雨がやんだら(5)

深町俊作

   十六

 翌朝、私は事務所には寄らずに、あの因業ババア、いや雑居ビルの大家が持ち主である駐車場へ向かった。
 そう広くはない駐車場で、肩身を狭くしていたフォード・ファルコンを解放してやり、〈神田橋インター〉から首都高環状線に入って、ファルコンを東へと走らせた。
 花田博之が〈聖林学院〉の男子寮から姿を消した直接の理由は、〝オヤジ〟こと下山文明に呼び出されたからだった。下山は、大江という人物からのメールを通じて、博之の母親が彼に会いたがっていることを伝えた。〝ある事情〟により元の妻である花田洋子と没交渉になっていた下山は、博之に十万円という現金を渡して別れていた。博之には母親を捜す〝当て〟――博之の言う〝当て〟がどこであるのかまでは、下山は思い出せなかった――があるらしい。
 私は千葉にあるという博之と洋子の故郷を目指していた。母親のことで呼び出された博之が、〈聖林学院〉の男子寮を抜け出す際に、母親と一緒に撮影された写真――博之が〝一番大事で、大好きな写真だ〟と同室の池畑という少年に告げた写真――を持ち出していることが、心に引っかかっていた。闇雲に博之の後を追うよりも、母である洋子との関係を探ることで、手がかりが得られそうな気がして、博之の保護者だという花田夫妻に会うつもりだった。
 博之の保護者だという花田夫妻に、彼の失踪を知られてしまうのは、御法度だった。〈聖林学院〉に多額の寄付金を落とす〝上客〟だからだ。花田夫妻との接触は、上手にやらねばならない。今回の依頼人は、私にとっても〝上客〟なのだ。昨晩、考えに考え抜いた互いの〝上客〟を逃さずにいるためのシナリオを、フロントガラスの向こうに見える曇天を眺めながら、頭の中でおさらいした。
 曜日時間に関係なく渋滞する〈箱崎ジャンクション〉で京葉道路に出ることを諦め、フォード・ファルコンを湾岸線に続く車線へと乗り入れた。湾岸線へと南下する道路は空いていて、これまでゴロゴロと唸っていたV8エンジンが機嫌を直したかのように轟いた。〈辰巳ジャンクション〉で湾岸線に入り、再び東に向かって走る。千葉県に入る頃には、ついに耐えきれなくなった雲から雨粒が降り落ちてきた。
 さしたる渋滞もなく東関東自動車道から館山自動車道へと進み、〈市原インター〉で高速道路を降りると、あとは大多喜街道をひた走るだけだった。
 千葉県というのは、不思議なところだった。県境にある世界で一番有名なネズミが住んでいるという夢の国から幕張の新都心までは、たとえ〝東京〟という地名を冠されていたとしても、違和感を覚えることはなく、むしろなにも知らない外国人なら〝東京〟であると思い込んでしまうだろう。ところが、幕張の新都心を抜けてしまえば、途端に鄙びた雰囲気となり、建物の高さと反比例して空が広がり始めた。
 さらに大多喜街道を三十分も進むと、道は山あいを進むことになる。三十分ほど大多喜街道を走り、峠をひとつ越えた先に見えてきたドライブインで休憩をすることにした。
 ドライブインのフードコートはセルフサービスになっていて、カウンターの向こうでは従業員たちが暇を持て余しておしゃべりに興じていた。私は所々に染みのついた調理服を着た男を呼びつけた。おしゃべりを中断されて、不満を隠さない男にコーラを注文する。コーヒーは期待できそうもなかった。
 男がアイスボックスから瓶のコーラを取り出して、低い声で「コップは?」と訊いてきたので、「いらない」と答えて、カウンターに代金を置いた。
 栓を抜いてもらった瓶のコーラを手にして、店の片隅に設けられた五席ほどの喫煙席に腰を降ろした。久しくお目にかかることのなかった瓶のコーラを飲みながら煙草を喫い、窓の向こうの景色を眺めた。標高はさして高くはないものの、山が深いのと生憎の天気のせいで、あたりは薄暗かった。しかも、行く先は低く立ちこめた雲と雨に霞んでしまっていて、この道が花田母子の生まれ育った海沿いの町に、繋がっているとは思えなかった。
 私の不安を解消したのは、煙草を喫い終える頃、雲の向こうから姿を見せたサーフボードを載せた真っ赤なフィアットだった。ドライブインの駐車場にフォード・ファルコンと向き合う恰好で、停められたフィアット・パンダからは、二十台半ばの若い頭を丸刈りにした男と、茶色い髪を肩の辺りで切り揃えた女が降りてきた。男がサンダル履きで、女が白いスニーカーであることを除けば、どちらも同じ長袖のTシャツにハーフパンツを着ていた。
 女は雨を避けるように一目散に店内に駆け込んできたのだが、男は車を降りるなり、私の乗ってきたファルコンの前で足を止めていた。店内に飛び込んできた女は、雨の中でファルコンを眺めている男に気づくと、あからさまに不機嫌な表情を作り、外に向かって「なにやってるの」と声をかけた。
 女の呼びかけに反応した男が慌てて、店内に入ってくる。女は男の腰の辺りを小突きながら、なにやら罵り始めた。男も即座に応戦し、ふたりは言い争いながら、フードコートの前まで歩いていった。
 どうやら、あのファルコンがきっかけで、仲睦まじかったふたりの仲を険悪にしてしまったらしい。まったくもって〝忌々しい〟車だ。
 やがて、オレンジジュースとアイスコーヒーを手にした女が、私の隣の席に腰を降ろした。遅れてふたり分のラーメンをトレイに載せた男が席に着き、自分と女の前にラーメンを置いた。
「ほんとにグズなんだから」女が毒づいた。よく見れば、女の右の瞼と唇の右端には、細いピアスが刺さっていた。
「うるせェなァ」と男が返す。彼の袖口からは、トライバルという紋様のタトゥーが覗き、右手の中指には充分に凶器となり得る〝ごつい〟指輪がはめられていた。
 遅い朝食なのか、早い昼食なのかはわからないが、ふたりは両手を合わせ「いただきます」と、互いに口にし合って箸を取った。
 レンゲで〝小ラーメン〟を作って食べるような野暮な真似をせずに、行儀良くラーメンをすする女の前で、男はなかなか箸を動かさなかった。食欲が無いからではなく、隣のテーブルで瓶のコーラをラッパ飲みするいい歳をした大人が、気になってしょうがないらしい。
 箸を置いて、景気づけにオレンジジュースを一口飲むと、男が訊いてきた。「あの車、あなたのですか?」
「ユージ、あんた馬鹿なんじゃないの?」私よりも先に女が答えた。「他にお客さん、いないじゃん」
「ミヤコ、馬鹿はないだろ? 馬鹿は」男――ユージが、すかさず言い返す。
 しかし、女――ミヤコの言うとおりで、このドライブインには、彼らの他に客は私しかいない。
 ユージが身体の正面をこちらに向けた。背筋を伸ばし、居住まいを正す。「あの車……ひょっとしたらなんですけど、フォード・ファルコン、それもXBですよね?」
 私は「そうだ」と答えた。それを聞いて目をキラキラと輝かせるユージに、嫌な予感がした。
「やっぱりそうだ……っていうことはですよ――」
 嫌な予感は的中し、ユージはフォード・ファルコンについて熱く語り始めた。山中湖畔にあるログハウスで知ったかぶりをして、恥をかいたのは昨日のことだった。悪夢とまではいかないが、いい思い出ではないのは、確かだった。
 ところが、ユージのフォード・ファルコンに冠する知識は、昨日会った著名なプロデューサーよりも豊富で、熱っぽく語り始めた彼は、私に口を挟む余裕を与えてくれなかった。私はユージとミヤコに許可を得て火をつけた煙草をくゆらせながら、適当に相槌を打っているだけでよかったことは、うれしい誤算になった。
 熱く語っていたユージが、突然顔を歪めた。テーブルの下で、ミヤコがユージの脛の辺りを蹴りつけたのだ。
「ごめんなさい。彼、車が好きなんで……興奮しちゃって」ラーメンをすする手を止めて、ミヤコが言った。
「いや、気にすることはないよ。実は、あの車については、あまり詳しくなくてね。役に立つことを聞かせてもらったよ」
「ほんとですか?」ミヤコがユージを斜に見つめた。
「本当さ。ありがとう」
 私の言葉に、ユージが〝ほら見ろ〟と言わんばかりにミヤコをひと睨みした。「……それで、ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」
「なんだい?」
「あの車の写真、撮らせてもらっていいですか?」
 ハーフパンツのポケットから、スマートホンを取り出したユージに、私は「どうぞ」と答えた。
 ユージはおもむろに立ち上がり、嬉々としてドライブインの外へ飛び出していった。その後ろ姿を見たミヤコが大きなため息をついて、両手で顔を覆う。
「ほんとに……ごめんなさい……」
「構やしないさ。楽しそうな人じゃないか」
「そうですかァ? 車のことしか頭にないんですよ……そう、車オタクなんです、あいつ」
「確かに、そうかもしれないね」
「珍しい車を見ると、ああなっちゃって……ほんと、恥ずかしいです」ミヤコが小さくなって、アイスコーヒーのストローに口をつけた。
 私は話題を変えた。「ところで、ひとつ訊いてもいいかな?」
 ミヤコが顔を上げて、こちらを見た。
「〈はなかつパーク〉というところに、行きたいんだ。知ってるかな?」
「〈はなかつパーク〉ですか? ええ、知ってます。魚とか、すっごい安いんですよ。一階が魚屋さんで、二階が海鮮丼とか、お刺身とかが食べれるレストランになってるんです」
「きみたちが来た道を、このまま行けばいいのかな?」
「ええ。そうです。このまま――」
「ありがとうございました!」ミヤコの道案内を、店内に戻ってきた〝車オタク〟が遮った。興奮醒めやらぬまま、ミヤコの前に腰を降ろす。「おかげで、いい写真が撮れました」
「そう……そいつァ、よかった」
「それで、あのフォード・ファルコンなんですけど――」車の話を始めたユージが、また顔を歪めた。現場を押さえることはできなかったが、正面に座ったミヤコが、なにをしたかは言うまでもない。
 ミヤコが私に向かって手を合わせた。
 ――さて、私は仏様でもなければ、ましてやラーメンでもないのだが
「〈はなかつパーク〉についてだよ」私はユージに言った。
「〈はなかつパーク〉ですか……あそこ、マジやばいですよ」蹴られた脛をさすりながら、ユージが答えた。
 最近では年齢性別にかかわらず、なにかにつけて〝やばい〟の一言で済まされてしまう。
「なにがどう、〝やばい〟んだろう?」私は訊いた。
「いつも、すげェ混んでるんです。それで、仲間のひとりがあそこで働いてて……そいつが、言ってたんですけど、なんか新しい店を出すらしいんですよ」
 今回の〝やばい〟は、〈はなかつパーク〉は驚くほど盛況で、二号店の出店を計画中という意味合いで、使われているようだった。
「仲間のひとりってことは……きみたちは、この辺の人?」
「いいえ。埼玉の熊谷ってとこです。いつもは、〈はなかつパーク〉に寄ってくんですけど、今日は時間がなくて……」
「そうなんだ、それは悪いことをしたね」私は身振りで、食事を再開するよう促した。「それで、〈はなかつパーク〉への行き方なんだけど」
「このまま道になりに行って……海に突き当たったら、右に曲がってください」麺を持ち上げて答えたユージが、勢いよくすすり、口いっぱいにラーメンを頬張る。充分に咀嚼して飲み込んでから続けた。「あとは、看板が出てるんで、それを追っかけて行けば、大丈夫です」
「今日は、この天気のせいなのかな……結構、空いてましたよ」ミヤコがつけ加えた。
「海に突き当たったら、右……ね。あと、貴重な情報をありがとう」
「――ところで、なにしに行くんですか?」ユージが訊いてきた。大きめのチャーシューを一口で放り込むと、彼は眉間にしわを寄せて正面を睨んだ。
 ミヤコがまたユージの脛を蹴りつけたのだ。今回は、相手の口の中にチャーシューがあるということで、ユージが顔をしかめるほど、強くは蹴りつけなかった。行儀が悪いとかではなく、彼女にしてみれば〝失礼なことを訊くな〟と言いたかったのだろう。しかし、ユージが興味を持つのもわからないではなかった。私の恰好は、どう見てもマリン・スポーツを楽しみに行くようなものでもなければ、週末の余暇を海辺で過ごすようなものではない。
「仕事だよ」正直に答えた。仕事の内容を口外しなければいいのだ。
「お仕事なんですか……土曜なのに、大変ですね」ミヤコがいたわりの言葉をくれた。
「ありがとう」とお礼を言って、私は瓶に残っていたコーラを飲み干した。「食事の邪魔をして、悪かったね」
「いいえ。お騒がせしてしまって、すいません」一度、割り箸を置いてミヤコが頭を下げた。
 レンゲですくったスープでチャーシューを飲み込んだユージが立ち上がる。「写真を撮らせてもらったり、ほんとありがとうございました」
 私を――正確には、ファルコンなのだろうが――見送ろうとするユージに「そのままでいい」と告げて、ふたりとは別れた。
 コーラの空き瓶を、出入り口に置かれたゴミ箱に捨てた。振り返ってみると、ユージはミヤコのラーメンを自分の丼へ移し替えていた。彼女の口に合わなかったのか、腹がくちてしまったのか――理由はどうであれ、ふたりの様子を見る限りでは、あの〝忌々しい〟車が仲睦まじいふたりを引き裂くことはなかったようだ。
 私は胸を撫で下ろして、ファルコンに乗り込んだ。

   十七

 ドライブインを出発してから、峠をふたつ越えた。それでも、海を思い起こさせる景色にはならず、フォード・ファルコンは山あいの道を進み続けた。時折、通り過ぎていく青々とした水田が、雨に煙るこの鬱陶しい季節も、実は我が国の食糧自給率向上に貢献していることを教えてくれる。
 さらに二十分ほど進み、迫ってきた三つ目の峠を登っていく。三つ目の峠の途中には立派な野球場があって、降りしきる雨の中、泥にまみれた大学生と思しき選手たちが、練習に励んでいた。
 峠の頂上に近づくにつれ、空は広がっていった。たどり着いた頂上では眼下に乳白色に霞んだ町並みが見えた。花田洋子が産まれ育った漁師町だ。その町並みの奥には、明らかに空とは違う濃い蒼がにじんでいた。ドライブインで聞いた海に突き当たるのも、もうすぐだった。車のウインドウを薄く開くと、車内に吹き込んでくる外気には、かすかに汐の匂いが混じっているように思えた。まあ、あくまで気のせいなのだが。
 頂上からは、これまでの峠とは違ってゆるやかな弧を描くカーブを下る。三つ目の峠を下ると、先刻まで乳白色に霞んでいた町並みへと入った。車内にも汐の匂いが漂い始める。
 今朝の漁を終えてしまったからだろうか、漁師町は人影が少なく閑散としていた。その中で場違いな建物があった。コンビニエンスストアだ。観光地では景観を壊さない配慮を見せる店舗も、ただ古い町並みというだけでは、自己主張を優先させるらしい。
 私はフォード・ファルコンをコンビニエンスストアの駐車場に乗り入れた。煙草が切れかけている。今のうちに補充をしておきたかった。
 やけに明るく感じる店内に客の姿はなく、お仕着せの制服を着た男が、レジカウンターで所在なさげに立っていた。店内に入ると、来客を知らせる電子音が響いて、男が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。随分と来客がなかったのか、声がかすれていた。
 私は店内を物色せずに、レジカウンターで煙草を注文した。
「ごめんなさい。ウチ、煙草やってないんですよ」坊主頭に手をやって、男が頭を下げた。制服の胸元には〝店長 八木〟とあった。
 確かに店長の背後には、この手の店で見かける煙草の棚がない。私は思ったままを口にした。「珍しいね」
「ええ。近所で煙草扱ってる店があるもんだから、許可が下りなくて」八木の口調は、店が暇なのもすべてはそのせいだとでも言いたげだった。
 レジ脇に置かれたビニール傘が目に入った。傘はファルコンの中に一本あるのだが、購入することにする。なにも買わずに退店するのは、なにやらいたたまれなかった。暇を持て余す経営者の気持ちは、多少なりともわかっているつもりだった。
「煙草は、どこで買えるのかな?」私は傘を差し出した。
「煙草なら、左に出ると二軒先に〈有賀屋〉っていう雑貨屋があるから、そこで買ってください」うつむき加減に精算する八木が教えてくれた。
 私は八木にお礼を言って、コンビニエンスストアを出た。八木の「ありがとうございました」という力のない挨拶が、背中越しに聞こえた。
 買ったばかりのビニール傘を差して店を出ると、八木が言ったとおり、二軒先にある家の軒先にホーロー看板が二枚ぶら下げられていた。一枚は〝たばこ〟と記されていた。もう一枚には、〝塩〟と書かれていて、所々に浮いた看板の錆以上に、〈有賀屋〉がこの町で古くから営業していることを物語っていた。
 木枠のガラスの引き戸を開けて店内に入ると、先刻のコンビニエンスストアのように電子音は響かなかった。店の奥にTシャツ姿の中肉中背の男と、デニムのスカートを履いた女がいた。男は私より少し年上で、女は少しだけ若かった。夫婦のようだ。
「いらっしゃい」女が声をかけてくる。コンビニエンスストアの店長よりも、声に張りがあった。
「あの……コンビニで、煙草はここで売ってるって、聞いたんですが……」
「ええ、そうですけど」今度は、男が愛想良く答える。コンビニエンスストアの店長とは対照的に、陽に焼けた顔が、勝ち誇っているかのように見えた。
 私はスナック菓子、缶詰、レトルト食品に始まり、文房具やら日用品が置かれた棚――文字通り〝雑貨屋〟だ――の間を抜けて店の奥へと進み、レジカウンター、いや勘定場の前で、全国どこでも買うことのできる銘柄を二箱注文した。
「セブンスター、ふたつね」女が背後の棚から、四半世紀以上変わらないデザインをしたパッケージをふたつ取り出して、レジスターの隣に置いた。
 煙草二箱分の代金を支払う。「この店、長いんですか?」
「はい。主人のお父さんが始めた店ですから」
「おふたりは、地元の方?」
「そうですけど……それが、なにか?」お釣りを手渡す女が、訊いてきた。
「実は……私、桜樹よう子さんについて、調査してましてね」お釣りと引き替える恰好で、名刺を女に渡した。「桜樹よう子さんて、この町が地元ですよね? ちょっとお話を聞かせてもらいたいんです」
 女ははっきりとした回答をせずに、名刺を亭主に差し出した。
 私の名刺を覗き込んだ亭主が言った。「確かに、桜樹よう子は、ここの出身だけど……なにがあったんです?」亭主の目にも疑いの色が濃く浮かんでいる。
「実は……あるテレビ局に依頼されてるんですよ。あの……ほら、よくありますよね? 〝懐かしの芸能人、あの人は今〟みたいな番組。それに協力してくれって、言われてましてね」昨晩から考えていたシナリオだけあって、流暢に嘘をつくことができた。「それでね、こちらが、よう子さんの古里だと聞いたものですから」
「ああ、そういうこと?」亭主が声を上げた。彼は無邪気に私の嘘を信じてくれたようだ。「なんだ、それならそうと、早く言ってよ」
「すいません、説明が悪くて」
「いや、いいよ、いいよ。だけど、流行ってるんだねェ。その手の番組。この間もさ、テレビ局の人、ウチに来て、よう子について聞いてったよ。同じ局の人?」
 私の他にも、桜樹よう子――花田洋子を捜している人間がいるということなのか。私は訊いた。「この前、いつ頃のことです?」
「ええとね、四月頃だったかな……そうだよな」
 亭主に賛同を求められた女房が頷いた。「そうね、桜が散ってすぐ……くらいかしら?」
 〝四月の頃〟〝桜が散ってすぐ〟であるのならば、花田博之が失踪する前のことだ。〝嘘から出た誠〟――実際にそんな企画が動いていたのだろうか。まあ、昔からありがちな企画ではあるのだが。
「でしたら、私が頼まれたのと、同じ局の番組ですね」適当に話を合わせる。
「そうなんだ。なかなか放送しないからさ、ボツになっちゃたのかと思ってたよ」と亭主。
「さァ……その辺の詳しいことはわかりません。私も頼まれただけ……ですからねェ」
「そうだよねェ。あの人は、あんたみたいな仕事の人じゃないから。テレビ局の人だけじゃァ、調査が甘かったのかもね」
「そうでしょうねェ。なかなか、この仕事も経験がいるものですから」褒められていると思うことにして、私は本題を切り出した。「その……桜樹よう子さんですね、今どこにいらっしゃるか、ご存じですか?」
「これは前に来た人にも言ったことだけどさ、ここ二年くらいかな? 姿を見てないね」腕を組んだ亭主が答えた。
「では、彼女が今どこにいるのかは、ご存じではない?」
「そうだねェ。少なくとも、俺は知らないねェ。でもさ……」組んでいた腕をほどいて、左手で私から向かって右を指差した。「ここ、先に進んでくとさ。〈はなかつパーク〉っていうのがあるから。そこ、よう子の実家がやってるところだから。そっちで訊いてもらった方がいいんじゃないかな?」
「〈はなかつパーク〉……ですか。ありがとうございます」知ったかぶりよりも、知らない素振りの方が難しい。私は質問を変えた。「ところで、よう子さんには、息子さんがいらっしゃるそうなんですが……」
「あァ、博之君のことだろ? 知ってるよ」亭主のトーンがひとつ上がった。「博之君がどうしたの?」
「いえね、息子さんから見たお母さんの話を聞こうと思いまして」
「そう……だけど、博之君さ、今は東京の学校に通ってて、こっちにはいないんだよね」亭主は花田家のスポークスマンにでも就任したかのように、大袈裟に顔をしかめて言った。
 そろそろ潮時だ。買った煙草を上着のポケットにしまった。「すいません、いろいろと話を聞かせて――」
「待って」亭主が私の言葉にかぶせてきた。「あの……ウチの娘がね、博之君と小学校まで同級生だったんだよ。ちょっと、話を聞いてやってくれないかな?」
 私は「構いません」と答えると、亭主は顔を輝かせた。
「今、呼んでくるから、待っててね」
 声と身体を弾ませて店の奥に引っ込む亭主の背中を、女房は眉根をひそめて見つめていた。やがて、亭主が姿を消した店の奥から、娘の名を呼ぶ声が漏れ聞こえてくると、女房は「あの……馬鹿」と呟いた。
 どうやら、私は亭主になにがしかの期待を持たせてしまったらしい。私は女房に言った。「すいません、お騒がせしてしまって」
 今の呟きを聞かれていないと思っていたのだろう、〈有賀屋〉の女房が慌ててこちらに目を向ける。
 彼女は、私と亭主が会話をしている間、ずっと浮かない顔をしていた。それが気になっていたので、質問をしてみた。「桜樹よう子……本名は、花田洋子さんというそうですが、どういった方なんです?」
「きれいな人ですよ」と女房は答えて、すぐにつけ加えた。「でも、それだけの人ね」
「きれいなだけの人……なかなか、厳しいですね」
「でも、わたしにとっては、そうなんです。離婚してこっちに戻ってきたときは、きれいなお母さんだなって思ったし、やっぱり芸能人って違うんだなって思いましたよ。だけど……その後がね」吐き捨てるように言って、女房は顔をしかめた。
「その後? なにがあったんです?」私は訊いた。
「そりゃ、花田さんとこの娘なんだから、それなりにお金はあるんだろうけどさ。お義姉さんに子供の世話させて、毎晩、毎晩遊び歩いて……終いには、そのうちに、この辺で遊ぶのに飽きたのか、みんなで連れだって東京に遊びに出てっちゃたりしてね」女房が一気にまくしたてた。
「そんな派手に、遊んでたんですか、彼女は……」
「そうですよ。うちの馬鹿亭主も、ヒョコヒョコくっついってたりして……それこそ、離婚も考えたんですよ、わたし」
「御主人が、浮気をした……ということですか?」
「まさか。仕事そっちのけで、遊び呆けてるからよ」女房は鼻で笑った。「だいたい、あの馬鹿亭主が、相手にされるもんですか」
 女房の言葉は、嫉妬からくるものではなく、平穏な家庭を破壊しかねない存在への憎しみが言わせているものだった。
 唇を〝への字〟に曲げる女房に訊いた。「東京のどの辺で、遊んでたんですかね?」
「さァ……ただ、下北沢のお店に行ったとか、言ってましたね。どこか知らないですけど」
「なるほどねェ……ですが、ここ二年ほどは、洋子さんを見かけてないんですよね?」
「ええ、見かけないですね。なんか、東京に遊びに行ったきり、帰ってないみたいですから」
 彼女の口調は、人がひとり行方知れずになったというよりも、野良猫がいなくなった程度の響きだった。ただ、桜樹よう子こと花田洋子の名前を聞いてしまったせいで、胸に溜まってしまった澱のような感情を吐き出すことはできたらしく、彼女の表情に射していた陰が消えていた。
 店の奥から亭主が戻ってきた。今度は声と身体に加えて、息も弾ませている。「ごめんなさい、待たせちゃって」
 亭主の後ろから少女が姿を見せた。母親よりも数センチ背が高いことを除けば、女房にそっくりだった。肩の辺りで切り揃えたヘアースタイルまで一緒だ。同じ美容院にでも通っているのだろう。
「娘のさつきです」亭主が、娘を紹介した。「ほら、こちらの人にご挨拶して」
「どーも、さつきです」娘――さつきが頭をちょこんと下げた。右手に握りしめたスマートホンで友人とおしゃべりか、メールのやり取りをしているところを無理やり連れ出されたからに違いない。さつきは、少しふて腐れていた。
「お前、花田博之君と同級生だったよな?」さつきが頷くのを待って、亭主が続けた。「こちらの人がね、博之君について、お話ししたいんだって」
「花田のこと?」不機嫌な視線は、私にではなく父親に向けられた。
 娘の視線を受けた亭主が私に言った。「そう……ですよね?」
 私は「そうだ」と答えて、さつきに訊いた。「さつきちゃんで、いいかな?」私もさつきが頷くのを待つ。
 さつきは先刻、母親がしたように眉根にしわをよせて、頷いた。
「さつきちゃん、花田博之君って子は、どんな子なんだろう?」
「どんな子って言われても……」私と目を合わさずに、さつきが答えた。
「さつき、思ったままを言えばいいんだよ」と亭主。
「そう、きみが知っている範囲で構わない。なんでもいい。話してくれないかな?」
 ちょっとだけ身を引いて、さつきが私、亭主の順で目を移した。亭主がしきりと首を縦に振る。それを見て、唇を曲げた彼女の表情は、本当に女房と瓜ふたつだ。
 亭主の首が振動するのを止めるには、自分が発言するしかない。さつきは、大きく息をついてから、話し始めた。「うーん、花田ってさ、真面目でおとなしいヤツだったよ」
「真面目でおとなしい……それだけかな?」
「そうだよ。だって、花田んちの子だもん。家が厳しいからって言ってさ、わたしたちと遊んでたって、門限守ってすぐ帰っちゃうし……つまんないヤツだったね」
「花田んちの子?」
「ああ、花田さんとこ、昔はこの辺の網元だったんです。今は〈はなかつパーク〉やったりして……この辺りじゃ、一番のお金持ちです」女房が説明してくれた。
「だからじゃないの……いっつも、真面目でさ。先生に怒られたとこ、見たことないもん」さつきが言った。
 品行方正で、おとなしい生徒――〈聖林学院〉から受け取った資料に記されていた大人たちの印象と、まったく変わらない。しかし、花田博之は〈聖林学院〉の生徒たちの間では、いわゆるリーダー格を担っていた。さらには、一部の大人に〝かわいげがない〟〝大人を馬鹿にしている〟といった印象を与えていたのだが。
「あ、あとね。たまに東京に行って映画見たりしてきた、とか言ってたかな……」
 私はさつきに訊いた。「東京? どこだろう、覚えてないかな?」
「知らない。渋谷とか、六本木じゃないの?」さつきは、機嫌の悪さを隠そうとはしなかった。
 彼ら家族から、博之についてこれ以上のことを聞き出すことは難しそうだった。
 ――そろそろ、お暇をしよう
 そんな私の気持ちを察したかのように、さつきが切り出した。「ねェ、もういい? わたし、アキコと約束があるんだよね」
「それは、悪いことをしたね。もういいよ。あり――」
 お礼の言葉を最後まで聞かず、さつきは踵を返して店の奥へと去っていった。叱りつけるタイミングを失ったさつきの両親は呆気にとられていた。娘の作戦勝ちだ。
 私は両親に言った。「さて、私は失礼します。いろいろと、ありがとうございました」
「すいません。行儀が悪くて……」女房が頭を下げる。
「いいえ。突然、押しかけた私が悪いんです」
 もう一度、お礼を言って、私は〈有賀屋〉を後にすることにした。
 棚の間を通って、ガラスの引き戸に手をかけると、見送りについてきた亭主が訊いてきた。「あの……ウチの娘、どう思う?」
「どう……とは?」
「その……親馬鹿かも知れないけど……かわいいと思わない?」
 そういった判断ができるほど、私は娘の顔を見ていない。なにより、その手の審美眼があるとは思えなかった。私の稼業は、スカウトマンではない。
「アイドルとか、女優にしたいんだよね……俺」亭主が右目だけつぶってみせた。「テレビ局の人にさ、言っといてよ。今度来るときには、もっとかわいく化粧させとくからさ」
 ステージママというのは何度となく見てきたが、ステージパパに出くわすのは初めてだった。
「……はい。伝えておきます」
「頼んだよ」
 顔いっぱいに笑みをたたえた亭主に別れを告げて、私は〈有賀屋〉を後にした。
 コンビニエンスストアの駐車場に戻り、停めたままにしていたフォード・ファルコンに乗り込む。コンビニエンスストアの店内では、店長の八木が先刻と変わらずレジカウンターに立ちつくしていた。
 V8エンジンを再起動させて、私は当初の目的地である〈はなかつパーク〉へと急いだ。

   十八

 対面通行の狭い道路――おそらく、この漁師町のメインストリートなのだろう――を進んだ。
 道路の両脇には、数々の看板が設置されていたが、隣町にあるリゾート施設へと案内するものが目につくばかりだった。しかし、ドライブインで教えられたとおり、突き当たった丁字路を右折すると、最初に飛び込んできたのは、それらを押しのけるように建てられた大きな〈はなかつパーク〉の看板だった。先刻、ドライブインで出会ったミヤコという若い女が教えてくれたのは、この看板だ。
 この漁師町で唯一の大型施設であることを誇示するかのような大きな看板には、波しぶきがデザインされた派手な青地の上に、魚を抱えた子供とそれを見守る両親のイラストが描かれていた。そのイラストの下には、〝このまま二キロ 駐車場八〇台完備!〟と赤い文字で記されている。
 そのまま一キロも進まないうちに漁師町の中心を抜けてしまい、ファルコンの左手を行き過ぎるのは防波堤となった。防波堤の向こうには太平洋が広がり、右手にはアメリカへと続く海を臨んで、リゾート地へと向かう車を目当てにした食堂が点在していた。中には、アメリカの西海岸を意識したような意匠のレストランも見受けられた。客の目を引くための懸命の努力も、食堂にしろ、その手のレストランにしろ、そのどれもが営業中なのかどうかすらわからいため、この町が時代に取り残されてしまった印象を一層強く与えてしまっていた。
 外海へと伸びる岬を貫くトンネルが迫ってきた。ファルコンのオドメーターが示す数値を見れば、このトンネルの先が、花田洋子の兄であり、博之の〝保護者〟でもある花田浩二が経営する〈はなかつパーク〉のようだった。果たしてトンネルを通り抜けると、丁字路を右折して目に飛び込んできたものと同じデザインの看板が出迎えてくれた。〝このまま二キロ〟の文言が、左折を促す矢印と〝ココ〟に変わっている。
 自慢の八〇台収容できる駐車場に、フォード・ファルコンを乗り入れた。この天気にも関わらず駐車場は、店舗に近い奥の方から順に八割ほど埋まっていて、この天気でなければ、ユージがドライブインで言ったように〝やばい〟ことになっていたのかもしれない。
 車から降りたときに鼻をついた磯の香りは、〈はなかつパーク〉の店舗に入ると、さらに濃くなった。私の目の前には、今朝水揚げされたばかりだという大量のサザエが水槽に転がっていた。〈はなかつパーク〉は、一階が近海の新鮮な魚介類を扱う直売所になっていて、二階は海を眺めながら海鮮料理を楽しめるレストランになっているそうだが、私は魚を買いに来たのでも、海鮮丼を食べに来たわけでもない。
 私はサザエの転がった水槽の前に立っている店員を捕まえた。「社長に会いたいんだけど、どこに行けばいいのかな?」
 威勢良く呼び込みをしていた店員が「社長ですか?」と首を傾げた。まだ二十代半ばの若い店員だったが、彼の声はもうすでに魚屋特有のしゃがれた声になっていた。「社長は、ここにはいません……っていうか、僕にはわかんないんで、通り向かいのビルで訊いてもらえます?」
「向かいのビル?」
「ええ。〈花勝水産〉って会社です。社長は、滅多にこっちには顔を出さないんで」
 客の呼び込みに戻った店員にお礼を言って、私は〈はなかつパーク〉を出た。駐車場を通り抜けて、向かいの三階建てのビルへと歩いた。
 〈花勝水産〉は、まだ真新しい〈はなかつパーク〉とは対照的に、古いビルだった。さすがに私の事務所のある雑居ビルより古くはないだろうが、潮風にさらされた外壁は時代を感じさせていた。花田浩二が社長に就任してから、〈はなかつパーク〉の経営やネット通販を推し進めて、〈花勝水産〉の業績は、右肩上がりなのだそうだが――現在の社長は、いわゆる〝シブチン〟なのだろうか。
 筆文字風にレタリングされた社名と海から昇る朝陽をデザインしたロゴが描かれたドアを開いて、私は〈花勝水産〉の中へと入った。観葉植物が所々に置かれたロビーの奥に曇りガラスのドアがあって、その向こう側が事務所になっているらしい。ガラス戸の隣に受付カウンターがあるのだが人の姿は見えず、掲げられた白い案内板に〝御用の方は、インターホンでお知らせください〟と書かれていた。
 案内板に従って、私はカウンターに置かれたインターホンを押した。
「お世話になっております。〈花勝水産〉です」スピーカーから聞こえてきたのは、若い女の声だった。
「あの、本日は――」訪問の理由と、社長に面会したい旨をインターホン越しに伝えた。
「……少々、お待ちください」
 それから〝少々〟というには、長すぎる時間を待たされた。私はロビーに置かれた長椅子に腰をかけて、観葉植物の葉っぱの枚数を数えて、時間をつぶすことにした。
 いい加減、そんな暇つぶしにも飽きてきた十五分ほど経った頃、曇りガラスのドアが開いた。紺色の事務服を着た二十歳前後の女が姿を見せ、暇を持て余す私に一直線に近寄ってきて言った。「申し訳ございません。生憎と社長は不在でして……」
 ――空振りに終わったか……
 ため息混じりに大きく息をついて、立ち上がった。今日のところは、出直すしかない。
「お待ちください」女が慌てて、呼び止めた。「副社長が、自分で良ければ、お話しさせていただきたいとのことですが……」
 花田洋子の兄である社長の浩二の方が話は早いのだが――とにかく、向こうから話がしたいと言ってきているのだから、それに乗らない手はない。なにより、空振りに終わらせてしまうよりはマシだ。
「会わせていただけますか」と私は答えた。
「どうぞ、こちらへ」
 私は事務服の女に招かれるまま、後をついて行った。
 女は曇りガラスのドアを開けて招き入れずに、ロビーの片隅にあるエレベータに向かい、ボタンを押した。
 エレベータを待つ間、私は念のため彼女に訊いた。「副社長というのは、どなたなんです?」昨晩、検索した〈花勝水産〉のホームページに副社長の名前は、記載されていなかった。
「社長の奥様になります」
 〝社長の奥様〟――花田恵子であれば、社長である浩二の次に話が早いかもしれない。
 やがて、『3』からカウントダウンされた回数表示が『1』になり、エレベータのドアが開いた。
 エレベータには先客がいて、ダブルのスーツを着た五十絡みの男が乗っていた。一七〇センチほどの恰幅のいい男で、ダブルのスーツが似合っていた。眉間にイボのような大きなホクロがある。
 男は私たちがエレベータを待っているとは思っていなかったようで、うつむいたままエレベータを出ようとしてぶつかりそうになると、慌てて後ずさった。
「ヤスエさんか……そちらは、お客様?」男が事務服の女に言った。
「はい。副社長のお客様です」ヤスエと呼ばれた女が――ヤスエというのは苗字なのか、名前なのか――答えた。「これから、応接室にお連れします」
「ああ、そう……失礼のないようにね」と言って、男がエレベータから降りた。
 女は「はい」とかしこまって頭を下げ、それから私たちは彼と入れ替わる形でエレベータに乗り込んだ。すれ違う際に、男からは煙草の匂いがした。
 エレベータの中の私に「私は、ここで失礼いたします」と言って、男が会釈をした。男の顔に張りついている笑みは、いわゆる〝営業スマイル〟とは違うように感じられた。
 エレベータのドアが閉まる間際、ヤスエは男に向かって、いぶかしげに目を細めた。男の〈花勝水産〉での役職がなんであれ、社内でどう思われているのかは察することができた。
 三階でエレベータを降りて、応接室に通された。私をエスコートしたヤスエは「副社長は、すぐに参りますので、おかけになってお待ちください」と言って、早々に去っていった。先刻は〝少々〟で十五分ほど待たされた。〝すぐに〟の場合は、どれほどの時間なのだろうか。
 部屋の中にかすかに煙草の匂いが残っていた。どうやら、先刻の男は仕事をさぼって、この部屋で一服していたらしい。エレベータのドアが閉まる際に、ヤスエが見せた表情は、彼がサボタージュの常習犯であるからのようだ。
 〝シブチン〟の社長も、会社の顔である応接室には金を惜しまなかったようで、煙草の残り香がする応接室のテーブルにはマホガニーが使われていた。壁には、〈有賀屋〉の女房が言っていた〈花勝水産〉がかつてこの辺りの網元であったことを証明するかのように、七福神の乗った宝船を描いた大漁旗が掲げられていた。しかし、私の目を引いたのは、額に納められて一幅の絵画のようになった大漁旗ではなく、大漁旗の下にあるサイドボード――これもマホガニーだ――に飾られた二枚の写真だった。どちらもバスケットボールの選手が映っている。
 一枚は〝東京都中学校バスケットボール総合体育大会 男子の部 三位〟と書かれたボードの後ろに並んだ選手たちの写真で、右から三番目が花田博之だった――〈聖林学院〉の林が資料として持参した写真は、この集合写真から切り取られたものだ――もう一枚は、ボールを持った博之が、シュートを打つ体勢に入った姿を捉えたものだった。花田浩二と恵子にとって、博之は会社の応接室に飾るほど自慢の甥であるらしい。
 ドアがノックされた。腕時計を見ると、ヤスエが応接室を出ていってから五分ほどが経っていた。
 私が「どうぞ」と答えると、四十代半ばの女が応接室に入ってきた。茶色のスーツに包まれた腰の辺りが、重力に負けてむっちりとしている。しかし、薄めに抑えられた化粧にしても彼女の体型にしても、無理に若作りをせずに、上手に歳を重ねているように思われた。
 彼女は応接室に入るなり、部屋に残った煙草の匂いに鼻をひくつかせた。テーブルの上に置かれたガラス製の灰皿に喫い殻がないことに気づくと、彼女は小さく顔をしかめた。彼女が表情を厳しくしたのは、煙草の匂いそのものせいではなく、誰の仕業で煙草の匂いが残っているのを悟ったからのようだった。
「お待たせしました。副社長の花田恵子です」私に歩み寄ってきた彼女が一礼して言った。少しハスキーな声だった。「申し訳ございません。社長は本日、出張のために不在でして……わたくしで良ければ、お話しをおうかがいさせていただきます」
「いいえ。こちらこそ、突然のお願いで申し訳ありません。ところで……」私は博之の写真を手に取った。「こちらは、息子さんですか?」
 煙草の匂いに気づいたときよりも、恵子が険しい表情を作った。「それが、なにか?」
「いやァ……すいません。実は昔、私もバスケットをやっていたもので。それにしても、都大会で三位ですか……すごいですね」
「ありがとうございます……バスケをやられてましたの?」
「はい。才能がないのがわかって、すぐにやめてしまいましたけど」
「そうですか。それで……あら、ごめんなさい。立ち話をさせてしまって、こちらにおかけになってください」表情から険の取れた恵子が、革張りのソファを勧めてきた。
 昨晩、考えたシナリオには応接室に通されることも、そこに博之の写真が飾られていことも、書かれてはいなかった。私は思いつくままアドリブで話していた。役者のアドリブが、舞台で繰り広げられる演劇に厚みを持たせる効果があるように、私のアドリブは恵子から警戒心を取り去ることに成功していた。
 私と向き合う恰好で腰を降ろした恵子が訊いてきた。「バスケは、いつまで?」
「中学まででした」
「ポジションは、どちらを?」
「ポイント……ガードです」
「あら、そう。博之と一緒なのね」
「博之君というのは……写真の彼ですか?」
「はい――」恵子が機嫌良く頷いた。
 そろそろ本題を切り出すタイミングだ。なにしろ私は、バスケットボール部に所属したことがない。ポイントガードというポジションも耳にしたことがある程度で、なにをするポジションなのかすら知らないのだ。
「突然、お時間を頂戴して申し訳ありません」名刺をマホガニーのテーブルの上に滑らせた。「実はですね、元アイドルの桜樹よう子さんを捜しています」
「桜樹よう子……ですか」
「ええ。あなたの御主人、こちらの社長である花田浩二さんの妹……花田洋子さんです」
「それは、存じています。ですが、どうして洋子さんを捜しているんです?」
「あるテレビ番組の企画でして……昔のアイドルだとか、タレントさんの現在の姿を、紹介したいそうなんです。なんて言うんですか……〝あの人は今?〟みたいな企画です」私は〈有賀屋〉でも披露したシナリオに従って流暢に科白を言い、もう一枚名刺を差し出した。
「その番組のディレクターさんが、こちらの方というわけですか……」恵子が二枚目の名刺に目をやった。名刺には、ある民放テレビ局のディレクターの名前が刷られている。
「そうです。彼に桜樹よう子さん……花田洋子さんを捜すのに、協力するよう頼まれましてね」
 恵子が名刺に落としていた視線を上げた。「そういうこと……でしたのね」
「はい。洋子さんの古里が、こちらだということを聞いたもので……」
「東京から、わざわざお越しいただいたのに、申し訳ありません」ひとつ息をついてから、恵子は二枚の名刺をブラウスの胸ポケットにしまった。「洋子は、今はこの町にいません」
「そのようですね」
「ご存じでしたの?」
「ここに来るまでに、ちょっと聞き込みをさせてもらいました。この町で、二年ほど……ですか。姿を見てないとのことでしたが……」
「それも、ご存じでしたのね」居住まいを正してから恵子が言った。「でしたら、わたくしからお話しすることはございません」
「話すことはない……どういうことです?」
「わたくしどもも、洋子が今、どこにいるのか存じ上げないからです」
「行方不明……というわけですか」
「そうなりますわね」
「……では、洋子さんの居場所をご存じの方なんかは、この辺にいらっしゃいますか?」
「おりません」
 恵子の回答は、バスケットボールの会話をしていたときとは打って変わって、すべてが最初から準備していたかのように、紋切り型だった。しかし、私の目を見据えて答える彼女の様子を見る限り、嘘をついているようにも思えなかった。
 ――結局のところは、空振りか……
 こうなると、私に残された手は、博之が失踪したことを正直に恵子に告げて、協力を仰ぐことしかない。ただ、それは〝禁じ手〟だ。
 私は恵子から視線を外した。サイドボードの写真が目に入る。バスケットボール選手として活躍する博之の姿は、先刻よりも遠く感じられた。
「もう、お引き取り願えますか」恵子のこめかみ辺りに力がこもっている。
「いや……もう少しなにか――」
「お話しするようなことは、ございません」
「そんなこと仰らずに、もう少しお話をですね――」
「ですから、ございません」恵子は私に言葉を継がせなかった。
「……ですが、花田洋子さんは、あなたにとって、義理の妹さんになるわけでしょう?」
「義理の妹であろうと、なんであろうと、あの子が今どこで、なにをしていようと、わたくしどもには、一切関係ございません」恵子が立ち上がり、私を見下ろした。
 取りつく島もないが、私もこのまま引き下がるわけにもいかなかい。私は座ったままでいた。
「お引き取りください」先刻よりも強い口調だった。
 私は方針を変えて、〝禁じ手〟を使うことにした。〈聖林学院〉の面子を守ることだけが、私の仕事ではない。今回の依頼は、ひとりの少年を捜すことなのだ。
「そんなことはない。ことと次第によっては、答えてもらわなければならない」
「どういう意味なんですの?」
 居住まいを正すことで、私は少し間を置いた。気持ちを高ぶらせてしまった恵子を、落ち着かせなければならない。
「――正直にお話します。あなたの甥御さんである博之君が、失踪しました。私は彼の行方を捜しています」
「博之が失踪? 嘘を仰らないで」
「今ここで、あなたに嘘をつく必要はないでしょう」
「本当に、博之が失踪したんですか?」見上げる私の目を覗き込んで、恵子が言った。
 恵子から目を逸らさずに頷いて応えると、彼女は力なく崩れ落ちた。

   十九

 肉体だけでなく、精神までも重力に負けてしまった彼女を受け止めたのは、革張りのソファだった。
 ソファに沈み込んでしまった恵子が言った。「いつから……ですの?」
「三週間近く前になります」
「三週間も……」恵子が辺りを見回した。生憎と、この応接室にカレンダーは、掲げられていない。彼女の目は、宙を泳ぎ続けた。
「三週間前の木曜日、下山文明さんと都内で面会した後、博之君の行方がわからなくなっています」
「博之が、文明さんと会っていた? 文明さんは、三年前に〝ようやく〟洋子と離婚したんです」視線を私の目に定めて、恵子が言った。「それに、離婚利してからは、ふたりは会っていない……いいや、会ってくれないと、それこそ博之から聞いてるんですよ」
「理由はなんであれ、下山さんが博之君を呼びつけたことは、彼から証言を得たことです」
「どうして、文明さんは博之と会ったんですの?」
「母親の洋子さんが博之君に会いたいと言っている……大江という人物を通じて、下山さんに連絡があったそうです。それで、下山さんは博之君にそのことを伝えるために、会う約束をしたとのことでした。ただ、下山さんも、洋子さんの現在の消息は、ご存じないようでしてね。まァ、取り敢えず……伝言だけはした、ということだそうですが」
「伝言だけしたって、そんな無責任な……」
 恵子の口振りで、彼女は下山文明が洋子と離婚をした〝本当〟の理由を知らないことがわかった。おそらく、下山の元を訪れた花田浩二の判断なのだろう。その判断に、私が口を挟む余地はない。
 そして、下山が洋子や博之との面会を拒否し続けていたのは、彼にとってせめてもの意地だったのかもしれないと思った。では、今回に限って博之を呼びつけた理由は、なんであったのか。そんなことを考えてみたところで、私のような男に、下山の気持ちがわかるはずもなかった。
 余計なことは考えずに、私は仕事を続けた。「博之君は、洋子さんの行方については〝当てがある〟と言って、下山さんと別れたそうです。そこから博之君の消息もパッタリと途絶えています」
 恵子がうつむいて、顔を両手で覆った。「博之……どこに行ったの?」両手の隙間から呟きが漏れる。
「そこで、いくつかお訊きしたいんですが、よろしいですか?」
 少しの沈黙の後、恵子がゆっくりと顔を上げて、小さく頷いた。
「そこで、まずは洋子さんの現在の消息を知りたいんですが――」
「本当に知りません」恵子は先刻のように、私に最後まで言わせなかった。
「先ほどのお話では、洋子さんは二年ほど前に、この町を出ていったとのことでしたけど……それこそ、お捜しになられなかったんですか?」
「捜しませんよ。五年ほど前なんか、ふらっと出てったきり、一年間も戻ってこなかったんですよ。主人が洋子を積極的に捜さないのも、そういう前科が、洋子にはあるからなんです」
「まるで、洋子さんとの関わりたくないように聞こえますが?」
 恵子がフンっと鼻を鳴らした。「この町に戻ってきた洋子に、わたくしどもが、どれだけ迷惑をかけられたか」
「迷惑……なにがあったんです?」
「先ほど、洋子のことをこの町で聞いてきた、と仰いましたよね。でしたら、おわかりになっているでしょう?」
 煙草を買った〈有賀屋〉の女房の顔が浮かんだ。彼女に言わせれば、洋子は相当の〝遊び人〟だったそうだ。
「花田の家が、この町でどういった立ち位置にいるのか、そんなことは、あの子こそわかっているはずなのに、わたくしたちに博之を預けたまんま、遊び歩くなんて……そんな、花田の名前に、泥を塗るような真似ばかりしてたんです、洋子は」
 かつての網元としてだけでなく、〈はなかつパーク〉を経営する花田家は、この辺りでは一番の名士ということになるのだろう。恵子の言葉は、鼻につく分だけ気の毒に思えるプライドに満ち溢れていた。
「ですから、洋子については、いなくなって清々しているところもありますのよ」
 義姉とは思えない科白を吐き捨てた恵子に、私は言った。「子連れの出戻りは、田舎でおとなしくしてろ……そう仰りたいわけですか」
「そういうわけでは……」感情に任せた言葉に気づいたようで、恵子の顔には困惑の色があった。「確かに、この町は東京に比べれば、田舎ですから……退屈になるのも、わかりますけど、花田の家の一員として、母親として、ちゃんとして欲しかったということです」
 この町にあっては、母親であること以上に、花田の家名を守ることを優先させねばならぬようで、望む、望まないにしろ、そんな境遇で暮らさなければならない花田洋子と博之に、少しばかり同情した。
「まァ……洋子のことですから、東京にでも行ったんじゃないでしょうか。わたくしにも、よくわかりません」
 とにかく、恵子が花田洋子の消息を知らないことは確かだと思っていい。これ以上、彼女から花田洋子に関する情報は引き出せそうにもなかった。なにより、前の夫である下山文明もそうだったが、花田洋子という女は関わった人間の感情を高ぶらせてしまう〝カンフル剤〟のような存在であることもわかった。正確な情報を得るためには、恵子の脈拍数を上げてしまってはいけない。
 私は質問を変えた。「下山さんに、洋子さんのことを伝えたのは、〝大江〟という人物なんですが……この名前に聞き覚えはありますか?」
 今度は眉間に手をやり、しばらくの間、恵子は目を閉じて考え込んだ。やがて、慎重な口調で答えた。「聞いたことは、ございません」それから、眉間から手を離して続けた。「文明さんは? 文明さんは、その……大江さんという方を、ご存じじゃないの?」
「下山さんも、知らないそうです」と答えて、〝大江〟という人物に関して下山から聞いたあらましをざっと話した。そして、下山と博之の間であったやり取りについても説明をしてから訊いた。「その……博之君が、下山さんに告げた、洋子さんに会う〝当て〟ですが……心当たりは?」
「ありません」と恵子が首を横に振った。「わたくしが訊きたいぐらいです」
「そうでしょうねェ……」思わずため息混じりになった。
「あの……わたくしの方から、訊いてもよろしいかしら?」
 私が「どうぞ」と答えると、恵子が質問をした。「博之は、洋子と頻繁に会っていたのかしら?」
「どうも、そうじゃないようですね。下山さんには、ここ一年間は顔を合わせていない、と伝えていたそうですから」
「一年? ということは、洋子がこの町を出ていった後も、博之は洋子と会っていたということ?」
「そういうこと……になりますねェ」
 私の言葉を聞いて、恵子がひどく寂しげな表情を作った。これでは、洋子とどちらが博之の母親なのか、わからない。もっとも、私は花田洋子に会えていないので、あくまで憶測なのだが。
「博之があの学校に入ってからは、わたしたちも、なかなか会えずにいますので……」恵子がサイドボードにある博之の写真に目を移した。洋子の話をするときとは違う優しい眼差しだった。
「自慢の甥御さん……のようですね」
「ええ。親バカ……じゃないわね。伯母バカに聞こえるでしょうけど、博之は文武両道って言うのかしら、勉強もスポーツもできて……それに、優しい子なんですよ」
 博之が校則を破って駅前の喫茶店の常連になっていることや、テスト勉強もせずに高得点を上げる術を同級生たちに披露していることは、言わずにおいた方がいいだろう。脈拍数を上げてしまうだけでは、済まないに違いない。博之の写真に目をやってから、私は恵子に笑みを返しておいた。
「それも、わたしたち夫婦に、子供がいないこともあるんでしょうけどね……」恵子がポツリと呟いた。
 この辺が潮時だ、と私は思った。「いろいろと、ありがとうございます。突然、お邪魔して、申し訳ありませんでした」
「もうひとつ、わたくしの方から訊いても、よろしい?」恵子が、腰を上げかけようとした私を呼び止めた。
「なんでしょう?」
「あなたに、博之を捜すよう依頼した方は――」
「申し訳ありません。そういうことには、答えられないことになってます」今度は、私が恵子の言葉を遮る番だった。依頼人の〈聖林学院〉の面子は、保たねばならない。
「……では、こちらのテレビ局の方は?」ブラウスの胸ポケットから、恵子が先刻手渡したテレビ局のディレクターの名刺を取り出した。名刺には、赤坂にあるテレビ局のロゴが印刷されていた。「テレビの取材では、ないんですの?」
「正直に言います。依頼人でもなんでもありません。博之君が洋子さんを捜している、ということでしたので、洋子さんの消息がわかれば、博之君を見つけられるんじゃないかと思いましてね……一芝居打ちました」
「そういうことも、なさるのね」あきれたといった口調で、恵子が言った。
「ええ。それが私の稼業です。そして、依頼をまっとうするためには、私はなんでもします」
「そう……その依頼というのが、今回は博之を捜すということですのね」
「はい。仰るとおりです」
「でしたら、あなたの依頼人というのは――」先刻、私が伝えたことを思い出したようだ。「ごめんなさい。それは、言えないことに、なってるんでしたわね」
 私が頷くと、恵子が手にした名刺を差し出した。「でしたら、この名刺はお返しします」
「いえ、その名刺は、そのままお持ちください。いろいろな番組を手がけているヤツでしてね。〈はなかつパーク〉の宣伝にでも、お使いください」
「宣伝にね……わたくしどもは、こちらの方に無理なお願いをするかもしれませんよ」
「応えてくれると思いますよ。その点に関しては、私より役に立つ男です」
 恵子が目尻にしわを作った。ここへ来て、初めて見る彼女の笑顔だった。
 それから、ブラウスに再び名刺をしまうのを見届けて、私は立ち上がった。遅れて立ち上がった恵子の後について、先刻乗ってきたエレベータまで行くと、エレベータのドアの前で恵子は「博之のこと、よろしくお願いします」と言い、ドアの閉まる間際には、恵子は「よろしくお願いします」と最敬礼をしてくれた。
 私は、なにも答えなかった。結局のところ、なにひとつ手がかりを得られなかったのだ。彼女をぬか喜びさせるような言葉を口にすることは、できなかった。
 一階まで下っていくエレベータの中で、突きつけられた現実と向かい合い、募る疲労感を和らげるには、空腹を癒すことしかないとの結論に達した。腕時計を見れば、時間は十二時になろうとしている。
 やがて一階にたどり着いたエレベータのドアが開き、一歩踏み出すと開いたドアの前に男が立っていた。昼食は、〈はなかつパーク〉で海鮮丼にするか、若いふたりと出会ったドライブインまで戻ってラーメンにするかで悩んでいた私は男に気づかず、エレベータの中へ慌てて後ずさった。
 そんな私を見て、男がニヤリと笑った。男の眉間には、イボのような大きなホクロがある。〈花勝水産〉のサボタージュ常習犯だ。
 私が無礼を謝罪すると、顔に笑みを張りつかせたまま、男が言った。「あんた、洋子のこと聞きに来たんだろ?」
「そうですが……」エレベータの中から答えた。
「洋子のこと、俺が教えてやってもいいぜ」低い声で男が言った。
「なにを、教えてくれるんです?」私はエレベータから降りた。
「ここを右に出て……五分くらいかな」男は私の質問には答えずに、〈花勝水産〉の外に目をやった。「五分くらい、歩いて行ったところに〈カネコ〉っていう店があるんだ。そこで待っててくれよ」
「あなたは、一緒に行かないんですか?」
「だって、俺、まだ仕事中だもん。まァ、もう少しで昼休みになるけど」
 胸を張って答える男の吐く息から煙草の匂いがする。また、彼がサボタージュをするのは、あの応接室だけではないようだ。
「あんたも洋子の話が聞きたいんだろ? とにかく〈カネコ〉で待っててくれ、な。一緒に昼メシでも食いながら、話そうや」
 こちらの回答を許さずに、男が曇りガラスのドアを開けて仕事へ戻っていってしまったので、一階のロビーには、私ひとりが取り残されてしまった。
 どうやら、昼食は男の指名した〈カネコ〉という店で、食べることになってしまったようだ。

   二十

 男に言われたとおり〈花勝水産〉を出てから、右に曲がって歩き始めた。ビニール傘を朝から変わらぬ強さで雨が叩く。海沿いの道では風を感じなかったが、上空では強い風が吹いているようで、蠢く分厚い灰色の雲が、荒々しく天空を渡る黒龍の腹のように見えた。
 気乗りしないせいか、指定された〈カネコ〉にたどり着くまでに、五分以上歩いたような気がした。くすんだオレンジ色の外壁に緑色で〈カネコ〉と書かれている。その〈カネコ〉の入口では、東南アジアで買ってきたのだろう金の仏像が、二体で出迎えてくれた。長い間、待たせてしまったらしく、仏像は所々メッキが剥がれ落ちてしまっていた。
 ドアを開けて〈カネコ〉に入った。湿気を含んでしまったのか、木製のドアは重たく感じられた。
「いらっしゃい」カウンターの向こうから外壁と同じ色のバンダナを頭に巻いた女が、声をかけてきた。
 店の表に鎮座まします仏像以上に厚く盛られたメッキ、いや化粧のせいで、隠したいはずの年齢が余計に際立ってしまっていた。女は確実に花田恵子より年上だ。
「おひとりさん?」女は馴れ馴れしい口調で訊いてきた。どこかで聞き覚えのある声だと思った。
 私が頷いて応えると、女は両手を広げた。「お好きなところへ、どうぞ」
 右手の奥に小上がりがあったのだが、男がふたり、横になって鼾をかいていた。脱ぎ散らかされたゴム長靴や彼らの服装を見る限り、彼らは漁師のようだ。
 私は、これからあまり他人に聞かせたくない話をするのだが――仕方なくカウンターに腰を降ろした。
「ごめんねェ……一仕事終わったからっつって、一杯引っかけちゃってさァ」女が私の前にメニューを置きながら言った。ファンデーションなのか、なんなのか――とにかく濃い化粧の匂いが、鼻をついた。「ランチでしょ? なんにする?」
 私にこの〈カネコ〉を訪れるよう告げた男が来るまで待つべきか――迷ったのは、束の間だった。空腹には耐えられそうになかった。どうせ、あの男もここで昼食を摂るのだ。
 私は訊いた。「お勧めは?」
「うーん」右手の人差し指を顎に当てて、女が考え込んだ。
 女が考えている間、カウンターに置かれた手書きのメニューを眺めた。品数は豊富で、和洋中様々なジャンルの料理が記されている。しかし、残念なことに、そのどれもが期待できそうになかった。〝油淋鶏〟は〝湯淋鶏〟となっているし、〝ピカタ〟は〝ピタカ〟になっている。
 顎に当てた人差し指を話して、女が答えた。「今日は煮魚定食か、餃子定食ね」
 私は〝新メニュー!〟と謳われた〝中華風ブイヤベース〟を勧められなかったことに安堵した。ここは漁師町だ。魚料理に〝ハズレ〟はないだろう。
「じゃァ、煮魚定食で」
「煮魚定食、一丁!」店内に響き渡るように言った。もっとも、店内には彼女以外に店員らしき人間は、見当たらないのだが。
 厨房へ消えていく女の背中を見送りながら、煙草をくわえた。ブックマッチで火をつける。
 夜はそのまま居酒屋になるのか、居酒屋がランチ営業を始めたのかはわからないが、カウンターの奥にはビールサーバーがあり、棚には酒瓶が並べられていた。私は暇つぶしに、並べられた同じ銘柄ばかり焼酎のボトルを、端から数え始めた。
 七本目まで数え終わったときに、〈カネコ〉のドアが開いた。あの眉間にホクロのある男がに入ってくる。
 彼は、カウンターの私を見つけて「よう」と右手を挙げた。こちらには、そこまで親しくなったつもりはないので、黙ったまま煙草を喫い続けた。
 眉間にホクロのある男の後ろから、もうひとりの客が入ってきた。お仕着せの作業着を羽織っていた背の高い男だった。私がここまで来る間、凪いでいた海岸線でも風が強まってきたのか、ふたりとも横殴りの雨にやられたかのように服の左側が、揃って濡れている。
 眉間にホクロのある男は私の左隣に腰を降ろして、上着から名刺を出した。「俺、トリゴエっていうんだ。よろしくな」カウンターに置かれた名刺には、〈花勝水産 第二営業部主任 鳥越勇介〉とある。「それで……こいつは、ミヤモトってんだ」
 眉間にホクロのある鳥越に紹介された男――作業着の胸ポケットの上には、〝宮元〟と刺繍されていた――は、黒目がちの小さな目と出っ歯が、ネズミのように見えた。宮元は席に着かずに、カウンターの中へと入っていった。厨房にいる女に断りを入れるでもなく、酎ハイ用の大ぶりなグラスを勝手に取り出すと、ビールサーバーの前に立ち、生ビールを注ぎ始めた。慣れた手つきで一杯目の生ビールを注ぐと、カウンター席の鳥越に渡した。
 受け取ったグラスに口をつけて、鳥越は三分の一ほど喉を鳴らして生ビールを飲んだ。目を閉じて大きく息をついてから言った。「あんたも、飲む?」
 私は「結構だ」と答えた。
「どうして?」と鳥越。
「ここまで、車で来たんです」
「そう、残念だね」と言ってから、鳥越は二杯目を注いでいる宮元に声をかけた。「あのさ、こちらビールはいらないって。車なんだってさ」
「真面目だなァ……」背中を向いたまま宮元が答えた。
 二杯目を注ぎ終えた宮元は、生ビールを飲みながら鳥越の隣に腰を落ち着けた。
「カネコさん!」鳥越が、店の奥に向かってと声をかける。よく見れば店の壁に掲げられた調理師免許の免状には、〝青春〟しか売りのない知事の名前の他に、〝河野加根子〟と記されていた。
 加根子は声の主が誰なのかわかっているようで、店の奥から顔を見せることなく「なに?」と、厨房から面倒くさそうに返してきた。ふたりは〈カネコ〉の常連なのだ。鳥越は田舎風チャーハン――なにをもって〝田舎風〟になるのだろう――を、宮元は餃子定食――こちらは〝今日のおすすめ〟だ――を、それぞれ注文した。
 鳥越が上着から煙草を取り出した。私の知らない銘柄だったが、箱に大きく『1』と記されていた。一本抜き出し、使い捨てライターで火をつけてから、鳥越が訊いてきた。「あんた、東京のテレビ局から来たんだろ? 洋子のことを聞きにさ」
 ――どうして、鳥越はそのことを知っているのか
 私はなにも答えず、煙を吐き出した。
「なァ……とぼけなくたって、いいだろォ? 俺ァ、ヤスエから聞いてるんだぜ」
 私はインターホン越しに〝テレビ局に調査を依頼された者〟と伝えたはずなのだが――ヤスエから始まった伝言ゲームが、私をテレビ局の人間に仕立て上げていた。伝言ゲームというヤツは、恐ろしいものだ。なんにせよ、ここは話を鳥越に合わせることにする。その方が話しやすそうだ。
「そうです。花田……いや、元アイドルの桜樹よう子さんのことで、ちょっとね」
「ほらァ、やっぱりそうだろう」鳥越が声を上げて振り返り、宮元に言った。「な、俺が言ったとおりだべ」
 鳥越の向こうで、宮元が〝東京のテレビ局〟という単語に驚いて、小さい目を思い切り見開いていた。
「〝よう子〟さんのことについて、なにかご存じなんですか」私は訊いた。
「知ってるもなにもさァ……」意味ありげに言葉を濁して、鳥越がぷぅっと天井に煙を吹き上げた。
「どういうことです?」
「こういうのってさ、なんかあんじゃないの?」その顔に笑顔がにじんでいた。あまり品のいい笑みとはいえなかった。「謝礼とか……さ」そう言って、右目だけつぶってみせる。
 ため息だとは気づかれぬよう深く喫い込んだ煙を吐き出した。「おいくら、必要です?」
「こういうのは、気持ちだからさ」品の無い笑みを張りつけたまま、鳥越が私の肩を二回叩いた。
 私は財布から一万円札を一枚抜き出して、カウンターに滑らせた。鳥越は取り組みに勝った力士がやるように手刀を切ってから、お札を上着のポケットにしまった。
「……では、〝よう子〟さんについて、聞かせてもらえますか」
「それはさ、メシ食いながらにしようや。加根子さんも、よく知ってるんだし……」鳥越が半分ほど喫った煙草を、灰皿で消した。すぐさま、新しい煙草に火をつける。眉間のホクロの下には、この場の主導権を握って勝ち誇った表情があった。
 その眉間のホクロを撃ち抜いてやりたい衝動を、ニコチンを補給することで抑えた。
「あの……名刺とか、もらえます?」鳥越の向こうから、宮元が間延びした口調で頼んできた。
「構いませんよ」私は上着から名刺を取り出して、宮元に渡してやった。
「この……〈テレミックス〉ってなに?」宮元の手許を覗き込んだ鳥越が言った。
「番組の製作会社です」
「へェ……どんな番組作ってるの?」と宮元。
「いまは、よくある企画ですけど……〝あの人は今〟みたいな昔の芸能人を取り上げる番組を作っています」宮元が手にしている名刺の肩書きには会社の代表者であることに加えて、〝ディレクター〟と記されている。
「それで、洋子のことを聞きに来たんだ」鳥越が生ビールに口をつけた。
「ええ。そうです」私は短くなった煙草を灰皿で揉み消した。
「他に誰を調べてるの?」宮元が名刺を丁重に作業着の胸ポケットへとしまった。
「ええと、ですね――」
 芸能界というヤツに疎い私を救ってくれたのは、料理を運んできた加根子だった。
「はい、お待ちィ!」と言って、お盆に載せた煮魚定食――大ぶりの茶碗に入った御飯、豆腐とネギの味噌汁、メインの煮魚、小鉢に入ったひじきの煮付け、そして漬け物――を、私の前に並べた。そして、一度奥に引っ込んでから、鳥越の前に田舎風チャーハン――実物を見ても、なにをもって〝田舎風〟を名乗っているのか、わからない――を運んできた。
 加根子は宮元に「餃子定食よね、すぐやるから」と断ってから、再び奥に引っ込んだ。勝手に生ビールを飲んでいるふたりになにも言わないあたり、彼らの行動はいつものことなのだろう。
 鳥越はカウンターに置かれた酢の入った瓶を手にして、田舎風チャーハンの上で大きな円を二回描いた。それから別の小瓶を取ると、チャーハンの表面が赤くなるほど、まんべんなく七味唐辛子を振りかけた。
「先、食べちゃおうぜ。俺たちも時間ないから」鳥越は、もう元の味がわからなくなっているはずのチャーハンをスプーンで掬って、口の中に放り込んだ。クチャクチャと音を立てて咀嚼する。
 耳障りな音を聞きながら、私も煮魚定食に箸をつけた。煮魚は、おそらく今朝の競りに上がらなかった雑魚を煮付けたもので、舌が痺れるように辛く、逆にひじきの煮付けは、こめかみが痛くなるほど甘い。〝空腹は最高のソース〟というのは嘘だ。隣から聞こえる耳障りな咀嚼音もあって、なかなか箸は進まなかった。
 やがて、餃子定食が、この手の商売では、客に聞かせてはならないはずの音――誰がどう聞いても、あれは電子レンジの音だ――を店中に響かせた後、運ばれてきた。「ごめんねェ、遅くなっちゃって」宮元に向かって、両手を合わせる。
 ――なにが〝今日のおすすめ〟だ
 私は出汁を取っているのか疑わしい味気のない味噌汁をすすってごまかした。
 宮元はせっかくの小皿を無視して、餃子に直接醤油を回しかけた。餃子をひとつ口の中に放り込んで、御飯をかき込む。鳥越のように音を立てて咀嚼はしなかったものの、見事な握り箸だった。
 途中のドライブインで出会った現代風の若者たちの方が、食事のマナーを心得ていた。不快な音のせいで、私の食欲はどこかに失せてしまった。
「煙草……いいですかね」箸を置いて、ワイシャツの胸ポケットに腕を伸ばた。
「ちょっとォ、他人の食事中に、煙草は勘弁してよォ。他人を不快にさせるなんて、失礼だなァ……」宮元が眉をひそめて答えた。口の中に入れた咀嚼中の餃子定食が丸見えだ。
 どちらが他人を不快にさせているのか、はっきりさせるために、宮元の出っ歯をへし折ってやりたい衝動にかられたが、奥歯を噛み締めることで、なんとか耐えた。
「こちら、洋子のことで聞きたいことがあるんだって」鳥越がクチャクチャと音を立てた後、田舎風チャーハンをきちんと飲み込んでから――その程度のマナーは、彼は身につけているらしい――加根子に言った。
「あら、そうなの」
「テレビ番組の製作会社の人なんだって」宮元が先刻渡した名刺を加根子に見せた。「ディレクターさんだよ」
「あらァ、テレビ関係の人なんだァ……」加根子が、芝居がかった調子で驚いた。「やっぱりねェ、最初見たときから、垢抜けてる人だなァって思ってたのよねェ」
 テレビ関係で働いている人間が垢抜けているとも思えないし、私自身は自分が垢抜けているなどとは思ったこともない。なんにせよ、お世辞にしては出来過ぎで、本音だとすれば間が抜けている言葉を聞いて、彼女の声をどこで耳にしたのか思い出した。
 先日、教材販売の業者を装って花田浩二の自宅に電話をした際に、電話口にいた女だ。加根子は、そのことに気づかずにカウンターの向こうから、垢抜けているという私を羨望の眼差しで見つめていた。
 この加根子について気にかかるのは、彼女があのとき花田家で留守番をしていたことと、〝博之〟〝恵子〟と呼び捨てにしていたことだった。やはり、花田家の親族なのだろうか。とにかく、先日の相手が目の前にいることを悟られぬよう探るしかない。
 私は訊いた。「みなさんは、〝よう子〟さんとはどういった関係で?」
「俺も、こいつも高校の同級生だよ」〝こいつ〟のところで、宮元を指差して鳥越が答えた。
「同級生?」桜樹よう子――花田洋子は、私より三歳だけ年上のはずだ。宮元が同級生だということは、わからないでもない。しかし、鳥越はどう見ても五十前後で加根子と同年輩に見えた。
「こいつ、老け顔なんだよ。昔っから」宮元が合いの手を入れた。
「そうなんですか……」煙草が喫えないので、私はお冷やを飲んで間を持たせた。
 〝老け顔〟というものは、ある一定の年齢に達すると、逆に若く見られがちなのだが――鳥越が若く見られるまでは、あと十年近く必要だろう。
「桜樹よう子さんは、高校の頃は、どういう子だったんです?」桜樹よう子の高校時代のことは、調査対象ではないのだが、彼らの口をなめらかにするにも、ありきたりの質問から始めた。
「そりゃァ、きれいだったよ」と宮元。
「……うん、〝かわいい〟っていうタイプじゃないね」鳥越が食事をする手を止めた。「それに、東京ぽかったよな」
「そうそう、洋子は東京って感じがしたよな」宮元がしきりと頷く。
「〝東京ぽい〟……それは、都会的な匂いがしたっていうことですか?」
「カッコいい言い方するじゃない。やっぱ、テレビのディレクターは違うなァ」生ビールを飲んで、鳥越が私の肩を叩く。「そうなんだよねェ……都会の匂いがしたもんなァ、洋子は。夏休みとかになるとさ、洋子は東京で働いてた兄貴――うちの社長のことだけどさ、そこにしょっちゅう遊びに行ってて……ファッションっていうの、なんか全然、他の女たちと違ってたもん」食事を諦めたのか、煙草に火をつける。
 ――我がストレスの一因、消滅。残りはひとつ
 私は訊いた。「じゃァ、アイドルになるのも頷けると……」
「そうだよ。うちの高校どころか、この辺りでも一番いい女だったもん。歌も上手かったし」鳥越の目は、宙に浮いた煙の中に、若かりし頃の洋子と自分を探していた。
「だけどさ、鳥越ちゃんたちが、洋子と仲がよかったのは、高校の頃だけじゃないでしょう?」加根子が口を挟んだ。鳥越と宮元を見て、唇の端を上げる。
「そうだったね……」生ビールを一口含んでから、鳥越は加根子に微笑みを返した。「洋子が離婚して戻ってきてからさ、よく飲んだりもしたし……東京に行ったりもしたな」
 下山文明と洋子が、正式に離婚をしたのは三年前のことなのだが、この場ではそれは伏せておくことにする。
「あ、そうだ……カネコさん、あの写真、どこいったの?」
「あの写真……」加根子が訝しげな顔を作る。
「そう、あの写真だよ」
 加根子が指をパチンと鳴らした。「あァ、三兄弟が写ってるヤツ?」
「そうだよ」と鳥越。口調は少しきつくなっていた。
「あの写真ねェ……」加根子が表情を暗くした。彼女でも、こんな表情が作れるのだ。
「前はさァ、棚のところに飾ってあったべ。どうして、しまっちゃったのさ」
「うーん、あのね」と言って、加根子が声をひそめた。「浩二と恵子がさァ……うるさくて、それでしまっちゃったのよ」
「そんな……せっかく、東京からテレビの人が来てるんだからさ、見せてあげなよ」鳥越が煙草を消した。彼はチェーンスモーカーのようで、息をつく間もなく新しい煙草をくわえた。
 加根子は唇を尖らせて鳥越の話を聞いていた。
「この店も、宣伝してもらえるかっもしれないべ?」
 加根子が私の方を見た。精一杯の努力をして微笑みを返す。
「……それも、そうね。ちょっと、探してくるね。どこにいったかなァ?」〝店の宣伝〟という言葉が殺し文句になったようで、加根子が店の奥へと弾むようにして引っ込んでいった。
 宮元は、いつの間にか餃子定食を食べ終えていて、カウンターの上に置かれた鳥越の煙草を一本抜き出し、こちらに断りもせず火をつけて、美味そうに喫い始めていた。
 ひとつ減ったばかりのストレス因子が、またぞろ増え始めたので、私も自分の煙草をくわえた。ブックマッチで煙草に火をつける私に、宮元はなにも言わなかった。もっとも、なにか言おうものなら、くわえた煙草ごと宮元の前歯をへし折っていただろう。
「だけどさァ、高二の夏休みのときは、洋子は兄貴に会いに行ったんじゃないって話もあったべ?」宮元が鳥越の肩をつかんだ。
 振り返らせようとする宮元の手を、鳥越は肩の動きだけで振り払い、私の方を向いたまま言った。「あれは違うべ。あれァ、兄貴と同じバンドやってたってだけの話だべ」
「バンド? 花田浩二さんはバンドを組まれていたんですか?」
「そうだよ。妹が美人なら、兄貴――社長もカッコ良くてさ。今風に言うなら、イケメンってヤツ。それで、会社を継ぐまでの間、東京でバンドやってて、ほんと、カッコ良かったんだよ」と言い、「今でも、カッコいいけどね」とお追従を挟んで、鳥越は続けた。「……で、洋子は兄貴のバンドでヴォーカルをやってたんだ」
 ここまでの鳥越と宮元の話は、単なる思い出話ばかりで、手がかりになるようなことはひとつもなかった。一万円をドブに捨てた感がある。もっとも、彼らが私をテレビ番組のディレクターだと勘違いしている以上、多くを求めても仕方のないことなのだが。
「いいや、俺は違うと思ってんだ」こちらの意図も知らず――きちんと伝えていないこともあるが――宮元は引き下がらなかった。私にではなく鳥越の背中に向かって言った。「あれは、大江先輩に会いに行ったんだべ。だって……あの頃、洋子は大江先輩とつき合ってるって、噂があったっぺよ」
「大江先輩?」
 聞き捨てならなかった。

   二十一

 ――大江拝
 下山文明に届けられたメールの文末に書かれていた署名――洋子が花田博之に会いたがっていると伝えた人物だ。ここにきて、ようやく手がかりを引き当てた。漁師町だからというわけではないが、大物をバラしてしまわぬよう気をつけなければ。
「俺たちの二コ上の先輩でさ。社長がやってたバンドでギター弾いてたんだよ」宮元が答えた。
「ギターじゃねェべ。ベースだべ」すかさず鳥越が修正する。
 どうも、宮元のいうことは当てにならない。私は鳥越に訊いた。「その……大江先輩というのは、どういった方なんです?」
「神奈川だったかな……とにかく、俺たちが高校入るときに、こっちに引っ越してきた人でね。勉強もできたし、社長とは違うタイプのイケメンだったね。それで、前にいた学校でもバンドをやってて……」鳥越が煙草を消して、すぐさま新しい煙草に火をつけた。「ベースがすごい上手からって、社長がやってたバンドに引き抜かれたんだよ」
「その大江先輩をバンドに入れようって言ったのが、洋子だったんだよ」ちまちまと煙草を喫いながら、宮元が言った。
「そんな話だったか? 俺、覚えてねェなァ」鳥越はビールを飲んで答えた。
「そうだって。だから、洋子と大江先輩はつき合ってたんだって」
「そうかァ……」
「絶対、つき合ってた」宮元が断言した。
「もう……どうでもいいべ。あんな、ふにゃチン野郎のことなんて」品の無い言葉を吐き捨て、鳥越が目の前の煙を手で払った。煙の中に〝イケメンの大江先輩〟の顔が浮かんだに違いない。
「まァ、そうだけど……」
 引き下がりはしたものの、宮元は〝大江先輩〟と洋子の関係にこだわりが残っているようで、まだ話し足らない様子だった。一方で、鳥越は得体の知れない余裕を感じさせながら、煙草を吹かしていた。
 二十年以上も前の学園のアイドルに関する思い出話もここまでだ。私は一番訊かねばならないことを訊いた。
「ところで、その……大江先輩という方は、今どこでなにをしてるんです?」
「さァ……高校卒業して、この町を出てったからなァ。同窓会にも顔を出さないし……」鳥越が首を捻った。
 彼らばかりのような輩ばかりではないだろうが、大江という男が高校卒業以来、この町に戻ってこないのも頷ける気がした。そして、花田恵子が夫と義理の妹のバンド仲間であった男の名前を、聞き覚えがないと言っていたのも、彼がこの町に二十年以上戻って来ていないせいなのだと思った。
 鳥越が眉間のホクロを触りながら、言った。「だけど……医者になったって、いつか聞いたような気がするんだよなァ」
「俺は大学教授になったって、聞いたぜ」と宮元。
 宮元には申し訳ないが、大江に関する情報の優先順位は、鳥越の回答を上位にしておく。
「――あった、あった。鳥越ちゃん、この写真のことでしょ」ようやく、加根子が写真を手に戻ってきた。
「そうそう、この写真だよ」カウンター越しに受け取った鳥越が写真を見て、唇の端を上げた。その見ていて気持ちの良くない好色な笑みを張りつけたまま、鳥越が私に写真を差し出した。
 五人の男女が収められた写真は背景を見る限り、今は雑魚寝する漁師に占拠されている小上がりで宴会でもした際に撮られたものだった。彼らの服装からすると忘年会のようで、花田洋子は彼らに囲まれるようにして座っていた。白いセーターを着た彼女は、まさに掃き溜めに舞い降りた鶴で、アイドルとして売れたのか、そうでなかったのかは別にして、千葉の片田舎に置いておくには、もったいないほどいい女だった。とても花田家の名誉を傷つけているようには、見えない。ただ、気になったのは、笑顔を浮かべてグラスを掲げる洋子の目だった。花田博之とよく似た洋子の目は、どこか虚ろで、なにもかも諦めてしまっているかのようだった。
「その写真、俺が撮ったんだぜ」席を立ち上がって、私と鳥越の後ろに回った宮元が言った。
 ――誰が撮影した写真であるのかは、この際どうでもいい
 私は別のことを訊いた。「いつ頃の写真なんです?」
「十年ぐらい前じゃないかしら」加根子がカウンターの中から答えた。
「もう、そんなに経つんだ……俺も年取ったなァ」と鳥越。
 感慨深げに呟く鳥越も、「そうねェ」と相槌を打つ加根子も、この写真となんら変わってないように見える。十年前から変わらずに鳥越は〝老け顔〟で、加根子は〝厚化粧〟だった。とにかく、この写真が撮影されたのが、およそ十年前だとすれば、離婚して数年後のことで、洋子は三十代前半――ちょうど〈荒神書房〉で見た写真集の頃から十年経っている――ということだ。
 加根子が言った「この頃、博之のことはそっちのけで、洋子は東京に遊びに行っちゃったりしてさ。朝帰りどころか、帰ってこないことなんて、いつものことだったの。そのことで、浩二や恵子にしょっちゅう怒られててね……それじゃあっていうんで、どうせだったら、あたしの店においでってことになったのよ。それで、鳥越ちゃんたちと再会して、遊ぶようになったの」
 先日、電話をしたときも加根子は〝浩二〟〝恵子〟〝博之〟と呼び捨てていた。やはり親族なのだろうか。私は訊いた。「あの……加根子さんは、〝よう子〟さんや花田浩二さんたちとは、どういったご関係なんですか?」
「あァ、あたし? あたしは、洋子と浩二の従姉なの」
「そうですか……いや、どことなく似てるな、とは思ったんですよ」胸の裡とは裏腹の言葉が口をついた。
「あら、ありがとう」加根子が〝しな〟を作って、お礼を言った。
 ――お世辞だということぐらい気づけ、ババア
 聞こえないよう口の中だけで呟いてから、質問を続けた。「洋子さんは、よく東京に遊びに行ってたといってましたけど、それはどの辺りなんですかね? お店の名前とか、聞き覚えはありませんか」
「それなら、俺が知ってるよ」宮元は肩を引っ張り、私を振り向かせて言った。「下北沢の〈ポットヘッド〉って、ジャズ・バーだよ」
「下北沢の……〈ポットヘッド〉?」
「そうだよ、みんなでよく行ったよな?」
 宮元の問いかけに、鳥越は興味なさげに頷いた。
「それによ、俺、洋子とふたりっきりで行ったことだって、あるんだぜ」宮元の鼻の穴が、目よりも大きくなっている。「その店、まだやっててさ、俺、今では常連なんだ」
「常連って、宮元ちゃん、あんた東京行くのは、年に二、三回だけじゃない」加根子が鼻で笑った。
「うるさいなァ……行き方は、こうなんだ」作業着のポケットから出したスマートホンを操作して、ディスプレイを私の前に突き出した。
 画面に地図でも映っているのかと思いきや、この町から〈ポットへッド〉までの道順が、「1」から「7」の順に文章で書き込まれていた。私は下北沢駅からの道順となる「5」から「7」までを、携帯電話のメモ帳に――最近は便利になったものだ――打ち込んでおいた。
「お前、洋子と一緒にその……〈ポットヘッド〉って店に行ったっつてもよ、なんにもなかったんだべ」宮元を見上げた鳥越が、見下すように言った。
「うるさいなァ……」宮元の膨らんでいた鼻の穴が見事に萎み、小さく毒づいた。「なにが、三兄弟だよ」
「そうだ……さっき、この写真のことを三兄弟で映っているヤツと言ってましたね?」鳥越の他にふたりの男が映っているが、彼とはまったく似ていない。〝老け顔〟が遺伝する確率は低いのだろうか。
「あァ、三兄弟ね」鳥越は含み笑いをし、加根子はカウンターの中でうつむいた顔を赤らめた。
「ご兄弟で、映ってるんですか?」
「ちょっと貸して」と言って私の手から写真を取ると、写真の中の自分を指差した。「これが俺でしょ。その隣にいるのが、キタガワ。で、洋子の隣にいるのがワタナベってヤツ」
 三人が三人とも苗字が違う。嫌な予感がした。
「俺とキタガワはさ、高校は違うんだけど、中学の同級生……で、ワタナベはキタガワの高校のときの仲間」
 嫌な予感は広がるばかりだ。
 私の表情を見て取った鳥越が、例の好色な笑みを浮かべた。「女絡みで〝兄弟〟って言ったらさ……あんただって、その意味ぐらいわかんべ」
「やだァ、ちょっと、最後まで言っちゃダメよォ……男と女のことなんだからァ。まだお昼よ」両頬に手を当てた加根子が身体をくねらせた。
「だって、この人がさ、カマトトぶっちゃってっからさ」鳥越が口を尖らせた。
「勘違いしないでね」と言って、加根子が私をちらりと見た。「女にはね、独り寝が寂しいときがあるのよ……」本人は艶っぽく見つめているつもりなのだろうが、醜悪極まりない。「洋子だって、そう。浩二も、恵子もそう。花田の家は、網元としてしっかりしなきゃいけない……とか、お高くとまっちゃって。わたし、嫌なのよねェ、そういうの。所詮、田舎の水産会社じゃない」
 花田家と河野家の間には、なにがしかの諍いがあるのか、それとも寂れた漁師町で一際栄華を築いたことへの僻みなのか。加根子の場合、後者だと思うのだが。
「でさ、洋子とはどうだったのよ」加根子が鳥越に訊いた。
「あのね……やっぱり、元アイドルは違うよ。うん、違う」感慨深げに言って、鳥越が食事を再開した。クチャクチャと耳障りな音を立てて、田舎風チャーハンを咀嚼する。
「やだァ! ねェ、鳥越ちゃん。一応さ、あたし、従姉なんだから……ね」
 加根子は親族とは思えない会話を続け、鳥越は加根子にとぼけた表情を返して食事を続ける。
 蚊帳の外に置かれていた宮元が、ようやく口を挟んだ。「あのとき、俺がジャンケンに負けてなかったら、鳥越、お前が写真を撮ってたんだぞ。そしたら、俺が……」
「負け犬の遠吠えは、聞こえませーん」
「なんだよ。それに、お前、洋子のことが原因で離婚したんだべ」
「それと、これとは話は別でーす。それに、四十超えたババアに興味はありませーん」鳥越は宮元を見もしないで答えていた。
「鳥越ちゃん、それはどういう意味なのかなァ?」カウンター越しに加根子がおどけた。
 少しの間を置いて、ふたりは楽しそうに笑みを交わし、不貞腐れた宮元は自分の席に戻った。
 私はこみ上げてくる〝なにか〟に耐えながら立ち上がった。「トイレをお借りしたいんですが……」
「トイレ? トイレなら、あっちよ」加根子の興味は私から離れているようで、こちらを見もせずに店の奥を指差した。
 私は重たい足取りで、小上がりの前を通ってトイレに入った。少し広めのトイレに入って、まず最初にしたのは、大きく深呼吸をすることだった。そして、剥げかけのタイル壁を靴の裏でひとしきり蹴りつけた。気がつくと、何枚かタイルが剥げ落ちていた。彼らには聞こえぬよう加減をしたつもりなのだが――知るものか。
 それでも治まりがつかなかったので、窓を開けて中にあるトイレットペーパーをすべて外に投げ捨てた。それから、ハートマークで囲まれた〝トイレは禁煙よ〟という張り紙を無視して煙草を一本喫い、ようやく落ち着きを取り戻した。
 携帯電話を片手にトイレを出ると、思ったとおり彼らは話に花を咲かせていた。飛び交う単語は先刻以上に卑猥だった。
 私は手にした携帯電話をかざして言った。「すいません。急に東京に戻らなきゃいけなくなりまして……」
「あら、そうなの。じゃァ、七五〇円ね」加根子が右の掌を上にして差し出した。
 ――あの煮魚定食で七五〇円も取る気か、このババアは
「嘘、嘘。せっかく東京から来てくれたんだから、サービスしといてあげるわ」加根子がウインクをした。
「それは、ありがとうございます」こみ上げてくる煮魚定食を、胃液ごとこの場にぶちまけてやろうかとも思ったが、それ以上にこの場所を早々に立ち去りたかった。「また、なにか話があったら、名刺に書いてある連絡先に電話なりしてください」
「わかった。まァ、あんたもなんかあったら、またおいで。他にも話はあるから」鳥越がスプーンを握ったまま手を振った。
「なんだよォ。まだなんかあんのかよォ……」
 鳥越の身体を揺すって嘆く宮元を見て、加根子がケタケタと耳につく声で笑った。
 彼らの楽しみを邪魔するほど野暮ではないし、そこへ加わるほど悪趣味でもない。ひっそりとドアを開けて、私は足早に〈カネコ〉から出ていった。
 外に出てみると、海から吹く風は先刻よりも強まっていて、傘を右に傾けて歩いた。
 フォード・ファルコンを駐車した〈はなかつパーク〉に近づくにつれ、私はひとつ思い出したことがあった。宮元に渡した〈テレミックス〉という番組制作会社のディレクターのことだ。彼は、私と仕事をした後、昨年の九月に詐欺の手助けをしたとして、逮捕されていた。
 そう、彼は今、〝塀の向こう側〟にいる。

雨がやんだら(5)

雨がやんだら(5)

海を臨めるはずが、窓の向こうは五月雨に煙ってしまっていた。 ベッドに横たわる女の傍らに、その少年は腰かけていた。 私の今回の依頼は、彼を捜すことだった――

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-09

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