プロトタイプ
1
「お母さんの好きな蜜柑ですよ」
青年が、蜜柑の皮を丁寧に剥いていく。ベッドに横になっていた老婆を起きあがらせ、青年は蜜柑の実をひとつずつ、手ずから食べさせている。
「ありがとう、未來雄(みきお)ちゃん」
マンションの窓からは、九月のまだいささかも暑さのやわらいでいない太陽のひかりが町ぜんたいを眩く照らしだしているのがみえる。
「お風呂は、夕飯の前がいいですか、あとがいいですか?」
とその青年が言った。
「そうねえ、ご飯の前にお願いするわ」
と老婆が言った。
「悪いねえ。未來雄ちゃんには、迷惑ばかりかけてるねえ。もう動けないわたしのために、お風呂に入れてもらったり、下の世話まで、全部だもの。こんなこと、未來雄ちゃん以外の人にはつとまらないわ」
青年は、絵に描いたような笑顔をみせた。
「いいえ。何でも仰ってください」
老婆は肩までのきれいな灰色の鬢のさきをかすかに震わせながら、未來雄の笑顔を脳裏に焼きつけるふうにしばらく凝視していた。
「むかし、白人は黒人を奴隷にしていたんだよ」
と老婆は言った。「日本でも、江戸時代には、えたとか非人と呼ばれるひとたちがいてねえ。そういうひとたちは、人間扱いされずに、長いあいだ差別されていたんだよ。今からだと想像もつかないだろうけどねえ」
未來雄は老婆がいったい何を話したいのか意図を理解しかねてきょとんとした顔をしていた。
「いいかい。未來雄ちゃん、わたしの話をよく聞くんだよ。わたしの命はもう、長くないんだよ」
と老婆はさいごの声をふりしぼるようにしゃがれた声をだした。ビルディングの窓に反射した光線が、何かの合図のように明滅している。未來雄は、ふたたび頬にはりつけるように感じのよい微笑をしてみせた。
「そんなことはありませんよ。お母さんには、もっともっと長生きして頂かないと」
老婆は未來雄の慰めの言葉を耳にしても、すこしも表情をゆるめないばかりか、逆にきびしいような顔つきになった。
「わたしには思い残すことはないよ。未來雄ちゃん、あなたにはほんとうに感謝しているよ」
と老婆は言った。「――あなたと暮らした九年間は、主人もわたしも、まるで死の淵から生き還ったようだったわ。五年前に主人が亡くなり、近頃ではいくら振りはらおうとしても、死に神がわたしの夢枕に立って手を引いてゆこうとしているようだわ。軀の彼方此方が、すこし触っただけでもぼきぼき鳴るし、皮膚の色も、これまでにないほど、どす黒くなってる。わたしにはわかるの。自分のことだからね。いつでも、連れてってもらってもいい。その覚悟はできています。だって、充分、生きたもの。思い残すことはないの。でも、たったひとつだけ、気懸かりがあるの。それは、あなたのことなの。わたしの心残りは、あなただけなの。わたしが死んだ後は、あなたには、ほんとうに幸せに生きてほしいの。あなたは人間として、幸せに生きるの。あなたはわたしたちの息子よ。わたしたちと暮らした記憶も、自ら命を絶った息子のデスマスクから作ったあなたのその顔も潰してしまうなんて、そんなこと、神様にだって許されるわけがありません。誰にもあなたを殺させはしないわ。わたしの息子は、十七歳で自ら命を絶ってしまったけれど、あなたはあなた自身の意思で生きることを選択するの。あなたは未來雄の生まれかわりよ。未來雄が捨ててしまった未来を、あなたが生きるの。わたしたちの子供として。<介護>とか、<育児>とか、人間に都合のいい仕事をさせるために、あなたは存在しているのではありません。また、そのために、わたしたちと過ごした記憶を消してしまうなんて残酷なことを、誰もできはしないはずです。あなたは、わたしたちの子供として、人間として、生きる権利があるのです」
老婆はそこで一息ついて、窓のそとを眺めた。八月十五日、自由に宙を飛びまわる人工知能の搭載された気象衛星<銀河>が導入されてから、はずれたことのない天気予報のとおり、雲一つない快晴であった。
「生きることは、困難が伴うけれど、すばらしいことだって、たくさんあるのよ」
と言って老婆はふぅ、と息を吐いた。「今はわからなくてもいい。あなたにも、それがわかるときがくるはずだから。あなたは逃げなさい。自分の正体を、誰にも明かしてはなりませんよ。わたしが死ねば、あなたは回収される決まりになっています。この国の法律では、あなたは人間としてひとりで生きていくことはできないことになっています。あなたは今、〈介護〉の名目で活動しても良いことになっています。でも、わたしが死ねば、その名目がなくなってしまいます。あなたを活動させてもよろしいという大臣の許可が切れてしまうのです。わたしが死んだあとも、あなたを廃棄しないで済むように、弁護士さんを介してお願いしたけれど、どの弁護士さんも、大臣から活動の許可をもらってくることはできませんでした。そして、人型ロボットを野放しすることについて、世間の風あたりは、ますます強くなっています。この世界では、残念ながら、ロボットが人間らしく生きることを憎悪する人たちの方が多いのです。彼らは、自分が幸せじゃないのは、ロボットが自分の幸せを横取りしているせいだと考えているのです。多かれすくなかれ、人はいつも、誰かを非難したり、差別したり、何かのせいにしたがります。それは間違った考えです。とても愚かなことです」
ここまで話すと、老婆はちからをこめるように、霞んだ目をほそめた。
「今では、ロボットが奴隷のようです。むかし、白人が黒人を奴隷にしたように。日本で、非人といわれるひとたちが人間扱いされなかったように――」
と老婆は言った。「でも、そんなことを言っても、誰も聞いてくれないでしょう。わたしが死ねば、間違いなく、警察があなたを捕まえにくるでしょう」
青年は、老婆の本心についていくのがやっとだというふうに、すこし小首を傾げた様子で、黙って彼女のはなしに耳をかたむけている。
「あなたが、にんげんの我が儘の犠牲になる必要はありません。道はあります。わたしも、どうにか、方法を探しました。未來雄ちゃん、悪いけれど、棚のなかから、ノートを取ってちょうだい」
未來雄は慎重に老婆の視線の先に手を伸ばした。ベッドの隣の棚の中には小物入れやアルバムが並んでいる。未來雄はその中からピンク色の表紙の、一冊のノートを手に取った。老婆が軽く頷いた。
「その中に、ジェイさんという、アジア系の外国人の方の連絡先が書いてあります。わたしが死んだ後、あなたはジェイさんを尋ねなさい。ジェイさんが、あなたに名前、つまり戸籍をくれます。そうすれば、あなたは日本人として、出生後きちんと届け出がなされた人間として、生きていけます。ジェイさんにお金はもう支払ってあります」
「……」
「それから、棚の前に、銀色の手提げケースがあるでしょう? その中に、お金が入っています。わたしの全財産ですから、持って行ってちょうだい」
未來雄は銀の手提げケースに手を伸ばした。老婆が軽く頷く。中を開けてみると、札束がケースいっぱいに詰め込まれている。
「……こんなに頂いても、私には使い道が思い浮かびません。どうかお母さんが好きなことに使ってください」
「いいのよ。お金は必ず必要になるから。もう私には、そんなにたくさん必要ないのですよ。あの世にまで、お金は持って行けませんからね。そのお金を、銀行に行って、貸し金庫に預けておきなさい。そして、私が死んだら、それを持って逃げるのですよ。……それから、棚の中に、巾着袋があるわ。それはわたしの形見です。覚えていたら、それも一緒に持って行ってもらえると、嬉しいわ」
老婆はそこまで話すと、ひどく疲れた様子で目を閉じた。未來雄は話の続きがあるかもしれないとその場でしばらく佇んでいたが、老婆は目を閉じたままだった。未來雄の特殊なガラスの瞳にはちいさな老婆のすがたが、はっきりと、消えゆくように、朧げにうつしだされていた。
「苦しくないですか?」
と未來雄が問いかけると、老婆は滂沱のなみだをながしながら言った。
「未來雄ちゃん……ありがとう。ありがとうね。達者でね。幸せに生きるんだよ」
「お母さん、泣かないで。わたしはいったい、どうしていいのかわかりません」
「未來雄ちゃんはわたしがいないでも、ひとりで生きていけるよ。以前わたしが言ったとおりにするんだよ。悪いひとに摑まっちゃ駄目だよ。自信をもちなさい」
「お母さんはまだまだ生きられます。そんな弱気なことを仰らないでください。わたしをひとりにしないでください」
「もう駄目だよ。わたしは逝くよ。大丈夫だよ。あなたはひとりでやってゆけるよ。これからは、自由に生きていくんだよ。ううう」
まもなく命のともしびが掻き消えようとしている者が涙を流し、それを見送る側が励まされていた。そのお別れの様子を、死に慣れた看護婦や医者などの病院関係者以外、誰も見ていたものはなかった。いくばくもなく、老婆は未來雄の問いかけにも返事をしなくなった。
ひっそりと老婆は未來雄の腕の中で息を引きとった。
葬儀が催されたのは、九月十三日で、それは「あなたは逃げなさい」という、あの遺言らしき言葉を未來雄がもらった日から、まだ一ヶ月も経っていなかった。
老婆は親類とも疎遠になっており、予想していたより葬儀におとずれた弔問客のかずはすくなかった。
夫人の軀が今まさに焼かれている時、焼き場周辺の静粛な空気を、何やら騒々しい跫音が掻きみだそうとしていた。未來雄が視線をむけると、制服を着た警察官がぞろぞろとやって来ていた。彼らのうちのひとりは、ロボットか人間かどうか判別するための磁石のような器具を手にしている。
「夫人の介護ロボットは何処にいますか?」
ひとりの警察官が、焼き場の係員に尋ねた。
「我々は、用済みになったロボットの回収に来ました」
事情が飲み込めない係員は首を傾げている。
「ロボットですか?ここには、遺族の息子さんしか、お見えになっていませんが」
その警官は、たぶんこの一団のリーダーだろうと思われる、制帽に金線が二重に入った男に、
「取締官」
と呼びかけ、焼き場の係員の回答を報告した。
取締官と呼ばれたのは軀のごつい男で、見た目は四十歳くらい、でこぼこの顔と、異様と言っていいほどの目を鋭さを持っていた。取締官はその鋭い眼光で、竈の中で灰になりつつある老婆の手前の廊下を眺めた。つられて報告をした警察官も同じ方向を一瞥した。けれどもそこに人の姿はなかった。
「遺族の息子だと? ロボットはそいつだ、馬鹿もの!」
取締官に怒鳴られ、部下の警官たちがあたふたと四方八方に散らばってゆく。
警官により、艶のある、暗黒を思わせる四対の歩脚をもった蠍型ロボットが地面に数匹放たれ、喪服に身を包んだ人間たちの足のあいだをすり抜ける。ダイオウサソリをモデルに設計された蠍ロボットは、本物の蠍と同じくらいグロテスクな外観を持っていることで知られている。愕いた人々は脚を交互にあげて恐怖のダンスを踊りはじめる。蠍型ロボットの尻尾には、ロボット殺しのための、猛毒のウイルスが充填されていて、それは人間にとっても致死性のものだった。ロボットにその毒が注入されると、人工知能などは数秒で破壊し尽くされ、ものの十分もしないうちに、ただの鉄クズと化してしまう。
静かな葬儀が掻き乱され、急に騒々しくなった。駐車場にとめられていたパトロールカーの赤色灯が点灯し、サイレンが喧しく鳴り響きはじめる。パトロールカーに乗り込んだ取締官は、無線に向かい、「08624番が逃走した。本部から機動捜査隊の応援を願いたい」と言いながら唾を飛ばしている。
すでに警察官たちは、何列か並んだ竈の前の、死者を見送る人間の群れに割って入って、身体検査や所持品検査をはじめている。
「ちょっとすまんね」
警察官がそう言って、強力な磁石の先を人の体に突きつける。磁石がくっつかないと見るや、ロボットでないと判断し、もう次の人間の検査をはじめている。
未來雄は柱の影からその様子を隠れて見ていたが、違和感を持たせぬ動きで、さりげなくその場を後にした。
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