浮気なバレンタイン
コウジはこれからのことを考えていた。おれはどうすれば、いいのだろうか。
朝の光が、カーテン越しに差し込む。その日差しのせいで、部屋は暖房を入れてもないのに、ポカポカと暖かい。そうか、この部屋の窓は東向きだったのか。コウジはその時、初めて知った。
ジュリはさっきまで、生まれたままの姿だった。今は、コウジのYシャツを肩にかけて、トイレに入っている。そのあと、バスルームの洗面台で、歯磨きを始めた。
「おい、やめろ。おれのシャツが汚れるだろ」
「いいじゃん、先生。奥さんに洗ってもらえばぁ。あぁ、濡れちゃったぁ」
歯ブラシをくわえながら、ジュリはコウジの方を向いて、いたずらっ子のような目をした。コウジは自覚した。おれは過ちを犯してしまったんだ、と。
昔、「高校教師」というテレビドラマを見たことがある。教師と生徒が男女の関係を持つなんて、ありえないと思っていた。あの時の自分が、今の自分を見たら、どう思うだろうか。きっと軽蔑の眼差しを向けられるんだろうな。ただ、今の自分は「高校教師」ではなく、「中学教師」だが。
誤解はしないでほしい。女子中学生と関係を持ったわけではない。卒業して5年も経つから、もう立派な大人だ。おそらく、来年が成人式だろう。まぁ、「教え子と関係を持った教師」という意味では、何も変わりはしないが。
ジュリは、教室では目立たない子だった。中学2年のときに担任をしただけで、特に印象もなかった。ショートヘアで、眼鏡をかけている。いつも伏し目がちで、同じような内気な子たちと、コソコソとしゃべるような、そんな子だった。
久しぶりの再会は、大学の同級生と行った歌舞伎町のキャバクラだった。座席につくなり、
「先生!コウジ先生でしょ!」
と、肩をポンポン叩かれたのが、衝撃の再会の瞬間だった。
まったく面影がない。眼鏡をはずし、髪は長く、茶色に染めていた。そして、今時のメイク。「先生」と言われなかったら、教え子と気づくわけもなかった。
「先生、わたしのこと、覚えてる?」
「あ、あぁ」
「秘密を暴露しちゃうけど、先生のこと、ひそかに好きだったんだよ」
「告白、コクハクー」
まわりの女の子たちが、はやし立てる。
「あのさぁ」
「何、先生」
「その先生、ていうの、やめてくれないかなぁ」
「えー、なんで。わたしにとっては、コウジ先生は、ずっと先生なんだけど」
「なんか、まわりの目が気になっちゃって・・・」
「あ、そう。そんなもんなんだ。先生って。わかった、じゃーあー、コウジさん。でいい?」
「う、うん」
「その代わりー」
「なんだ」
ジュリは、コウジの耳元でささやく。
「まわりに誰もいなかったら、先生って呼んでもいい?」
「まわりに誰もいなかったら・・・まぁ、いいだろうけど。そんなシチュエーション、あるか?」
「あるかもわかんないじゃーん」
ジュリはコウジのわき腹をつんつんと人差し指でつついた。
そのキャバクラには、月に2度ほど、通うようになった。同僚の教師と距離感を縮めるには、もってこいだった。コウジは必ず、ジュリを指名した。あまり、意識はしていなかったが、ジュリとの距離感も縮めてしまうことになった。教え子だったという感覚も、いつの間にかなくなり、1人の「女」として見るようになっていたのかもしれない。
いつものように1時間、とりとめもなく、バカバカしい話を繰り返し、店を出た。外は冷たい雨が降っていた。天気予報では、「雪になる」と言っていたが、そこまで気温は下がらなかったのだろう。
「おつかれさん。また、行こう」
コウジは、軽く右手をあげた。そして、自分もタクシーに乗って、帰ろうとした。その時だった。
「コウジさん」
振り向くと、そこには、ジュリが立っていた。さっきまでの真っ赤なドレスとはちがい、ダウンジャケットにジーパン姿だった。
「きょうは早番で終わりなの。ごはん、行かない?」
「あぁ、ちょうどおれもラーメンでも食って帰ろうと思ってたところだ。行くか」
「やったぁ」
ジュリはコウジの左腕に巻きつくように、まとわりついた。2人はそのまま、タクシーに乗り込んだ。
代官山にあるこのラーメン屋は、大学時代からのお気に入りだ。透き通ったスープに、少し太めの麺が絡む。ホロリと口の中でとけるチャーシューが人気だ。チャーシュー麺を2つ、注文した。
タイミングがいいのか、悪いのか。妻と息子は、昨日から九州の実家に帰っている。義父の三回忌のためだ。コウジも、週末には合流する予定だ。というわけで、今、家で待つ人は誰もいない。
ジュリが、身の上話を始めた。店ではあまりしない。まわりの人の目もあるからだろう。両親が中学時代に離婚し、父方に引き取られた。しかし、その父も新しい女を作って、家を出て行った。ジュリは高校に通っていたが、中退し、5つ年下の弟の面倒をみた。おかげで、得意料理が増えた。そう自慢げに話したが、コウジはその境遇を聞き、複雑な思いだった。
「先生、今度ごちそうしてあげるね」
「だからさぁ、その先生っていうの、やめろって」
「ごめんごめん。じゃあさぁ、思いっきり『先生』って呼べるとこ、連れて行ってよ」
「はぁ?」
「2人きりになれるところ」
「お前、正気か」
「もちろん。だって、お店でもお酒飲んでないし。ダメ?あっ、終電なくなっちゃった・・・」
チラッと時計に目をやったジュリは、コウジの肩に頭を乗せた。
悪魔のささやきだった。
携帯にメールが入った。
「家に電話したけど、今どこ?」
妻からだった。
「まだ飲んでる」
すぐに返信した。心が少しだけ、痛んだ。
ラーメン屋のあと、近くのホテルに入った。ジュリはコウジの左腕にまとわりついたままだった。ホテルは人に会わないようなしくみになっていた。自動販売機のような機械に、料金を入れると、ルームキーが出てきた。
「よく来るの?」
ジュリが聞いた。
「まさか」
コウジは、ジュリのほうを見ることができなった。部屋を開ける瞬間、もう1度、自分に問いかけた。
「本当にこれでいいのか」
答えは、見つからなかった。
ジュリは洗面台で化粧を終え、部屋に戻ってきた。Yシャツは几帳面にたたまれていた。
「はい、先生。ありがと」
今日は、同じYシャツを着て出勤だ。職場の人間に、バレることはないだろう。あいつらに、そこまでの洞察力があれば、もっといい仕事をするはずだ。そんなことをぼんやりと考えていると、ジュリが言った。
「何考えてるの?」
「ん?いやぁ、同じシャツで出勤だなぁ、と思って」
「なんだ、そんなことか。奥さんに悪いなぁ、と思ってるのかなって」
「どうしようもないよ。こうなっちゃったんだから」
「こうなっちゃったって。なんか悪いことしたみたい。まぁ、悪いことか。あはは」
ジュリの乾いた笑いが、部屋に響いた。
おれは浮気をした。どこかの場面で、食い止めることはできなかったのか。あの店に行かなければ、よかったのか。あの店を繰り返し使わなければ、よかったのか。ジュリと一緒にごはんを食べに行かなければ、よかったのか。ホテルに入らなければ、よかったのか。
どの瞬間が、浮気の瞬間だったんだろう。思い返してみたが、よく分からなかった。
週末は九州だ。今まで通り、妻と目を合わせることができるだろうか。息子と無邪気に遊ぶことができるだろうか。
隠し通すことはできる。でも、自分自身の記憶をかき消すことはできない。
トントン。
ジュリが、後ろからコウジの肩を叩く。
「先、出るね。一緒に歩いてるの、見られたらヤバいでしょ。もう明るいし。じゃね」
ジュリは、コウジのほっぺにキスをして、部屋を出て行った。コウジはしばらく、呆然としていた。ふと我に返って、ベッドに大の字になった。
ふぅー。
大きくため息をつく。世界にたった1人で、取り残された錯覚に陥った。
「あっ、渡すの忘れてた。置いてくね」
ジュリの声がドアの方から聞こえた。のぞいてみると、もう姿はなかった。そこには小さな箱と、少し大きめの包みが置かれていた。2つとも、かわいくラッピングされていた。
小さな箱を開けると、チョコレートだった。あぁ、そうだ。今日はバレンタインデーだ。
もう1つの包みを手に取る。やわらかな感触だった。包み紙を開けると、言葉を失った。
それは、真っ白なYシャツだった。
浮気なバレンタイン