紫陽花に見出す僕の有為と不自然
紫陽花はその性質からうるさく主張することはないけれど、それでも今が彼女らの盛りである事は間違いなかった。
潤いと光沢に満たされた葉と花弁は灰色の闇夜で一際映える。
青の強い紫に惹かれて手折りたく思ったが人家のものを勝手に傷つけるわけにもいかず、ふり返りながら傘片手に歩みを進める。
よく思えば手折るのは可哀想だ。
枝を切られて水の中につけられるより土の中に根を張る方が植物としては自然なあり方だから。
自然なものを不自然にして、部屋の中で見たいなどというのは人の勝手だろう。
「自然なものを不自然にして、か…」
昔読んだ本を思い出す。
宗教家の講話を納めたその本には確かこんな話があったはずだ。
野ばらが野ばららしくあろうなどとすれば、それは狂ってしまう。
野ばらは野ばららしくあろうとせずとも、そのまま、自然にあれば野ばらなのだから。
人間も、同じ事―…。
らしくあろう、などとすれば狂う。
ならば人は人らしくあろうとすれば狂うのか。
らしくしようとすることは作為的だ。
作為は自然を不自然にして、無意識を意識にするのだろう。
息を吸うという動きを意識すれば不自然で、苦しくなってしまう。
上手くいかない。
これは生きる事でも同じなの?
生きることを意識しないで生きる動物は美しく、迷いがない。
生きることを意識して、悩んで、迷って、人間らしくあろうとする人間は歪なのか。歪んでいるのか?
考えれば考えるほど、不自然で上手くいかない?
ぞっとする。
生きることを考えなくても生きれるのに、どうして僕は、いや人は生まれてこの方ずっと考えてしまうんだろう!
『どうして生きているの、何のために生きるの?』
答えなんてありえなくて、待っているのは意識ゆえの狂気だったら、どうしよう!
思考は贈り物か、贖うための鎖?
わからない、狂ってしまいそう!!
手放したい、何もかも。何もかもだ。
―夜を満たす小雨は落ちるというよりもまとわりつくように漂う。
僕は傘を放り投げてしまいたい衝動をどうにか抑えつけ、無理して歩く。
思考を無理して止めて、作為に端を発した意識を意識で抑えつけ考えないように努めた。
一度迷う事に気づいてしまえば、二度と自然な無意識は生じない。それはもう失われてしまった。
こみあげる衝動、どうしようもないなにかを引きずるように僕は進む。
どうか記憶が、この気づいてしまったという記憶が消えて、もう何もかも忘れて自然な何かになれますように!
振り向けば紫陽花は自然に美しく、まるでそれはもう僕には手の届かない何かであるように感じられ、僕は逃げるようにその場を去った。
紫陽花に見出す僕の有為と不自然