宰治全集と書いてあった。彼女は今、読んでいるのは、太宰の書簡集であること、自分が太宰のファンであることを語った。
「どこが好きなの?」
そう問うと、
「ユーモアがあって文章がかわいいところ。」
と彼女は答えた。陽一は真夜が太宰治を好きなことを意外に思った。真夜には恋愛小説がお似合いだと思った。しばらく話すと真夜は席を立った。そして別れを告げると、その場を立ち去った。陽一は今しがた真夜が座っていた席に座ろうとし、足元に何かが落ちているのに気が付いた。それは古そうなペンダントだった。鎖はついていない。細かい傷がつき摩耗した卵型の金色の小さいペンダントである。真夜の落し物だろうか。陽一はそれを拾い上げた。中を見てみたいという衝動が彼を動かそうとしていた。持ち主を特定する為には仕方がない。あるいは真夜では無く、他の誰かの落とした物なのかもしれない。そう考え、陽一は中を開けた。蓋は簡単に開いた。そこに映っていたのは・・・・・陽一の父と知らない女性と今よりやや幼い真夜の写真だった。
家に帰ると陽一は、空ろな気持ちで自分の部屋に閉じこもった。道すがら考えていたことが今も心を占めていた。考えられることは一つしかなかった。真夜は自分の父とあの見知らぬ女性の子供なのだ。自分と彼女は異母兄弟なのだ。父は自分達を見捨てて、あの女性と暮らす為に家を出たのに違いなかった。父は自分達を見捨てたのだ。そして、真夜はその憎(にっく)き父の娘なのだ。陽一は天井をにらみながら、同じ答えを何度も心に繰り返した。手に持ったペンダントを開いてみる。写真でしか覚えのない父がそこに映っている。陽一と同じ力強い眉に細い二重の眼、心なしか少しやせていて、年も陽一の家にある写真より取っているようだ。そして見知らぬ美しい女性に、まだ中学生程のおさない真夜。自分達の憎き敵のその姿を陽一はじっと見つめた。
ペンダントを拾い中を確認してから陽一は授業をさぼって帰宅した。とても真夜と同じ教室にいることはできそうも無かった。
家までの道はどこを通ったのか覚えていない。歩いている間も頭はペンダントの写真ことで一杯だった。陽一が道々そして、家に帰ってから考えていたのは、真夜達のことと、そして母のことだった。母にこの写真を見せるべきかどうか。そのことで陽一は悩んでいた。
体よく言えば、母は父に裏切られたのだ。けれど母は決して父を恨まずに、父の失踪には何かそれを強いた理由があって父は仕方なく姿をくらましたのだ。父は決して、自分達を裏切ったのではない。そう固く信じていた。そんな母にこの写真を見せることができるだろうか?それは残酷なことだ。逡巡の後(のち)、陽一は決めた。母にこの写真は見せない。このことは自分一人の胸にしまって置こう。さしあたっては・・・・真夜にこの写真ことを問い詰めなければ。
陽一は固く心にそう決めて、ベッドを上で寝返りを打った。
次の日の放課後のことである。陽一は真夜が帰り支度するのを待っていた。今日の昼休みにも真夜は何も気づかないように、無邪気に陽一に話掛けてきた。陽一は一言、「ペンダントのことで放課後、話がある。」とだけ答えて、彼女の前を去った。
その放課後がやってきたのである。陽一は無言で教室を出ると、廊下を通り、下駄箱で靴を履きかえ、外に出た。彼は校門まで来ると門の外側で真夜を待った。下校する生徒達が次々と外へ出てくる。
友人と喋りながら帰宅する生徒、一人でつまらなそうに、下を向いている生徒、大勢で固まって帰宅する生徒達・・・・その中に陽一は真夜を探した。しかし彼女はやってこない。陽一は待った。ほとんど下校する生徒達をにらむようにして彼は校門の傍の壁によりかかっていた。
人の姿も見られなくなったころ、ようやく真夜がやってきた。両手で前に鞄を持って、寂しげな眼をしている。陽一は何も言わずに、横に来ると真夜と一緒に歩き出した。
二人とも黙ったままだった。真夜が来るのが遅れた為、陽は既に傾き、赤い夕陽となって、家々やビルや電線でごちゃまぜになった街に沈もうとしている。春の日暮れである。空気には暖かさがあり、散歩をするにはうってつけの日和(ひより)だった。しばらく歩き坂の下まで来たところで真夜が口を開いた。
「あの写真のことで一つだけ誤解を解いておきたいことがあるんだけど・・・・私は別に、ずっとあなたにお父さんのことを黙っているつもりじゃなかったの。」
陽一の方を見ずに真夜は言った。
「いつかは話すつもりだった。ううん、それが目的で私はこの街に来たの。あなたに会う為に、あなたに謝る為に。こんな形で知られてしまったのは残念だけど、いつかはあなたに話すつもりだった。そうして謝って仲良くやれたらいいなってずっと思ってた。最初にあなたをクラスで見たときは、なんだか他人じゃない気がした。当然よね。あなたのお父さんは私にとっても父だった・・・・あなたの家族を父さんが捨てたって知ったときからずっと気にかかっていた。どんな人たちなんだろう。今頃悲しんでいるのだろうか。どんな顔をしているんだろう。父さんから、あなたという子供が居ると聞いていつか会いたいと思っていた。今にしては不思議なくらい気にかかっていた。いつかは会って話ができたらいいなってずっと思ってた。だから、少しだったけど、この前一緒に帰ってくれたのは嬉しかった。」
そこで真夜は言葉を切った。
「僕は違う。僕は君たちが憎かった。どうして今になって現れたんだ!どうして父が会いに来てくれないんだ。どうして・・・・父は僕たちを見捨てたんだ・・・」
そう言うと陽一は涙の混じった眼で真夜を見た。彼の眼は既に赤かった。十五年の間、胸に抑え込み、溜めていた感情は止まらなかった。彼は答えを求めるように真夜を見続けていた。彼女は答えて言った。
「お父さんは私の母を一人にして置けなかったの。母は恋人に見捨てられて、私をお腹に宿したまま、あなたの父に手紙を書いた。『あなたが必要だから来て欲しい。このまま一人なら私は自殺する』。そんな内容で手紙を書いて送ったの。父さんは昔、私の母と付き合っていた。いずれ結婚する間柄だった。けれど、結婚しようかという直前になって母は父さんを捨てた。違う男ができたから・・・・そうして失意の内に父さんは母の元を去り、違う人と見合いで結婚した。それがあなたの母親よ。そうしてあなたが生まれ家庭を作った。そのまま一年が経ち平穏に生活していた時に私の母から手紙が来たの。」
それを聞いて陽一は一つの疑問をぶつけた。
「じゃあ僕たちは兄妹じゃないんだね。」
「当り前よ!私は母と前の男の人との間の子供なんだから。あなたとは血はつながっていないわ。あなたと結婚だって・・・できるんだから。」
そこで真夜は言葉を切って陽一から眼をそらした。陽一はそれには気づかない。彼の頭は、自分と真夜が兄妹でないという事実で一杯だった。次に浮かんだ疑問を彼は口にした。
「父さんはどうして僕たちに会いに来てくれないの?」
そう陽一が言うと真夜は唇を噛みしめた。
「それはね・・・・・・・あなたのお父さんはもうこの世の人ではないからよ。」
陽一は真夜と共に彼女の家に来た。父のことで陽一に見せたいものがあるという。室内は割と質素だった。真夜の住んでいる場所はワンルームのアパートで背の高いこげ茶色のビルの三階だった。中にはいくつかの家具、タンス、本棚、ソファのほかに目を引くものは無かった。引っ越ししたばかりの所為もあるかもしれないが、部屋は物が少なく、広々としていた。
「これよ。」
そう言われて陽一が渡されたのは、薄い茶色の封筒だった。受け取ると中には厚い便箋が入っていることが、手触りでわかった。陽一は震える手でそれらを取りだし読んだ。
「わが子陽一と妻まり江へ
今まで連絡も無しに突然、この手紙を見知らぬ、おそらく憎いであろう僕の娘から受け取らせてすまない。けれどこの手紙を投函せず、手渡しにしたのは、君達に真夜と私と夕(ゆう)香(か)のことを許してもらい真夜と仲良くやって欲しかったからだ。今、僕は死のうとしている。悪性の癌だ。全身に転移していて、もう助かる見込みは無い。二人に許してもらい、僕の娘と仲良くしてもらうのが僕の最後の希望であり願いだ。最初に僕がなぜ、家を出て行かなければいけなかったか説明しなければならないね。僕は、まり江、君と結婚し陽一という子を得て幸せに暮らしていた。けれど、君と出会う前に僕には心から愛し付き合っている人が居た。それは遠見(とおみ)夕(ゆう)香(か)という女性だ。僕は彼女とは小学校の四年から一緒でいわば幼馴染だった。僕たちは仲が良かった。彼女は早くに両親を亡くし、叔父に引き取られ、僕の住む地域にやってきた。中学校に入ったころからだろうか、僕は一緒に過ごす内に夕香に惹かれていった。細く絹糸のような黒髪に夢見がちな幼い少女のような横顔、それにあどけなさ、ときおり見せるわがまま。そういったものに僕は惹かれており、中学二年になるころには彼女を自分だけの物にしたい、誰にも渡したくない、ずっと一緒にふたりきりでいたい。そんな苦しい気持ちで僕は一杯だった。それでも僕はしばらくの間、彼女に自分の気持ちを伝えなかった。伝えてもし拒絶されたら、今のような親しい関係では無くなってしまうかもしれない。そんな不安が僕を臆病にしていた。そんな気持ちを心に抱えたまま、時間だけが過ぎて行った。そうして僕たちは高校生になろうとしていた。
僕たちは同じ高校に入る筈だった。けれど、彼女がその公立高校の試験に落ちた為彼女だけが、東京の私立高校に通うことになった。僕たちの住んでいたのは神奈川県だ。違う学校というだけで、今のように会えなくなるのは確かだった。それがきっかけで僕の気持ちも固まった。僕は自分の気持ちを夕香に伝えると決心した。そうして中学を卒業したその日に僕は夕香に告白した。学校に植えられていた大きな欅(けやき)の木の下で。
彼女は僕を受け入れてくれた。むしろなぜ、今まで告白してくれなかったのかを責めた。彼女に言わせれば僕たちは以前から既にカップルだった。それを聞いて僕はうれしいような申し訳ないような気がしていたのを今でも覚えている。それは風の暖かい三月の半ばのことだった。
僕たちは離れ離れになりながらも愛を深めた。高校、そして一緒になった大学でも僕たちは愛し合っていた。そうして大学を卒業して、僕は彼女にプロポーズした。けれど返事はNOだった。彼女は「今でもあなたのことは大事に思っている。けれど、もう以前のような愛情は感じていない。なぜなら他に気になる人が居(お)り、今ではその人に心を惹かれているから」とのことだった。その男は同じ大学の僕も知っている男だった。二枚目で裕福なプレイボーイだった。僕は失意の内に内定していた会社を蹴り、東京に移って職を探した。僕は夕香を愛していた。小学校から一緒で大学まで付き合っていたから、彼女が失われることは僕のそれまでの人生が失われることに等しかった。彼女と一緒に居られない以上、彼女からは離れなくてはいけない。そう考えて、僕は東京に出たのだった。
それから僕は仕事に精を出した。仕事に励むことで、夕香や今までの思い出を忘れたかった。けれど、仕事をしている間は忘れていても、家に帰り、ベッドに横になるとどうしても彼女のことを考えてしまう。今頃どうしているだろう。あの男と仲良くやっているのだろうか。自分はこんなにも苦しいのに彼女は僕のことなど忘れて、恋人と楽しく過ごしているのだろう。そう考えるとやりきれなかった。そんな日々が続いた。一年ほどたった頃、僕はようやく夕香のことも忘れて平穏に暮らせるようになった。そうしていつまでも独り身では居たくないとも思うようになった。けれど、しかるべき相手は居ない。悩んだ末、僕は人に薦められてお見合いをしてみることにした。そうして出会ったのが、まり江、君だった。僕は初めて君にあって話をして、もう心が決まっていた。この人しかいない。一緒に時間を過ごす内にその思いが強くなってきていた。幸い君の方でも僕を気に入ってくれたと見えて、僕達の結婚はとんとん拍子に進んで行った。あとは君も知っているとおり、僕達は陽一という素晴らしい子を授かった。十五年も離れていて、君以上に気になるのはあの子のことだ。僕は陽一、君を愛していた。僕の不在が君にどういう影響を与えるか、それが僕は大きな気ががりだった。夕香の生んだ真夜のように優しい健やかな子に育つことを日々祈っていた。
話を元に戻そう。僕は君たちと共に幸福な日々を送っていた。そこに届いたのがあの手紙だ。それは夕香からの物でこう書いてあった。『彼と別れました。私のお腹には彼の赤ちゃんが居ます。彼に捨てられて、あなたと別れたことを心から後悔しています。どうか戻って来てください。あなたが帰って来れないのなら私は生きて行けません。お腹の子を産んで私は死にます。私を一人にしないで。』
僕は迷った。とにかく一度彼女に会って話をしなければならない。それだけはわかっていた。でもその後はどうしようか。今更彼女と一緒になることはできない。僕には家族が居る。彼女を説得して死ぬことは思いとどまらせなければならない。そう決めてあの日、家を出た。神奈川の彼女を訪ねてみると、(彼女は大学時代と同じアパートに一人で住んでいた。)前よりやつれて、死人のように青い顔をしている彼女に出会った。僕はとにかく彼女に優しく接した。久々に彼女に会い懐かしかったが、もう以前のような激しい恋慕は感じなかった。ただ自分の内に慈愛を感じ、彼女に優しくしてあげたかった。僕は彼女に説明した。僕には家庭がある。君と一緒に居ることはできない。ただ君のことは大事に思っているし、できるだけの支えはする。どうか死ぬなんて言わずに子供を産んで、強く生きて欲しい。それが天国に居る君の両親も願っていることだ。そう説得し、彼女も納得したようだった。その日も夜になり、僕は帰ろうとしたが、今夜だけは泊まって一緒に居て欲しいと涙ながらに言われ僕はその日、彼女の部屋の床に寝ることになった。深夜になってふと、僕は眼が覚めた。何気なくベッドの方を見ると、彼女が居ない。そうして机の上に置手紙があった。それは遺書だった。色々考えてみたが、一緒になってくれると思っていた筈のあなたが家庭を持ってしまったいることがショックだった。もう頼る人が居ない以上、生きて行ける気がしない。せめて最後はあなたに見届けて欲しい。さようなら。ありがとう・・・・そう書いてあった。
僕は深夜の街に飛び出し彼女を探した。狂ったようにあちこちを回り、ようやく子供の頃よく二人で遊んだ公園で彼女を見つけた。彼女はベンチに座って呆けたように宙を見ていた。見つけた瞬間、安心して思わず彼女を抱きしめた。そうしてもう僕はどこにも行かない。家庭を捨てて、ずっと君を支えつづける。そう僕は彼女に言った。
それから僕は君たちに簡単な手紙を書いて、夕香と暮らすことに決めた。あと、君たちも知っている通りだ。僕は彼女を見捨てられなかった。今日まで君たちのことを表面上は忘れたように暮らしてきた。真夜が生まれて、自分の子ではないけれど、夕香の子だと思うと無性に可愛くて仕方が無かった。それからは時だけが無情に去った。僕は君たちに本当にひどいことをしてしまった。何度か連絡しようとも思ったが、夕香を一人にできない以上、君たちとは一緒にいることはできない。そう思うと、連絡することで帰って君たちを苦しませてしまう気がして辛かった。すまなかった。どうか僕を許して欲しい。
この手紙がとどく頃には僕はもうこの世にいないだろう。僕は今最後の気力を振り絞ってこの手紙を書いている。死を目前にするまで、君たちに連絡する決心がつかなかった僕を許して欲しい。それから夕香や僕の娘、真夜のことも許してほしい。彼女たちに罪はない。特に真夜は猶更だ。これから僕のことは忘れて、幸せに暮らして欲しい。そう強く願って僕はこの世を去る。
平成2×年1月×日
手紙を読み終えると、陽一は大きく息を吐いた。体中が強張っていた。父からの手紙、その真摯な文章、調子に彼は息をつく暇もなくただ必至に文字を追ったのだった。不思議と父を責める気は無かった。むしろ今までのわだかまりが素直に溶けていくのを感じた。父の手紙にあった言葉。「君を愛していた。」その言葉をどんなに待っていたか陽一は気が付いた。彼は涙を流していた。
「ごめんね。今まで黙っていて。」
そう言って真夜は濡れて黒く光る眼で陽一を見つめた。
「それで、どうかな。私達のこと許して仲良くやってくれる?」
「父さんはもう亡くなったの?」
「ええ。三ヶ月前に。その手紙を書いてから三日後のことだった。こんなこというのもなんだけど、安らかな顔でだった。私も母も悲しくて泣いたわ。それから、手紙を読んだ。私がこの街に越してきたのは、あなた達に会う為。偶然同じクラスのしかもあなたの後ろの席になれてうれしかった。きっとお父さんが導いてくれたのね。これからも私はこの街に住む。だからよかったら仲良くして。これからも。私、もっとあなたのことが知りたい。」
「それは、ちょっと時間をくれない?心の整理がしたいし、母さんにも相談したい。母さんがどんな反応するか僕はそっちの方が心配だ。この手紙持って行っていい?母さんに見せるから。」
「もちろんよ。」
そう言って真夜は微笑んだ。
家に帰る陽一の足は重かった。彼のこころは今日の出来事をどう母親に話すかで一杯だった。母は父を恨むだろうか。彼女を捨て別の女性の元に去って行った父親を。母は父のことを信じていた。それが、今夜裏切られるのだ。それなのに責めるべき相手はもういない。陽一は自分の部屋で母が帰ってくるのを待った。やがて暗くなり、夜の闇が部屋を支配しても陽一は部屋を明るくはせず母を待ち続けた。
母は帰ってきた。いつものように買い物袋をさげて、玄関で靴を脱いでいた。
「おかえり。」
そう言うと陽一は次の言葉がなかなか出てこなかった。
「ただいま。」
母は微笑んで陽一の頭を撫でた。母がこんなスキンシップを取るのは珍しいことだった。何かいいことでもあったのかもしれない。
いつもの通り母は夕食の支度をし、二人はテーブルに着いた。その晩の夕食はご飯に鮭のムニエルにレタスのサラダだった。陽一は手紙のことをなかなか言い出せず、胸が重かった。告げた後、母はどんな反応をするだろう。陽一は母が怒ったところを見たことが無かった。陽一の見る母はいつも笑顔だった。つらいことがあってもそれを家庭に持ち込むことは無く、陽一の愚痴や級友に対する悪口をたしなめるときも決して怒りの表情は見せなかった。母がわずかに笑顔以外に見せる表情は悲しみだった。父のことに対して、また世間の悲劇的なニュースや出来事などに対して見せる悲しみは笑顔以外の母の唯一見せる感情だった。
食後のあと陽一は意を決して手紙のことを切り出した。
「実は母さんに読んで欲しい手紙があるんだ。僕の同級生で最近越してきた朝霧真夜から渡された手紙で・・・・・父さんからの手紙なんだ。彼女は父さんの義理の娘なんだ。」
そう言うと陽一は母を見つめた。母は眼を伏せていた。豊かにウェーブした長い髪がじっと止まっていた。ほのかに明るい暖色系の明かりが母を照らしていた。
やがて母は手を目元にやると、一言「見せて」と言った。陽一は部屋から厚い手紙を持ってくると母に渡した。
母に手紙を渡すと、陽一は一旦部屋に戻った。そうして横になり、思索にふけった。頭に浮かんでくるのは真夜のことだった。彼女と分かり合えるだろうか?彼の胸には複雑な感情が入り混じっていた。父の義理の娘が彼女だった。いわば母の恋敵の娘だ。真夜は父に愛されていた。小さい頃から父と母の愛を受けて育ったに違いない。羨ましい。ふと、そんな気持ちになった。しかし彼女に対する憎しみも怒りもなかった。妙にすっきりした、青空に突き抜けるようなさわやかさがあった。天国の父は今頃、何を思っているだろう。ふと、そう思った。
気がつくと朝だった。どうやら風呂にも入らずあのまま寝てしまったらしい。ふと母が気になり、リビングに行った。朝の七時だった。母はいつも通り朝食の準備に勤しんでいた。
「おはよう。」
おずおずと陽一は声を掛けた。昨日の手紙が母にどんな影響を与えたかが気になった。
「おはよう。」
母はいつものようにそう言ってほほ笑んだ。気の所為か普段より一層おだやかに感じられた。
「昨日はあのまま寝ちゃったの?お風呂にも入らず、着替えもせずにそのままで?」
「うん。」
そう言って陽一は再びおずおずと母を見た。やはりいつも通りの母だった。
「なんだか一晩泣いたらすっきりしちゃった。」
食事のあと、陽一が手紙のことを尋ねるまでも無く母はそう言った。
「父さんのこと憎いと思わなかった?」
「それは少しは悔しかったけどね。それほど憎くは思わなかった。お父さんは本当に優しい人だったんだなって思った。もうこの世にはいないけれど、なんとなくそうじゃないかなって思ってたわ。昔思っていた人の為に自分を犠牲にするなんてあの人らしいって思った。実はね、ちょうど三ヶ月まえくらいにお父さんの夢をみたの。不思議な夢だった。出会ったらころデートした噴水のある公園でね、ベンチに座って私達、話していたの。話の内容は覚えていなかったけど、たったひとつ「すまない。先にいくよ。」ってところだけは覚えていた。妙に静かで穏やかな夢だったわ。それで眼が覚めた時ね、ああもうあの人はこの世にいないんだって確信したの。最後の別れを告げに夢に出てきたくれたのね。だからそのせいかな、手紙を読んでもすんなり受け入れられたわ。真夜ちゃんっていう娘がいるのよね。私、今度会って話をしてみたい。」
そう言って母は窓の外を見た。眩しいほどに強い朝日が薄いカーテンごしに部屋を照らしていた。
学校で真夜に会うと、昼休みには二人きりになった。陽一は彼女と話をした・・・・・
数日後の土曜日、陽一は真夜と共に神奈川県のK市にあるT駅へと向かう電車の中にいた。土曜の午前ということもあり、人は少ない。人の良さそうな老婆やサラリーマンと思しき男性などが乗っているだけで、車内は日光を浴びて閑散としていた。陽一も真夜も電車に乗ってから一言も発していない。互いに疾走する電車に揺られて座っているばかりだった。陽一は手に小さな花束を持っている。母のまり江から渡されたものだ。二人は父の啓一の墓に向かっている途中だった。陽一の心にはひとつの決心があった。墓の前で父に向かってその言葉を言おう。そう決めていた。
「まだ会って一週間しか経ってないんだよね。」
ふいに真夜が口を開いた。
「なのに不思議。どうしてか陽一君とは他人のような気がしないの。実際まったくの他人じゃないんだけど・・・・昔から知っている幼馴染みたいに陽一君は親しみやすい。」
そう言って彼女は笑った。窓から射す陽が、縞模様に真夜を照らす。陽一も静かに微笑んだ。彼の心にはまだ見ぬ父の墓がはっきりと想像されるようだった。
墓は霊園に入って左側の奥まった場所に鎮座していた。青空の元、周りの木々の彩(いろどり)が素晴らしい。四月だというのに、赤や黄色に色づいた木々もあり霊園を美しく装っていた。二人は簡単に合掌すると、陽一の持っていた花を墓前に手向けた。淡いピンクの丸くて上品さを感じさせる花である。
「ラナンキュラス。」
と真夜が言った。
「そうなの?」
「ええ。お父さんが大好きだった花よ。」
「母さんから渡されたんだ。これをお墓にって。そう、父さんが好きだった花なんだ。知らなかったな。」
「花言葉はなんだっけ、魅力ある人、だったかな。」
「そうなんだ。こうやって見ると、魅力ある人っていうより可憐で幸せそうな花に見えるな。僕には。父さんは幸せだったんだろうか?いやきっと幸せだったんだろうな。真夜と君のお母さんと一緒にいて。」
そう陽一が言うと真夜はすまなそうに眼を伏せた。しかし陽一は構わずに言葉を続けた。最も言いたいことをこの場で伝えたかった。
「僕は君のことをもっと知りたい。君と仲良くしたいし、なにより君のことが一人の人として好きだから。だから仲良くなりたい。父さんのことも君のお母さんのことも勿論君のことももう恨んでいない。今、必要なのは、怒りじゃなくて愛であり、赦しだ。僕はそれを実行に移そうとする。勿論君の気持ちしだいだけど、僕は君のことを幸せにしたい。だから一緒に歩いて行こう。父さんもこのことを聞いたら喜ぶと思う。それをこの場で言いたかった。僕の言いたいことはそれだけだ。」
そう言って陽一は唇を噛んだ。彼は真夜の方を見ず父の墓を見つめていた。その視線からはこころからの真剣さが感じられた。 そよ風が吹いた。陽一もようやっと真夜に向き直った。彼は答えを待つように真夜を見つめた。
「私も・・・・あなたのことをもっと知りたい。」
そう言って真夜は陽一の手に触れた。彼も真夜の手を握り返した。二人の心に幸福な優しい感情が春の息吹のごとく溢れてきた。時は午後に移ろうとしている。突き抜けるような青空の下、若い二人はいつまでもいつまでも、幸福な気持ちで手を握りあっていた。
ラナンキュラス
三年前に書いた小説です。今から見ると少し欠点が見られますが、大目に見てください。文章のリズムなんかは結構いいので。