大器晩成 ~大物~
訪問者はまだ来ない。私は真夜中にいつもの様にベッドの上で横になり庭に通じる硝子戸を眺めていた。
明かりを消した部屋には暗闇の他に静けさが広がっている。
訪問者はまだ来ない。私は真夜中にいつもの様にベッドの上で横になり庭に通じる硝子戸を眺めていた。
庭には数ヶ月前まで鈴虫や蟋蟀が鳴き花の回りを喧しく飛ぶ蜜蜂達の姿は無く音も起てずに白い雪が舞っている。
去年の六月に勤めていた会社が倒産してから四六時中ベットに隠っていた。
横になりながら月が満月から半月、三日月と変わるのを眺めてる間に半年もの時が過ぎていった。
ここ最近の記憶が無い、まだそこらの年配と違ってボケる年ではあるまいし、きっと、毎日同じ生活をしているから
脳が記憶する必要が無いと判断したのかも知れない。
暫く考え事や頭を使っていないから念のため簡単な暗算を一桁、二桁と続けてみる。
三桁で答えが止まった。熱くなった頭を冷まそうと汗が浮いた。
会社が倒産してすぐに新しい職場も決まっていたが、何故か二ヶ月待たされたあげく不採用の連絡があった。
自宅に郵便で返された履歴書の間に交通費と表して五千円札が挟まれていた。
相手の好意とは言え、懐に入るはずの給料とはかけ離れた金額に慰めの報酬とはいかなかった。
長い階段を登ってゴール寸前で突き落とされた気分になった。
またもう一度登る気力が湧かない。
気を紛らわせ様と部屋の掃除に料理をして自転車やバイクの整備まで色々とした。
土日は競馬場に足を運び帰りは設定の入って無いスロット台に座る。
相変わらず札が吸い込まれて払い出しのメダルは出て来ない。そんな台に座るのに三十分もかかる。
去年、国からの規制がかかり追い討ちをかける様に増税がされ山の様にメダルや玉を積む台が姿を消した。
相変わらず店内は込み合っている。
みな自分と同じで何かをしていないと不安で落ち着かなかったのかも知れない。
気分を変えてパチンコ台に座っても釘が固くて全く玉が入らない。また札が吸い込まれる。
一発四円の玉が次々と釘に弾かれ台に飲み込まれていった。
思わず台を叩く。
叩いた手が熱くなった「年末に仕事もしないでこんな事をしている自分も悪いんだ」
一人呟き握りしめてた拳が緩んだ。
やり切れない気持ちで辺りを見渡すとのめり込み注意と言うポスターが目に入った。
「煙草の注意書きと一緒で全くの無効果だ、メダルやパチンコ玉を本物の硬貨でやった方が効果がある」
パチンコ台に現金が釘に弾かれ次々に飲み込まれてる姿はゾッとするだろう」
自棄になり取って置いた五千円札も突っ込む。
印刷された樋口 一葉と台に吸い込まれるまで目が合った。
必死に金を使わないで出来る事を考え実行して気を紛らわそうとした。
やがてする事も金も尽き、自分の引き出しの少なさを呪った。
考える事も辞め、生きている人間の振りをしているのが馬鹿らしくなった。
夏ならば夜になっても明かりを点けずとも硝子戸から庭の様子が窺う事が出来たが今は月明かりを頼るしかない。
おまけに雪のせいで余計に視界が悪くなる。
大晦日の詰まらないテレビを消すと部屋は一層静まり暗くなった。
耳を澄ませば雪の降る音まで聞こえてきそうだ。
目を閉じ、深呼吸をする。
テレビが詰まらないのは楽しむ余裕が無いからかも知れない。
笑って映るテレビ画面の人達とは対象的にやけに自分が滑稽に思えた。
元旦で東京に雪が降ったのは久しぶりだそうだが、今の自分は何とも思わない。
日差しを浴びなくなった庭の草や木の葉は薄くなった緑を隠す様に雪化粧をしていた。
庭の外から鈍い音がした。
硝子戸の向こうの暗闇に視点を絞るとくすんだ銀色のステンレスの額縁の中に真っ黒なキャンパスが写っている。
一部に小さな影が重なり黒がより深くなる。
「来たか」
私はベットから起き上がり硝子戸の前に座ると床の冷たさが尻や足から伝わった。
戸の向こうから影がこちらを見つめる。
私はいつもの様に戸に手を当てると影もそれに答え小さな手を硝子ごしに当てた。
顔を近づけるとそれを引っかこうと爪を立てる。
私の吐く息でキャンパスが白くなった。
そこを指でなぞり小さな穴を二つあけるとそこから二つの目が私を睨み付けた。
ギラギラとした目で相手に腹を立てているのが暗闇でも分かる。
一瞬辺りはより暗くなった。雲で月が隠れた様だ。
私が戸を開くと影が素早く消えた。
用意してあったカップに煮干や鰹節を固めた菓子を入れてから
業とカップを叩き付ける様に戸の前に置いて大きな音を出した。
これは合図見たいな物だ。
暫く見ていると暗闇から影が近づいて来る。
「よう、焦らして悪かったな」
私は半笑いで声をかけた。
影は答えもせずにカップに顔を埋めていた。
「なあ、悪かったって」
影は腹を満たすとこちらに顔を上げた。
「年明けそうそう苛々させるなよ」
影が答えると同時に雲から月が顔を出し、辺りを照らした。
月明かりは影の小さな体を写し出した。
白と黒の斑尾の毛を纏った影は不機嫌そうに右手を舐めていた。
「お代わりいるか?」
私はいつの間にか新年を迎えた事を気にもせずに促した。
影は逆の手を舐めて私の声に気が付かないふりをした。
人間の様に臍を曲げて視線を逸らす姿は愛らしく思えた。
カップに煮干が足されると影は黙ってカップに顔を突っ込んだ。
「相変わらず素直じゃないな」
私は舌を打ちそれを眺めた。
影は翌日までの食料を腹に貯めると床に身を預けた。
「お前、良くそんな冷たい床の上で寝れるよな」
「一緒にすんなよ、人間。俺の体は出来が違うんだ」
影は視線を変えずに答えた。
「そういやお前名前なんて言うんだ?」
「……」
私はからかう様に言った。
「そうか、俺はまだ名前があるから野良よりましだな」
「お前は人間じゃない、野良より立ちの悪い。人間の振りをしたクズだ」
「でもお前はそんなクズに物乞いするもっとクズだ」
一度始めると限度の知らない子供の喧嘩だった。
お互い名前も年も知らなかったが話方から年が近いのは分かっていた。
影は月の様に陽が落ちると現れた。
一度食事を与えると翌日から頻繁に顔を出す様になった。
食事が終わると無言で消え触れようと手を伸ばすと爪で引っ掻かれていた。
何度、手を出しても同じ結果に終わり私の手は傷だらけになっていた。
私は腹を立て一度だけ仕返しに硝子戸の部屋側に煮干を入れたカップを置いた。
外側から影がそれを眺め、時折こちら見る。
私は暫く気付かない素振りを続け影を焦らした。
影は悲しそうな上目遣いでこちらを見る。
私はジャック・ニコルソンの様な笑みを浮かべた。
影が一瞬にして殺気だち鋭い眼に変わる。
どうやら馬鹿にされているのが分かる様だ。それにしても可愛くない奴だと私は呆れた。
おまけに酒の肴にしていた煮干が少なくなってきた。
代わりに安物の花鰹を盛って出すと口にしなかった。
ある時に鰹を節から削っていると枯れ節の香りに誘われて影が現れたので試しにカップに渡すと綺麗に完食した。
舌が肥えてる奴のようだ。
私が文句を言いながらも影に食事を運ぶ姿を見た友人は。
「お前、自分すら食えて無いのにそんな奴に………」
すると影が私の代わりに友人を睨んだ。
いつの間にか影と一言、二言会話をするようになった。
会話と言っても軽い挨拶程度だったが殆ど家から出なくなった私にはそれが楽しみになった。
「俺様はお前と違ってクズじゃない」
影は顔を斜めに傾け手を舐めながら繰り返した。
「じゃあ、何なんだ」
私は真っ直ぐ影を見つめた。
「俺様は俺様だ」
「良いか、俺様が我輩を唯一雇うんだ」
影の目が変わった。
「懐かしいな、ブルーハーブ知っているのか?」
私は内心驚きながら話を続けた。
「そりゃ、お前さんがスピーカーであんだけ大きな音で流してればな」
「何だ、そう言う事か。スピーカーの前にいる奴等にピース」
影は不愉快そうに耳を掻いた。
「お陰でこっちは昼寝も出来やしなかったさ」
「そりゃいい」
ふてくされた様子の影を見て私は久々に笑った。
「毎日、喧しいのばかりであのコルトレーンとか言うのは好きだがな」
「ジャズ好きとは渋いな。それに好きに決まってる、コルトレーンは神様だからな」
「神様なんて居ないよ」
「居ないたってそう呼ばれてんだよ」
「人間はキリストやら仏教だか何でも神様を作りたがる」
お互い血が頭に上り熱くなる。暗闇の上空から降る雪がそれを冷まし蒸発もせず凍りもしない初めての感覚に二人は興奮した。
「確かに神様と言われても元々は只の人間には変わりないな」
「それに宗教で祀られる神様なんてみんな戦争を引き起こしているじゃないか」
影は床に身を預け私は煙草に火を点けた。
「何が神だ、只の戦争の言い訳の道具だ」
「俺様は俺様しか信じない」
「その結果が物乞いか? お前の仲間はみんなもう少し良い暮らしてるぜ」
私の言葉で影は鋭い目に変わった。
「晩成なのさ」
影は囁く様に言った。
「晩成? 」
「嗚呼、そりゃ大器晩成のつまり大物さ」
「お前、競馬好きならディープインパクトって馬を知っているだろ?」
「競馬を知らない奴ですら知っているさ」
私は鼻で笑って答えた。
「奴は何でいつも出遅れるか知っているか?」
「さあな、気性が荒いのは有名だけどな」
「ハンデさ」
「ハンデ?」
「毎回、最初っからぶっちぎりじゃつまらないだろう」
「だからわざと出遅れて他の奴に夢を見せてやるんだ」
「ハンデか、成る程な」
私は妙に納得してしまっていた。
「俺様も今こうやって肥やしと言う足を貯めているんだ。
夢を見ている連中をゴール前で嘲笑いながら音速で一瞬で差し切ってやるのさ」
影は何処か満足そうに言った。
「追う者は追われる者に勝る、お前の好きなブルーハーブも言っていたろ?」
影は続けた。
「進む、秒針よりも早く」
「嗚呼、進め秒針よりも早く」
二人は口ずさんだ。
影に目をやると自分とは対照的に自信に満ち溢れその黒い体を大きく見せていた。
ふと生意気だと言われた若かりし頃の自分の姿と重なった。
私は膝を叩いて立ち上がると何か込み上げてくる物を感じ空を見上げた。
その反動で頭に積もっていた雪が滑り落ちる。
影はそれをかわすと何処かに消えていった。
真っ暗なキャンパスから漏れる月明かりは私と降り注ぐ雪を照らしていた。
大器晩成 ~大物~