記憶にない海
ベージュの砂浜と瑠璃色の海、そして淡い水色の空が、まるでどこかの国旗のように三色水平に並んでいる。ただそれだけが続く広漠とした世界には、昼夜の区別さえ無く、天国とも楽園とも名付けられる様であった。
真っ白な服に身を包んだ幼子は、そこで黙って膝を抱え、水平線を眺めている。つま先を浜辺に寄せる波が濡らしても、幼子は視線を逸らさない。じっと海の向こうに目を凝らすのだ。
そうしていると、微かに誰かの声が聞こえてくるようになった。
「お前なんて、産まなければ良かった」
煙草と酒と化粧のニオイがしそうな女の言葉に、海水は冷たくなって空は曇る。足が凍りつきそうな程の寒さに震えながら、幼子は耐え忍んでいた。
海は日に日に凪いでいく。
曇天の下、暗く深い蒼色の海。幼子は両手を擦り合わせては息を吐き、泣きそうな顔で水平線を見つめ続ける。真冬並みの空気を裂いて、声は四方八方から鋭く降り注いできた。
「学校来るなよ。近寄るな」
「君、未成年だろう?こんな夜遅くに出歩いてないで、帰りなさい」
「雇って下さいって、アンタ仕事できるの?」
氷の浮かんだ海は、時折思い出したように荒れる。白波はぶつかり合って渦を巻き、幼子は強い風に幾度も押し倒された。雨は叫び声をあげ、砂浜を引っ掻いていく。
幼子には祈ることしかできなかった。どうか、どうか生き抜いて。その時を迎えられるなら、何年だって待っているから。
今日も空は黒い。というよりは、色が無いようだ。セピア色に褪せた写真の如く、固まったままの景色を前にして、それでも幼子は水平線を眺めていた。
海の向こうはどうなっているのだろう。声に耳を傾けている限りでは、とても辛く残酷で、息苦しい世界らしい。しかし、幼子は光が差し込むことを信じていた。
変わらないその気持ちに応えるように、ある日、にわかに風が吹き始める。
幼子は異変に気づいて、足元を凝視した。水面が揺れ、起こった波が徐々に大きくなる。その動きに合わせて、長い間空を塞いでいた暗雲が退いていく。再び風が吹くと、いよいよ海はかつての躍動感を取り戻す。
温かな春一番の訪れと共に、待ち望んでいた言葉は届いた。
「あなたが好きだ。愛してる」
途端、花のつぼみが綻ぶように、辺りは色づく。
幼子は、その時が来た予感に喜び勇んで立ち上がった。昼も夜も無いはずの世界、その水平線に見えるはずのない朝日が顔を出す。滲んだ橙色を背景にして、一艘の白い小舟が幼子を迎えに漂ってきた。
港町の病院の一室に、男が慌てて駆け込んでいく。
ぐったりと横になっていた女は、その取り乱した様子に少し口元を緩めた。間もなく、助産婦が綺麗に洗われた赤ん坊を女の腕に抱かせる。
そっと赤ん坊に頬をすり寄せた女は、目を閉じて涙を零した。これまでの生き地獄だった人生が瞼の裏を巡る。男もつられて瞳を潤ませていると、助産婦が微笑み、赤ん坊に話しかけた。
「やっとお母さんに会えたね」
記憶にない海