向日葵
夏物青春SSです。
「おい、こっち来てみろよ」
初めて会った時は、なんて汚い子なんだろうと思った。
破れた麦わら帽子をかぶって、髪はボサボサで、顔には泥がついていたし、なにより窓から部屋に入ってくるなんて、私には考えられない野蛮なことだった。いきなり腕をつかまれた時は、よく悲鳴をあげなかったなと今になっては思う。
屋敷の外に興味がなかったといえば嘘になる。けれど、怖い所だとお爺様に教えられていたし、何よりこんな男の子についていくことは、私に恐怖しか与えなかった。
引っ張られるままに屋敷の外に連れて行かれる私の心境は、誘拐される子供そのままだっただろう。
どこにつれていかれるのか。何をされるのか。
怖い。けれど、声は出せない。歳が近い異性と接するのはこれが初めてだったし、お父様やお爺様のように優しい人には見えなかったから、何かすれば叩かれてしまうと脅えていた。
屋敷からどんどん離れていく。
私は必死に、今きた道順を覚えようとしていた。もし、一本でも道を忘れてしまえば、もう二度と屋敷に戻れない。そんな不安が押し寄せてくる。
しかし、一生懸命に道を覚えても、全ては無駄になってしまった。
「あ、あの! こ、こんなところを通るんですか……」
かろうじて、道とは呼べるのだろうけど。田んぼと、用水路の間の細い道。
「ん? そうだけど?」
さも当然とばかりに答えて、むしろ私がそんなことに疑問を抱くことを不思議がって、彼はそのまま歩いていく。
整備された公道だけでも覚えるのが大変だというのに。どの道も似たような形をしていて、そのくせ行き先は全然違う。まっすぐ進むのかと思えば用水路にかかった石の橋を渡って、草むらを突き抜けて。なにより道が微妙に曲がっていて、方向感覚が狂わされていく。
ああ、これはもうだめだ。混乱する頭はどんどん道を忘れていく。
次第に道は、道とは呼べないものになってきた。辺りを鬱蒼と茂った草木に覆われ、もはや地面が見えない。薄暗いその空気が、足首をなぞるその感触が、時折飛び出す小さな生き物が、私を驚かせる。
怖い。確かに怖い。けれど、どこかで楽しんでいる自分がいるような気がしていた。
絵本で読んだ、綺麗なものとは違うけれど。怖いものや、不快なものや、辛いものがたくさんあるけれど。
それはまるで、冒険のようだった。
「ほら、ここだよ」
彼の足が止まった。
その先の光景を見て、私は言葉を失った。いや、もともと声は出していなかったけれど。彼の後ろに黙ってついていただけだったけれど。それでも、息を呑む音が、とても大きく聞こえた。
それほどまでに、私は心を奪われていた。
光を遮っていた木々が無くなり、切り開けた視界の先には、大きな湖が広がっていた。
本の中で見たことはあったけど。実際に見たのは、初めてだった。青というか、緑というか、曖昧な水の色が今にも私を溶け込ませて身体中に広がっていくようで。
「やっと笑ったな」
私の前を歩いていたはずなのに、彼はいつの間にか隣に立っていて、とても楽しそうに笑っていた。その笑顔が、とても眩しく見えた。
その光に照らされて、私は自分が笑っていることに気がついた。
それが、彼との出会いだった。
「え、え! こ、これを持つんですか!?」
「そこの、縦に角が二本あるだろ。その上の短い方持ってみろ」
「あっ、あっ、あっ! う、動いてます。動いてます!」
「そりゃ動いてなかった方が、嫌だろう」
絵本で見たことも、絵本で見たことないことも。
「痛っ! う、うう……」
「あっはっはっは! 何やってんだよ。ほら、向きが違うと、手にぶつかってくるんだよ。こっちの向きに回すと、上に向かって飛んでいくんだ。ほら、よっ!」
「わぁ……。すごいすごい!」
楽しいことも、嬉しいことも、辛いことも、怖いことも、悲しいことも、悔しいことも。何もかもが初めてで。
「かかってる。それ、かかってるぞ! 糸引いてみろ」
「ど、どうしたら……わ、わっ! ひ、引っ張られます」
「ほら、竿立てて、右手んとこのリー……ハンドルゆっくり回して」
「さ、竿って……。えっ、あ! こ、これを立て……立てて……わっ、ああっ! た、倒れっ、倒れます! わわわわわっ!」
「…………ぶっ。あっはっはっはっは! 落ちるくらいなら、竿放せばいいのに」
泣いてしまうこともあったけど。まるで、泣いてる暇なんてないというように笑っている彼をみると、自然と私も笑っていて。
「お前も食ってみろよ。結構うまいぞ」
「私、お爺様に、生のものは食べちゃいけないって言われてるから……」
「そっか。もったいねぇなぁ。こんなに美味いのに。俺が全部食っちまおう」
「……………………」
「欲しいんだろ。一個くらいなら大丈夫じゃねーか?」
「…………う、うん」
「そこの、緑色の綺麗な奴とか、美味そうじゃんか」
「これ?」
「そうそう」
「…………――!? んんっ!」
「あははははは! 緑の奴は、まだ食べられないんでしたー。ほんとは赤いのを食うんだよ」
服が破けて、顔に泥をつけて、髪を汗で濡らして。
「こら! また畑のもんを勝手に食いおって! 悠太!!」
「やっべぇ! 逃げろ!!」
「え? えっ、ええっ!?」
色んな人に、怒られて。
「最近、よからぬ輩と一緒にいると聞きましたが。分かっていますか、貴方のお父様は――」
「よう! 今日は森のほうへ行ってみ――」
「お前か! お嬢様をたぶらかす輩は!!」
「うわっ! おい、今日は無理かもなー。またあそこで待ってるから、大丈夫ならこいよー!」
「待ちなさい!!」
私はどんどん、彼とそっくりになっていった。
彼の笑顔が、私を照らしてくれる。
彼の暖かさが、私を励ましてくれる。
彼の涙が、私を潤してくれる。
彼を見ていると、私は元気になれる。
必死に手を伸ばす。届かないなんて分かっている。彼は眩しすぎて。もし、この手が彼に届けば、きっと私は彼の温もりで燃えてしまうだろう。それでもなお、必死に手を伸ばす。
届かないならばせめて、誰よりも彼の傍にいたくて。
けれど、別れはきてしまう。夏は、終わりを迎えてしまう。
お父様の所へ帰らなければならない。
帰りの電車。改札口に、彼の姿は無い。
辺りを見渡しても、彼はどこにもいない。
出発の時間が刻一刻と迫り、駄々をこねる私の手を、使用人の方が優しくけれどしっかりと掴む。
最後に彼に会いたかった。私の中で、夏が終わる踏ん切りがつかない。
電車の扉が閉まる。個室の窓から覗いても、やはり彼はいない。
私の夏は、中途半端に、終わってしまう。
そんな時、声がした。
慌てて、窓の外を見渡す。けどやはり、どこにもいない。
また声がした。空から、声が聞こえた気がした。
見上げてみる。そこに、彼はいた。屋根の上。誰の家かは分からない。彼のことだ、また勝手に上ったのだろう。
ああ、やはりそうだ。彼はいつも、私を見ていてくれた。
窓の向こうから、木の上から、そして、空の上から。いつも、私を見つけて、照らしてくれていた。
ぽろぽろ、涙が地面に落ちる。
彼を見ていられず、私は下を向いた。今の私に、彼は眩しすぎて。
ぽろぽろ、涙が地面に落ちる。
動き出した列車。彼がどんどん遠くなる。山の向こうへと消えてしまう。
ぽろぽろ、涙が地面に落ちる。
夏が終わる。泣いてばかりいる私は、もう彼に似ていない。笑顔が上手く作れず、下ばかり向いている。
それでも。
ぽろぽろ、涙が地面に落ちる。
この涙がきっと、来年もまた貴方に会える。
よく笑う、貴方に似た花となって。
向日葵
お読みくださりありがとうございました