路上の敵
小説家というのは何らかの病気を抱えているらしい。懇意にしている西村秀人もその一人だ。彼の場合、路上でソッポを向く通行人に行き合っただけでムッとなる。俺が理由を聞くと、拒否されたと思ってしまうのだと言う。
「殴りたくなることもあるけど、実行したことはない」
「そんなことをしたら、逮捕だろう」
「もちろんだ」
俺は横田の米軍基地で働いている頃知っていた米兵の話をしてやった。そいつはイラク帰りの男で、歩いている途中、何の理由もないのに日本人を殴って警察沙汰になった。戦地では、路上にいる者は皆撃てと命令されていて、そのうち敵も民間人も区別できなくなった。そういう自分が恐ろしくなって酒に溺れた。除隊を命じられて本国に送還され、治療を受けた。よくいう心的外傷ストレス症候群という病気だろう。
「ちょっと違うけど、似たようなものだ。でも、だいぶ直ったよ」
「パッと見には、温厚な思考型に見えるけどな」
「心の中は与太者だよ」
知り合ったのは、飲み屋で隣同士になり、西村が小説を書いているという話をし、また別の日に病的な症状を打ち明けたりしたからだ。それに俺とは共通点があった。六十半ばを過ぎているが、かつては作家志望だった。現在は自動車部品工場に勤めており、西村は親会社の社員で同じ敷地内だからよく顔を合わせる。三十七、八の独身で母親と一緒に住み、会社では一人仕事だから彼に合っている。親しくなって一年半近く経ち、俺は彼がどんな奴かあらかた知るようになった。
「あんた、どんな小説を書くんだね」
「言ってみれば、心の暗がりだよ」
「今、何を書いているの」
「中学時代の教師を素材にしている」
それを聞いたのは少し前だ。中二の時、朝礼に遅刻していったら、全校生徒の前で立たされた。こんな恥ずかしい思いをしたことはない。クラスはもとより近所の人にまで話題になり、世間の反応に傷ついた。無論教師を憎んだの言うまでもない。
「都内の区長の倅でね、私は殴ってやりたかったが、実際にできるはずはない。だけど、余すことなく書いてやるつもりだ」
確かに線の細そうな西村には腕力の行使は似合わない。やっぱり書斎に閉じこもって、研究論文でも書いていそうなタイプだ。
読書の傾向を聞いたら、アメリカ文学が性分に合っていると答えた。
「ところで、アメリカって、いつか滅びるというけど、本当かね」
「間違いなく衰退していくね。日本もそうだけど」
「日本はどうなるんだね」
「どんどんお金がなくなって、貧乏国になるよ」
「なってもいいよ、俺は同じだから」
「却って豊饒な国なるかもしれないよ」
西村は酒席ではこんな風にざっくばらんに喋る。俺は仕事の後は飲んだくれているだけで、本から遠ざかっていた。文芸の話をするようになってから、図書館に通うようになった。土日に行くんだけど、俺みたいな年寄りが一杯来ていて、暇潰しをしている。することがなくて困っているみたいだけど、図書館に来るのはマシなほうだ。日本は六十五歳以上が三千万人いるというけれど、若い連中は俺らをどんな目で見ているのだろう。財政がよくなるから、いないほうがいいかもしれない。どうせならハメルーンの笛吹き男に頼んで、一挙に消滅させてもらってはどうか。さぞかし老いた日本は若返るだろう。もっとも俺も淘汰される一人だ。
「西村さん、精神状態はどうかね」
「最近、殴ってやりたいのが現れた」
「ほう、どんな人だね」
「その男は自宅から、駅に向かう途中に行き合うね」
西村によると、三十代のインテリ風でハンチングをかぶり、口髭をたくわえて、いつも自転車で通っている。すれ違うだけならいいけど、どういうわけか、西村をえらく意識している。しかもその上に会社の界隈でも、見かけるようになった。
「こりゃ何だい、いやな偶然だね」
彼は苦笑しながら憤慨している。乗車駅と下車駅の両方で顔を合わせるなんて、煩わしいだろう。西村と行き合うと、相手は急にオーバーなリアクションをする。自転車に乗って激しく漕いだり、また信号待ちで双方が向かい合っていると、いても立ってもいられなくて、交差点を渡らないで、別のほうにいってしまう。
「すげえ自意識過剰だね」
「私もそれに反応しちゃうんだ」
「似た者同士の近親憎悪ってわけか」
「そうだろう」
言われてみれば俺にも経験がある。駅に向かう途中、三十そこそこの弱そうな男が俺を見かけると、決まって十メートル先から顔を下に向ける。拒否されているみたいでいい気はしない。路上では何事もなさそうに振る舞うのがエチケットというものだ。でも、俺は西村ほど気にしていない。自慢にはならないけど、神経は図太いほうだ。
「私の場合、おそらく嫌悪をそそる何かを発散しているんだ」
西村は自己分析している。もともと、ぎこちなくてオドオドしているから、人に不審感を抱かせてしまうに違いない。今回の作品のモデルの教師もお前は目障りな生徒だという目で見ていた。
「何を教わったんだね」
「数学だね。志水由郎という先生だけど、顔つきも虫が好かなかった。とにかく嫌味なんだ」
「そういう人、いるよな」
「俺はあの頃から人に怯えていた」
彼は中学の頃から自分のことが分かっていて、大人になったら、社会生活をしなくてすむ小説家になろうと考えていた。大学は文学部に入り、サークルは文学研究会、すなわち文研に所属して、習作を書いた。
「でも、せめて通勤の行き帰りくらいは、リラックスしたいね」
彼は大阪の本社にいたが、転勤になったのをきっかけに郷里の東陽町に戻ってきた。
「ところがだよ、その教師と行き合うようになったんだから」
その一件を聞いたのは一ヵ月前で、飲み屋で飲んでいるときだ。
「何だか運命的だな」
「あり得ないわけでもないんだけどね」
教師は定年後、塾の顧問をしていて自転車で通っている。その塾が乗車駅にわりと近いところにあるから、出会ってもおかしくはない。
「そいつはね、エラが張っていて、ウナギという仇名だった」
「今の西村さんのことを知っているのかね」
「どうかね。何とも言えない」
「爺になったろう」
「うん、お互いに風貌は変わったよ」
ウナギはネチネチした性格で、自分の頭のいいところを誇示したり、小馬鹿にしたよう薄笑いを浮かべたりする。おかげで彼は数学が大嫌いになった。二十数年を経て再会し、当時のことを苦々しく思い出させる。
「私は通勤の行き帰りに小説のストーリーやプロットや会話を考えるのが楽しいんだ。たとえばさ、こんな風にね。
『おい、ちょっと待てよ』主人公がウナギに声をかける。『わしを知っているか』
『いや、存じません』
『身に覚えがあるだろう』
『何を仰るんです』
『おぬしには恨みがある。ただじゃすまんからな』
どうしてもヤクザの口調になってしまうんだ。ふだんの紳士的な私じゃない」
その想像の男が目の前に現れたから余計にテンションが上がると言う。「ウナギってのは高値だから、最近食ったことないけどな」
「ひっつかまえて焼いて食うかね」
「奴の肉はまずそうだな」
俺たちは黒い笑い声を立てた。
やっと梅雨が明けて快晴の日が続くようになった。珍しく小説家を会社の帰りに見かけた。
「暑気払いに未来軒でビールでも飲んでいかないかね」俺は声をかけた。「私はあの店は好きじゃない、ラーメンなんか、まずくて食えないよ」
「あそこは餃子が売りだ。とにかくうまいから」
「だけど、マスターは感じ悪いねえ」
「あんたは何かと難しい人だなあ」
朝、店の前を通ると、店主がジロジロ見つめるとかである。その度に自分が胡散臭い人間に思われているみたいで、気分が悪いと言うのだ。
「話してみると、面白いおっさんだよ。どんな奴だって、それはそれで小説のネタになるんじゃないのかね」
「そうか、さすがだね。その心構えは大事だ」
西村は感心して未来軒に付き合った。カウンターに座り、餃子を肴にして生ビールを飲んだ。
「どうだい、お味は」
「ニンニクが効いていて、いけるね」
奴さんは腹が減って喉も乾いていたので、うまそうに食べた。
「小林多喜二なんか読んだかね」
「主だった作品はね。『党生活者』や『一九二八年三月十五日』はいいけど、『蟹工船』は面白くないね」
「俺もそう思うな。中国の魯迅には痺れたね」
「敗退して行く人間像がいいね。魯迅は活力を失った自国民に怒っているな。いまの日本人も同じだ」
「そうだよね。俺はどっかの酒場で飲む小説があるんだけど、あれがいいね」
「孔乙己酒楼だろう、その店は今でも残っているよ。ところで、あなたはもう書かないのかね」
「書けるわけねえよ」
若いころ、左翼だった俺は長い間ペンをとったことはなく、ヘルメットの下は大方白髪だ。結婚したことはなく、木造アパートで一人暮らしをしている。フォークリフトの仕事一筋で職場を転々として、どこでも非正規として勤めてきた。
「この年になると働かないで、朝から番まで布団に潜って寝ていたいね」「私だって、そうだ。引きこもっていられるのが最高の人生だからさ」
「西村さんは居場所はあるのかね」
「市民社会にはないね。あるとしたら表現という架空の世界。それ以外にないね」
「俺は布団の中だ」
二人ともそうはいかず食うために働いている。西村は商業雑誌に年に一、二編の短編を書くぐらいだから、収入は微々たるものだ。
「この間話していた数学の教師の話は完成したかい」
「いやまだだ。どうして仕返しをしようかと考えているんだ」
「筏に縛りつけて、川に流すというのはどうだい」
「それ、いいね」
「山の中に生きたまま放置するとか」
「悪くない」
「罵倒の言葉を並べるとか」
「考えてよ」
「十でも二十でも思いつくよ」
客が帰って手が空いたのか、マスターがカウンターに顔を出して割り込んできた。
「こちらも宇山工業の社員かね」
「そうだよ、この人は小説を書いているんだ」
「ほう、作家さんですか。どうりで独特の雰囲気があるねえ。砂浜に打ち上げられた貝殻みたいだけど、それでいて、ひそかに己の存在を主張しているみたいな……」
「うまいことを言うね。でも、ひねた貝殻だよ」
「住まいは、この辺りなの」
「東西線の東陽町だけどね」
「おやおや。うちの息子が東陽町の小学校で教師をしているよ。子供の頃から変わり者でね。三十八になるけど独身ですよ。あなたとどこか似ているんだな。だから、つい見てしまうの」
「私も結婚はしていないよ」
「年も似たようなものでしょう」
「ええ、三十八です」
西村はくすぐったそうに含み笑いをした。
十日ほどして会社の広場で西村に行き合った。
「あの親父、悪くないだろう」
「そうだね。あれ以来、店の前で顔を合わせると、蒸し暑いねとか、よく降るねとか声をかけてくるよ」
「人はいいよ」
「馴れ馴れしいけどね」
西村は苦笑した。それから俺は六千円で買ったパソコンだけど、だいぶ覚えたよと言うと、こう揶揄しやがった。
「パソコン、やるの。へえー」
「俺だって、現代人の端くれだ。馬鹿にしないでよ」
「じゃあ、メールの交換をしよう」
メールアドレスの載っている名刺をくれた。
それでいて、向こうから発信してくれた試しはない。俺も特に書くこともないので放ってある。忘れていた頃、西村が書いて寄越した。
《未来軒の前で意外な光景を見かけた。あそこのマスターはハンチングと親子ということが分かった。これには驚き、呆れた。その日の朝、前を通りかかったら、準備中の店からひょっこりハンチングが出てきた。背後にいたマスターにこう言った。
「行ってくるよ」
「ああ、気をつけてな」
二人の会話からして父子に間違いない。そんなに似ているわけではないけど、父親の顔に息子の面ざしが感じられる。用事があって立ち寄ったのだろう。息子は店舗と別のところに住んでいる感じだ。どっちにしろ秘密を見てしまったようで、ますますハンチングとは顔を合わせたくなくなった》
俺は思わず笑った。二人はいっそう濃い関係になった。西村は作家だけあって、自分に似たものを引きつける才能に恵まれている。二、三日して第二便が来た。
《この頃、いやにウナギとすれ違うよ。でもハンチングは道順を変えたのか、会わなくなった。路上で出食わさなくなってよかった。その代わり、ウナギを立て続けに見かけるね。その度に睨つけるが、向こうは素知らぬ顔をしている。私に気がついていないかもしれない》
西村はよほど物事にこだわりやすい性格をしている。執念深くていつまでも忘れない。カラスみたいな奴だ。いつだったか、公園を散歩していたら、前を歩いていた初老が同じカラスに二度も襲われる場面を見た。
「コラ、向こうに行け」
男が両手を振り上げて追い払った。きっと前に何か悪さをしたのだ。カラスは頭がいいから覚えている。
しばらくして第三便が届いた。びっくりするような強烈な報告だった。《家を出て出勤中のことです。昨夜は遅くまで起きていて、原稿を書いていたから寝不足で、しかもできが悪いので不機嫌だった。駅に向かっていたら、ハンチングが横丁から不意に自転車で飛び出してきた。すると奴は突然スピードを挙げて走り出した。私のマグマが狂ったように噴火した。
「クソったわけ、いい加減にせんか!」
大声で怒鳴ってしまった。敵は一瞬首をふりむけた。そのとき、前方からきた自転車の老人とガチャンと激突した。
「アッ!」
私は驚きの声を発した。老人はウナギの志水吉郎だった。二人は路上に投げ出された。ハンチングは苦痛に呻き、ウナギは頭から血を流し、ハンドルはぐにゃり曲がっている。凄惨な光景だった。私は放っておくわけには行かず、スマホでただちに一一九番に連絡した。それからウナギに近寄っていき、確かめるために声をかけた。そうしたら、
「な、何故大声を出すんだね。わ、わ、私が憎いのかね」
絞り出すようにゼーぜー言いながら私を見た。目はほとんど力がなかった。志水は私を知っていた。ハンチングは目を開けていて、意識は確かだった。致命傷に至る怪我をしているわけではなさそうだった》
俺は翌朝の新聞に【自転車同士衝突、六十九歳死亡】という記事を読んだ。原因は脇見運転とあり、過失致死の疑いで逮捕とあった。ハンチングは全治三週間、志水吉郎は病院で息を引き取った。
脇見運転にポイントがあった。つまり、この事故は一種の間接殺人だと俺は見た。西村と顔を合わせた時、
「このネタは書けそうかね」と聞いた。
「ああ、完成したも同然だ」
でも、西村は明るい顔はしていなかった。
路上の敵