川のない橋
聡は目を覚ました。
「ここは・・・」
意識にもやでもかかっているかの様に、すべてがはっきりしない。
「あら、目が覚めたのね。」
突然視界に女性の顔が飛び込んで来て、聡は自分が目を開けていることを思い出した。
大きな瞳が聡の目を見つめていた。
だれだろう、知っているような気もするが思い出せない。
彼女の髪は短かった、年は聡とそう変わらないだろう。
ふと、聡は、目の前の女性の背景に目を留めた。雲が流れていた。
自分は寝ていたのか・・・。
聡は、体を起こして辺りを見回した、そばに女性がいる以外は、はるかかなたまで、草原であった。
「君は・・・、ここは・・・?」
呆然と、聡は尋いたが、そんなことは知っているようなきもした。しかし、意識のもやが、何かを邪魔していた。
「私の名前は、木春(きはる)。さあ、行きましょう。」
木春は、立ち上がると、確かな足取りで歩きだした。後ろを振り返りもしないのは、聡がついてくるのに絶対の自信があるからだろうか。
聡はあわてて後を追った。
どこへ行くのかきこうかとも思ったがやめた。わかっているから。名前もそうだった。
知らなかったがわかっていた。おそらくすべてそうであろう、きくことによって何一つ変わりはしないのだ。
「俺のバイクは?」
聡は尋ねた。聡自身も驚いた。尋ねる必要などないではないか。
「あそこにあるわよ。」
木春は前の方を指さした。
大きな木があった。葉が茂っていた。
やはり、そうか。
聡にはわかっていた、その木がそこにあることが。
それからしばらく歩くと、木の前についた。木にはバイクがたてかけてあった。
聡は、なんとなくバイクのことが気になった。バイクは、今までと違った。わかっていなかったのだ。ここにあることが。
木は、道のわきに立っていた。
道は、広くなく、狭くなく、はるかな先まで続いていた。
木春はその道を歩き始めた。
聡はバイクをひきながら、ついていった。
ふと、聡は振り返った。草原、道、木、空、すべてがさっきと同じだった。何かがひっかかった。何かが、呼んだような気がした。だ
が、何も変わってはいなかった。聡は、また前を向き、木春の後を歩き始めた。
とてつもなく長くか、ほんの少しか、歩いた所で、聡はまた振り返った。
今度は確かに聞こえた。誰かが、何かが、呼んでいた。
しかし、何度見わたしても、同じ風景が広がっているだけだった。
顔を戻すと、橋があった。木春は、橋の真ん中あたりでこちらを見ていた。こちらへ来い、と誘っているようにも、来てはいけない、
といいたげにも見えた。さみしげな表情だった。
聡は、橋を渡ろうとした、が、橋に足を踏み入れようとしたとき、こんどこそは確かに聞こえた。自分を呼ぶ声が確かに聞こえた。
聡は、振り向いた。同じ景色が広がっていた。しかし、意識がはっきりとしてくるにつれ、景色は色を失っていった。いや、最初からこうだったのかもしれない。白黒の世界は、木や草、空、雲、風さえもが命をもたぬ蝋細工のようであった。
「そうだ、俺は、バイクで事故って・・・」
また、聡を呼ぶ声がした。
「おふくろ・・・」
間違いない、母親の声だ。
「さとし」
呼んだのは木春だった。
「聡、川が見えるかい。」
聡は、橋の下をのぞき込んだ。川は・・・、川はなかった。川底が見えた訳でもなかった、何も見えなかったのだ。
聡は、木春の方を見て、首を振った。
「じゃあ、お帰り。」
木春がそう言うと、聡の足元が崩れ始めた。
「おばあちゃん!」
木春。3年前に死んだ祖母の名前ではないか・・・。
薄れ行く意識の中で、聡が最後に見たのは、またこいよ、と言ってほほえむ祖母の姿だった。
END
川のない橋
初出:同人誌『GLASS SHERBET会誌 93
年春号』発行日:1993年春