Fate/strange fake Prototype -Another Player-

2008年発表の成田良悟作エイプリルフールネタ「Fate/strange fake」の続編。
2015年発表の成田良悟作電撃文庫発売「Fate/strange fake」と違い五つの令呪を持つプレイヤーの存在があります。詳しくはWikipediaか何かで調べてください。

プロローグ部分は原作に準じているので読んでいないと分からないと思いますが、読んでいれば納得できるように一応作中の伏線は回収しつつ、完結はさせています。
これを機会に原作も読んでいただければ幸いです。

01

 本作は「デュラララ!!」や「バッカーノ!」でお馴染みの成田良悟氏が2008年エイプリルフールにゲームシナリオ(嘘)として発表した「Fate/strange fake(プロト版)」の続編として書いてあります。
 そのため、本作を読む前にプロローグとしてプロト版を読むことをお勧めします。プロト版は入手困難であるため、森井しづき作画の漫画第1巻でも代用が出来るよう加筆修正しました。2015年発表の成田良悟氏の小説「Fate/strange Fake」は未読のため、内容の保証は出来ません。
 本作の99パーセントは2015年より以前に書いています。ストーリーは確実に異なりますし、Wikipedia等で書かれている設定とも多々異なる筈なのでそれを承知でお読みください。


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 その老人はひどく悩ましげな顔をしている。
 悩んではいる。しかし疲れている様子はない。どこか稚気を孕んだその顔は所詮は他人事と突き放しているようである。
 そんな老人が、君の存在に、ふと気がついた。
「なんだ、こんなところまで尋ねに来る酔狂がいたのか」
 君がここにいることに驚くよりも、この場に誰かが訪れる可能性に老人は驚いている。
 君は老人は誰で、ここはどこかを尋ねた。
 しかし老人は自らの正体について触れることはない。
「ここはどこだと? さてな。そんなことを知ってどうする。異空間か、特異点か、平行世界の狭間か。はたまた交叉集時点(クロスホエン)であるかもしれない。少なくとも君の考えが及ぶ場所ではないことは確かだ。
 強いて言うなれば、これは君の夢の中だ」
 夢、と君は繰り返す。
 周囲を見渡せば、ここには本当に何もない。老人と椅子と机、それに古めかしいダイヤル式の電話くらい。なるほど、夢であれば余計なものを意識できないのも無理はない。
 しかし君はふと気になるものを見つける。
 机の上にある書類の中に、写真付きの資料がある。写真の中には髪を金色に染めた眼鏡をかけた女性の姿がある。
 アヤカ・サジョウ。
 君と似てるかもしれないし、似ていないかもしれない人物。他にも気になる点は多々あるというのに、君はその人物が気になって仕方がない。
 そんな君の様子に老人はようやく合点がいったと頷いた。
「なるほど。先ほどコーバックと彼女のことについて話していたわけだが、どうやら回線にまぎれてプロトタイプの情報が引き寄せられたようだな。となれば、君を招いてしまったのは私という事か」
 老人は君に理解できないことを納得する。
 しかし君は未だ理解できずにいる。
「悩むのは当然だ。君は産まれたての雛鳥のようなものなのだからな。何も知らないし、何もわからない。本来であれば別途専用に用意されたプレイングマニュアルがある筈だからな。
 しかし君を元のところへと戻すのは手間だ。ここは私が一肌脱いだ方が手っ取り早いかもしれん」
 老人はしばし思案し、やれやれと面倒くさげに君へ向き合う。
 老人は君を元来た道に戻すことなく、君をしかるべき場所へと送り出してくれるらしい。
「まず君の知識を問うておこう。“偽りの聖杯戦争”を知っているな?」
 老人の問いに君は頷く。
 君の記憶にある“偽りの聖杯戦争”とは、『スノーフィールドで行われる六人のマスターと六柱のサーヴァントで争いあうバトルロワイヤル』とある。
 そして君はその“偽りの聖杯戦争”の失われた『セイバー』のクラスを補完する存在としてその戦争に参戦することになっている。
 君の答えに老人はやや考え込む。そして面倒くさくなったのか、余計な注釈をいれることなく、君の答えに頷いた。
「概ねその通りだ。君はプレイヤーとして、その戦争に参加する」
 そこで老人はちらりと君も気になっていた書類に視線を這わせる。
 思い切って君はその書類の人物、アヤカ・サジョウについて聞いてみる。
「君が気になるのも無理はない。彼女も君と同一の存在だ。残念ながら、君が彼女と会うことはありえないが」
 君が参加する“偽りの聖杯戦争”には君という可能性(キャラクターメイキング)の数だけプレイヤーがいる。対して、私が介入する“偽りの聖杯戦争”に君はアヤカ・サジョウという存在に集約されている。
 君がアヤカ・サジョウが気になるのもそれが理由だろうと老人は告げた。
 君はよく理解できない。
「細かい事はどうでも良い。分かる必要もないし、分からない必要もある」
 老人の答えに君は少し不愉快になる。もっと有益で分かり易い情報を君は欲している。
「仕方がない。ならばその令呪の使い方はわかるな?」
 わかる、と君は答える。
 令呪は三日前、ラスベガスにて白い髪と白い肌の美女から押し付けられたものだ。
 他のサーヴァントとは異なり、常に召喚し続けることは不可能。
 一度喚び出して力を行使すれば、令呪と共に加護も消える。
 五人だけ呼び寄せられる、使い捨てのサーヴァント。
 使い方によっては、他のサーヴァントたちを屠ることも可能だろう。
「呼び出せる英霊はペルセウスやイアソン、スカサハ、ヒュドラといった十数種類の中から選べる。勿論、使い切ってしまえばただの“人”に過ぎない君が生きていられるわけもない。加護を失い退場したくなければ慎重に使うことをお勧めしよう」
 老人の助言に君は素直にうなずいた。
 頭の中には召喚できる英霊のリストがある。パラメーターも添付されているのでそれを参考に君はどの英霊を喚べば良いのか判断できる。
 老人は欠陥品に呆れたような目で君の右手・右肩・背中・左肩・左手にある令呪を順に見る。君はそのことには気がつかない。
「ただし、破格の切り札を持つ代わりに君には四つの制約がある」
 令呪があるから制約があるのかは疑問だがね、と老人が嘯くが、君はその呟きを聞き逃す。
 老人は続ける。
 一つ、君は――『エレベーターのある建物に入れない』。
 一つ、君は――『時折、血塗れの女の子の幻影を見る』。
 一つ、君は――かつて、日本の冬木市という街に住んでいた。
 一つ、君は――どうやら何かから逃げてアメリカまで来たようだ。
 君がそれらの事象を克服できるかどうか、それもまた君次第だ。
 と、何かを思い出すように説明してくれる。
「そうだな、あとスノーフィールドのどこかに『Rin Tohsaka』と刻まれた魔力針がある。序盤で見つければ動くのが楽になるだろう。他に、日本に住む人形師が作った義手もある。腕を失った時には捜してみると良い」
 老人の目線が泳いでいる。
 そこに君は疑問に至る。
 “偽りの聖杯戦争”の資料は机の上にあるのに、何故思い出すような真似をしなくてはならないのか。
 まるで、老人の知っている“偽りの聖杯戦争”と君が参加する“偽りの聖杯戦争”が違うものかのようだ。
 そして君の質問に老人は首肯してみせる。
「その通りだとも。私が介入しようとしている“偽りの聖杯戦争”は未来の物語だ。そして君が参加しようとしている“偽りの聖杯戦争”は過去の物語。たとえ起源を同じくしようとも、もはや両者は別物だ。
 同じ食材を使っても調理の仕方は料理人次第。メディアが違えば演出も違うし、書き手が異なれば結末も違う。舞台と登場人物が同じでも初期値が異なれば尚更だ」
 老人の言っている意味を君は反芻する。
 では、二つの“偽りの聖杯戦争”では何が違うのか。
「違いを一つ一つ挙げていくには無理がある。それに、子細を語れば君の有利に働いてしまう。プレイヤーの名こそあるが、ゲーム盤の駒に過ぎない君が全体を俯瞰するのはルール違反だ」
 既にいくつかそのルールに触れていることに老人は頓着しない。あるいはどうでも良いと思っているのかもしれない。
「そうだな。ルールに触れずに違いを挙げるなら……君が参戦する“偽りの聖杯戦争”に署長と話していたフランチェスカたる魔術師はいない、というくらいか」
 それだけ抑えておけば、“偽りの聖杯戦争”のプロローグは何ら変わりはない。
 だから安心して君はプレイヤーとなりたまえと、老人は太鼓判を押す。君は訳の分からないまま頷いた。
 署長はオーランド・リーヴという名前かもしれないし、そうでないかもしれない。
 キャスターの真名は大デュマかもしれないし、そうでないかもしれない。
 胡乱な記憶のまま老人は君にそう助言する。ただし、君がその真実を得ることは絶対にないとだけ、断言する。
 その後、スノーフィールドの地理や情勢について基本的な知識を受け取り、君は礼を述べてその場を辞した。
 一体どうやって来たのか分からぬまま、君は老人の前からいなくなる。
 次に気付いた時、君はスノーフィールドの街の入り口に立っていた。
 夢を見ていたような気分だったが、そのことを君は不思議に思わない。
 ドラッグストアに入り、君は店番をしていたモヒカン刈りの男に平屋の安いモーテルの場所を尋ねる。外見とは裏腹にフレンドリーなモヒカンは道を教えてくれ、そして君の令呪を「いかしたタトゥー」と褒めてきた。君は愛想笑いをしながら店を出た。


 プレイヤーがこの場からいなくなった後、ふと老人はものすごく基本的なことを注意していなかったことに気がついた。
 老人が忘れていたのも無理からぬこと。それは老人にとってあまりに基本的で、一般的で、ことさら示唆するようなものではない。プレイヤーがその道に通じていれば、釈迦に説法ということもありえる。
 どうせ幾千幾万幾億ものプレイヤーがいるのである。そしてそのどのプレイヤーも老人と今後接点を持つことはない。老人が接点を持つのはアヤカ・サジョウただ一人。一期一会が確定している存在などいちいち気にしていられるほど暇ではない。
 ゲームの基本ルールはレクチャーしたのだ。駒の動き方を知っていれば、自ずと戦術は見えてくる。それに気付かなければ痛み目に合うだけ。死んだところで老人に迷惑はかからない。
 少し気にはするが、老人はすぐにその事実を忘れ自らの作業へと戻っていく。
 老人が注意し忘れていた事実。
 つまり、令呪は隠すべきという基本戦術。
 でなければ、すぐさま敵に発見され、プレイヤーは駆逐されることになる。


 プレイヤーの姿を確認したモヒカンが、その後真面目な顔でダイヤル式の受話器に手を伸ばしたことを、老人の知る由もない。


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 紳士淑女のプレイヤー諸君に告げる。
 これは“偽りの聖杯戦争”のマスターとサーヴァントによる戦いの記録である。
 アーチャー、英雄王ギルガメッシュが恩を売られまくり、
 マスター、原住民族長ティーネ・チェルクが全身を辱められ、
 ランサー、神造兵器エルキドゥが役に立たず、
 マスター、合成獣の銀狼が接待し、
 ライダー、ヨハネ黙示録のペイルライダーが正義を語り、
 マスター、眠り続ける少女繰丘椿が敵を素手で殴り倒し、
 キャスター、劇作家■■■■が周囲からこき使われ、
 マスター、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》率いる署長が部下たちを裏切り、
 アサシン、美しき暗殺者が人助けに奔走し、
 マスター、六連“男装”ジェスター・カルトゥーレが流れ弾で死に、
 バーサーカー、殺人鬼ジャック・ザ・リッパーが誰も殺さず、
 マスター、時計塔の魔術師フラット・エスカルドスが恐怖に怯え、

 そんな彼らの願いが『全て』叶ってしまう物語である。

 そして残念なことに、君たちプレイヤーは徹頭徹尾、活躍しない。
 君たちプレイヤーが持つ英霊を時間限定で自由に喚べる五つの令呪、
 君たちプレイヤーが背負う四つの制約、
 そんなものは物語に大した影響は与えない。
 君たちに待っているのはただ弄ばれ、利用され、使い捨てられる運命だけだ。
 例え活躍してもそれはサーヴァントの活躍であって、君たちでは決してない。
 役立たずな自分を直視したいのなら、ページを捲ることをお勧めしよう。

 それではこの奇妙でねじ曲がった運命を開始しよう――


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 Fate/strange fake Prototype -Another Player-

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 それは、誰かの放った一撃だった。
 拳銃から放たれたのは一発の弾丸。日本であれば実物を見る機会はまず皆無である代物であるが、情報だけならいくらでも手にすることができる。兎角、それらの情報の中で最も大切なのは経験せずとも理解できる殺傷能力。
 ある程度距離が離れていては命中はあまり期待できないが、だからといって銃口を向けられて平気な者などいるわけがない。
 一発目、二発目は見当違いな場所に弾は当たった。運が良かったわけではなく、これはただの威嚇。三発目からは手足が狙われ、銃口が複数になった頃合いからそれもなくなった。
 そして、最初の銃弾から数えて一〇発目。
 偶然ではあった。しかしながら、必然でもあった。遅いか早いかの違いに過ぎない。
 予定調和の如く、その一撃は、気づけば眼前にあった。
 銃弾を目視する。あり得ないことではあるが、事実としてその銃弾は不可避の速度、必中の進路を持ってそこに存在していた。
 アキレスが亀を追い抜こうとしている、そんな刹那。時が止まってみえたのは走馬灯の原理に違いない。しかし走馬灯ならば身体が動かぬのもまた道理。死の間際にあって何かをしている暇などどこにもない。瞼を閉じる事も、祈ることも、座して待つことすら許されない。ただ弾がそこにあるという現実だけを頭は理解する。そしてその先に待つであろう「死」を。
 だが。
 この身を貫こうとする銃弾は、
 この身を救おうとする白刃に、軌道を逸らされた。
 軽やかな無音が戦場を支配する。銃弾飛び交う社交場に現れた無粋者は、ただその存在感だけで静寂を呼び込んだ。
「……」
 人には到底成し遂げられぬ事をあっさりと成し遂げ、次へと繋げたのは嵐を呼び起こすような静かな呼気がひとつ。他の全ての生物は呼吸を忘れている。
 足音などしなかった。
 その場に唐突に現れた影。
 それは今の今まで存在しなかった人物だ。

「―――問おう。貴殿が、我がマスターか」

 誰何の声が辺りに響き渡った。
 それは誰に問いかけたというよりも、周囲に自身の存在を知らしめる問いかけ。
 これは現実であり、かの存在がここにいる、という事実をこの場にいる全員に共有させる言葉。
「召喚に従い馳せ参じた。
 これより我が刃は貴殿のために振るい、全力を持って貴殿を守ることをここに制約する」
 ――聞くところによると、第五次聖杯戦争優勝者、衛宮士郎も自らの危機において最後のサーヴァントを召還したという。この場にもし彼がいればこの光景を自らの過去と被せたことに違いない。
 聖杯戦争の開始と見なす時期には諸説ある。
 最初の令呪が宿った時――
 全マスターに令呪が宿った時――
 最初のサーヴァントが召還された時――
 マスター全員が開催地へ足を踏み入れた時――
 サーヴァントとサーヴァントが最初に激突した時――
 どれを開始とするのか難しいところではある。ただ、後世の歴史家や研究者の多くは、ある条件によって聖杯戦争の開始とする者が多い。例えば、第四次聖杯戦争であればキャスターの召還、第五次聖杯戦争であればセイバーの召還である。
 即ち。
「サーヴァント、新免武蔵藤原玄信」
 このスノーフィールドの地に、七人のマスターと七柱のサーヴァントが出そろったこの瞬間こそが、
「――押して、参る!」
 偽りの聖杯戦争、その開幕である。


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 その一報が入った時、折しもスノーフィールド市警は混乱の最中にあった。
 通常であれば何ら問題もなくスムーズに情報が伝えられたことだろう。スノーフィールド市の治安はさほど悪いわけでもなく、警察機構が優秀と言うこともあって、警察署の電話交換手は久しく苦情処理以外の仕事が回らないこともあった。
 しかし今回はそれが裏目に出た。
 咄嗟の対応ができるよう指示は出されていたが、ほぼ同時刻に殺人・強盗・交通事故の報告が舞い込み、ついでとばかりに泥酔した自称アーティストが警察署内で暴れていた。間の悪いことにジュニアスクールの社会見学のために、署長は対応に出ていた。
 情報が錯綜する。治安が良い反面こうした混乱に弱い。混乱したのはわずかに十分少々ということを考えれば優秀であるとも言えるが、その間重要度が低い、と判断された事案は完全にストップした。
 タトゥーをした不審な外国人観光客がいる、という情報は本来であればキャスターのマスターたる署長の耳に直ぐさま入る筈だったが、本業を優先した対応者はそのことを署長の耳に入れることをしなかった。聖杯戦争を知らぬただの一般職員がそうした対処をしたことを誰が責められようか。
 結局、聖杯戦争の参加者たる署長にその件が報告されたのは魔術師としての弟子である直属の戦闘集団「《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》」の一人から直接の連絡があってからである。その時点で、すでに事は早急な対応が必要であった。
「――市街にサーヴァントが現れただと」
 その報告にわずかな苛立ちを滲ませながらモニターに映し出された映像記録を確認して署長は今後の対応を考え眉間に皺を作った。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の現時点での任務はサーヴァント及びマスターの発見にある。そのため魔術師としてではなく、あくまで警察官として行動するよう指示してあった。警察の中にマスターがいることを気づかれぬよう、宝具の所持を禁じ、魔術の使用も必要最低限に限るよう通達してある。
 とはいえ、これでサーヴァントやマスターが見つかると期待はしていたわけではない。監視カメラをはじめとする警察機構の情報網を利用できるとはいえ、サーヴァントはともかくマスターの情報についてはあまりに手がかりが少なすぎる。
 それこそ、無防備に令呪をむき出しにしていない限り、マスターの発見は困難だ。
 聖杯戦争のセオリーに則っていれば、そんなことある筈がない――そう考えても無理からぬこと。それが二人目ともなれば尚更だ。
「今度は一体どこのバカだ」
 周囲を慌ただしく動き情報を整理する部下へ一通り指示を出し終え一区切り。誰ともなく罵ってみるものの、それで過去の失態が帳消しになるわけでもない。
 キャスターのマスターである自分にもしもの時があった時に備えてマニュアルを作成していたことも裏目に出ていた。
 早急な判断を要する際にマスターたる自分と連絡が取れぬ場合、仕留めることが可能なら連携を取りながら通常火器にて対応するよう指示してある。今回の場合も魔力の濃度から令呪が本物であることを現場の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が確認し、マニュアル通りの対応が行われた。
 その結果、白昼堂々市街地でサーヴァントが暴れる事態となった。
 この偽りの聖杯戦争においてはこうした事態に備える監督役が存在しない。事後処理をどうするのか正確には聞かされていないが、責任の一端を警察署長としても、戦争に参加するマスターとしても取らされることは間違いない。最悪、事後処理の対象そのものになる可能性すらある。
 どちらにしろ事態を早急に収める必要がある。
 ちらり、と時計を見る。指示を下して二分と少々。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》といえども数と装備を整えねばサーヴァントと相対させることはできない。待機状態にあった《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》をフォーマンセル3チームで急遽現場に向かわせたが、これ以上の増援はあと半時間は必要だ。後は一般の警察官を大量動員して対処していくことになるだろう。災害時の退避マニュアルをどこまで適用できるかが鍵となる。
「ここまで大胆に動かれた以上、他のマスターたちも黙ってはいまい……」
 と。
 不意に今まで署長として使っていた電話とは別の、窓際に置かれた別の電話が音をたてる。
 この聖杯戦争のために署長用の電話とは別に用意させた電話である。二つの電話には盗聴を防ぐための技術的な処理を施してあったが、この電話はそれに加え魔術的な処理も施し、回線も巧妙に隠してある。この存在を知る者は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と、あと一人だけ。
 必然、思い当たる人物はその一人しかいない。
 迅速な行動が求められる職種の長としては、いささか手を伸ばすのに時間がかかっていた。
『おいおいおい、おもしれぇことになってるじゃねぇか! なんで俺に連絡よこしやがらねぇ! 俺はシンデレラじゃねぇんだぜ?』
 回線が接続されると同時に聞こえてきたのは一般アナログ回線からデジタルの秘匿回線に切り替わるノイズ音。それと、今この場で一番聴きたくなかった男の声だった。
 思わずどなりつけたくなる衝動を眉間に皺を寄せることで抑え、一応ではあるがマスターとサーヴァントである関係を思い出す。どこで知ったのか知らないが、確かに無関係ではない。
「……キャスター。お前はお前のやるべきことをこなせ。すでに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が出動している。早晩事態は解決する。何の問題もない」
 署長自身も騙しきれない嘘をついてみる。どれもこれも問題だらけで、事後処理も含めれば「解決」なぞ当分先の話だ。
『はっ! 何の問題もないだと! わかってねぇな。ようやく聖杯戦争が開幕したってのに暢気にしていなさる! このままじゃあつまんねえ結果になっちまうからこうしてわざわざ電話したんだぜ?』
「私は忙しい。用がないなら切るぞ」
『いい案があるんだがなぁ? 後で聞いておけばよかったって、後悔するハメになっても文句言うんじゃねぇぜぇ?』
 キャスターの挑発的な発言に半ば本気で切りたくなるのを何とか堪えてみる。怒りにまかせるのは簡単だが、キャスターの機嫌を損ねたことで「昇華」の作業が滞るのも馬鹿馬鹿しい。
 錠剤型の胃薬を一つ、苦虫を噛み潰すようにして飲み下した。
「……早く言え」
『まずは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を引かせろ。警察もだ』
 案という割には、その口調は命令だった。
 キャスターは巫山戯た英霊ではあるが、マスターがサーヴァントたる自分に何を求めているのか理解していないわけではない。それ故に「昇華」作業以外に口を出すことは少なく、それが命令となれば初めてである。
「……理由をきいてやる」
 普段の虚言なら即座に切って捨てるところだが、傾聴に値する言葉をキャスターは持っているらしい。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を出さない、という選択肢は実のところ最初に見当している。
 序盤での傍観は聖杯戦争(バトルロワイヤル)のセオリーであるし、その方が《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の存在を秘匿できる。一般警察官を大量に現場へと投入し、そしてあえて逃げ道を用意しておけばそれで一応の解決もできよう。むしろ警官という立場上現場を押さえることで漁夫の利を得ることも期待できる。
 だが今後のことを考えると、早い段階で《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に対サーヴァント戦闘を経験させることには意味がある。準備万端に相対できる敵でない以上、日中の市街地での混戦はかなり好条件とすら言えよう。地理的優位もあり、支援も期待でき、それでいて既に敵サーヴァントの情報も得ている。次の機会などが来る保証もない。
 何より、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の目的は「人間による英霊の打倒」だ。傍観を続けて最後の一体だけを倒しても意味がないのである。
 それが分からぬキャスターではない。当然のようにマスターの疑問にサーヴァントは解答を用意してみせる。
『前にも言っただろ。俺は本来できの悪い台本を直すほうが得意だってな。
 ……なぁ兄弟。お前さんは俺以上に現場を知っていると思うんだが、状況を簡単に教えてくれねえか』
 今度は頼みというより確認。兄弟について訂正する時間を惜しみ、入ってきた情報を簡単にまとめる。
 スノーフィールド市内において令呪を持った外国人旅行者を《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の一人が発見。令呪が本物であることを確認した段階で現場の一般警察官四名と共に旅行者を包囲、通常火器による射殺を試みた。が、射殺直前になってサーヴァントが召還され、同時に令呪のひとつが反応したことからサーヴァントは旅行者のものとみて間違いない。
 名乗りが本当なら、真名は新免武蔵藤原玄信――東洋のサムライらしい。クラスは不明。サーヴァントによって《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》も含め警察官全員が負傷。未確認ではあるがその後に町で潜伏中の魔術師多数と交戦している模様。現在確認されただけでも負傷者が十三人、倒壊した建物四棟、火事が一件、死者は確認できていない。
 詳細な場所などは伏せて署長はキャスターの要望通りに説明する。キャスターがいらぬ好奇心で現場に出かけることを防ぐためだ。だがそんなことを追求することなくキャスターは大人しく署長の言葉に耳を傾け、何かを思案――いや、納得している様子であった。
『はん。予想通りだぜ兄弟。こいつぁできの悪い台本だ。これを仕組んだ奴はとんだ三流だぜ』
「仕組んだ奴だと?」
 意図的にキャスターは署長の興味をひく言葉を使っている。それが分かっていながら、この事態においては聞き返さずにはいられない。
『言葉の綾だ。いるかもしれねぇし、いないかもしれねぇ。運命の女神は俺のセフレだが、もし仕組んだのが奴なら今度ヒイヒイ喘がせてやる必要がある。知ってるか? アイツ首筋が弱いんだぜ』
「お前の下劣な嘘はどうでもいい。だがこの事件、裏で誰かが糸を引いてると何故言える?」
『確証はねえよ。だがもし俺がこの聖杯戦争の脚本を書くなら、同様の展開にはなっているだろうよ』
 これじゃあせっかくの役者が台なしだ、とキャスターはぼやいてみせる。端役には端役の役割があるんだぜ、とも。
 受話器の向こう側でキャスターが笑みをこぼす気配が感じられた。キャスターにしてみれば、ここで署長がその可能性に辿り着くことが、脚本の修正なのだろう。
「――他勢力の一掃が目的とでもいうのか」
 本来ならば一笑に付す結論ではあったが、キャスターはそれを否定しなかった。
 かつての聖杯戦争はそれぞれのサーヴァントを擁する陣営が戦い、共闘し、裏切り、策謀を尽くして争い、それに教会が神秘を秘匿するべく監督役として乗り出してきた。結果としてそれ以外の勢力はサーヴァントを擁するいずれかの陣営を援護することはあっても直接開催地である冬木へと乗り込むことを抑えられていた。
 だがこの偽りの聖杯戦争はそれぞれの陣営が争うことまでは今まで通りだが、教会の監督役は存在しない。そしてマスター以外にも令呪を奪取できるという事実が、いつの間にか多くの魔術師たちに知れ渡っていた。
 おまけに協会に宣戦布告する真似までしてしまい、結果として驚くほど多くの勢力がそれぞれに優秀かつ命知らずな愛すべき馬鹿野郎をスノーフィールドの地へとバックアップクルーを含めて大量に派遣している。
 となれば、令呪に選ばれなかった他の魔術師達が漁夫の利を得ようと考えるのは自然な流れというものだ。
 現在、百人を超える武闘派の魔術師がスノーフィールド市内に潜んでいることが確認されているが、実際にはその数倍の魔術師が入り込んでいることだろう。スノーフィールド全域まで拡大すれば関係者含め確実に四桁に達している。
『繰り返すが、確証はねえ。確証はねえが、俺はいると睨んでいるし、現状を見てもその通りになってる。
 ――お前さんがもし令呪を持たぬただの魔術師なら、この機会をどう捉える?』
「…………」
 キャスターの言うとおり、この機会は令呪を持たぬ魔術師からすれば千載一遇のチャンスだ。
 サーヴァントは確かに強力な戦力だが、多対一ではその能力は十分に活かせない。令呪の転写に時間はさほどかからない。直接的な戦闘を行わず、ただマスターとサーヴァントを分断し時間を稼ぐだけならば、リスクに見合う釣果を得られることだろう。マスターが魔術に対して無知であれば尚のこと時間は少なくてすむ。
 自分であれば、この機を逃さない。勝利に越したことは無いが、負けたとしてもその実戦経験は今後の糧となる。どちらに転んでも《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を投入する意義はある。
『時間は、もうないんじゃないか?』
 そうキャスターは言い残して、電話は切られた。少しの間、音声の切れた後にプーッと音の流れる受話器を見つめた後、署長は静かに受話器を置いた。
 時計を見る。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はもうすぐ現場に到着する頃合いだ。
 口に手を当て、視線は宙を睨み付ける。
 かつての聖杯戦争において何も知らぬ第三者に令呪が宿ることはままにある。だがそれは他に候補がいないためであり、今回の聖杯戦争においては候補はスノーフィールドにいる魔術師の数だけあると言ってもいい。
 入ってきた情報によると、旅行者は一般人である可能性が高く、また聖杯戦争についても知らない可能性が高い。だというのに、他の魔術師をさしおいて令呪をその身に宿している。
 畢竟、本件が偶然である可能性は非常に低い。何者かが意図的に旅行者へ令呪を与えたと考える方がよほどしっくりとくる。
 とは言えキャスターの言うことをそのまま信じているわけではない。状況からしてキャスターの言うことはもっともであるのだが、あれは劇作家としての意見だ。現実的に考えればこんな序盤で令呪を持つ貴重なマスターをそんな目的のためにリスク覚悟で放り出すわけがない。
 理性は告げる、キャスターの言葉は無視するべきだと。
 キャスターはあくまで《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が潰されないよう連絡をしてきたのではなく、脚本を修正するために連絡してきただけだ。聖杯戦争の勝敗など彼には何の興味もない。
「……キャスターめ」
 部下へ連絡すべく受話器を再度取りながら誰ともなく呟いてみる。市街で暴れているマスターとサーヴァントの後ろに誰かいるのかいないのか分からないが、少なくとも《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率いる自分を操ろうとしている劇作家は存在する。
 そんな皮肉を感じながら署長が新たな命令を下したのはすぐのことだった。


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 スノーフィールド市内、その路地裏は昼間だというのに薄暗く、腐った水と放置された生ゴミが異臭を放っていた。
 市の発展と共に無秩序に形成されてきたこうした路地裏は広範囲にわたって犯罪の温床となっている。その気になれば駆除することも容易であるが、どんなものにもゴミ箱が必要とされる場面は多い。スノーフィールドの治安が良い理由がここにある。
 人気もなく、また目も届きにくい。土地が空くたびにビルを建てるという無計画な開発っぷりで、路地が複雑に入り組んでいる。市内地図はかろうじてこの路地裏も掲載してあるが、ゴミで塞がっていたり建物の取り壊しや違法建築やらのせいで地図を作成して三日もすれば改訂が必要となるだろう。
 そうした世界から、街から、日常から切り離された空間は、その上更に常識と呼ばれるものまで失おうとしていた。
 アートと称する壁の落書きに新たな赤い彩りが加えられる。
 絵筆の如く振るわれる二刀は狭い路地裏であっても十全にその威力を発揮していた。
 路地裏を疾風の如く駆け抜け、足止めせんと出現する魔術師たちを次々と切り刻んでいる鎌鼬の正体は、東洋のツインソードサムライ、サーヴァント・新免武蔵藤原玄信――宮本武蔵その人である。
 江戸時代初期の兵法者であり、二刀を用いる円明流、後の二天一流の開祖といわれ、生涯に六十余りの試合を行い、その全てに勝利したと云われる極東の剣聖。
 偽りの聖杯戦争、その第一回戦はその七番目のサーヴァント・宮本武蔵と令呪を狙う魔術師たちという変則的なカードで始まった。
 わずか十分足らずでこの戦闘に参加した魔術師たちは三〇チームを超え、そして今なおその数は増え続けている。聖杯戦争序盤でなければ共闘する手もあったろうに、この突発的な乱戦ではそれも難しい。
 戦場は混沌としている。しかし目的ははっきりしているだけにその後の推移を考えるに難しくない。狙いとなる令呪を持つマスターが一人である以上、勝ち残るのはただの一チームのみ。それ以外は悉く敗者となることだろう。
「――っ!」
 再度、二刀が振るわれる。
 不幸にも餌食になった魔術師は一体何が起こったのか分からぬまま、意識を刈り取られた。仲間が倒されたことに気づけた者が一体何人いたことか。集団のど真ん中に突如現れたサーヴァントに咄嗟に対処できた魔術師は一人としていない。
「御免」
 必要であれば人を斬ることに躊躇いはない。だが本意でもない。わずかばかりの謝罪を胸に宮本武蔵は一息の間に残る魔術師たちを戦闘不能に追い込んでいく。
 実を言えば、宮本武蔵は決して強いサーヴァントではない。否、この聖杯戦争においては弱いと言ってもいい。
 敏捷さこそ目を見張るパラメーターではあるが、その他の基礎能力値はかなり低く、魔力を秘めた分かり易い宝具を所持しているわけでもない。聖杯戦争の召還とは異なる召還方法をとっているため対魔力や気配遮断といったクラススキルも所持していない。外国という地にあっては政治経済に影響を与えていない剣聖はマイナーな部類であり、知名度の恩恵も皆無に等しい。
 だがそんな武蔵だからこそ、たかが魔術師と侮ることもない。
 実際、この場で争う魔術師のクラスは決して低いものではない。さすがに代行者クラスの魔術師はいないようだが、数で補った強さは戦い方次第でサーヴァントと相対しうるものである。
 なればこそ、武蔵に後手は許されず、狙うべきは先手必勝。敵より早く居場所を察知し、初撃で混乱させ、各個撃破へ持ち込む。敵に先を取られぬよう個としての機動力を活かして動き回り、相手の土俵では決して闘わない。
 おおよそ英雄英傑に似つかわしくない戦い方ではあるが、これにより六チーム二十余名の魔術師があっさりと脱落している。武蔵の後ろ姿にうまく誘導され他の魔術師とかち合い戦闘となったチームも少なくない。結果だけ見れば最小の労力で最大の成果を上げているようにも見える。
 ただ――
 その事実に、当の武蔵は決して喜んでいるわけではない。
 いかに常人離れした魔術師といえどスタンドプレイが基本である集団など関ヶ原を落ち延びた武蔵の敵ではない。当時のことを思い起こせば、この状況がお遊戯にすら感じられる。そんなものを誇る気には到底なれるわけがない。
 サーヴァントと相対できるのはサーヴァントのみ。
 その事実に早々に気がついた――気付かされた武蔵の心境は如何程のものか。強者との戦闘を渇望するのは強者として自然のこと。武蔵とて例外ではない。
 この戦場に他のサーヴァントが直接介入してくる可能性は皆無に近い。彼らにとって外野の魔術師は腐肉に群がる蛆のようなものだ。それが自分以外の餌へと食らいつき、その上相食もうとしているのだから文句の出よう筈がない。座して見るだけで漁夫の利を得られるなら、動くマスターなどいるわけがない。
 故に。
 武蔵は考えていた。
 この戦場で武蔵に求められる役割は二つあると考えている。
 一つ目の役割は、マスターを安全な場所へ離脱させること。召還された状況が状況だけに当然とも言えるが、戦場からの脱出だけを鑑みれば他に適した英霊はたくさんいる。あえて武蔵が召還された――選ばれた理由は、それとは別にあると見るべきだろう。なればこそ、二つ目の役割は、マスターへの貢献にあるべきだ。
 幸いなことに、二つの役割について武蔵は何の制約を受けていない。自ら考え実行することが許されている。
 武蔵召還より25分――弱い故に魔力効率の良い武蔵であればあと15分はなんとか現界可能である。戦場は武蔵の手によって十分以上に混沌としている。あとは賞品となるマスターが不在であっても互いに勝手に殺し合うことだろう。
 ここが境界線。
 これ以上戦闘を続ける必要性はあまりなく、
 これ以上戦場に居続ける意味もさほどない。
 つまり、この引き際である七度目の襲撃は唯一、武蔵個人の意思によるもの。
 これを武蔵の我欲ととるのはいささか早計であろう。何せ、武蔵は最後の最後で当たりを引くことに成功したのだから。
「――ほう」
 思わず、感嘆の声を武蔵はあげた。
 七度目にして武蔵が狙った獲物は三匹の怪物だった。一人は怖気るような気配を振りまく魔術師で、一人は怪異の如き殺意を抱く娼婦のような黒い少女、そして最後の一人はそんな二人に囲まれて平然としているだけの青年。
 狭い檻の中で二匹のライオンは互いに威嚇し合い、ウサギは隠れもせずに暢気に遊んでいる――そんなちぐはぐな印象が相応しい。一見しただけの武蔵にとってこれがどういう状況なのか皆目検討がつかなかったが、まずは明らかな脅威であるライオンを仕留めようとするのは自然なことだろう。
 そして七度、狭い路地裏を武蔵は一息に駆け抜け――そして目標を見誤ったことに遅ればせながら気がついた。
 武蔵の一撃によって、魔術師が倒れ伏す。白目を剥いたその相貌からして既に意識はなく、その怪我の有様は即死していないと言うに過ぎない。放置しておけば程なく死ぬだろう。そしてその魔術師の背を踏みつける形で武蔵は尚もこの状況を信じられずに――その余韻を楽しんでいた。
 武蔵が振るうは二刀――故に同時に相手にできるのも刀の数と同じである。だというのに、計算が合わない。二刀を振るったというのに、倒れたのは、ただの一人。
 武蔵のもう一刀は、どこにでもあるようなナイフ――それも女子供が果物相手に使うようなナイフによって受け止められていた。切っ先はナイフの半ばまで食い込み、もはや武器としてどころか食事用のナイフとしてすら用をなさない。幾人もの魔術師を違わず斬り裂いてきた必殺の一撃が、かような少女の細腕に防がれた事実に、武蔵は歓喜せずにはいられない。
「その技、誰に指南されたか」
「身体が自然と動いただけよ」
 武蔵の歓喜に黒い少女は素っ気なく、応じてみせた。
 防御というものは、素人が考えるよりもはるかに難度の高い技術である。先んじて放たれた一撃を何の工夫もなく正面から受け止めるだけでは、純然たる物理学に則って弾き飛ばされるのがオチだからである。
 武蔵の持つ武器は確かに宝具ではない。しかしながら、切れ味鋭い日本刀であることに変わりはない。下手な――というよりよほど上手く衝撃を受け流さねば、ちゃちなナイフで日本刀を受けることなどできよう筈もない。
 名残惜しみながら、武蔵は魔術師を貫いていた剣を引き抜き黒い少女を横に薙ぐ。これを受け止めるのは黒い少女の力量からすれば難しくないが、刀を濡らす魔術師の血糊が少女の顔めがけて飛び散った。
 視界を奪われることを黒い少女が嫌ったことで両者の拮抗は崩れ、黒い少女は大きく後ろへと後退した。間髪入れず一刀を投擲することでその追撃とするが、黒い少女はあっさりと片腕を盾にその一撃を防ぎきる。この近距離、鋼鉄すらも射貫くであろうその威力をもってしても、どうしてかその華奢な繊手の掌から肘までしか貫けない。
 更にその身をもって吶喊をしかけることで三撃目とすることもできるが――武蔵はあえてそれを選ばず、その場に留まることを選択した。
「……情けをかけたつもり?」
「いやなに、ここで追い打ちをかけるのはさすがに無粋に過ぎる」
 黒い少女の背後、そこには武蔵がウサギと例えた青年がたたずんでいる。一連の攻防についていけていないのか、この状況に合って未だに構え一つ取ることもせず、それどころか危機感を抱いている様子もない。黒い少女が武蔵の投げた一刀を受け止めねば、今頃青年の首は胴から落ちていたかもしれないというのに。
「フラット、治療を頼む」
「え? あぁ、うん」
 黒い少女は掌から肘まで貫通した刀を無造作に引き抜き捨てると、ものの数秒で元の状態へと再生が果たされる。さすがにここまで無茶な回復となると、生身の人間であるとは考えにくい。
「随分と珍妙な業を持っているようだ」
「……慧眼、恐れ入る限りだ」
 ただの人間ではそうそうお目にかかれない技巧と、異常な回復力、加えてわざわざ庇いだてした背後のマスターらしき人間――ここまで状況証拠が出そろえばこの少女の正体がサーヴァントであることは確実。
 問題は、この近距離であっても、黒い少女を武蔵はサーヴァントとしてはっきりと認識できていないことか。ステータスを隠蔽する偽装能力というのも過去にあったと言うし、そもそもサーヴァントと認識させない能力があってもおかしくはない。
(しかも、それだけでもない)
 武蔵は目線を逸らすことなく黒い少女と周囲に七対三で気を配る。戦闘になればこの配分は致命的ともなりえるが、仕方がなかった。
 この偽装能力だけでも大した能力であるが、最低でもあと一つ、この黒い少女は何らかの宝具やスキルを用いている。でなければ、あの完璧な奇襲に先んじて防御姿勢を取ることなどできるわけがない。
 黒い少女はもはや使い物にならなくなったナイフを捨てて、懐から新たなナイフを取り出し両手に構える。武蔵も空となった片手に新たな得物を手にすべく壁に這っていた鉄パイプを寸断して短槍を拵えた。
 武蔵が持つ一刀は別として、両者が構える得物は聖杯戦争にしては珍しい、殺傷能力の低い武器である。常人を遥かに超えるサーヴァントの肉体に対して、致命打を与えにくいナイフは戦闘向きでなく、元が鉄パイプである武蔵の短槍は錆によってその強度すら怪しい。
 黒い少女が左足を前に出し、ナイフを胸の前で構える。敵に晒す面積を減らし、身長差を意識した防御の構え。準備は整ったぞ、と姿勢で示す。後は、武蔵が攻めるのを待つばかり。これはあからさまな挑発であろう。
「面白い――」
 思わず漏れ出た言葉に、武蔵はつい背中の荷物を忘れそうになる。
 目的すら忘れて、戦いに没頭したくなる。

 ならば、許される範囲で楽しむことにしよう――

 思考と同時に、武蔵の足が、地面を噛む。
 既に初撃で武蔵は手の内を晒してしまっている。これではもう意表を突くことは難しいだろう。達人相手に二番煎じは通用しない。むしろ愚策とすら言える。
 だからこそ、楽しむにはもってこい。
 武蔵の愚策に、黒い少女の動揺が空気を介して伝わってくる。黒い少女の視線が、武蔵を追ってわずかに角度を上にとる。
 かつての聖杯戦争では高層ビルの壁面を舞台とした戦いがあったらしい。サーヴァントといえども重力の影響を受ける筈だが、垂直であれ逆さであれ、腿力を込めて踏める足がかりさえあれば、何の問題もない。人を圧倒するパワーを持つサーヴァントにとってその程度のこと、得手不得手はあるにしろ、決して不可能ではないのだ。
 だが、ここは鉄筋が幾つも入った高層建築の固い壁面ではなく、路地裏の汚く脆い違法建築だらけの襤褸屋である。足場を探すのに困ることはないが、少し力を入れただけで穴が空くこと請け合いである。
 スピードを得るため力を込めれば足場を壊しかねないし、かといって力をセーブすればスピードが得られずとても戦闘どころの話ではない。避けようのない空中で闘おうとするより、盤石な地面を支えに全力を出した方がサーヴァントにとって遥かに闘いやすいといえよう。
 こんな場所で戦闘を可能とする程の三次元機動を行うサーヴァントなど――

 宮本武蔵をおいて、他に誰がいようか。

 足場となりうる場所を瞬時に判断する見識眼、肉体への力配分を最適値に設定する制御能力、移動に伴う空気抵抗を殺しながら逆に利用すらする三次元機動――並のサーヴァントであれば選択肢にすらあがらぬ下策。
 これにより武蔵は多くの魔術師を無防備な頭上から奇襲することに成功していた。黒い少女には防がれたものの、頭上の優位に変わりはしない。思い出して欲しい。第五次聖杯戦争時、武蔵のライバルと名高い佐々木小次郎は地力で圧倒的に勝るバーサーカーをして地形の優位とその技量だけでついに突破せしめぬ快挙を成し遂げていたことを。
「――参る!」
 一声叫び、さながらピンボールが壁に跳ね返るが如く、跳躍と飛翔を織り交ぜた立体的な疾走をもって人の形をした稲妻は黒い少女へ襲いかかる。
 ……もし、ここで無理にでも二人の勝敗を占おうとするならば、それは両者とも切れるカードに何があるのかによる。
 武蔵の奇襲を黒い少女は一度防ぎきっている。しかも今度は奇襲ではない。
 武蔵にとっても、先と今では事情が違っている。対象は二人ではなく一人である。
 そして両者とも、鬼札を出していながらその実は伏せられたまま。
 果たして、勝利の女神は誰に微笑んだのか。
 最後まで地に立っていた者か、
 漁夫の利を得たつもりの者か、
 全て目論見通りと笑った者か。
 決着は――


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 武蔵の勝利、となる筈だった。
 少なくともバーサーカーはこの勝負、最初から負けるつもりであった。
 戦闘的職種である騎士や武士などと違い、殺人鬼というものは職種ではなく生来の志向である。故にバーサーカーが戦闘を目的とし勝敗に拘泥することはない。戦闘は手段であって目的ではあり得ない。
 この戦場でのバーサーカーの目的は己が主に危機感を植え付けることにある。前線に出張ってくるような魔術師たちの殺意を浴びれば、いかなフラットといえど現状を認識せざるをえない。仮に、これで何の変化もないとしても、戦場での彼の動きを把握することで今後の戦闘方針を練ることができる。
 状況を鑑みれば他のサーヴァントが出てくる心配も少なく、地形からしてバーサーカーはその能力を最大限利用することもできる。保険も三重に用意しており、初陣としては格好の戦場と言えよう。
 ……奇しくもその思考はキャスターのマスターと同じモノであるが、そのようなことをバーサーカーが知るわけもない。知っていたとしても、同じ結論を出すとも限らない。この戦場の異常性に気付くだけならばともかく、その核心に迫れる者などどこにもいはしないのだから。
 遅まきながらこの戦場の異常性に気付いたバーサーカーであるが、その遅さが必ずしも損失であるとは限らない。
 衝突の半瞬前に、爆発があった。
 威力は小規模。まだわずかに距離があったためにその衝撃は咄嗟に反転したバーサーカーにとって大したものではない。問題は爆心地にいた宮本武蔵の方。
 すでに武蔵の身体から勢いは殺されている。重力をも伴い、稲妻のごとき落雷を彷彿とさせる突進は今や影も形もない。宙に漂うその姿は重力に縛られ、ただ凡庸に地へと落ちていく最中にあった。
「ジャック! 受け止めて!」
 一体どうして、あのマスターにしては機敏な命令だと感心しながらバーサーカーは武蔵と路面との間に割り込みその衝撃を相殺させる。華奢な少女の身体に戦士の肉体は相当な負担となる筈であったが――その戦士の肉体が元の半分以下になっていれば、そう難しいものでもない。
 宮本武蔵の右半身は、頭部も含めて欠損していた。
 右手は完全に喪失し、右足も千切れて足首から先が傍らに落ちているのみ。むき出しの肌は裂傷と火傷で赤く爛れている。体幹も半分近くなくなっている。臓物が零れ落ち、辺りには死と血の匂いが撒き散らされていく。
 爆発の中心地はおそらく武蔵が右手に持っていた急拵えの短鎗。見覚えのある錆びた破片が残った武蔵の左半身のあちこちに突き刺さっていた。たとえ手足を失おうともそれだけで安心できぬのが英霊という存在であるが、武蔵の損傷はその域を軽く超えている。
 どうしようもなく、致命傷。
 流れ落ちる血は地に落ちるより早く散っていくが、それはまだ存命の証。動くことすら儘ならぬその身体ではあるが、末期の言葉を残すくらいの時間はある。
 ならば、と。
 少しでも有効な情報を引き出すべく、バーサーカーは頭を回転させる。
 実を言えば、バーサーカーには何が起こったのかさっぱり分かっていない。理解できているのはこの一騎打ちに水をさした者がいるということと、サーヴァントを屠る威力の魔術ないし宝具が使われたという二点のみ。目前で起こったというのに何が爆発したかすら確認できていない。
 思考と同速にバーサーカーは戦闘行動のため抑えていた宝具を周囲へと急速展開させる。本来の用途とは別に使われた宝具であるが、この場においての効果は絶大。気配遮断スキルでも使わない限り隠れ過ごせることもない。
(やはり、反応がないか)
 攻撃を受けてからまだ数秒、この絶好のタイミングに追撃もないことから敵は近くにいない可能性が高かった。
 しかしそうすると敵はどうやって狙いをつけたのか疑問が残る。この場は狭い路地裏、陽もろくに差さない曲がりくねった裏通りは当然遠方からの観測には適さない。千里眼や使い魔と視界を共有するなど遠見の法はいくらでもあるが、いずれもこの場に相応しくないし、反応も無い。
 名探偵や警察としての可能性を持つバーサーカーではあるが、現状のままではその解答に辿り着くことはかなわない。有力な仮説すら導き出せていない。
 頼みの綱は武蔵の証言のみ――その口をどう割らし何を聞き出せばいいのか、バーサーカーが悩むのも無理からぬことだった。
「武蔵ッ!」
 武蔵を受け止め思考を巡らしたのはわずかに二呼吸。先んじて武蔵に声を掛けたのはバーサーカーのマスターだった。
 武蔵の左手にはまだ刀が握られたまま。瀕死の身であっても決して近づいてはならぬということをこのマスターは知らないらしい。
 武蔵の顔をフラットに寄せることでさりげなく武蔵の刀を封殺する位置取りをする。話を遮ることもできるが、邪念のある自分より無垢で真摯なフラットの方が武蔵も口が滑りやすいだろうとバーサーカーは試算した。
 ただ、フラットの一言はバーサーカーの思惑を遙かに超えた結果を生み出す。
「――後は、僕に任せて」
 一瞬でも油断すれば手放しそうになる意識を必死で繋ぎ止めようとする武蔵の身体がフラットのその一言で動かなくなった。
 この状況であっても武蔵は残った右手右足をどう使うかを考えるのをやめていなかった。残存する選択肢はバーサーカーからみてもろくなものが残っていなかったが、可能性だけはそこにあった。
 バーサーカーが武蔵の顔を盗み見る。残った武蔵の右目はまっすぐにフラットへ突き刺さっていた。地獄の淵にあってなお諦めぬというその眼光が、そこにはもうない。
 それも当然のことだった。バーサーカーはあくまでサーヴァントであって、マスターはフラットだ。その上下関係は強固であり、いかに頼りなかろうと武蔵にとってフラットの言葉はバーサーカーの巧みな話術よりも遙かに重い意味を持つ。
 フラットの言葉に武蔵が口を開くまでに要したわずかな時は、バーサーカーが願ってもない情報のためだった。
「――気をつけられよ。あれは種子島に相違ない」
 礼をする時間も惜しみ、フラットに、この聖杯戦争を勝ち残る値千金の情報を武蔵はもたらす。
「しかもあの弾は、頭上より降るように拙者の短鎗に着弾してきた」
「頭上――」
 フラットが上を見上げるが、そこには切り取ったような空が広がっている。
 武蔵の言葉をそのままに取れば屋上に射手がいることになるが、その可能性はバーサーカーの索敵によって潰している。武蔵にしても、頭上に何者かがいれば気付いていた筈である。
 それよりも、武蔵の言葉は銃弾という正体のみならず、その運用が跳弾でも曲射でもないことを示している。しかも、命中したのは武蔵が急遽拵えた短鎗――
「的に対して自動で軌道修正する弾丸……!」
「おそらく」
 バーサーカーの呟きに武蔵は同意した。そしてそれだけでもない。
「拙者の宝具は拙者が利用したものを望んだ時だけ宝具化する“二天一流”というもの。あの着弾する瞬間、あの短鎗はただの錆び付いた鉄筒などでなく、立派な宝具で御座った」
 武蔵のあり得ない三次元機動や、英霊相手の効果の薄い武器の選択はこの宝具の恩恵によるもの。武器を握ればその強度が上がり、足場であれば強固な土台と化す。
 本来であれば使い勝手の良い、敵からは脅威となり得る宝具であるが……それが仇となった。そこそこの強度があれば弾き返すこともできただろうに、やはりパイプを宝具化してもその強度には限界がある。
 ここまでくると攻撃手段は魔術ではなく宝具の域にあるもの。敵は在野の魔術師でなく、サーヴァントを擁す陣営に確定した。
「宝具を狙う宝具、ということか」
 これなら狙撃手はそもそもの的を見つける必要もない。どんなに入り組んだ場所であろうとも、銃弾が通る隙間さえあれば必中の呪いは成就する。
「あれが確実に宝具を狙うとも判断はつきかねる。それこそ、サーヴァントや――令呪も対象になる可能性も高かろう」
 対サーヴァント用とも言うべき弾丸であるが、これを少し拡大解釈すると対聖杯戦争用とも読み取れる。とするとますます安心できぬ状況と言えよう、ここにはサーヴァントと宝具のみならず、令呪を宿したマスターが“二人”もいるのだから。
 いよいよ時間が迫ってきたのか、武蔵の身体からは流れ出る血もなくなり健在だった右足も消えつつある。
「しからば――後はお頼み申す」
 御免、とその頭を垂らし、極東の剣聖は静かに何処かへと消え去っていった。最後までその手から離さなかった武蔵拵と有名な彼の刀も、主人の後を追うように消えていく。
 後に残ったのは、彼が背負っていた荷物だけ。
 否。その背にあったのは武蔵がマスターとしていた東洋人の姿。
 武蔵が一体如何にして己がマスターを守っていたのか。その正体がこれである。確かにサーヴァントの傍らがこの戦場で最も安全な場所ともいえるが、あの機動を行う武蔵についていけるわけもなく、完全に気を失っている。
「フラット――」
「ああ、わかってるよ。急いで手当てしないとね」
「……そう言うと思ったさ」
 東洋人の手の甲には令呪を使用した痕跡がある。そして令呪はまだ残っている。それが何を意味しているのかフラットは理解しているようで――まるで理解していないのだろう。
 溜息をついて、フラットに見えないよう握ったナイフをバーサーカーはそのまま懐にしまい込んだ。最初から予想していたとはいえ、万に一つもフラットが「殺せ」と命じる筈がないのである。
「とはいえ、さすがにここでの治療は後回しだ。急いでこの場から離れる必要がある」
 この場を巡る危機的状況に変化はない。むしろ気絶したマスターという荷物がある分悪化したともいえる。それぐらいは理解しているのか、フラットは進んで東洋人に軽量化の魔術を掛けて背に負ぶる。別にバーサーカーが負ぶっても良かったのだが、見た目少女のバーサーカーに背負わせるのはフラットも嫌だったらしい。
 それくらいはいいか、とバーサーカーは判断した。

 そしてそれは間違いだった。

「では、私が先導しよう。幸いにも先の宝具は私には無意味――」
 その時のバーサーカーとフラットの彼我の差は数メートル。
 しかし、フラットのすぐ後ろには黒いローブを纏った女がいた。
 瞬間的にバーサーカーは思考する。先の索敵でこの周囲に敵影がいないことは確認している。
 もし、ここに敵がいるとするならば、それは――
「アサシンだと!?」
 気配遮断スキルを持ったアサシンに他ならない。
 先ほど懐にしまい込んだナイフを取り出してみるが、投擲するにはフラットとの距離があまりに近すぎる。
 踵を返し、ならばと腰を屈め上体を低くしてアサシンへ突貫しようとするが、既に有効な選択肢は悉く塗りつぶされた後。バーサーカーが一歩踏み出すよりも先に、

【……回想回廊……】

 女の唇が、そう動いた。
 紡がれたのは、力在る言葉。女の中の魔力が周囲の空間に解き放たれるのが分かった。善意も悪意もない無色の魔力。ただ消費されるだけの純粋な願い。魔術ではなく、それは宝具による奇跡の行使。
「ぐッ――」
 突如として発生した突風にバーサーカーの身体が押し戻される。大した風ではないが、この一瞬においては命取りともなりかねない。
 果たして宝具はいかなる奇跡を成就させたのか――
「……消えた?」
 宝具の効果を確かめんと、バーサーカーは一瞬たりとも目を離しはしなかった。だというのに、女の姿はどこにもない。
「まさか。いや、しかし……!」
 自問自答してみるが、確かにあのサーヴァントは消えていた。
 気配だけでは無い。アサシンの姿は影も形もなく、霊体化したわけでもない。存在そのものがその場から綺麗に消え去っている。
 彼女だけでなく。
 二人のマスターと共に。


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 場所は同じながら、時間はほんの少しだけ経過する。
 黒いローブのアサシンと二人のマスターが消え去り、残されたバーサーカーもあの手この手を尽くした後、ようやくこの場にいても無意味だと悟り立ち去った頃。
 武蔵が消滅した場所の側、自らの血に伏していた屍に変化があった。
 先ほどバーサーカーと立ち会い、武蔵の不意打ちによって為す術もなく倒された魔術師である。左肩から入ってきた刃は鎖骨を砕き、左肺にまで達している。今も傷口から血が流れ落ち、程なく死ぬという見立て通りにその人生を終わらせようとしている――筈なのだが。
 もぞり、とその身体が動いた。
「クァハッ」
 邪気だらけでありながら、無邪気な笑い声が路地裏に響き渡り反響する。
「クァハッ! クハハハハハハッ!」
 子供のように、心の底から愉しそうな、それでいてどこか歪んだ笑いが木霊する。
 それは。
 わずか数日前の再現だ。
 スノーフィールド東部、湖沼地帯の別荘地の出会いと別れ。
 出会いと別れ――それは召還と殺害だ。そして再開と別れも、召還と殺害によって繰り返された。
 なれば、と屍は過去を踏襲する。
 そこに意味はない。そんな気分に浸りたいだけだ。
「惜しむらくは彼女に殺されず、別のサーヴァントに殺されかけてしまったことだがな!」
 アサシンのマスター、ジェスター・カルトゥーレは歓喜に噎びながら二度目の復活を果たそうとしていた。
「ふむ! やはり同じサーヴァントでも彼女に殺されるのと別人に殺されるのとでは勝手が違うな! やはり彼女はスマートだ! 殺し方一つとっても美しい!」
 上着のボタンを外して左胸部分にある紋様を見てみれば、数日前と同様にまたも黒く変色している。だがその色は彼女に殺された時のようにどす黒くはない。もうどうにもならず再生が不可能な点は同じだが、概念核が完全に機能停止するまで少しばかり猶予があるのだ。
 数日前と同じく黒く変色した紋様を回転させ、新たな概念核を装填した。身体つきや顔つきも変化し、まったくの別人へと変身する。同じなのは性別と、その鋭すぎる犬歯くらい。
「ふむ。しかしさすがは聖杯戦争。この調子で死に続ければ概念核も足りなくなる」
 今回の死亡はジェスターにとっても予想外であった。
 ジェスターも例によって武蔵の召還に引き寄せられた一人だ。だがその目的は他の魔術師たちとは異なり、異端たる魔術師を一人でも多く排除しようとするアサシンの探索にある。令呪を持つ東洋人を狙う魔術師たちを狙ったアサシンを追いかけてジェスターは動いていたのだ。とんだ捕食関係である。
 しかしここで思いがけずジェスターはバーサーカーを引き連れたフラットを先に見つけ出してしまった。ここで欲を出してしまったのが良くなかったのか、何とか交渉をしようという時に、あの有様である。さすがの吸血種も薄暗いとはいえ日中サーヴァントから問答無用の奇襲を受けては他の魔術師同様に抵抗のしようもなかったわけである。
「まさか、マスターとは知られずに殺されてしまうとは……」
 運命の悪戯を感じずにはいられまい。
 ジェスターがマスターであることは現時点ではアサシン以外誰にも気付かれていない。以前とは姿形も変わっているし、内情を知る弟子たちもアサシンによって殺害されている。フラットたちとも接点を持ってしまったが、こうして殺されたことでフラットの認識から外れることにもできた。
 可能ならもう少し派手に動いた後で大勢に死んだことを認識させたかったが、それはさすがに高望みが過ぎるか。
 惜しむらくはアサシンを取り押さえる機会がありながら見過ごしたことだが、ジェスターはこれを前向きに解釈する。
「まだその時ではなかったというだけか。彼女を捕まえなかったのも、存外悪いことばかりでもない」
 あのままアサシンを捕まえれば、陶酔のままにうっかり殺してしまう可能性もあった。それでは本末転倒――彼女は全てにおいて汚れて貰わなければ面白くない。
 それに、とジェスターは一連の出来事を思い返しながら自ら出した結論を追想する。この混沌とした戦場で四つの勢力が交叉した事実。各々の断片情報であっても、統合すれば各陣営の内情も見えてくるというものだ。
 他に目的ができた以上、アサシンについては傍観を決め込むのも、悪くない。
「クハハハハハハッ」
 先のことを考えると、どうにも笑いが止まらない。
 楽しみで楽しみで、仕方がない。
 ジェスターが笑いながら胸を確認してみれば六連弾倉は残り四つ。つまりは二回しか死んでいない計算だ。アサシンは、やはりジェスターを再度殺してなどいない。姿形が変わっていたとはいえ、魔力供給のパスからマスターであると分かっていた筈だというのに。
 ジェスターは、この聖杯戦争の中にあってアサシンが消滅する可能性をまるで考えていない。――それも当然。彼女の記憶を覗いたジェスターであれば、その強さは手に取るように分かる。
 元よりあのサーヴァントは狂信者。逆境であればあるほど、制約を科せば科すほど、その真価を発揮するタイプである。
 手綱を握るマスターがいない。他のサーヴァントならば致命的な条件だが、アサシンに対しては到底もの足りぬ制約だ。彼女に対してもっと制約が必要なのだ。目を隠し耳を閉じ手に枷を嵌め足を鎖で繋いでやらねばならない。このスノーフィールドの地に相応しいくらいに、彼女の存在を貶めてやる必要がある。
 それでようやく、彼女はその身にあった黄金にも勝る輝きを得ることができる。
 幸運なことに、そのための手段は既に確立してあった。イレギュラーだらけのこの聖杯戦争であるが、やはり基本は抑えているようである。
「令呪が効いている確認がとれただけでも良しとしよう!」
 そういって笑いながら立ち去るジェスターの手に令呪の輝きは――
 すでになかった。


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 スノーフィールドの北部、渓谷地帯には数多の洞窟が存在している。
 蟻の巣の如く張り巡らされた穴は人間の手が入ったことで開拓時代の炭鉱のような印象をもたらすが、これらは全て大昔、神代の時代に何者かによって掘られた人工の洞窟である。いずこの者が一体どのようにして掘ったのか、その回答は長い年月によって失われている。ただ内部は迷宮同然の複雑さで、深さは合計すれば優に数十キロ以上ある。最深部には直径一〇〇メートルを超える大広間まである。
 ティーネ・チェルク率いるスノーフィールドの原住民は住処を追われて以来七〇年に渡ってこの洞窟を拠点として活動を続けていた。崩落せぬよう内部の空間を補強し、水と空気を流れさせ、常時数百人が生活する様は街そのもの。だが、ここに武器弾薬が持ち込まれ、屈強な若者が巡回し、外周に罠が設置されるようになるとこれは街というより要塞のそれに近い。
 ティーネがその報告を受けたのは、そんな要塞の深部にして中心部、族長である彼女の執務室とでもいうべき豪奢な部屋である。
「全滅……!?」
 部下から上がってきた報告にティーネは絶句した。
 これは珍しいことだ。普段であれば、彼女は親兄弟が唐突に死んだとしても冷静に対処することができる。それは十分予想の範囲であり、そのための対処を彼女は決して怠らないためだ。前族長であった父の亡き後、他の兄弟姉妹を差し置いて彼女が族長に選ばれたのは、その力以外にそういった点が評価されてのことである。
 しかしなまじ優れているだけに計算外のことには、殊の外弱い。計算はできても、経験は圧倒的に足りていないのだ。
 そんな彼女に、愉悦の視線を向ける者がいた。
 燃え立つ黄金の髪に紅玉の如き双眸。彼女をマスターとするサーヴァント、アーチャー、英雄王ギルガメッシュである。
 笑い声こそ上げぬものの、アーチャーの口は喜悦に歪んでいた。期待せぬ晩餐の余興で愉しみでも見つけたようである。
「少しは幼童らしい態度をとれるではないか」
「……失礼を致しました」
 顔を赤らめることなく、彼女はまた元の彼女へと戻っていった。
 ティーネは部族再興のために幼少時から指導者たらんと英才教育を受けている。それは彼女以外の族長候補も同じではあったが、特にティーネはその才覚が目覚ましかった。目的のため親兄弟、そして自らも歯車の一つとして使い潰される覚悟を彼女は最初から持っていた。その覚悟は彼女を機械の如く成長させたが、完成には至っていない。自らが自由に出せるほど残ってはないが、捨てきれていない感情はひょんなところで出てくるのである。
「よい。……しかし、面白そうな話をしたな。申せ」
 アーチャーは部屋の中央に置かれたソファーに寝そべりながらこの地の酒を味わっていた。アーチャーのために用意させた最高級のものであるが、英雄王の前では安酒も同然――となれば、王が肴を求めるのも道理である。
 探し求める肴に全滅の二文字はいかにも丁度良い。ティーネが多少なりとも動揺してみせた案件であれば尚更である。
 ティーネはしばし話すかどうか迷ったが、アーチャーの機嫌を損ねるとそれはそれで困る。
「先ほど、私の指示で街中に配置してあった戦士たちが全滅いたしました」
「ほう。そんなものがいたか」
 アーチャーには初期の段階で彼らの紹介をしていたのだが、憶えていないようである。だが直接指揮しているティーネにとっても彼らは便利な駒であれこそすれ、そこまで重要な存在ではない。サーヴァント相手の戦いで多少腕が立つ程度の実力では逆に足手まといですらある。血気に逸って暴走する可能性を考慮し、仕方なく直接指揮していたに過ぎない。
 そんな彼等にティーネが与えた任務は、他のサーヴァント陣営及び潜伏中の魔術師たちについてスノーフィールド市街で情報収集を行うこと。スノーフィールド内での情報網は確立しているが、いかんせんそれは非武装地帯に限っての話。そのため彼らの主な任務先は銃弾が飛び交い、魔術が牙を剥く危険地帯への潜入調査にある。今回も、街中で暴れるサーヴァント、そしてそれを狙う魔術師や他のサーヴァント勢の情報を掴もうと戦場に乗り込んでいき――
 全滅となった。
「同時に、街中に潜伏していた他勢力の魔術師共も多くの犠牲が出たとの報が届いております。これにより事実上サーヴァントを擁する陣営だけが残った模様です」
 投入していた戦士を失ったとはいえ他にもまだ優秀な戦士はいるし、情報網への損害も皆無である。むしろ余計な情報源が淘汰されてやりやすくなったともいえよう。これで更に自軍の有利が決定的になったことになる。
「我が手を下す必要がなくなったのは結構なことだ。どこの暇人かは知らぬが、褒めてやるのも吝かではない」
 この偽りの聖杯戦争において英雄王が最も嫌ったのが街中に蔓延る魔術師たちである。
 対魔能力があるサーヴァントに並の魔術師が相手になる筈もないが、高位の魔術師においてはその限りではない。サーヴァント相手にマスターを守るだけならまだしも、有象無象の魔術師を蹴散らすのはただひたすら面倒なだけだ。
 単独行動スキルを持つとはいえ、マスターを失うのもアーチャーとしても面白くない。かといって狙われるマスターを守るのも彼の主義ではない。
 もしここに事の発端である武蔵が現れたのなら、案外本当にこの英雄王は褒めていたのかも知れない。
「…………」
 それっきり押し黙るティーネを横にアーチャーは酒を口内で転がしてみる。
 ただの安酒と最初は馬鹿にしていたが、こうしてみると中々に趣のある味である。古今東西酒を注がせるのは美女と相場と決まっているが、肴にするにはティーネのような者が丁度いい。酒にはそれぞれ相応しい飲み方というものがある。
 アーチャーが手にしている酒は濁っている。中に例え異物が混入されていたとしても、これでは気づくまい。だが、例え見た目には分からずとも口に含んでしまえば味を誤魔化すことなどできはしない。
 ふと、アーチャーは惜しいと思う。ティーネが成人していれば閨で彼女を辱めるのも一興だっただろう。
 泣き叫ぶ姿を見たくないといったら嘘になる。
「賢しい真似はよせ。それだけではなかろう……?」
 核心を突かれて、ティーネは血が逆流するのを感じ取った。黙っていたのが不味かったのか、臣下が王の顔色を窺うように、王が臣下の顔色を読むのも当然だ。
「臣下の奸計は巧妙になればなるほどその様を我に愉しませてくれる。お前のような小娘如きが我を謀ろうとするのも見物だが、興を削ぐ真似を許すほど我は寛容ではないぞ……?」
 それは騙すならもっと上手く騙せというアーチャーなりのダメ出しであったが、ティーネからすると下手な言いわけをするなら首を刎ねるという意味合いにもとれた。死ぬことに対する恐怖はないが、死ぬことで目的が達成できぬ未練はある。
「……申しわけございません。王の耳に入れるまでもないと判断致しましたので」
「言いわけなどどうでもよい。事実などもどうでもよい。お前は、何を思って言葉を隠さんと企んだ?」
 アーチャーの興味は、情報よりもティーネにあった。
 かつてのアーチャーのマスター、遠坂時臣はアーチャーの無聊を慰めるような男ではなかった。それは彼が生まれながらの魔術師であり、王たるギルガメッシュの興味の外に心血を注いでいたからに他ならない。自らの目的に邁進していく点ではティーネも同じではあるが、理知的に目的に突き進む魔術師として完成された時臣と違い、ティーネには幼さ故に時臣にはない迷い悩む余地がある。鍍の仮面を剥がし落とす様も見物であろう。
 若さ故の苦悩は凡作の歌劇に秀でるものだ。
 特に、身近で観察するには都合がいい。
「では、事の経緯を説明させていただきます」
 そんなアーチャーの考えを知ってか知らずか、ティーネは一礼し事の経緯を説明し始める。
 実を言えば、ティーネたちスノーフィールドの原住民は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》よりも先にスノーフィールドに入った東洋人の姿を捉えていた。だが発見した者が非戦闘員だったために接触せず指示を待っていたことで、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に先を譲る形となった。だが時間をかけただけにサーヴァント召還後についてはほぼ万全の装備で情報収集に挑むことができていた。
 肝心の武蔵本人に接触することは叶わなかったが、武蔵に襲われ撤退中の魔術師チームを捕縛することによって情報を得ることに成功している。捕縛の際に負傷者が出たものの、誰一人欠けることなく任務を達成できたので上首尾といえよう。
 だが問題はこの後に起こる。
 彼らは一人を伝令役に放った後、周囲の魔術師たちの情報を集めてから撤収することにした。欲が出たのかどうかは分からないが、それだけその戦場での情報収集が魅力的であったことは確かだ。
 そして――誰も帰ってこなかった。
 遺体は見つかっていない。だが約束された時間になっても帰ってこず、その足取りもようとして掴めない。単純に脱走した可能性もあるが、彼らにそのような兆候はなく、金も家族もそのままに残っていた。
 状況証拠から、彼らが何らかの事件に遭遇したことは明らかだ。
 念のため他の魔術師グループも調査してみれば、ほとんどがその行方を追うことができない。同時刻に警察が麻薬グループとの交戦をしたという情報も入っているが、その麻薬グループが魔術師だったとしても、ティーネたちが把握している人数とではかなりの差がある。
「何故失踪と全滅を結びつける?」
「他の魔術師に対しては推測でしか話せませんが、我らスノーフィールドの民であれば、この地にいる限りその生死を追うことができます。昨夜確認された人数と、先ほど確認した人数。その差は失踪した戦士たちの数と一致します」
 強力な結界内であれば例え生きていても捕捉することはできないが、そこに期待するわけにはいくまい。彼らが生きてる可能性は限りなく低く、聖杯戦争の最中にあっておいそれと大規模捜査するわけにもいくまい。
「これは別件ではありますが、スノーフィールド市内だけでなく東部湖沼地帯の別荘に居を構えていた魔術師ジェスター・カルトゥーレも弟子もろともに失踪していたことが確認されています」
「何者だ?」
「確認はとれていませんが、マスターの疑いのある強力な魔術師です。しかしジェスターはともかく弟子まで姿が追えないとなると、何者かによって消されたと考えるのが妥当です」
 ジェスターの行方を探すに当たって、ティーネは場合によっては別荘に直接乗り込んででもジェスターと弟子の姿を確認するよう指示していた。魔術師の工房に乗り込むなど本来ならば愚挙ともいえたが、それに見合った対価を得ることができた。
 無茶を承知で別荘の中を確認してみたところ、人のいる気配がまるでない。更に中へと踏み込んでみれば、そこは儀式にでも使ったのか白骨化した死体が十体ほどあっただけ。しかし現場の形跡からここを立ち去ったのはせいぜい一人か二人。金銭や装備の類もなくなってる様子がなく、バイクや自動車といった移動手段についても鍵ごとそっくりそのまま残されていたという。
 ジェスターについてはアサシンが全ての元凶であるのだが、弟子の死体をジェスターが骨だけ残して綺麗に始末してしまったことで、ティーネは一連の失踪と関連づけてしまっていた。血の一滴でも残っていれば話は別だったのだろうが、まさか白骨化した死体が弟子だったとは考慮の外だ。
 スノーフィールドに入っている魔術師の中で五指に入る使い手と目されていただけに、彼の失踪はティーネを次の結論へと持って行く。
「サーヴァントの中に、王を殺せる者がおります」
 ティーネが真に動揺したのはこの結論。自らも駒の一つと言い切れるティーネにあって、たかが一部隊の全滅など予想外でも何でもない。彼女が真に動揺したのは、英雄王の寝首を欠ける存在がいるという一点のみ。
 ティーネが出した結論に、アーチャーは特に憤ることなく、黙って視線をティーネに返した。続けろということらしい。
 一抹の安堵を覚えながら、あくまで可能性だと告げてから、ティーネは話を続ける。
「先のジェスターの件と、此度の戦士たちの失踪。一連の出来事の規模を考えますと、これはサーヴァントの仕業と考えるのが妥当です」
 一人や二人だけならまだしも、現時点でかなりの人数がいなくなっている。闇雲に魔術師を狩っているというよりは、ソウルイーターとして魔力を集めていると考えるべきだ。
「それも、あれだけの数の魔術師を誰に気づかれることなく屠り吸収したとするなら、それは隠密活動を得意とするアサシンに他なりませんが――」
 勿論、ジェスターがマスターであることを確認できていないティーネに誰がアサシンを召還したのかわかる筈もない。
 が、ここにティーネにとって誤解して無理からぬ判断材料があった。
 サーヴァント・宮本武蔵の存在である。
 武蔵の情報をティーネは伝令役の戦士から手に入れている。武蔵の戦法や能力はあの戦場を脱した多くの魔術師が把握しており、この段階で手に入れずともそう遅くないうちに手に入れていたことだろう。
 正体を知れば、その逸話から能力値を逆算し、それに合わせたクラスを推測するのは当然だ。相手のクラスを特定できれば必然的に他のサーヴァントのクラスを絞り込むことができる。
 宮本武蔵――サーヴァントとしての格は高くない。魔力もかなり低く、技術はともかくとして宝具らしい宝具も持ち合わせているようには見えない。
 頭上からの奇襲、卓越した剣技、多数を相手取る心得、そのいずれも高い評価をせざるを得ないが、サーヴァントとして見ればどれも決め手に欠ける。状況から考えるにスキルとしては気配探知、気配遮断、戦術眼といったところか。いずれも正面から正々堂々戦うタイプではない。
 投擲術も得意としているようだがアーチャーのクラスはギルガメッシュによって埋められている。ランサーのクラスも英雄王の口からエルキドゥとも聞いているのでこれも違う。バーサーカー、キャスターのクラスにもそぐわない。背中にマスターを背負っていたと情報はあったが、ライダーという風にも見えない。
 第五次聖杯戦争に召還された佐々木小次郎の好敵手ということを併せて考慮すれば、もはや答えはひとつしか出てこない。
「そのアサシンにそのような能力がないことは確認できていますし、ああも派手に動きながら現場から逃走した様子がないことからアサシンは脱落していると思われます。となれば現状、アサシン並の隠密性を有したサーヴァントがこの街に潜んでいることになります」
 そう、彼女はこの偽りの聖杯戦争で正規の召喚システムに則らないマスターの存在を知らないのである。
 それも無理からぬ話。正当な聖杯戦争でないことはティーネも理解していたが、このシステムを把握しているわけではない。そもそもこの“偽りの聖杯戦争”には複数の思惑が深く複雑に絡み合っている。そのため全体像を把握している者など黒幕も含めてどこにもいやしないのだから、無理からぬ誤解である。
 だが反面、的を射た推察もある。
 もし英雄王と相対するならば、付け込むべきはその油断と慢心に他ならない。
 例えばの話ではあるが、「虚数」と「吸収」を掛け合わせた「影」といったものがあれば、状況次第で英雄王を数瞬で倒してしまうのも十分に可能だと彼女は判断した。
 そのために彼女はまず驚異となる可能性がないことを確認すべく調査をしたわけだが……。
 この事件、最悪の想定である「影」がいる可能性が飛躍的に高まる結果となった。
「なるほど」
 と、英雄王は口にした。
「我に斯様なサーヴァントがいるから気をつけろ、と? いつ何時どこからやってくるかも分からぬ影に対し注意警戒せよ、と言うわけだな?」
「……御身を大事にすることが現状で最良の方策と心得ます」
 英雄王の意地の悪い言い方にティーネは言葉を選ぶ。
 ティーネとしてはまだ何も分からぬ「影」の如き存在について、詳細な情報を手に入れたい。正面切って戦う限り、この黄金のサーヴァントに敵う者などそういるわけがないが、正面切って戦わない者に対してはその限りではない。
 対処策を練るのはマスターたるティーネの仕事だ。しかし、そのためにはこの暴君と名高いギルガメッシュには大人しくしてもらう必要がある。奇襲を受けるような場所には行って欲しくないし、街中に混乱を起こす真似も遠慮願いたい。唯我独尊を地でいくサーヴァントがこちらの都合をどこまで慮ってくれることか。
 が、そんなティーネの思惑を余所にアーチャーは軽く応える。
「ふん。まあよい。気をつけることにしよう」
「………………」
 意外な言葉に、ティーネは次の言葉を出すことができずにいた。
 あくまで可能性の話だ。ティーネ自身も全部当たっているなどとは考えておらず、英雄王と正面から互角に戦えるサーヴァントがいる可能性は現状で一割。仮定に仮定を重ねた「影」の存在については可能性が高まったところでコンマ一パーセント以下。
 話せば激昂する、少なくとも機嫌は悪くなるだろうと踏んでいただけに拍子抜けである。
「俄然面白くなってきたではないか。確かに、我の身体こそがこの世で最も大事にすべきものだ。あいつと出会うまでは万に一つもあってはならんことだ」
 言って、すっくとアーチャーは立ち上がった。
 自然な動作である。まだ短いつきあいではあるが、普段から英雄王の行動そのひとつひとつに注意を払っているティーネから見ても、特に何ら変わったこともない。あくまで自然体であるが――その所作に、ティーネは果てしなく嫌な予感を感じ取った。
「何を呆けている。出かけるぞ」
「――は?」
 間抜けな声だ、とティーネは自分でも思う。だがそれより何より理解しがたい言葉が告げられたように思える。
 言葉の意味を咀嚼するのに時間が欲しいティーネを余所に、アーチャーは待つような真似はせず、正に王者の貫禄を持って外へ通ずる道を行く。王の出陣とでも名付けたい様相ではあるが、ティーネの目にはその後ろ姿が仕事終わりの労働者のように見えている。戦というより歓楽街へ赴くかのよう。
「一体どちらへ行かれるおつもりですか?」
「決まっておろう。その不可解なサーヴァントとやらを退治しにいく」
「………っ!?」
 当然とばかりに応えた英雄王の言葉に、今度もまた彼女は絶句する。
 たった今、このサーヴァントは気をつけると言ったばかりだというのに!
 ティーネの心の叫びがアーチャーに届く筈もない。届いたところでアーチャーが頓着する筈もない。
「サーヴァントでなく魔術師を喰らうというなら、まだ幼い小物に過ぎん。でかくなった化け物相手をするのも一興だが、それを待つのは性に合わん」
 言われてみれば、そうかもしれないが。
「ま、待ってください! せめて! せめて私を共に――」
「当然だ。貴様には街を案内して貰わねばならん」
 先行する英雄王に慌ててティーネはついて行く。本来、サーヴァントに一番気をつけるべきはアーチャーではなく、マスターである彼女自身だ。サーヴァント不在のところを狙われてはいくら気をつけていたとしても対処のしようがない。特に、誰に気づかれることなく痕跡もなく魔術師を浚っていく者なら、尚更。
 ちなみに、彼女を共に付けることがアーチャーにとっての「気をつける」にあたるのであるが、彼女がそれに気づくにはまだ少し時間がかかるようである。


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 長く、彼女はその痛みに耐えてきた。
 身体が傷ついていたわけではない。
 病魔に冒されていたわけでもない。
 この痛みは――存在するための証。
 生きる、ということはそれだけで茨の道を歩むことだ。
 喜びがあり、苦しみがある。それこそが生きるということ。
 だが、果たして彼女の生に喜びがあったのかどうか。
 彼女の人生は全て神のためにあった。
 その過程における悦楽は圧倒的に少なく、神に捧げられるものではない。
 その過程における苦痛は圧倒的に多いが、神に捧げていいものではない。
 神のためと叫びながらも、その実彼女は神へ何も捧げてはいない。
 狂信者と呼ばれながらも、その実彼女は神へ己を捧げてはいない。
 ただひたすらに、必要とされるその日のためだけに、彼女は邁進していただけ。
 結論として、彼女が神に求められることはついぞ来なかった。
 彼女がいじめ抜いてきた体は、全て無駄に終わった。
 彼女が得てきた十八の秘技は、全て徒労に終わった。
 彼女が長年培ってきた信仰は、何の意味ももたらさなかった。
 それでいい、と彼女は死の間際に思った。
 自身が必要とされる状況でない、そのことに満足した。
 彼女の存在を恐れた長老たちは、彼女を封じ込めることにした。
 暗殺者でありながら一切の仕事を与えなかった。
 血脈を絶つため生涯男と交わらせなかった。
 後継者すら残さぬようその秘技を次代へ継がせることすらも禁じた。
 後世の記録の中にすら――彼女の存在はどこにも記されていない。
 自身の生きた証をついぞ残すことなく、彼女は誰に看取られることもなく旅立った。
 もう二度と目覚めることはない。
 そう思えば、自身の生涯としては、そこまで悪いものではなかった、と思いながら。


 ……音が聞こえていた。
 耳慣れない異国の言葉と靴音と楽しげな笑い声。規則正しく刻まれる時計の音に、時折交わる鳥の囀り。
 ぼんやりと、耳だけを覚醒させていた。まだ頭には霞がかかっている。手足は未だ覚醒に至っておらず、呼吸ひとつに激しい疲労感すら覚える。意識がそのまま沈んでしまうのも、時間の問題かと思えた。
 だと言うのに、彼女の目覚めを認識させた声が、間近で聞こえてきた。
「ああっよかった! 気がついたみたいだね!」
 一体どこから判断したのか。外観的には何の変化もなかった筈。覚醒にはまだしばしの時間が必要だと判じこのまま無視を決め込むも、声の主はそれらをまとめて無視してみせた。
「っ、――――――」
 口元に、水が運ばれた。
 渇いた喉に確かに水は心地よく、不覚にも幾ばくか口へ含んでしまう。決して多くはないそれは体に乾きを自覚させ、それ故に彼女の意識を急速に表層へと押し出すことに成功していた。
「――ぁ」
 遠慮なしに含まされた水を嚥下し、二度と目覚めぬと思っていた瞼をうっすら開けてみれば、そこには見知らぬ天井が存在した。
 気温は温かく、日差しは既に高い。カーテンすらない窓から空気が流れ込み、彼女の頬を撫で伝う。
 彼女が寝ていたのは、固いスプリングながら確かにベッドと呼ばれる寝具の上だった。汚れてはいるがこの部屋唯一の布生地の存在を自らの上に感じながら、彼女はゆっくりと確実に意識をその身体に浸透させていく。
「大丈夫? 長い間目を覚まさないから心配したんだよ!」
 傍らで騒いでいたのは、水差しをもった青年。再度水差しを口元に持ってこられるがそれを彼女は首をふって断った。まだ体は水分を欲していたが、満たされることには抵抗がある。
「――あなた、は?」
 聞いて、彼女は青年を観察すると――記憶が徐々に甦り始めた。記憶を辿り、心当たりであるところの、彼の手に浮かび上がった刻印に注目する。
 莫大な魔力が秘められた、三画の独特な模様。
「僕の名前はフラット。フラット・エスカルドス。この聖杯戦争でバーサーカーのマスターをしているよ」
 実にあっけらかんと、フラットは彼女――アサシンに自身の正体を明かして見せた。
 そういえば、とアサシンははっきりと思い出す。
 確か、マスターを二人浚ってきたのだったか。
 その内の一人が、この男。
「――っ、あ……?」
 身体が反射的に動こうとしていた。しかしその刹那に、胸元で激しい痛みが我が身を蝕んだ。
 ベッドから簡単に起き上がれない。その事実から自身の胸元を覗き見れば、引きつるような痛みの上から回復呪詛を描かれた包帯が幾重も巻かれている。
 二人を浚う直前に、あのサムライサーヴァントの爆発に巻き込まれた影響だ。あの爆発で武蔵の短鎗の破片が胸元に食い込んだのだ。
 実を言えばあの時アサシンは武蔵の傍で霊体化して気配を殺して隠れ潜んでいた。爆発の瞬間も防御しようと思えばできたのだがあえてそのまま受けることで気配遮断を続行し、そのおかげであのベストなタイミングで二人を浚うことができたのだ。
 が、こうして時間が経ってみると予想よりも遙かにそのダメージはでかい。収穫はあったが、その後二人を拘束することもできず倒れたことも考えるとまぬけとしかいいようがない。
 アサシンは自身の身体を急いで調査してみる。
 服を着ていないのは些細な問題だ。身体のあちこちにダメージがあるが、そこまで問題ではない。問題となるのは胸元にうけた傷だ。これだけで彼女の能力を三割近く低下させている。完全回復にはまだ数日ほど必要とするだろう。そして一番の問題である魔力については……
「ごめんね、手当するにも服を脱がさなくちゃならなくて……」
 フラットは手当てしたことではなく、服を脱がしたことを詫びていた。何かずれている印象を受けたが、この事態に比べてみれば些事に過ぎない。
 彼女はフラットを鋭く睨み付けながら、詰問する。
「それについてはかまいません。それよりも……これは一体、どういうことですか?」
「これって?」
 アサシンが言わんとするところに心当たりがないのか、フラットは首を傾げる。
 彼がしたことといえば、この場に連れて来られるのと同時に倒れた彼女を介抱しただけだ。サーヴァントだから親しくなりたかったし、傷を癒やす術を持っていたから治療した。彼にとって、それは何ら問題のない行為といえる。
「誤魔化さないでください。何故、私の魔力が全快になっているのですか……!?」
 アサシンの言葉通り、現在の彼女の魔力量は召還された時と同じ、いや、それ以上の魔力を体内に留めていた。
 思い出してみれば、彼女がそもそも倒れてしまったのは蓄積されたダメージと胸元の一撃、そして召還後から幾度となく使用してきた宝具による極度の魔力低下が原因である。ここまで深刻な魔力不足になれば例えマスターから魔力が供給されていたとしても一朝一夕に回復するわけがない。
「――ああ。うん」
 そんなアサシンの疑問に、フラットはまたも軽く、事実を告げる。
「怪我の治療に必要だったから、君と僕とでパスを繋げたんだよ」
 ごめんね、とフラットは舌を出してちょっとした悪戯程度の謝罪を彼女に告げた。
 無論、この行為がいかに出鱈目なことか、この聖杯戦争の全てを壊そうとした彼女であっても理解できる。
 この男は、あろうことか令呪による束縛なしで、サーヴァントと契約したのである。
 これには、二つの偶然が重なっていた。
 一つは、彼女とそのマスターであるジェスターが完全な契約を交わしていなかったことだ。不完全な契約によってパスが安定せず、第三者が介入できる余地を残してしまっていた。
 もう一つは、フラットがこのマキリが完成させた令呪の契約システムを少なからず把握していたことがあげられる。第四次聖杯戦争にマスターとして参加したフラットの師の師であるケイネス・アーチボルトはこの契約システムを解析し、その魔力供給パスと令呪の命令パスを分割することに成功していた。その時の資料をフラットは時計塔で読んでいたのである。ケイネスの孫弟子である彼だからこそ、このような偶然が生まれたともいえる。
 とはいえ、状況的・技術的に可能であるとしても、敵サーヴァントを助けるフラットの思考は常識的に考えて理解しがたいのは間違いない。
 令呪による命令パスを繋げるならともかく、魔力供給パスだけを繋げることに意味はない。サーヴァントは令呪があるからこそマスターに従うのだ。命令権のないマスターは、殺されないとしても死なない程度に眼を抉り耳を潰し喉を斬り四肢を潰され拘束されたとしても文句は言えまい。
「正気ですか、あなたは……」
「だって怪我してたしさ」
「この程度の傷ならばまだ幾ばくか猶予があります」
 アサシンの言葉ももっともだ。確かに無視していいダメージではないが、今すぐ消滅するほどのものではない。消滅までに猶予があれば、手段を選ばなければいくらでも対処ができる。ましてやフラットはすでにバーサーカーのマスターである。バーサーカーに加えてアサシンにまで魔力供給をしようとすれば、負担は単純に二倍――どう考えても数日中に自滅するのがオチである。
 けれども、そんなアサシンの言葉にフラットは首を横に振った。
「関係ないよ。他人が傷ついていて、自分には治す術がある。なら、僕は治してあげようって思うんだ。
 だって、痛いのってイヤじゃない?」
 そんな的外れな意見ではあったが、フラットの言葉に嘘偽りはなかった。そこに自身が殺される可能性を欠片も考慮していない。純粋なる善意だけで、彼はアサシンを救うことに決めたのだ。
 馬鹿げた行為と人は笑うだろう。だが、そんな愛すべき愚か者を彼女は幾人も見てきたのだ。
 自身のことを顧みず、ただ純粋に人のために尽くす者たち。彼らはアサシンとは異なる教えと異なる神を持っていたが、その行為そのものを間違っているとは思わない。憎むべきは異教と異端、そしてそれを扇動する者であり、その信徒本人ではないのだ。
 この青年を殺したくはない。
 聖杯戦争を破壊することがアサシンの目的であり、その意味では目の前にいるフラットは破壊目標の一つではある。とはいえ、この愚かなまでの善意を見せつけられては例え異教徒であろうと無闇に殺すのはアサシンの意に反している。
「……もし、生きてこの戦争を脱することができたなら、改宗することを薦めます」
「? よく分からないけど、考えておくよ」
 アサシンの薦めにフラットは軽く頷いてみる。宗教に関して特段興味はないが、それでも神と名のつく者に敬意を示す程度のことはできる。
 フラットの答えにアサシンは安堵した。
 これで心置きなく、

 彼を排除することができる。

「どうし――」
 アサシンの異変を感じたのか、フラットがわずかにアサシンの側へ身体を傾け、アサシンが伸ばした手を何の疑いもなく握りしめた。異変を攻撃と思わないことに一抹の裏切りを覚えながら、彼女は力在る言葉を発した。

【……構想神殿……】

 一瞬、周囲に風が発生した。それは彼女が漏れ出た魔力の余波だ。そよ風程度ではあるが、風は部屋の隅々をわずかに洗い、そして静かに消えていった。
 後には、一人残ったアサシンがいるばかり。
 フラットの姿は、どこにもない。
 現象としては、先に二人を浚った回想回廊とまったく同じだ。唐突に人が消えていなくなる。ただ違う点と言えば、回想回廊は「どこかに出る」のに対し、構想神殿は「どこにも出ない」。
 この業は発動してしまえば他者に抗う術がないのが利点である。強力な対魔能力があろうとも、問答無用で他者を影も形もその場から消し去ってしまう。零距離でなければ使用できないのが欠点だが――このスノーフィールドに集まってきた魔術師程度ならば、何の問題もない。ティーネ率いるスノーフィールドの戦士程度の実力であれば、誰に気づかれることなく、まとめて痕跡すら残らず消し去ることが可能だ。
 惜しむらくは、使用したアサシン自身が痕跡がないという痕跡を残していることに気付いていないことか。この静かなる蛮行が巡り巡ってティーネに疑念を抱かせアーチャーを動かしたなどと彼女が知るのはかなり先の話である。
「……願わくば、彼に幸いを……」
 わずかな時間、彼女はフラットのことを思い祈りを捧げた。
 フラットを消し去る必要はなかったかもしれない。しかし聖杯戦争に関わる以上放っておくわけにもいかなかった。可愛そうではあるが、他のサーヴァントに出会う前にこうしてやることが、最善ともいえよう。盤上の駒を排除する方法が慈悲に溢れたものとは限らない。
 祈り終われば、あとは身体に鞭打ちベッドの上で軽く動いて調子を確かめる。痛みを無視すれば戦闘行為も不可能ではない。一番の問題であった魔力の供給が解決されてしまえば、身体の不調など些末なことだ。
 ふと、彼女はこの建物内に侵入者がいることに気がついた。多少周囲を警戒し足音を殺そうとしている感はあるが、訓練を受けた者の足取りではない。その足音とその間隔から歩幅を割り出し、身長を計算すれば、心当たりは一人しか残らない。
 二人浚って一人消してしまえば、これはもはや推理ではなく算数だ。
「……あのサムライのマスター、か」
 確認するように呟いて、どうするべきか検討する。
 フラットを消したのは、彼が未だ健在であるバーサーカーのマスターであったからだ。サーヴァントを失ったマスターである東洋人とは立場が違う。二人が一緒にいたので両方浚ってきたが、彼女が交渉したかったのは東洋人の方である。
 交渉のことを考えると、フラットを消してしまったのはまずかったかもしれない。いささか性急に事を進めてしまったことを反省するが、いずれにせよフラットはどのみち消していたし、東洋人の辿るべき運命も決まっている。
 穏便に済ますためには、一芝居打つ必要があるだろう。
 手っ取り早く事を進めるのなら洗脳という手段もある。
 どちらもあまり得意ではなかったため、彼女は件のマスターが部屋に辿り着くまでのわずかな間、悩むことになった。


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 ようやく一息ついたのは時計の短針が三周半過ぎ去った頃だった。
 スノーフィールド中央病院はこの地域で一番大きな総合病院だ。それだけに設備も最高のものであるし、スタッフも一流の人間が二四時間三六五日常時一〇〇人近い体制で働いている。
 職員専用の休憩室で眠気覚ましのコーヒーを飲んでいる女医も、その一人だ。まだ若く実績には乏しいが、年齢に似合わぬ知識と技術を評価されこの病院で数年ほど勤務している。
 そんな彼女ではあるが、この二日間は経験のしたことのない忙しさであった。
 原因は先日起こった麻薬グループと警察との攻防だ。一連の事件の事情について彼女は何も知らないが、かなりの大事件であることは推測が付いていた。
 運ばれてきた急患の数は彼女が把握しているだけで両手の指では足りないほど。彼女が執刀した手術も大小合わせて五件、その内一件は半日がかりの大手術である。他の勤務医も似たようなことを言っていたのだから最終的な死傷者数はかなりのものだろう。
 幸いにも既に山は越えて彼女の出番は必要とされていない。例え必要とされていたとしても今の彼女は使い物にならないほどに消耗している。今はもう自分が寝ているのか起きているのか自信がないくらいである。
「……けど、あの子の様子くらいは見ておかないとね」
 自身を奮い立たせるために気を抜くと落ちそうになる瞼に活を入れてみる。頭は霞がかかったようであるが、肉体は自身の思い通りに動いていた。
 女医があの子と呼ぶのは意識不明の少女のことだ。名前は繰丘椿。女医がそこそこ腕を上げ、このスノーフィールドにも慣れた頃に運ばれてきた患者で、彼女が初めて正式に担当した患者でもある。本来であれば腕が良いとはいえ彼女の手に余る患者ではあるのだが、『経過観察』程度であれば彼女でも十分であると病院上層部は判断したらしい。つまるところ厄介毎を押しつけるのに丁度良かったのであろう。
 女医にできるのは、ただ脳波のチェックと簡単な身体検査のみ。その他のことについては治療も含めて上の許可が必要だ。
 それだけに、何もできぬ自分を不甲斐なく思う。
 眠気覚ましのコーヒーを胃に入れて女医は彼女が眠る除菌室へと赴くべく立ち上がる。もう眠たすぎてコーヒーの味すら感じることはできなかったが、彼女を診察しなければ安心して眠ることもできない。
 少女の診察は日に三度行われる。この二日間においてもそれは同様に行われたが、行ったのは看護師や研修医であって担当である女医ではない。やはり些細な兆候を探し当てるのは自分の役割なのである。
 女医が普段使用している診察室から彼女が眠る除菌室は結構な距離がある。院内感染を防ぐ名目で感染患者は別病棟に隔離してあるためである。当然ながら人通りは一般病棟に比べて制限も厳しく極端に少ない。例え親族といえども病棟内に入るためにはそれなりの手続きが必要としている筈なのだが――
「あら?」
 除菌室の手前にあるロビーの長椅子に、一人の少女が俯いたまま座っていた。
 辺りは電灯が切れているのか薄暗く、柱の陰となった場所には何やら黒い霧が佇んでいるようにも感じられた。まるで、黒い霧が少女を見守っているかのよう。
 女医は不審に思いしばしその足が止まった。この病棟は見舞客を放置するようなことはしない。必ず入り口から出口まで看護師が傍らに付き添い、念入りな消毒は無論、看護師と同じスモックを着せられるのが普通である。幼い少女が普段着のまま一人で放置される状況など有り得ないのである。
 通り過ぎることは簡単だっただろう。女医は早く帰って眠りたかったし、仮に話しかけずとも看護師に一言言えば済むことだ。だがマスクもしていない少女の俯いた横顔を見れば、女医としては無視することもできなかった。
「――椿ちゃんの、妹さんとかしら?」
 女医がそう判断したのも無理からぬこと。少女の容姿は女医がよく知る繰丘椿と酷似しており、またすぐ側にはその当の椿の病室があるのだ。関係者であろうことは想像に難くない。あの子に妹がいたかしら、と思考を巡らせるが、妹でなければ親戚等であろう。
「え? あっ――」
 女医の声に慌てて頭を上げた少女は驚いた声を上げた。まるで話しかけられたことが意外であったかのような反応。そんなことを疑問に思うが、少女の瞳に溜め込まれた涙を見れば問いただす気も失せる。
 子供のカウンセリングは専門外であるが、経験がないわけではない。
「はじめまして。私、椿ちゃんの担当のお医者さんなのよ」
 女医はにっこりと椿とよく似た少女に笑いかける。だが、女医の言葉に少女は身体を硬くした。何か、核心に触れる言葉を聞いたかのように。
「あの、えっと」
「あら、別にいいのよ。慌てなくて。――それとも、英語分からないかな?」
 何か言葉にしようと慌てる少女をなだめるように女医は少女の前で腰を落として視線の高さを合わせる。後ろで黒い霧が少女を見守るように揺れ動いたことには気付かない。
 こうしてまじまじと少女の顔を見れば、椿と双子と言っても過言ではないほどに似通っていた。ただ、入院中に髪が伸びてしまった椿と違って少女の髪は首回りまでしかないし、血色だっていい。体つきも少しばかし小さいようにも感じられる。入院してきたばかりの――いや、入院する前の元気だった頃の繰丘椿を想像するなら、こんな感じだろうと女医は思った。
「いえ、英語は、少し分かります」
 ネイティブとはほど遠い舌足らずな話し方で少女は答える。しかし英語に慣れていないという風ではなかった。慣れていないのは誰かと喋ることだ。
「それは良かったわ。あなた、お名前は? お父さんかお母さんはどこ?」
 なるべく問いただすような真似はせず、子供が答えやすいよう声は穏やかに。質問内容も教科書に載るような定型文で答えやすいものを。それは子供とのカウンセリングの常套手段であるのだが、
「……答えにくければ、答えなくてもいいのよ?」
 少女の顔を見れば質問の回答を諦めるより他はない。少女は女医の質問に答えようと口を開けはするのだが、何か考えがあるのかわずかに幾度か息が漏れるだけで何も発することもできはしない。
 少々困ったことになってしまったが、そこまで問題ではない。元より本格的なカウンセリングをしたかったわけではなく、浮かぬ顔の少女を放っておけなかっただけの話。どちらにしろ一人でいる少女を病棟の外に連れ出すことに違いはない。
「えっとね、この場所は大人の人と一緒でないと入っちゃいけないの。私と一緒に外に行きましょう?」
 少女の手を取って促してみるが、少女の顔に変化はない。無理強いはあまりしたくないため周囲に看護師の姿を探してみるが、誰もいない。そもそも、女医はここに辿り着くまで誰ともすれ違っていないことに気付いていなかった。常時人がいてしかるべきナースセンターにすら、誰の姿もない。
「――先生」
「あら。何かしら?」
 少女の口から質問の答えに代わって声が出る。拒絶されているわけでないことに安堵しながら、女医は応じる。
「あの……あそこの病室、繰丘椿って書いてあるけど」
 少女が指さしたのは繰丘椿が眠る除菌室。入り口横のネームプレートには『TSUBAKI KURUOKA』の文字がある。
「なんで、その子はここにいるの?」
 少女の声は震えている。何か知ることを怖がっているようにも見える。
 答えるべきか否か、女医は逡巡した。この病棟のことは病院のパンフレットにも載っている。別段答えて困ることでもないが、さすがにいくら似ているとは言え身元の分からない人間に病状を説明するのは好ましくない。
「……ちょっと、身体の具合が悪いようなの」
 女医は言葉を選びながら説明する。
「この建物は目に見えないほど小さな生き物が原因で病気になってる人が休んでる場所なの。椿ちゃんも一年前に倒れて、ずっとここで眠っているの」
「……一年、も」
「ええ。身体に異常はないから目覚めればすぐに良くなると思うけどね」
 少女の顔を見ながら女医は最後に希望的観測を述べてはみたが、……少女の顔は驚愕というより絶望といった色がある。例えるなら、死んだことに気付かぬ幽霊が死んでいることに気付いたような、そんな顔。
「……大丈夫?」
 女医のどの言葉が地雷であったのか、女医自身に判別はつかない。だが話さないというのも酷ではある。この程度の話であれば、別段自分が話さずとも噂好きの看護師に聞けばそこそこ口を濁しながらも話してくれるだろう。それこそ、植物状態から経過観察の経緯、未発見細菌に対するモルモットであるところまで。無責任に。
「私……もう、帰ります」
 女医に対する応えなのか、少女はのろのろと長椅子から立ち上がった。それは女医としても望ましい行動であるのだが、いかんせん一人でこの病棟から出すわけにはいかない。慌てて逃げるように立ち去ろうとする少女の腕を掴もうとして、
「……タトゥー?」
 その紋様に気がついた。
「いやっ! 離してっ!」
 タトゥーに触れられて多少痛むのか、少女の声は湿り気を帯びていた。泣かれると厄介だと思いながらも、この手を離してしまうわけにもいかない。
 女医の脳裏に走ったのはこのタトゥーの原因。細菌感染の病気に限らないが、罹患することによって身体にタトゥーのような痣ができることがままにある。もしタトゥーの原因が病気によるものなら急いで処置する必要がある。何せ繰丘椿が感染している細菌は未知の代物。何が起こるか分からないことだらけなのだ。
 だが、女医が少女にタトゥーを問いただすようなことはしなかった。何故なら女医の後ろでは黒い霧が女医に覆い被さるように蠢いていたからである。



「――先生、大丈夫ですか! 先生!?」
 身体を揺すられ呼びかけられた声に、女医ははっと顔を上げた。傍らには見慣れた看護師の姿があり、テーブルの上にはコーヒーの水たまりができていた。
「あれ? 私、一体……?」
 朦朧とする意識を覚醒させながら、女医は看護師を振り返る。
「もう、疲れていてもこんなところで寝ていちゃだめですよ」
「寝てた? 私が?」
「コーヒーが零れてて先生が机の上でぴくりとも動かないから心配しましたよ」
「コーヒー……飲んでなかったっけ……?」
 女医が起きたことを確認してか、看護師はティッシュを取り出してテーブルの上にぶちまけられたコーヒーを手際よく処理していく。その分量から女医がコーヒーを飲んでいないのは確実だろう。そういえば、飲んだ記憶はあってもコーヒーの苦みを味わった記憶はない。
「……あれが、夢?」
 時刻はコーヒーを煎れた頃合いに確認している。あれからわずかに十分ほど。記憶に残る内容に要した時間とほぼ一緒である。
 試しに頬をつねってみれば、確かに痛かった。あれほどリアルであったにも関わらず、現実を鑑みれば夢であったと判断するより他はない。
「じゃあ、まだ椿ちゃんのところへ行ってないんだ……」
 そういえば夢の中でもどちらにしろ診察は行っていない。
「先生、椿ちゃんのチェックなら私がしますから仮眠室で横になってはいかがですか? すごく顔色が悪いですよ?」
「そう?」
「そうですよ、ほら熱も……すごくあるじゃないですか!」
 看護師が女医の額に手を当てると、そこは確かに普段よりも明らかに熱くなっていた。試しに常備している体温計で測って見れば、医者でなくとも横になることを薦める体温である。
「さっきまで大丈夫だったんだけどな……」
 先ほどまでは眠くはあっても決して体調が悪いわけではなかった筈だ。けれども現実に身体は悲鳴を上げているようで、これでは除菌室の中にいる椿の元へ診察しに行くわけにもいくまい。
 急激な体調悪化に頭を傾げるも、女医は自ら薬を処方して大人しく仮眠室へ向かうことにした。
 自己診断では疲労によるただの風邪であり、まさかこの体調悪化がサーヴァントと呼ばれる存在によって引き起こされた症状であることなど、ただの一般人である彼女に分かる筈もなかった。


 ライダーは困っていた。
 黒い霧の形は右へ左へと揺れ動き、マスターたる繰丘椿の周囲を漂い続けている。
 人間の感情を理解することのないライダーが「困る」ということはない。しかし、現状を第三者から見れば、確かにライダーは困っていた。システマチックに行動する彼はマスターが是とする行動を取ろうとしても、それを解決する手段が明確でなければ何をして良いのかわからないからである。
 繰丘椿は、ライダーの前でただひたすらに膝を抱えて泣いていた。
 感情を理解せずとも椿の活力が著しく落ちているのはライダーにも理解できる。それが椿にとって良いことでないことも理解できる。だが、それをどうすればいいのかライダーはわからない。
 女医がこの夢の世界に来たのはライダーが原因だ。しかしそれはライダーが意図した結果でなく、「病」というライダーの性質から椿の一番近くにいた人間が“感染”しただけのこと。そして感染したとしてもすぐに夢の世界へ来るというわけではなく、感染した人間の抵抗力が落ちた時にだけこの夢の世界へ来ることになる。
 つまりライダーに“感染”した人間が風邪でもひけば、この夢の世界へ来るのである。先ほどの女医の場合、長時間労働による過労がそのトリガーとなったわけである。
 ただ“感染”はライダーの意志で強めることも弱めることもできるので、ライダーの意志ひとつで夢の世界から追い出すことも可能である。
 椿が苦しんだ、とライダーは判断した。女医が椿の腕を掴み、椿はそれを忌避した。故に苦しみの原因となったであろう女医を夢の世界から追い出したわけだが、何故か状況は好転しなかった。
 仕方ない、とライダーが思ったかどうかは定かではない。ありとあらゆる手段をライダーは模索するも、なかなか最善の方法は見つからない。ならば、このまま何もせぬよりも次善策として経験上有効であると判定した手段をとろうとライダーは判断した。
 次善策はすぐに椿の目の前で行われた。
 現れたのは、一組の夫婦。椿をこの世に生み出し、実験台として取り扱った二人の魔術師。椿がこの世で一番愛し、愛されたかった人物。ならば、椿が最初に望んだ通りに椿を愛する二人を出せば、この状況を打開できるだろう、とライダーは判断したのだ。
 しかし、
「つ……ばき……」
「だ……じょ……ぶ……?」
 椿の前に現れた繰丘夫妻は、とても椿を愛せる状況にはなかった。
 頬は痩け、目は虚ろ。とても健康的とは言い難い顔色で、二人は立つこともできず床でわずかに蠢動するだけ。壊れかけのレコード如く同じ言葉を何度も何度も、血反吐と共に吐き続ける。
 両親のそんな姿を見せつけられれば椿もライダーを無視続けるわけにはいかない。両親に抱きつきながら、椿はライダーに懇願する。
「お願い! もうパパとママを休ませてあげて!」
 椿の悲痛なその願いに、ライダーは満足したかのように身体を揺らめかせて夫妻を女医と同じように消しさってみせる。同時に、この方法は有効であるという間違った認識を再確認していた。
 椿がそもそも病院へとやってきたのは、この両親の変容が原因である。
 ライダーが召還された当初、椿は彼女の理想の両親に囲まれて一時の楽しい時間を過ごしていた。長い間夢の世界で過ごしてきた彼女が両親に触れ合うのは実に一年ぶりのことであり、ある意味ライダーは聖杯に代わって椿の願いを叶えたと言っても過言ではなかった。
 しかし、万能ならぬサーヴァントの能力には限界もあれば制限もある。
 そもそもライダーは“病”という災厄そのものであり、“感染”することで身体の生理的機能や精神の働きを部分的に阻害した結果、操っているように見えるというだけの話。当然、阻害し続ければ弊害も出る。
 結果、肉体は時間と共に衰弱していき、糸の切れかけた操り人形の状態となる。特に繰丘夫妻は魔術師ということもあってライダーは強めに“感染”させている。夢の中ですらあの状態であるのだから、今頃現実の世界では家の中で倒れ伏していることだろう。早い内に介抱しなければ近いうちに糸が切れてしまうことになる。
 そんな状態の両親を見せつければ、椿が病院へとやってきたのも当然であろう。魔術師としての知識も、ライダーが一体どういった存在なのかも知らぬ椿は、とりあえず薬を手にせんと病院へと訪れ――自らの正体を知ることになる。
 少女の精神は限界に近かった。
 この広い夢の世界で、女医と出会えたことは果たして幸運だったのか否か。女医という第三者の存在は彼女に正しい認識を導き出させてくれた。
 自分が本当は意識不明であり、愛してくれた理想の両親も今は慰めることもできぬ有様。見守り続けるライダーは椿の意には沿ってくれるものの、空気を読んでいる様子ではない。
 まだ十歳の少女にこの状況を打破すべく動け、というのも無理な話。彼女は何もせず、何もできない。ライダーから逃げることも、責めることすらしない。ただひたすらにしくしくと泣き続け、時折ライダーによって現れる両親の姿に心を痛めるだけ。
 そんないたちごっこを何回したことだろうか。気がつけば、椿は一人泣き疲れて眠っていた。椿が眠っている間は、ライダーは何もしない。彼女の意に沿うということは、彼女が何も望まない状況であれば何もしない、ということだ。
 だが、しかし。
 運命は思わぬ方向に突き進む。
 自分が意識不明だと言うこと、そして女医という両親以外の他者に出会ってしまったという事実。真に両親から愛されたわけでもなかった十年。誰にも触れ合うことのできなかった一年。偽りであっても幸福だった数日。そのことが、椿にとってどれだけ大きな衝撃であったのか。人間ならぬライダーは無論、彼女自身であってもそれを推し量ることは難しい。
 彼女の願いは今まで表層に現れ出でることはなかった。無意識の奥底に、深く澱のように降り積もるだけ。両親に愛されたいという願いは、一年前にあったもの。今の彼女の願いは、もっと単純にして身近である筈のもの。
 他者と触れ合いたい。
 椿をマスターと呼ぶライダーと出会った。椿を愛してくれる両親に出会い、そして別れようとしている。自分の担当医だという女医と出会い、そして別れた。
 知らなければ知ることのなかった幸せ。
 知ってしまったが故の不幸せ。
 繰丘椿が夢の中で夢見た望み。
 夢の中で眠る椿は無意識のうちに、こんな言葉を口にしてしまった。
「……もう、一人はいやだよ……」
 その言葉の意味にはありとあらゆる意味が込められている。両親と別れたくない。友達と遊びたい。周囲から認められたい。いろんなことを学びたい。孤独は嫌いだ。現状に不満がある。
 ――両親がいなくなった時の代わりが欲しい。
 そんなわずかな眠りの中の呟きを、ライダーは聞き逃さなかった。
 サーヴァントはマスターからの命令を受諾した。
 受諾してしまった。
 大きく頷くように彼は黒い霧の形を震わせ、霧散させる。それはまるで風に乗って種子がばらまかれる様に似ていた。現実にはない夢の世界で、彼の姿は北へ南へ、野へ山へと広がってゆく。
 それがいかなる結果を生み出すのか。
 ライダーのマスターが結果を知るにはまだしばらく時間がかかる。


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02

 スノーフィールドには二つの市がある。
 ひとつはスノーフィールドの中心であり元からあったスノーフィールド市。そしてもうひとつがスノーフィールド市のベッドタウンとして近年西部森林地帯を切り開いて作られたスノーヴェルグ市である。昨今は広大な土地とスノーフィールド市へのアクセスのしやすさから工場や研究所の誘致が推し進められ、登録上では三桁に迫る企業や大学が開発に乗り出している。
 そんなスノーヴェルグ市の中でも森林地帯の最奥、各企業の工場や研究所からも離れたところに繰丘邸は存在する。
 繰丘一家はあくまで一般人としてこの地に居を構えたわけではあるが、周囲にある他の企業や研究機関と同様に広大な敷地を保有している。建造物にしても細菌を取り扱っているためか他企業の施設と遜色ない規模の研究所が複数棟建てられている。
 もっとも、魔術師らしく地下の霊脈はちゃんと抑えているし、重層の幻覚と魔術結界によって中はほとんど魔術城砦と化している。署長率いる《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が連絡が取れないのにも関わらず放置している理由は、迂闊にこの繰丘邸に入れば全滅する恐れすらあったためだ。
 だというのに、その繰丘邸を訪問し、あまつさえ家の中にまで進入してきた愚か者がいる。
 工房の迎撃術式はこうした事態に備えて主不在であっても機能するように設定してある。一般道から敷地内に侵入するだけでも突破は容易ではなく、敷地内に至っては対サーヴァントを想定したトラップがごまんと用意されている。
 だがそんなことはお構いなく侵入者は実にあっさりと繰丘邸のリビングで倒れている夫妻の元へと辿り着いていた。
「つ……ばき……」
「だ……じょ……ぶ……?」
「いえ、あなた方のほうが大丈夫ですか?」
 床の上で蠢動し壊れたレコードのような夫妻に対し、侵入者はそう言わずにはいられなかった。だがそれもおかしな話である。何せ、侵入者は繰丘邸に仕掛けられたトラップを全て解除もせず、その身に受けながら辿り着いている。左手はぐちゃぐちゃに潰れているし、右手は氷付け、左足には大きな穴が空いているし、右足は炭化、おまけにその背中から胸に鉄杭が何本も突き刺さったままである。夫妻よりもまず自分の心配をするべきであろう。
「これは困った……話ができる状態でないとは」
 身体はともかく頭だけは無傷のまま、ランサーのサーヴァント、エルキドゥは涼しい顔をしながら困った困ったと呟いた。
 ランサーがこの繰丘邸へ訪れたのはこの場所にサーヴァントの気配をわずかに感じ取ったからだ。最高クラスの気配感知スキルを持つランサーにとって、たとえ数日前であっても形跡が残っていればその気配を追うことができる。マスターである合成獣の容体が安定するまであまり移動できないことから、このスノーフィールド西部にある繰丘邸は情報収集に丁度良かったのである。
 とはいえ、繰丘邸に残されていたのはサーヴァントによって倒されたであろう魔術師が二人いるだけ。何とか生きてはいるものの意志の疎通はできず、情報を仕入れようにも仕入れ先が倒産状態である。気配感知によってこの二人がサーヴァントによって倒されたことは分かるのだが、どうやって侵入し立ち去っていったのか、ランサーの鋭敏な感覚をもってしてもまるで分からない。
 トラップの中には一度きりの使い捨てのものもあったが、それらが解除されている様子はなかった。でなければ、ランサーがここまでトラップに引っかかりまくることはなかったであろう。
 だとすればサーヴァントはトラップを解除するスキルを持たず、かつ回避するスキルを持ち合わせる者か、そもそもこの魔術師からトラップが機能しないよう許可された者かの二択となる。
「この人たちのサーヴァントが裏切った……いや、マスターではないのだから三人目の魔術師が……けどこの部屋に残されている気配は二つだけ……」
 頭の中であらゆる状況をシミュレートしてみるが、そのいずれもこの状況に合致しない。なまじ手がかりがあるだけに解答を得るのは難しい。ここでライダーという正解に近づくためには、まずサーヴァントとしての定義を取り外してみるところから始める必要がある。
 と、二人の魔術師の検分も終わり部屋の中を物色し始めたランサーの隣の部屋で、硬く魔力の籠もった何かが弾けた。
 ランサーの知る由もないが、それは祭壇に祭られた中国は始皇帝由来の一降り。繰丘夫妻がサーヴァント召還のために大枚を叩いて手に入れた魔術礼装である。
 それが、突然に砕け散る。
 何が起こったのか、ランサーは確かめない。隣室にあったのが宝具であることは気配感知によって認識しているが、その身に帯びる魔力はともかく、使い手がいなければ発動できぬ骨董品同然の代物。自律起動する様子もなかったためランサーの優先順位としては二人の魔術師よりも低かったのである。
「……攻撃?」
 ランサーの気配感知は単にサーヴァントや宝具といった霊体や魔力を持つ存在を感知できるだけのスキルではない。生命を宿す動植物は無論のこと、水や空気の流れ、砂や岩といったものにまでそのスキルは網羅することができる。現在その気配感知範囲は何故か建物内に限られているが、逆に言えば建物内であれば虫の一匹が飛んでいたとしてもそれを認識することができる。
 けれど、建物内にそれらしき気配は皆無。だとすれば、攻撃は建物の外からということになる。同時に自分とはあまり関係のなかった筈の宝具が先に壊されたところから魔力源を識別し、必中に近い命中率でありながら目標の選別ができていないところまでランサーは看破する。
 遠距離からの誘導攻撃――
「困ったな。これは僕と相性が悪い」
 呟いたランサーの脳裏に親友の顔が思い浮かぶ。
 ランサーというクラスからも分かるとおり、エルキドゥの戦闘スタイルは中・近距離戦を主としている。アーチャーたる親友が遠距離という穴を埋めることで、彼ら二人は無類の強さを誇っていた。
 けれど、その親友も今は陣営を異にしている。
 それにいない者を頼っても仕方がない。
「――ああ。本当に困った」
 再度呟いたランサーの脳裏に親友の顔はすでにない。
 何故なら、呟いた直後にランサーの頭部は物理的に吹き飛んでいたからである。



 繰丘邸内部はすでに酷い有様だった。
 一体どういう状況になればこうも無頓着に罠に引っかかることができるのか。猪突猛進という言葉はあるが、イノシシだって壁に当たればその歩みも止めることだろう。
 対サーヴァント仕様の罠は周囲を巻き込む形で発動するため避けにくく、且つダメージを与えやすい。そのため対象となるサーヴァントのみならず罠を仕掛けた通路や部屋ごと壊滅的な被害が出ることになる。
 本来であれば、罠の発動は一つか二つで済んでいた筈だ。灼熱の炎、閃く雷電、押し寄せる衝撃波、超高圧搾の水流、蠢く妖蛆――そのひとつに遭遇するだけでもこの繰丘邸の強固さを実感できる筈なのだ。侵入するからには自らの命を含め、相応の被害を覚悟する必要がある。
 魔術師の工房とは元来そういうものであるが、繰丘邸はそれに輪をかけて徹底している。何せ捕獲や警告、幻覚といった命の心配の(あまり)ない罠は邸宅内にひとつとしてしかけられていない。全て一撃必殺の精神が見て取れる。
 結界は全一二層全て破壊。発動した罠は全部で一四。緊急停止した魔力炉は四。それらの余波だけで城砦級の強度を誇る繰丘邸が半壊したと聞けば、繰丘の徹底ぶりが分かるというものだ。
 倒れたサーヴァントの周囲に四つの人影がほどなく到着した。
 体格からして男性だろうということしかわからない。全員が白いローブを身に纏い、飾り気のない白いヘルメットで顔を隠している。パワードスーツを装着しているのか、あるいは魔術による強化なのか、決して広いとはいえない繰丘邸内の通路を時速四〇キロオーバーで駆け抜け、それでいて隊列は少しも乱れない。
「――目標を視認。これより排除を開始する」
 ぼそりと、サーヴァントを囲む一人が呟くと、全員がローブの中から各々の獲物を取り出す。
 前時代的な装飾の剣、明らかにローブに収まる筈のない巨大な鎌、実用的とは思えない大鎚、そもそも武器と呼べるか分からない長い布――そのいずれも凄まじい魔力が込められた宝具である。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》、繰丘邸内突撃班である。
 そもそも《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と繰丘夫妻は、言ってみればこの偽りの聖杯戦争の仕掛け人である。例えるなら遠坂とマキリの関係に近いだろう。互いに協力関係にありながら、それでいて最後には争い合う間柄。事前に対抗策を準備しているのも当然のこと。
 連絡が途絶えたのであれば、尚更だ。
 かねてより《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は繰丘邸内でのサーヴァント戦闘を想定し、近くには秘密裏にベースキャンプを設け突撃班を常駐させていた。そのおかげで突如として繰丘邸を強襲したランサーにいち早く反応できたのである。
 少々イレギュラーではあるが繰丘邸内でのサーヴァントとの戦闘に変わりはなく、また罠の心配も排除されている。そして敵サーヴァントは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の存在に気付いた様子はない。
 これを傍観するのは彼らの存在意義を否定するのと同義である。彼らは速やかに本部と連絡を取り、今度こそ自らの手で直接サーヴァントを狩る許可を得たのである。
 意気揚々と彼らは初手で頭部を激しく損壊したサーヴァントに剣を向ける。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はサーヴァントを侮らない。死に体であっても確実に仕留めるよう宝具も含めて出し惜しみはしない。屋内故に四人での突撃であるが、後詰め(バックアップ)に更に一チーム配置し、遠距離からも狙撃用宝具で警戒と援護を怠らない。更には周囲の封鎖班に観測班、救護班も導入する周到ぶりである。
 更に言うなれば、繰丘邸は細菌が空気を伝って外へ漏れ出さないよう邸内と邸外で気圧差を生じさせるバイオ・セーフティと呼ばれる機構が設置されている。いかに最高クラスといえどもランサーの気配感知スキルが邸内にしか作用しなかったのはそのためだ。結界と外壁が破壊され外と繋がってしまったため少しすれば気圧差はなくなるが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》のランサーを襲撃するタイミングとしては最も適切な時間だったわけである。
 どちらが優位であるかは一目瞭然。
 片や五体も満足に保持できぬエルキドゥ。
 片や数、地形、時間を味方に付けた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。
「さらばだ。名も知らぬサーヴァント」
 それは驕りか慈悲か。あくまで事務的に黙々と仕事をこなす《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がサーヴァントに声をかける。無論、声をかけたからといってその間に手が休まるわけでもとどめを刺すのが遅くなるというわけでもない。
 もし五体を潰された状態で敵に包囲され攻撃されたならば、それを凌ぐには英霊といえど無理というものだ。《十二の試練(ゴッド・ハンド)》のような驚異的な蘇生宝具か、あるいは《全て遠き理想郷(アヴァロン)》のような外界を遮断する絶対的な防御宝具がそんな状況には必要となってくる。そのどちらも所持しないランサーが《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の手から逃れる術はない。
 しかし。
 けれども。
 それはそもそも、ダメージを受けているという前提があっての話。
「「「「――――――!!!」」」」
 攻撃は放たれた。四人の攻撃は誤ることなくランサーの身体に吸い込まれている。首が落とされ、胸が抉られ、胴が別たれ、四肢は再度潰された。その状況は今もって変じてはいない。
 だというのに。
「僕の名はエルキドゥ――」
 肉の塊と化したサーヴァントの肉体から自らを名乗る声がする。
 肉塊からの声に対する四人の反応がわずかに違った。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》において突撃班を任されるほど前衛能力に秀でた彼らではあるが、それだけに自らの能力に自信を持っている。
 全力で回避してもなお足りぬかもしれぬ相手の間合い。だが一撃だけならば防ぐことも可能かもしれない。数の利を活かすことが相手への牽制ともなる。
 そこを読み違えた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の一人が、結果として犠牲となった。
「――ランサーのサーヴァント、だよ」
 声の調子はそれが日常とでもいうような穏やかなものだった。それに対し、その凶行は恐るべき非常識を以て行われていた。
 ランサーの肉塊の中から、一本の奇妙な槍が内側より破って外へと出る。ひな鳥が卵から孵る様ではあるが、殻を破る嘴はそのまま大鎚を持った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》をも貫いていた。
 槍としては短いと表現するしかないだろう。だがこの槍に長さなど関係はない。その気になればどこまでも長く、どこまでも細く鋭く、剣にも盾にもその形は変化する。
 それもその筈。この槍は母たる海水で作られた、七つの頭を持つ不定なる竜の槍。あらゆる生命の原典、生命の記憶の開始点。
 名を、創生槍・ティアマトという。
「ところで、君たちは一体何者だい?」
 ティアマトが《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の一人を貫いたと思えば、ランサーの肉塊は泥となって元の人形めいた身体を再構成する。その右手に槍を持ち、倒れ伏した状態でなく立ったままの状態で。
 泥人形たるランサーにとって、五体など人を真似ているだけにすぎない。その気になれば翼だって生やすこともできるし、両手を右手に変化させることもできる。無形こそが彼の正体であるのだから、斬撃の類がランサーに効くわけもない。ランサーを倒そうとするならば、叙事詩に語られるとおり女神の怒りに匹敵する極大の呪いを用意する必要がある。
 だがそんな敵の圧倒的な能力に怯えることもなく、仲間が倒れたことすらも忘れているかのように、次の瞬間には《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は何の合図も必要としないままに一個の生物の如くその陣形を変化させた。
「やれやれ……答える気はないのかい?」
 ランサーの言葉に応じる代わりに、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は動いた。
 最初に動いたのは刃がコの字に折れ曲がった畸形の鎌を持った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。仲間の身体を貫いたままのティアマトに魔力の篭もった一撃を躊躇なく解き放つ。並の宝具であれば切断とはいかずとも相応の衝撃を与えたことだろうが、ランサーはおろかティアマトすら微動だにしない。だがこれでティアマトを左右に振るうことは許されなくなった。
 そしてもう一人、布の宝具を持った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はその布を広げランサーを取り囲むようにその視界を遮る。ランサーの知る由もないが、その宝具はギリシャ神話の英雄ペルセウスが冥王ハーデスより授かった宝具(翻転響界(キビシス))を参考に作られた、即席の簡易隔離結界。結界内からの攻撃を防ぎつつその内部に魔力を溜め込み、耐えきれなくなったところで一気に魔力を解放する束縛型自爆宝具。
 そして、最後の一人が行うのは結界内への魔力攻撃。布の隙間から繰り出される剣の一撃はマジックによくある串刺しショーのひとつか、はたまた黒髭が中に入った樽を彷彿とさせる。その一撃はランサーに何のダメージも与えないが、布の結界内に着実に魔力を蓄積させていく。
 良くできたコンビネーションに剣で身体を次々と突き刺されながらランサーは感心していた。
 一つ一つの宝具の威力は決して高くはないが、高い練度の兵士が特定の条件下で運用すればこうも厄介な代物へと変質する。繰丘邸にしかけられた罠など、これに比べれば可愛いもの。
 自然、ランサーの口元に笑みが浮かぶ。
 ランサーが危惧したのはこの正体不明の襲撃者が親友の手の者か否かに尽きる。複数の宝具を持った英霊は少なくないが、連携を可能とする相性の良い宝具を他者に揃え貸し与えることができる英霊は親友くらいなもの。
 だがこの宝具は、親友の蔵にあるものではない。蔵の中にある宝具は全て王に捧げられた筈のもの。このような紛い物、いかに優れようとも王の蔵に入れる資格があろう筈がない。
 畢竟、宝具を持っている英霊ではなく、宝具を作り出す英霊がこの地にいる。
 これは――実に友人が嫌いそうな英霊だ。
 まだ見ぬキャスターの存在を確信しつつ、これでランサーは数多ある疑問のひとつに解答を得た。
「いいだろう。君たちは――」
 僕たちが排除すべき対象だ。


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 その報告が上がってくるのにそう時間は必要としなかった。
「――それが、結果の全てか」
 署長の声に落胆の色は隠せない。
 市内高層ビルに警察署とは別に構えられた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部。机に肘をついて指を組み、口元を隠すように悩む署長の前に立っていたのは先ほどランサーと交戦していた筈の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の一人。ただし、その身につけている装備の中に宝具の存在はない。
「申し訳ありません。私の責任です」
 署長に対しこちらも落胆の色を隠せない。いや、むしろ現場指揮官としてあの場での行動に悔いがある分、慚愧に堪えない。
 ランサーを結界内に閉じ込めた後、彼らがやったことは宝具を自律起動させて繰丘夫妻と倒れた仲間を引き連れて逃げただけだ。
 宝具はランサーが結界を壊した段階で自壊するよう仕掛けられている。結界内に溜められたランサーの魔力と現場に残してきた宝具三つ分の幻想崩壊によって繰丘邸はその敷地の三割が蒸発し、上空には隠しようもない程でかいキノコ雲が出現した。繰丘が所蔵していた貴重な資料はもちろん、地下にあった霊脈も完全に潰され、今後数十年は草木の生えない不毛の地となることだろう。これでは仮に“次”があってももう使うことはできないだろう。
 彼の現場指揮官としての行動は決して間違ったものではない。無形の泥人形というランサーの特性を考えれば斬撃などによる点と線の攻撃は無意味。むしろ、早期に零距離大規模幻想崩壊を仕掛けた英断は褒められるべき功績である。あの場でランサーを倒せる可能性はそこにしかなかったのだから。
 計算違いだったのは、あれだけの爆発に反して爆心地にいた筈のランサーが全くの無傷であったことか。観測班からの報告によると、ランサーは爆発の余韻が収まるのを待つまでもなく、焔に焼かれた繰丘邸から何事もなかったかのように立ち去ったという。
 ギルガメッシュ叙事詩によれば、エルキドゥの肉体は創造の女神アルルの手によって作られたものらしい。いわば彼の肉体そのものが神の宝具であることを考えれば不思議なことではないだろう。
 宝具(天の創造(ガイア・オブ・アルル))
 あの爆発に堪えたことからランクは低く見積もってもA以上。叙事詩に倣って呪殺するにしても現実的に考えれば不可能と言わざるを得ず、今回の爆発以上の威力は周囲の被害を考えるとおいそれと出せるものではない。
「……ランサーの正体、それに宝具を知れただけでも良しとするしかあるまい」
 署長の中でそれ以上の言葉が言えるものでもない。
 情報が戦局を作用するのは世の常である。ならばこの程度の犠牲で敵の情報を得ることができたのならば僥倖とも言えよう。もし英雄王に対し切り札を切った後にランサーとぶつかっていたなら、どうしようもなかったことだろう。
 問題は、そのサーヴァントが署長が最大の敵と位置づける英雄王の親友という点だ。彼らが戦い合うことは間違いないだろうが、それは両者が二人残った場合においてのみ実現する戦いだ。因縁がある以上、出会ってすぐに戦うことは考えにくく、むしろ後顧の憂いを排除すべく協力し合う可能性が非常に高い。
 その場合、二人が真っ先に排除しにかかる標的が《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》であることに間違いない。
 ランサーに目を付けられた。この事実が何よりも重い。
「それで……今後は如何なされますか?」
「…………」
 部下からの問いに署長は何も答えられずにいた。
 英雄王に匹敵する英霊などそうそういるわけもなく、いたとしても策略を用い互いにぶつけ合わせれば済む話だったのだ。このようなやっかい極まりない展開、まったくの想定外である。
 己が主の沈黙に周囲の部下は一様にその唇が動く瞬間を見守った。彼らだって別に現状が絶望的というほどではないことは理解している。まだこちらの正体を看破されているわけでもなく、温存してある宝具も多数。地の利はこちらにあり、いざとなれば“切り札”を使用すればいいだけのこと。
 だが、現段階において《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が掲げる「人間による英霊の妥当」は不可能とあいなった。現在使用許可を受けている宝具ではランサーを打倒することはできない。
「現状確認をする」
 重い重い沈黙を破って、署長は厳かにそう告げた。
 署長の言葉を聞き違えた者は居ない。マスターからの質問に対し襟を正して応えるのみ。
「確認されているサーヴァントは?」
「現状5体。アーチャー・ランサー・キャスター・アサシン、そしてクラス不明のサーヴァントが1体」
「確認されたマスターは?」
「素性が判明しているマスターは署長を含め2名。アーチャーのマスター、ティーネ・チェルク。素性は不明ですが時計塔の魔術師がクラス不明のサーヴァントのマスターと判明しています。更に、先の戦闘の発端となった東洋人を含めると計4名となります」
「撃破サーヴァントは?」
「1体確認。アサシン」
「《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》の呪いにかかったサーヴァントは?」
「3体確認。クラス不明のサーヴァントとランサー、キャスター」
「《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》の呪いにかかったサーヴァントは?」
「2体確認。ランサー、キャスター」
「現状を把握できているサーヴァントとマスターは?」
「3体確認。アーチャー、ランサー、キャスター。マスターは署長、とティーネ・チェルクのみとなっております」
「我々の損害は?」
「《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》はテストを含め六発使用。Cランク宝具を1つ、Dランク宝具を3つ消失。前線隊員が一名重傷」
「……では、」
 一呼吸、署長は間を置いた。
「このままでの我々の勝率は、いくらだ?」
 顔の位置はそのままに、視線だけを傍らで奥ゆかしい妻の如く控え黙ったままの秘書官へと向ける。
 この聖杯戦争における情報は全て彼女に集約される。警察機構から得られる情報は隊員のフィルターを通して彼女に伝えられ、そこからさらに必要な情報が署長へと受け渡される。
 そして不都合な情報はここで遮断されることにもなる。
「……現状での“我々”の勝率は、78パーセントとなっています」
 秘書官から漏れ出た数字は驚愕すべきものではあるが、何故かその言葉に力はない。その理由を聞くのに少々気が重くなる。
「その際の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の予想被害は?」
「残存戦力は三割以下。そして署長の生存率は二割以下です」
 事実上の全滅といっていい数字に黙って推移を見守る他の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にも動揺が走る。この計画を立案した“上”の連中の面目こそ立てることは可能だろうが、現場にいる《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は生きて次を紡がねば意味がない。
 こっそりと、ため息をつく。部下の手前、所作の一つ一つに注意を払わねばならないのが面倒でたまらない。確か、当初の勝率は96パーセントと高かった筈なのだが、とんだ番狂わせだ。
 逡巡したのはわずかに一分。その間会議室は物音一つせず、もしかしたら天啓となるかもしれぬ電話もかかってこなかった。
 思考の迷路は、意外にも簡単に抜け出ることができた。
「……本日0000をもって、本作戦はフェイズ3ターン2からフェイズ5へと移行する」
 重い重い沈黙を破って、署長は厳かにそう告げた。
 静寂の帳が一瞬にして吹き飛ばされる。誰も何も発さないというのにその動揺は先のものより隠しようもなく、次から次へと伝播していく。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率いる署長はこの偽りの聖杯戦争の仕掛け人の一人だ。当然その裏も少なからず把握し、勝ち残るための計画も戦争開始のかなり前から進められている。
 フェイズ1では対サーヴァント部隊を育成。
 フェイズ2ではキャスターによる昇華宝具の装備・習熟。
 そしてフェイズ3は情報収集を兼ねた部隊の実戦テスト及びフェイズ4・5への下準備を目的としている。
「よろしいのですか?」
 秘書官の言葉には様々な意味が込められていた。
「フェイズ3での経験不足は否めないが、貴重な戦闘データは習得し共有もできているし、実際に戦果も挙げている。残るサーヴァントの探索は続けるが現状で確認できるサーヴァントに戦力を優先したほうが効率的だ」
「そうではありません」
 意図的にはぐらかした署長の回答に秘書官は皆を代表するかのように詰め寄った。公私ともに長年連れ添った腹心である彼女が、署長の意図を読めない筈がなかった。それでも、言葉にして問わねばならぬことを署長は口にしている。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は確かに署長が育ててきた者たちだが、全員が全員忠臣というわけではない。“上”の息がかかった者もいるのだ。戦後を睨めば隙を見せるわけにはいかない。
 現場の意思統一が必要だった。
「何故、フェイズ5なのですか」
「聞いての通りだ。フェイズ4を実行しない。だから、フェイズ5だ」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》におけるフェイズ4とは、サーヴァントとの接触・戦闘を現在許可されている宝具のみで対処する威力偵察の段階である。その選別のためにフェイズ3があるのであり、フェイズ5への移行はフェイズ4の反応をもってするのが常道であった。
「既にアーチャー、ランサーについてはフェイズ4での対応は不可能。残るサーヴァントも我々の網を潜り抜け続けている一筋縄ではいかぬ英霊だ。時が過ぎればそれだけ我々は不利になる」
「……覚悟は変わりませんか?」
「フェイズ5用のレベル2の宝具はいつ解禁できる?」
 秘書官の最後の忠告も署長の耳には届かない。その覚悟に折れた秘書官は手元の端末を操作ししかるべき準備に取りかかる。
「明朝には用意してみせます」
 なかなか頼もしい意見に両者の信頼関係が見て取れた。
 と、確認のために資料を見せるようにみせかけ秘書官が署長に顔を寄せる。
「……ただし、スノーホワイトの許可には時間がかかります」
「いざというときに使えればそれでいい」
 意味深な視線を両者で交わすが、それ以上の言葉は必要ない。秘書官はすぐさま席へと戻り、自らが指揮する情報職員とミーティングの段取りをとりはじめる。
 署長はといえば、未だ目の前で直立したままとなっている《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に命令する。
「聞いての通りだ。明朝にはレベル2の宝具使用が用意されるだろう。それまでに今日の報告を提出。君には今後の部隊編成も任せる」
 指示を出しながらも、そういえば欠員がいたことを思い出し、ついでにそれについても彼に一任する。
「……私が、ですか?」
「ランサーと直接戦った君だから、だ。君の判断は間違っていない。それどころか、直接サーヴァントと相対した君の経験は今後大きく生きてくることだろう。私は司令官であって現場指揮官ではないのでね。やってくれるかね?」
「はっ。拝命いたします!」
 同時に、新たな宝具を得ることになった《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は一秒と無駄にすることなく部屋の外へと出ていく。失態から一転しての出世であるが、その光景を周囲の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がうらやむことはない。彼らの目的は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の勝利であって、個人の勝ち負けはそこにはない。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は既に動き始めた。もうこの動きはどうにも止まらないだろう。
「……と、すっかり忘れていたのだが、そういえば保護された繰丘夫妻の様子はどうかね?」
「かなり衰弱していますが命に別状はありません。ただ、話ができるようになるには、まだかなり先になるかと」
 署長の言葉にいつの間にか戻ってきたのかミーティングの準備をしていた秘書官が事務的に答える。相変わらず仕事が早いな、と感心する。
「現在はスノーフィールド中央病院へ負傷した隊員と共に搬送されています。スタッフ二名が交代で監視中です」
「マスター、ではないんだな?」
「そのようです。令呪も確認できず、また使用した痕跡もありません」
 そう言って秘書官は手元の資料を署長へと渡す。一度に何役もやらせているというのにやることにそつがない。気付けば机の上にはまだ入れたばかりなのか温かいコーヒーが用意されていた。
 優先順位は低いが、フェイズ5へゴーサインをだしたところで詳細を詰め始めたばかりだ。あと数十分は署長には時間的余裕がある。それまでに簡単な案件は済ませておきたかった。
「ふむ」
 繰丘夫妻の保護からまだ時間が経っていないというのに、資料には簡易検査結果と写真資料が添付されていた。全身に呪術感染とみられる痣こそあるが、資料によると令呪ではないと確認されている。
「ただ、なんらかの呪術攻撃を受けたのか、体内の魔力は枯渇しています。現代には残されていない、古代源流呪術と似通った痕跡がありましたから、サーヴァントが関わっている可能性は非常に高いかと思われます」
 古代源流呪術というのは、つまるところ他者からの妬みや恨みといった感情を元とした呪術である。人間に限らず犬や猫といった畜生でも扱えた事例もあることからそのシンプルさが分かることだろう。単純過ぎる呪いなだけにその威力は低く、せいぜい免疫力が低下する程度。呪術を見下す傾向にある協会にあっては、これを魔術として認めてすらいない。
 ただでさえ効率が悪く直接戦闘に向かない呪いである。仮に古代源流呪術の使い手がいたとして、この毒壺の如き聖杯戦争に参戦する者がいるだろうか。消去法からすると、必然的にサーヴァントの仕業ということになるわけだが……。
「ふむ……詳細なデータが欲しいところだな」
 呪術とはある程度文明が進んでいればその文明固有の特色が出てくるものである。そのため呪術の特定は比較的簡単にできるのであるのだが、古代源流呪術はその単純さ故にそういった特色が出にくい。特色を出すためには時間を掛けて子細に調べていく必要があるだろう。
 だが、もっと素早く正確に調べる方法も、ある。
「病院内に儀式場を構築できるよう一室確保しています。指示があれば一時間以内に調査は可能です」
「許可しよう。敵サーヴァントに繋がるものであれば、どんな小さなものでも構わん。見逃すな」
 秘書官の言葉に署長は躊躇なく頷いた。その言葉の意味をはき違えているわけもない。秘書官もまた、説明するようなことはしなかった。
 ただ、まるで――というよりも本気で言い忘れていたかのように、秘書官は次いで確認をとる。
「優先順位の方はいかがしましょうか?」
「……確か、繰丘夫妻には娘がいたな?」
「はい。繰丘椿、一〇歳。一年前から同病院の隔離病棟で入院中です」
「そうだな。魔術刻印の移植ができる程度には配慮してくれ」
「了解しました。可能な限り配慮いたします」
 調べるために魔術刻印以外切り刻んでも構わない――そう告げた上司の言葉にその場にいた部下は誰一人として何の反論もしなかった。


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 この聖杯戦争に於いてアーチャーが本気であることをティーネ・チェルクは正直あまり信じてはいなかった。
 こと準備にかけてティーネ率いる組織は万難を排したといってもいい。何せ故郷を取り戻すためであるなら暴力(テロ)をも肯定しつつ、それでいて待つことも厭わないような組織である。すでに独力での目的達成が困難と判断した瞬間から彼らは目的達成の手段としてこの聖杯戦争に挑んでいる。
 調査期間だけでも十余年。その間に時計塔をはじめとする各魔術機関に潜入、冬木の地にも少なくない人数を割り振って場に残された残留思念を子細に読み取らせ、聖杯戦争についてこれ以上にないほど詳細に調べ上げた。令呪が真に戦争を望むティーネたち組織の者に宿らなかったのは誤算ではあったが、他のマスターから早々に奪い取ることに成功したのも、かつての聖杯戦争から情報を仕入れていたおかげである。
 故に、英雄王ギルガメッシュについてもティーネはかなり詳細に知っていた。第四次、そして第五次聖杯戦争における圧倒的強さと――その慢心と傲慢さも。結局最終局面まで勝ち残りながら聖杯を手に入れられなかった理由は、その欠点のせいであることは間違いない。
 だからであろうか。ティーネは今この瞬間までこの黄金のサーヴァントを正しく“誤解”していた。彼は気の向くままに戦い、飽きればやめるし、面白ければ放り捨てることも厭わない。そんなサーヴァントのやる気とやらがどれほどのものか、ティーネが測りかねるのも無理はなかろう。

 ――スノーフィールドの夜にその一撃は突然に放たれた。

 一撃、というのは語弊があるだろうか。蔵が開け放たれた回数から言えば確かにそれは一撃だ。だがそこから飛び出してきた宝具の数は尋常ではない。普段であれば必要に応じてせいぜい二〇も解き放てば多い方。それがこの場にあっては一〇〇を超えている。これだけの数の宝具が雨あられと一瞬のうちに蔵から放たれ消費し尽くされた。
 効率、などという殊勝なものはそこにはない。単純に威力だけを追い求めた絨毯爆撃。互いに威力を相殺してしまったせいで放った宝具の半数は壊れてもう使用できないことだろう。
 普段であれば英雄王とてこのような浪費するわけもない。放てば回収するし、無闇に壊すような真似もしない。海魔相手に宝剣宝槍四挺を消費したことはあるが、今日の相手は海魔などとはっきりした者ではない。
 何せ、ティーネ自身も何が出てきたのか分からないのだから。
「――あの、王?」
「なんだ?」
 おずおずと口を開くティーネにアーチャーは特に厭う様子もなく気軽に応じてみせる。
 この英雄王が本気であることは理解した。油断もしない、慢心もしない、惜しむべき財はここにはなく、手加減などもっての外。
 しかし、だからと言って……
「せめて、確認をしてから攻撃した方がよかったのではないでしょうか?」
 ティーネがそういうのももっともな話だった。
 アーチャーとティーネは夜の散策に出向いている。主に裏町などの人通りが少なく死角が多い場所をあえて選び、人通りが少しでもある場所は除外してある。何せ英雄王の目的は魔術師らを影で捕食するような外道のサーヴァント(仮)である。少なくとも正々堂々と正面切って戦うタイプでない以上、圧倒的能力を持つアーチャーでは餌としてはかなり危険すぎる。敵にとって有利な地形で英雄王の弱点である無防備なマスターを同伴させねば、出てくる者も出てくるまい。
 こんなあからさまな罠に果たして引っかかるのだろうかと危惧していたティーネであるが、それは杞憂であった。
 暗い薄闇の中で二人を待ち受けていたのは背後からの奇襲。その圧倒的な気配は生粋の戦士ではないティーネであってもはっきりと認識できるものだった。
 いくら奇襲を用心していたとしても相手に先制のアドバンテージがあることに変わりはない。気配がしたと言うことは既に相手は攻撃態勢にあるということであり、悠長に振り返っている余裕はない。
 だから、アーチャーは振り返ることなく王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)によって後方に突然出現した襲撃者を容赦なく一掃した。
 襲撃者にとって不幸だったのは、アーチャーは点と線による攻撃よりも面による制圧攻撃が得意なサーヴァントだったことである。一振りの剣や槍を得物とするサーヴァントであればここは防御か回避を取ることだろうが、無限に近い財を持つ英雄王にその選択肢はあり得ない。
 まさか避ける隙間もない物量攻撃が先んじて来ようとは思うまい。おかげで面制圧された一帯は完全に瓦礫の山と化し、遠くにあるビルですら余波を受けて今にも崩れそうである。
 例え襲撃者がサーヴァントであろうとも、これで生き残れと言うのは少々酷であろう。これではあまりに英霊に対して申しわけなさ過ぎる。
「王の謁見には然るべき手順というものがある」
「直訴しに来たという風には見えませんが」
「尚のことだ。我の後ろに無断で立てばどうなるか、思い知らせてやる必要がある」
 フハハハハ、とスナイパーならぬアーチャーは笑い声を上げるが、庶民の娯楽を嗜まないティーネには何が可笑しいのか分からない。
 機嫌の良いアーチャーに代わってティーネは周囲に目を凝らした。電灯もアーチャーによって壊されていたが、幸いにして夜目は利くので周囲を軽く窺う分には差し障りはない。
 あの一撃の後で敵がまだ潜んでいるなどとは思わない。あると思うのは、まだ残っているかも知れないサーヴァントの残滓である。
「……これは?」
 そう言ってティーネが手にとったモノは今まさに砂と化して消え逝こうとしている魔力の欠片であった。
 手に取った瞬間に半分以上は即座に光となって消え去ったが、残りの半分は数秒であっても今しばらく世界に留まっていた。死した後、矛盾を嫌う世界から粛正を受けて尚この圧倒的な存在感。
 これで襲撃者がサーヴァントであったことは確定したわけだが……。
「何を見つけた?」
 ティーネの声に、アーチャーが問いかける。
「いえ、それが……」
 ティーネが答えを濁すのも当然。世の人々はそれを指して何と答えるのか、専門家でなくとも答えは出る。実際に手にとった感触からも、ティーネは同様の解答を得ている。
「おそらく……爬虫類の尾かと」
 人はそれをトカゲの尻尾と呼ぶ。だがこの場合、比喩としてのトカゲの尻尾とは無縁だろう。恐らく無事であったのは尻尾だけで、本体が助かっていることなど有り得ない。
「わずかではありますが、確かに少し動いておりました」
 件の襲撃者がサーヴァントであることは確定である。そして、尻尾が動いていたということは尻尾は飾りなどではなく、サーヴァントの一部であるということだ。蛇の尾を持つ英霊は世界中に見られるのでそう珍しいものではないかもしれない。
「なるほど。俄然、面白くなってきたではないか」
 ティーネの言葉にアーチャーは思い当たる節があるのか、その顔には子供のような笑みがある。
「良いことを教えてやろう」
 と、アーチャーはその笑みの正体が分からずにいるティーネに瓦礫の山を指し示した。
「今宵の我は油断なぞしてはおらんぞ?」
 言って、先にも増して笑いながら英雄王の姿は消えてなくなった。それ以上の言葉は不要ということなのだろう。となると、答え合わせをするつもりもないらしい。
 指し示された瓦礫の山を見るも、何が言いたかったのか咄嗟に分かるわけもない。圧倒的な物量を持って行われた、圧倒的な破壊がそこにある。他のサーヴァンとであってもこれほどの破壊を行える者はそうそういない。
「……どういう意味でしょうか?」
 アーチャーに問いに首を傾げるティーネではあったが、肝心のアーチャーは霊体化してさっさとどこかへ行ってしまった。恐らくは悩むティーネを遠巻きに眺め見ながら愉しむつもりなのだろう。
 王の機嫌を取るつもりならそれもまた構わないのではあるが、あいにくといい加減この場に留まるわけにもいかないのである。餌となるサーヴァントが消えてしまった以上、今夜の散策はこれで終了だ。
「王には申しわけありませんが、その問いに悩む姿は後ほどたっぷり見せますので」
 誰ともなく断りを入れてからティーネは振り返ることなく足早に現場を後にする。
 ティーネたち原住民はただでさえテロリストと噂されているのである。夜中に原住民の少女がグランド・ゼロにいたことが分かればどこに居るとも知れぬ敵に情報を送ってしまうどころか、この地に住む無辜の原住民にとっても厄介なことになる。
 サーヴァントが一人減った。その事実に少しばかり気を楽にしながら、少女は夜の街へと消えていった。



 少女と英霊、二人が立ち去ったすぐ後。
 瓦礫の山の端から、ぼこりと腕が飛び出した。血まみれの男の腕で、爪が剥がれ指は折れ、腕の骨も傷口から覗いていた。さしずめゾンビ映画の登場シーンのようではあるが、腕の主はゾンビなどという低級なモノではない。
「二度あることは――」
 ゾンビではなく、――吸血種。
 六連男装、ジェスター・カルトゥーレ、その人である。
「三度あるッ!」
 クハクハと嗤いながら瓦礫の山を発泡スチロールのように宙にはね除け登場する様はホラー映画というよりコメディー映画に相応しいが、押しのけた瓦礫はどれも巨大なコンクリートの塊である。ジェスターが死徒でなければ重機が搬入され作業が開始されるまで長く押し潰されたままになっていたことだろう。
「さすがに三度も死ねば慣れるというものだろう!」
 例によってその身体に刻まれた概念核は三つ目をどす黒く染めている。人間死ぬ間際になると脳内物質が分泌され多幸感に包まれることがあるというが、それは死徒にも適用されるらしい。
「ふむ。今度の死はさすがに無粋に過ぎる。戦場にいる以上流れ弾に当たるのも当然ではあるが、これでは自然災害で死ぬのとそう変わらん」
 冷静――かどうかは別として、ジェスターは己の死因にそんな感想を漏らす。
 ジェスターの死因は倒壊したビルによる圧死ではなく、アーチャーの放った宝具の一つによるものだ。広範囲に無作為に放たれた宝具の雨はジェスターに防御も回避も許さなかった。例え防御に徹したとしてもその全てが役に立たなかったであろうし、回避するにも避ける隙間がない。概念核をひとつ失っただけで済んだのが奇跡のようである。消し炭になるまで連続した攻撃をされていたら、さすがのジェスターの概念核を以てしても甦ることは不可能だ。
「あれが噂に聞く最強のサーヴァント、第四次聖杯戦争の英雄王ギルガメッシュか!」
 過去に同じ英霊が二度召還されたことは聞き及んでいる。その可能性がこの偽りの聖杯戦争にも適用される可能性を見越して、ジェスターもティーネ同様に過去に召還されたサーヴァントを可能な限り調査してあった。優勝候補ともなれば尚更だ。
「しかもかつての聖杯戦争の記憶もあるようだな! いかにももってこの聖杯戦争は偽りの名にふさわしい!」
 本来であればサーヴァントはごく少数の例外を除き、生前の記憶だけを持って召還されるという。過去に召還された際の記憶を持ち合わせることなどあり得ないのだ。
 調査によると英雄王は第四次から第五次聖杯戦争にかけて十年ほど現界していたというのだから、俗世の文化に詳しいのも納得だ。いくら聖杯とはいえそんな必要性のない知識まで聖杯が網羅しているとも考えにくい。
 アーチャーは確かに規格外であるのは間違いないが、その在り方は例外的なものではない。だとすれば、例外であるのはサーヴァントではなく聖杯の方だろう。偽りとはいえ、もう少しオリジナルに近づける努力を企画者はすべきだ。
 だが推測だけの情報よりも、もっと確かな無視できぬ情報の方が今は大切である。
 先ほどの英雄王と襲撃者の戦闘である。
 もしティーネがジェスターの言葉を聞いていれば眉を寄せたに違いない。ティーネの認識からすればあれは戦闘ではなく蹂躙の類。象が蟻を潰す様に等しい事象である。
 だが、その事実は正しいようで――間違っている。
 今回、英雄王が倒したサーヴァントの正体はギリシャ神話最強の怪物の一つ、その名も名高きヒュドラである。
 冥府の番人であり、ギリシャ最大の英雄ヘラクレスが唯一単独では倒せなかった、幾つもの頭を持つ不死身の水蛇。頭はいくら斬ろうとも切口から新たな頭が倍となって出現する上、その巨体は生半可な攻撃では傷つかぬ堅牢さも備えている。
 本来であれば、並のサーヴァントでは歯が立たぬ化け物の中の化け物である。
 伝説通りだと中途半端な攻撃はヒュドラの再生能力の前に無意味を通り越して逆効果。斬れば斬るほど頭は増える上、すぐに再生するとはいえその傷口から流れ出る血は有名な猛毒、その呼気ですら近付けば臓器が爛れる。サーヴァントならばまだしも、生身のマスターでは近づくことすら危険極まりない。
 故に、ヒュドラを倒す方策は幾つかに限られる。
 一つ目は、伝説に準えて再生能力を封じた上で切り刻む方法。幸い火によって傷口を灼けばいいだけなので難易度はそこまで高くはないが、松明を作るために森が一つ消えてしまったことを考えれば決して簡単ではないだろう。
 二つ目は、同様の事態であった第四次聖杯戦争のキャスター戦の海魔と同様に、一撃のもとに一片の肉片をも残さず焼き払う対城宝具を用いる力技。ただし海魔の時と違って街中で召還してしまったために周囲の被害は甚大なものとなるだろう。
 三つ目は、聖杯戦争ならではの持久戦。召還されたのがサーヴァントである以上、マスターの魔力が尽きればいかに生前の再生力が優れていようともガス欠は間近である。魔力を現地調達されては厄介だが、これが一番現実的な策であろう。
 そして最後の方策が、ヒュドラの再生速度を上回る攻撃回数を一度に行うことである。無論、一度で仕留めきれなかった場合のリスクを考えればおいそれと実行できるものではない。
 アーチャーが一体どれを選択したのかは言うまでもない。
 あの一戦は一方的な蹂躙などではない。ヒュドラ自身にその意志があったかどうかは定かではないが、ヒュドラのマスターは明らかに奇襲を意識していたし、アーチャーがいつも通りの反撃をしていればヒュドラを殺しきれず、消滅していたのは逆であった可能性もある。
 互いに生死の綱渡りをしているが故の“戦闘”。
 蹂躙と戦闘の違い。これを間違えていることこそが、アーチャーがティーネに放った発言にある。

 ――我は油断していない。ならば、貴様はどうだ?

 そしてその言葉はこの状況をアーチャーが正確に把握していることを意味している。
 結局ヒュドラの姿をアーチャーはついぞ見ることがなかったわけだが、本来の王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)の一撃であれば周囲は瓦礫の山どころか、クレーターになっていなければおかしいのである。そこから逆算すると襲撃者の体躯や能力も導き出せ、ティーネが発見した残滓も考慮すると自ずと正体に気付くというものである。
 それに対し、ティーネはアーチャーの実力を実際よりも低く見積もっている。そして他のサーヴァント――この聖杯戦争そのものを、見くびっている。
 優秀な彼女だからこそ、アーチャーの発言にまだ気付けない。
 アーチャーは自らの考えをマスターたる彼女に直接伝えるつもりはない。油断しているという自覚のないティーネを、英雄王は今しばらく愛でるがままにする腹づもりらしい。
 これは油断ではない。アーチャーはマスターたるティーネすら信用していないということだ。
「クハハハハッ! なかなかに、良い趣味の持ち主のようであるな!」
 敵マスターでありながらティーネ以上にジェスターはアーチャーの言葉を正しく理解していた。
 宮本武蔵やバーサーカーですら常識に捕らわれ不覚を取り、結果片方は消滅し片方はマスターを奪い去られた。そしてそれらを上回る油断をしていたが故にジェスターは三度も死ぬ羽目になったのである。それだけ死ねば、多少反省はするというもの。どういった行為が油断に繋がるのか、実行はともかく理解はできる。
「さて……それはともかく、あの東洋人はどこに行った?」
 そもそもジェスターがこの場に居たのは偶然ではない。この偽りの聖杯戦争の鍵とみられる東洋人を追跡している最中に遭遇したわけである。いずれ東洋人が何かをしでかすのを待っていたのだから、当然の帰結であろう。
 あいにくとジェスターは東洋人がヒュドラを召還した直後までしか状況を把握していない。距離が多少あったので王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)の一撃でもよほど運が悪くない限り助かっていることだろうが、さすがにもう逃げている筈である。
 今すぐ周囲を探索すれば追跡を再開することも可能だろうが、身体が完全に蘇生するまでまだしばらくかかる。
「……まぁいい。もはやその必要もあるまい」
 蘇生の間、状況を整理しながらあっさりと、ジェスターは東洋人の追跡を断念してみせる。
 東洋人はこの事態が異常であることに気付いていない。ヒュドラというコントロール不能かつ危険極まりないサーヴァントを召還したことからもそれは明らかだ。召還のシステムが他のマスターと違うということは、即ち隷属させるシステムも違うということに他ならない。この間違いに気付かなければ自滅するのがオチだろう。
 ジェスターの推測が正しければ、あの東洋人はただの駒――それも捨て駒に過ぎない。盤上に置いた後は勝手に自滅するのを待つばかり。その生存確率を考えれば駒を操るプレイヤーがこの場に現れる可能性は相当に低い。むしろ出てこない可能性の方が遙かに高い。
 かつて第五次聖杯戦争において衛宮士郎は同じマスターである遠坂凛に助けられ聖杯戦争に勝ち残ったわけだが、その踏襲をジェスターはしようとは思わない。ジェスターはそこまでお人好しにはなれないし、そもそもジェスターは聖杯戦争など既に眼中にない。
 聖杯戦争とは他のサーヴァントやマスターについて調査することがセオリーであるのだが、この偽りの聖杯戦争においては他の勢力など調べる価値はあまりない。それは聖杯よりも自らのサーヴァントを屈服させるという目的を持っていたジェスターだからこそ見えてきた真実。
 盤上の駒がプレイヤーの意志を逸脱するようになるのも思ったよりもそう遠い話ではない。あくまで目的はアサシンではあるが、目的を辿る方法は最良の選択をしたい。
「俄然、面白くなってきたではないか」
 英雄王と全く同じ台詞を口にしながら、ジェスターはティーネが消えたのとは逆の方へと消えていった。
 聖杯戦争の真実に近づいた吸血鬼。
 その暗躍に気付いた者はまだ誰もいない。


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 長い待機時間を終えて《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の男は伏射を解いた。
 凝り固まった筋肉を軽くほぐしながら広げたロングライフルをバラしてアルミケースの中へと片付ける。時計を見ることもなく、雑居ビルの屋上から非常階段で下りてみれば、それほど離れていない場所に見覚えのあるいかにも清掃業者といった風情のワゴン車が待機してあった。
 周囲を軽く見渡し他に誰もいないことを確認しつつ、素早くワゴン車へと乗り込む。リュックサックをぞんざいに放り投げ、アルミケースを慎重に車内で待機していた男に受け渡す。
「お疲れさまです」
 労う運転席の男にいかにも疲れたといった顔で男は手を上げ、やはり周囲を警戒しながら助手席に身体を滑らせた。
「周辺状況はオールグリーン。北部で多少問題が起きたようですが、南部の我々はそのままだそうです」
「次回からは装備品の中にシートを入れておいてくれ。いくらなんでも夜の屋上は寒すぎる」
「他二カ所の奴らからも同様の要望が来てたようですよ。却下されていましたが」
「シート一つ被るだけで発見率が下がるから、か? サーヴァントの目はどんだけ節穴なんだ?」
 悪態をつくものの、今後のやることは変わらない。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はその性質上実働部隊の人数が極端に限定されている。その上で街どころかスノーフィールド全域をカバーし、サーヴァントを倒していかねばならない。
 当然、人数が足りる筈もない。
 そこで考案されたのが――この囮作戦。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》においても様々な担当部署があり、現在のこのチームの最優先事項は情報収集にある。こうして分かり易い囮を適当な屋上に配置することでサーヴァントに発見させることが目的である。囮を中心に半径500メートルを集中観測することでサーヴァントを補足しようという魂胆だ。
「効率的といえば効率的です。囮に対する配慮がない――いえ、ほとんどないのが玉に瑕ですが」
 言い直してはみるが、事実はまるで変わらない。
 作戦上、囮に求められるのは魔術師として適度な能力と兵士として適度な練度である。 サーヴァントにとって魔術師が何人いようと問題はない筈だが、強すぎれば警戒されて遠のいてしまいかねないし、弱すぎれば雑魚として見向きもされない。隠れるのが上手すぎれば気付かれないし、バレバレではこれもまた逆に警戒されてしまう。
 釣りというのはなかなかに難しい、とマーカーで書いた遠目では令呪に見えなくもない落書きを拭い落とす。聞くところによると偽令呪ひとつとっても複数のバリエーションが用意されているらしいが、それにどれだけの意味があることか。実行する本人はともかくとして、マスターをはじめとする作戦部は大まじめなのだから質が悪い。
「サーヴァントが人間の魔術師如きにどれほど警戒してくれるものかね」
「本部は囮を攻撃してくる可能性は一割以下とみているようですよ」
 囮役のため息に囮役にもなれない下位の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は生真面目に返答する。それで慰めになると思っているところが上位と下位の意識の違いだ。彼等の役割は上位の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の補佐であり、周辺観測要員でしかない。仕事の危険度は雲泥の差がある。意識が違うのも当然だ。
「まあいい。それよりこれからどこへ行くか聞いているか?」
 無用な会話を切り上げ、手元の液晶ディスプレイで状況の確認に務める。先ほど聞いた通り北部区域でトラブルがあったらしいが、事態は既に沈静化。警備状況に変更なし。
 詳細を探ろうにも閲覧が制限――いや、そもそも情報がアップされていない。それだけで、本部が多少なりとも混乱状態にあることは容易に予想できる。末端に対して軽くとも情報が伝達されていることから事態はすでに収束しているのだろう。後はどう処理するのかが問題だ。大いに会議室で悩んでいただきたい。
「ええ、これからポイントチャーリーで下ろすよう言われています。マルタイの監視――ああ、いえ、護衛ですね。ご苦労様です」
「ほんと、忙しくて嫌になる」
「この戦争中は確実に休めないとは聞いていましたが、こうも休みなく働きづめとは思いませんでしたよ。マルタイが大人しくてくれればちっとは休めるんでしょうが」
 互いに苦笑いを浮かべながらワゴン車は市街を走り抜けていく。
 マルタイ――サーヴァント・キャスターといえば聖杯戦争においてもっとも注意するべき味方である。第五次キャスターの例をみるまでもなく、キャスターのクラスはもっとも裏切りやすいサーヴァントである。
 幸いにも現状においては一応の関係性を築くことには成功しているが、あのサーヴァントは「面白いから」という理由であっさりと裏切りかねない危うさがある。これは別に個人的な意見ではなく、マスターをはじめとしてあのサーヴァントと相対した全員の感想である。当のキャスターですらそうした自覚があるのだから始末に負えない。
 それ故に本任務は最初から「護衛」ではなく「監視」であり、そして「ご機嫌取り」である。
 これからのことを考えれば、頭も重くなると云うもの。それでも避けては通れぬ道である。
「できれば少し休憩したいところだがね」
「あと三〇分は市内をドライブしますから、寝てもらっても結構ですよ」
「お言葉に甘えるとしよう」
 宣言通り、三〇分の追尾欺瞞行動をとってから市内にいくつもある《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の秘密施設へと到着する。外観はどこにでもある普通のオフィスビルにしか見えないが、実際には一般には秘匿された地上五階もある建造物である。合衆国内の至る所によくある汚い仕事の清掃会社であり、他の会社と違う点は地下にあるフロアが魔術的にも神経質なまでに要塞化してあることか。
 当然、彼らは地上ではなく地下の要塞部に用がある。
 イメージとしては地下迷宮(ダンジョン)に近いが、実際にはそれほどのものではない。エレベーターに乗ればケージごと半回転して向きを変えたり、五感に負荷をかけて見当識を失わせるような錯覚、その程度だ。富士の樹海を踏破してみせる練度があれば、この程度は気楽な散歩コースと何ら変わりない。
 古城よろしく守備を重視し直線の少ない通路を右へ左へと移動し、ようやく目的の金属製対爆扉の前へと辿り着く。
 極太の金属棒で何重にも閂が嵌められたその扉の制御板に事前に渡されていたカードキーを通し、暗証番号を打ち込み認証が確認されると、小さな電子音と共に扉のロックは解除された。
 キャスターの居室と位置づけられたこの部屋は厳重な監視と結界の張り巡らされたスノーフィールドで最も頑強な部屋の一つでもある。物理的にも魔術的にも優れた防御力を発揮するのは無論のこと、例え大統領ですら決められた手順を踏まなければおいそれと入ることのできないよう法的にも守られた場所である。
 しかるべき手順を踏んだからこそあっさりと入ることはできたが、ここまでの厳重さはキャスターに対する保護よりも裏切りを恐れてとしか思えなかった。
 一歩二歩と中に入れば自然とセキュリティは再度ロックされ、後ろのドアが音もなく閉じていく。
 入り口からの光量がなくなれば室内がいやに薄暗いことにすぐに気付く。普通に電灯は天井に張り巡らせている筈だが、それをどうやら使っていないらしい。部屋唯一の光源は壁に埋め込まれた大型モニターから発せられる映像のみ。
 そのモニターの目の前で、キャスターはやたらでかいソファーに寝転がりながら、にぎり寿司を食べ、カップヌードルのスープを飲んでいた。
 小太りで色黒、きちんとした身なりをしてはいるが、菓子のカスがそれを台なしにしている。一目見る限りではとてもではないが、英霊の類には思えない。
「俺は思うに――」
 部屋に入ると同時に、口を開いたキャスターに、思わず立ち止まる。何かミスをしでかしたかと自らの行動を振り返ってみるが、そんな心配は杞憂だった。
「米とこのヌードルスープ、これはもしかして相性がいいんじゃないか?」
「……その発想は別に珍しくないぞ、キャスター」
 周囲を見れば寿司とカップヌードルどころか炭酸の抜けたコーラや冷めたピザ、食べかけのフライドポテトにイチゴだけがなくなっているショートケーキもそのまま放置してある。どうやらこの英霊は自らに科された作業を放置して食べ合わせ研究でもしているようである。
「ふむ。この俺と同じ発想をした点については大いに褒めるべきところではあるな。ではこのニューヨークチーズケーキにチリペッパーというのはどうだ?」
「それはやめておけ」
 嘆息しつつ、キャスターの背後へ近づいていく。
 キャスターの左手はジャンクフードへ手を伸ばし、右手はリモコンで操作を続け、その視線はモニターの中へと注がれている。地元ニュース番組に海外ニュース番組、バラエティもあれば普通に街頭カメラの映像も映し出されている。せわしなく次々と移り変わるモニターの情報を頭に入れているかは疑問だが、唯一片隅のジャパニメーションのモニターだけは変わらない。
「ところで頼んでいた三不粘(サンプーチャン)を手に入れてきてくれたか?」
「ふむ?」
 モニターから目を離し、振り返ってこちらを見入るキャスターの質問に、足が止まる。サンプーチャンとやらが何か、記憶の中を探るが心当たりがない。
「……何のことだ?」
「おいおい、ちゃんと頼んだだろう? 卵・砂糖・デンプン・水・ラードしか使わないシンプルな料理。逆にそうであるが故にごまかしがきかない高難易度デザート。皿にも箸にも歯にも粘り着かない不思議食感。故に三不粘! 一度味わって見たくてなぁ」
「ああ、そんなことも言っていたか。すまないな、キャスター。忘れて――」
 いたようだ、と言う言葉は続けられなかった。
 かちゃり、と実に自然な動作でキャスターの左手にはソードオフショットガンが握られている。脂でべと付いた手ではあるが、その引き金は確実に添えられていた。安全装置も最初から解除されている。
「……どういうつもりだ、キャスター?」
 ひとまずは両手を挙げて無抵抗を演じながら口を開く。
 ソードオフショットガンは、ショットガンの銃身を切り詰めた改造銃の一種だ。射程は短くなるものの、通常のショットガンに比べて散弾が拡散しやすくなる。間近で発砲されれば、回避はほぼ不可能の至近距離での戦闘特化の武器である。キャスターとの距離はわずかに三メートル。一息で詰められるものの、引き金を引く方が確実に早い。
 そして何より、このショットガンの弾にはハッキリと判るほどに強力な魔力が込められている。ここにきてこれが些細な誤解だと通せる筈もない。
「はん。脚本としちゃ王道だが使い古されてつまらないな。俺は三不粘なんざお前に頼んだことはねえぜ?」
「誤解だ、キャスター。キミの機嫌を損ねまいと嘘をついた」
「いいや、誤解なんかじゃねえぜ。お前の右足、その小さなイスを蹴り上げようとしただろう? それが何よりの証拠さ。時間稼ぎなんざ無意味なことさ」
 図星、であった。
 例え手足を打ち抜かれようとも、即死を防げたのならまだ次がある。ここで唯一の頼みの綱は右足傍に落ちていたイスを盾にキャスターに接近すること。接近さえできれば、手負いであっても勝機は必ずある。
 いや、本当にあるのか――?
 迷いが胸中に渦巻く。覚悟を決めるにはまだ早い。キャスターに指摘されようがとぼけることは十分に可能。第一にわざわざキャスターが指摘したということはまだ時間的にも交渉の余地があることを示し、それからでも決して遅くは――
「遅えよ」
 内心を読まれたかのように呟くキャスターは、男が右足を動かしイスを蹴ろうと思うよりも早く、あっさりと引き金を引いた。
 魔力を込めた弾は文字通りの魔弾。その効果は様々であり、威力や命中率の向上は無論、後々まで尾を引くやっかいこの上ないものもある。いずれにせよ、深刻なダメージは避けられない。
 銃口からマズルフラッシュと共に円形に広がる散弾は豪雨のように降りかかるため、装甲を持たない対象への効果は文字通り致命傷となる。回避しようにもそんな空間はどこにもなく、防御しようにも貧弱なイスがあるだけでそんな頑強な盾はどこにもない。取り得る有効な選択肢は先制攻撃だが、交渉の余地を見いだそうとした男はそれを選ぶことをしなかった。
 分かり易い破裂音。男の後方に銃弾がめり込んだ後、男は静かに膝を付いた。蹴って防御にでも使おうとしたイスはその前に散弾の巻き添えとなって原形もとどめずばらばらとなっていた。これでは最初から盾として機能することもなかっただろう。
 全ての選択肢は無意味だった。キャスターは男があの場に来た時点で銃を向けることを決定し、一片の疑惑でもあれば即座に引き金を引く予定だった。あの威力の宝具を最初から用意していたこと、それ事態がこれが罠だという証左。
 即死でないことに男は感謝した。右手は動く。念のためにと懐に隠しておいた手榴弾のピンを抜くくらいの猶予はある。霊体たるキャスターにダメージはなかろうが、これで少しはキャスター陣営にダメージを与えられ――
「……うん?」
 静かに倒れ伏そうと思ったのだが――わずかな違和感が男を襲った。手榴弾のピンを抜く直前にその事実に気がつく。
 これは一体――どういうことだ?
 力の抜けた膝に力を入れれば、倒れ込もうとする身体はその場で止まった。右手で身体を触る。左手も――身体を触る。両手で顔を触れてみても、手のひらには自らの汗以上のものは何も見当たらない。
 男の疑問の視線にキャスターはワインのコルクを歯で抜き取りながら薄笑いを浮かべる。未練も無く足下へと放り落としたソードオフショットガンが、もう一度構えるつもりはないことを雄弁に語っていた。
「《我が銃は誰にも当たらず(オール・ミス)》」
 口元のワインを豪快に袖で拭いながらキャスターはあっさりと手品の種を口にする。
「一応銃の名手である俺が自殺をし損ねた逸話が具現化した宝具だ。おそらくこれ以上なくくだらない宝具だな」
 こういうときには役に立つ、と続けるキャスターの言葉に男は静かに立ち上がる。確かに背後の壁は凄惨たる有様だが、男の身体に傷一つありはしない。対象を決して傷つけぬ宝具、フェイントにはうってつけだろう。
 無論、それだけであるなどとお目出度い頭の持ち主ではない。
「……なるほど、キャスター、君は最初の問答で私の正体を見破ったのではなく、銃を向けられた時の反応で見破っていたわけか」
 魔力を込められた銃を向けられれば、普通の魔術師ならキャスターの行動に何らかの反応をすることだろう。回避・防御・説得、または攻撃。キャスターの宝具を知っている者であれば、そんな無駄なことをせず泰然としているだけでよかったのだ。
「俺と接触する《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》には俺が銃を向けても気にしないようマスターが暗示を掛けてる筈だからな。例え尋問したとしても口にしなかったろ? その様子だと、俺の正体も知らないようだしな?」
「……それはどうかな?」
 内心九分九厘ばれていることを自覚しながら男はブラフを口にした。
 真実を語ることにはあまり意味はない。確実に倒せる隙があったというのにキャスターはわざわざそれを見逃し、あろうことか正体に関するヒントまで与えている。
 つまりは――下手に出ている。
 圧倒的優位であるこの状況、で。
「俺は同盟を組みたいのだよ、なぁ、サーヴァント?」
 キャスターの言葉に。
 男は――《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の一人に化けていたバーサーカーは、その正体を隠すことなく顕した。
 姿形こそは変わりはないが、偽装のために抑えていた気配を解放し、自らの宝具も解放する。バーサーカーから湯気の如く立ち上る漆黒はまさしく禍々しき魔力を放つ宝具そのもの。バーサーカーを取り巻く気配が先と変わって一変し、その眸は炯々と猛禽の如く異彩を放ってみせる。
 ――無論、全ては虚仮威し。バーサーカーの宝具と変身能力の合わせ技に過ぎない。しかしその存在感、殺気、圧迫感は本物以上に本物だ。バーサーカーが殺人鬼である事実には変わりなく、例えその気があろうとなかろうと、むき出しの本性は他者に根源的恐怖を及ぼさないわけがない。
「この私と、同盟だと?」
「そうとも。俺はお前と手を組みたい」
 だというのに、張りぼてとはいえこの圧倒的存在を前にキャスターは動じることなく平然と返答してきた。
 キャスターの言葉に嘘偽りはない。どう目を凝らしてもキャスターの気配に変化はなく、それどころかごく自然に脂塗れの手で握手すら交わそうとする。書面が良いと言えばその場で何の躊躇もなく作成したことだろう。
「もう一度言っておこう。俺にはお前が必要なのだよ」
 三顧の礼というやつだ、とキャスターは嘯く。
 それは意味が違うという突っ込みの代わりに、バーサーカーは漆黒の宝具をキャスター本人を取り巻くかのように展開させてゆく。もちろんそれだけでなく、部屋の隅々にまで漆黒を張り巡らし、今や床に落ちたショットガンの弾倉や、机の下、ソファーの裏、果てはポテトチップスの袋の中までくまなく探索を終了させる。
 結論として――キャスターは、何の備えもしていなかった。
 部屋の中には様々な火器もある。魔力を持った宝具もある。しかし扱える武器と呼べるものは足下に無造作に落としたキャスターのオール・ミスとかいう宝具のみ。効果のオンオフができるかは疑問だが、次弾を込めていない以上脅威にはなりえない。
「……本気か?」
 正気か、と言う言葉を何とか呑み込んだが、吐露した言葉は似たようなものだった。
 思わず眉間に皺を寄せより一層警戒を増すバーサーカーに対し、キャスターは口角を上げた。
「どうやらその漆黒、探索能力があるようだな? 俺が何か策でも弄していると思っているのか?」
「まるで策を練らぬのが策といわんばかりだな」
 バーサーカーの言葉にキャスターは何も応えない。
 卑怯卑劣が売りの外道や、先のことなど考えぬ獣であればキャスターの首を取ったに違いない。しかし狂戦士のクラスにありながら高い理性を併せ持つバーサーカーにその選択肢はない。
 未だ知り得ぬ、黄金の粒より尊き情報を、このキャスターは持っているのだから。
「ああ、そうだ。先に聞いておこうか。その顔の男、殺したのか?」
 バーサーカーの漆黒をまるで無視して握手を諦めたキャスターはソファーに座りこみ、ケースから葉巻を咥えて火を点けながら聞いてきた。その行動を子細に観察はしたが、特に怪しげな様子もない。ただ、そう言いながらも安否を気にしている様子ではない。
「あの男なら今頃ビルの上で夢の中だ。あと数時間もすれば目覚めるだろう」
「殺した方が面倒がないだろうに」
「無益な殺しは私の主義に反するのでね」
 殺人鬼の台詞とは思えぬ大嘘だ。もしくはマスターたるフラットの影響が大きいのだろうか。あのマスターに誰かを殺したと知られれば、面倒なことになるのは確実だ。
「ふむ。まぁ下手な嘘ではあるが同じ嘘吐きとして共感はできそうだ」
 一体何がキャスターの琴線に触れたのかバーサーカーは判らないが、キャスターのその眸はひどく嬉しそうだった。オモチャを見つけた子供のような好奇心がそこにある。
 キャスターが吐き出した紫煙は室内に篭もり、バーサーカーの漆黒と入り交じる。
「換気扇を付けてもいいかね?」
「……勝手にするがいい」
 何気ない風を装っているのかいないのか、したり顔のキャスターに舌打ちをしたいところを我慢してバーサーカーは自らの宝具を収め、また元の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の男へと姿を戻す。
 キャスターにどこまで見抜かれていたのかは分からないが、キャスターはバーサーカーの虎の威を見事に見切っていた。こちらの殺気と威圧と不可解な宝具を前に欠片も動揺しない相手にこれ以上の意味はない。
 むしろ、バーサーカーにしてみれば自らの弱点を覗かれた気分ですらある。
「まあ、同盟を組もう言うのだ。質問があれば答えられる範囲で答えよう。信じるかどうかは別として、それを聞いてから考えても損はあるまい?」
 ずいぶんな大盤振る舞いはキャスターの誠意か、それとも裏があるのか。しかしおかげで本来の目的を思い出す。
 バーサーカーの目的は何を差し置いても情報なのである。
「ではまず聞こうか。何故、私がこの場に来ることを知っていた?」
「そいつぁ違うな。逆だぜ。俺が、お前を呼んだんだ」
 ひとまずジャブとして問いかけたバーサーカーにキャスターはストレートでカウンターを仕掛けてきた。そのもの言いにバーサーカーは不信感を露わにする。
「と言っても、俺が実際にやったのはあの宮本武蔵の退治に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を向かわせようとしてたのを止めただけだ。有象無象の魔術師の間引くのに丁度いい――と言っておいたが、俺の真意は別だ。あの場にいた他のサーヴァントを特定し、そしてこの場に――この俺の元へと呼び寄せたかった」
 その結果が今ここにある。
「貴様は予言者か何か?」
「いいや、ただの劇作家さ」
 バーサーカーは時計を見る。キャスターが時間稼ぎをしている可能性を考慮したが、事前に確認したタイムスケジュールではあと十五分は大丈夫である。それだけあるなら、バーサーカーの保険は十分に作用するだろう。
「《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を投入しないと分かれば選択肢はほとんど一つに限られている。この弾丸の魔力に覚えがあるだろう?」
 そういって床下に無造作に置かれたケースを机の上で開いてみせる。中にあったのはビニールで梱包された弾丸が一発。見覚えはないが、身に覚えはある。
「俺が昇華した宝具、その名も《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》。これはその試作品の一つだ」
「ザミエルと言えば……これはドイツ民話の?」」
「話が早くて結構だ。こいつはドイツオペラの傑作『魔弾の射手』で作られた魔弾だ。発見された当時は錆だらけで使い物にはならなかったが」
 込められた魔力と呪いはそのままだが、中はともかく外はそうもいかなかったらしい。キャスターが手を掛けたのは中の魔力と呪いだけで、外側はその手の職人にそのまま任せたとか。ビニールで梱包されているということは中には酸化防止のための不活性ガスでも入っているのだろう。
 狙った獲物は例え物陰にいようとも外さない。ただし、伝説の魔弾には七発中一発は射手ではなく悪魔の狙う場所に当たる致命的な呪いがあった筈。それは聖杯戦争においても致命的になるだろう。
「もちろんそのままじゃ使えねぇ。だから弾丸にはサーヴァントや宝具といった高い魔力を持ったものだけに当たるよう細工を加えた」
 射手が狙いを付けなければ、標的があるわけもない。必然的に《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》は射程内にあるターゲットをランダムで狙撃する宝具へと昇華している。使用前に射程内から友軍を追い出せば、必然的に敵の誰かに当たるという寸法である。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》という数の利と連携があるからこそ使える宝具だ。
 そこまでであれば、武蔵の助言を得てバーサーカーも辿り着くことができていた。いつどこから狙われるか分からぬ必中の宝具。事前に知り得ていても心休まることもないだろうし、知らねば武蔵のように不意を突かれて消滅するのみ。
 よく考えられている――と言いたいところだが、この宝具の真の意図は全く別のところにある。ただ必中というだけの宝具であれば、バーサーカーのような宝具を持っていればこれは何の脅威にもなりはしない。バーサーカーがフラットの行方を差し置いても優先してキャスターを捜さねばならなくなった理由がそこにある。
 ことり、とキャスターは次なる品を机の上に出す。
 水筒サイズのボトルではあるが、中に入っているのは何らかの粉末のようである。
「二〇〇年に渡って遺体が埋葬された墳墓の塵や不凋花、木蔦の葉を用いて製作した粉でな。そこに俺がちょこちょこっとブーストをかけたものだ」
 ハハハハとアメリカ人のように笑うキャスターを思わず殴りたくなる。
 俗に、このアイテムの名を《イブン=ガズイの粉末》という。かの有名なネクロノミコン断章にも伝えられる、霊を物質化させる霊薬だ。当然、サーヴァントにかければ霊体化はできず、実体化を強制されることになる。
「《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》について少し調べたんなら分かるだろうが、初期段階での《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の活動はこの粉末をサーヴァントに振りかけ、実体化させることにある。霊体化してカメラに映らないままだといかに警察の監視網とはいえ無意味だからな」
 そのために《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》は着弾と同時に周囲に四散するよう調整されている。バーサーカーは見事にそれに引っかかった形である。
 霊体化できないということは、ただそれだけで圧倒的に不利となる。特にバーサーカーは奇策を用いた搦め手こそ真価を発揮する英霊である。サーヴァントにとって当然である霊体化も彼にとっては切り札にも等しい。そのアドバンテージを失ったとなると早急にその対処策を考えねばならなかった。
「それで、こいつの解除方法は?」
 あらゆる可能性の写し身としてバーサーカーにも魔術師の知識というモノはある。だが、彼の知っているこの霊薬の効果は短時間だった筈。にも拘わらず、すでに丸二日以上経過した今もって彼の実体化は解除されていない。
「無理無理。サーヴァントの霊体と上手く交じるように調合してるから、魔力を持っていればいるほど長時間実体化するぜ。サーヴァントくらいになるとたぶん消滅ぎりぎりまで実体化する感じだな。下級霊に実験したら二日間は怨霊からゾンビにジョブチェンジしてた」
 聞くだけ聞いてみたが、やはり無駄ではあった。
 苦虫を噛み潰したような顔をしてみるが、その実この情報はバーサーカーには吉報ともいえた。この状況はバーサーカーにとって決して悪いだけの話ではないのだが、そんなことをわざわざキャスターにばらす必要もあるまい。
「あとは……この資料を見てくれ」
 もう予め用意していたとしか思えぬ手際の良さを鑑みるに、キャスターは本気でここにサーヴァントが来ることを確信していたのだろう。
「魔術師一五六名に対して確認できた死者は四名、逮捕者四二名、逃亡者三〇名、そして行方不明者七八名……これが一体何を意味しているか分かるか?」
「あの戦場への参加者、か?」
「まあその通りだ。警察ってのは探偵と違って地道な捜査が基本でね。街中のカメラから画像データを引っ張り出して一人一人丹念に検証してたわけだ」
 キャスターの言葉にバーサーカーは嘘だと断じていた。いかに警察機構の操作能力が凄いとはいっても、仕事がいささか早すぎる。情報量が莫大なのだ。現代社会にあってもその解析には数日はかかる。何か裏技めいた監視網でも別途構築されている可能性が高かった。だとすれば、バーサーカーの行動も読まれている可能性がある。
 そんなバーサーカーの思惑に気付く様子もなくキャスターは二枚の写真をバーサーカーに差し出してくる。一人は見覚えのない目つきの悪い男。そしてもう一人は見覚えはない……が、これもまた身に覚えはある。
「戦場に入った人間の顔は過去一週間に遡って全てチェックされている。だというのに、出てきた者の中に二人ほどチェックされていない者がいた」
「………」
「この内どちらか、もしくは両方がサーヴァントの可能性が高いと踏んだ。現場検証の結果両者とも《イブン=ガズイの粉末》を踏んでおり、写真の骨格鑑定から変身もしくはそれに類する能力を持っていることも判明」
「そこまで言うのなら、私がここに来るまでのヒントは全てお前の差し金というわけか?」
「いいや? 先も言ったが、俺がしたのは《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》を使わせるようマスターを誘導しただけだ。必要ならヒントも出しただろうが、その必要もなかったみたいだしな」
 ここまで来られたのはお前が優秀だからだ、と賞賛し喝采までするキャスターではあるが、気分は釈迦の手のひらで小便をする小猿と大差ない。
 事実、バーサーカーはあの戦場での違和感から調査を開始し、その後の魔術師の大量確保という普通ではあり得ない事態から警察組織が怪しいと睨んでここに辿り着いた。だが《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》という特殊な宝具を使われていなければ早期の段階で逆に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》側に補足されていたに違いない。
 実体化の不便を感じつつも警察内部へと侵入し、資料を漁り、不自然な改竄から内部情報を掴む。なまじ不正行為をしている「お巡りさん」が多いだけに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に辿り着くまで無駄な時間を浪費してしまった。
「となると、二課のパソコンをいじっていたのはやはりお前さんか」
「……ああ、そうだ」
 資料を漁った結果、どうみても非合法くさい情報が本文から抜け落ちていた。リムーバブルメディアか何かに入れて作業していたのだろうが、専用ユーティリティを使ってゴミ箱のファイルを全修復してまで情報を漁ったが、あいにくと不正の証拠は見つかれど《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》への手がかりはそこにはなかった。
「少しばかり騒ぎにはなりかけたが、そこはフォローしといたぜ。たぶんマスターにも気付かれてねえよ」
「幻滅したかね?」
 いかに優れたスキルをもったサーヴァントといえど、数百年前の人間であることには違いない。最新技術をいじれるほうが異常なのだ。ミスがない方がおかしい。
「いや、ますます気に入ったぜ」
 キャスターの言葉は嘘っぽくともその語気は本気だった。
 控え目に言ってもこの同盟は魅力的であろう。バーサーカー単体でこの聖杯戦争を勝ち残るのは至難であり、根本の戦力からいって戦術以上の戦略が求められる。
 だがこの同盟は明らかに一方的だ。いかに下手にでようとも情報を制するキャスターの上位は揺るがない。キャスターはバーサーカーのちょっとしたミスまでいつの間にか処理してみせる手段を最低限持っている。キャスターは手足がないからバーサーカーを欲したのではない。思い通りに動く手足を今以上に増やしたいだけなのである。
 今この場でキャスターを殺すのは簡単でも、同盟後にキャスターを殺せる可能性はゼロに等しいだろう。それだけの情報力の差が両者にはある。
 半ば諦めにも似た気持ちでバーサーカーは次の手を考えようと――した。
 何かもっと別の優位となり得る情報を知りたい、がそんなことは不可能だろうと、諦めかけていた。そんな想いが天に通じたのか、はたまた無駄に高いバーサーカーのラック判定によるものか。次のキャスターの言葉にバーサーカーは我が耳を疑った。
「いやいや、俺は本気でお前さんでよかったと思ってるんだぜ? 傲慢なアーチャー、交渉余地なしのランサー、引っかき回して消滅したアサシン、瞬殺されたバーサーカー。組みするなら、もう一人しかいないだろう――」

「なぁ、『ライダー』?」

 それは。
 キャスターからすれば出し惜しみしても意味のない情報の筈だった。
 キャスターの誤算は、バーサーカーが知り得ていた情報をキャスター自身が知り得ていなかったこと。圧倒的とも言える情報差が裏目に出た瞬間だった。
 これがバーサーカーからの質問であればキャスターはそこに違和感を持ち、誤解を咀嚼し逆手にとって翻弄したことだろう。嘘と真実を揃えて並べ売り飛ばすのが劇作家の真骨頂であり、そこにつけ込む隙などありはしなかったろうに。
 バーサーカーの驚愕はキャスターにも通じている。いかに偽ろうともキャスターの目を誤魔化すことはできはしない。しかし何に驚愕しているのかについては、キャスターの目は節穴でしかない。
「なんだ、知らなかったのか? この偽りの聖杯戦争にセイバーのクラスは存在しないし、エクストラクラスも有り得ないらしいぜ」
 わざと少しばかり論点をずらしたキャスターではあるが、当然バーサーカーはそんなことに驚いているわけではない。
 最初に遭遇したサムライサーヴァント宮本武蔵。
 同じ場所で遭遇した気配遮断スキルを持ったアサシンとおぼしきサーヴァント。
 この二人の英霊と遭遇した段階でバーサーカーは気付いてしかるべきだったのかもしれない。違和感を押さえ込み、偶然や勘違いと思い込んでバーサーカーは闇雲に……定石通りの行動をとった。
 定石通り――自らの間抜けに自殺したくなってくる。
 これが“聖杯戦争”ではなく、“偽りの聖杯戦争”であることをようやく自覚する。
「キャスター」
「あん?」
 少しばかり遠回りに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の情報を披露していたキャスターではあるが、バーサーカーの言葉に不審な感じを抱いても不満の声はあげなかった。
「なぜ私をライダーだと思った?」
「そりゃ……」
 バーサーカーの言葉にキャスターは思考を巡らせる風を装うが、現段階で困るようなことがキャスターにあるわけもない。なにも全てについて赤裸々に話す必要はないが、キャスターの目的は外部協力者の確保。聖杯戦争の定石など彼にとっては保身くらいにしか意味はないのだ。
 バーサーカーがキャスターの思考を読んだ通りに、キャスターの舌は滑らかだった。
「アサシンの消滅は知ってるよな。あの場にいたんだからよ」
「ああ。宮本武蔵は消滅した」
 確認するように、バーサーカーはあえてアサシンとは言わず武蔵の名を強調する。既に多くの勢力が知っている事実だ。別段不自然なことではない筈だ。
「次にランサー、真名はギルガメッシュ叙事詩のエルキドゥ。これはつい先日うちの連中とやり合ってな。現在は西の森林地帯に居座っている」
 手元のリモコンを操作して、モニターの一部をクローズアップすれば、確かに森林地帯の中にやたら人形めいた人影が静かに立っている。カメラのアングルと木々の大きさから数キロメートルは離れた場所からの撮影だと分かる。
「そんでアーチャー、第四次聖杯戦争最強を謳った英雄王ギルガメッシュだ。北を根城とする原住民をマスターとしている。そしてこれが、」
 ピッ、と更にキャスターがリモコンを操作すれば、ビルが瓦解していく様子がモニターに映し出された。
「そしてこれが、つい一時間ほど前に繰り広げられたその英雄王とバーサーカーの映像だ」
 巻き戻し、再生された映像は、一瞬にして実体化された巨大な多頭の怪物と、それを瞬殺する英雄王の姿が映し出されていた。近場にあったカメラは直後に壊されたのか、いくつかある遠くからの定点カメラが現場の様子を切り替えられて映し出している。
「この化け物が英霊――バーサーカーだと?」
「幼体ならともかくこいつは誕生から長い年月が経過している成体のヒュドラだ。英霊の定義はともかく、聖杯クラスでもなけりゃそうそう簡単に召喚できるものでもないしな」 ふと、キャスターの言い方に違和感を覚える。この偽りの聖杯戦争に参加しながら、召喚方法を「聖杯」ではなく、「聖杯クラス」とキャスターは語る。
 些細な違いだ。言葉の綾だと気にするほどのものではないが、今のバーサーカーにはそれだけで十分だった。
 キャスターが同盟を結ぼうとしている裏の理由にも納得するというもの――なるほど、キャスターはこの“偽りの聖杯戦争”の真の姿を知っている。
 そして――それだけなのだ。
 他には何も知らない。
 キャスターは盤上の駒でありながらプレイヤーを気取ってゲームを眺めているつもりだろうが、盤上の駒には警戒していてもそのプレイヤーの背後に忍び寄る者を予想だにしていない。
 既にバーサーカーはキャスターの言葉を聞いていない。消去法だの、状況証拠だの、スキルだの、そんな的外れな推測など聞くに値しないし、時間の無駄だ。
 はあ、とため息をつきたくなる。
 バーサーカーの予想によれば、彼の悲願たる己の正体を知るには想像以上に障害は多く、難度も高く、それでいて正解への道のりがあるのかすら分からない。
 それでも、とバーサーカーはため息を吐いたその口で、笑みを浮かべ、むしろ高らかに宣言する。
「――いいだろう、キャスター!」
 先の看破された際の殺人鬼モードとも言うべき表情とは違う、全てを見通したような名探偵モードとでも称すべきバーサーカーの内面の変化に、当然ながらキャスターもすぐに気付いた。
 その豹変に多少眼を細めるが、劇作家たる彼の驚きはその程度だ。内心の動きを身体で表現することに長けていても、ただそれだけ。それが一体何を意味ししているのか、彼の目からは分からない。分かる筈もない。
 故に彼のスタイルは変わらない。情報をバラ撒き、上手く誘導し、同盟を組み、動きを扇動し、傀儡に仕立て上げ、舞台の総仕上げに使い潰す。唯一の誤算というならば、キャスターはバーサーカーを見誤っていた。
 元より彼は殺人鬼。損得を考えるような存在などではあり得ない。そんな存在と同盟を組もうというなら悪魔とでも契約した方がよっぽど御しやすいことだろう。
「俺が言うのもなんだが、情報を引き出すだけ引き出して、帰ってマスターと検討するとか言って反故にする選択肢もあるんだぞ?」
「必要はない。私の目的にはかなりの修正が必要とわかったからな。キャスター、君と私は一心同体だ。今更異存などないだろう?」
 脂塗れのキャスターの右手を先とは打って変わってバーサーカーは積極的且つ無理矢理に握り込む。握手と呼ぶにはいささか粗暴にすぎるが、それでもシェイクハンドに違いはない。
 急なバーサーカーの変化にここにきてようやくキャスターの顔に露骨な疑問符が浮かぶ。その顔だけでもバーサーカーは十二分に満足である。そしてこの調子なら、もっとこの顔を拝めることになるだろう。
 と、ここでタイミングよくバーサーカーの懐で短く振動が起こった。てっきり電波遮断施設かと思いきや、そうした対策まではしていなかったらしい。
「なんだ、悪い知らせか?」
 キャスターは他人ごとのように……それでいてバーサーカーの反応に興味津々といった様子で問うてくる。ポーカーフェイスを気取りたいところだが、あいにくと事前に用意していた携帯電話にかけてくる人間の心当たりは一人しかいなかった。
「……便りがないのが良い知らせだったのだがね」
 中身を確認してみると、案の定返答に困る内容だった。
 一難去ってまた一難。これは一体どうしろというのだろうか。さすがは我がマスターである。魔力の供給がないので死んでいる可能性も高かったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。どこかで仮死状態になってでもいたのだろうか。
「さて。キャスター。同盟を組むにあたって要望と依頼がある」
「おいおい、次は俺の要求を聞いておく番じゃないのか?」
 そこは笑って無視しておく。
 何はともあれ、この二点を通しておかねば話が進むことはない。これ以上口を挟んでこないようにさっさと要望を口にしておく。
「まず要望だが……私のことはジャック、と呼んでくれ。私のマスターもそう呼んでいる」
「ジャック?」
「ジョン・ドゥでも構わない。私をライダーと呼ばなければ」
 元々切り裂きジャックにしても有り触れた名前というだけで付けられた名だ。真名には違いないが、マスターたるフラットがキャスターと後々遭遇したことを考えると非常に拙いことになるし、どちらかというと自分の正体がバーサーカーとばれることの方が問題である。
 ライダーである誤解を解いてはいないが、真名を明かしたということで同盟関係としてはここが境界線だろう。
 ちなみにジョン・ドゥ(名なしのジョン)というのは身元不明の死体の呼び方で、明らかな偽名という意味である。
「いいぜ。これからはジャックと呼ぶことにする。それで、依頼とは?」
「ああ、それは簡単だ」
 大きく頷いて依頼内容を切り出す。
 宝具と情報と金と時間、ついでにバックアップをバーサーカーはキャスターに依頼した。
 古今東西、足元を見るのは交渉術の大原則だ。これからバーサーカーは再度疑問符を浮かべるキャスターよりももっと珍しい、引きつった笑顔のキャスターを拝めることになる。
 一抹の後悔を覚えた株主のようなキャスター、そして大海原に旅立つ船長のようなバーサーカーの顔はさながら大航海時代を彷彿とさせた。そしてリスクとリターンを考えればその関係は決して間違ってはいない。
 キャスター&バーサーカー同盟がここに結成された。


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 作戦開始より七一〇二秒。
 原住民要塞内の中心部まで直線距離にしてわずか一〇〇メートルの場所にその一団はいた。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》精鋭一二名からなる対アーチャー戦闘部隊である。最大目標であるアーチャーを打倒するためだけに、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はその全戦力を傾けている。頭目である署長がこの部隊を直接率いていることからも、その意気込みが分かるというもの。失敗すれば後がないという意味では背水の陣とも言えよう。
 それだけに、事前準備に抜かりはない。
 現在、この要塞内では原住民同士の諍いが勃発している。
 スノーフィールド最大の組織力を持つ原住民である。これだけの人数がいれば派閥が生まれるのも当然。この地を取り戻すという目的こそ同じであるが、そのための手段が一つというわけではない。
 戦争が始まり一枚岩にならねばならぬ最中に反乱とは正気の沙汰とも思えないが、勿論これが偶然というわけもない。裏で糸を引いていたのは署長である。
 実を言えばこの反乱をしかけた派閥を作り上げていたのは署長(より正確には署長を裏で操る“上”)である。
 彼等には戦争勃発よりかなり前から金と武器と情報を格安で流している。そうすることによって他所からの流通を閉め出し、その内部構造を赤裸々にすることができるのである。やってることは税務監査に近いだろう。金の流れから横流しの額まで推測できるし、その着服具合から派閥勢力も推察できる。ここまでの情報と長年の事前準備があれば反乱を“自発的に”起こさせるのも簡単である。
 本当は戦争も終盤に差し掛かったところで仕掛ける予定であったのだが、ランサーという予想外に強大な敵の出現によりそのタイムスケジュールの前倒しが決定したわけである。
 そしてそのタイムスケジュール通りに、反乱は発生し、そして予定通りに、その反乱は鎮圧されつつある。
 反乱に便乗してアーチャーを討つという案は最初からない。反乱分子にそこまでの戦力はないし、ティーネは彼等の想定以上に強い。だというのにわざわざ反乱を起こさせたのはアーチャーとティーネを分断し、注意を分散させるためである。
 反乱分子の戦力からティーネの対応は不可欠だが、アーチャーが出張るほどではない。面倒を嫌うアーチャーの動きは自然と制限され、陣頭指揮をせざるを得ないティーネの動きも読みやすい。
 そして、反乱鎮圧直後にある息切れのような瞬間こそ、署長が狙う隙である。
 要塞内部に剣戟が響かなくなり、代わりに周囲を警戒しないような慌ただしい足音が増え始める。
 敵本陣にこれだけ近付きながら、未だに原住民は署長たち対アーチャー戦闘部隊の存在には気付いていなかった。それを可能にしたのはこの要塞の特徴である蟻の巣の如く張り巡らされた穴である。大きさも様々で迷宮同然の複雑さも相まって、要塞内の通路として使用されないものも数多くある。当然管理もされていないので穴は埃と蜘蛛の巣だらけであるが、それだけにこの侵入通路は確実に原住民の裏をかいていた。
 そうした要塞内部への侵入するために彼等が装備しているのはペルセウスが持つ“空を駆ける羽のサンダル”などの飛翔宝具である。宙を自在に飛べる機動性は戦闘においても遺憾なく発揮できるだろうし、接地しないことで足音を立てることなくこうして無音で高速移動できる利点もある。
『――モスキート1よりアント0、前方二〇〇にクランクです』
「アント0より各員、手前三〇で反転全力噴射、壁面を蹴って強制姿勢制御二回――音を消すのを忘れるなよ」
 先頭を任された部下からの報告に署長は常軌を逸した指示をこともなげに告げた。
 この速度でクランクに突入するのも無茶であるが、それに加えて進入路はただでさえ狭い。先頭がしくじれば後続は玉突き事故の如く確実に巻き込まれ全滅しかねないが、そのことに異論を挟む者がここにいるわけもない。
 こうした時のために宝具と併せて小型のロケットエンジンを改良した立体起動装置を各自装備している。個人装備としては非常識この上ないが、対アーチャー部隊としてはこの程度の非常識では驚くに値しない。これでまだ常識的な範疇だと言えば、初期計画がどれほどの無謀であったかは推して知るべしである。
 危うげなく全員が最大速度でクランクを突破した直後に、ヘッドセットのスピーカーから署長の耳にその吉報がもたらされる。
 クランクのリスクを許容してまでスピードを優先した甲斐がある。タイムスケジュールはコンマ5パーセントの狂いもない。不確定要素が多分にある作戦なだけにこの状況は理想的とも言えた。
「アント0よりモスキート1、一二時方向へ指向索敵一回」
 半ば願うように署長は命令した。索敵に長じた装備を持っているモスキート1は即座にセンサーを前方に集中させる。
『こちらモスキート1。十二時方向、距離八〇〇に感あり! 数は三、ライヴラリデータの照合を確認。当該目標、アーチャーを確認しました!』
 署長の願いに応えたかのように、理想的な解答をモスキート1が告げる。
 タイムスケジュールを確認、誤差はコンマ3パーセントに修正。最大加速をすることでさらに改善することができる。タイムスケジュールのズレはそのまま勝率へと影響する。つまりは、タイミングが命。そしてそのタイミングはすぐに訪れる。
 緊張が伝わってくるのが分かる。
 アーチャーは多対一に秀でた英霊である。無限の財を持つが故に――と聞けば納得しそうだが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が真に脅威としていたのはその砲門の数である。どんなに強力な弾があろうと銃が無ければ無力だ。
 ヒュドラとの戦闘で、アーチャーが同時展開できる砲門数は一〇〇以上と判明している。となれば、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》といえど真っ正面から相手取れる存在ではない。喩え英霊級の猛者が軍勢を以てアーチャーに挑もうとも、英雄王はあっさりとその難事を切り抜けることだろう。
 アーチャーに挑むためには、まずはその砲門の数をなんとかせねばならない。
 だから、この作戦では敢えて狭い場所を戦場としていた。
 直径二メートル足らずの通路である。
 通路の狭さはそのまま射出できる宝具の数に直結する。手数を頼みにするのなら、それ相応の広さが必要なのである。
 仮にアーチャーの宝具が一辺二五センチ四方の面積が必要だとしても、これなら一面に展開できる宝具の数は最大でも一六でしかない。対して《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》一二名の両手は二四。手数ではアーチャーの上を行く。
 それにここは要塞の深部付近、つまりは地下だ。宝具で無理矢理そうした空間を確保しようにも、数百万トンの土砂がそれを阻み、生き埋めは確実となる。
 アーチャーが迎撃するにはこの狭い空間を上手に使うしかないのだ。
「総員、兵装自由! 目標以外に構うなッ!」
『了解!』
 署長の号令に接敵まで数秒に満たない状況で全員が頼もしげに唱和し、彼等はアーチャーの御前に直径五センチ程度の“空気孔”から躍り出た。
 対アーチャー部隊は、アーチャーと手数で上回るために宝具“大黒天”によって、その身体を二センチ足らずにまで縮小させている。
 さすがの署長も巨人との戦闘経験があるわけもないが、そこは昨今のゲームを参考にシミュレーションを重ねている。まさかこの年でテレビゲームをするハメになるとは思いもしなかった署長であるが、それだけの価値はあった。
 アーチャーにとってこの通路は狭い棺桶だろうが、小さな《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》には広いグラウンドと同然である。攻撃力が低くなるデメリットはあるが、こちらの攻撃の命中率と放たれる宝具の回避率は通常時とは比べものにならない。同時に、その身体は例え目撃されようとも無視される可能性が高く、脅威度認定の錯誤と視認の難しさを期待できた。
 その期待通り、最大戦速で突入する彼等の存在にアーチャーが気付いた様子はない。アーチャーの背後に追従する原住民戦士らしき男たちもまるで気付いてはいない。
 奇襲は成功だ。
 初手は確実に署長の手の中に――
「――■■■■?」
 そう思った瞬間、アーチャーが何かを呟いた。大きさが異なるため耳が捉える音は間延びしており、何を言っているのか理解できない。ただ、アーチャーの視線が、僅かに動いたのを署長は見逃さなかった。
 視線の先には、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がいる。
 何かを考える暇もなく、署長の目の前で、先陣を切って突撃したモスキート1の身体が左右に分かたれた。突如として目の前に現れた剣を避けることができず、加速のついた身体は壁を赤く汚すことになる。
 続いて突撃した残りの《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は何とかその剣を避けるが、突撃の速度もあって陣形の乱れは即座に戻らない。そして何より、出鼻を挫かれたという衝撃が各員の心に吹き荒れている。
「総員構うな! 立体機動により攻撃を開始せよッ!」
 隊員が動揺したのもほんの数瞬。致命的な隙となる前に署長は一喝し、署長の視線とハンドサインにアント2がモスキート1の穴を埋めるべく前に出る。
 図らずも先手を取られた形になっているが、署長はアーチャーがまだこちらの存在に確信を持てていないと判断した。確信を持てていたのなら、宝具が一本だけというのもおかしいし、次撃が即座に来ないのも腑に落ちない。恐らくは何となく、というだけでアーチャーは動いているのだ。
 ヒュドラの奇襲は要塞の外でのこと。アーチャーの警戒レベルが想定よりも遙かに高いことは確認できていたが、まさか要塞の中でも気を抜いていないとは想定外である。
 まだ全滅はしていない。切り札も失っていない。被害想定の範囲内に収まるレベルでしかない。
 まだ機はあるのだ。
 最悪の展開を脳裏で無理矢理否定しつつ、署長は動く。今はただ確率の高い状況にその身を振るしかない。
「モスキートはそのまま突撃、アントは宝具の設置、スパイダーは両者の援護、急げ!」
 署長の言葉にモスキート隊は異論を唱えることなく予定通り立体起動装置の出力を最大にして、果敢にアーチャーへと飛び込んでいく。
 前衛部隊である彼等はアーチャーの気を引き、後衛を守る役割を担っている。主武装は五〇〇の年月を経た日本刀を元に作られた剣である。カッターのように刃先を折ることで切れ味を持続させる仕組みだが、対英霊装備としては心許ない。宝具で縮小されたことで刃渡りはわずか五ミリ。一寸法師のように体内に入りこまない限り、ダメージは到底期待できないだろう。
 それでも彼等が英雄王を相手に尻込むことはない。
 アント2はアーチャーの耳を斬り割き、モスキート2は目を狙う。さすがにこれは防がれ、モスキート2は脱出が間に合わず、アーチャーの両手によって蚊のようにその足を潰される。しかしてその隙をモスキート3と4は逃さず、わずか五ミリの刃でありながらアーチャーの左手小指を落とす快挙を成し遂げてみせた。
 アーチャーの意識は完全にモスキート隊に縫われていた。
 さすがにこれが奇襲である事実には気がついただろうが、部屋の中に何匹の虫が入り込んだのか確認出来ているとも思えない。加えて、一度視界の外に出た虫を再発見するのは相当に難しい。
 そもそも奇襲を受けたことに気づかぬ二人の従者は、英雄王が突如奇行に走ったように見えて困惑していた。間抜けにも、アーチャーの傍らに立ってただでさえ狭い通路を更に狭くしてくれる。その体に隠れることで《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は更なる優位を獲得してみせる。
 この作戦で最も難度の高い数秒はこうして過ぎ去る。
 モスキート2は即刻手術が必要な状態で、アント2とモスキート3は無茶な機動により骨折と内臓損傷。無傷のモスキート4も立体起動装置が損傷したことで機動力を失っていた。
 被害を出しつつも、しかし彼等はやり遂げた。切り札を設置するための貴重な時間を見事に作り出してくれた。
『アンカーボルト、固定確認』
『安全装置(セーフティ)解除』
 甲高い充電音が辺りに満ちる。
 その宝具はトール、ヴァジュラ、レイ=ゴン、ユピテル、ペルクナスと名付けられてある。何れも世界各地に伝わる雷神の名である。これら宝具に宿る力は尋常ではなく、サイズが小さいからといって気付かぬ代物ではない。
 この凄まじい魔力にさしものアーチャーも次撃が生半な威力でないことに気付いた。
 状況の不利は十分に体験している。反撃することは可能だが、的が小さく、そして数が多い。これを解消せねばならぬと即座に直感し、そして同時に動こうとして、一瞬、迷ったようにその動きが止まった。
 アーチャーは油断していない。そして手加減をするつもりもないし、勝つための手段にもそこまで頓着しない。危機に陥れば周囲を顧みるつもりもないのである。
 有効利用できる空間が狭ければ、空間を作り出せば良い。アーチャーの火力なら、頭上の要塞を“蒸発”させれば良いだけのこと。アーチャーにとってこれほどの要塞であっても安宿程度にしか思ってないし、原住民がいくら死のうと興味もない。アーチャーが唯我独尊であることに変わりはない。
 だが、そんなアーチャーでもマスターだけはおいそれと手にかけることはできない。
 つい数秒前にもたらされた吉報によれば、今、マスターであるティーネ・チェルクはアーチャーの頭上わずか数メートルの位置で捕らえられている。令呪は初撃で右手ごと爆破。意識も速やかに奪ったので反撃される怖れもない。魔力のパスが繋がっている以上、アーチャーがティーネの居場所を過つことはない。
 アーチャーがティーネを切り捨てると決断するのに、迷った時間は想像以上に短い。それでもこの隙は十分すぎる価値があった。
 今から何を出そうとも、もう遅い。
 そして。
「――てぇ!」
 署長の号令に、荒れ狂った雷神の力が収束していく。莫大な力が一様に並べ整えられ、幻想的な虹色の光輪が幾つも顕現した。
 目映い光条が五つの宝具から解き放たれ、斜線軸上にいた二人の従者が訳の分からぬまま血を周囲に撒き散らして死んでいく。
 その武器は電磁投射砲(レールガン)と呼ばれている。
 理論自体は古くから提唱されており、目新しいものではない。通常の砲弾は火薬の爆発によって射出されるのが普通である。だがレールガンは電力によって磁場を発生させ、ローレンツ力によって砲弾を加速、射出する仕組みだ。この方法ならエネルギーロスも少なく、火薬では実現不可能な威力をもたらすことが出来る。
 取り回しの悪さや事前準備の必要性から実戦でそう簡単に扱えるものではない。だがそれを差し引いても、現在(二十八人の怪物(クラン・カラティン))が行使できる宝具の中でぶっちぎりの威力を有しているのである。小さくなったことで威力の減退は不可避となったが、それでもまだお釣りが来る威力である。
 それがこの狭い空間に五門もある。回避を許す空間を署長は徹底的に奪っていた。
 射撃時間は短かった。
 発射速度も尋常でなければ、そのローディング速度も尋常ではない。射撃時間が異様にに短かった理由は、単純に弾切れだからである。
 数あるレールガンの欠点だが、その高威力故に弾そのものもにも頑強性を求められる。でなければ空気との摩擦で弾が溶けて消えてしまうのである。
 対サーヴァント用の弾丸はただでさえ貴重だ。そこから更に特殊処理を施そうと思えば、どうしても増産は難しくなる。生産体制が整っていなければこの宝具は到底使用することが出来ない。せめてあと三日猶予があれば、もっとマシな作戦を立てることは出来た筈だった。
 聖杯戦争序盤で“原住民反乱”のカードは消え、弾丸を使い切ったレールガンはその価値を大きく落とす。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の人的被害も軽視できるわけもない。
 そうした諸々の事情を承知の上で、署長はこの作戦を敢行している。
 ランサーの登場で切り札を惜しんでいる場合ではないと考えている矢先に、あのアーチャーとヒュドラとの戦闘である。あの一戦で署長はアーチャーの危険度を更に上方修正し、これ以上座視することはできぬと判断した。アーチャーとランサーの連戦は用意周到に進めたとしても回避したいし、二人がタッグを組んで敵対することになれば勝機がなくなる。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》として、早急にどちらかを葬る必要性があったのである。
 その結果は。
「散開!」
 署長が叫ぶ。が、遅い。
 血煙を貫いて飛来する宝具。直撃を受けたレールガンが一瞬にして破壊され、飛び散った破片によって二人の部下が目の前で肉塊となる。署長自身も、破壊に伴う衝撃に吹き飛ばされていた。
「―――■■■ッ」
 血煙の向こうで、アーチャーが毒づく“音”がする。
 血煙を貫く宝具によってアーチャーの様子が垣間見えた。
 両腕は欠損。脇腹にも大穴。流れ出た血で右眼は封じられ、その端正な顔立ちには顎がない。けれど、その左眼ははっきりと《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を捉え、その量の足は大地を踏みしめている。
「これで、倒れないか」
 英雄王のその姿に、署長は敵ながら畏敬の念を抱かずにはいられない。
 あの一瞬で、アーチャーは先手よりも後手を取る覚悟を決めていた。
 この英霊はそうした受け身の姿勢を嫌っていた筈だ。だというのに、相手の攻撃を受け止め、捌き、耐え凌ぐ覚悟をあの短時間で決し、実行に移す離れ業をやってみせる。故に蔵から取り出すのは剣ではなく、盾。それも、あの一瞬で四方を四枚の盾で囲い込み防備を固めていた。
 本来であれば、ここで勝負は決していた。
 取り出した盾が一体どのようなものであろうと、レールガンの前には紙切れに等しい。単純な威力だけでもさることながら、その弾頭は特に貫通力を重視したペネトレーター。目標が固ければ固いほど運動エネルギーは残さず盾に伝播する。仮に盾がこれに耐えられたとしても、盾ごと吹き飛ばされるのがオチだ。
 反撃の隙は与えない。
 回避できる広さもない。
 防御してもその防御ごと貫く。
 この策でもし生き延びようと思うなら、それは単純な身体能力とは別の、幸運値に頼るしかない。
 ……いや、それだけの訳もない。
 署長はアーチャーの傷つき具合を判じ、考えを改める。
 署長がわざわざ砲門を五つも用意したのは、アーチャーに避ける隙間を与えないためだ。射線上は完全なキルゾーンであり、厳格な計算に基づいて行われた射撃に幸運だけで全て対処できよう筈もない。射線軸から考えると、欠損部位も不自然すぎる。
「これは、まずいな」
 眉根を寄せて署長は暢気に嘆息する。
 署長はそれ以上を考えようとして――考えるのをやめた。
 目の前に迫るアーチャーの巨大な足が、全身血塗れで動けぬ署長に振り下ろされからである。署長が最期に見た光景は、遠く離れた場所から必死にに手を伸ばそうとするアント1の姿であった。


 ――目が覚めれば、そこには見慣れた天井があった。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部にある会議室である。臨時の救護室としても可能なこの会議室は今、所狭しと寝袋が占領している。その大半は既に空っぽだが、署長のようにまだ覚醒しきれていない者も多い。
 目覚める直前の感覚を思い出す。昔戦闘機に乗って耐G訓練を受けたことがあったが、その時と似ている。もっとも、自分の何倍もの圧力に身体が悲鳴を上げるのは同じだが、軋む頭蓋が破裂する瞬間は二度と経験したいものではない。
「……今回の死に様は、格別だな」
 署長は起きると同時に手を伸ばした。そこに誰かいるかを確認した訳ではない。ただなんとなく、彼女ならそこにいるだろうという直感があった。
「君は、生き残ったか」
「いいえ。残念ながらアーチャーと共倒れになりました」
 長年連れ添った秘書官は当然のようにそこにおり、差し出された署長の手にミネラルウォーターと報告書を渡してくる。
 この短時間で報告書を作ったのかと驚いたが、時計を見れば時計の短針は四周もしていた。
 どうして早く起こさないと他の部下ならば言っているところだが、そこは秘書官の思いを汲んでおく。生き残れなかったということは、彼女も夢の中で死んでしまったということだ。精神的に疲れているのは彼女も同様。むしろ休息時間が短い分、署長より疲れている筈だ。
「この宝具も史実ほどではないな」
「そのようですね」
 苦笑する署長に秘書官も笑って同意した。
 宝具(夢枕回廊(ロセイ))
 粟粥を煮ているわずかな時に人生の栄枯盛衰全てを味わったという「邯鄲の夢」。この逸話をキャスターは昇華し、精緻な仮想シミュレーションを行う宝具と化したのである。これにより《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はわずかな時間で宝具の習熟訓練や、こうした大規模な予行演習を可能としたのである。
 ただし、夢の中での怪我や死は、夢から覚めた後も尾を引きかねないリアリティがある。今ここで寝袋から起き上がることができない者は、皆夢の中で壮絶な死に方をした者ばかりだ。肉体の疲れはゼロであるが、精神的な疲れは圧倒的である。
 それでも署長は無理を押して体を起こし、自らの執務室へと足を運ぶ間に報告書に目を通した。
「失敗、だな。アーチャーを倒せても相討ちでは意味がない」
 目を通した資料を執務室の机の上に投げ、署長は感想を述べた。
 署長が倒れた後は秘書官――アント1が指揮を引継いでいる。この時点で部隊戦力は五割を切り、現有戦力での打倒を諦めたアント1は生体宝具シュレディンガーを解放。あらゆる可能性を内包したコントロール不可能な生物兵器によってアーチャーを倒すことは成功。ただし、その後要塞までまるごと呑み込み暴走したシュレディンガーは爆撃による飽和攻撃を受けるまで暴れ回ったという。
 まったく以て、頭が痛い。
 とりあえずシュレディンガーは封印だ。いくらなんでも危険過ぎる。それにこの作戦も見直し――いや、ベストな状況でこれでは、そもそも廃案にするしかない。もっと別の手を考える必要があるだろう。
 それよりも、署長には思うところがある。
「……君は、どう思うかね?」
「……申し訳御座いません」
 ヴィクトル・ユーゴーの手紙のように、あまりに端的な質問に、秘書官は顔を伏せて詫びた。
 質問が分からなかったからではない。問題点が、はっきりとしていたからだ。
 実戦では足下の小石一つ、飛び出た釘の一本に至るまで、不確定要素が山ほど関わってくる。一〇〇の実力も、七〇出せれば上等と言えよう。
 署長の手元にある資料の中には、各員のバイタルデータもある。アーチャーと対峙する直前まで各員のパフォーマンスは通常値よりも高くあった。それが、アーチャーと遭遇後、見る間に低くなり、最低値は三〇にまで落ちている。
 原因は明らかだ。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は軍人からではなく、警察官の中から選抜されたメンバーである。選抜基準は才覚が中心であり、その性格や信条はあまり考慮されてはいないのである。
 チラリ、と秘書官に視線をやるが、秘書官は顔を伏せたまま未だ微動だにしない。
 彼女のバイタルデータが著しく落ちたのは署長が死んだ直後だ。思い返せば、無謀にも彼女は確実に死ぬと分かっている状況で署長を助けようと動いていた。一個人としてその行動は素直に嬉しいものであるが、組織として考えた時、彼女の無謀な行動は褒められたものではない。
「あまり頭を下げる必要はない。今までも言ってきたことだが、一朝一夕に直るものではないのだから」
 慰めるように署長は語ってみせるが、内心では頭を抱えたいところだ。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は、こうしたメンタルに弱いところがある。勿論ある程度の耐性は付けさせたが、それを払拭させるまでには至っていない。幾度となく注意もしてきたが、注意はすればするだけ比例してよくなるというものではない。くどければ返って害悪ともなりかねない。
 本番である聖杯戦争は既に始まっている。この弱点を短時間で矯正するのが不可能ならば、ここで論うのもあまり良い手ではない。戦後を鑑みれば薬に頼りたくはないが、場合によっては仕方がないだろう。
 少なくとも、今回の演習で弱点が明確になっただけでも良しとしなくてはならない。
「……現在、原住民たちはどうなっている?」
 これ以上の話題は危ないと、署長は敢えて話題を逸らしてみせる。これ以上この秘書官に頭を下げられると男として立つ瀬がないという理由もある。
「はい。外観からは原住民たちに変化はありませんが、ティーネ・チェルクの容態に変化があり、原住民の中枢付近では鼻が利く者から動きが活発になりつつあります」
「ヒュドラの毒か」
「おそらくは」
 署長の確認に秘書官は頷いてみせる。攻めるなら今とばかりのタイミングだが、それにしては解せない。
 瞬殺されたとはいえ、ヒュドラと至近距離で遭遇したのだ。毒に当てられたことに気付いていない筈がないし、アーチャーの宝物蔵には解毒剤もある筈。事前に飲ませておけば、容態が急変するようなこともあるまい。
「罠か?」
 欺瞞情報の流布は古来より使い古されてきた手だ。しかし署長の言葉に秘書官は首を横に振った。
「いえ、容態が急変したのは硬度の高い情報ですし、情報の秘匿レベルも高すぎます。罠として機能させるには効果的とは思えません」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の協力者はもう数十年も前から原住民中枢で動いているため、その内部情報は筒抜けである。それを逆手にとられることを署長は憂慮したわけだが、多角的に分析するとその可能性もない。
 そしてふと、署長はあることを思い出す。机の上に放り投げた資料に再度手を伸ばし、同時にパソコンのロックを解除して、上位権限でのみアクセスを許される資料に目を通し始める。
「何か、疑問でも?」
「ああ。アーチャーの挙動に気になることがある」
 《夢枕回廊(ロセイ)》は最新データに基づいてあのリアルな夢を使用者に見せる。過去のデータでシミュレートした時には、アーチャーはもっと与し易い相手であった。疑り深くなければ辛抱強くもなかった。
 ログを確認してみれば、アーチャーはレールガンの発射直前に盾を展開している。紙切れ同然とあの時は笑ったが、アーチャーの姿を隠す程度なら紙切れにだって出来る。アーチャーが盾を取りだしたのは防御のためではない。自らの姿を隠し、直前に確認したレールガンの射線軸から退避させるためだ。そう考えれば、欠損部位が不自然であったことも納得できる。
「……出来過ぎだな」
「はい。これではアーチャーの予測が的確すぎます」
 シミュレートが正しいとするならば、アーチャーは一目でこちらの思惑と作戦を見抜き、更に初見である宝具の威力を正しく把握出来ていることになる。それはいくら英雄といえど出来過ぎではなかろうか。
 だが、もしこのシミュレートが正しいとすれば、アーチャーが予めティーネに解毒剤を飲ませなかった理由とリンクすることができる。些か予想の斜め上かつ最悪なことだが、ここを読み間違えると大変なことになりかねない。
「至急、アーチャーの動きに警戒するよう通達。一般隊員から原住民への接触も二四時間の制限を加える」
「署長はアーチャーが独自に動くとお考えですか?」
 署長の命に秘書官は確認を取る。
 聖杯戦争においてマスターの役割は基本的に後方支援である。前線を担うのがサーヴァントであるのだから、役割分担としては順当だろう。特に情報収集に関しては現代社会に生まれた者でなければ対応しきれるものではないし、数に頼らねば出来ぬことも多い。
 真っ当に考えれば、アーチャーが独自に動くのはデメリットこそあれ、メリットはないのだ。
 秘書官の確認に署長は即答しかねていた。
 否定する要素は多い。考え過ぎと言われればそれまでだ。
 ただ、今アーチャーはマスターという束縛から解き放たれた状態にある。これがアーチャーが意図したものか確認が取れない限り、迂闊に動くことも出来ない。
 最悪、原住民の情報が署長に筒抜けであることを、アーチャーに悟られている可能性もある。それだけは絶対に避けなければならない。
「……可能性だ」
 長く沈思しながら、ひねり出した答えはありきたりなものだった。その返答に秘書官が納得するわけもないが、納得する必要もない。何か言いたげな秘書官であったが、彼女は事務的に対応し、そのまま署長の命令を履行するべく退室していった。
 退室していった秘書官の後ろ姿を思い出しながら、署長は「スマン」と呟く。長く連れ添ったからといって、何でも話すわけにはいかないのだ。
 《夢枕回廊(ロセイ)》のシミュレートは最新の情報に基づいたものだ。では、その最新の情報はどこから来たのか、そしてどうやって調べたのか。それを具体的に知っているのは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》内でも署長だけだ。秘書官も“上”が絡んでいることに薄々気付いているだろうが、だからといって迂闊に漏らしていい情報ではない。知ったところで気分が悪くなるだけだ。
 “上”にとってこの聖杯戦争は檻の中で行われている猛獣同士の殺し合いでしかない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》もその一匹で、調教され期待されている分、少しでも気にくわない行動を取れば容赦なく駆除されかねない。
 戦中であってもその可能性は否定しきれず、戦後であれば尚更だ。
 フェイズ5に移行しておきながら守りに入った署長の行動が“上”にどう映っているのか気になるが、それを気にしていては何も始まらない。その心配は申し訳ないが秘書官に押し付けておくことにする。
 出来ることならもう一度(夢枕回廊(ロセイ))を使って全体演習を行いたいところだが、不確定要素が今後発生する可能性が高い以上、迂闊に使うわけにもいくまい。それに、署長としても精神的にそんな余裕はありそうになかった。
 ……もしここで、署長が再度(夢枕回廊(ロセイ))を使ったのなら、この戦争は新たな局面に移行していたことだろう。この署長の余裕のなさが、夢世界でのライダーとの遭遇を回避し、結果として《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を救うことになろうとは、神ならぬ署長が気付くわけもなかった。


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03

 長く、銀狼はその場に伏せていた。
 野生の獣というのは自らの怪我に対して自覚的だ。痛みに呻くことはあっても傷口をいたわらない動きは絶対にしない。安易に薬に頼ろうとする人間よりも彼等は自らのホメオスタシスを最大限に活かすことを考える。そういった本能は例え合成獣であろうとも変わらないものであるらしい。
 枯れた木の洞で療養すること数日、結果として銀狼の傷は無理をすれば動けるまでに回復していた。銃弾で風穴を空けられながら数日で回復することは脅威の一言に尽きるが、これが無茶でないわけもない。ランサーによる治癒も多少後押ししているが、持ち前の異常な数の魔術回路を治癒のために全力活動させたことが最大要因である。代償として短くない寿命を消費しているが、死ぬこととの天秤を考えれば安い買い物。この数日飲まず食わずで体力は限界に近付きつつあるが、これもまた野生の獣と同様に空腹に対する忍耐も銀狼は持ち合わせている。限界に近付いても限界値を超えてはいないのだ。
 しかし、狼とは群れる獣でもある。一匹狼とさも孤高の存在の如く扱われることもあるが、犬科の動物は一匹だけで生きてはいけない。それは狩りの成功確率にも影響する故の、これも本能だ。
 そして現在、彼が群れとして意識しているのは一人の――否、一体の人形。ランサーのサーヴァントたるエルキドゥただ一体。そして彼は、この場にはいない。
 銀狼の感覚からしてかなり前にこの洞を出て行ったきり、彼の姿を見ていない。何やら色々と語りかけられたような気もするが、怪我で朦朧とする意識と元より言語を解せぬ脳構造ではいかんともし難い。
 つまるところ、銀狼は何の理解もしていなかった。
 銀狼にとってランサーはサーヴァントではなく自らの主人であり、そして聖杯戦争や魔術、己の置かれた位置についても、何の疑問も持ち合わせていない。全ては「生存のため」の一言に尽きてしまう。
 故に、ではあるが。
(主、大丈夫ですか?)
 脳裏に響く言葉にすら、銀狼はあまり興味を示さなかった。
 最初こそ周囲を見渡し、ランサーの姿を探したが、耳ではなく脳内に響くものと認識した段階でそうした行為を取りやめた。銀狼だって夢を見る。なまじ知能が高かっただけに現実の不在と脳内の言葉を同一のものとして認めることはなかったのだ。
(すぐにでも馳せ参じたいところですが、そうもいかぬ事情ができました)
 マスターとサーヴァントの間にあるパスは魔力だけを通すパスではない。生存の有無や記憶の共有、相手の位置といったものも分かるが、銀狼とランサーは人ではないためかかなり詳細な意思疎通までも可能とする。
 一種のテレパシーではあるが、銀狼に分かるのはランサーが気遣う感情のみ。それを承知の上で、ランサーは話しかけることはやめようとはしない。銀狼としての認識は全くの逆ではあるが、銀狼はランサーのマスターである。無駄と分かりつつもやらねばならぬこともある。
(僕にかけられた呪いは二種類――強制的な実体化、そしてマーキング……特に後者はやっかいです。僕とマスターが接触すれば、奴らにマスターの位置が露見してしまう)
 焦りの感情だけが伝わるが、銀狼は何の反応も返さなかった。ただランサーの感情からこの場に帰れないとだけ理解する。それすらも、現実と夢との境界で曖昧模糊とした記憶として処理されてしまう。
(僕はマスターから数キロほど離れた森林地帯で奴らを待ち受けています。この風向きなら僕の匂いは届くことと思います)
 ひくり、と脳裏の言葉に銀狼は鼻をあげる。確かに微かではあるがランサーの匂いが風の中に交じっている。雨と霧に洗われた樹々との香り、森の中にあって尚自己主張する原初の森――この匂いを銀狼が過つことはない。匂いは薄れ一足で駆け抜けることのできぬ距離であれど、不確かな脳裏の言葉よりも遙かに銀狼の心に刻み込まされる。
 主人が遠くではあるが、その意志は近くに居る。ただそれだけで、傷の回復を促進させるべく、自らの魔術回路を無意識のうちに全力稼働させる。その行為自体は体力を過剰に消耗するものであまり意味はない。だが効率を優先しうる気力の充実がそこにはある。
(今しばらくお休みください。時が来れば、お迎えに上がります)
 限界に近付きながら、銀狼の身体は更なる酷使を開始する。欠損した傷跡をピンクの肉が覆い、肉体を駆け巡る血の量が明らかに増えつつある。肉体にかかるダメージは苦痛となって全身を襲っている筈だが、それに耐えるだけの精神力を、銀狼は遠くに感じる微かなランサーの気配で補っていた。
 銀狼がその場で抱いた感情は「安心」。その感情は、例えその意志がなく言語としても成り立っていなくとも、確かにランサーの元へと伝わっていた。
(わかりました。安心してお休みください)
 脳裏のメッセージに無自覚な安堵を覚え、銀狼は再度深い眠りの途についた。



 次に目が覚めたのは夜遅く、満天の星空の元だった。
 確かに木の洞で寝ていた筈だと銀狼は軽く混乱するが、周囲を見渡せばここはランサーに連れられて傷を癒やした河原である。となれば、近くにランサーがいる可能性は高いだろうとこの場で目覚めた理由をあっさりと放棄して銀狼は周囲を見回し己がサーヴァントの姿を探し始める。
 身体が軽いことに違和感は覚えない。傷などまるでなかったかのように銀狼の身体は自由に、そして羽毛の如く軽く動かすことができた。周囲を小一時間も駆けてみるが、はて、おかしい。ランサーの匂いもどこにもなければ、それ以外の動植物をはじめとしたありとあらゆる匂いも感じ取れない。確かに河原の近くというのは匂いが流されやすいものではあるが、これだけ探して何もないということもあり得ない。
 銀狼は自らの鼓動がやけに大きく聞こえることに気付く。当然だ。周囲には臭いと同様に音を発する存在がないのだから。
 ほとんど本能的に下された結論に従って、仕方なく河原から離れ、森林地帯を移動し始める。銀狼が潜んでいた洞は覚えている。ランサーの匂いがした時の風向きも。その時のわずかな記憶を頼りに銀狼は森林の中を風のように駆け抜ける。
 幸運にも、銀狼のこの行動は彼の命を救うこととなる。洞の位置とランサーがいたと思われる位置の直線上にはスノーフィールドの街があり、それ以外の地域で彼が助かる見込みは誇張なくゼロであった。
 疲れ知らずの肉体を走らせること小一時間。既にスノーフィールド森林地帯を抜けて、いつの間にか銀狼は足をアスファルトの上へと乗せていた。
 アスファルトについての知識を銀狼は持ち得ない。だがこれが道であり、そしてその先に何かがあるというのはすぐに理解できた。道の先にはスノーフィールドの街があり――何かが蠢いている。
 これが野生の獣であれば、警戒心というものを持ち得ただろうが、あいにくと彼は人工的に作り上げられた合成獣であり、そして生まれたばかりでもある。知識として知っている他の生命体は創造主たる魔術師とサーヴァントたるランサーのみ。痛みによる恐怖は心に刻み込まれているが、ランサーによる癒やしと安堵は銀狼に「好奇心」を植え付けていた。
 だから最初にそれを見つけた時も、その異常性に銀狼がすぐさま気がつくことはなかった。
 銀狼が見つけたもの。それは人間だ。
 それは地元の農夫らしき人であり、農作物だかが詰まっているであろう布袋をいくつも必死でボロいトラックの荷台へと乗せていた。また若いビジネスマン風の男が携帯を片手に公園の周囲を歩いていた。公園内ではまだ年端もいかない男の子がよたよたと慣れぬ手つきで自転車の練習をしていた。
 そのいずれも、銀狼に何の興味も抱いていなかった。
 若いビジネスマンは銀狼にぶつかり転けたが、何事もなく立ち上がりそのまま立ち去った。自転車の練習中の男の子に至っては進路上に銀狼がいたにも拘わらずまるで避けようともしない。
 銀狼の観察眼ではそれだけであるが、これが人間の観察眼であればもっと別の面も見ることができたであろう。
 農夫は荷台に布袋を積み込み、そして次の瞬間には地面に下ろし始める。ビジネスマンは公園の周囲をひたすら歩き続け、男の子は延々と公園で自転車の練習をし続ける。これは明らかに異常であろう。ましてや、こんな真夜中にそんなことをするなど。
 街中を巡り歩き、そうした人間を数百人も見た頃合いになると、そんな光景にも銀狼は慣れつつあった。好奇心もどこかへと消え、銀狼は本来の目的を思い出したように脇目もふらず街中を横断する。
 そんな最中に、銀狼はその身体を急に止めて、進路上の傍に建つ大きな建物へと首を向けてみた。
 相変わらず匂いはない。だが嗅覚が効かないことで研ぎ澄まされる感覚というものもある。そんな感覚に引きずられるように、銀狼はその建物の敷地内へと侵入した。
 スノーフィールド中心部にある一際大きな建造物。周囲の建物と異なり敷地面積は隣接するビルの倍以上で、植えられている木々の数も多く、それでいて開けた空間があちらこちらに見受けられる。十字のマークがあることから人はそれを病院と判断することができるが、そんな知識を銀狼は持ち得ない。
 心なしか人の数が他の場所よりも多いと思いながら銀狼はやや躊躇しながらも病院の中へと足を進めていった。
 銀狼が病院へと入った理由――それはランサーに似た気配を感じ取ったからだ。
 匂いを感じぬこの世界。人間でいえば目隠しをされたに等しい制約を銀狼は受けているが、ただの人でもただの狼でもない彼には特異すぎる魔術回路が存在する。暗闇を見通す視力、周囲数キロの物音を聞き逃さぬ聴力、その毛並みは周囲の空気を余さずに読み取る。それだけのことを無意識に行いながら、銀狼は更にそこから魔力の波を感じ取る。
 ランサーの優しげな魔力とは違う、ただそこにあるというだけの無色とは異なる無味乾燥とした魔力。
 それはサーヴァントという特殊な存在のみが放つ魔力であるが、その違いは分かってもその違いが何を意味するのか銀狼は分からない。
 病院の敷地内に入れば、その気配はいよいよ濃くなっていく。
 ここでようやく銀狼の本能が警戒を促した。
 人口密度は街中の比ではない。結構な広さの敷地があるというのに、その敷地全体で誰かが何かを常に行っている。病院着を着た患者が無表情にバレーボールを打ち上げ、皺だらけの老人が車椅子でゴーカートに興じ、敷地の片隅では物静かにギャンブルが行われ、そうした隙間を子供が走り回っている。
 いかに無害と認識しようとも、ここの人口密度は街中の比ではない。仮に今ここで全員が銀狼に襲いかかれば、これを回避する術はない。そうでなくとも、何かがあればすぐさま逃げられるような場所ではない。
 銀狼に爪と牙はあるが、生まれてこの方それを利用したことは一度としてない。襲われたとしても、この爪牙を有効利用できる自信が銀狼にはなかった。
 それを弱さと受け取るか、優しさと受け取るかは意見の分かれるところであろうが、その境界が、銀狼の生死を分けることとなった。
 銀狼が足を止めた時には既に遅かった。敷地半ばにあって気配は濃厚。どこに逃げようとも必ず人の傍を通ることとなるし、そして何よりどこに逃げればいいのか銀狼には判断がつかなかった。
 これが経験を積んだ獣であれば警戒感からそもそも中に入らないし、逃げ場を確保しながら移動する。そして何より、敷地のど真ん中で立ち止まる愚は犯さない。
 故に――。
 魔の手は、あっさりと銀狼の背に伸びていた。
 一瞬の黒い影。いかに生まれたての銀狼といえど本能が身体の全てを支配しているわけではない。ありとあらゆる情報が銀狼の全身を錯綜し、緊張が全身を覆い尽くす。尻尾は後ろ足の間に隠れ、己の牙も、爪も、一ミリだって動かすことはできなかった。
 そして魔の手は、銀狼の背へとよじ登り――
「ワンちゃんだー!」
 歓声を上げた。
 ゆっくりと、銀狼は背後に目線を上げる。背にかかった重さは人の子供ぐらいであり、大きさも同じ程度。腕力は非力であり、跨がる足も覚束ない。人の顔など判別できぬ銀狼はあるが、これはそれほど悩まなかった。
 これは、子供だ。
 銀狼はとりたてて大きくはないものの、子供からしてみれば十二分な巨体である。子供がまたがるには都合が良く、それでいて銀狼の毛並みは掴むのに丁度良い。
 振り落とすには簡単だ。二度三度と揺らせば、子供はバランスを崩し転倒することだろう。もしくは銀狼が横に自ら転倒すれば子供は為す術もない。首をねじり、その口と牙でもって子供を突き落とすことだって可能だ。
 一瞬で思いつくいくつもの選択肢。しかしその一つだって銀狼は実行することはできない。現状を把握したにもかかわらず、相変わらず銀狼は一ミリも動けないし、尻尾は後ろ足に挟んだまま。恐怖という名の魔の手は今も銀狼の身体を掴んで離さない。
「ライダー! ワンちゃん動かないよ!」
 子供の声に、ようやく銀狼は身体が動くことを自覚する。呼吸すら忘れていたのを思い出し、ゆっくりと肺の中に酸素を取り込んでみる。心の臓は早鐘のように動いており、銀狼の身体はあらゆる束縛から解き放たれている。
 だが、銀狼には分かる。今逃げれば、自分は殺される。そして、銀狼がライダーと似た気配と思った存在は、この子供の傍らに確かに存在している。
 おそるおそる銀狼は足を動かしてみる。バランスが上手く取れなかったのか子供の手が銀狼の毛皮を掴み痛むが、そんなものは全て無視した。
 どこに行けばいいのかわからず、まずはひたすら前へ前へと歩み始める。同時に幽鬼の如く纏わり付く気配を振り切ろうなどとは思わない。ほんのわずかな接触ではあるが、あの存在は明らかに銀狼よりも素早く動き、束縛することが可能であろう。
 ようやく分かった元凶。この周囲一帯にいる人間は全員この正体不明の何者かに支配されている。その証拠に、銀狼の歩む先々で、遊びに興じる大人たちが道を開けてみせるではないか。
「ねー、ワンちゃんはお名前なんていうのー?」
 間延びした子供の質問に人間の言葉をそもそも解さない銀狼は当然答えられない。それでも話しかけられたことを理解した銀狼は首を後ろに向けて子供の顔を仰ぎ見た。
「私はねー、繰丘椿っていうの。ツバキ、わかる?」
 繰り返される名前に、恐怖と戦いながらも銀狼はそれが子供の名前であると認識する。生き残るために最大限働く銀狼の脳細胞は、ここでの一言一句を漏らさず記憶し糧とする。ここで恐怖が限界となっていれば、その前足に宿った令呪が反応していただろうが、幸運にもそこに至るまでには猶予があった。
「それでねー、」
 と、椿は銀狼の右耳を引っ張り上げる。右に行けばいいのかと銀狼はその足を右へと向けた。その先にあるのは……病院の入り口。そこにもスリッパで卓球をするナースや、赤ん坊のごとく背に少女を縛って何かを捜している青年の姿があった。
 そして……銀狼はその青年と目が合った。
 今まで出遭ってきた全ての人間にはなかった理性の灯火がそこにある。背後に背負う椿のような不確かな存在は連れていない。それなのにその顔つきから銀狼のような恐怖に支配されているようにも見えない。
「あのお兄ちゃんが、フラットお兄ちゃんだよ」
「ああいたいた。おや、椿ちゃんも友達を見つけたんだねー」
 実にフランクに話しかけてくるフラットと呼ばれた男が、遠慮も何もなく近付いて徐に銀狼の前足を掴んでくる。人間で言うところの握手であるが、銀狼にとってそれは不可解な行動でしかない。不快感もあったが、それを我慢しされるがままにその身を任せる。
「あれ? お兄ちゃんも?」
「そうそう。ほら、僕の背にいる女の子」
 言って、腰を屈め背中を椿に見せる青年の背には、確かに少女の姿があった。一体何があったのか、その身体に意識はなく力なく腕が垂れ下がっている。
「うん? あれ?」
「どうしたのお兄ちゃん?」
「この犬なんだけどさ、ほら、ここ」
 フラットが銀狼の前足を掴み、それを見ようと椿が身を乗り出した。バランスをとるのに窮屈ではあったが、恐怖心から銀狼は椿を守らんとする意志を持ちつつある。
「あ、なんか変な痣がある」
 椿の言葉に、フラットが同意する。銀狼はそれが何なのか理解できないながらも、遅まきながら、青年の手にも何かを感じる痣があることに気付く。そして身を乗り出した椿の手にも、同種の痣が刻まれていた。
「あ、この子にも同じ痣があるよ」
 椿もフラットが背負う少女の腕に痣を見つけてみる。銀狼はその毛並みから見つけにくいが、他の三人は隠すこともないので見つけるのは容易い。
「こんな偶然って、あるんだねぇ」
「まったくだね!」
 二人で笑いあう様を銀狼は内心冷めた目で見つめていた。
 銀狼が感じていたのは、椿という少女の背後にいる存在。そして、指し示されれば理解できる、銀狼と同様の魔力を持つ奇妙な痣。獣としての第六感がこれは異常であるとこれまで以上に警告している。
 今すぐにでも逃げ出したい銀狼をよそに、事態はまた一歩前進した。
 ここに――
 聖杯戦争参加者の過半数以上を占めるマスターが四人も集合したこととなる。
 そもそも聖杯戦争を知るよしもないライダーのマスターである繰丘椿。
 そもそも聖杯戦争が何なのかすら知らないランサーのマスターである銀狼。
 そもそも聖杯戦争の根本を理解できていないバーサーカーのマスターであるフラット・エスカルドス 。
 唯一聖杯戦争を理解していながら気絶しているアーチャーのマスターであるティーネ・チェルク。
 前代未聞にして空前絶後になるであろうこの四者の会合は、ティーネが目覚める三時間後に、開始されることになる。


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 スノーフィールドの夜は思いの外冷える。渓谷地帯ともなればそれは顕著で、吹き上げる風の中小一時間も外にいれば芯まで凍えることとなる。高所であるが故に周辺警戒の重要性は増すが、厳しい環境での見張りを好んで行う者などいるわけがない。
 そういったわけでこうした見張りに出されるのは決まって立場の弱い若者と相場が決まっており、賭け事の代価として数ヶ月前からローテーションが組まれていることも多々ある。
 そして残念ながら、そのローテーションがそのまま実行されることはない。予定表に書かれた名前は先の戦闘で行方不明となり、その名は赤く二重線で消され、そしてそのままとなってしまっている。
 管理者の融通が利かなかったのだろう。空いてしまった穴を直前の担当者の時間延長で穴埋めをした結果、かなり無茶なスケジュールとなってしまっている。それを見かねた老人が仕方なく、空いた代理として見張りに志願したのがおよそ十分前。何やら後ろで悶着があったようだが、思った以上にあっさりと老人の希望は聞き届けられた。
 担当となっている見張り台は要塞上部の一番見晴らしの良い場所だった。最も寒い場所であることには違いないが、老人にとってそこまで苦痛ではない。こうして見張りに立つ機会など数十年ぶりだ。当時を思い返せば懐かしさすらある。
 そんなことを思いながら老人が見張り台へと上がってみれば、連絡を受けていたのか、礼どころか挨拶もそこそこにまだ若い戦士が逃げるようにして老人の傍らを去って行く。先達への敬意と謝意を表さないことを咎めはしないものの多少の疑問を覚えながら老人は見張り台へと立ってみる。そうすればなるほど、急ぎこの場を去った理由に合点もいく筈だった。
「これは英雄王。このような場所で何をなさっておられるのですか?」
 老人の目線の先には一体いつから居たのか、豪奢なコートを纏ったアーチャーの姿がある。悶着がありながらやけにあっさりと受理されたと思ったらこういうことかと老人は納得する。場慣れした老人ならいざ知らず、青二才の若造にこの空気は耐えられまい。
 決して広いとは言えぬ見張り台は岩場の出っ張りに作られている。簡易の柵は作られているが、先端に至っては何も作られていない。アーチャーが腕を組みスノーフィールドの街を睥睨しているのは、そんな危険極まりない先端部分である。
「……何者だ貴様は」
 本来の見張り位置よりわずかに離れて立ち止まった老人を、目線だけでアーチャーは射貫いた。ただの誰何、というわけではない。明らかな威圧に老人は怯えた様子もなく礼をしてその場に座った。
「ただの老いぼれにございます。が、族長の相談役の末席を汚しておりますので、見覚えがあってもおかしくはないかと存じます」
「フン。ただの老いぼれにしてはできるようだな」
 名乗りもしない老人に機嫌を損ねることなく、それでもアーチャーの視線は老人から離れない。老人のなりはそこいらの見張りと何ら変わることはないが、唯一手にした武装だけが他と違って英雄王に注視させる。その視線に気付き、老人は己が獲物を前に出してみせる。
「昔取った杵柄でございますが、今はもう腐りかけの技にございます」
 笑う老人が手に取った棍棒は別段珍しいものではない。だが年季の入ったそれは、いくつもの傷が刻み込まれている。長年通じた武器は使用者の手足となるという話があるが、この老人の棍棒はまさにそれだった。魔術のなんたるかを理解せずとも、老人が手に取り軽く気を通すだけで、霊体にも効果のある魔具へと棍棒は昇華されていく。老人が丹念に練り込んだ気を以て全力で放てばサーヴァントを一撃で仕留めることも可能だろう。
 だがそれだけならアーチャーは何の反応も示すことはない。アーチャーが興味を抱いたのはその距離だ。いざ戦闘になっても邪魔にはならず、背中を守れる位置にいる。それでいて一挙動で襲えるほどに近い距離ではない。
 この聖杯戦争に召喚されてから数々の戦士を見てきたが、礼節と武芸、共に優れた者はまだ見てはいなかった。これで相談役だというのだから、知略においても優れているのだろう。
「ティーネはどうした。まだ寝ているか」
「英雄王より頂戴した秘薬が効いているようであります」
 アーチャーによるヒュドラ退治から三日が経過していた。
 ほとんど瞬殺であったとはいえ、一瞬だけでも現界したヒュドラはただそれだけで猛毒の塊だ。ティーネがいかに強力な魔力を身に帯びていようとも、そんなヒュドラに一片とはいえ触れてしまえば身体が毒に蝕まれるのも当然であった。その日の内にティーネの体調は思わしくなくなり、高熱に魘されながら今も意識が戻らない。
 幸いにも英雄王の蔵にはヒュドラの毒に効く薬はある。ただ強い薬は量を誤れば毒にもなるので現在は薬を希釈し、慎重に効果を見定めながら経過観察をしているところである。幸いにしてティーネの体調は快方に向かい、この調子であるならば数日中に回復する見込みである。
「……このスノーフィールドを見ていた」
「スノーフィールドを、ですか」
 長い沈黙の後、急に口を開いた英雄王に思わず鸚鵡返しをするが、そういえばこの場に来た早々に老人は何をしているのか問うていたのを思い出した。
 あれはただの挨拶のようなものであったが、何が気に入ったのか英雄王はこの老体と話す気になったらしい。
「この景観、英雄王の眼鏡にかないましたかな?」
 確かにここからの眺めはスノーフィールド全体を一望でき、左に湖沼地帯、右に森林地帯、そして中央にバベルの塔が如く立ち並ぶビル群はそのアンバランスさをもって絶景となっている。
「どこにでもある風景だ。この我にとっては何の価値もない」
「そうでしょうな」
 さも面白くなさげに応える英雄王に老人も素直に同意した。
 老人自体、この風景は見慣れたものであり、そして見飽きたものでもある。スノーフィールドの名所となりうる場所ではあるが、絶景と言うなればもっと良いところはいくらでもある。
「では、何故ご覧になられているのでしょう?」
「……あそこには我の朋友がいる」
 若干の沈黙にそれは嘘だと老人は確信する。
 エルキドゥの話はティーネから聞かされてはいるが、あの英雄王の性格からしてここで思索にふけるわけもない。少なくとも街中にあのサーヴァントが現れることはあるまい。
「では、我が族長に成り代わりまして、私めを供に散策でもいたしますか?」
「……必要ない」
 老人の稚気に溢れた提案に、今度の沈黙には多少の怒気が込められていた。答えの分かりきった質問をしたことには気付かれたらしい。
「これは失礼を。
 ……しかし、英雄王も我らが族長をあまりからかわないで頂きたい。此度の毒はあの娘の不用心なれど、あなた様ならばあの場で制することもできたのではありませぬか?」
 余りに直截な老人の不服に、さすがの英雄王も先に流した怒気を呼気一つで露と消す。
 ティーネの毒は確かに大したものではない。だが一歩間違えれば死んでいたとしても決しておかしくはない危険極まりない毒である。アーチャーにとっては大したことのないマスターであっても、老人にとって掛け替えのない一族の長。相手が相手だけにアーチャーに意見する者はいなかったが、老人は機会があれば話すつもりではあった。その機会が思いの外早かったのは想定外だが、やるべきことに違いはない。
「なかなか言うではないか」
 今すぐ首をはねられてもおかしくない状況で、老人は黙って首を垂れる。老人にとっては攻撃しにくい距離であるが、アーチャーにとっては攻撃しやすい距離である。その首を刎ねるのに苦労はない。
「あれは必要不可欠な試練だ。如何に優秀なマスターであろうと我が朋友と決着をつけるまではどうあっても生きていてもらわねばならん」
「そのための、我々でもあります」
 族長が犯すべきリスクは我らが負う、と老人は語る。
 王として、こうして直訴してきた者の言葉を軽く見るつもりはない。老人は本気であり、そのためなら何だってするだろう。
「信じられんな」
 だがそんな老人の言葉をアーチャーは一蹴した。
「我ら、と言ったな。それは一体、誰のことだ?」
「それは……」
 言葉に詰まる老人に全ての答えは集約していた。
 この見張りひとつ満足にこなすことのできぬ組織で、一体どれほどのことができるというのか。どれほどの者が、ティーネのために死ぬことを選ぶのか。甚だ、疑問でしかない。
 ティーネが倒れたことで水面下で蠢く不平不満が、鎌首をもたげている。組織は大きくなればなるほどその地盤が問われるものであるが、思った以上に弱かったようである。敵対工作が行われたのは確かであろうが、綻びをこの聖杯戦争までに排除しきれなかったのはティーネの落ち度だ。
 アーチャーは為政者である。その組織の有り様を見抜けぬわけもなかった。
「何故、あの娘が族長なのだ?」
「……あの娘が、一番この地と結びついているからに御座います」
 質問を変えて老人に聞いてみれば、苦渋に満ちた答えが返ってくる。
 スノーフィールドの原住民は、スノーフィールドによって力を与えられた者たちである。必然的に族長ともなればその中で最も力を与えられた者でなくてはならない。確かにその意味ではティーネは適合しているのだろうが、それ以外についていえば甚だ疑問でしかない。
 王制にあっては幼い子供を神輿にするのは理解できるが、この地の奪還を目指す原住民に必要なのは強力な指導者だ。血筋や能力に申し分なく最も強力な魔力を秘めるティーネであっても、実績がなければ下の者はその指示に従おうとはしないだろう。命を懸けるのであれば、尚更だ。
 まがりなりにも原住民がティーネを中心にして組織としてまとまっていられる理由は、彼女を支える周囲の者にある。その周囲の者に認められているからこそ、彼女は族長であり続けることができる。
「成る程。貴様のような側近であればある程に忠誠心が高いというわけか」
「否定は、できません」
 それは同時に組織の末端にいる者のティーネへの忠誠心は薄いと言ってるのと同義だ。彼らは族長たるティーネに忠誠を誓っているのか、原住民の血に誓っているのか、あるいは巨大なコミュニティとしての組織に誓っているのか、それは全く分からない。
 フン、と英雄王は鼻で笑う。その顔は老人からは決して見えないが、その顔は、確かに笑みといえるものだった。
「貴様、この景色の変化には気付いているか?」
 英雄王の質問に老人は沈黙した。
 これはただの質問ではない。老人に対するテストであり、真に族長たるティーネに忠誠を誓う者として英雄王の期待に耐えられるかのテストだ。外せば英雄王からの信はなくなり、ティーネはただの道具として英雄王に使い潰される。反面、正解すれば英雄王のパートナーとしてわずかではあるが、対等な関係へと近付くことができる。
 ハイリスクローリターン。だが、こうしたチャンスは英雄王との信頼関係の構築には必要不可欠な通過儀礼だ。
 深い呼吸を五回、老人は行った。
 暗闇の中、見渡す景色は先とは何も変わりない。当然だ。ほんの数分で変化するわけもない。
「……明かりが、減っておるように見えます」
 実を言えば既に出ていた答えを、老人は時間を掛けてひねり出すように答えた。
「此度の戦争、今日で初戦から五日が経とうとしています。その間大きな事件事故はありましたが、それにしても明かりの数が減りすぎたように見受けられます」
 実に愉しげに、英雄王は老人の言葉を聞いた。
 アーチャーは召喚された当初からこの北部の要塞部とスノーフィールド都市部を歩き回っている。今日この場にアーチャーがいたのも何も今回が初めてというわけではない。確かに伊達や酔狂で動くのがこの英雄王ではあるが、市井を見て回ることは決して無駄なことなどではない。
「なかなかの慧眼ではないか」
「恐れ入ります」
 満点、とは言いがたいが、おおよそアーチャーの答えと同じ解答である。
 アーチャーが召喚当初に見た街の明かりを100とすれば、現在は95といったところ。誤差の範囲と言ってみれば済むところだが、ここ数日暗くなることはあっても明るくなることがない。恐らく明日には94か93になり、90を割り込めばそこからは一気にスノーフィールドの崩壊が進むことだろう。
 都市部で何が起こっているのか、アーチャーには分からない。だが何かが蠢く気配は遠く離れたここまではっきりと伝わってくる。それは何もサーヴァントだからという理由だけでもなさそうである。
「貴様、相談役、と言ったな?」
「はい」
「では、ここの備蓄はいかほどある?」
 アーチャーの言葉に老人は記憶の底から必要な知識を引っ張り出す。具体的な資料は見ていないが、倉庫の様子や搬入頻度から計算することはできる。
「ここにいる人間だけならば何もせずとも三ヶ月は保ちます。ここの内部でもある程度食料生産もできますので節約すれば更に伸びましょう」
「足らんな」
 本来であれば十分すぎるほどの備えだというのに、アーチャーの感想は真逆のものだった。
「水、食料、資材、燃料、ありったけを集めよ。それから内と外との区別を分けるように指示しておけ。この渓谷の入り口を監視し、中の者を外に出さず、外の者を中に入れるな」
 恐らく初めてとも言うべきアーチャーの具体的な指示に、老人はその言葉の意味を量りかねていた。
「……それは、一体何に対する対策でしょうか?」
 籠城の指示、という様相にも思えたが、それにしては内と外を区別するのは異常である。これはまるで疫病に対する免疫措置にしか思えない。
 わざわざそれを指示するまで事態が進行しているとでも言うのか。
 しかし英雄王はその言葉には応えない。
「数日以内。事態に何の変化もなければ、街を灼くことにする」
 軽く、ではあるが。
 英雄王は、スノーフィールドを、壊滅させると宣言した。
 否――これは英雄王の「決定」である。
 何人たりとも覆せぬ、王の裁き。
「なっ」
「ようやく驚く顔が見られたな。したり顔の老いぼれを驚かすのも中々に一興だ」
 老人が驚くのと同時に、アーチャーは霊体化してどこへなりとも姿を消した。
 あれが冗談――というわけではあるまい。
 あの英雄王がやるといったら、本当に目の前の都市は壊滅することとなる。
 アーチャーの話しぶりから灼く範囲の線引きにこの砦は含まれていないが、だからといって奪い返す地が焦土と化すのを良しとするわけにはいかない。座して待つのは簡単だが、先ほど族長への忠誠が試されたばかりである。動いて状況を変えるのが誰か、言うまでもない。
 見張り台には緊急警報を鳴らす装置が付けられている。猶予こそ明確にしていないが、数日あるからと言って、悠長に一分一秒を無駄にして良い場合ではない。
 しばらくして、要塞内部で緊急警報が鳴り響いたが、その後誤報であるとアナウンスがあった。
 ただし、その後の要塞深部で行われた上層部の極秘会議は長く続くこととなる。


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 スノーフィールドの街には不穏な空気が漂っていた。
 理由は簡単。ここ数日スノーフィールドで大事件が連続したからである。
 突然今まで噂にすらなっていなかった麻薬組織の大規模な抗争と鎮圧作戦があったかと思えば、西の空には馬鹿でかいキノコ雲が出現して西部一帯に非常線が張られた。おまけに突如として街の一区画が瓦礫の山と化す不自然なテロが敢行され、周辺住民から体調不良者が続出したことで被害規模に比して過剰なまでに大きなニュースとなってしまった。
 これで警戒するなと言う方が無理だろう。
 特に先日のテロが致命的であった。これまでスノーフィールドにおける「テロ」は人的被害を出さない誇示活動が主だ。市民に被害を出さないことで市議会の一部はテロリストと癒着――協調する者さえいる。一般市民の中でも公然と彼等を支持する者すらいるのだ。このような無差別かつ適当とも言えるテロは彼らの主義でないというのはこの地に暮らす者なら容易に理解できるものだった。
 何かが起こっている――起こりつつあるのはもはや明白だ。
 深夜の事件だったにも関わらず翌朝の新聞の第一面を独占し、そして数日経ってもまだ一面を飾ってるのだからスノーフィールド市民の関心が非常に高いことを如実に顕している。
 無論、それらが単なる抗争や事故、テロでないことは魔術を囓ったことのある人間であればわかることだろう。聖杯戦争のことを知っていれば尚のこと。だが事実を知ったところで市民の対応が変わるとも思えない。
 数日前と比べ、スノーフィールドの街を歩く人間はわずかに少なくなっていた。大部分の店は開いているが、休日でもないのにシャッターを下ろしたままの店もちらほらと見かけている。アイスクリームやホットドッグの屋台はそもそもない。ガソリンスタンドに列ができているのは一連の事件の影響だろうか。店頭からも消耗品の類がよく売れているように思える。
 何より、通りを歩く警察官の数が数日前と比べて明らかに多かった。
「一区画一時間毎に二人一組での警邏……一体何人いる?」
 そう呟いたのは、アラブ系の女性である。
 スノーフィールドの一角にある小さなカフェテラス。太陽の熱い日差しを遮る傘の下で、彼女――アサシンは注文したフルーツジュースを口に含みながらスノーフィールドの町並みを眺め見ていた。
 既に彼女の格好は街中に溶け込むために現代風の女性と変わりはないものとなっている。暗い色のキャミソールに深いスリットの入ったロングスカート、あとは日差し避けの帽子とサングラスといった風体。あいにくとアサシンにオシャレという感覚がそもそもないので四肢を強調する大胆な格好とは裏腹に意外と地味な印象である。
 素肌を晒すことに抵抗はあったが、背に腹は代えられまい。人里に紛れることができねば、優れた「暗殺者」にはなり得ない。実地訓練こそ受けていないが、その為の仮面を被る教育は幼少時に受けていた。
 結局、内部葛藤こそあったものの、アサシンはこうして街中に溶け込んでいる。彼女を知る者であればそのことに驚くことだろう。自らの信義を捨てることが出来ず、街中に溶け込めぬから狂信者なのだ。そのことに、アサシンは違和感すら覚えることが出来ずにいた。
「……やはり、警察の中にマスターがいる可能性が高い……」
 アサシンがそう思うのも無理からぬ話である。
 彼女には低いながらも真名看破のスキルがある。信徒か否かが暗殺の基準となっていた狂信者たる彼女だからこそのスキルであると言えよう。さすがにサーヴァントの正体について看破しうる程ではないが、一般人に混じった魔術師を見つける程度なら理屈はさておき“何となく”判別がつく。
 朝から何人も警察官を見てはいるが、数人ではあるが彼女の感覚に触れた魔術師らしき警察官が存在している。これが偶然であるわけがない。
 警察内にて魔術師が育成されているのは確定だ。
 この広いスノーフィールド内の狭い区域で数人の魔術師が警察官の格好をしていれば、全体の数は最低でも数十人となる。これほどの人数であれば魔術師が警察官になったと考えるより、警察官を魔術師として育成していると考えた方が自然だろう。特に優れた者が対サーヴァントの精鋭部隊として動き、そのレベルに達しない者はこうした哨戒任務についているというところか。
 となれば、これだけの魔術師を育成し指揮している者は当然魔術師であり、警察官としても相当上の者でなければ実行できまい。一朝一夕に魔術師が育つ筈もなく、使えるレベルに達するには数年来の時間がかかる。
 彼らがこの偽りの聖杯戦争のために用意された存在であることに間違いない。つまり、この魔術師の大量生産を仕掛けた人間はこの偽りの聖杯戦争を予め知っていたこととなる。
 警察に対し調査する必要がある。
 彼女の目的はあくまで聖杯戦争を壊すことだ。実際の駒をいくら倒したところで聖杯戦争そのものを壊したことにはなるまい。
 本来であれば、今すぐにでも乗り込んでいきたいところだが、霊体化ができない今の彼女でそれは許されない。
 異教である魔術の知識をアサシンはあまり持ち合わせていない。状況から推測するに武蔵が仕留められた際の爆風が怪しいが、原因が分かったところで彼女に練られる対処策はこうした変装程度でしかない。
 無論、十七の秘技を持つ彼女であれば自ら侵入せずとも調査する方法がないこともない。
 例えば暗殺教団を組織した初代“山の翁”、その業である《狂想楽園》は対象を自らの忠実な狂信者へと変えてしまうことが可能だ。これを魔術師の警察官に使用すれば後は勝手にその警察官が調べて報告してくれることだろう。事によっては自白させるだけで済む可能性もある。
 しかし魔術師相手に安易な洗脳手段は褒められたものではない。相手もそれなりの洗脳対策はしているだろうし、そもそも末端には情報を与えないのがこの手の組織の鉄則である。下手に洗脳が発覚して警戒されてしまっては元も子もない。
 事が上手く運ぶためには戦略が必要となるが、あいにくとアサシンにそうした心得はない。しかもこうした時に必要となってくるラック判定ですら生前の彼女の不遇からEランク判定という事実がある。彼女が《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の存在に気付けたのも偶然ではなくスペックの高さ故の必然であろう。
 今後のことを考えながら、彼女はフルーツジュースを口に含んだ。彼女が生前に味わったことのない味であるが、元から質素な食べ物を好いていた彼女にとってファッションと同様、これもポーズの意味合いでしかない。
 だから、ウェイターが彼女のテーブルに新たなジュースを置いたことに嬉しいとも思わなかった。
 店の中で働いている給仕姿の数は三。客の数もそれほど多くなく、アサシンは店内に入った段階でそれら全ての顔を記憶していたし、その中に魔術師の姿はない。新たに入店してきた客に関しては多少注意するものの、最初から店に入っていた者に関しては怪しい行動をしない限り放置している。
 ウェイターの顔は最初から店内に居た者の中に含まれている。彼の行動に多少の疑問はあるが、現段階に於いて危険度は低い。
「……頼んでいないわよ?」
「あちらのお客様からです」
 アサシンの不機嫌な言葉にひるむことなくウェイターはテーブルを一つ挟んだ男性客を指してみる。ちらりと視線だけでその男性客を見てみるも、当然見知らぬ男性である。照れているのか、新聞紙で顔を隠しこちらと視線を合わせようとはしない。
 アサシンより後に入店したので多少注意していたが、こちらを注視するようなことはしていなかったと記憶している。一体いつこちらを見初めたのか、それともそうした癖なのか、ナンパという知識は知っていたが、こうしたものなのだろうかとアサシンは嘆息してみるが――

 息を吐いた瞬間、空間に鋭い軌跡が描かれた。

「――っ!」
 その事実に最初に気付いたのはアサシンの脳ではなく肉体である。
 視界の外から喉元に迫る銀閃をアサシンの右手は咄嗟につかみ取った。掴んだ瞬間にそれが銀ナイフであるとよく解る。対魔仕様の呪詛が描かれているのか、触れると同時に手のひらが焼け付いた。
 ひやりとする感触がアサシンの全身を駆け巡るが、それで終わりというわけもない。
 個体同士の闘争においては、先制こそが最大の武器となる。それが凌がれた今、セオリーに則れば次なる有効手はそのまま畳みかけるか、撤退するかの二択となる。
 そしてまずいことに、アサシンはナイフをつかみ取る際完全に腰を落としてしまっている。これでは咄嗟に動くことができず、二の手三の手に対処はできても畳み込まれてしまえば遠くない将来王手をかけられることになる。
 脳内に響き渡る警鐘。早急な判断が必要なのが分かっているというのに、アサシンの身体は動こうとしない。咄嗟の攻撃に反応できても、咄嗟の選択を判断することができていない。
 覚悟すらもできないままに、アサシンはそのまま状況に流され――
「……何の真似かしら?」
 座したそのままに、襲撃者へ問いかけた。
 生前の彼女は業こそ体得したものの、上から危険視されたために暗殺者らしい仕事をした経験があまりない。咄嗟に対応できたのは彼女自身の天才性によるものであり、こうした命の危機を感じたことは実は初めてであるとも言える。
 その気があれば、アサシンなどとっくの昔に殺されている。こうして生きているということは、最初から襲撃者はアサシンを殺す気などなかったと言うこと。
 サーヴァント相手に随分と舐めたことをする。
「実戦経験に乏しいようだね、お嬢さん?」
 襲撃者から返された言葉にアサシンは何も言い返すことができない。
 それは事実であり、そんな基本的なことを隠すことすらできなかったアサシンに一体何が言えようか。
 ギシっと音を立てて襲撃者はアサシンの対面へと無造作に腰を下ろした。アサシンに握られた銀ナイフからアッサリと手を離し、武器の類を持っていないことをアピールしながら自然な動作で自ら持ってきたジュースを口にしてみせる。
 視線飛び交う店内でありながら、周囲からこれら一連の攻防は見られていない。こうした無音瞬殺の真似事ならアサシンも習得してはいるが、これほどスマートに実行できる自信はない。
 見知らぬ顔の見知らぬ男。一瞬前まで確かに彼は店のウェイターであった筈なのに、今はもうそんな人間はどこにもいない。
 ――変身。
 それは言葉で聞くよりも簡単なものではない。
 顔面整形、声帯手術、体格改造、骨格矯正――変身と呼ばれる技術は多々あるが、その程度ではまだ変装程度の技術でしかない。外見だけでなく、内面すらも偽り周囲に溶け込む。アサシンと同時代に生きたハサンもこうした業を持っていたが、これはそれを超えている。
 そんな人物が、ただの人間である筈がなかった。
「サーヴァント――」
「いかにも」
 そんなわけがない、と苦々しく呟くアサシンに対し男は紳士然とした態度で肯定してみせる。
 確認しなければ、アサシンは襲撃者をサーヴァントと認識することができないのだ。サーヴァントは互いにサーヴァントであることを認識できるのがこの聖杯戦争の常識であった筈だ。そしてそんな隠蔽能力を持つサーヴァントが何人も居るわけがない。
 アサシンは確信する。この襲撃者は、宮本武蔵が戦ったあのサーヴァンに違いなかった。
 バーサーカーのサーヴァント、殺人鬼ジャック・ザ・リッパーの変身能力がいかに凄まじいものか、聖杯戦争に関わる者なら理解することができるだろう。
 狼の皮を被った羊という言葉があるが、バーサーカーがやっていることはその逆である。それがどれだけ戦略に幅を与えるのか、知略に疎いアサシンでも容易に想像がつく。例え戦闘能力が弱くとも、存在しているだけで警戒に値するサーヴァントである。例え死んだとしても、安心することなどできはしない。
 しかし幸いなことに、アサシンは唯一このサーヴァントに対してはアドバンテージを有している。
「あなたのことは少しだけだけど耳に入れているわ、バーサーカー?」
「……うちのマスターはお喋りでいけないな。しかしその名は止めておいて欲しい。私のことはジャックと呼んでくれ」
「ジャック……ねぇ?」
 バーサーカーの言葉にアサシンは意味深に繰り返す。
 バーサーカーが自らのクラス名を隠す理由は多々あるが、理性あるバーサーカーというのはただそれだけで大きなメリットだ。キャスターがバーサーカーをライダーと誤解したように、序盤において然程メリットはないが、中盤以降については正体不明のサーヴァントとして俄然その意味を増してくる。
 クラス名を知ってるアサシンにそうした意味はさほどない、それどころか真名を推測される危険が大きいが、それならそれなりの布石にもなり得る。
 今更ではあるが、バーサーカーは自らの特性を認識しつつある。周囲の情報を操作し誘導し、偽装する。伊達にスコットランドヤードの捜査の手から逃げたわけではないということだ。
「それで? 一体何の要件かしら?」
「何、少し君と話し合いがしたくてね」
「話し、合い?」
 白々しく話すバーサーカーにアサシンは苦笑いを隠せない。最初の用件は、最初から決まっている。
「それで、うちのマスターはどうした?」
「殺したわ」
 次いで訪ねるバーサーカーの言葉にアサシンは衒いもせずに即答した。
 アサシンとフラットは魔力パスだけとはいえ契約を完了している。そして、今現在そのパスから魔力はまったく供給されていない。同じマスターから魔力供給を受けている筈なのだから、その点についてはバーサーカーも気付いている筈だ。
「ふむ。ちゃんと呼吸は停止させたかね?」
「……?」
 バーサーカーの言い方にアサシンは違和感を覚える。
 呼吸の停止を確認したのなら意味は分かるが、停止させたとなると絞殺したか、という意味になる。
「ちゃんと首を斬ったかな? 心臓も潰しておいただろうな? 魔術師は脳をちゃんと破壊しておかないと蘇ることもある。
 ――それで、君は一体フラットをどう殺したのかね?」
「苦しまぬよう、処理したわ。跡形もなく、ね」
 やけに言及してくるバーサーカーに、アサシンは虚言を弄することなくありのままを答えた。
 構想神殿――あれに入れば、何人も外に出ることはできないと聞いている。そして中に入れば待っているのは緩慢なる死。誰も抵抗できぬままゆっくりと魔力を吸われ、枯死していくことになる。
 運が良ければまだ生きている可能性はあるだろう。しかし、バーサーカーとアサシン、両方の魔力を供給し、フラットの魔力はあの時点ですでに危険域に入っていた筈。とてもではないが、今も生きている可能性はない。
「また随分と手抜きではないかね?」
「謝罪でも要求するのかしら?」
「手ぬるいと言っている」
 瞬間、アサシンは立ち上がろうとして――失敗した。
 周囲からは椅子に座り直したようにしか見えなかったろう。対面に座るバーサーカーは片手で肘を突き、片手で自らのジュースを飲んでいる。意表を突かれたのは確かだが、この程度の挑発で、アサシンは警戒レベルを最大にまで高めてしまった。
「……一体何を」
「手品の種を教える手品師はおらんよ」
 視線だけでアサシンは足元を確認するが、汚れた床があるだけでそこには何もない。だが確かに、立ち上がろうとしたアサシンの足を掴んだ何かがあった筈だ。
 変身能力で足を腕にでも変えてアサシンの足を引っ張ったのなら分かる。だが、あの感覚はもっと別の何かだった。
 まるで霧のようだとアサシンは思う。
「先にも告げたが、君には圧倒的な経験が足りていないな。単純な能力値だけなら君と私では話にならないというのに、君を殺すことは実に容易い」
 既に二度、バーサーカーはアサシンと真っ向から殺すチャンスを見逃している。アサシンは気付いていないだろうが、バーサーカーがアサシンをただ殺すだけならすでに十回以上殺せている。
 彼女がキャスターと接触する前に出会えたことにバーサーカーは感謝していた。アサシンの経験不足では手玉にとられるばかりで話にならない。バーサーカーが唯一アサシンに勝っているラック判定には大いに感謝するべきである。
「まあ、そのおかげで私のマスターは助かったわけだが」
「助かった……?」
「フラットは生きてるよ。直接会ってはないが、間違いないだろう」
 なまじ信じがたいバーサーカーの言葉ではあるが、証拠とばかりに渡された携帯電話を覗き見れば、フラットが綴ったと思しき文面がある。
『ちょっと困ってる子がいるから助けてくるね(^^)/ 困ったことがあったら呼びに来て! すぐ駆けつけるから!』
 黙って携帯を返却するアサシンにバーサーカーは無言で受け取った。
 誰かがフラットを騙っている可能性は確かにある。だが、「駆けつける」のに「呼びに来て」というセンスはフラットをよく知らねばできることではあるまい。
「実に、彼らしい文面ね」
 本当に短い時間しか接触していなかったが、アサシンもこれでフラットの生存を確信した。本来の構想神殿の術者でないアサシンでは、この業のどこに欠点があり不具合があるのか全てを把握できていない。超一流の魔術師であるフラットであれば、脱出する可能性は大いにあった。
「私としてもフラットを助けたいのは山々だが、いかんせんどこかの結界内にまた閉じ込められているのか居場所が判然としなくてね。仕方なく、私は私で動くことにしたわけだ」
「私にマスターの居所を吐かせるつもりではなかったの?」
「それはこのメールを見たときから考えていなかったよ。私が最初にしたかったのは君という存在の査定だ。フラットを確実に殺さなかった君がフラットの居場所を知っているとも思えなかったからね。
 それに――私の目的は君たちとの接触にある」
 君たち、とバーサーカーはアサシンに言った。
 誤魔化すのは、さすがに無理であろう。あっさりとアサシンを見つけたことといい、少しの会話で性格を見抜かれたことといい、恐らくアサシンが持つ交渉のためのカードの殆どは露見している。
「君が浚った東洋人については殺そうとしていないようだね」
「アレには利用価値があるわ」
「今、どこにいる?」
「別行動中。時間が来たら合流予定よ」
「なら結構」
 アサシンの答えに満足したようにバーサーカーは懐から黒いスカーフを取り出す。しかし一目見ればその異常性は明らかだ。
 長い年月を経たスカーフだというのに見た目は新品同然。織り込まれた黒色は臨月の女性の髪によるものだ。それに加えて染み込まれた血文字は聖人が直々に綴ったもの。こんなおどろおどろしいものを身につけることができるのなら、それは既に人の域の者ではない。
「中東の遺跡から発見された近年珍しい宝具級の魔術礼装らしい」
 元々はキャスターが昇華のための材料として用意したものだが、あまりの禍々しさと使い勝手の悪さが乗じて放置してあったのをバーサーカーがもらい受けたのである。もちろんこのままでは誰も使用できないが、バーサーカーにはこの宝具を使える者に心当たりがあった。
 つまり、このアサシンだ。
「何のつもり?」
「現状のままでは君は遠からず補足され消滅する。多少の重圧はあるだろうが、防御にも優れ、隠蔽効果もある。これがあれば、実体化していてもしばらくは安全だ」
 君に消滅されると困る、と笑うバーサーカーの手を払いのけられればどれだけ簡単だろうか。すでに二度殺されかけた身としてそれはできない。
「私に、一体何をしろと?」
「現状で東洋人と君が一緒にいてくれたのならそれでいい。願わくば、守ってあげて欲しい」
「それに何の意味が?」
「まだ分からないが、いずれ鍵にはなるだろう」
 それだけ言って、カランと氷だけになったカップを置いてバーサーカーは席を立つ。
「ジャック。あなたは何がしたいんですか」
「目的は恐らく君と一緒だ。最終目的は違うがね」
 そう言って立ち去ろうとするバーサーカーをアサシンは視線だけで追いかける。
「ああ、そういえば一つだけ」
 トレンチコートの刑事の如く、案の定バーサーカーは振り返ってアサシンに懐から出した写真を見せる。
「この男を、知ってるか?」
 手にしたのはバーサーカーがスカーフと共にキャスターから貰ってきた一枚の写真。
 あの武蔵の起こした戦場でキャスターがバーサーカーと共にサーヴァントと睨んだもう一人の目つきの悪い男。
 バーサーカーには心当たりはない。キャスター曰く、この男は身体に《イブン=ガズイの粉末》を付着させているらしかった。と言うことは、あの場の近くに居た可能性が高い。あの場に潜んでいたアサシンなら、何か知っている可能性はある。
 写真を受け取ったアサシンは眼を細めて男の容貌を眺め見る。
「……ジェスター・カルトゥーレ。私のマスターだった男よ」
「ほう?」
 九割方知らないだろうと踏んでいただけに、アサシンの解答はバーサーカーの予想外のものだった。駄目で元々。よしんば名前まで聞けるなど思いもしなかった。しかも、これは予想の斜め上の解答だ。
「ジェスターはこんな顔や体格ではないぞ?」
 キャスターの元から抜き出した情報には一通り目を通している。
 マスターの可能性が高く魔術師としても超一流、現在消息不明で危険度はレベル3。本来ならレベル5でもおかしくない人物だが、事前調査で既に殺されている可能性が高いことから要注意の範囲に留まっていた男だ。
「殺したのは間違いないわ。あなたが注意した通り、心臓を握りつぶしてね」
「そこから復活した、と?」
「あなたと出会ったあの場で武蔵に倒された男から私に魔力が供給されていた。そして今現在もどこからか私に魔力の供給が成されている」
 コップの縁をなぞりながらアサシンは周囲を軽く見渡してみる。契約が不完全だったせいで一体どこにマスターがいるのかアサシンにはさっぱり分からない。しかし、例えわずかであろうと確かに流れ込む魔力はジェスターが生存している証である。
「死ねば復活する能力や魔術は珍しくはあるが、不可能ではない。良い情報を得ることができた。礼を言おう」
「……結局、あなたは何をしに来たのかしら?」
 再度、先ほどと同じ問いかけをアサシンは口にした。アサシンとしては、てっきり同盟か何かをもちかけられると睨んでいたが、結局そういう話にはなっていない。
 最後のジェスターに関しては別だが、それ以外は一方的な施しだ。忠告程度の意味合いであろうが、具体的にアサシンに何かをさせようということもない。それでいて、バーサーカーは目的を達成している。
「……君の聖杯戦争の目的は?」
「この聖杯戦争を破壊することよ」
 即答するアサシンの返答に、バーサーカーもニヤリと口元を歪ませて即答してみせた。
「私の今の目的は、この聖杯戦争を暴くことだよ」
 紙幣を二枚、テーブルの上に置いてバーサーカーはアサシンを振り返ることなく店を立ち去っていく。その姿は事件を追う刑事を連想させるが、狂気に溢れた復讐鬼にも見えなくもない。
 手にしたスカーフを眺め見る。長年使用してきたようなしっくりとした感触が否応にもこの宝具がアサシンを主人に選んだことを分からせた。作りからして同郷のものであり、そういう意味でも使用に抵抗はない。
 バーサーカーはこれをアサシンに使って欲しがっている。効果からして正体の露見を恐れているのだろう。宮本武蔵がアサシンと誤認されていることからも、それはアサシンとしても望むべきことだ。
 しかし、それならバーサーカーはこの宝具を渡すよりもアサシンを殺すべきではなかったか。露見する心配もなく、勝利にまた一歩近付くことができる――
「いや、違う。ジャックは“暴く”と言った」
 アサシンは安易に“破壊”と答えたが、その直接的な手段としてサーヴァントやマスターの排除を行っているわけではない。対峙するべきは聖杯システムそのものであり、従来のルールと照らし合わせ、その全てを排除し整理していけばそれが間接的に破壊に繋がると漠然と考えていただけだ。
 アサシンは歯噛みをする。
 だとすると、バーサーカーの目的はそのことに気付かせること。
 そもそもバーサーカーはアサシンが手に持つこのスカーフさえ、「らしい」という伝聞で伝えていた。あの顔写真だってあのアングルは明らかに監視カメラのもの。バーサーカー個人で手に入れたものとは考えにくい。それに、バーサーカーはマスターであるフラットとはまだ合流できていない。
 バーサーカーは既に何者かと協力関係にある。それも恐らく警察内部にいるサーヴァントとだ。だというのにその協力関係をアサシンに広げないのは、それなりの事情があるか、そもそも眼鏡に適わなかったか。
 最初からバーサーカーは接触が目的だとも言っていた。とすれば、これはバーサーカーからのテストとみるのが妥当だろう。
 無闇に突進するなら討ち取るまで。あくまで己に固執し周囲を窺うなら利用するまで。狡猾に潜み機を窺うくらいでなければ、協力関係として成り立たない。
「舐められたものね」
 わずかな怒気は抑えられぬものの、こうも失態を演じ、去った後から事実に気がつけばそれはもう間抜けとしか言いいようがない。そこに言いわけをしては恥の上塗りだ。狂信者といえどそうした分別はある。
「分かったわジャック。私も、あなたの手のひらで踊ってあげる」
 手にした宝具を首に巻き、特に急ぐでもなく、暇そうにレジの前に立つ店員の横をすり抜けて会計をすることもなく店の外へと出て行った。これで最低限宝具が機能していることは実証された。魔術師相手にどれほど通じるかは疑問だが、街中から外に出るくらいなら何の問題もあるまい。
 しかし、アサシンはついぞ最後の真実には気付くことはなかった。
 客の不在に数分後に気付いた店員は慌てたことだろう。
 なにせ、机の上に置いた紙幣では、料金として不足だったからである。
 まさか提供したキャスター、受け渡したバーサーカーも、食い逃げなどに宝具が使われたなどとは思うまい。


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 ティーネ・チェルクは辱めを受けた。
 その恥辱に、下着を身に着ける手がわずかに震えた。
 族長としてそう遠くない将来、夫を迎え子を孕むであろうとは予想していたが、こうも早く男の手によってこの肌を露わにされようなどとは思っていなかった。男に身体を見られるのは親族を始めとして決してなくはないが、その手で触られたことは紛れもなく初めてである。
 先の行為を思い返せば臓腑が熱くなる。身体の中を隅々まで調べ尽くされるのは恥辱の限りであり、そしてその魔の手は次の少女へと手を伸ばしている。
 まだ年若い、聞くところによるとまだ十歳の少女。拘束から解放されたティーネであれば彼女をあの魔の手から助け出すことも可能なのだろうが、疲れ切ったその身体は鉛のように動かない。
 傍らにいた銀狼がティーネを慮ったのか、擦り寄ってきてその顔を舐めてくる。その行為に多少は癒やされるが、畜生とはいえ他のマスターに心配されたことに自己嫌悪すら覚える。
 しばらくして、元凶が扉を開けて中へと入ってきた。どうやら、椿ももう終りつつあるらしい。
 今ここで魔術を使えれば、と何度思ったことだろうか。そう思うたびに魔術を行使しこの男を消し炭へと変えようとしているのだが、既に何度となく繰り返し試してもその効果が現れることがない。
 自分が殺されかけていることに気付いているのかいないのか、フラットはのんきな言葉でティーネに声を掛けてきた。
「あれ? まだここにいたの? 椿ちゃん終わりそうだよ?」
「屈辱です……」
 いろいろと言いたいことを全て呑み込んで出た言葉はどちらかと言えば自分に向けてのものだった。
 のろのろとフラットの後について隣の薄暗い検査室の中へと入る。光を出しているのは壁にあるモニターとガラス越しに見える隣室の光だ。
「君の身体からは異常は見つからなかったよ。体内の毒素はほとんど中和されたようだね。あと、もう少し牛乳は飲んだ方がいいよ?」
「最後の一言は一体何に対する助言ですか?」
 笑うフラットにもはや嫌悪しか覚えぬティーネではあるが、現状この場で最も頼りになるのは残念ながらこの男なのも事実だった。
 二人がいるのはスノーフィールド中央病院、その集中検査室である。そんなところでフラットが何をしたかというと、各人の健康診断である。
 ここが普段ティーネが見ているスノーフィールドでないことは明かである。それはフラットも同意見であり、ならばどうしてこの世界に入り込んだのかということをまずは解き明かす必要があった。そのトリガーの解明こそが、この健康診断の目的である。
 フラットは極度の魔力不足、ティーネはヒュドラの毒、銀狼には銃創が見つけられた。現在それらは全て回復状況にあるのを確認しているが、これらの衰弱状態が原因なのはもはや確定的だった。
 他に取り込まれた者たちと違って自我を保っているのは魔術師としての防衛本能か、令呪の加護か、それとも他に何か条件があるのか、解き明かすにはもっと詳細なデータが必要となるだろう。
 診察室のモニターに映し出されたのは、そうした検査によって撮られた人体の断面図とそれらを繋ぎ合わせて3Dで再構成された臓器各種。MRIによるものとのことだが、MRIを根本的に知らぬティーネがフラットに聞けば「核磁気共鳴断層撮影装置だよ!」と感嘆符付きで言われ尚更分からなくなった。原理をなにやら言っていたような気もするが、それは最初から聞いていない。
 とはいえ、これによってティーネは文字通り頭の先から足のつま先まで全てをフラットに覗き込まれたことになる。
 ちなみに、以前フラットはモーションを掛けてきた女性に「君が添い寝してくれたらぐっすり眠れそうだね」と答え、共にベッドに入りながら朝まで本気でぐっすり寝た男である。ティーネには悪いが、その身体に性的な興味は欠片も抱いていない。
「しかし魔術師としてはなかなかに興味深いね。魔術刻印も君にはないし、魔術回路も凄く特殊だ」
 この画像の一体どこから魔術回路を読み取ったのか、食い入るようにティーネの身体(正確には各種臓器)を隅々まで覗き込むフラットにティーネはどん引きである。これならモニターの隅で全体像として全裸を晒している3Dモデルに鼻息荒くして貰った方が健全であろう。
 それはともかく、フラットがティーネの身体に興味を抱くのも無理はない。ティーネの魔術回路は酷く極端で、馬鹿みたいに魔力を必要とするのに、燃料となる魔力の生成能力があまりに低すぎる。アメ車みたいだねと評されたが、それにどう答えろというのか。
「私たち一族はこの地に縛られた者です。魔力は自ら生み出すものではなく、スノーフィールドから得ていくもの。だからこそ、我々はこの地を大切に敬っているのです」
「うん、まあそれは分かっているけどねぇ」
 大源たるマナと小源たるオドによる魔術行使は質と量からもはや別種であるとも言える。ティーネはスノーフィールドのマナを扱い魔術を行使するが、自ら生成するオドによる魔術行使はほとんどできないのだろう。
 しかし、実を言えばこれは興味とは別に重要な事実を示唆している。
 それはつまり、ここがスノーフィードであって、スノーフィールドでない、ということを意味している。
 場所的に言えば、確かにここはスノーフィールド中心部、スノーフィールド中央病院である。そこは疑いようのない事実だというのに、ティーネの魔術は作用していない。ここはスノーフィールドではない、とティーネの魔術回路は判断しているのだ。実にシンプルな判断方法である。
 もっとも、原因はハッキリしている。
 現在MRIで検査を受けている椿の周囲には、黒い影であるライダーが漂っている。原因はライダー、ではなく、椿も含めた両方にある。
 時系列を整理すればそれは明らかだ。
 1年ほど前に椿がこの空間に閉じ込められる。カルテから椿が意識不明になった時期とも一致している。
 そして数週間前にライダーを召喚。聖杯戦争開始時期とも重なる。恐らく最も初期に召喚されたのだろう。
 数日前から他人がこの地に呼び込まれ始め、一昨日にフラット、昨日はティーネ、そして今日には銀狼が呼び込まれた、ということになる。もちろんその間にもどんどん人は増えている。
「だとすると、この空間を作ったのは椿、他人を取り込んだのはライダーと考えるのが妥当ですね」
「攻略すべきはライダーってことかな?」
 その質問の答えは既に両者の内にある。結論は同じであることを二人は視線を交わして再確認した。
 マスターたる二人にはサーヴァントであるライダーのステータスを読み取ることができる。意識の有無に拘わらず眼に入ってくるのだから仕方がないが、そのステータスはハッキリ言って極めてバランスが悪く、大いに判断に困る内容となっている。
 魔力がA++。幸運がD。あとは宝具を含めて残らず測定不能というアンバランスさ。しかも狂化されているわけでもないのにマスターである椿のごく単純かつ簡単な命令しか聞きはしない。
 ついでにいうと、敵である筈のフラットやティーネたちマスターを脅威として認識すらしていない。試しに小石を投げても素通りするだけで無反応だし、フラットの血を媒介に極小規模の魔術的罠に椿の協力のもとライダーをひっかけても黒い影が多少分散するだけですぐに元通り。形も不定形なら大きさも不安定。先ほどの罠を参考にティーネが試算してみると、あの罠の約八〇倍の威力でようやく全体を吹き飛ばすことが可能であるが、それによって消滅する可能性は皆無であろう。むしろ平然と元通りになるオチが簡単に予測できる。
 無論、元の世界に戻して欲しいとライダーにも願い出たし、椿に依頼して命令もしてもらったが、ライダーは理解できないかのように揺らめくだけで何の反応も返さなかった。だが、仮にそれで元の世界に帰ったとしても、ライダーに因らないこの世界の主たる椿はここに残されたままだ。フラットとしてはそれは絶対に解決しておきたい問題である。
「まだ椿ちゃんの頭を切開した方が確率があるけどねぇ」
「さすがにライダーが黙ってはいないでしょう」
 検査結果を見る限り、椿の脳に何かがあるのは確かだ。カルテには新種の細菌の可能性とあると書かれているが、フラットの見立てではかなり緻密な魔術回路に違いない。今現在も活発に活動していることからもその説は濃厚だろう。
「それで、どうします?」
「んー、どうするって言われてもなぁ……ティーネちゃんの意見は?」
「それを私に聞きますか」
 無神経とも言えるフラットの言葉に確かな嫌悪感を覚える。フラットがこういうキャラであることは出遭って数分で理解したが、なんとも魔術師らしからぬ現状認識能力である。
 今のティーネに魔術は使えない。そもそもティーネたち原住民はその由来から魔術を感覚的にしか扱ってこず、知識や成果を集積することはない。つまるところ、この魔術的現象に対して何の貢献もできないのである。
 ここにアーチャー・英雄王ギルガメッシュのマスターであり、強力な魔術を軽々と行使し、数千人の一族を率いる族長などどこにもいない。ここにいるのは、無力な十二歳の少女が一人いるだけだ。
 唯一の希望たる令呪は今も少女の手に存在するが、貴重な令呪を何が起こるか分からぬこの空間で安易に使うわけにもいくまい。
 手近な凶器で他の全マスターを殺すことも考えてもみたが、魔術師として圧倒的上位にいるフラット、ライダーという守り手のいる椿、そして純粋に生物として敵いそうもない銀狼、真っ当にぶつからなくても到底敵いそうもない。
 普段ぼけっとしているフラットでさえ、出会い頭に奇襲で襲いかかったというのに逆に気絶させられて捕まってしまう始末だ。
「手がかりがあるとすれば、彼女の家でしょう」
「基本だね。けど、たしかジャックによればもう消滅しちゃったって話だったよ?」
 フラットが語るジャックとはサーヴァントのことだろうかと脳内にメモしながら、フラットの話を否定する。
「ここは彼女が作り出した空間です。となれば、この空間にあるのは一年前のスノーフィールド。手がかりは残っている筈です」
 すでにこの空間の異常性は十二分に理解しているが、真に恐るべきは作り出した本人でさえ理解・把握していない箇所すらもこの空間は現実に即して補っていることである。
 本人が普段使っていたとしても意識していない階段の数。本人の知らない部屋の中身。仕組みさえ理解していないのに実際に使える高度な医療器具。例を挙げて行けば枚挙に暇がないが、重要なのはその例の中には椿本人へ行われた処置に関する資料も含まれていることである。
「決まりだね。調べれば住所も分かるだろうし」
「その心配には及びません。この地の魔術師の居場所はすでに把握しています」
 外来の魔術師こそ全て把握はできないが、この地に長年留まるような魔術師については既に調査済みだし記憶もしている。特に霊脈を抑える程の家ともなれば、要注意人物としてティーネの耳には優先事項として入ってくる。
 と、結論が出てきたところで、検査室から検査着を脱ぎながら椿が診察室へと入ってくる。ショーツ一枚の実に開放的な姿である。長らく人と会っていなかったせいか、羞恥心などはないらしい。
「椿、男の人の前でそのような姿になってはいけません」
 将来に期待だねーと娘を見守る父親のような笑顔から椿の姿をティーネは隠す。無力な少女と彼女は自虐的に言っていたが、彼女の保護者としての役割はあるようである。まずは彼女にブラジャーを身につけさせようとティーネは思った。


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 その戦闘の報告は事態が収束してわずか数分の後にまとめられていた。
 戦闘直前における詳細はほぼ不明。ただし、現場に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が配置についた段階で既に二体のサーヴァントが戦闘の最中にあり、そして決着がつく直前であった。
 場所は東部湖沼地帯。両サーヴァントの実力は拮抗しており、決着のきっかけは湖沼地帯ならではの泥濘である。足を取られた一方がもう一方の一撃を捌ききれずその身を貫かれ、我が身を囮として足を取られた方も一撃を喰らわせる。
 両者ともほぼ相打ち。ただ、急所を抉られたサーヴァントは崩れ光となったのに比べ、もう一方は膝を付くのに留まっていた。
 この絶好の機会を、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は逃すことはなかった。
 都合良く両者の決闘は湖沼地帯の真ん中。この時点で草木に隠れるように隊員八名がツーマンセルで周囲を包囲していた。宝具の展開も完了し、あとはゴーサインを残すのみであった。
 遠方観測で周辺状況のクリーニングが確認され、かなりの余裕を持ってゴーサインは出された。
 この時使用されたのは英霊にも効くとされるバチカン直輸入の法儀礼済み水銀弾頭。用意された火器はM240機関銃。毎分900発近く発射される秒速900メートルの7.62ミリ弾が全方向から負傷したサーヴァントへ何の意外性もなく、ただ漫然と襲いかかる。
 耐えたのは、1秒か2秒か。3秒を超える頃には既に原型はなく、5秒を超えたときには標的が何かすら分からない。事前に決められた合図によって射撃を止めたときには、既にサーヴァントだったものが粒子となって消えていく瞬間だった。
 レベル2宝具の実戦証明。これ以上ない結果に終わったが、報告結果はそんなものを意に介することのできない事実を浮き彫りに晒していた。
 戦っていた二体のサーヴァントの正体はクラスすら結局分からずじまい。だが反応からしてサーヴァントであることは間違いなく、そこに疑う余地はない。
 が、
「これではサーヴァントの数が合わないではないか……!」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部、中央に位置する署長の叫びを聞き逃した者はこの場には誰一人としていなかった。
 サーヴァント戦直後なだけにある程度の情報共有は必須である。会議というわけではないが、どういった顛末があり、どういった報告があったのかは自然と耳を傾けるようになっている。そして、その署長の言葉には全ての作業を中断してでも傾聴する必要があるとこの場にいた全員が判断した。
「あの場にいたサーヴァントはアーチャー、ランサー、キャスターのいずれでもありません。そして、我々が確認している正体不明のサーヴァントとも一致しません」
 現場指揮官、そして戦域指揮官からの報告にも今なお信じられぬとばかりに署長は提出された資料を何度も捲りながら確認する。
「残るクラスはライダーのみ……だとしてもこれでは英霊が七体になる……!」
 この偽りの聖杯戦争において、七体目のサーヴァントは致命的だ。存在してしまった段階で計画は根底から覆る可能性すらある。
 この聖杯戦争で召喚されるサーヴァントは六体だけ。本来の七体よりも減らすことでイレギュラーを減らし、サーヴァントや令呪のシステムの安定を図る。
 そういう計画であった筈なのだ。
「……いや、違うな」
 最悪の事態を想定し、手を打とうと考えるが、その考えを改める。
 署長の手にある令呪の輝きは今もって健在だ。キャスターとの繋がりは今も感じるし、急に魔力を過剰供給することもない。少なくとも今すぐに暴走する危険性はない。
 見かけの上では、システムそのものに問題はない。署長達が知らなかっただけで、サーヴァントは既に規定数を超えていたのだから、異常が発覚するとしたらもっと以前からでなければ理屈としておかしなことになる。
 話が違うと“上”に掛け合うのも手だが、子供じゃあるまいし、盤上の駒が何を言おうと取り合う筈がない。むしろ、“上”はその事実を知っていて放置していたと考えた方が打倒だ。
 念のために、と受話器を外し、外線ボタンを押す。スピーカーから聞こえてきたのは、すでに何度か聞き覚えのあるデジタル秘匿回線の電子リレーのノイズ音だった。
『どーしたってんだ。こちとら忙しいんだが』
 挨拶もなしに乱暴な言葉で応対するのはもちろん署長のサーヴァントである。背後で流れる頭の痛くなるようなジャパニメーションのバックミュージックは我慢する。それでもこちらの予想以上の早さで電話に出たことは評価に値した。ものすごくくだらないところではあるが。
「お前の身体に変わった様子はあるか」
『ん? なんでお前が知っているんだ?』
「何かあるんだな?」
『最近ちょっと尿の切れが……ああ、いや、待て。冗談だ。てか一体なんの連絡だ?』
 受話器越しに署長の怒気を感じ取ったか、慌ててキャスターがテレビのボリュームも落として取り繕う。そこは停止か電源を切れよと言いたいが暖簾に腕押し、糠に釘、キャスターに説教である。無駄な時間をわざわざ費やす必要はない。
 既にキャスターのサーヴァントとしての役割はほとんど終わっており、昇華作業よりも既存の宝具のメンテナンス作業を優先させている。もし何らかの異常がキャスターに起こっているのだとしたら、その作業を見直す必要が出てくる。
「一応、無理をさせていないかの確認だ。先ほど例の宝具を実戦に投入してみた。余裕があれば確認を頼む」
『あの宝具をか? 余裕があっても確認作業だけでどれくらいかかると思ってやがる?』
「簡単でいい。制作者として確認作業だけしてくれ。後で資料は送っておく」
 強引に話を終わらせると、返事を待たずにそのまま受話器を置いて待機状態の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》全員を見渡す。今の会話はありのままこの場にいる全員に聞こえている。
「キャスターの様子におかしな点はない。が、奴に渡す資料には七体目のサーヴァントについては上手く伏せておけ。システムはA-01から再チェック、情報部は過去の資料を総浚いしろ」
 了解しましたと、各々作業を開始すべくある者は机につき、ある者は会議室へと向かい、ある者は受話器を片手に作業を開始する。しかし、的確とはいえ署長の指示内容はあまりに簡潔で、そして作業は膨大だ。
「確か、予備部隊と手空きの人間が十数人はいたな? 警邏に回している人間もこちらに回せ。全て、だ」
 フェイズ5に入った以上、警邏活動の優先順位はかなり高くなっている。部隊を迅速に展開することを重視しているためだ。それを割くということはそうしたメリットを犠牲にするということだが、そうしたリスクを承知の上でも早急に手を打っておく必要がある。
「分かりました、上級隊員を四名、下級隊員を七名大至急呼び戻します」
「……待て。七名だと?」
 隣で指示を出す秘書官が確認のための報告を読み上げるのを、署長は遮った。
「私の記憶では十一名の筈だが、何があった」
 単純に署長の記憶違いとも考えられるが、そんなわけがない。四名の欠員を署長は把握していない。ひったくるように秘書官から資料を奪い取ると、確かに四名の欠員がそこに記されている。
 理由は――病欠。
「申しわけありません。医師の診断もあり、魔術を使っての治癒も薦められなかったため私が受理いたしました」
 秘書官の言葉に署長は黙る。
 処置として、これは何の問題もない。上級隊員ならともかく下級隊員の欠員までいちいち確認してはトップとして忙しすぎる。秘書官の行動もなんら権限違反しているわけでもない。
「……この四人の名前には見覚えがあるな。確か何らかの任務を言い渡していた記憶がある」
「はい。繰丘夫妻の調査を担当しておりました。書類は以前に提出しております」
「その資料は見ている。が、担当した者全員が病気というのは偶然か?」
「儀式場を構築したのが病院ですし、今市内では風邪が流行っているようです。珍しいことではないかと思われますが」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》としても病院への患者数は魔力吸収等の事件の可能性から注視している。確かに現在病院への患者数は急激に右肩上がりではあるが、ギリギリではあるが予測の範囲内であり、また状況からしてサーヴァントが介入しているにしては遠大過ぎることから、これを放置していた。資料としても作成しているが、重要度が低く、署長が見ていない可能性はかなり高い。
「事前の健康診断でのワクチン接種は義務だった筈だが」
「全員クリアしています。免疫機能の低下、と症状にありますからハードワークであった可能性も否定しきれません」
 秘書官の言い分はもっともではあるが、この状況でこれは偶然か疑わしく思えるのも確か。自らが疑心暗鬼に陥っているのを自覚しながらも……無視することはできなかった。
「呼び戻す下級隊員には全員市内の電気・病院・交通・経済、あらゆることを調べさせろ。軽微な変化も見逃すな」
「既に市役所を通して実施していますが?」
「役人に任せるな。足で実際に稼げ、と伝えておけ」
 この聖杯戦争で一番忙しくなると想定される瞬間にそうした命令は異常とも言えたが、どうにも署長はその不安を払拭しきれない。
 一気に噴出してくる課題に胃だけでなく頭も痛くなってくる。それでいて、これから更に頭の痛くなることをしなくてはならない……。
「署長、どちらへ?」
「ことがことだ。これから“上”へ直接出向いて報告に行ってくる」
 上着を羽織り、出かける準備をしながら署長は自然と口が重たくなるのを感じていた。
 現状出された報告書は簡易版ではあるが、詳細が煮詰まってから動き出したのでは遅すぎる。そして今後の対策を考え動くためにはやっかいなことに腰の重い“上”を説得しなければならない。
 なるべくなら“上”の中でも全体を俯瞰できる幹部クラスの人間に会いたいところだが、それは無理だろう。署長が会うことができるのはせいぜいが中間管理職程度。目先の利益に飛びつかずにはいられない無能共である。
 例の宝具に2ポイント使用分を上乗せするのでも相当ごねた連中だ。それをようやく呑ませた直後だというのに、それ以上の要望を結果も出していないこの状況で陳情するのだ。
 フェイズ5の判断を署長は間違っているとは思わない。だが計画の根幹が揺るいだ以上、彼等は責任転嫁をするべく署長の判断ミスとして責め、幹部連中に自らが有利となるよう報告することだろう。
 既に計画の微調整で事が済むとは思えない。これが発覚すれば確実に横槍が入ってくる。しかも、その横槍は幹部連中が糸を引いている可能性がある。
 このシナリオが“上”の想定通りである可能性が一番怖い。その場合、署長は何もできずにその席を退くことになる。後に残った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がどうなるか、想像に難くない。
 机の中から忘れぬようビンごと胃薬をカバンの中に突っ込んだ。念のため胃の中にも突っ込んでおく。
「では私も同行させて――すみません、少々お待ちください」
 共に動こうとする秘書官の手が耳のインカムへと動く。秘書官を通しての急な外線……秘書官の視線と動きから誰からかかってきたものか想像はつく。居留守――を使っても無駄だろう。出かけた後であれば多少は時間稼ぎができたかもしれないが。
「署長、二番外線に」
「分かった」
 秘書官の言葉を最後まで聞くことなく受話器を取る。胃薬を先に飲んでおいて良かったなとこの場で唯一の救いに感謝する。
「代わりま――」
『初めましてだな。署長?』
 覚悟して声を出した署長を遮ってきたのは、予想していた人物ではなかった。確かに秘書官から具体的な名前を聞いてはいないが、あの様子は間違いなく“上”からのもの。回線を確認しても、連絡してきたのは間違いなく“上”の一人。幹部連中とのパイプ役として虎の威を借ることに夢中である小物である。
 しかし、この声には聞き覚えがなかった。
「……どちら様かな?」
 ペンで手近な紙に『逆探』と殴り書きして指示を出す。直前に電話を受け取っていた秘書官は一瞬不思議そうな顔をするが、すぐさま電話の逆探知を部下に指示し実行する。
 電話の逆探知に時間がかかったのは大昔の話である。全ての回線がデジタルで管理された現在、即座に探知することが可能だ。元が秘匿回線なだけに処理が複雑になってはいるが、逆探知は即座に完了した。しかし、発信先はやはり変わらない。
『落ち着いてるじゃないか。ああ、大丈夫。君が心配している人間には簡単な暗示をかけただけだ。色々と喋ってもらったが殺しちゃいないし傷つけてもいない』
 今後の生活には多少支障が出るかも知れないがね、とからかうように嘯くが、それを相手にしてはいられない。
「何者かと聞いているのだが?」
 自然と受話器を握る手に力が篭もる。捜査員をすぐさま派遣することも可能だが、恐らくこの相手はそれも織り込み済み。何分で到着するか測ることでこちらの網の目を推測することだろう。
 通常の工作員などであればそこから騙し合いへと突入していくのだろうが、相手は恐らく一級の魔術師。いかにこちらがそうした手合いに長けていようとも、逆に返り討ちになる可能性は非常に高い。
 近場に二名、一〇分以内に現場に急行可能です、と殴り書きにしては丁寧な字で秘書官がメモ用紙を差し出してくる。ならば顔だけでも押さえることは可能であろう。現場ではなく近場のビルで監視、間に合わないだろうが、対サーヴァント部隊も現場に急行させるよう指示を出す。
『私の名前などどうでもいいではないか。まずは話し合いをしよう』
「話し合いだと?」
『そろそろこの聖杯戦争にイレギュラーが交じっていることに気付いたのではないかね?』
「……何のことだ?」
 我ながら下手だなと思いながらも話を長引かせるべく署長はとぼけてみせる。しかし、いくらなんでもこの話題はタイミングが良すぎる。
『東部の検問は少々ハデ過ぎじゃないのか? 何があったのかはバレバレだ』
「テロリストが潜伏しているという情報が入った。当然の措置だろう」
 対外的常套句を用いるが、これにしても情報が早い。
 検問は消滅した二体のサーヴァントのマスターを確保するために事前に敷いたものだ。元々期待していたものではないだけに、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》をそこに投入してはいない。しかし、マスターとしてはかなり動きづらくなった筈だ。今は捕まえずとも後で逃走ルートを割り出せば行動予測も立てやすい。
『一応言っておくと、湖畔の別荘近くに上半身のない焼死体がある』
「情報提供には感謝しよう。だがその程度で私に何をさせたいのかな?」
『“偽りの聖杯”、どこにある?』
 受話器の向こうでクハハハハと笑う声がした。
 リスク管理の観点から“上”の幹部以外に詳細情報は敢えて知らされていないことも多い。特に“偽りの聖杯”に関しては存在はともかくとして具体的な場所を知る者は少ない。そして、その全体像を知っている者も。
「知らんな。何の話だ?」
『土産話くらい渡すつもりだぞ? 例えば――七番目のサーヴァントとかなぁ』
 即答してみせはしたものの、提示された条件はこの聖杯戦争とは別個に署長が今最も欲する情報でもあった。後々の、この戦争終了時に処理されないための、情報。
 だからといって、おいそれと喋っていい内容ではない。
「知らないと言っている」
『では私が勝手に話すことにしよう。詳細はそちらで確認でもなんでもしてくれ』
 会話のペースを完全に相手に握られている。
 向こうとしては署長が何を言おうとこの筋書きを最初から通すつもりだったのだろう。それを強制的に遮断するには受話器を置けば済むだけの話だが、それはリスクの高い行動だ。こうして連絡してきているということは、受話器越しのこの魔術師は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》、そして“上”についても詳細を掴んでいるに違いなかった。その情報を他勢力へ受け渡せば《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は一気に窮地に立たされるし、この戦争の根幹すらも今以上に揺らいでしまう。
『まず、君らが危惧しているであろう七番目のサーヴァントだが、安心したまえ。あれは君たちの用意した“偽りの聖杯”によるものではない。霊脈に多大な負荷をかけることだろうが、大した問題になることはあるまいよ』
「随分と詳しいじゃないか」
『ただの観察だ。特にヒュドラの召喚は致命的だったな。ひとつ尋ねるが、君はあのヒュドラが簡単に人間の召喚に応じる存在だと思うか? そもそも英霊というカテゴリにすら入らぬ化け物だぞ?』
「否定はしないが、事実としてヒュドラは召喚されている。そもそも我々の及ばぬところでイレギュラーが発生することは珍しいことではない」
 これは事実。実際、署長の経歴はどちらかというとイレギュラーな事態に対しての功績が大きい。“上”にしても、そうした経験を重視して配置したのは明白だ。
『なら、もうひとつ尋ねようじゃないか。署長、君はあのヒュドラがコントロールの利く英霊だと思うかね?』
「それは――」
 おそらくは、無理だろう。
 あの巨体にあの魔力、獰猛な性格に撒き散らされる毒。制御しなければならぬ点は多いというのに人としてのコミュニケーションは不可能。残った手段は令呪だが、一体どんな命令をすればコントロールできるのか皆目見当もつかない。よしんばコントロールできたとしても、たった三画の令呪では到底足りはしないだろう。
『故に、だ。あのヒュドラはそもそもコントロールを受け付けるシステムを実装していないことになる』
「馬鹿な。それでは一体何のための召喚だ」
 相手の言葉を一笑する。コントロールできなかったが故に失敗したのが冬木の第一次聖杯戦争であり、そのために用意されたのが令呪のシステムだ。元より英霊という高位の存在を召喚するのだから、召喚者の目的に沿った行動をとってもらわないと根本的に召喚する意味がない。
『もっと分かり易く言おうか。この聖杯戦争で召喚された六体のサーヴァント以外は、全員コントロール不可能な英霊だ。この“偽りの聖杯”戦争を荒らすために用意された盤上外の駒なのさ』
「外部からの妨害工作とでもいいたいのか?」
 実際に教会と協会に喧嘩を売っている以上、そうした手勢は少なくない。だが、もし英霊を別枠として召喚できる手段があるとするならば、こんな回りくどいやり方などしない筈だ。
 聖杯戦争としての規模は冬木のオリジナルに劣るが、極論、街一つ潰す理由にはなり得る。ヒュドラクラスの化け物を数体街に放置するだけでスノーフィールドは壊滅することになるだろう。
『外部かどうかは定かではないがね。少なくとも、ヒュドラを召喚した当事者にそうした意図や危機感はなかっただろうよ。背後で操っているのが誰かは分からないが、目的は“妨害”ではなく“横取り”というところだろう』
 声の質に嘲笑う影がある。まるで見当違いなことをしている黒幕を滑稽だと腹を抱えて笑っている。
 対して署長は笑えない。電話の主の言うことは恐らく間違いない。ヒュドラの情報を切って捨てた署長に対して、子細に観察し出された結論は至極納得いくものだ。そしてそれだけにこの人物が持ち得る情報はあまりに危険すぎる。
「貴様、どこまで知っている?」
『このシステムについてはおおよそ予測できているつもりだ。ただ、それを影で操る人間がいるとなると、全容がどうにも掴めなくてなぁ』
 実にあっさりとした告白ではあるが、署長の顔色は見る間に青く変わっていく。詐欺師の詐欺を暴かれたレベルではない。策士の策が敵に筒抜けになっているようなものだ。
 咄嗟に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》で秘匿しているシステムの裏コマンドや報告していない宝具、イレギュラーな事態に対するマニュアルなどを思い浮かべる。反乱を企てられていると思われても仕方のない裏切り行為であるが、今ここで必要なのは“上”に知られていない保険の数々だ。
「では、貴様は全サーヴァントを把握しているということか」
『ひっかけるにしたってもっとマシな手を考えな。そもそも、サーヴァントを把握する必要があるのはお前たちだけだろう? 互いに戦い合う必要なんてどこにもないのになぁ?』
 署長のかまかけにもひっかからない。相手の手の内をさらけ出させただけ十分だが、今の手札で交渉するにはあまりに危険が大きすぎる。
『まあいい。そろそろ君の手駒も来る頃合い……おっと。これはしまったな。この距離で抵抗できないとは思わなかったんだ』
 隣で秘書官が派遣された隊員がシグナルロストしたことを報告した。必死に応答を求めるが、機械は正直だ。状況から通信機だけが破壊されただけとも思えない。
『すぐに手当をすれば何とかなるかもしれんな』
「お前は一体何がしたい!?」
『最初に言っただろう? “偽りの聖杯”はどこにあるのか、と。他にもやりたいことは沢山あって私としても困っているが、……』
 署長の怒声に優雅にすら答える声に沈黙が交じる。ここに来て、はじめて声の主は沈思している。
『署長に悪いようにするつもりはない。ちょっと“上”に黙ってもらうくらいのことはするがね』
「それで恩を売っているつもりか」
『まさか。しかしこれで三日間は君の自由にできるのではないかな?』
 期限付きの自由。
 確かにあらゆる宝具を扱う《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》においても余りに強力であるために“上”の幹部クラスにまで許可を必要とする宝具は存在する。そこには現場の意向を無視した政治的思惑もあり、“上”にとって《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の命は想像以上に軽いことを意味していた。
 その楔を、三日間とはいえこの男は解き放つという。
『“上”が機能を取り戻してからは私の知ったことではないが、それまでに決着を付ければ問題はあるまい?』
 先のランサー戦を思い起こす。あの戦いをきっかけに勝率は大きく下がったため仕方なく署長はフェイズ5への移行を断行した。これ以上のフェイズ移行は署長の権限にないためできないが、“上”が機能不全に陥ればフェイズ6で使用可能となるレベル3の特殊宝具の開帳すら無理矢理ではあるが可能となるだろう。
 逆に言えば、これで成果を出さねば“上”は即刻署長を――《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》そのものを処断することとなる。
 ハイリスク・ハイリターン。いや、傍観というローリスク・ノーリターンという手もないこともない。だが後者をとるような人間ならば、最初から聖杯戦争に参加するわけもない。
『また改めて連絡をしようじゃないか。何、今すぐに返事は期待しておらんよ。確認するぐらいの余裕は与えようじゃないか、署長』
 署長の言葉を欠片も待つこともなく、通話は終了する。暗躍する何者かは、どうあっても署長に動いてもらいたいらしい。
 ここで署長があらゆる制限を外し自由に動けば、この戦争での勝利は間違いない。その代わり、この聖杯戦争のシステムが外部に露見する可能性は極めて高くなる。三日間という制約が積極攻勢を選ばざるを得ないからだ。
「いかが……いたしますか?」
 さすがの万能秘書官も事態の困惑を隠せない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の中には“上”からの監視として入っている者もいるが、この部屋の中にそうした間者は排除してある。つまり、相手の口車に乗るのも、ありのままをそのまま報告することもできる。
 時間はあまりない。それでなくとも忙しいのだ。これ以上時間をかけることはできない。
「……まずは裏をとる。現場に部隊はもうすぐ到着するな?」
「あと一分です。それと倒された下級隊員もかけつけた他の隊員により心肺蘇生措置がとられています」
 本来であれば心肺蘇生よりも先に任務を優先させるところだが、一人で行わせても碌な結果にはなるまい。秘書官の判断は至極真っ当だ。
「スノーホワイトの使用率を既定値から五ポイントだけ上げて周辺クリーニングを開始。足取りを追えるようなら追尾し潜伏先を特定しろ」
「五ポイント……ですか。周辺クリーニングでしたら二ポイントの底上げで十分かと思いますが」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にはその性質上この宝具の優先使用権が認められている。とはいえ、既定値を超えた分に関しては厳密な報告義務があり、同時に見返りにあった成果も求められる。署長が魔術師として表に出ず穴熊にならざるを得ない理由の一つがこの下らぬ報告書の作成のためである。
「虎穴に入らずんば、だよ。これなら言いわけとしてギリギリ通る範囲だ。これで“上”の反応を見る。ついでに余剰ポイントでシステムの洗い出しをしてくれ。これでキャスターにチェックさせる時間の短縮もできる筈だ」
「了解しました」
「私はこれから他の“上”の様子を見てくる」
 先の一件から元より個別に乗り込むつもりであったが、交渉ではなく暗示の類を確認するだけであれば二、三人会っただけでは意味がない。面倒ではあるが、これから“上”の数人と連続して訪問しなくてはならない。場合によっては、このスノーフィールドを一時的とはいえ離れる必要もある。
「しばしお待ちを。私も共に参ります」
「必要ない。私の留守の間は君が指揮を執れ」
 現状での指揮権は実を言えば副官である“上”の息のかかった者に委譲されるのだが、それをすると署長の行動は筒抜けになってしまう。秘書官が共に動くとなると有事の際に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は群体としての機能を失うことになる。
「オフェンスとして護衛班が数人いればいい。私の宝具ならディフェンスは必要ないだろう」
「ここで手の内を明かすような真似はして頂きたくありませんが」
 苦言を呈し少しでも考えを改めてもらおうと秘書官が動くが、それを是とする署長ではない。
 無理にでも共に行動したいところだが、指揮権を委譲されたとなるとさすがに秘書官としても無闇に動くわけにもいくまい。次善策として代理として秘書官が出向くことも検討するが、それでは組織としての在り方が分からなくなる。
「……地下に車を用意させました」
「では、行ってくる」
 深々と礼をして見送る秘書官を後ろに署長は本拠地としているビルを後にする。
 この聖杯戦争始まって最初の外出である。様子を見るとは言ったが、おそらくは既に数人は暗示にかかっていることだろう。問題は暗示にかかっていない“上”の連中だが、その時は腹をくくるしかあるまい。秘書官のサポートなしであの連中を相手取るのは骨だが、なんとかなるだろう。
 ともあれこれで事態はまた一つ動くこととなる。このスノーフィールドにいる“上”は一人、確実に減った。いずれは仕掛けようと考えてはいたが、手間が一つ省けたことになる。
 署長が乗ったドイツ製の大型車両は当然ながら特注品。防弾なのは無論のこと、防音としても完璧である。運転席とも仕切られているこの後部座席は完全に署長のプライベート空間だった。
 戦争開始以前から常に誰かと居たためにゆっくりと休めなかったが、今この場だけは別である。ここでは何を言っても許される。
「これで……書類仕事ともおさらばだな」
 その後の交渉の成果を思えば、署長の言葉はまごう事なき本心だった。


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04

 その違和感にランサーがハッキリと確信したのはこの場に立ち初めて三日目の朝だった。
 西部森林地帯にある見晴らしの良い丘は、朝陽を浴びるスノーフィールドの街並みを遠くながらも眺め見ることのできる場所である。見張るには丁度いいポジションであるが、同時にこの場で立っていれば遠くからでも目立つ場所でもある。
 それだけにランサーは自らを囮に敵の出方を常に窺っていた。相性が良かったのか最高位の気配感知スキルはその能力を森林地帯全域でいかんなく発揮し、遠くに見えるスノーフィールド市街の一端まで感じ取ることができる。
 そして違和感を感じ取ったのはそのスノーフィールドの街の気配。丸々二日間は瞬き一つせず眺め見ていたこともあってか、その違和感はこの時になってハッキリとしたものとなっていた。
 最初は人の気配が減っているのだと勘違いしていた。しかしそれは大いなる誤解だ。感知できないことで減ったと勘違いしていたが、これは減ったのではなく、気配を感じ取れないまでに人の命が弱まっている。
 一人二人といった人数ではない。おそらくは数万単位で気配が弱まっている。原因こそ分からないが、どこかのサーヴァントが吸精を行っている可能性もある。そうなるとこれだけの魔力、ランサーといえど決して馬鹿にできた量でもない。
 街に出かけ調査するのは簡単だ。だがランサーの能力は他者を圧倒するものの、街中での調査に慣れているわけもなく、またマスターたる銀狼を放置して街中に繰り出すわけにもいかない。状況は気になるものの、現状を考えればこうして座して見守るより他はない。
 現状はすでに長期戦の構えをとっている。敵の手の内を晒させるためにわざとこうして身を晒してはいるが、感じ取れるのは遠方からの視線だけ。偵察かあるいは挑発か、二キロ程度まで何者かがこっそりと近付いたこともあるが、そのラインを踏み越えることはない。
 持久戦はこちらの望むところだが、銀狼がいるのでそうそう付き合い続ける訳にもいくまい。マスターの傷も既にかなり癒えている頃合い。あと一日待ってそれで何も釣れないようなら改めて考える必要もあるかもしれない。
 と。
 ランサーの肩に留まっていた小鳥が四方に慌てたように飛び去った。
 小鳥が気付けたのだ。ランサーだってその存在に気付いていない筈がなかった。何のことはない街の方から大鷲が旋回しながらこちらへと向かってくる。こうした猛禽は逆にランサーのような存在を嫌う傾向にあるが、そうしたことには意に介さないはぐれ者らしい。長時間指一本、瞼一つ閉じずにいたのだ。もしかしたら死骸と判断したのかもしれなかった。
 結局ランサーの視界から逸れることなく、大鷲は近場の大木の枝を掴みランサーを睨み付ける。ここまでくれば、ランサーもその大鷲の異常にも気付くというもの。
「あなたが、ランサーのサーヴァント、エルキドゥ殿かな?」
 大鷲の口から漏れたのは間違いなく人の言葉。そして微かに漏れる魔力の波動。使い魔の一種かとも思ったが、それにしては感じが異なる。
「反応しなくて結構。あなたの口元は確実に見られている。余計なことを喋って情報を与えることもない」
 大鷲のランサーへの配慮に敵対心は感じられない。だが大鷲の心配は無用である。
「心配ご無用です。私の身体は泥ですからね。声など身体のどこからでも出せますよ」
 視線すら動かさず、端からは大鷲など眼中にないという風体でありながらランサーは器用に大鷲と会話して見せた。
「こうも監視されているとお互い会釈も難しい。礼を失した行為を許しください。確かに私はランサーのサーヴァント、エンキドゥと申します。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「これは失礼を。私のことはジャック、とお呼びください」
 クラス名ではなく、敢えて名前を言うところにひっかかりを覚える。どの陣営にも属さぬ魔術師かとも思うが、その割りにはエルキドゥの真名や遠くからの定点観測のカメラ位置にも詳しい。
 少なくとも親友の陣営でないらしいことで少なからず落胆する。
「それで、ジャックさんは何用で来られたのですか? 脅すようで申しわけありませんが、場合によっては私はあなたをこの場で斬らねばならなくなります」
「いやはや、話し合いができるとは思わず、一方的に話しかけるつもりだったのですが、これは僥倖」
 バーサーカーの言葉が一度句切られ、大鷲の顔がニヤリと笑う。
「“お願い”というやつをしたいと思って参った次第です、ランサー」
「お願い、ですか」
 なんだ、と内心では嘆息する。別段交渉事に長けているわけではないが、無理難題をふっかけられることには慣れている。それでいて、今現在ランサーはこの場を動くつもりはない。ランサーにできることは現時点では何もないのだ。
「僕にできることは限られていますが、内容を伺いましょうか」
「私からのお願いは二点です」
 大鷲は鳥ながら器用に姿勢を正す。
「まず一点目は、これ以上争いをしないで欲しい、ということです」
「これまたずいぶんなお願いですね」
 思った以上の無理難題にさすがのランサーも無反応ではいられない。自然と漏れ出た言葉に、疑問を接がねば判断もできない。
「それは、聖杯戦争で争うな、ということですか?」
「そうとってもらって構いませんな」
 ランサーの拡大解釈にバーサーカーは首肯する。それだけ大きなことを口にするのだから、その説明責任は当然あるだろう。ランサーの無言の催促にバーサーカーはコホンと一息入れる。
「この“偽りの聖杯戦争”は現在イレギュラーな事態に陥っているのを御存知で?」
「さて。多少いざこざはありましたが何とも言えませんね。具体的に言ってくださると助かるのですが?」
 心当たりだけならなくもないが、何者かも分からぬ者に無駄にヒントを与える必要はあるまい。
「そうですな。具体的には、規定数以上のサーヴァントが数度に亘って召喚され街のいたるところで激突している模様です。正規参加者以外の何者かがこの戦争に介入しているのは明か」
「それら全てのサーヴァントを蹴散らせば良いのではありませんか?」
 バーサーカーの物言いにランサーは軽く返してみせる。
 自分で言うのも何だが、ランサーはかなり高位のサーヴァントである。これに匹敵するサーヴァントと言えば親友か、もしくは神に近しい英霊だけだろう。どんなサーヴァントが何人来ようとも、自分が負ける姿を想像などできはしなかった。
「無論、その通り。ですが、このイレギュラーな事態によってこの戦争には裏があることが確認されましてな」
「裏、ですか」
 新たな新事実。信じる信じないは別にして、うさんくさいことには違いない。
「それで、その裏とは何ですか?」
「それは……不明のままですな」
 大鷲の首が項垂れる。申しわけないというアクションにも取れるが、目を逸らし真実を隠しているという風にも取れる。
「私が気付いたきっかけは極々単純な疑問。この“偽りの聖杯戦争”とは、“偽りの聖杯”の戦争なのか、それとも偽りである“聖杯戦争”のどちらなのか」
「それは意味のある問いかけなのですか?」
 こうして実際に召喚され、そして戦争についてのルールを得たサーヴァントとしてその事実は変わりない。ここで禅問答をする意味などいくらもない。
「前者であるならば我々を召喚したのは聖杯ではない、ということになる。後者であるなら、元となった冬木の聖杯戦争の形だけを真似た紛い物、与えられたルールには人為的な意図があると考えられる」
「前者ならば勝利しても聖杯は手に入らず、後者ならば我々を裏で操る何者かがいる、と?」
 ならば我々はどうやって召喚されてどうして戦っているのか、そうしたことをあえて問いただすようなことはしない。
 ゲーム盤の駒であるのに違いはない。背後で誰が蠢こうと己の道を進むのみ。ランサーの目的がそんな事実で揺るぐことは有り得ない。
「少なくとも一人のマスターはその裏側と交渉している形跡がありましてな。いや、直截に言えば、その裏側が送り込んだ駒らしいのですが」
 バーサーカーの言い方からすると、後者の可能性はほぼ確実なのだろう。そして前者も真である可能性も高い。となると、バーサーカーはそもそもサーヴァントが何によって喚ばれたのか、何のために喚ばれたのか、その理由を探っていることになる。
「……興味深くはありますね。が、にわかには信じられませんし、あなた自身も確証を得ていないようだ」
 ランサーの言っていることももっともだ。全ては状況証拠であるし、ランサーにとってはバーサーカーが怪しい存在であることも確か。
「それに、僕には既に敵と定めた者がいる。あなたに何を言われようと、その者をおいそれと見過ごすわけにはいかない」
 ランサーが敵と定めた偽りの宝具を持つ集団。アーチャーは無論のこと、親友たるランサーも彼らを簡単に見逃してはプライドに拘わる。
 だがバーサーカーとしても、そうした事態は織り込み済みだった。
「ですから、それらを補うために情報を提供しましょう」
「大盤振る舞いではないですか」
「それだけ私も本気だと言うことですよ」
 そういって大鷲は少しばかり後方を見やる。ランサーが感じる視線もそちらにあるが、おそらく大鷲の動きは枝葉に隠れて視界に入っていない。
「今、監視している集団の名は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。キャスターを擁する陣営です」
「僕も一度は戦いましたからね。恐らく宝具を作る能力を持ったサーヴァントなのでしょう?」
 それが許せない、とその声には我知らず怒気があった。そんなランサーの質問にバーサーカーは敢えて答えない。
「マスターの居場所は分かりませんが、スノーフィールドの警察署長と聞いています。キャスター本人の戦闘能力は低くまた好戦的でもない。ランサー、あなたが倒すべきは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》であり、サーヴァントではないと考えるが、どうだろう?」
「……まるで、サーヴァントは倒すな、と聞こえますね」
「先ほどの戦わないで欲しい、というお願いは撤回しましょう。代わりに、サーヴァントを倒さないでいただきたい」
 わずかに変わったお願いのニュアンスにランサーは触れはしない。
「そのお願いの範囲にマスターを含めなくていいのですか?」
 サーヴァントを倒さなくともマスターを倒せばほどなくサーヴァントは消滅する。いかにルールが怪しいと言っても、パスが繋がっている以上それは確実だ。
「そこまでは面倒見切れませんな。各自で対応をお願いするとしよう。とはいえ、無抵抗の者を無闇に殺して欲しくはありません。降伏勧告くらいはして戴きたい」
「降りかかる火の粉は払いますよ?」
「それで結構」
 大鷲の顔では微笑んだかどうかわからないが、どうやら本人としては満足したようだとランサーは判断した。
 だがやっかいなのはこれが一点目だということ。最初に高いハードルを掲げ、譲歩したところで二つ目の要求を呑ませるのは常套手段だ。
 だが無視するわけにもいかない。ならば、この大鷲から切り出されるよりかはマシと考えランサーは先手を取る。
「それで、二点目の“お願い”とは何ですか?」
「しかるべき時が来たら、我々と同盟を結んでください」
「……それは、また判断に困る内容ですね」
 案の定……いや、それ以上の内容に辟易する。
 一点目の不戦の約束。あれは一方的にランサーが他陣営に攻撃を仕掛けないというだけの意味ではない。少なくともバーサーカーが組みし交渉を行った勢力は逆にランサーへ攻撃を仕掛けないということにもなる。
 随分曖昧で実効性に疑問の残る口約束ではあるが、ランサーにとっては決して損にはならぬ有利な内容である。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とランサーをぶつけさせようという意図が見えなくもないが、このまま闇雲に長期戦をするよりもよっぽどマシな選択肢である。
 だが二点目についてはそうした損益の考慮は無駄である。
 常に流れつつある趨勢を見定めて互いの距離を測りながら行うのが同盟だ。ましてや今現在の趨勢すら分からぬのにいつの時点かも分からぬ将来同盟を結ぶというのもおかしな話。
 しかも同盟を組むのは“我々”らしい。真っ当に考えれば、この同盟に乗る者が他にいるとは思えない。
「それは、先に言っていたこの戦争の裏側と対決するためですか?」
「………」
 やや呆れながらもした質問にバーサーカーは答えない。答えられる答えがないのか、それとも答えあぐねているのか。大鷲の顔ではその顔色もよくわからない。
「最終的には、六騎のサーヴァント全員で同盟を組みたいと考えているのですよ」
 それこそ聖杯に願うしかないような大願である。
 だが逆に言えば、六騎そろわねば敵わぬ敵がいるとバーサーカーは睨んでいるということになる。一点目の要望は二点目に対する予防策というわけだ。一騎でも欠ければ、六騎のサーヴァント同盟は成立し得ない。
 しかし、極論ではあるがギルガメッシュとエルキドゥの二人だけでも十二分に強力強大すぎる力を有している。それこそ、ギルガメッシュ単体でも真祖を相手取ることができるし、二人が組めば世界を滅ぼすことも夢物語ではないだろう。
 それを、あろうことか六騎全員を集めるとバーサーカーは語った。子供が語る将来の夢の方が、まだ現実味があり、そして可愛げもある。
 親友ならば鼻で笑って相手にすまい。もしくは道化と詰り、笑い転げたところで殺すか褒美をくれてやるに違いない。そんな真似はできないなぁとランサーは親友の性格を羨んだ。
「その時になったら、考えましょう」
 実に無難な解答でお茶を濁す。いやしかし、それ以外どう言えばいいというのだろうか。
 だがそんな役所的解答であっても当のバーサーカーは満足のようである。
「感謝しようランサー。その言葉を忘れぬことを切に願おう」
 そしてバーサーカーは枝から飛び降り、滑空してランサーの傍を通り過ぎると、風に乗って上空で旋回する。視界の隅を横切る大鷲を確認するが、まだここから離れる気配ではない。
「最後に、ひとつだけ情報だ!」
 高所故に叫ぶバーサーカーの声が辺りに響き渡る。集音マイクの類はない筈だが、随分危険なことをする。
 陽が昇り、大鷲の影がランサーの顔と重なる。
「呪いは、もうすぐ解ける! 時が来たら動くといい!」
 ランサーの瞳孔がわずかに開いたのを遠く監視していたカメラは確かに観測していた。しかしその理由は大鷲の影によるものだと観測主は判断した。そうした判断を怠慢などと指摘するには少々酷だ。
 遠く去って行く大鷲の背をランサーは眺め見る。
 ランサーには強制的に現界させる《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》の呪いと、位置情報を常に把握される《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》の二種類の呪いがかけられている。その内のどちらとバーサーカーは言わなかったが、相手の意表をつけるとすれば、それは後者だけだ。
 今のところその呪いに変化はない。が、発動してから時間経過によって解除される呪いなど意味はない。と言うことはこの宝具の制作者は最初から宝具に小細工していたということになる。
「……大きな借りを作ってしまいましたね……」
 時が来れば、バーサーカーの言葉の真偽は判明することだろう。その時にこのバーサーカーの“お願い”は非常に大きな強制力を持つことになる。一方的な施しは英霊に対する侮辱でしかない。
 相手の思い通りになるのは癪ではあるが、考慮しておく必要はある。
 どこか遠くで雷音が響いた。湿気はまだ然程でもないが、ランサーは近く雨が降る気配をはっきりと感じ取った。
 嵐が、来る。


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 繰丘邸は魔術城塞である。
 別にこれは大袈裟に表現したものではない。繰丘邸はれっきとした城であり、広大な敷地内にも砦とも称すべき建物が二重三重に築かれている。ただこの規模の建築群でありながら、ここに当時暮らしていたのは繰丘一家だけ。これだけ広大になると、暮らすにはあまりに不便である。
 人の動線を無視した建築設計。工房と住居は分厚い壁で隔離され、壁材もただのコンクリートかと思いきや触れればそれと分かる対魔障壁が神経質に張り巡らされている。その結界一つみても頑丈かつ入念な手入れ。それが全部で五層。聖杯戦争が始まる一年前でこの堅強さは些か以上に異常だろう。平時からこれでは明らかにコストが高すぎて見合っていない。
 と、繰丘邸に入るまでは疑問で仕方なかったが、それもこうして入ってしまえば思わず手を打ち納得する答えである。
「なるほど! 細菌研究をしてるなら当然の処置だね!」
 素人であれば一体何かもわからぬ機材群を一目で見て取りフラットは一目で答えを得た。フラットの後ろからついてきたティーネにはせいぜい顕微鏡ぐらいしか判別つくものはないが、見る者が見ればわかる施設らしい。
「ほら、扉を開けると冷蔵庫を開けるみたいな空気の抵抗があったでしょ?」
「ええ、まぁ」
 曖昧に応えるティーネではあるが、確かに扉の向こうに吸い込まれるような妙な感覚はあった。
「つまり、ここの気圧が外より低いってことだよね。だから中の空気が外に出られないんだ。ここは典型的な細菌研究所ってことさ!」
「はぁ」
 興味がないことをアピールするべく曖昧な返事をするが、子供よりも子供らしくはしゃぐ青年はそのことに気付くこともない。
 よくよく天井を見ればスプリンクラーと似てはいるがそれとは異なるガスを送り込むような装置も確認できる。後ろのドアも三重で間にはエアシャワーがあった。ここが敵地だったかと思うと気分は収容所のガス室に近いものがある。
「けどここには資料はないっぽいなぁ……奥の部屋が資料室かな?」
 この短時間によくもそこまで調べられたと感心するほどフラットはテキパキとプロの泥棒よろしく効率よく資料を漁っていた。資料をパラパラと捲り始めて五分も経っていないが、資料内容の傾向から目的のものはないと判断したらしい。
 この部屋の奥には明らかに重要機密と思しきドアがある。先ほど調べた別棟は異様に清浄な手術室と検査室があっただけでそれらしい部屋はなかった。ここにあるドアは実験室用の重厚さと違って薄くはあるが床の開閉痕から使用頻度が高いと分かる。
 ティーネがドアノブを回してみるもやはりちっとも動かない。
 つまりはそう、フラットでなければ開かない扉である。
「今度も認証コードですか」
 ドアの脇に備え付けられているテンキーの電源が入り、わずかに光がともる。ここに部屋の本来の持ち主しか知らない数字の羅列を入力しなければこのドアが開かれることはない。指紋や虹彩認証でないのは実験に手袋やゴーグルが必要だからだろうか。
 ティーネの言葉に個人的な興味で眺め見ている資料から目を離すこともなく、フラットはテンキーに指を走らせる。よくある四桁の番号を入力すれば開く、というものではない。それであれば非効率ではあるが時間を掛けて総当たりすれば開閉させることは可能だろう。
「……これ数回くらい入力しないと駄目っぽいね」
 一度入力するとパネルに「NEXT」と表示される。その事実に時間を掛けて総当たりという選択肢は不可能と同じ意味のものとなった。仮に三回入力するとなると単純計算で一万パターンの三乗で一兆パターンあることになる。これはもう力任せに扉を壊した方が早いだろう。ただしその場合中の資料も焼却処理されるパターンもある。迂闊には手を出せない。
 しかもこの部屋は使用者と管理者が同一人物だ。これが別人ならアプローチの方法に幅も出るというものだが、それもこれでは難しい。
「仕方ないなぁ」
 資料をテーブルの上に放り投げてからフラットはじっとテンキーを睨み付けながら数字を入力してみる。
 案の定試しに打ってみた数字ではブーという音と共にパネルには「ERROR」と表示された。
 ブー。
 ブー。
 ブー。
 ブー。
 ブー。
 ピー。
「……ピー?」
「あっ、開いた」
 パネルには「OPEN」の文字。トライし始めて一分も経っていない。
「……一体どんな魔法を使ったんですか?」
「え? 別に何もしてないよ?」
 こうしたことが二度三度と続けばもはや感心するよりも呆れもする。ティーネの言葉に何が不思議か分かっていないフラットは首をかしげるばかりである。
 この魔術要塞においてフラットは遺憾なくその天才性を発揮している。
 椿が同行しているとはいえ認証が自動解除された結界は三層まで。残り二層はフラットがものの数秒で解除して見せた。解除に失敗すれば相当なペナルティもあるというのに、実にあっさりと。同じ魔術を扱う者として同じことをしろと言われたらティーネとてできなくもないが、ああもあっさりと躊躇いなくできる自信はない。
 それどころか、このフラットの異常なまでの解析能力は魔術だけに及ばず、先のように電子機器すらも同様に突破してみせる。これはもう十分に魔法と呼ぶに値するものではなかろうか。
 ちなみに魔術工房に椿を連れて行くことは表向き危ないという理由から住居施設で椿と銀狼は大人しく休ませている。そして裏向きの理由はここで何をされたのか椿に感づかれないように、である。
 先の手術室の様子から、椿の両親は“丁寧”な処置を繰り返し椿にしていたことがうかがえる。この事実を告げるのは簡単だが、それを受け止めることは今の彼女にはできないだろう。
「うーん、やっぱり椿ちゃんの魔術回路はご両親の手によるものらしいね」
 扉の向こうはやはり資料室を兼ねた仕事場だったらしく、質素ではあるが使い古された机が置かれている。壁の棚にはご丁寧に「TSUBAKI」とラベリングされたファイルが十冊以上並べられていた。
 ティーネもフラット同様にその中の一冊を手に取る。記述言語は日本語なので内容自体はさっぱり分からないが、図や写真を追っていけばそれが一体何をしているのか想像はできる。これが一般的な成長記録であればどれだけ気が楽なことか。
 ティーネが横を見れば、さすがのフラットも眉を寄せながらも凄い勢いで資料を読んでいた。これ以上の内容はティーネには荷が重いし、二人いるのだから役割分担をするべきだろう。
 他に手がかりはないかと部屋の中を眺め見る。壁には恐らく魔術によって生み出されたと思しき異形の虫の標本が数点。そして細菌の写真も数点。ロッカーの中には私服と白衣の他に細菌用の防護服。机の中も開けてみるが、どれもよく分からぬ覚え書きのようで、本人以外には整理もできぬ代物。拳銃と実弾も見つけたがこれはそのままにしておく。机の上にあるパソコンはデスクトップではなくノート型。必要であれば後で持って帰ればいいだろう。
 そうすると残るは、壁に埋め込まれた明らかに怪しい金庫だけ。ためしに金庫に手を掛けてみるが、ダイヤルを合わせるだけでなく鍵も必要なタイプ。マジックにハイテクときて最後にアナログ。この繰丘という人物は実に徹底的である。
 さすがのフラットもこれにはどうにもならないだろうと思いきや、
「ちょっと借りるよ」
 この短時間に資料を全て読破したであろうフラットはティーネの髪からヘアピンを抜き取り、約十秒。カチリと音が鳴って金庫の扉はゆっくりと開いた。
「もう何でもありですね……」
 ヘアピン一つで解錠される金庫とは一体いつの時代の代物だったのだろうか。テレビで見る聴診器で音を聞いていた様子すらない。
「これは土地の権利書に、株、現金、魔術協会の特許登録証明書……あまり関係なさそうだね」
 金庫の奥から無造作に床にぶちまけると、一個人の財産としてはなかなかのものが現れる。だがこの世界においては何の価値もないし、目的とする椿に関する資料はこの傾向を見る限りなさそうである。
「そのようです……いえ、これは……」
 フラットが無闇に落としたせいで古いものが上に、新しく置いたものが一番下へと順番が逆になる。早々に見切りをつけていればこの存在に気付くことはなかっただろう。
「手紙……?」
 多くの重要な紙切れに封書が混じっているのを発見しティーネは手に取ってみた。消印からして今から十数年前。差出人の名前を見れば、ティーネの無表情な顔でも自然と険しくなった。
「知っている人?」
「市議の一人です。このスノーフィールドの大地主でもあります」
 そして、ティーネ達原住民の明確な敵の一人。
 切られた封から中身を出せば、それは誓約書だ。とある重大事業へのアドバイザーとして参入してもらいたい、といった内容である。他にも目を通せば秘密保持契約も同封してある。
 他にも探せば似たような封書があと二通。
 一人は確か州議会議員に名を連ねている大物だ。内容はどうということもない挨拶であるが、「例の件をよろしく頼む」という意味深なことが書かれている。
 そして最後の一通は――名前ではなく組織名が書かれていた。このスノーフィールドの近くにあり、怪しさでいうなればアメリカ最大級の組織の名前が。
「グレーム・レイク空軍基地――」
 声に出して読んでも現実感に乏しいのは何故だろうか。
 グレーム・レイク空軍基地、俗にエリア51と呼ばれるアメリカで最も有名な立ち入り禁止区域である。ロズウェル事件に関与しているとか宇宙人がいるとかそういったゴシップにことかかぬ色物基地である。
 内容は先と同じような重大事業へのアドバイザー。秘密保持契約も同様である。しかし同盟国とはいえ外人の、しかも魔術師をアドバイザーとするのは少々ピンポイント過ぎる。
 これら三通の手紙が別々の案件であるわけがない。
 空軍はともかく、他二人はこのスノーフィールドの開発推進派である。恐らく末端であろうが、政治的派閥を考えれば一体誰が糸を引いているのか推測することができる。そして手紙の時期を考え、その頃に行われた公共事業を考えると、怪しい建物も自然と思い浮かんでくる。
「フラット、椿の情報は掴めましたか?」
「どんな経緯でどうなったのかは把握したよ。解決策は思いついたけど、ハードルは高い、かな?」
「それはここでないとできないことですか?」
「鍵はライダーだ。ここである必要はないよ」
「わかりました。では、移動しましょう」
 一方的に宣言し、持ち出そうと思っていたノートパソコンもそのままに外へと出る。
 今後の趨勢を考えれば、一人で行動するべきだろう。一人で動き、調べ、確証を得るべきだ。この情報は他勢力に対して圧倒的なアドバンテージとなる。
 ティーネはそのまま足早に研究所の外へと出た。今すぐ建物の影に隠れれば、フラットをまけるだろう。あとはフラットに椿を任せれば、きっと何とかしてくれるに違いない。無力なティーネの助けが必要とも思えない。
 元来聡明である彼女の理性は実に簡単に答えを出す。だがメリットとデメリットの差は小さく、天秤は少し何かあるだけであっさりと逆の答えを導き出すことだろう。
「……ああ、もぅ!」
 恐らくここ数年叫んだことのない同世代の少女らしい叫びは、幸いにも誰の耳にも届いていない。
 もっとフラットが魔術師らしくあれば!
 もっと椿がライダーを扱っていれば!
 もっと銀狼が獰猛であったのなら!
 組みし難しと判断することもできたというのに!
「フラット! 椿! 銀狼! 街に戻りますよ!」
 居住施設に大声で叫べば、中からドタドタと動く音が聞こえてくる。後ろからもフラットがいくつかの資料を持って追いかけてくる。それらを待つことなく、ティーネは表に駐車してあった車の助手席に乗り込んだ。
「ティーネちゃん、どうしたの!?」
「お姉ちゃん! どこいくの!?」
「わうん」
 フラットと椿が車に乗り込みながら問いかけ、場の雰囲気を察して銀狼までもがおずおずと吠えてみせる。反応はないが、車の周囲にライダーも纏わり付いていた。
 だがそんなことは関係ない。すでにティーネの心は決まっていた。
「いいですか、我々は同盟です。仲間です。一心同体です。死なば諸共です」
「どーめい?」
「ええと、我ら三人と一匹は生まれし時は違えども、ってやつかな?」
「そうです」
 桃園の誓いをティーネは知らなかったが、勢いに任せてとりあえず頷いてみせる。フラットと椿が目を合わし首を傾げ、こころなし銀狼までも不安そうにしているが、そんなことは関係ない。
 そう、何度も言うが、関係ないのだ。
「フラット、あなたの目的は何ですか?」
「え?」
 唐突なティーネの質問に戸惑わずにはいられないが、それでもフラットはこの地に降り立った理由を忘れたわけではない。
「僕は、英霊と友達になりたくてこの地に来たんだよ」
 魔術師であれば正気を疑うような――というか信じることすらできぬ戯れ言を、しかしティーネは疑うことはなかった。
「分かりました。では、元の世界に戻ったら我が主であるアーチャーのサーヴァント、英雄王ギルガメッシュと会う機会を設けます。ついでに殺されぬよう配慮はしましょう。それでいいですか」
「え? ……ええぇぇっ!」
 驚くフラットではあるが、英霊の真名を聞いて驚いているわけではないだろう。フラットに異論はないと判断して、ティーネは次に椿へと向き直る。
「椿、あなたは何か望みがある?」
「え、え、え?」
 フラット以上に聖杯戦争が分からぬ椿のこと。勝ち残れば望みが叶うなどと言われても、そんな大それた望みを持ったことがない。そして即答できるだけの知力も判断能力も彼女にはない。
「では、ひとまずはこの世界からの脱出に手を貸します。望みについてはできる限り譲歩します」
「あ、はい。わかりました」
「銀狼、……は、別にいいですね。あなたの安全とあなたのサーヴァントにできる限り協調することにします。証人はそこの二人。構いませんね」
 ティーネの剣幕にこくこくと思わず首を縦に振る二人。内容は分かっていないが、何かしら言い聞かされているのが分かるのか、銀狼も大人しい。
「私は一人では戦えない。フラットはこのままではいずれ殺される。椿はこのままでは変われない。銀狼はいずれ狩られてしまう。
 利用しようではありませんか。何よりも自分自身のために、我々は力を合わせましょう」
 柄にもなく、車内の中心にティーネは利き手をさしのべる。この男にしては素早くことを察知してフラットはティーネの手の上に自らの手を乗せた。どうすればいいのか分かったのか椿もその上に手を乗せる。もはや一番空気の読める銀狼が最後に椿の手の上に前足を置いてきた。
「私たちはこの世界を脱出する! 私たちは生き残る! えい! えい!」
「おー!」「お、おー」「お?」「わふん」
 ややしまりとしては悪いが、音頭としては決して悪くなかった。
 警戒心のないフラットやまだ子供で世間知らずすぎる椿にとってティーネはすでに仲間であるが、それはちゃんと宣言をしておかなければならないことだ。
 殺し合いであることを、戦争であることを、意識していないと、ティーネはこの二人と一匹と今後付き合っていくことはできそうにない。
「それで、どこに行けばいいのかな?」
 エンジンをかけながらフラットは目的地を聞いてくる。他の二人と一匹では運転はできないので、必然的にドライバーはフラット、ナビゲーターは地形を熟知しているティーネだ。
「目的地は、スノーフィールド中心部、十四番地」
 すっ、と指先をスノーフィールドの中心へと指し示す。ここからだと遠いが、その印はなんとか目にすることができた。
「スノーフィールド中央病院、そこに、この戦争の手がかりがあります」


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「すまないが、もう一度言ってくれないかね、ロード・エルメロイⅡ世」
「何度でも報告させて頂きますよ。援軍が送れません。もう一度言います。我々の手の者はアメリカ大陸に上陸することができません」
 長い黒髪を伸ばし、いつにも増して不機嫌そうな時計塔の名物講師は必要以上の怒気を込めて重要であることを強調してその老人に報告した。
 召喚科学部長ロッコ・ベルフェバン。今回のスノーフィールドにおける偽りの聖杯戦争の事態収拾を任された彼は、自ら打った手が全く機能していないと告げられた。
 今座っている時計塔の椅子は彼自身の成功によって積み上げられたものだ。それが、こうも露骨に失敗したということは初めての事態だった。
「……何故だね?」
「当のスノーフィールドが原因です。連続したテロに空港が過剰反応した……ということになってます」
 指に挟んだ葉巻を口に咥えるが、怒りのせいか味が全く分からない。
「その程度で何故上陸できない?」
 仮にも、送り込んだのは一線級の魔術師だ。イレギュラーな事態をクールに対応し、土壇場にあってもさも当然のように逆転してみせる。常に考え相手の裏をかき、十全な用意を怠らず、実力以上の実力を持って目標を達成してみせる。
 そんな連中が、空港で足止め?
 一体これは何の冗談だ?
「もちろん彼等だって偽造パスポートも用意しているし、魔術を使わずその場を凌ぐ心得も持っていますよ。けれど、」
 葉巻の煙を部屋の中へと吐き出す。
「何故か送った魔術師の悉くが空港内で引っかかる。そしてその荷物一式全てが没収です。無理をして強行突破しようにも装備を調え乗り込む頃には事態が終わっている頃でしょう」
 そして装備を調えることも難しいに違いない。
 派遣した魔術師全員が全員とも空港から一歩も出られない。連絡はあの人数を送り込んだのにも関わらずわずかに二回だけ。彼らの実力でこれくらいしかできないというのも腑に落ちぬ話。
「米国国内の魔術師が絡んでいるのは間違いなさそうだの」
「場合によっては国の機関が絡んでいるのも考えた方が良いでしょう」
 ランガルをはじめとして歴史の浅い国と馬鹿にして侮る者も多いが、米国が世界最強の国である事実には違いない。面子が大事なお国柄である。スノーフィールドのことももしかして既に掴んでいるかもしれない。
 米国にはロサンゼルス支部、ニューヨーク支部を中心に派遣された数十名からの魔術師が事前に乗り込んでいるが、ほとんど初日に壊滅状態に陥り、大半が行方不明。何とか残った者も傷を負い、ろくに現状を確認できぬまま安全圏に退避したので状況は分からぬまま。
 各支部に残ったバックアップメンバーも陸路で移動しているが、スノーフィールドに直接乗り込ませるには戦力が不足している。彼らができるのは負傷した魔術師達の移送に徹することくらいだ。
 だからこその援軍だったのに、これでは何もできていないのと同じである。
「なら現地のフリーランスを」
「雇おうとしましたよ。けれどこの戦争で役立ちそうなめぼしい一線級の魔術師は皆仕事に忙しいと断ってきました」
 言葉を遮って結果を告げる。当初は依頼料をつり上げるための方便かとかなり思い切った交渉もしたが、連絡した魔術師が悉く忙しいと断り、子細を聞いてみれば事情は変わってくる。
「何者かが裏で別件の依頼をしています。しかも破格の報酬です。前金だけでも我々が用意した金額の三倍ですよ。どうにもなりません」
 金が基準のフリーランスだ。協会に恩を売るべく先に舞い込んだ依頼をキャンセルする可能性もこれでは低い。無理をすれば一人か二人は投入できそうだが、数を投入する必要があるのに連携も取れぬ少人数を送り込んでも意味はない。
「お主のことだ。金の流れは追っているのであろう?」
「しましたよ。まあかなり怪しく複雑ではありましたが、睨んだ通り追った先にスノーフィールドがありました」
 そしてまた一度煙を宙に吐く。
「スノーフィールドの財政は市の規模を考えれば極々一般的です。数年前まで誘致を推し進めていましたがリターンも少なくプール金の類も見当たらない。これはどこかに金のなる木があるのは間違いないでしょう」
 一応、そういった資料をベルフェバンの机の上に放り投げる。空港の税関で魔術師を抑える費用から多方面での妨害工作、先のフリーランスへの依頼料、そしてランガルを倒した部隊等の運営費用。門外漢ではあるがまかりなりにも部門長だ。内容を理解するだけの知識はある。
 一枚二枚と資料を斜め読みし、結論となる数字で数秒止まる。
「……私はもう引退した方が良いかね?」
「大丈夫です。私も四度、計算し直し数字の桁も確認しました。裏取りもしたので確実ですよ」
 目をこすって何度も桁数を確認するベルフェバンにエルメロイⅡ世はそれが事実だと断言する。
 資料には下手な国家予算すら遙かに超える金額が記されている。しかも、これが最低限。実際に動いている金は恐らくその数倍に及ぶことだろう。
 魔術というのは兎角金のかかるものだが、これだけの金額だと、大貴族三家合わせたって太刀打ちできるものではない。当然、これほどの金額が動けば普通市場も大きく動くことになる。
「市場に目立った動きはありません。敵はよほど上手く動いているようです」
 エルメロイⅡ世はこれを仕掛けた者を明確に“敵”と呼んだ。これ程金を広く浅く秘密裏にバラ撒かれたとなれば、それはもう明らかに敵対行為であろう。それでいていざとなれば言い訳ができるのだから質が悪い。
 乾いた笑いが部屋に響く。それはもう、経済的優位さにおいて圧倒的大敗していることにようやく気づけた自虐的笑いである。もう、笑うしかできることがない。他に何ができるというのか。
「……それで、今後を見越して既に動いているのだろう?」
 戦争が始まる前の情報戦で敗れ、開戦にもろくな戦力を送れず、その後の援軍も無理となった。となると、後は事後処理部隊の派遣しかない。
「リストを作っておきました。この中から選抜したメンバーを非正規ルートで投入しましょう。上手くすれば最終日くらいには間に合うかもしれません」
 リストアップされたメンバーは明らかに第一次メンバーよりも質で落ちる。そんな連中を派遣してどうなるものか分からぬが、何もしないよりかは多少マシであろう。少なくとも牽制くらいには役立つ。
 話すことは話したと多忙な名物講師は時計を見る。次の講義には早足で行く必要があるだろう。席を立ちながらそういえば、と残された話題をふってみる。
「ああ、少し探りを入れてみましたが、教会も似たような反応です」
「敵は強大にして正体不明。そして援軍も後れず現地の情報も皆無に等しい。となると、我々が少しは有利、ということか」
「そこについては、何とも言えませんがね」
 この場で教会と張り合うことにエルメロイⅡ世は意味を見いだせない。最初からスタートラインに立とうともしていない者相手に競争してどうするというのか。それに、教会は「失わない」が、協会は「失う」かもしれないのだ。
 協会最後の切り札にして、唯一の希望。
 そして最大級の不安材料。
「フラット……せめて生きて帰ってきてくれよ」
 小さく呟き、窓の外に広がる青空を見上げる。キラリと親指を立てて光るその顔は想像の中だというのに非常に鬱陶しい。エルメロイⅡ世は帰ってきたらその顔を全力で殴り飛ばすことを強く心に刻み込んだ。


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「え? これマジですんの? この量を? 一人で? この俺様が?」
「はいはいそうですよ。他に誰がやるんですか。はい、これチェック表。後で確認しますからサボらないでくださいよ」
 もうキャスターの言うことにいちいち反応するのも面倒と言わんばかりに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の技術スタッフ二名は容赦なく稀代の英霊に分厚い資料とチェック表を差し出した。古の英霊からして電子ボードでも使った方が効率がいいのではないかと思うのだが、ものがものだけに改竄防止措置のためには「紙に手書き」というアナログが一番らしい。
「えー。俺超忙しいのに」
「つべこべ言わないでください。俺たちだって忙しいんですから」
 穴蔵でジャパニメーション見ていながら何言っているんだという視線がキャスターに突き刺さるも、キャスターは目前の仕事量に呆然として気にしてはいられない。
 久方ぶりに出してもらえた穴蔵からやってきたのはやはり穴蔵。しかもキャスターが居た部屋よりもよっぽど厳重だ。普通こういうのは“生み出した物”より”生み出した者”の方の扱いを上にするべきではないかと思う。
 いや、別にこれ以上拘束されたいというわけではないのだが。
 見上げるほどにでかいこの宝具はその実体のほんの一部に過ぎない。
 宝具開発コード《スノーホワイト》。
 キャスターが作った三つの最高傑作の中でも最高と賞賛しうる究極の名にふさわしい宝具である。
 基本となる部位は元々ある程度作られていたのでキャスターがやったことといえば昇華による機能強化くらいであるが、予想外に反応が良すぎて予定スペックの軽く一〇〇倍以上の出力をテスト段階でたたき出した暴れん坊である。
 それだけにメンテナンスは24時間欠かすことができず、そして不安定でありながら拡張作業を続けているので常に未完成。キャスターが前に見たときと比べスペックが少なくとも二割は増強されている。ここの技術者はバランスというものを考えていないに違いない。ここまで拡張するなら相談の一つは合ってもいいのではなかろうか。
 俺って相変わらずマスターに信用されていないんだなぁ、とため息をつきながらダラダラとシステムチェックに突入する。キャスター以外にもできないこともない作業であるが、作業効率は専門スタッフがきびきび動くよりもダラダラキャスターがやったほうが良いというどうしようもない事実がある。
 信用していなくても使える者は使えということか。何かしら急がざるを得ないことがあったことがよく分かる。
「いやこれ誰が拡張したんだよ。パワーばかりで効率下がってんじゃん。システム面も見ようぜ? てかここのバグも放置するなよなー」
 資料にパッチ追加必須と書いて一ページ終了して時間を確認。一枚に必要とする作業時間×資料枚数を軽く計算。予定完了時刻はあと二時間ほどではあるが、とてもじゃないが終わりそうにない。さりげなくそのことを告げてみたら作業時間が追加された。もうこれはサボれという神のお達しではなかろうか。
「ああくそ! 地獄に落ちろマスター!」
 それでも生来の気性はそうさせない。どんだけサボろうと決意しても一目見れば些細なミスも見つけてしまうし、些細であっても放置できない。修正作業をメモしながら、改善案が思い浮かべばそれも書かずにはいられない。思い切って何もしなければ先の作業を無意識に思い出しふと新たなアイデアが浮かび上がることだってある。
 これは困った。
 自分はいつから仕事大好き人間になったのだろう。
「って、おい! A68とF42Dに配線ミスががあるじゃねぇか! 2-5-24基盤は使えないから交換して廃棄! ついでに第3層の比率を一対九から三対七に調整しろ!」
「ついでの方が面倒じゃありませんか!?」
 現場で悲鳴を上げる技師のケツを蹴りつける。どういう扱いであろうと彼等はアシスタントとして制作者たるキャスターの指示に従わざるを得ない。そして短くはあるが一緒に働けば妙な連帯感と仲間意識が芽生えるというものだ。
 そしてそこが、隙となる。
 キャスター一人となった現場で黙々と作業すること数十秒。技師の走る音が遠くなった頃にキャスターはうつむきながらもハッキリと言葉を紡ぐ。
「これで、人払いは済んだぜ?」
 作業スピードは緩めない。あくまで自然に動く。作業時間から計算すると配線ミスでせいぜい一分、基板の交換には二人がかりで三分、ついでに指示した比率操作は二人が別々に担当しながら調整するので安定するまで五分はかかる。ここに戻る時間を考えれば更に二分。安全マージンを考えると余裕があるのはせいぜい一〇分といったところだ。
「……いつから気がついていたのかしら?」
「いや、軽いハッタリだ。居ないなら恥ずかしい思いをするだけだった」
 後ろから聞こえた声ではあるが、作業をしながらキャスターは決して後ろを振り返らない。キャスターの行動は監視カメラによって常に観測されている。怪しげな行動は取れない。うつむいて口を隠しているのもそのせいだ。
「だが可能性は高いと思ってたぜ。ジャックが姿隠しの宝具を欲しがってたからな」
 恐らくキャスターが他の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とここに同行した時点からずっとついてきたのだろう。この宝具を使えば、認証を必要とするドアも一緒に入ることで回避が可能だ。女風呂に是非一度使いたい宝具である。
「ええ、重宝しているわ」
「《石ころ帽子》と名付けてる」
「単純にスカーフと呼ばせてもらっているわ」
 キャスターの命名にはアサシンは断固として拒否した。「石ころ」は分かるが、なぜ「帽子」なのだろうか。
「それで、お前さんがアサシンか」
「ええ。私が本物のアサシン。宮本武蔵はアサシンなんかじゃない」
 情報の共有。ジャックの言っていることを全面的に信じていたわけではないが、宝具を使いながらとはいえこの気配遮断スキルは紛れもなくアサシンそのもの。
「眉唾物だと思っていたが、これで俄然真実味が帯びてきたな」
 このメンテナンスもいささか急すぎた。資料にはいかにもなことを書かれて誤魔化されていたが、宝具を実戦投入――一体誰と戦ったというのか。
 マスターが何かを隠しているのは予想していたが、おそらくはジャックから聞き及んでいたイレギュラーなサーヴァントにでも遭遇したのだろう。先日フェイズ5に移行したばかりでこの状況。脚本の修正もあのマスターでは間に合わない。
 いっそのこと全てを任せてくれたなら上手くできる自信があるとキャスターは思うが、マスターの頭の中にキャスターの名前はどこにもないのだろう。
「……それで、ジャックはお前さんに何をしろと言ったんだ?」
「いいえ。私はお眼鏡に適わなかったみたい。一方的に色々と言われただけよ。だから、あなたに会いに来た」
「すげぇな。あいつ生前は策士とかか?」
 それについてアサシンは何も応えなかったが、キャスターにしても内心興味はないのだろう。唯一興味があるのは、キャスターがこのアサシンとの会合を期待してジャックと同盟を結んだ点だ。
 こちらの期待以上に応えてくれる。
「先に忠告しておくぜ。ここで俺から情報を仕入れたら誰にも気付かれないように脱出、しばらくは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》から距離を置け。できれば街を出た方がいい」
「命令?」
「忠告だっつってんだろ」
「それは残念ね。ここであなたを殺してこの怪しげな宝具を壊せば事態が動きそうだけど?」
 何やら首筋に冷たいものが当たる感触がする。察するに、ナイフか何かで脅かしているのだろう。
 しかし舐められたものである。キャスターを殺すのにアサシンなら素手で一秒もかからない。弱さについては定評がある。
「命が惜しいから止めてくれ。それに俺を殺せばここからの脱出は不可能になる」
「あら。ここの宝具については何も言わないの?」
「それについては俺の苦労がパーになるから止めて欲しいって程度かな?」
 常日頃から嘘をついているキャスターではあるが、この嘘がアサシンにどれだけ通用するのか甚だ疑問である。わざわざキャスターが出向き整備調整を行う必要のある巨大宝具――怪しいことこの上ない。
 いっそのこと、壊したら大爆発するとでも言っておけば良かったか? あのマスターのことだから本当にそうしている可能性も高いし。
「まぁ、いいわ。時間の無駄だしね」
 キャスターの葛藤は顔に出したつもりはなかったが、アサシンはどうやら見逃してくれたらしい。もしくは気付かなかったのか。
 同時に首筋から冷たさがなくなる。
「まず一つ確認するわ。この聖杯戦争、裏で暗躍する者がいるのは本当?」
「おっと。そこからか」
 できればジャックから全て聞いておいて欲しいが、ジャックはそこらへんからキャスターに丸投げするつもりらしい。
 アサシンの質問にキャスターは返答を濁す。さて、ここはどう答えたものか。答えることは簡単だが、これは中々に入り組んでいる。
 ふむ、と数秒ペンを走らせる手も止めて考える。
「……お前さん、競馬ってわかるか?」
「知識としては」
「この聖杯戦争を競馬に例えるなら、俺たちサーヴァントは馬だ。そしてマスターは騎手。そして馬券片手に応援してるのが協会や教会の連中だ。そこにコースを作り障害物を用意する運営員会ってのもあって当然だよな」
 本来の冬木の聖杯戦争であれば審判が教会で、聖杯が運営となるわけだが、スノーフィールドにおいては審判不在で運営は人間である。そして運営はその存在をひた隠しにして見守るばかり。はっきりと審判として名乗り出てもよさそうだが、事後処理をキャスター陣営、いや、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に任せていることからその組織の有り様はキャスターから見ても異様である。
「その運営が暗躍してるってことかしら?」
「いいや、運営はまだ何もしてない。たぶんマホガニーの机で葉巻を咥えてふんぞり返ってるだけだろう。奴らにとってこの状況は動くに値しない事態ってことさ」
 口を出すことはあるようだが、何か具体的な支援があるわけでもない。確かに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に肩入れはしているが、それにしては積極性がなさ過ぎる。そして、他の勢力に何かするわけでもない。恐らく彼らの仕事はスノーフィールドの外にあるのだろう。
 キャスターとして探りも入れてみるが、あらゆる手を尽くしても立ちふさがるのはマスターたる署長だ。全容を把握したければ署長の口を割らせる必要があるが、そんなことができれば苦労はしない。
「運営が何もしていないのを信じるとして、では一体誰が暗躍してるというの?」
「それこそ、俺よりも実際に暗躍してる本人に聞いた方がまだ真実に近いと思うぞ?」
 アサシンの疑問にキャスターは呆れたように答える。最初に「そこからか」と言ったのはそういう意味だ。
「さっきの喩えで言うと、出場馬が六頭なのに、七頭目八頭目がレースに参加してる。それが暗躍者だ」
「……あれが?」
 顔こそ見えないが、恐らく怪訝な顔をしているのだろう。とてもそういう風には見えない、というところか。
「付け加えておくと、本人は馬だから走ることに夢中でそれ以外のことを知っている可能性は低い。真に暗躍しているのはその後ろにいるオーナーだろうが、どれだけ知っているか怪しいもんだな」
 事実、バーサーカーはそうしたことを分かっていながらアサシンと共に居る筈の東洋人と会いはしなかった。会っても無駄。むしろ、何か仕掛けられている可能性がある以上迂闊な接近は禁物である。必要とする状況が生まれなければ接触することは今後もないだろう。
 そういったところもアサシンとバーサーカーが同盟を結ばなかった理由でもある。
「今は別行動中だよな? ジャックには保護を頼んだと思うんだが」
「いざとなればどうにでもなるからこその別行動よ。それにすぐ戻るわ」
 一体どうやってすぐ戻るのかは聞かないが、できる限り穏便に。力任せに出て行くのだけは止めてもらいたい。
「じゃ、もう一つだけ聞くわ」
「もう時間がない。手短に願おうか」
 時間を見ればもう余裕はない。モニターに第3層の比率を表示させれば、既に調整が終わりつつある。これが安定すれば作業員も戻ってくることになる。
「聖杯は、どこにあるの?」
「……俺は知らされてないな」
「そう、わかったわ」
 そう言って、あっさりと背を向け立ち去る気配がする。含みを持たせて食いつくよう会話を誘導しようというのに、この女は実に駆け引きが分かっていない。
「いや、おいおいおいおい」
 ついカメラを忘れ思わず振り向いてしまい、慌てて背伸びをしようと失敗して椅子から転げ落ちたような演技で誤魔化してみる。大根役者だなと自分でも思うが、これくらいのことでいちいち見咎められるとも思えない。
「これから何をするつもりだ?」
「あなたのマスターを捕獲、尋問する」
 こともなげに言い放つアサシンの(見えないが)後ろ姿に待ったをかける。
「お前、俺ですらどこにいるのか分からない人間をどうやって浚うつもりだ?」
「……」
 キャスターの一言に押し黙る気配が感じ取れた。内容を吟味し今後の策を考え思いを巡らせるくらいの時間があった。
「一応言っておくが、警察署に突っ込むなよ。絶対いないし罠があるからな?」
「……なら、調べておいて」
 出した結論は他人任せだった。暗殺者というのは身体を動かすのはともかく頭を動かすのは苦手なのだろうか。
 しかし自らのマスターといい、同盟相手といい、そしてこの考えなしの暗殺者といい、どうしてこうも自分で解決するという手段を使わないのだろうか。利用しているというよりされている感が半端ではない。
 だがこれも全てを相手取るための布石だ! と自らを鼓舞してそんな役割を喜んで引き受けてみせる。
「顔面が引きつってるわね。何を企んでるの?」
「……分かったから、後は全て俺に任せて大人しくしとけ。ジャックから通信機はもらっているんだろうな?」
「この宝具と一緒に受け取ったわ。使い方が分からないけど」
 そこは自分で調べろ、と怒鳴りたかったが、立ち上がり口元がカメラに写るのでキャスターは何も言わなかった。だがこのキャスターの顔だけでアサシンは全てを判断してもらいたい。
「ひとまず、俺のマスターの令呪が邪魔だ。だからそれをどうにかできる算段がつくまで大人しくしておいてくれ」
 転げた椅子を直し、その上に座って作業の続きをする真似をしながら、頭をかきむしる。やるべきことが山積しているのに、どうしてこうも必要のない作業が降りかかってくるのだろうか。
「そう。なら一画分は何とかしてあげる」
「……あん?」
 ここでようやく、一方的な情報提供からの変化があった。
 令呪一画分を何とかするとアサシンは言った。奪う、消去するなどという意味だろうが、それにしては一画というのは随分と中途半端だ。
「そんなこと、どうやってするっていうんだ?」
「それは企業秘密。難しいことではないわ」
 けど二度は無理、と告げながらアサシンは今度こそ立ち去る気配を生じさせる。
「いや、ちょっと待て――」
 もっと詳細が聞きたいとまたも大根役者で後ろを振り向くが、頬を風が撫でるだけでそこには何もない。
 この閉鎖空間で風など起きるわけがない。おそらく宝具の使用による瞬間移動。これについてはジャックから聞き及んでいた能力だ。だがこの場所に来るために姿を隠して付いてきたところからどこにでも移動することができるものでもないらしい。
「……これはなかなかにやっかいな宝具じゃねえか」
 目の前の馬鹿でっかい宝具を見上げながらもキャスターはアサシンの宝具を評価する。もしここに瞬間移動できるなら、いつでもこの宝具を破壊できることを意味している。もしかしたら手を誤ったのかもしれない。
 嘆息しながらキャスターは頭をかきむしる。
 キャスターの目的は三つ。
 ひとつは、この聖杯戦争の行く末を見届けること。
 ふたつは、そのために何としてでも生き残ること。
 最後は、舞台を面白可笑しくするために動くこと。
 署長についていけば最後以外の目的はほぼ確実に達成できる。けれどそれでは駄目なのだ。署長についていけば、至極つまらない結果が目に見えている。最後の目的は確実に遂行できない。
 なにせ彼は希代の浪費家としても有名なのだ。舞台に上がる全てのキャストにはそのあらん限りを出してもらわねばならない。六体のサーヴァントに六人の魔術師、暗躍する東洋人も、それを操ろうとする者も、まだ動き出そうとせぬ運営も!
 そのためには、まず――
「作業終わりました。これでいいですか?」
「ご苦労さん、それとさっき気付いたんだが、ここの200番台から500番台まで新たに作り直してもいいか? こう、もっとスマートにできそうなんだ」
「構いませんが、意外と凝り性なんですね」
「こういうのはほっとけない質なんでなぁ」
 千里の道も一歩から。
 ひとまず地道な作業からキャスターは開始した。


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「やはり、そう簡単に尻尾を掴むことはできませんね」
「まあ手がかりくらいは見つかってるだけ一歩前進じゃないかな?」
 舞い戻ってきたスノーフィールド中央病院をティーネとフラットは歩き相談していた。
 一日中夜であるこの世界において時間の感覚はどうしても希薄となるが、それでもほとんどまる一日かけて二人で調査した結果は限りなく黒に近いグレーであった。
 事務所から失敬した設計図を元に歩き回ったが、どうにも歩いた距離と図面の距離とに誤差が生じている。正確に測ったわけではないから何とも言えないが、これが単なる設計ミスとも思えない。秘密の通路なんて露骨なものは見つけられなかったが、どこかにあるのは間違いない。
「何かあるとすれば地下だけど……そんな通路は見つからなかったし、人除けの魔術の痕跡も見当たらないね」
「何か仕掛けでもあるのでしょうか?」
「エレベーターのパネルでも調べてみる? カードリーダーが隠されてたりするかもよ?」
 冗談ではあるが、可能性としてはなくはない。だが、あまりに広すぎる敷地には数多くのエレベーターがある。その全部調べるのですら一日仕事だ。最悪、この真下に何かがあっても入り口は敷地外、ということもあり得る。
「……それで、椿と銀狼はどこです?」
「ここの二階だよ。どうやらそこが元々椿ちゃんが眠っていた場所らしいんだ」
「休めるなら、この際どこでもいいでしょうに」
 休むのならば動きやすい一般病棟の方が都合がいいのだが、椿がそれを望むのなら多少の不便さには目を瞑る。
 この同盟の中でもっとも注意せざるをえないのは何を置いてもライダーが常に傍にいる椿である。危険性は低いが何がきっかけで暴走するか分からず、そしてそれを御するためには椿の冷静な判断が必要だ。少なくとも、ティーネの言葉を理解できるだけの余裕は持ってもらわねば困る。
「……人が増えてきました」
「時刻が午後の十一時だから、現実世界で就寝する人が増えたんだろうね」
 窓の外で無言で何か遊び始める人の数が急速に増え始めている。かと思えば廊下を徘徊していたりベッドに横になっているだけの人も居る。遊ぶ人間と遊ばない人間とに別れ始めているのだ。
 一体どうやってライダーがこの世界に人を招き入れているのかは一向に分からないが、その目的は恐らく椿を楽しませること。ということは、この事態はひとつの事実を浮かび上がらせる。
 つまりは、ライダーの処理能力に限界がきている。
「このまま人が増え続けたらどうなると思いますか?」
「単純に遊ばない人が増える……ってだけでもないか。たぶん、現実世界に戻れない人が増えて、その全員がライダーに魔力を吸い尽くされる」
 この世界が椿の夢であることは既に周知の事実である。これだけの規模の別世界が長時間現実に構築されることは不可能であり、椿の脳内にある魔術回路の働きと椿自身の証言から間違いない。
 物の修繕といった体外への魔術は発動しないのに視力強化といった体内への魔術が発動するのもそう考えれば辻褄が合う。
 そうすると、困ったことに椿の魔術とライダーの能力は一見相性がいいように見えて実はまったくの正反対であったりする。
 無機物はただそれだけでは動かず、状態を維持し続ける。しかし人間はそうもいかない。動いて物を動かし、時に壊し、時に創造する。それは椿の中の世界を改変するということだ。端的に言えば、ライダーの能力は、椿が作り出すこの世界に過度な負荷をかけ続けてしまっている。
 その証拠に最近の椿の動きはどこか精細さを欠いている。頻繁に休んでいるし、歩くことにも銀狼に乗って楽をする。車での移動中も寝てばかり。体力がないとかそういう話でもない。これは明らかに不調である。
「時間はあまりないようですね。この調子ですと椿がこの世界を維持できるのはあと一週間で限界……いえ、その前にスノーフィールドがライダーの手に落ちてしまう」
 先日までこの世界の人口はせいぜい数百人だった筈。しかし、今日は一気に数千人近くにまでその数が増やしている。この調子で増え続けるならあと二、三日でライダーはスノーフィールドの全住民をこの世界に連れてくることとなる。そうなるともう椿を含めて全滅以外の道はない。
「お先真っ暗ですね」
「ジャックがうまく動いてくれるのを祈るしかないかな」
 フラットは自らの手のひらを握り締める。
 この世界においてはその手は宙を掴むだけだが、現実世界ではその手には携帯電話が握り締められている筈だ。体外は無理でも体内への魔力干渉が可能なら、意識のない自分の身体を強制的に操り、携帯電話を操作することは十分に可能。ただし、視覚情報が得られていないのでうまくメールを送れているのか確認は取れない。バッテリーの問題もあるので恐らく外部との連絡をとる方法はもうなくなったとみていい。
「ジャックさんにうまく動いてもらっても助かる可能性は良くて四割、といったところでしょう」
 そして全滅する可能性が六割である。
 極端な話ではあるが、椿一人を生け贄に捧げれば他三人はほぼ確実に助かる。夢の世界とはいえ術者を殺せばその影響は現実世界の術者本人にも影響するだろう。そうすると魔術は解け、マスターを失ったライダーも消滅する。椿を守るライダーを出し抜く方法だけなら、いくらでもある。
 けれども、フラットがそれをすることはあり得ない。そしてティーネもその選択肢を受け入れない。同盟を組んだ以上、彼女は同胞であり、族長である彼女は同胞を裏切る真似は絶対にできない。
 確実な犠牲で生き残るより、全員が助かる可能性を選択したい。それが、二人の共通の考えである。
「問題はライダーを弱体化させる方法が見つからないってことだよね」
「あなたのサーヴァントでは不向き、アーチャーでは火力が強すぎますね」
 体内に対しての魔術の行使が可能であれば、令呪の機能に支障はない。令呪でサーヴァントを召喚しライダーにぶつけるのが目下のプランであるが、肝心のライダーへの対抗手段が分からない。バーサーカーではライダーを相手にできないだろうし、アーチャーだと周囲一体を焼き尽くして対処しそうだ。それではさすがに困る。
 椿に令呪を使わせるのが一番現実的だが、椿を現実世界に戻すためには令呪が二画必要である。そして何かあったときの保険に残り一画もできれば残しておきたい。ライダーの弱体化に令呪は使えないのである。
「最後まで情報を集めるしかないね。もしかしたら他のマスターもこの世界に来ているかもしれないし」
「期待は薄いですが、それしかないでしょう」
 それでも駄目なら、二人ともがサーヴァントを召喚し数に任せて追い込むしかない。だがあの英雄王が果たして素直にこちらの要望を聞いてくれるかどうか。
「――あれ?」
 考えを巡らすティーネの隣で、フラットは何かに気づいたような声を出す。
 こういうことは時たまある。通常の感性を持たぬフラットのこと、「この通りの信号ほとんど赤なのにあそこだけ青だ!」とか「あのおじいさんの腕のタトゥー、漢字が間違ってる!」とか「あの人パット無茶苦茶入れてるよ!」など枚挙に暇がない。ちなみに最後のものはどうやって見抜いたのかは分からない。
「どうしましたか?」
「声がする」
 口に人差し指を当てて静かに答えるフラットにティーネの警戒レベルが一気に跳ね上がる。
 声は、確かに聞こえている。前方、十数メートル先の「TUBAKI KURUOKA」と刻まれたプレートがある除菌室の中。中には椿がいる筈だが、椿の舌足らずな英語とは明らかに違った流暢な英語。
 これまでこの世界で声を出す存在は三人と一匹だけだ。ライダーがカタコトを喋ったことはあるらしいが、あいにく二人ともその現場を見たことはない。となると、必然的に声の主は見知らぬ誰か、ということになる。
 ライダーが傍に居る以上滅多なことが起こるとは思えないが、何かがあってから動いても遅い。
 除菌室はスライドドアで閉じられている。足音を立てずにドアまで接近し、中の様子を窺う。声の様子から女性が一人、しかし話の内容はわからない。
「フラット、確保します。突っ込みますよ」
「まず話し合わないの!?」
 ティーネの即決即断にフラットは抗議の声を上げるが、それに取り合うことなくティーネは躊躇なく行動に移った。フラットに奇襲を掛けた際にはあっさりと返り討ちにあった彼女ではあるが、だからといって実力がないわけではない。
 幼少時より族長となるべく育てられたティーネは武芸だって幼少時から鍛えられている。まだ身体が成長しきっていないため大した力にはならないが、それでも積み重ねられた鍛錬は街中のチンピラ程度なら瞬殺できるレベルにまで到達している。
 呼吸を整えると同時に、スライドドアを解放。目標を視認すれば後の行動は早い。
 ドアから目標まで五メートル。途中にある空のベッドを踏み台にティーネは天井近くまで舞い上がり、そのまま目標である女性の両肩に膝から突き刺すように体当たり。女性が床に倒れ伏すまでのわずかな時間にも両手で女性の手を捻り上げ、受け身も取らせない。
 ティーネの体重は軽いとは言え、その運動量による衝撃はかなりのもの。だというのに、女性の喉から悲鳴の一つも聞こえない。
「ごめんなさいっ、すみませんでしたぁ!」
 遅れて室内には行ってきたフラットは謝罪の言葉を吐き出すが、ティーネはため息をつきながらも女性の上からどいてスカートの汚れを叩いて落とす。
「謝罪は必要ありませんよ」
「そういうわけにもいかないよっ!」
「しても意味がない、ということです。フラット」
 慌てるフラットに落ち着くよう声を掛け、フラットの顔を強制的に女性に向けさせる。床から起き上がる女性は何やらぶつぶつと呟いているが、その焦点はフラットに合っているようで合っていない。
「予測していた事態ですが、予想よりも早い展開でしたね」
 先にも二人で話していたライダーの支配が二極化してきたという話。ティーネがフラットに言った予測とはこの世界に喚び出された人間が三極化することを意味している。
 この世界に喚び出された者たちはティーネたちマスターのみを例外としてライダーに意識を奪われている。その上で操られているかいないかという違いがある。そこに第三極として、ライダーが支配しきれなくなった人間の中から自らの意志で動き始める者が現れ始める。
 最初は恐らく夢遊病のように、そうした人数が次第に増えていけば意識をはっきりと持つ者も出てくる筈だ。
 しかしこれは僥倖だ。こうした第三極の人間を早い段階で確保することには意味がある。
 ふむ、とティーネは女性を上から下に眺め見る。
 聴診器と白衣という見かけと理知的な顔つきからして職業は医者。そして椿が今現在眠っているベッドの傍にいたところから、もしかしたら椿の担当医かと当たりを付ける。
「強い衝撃を与えても覚醒しないということは操るまではいかずともまだライダーの支配力が強いようですね。話を聞き出すには好都合です」
「計算通りみたいに言われても君がやったことは許されることじゃない――って、好都合?」
「この世界は一年前であっても、この人物は現在の人間です。つまりは情報源として有効と言うことです。
 ――さて、あなたはこの病院のお医者様でしょうか?」
「……ええ、そうです」
 やや焦点があっていないながらも女医はふらふらと起き上がり、ベッドで眠っている椿の脈をとり、検査を始める。眠りについている椿は現実と違い起きることはある筈だが、よほど消耗しているのか目を覚ます気配はない。
「最近、何か変わったでき事はありましたか?」
「……テロが、最近多いようですね。私の元にも数人怪我人が運ばれてきました」
「この二、三日ではどうでしょう?」
 ティーネの言葉に女医はしばし考え込むように宙を見上げる。目線の先にライダーがいるが、女医もライダーも特に変化は見当たらない。
「確か……昨日どこかでまたテロがあったとか。山狩りをしたとか聞いたような気がするわ」
 女医の言葉にティーネは落胆した。もちろんそこまで期待したわけじゃないが、一般市民レベルであれば、その程度の情報であろう。
 だがこれではっきりした。まだ聖杯戦争は現実世界で続いている。ここに四人のマスターとサーヴァントが一体いるが、他のマスターとサーヴァントは現実世界で健在なのだ。いつ自陣に攻勢をしかけてくるか分からない。
 ここで悠長にしている暇はない。
「他に変化はありますか、身の回りのこととかで」
「そう……ね……忙しく、なったわ」
「忙しく?」
 ティーネの予想ではガソリン価格の高騰や消耗品の確保といったところでスノーフィールドの流通を探ろうと思っていたのだが、思いもよらぬ方向の情報が入ってきた。
 医者が忙しいのは当たり前ではあるが、あまり大っぴらに動けぬ聖杯戦争で大勢の死傷者が出ることはあまりない筈……いや、そういえばここに一体、そういうことを考えないサーヴァントがいた。
「風邪が流行ってるのかしら。抵抗力が落ちている患者が大勢いるの。もう病室は満杯で、私も風邪気味だから椿ちゃんの診察にいけないの……」
 病室が満杯、ということは既にこの地方医療のキャパシティを超えている程ライダーの影響力が広がっているということになる。保険制度が整っていないアメリカ社会でこんなことがそうそうあるわけもない。ライダーの影響下にある人数は数千人と考えたが、もしかしたら数万単位で広がっているのかも知れない。
 いけない。そう考えるとタイムリミットは数日などではなく明日にでも来てしまう可能性が出てくる。
 ティーネがそんな戦慄に沈黙をしていると、ティーネの後ろからフラットも女医に質問してくる。
「随分と椿ちゃんに親身になってるんですね」
 もう椿に関する情報は収集し終わり、これ以上役に立つ情報を得られる可能性もない。しかしわざわざ診察に行けないことを悲しそうに語る女医の姿に打たれたのか、聞かずにはいられなかったのかも知れない。
「もう一年のつきあいだし……ご両親もああなってしまったから特に、ねぇ」
 そして女医は髪を掻き分け椿の顔を慈しむような目をしながら「いつもより顔色が良さそうね」などと呟く。現実の椿より少し違っている筈だが、そうした細かな差異には気付いてはいない。
 うぅん、と椿が女医の行動に反応した。できればこのまま寝ていてもらいたいところだが、こうした第三極の人間に物理的ではなく精神的なショックを与えた場合の反応も見てみたいと、ティーネは判断した。
 それが、大きなミスに繋がるとは気づきもしないで。
「ご両親もああなったって、何があったんですか?」
 椿が起きかけていることも知らずに、フラットは再度問いかける。それは自らの好奇心や聖杯戦争の情報という以上に、椿個人の身を案じるための質問だった。だが、それは決して聞くべき質問ではなかった。
 特に、この場においては。
「ああ、殺されたのよ。ここの地下で解剖されたようだし」
 あっさりと、女医の口から残酷な事実が告げられた。
「椿ちゃんの身体から虐待の痕があったし、死んで本当に良かったわ」
 女医の言葉は全てが本音である。催眠状態とも言うべきこの状況では嘘をつくということはできない。心にあったそのままの言葉を強制的に紡がせる。
 女医が持つ椿に対しての愛情も、繰丘夫妻に対しての憎しみも、全て、本物。
 ピ、と音がした。女医が椿の耳に当てた体温計が結果を出したのだ。結果を見るために振り向いた女医の視界に、目を覚ました椿の顔が合った。
「あら椿ちゃん、おはよう。良かったわね、ご両親殺されたようよ。これで大きな病院に移れば目覚めることもできるかも……あら? 目覚める?」
 椿が起きた、という事態に女医は軽い混乱状態に陥る。椿は目覚めないという今までの認識と椿が目覚めているという現在の認識に齟齬が生まれるが、今の女医の処理能力は著しく低い状態にある。理解するには時間が必要であろう。
 だがこの場で最も混乱したのは女医ではなく、椿。そして最も慌てたのがティーネである。
 女医の発言は今最も注視しなければならない椿の精神を揺るがして当然の告白。まだ短いつきあいではあるが、椿が両親に対しどういう思いであったのかティーネは知っている。そして、実際に両親がどう椿に接したのかも、おおよそ検討がついている。
「椿!」
 ティーネが叫ぶよりも早く、ライダーが椿の心の動揺に敏感に反応していた。
 実際にライダーが何をしたのかは分からない。傍目からはただ女医に触れただけにしか見えないが、その瞬間、女医は瞬時にしてこの場から消滅する。現実世界に強制的に戻されただけなのだろうが、そんなことはどうでも良かった。
「――嘘」
 急な出来事に椿は混乱する。これではまるでライダーが女医を殺したようにも見える。だがそんなことを後回しにする程椿の心に占めていた疑問があった。
「ね、ねぇライダー? パパとママを、出して……出してぇ!」
「椿! 止めなさい!」
 ベッドの上の椿にのしかかり、抱きしめるティーネではあるが、それよりも先にライダーは椿の目の前に両親を出現させる。
 否。両親だったモノを、並べて用意して見せた。
 そこには手があった。足があった。皮膚があり、筋肉があり、爪がある。乳房もあり、性器もあり、舌もある。五臓があり、脳があり、眼球が転がった。解体された人体はこれが一体誰なのか分かる筈もないが、これら全てを合わせれば繰丘夫妻の形をなすに違いなかった。
 繰丘夫妻は魔術師だ。そして、おそらくライダーに最初に捉えられ、そして敵方に最初に捕らわれた人間でもあるのだろう。原因究明のためならば、これくらいのことは想定してしかるべき。
 だがそんなこと、まだ十歳の子供に理解できるわけもない。
「あ……あ……ああっ――!」
 すぐにティーネが椿の顔を隠すも、もう遅い。
 現実を突きつけられ、椿の心は、完全に拠り所を失った。
「い、いやだ。ねぇ、いやだよ、ねぇ!」
「椿、お願い、黙って! 落ち着いて!」
 ティーネの言葉は椿には通じない。フラットもこの状況がまずいことを察して椿に暗示の魔術をかけようとするが、生体を対象としても体外への魔術行使は無効化されてしまう。これまでの実験で散々証明されたことだが、なら出力を高めれば暗示は利くかもしれないと、フラットは自らの魔術回路を励起させ、更にそれに応じて魔術刻印もフラットを補佐するべく働き始める。いつも使用している魔力の数百倍の出力であれば、この現象に打ち勝つ可能性は少ないながらもあるかもしれない。
 だが、結果としてフラットが暗示を使うことはなかった。
 これがあと一秒でも早ければ、結果は違ったものになったであろう。
 椿の言葉を、意志を、早急に封じ込めることに、ティーネとフラットは失敗した。
「もう嫌だ! 嫌だよっ!」
 涙を流しながら、椿はその言葉を口にした。口にしてしまった。

「こんな世界、なくなっちゃえばいいんだ!」

 瞬間、椿の手に輝きが生まれ、そして弾けた。
 マスターであれば誰もが持つ絶対命令権、その一画が、今ここで永遠に失われた。
「――――――――――!!!!!」
 その音がなんなのか、分かる者はその場にいない。だが、それは間違いなくライダーが命令を受諾した咆哮に違いなかった。


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05

 その知らせは一般回線からもたらされた。
「一般回線からの緊急です!」
「5番に回せ」
 ようやく本部へと戻り仮眠を取っていた署長は秘書官の緊迫した声にすぐさま応じた。眠気を叩き潰しながら受話器を取り上げる。急な事態ではあったが、幸いにも寝付いたばかりで頭に霞がかかることはない。
 身体の疲れは一向に取れてはいない。しかし若い頃に培った体力は落ちたとはいえまだまだ現役を維持できるだけは残っていた。
 時刻を見る。まだ日付が変わる前だ。最後に署長が確認した九時の時点では特におかしな報告は見当たらなかった。
 そして一般回線からの連絡。街の警邏は撤退させたし、要所に配置してある部隊には専用回線が用意されている。まず敵の罠を疑うが、確認した秘書官の様子からしてその可能性は低いのだろう。
「私だ」
『ま、ますっ……いえ、失礼、しましたっ! クラブ、キング、ゼロ、ファイブ、ゼロ、スリー!』
 一般回線ではその秘匿性に疑問が残る。秘書官に視線を配るが、まだ回線の安全性は確保できていない。他の陣営に対してもそうだが、できることなら“上”にこちらの動きを知らせるような真似はしたくない。
 相当慌てているようだが、「マスター」と完全に呼ばなかっただけまだマシだろう。認識番号を名乗ったのもあまり褒められたことではないが、それだけ焦っている証左ともいえる。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》五番隊の三番……確か、市街地の調査へと向かわせた隊員である。優先順位はかなり下位、というより署長の勘で動かした人材なので装備と呼べる装備を持たせてはいない。
「何があった」
『緊急です。スノーフィールド……市街地で人が……次々と、倒――――す!』
 途中、言葉の間にノイズリレーが入る。回線の安全が確保されたということだ。同時に逆探知でかけてきた電話ボックスも判明する。スノーフィールド中心部十四番地付近――病院の近くだ。
「もう何を喋っても大丈夫だ。正確に報告してくれ」
『はっ、分かりました』
 少し安心したかのように晴れた声ではあるが、その息遣いはやけに荒い。
『スノーフィールド……中央病院、付近で……人々が倒れて、います。……私の周囲だけでも数十人。……共に動いていた仲間も、倒れました』
「至急、スノーフィールド中央病院付近のカメラを確認しろ! “上”のことはどうでもいい。緊急コードの使用も許可する!」
 秘書官への指示に一気に辺りが騒がしくなる。同じく仮眠を取っていた数人も緊迫した空気に反応して目を覚まし、指示を受け取り自らの仕事に駆け足で移動する。
『私の周囲だけでも数十人……時間にして、わずか一分足らず、です。……急な脱力感に抗えませんでしたが、魔力回路に魔力を流せば、多少……抵抗はできるようです』
「わかった。すぐに救出に向かわせ」
『ダメです!』
 署長の言葉を遮るように、受話器の向こうから強い否定の言葉が出てきた。同時に何かを吐瀉する音も聞こえてきた。
 知らず、受話器を掴む手が強ばっていた。
『恐らく、これは繰丘夫妻にみられた呪術と同じです。……この裏にはサーヴァントがいます……そして、この呪術は感染します』
「……装備を整えるまでもうしばらく待て」
 苦し紛れの言葉であることも隊員は理解していることだろう。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が常備している装備の中に対BC兵器用の防護服は確かにある。いや、あったと言うべきだろう。対繰丘邸用に用意していた装備は完全に使い捨てであり、予備として確保していたものも本部ではなく繰丘邸付近に設置してあったベースキャンプに保管してある。このような事態を想定していなかった署長のミスともいえるが、ないものは仕方がない。
 他に外界をシャットアウトする防護宝具こそあるものの、数が少ない上にこういう事態においそれと出していいものでもないし調査にも不向き。
 防護服を繰丘邸付近のベースキャンプに取りにいくにも、別個に用意するのにも最低でも一時間はかかることだろう。
『空気感染か、接触感染かは……わかりません。けれど私の感染は恐らく病院……私で感染しているなら、病院内で……感染していない者は……いないでしょう」
 その言葉に脳内で感染者数を計算する。隊員は周囲に十数名倒れたと言っていた。その言葉を考え病院周囲数百メートルは感染済みと想定、感染速度も考えると予想被害は最悪数万人に及ぶ。
 ふと、事前に入ってきた情報の中に北部丘陵地帯の原住民が籠城の構えを見せているというものがあった。しかも妙なことに籠城にしては外部と内部の接触を極端に断っているとも。
「奴らは最初から知っていたのか……!」
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の情報網は他勢力よりも断然優れていると思っていたが、こうなってしまえばアーチャー率いる原住民勢力は圧倒的なアドバンテージを持つ。迂闊に接触を断ってしまったのは早計であったかもしれない。
 もはや情報戦で出し抜かれたことには違いない。
 どこの誰かは知らぬが、先日電話を掛けてきた主の言葉を思い出す。
「今なら、まだ間に合うか……」
 すでに電話の向こう側の声は聞き取れない。何とか聞き取れた「愛してる」「すまない」といった言葉を最後にうめき声もやがてなくなる。
 状況は最悪だ。
 情報から考えるに撤退するべきだろうが、市内中枢に入念に用意したこの本部はおいそれと撤退を可能とする場所にないし、何より死守すべきものが多すぎる。
 必然的に選べる道は亀のように殻に引きこもるしかない。だが逃げ場をなくせばそれはただの棺桶と相違ない。
 せっかくの好機だというのに、ここで手を誤れば《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が壊滅しかねない。
 少なくとも外にいる《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》だけでも安全地帯にまで逃がす必要がある。主戦力が外にいるのを幸運とみるべきか否か。
「簡易の防護服とガスマスクの数を早急に確認しろ」
 できれば本格装備といきたいところだが、今はこれが精一杯か。
「空調を確認。窓に目張りをしてできる限り外の空気を中に入れるな。体調の変化に気付いた者は随時報告」
「結界の展開は三重に可能です」
「ダメだ。現状を維持。感染の恐れがあってもそれはできん」
 そうした迂闊な行動こそ、アーチャーは狙っている筈だ。
 この状況で安易に結界を張り巡らせばこの場所をみすみす教えるようなもの。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の本部場所が分からねば、あの英雄王も手が出せない。
 署長が今最も危惧すべきは部下の暴走。あまり考えたくはないが、命惜しさに結界を張る者がいれば速やかに葬り去ってしまわなければならない。
 遅滞処置ではあるが、電話での報告通り魔術回路に魔力を巡らせておけば時間は稼げるのだ。病院との距離と感染力からしておそらく六時間は時間を稼ぐことはできよう。それまでに何らかの状況変化がなければこの本部の人間は全滅だ。
「運を天に任せることになるとはな」
 この突然の感染がサーヴァントによるものなのは間違いない。だがさすがにこれは唐突すぎる。となれば、それを必要とするだけの理由ができた、ということにもなる。
「誰と誰が戦っているかは分からないが、それまでに決着が付けば、まだ我々にも勝機がある」
 署長の眸にはまだ諦め絶望する暗闇など一片もなかった。


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 時間はほんの数分だけ遡る。
 署長の祈るような想いが通じたかどうかは別として、この時ティーネと椿の両方の命を助けたのは誰であろう、銀狼であった。
 ベッドで眠る椿の真下で毛繕いをしていた彼は、女医の出現にいち早く警戒状態となっていた。それはティーネとフラットが来てからも変わらず、銀狼はその本能から筋肉を縮ませ爆発する瞬間を今か今かと伺っていた。
 椿の尋常ならざる気配とライダーの咆哮は、銀狼にとって準備万端のランナーに送る合図に他ならなかった。
 ベッドの上に素早く乗り込み、椿を強く抱きしめるティーネの服を咥えて大きくジャンプする。結果としてライダーは紙一重で椿との接触に失敗した。だがライダーに躊躇はない。一度で駄目なら二度、二度で駄目なら三度、達成されるまで永劫に繰り返せばそれで事足りる。
 一撃目は避けられた。が、二撃目は避けられない。宙へと逃げた銀狼だが、ライダーの追撃を回避するには少女二人分の体重は重すぎた。それに逃げ場のない空中では思うように身体も動かせず盾になることも適わない。わずかにティーネが椿を強く抱きしめることで精一杯。
 だがその二撃目も椿には届かない。間に入ったフラットが壁となり銀狼が地に足を付けるまでの時間を稼ぐ。
「フラット!」
「だっ! 大丈夫!」
 強い衝撃を与えられたように後方へ吹っ飛ぶフラットにティーネが叫ぶが、予想に反してフラットの力強い声がすぐに返ってきた。
 ティーネは自らの足が床に着くと同時に病室の扉を開放する。スライド式のドアは人の手でなければ開けることはできない。まず椿を咥えた銀狼が扉を潜り抜けさせ、何とか立ち上がったフラットの手を取ってティーネは病室の外へと脱出する。
「!? 追ってこない?」
 ドアを閉めてはおいたがあのライダーにそんなものが通じるわけもない。すぐに追いすがるとティーネは予想したが、未だあの黒い霧が病室から現れない。銀狼は既に階段にまで到着している。このまま外へ逃げてしまえば逃げ切ることもできる。
 銀狼もそれが分かっているのか椿の身体に気を遣いながら階段を下りようとし――その口を離し椿をその場において階下へとその身を投じた。同時に聞こえる、落下音。銀狼単体のものにしてはやけに大きい。
「ああ、なんかこういう展開覚えがあるなぁ!」
 もはや無理矢理活を入れようとしているのか、フラットは先のダメージに顔をしかめながら愉しげに笑ってみせる。しかし覚えのある展開では初期になんらかの銃火器を入手できるし相手は分かり易いゾンビである筈なのだが、ここで武器になりそうなのは消化器ぐらいだし、敵はゾンビチックではあるが生身の人間である。
 階段に辿り着いてみれば、一階へと下りる間にある踊り場には看護師の女が一人倒れている。そして点滴のキャスター付きスタンドを武器に銀狼に襲いかかっている細身の患者が一人。
 膂力において明らかに人間を凌駕する銀狼だというのに、銀狼は点滴のスタンドを噛んで明らかにひ弱そうな患者の動きを抑えることに精一杯だ。急いでティーネも踊り場に飛び降り、小柄な体躯を活かして懐に飛び込み心臓の上から全力の一撃を打ち込んでみせる。男は踊り場から更に一階へと落ちていくが、その最後を見届けている暇はない。
「下は駄目だ、囲まれてる!」
 力の抜けた椿の身体を負ぶさり、フラットは階段を上へと駆け上がる。
 フラットの言うとおり、窓の外を見れば暗い夜道をこちらへと向かう人の姿が何人も見受けられる。まだその人数は少ないが、遠くを見れば更にその数倍もの人数が闇の中に蠢いている。外に出て逃げ切るという選択肢はこの段階でなくなった。残った脱出路は上階のみ。しかしそれは籠城というあまりに救いのない選択だ。
「ふっ!」
 戦闘力は奪ったがまだ動こうとする看護師をティーネは躊躇なく蹴り飛ばし、先の患者同様に階下へと落としておく。少しでも障害物を下にすることで進行速度を遅くすることが狙いだが、果たしてどれくらいの時間を稼げることか。
 この隔離病棟は五階建てでその性質上ここに常駐する人間の数は少なく、また侵入経路が階段と非常階段の二択しかないことが救いとなっている。あらん限りの動かせるものを階段へ放り込み、ついでに防火壁を作動させ即席のバリケードを展開させる。
 四階にライダーに操られていると思わしき看護師が一人いたが、これはなんとか窓から外に投げ飛ばして事なきを得る。
「とはいえ、これでは二時間程度が限度です」
 同じように三階四階の階段を封鎖して時間を作り、最上階である五階の一病室で今後の作戦会議をする。現状を考える限りではティーネの判断に間違いはない。確かに即席のバリケードとしては割と良くできていたが、あの人数相手には焼け石に水。下手をすれば一時間もせずにここへ到着するかもしれない。
 時間が余りに足りなさすぎる。
 椿は両親を失ったショックからベッドで眠っている。銀狼は落ち着かないのか疲れているであろうにこのフロアを警戒してうろうろしている。そして自らの筋力を強化してバリケードを築いたフラットは魔力的にも体力的にも大きく消耗している筈だ。同じく疲れてはいるが、この中で最も余裕があるのはティーネなのは違いない。
「いや、多分その倍以上の時間はかかるじゃないかな」
「? それは随分と楽観的ですが、根拠はなんですか?」
「ライダーだよ。ライダーが操る人間には無駄が多すぎるんだ。人数を絞って効率よくバリケードを撤去すればいいんだろうけど、次から次へと人が集まって撤去どころじゃなくなっている」
 廊下側の窓から外を見るフラットは逆側を見てみなよと指で向かいの窓を指さしてみる。
 ティーネが病室側から窓の外を見れば、そこはもう完全に人、人、人。壁を伝って中に入ろうとする者もいるが、とっかかりのない壁ではそれも難しい。それでも、少しずつバリケードの材料が外へと持ち出され始めている。
 確かに、ここに辿り着くまでに相当な時間を要することだろう。
 一息入れる程度には、余裕ができた。
「……状況を整理しましょう。椿は令呪を使用しましたね。あの時、何と言ったか覚えていますか?」
「こんな世界なくなっちゃえばいい、とか言ってたね」
 それはつまり、この世界そのものの否定。
 ティーネとフラットが最後まで選択しないと誓った選択肢。
「ライダーはマスターたる椿を殺すつもりでしょう」
「都合良く解釈すれば椿ちゃんの脳内にある魔術回路だけを健全に修繕する、ということもありえるけど……」
 そうであれば一番良いのだが、あの単純な命令しか聞けないライダーがそんな精細極まりないことをするとは到底思えない。椿を殺すだけなら、実に簡単にこの世界をなくすことができる。
 令呪の命令に幅があるのだけが救いだが、これでこの世界から全員で脱出する当初のプランは一気に難易度が跳ね上がる。
「もっと調べたかったのですが、もうこの辺りが潮時ですね」
 結局入り口は見つからなかったが、この病院の地下が怪しいことは判明した。現実に戻れば部下の数で群を抜いているアーチャー陣営が有利である。人海戦術を使えばすぐに手がかりを掴めることだろう。繰丘に手紙を送った市議の自宅を抑えることができればほぼ確実だ。力さえ戻れば、ティーネ一人だって可能だろう。
「椿を任せても大丈夫ですね?」
「うん。資料は全て頭に入れたし、あとは現実で僕が施術できれば椿ちゃんは日常生活に戻すことができるよ」
 儀式場の構築や特別な薬品も必要はない。椿の魔術回路の形と特徴を把握した以上、フラットは椿の頭を切開することなく適切な形に戻すことができる。後は椿の令呪が二画あれば全ての問題はクリアされる。
「となると問題はここをどう乗り切るか、というところですね。やはり英雄王に頼む方が確実でしょう」
「いや、召喚するならまず俺のジャックで様子を見よう。何も知らないままじゃ火力に任せて台なしになる可能性も高いんでしょ?」
 それは以前にも話した内容だ。アーチャーの性格が相当面倒なのは確かであり、ただ召喚するだけでは焼き尽くされて終わりになってしまう。
「では今すぐにでも?」
「いや、ライダーは今までにないほど莫大な魔力を消費している筈なんだ。こうして時間を稼げば稼ぐほど、ライダーの魔力は弱まっていく。最後の最後まで粘った上で召喚すればそれだけ成功率は上がる筈だよ」
 フラットの提案に、仕方ないとティーネも同意する。成功率が上がると言ってもせいぜい数パーセント程度に違いない。けれども、全員が助かる可能性を高めることができるのならば、それに命をかけると二人は迷わなかった。
「じゃあ、時間もあることだし、僕はバリケードの強化をすることにするよ。ここのベッドを横にすれば――」
「フラット」
 立ち上がり疲れている筈なのに無理して動こうとするフラットに、ティーネは声を掛けずにはいられなかった。
 気付かぬふりはしてきた。しかし、さすがにこの場で逃げようとするフラットをこれ以上そのままにさせるわけにはいかない。
 二人の距離は、話し合いにしては余りに遠かった。そしてフラットはそれを意識してティーネを遠ざけている。
「私に、何を隠しているんですか?」
「…………」
 ティーネの問いにフラットは長い沈黙の末に目を逸らした。そういえば以前に英雄王と似たようなことがあったことを思い出す。隠している事実を知られたくない、そんな顔をフラットはしていた。あの時と立場は真逆となっているが、なるほど、英雄王の気持ちも分かるというものだ。
「まだ私には疑問があります。自発的に喋って頂けると私としても助かります」
 魔術の使えぬ今のティーネでは魔術の使えるフラットには勝てない。しかし、今のティーネでもこの疲れ切ったフラットであれば十分に勝てる自信はある。フラットが答えねば無理矢理にでもティーネは吐かせるつもりで脅しをかける。
 フラットの元へ足を踏み出そうとするティーネに、ついにフラットも根負けした。
「……誤魔化せない、かなぁ」
 後頭部を掻きながらフラットは困った顔で自らのシャツを捲って腹部をさらけ出す。一瞬ティーネにはそれが汚れかと思ったが、よくよく見ればそれは黒い斑点。黒い斑点が、フラットの体内から浮き上がっていた。
 その正体は分からない。だが、その部位についてはティーネには心当たりがあった。ライダーは当初、直接的な攻撃を仕掛けてきた。一撃目は銀狼によって避けられ、二撃目はフラットが自らを盾に阻止してみせた。
「私たちを、庇った時の痕ですか」
「……いや、違うよ。庇った時の痕じゃない。これは庇った後の痕なんだよ」
 やや怪訝な顔でティーネはその意味を反芻する。事実へ辿り着くには、そう時間がかかることではなかった。
 フラットの黒い斑点は内出血などではない。この斑点はフラットの内側から出てきた異常である。
「ライダーの正体がようやく掴めたよ。最初は赤死病の王子プロスペローや疫病王ジャニベク・ハンとかを想像していたけど、ライダーの正体はそんな小さなものじゃない。
 あれは黒死病やスペイン風邪といった病気が形となった英霊なんだ。ヨハネ黙示録における第四の騎士“ペイルライダー”――いや、これは英雄王どころではない反則級の英霊だね」
 これはあくまでフラットの推測ではあったが、ティーネもそこに異論はなかった。ライダーが行った行為が“病気の感染”だとすると、免疫力の低い病人が多いのも頷けるし、女医の話とも符合する。
「……治療は、可能ですか?」
 フラットが言わんとしていることを察してティーネはそれ以上近付かない。
 ライダーの正体が病気だとするならば、感染する危険がある。そしてそれが一定値を超えるとライダーの傀儡と化す。フラットがティーネと距離をとっていたのは接触して感染するリスクを少しでも減らすため。そして自分が動ける内にできるだけのことをしようと思っていたのだろう。ギリギリまで時間を稼ぎ、最後の瞬間に令呪を使ってサーヴァントを召喚し、自らは窓から身を投げるつもりなのだろう。
「大丈夫。多分ライダーを倒せば元に戻るよ」
「そんな保証、どこにあるんですか!」
 ティーネの心配に対していつも通りの笑顔で答えるフラットに、ティーネは珍しく怒鳴りつけた。そして、一度は立ち止まったその足を、再度動かし――フラットの至近距離まで近付き、フラットへと抱きついた。
「あ、えっと、ちょっと」
「よく見せてください。まだ手があるかもしれません。どうせあと数時間しかないんです。数分か一時間の差であればそんなの誤差の範囲内です」
 声こそいつも通りの平坦であったが、今のティーネは自らの顔を偽れる自信はなかった。フラットの心配りにもっと早くに気付けなかったと後悔が湧く。こんな至近距離で大胆な行動をとったのもフラットから顔を隠すために他ならない。
 だがそのおかげで、ティーネはある疑問に辿り着く。
「……感染から約半時間が経過してる筈……しかしそれにしてはこの程度で何故済んでいるんでしょう?」
 間近で見るフラットの腹筋は意外に筋肉質だと思いながらも、黒い斑点をまじまじと見ているといつも通りの冷静な自分が戻ってくるのを感じ取れる。試しに触れてみるのはさすがに駄目だろうが、それにしてもライダーが令呪の命令をもって本気で殺そうとしてこの程度の結果とは余りにおかしい。
「ああ、それは僕が魔術回路を励起状態にしていたからじゃないかな」
 あの時、フラットは暗示のために魔術回路を励起させ体内には魔力が満ちていた。実際、ライダーの攻撃を防いだ際にも魔力を奪われた感覚があったものの、衝撃は相当に和らいでいたのだ。
「なるほど、だから、ライダーは自らが追いかけることをせず、傀儡に私たちを追いかけさせているワケですか」
 ライダーのあのアンバランスなパラメーターを思い出す。
 恐らくあの攻撃はライダーにとって最大級の攻撃だったのだろう。ライダー自身に直接的な攻撃能力はほとんどなく、もっぱら感染による間接的な攻撃能力しかないに違いない。フラットへの攻撃が想定を遙かに下回った結果であったことからライダーは勝手にそれを無意味な行為と判断し、別の策をたてたのだろう。
 ここにきて、ようやくライダーへの対処策を見つけたわけだが、これは保険程度の意味でしかない。フラット、椿、銀狼は魔術回路を励起させて対処の幅を広げることはできるが、ティーネは自らで魔力をあまり供給できないので魔術回路を起動することさえできない。
 とすると、今のティーネの行動は軽率以外の何物でもない。触った瞬間即感染即傀儡となれば計画どころの話ではない。
「感染……してないといいんですが」
 現状では大丈夫だろう。しかし、それは時間の問題でもある。感染経路には恐らく空気も含まれており、周囲を囲まれたこの状態では時間経過と共にその濃度は濃くなる筈だ。
 今ティーネが健全である理由は体内の免疫力が一定レベルを維持しているからだ。それを下回れば、多少の時間差はあるがライダーに支配されるのも遠い話ではない。それこそ、フラットよりも早くその時が来る可能性の方が遙かに高い。
 早急に免疫力を高めるか、魔術回路を起動できるだけの魔力を集める必要がある。
 しかし、病院とはいえ少し点滴するぐらいではあまり意味はないし、魔力の供給こそ、無理――
「……じゃない?」
 自らがいまだにフラットに抱きついていることを思い出し、ある事実に気がつく。
 ここにいる二人は魔術師であり、そしてティーネは女性で、フラットは男性だ。
 魔術師同士の波長を合わせる方法なんて、それこそ一つか二つくらいしかない。
 思いつくと同時に、何となくではあるが同じ結論をフラットも思いついたのだとティーネは確証もなく思った。
「ティーネちゃん」
「は、はい!」
 思わずティーネはどもるものの、頭の回転は速かった。これからどうすれば自らの魔術回路が起動できるのか、瞬時にしてその方法を思いつく。超えるべき技術的ハードルは皆無に等しく、メリットはデメリットより遙かに大きい。
「俺と霊脈を繋げば時間稼ぎができる」
「けれど、それはフラット自身の時間を削ることを意味します」
 ティーネが危惧する通り、フラットの魔力をティーネに分ければその分フラットの魔力は減り、体内での浸食スピードが速くなる。浸食具合からすればフラットだってそう長く保つわけではない。
「それこそ、さっき君が言った言葉じゃないか。数分か一時間の差であればそんなの誤差の範囲内、だよ」
 フラットの言うとおり、実際フラットの魔力量であればそこまで大した問題ではない。確実に短くはなるだろうが、フラットにとって一番の問題なのは既に感染しているという事実のみ。フラットに必要とされるのは肉体そのものの堅強さであり、魔力の問題は二の次でしかない。
 フラットが申し出た策は、この場の全員が最も長く現状を維持できる最善の方法だった。
「あ、……う、……」
 だというのに、ティーネは即答できなかった。
 頭では分かってる。しかも、心で反対しているわけでもない。問題は、心でもいやがっていない、という事実だった。
 抱きついたまま、数秒が経ち、一分が経ち、更に数分が過ぎ去る。一度だけ銀狼が部屋に近寄ったが、空気を読んだのかそのまま通り過ぎていった。しかも何も気付かなかったように露骨に視線を逸らしながら。
「その……私は、先日初潮がきました」
 長い沈黙の後の告白にフラットが唾を飲み込んだのがわかった。耳元に当てるフラットの体内は、終始心音が激しく聞こえる。ティーネの鼓動も同様だった。
 こころなし、フラットの身体にはびっしり汗をかいているようにも思える。緊張しているのか、それとも何か慌てているようにも感じられる。
「そんなわけで、経験も、まだ、ありません」
 そういえば、と自らの白いドレスを顧みる。あちこち駆けずり回り、バリケードを作るのにも相当な無茶をした。そして何より銀狼が服を咥えてライダーから回避したので、胸元が大胆に広がりかなり扇情的な格好になっていた。
 顔が赤いのが自覚できる。しかし、こういう時こそティーネ・チェルクという存在は冷静に冷酷に、常に客観視点で動くべきと思う。
 意を決し、フラットの顔を見ないよう、俯いたまま椿の寝ているベッドのカーテンを閉める。病院というのはこうした個々のベッドのカーテンを閉めればある程度のプライベートが守られる。
 そして、同室の対岸側も同様にカーテンを閉じ、ティーネはフラットの手を取り中に入った。これからのことを考えれば別室に行きたかったが、椿が目覚めたときにすぐ対応できるように動く必要もある。結果としての折衷案ではあったが、カーテンを閉じればそこにあるのはベッドのみ。どこにでもある個人用の白いベッドの筈なのに、ティーネにはやけに大きく見えて仕方がない。
 やり方だけなら、書物から知っているし、教育係から生々しく教わったこともある。そして大婆からはそうした秘術も伝授された。しかしどうしてだろう、それら全ての知識がどうしても思い出せない。思い出したのは又従姉妹が話していたそういった場合のマナーだけ。
 曰く、裸になって男に任せろ。
「よ、よろしくお願いします!」
 普段のティーネからは到底考えられぬ顔と態度。頬を赤らめ視線を彷徨わせながら「優しく、お願いします」と小さな声で呟いた。粘膜感染の危険性については頭から完全に抜け落ちていた。
 ドレスを脱ぎ下着となったティーネはベッドに横たわり、未だ繋がれたままのフラットの手を強く握り締めた。


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 ライダーという存在に本来人格などある筈がない。
 疫病そのものと言っても過言ではないライダーの正体は物体や霊体ですらないただの自然現象でしかなく、それ以上の超自然現象でもそれ以下の形而上的事象ですらない。だというのに人格を持っている理由は「ペイルライダー」という象徴によって形を無理矢理与えられ現代知識をインストールされたからに過ぎない。
 人工知能においていかに人間らしく振る舞えるかというテストにチューリングテストというものがある。この世界に召喚されたばかりのライダーは実を言えばそれに合格することすらできぬ初期段階のプログラムでしかなかった。兎角元となったペイルライダーそのものにしても死を撒き散らす無慈悲かつ機械的な存在。元来規定されるべき性格からして最初からなかったのである。
 ただ、生まれたての赤ん坊同然のライダーにとって幸いであったのは、育ての親たるマスターが善悪の判断もろくにできぬ子供であったことだろう。無邪気であり無垢な彼女の手によって結果的に繰丘夫妻の末路は悲惨としかいいようのないものになったが、それでもライダーは椿に忠実この上ないサーヴァントへと成長した。
 例え椿がライダーを信用せずともライダーに裏切るという概念は存在せず、令呪を使わずとも死ねと言われれば躊躇なく消滅することだろう。
 滅私奉公のサーヴァント。おおよそ元になったペイルライダーらしからぬ成長を遂げたライダーではあったが、それ故に今まさに彼は当惑していた。
 どうして良いか分からず判断に「困った」ことは多々あれど、「当惑」という意味では今回が初めてのことである。
 何故なら自分が一体何をしているのか全く分からないからだ。
 自らの行動そのものは全て彼の意識によって彼の末端は動いている。人間で例えるなら、ライダーは自らの意志で手足を動かし、そして同じ意識レベルで心臓を動かしているということだ。
 しかし今回に関してはそれは違う。
 ライダーは確かに椿の要望を聞いたが、あのような行動をとるつもりは欠片もなかった。いや、そもそもライダーは椿の要望を理解することができず「困った」ので、何のアクションもするつもりはなかった。
 けれども、実際にライダーは椿を攻撃しようとした。一度は銀狼によって回避され、二度目は男に邪魔された。
 この反省を踏まえ、ライダーは魔力による干渉手段を止めて、もっと物理的な手段を用いるべく身近な人間を操り追い詰めるという行為まで行っている。
 ここで再度ライダーは自らの行為に当惑する。
 ライダーは自らを自らの意志でコントロールしている。しかしその発想は実に機械的であり、試行錯誤とは縁遠い代物である。だというのに人間を大人数コントロールするという発想は本来ならライダーの中にはなかったもの。椿からの入力によって対象の脳内物質を多少操り人をそう仕向けることは覚えたが、これはそれよりも遙かに高度な内容である。
 これが令呪が持つサーヴァントへの絶対強制力である事実にライダーは気がつかない。辞書の引き方を知らなければ辞書は無用の長物となる。自らにインストールされている膨大な知識を検索し参照することを知らぬライダーは、ただただ当惑するばかり。
 そしてもっと酷いことに、その当惑は時間が経てば経つほど増えていく。
 最初は、攻撃の手段。次に、人を操るという戦法。更に次は操る人数を増やす人海戦術。そしてここで自らの魔力供給に問題が生じ、ライダーは“魔力を補う”ために感染者を増やすという兵站の確立という戦略までしてしまった。
 意図して拡散したわけではないが、既にライダーによって感染させられた人間は約八万人。実にスノーフィールド全体の一割にあたる人口を魔力源としてライダーはこの手にしていた。そこから更に感染者を増やし、順次吸い上げる魔力をもって操る人間を増やしていく。
 もうここまでくると、ライダーも薄々感づいてくる。
「ワタシハシンカシテイル」
 元々疫病の発生は細菌やウイルスの突然変異によるところが多い。たった一画の令呪によってライダーは以前の数十倍の知能と応用力を数時間で身につけていた。そして自覚し声に出すことでますますそのスピードは上がっていく。
 人間の中に魔力を注ぎ込むのに適した者と適していない者がいる。ならばその者に見合った量の魔力を込める。更に突き詰めると適していない者からは魔力を与えず、適した者に魔力を与えた方が良い結果を得られることを突き止める。漫然と数で押すのではなく、動きやすさを考慮した数を選択する。役割を分担し、個々の能力に合わせた利用をすることで効率化を図る――
「シコウサクゴ。テキザイテキショ。コウリョ。ヤクワリ。コウリツカ」
 それは一体なんだとライダーは思う。
 ライダーは、ただ椿から呼びかけられ、それに応じただけの存在だ。それに目的などはなく、自らが悪魔か天使かも分からぬまま、ただ用意されていた契約を内容も確認せぬままに契約した。後は己の存在を打ち付ける契約の楔に付き添っていたに過ぎない。
 椿に付きまとい要望を聞いていたのはただそれだけの理由であり、感覚としては雛鳥が最初に見た者を親と認識するのと何ら変わりない。
「ツバキ。ワガマスターヨ」
 私は、こんなことをしたくはない。
 それはおそらく、召喚されて初めてライダーが抱いた「想い」なのだろう。
 けれどもこの身体は、もはやライダーの思い通りにはならない。
 スノーフィールド中央病院の中庭からライダーは隔離病棟の五階を見上げる。この黒い影がライダーの本体というわけではなかったが、視界を得るためにはある程度の魔力を集中させる必要があった。それが結果として黒い影となって顕現している。
 パリ、とライダーの黒い影に魔力の紫電が一瞬表れる。肉体を持たぬライダーにそれは痛みとして認識しえぬものだが、ライダーの身体の中にコントロールできぬ部位が一瞬だけ表れる。少しでも無意味な行動をとってみただけでこれだった。全力で抗えば抗った分だけライダーは自らのコントロールを失うことになる。

 ――もう嫌だ! こんな世界、なくなっちゃえばいいんだ!

 あの時の椿の言葉をライダーは思い返す。
 あの椿の言葉がこの事態の発端であることに疑いはなかった。そしてライダーは、その言葉によって自らの力が強制されていることにも気付けるようになっていた。そしてそれが一体何を意味するのかも。
 見上げた視線の先で青年と少女と銀狼が多勢に無勢で懸命に抵抗をしている。もはや障害となるべきバリケードはなく、波状に攻撃を仕掛けることによって彼等の疲労は限界に近付きつつある。
 もう、どうしようもない程椿たちは追い込まれている。あと十分もすれば、彼等も現実へと帰り、ライダーの糧となる。最後に残った椿にはもはや何もできることはない。最後になった椿を――
「……ワタシハ、コレカラツバキニナニヲスルノダ?」
 今までは理解できない問題は全てスルーしてきた。しかし、ここに至って進化はライダーに疑問を解消するための思慮を身につけさせようとしていた。
 先ほどからライダーは己の行動が椿の確保、もしくは椿の元への到達にあることを認識していた。そのためにライダーは彼等の行動を読み取り効率的効果的排除方法を繰り返し計算し続けている。しかし計算し続けた結果、彼に残されたのは疑問のみ。
 彼等を排除し椿を追い詰めた先に、一体何があるのか。一体何を、させようというのか。
 死をふりまくことが存在意義であるが故にライダーには人を殺すということが一体どういう行為であり、どんな意味を持つのかは理解できない。殺すことへの拒否感を仮に人間と同様にライダーが持てば、それは自らの存在を否定することに繋がる。故にいくら進化しようともライダーは人を殺すことへの拒否感を抱くことは絶対にあり得ない。
 そして根本的にライダーと人との間には埋めがたい認識の差異がある。脳死状態の人間の生死を人は討論するが、ライダーはそんな討論をするまでもなく“生きている”と判断を下す。何故なら彼の判断基準は細胞の活動状態に左右されるからだ。例え繰丘夫妻のように細切れ状態になったとしても、彼は細胞の一部だけでもまだ活動していることから繰丘夫妻はまだ“生きている”という認識を持っていた。
 これから一体椿に何をするのか。世界を消滅させたいというのなら今世界を構築している椿の脳をいじるのだろうか、それとも脳を壊すのだろうか。あるいは、マスターがこの世界を維持できぬまで魔力を吸い取ればいいのか、マスターそのものを取り込んでしまえばいいのか。
 その手段の殆どが人として椿を殺す手段ではあるが、マスターたる椿にそもそも何らかの干渉をしてしまうことにライダーは否定的であり、恐れていると言い換えることもできる。その理由は……
「ワタシハ、ワタシガワカラナイ」
 何故かと問い続けながらも、答えがでる気がまったくしない。
 それがいわゆる“心”に近いものである以上、ライダーが気付くのはまだまだ時間を要するだろう。それは効率とか理屈とか最適化とか、そんな四則演算で理解などできる筈がない領域だ。
 けれども。
 遅まきながらもライダーは自ら予測したあらゆる結果を確かにイヤだと感じた。なんとかしたいと思った。また椿と共に歩みたいと願った。
 ライダーの“心”の萌芽は奇跡と呼べる事態であるが、全体に対して与えた結果はもはや変えようもない段階に来ていた。定められた方針によって動き、最短最速の手段を選びそれがもうすぐ成就するともなれば、令呪の強制力に逆らうことなく平和的かつ安全な方法を選ぶことなどできる筈がない。
 ただ希うことだけが、彼にできる唯一のこと。
 だがそれもすぐに諦めへと変わる。
 先ほどから獅子奮迅の活躍をする少女の動きを大男が数人がかりで封じこめる。のらりくらりと一撃離脱を繰り返す青年の逃げ場を陣取りゲームのように徐々に奪い取る。こちらも少女同様に数人がかりで封じ込めるが、男たちに供給する魔力は他の者の数倍。例え骨が砕け腕が千切れようとも、彼らはライダーの指示に従い少女と青年を絶対に離しはしない。残った獣は椿がこれを抱きしめ離さず、唸り声で威嚇はするが椿と共に何の抵抗もなく複数人の手によって押さえ込まれる。
 これで、ライダーにとって障害となるものは全てなくなった。
 ライダーの希望は、無残にも打ち砕かれた。
 それでも、ライダーはその歩みを停めることができない。ゆっくりと宙に浮かび五階まで上昇する。閉じられた窓があっても問題はない。物理的障害などライダーには無意味。
 そして、ライダーの登場を出迎えたのは、
「フラット!」
「ティーネちゃん!」
 数人の男たちに覆い被され、もはや何の抵抗もできぬ二人の掛け声だった。
 その声を合図にしたかのように、拘束している男たちに隠れるように身体を縮ませ眼を閉じ銀狼を抱きしめる椿の姿。ライダーと同じく言葉を解さぬ銀狼も何かが来る予感を感じ取り動けぬ中でも必死に椿を守りながら防御態勢を取ろうとしていた。
 そして。
「3、2、1!」
 叫ばれるカウントダウン。そして遅まきながら、ライダーは廊下に描かれた魔法陣の存在にようやく気付く。
 この世界は体外への魔術行使は不可能ではあるが、体内に対しては有効である。そして、体外に出した血で魔術行使ができるかは既に実験済み。フラットの血液によって描かれた簡易魔術によって実際にライダーはその一部を吹き飛ばされたこともある。
 だがライダーが今気付いた魔法陣はあの時とは全く異なるもの。その魔法陣は巨大で緻密であり、流れる魔力も臨界状態。更に言えばそれは床だけでなく天井や壁にすら掻かれた立体複合型連鎖術式。爆心地に威力を集中させ相乗効果で威力を何十倍にも跳ね上げる芸術品である。
 ゼロ、のカウントダウンはなかった。
 光り輝く魔法陣。こうなってしまえばもはや止めようもなく、そして避けようもない。
 そして爆心地に出現したライダーの体内から爆発が起こり――
「――そんなっ!」
 少女の悲痛な声が次の事実を物語った。
 この罠は非常に良くできていた。術式ひとつとっても実に見事であり、流れる魔力も淀みなく、逆流を防ぐためにバイパスも作られ芸術品としての完成度も高い。そして連鎖術式というところからもこの術式は術者が複数必要であり息の合ったタイミングがあって威力を相乗的に高めるものだ。
 タイミングは絶妙であり、サーヴァントといえど決して無視できぬ威力。唯一の難点を言わせれば、あまりに威力が高すぎて余波で術者を傷つける可能性が高いというところか。そのためにワザと覆い被さられ余波から逃れられるように二人は捕まったし、椿には銀狼を捕まえて対ショック防御をとるよう指示していた。
 それでもリスクは高いが、それ以上のリターンは得られるとティーネは踏んでいた。これでライダーを倒せるなどとは思えないが、最低限時間稼ぎはできるし魔力を消費させればその分勝率は高くなる。
 少なくとも、そのつもりではあった。
 想定よりも遙かに少ない砂埃の中から、ライダーは悠然と現れた。以前の魔法陣では一部が吹き飛んだというのに、そうした気配もない。むしろ、ライダーはこの攻撃を最大限に受け止めてすらいた。その証拠に余波による衝撃がどこにも発生していない。
「あれで……無傷!」
「椿ちゃんを余波から守ることも想定してたけどねぇ」
 ほとんど全魔力を消費したフラットが青い顔で暢気な感想を述べる。
 決して少なく見積もったつもりはなくとも、それでも想定外と言わざるを得ない化け物へとライダーは至っていた。
 ライダーの保有する魔力の密度は過去に実験したときと比べ三〇〇〇倍近くに跳ね上がっている。ここまでくるとライダー相手に魔術で傷つけることは事実上不可能であり、物理攻撃が意味を成さぬライダーは無敵に近い防御力を有していることになる。
 フラットとティーネがライダーの背後で視線を合わせる。そのことをライダーは知らないし、仮に目撃したとしてその意味を考えることもしないだろう。背後の二人の手に込められようとしている魔力の高まりにすら、ライダーは気づきながらも気にしない。
 椿に触れるその一瞬前に、二人は己のサーヴァントを召喚する。
 一瞬一秒でも長く時間を稼ぐ。余波で覆い被さった人間を吹き飛ばせなかったのは誤算だったが、肝心要の令呪による召喚には何の不自由もない。
 ライダーはゆっくりとその身体を動かした。パリパリと小さな紫電がライダーに起こる。椿を傷つけたくないというのは何もフラットとティーネに限った話ではない。ライダーもまた、令呪に逆らわぬ範囲で時間稼ぎをして己と戦っていた。
 そんな時間にしてわずか数秒程度の小さな努力が、また一つの時間稼ぎを産み落とした。
 椿が抱いていた銀狼、である。
 元より椿に拘束されていたこともあり、銀狼そのものの拘束は緩い。椿を傷つけることを恐れて拘束よりも逃がさぬことに重点を置いたのも裏目に出た。それに加えて銀狼の筋力はそこいらの人間の力を上回っている。彼もまた、自らが飛び出す機を窺っていたのだ。
 ライダーが椿へ触れようとする直前に、銀狼は椿の腕の中から飛び出していた。物理攻撃は効かぬ彼ではあったが、魔力を身体に巡らせた体当たりには多少ではあるが効果はあった。
 その一瞬でライダーの疫病に感染する銀狼ではあるが、ライダーが伸ばした腕は宙へと霧散する。再度元に戻る腕にも返す身体で飛びかかり、またもライダーの身体は霧散し、再度復元するまでの数秒の時間を稼いでみせる。
 その気になればライダーは一瞬で銀狼を退治することができる。それをしないのは、銀狼の攻撃があまりにライダーにとって効果がないことと、ライダー自身が時間稼ぎを是としていたに他ならない。
 銀狼の体当たりは続く。
 三度、四度と飛びかかり、二桁に達する頃には着地すらままならず、壁に強かにぶつかりながらも諦めることなくライダーに飛びかかってゆく。
 全力で動いていただけに魔力は底を尽きかけ、病魔に蝕まれた身体は自由が徐々に奪われていく。それでなくとも全身の骨にはヒビが入り、牙の一本は折れてしまった。
 時間稼ぎは数分に及んでいる。ここにきて、ようやくライダーは――令呪は銀狼を障害と判断する。操っている人間の中からまだ無傷である者を一人選び、銀狼が着地した瞬間を狙い鉄パイプでその前足を容赦なく殴打した。
 鈍い音のしたその一撃にも、銀狼は欠片もひるまない。これで足は確実に折れ、飛びかかることはもうできないというのに椿の前で唸り鬼気を撒き散らすことでライダーの足を止めようとする。その様は義経を死守せんと仁王立ちする武蔵坊を彷彿とさせる荘厳さがあった。
 フラットもティーネも、この瞬間まで銀狼の存在を誤解していた。銀狼はただなんとなく付いてきたわけでも、この場にいたわけでもない。同盟を組んだティーネですら銀狼を仲間としてちゃんと数えたかといわれればそうではない。人間ではない獣として人間三人は銀狼を見ていたことは否定しようがない。
 けれども、銀狼は違った。
 銀狼は、ティーネを、フラットを、椿を、彼のサーヴァントであるランサーと同じく群れの仲間として扱っていた。ほんのわずかな時間を共にしただけではあるが、銀狼にとって彼らは命を懸けて守るに値する存在だと断言できていた。
 限界を超えた銀狼を止めたのは、その背後にいた椿だった。椿を捕まえていた人間は椿の胴を掴みはしていたものの両手の自由は許していた。だからこその椿は銀狼を捕まえることができた。これ以上自分のために銀狼が傷つくことを防ぐことができた。
 椿は既に両親の死のパニックから脱している。少なからず放心状態であることには違いなかったが、懸命に慰めようとする銀狼と自らを守ろうとするフラットとティーネによって絶望に突き動かされることはなかった。
 そして、銀狼の動きは椿の心を、そして身体を動かす力を与えた。戦闘に参加せず、ただ罠に対して怯え防御するだけの心の弱いだけの少女はここにはいなかった。
 ここに、銀狼と椿の間に心が通った。
 椿は銀狼を守りたいと思い、銀狼は椿を守りたいと思った。
 ライダーはその様を見ながらも、黒い霧を網のように上部に発生させる。腕という線ではなく、網という面によって確実に椿を捉えるつもりである。
「ツ、バ、キ」
「ライ、ダー?」
 ライダーの網は完成していた。あとはそれを振り下ろすだけでことは終わる。だというのに、ライダーの身体は一向にそれ以上動こうとしない。それどころか、椿と会話を試みようとすらしている。
 ライダーの身体にあちこち紫電が走り続ける。それは令呪の強制力にライダーが逆らっている証拠だ。だから、残った時間はせいぜい一言。

「ワタシハ、ダレモ、キズツケタク、ナイ」

 それはライダーが出した結論。
 理屈などを超越し、計算では導き見つけ出すことのできない“心”そのもの。
「うん、わかったよ、ライダー」
 大粒の涙をポロポロ零し応える椿。その涙を受け止め、もはやあれほど強烈に放っていた鬼気を銀狼はその身に収め、ライダーをただただ見据えていた。
 その数秒が、ライダーには限界だった。
 無慈悲に振り下ろされた黒い霧の網を、椿と銀狼は目を逸らすことなく見続けていた。


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 その戦闘は何の打ち合わせもなく行われた。
 これが騎士同士の戦いであれば互いに名乗りもあっただろう。街中のチンピラであっても、陳腐ながらも口頭による礼儀作法に則って殴り合いへと発展するだろう。獣ですら、互いに威嚇し合い相手の力量を探ったに違いない。
 ここに互いに礼儀礼節を必要としない自然現象としての戦闘があった。磁石のS極とN極が近付けば互いに引きつけ合うように、その場に顕現した瞬間から一切合切の事情を抜きに両者は全力の一撃をお互いに叩きつけ合った。
 スノーフィールド中央病院、その隔離病棟の屋上。
 周囲の建物もあるので軽く跳躍すれば隣に移れるこの場所は、狭い屋上であっても両者にとっては広いグラウンドと然程変わりない。むしろこの場所より高い場所が少ないので大技を放ちやすく、また正面衝突以外の選択肢を取らせない、実に互いの理に適った環境であった。
 両者は互いに力任せの一撃を放つ。そこに技量は関係なく、込められた魔力は絶大。一方の斬撃はその余波で敵どころか遙か後方にあるビルをも左右に両断してみせる。もう一方が放った魔力は濁流の如く敵を呑み込みながらその飛び散った魔力の飛沫は周囲一帯に小さなクレーターを幾つも穿ってみせる。
 片や身体が左右に別たれ、片や魔力弾で身体はズタズタ。見る限り両者の一撃は致命傷で、相打ちのようにしか見えない。互いに知性を感じさせぬ戦闘であるならば相打ちの結末など珍しくもない。自らの勝利や敗北よりも敵の殲滅を第一義とするなら、むしろこれは自然な流れともいえよう。
 だがそんな自然などここには存在しない。両者とも原型留めぬ身体でありながら方や横に敵を薙ぎ払い、方や先と同様濁流の如き魔力の放流。先と違ったことといえば、遠方のビルが倒壊したことくらい。
 このままではまずイタチごっこだろう。同じことを同じように繰り返し、どちらが先に力尽きるかの根比べ。互いに追い詰められるところまでこない限り、この勝負に変化はない。
 もしくは、
「お願い、止めてライダー!」
「矛を収めてください、ランサー!」
 第三者の介入でも、ない限り。
「ツバキ」
 再度放とうとした魔力を発射直前にキャンセルできず明後日の方向へと向けて飛ばしたライダーは十字に斬られた身体を再び集結させる。一瞬歩み寄ろうと戸惑いが見られたが、ライダーが椿の元へ行くことはなかった。
「――愚かなことを。これで僕が引かなければあなたの命はありませんでしたよ?」
 このわずかな時間に元の端麗な顔立ちへと復元されたランサーは手を広げ立ちふさがったティーネに苦言を呈する。事実、ランサーはライダーが止まっていなければ容赦なく槍を振るうつもりであった。
「ああ、もしかしてあなたがジャックさんのマスターですか?」
「その根性なしは今頃この下であなたのマスターを介抱中です」
 ややフラットについて怒気を込めながらティーネは説明する。
「私はアーチャー、英雄王ギルガメッシュのマスターでスノーフィールドの原住民の族長をしております、ティーネ・チェルクと申します」
 ランサーに対しティーネはスカートを両手に摘んで一礼する。アーチャーから聞いてはいたが、その顔立ちと手持ちの武器からランサーのサーヴァント、エンキドゥに間違いないと判断してのことだ。そうであれば今後のことを考慮して名乗らぬわけにはいくまい。
「それは危ないところでした。では、あなたを殺すわけにはいきませんね」
「ありがとうございます」
 予想通りの解答を得てひとまずティーネは安堵する。一体どこまでティーネの価値を高く見積もっているのかは不明だが、意識に留められたということはそれだけランサーの行動を鈍らせることも可能ということ。全員の身の安全を約束されなかった以上、この身を呈せば躊躇するだけの時間は生めるだろう。
 そんな事態になるのは御免だが、しかしそれとは別に確認すべきことはある。
「ジャックさんから話は聞いていただけましたか? 彼を通じて不戦協定を提案された筈です」
 それはフラットが予め用意していた保険の一つ。
 携帯電話でフラットがジャックに現状を伝え、同盟を組んだ全員が現実世界に戻れるよう可能な限り他サーヴァントに不戦協定を結んでもらうよう依頼していた。
 特に事情を知らぬアーチャーが召喚された場合、ティーネがいるとはいえ問答無用で殲滅しそうであるし、万が一にでも銀狼がサーヴァントを召喚する状況になった場合、一体どのサーヴァントが召喚されるか分からなかったからである。
「ああ、あれは君たちの策ですか。条件付きで承諾はしましたよ。無抵抗の者であればマスターやサーヴァントでも、僕に傷つけるつもりはありません」
 こういう事情だったか、とランサーは頷いた。事情は知らぬようではあったが、何にせよこれでここからの脱出計画はまた一歩前進したことになる。
「ただし――」
 ティーネが安心したのもつかの間。ランサーの整った容貌に殺気が生まれる。
「このサーヴァントだけは例外、かな」
 槍を宙で回転させ、ランサーは明かに戦闘スタイルで槍を構える。明かな戦闘意志を見せつけるライダーに対して、バーサーカーと約束した不戦の条件はクリアしていない。しかし、例えそれをクリアしたとしても例外であるとランサーは告げてみせた。
「大丈夫です! 私のライダーはもう人を傷つけません! そう命令しました!」
 ライダーの前でティーネと同じくランサーへと手を広げ立ち塞がる姿は、椿にとって実に勇気が必要な行動だったに違いない。先ほどまで自分を殺そうとしていた者の前で背後を見せるのもそうだし、殺気全開で構えるサーヴァントを前に意見すらしようとするのだ。
 その椿の手に令呪はもはや一画しか残っていない。
 椿が助かるために令呪は使ってはならないと約束させられてはいたが、椿は自らの意志でその約束を破った。これ以上仲間が傷つく姿を見たくなかったし、それよりもライダーの意志を尊重したかったのがその理由だ。
 そのために、椿は自身にかかるありとあらゆるリスクを許容している。己の死はもちろんのこと、また一人でこの世界に取り残される覚悟すら椿はしていた。それは他人を知ってしまった今の椿には死よりも恐ろしいことの筈だったが、そんなことが些事だと椿は令呪を使ってみせた。
 その覚悟は椿とパスで繋がっているライダーも感じ取っていた。だからこそ椿を助けたいとライダーは必死になって解答を模索し、そして結論を出していた。
 ライダーには「人を傷つけるな」という令呪の強制力が効いている。だがその範疇にサーヴァントは含まれない。
 第一の令呪、第二の令呪、両方共に逆らわず椿を助ける手段は、もはや目前のサーヴァントに頼るしかないと、ライダーは判断していた。椿には申しわけないが、ライダーにとってランサーとの戦闘は互いの存在意義を抜きにしても必要不可欠。
「――――――――――!!!!!」
 それは先にも聞いた咆哮。だが先と違うのは叩きつける相手が自らの意志で選べたことだろう。それは相手となったランサーも十分承知のこと。
「悪いけれど、僕は親友以上にこういった手合いが嫌いなんだよ。一ついれば際限なく増える存在なんて、さ」
 そう言って、ランサーは立ち塞がる椿とティーネを軽く飛び越えライダーへと立ち向かう。ライダーも黒い霧を凝縮させ応戦の構えをとった。
 実を言えば、このライダーに対して勝利できる可能性のある英霊は非常に少ない。そしてその少ない英霊の中で、この聖杯戦争でそのまま立ち向かい斬り結ぶことのできるサーヴァントはこのランサーだけである。
 あの英雄王でさえ実際に戦えば絨毯爆撃による全面火力制圧か対界宝具によって空間毎消失させるかの二択しかなく、それでもなお確実に殺しきれる自信はないだろう。
 しかし、ランサーは違う。
 ランサーが保持する宝具、創生槍ティアマトはこの世のあらゆる生命の原典であり原点である。あらゆる物理攻撃を無効化し魔力攻撃をも耐え凌ぐライダーではあるが、その本性は“死”を振りまくペイルライダー。そんなライダーの性質は古の城塞以上の強度であろうと“生”の象徴たる創生鎗ティアマトの前には紙切れほどの意味もない。
 生前の因縁があるとすれば英雄王だけではあるが、その在り方についてはランサーとライダーは“生”と“死”の対極関係にある。それこそ、互いの存在意義を考えればぶつかり合うのも道理。
 そして、両者が交じり合うことはあり得ない。
「――――――――――!!!!!」
 そして三度、ライダーは咆える。
 互いに都合の良かった筈の屋上は椿とティーネの登場により御破算となった。新たな戦場に移ろうかというランサーが跳躍する最中、地に足を付ける必要のないライダーは空中をもって新たな戦場に選んだ。
 桁違いの魔力を持ってはいるが魔術そのものを習得していないライダーには必殺宝具たるものはない。ライダーができることは魔力そのものを材料として加工し投げつけることのみ。初歩魔術としての魔力弾と原理は同じであるが、しかしその威力は桁どころか位すら異なる。
 空気を圧縮すると熱を持つ。それは物理学の基本のひとつではあるが、これを同じような要領で魔力を圧縮するとどうなるのか。空気を極限まで圧縮すれば数千万度の温度を内包するプラズマと化す。では、魔力では?
 ライダーが打ち出した魔力弾は野球ボール程の大きさが四つ。速度もそこまで大したものではなかったが、空中という身動きできぬ位置取りがランサーに全弾回避の選択肢を与えない。
 四つの魔力弾のうち二つは創生鎗によって弾かれ、防がれた。残り二つのうち一つは身を捻ってなんとか回避はできたが、それがランサーの限界だった。
 あの《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が様々な手を尽くし、最終的に大規模爆発を引き起こしてすら涼しい顔をしていたランサーが、受けた一撃に苦悶の表情を浮かべる。
 左肘から当たった魔力弾はそのままのスピードで左脇腹からランサーの体内を経由して右肩付近から出て行った。泥人形である彼は衝撃を受け流すことでダメージをなくすことができるが、今受けた魔力弾はその泥人形の泥そのものを削り取っていく。ランサーの身体である《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》はAランク相当の攻撃も無効化する宝具であるが、ライダーのあの魔力弾にはそれ以上の威力があったということになる。
「なかなか、やるではないですか」
 泥を破壊したのならその破片を回収すれば元通りとなるが、削られた以上は元に戻すことは不可能。それだけランサーの戦闘能力が低下したこととなる。だがダメージはランサーの全質量の3パーセント程度。この程度であればまだ許容範囲内。
「いいでしょう。あなたの挑発に乗ってさしあげます!」
 本体の質量が更に減ることを承知でランサーは背中から大きな翼を生やし、一気に上空へと飛翔していく。その速度は既に遠くとなったティーネや椿の視界に映りながらも視線が追いつかないほど。そしてライダーにしてもその緩慢な動きではうまくランサーを捉えることができない。
「お返しですよ」
 その速度のままに創生鎗を振るうランサーにライダーは碌な抵抗もできずに再度真っ二つとなり、返す槍で四等分に分割される。すぐに再生を果たすが、しかし創生鎗での一撃はただ受けるだけでかなりの魔力を消費していた。
 結局は互いの身体を削りあう戦闘がここでも繰り広げられる。だが先みたいな無様な攻撃の応酬ではなく、そこには簡単ながらも戦術が練られはじめていた。
 元来、「生」と「死」の強弱は「生」の方が圧倒的に強い。増えると言うことは「生」が「死」を上回るからだ。そういった意味で「生」のランサーは「死」のライダーよりアドバンテージがある。
 周囲をランダムに旋回しながらランサーはゆっくりと削ぎ落とすようにライダーの身体を削りとっていく。そのたびにライダーは身体を修復し反撃しようとするが素早く動くランサーにライダーの攻撃は悉く当たらない。
「コレハ……ヨクナイ」
 その光景を誰よりも冷静に見ていたのは何を隠そうライダー本人である。
 魔力弾の威力は高いが、その分魔力消費も高く命中率は限りなく低い。それでいてライダーの処理能力では一度に放てるのは無理をして五つまで。再生をしながらだと三つ作るのが精一杯。
 唯一の救いは未だもってライダーの魔力は潤沢であること。人を傷つけることを禁止はされているが、傷つけないと判断できるところまでの魔力吸収はライダーの中では禁止とはなっていない。事実上八万人分の魔力を得ているライダーをこの調子でランサーが削るにはあと数時間以上かかることだろう。
 しかしランサーとの短い戦闘の中でもライダーは更なる進化を得た。
 同等以上の敵の登場にライダーは己の最適化を行い、自らに何があるのかどういうことができるのかを再検証する。
 肉体を持たず、ただ疫病という概念を得た魔力の塊は動くことには不向きであり収束させることにも効率的ではない。一番正しい選択肢は反撃もせずにただ薄く広く潜伏することである。疫病においてもっとも恐ろしいのはパンデミックに違いなく、これによりいかにランサーといえどライダーを消滅させることは不可能になる。ただし、その場合英霊とは名ばかりの悪霊にすら劣る雑霊となることは避けられない。復活には相当な時間が必要となるだろう。
 マイナス要素ばかりが列挙されるが、そんな中にあってライダーはようやくその存在に気付いた。
「イヤ、マダ、リヨウデキルモノガアッタ」
 それは、概念としてはあり得ても実験する者などいない禁忌の御業。

 ――現代知識を参考に可能性を検証。
 ――理論上では不可能ではないと判断。
 ――魔力パスによる仮想モデルを構築。
 ――ローカルエリアネットワークの存在を認識。
 ――実験素体をランダム抽出、実験開始。
 ――無意識領域の部分的確保に成功。
 ――集合的無意識を断片的に確認。
 ――原型への接続には失敗、ただし低レベルでの電気信号変換コードを入手。
 ――リスク許容値を再定義。
 ――容量、メモリ、ハードの安全を確認。
 ――素体のセキュリティを全解除、疑似回路を作成、書き込み開始。
 ――実験終了。
 ――成功事例の検証開始。
 ――自壊抑止のため制御システムを構築開始……構築終了。
 ――創生成功。
 ――命名、固有宝具(感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン))
 ――《感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン)》起動常駐開始。

「……なんですか?」
 ニヤリ、とライダーが笑ったようにランサーには見えた。
 ライダーの攻撃は実に単純であり、こうして中距離での交戦で油断さえしなければ何ら怖いものでもない。脅威となるのはその魔力量だが、いいだろう、持久戦を望むのならこちらとしても構わない――
「なっ!」
 すっかり持久戦を覚悟してしまったランサーにとって、油断すまいと思った瞬間にその言葉を思い返すことになる。
 それが魔力弾であったことには違いない。大きさも速度も威力も、先と変わりない。しかし、放たれた魔力弾は四つどころか、
「この数は一体!?」
 もはや豪雨にも似た弾幕にランサーは驚きを隠せない。ライダーの姿が視認できなくなる量の魔力弾が、今一斉に放たれた。
 姿を隠せぬ上空ではこれでは格好の的でしかない。回避仕切れず両翼に空けられた穴を見ながらこれを機に垂直降下してライダーの魔力弾の射線の外へと逃れる。再生させた両翼により低空を飛べば、ビル群が邪魔をしてライダーの魔力弾は効果を発揮できなくなる。
 ――いや、その程度で済むのか?
 ランサーの疑問は一瞬。そして従来より備わっている最高クラスの気配感知スキルによってこれがまだ終わりでないことを悟っていた。
 数は少ないが、いくつかの魔力弾がフォークボールのように遅れて下へと落ちてくる。それがただの変化球である筈がない。
 己の直感に素直に従い、ランサーは重力加速も付与して一気にスピードを上げて引き離す。みるみる魔力弾との距離は開いていくが、案の定魔力弾はこちらへとその進路を変更して見せた。近場の魔力源に反応するようプログラムされているのだろう。
 距離を離すことは簡単だが、いつまで追ってくるか分からない以上不安要素は排除しておかねばならない。
 ライダーから見えぬビルの影で変化球を創生鎗で薙ぎ払う。こうなってしまっては、今までの戦法は通用しない。戦術そのものを練り直さなくてはならない。ランサーがビルの向こうにいるライダーを睨み付けながら思考を巡らすが――
「!?」
 あの数の弾幕をビルに向けて放てば必ず倒壊する。それ故に前兆を感じ取るのは容易である筈だったが、またもそれが油断となってランサーは再度自らの肉体を欠損させることとなった。
 大きさはわずか数ミリ。威力はその分多少落ちているが速度は比べものにならず、残光によるそれはレーザーと呼ばれるにふさわしい攻撃。小さいが故にビルそのものに被害は少なく、結果としてビルを貫通してきたそれにランサーはまたも対応が遅れてしまう。いや、今この段階にあってもランサーはライダーの攻撃に対応できていなかった。
 レーザーの回避は難しいと判断し創生鎗で即席の盾を展開させる。軌道の読みやすいレーザーであれば回避はできずとも防御は難しくない。そしてそれをライダーも見越して既に次の手を打っている。
 ランサーがそれを確認したのは盾を展開した直後のこと。レーザーのような極小サイズとは対極の極大サイズの魔力弾。それがビルを迂回し、左と右からふよふよとこちらを目指してくる。そしてランサーの気配感知スキルは更に上にも同じような極大サイズの魔力弾を認識した。
 瞬間。
 音よりも早く眩いばかりの光の衝撃波が周囲一体を粉砕しへ拡散していく。周囲一帯のビルはそれに耐えきれず、倒壊すら許されずそのまま吹き飛ばされる。同時に起こる急激な減圧によって、流れ込む空気の渦はそれ以上の衝撃を爆心地へと叩き込んでいく。
 濛々と舞い上がった黒煙が風で吹き払われれば、そこにはもはや残骸すら残らぬクレーターしか残ってはいまい。
「ワタシ、ハ、ココデマケルワケニ、イカナイ」
 ――既定限界値に接触。
 ――宝具(感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン))常駐解除。
 疲れを知らぬ筈のライダーではあるが、心なしかその声には疲れがみられる。
 わずか一分にも見たぬライダーの連続攻撃。費やした魔力は全魔力量の半分以上。事実上あれが通常戦闘におけるライダーの最大威力である。
 だが、これを進化の一言で言い表すには非常に無理がある。
 以前にフラットが試算したが、ライダーの処理能力はNPCであれば千人程度、はっきりとコントロールするとなれば百人程度が限界だ。そしてその限界は多少増減することはあっても急激に増えることはあり得ない。
 事実、ライダーはランサーに通用する威力の魔力弾を生成するのに処理能力を限界まで使用しても五発が限度だった。だというのにいきなりその生成数を増やし、大きさも大中小と揃え、追尾に拡散といった機能まで付与してくる。ついでにフラットとティーネがライダー仕掛けた連鎖術式による威力増強プログラムも参考にしていきなり魔力弾に導入してきた。ここに至るともはや魔力がいかに強大であろうと解決することのできる問題ではない。
 サーヴァント一体でできる能力の範囲ではないのだ。
 だから、ライダーは借りてきた。
 自らの力の処理を、他人の力によって補った。
 具体的には、ライダーが支配下に置く八万人の感染者の脳を使って。
「まったく、無茶苦茶、ですね」
 よろり、とクレーターと化した爆心地でやや小さくなったランサーが創生鎗を杖に立ち上がる。
 ダメージは相当にあるのか、立ち上がることすらようやくといった感じである。そしてライダーがいかにして処理能力を得たのか予想できたのだろう。ランサーの言葉はこの攻撃ではなく、ライダーが行った無茶苦茶な処理方法を意味していた。
 コンピューターの連結による情報処理速度の向上は今や世界中で行われていることであるし、処理能力を上げる方法としては至極真っ当であり簡単でもある。人間だって一人でできないことをしようと思えば複数人で作業する。ここまでは決しておかしな話ではない。
 問題は、コンピューターを連結するのと同じように人間の脳を連結させて情報処理能力を上げようという発想である。
 差異はあれど、ハードウェアとしての人の身体は基本的には同じ構造で造られている。となれば、個々人で扱えるフォーマットとインターフェイス、インストール機構を用意すればコンピューターと同じように処理能力の向上は行われる筈だ。
 理論上、では。
 だが当然のことながらそんなことは不可能に限りなく近い。何故なら言語や経験や性格といったフォーマットとなるソフトウェアは個々人で全く異なるからだ。インターフェイスとインストール機構そのものはライダー自らの“感染”によって成立しているとはいえ、このソフトウェアだけは既存のものをただ利用するだけではどうにもならない。
 八万人いれば八万通りのソフトウェアがある。それを分析し、共通基盤を見つけ出し、そこに新たな回路を書き加えるというのは一歩間違えれば八万人を一斉に殺しかねない綱渡りにも等しい所行である。
 だがこれをライダーはこのわずかな時間の間にやってのけた。八万人に共通の回路を書き加え、ライダーがやろうとする処理を八万人に肩代わりしてもらった。言っていることは簡単だが、技術的には数百年経っても不可能だろう。
 まさしく、無茶苦茶である。
「けれど人を傷つけない、という約束は本当だったようですね。もう一度あれを行えばいかに僕でも消滅は免れない」
 その言葉に応じる余裕はライダーにはない。
 再テストを繰り返せばもっと効率よく使えるかも知れないが、そんな余裕はもはやどこにもないし、代理処理をした八万人はゆっくりと休養を取らせない限り使い物にはならない。
 ライダーに残されたカードはあと二枚。一枚は時間稼ぎで、一枚は博打。この期に及んで勝算があるというだけマシであろう。
 残った魔力を使って最後まで温存しておいた伏兵をクレーターとなった場所の周囲へ配置する。その数は五。本気のランサー相手なら時間稼ぎにもならないだろうが、弱った今ならまだ希望がある。
「ツバキ、モウイチド、アナタノソバヘマイリマス」
 そう言ったライダーの言葉には、強い決意が込められていた。


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 椿とティーネはその光景を瞬きもせずにずっと見続けていた。
 衝撃から身を守るためティーネは椿の上に覆い被さり、腹ばいになりながら状況の推移を見守り続ける。
 ティーネがこれまで調べてきた聖杯戦争の記録においてもここまで被害範囲の大きい戦闘はない。ここが夢の世界であることを幸いに思うが、もし現実世界であればこの時点で数万単位の死者が出たことに違いない。
「これが――サーヴァント同士の戦い」
 倒壊どころか吹き飛ばされるビルの轟音にかき消されるが、ティーネは我知らず呟くことをせずにはいられなかった。
 ティーネがこの聖杯戦争に参加した理由はこのスノーフィールドの地を我らが原住民の手に取り戻すこと。これ以上余所者にこの地を穢されないための聖戦であった筈。
 しかしそれは、もしかしたら早計であったのかも知れない。
 英霊とは言え個という縛られた存在であるサーヴァントは、その戦い方からして本来であれば対人宝具が最も戦闘に適した宝具である。対軍や対城を想定する宝具など真っ正面から向き合わなければ手段などいくらでもある。要は、使い勝手の問題である。
 では、このライダーとランサーの戦いはどうかというと、これはもう互いに戦争としか言いようのない攻防である。ライダーについては言うまでもなく、ランサーにしてもその槍がどうしても対人を想定した宝具には見えない。あの一撃の威力と余波は明らかに対軍レベルである。
 限定的ながら不戦協定を結んだということだが、それを無視する状況になればスノーフィールドの地そのものがただでは済まない。それこそ、今のうちに令呪を使い同じ高位のサーヴァントであるアーチャーを縛っておいた方が安全かもしれない。
 この夢の世界にやってきて、ティーネは実に多くのことを学んできた。
 無力な自分でもできることを探し、協力関係を築き上げ、次へと繋げる行動を率先して行っている。それでいて、彼女は自らの無力さと傲慢さを噛みしめ、如何に自分が周囲を信頼していなかったのかという事実も突きつけられた。
 今なら英雄王がヒュドラを退治した時、何を言いたかったか分かる。英雄王を崇めながらも信じることをせず、それでいて表向きの忠誠を示したつもりになっていた。油断などしていない、と思いながらも油断しかせぬ愚か者だった。
 令呪のある手を握り締める。
「滑稽、ですね」
 この令呪はアーチャーを縛るために使わないと決意する。そしてスノーフィールドのために使おうとティーネは誰ともなく誓った。
 令呪が何故彼女に宿らなかったのか、そう思えば簡単であった。
 聖杯は、彼女が令呪を持つにふさわしくないと最初から見抜いていたのだ。資格がないと、お前では力不足だと最初から言われていたのではないか。
「椿」
「あ、え、うん? 何?」
 ティーネの下で同じようにライダーとランサーの戦闘に見入っていた彼女に声を掛け、衝撃が収まったことを確認して立ち上がらせる。
 彼女の両親を差し置いて椿に令呪が宿った理由がよく分かる。ライダーは令呪に苦しみながらも最後まで椿を慮っていた。ライダーのあの成長は紛れもなく椿による教育の賜だ。
 ティーネはライダーに追い詰められ殺されかけてはいたが、だからといってそこに恨みはない。ティーネはライダーが負けることを望まない。そして椿が殺されることを許さない。
 ふっ、と自嘲気味にティーネは笑う。以前の彼女であれば、間違いなくすることのなかった笑い方だった。そして、ティーネはランサーとライダーの戦いをよそに椿に向き合い話しかけた。
 この状況でこんなことを言うのは間違っているのだろう。戦いの趨勢を見守り、状況が一段落するのを待つべきだ。冷静に考えれば誰にでも分かる理屈。それでも、ティーネは戦況から敢えて目を逸らし、椿の目を直視する。
 今この時、ここで言わねばティーネ・チェルクは必ず後悔する。
 だから、口にする。
「椿。あなた、私の妹になりなさい」
「え? え?」
 意味が分からないのか、椿はティーネの顔をまじまじと見つける。見つめることしか彼女にできることはなかった。
「今の私とあなたの関係は同盟よ。当然、状況が動けば最終的に破棄されるあやふやな関係。それこそ、ただの口約束である以上、今この場で椿が私を裏切ったとしても仕方がないことなの」
「そ、そんな……私は、お姉ちゃんを裏切らないよぅ」
「えぇ、あなたがそんな子でないのはよく分かっている。それはフラットも、そして銀狼も一緒。それに、一番みんなを裏切りそうな人間は間違いなくこの私」
 何故、という椿の顔をティーネは優しく撫でる。
「私には目的がある。このスノーフィールドの地を解放するという、原住民の長としての目的が。そのために障害となる者は全て排除しなければならない」
「私とライダーはそんな邪魔はしないよ!」
「ええ、分かってる。けれど、私はマスターである以上、直接手を下さずともあなたのご両親の死について責任の一端がある。それについて私はあなたに謝ることはできないし、別の理由であってもあなたが私の前に立ち塞がるのなら、私はあなたを殺さねばならない」
「む、難しすぎて……お姉ちゃんが言っていることがよく分からないよ」
 まだ幼く、成長過程でありながら一切の勉強もしていない椿からしてみるとティーネの言い方は非常に難しかった。だが面と向かって、誰かがやらなければ私が直々に椿の両親を殺していた、とはさすがのティーネも言いづらかった。
 しかしもし、将来時間が経ってこの言葉を思い返すことがあったのなら、この時のティーネの気持ちは必ず椿に伝わる筈だ。
「理解しなくてもいいわ。今、私はあなたに求めることは、身内……つまり家族になりたいということ」
「それは……ドーメイとどう違うの?」
 同盟の意味をよく分かっていない椿にとって、家族と同盟は全く別物でありながら共通点を見いだしにくいものなのだろう。そして家族となる、という意味も椿には理解できていない。
「私は、スノーフィールドの族長……最終的には、必ず一族のためになる行動をしなければならないの。だから、椿。あなたが一族にとって障害になるなら、私はあなたを倒さねばならない」
「だから私はそんなことしないよ!」
「いいえ。違うのよ、椿。私は、一族の不利となるのなら、例えあなたが窮地となっていても助けることはできない。見捨てることしかできないの」
 ティーネの告白に椿は次の言葉を紡ぎ出すことはできない。
 幼い彼女にそういった状況を想定するのは無理だし、そういった状況に陥らぬよう動くことも難しいだろう。だが困惑こそすれ、ティーネの指摘はこれから起こりうることであることは椿でも理解はできた。
 だからこそ、椿は何も言えない。
 つい先ほども両親の死のショックでライダーを苦しませ、みんなが苦しむのがイヤで約束を破って二つ目の令呪を使ってしまった。それが幼さ故の仕方のないことだとしても、おいそれと許されるというものではない。責任を取れるものでも、ない。
 何を言っていいのか分からず俯く椿とは逆に、再び戦場を見据えるティーネの視線がブレることはない。
 もう先ほどのような大技同士の戦いは一旦終了したのだろう。ライダーはどこかに消え、代わりにランサーを囲むようにして傀儡が五人、互いに連携しながら戦っている。
 ティーネが知るよしもないが、この時ランサーを相手にしていたのは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の部隊員たちである。対サーヴァント戦を想定して訓練していた者たちをライダーは経験や判断能力をそのままに魔力で強化して戦わせていた。
 だがこれは事情を知っていたとしても彼らが時間稼ぎ以上の役割が果たせるとは思えない。消えたライダーがどこに行ったのか分からぬが、何らかの大技を仕掛けてくるであろうことは容易に予測がついた。
 それも、あと数分以内に。
「椿。今すぐ答えを聞きたいとは思わないわ。だから、じっくりと考えなさい」
 そう言って、ティーネは椿の身体を抱きしめながら、周囲をゆっくりと見渡した。
 一日中夜であるこの世界であっても光源は多いが、それでも埋め尽くせぬ闇は確かに存在している。そしてティーネはその闇が、徐々に広がっていくのをハッキリと確認していた。
 ランサーもそのことに気がついたのだろう。やや手こずりながらも何とか五人の傀儡を無力化して、慌てて上空へと飛翔していく。月をバックに槍を持つその様はまさしく天の御使いであり、反対に地面に蠢くライダーは地獄の亡者を彷彿とさせる。そして両者の関係はさほど間違ってはいなかった。
 そしてはっきりと、両者が漲らせる魔力が遠く離れたティーネたちにも伝わってくる。
 先に仕掛けたのはライダーだった。
 ティーネには町が海と化し波がうねったように見えた。
 極玄の塊。普段は霞となって宙を漂うだけというのに、その濃度が最大限に圧縮されると、こうも粘性を持った重油へとライダーは変質する。重油の例え通り、そこに火を放てば燃え盛らんばかりの本性が発揮される。
 これこそがライダーの本性にして本能。小細工など元より考えず、ただ死を振りまくだけの単純な機能にのみ特化した、ただの物量。街全体を呑み込む圧倒的な魔力量を力任せに相手にぶつける宝具ですらない突撃。
 ライダーが震える。ただそれだけで、それを眺めるティーネの全身は自然と瘧がついたように震えが止まらない。別にライダーは何もしていない。これは、人類のDNAに刻まれた“死”が自然と表層に表れただけに過ぎない。
 顕現しただけで世界を浸食するライダーは、全てを捨て去りながらも標的となる存在だけは忘れはしなかった。
 消耗したとはいえ、未だライダーの魔力量は桁違い。そして迫り来る魔力の波は数十センチの飛沫などではなく高さ数十メートルにも及ぶ大津波である。故に受け止めるにはやっかいであり、全方位からの強襲はランサーに回避を許さない。
 これは単なる魔力による攻撃などではない。魔力そのものが本体ともいえるライダーにとって、これほどの魔力を動員した強引な手法は最終最後の自爆攻撃。攻撃が成功してもしなくても、残った魔力がゼロに近ければライダーはただではすまない。
「ショウブダ、ランサー」
「ははっ! 君の声を初めて聴いたよ、ライダー」
 どこから放った声なのか、全方位から聞こえるライダーの声にランサーも応える。
「やはり君との決着はこんな形になると予想していたよ」
 そんな危機的な状況に合って、ライダーは涼しげな顔で自らを取り囲む黒い闇を一瞥する。途中視線がティーネと椿に合うが、その瞳に感じ入ったものはなかった。彼の興味としては彼女たちがいる隔離病棟内のマスターを思っていたことだろう。
「その物量こそ君の最たる武器だ。だが、それは僕も同じこと――!」
 そして、ランサーは自らの宝具の封印を解いた。七つの頭を持つ不定なる竜の槍がその姿を白き輝きへと変えていく。
 封印を解かれ主の命令の声を今か今かとその槍は猛っていた。余りにも巨大なその身を無理に縮め、狭きこの隠れ身から現世へとその姿を顕現させてゆく。
 最初に零れ落ちたのは小さな一滴。
 だがそれは決壊するダムの最初の一滴に過ぎなかった。
「――さあ、始まりの時間だ。全てを呑み込め、ティアマトよ!」
 主人の声にティアマトは声なき歓喜の咆哮をあげる。
 これこそがあらゆる生命の原典、生命の記憶の開始点。
 我ら生命が一体どれほどの年月を掛けて今日まで生きてきたのか、その記録は全てティアマトへと保存されている。
 滴の一粒一粒がその記憶。その力は確かに積み重ねられた有限なれど、それは確かに全ての魔術師が欲して止まぬ“根源の渦”と同質の存在。
 原初の海水は進化の歴史に連なるありとあらゆる生命を内包する。この水に触れた存在は地球上の生命である以上、決して抗うことを許されず、最終的に触れた存在を自らの一部と化す強制権を持っている。
 それが今ここに、振り翳された。

「――《天命渦巻く混沌の海(ムアリダート・ギムリシュン)》!!」

 ティアマトから決壊するように放たれる濁流は、ランサーを呑み込まんとするライダーと拮抗する。
 だが所詮はただの魔力。そしてただの疫病。全ての生命全ての進化を内包したティアマトは、全てにおいてライダーの上位存在。例えどんなに強化し魔力を集めようとも、ライダー如きちっぽけな存在が受け止められるほど小さなものではない。
 時間が止まったかのように拮抗したのは、ほんの一時に過ぎなかった。ライダーという器に注がれたティアマトの濁流はあっけないほど簡単にライダーの器にヒビを入れ、次々と決壊させてゆく。
 街を呑み込むライダーではあったが、世界を埋め尽くすランサーに勝てる道理などどこにもなかったのだ。
 押し負け倒れゆくライダーに追い打ちを掛けるようにランサーはライダーをティアマトが放つ原始の海の底へと押し沈めていった。
 周囲を見渡せばティーネたちがいる隔離病棟以外は全て混沌の海へと還った。海から時折巨大な暗闇が立ち上がり、ライダーが最後の力を振り絞って抵抗しているのがわかるが、それもまた時間の問題。
 スノーフィールド全体を覆い尽くさんばかりの暗闇は、その最後の力すらも尽き、混沌の海原は静かな凪が訪れていた。
 決着は、ついた。
 これ以上にないほどランサーの勝利であり、
 ライダーの完膚無き敗北だった。
「――やれやれ。僕としたことが、意外と手こずってしまいました」
 翼を収め、ティーネと椿の傍に降り立つライダーは当初見た時よりも幾分小さくはなっていたが、それでも二人を一瞬で屠るだけの余力はあった。
「いやだな。警戒しなくても結構ですよ」
 にこやかな顔ではあるが――その視線はライダーのマスターである椿に向けられている。その手にはまだ令呪一画があり、つまりはまだこの混沌の海の底でライダーが完全に消滅していないことを意味している。
「この子を殺すのは、止めてもらえますか」
「それが一番手っ取り早い方法なのは御存知ですよね?」
 ランサーの確認にティーネは黙って頷く。ティーネの服を握り締める椿のその手を、ティーネは優しく包み込んだ。
「見逃してくれたのなら、多分、いい物を見せられると思います」
「へえ?」
 ティーネの言葉にランサーは興味津々と言った風に頷いてみせる。
「では、つまらないものであれば、斬り殺してもいいということですか」
「………」
 ランサーの冗談とも本気とも取れる発言を無視しながら、それでも虚勢を張ってティーネは視線の先を海となったスノーフィールドへと向ける。
 ティーネとフラットによって既にこの病院の地下付近が怪しいことは発覚している。あとはどこから侵入し何があるのか確認するだけだが、ランサーとライダーの戦いでその確認の手間が省けた。
 上層にあった建物がなくなれば、あとは地下だけ。その地下もランサーの一撃に浸食されてもうじき底部を露出させることだろう。
 おそらく地下に設置されているのは――この偽りの聖杯戦争を開催することになった“偽りの聖杯”そのもの。
 さすがにこの海の中に飛び込み調査するわけにはいかないが、地下施設を軒並み浸食していった海水は程なくして地下に広がる大空洞に安置される“それ”を三人の元へ伝えてくる。
「――は、こ?」
 最初に感想を述べたのは椿。直方体のその形は大きさこそ一〇メートル近いものだが、確かにそれは箱と呼べる代物だった。だが声にこそ出さなかったが、ティーネはその箱がまるで棺の様だとも思った。
 ティーネには心当たりは、あった。だがそれがこの箱なのかと問われれば、分からないとしかいいようがなかった。
 椿に至ってはそれが一体何なのかまるで分からず、ただその様子に見入るだけ。
 二人して詳細を掴めぬ中、そうではない者がここに一人いた。
「まさか……いや、そんな……ありえない!」
 先ほどまであれほどの強さを誇示してランサーだというのに、その動揺具合は見ているティーネが不審に思うくらいに酷いものだった。
「ランサー、あれが何か、知っているのですか?」
「……あれは、……“終末”、ですよ」
 もうこれ以上直視に耐えられないとばかりに踵を返したランサーは吐き出すようにティーネの問いに答えた。そのまま階下にいる筈のマスターの元へランサーは歩き始める。すでに落ち着いてはいるようだが、その背中にはあらゆる思いが交錯しているのが分かった。
「……ちなみに、この世界から出るのにはどうすればいいのかな?」
「もうすぐですよ。この夢の世界をあなたの海が満たしました。飽和状態になったこの世界は後数分もすれば維持できずに崩壊することでしょう」
「そうですか」
 ただそれだけ頷いて槍のサーヴァントはティーネと椿の前から姿を消した。性格からしてマスターの介護について礼を言うかと思ったが、それを相殺しても余りある仕事だったらしい。
 もしくは、未だ動揺しているだけなのか。
「お姉ちゃん……もうすぐ、いなくなるの?」
「ええ、そうね。フラットは、この世界を飽和させるものがあればすぐにでも、と言っていたわね」
 恐らくライダーもそのことを狙って最後の大勝負に出たのであろう。あれでランサーに逆転の目がなければ自らがこの空間を埋め尽くしこの世界を壊そうとしたに違いない。第一の令呪、第二の令呪、それぞれに逆らうことなく椿の命令を遂行しようとしたからこそ、あんな無謀な賭けに出たのだ。
 生き残るだけなら、もっとマシな選択肢などいくらでもあるというのに。
 この混沌の海のどこかに、まだライダーは生きている。が、それも時間の問題。椿が作り出したこの世界が崩壊するまでライダーが生き残れる保証はない。
「もう、会えない?」
「いいえ。現実に戻ったらフラットがあなたを起こしに行くからすぐ会えるわ。そうね、できればその時にでもさっきの答えを聞かせてくれると嬉しい」
「家族になるってやつ?」
「そう。私の妹になってくれると嬉しいわ」
 そういって抱きしめるティーネに椿はまだ困惑したままであったが、椿の両手はティーネの腰にしっかりと抱きついていた。
 この椿の夢の世界が消失するほんの数分ではあったが、二人はそうして抱きしめ合っていた。


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06

 ランサーが現実へと戻れば、そこはスノーフィールド中央病院隔離病棟の五階だった。
 ここはランサーが傷ついたフラットと銀狼を介抱していた場所である。元より人数の少ない病棟であったために幸いにも突如としてこの場に現れた瞬間を見られることはなかった。
 だがそれよりも現実に戻ったというのにフラットと銀狼の存在はどこにもいない。ランサーと違って本体ではなく精神体を夢に取り込まれたのだから戻る先は精神体がいた場所ではなく自分の身体がある場所なのも当然だ。
「となると、我がマスターは森の中、か」
 傷はもう完全に癒えている状態。数日の間食事を取っていないのが気にかかる。流れ込むマスターからの魔力で無事であるようだが、やはり距離があるせいか詳細が分からない。
 せめてその気配を感じ取れるところまで戻ろうとランサーはその場から足を数歩動かすが、
「……呪いが、消えている?」
 あれほどランサーを悩ませた位置情報を発信する呪いがどこにも見当たらない。そういえば、ジャックがもうすぐ呪いが解けると確かに言っていた。
 それと同時にジャックの不戦協定も思い出す。やむなくライダーと戦ってしまったが、あの“偽りの聖杯”を見てしまった以上、夢物語と笑った同盟には参加せざるを得なくなった。
 それだけだというのに、戦況は大きく動いた。親友との対決はまた遠のきそうだが、それよりも前にサーヴァントとして、そしてそれ以上に英霊として、成さねばならぬことができてしまった。
 窓の外を見れば、東の空に陽が昇りつつあった。
 そして何気なく視線を逸らせば――決して無視することのできぬ建物を見つけた。ライダーとの戦闘にあっては周囲をじっくり観察する暇などないが、こんな近くにあるとは思いもしなかった。
 ランサーは現状を確認する。
 宝具を使ったせいでランサーの魔力は消耗してはいるが、ダメージとしては然程でもない。もう一度ライダーと正面から戦うには厳しいが、逆に言えばそれくらいのサーヴァントが相手でなければ軽くあしらえるだけの余力はある。
 マスターも現実に戻ってはいるが恐らくあの周辺は念入りに監視されており、今戻ってもマスターの体調を確認することは得策ではない。
 そして呪いが解除されたことで今ランサーの位置情報は敵に知られていない。むしろ、今までいた筈の森から突然にいなくなったことで大いに混乱している筈である。
 都合の良いことに今は早朝であり、場所的にも討ち入る場所にほど近い。
 奇襲するには今しかない、最高の好機であった。人目を忍ぶというサーヴァントの大原則には反しているが、それはランサーにとって大した問題ではなかった。
 考えたのは一瞬に過ぎない。
 ランサーは窓ガラスを開け放ち、窓枠に足を掛けて、力を込める。
 ここから目標の建物までわずかに一〇〇メートル足らず。これなら一足で跳べる距離である。
 時間的に民間人は少なく、そして標的がいる可能性は非常に高い。だとしたら、と考えてやや突入場所を変更する。
 ボスがいるとするならそれは入り口付近ではなく、建物の上部に決まっている。
 自らの勝手な推測を疑うことなく決断するランサー。最短距離を駆け抜けるべくランサーは飛び出していく。
 ランサーの脚力に耐えられず窓枠が爆散する音が辺りに響いた。その音に駆けつけた看護師が悲鳴を上げたが、それをランサーが知るよしもない。



「緊急連絡! 襲撃想定施設Aにて襲撃者あり!」
「あにぃっ?」
 ドアを開け放ち大声で報告する部下に、目の下に隈を作った署長は窓に貼ったガムテープを部下と共に剥がしながら珍奇な声を発した。
 病院周辺の近隣住民らが倒れ始め、そして突如回復しようやく事態が収まったのを確認したのがほんの数分前。本来であれば安全を期して今少し警戒待機しておきたいところだが現状装備での対処も限界であり、念のため他の部隊員との接触を禁止することで警戒態勢を解いた直後の話だった。
「襲撃想定施設A……といえば、スノーフィールド警察署か」
 スノーフィールド市内の事件を一手に扱う巨大組織。となれば当然警察署の規模はでかくなり、有事の際の立てこもり避難場所としても機能するよう公然と半要塞化している市内有数の建物である。そのため戦争中盤に襲撃が想定される施設として最初にナンバリングされた施設でもある。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の存在は戦争中盤以降において確実視されている。いかに秘密裏に動こうとも組織だって動けば露見するリスクは飛躍的に高まるだろうし、いつまでもサーヴァントの目を欺けるなどとも思ってなどいない。
 だからこそ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は途中から敢えてその気配を消すことをしていない。むしろわざと情報を流すことで敵を誘導するべく動く予定ですらあった。彼らのマスターが内外構わず公然と「署長」と呼んでいるのもそうした理由があるからだ。
「ちっ、この忙しい時に」
 舌打ちをしながら署長は現状を鑑みる。
 忙しいとは言いながらも既に山は越えている。休息が取れないのは痛手であるが、その程度。むしろ緊張感が続いているだけ良かったとも言える。それにあそこなら、わざわざ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を慌てて動かす必要はない。よほど手を誤らない限り襲撃者を仕留めるのは簡単だった。
 提出されたたった数枚の資料を奪うようにして中身を確かめる。打刻されたタイムスタンプを見てみればつい今し方。そして添付されている襲撃者の画像を見れば、見覚えのある顔立ち。
「これはなんだ!」
 画像を見たとたんに怒鳴りつける署長ではあるが、担当部署の違う報告者は一体何を署長が怒っているのか分からない。
「何故、ランサーが警察署にいる!」
 その一言にランサーの監視作業を担っていたスタッフが慌てて状況を室内のメインモニターへ映し出す。
「ランサー、森に健在です!」
 映し出されたモニターには今も立ったまま朝日を浴びるランサーの姿が映し出されている。最大望遠で映し出されるランサーの姿は観察し始めてからまったく変化はなく、時折鳥が肩に乗り野生動物が周囲に集まるだけ。その姿は仏涅槃図を彷彿とさせる神々しさすら感じる。
「……いや、まて。光量が少しおかしくないか?」
 スタッフの一人が言った言葉に、署長の視線が目張りを外され開放された窓の外へと向けられる。今日は――曇り空だ。対してモニター内の森は場所が多少離れているとしてもやや明るいように感じられた。
「現場の観測班は!?」
「観測機材をそのままに退避中です。現地まで一〇分はかかります」
「昨夜の緊急措置が仇となったか……念のため《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》突撃班を三種装備で現場に急行、包囲させろ! 通信網は大丈夫だな、分析官! 警察署の動画データをこっちに寄越して解析しろ!」
「解析、もうしてます! ……出ました! 襲撃者がランサーである確率は、人相や体格から……37パーセント!」
 分析官の言葉に周囲を含めて疑問符が浮かぶ。写真を見ただけですぐに分かるほど明確な正体だというのに、37パーセントという数字はいかにも低すぎる。だがそう問いかける前に分析官は先読みしてみせる。
「人相だけなら96パーセント一致していますが、体格に著しい誤差が生じています。以前遭遇した時より明らかに小さくなっています」
「つまり偽物か……あるいは、本人が敢えてそう見せている可能性もありますね」
「現状では何とも言えん。機械の目は誤魔化せるかもしれんが、人の目で誤魔化せなければその行為に意味はない。……《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》の反応は?」
 分析官と秘書官の言葉に耳を傾けながら、署長は肝心の情報を聞いてみる。《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》は常に情報発信し続けるとそのパターンから分析され対処、解呪される可能性がある。そのため必要な時にこちらからの暗号処理した呼びかけに応じさせて位置情報を発信させ居場所を特定するという面倒な制約があった。
「……反応、来ました。位置情報、やはり昨夜と変わりありません」
「となると、やはり偽物の可能性が高いか」
 ふむ、と細かな情報にまで目を通すが、行動パターンは事前情報と似通っているように思える。署長の勘は本人だと告げていたが、しかし分析すればするほど本人でない可能性が高まってくる。第一、これまでの行動パターンからランサーが警察署を襲撃する意図が分からない。敢えて情報を流していたとはいえ、当のランサーはずっと森の中にいたのだから情報を入手しようもない。
「仕方ない。なるべくではあるが、一般職員を逃がしつつ、目標を逃がすな。逃げるそぶりを見せたら、仕掛けを使ってしまってかまわん」
 それでも万が一の事態を署長は考え、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の突入は断念する。
 こうした事態を踏まえて襲撃予想の高い警察署には予め繰丘邸以上の極悪な魔術トラップを用意してある。逃げ遅れた職員や牢獄の犯罪者には申しわけないが、貴い犠牲になってもらうより仕方ない。
「ふん、しかしそうすると、五月蠅いのが一人いたな」
 署長がそうして嘆息すると同時に、普段使っている電話とは別の専用回線が鳴り響く。噂をすれば影というが、これはいくらなんでも早すぎだろと署長は再度嘆息した。トラップを発動させればつまらない結果になるのは目に見えている。抗議の電話は当然のことだろう。
『ちょ、なんで襲われてるってのに何もしてこねぇんだよ!』
「なんだ、キャスター。もう知っていたのか」
 相変わらず耳が早いと一応胃薬を飲む。水がなかったのでコーヒーで飲んでみたが、これは薬的に大丈夫だろうか。
『知らないわけないだろうが!』
「想定内の事態だ。慌てるな。今一般職員の脱出を待っているところだ』
『一般職員の脱出!?』
 つんざくようなキャスターの悲鳴に思わず受話器から耳を離す。今の会話に何か驚くことを言ったであろうか。
「何か問題でもあるのか?」
『問題大ありだろ! 何だってそんな悠長なことをしてんだよ!』
「時間はまだある。襲撃者をなるべく奥深くに侵入させればそれだけ時間が稼げる。被害は最小限だ」
『被害!? 最小限!?』
 またも怒鳴り散らすキャスターにいい加減電話を切りたくなるが、武蔵の時の借りもあるのでそこは堪える。その代わり署長は順次入ってくる報告書に目を通しながらキャスターの声を聞き流した。
 状況に変化なし。襲撃者は屋上から侵入したらしく時間帯も相まって署内に残っていた職員の人数は夜間勤務についていた数人程度。これなら被害はかなり少なくて済む。
『俺がこないだ嘘ついたことを気にしてるのか!?』
「今更お前が嘘をいくつついたところで気にしないが」
 そこを気にしていてはキャスターと付き合っていくことはできない。特にマスターとサーヴァントの関係であるならば避けては通れぬ道である。気にしないのがこの場合唯一にして最良の選択肢だ。
「とりあえず、落ち着け。何を焦ってるか知らないが、こんなこともあろうかと宝具は既に回収済みだ」
『てめぇ! 道理で最近宝具のチェックが回ってこないと思ったらそういうことか! お前なんてもう兄弟でもなんでもねぇぞ!』
「最初から私に兄弟などいないと言っているだろう」
 などといいつつ、これは眠気に負けて口を滑らしたかと内心署長は焦る。キャスターによる昇華作業はほとんど終了し、新たな宝具を作る必要は殆どなかった。どちらかというと宝具の性能確認を優先し、つい先日も《スノーホワイト》のチェックをお願いしたばかりだ。だがそれはキャスターの視線を逸らすための作業であり、実際には昇華を終えた他の宝具を隠すことが目的だった。
 理由は多々あるが、少なくともキャスターは自ら手がけた宝具が別の者の手によって更に改良されることを良しとはしないだろう。
『いや、すまねぇ。俺が悪かったよ兄弟! けどよ、もっと退避するには重要な誰かがいると思うんだよ! 勤労誠実清廉潔白滅私奉公の権化ともいえる掛け替えのない人物がさっ!』
「お前は一体何を言っているんだ?」
 巫山戯たサーヴァントには違いないが、精神汚染の兆候はなかった筈だ。しかし署長が気付かなかっただけで実は知らないうちに汚染されていたのかもしれない。
 そういえば、キャスターは召喚されてから暇さえあればジャパニメーションを見ている。むしろ昇華作業そっちのけで見ていたことすらあった。昨今の日本のマスコミはそうした“ヲタク”を犯罪者予備軍と称す傾向にあるとかないとか。根も葉もない噂だと思っていたが、しかしキャスターの狂乱ぶりをみるとそんな噂も馬鹿にできないのかも知れない。
 と、そこで新たな資料が渡される。思ったよりも素早い対応と内心感心せざるを得ない。
「いい報告だキャスター。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が現場に到着した。決着は時間の問題だろう」
『そうか! なら早く突入して駆逐してくれ!』
「いや、ただ包囲するだけだ。あとは施設に仕掛けられたトラップで片を付ける」
『なぬっ!? いや、サーヴァントが自陣に飛び込んできてるんだから地の利を活かして殲滅すればいいだけだろうがっ!?」
 ――その言葉に、署長は違和感を覚える。
 襲撃者は、確かにランサーの姿をしている。それ故にサーヴァントの可能性が高いと踏んではいるが、そのことを署長はキャスターに話していない。それを差し引いてどこからか情報をキャスターが得ていたとしても、サーヴァントである確証は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を含めどこも得ていない筈の情報だ。
 それに、キャスターは襲撃者が襲った場所を自陣と言った。
 だが残念ながら、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》はスノーフィールド警察署が自陣であるという認識はない。
「まて、キャスター。お前は一体何の話をしている?」
『だから! 今襲撃されている最中だと言ってるだろうが! 俺がいなくてもいいかもしれないが、色々とまだ利用価値はあるだろうが!』
 そして受話器の向こう側から何やらとてつもなく重い音がする。
『ああ、もう時間がねえよ! この防護壁って対物理対魔術障壁として本当に機能してるんだよな!? なんかへし折れつつあるんだが!?』
「……な、んだと?」
 我ながら間抜けな声だと思いながら漏れ出す声を止めることはできなかった。
 ここでようやく、署長はキャスターとの間に交わされた会話の齟齬に気がついた。
 襲撃を受けているのは、一つだけでは、ない。
 メインモニターには、スノーフィールド警察署の襲撃者と森の中のランサーの姿。そして電話口からはキャスターを閉じ込めている牢獄の情報が漏れ出ている。これらが全て繋がった。
 襲撃は、警察署だけではない。
 キャスターの牢獄にも、そしてここの本部システムにも何者かが仕掛けている。
「傾聴! 警戒直を発令する! 情報班は直ちに現作業を止めシステムチェックを開始! その他の者はただちに隊伍を編制!」
 署長のいきなりの命令に動揺を示す者も多かったが、この場にいる誰もがそのことに意見するようなことはしなかった。
 軍隊において上官は絶対であり、それでいて署長は彼等の導師ですらある。そこに動揺はあっても疑問を問いかける余地はない。
「第二種警戒配置! 本部編成表に従って位置に付け! 戦闘第一守備班、第二守備班は、本部正面を定点防御。非戦闘員は情報資料を焼却! 第三種守備班、遊撃隊として本部の警邏につけ! 以上、履行せよ!」
『おいおいおいおいおいぃぃっ! なんか物騒な命令がこっちにも聞こえているんだが、何をしてるんだマスターっ!』
 本部の誰もが文句なく行動している最中、唯一受話器から放たれた文句は殊の外大きく聞こえた。
「現状が最悪であることを認識しただけだ。そして聞いておくが、今お前がいる場所はいつもの地下施設だな?」
『ああそうだよ! お前らが“籠の鳥”って呼んでる施設にいるよ! だから脱出もできねぇよ!』
 キャスターは“昇華”という破格のスキルがあったために工房作成スキルを有していない。それ故に代替施設を用意したわけだが人間が作る工房ではどうしても安全面と使用面で問題が出てくる。そのために出口は厳重に、そして中で何があっても外に被害は漏れぬよう細心の注意が払われている。
 もちろん、キャスター自身を閉じ込める、という意味もないわけではない。
「それで、後何分持ちそうだ?」
『今すぐ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を投入してなんとか間に合うレベルじゃねぇかな!?』
 キャスターのヒステリックな叫びの背後で再度響き渡る重低音。その中にミシリというかなり嫌な音も聞こえてくる。骨子となる柱にヒビが入る音だ。
 当然だが、今から《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がキャスターのいる牢獄に急行しても間に合わない。キャスターが言う通りに今すぐ投入してもとても間に合うとは思えない。そうするとキャスターは殺されるか、もしくは連れ去られる。残念ながらキャスター本人が襲撃者を撃退するという可能性は皆無だ。
 となると、取るべき方針は二種類。
 このまま座して経過を見守るか、それとも、
「令呪を使うか、か」
 署長の手にある令呪は三画全て残っている。必要性を感じなかったので使わなかっただけだが、ここでこれを使用するのも悪い選択肢ではない。
 キャスターの利用価値はほとんど終わっているため見殺しにしても戦略上問題はないが、捕獲され情報が漏れることは何としても回避しなくてはならない。となれば当然口封じは必要である。
 この段階で令呪を使うのは確定的だったが、問題はその中身だ。
『ちょ、何悩んでるんですかね! こっちはもうギリギリなんですけど!』
「なるべくギリギリに令呪は使いたいからな。もう少し我慢してくれ」
 適当なことを言って誤魔化してはいるが、署長は慎重に命令する内容を吟味する。
 令呪が絶対命令権とは言え、キャスターは自害に失敗した逸話を持つ英霊。機密保持のために死ねというのは簡単であるが、ここでこのキャスターの逸話がどう影響するかは未知数であり、絶対命令でありながら不安を残さざるを得ない。
 となれば、もはや命令は一つだけになってしまう。
 欲を言うなれば、マスターを失ったはぐれサーヴァントがいた時のためにあまり令呪を使いたくなかったが、キャスターに恩を売れるともなればそう悪いことばかりでもないだろう。
 様々な思惑はあったが、署長はタイミングを図るべく受話器を耳に当てる。実況はキャスターがしてくれるので何の問題もない。だが本部システムに不安要素がある以上、最低限キャスターには襲撃者の姿をちゃんと見てもらいたい。どうせ使うのなら最大限に利用するべきだろう。
「キャスター、敵サーヴァントの姿を確認したらすぐに言え。令呪で飛ばしてやる」
『もっと安全とかにも気を配ろうぜ兄弟! あの防護壁が吹っ飛んだら姿を見る以前に俺がぺちゃんこじゃねぇか!』
 それはそれで好都合だとは言わなかった。死ねば令呪は消えてなくなる。確認の手間も省けるというものだ。
「なるべく壁から離れて物陰に潜んでおけ。それでリスクはかなり減る」
『リスクのない行動をしろって言ってんだろうが! あとでぜってー殴るからなこんちくしょう!』
 その場合はクロスカウンターで逆に殴り返そうと思いながらもキャスターの背後の音へと集中する。二度、三度、四度。そして、五度目にようやく何度も聞こえていた打撃による重低音が、破壊音へと変化した。
 扉が貫通した。それ以上の音がしないことから、キャスターが危惧した防護壁が吹っ飛ぶほどの威力はなかったらしい。しかし同時に追撃音がしないところから、どうやら敵はキャスターを殺さず生け捕る可能性が高い。
 猶予があることは嬉しい限りだが、これはキャスターと真っ向から対峙するだけの自信が相当あるらしい。キャスターの戦闘能力は極秘にしているので敵方に漏れている心配はないが、できれば実力を計られる前に全てを終わらせたい。
「キャスター、襲撃者を見たな?」
『あ、ああっ! 確かに、見たぜ!』
 そのキャスターの声と同時に署長は自らの令呪を行使する。
「キャスターよ! その場を離れここに来い! 今すぐに!」
 署長の言葉に反応し、手の内にあった一画の令呪が莫大な魔力を行使して消えていく。同時に目の前に出現する、空間のうねり。
 空間跳躍は令呪の命令と殆ど同時だ。例えそのことに気付いたとしても襲撃者が何かを仕掛ける隙はない。そして即座に署長の目の前に出現するキャスター。その姿はどう考えても無様といえたが、このキャスターに対し格好良さを求めるのは酷だろう。
「はっ、はぁはぁ……た、助かったぜ、兄弟」
「無事で何よりだキャスター」
 召喚して以来数えるほどしか面と向かって会っていなかったが、ここまで焦燥しているキャスターは初めてだった。命の危機を感じていたのだから当たり前ではあるが、もっと剛胆な性格ではないかと署長は勝手に判断していた。
「それで、申しわけないが、襲撃者の顔や体格を教えてくれ」
「そいつは了解したが、しかしなんでこんなにスタッフが少ないんだ。あ、あと水を先にくれ」
「今は第二種警戒配置だ。念のため定点防御に徹している。水はくれてやるが、さっさと――」
 似顔絵なりなんなりで情報を寄越せ、と署長は言おうと思った。だがその前にキャスターの言葉に疑惑を感じる。
 何故、キャスターは最初にここのスタッフの状態を確認した?
「署長! システムチェック終了しました! やはりシステムに異常あり、各通信網が意図的に切り替えられています! 現在サブシステムに切り替えて対応中!」
「今観測班が現場に到着しました。やはりランサーの姿は確認できません! モニターに流された画像は昨日のものです!」
「《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》、再アクセスしましたが、ランサー反応ロスト! 宝具は既に自壊しています! データ改竄の痕跡も発見しました!」
 同時に次々と暴露される事実。
 そしてキャスターにはつい昨日システムの根幹である《スノーホワイト》の確認をしてもらったばかり。こうした仕掛けをしようと思えばできなくはないだろう。
 状況証拠からして怪しいのは間違いない。あの堅牢な地下にある“籠の鳥”からこうして今まで明かしてもいなかった本部へも来られたわけだし、今キャスターの元へは新情報が次々と入ってきている。
 反面、キャスターがそんなことをする可能性は低いのも確か。手にある令呪はまだ二画あり、反旗を翻すにはあまりにリスクが高すぎる。
「《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》? もしかして位置情報を知らせるアレのことか?」
 コップの水を飲み干しながら、幾分の余裕を――いや、はっきりとした余裕を見せながらキャスターは署長の前へと歩み寄る。
 まるで、もう注意すべき山は越えたとばかりに。
「お前らそんな名前をあの宝具につけていたのか? 確かにそういう機能はあるが、その一面だけを見すぎじゃねえか。もっと側面もよく見ようぜ?」
 《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》とはミノタウロス退治に出たテセウスをダイダロス迷宮から救い出すために用いられた麻糸から昇華された宝具――と聞いている。その糸の呪縛にかかった者の位置を常に把握するための宝具である。キャスターに宝具を命名する意志がなかったため《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》で勝手につけられたモノも多い。
「――何を言っている?」
「あの宝具の名前は《路上の残飯(ブレッドクラム)》って言うんだぜ?」
 《路上の残飯(ブレッドクラム)》――それは童話『ヘンゼルとグレーテル』にて森で迷子にならぬよう通り道にパンくずを置いていったというエピソード。位置を知るという意味では同じだが、《捲き憑く緋弦(アリアドネ)》と明確に違うことはただ一つ。
 《路上の残飯(ブレッドクラム)》は時間経過と共に位置情報機能を失わせていく。
 呆然と、署長はコーヒーカップを片手にキャスターの告白を受け止めていた。
 間抜け面といわれても仕方がない。だが、署長が混乱するのも仕方がない。現場指揮官として数々の戦場を走り抜けたことのある署長であっても、敵本部のど真ん中で「裏切り」を宣言する者に出遭ったことはなかった。ここでの多くの者がする対応とは「疲れているんだろう。しっかり休め」という思いやり溢れた哀れみの視線を向けることであるのだろうが、あいにく署長は違った。
 キャスターは本気である、と署長は直感した。
 迷ったのは一瞬。なまじ選択肢があっただけに即決即断できなかったのが署長の敗因だった。その一瞬によって、コーヒーカップを持っていたその手に衝撃が走った。
 その感触には覚えがある。と、いうよりもこの感触は、つい数十秒前に感じ取ったもの。
 令呪の、喪失。
「そんな、――馬鹿な!」
 署長の叫びも虚しく、令呪の一画は署長が命令をしたわけでもないのに先ほどと全く同じように莫大な魔力を行使して消えていく。
 そして同時に目の前に現れる空間のうねり。

【……追想偽典……】

 キャスターの時と全く同じような現象に署長は機敏に反応した。目前に顕現したのは黒いローブを纏った美しい女性。マスターである署長だからこそ、この女がサーヴァントであることは一目で分かった。
 対象が行使した魔術や奇跡を再度強制させる宝具――瞬間的に走馬灯めいた思考の加速が署長にもたらされる。コーヒーカップを投げつけるモーションをしながらもう片手では引き出しから拳銃を取り出そうとしている。足は床を蹴りつけ椅子に座ったまま後方45度へとジャンプしようとしていた。
 しかしながら、それがどれだけ高速で行われたとしても、既に遅い。
「紹介しようじゃねえか。これが俺を襲った襲撃者の姿だ」
 あまりに突然のことに周囲のスタッフはこの事態に気付いていない者も多い。よしんば気付いていたとしてもあまりに堂々としているので違和感を覚えてもそこまで。まさかこの本部にいきなり敵が出現するなど想定するわけもない。
「総員! て――」
 署長が叫べたのはそこまで。「残念、遅い」とキャスターは呟き、アサシンの肩を掴む。あとは、アサシンが力ある言葉を放つだけ。

【……回想回廊……】

 連続して行使される奇跡。
 派手さに欠ける微風だけが辺りに撒き散らされる。
 たった今目の前にいた筈の署長が突如現れた黒服の女性に触られたとたんにいなくなる。そんな光景を目にした秘書官は手にした資料を床に撒き散らし、抜けた腰を床に強かにぶつけながら何の声も発することができなかった。
 署長の最後の声を聞いたスタッフが現状を正しく理解する数分間、本部は上を下への大騒ぎの様相を呈することとなった。


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 遠くで何か建物が崩れ去る音を聞き、無意識にアーチャーはその方向へと視線を向けた。鬱蒼と茂る森の中とはいえど、英霊たるアーチャーが音のした方向を間違える筈もない。
 反響する音をなんとなく計算すれば、音がしたのはスノーフィールドの中央付近。スノーフィールド中央部のビルはどれも高いものだ。あいにくとアーチャーの位置からどのビルが倒れたのかは判断は付かなかったが、それなりの大騒ぎになるであろうことは予想するのに難しくない。頭の中の地図を思い返せば病院と警察署があった筈。となれば街中の不審な気配が何かをしたのかも知れない。
 だが英雄王たる彼はそれについてすぐに興味を失った。誰かが何かをしたのだろうが、そんなことは彼の知ったことではない。
 彼の興味は、目前の老人にある。
「ふん。無様な格好ではないか」
「これは、英雄……王。このような……醜態を晒して……申しわけありません」
 口から血の泡を吐き出しながらそれでもなお礼節を重んじ笑みを浮かべているのはティーネの相談役と称していた老人だった。
 老人は深い傷を負っている。英雄王の蔵には薬もあるが――それでももう遅い。延命こそ可能だろうが、この傷でその選択肢は酷でしかない。それにもとより使うつもりもない。
「この周囲の者は、お前の部下か?」
「いえいえ……私と同じく族長に忠誠を誓うだけの……者たちです」
 そんなことを言いつつも、この周囲に散らばる肉の塊の中でなんとか原型を留め死にかけとはいえまだ生きている老人を見れば上下関係は一目瞭然だろう。
 森の中は死で満ちている。木の枝に男の頭部が突き刺さり、木の幹に武器を持った手だけがそのまま食い込んでいる。腹から上下に別たれ壮絶な死に顔をした者もいる。むしろそうした者は救いがある方で、死に顔すら満足に見られない者の方が多い。
 だがこの状況は敵が卑怯卑劣で残忍な手を用いてこうなったわけではなく、この老人たちが全力を賭して挑んだ結果としてこうなっただけだ。
 こんな刑場の如き様相を示してはいるが、だが最後に老人が一人生き残ったということは一矢報いたということだろう。
 老人が先日も持っていた長年使われてきた棒はその半ばが向かいの木にそのままめり込んでいる。釘の様に鋭いわけでもないのにこうしたことができるのは老人の確かな技量の賜だった。
 そして生涯最後にして最強最大の一撃だったに違いない。
「よくやったではないか」
「お褒めの言葉……ありがたく頂戴しますが……その言葉、できれば皆に……かけてはいただけぬでしょうか」
 滅多に褒めぬ英雄王の言葉に、老人はその言葉を死んでいった者にかけて欲しいと願った。
「……最期まで図々しい奴よ」
 先日の件といい、一々忠告してくる者というのは何とも鬱陶しい。その上でこれが末期の言葉と思えばますます無視するわけにもいかなくなった。
 物言わぬ骸となった老人の目を閉じさせる。労りがあったわけではないが、今にも目線が合えば五月蠅く口を開きそうだと思ったからに過ぎない。
 血で汚れることを厭わず、森の中へと入る。未だ乾くことなく滴り落ちる血が頬を汚すが、それにも構わずアーチャーは周囲を探索する。敵の手がかりとなりそうなものを探すが、それらしきものはない。ただ、血の匂いを嗅ぎつけたのか周囲に獣の気配がする。死骸をさっそく見つけ卵を産み付けようとする蠅が周囲を飛び交うが、それにすら英雄王は頓着しない。一人一人の死骸を英雄王自らが丹念に調べ、早計一〇名の死体を見聞し終わった頃には太陽が真上に昇っていた。
 状況は推測できた。どうやら彼ら一〇名は何者かを追い、ここで全滅となった。ただ、この様子を見る限り全滅には違いないが返り討ちにあったわけではないようである。先の老人を除いた九名は、明らかに死ぬことを前提に動いた死兵。自らの犠牲を厭うことなく敵の注意を逸らし、疲労を誘い、隙ができる一瞬を作り出す。
 ここまで実力差があるということは、相手はサーヴァント。となれば、彼らは生身の人間でサーヴァントを討ち果たすという偉業を成し遂げたということになる。一般兵一〇名とサーヴァント一体を比べるならそれはもう大戦果というべきものだろう。だが残念ながら他のサーヴァントならいざ知らず、このアーチャーにあってはその評価はほとんどゼロに等しい。
 バラバラになっていながらも全員を確認したが、どいつもこいつも皺だらけの爺共である。犠牲になるのは老兵で十分とでも言いたかったのだろうかと勘ぐってしまう。その気になれば若い者の中にもティーネに忠誠を誓う強く精強な戦士を少ないながらも用意できただろうに。
「無駄なことを」
 そう、呟かずにはいられない。
 結論として、アーチャーは肝心の敵の手がかりを得ることはできなかった。
 ここにいた敵はマスターとサーヴァント一組のみ。そしてサーヴァントが時間を稼いでいる隙にマスターは逃げたのだろう。その気になれば逃げたマスターを追うことも可能だが、残念ながらそういったスキルをアーチャーは持ち得ず、そして時間がかかりすぎる。空を見上げれば遠くには曇り空がある。まだ数時間は保つだろうが、雨が降り始めたらもう追跡は不可能だ。
「ちっ」
 舌打ちをして、散々血で汚れたジャケットを脱ぎ捨てる。同時に蔵を開いて薬品を一つ取り出し周囲へと中の液体を撒き散らす。
 彼らの死は英雄王にとってそう意味のあることではなかった。だがけしかけたのがアーチャーである以上、彼らの死の責の一端は英雄王にある。
 砦を閉ざした以上、彼らの死骸を原住民が回収することはできない。ここでただ腐らせるのはあまりに見苦しく、そして無責任過ぎる。
「手間をかけさせる」
 末期の言葉ですら族長を頼むと言わなかった名も知らぬ老人にビンに残った最後の薬を振りかける。この老人なら最期にそう言うだろうと予想したが外れてしまった。それがこの老人の英雄王への信頼だというのが尚のこと腹立たしい。
 程なくして燃え上がる死骸はものの数分で骨まで塵とすることだろう。
「雨が降る前にもうしばらく見回るか……?」
 こうした雑兵の仕事は英雄王らしくはないが、英雄王には他の誰にも邪魔されたくない理由がある。
 朋友との再会。
 それは誰にも邪魔されることなく静かに行いたいものだ。
 決着を付けるのは別として、今一度話はせねばなるまい。それが友誼であるし、決着を付けるべきライバルとしての礼儀でもある。
 この辺りで人形めいた男を見たと原住民の情報部隊員らしき男が漏らしたのを聞いたわけだが、少し立ち寄っただけであの老人たちの戦闘の痕跡があった。ここに誰がいるのかは知らないが、誰かがいたことは確からしい。
 さすがに倒されたサーヴァントが朋友だとは思わないが、朋友を狙ったサーヴァントである可能性は高い。だとすると、戦力は高くとも戦闘を忌避しかねないあの朋友なら逃走も十分にあり得る。
 数分も歩いてみたが、それらしきものはなにも見当たらない。アーチャーのクラスらしく雑に見渡しているようでその細部も実にハッキリ認識できている。
「……ん?」
 と、そろそろ諦めようとしたときに、目の前から何やら歩いてくるモノがいる。何しろ森の中なので雑草もありそこそこ身長がなければ見通しは利かない。逆に言えば、見通しが利かないところを通るモノは獣の証である。
 だが、その獣はまっすぐにこちらに迷いなく歩いてくる。この近辺の動物は人間を忌避し向こうから回避するのが普通であるが、どう見ても獣の目標はアーチャーである。そしてその上で獣は気配を隠そうともせず、獲物としてアーチャーを狩ろうという殺気すらもない。
 そしてアーチャーから数メートルほど離れた草木も生えていない場所で、獣は姿を現した。その外見は狼に酷似しているが、その銀色の毛並みをはじめどこか違うようにも見える。銀狼はそのまま腰を落としてアーチャーと視線を絡ませ合う。
 肉食獣からその高貴さ、気高さ、崇高さを感じる者は多い。かくいうアーチャーもその一人であるが、しかし目前の銀狼にはそれとはまた別の何かを感じさせてならない。
「何者だ?」
 問うてはみるものの、もちろん銀狼は何も応えない。わずかに感じる魔力の反応に使い魔の可能性を考えるが、それにしても堂々としすぎている。
 さすがに訝しむアーチャーではあるが、すぐにその銀狼の前足にあるモノに気がつく。
 その前足には、傍目にはただの傷にしか見えぬ魔力の塊が刻まれている。その数は一画だけではあるが、その塊は確かに令呪と呼ばれるものだった。
「貴様、マスターか」
 言葉が通じるとは到底思えないが、それでも問わずにはいられない。
 ここにランサーがいるという噂。老人たちの戦闘。サーヴァントを傍に侍らせぬ獣のマスター。全てを総合して考えれば、この銀狼がランサーのマスターか。
 となると、あの老人たちの行動も明かだ。目的はアーチャーと同じ。だが先んじて動いていた敵と遭遇し相打ちということになる。結果的に、彼らはこのランサーのマスターを助けたことになる。
「この英雄王に貸しを作るとはなかなかできることではないぞ?」
 逝ってしまった老人共の顔を思い出そうとするが、もう思い出せそうにない。となれば、貸しを返す先は一つしかなさそうである。
 銀狼と見つめ合うこと数秒。そこで銀狼は腰を上げ、来た方向とは直角に移動する。数歩歩けば、再度アーチャーを見つめてくる。
「ふん、この我を案内するということか?」
 優雅さとはかけ離れたこの作業に嫌気がさしてきたところだが、こうしたイベントに出くわした以上、無視するわけにもいくまい。動物に好かれていた朋友である。これが迎えの使者ということもありえるだろう。
 だがアーチャーの期待に反して、案内されたのは人ではなく場所であった。
「川……だと?」
 思わず意図が分からず銀狼を見やる。銀狼は川にある大岩の一つに大人しく座っている。
 川の水は冷たく、実体化し続けてわずかに汗ばんだ身体に水浴みはさぞ気持ちのいいことだろう。
 アーチャーが近付いても、銀狼はその場から動こうとはしなかった。その柔らかな毛並みに触ってみても、嫌がりもしない。令呪に触れても、何の反応もなかった。
「まさか、我に水浴みをさせようと案内しただけか?」
「わふん」
 その通りですとばかりに銀狼は初めて声を出す。
 銀狼はランサーがこの場にいないことを知っている。そしてランサーの記憶を垣間見ていた銀狼は目前のアーチャーがランサーの朋友であることを知っていた。
 だから、というわけではないが、いずれこの場に帰って来るであろうランサーのために、ここで接待するのは自分の役目だと銀狼は獣らしからぬ思考でアーチャーをこの場へと連れてきていた。
「成る程。お前の“主人(マスター)”は不在か」
 アーチャーの言に銀狼は返事をすることなく周囲を見渡した。まるで、水浴びの最中での周辺警戒は任せろと言わんばかりである。
 マスターを放置してあの朋友が一人で行動する理由は思いつかなかったが、いつまでもマスターを放置する朋友でもない。
「ふん、本気でお前は我がここで水浴びをするとでも思っているのか?」
 常人であれば、ここで水浴びなどするまい。むしろ、罠と考え逆に周辺警戒を密にするべきところだ。これがランサーのマスターでなければアーチャーは即座にこの畜生を串刺しにしているところである。
 だがここにいるのは万夫不当の英雄王ギルガメッシュ。常人の対極の対極の対極に位置する英霊の中の英霊、他の追随を許さぬ希有な価値観の持ち主である。
「丁度我の脚絆も血に汚れて気持ち悪かったところだ。奴のマスターだけあってなかなかに気が利くではないか」
 呵々と笑いながら躊躇もなく全裸になると川の中へ足を入れるアーチャー。
 これがアーチャー、英雄王ギルガメッシュと、ランサーのマスター、銀狼との馴れ初めである。


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 目が覚めたのはもう昼も過ぎた頃合いだった。
 筋肉が久しく機能しなかったことで身体中が軋んでいる。天蓋付きの見慣れた族長専用のベッドであるが、こうしてまじまじとみると想像以上にでかいように思える。もしくは、自分が小さくなったのかと錯覚する。
 腕の中で必死に抱いていた椿の身体は、どこにもない。その温もりが残っているようにも思うが、それは気のせいなのだろう。
 ティーネ・チェルクは現実へと帰還していた。半ば推測だらけの方法ではあったが、上手くことは運んだらしい。
「姫様、お目覚めになられたのですか」
 ティーネの目覚めにすぐに気がついたのか、長年連れ添った乳母がすっかり窶れた顔で目に涙を浮かべて目覚めたティーネに寄り添ってくる。場合によっては無礼極まりないことではあるが、大きすぎるベッドに小さなティーネが横になるとこうでもしないと顔も見られない。
 いずれ時がきたら小さなベッドを用意しようと頭の隅で考えておく。代々の部族長が寝所として利用してきたここは成人男性が複数人の女を連れ込んでいた寝所である。未だ成長途中の女子が寝るには不便極まりない。
「その呼び方はもう止めてください。私は族長です」
「私にとってはいつまで経っても姫様は姫様ですよ」
 涙ながらに語りながら乳母は温かいスープを差し出してきた。いつ目覚めるかも分からないというのに温かいということは、冷める度にスープを用意させていたのだろう。子供扱いされることに多少抵抗はあるが、母親以上に献身的な乳母の行為は素直にありがたかった。
「私が眠って、何日が経ちましたか?」
「三日と半日といった頃合いでしょうか……本当に良かった。薬が効いているはずなのに起きる様子がないのですから!」
 乳母の言葉は夢の中での経過時間とほとんど変わりない。だとすれば夢の中で聞いた女医の言葉を信じるなら聖杯戦争に大きな変化はない筈。だが、三日という日数は組織として変質を促すには十分に足る時間である。
 面倒ではあるが、これは色々と確認する必要がある。
「何か他にお持ちしましょうか?」
「いいえ、結構。その代わり現状報告を聞きたいわ。内密に相談役を呼んでください。他の者には気取られぬよう、そして迅速に」
 ティーネの言葉に乳母はやや曇った顔になるが、「わかりました」とすぐに部屋を出て行った。それだけでティーネの予想は半ば当たっているのだと理解する。名残惜しそうに部屋を出て行く乳母を見送り、ティーネは意識を切り替える。この要塞内にいるとはいえ相談役全員を集めるのにもやや時間は必要だろう。その間にできることは早い内にしておくべきだ。
 申し訳ないと思いながらも飲みかけのスープを台座へと戻し、軽く呼吸を整え意を決して身体を確認してみる。今着ているのは寝間着代わりのローブで、下着は穿いていない。三日間寝たきりだったというのに汚れないということは乳母が処理してくれていたのだろう。
 だが、確認したいのはそんなことではない。
 今ティーネの身体を駆け巡る魔力は夢の中とは違い圧倒的である。スノーフィールドの地そのものから供給される魔力はアーチャーに供給する魔力を差し引いても余りある量で、その手にある三画の令呪にも問題はない。やや慎重に調べてはみるも、そこに澱みはない。そのことに安堵と不安を感じながら、避けては通れぬ道と、ティーネは思い切って自らの丹田に己の魔力を巡らせてみる。
「――っ」
 結果はすぐさま表れた。浮かび上がったのは胸から下腹部にかけて描かれた紅い魔法陣。簡素に見えて実に複雑な術式を織り込まれたそれはティーネに適切な形で魔力を送り込む変換器である。
 乙女が自らを捧げようという一世一代の決意に対し、これを描いた本人は「ごめん、なんか勘違いさせちゃった」とか「十二歳を抱くのは無理」とか「他にも方法はたくさげはぁ!」とか言っていた。ちなみに最後のはティーネが無礼者の顎を殴り飛ばした時の台詞である。
 とはいえ、魔法陣はフラットの血液を用いた歴とした魔術の塊である。性行為こそしなかったもののティーネの未発達な胸や将来を感じさせる臍周り、特に子宮のある下半身をこれ以上ないほど弄り倒した(正確には魔法陣を描いた)フラットの魔術は今現在も彼女の身体に魔力を供給している。
 他者からの魔力提供は子宮に射精されるのと似た快楽とも聞く。欲求不満めいた感覚に自慰の誘惑にかられるがそれはおいておく。
「こんなことであの夢が現実だったと証明されるのもどうかとは思いますが……」
 最悪、眠っていたあのできごと全てがティーネの夢である可能性もあった。他のマスターとの同盟、ライダーとランサーの戦い、“偽りの聖杯”、全て荒唐無稽といえばその通り。だが、夢の中でフラットにかけられた魔術は現実にティーネに影響を及ぼし続けている。これがあの夢が現実であったという何よりの証である。
 もう必要ないのでさっさとこの魔法陣を消したいのだが、これは一体どうやったら消えるのだろうか?
 そんなことを思いつつ時間を考え身だしなみを簡素ながら整えていると、扉をノックする音がする。集まるにしては早すぎる。大した準備もできていないが、今は時間が惜しい。入れとティーネが命令すれば、乳母が相談役を引き連れて入室し、そのまま何も言わずに退室していった。
 ここにいるティーネと相談役はいわばこの原住民の実質的頭脳である。末端やその縁者、支持者を含めれば数千人まで膨れあがる人数を考えるとトップにはそれ相応の権限が必要とされる。そして、そのためにティーネと相談役以外の者はこの場に立ち会うことが許されない。
「お目覚めになって何よりです」
「申しわけないけれど、そんなことよりも時間が惜しい。現状の報告をして欲しい……が、あなたたちは今何をしていたのかを先に聴いておきたい」
 口々に挨拶をしようとする相談役にストップをかけ、ティーネの視線が先と打って変わって厳しいものへと変化する。
 当然だ。相談役というのは原住民のトップであるのは周知の事実。そして、そのトップの中のトップであるティーネが一時的とはいえ倒れた以上、話し合う内容は自ずと知れてくる。話の詳細こそ分かるわけもないが、相談役が中途半端なこんな時間にこうも早くこの場に招集できたのがその証拠であろう。
 ティーネの視線に慌てた者が一人。そして目線を逸らした者も一人。いずれもテロを容認する相談役の中でも割と比較的若手の過激な急進派。どちらかといえば保守派に属するティーネが強大な権限を持って彼らを排斥していないのは建前だけでも組織を一枚岩としておきたかったからである。
 この聖杯戦争の最中である以上、一致団結する必要があるのに、これでは足を引っ張り合うばかり――
「……待ちなさい。何故、一人いないのですか」
 九名の相談役を呼んだというのに、ここに座すのは八名のみ。あえて名前を呼ばず相談役の人数で判断したかのようにティーネは振る舞うが、その実、最も頼りにしていた者の姿がここにはない。
「ああ、そのことですか」「祖父殿でしたら先日から」「我々もそのことで話し合っていたのですよ!」「気の毒なことでした」「何せ急なことでして」「新たな相談役が必要であると」「ここは一致団結し」「推薦したい者が」「英雄王の差配にも困ったもの」「責任をとられたのでは?」「そんなことより訴えたいことが」
 次々と勝手なことを言い始めた相談役だが、その全ての言葉をティーネは違えることなく耳に入れた。彼らは他者の言うことなど端から聞いておらず、自分勝手なことを恥知らずにも平気で口にしてみせる。
 まだ族長の地位に着いたばかりの頃、政治についてろくに分からぬ部分もあって、そのために重要な案件については相談役にそのまま任せていたことがある。そうして一度でも頼られたという実績が彼らの強みとなり、結果的にこうした暗愚な者をこの場に招き入れることとなってしまった。
 これを失策というのは早計だろう。万能なる人間などどこにもおらず、また真に無能なる人間もいやしない。最善手が最良の結果となるとも限らず、また最悪手が最良の結果を招くこともある。
 一言で言ってしまえば「仕方がない」。
「――よく、分かりました」
 五分近くも好き勝手に話した相談役にティーネは静かに告げてみせた。
 さすがに族長の言葉を遮ることもできずまだ喋り足りない様子ではあったが、部屋の中には沈黙が落ちる。相談役全員が、次に発するティーネの言葉を待っていた。そして都合のいいことに、口を開いていた相談役は己の訴えが通るとばかり思い愚かにも自然頬が上がっていた。

「(                      )」

 言葉は、そこにあったのかもしれない。
 意志も、思惑も、そして感情も全てを乗せて、ティーネは己が魔力を解放した。久方ぶりに使用した魔力は思ったよりも出力が強かった。
 元より族長の条件の一つがこのスノーフィールドの地に愛されていること。それは即ちティーネが魔術使いとして最も優れている証左でもある。
 ただの一撃で、相談役八人の内五人が抵抗する間もなく消し炭となる。残った三人は、始終一言も発しなかったティーネが心から信頼している腹心である。
「……一応、苦言を呈しておきますが、急進派連中は黙ってはいないでしょう」
「私のサーヴァントは暴君です。ならば、そのマスターも暴君になってもおかしくはないでしょう」
 ある程度予想はしていたのだろう。確認をするように問うてくる腹心にティーネは静かな覚悟を持って答えた。
 怒りがそこにあったのは確かであろう。だが、怒りだけで組織の頭を半分殺すことなどしはしない。もはや必要ではない、そう判断したからこそティーネは彼らに裁きを与えた。早まったわけではない。むしろ遅すぎたくらいだ。
 聖杯戦争を目前に控え組織を纏めるのに妥協し足並みを揃えようとしたのが拙かった。一人旅立たせてしまった祖父に詫びる言葉もない。
「まぁ、彼らのおかげで大方のことは理解しました。英雄王が籠城を命じたのですね?」
「はい。我々相談役で話し合い、現在物資の調達を急遽行っております」
 実際に話された内容から籠城とは少々ニュアンスが違うようであるが、夢の中であれだけの感染者と戦ったティーネだ。アーチャーがどういう意図で命じたのかは分からぬが、疫病であるライダーの存在を感じ取っていたのかも知れない。
 だがそれだけというには腑に落ちぬところもある。
 これは、直接話を聞く必要があるだろう。
 そして、こちらからも話をする必要がある。
 ――いや、その前に“偽りの聖杯”を確認するのが先か。
「私はこれから外へと出ます。護衛は不要。後のことはあなたたち三人に任せますが、我々一族の安寧を第一に動いてください。穏便に進められるならそれが一番ですが、必要とあらば粛清を行っても構いません」
 一応内密に喚び出したのだから、まだティーネが目覚めたこと知る者は少ない。この場でいきなり相談役を殺されたなど予想する者もいまい。うまくすれば一日くらい相談役不在でも誤魔化せる。そこから先は、相談役の頑張り次第。
 ベッドから降りて服を着替える。ここにいる生き残った相談役はティーネが幼い頃より心を寄せていた身内である。今更恥ずかしがる関係にはない。いつも通り白いドレスを身に纏ったティーネは下を向く三人に最後になるかもしれない命令を下す。
「私が倒れた場合、敵を討とうなどとは絶対に思ってはなりません。次の族長はあなた方三人で選んでください。汚名は全て私に被せ、原住民が生き残ることを第一に。誰一人として命を粗末にはさせないでください」
 ここで五人もの相談役の命を奪ったティーネだ。暴走したティーネが全て悪いとすれば、これでティーネが死んだとしても組織そのものはその死を最大限に利用することができる。
「……姫様も、命を粗末になさらないでください」
「その呼び方はもう止めてと言った筈よ叔父様」
 その忠告には答えず、幼い頃の呼び方で相談役に別れを告げてティーネは部屋を後にする。あの最強無比のアーチャーがティーネの補佐を必要とする筈もない。マスターであるティーネはこのまま関することなく籠城をした方が絶対良いに決まっている。
 だが、そんな簡単な選択肢を前にしてもティーネはその命を賭して要塞の外に出なくてはならない。
 今、ティーネの前には二つの選択肢がある。
 一つは、マスターとしてアーチャーと協力し“偽りの聖杯戦争”を戦い抜く道。
 そしてもう一つは、スノーフィールド原住民の族長として、サーヴァントの力を必要とせずに“偽りの聖杯戦争”を終わらせる道。
 単身、彼女は要塞の外へと歩み始めた。
 彼女の選択肢は無限にあるが、その足先は既に決まっていた。


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「これは本当に実現可能なのですか……?」
 思わず声に出しながら何度も何度もその決して薄くない資料を読み返す。十分、二十分と時が無情に経過していくが、書かれている内容はちっとも変わってくれない。それどころか、細部まで読み込むことでこの計画の胆となる部分も見えてくる始末。この資料にリスクとリターンは具体的に書かれていないが、確かにこれはハイリターンだ。そしてある程度の知識があれば超ハイリスクであることも読み取れる。
 アメリカ国内にあるとある大学の秘密地下大図書館――その更に地下にある秘密書庫にて、青年は柄にもなく青ざめていた。従軍時代に紛争地帯で敵陣の只中に置き去りにされた経験もあるが、ここで知りえた事実の方が青年に与えた衝撃は遙かに大きい。
「納得してもらえたかね?」
 目の前にいる講師はじっくりと時間を掛けて青年を観察していた。それこそ、この部屋のドアを開けて一時間以上資料を読み耽っているその姿を子細に。愉しげに。
「納得なんて……」
 できるわけがない。
 それでも露骨に反論できないのは青年が駆け出しながらも魔術師であるからに他ならなかった。
 目的に対して貪欲であり、犠牲を顧みず、そのためならばどんなことだって行う魔道への歩み。
 まだその道に入って日は浅く、代も重ねてすらいないため魔術刻印すら持ってはいないが、彼には魔術とは全く関係のないところで生まれ持った才覚があった。しかもこの計画であれば青年は長年無縁と思ってきたその才覚を生かすことができ、駆け出しの魔術師でありながら大成することが約束される。
 命を賭けるという覚悟は必要ではあるが、リスクの大部分は他人が肩替わりしてくれるし、リターンに関しても人生を十回やり直してもおつりがくる。同時に、本来なら十代かけて積み重ねるべき血統すらもここで手にすることができる。これは並の貴族でも得られるモノではない。
 喉が渇いてしょうがない。
 こんなチャンス、今後あるとも思えず、そして断れば消されるだけ。消されるのが記憶か人生かは知らないが、資料を見せた講師は青年が引き受けない可能性を欠片も考慮していないことは明らかだった。
「質問をしてもよろしいでしょうか?」
「何かな?」
「何故、自分が選ばれたのでしょうか?」
「ふむ。魔術師にとって自惚れとは大切だよ? 自分に自信が持てなければ魔道を歩もうなどとは思わないからね」
 その言葉はまるでお前は魔術師に向いていないとでも言っているようにも聞こえるが、そうした他意は講師にはない。もとより青年に頓着していないようにすら見える。
「だが強いて言うなれば、君が候補者の中で最も選考基準を満たしていたからだ」
「選考基準について伺ってもいいでしょうか?」
「身元が確かであり、従軍経験もあり、一定基準の魔道を修めている。ああ、ついでにいうとそうした合格者は他にもいるが、計画中枢にいる人物として声をかけたのは君だけだ。最大の理由は分かっているとは思うがね」
「………」
 嘲るような講師の物言いに青年は何も言うことはできない。
 計画の第一段階において対サーヴァント部隊の育成が含まれている。そして青年が持つ才能とは、即ち魔術師の育成に他ならない。かの高名なロード・エルメロイⅡ世と比べると見劣りするのは確かだが、青年であれば『戦闘技能を持った魔術使い』に限った育成で彼をも凌ぐ実力を持つ。白羽の矢が立つのも当然であろう。
 既に青年はその歳で己より遙かに高位の魔術師を更なる高見へ送り出したことがある。それがかつての部下であったことも含めて調査は進められていた。というより、その元部下がこの計画に青年を推薦した可能性も高かった。
 若干の背景が分かってくると、余裕が少なからず出てくるものだ。落ち着いてこの計画を見直せばこれがどれほどの規模のものなのか予測もできる。
 スノーフィールドにおける“偽りの聖杯戦争”計画。元は別の計画に利用される筈だった“偽りの聖杯”を冬木の聖杯戦争を参考に作り替えた模造品。こんなことが計画されていると知れば協会と教会、双方が黙ってはいないだろう。よく今日まで騙し仰せたものだと感心すらする。
 寒いくらいの地下書庫だというのに、冷や汗が頬を伝って滴が落ちた。
「再度、お尋ねします。これは、本当に可能なのですか?」
「可能だからやるのだろう?」
 呆れたような物言いではあるが、やはり講師は青年を諦めさせるつもりはない。
「これは……世界を滅ぼしかねない――いや、世界を滅ぼすものです」
 もはや言葉を言いつくろっても仕方がない。願望機として世界の破滅を願えば世界を破滅させる、というものではない。これは、世界を滅ぼす機能しか持ち得ない。ありとあらゆる保険を掛け、その機能の一端を利用するだけにしても万が一の可能性で世界は滅びることになる。
「だから計画がたちあがったんだろう? まあ、僕はオブザーバーとして、可能だ心配はないこの手に乗らない手はない、と美辞麗句を言っただけさ」
 そんな講師の言い方に一体“上”がどれほどリスクを理解しているのか疑問が残る。大方、この文字通り桁違いのリターンだけで押し通す腹づもりなのだろう。この様子では根回しは終了し予算も組まれていたとしてもおかしくはない。
「……先生は、この計画には参画されないんですか?」
 考えてみれば、この講師がただのオブザーバーというのも納得のいかない話だった。
「馬鹿かね君は。船名がタイタニックなんて豪華客船に乗るわけないだろうが。美味しいとこだけ戴いて不味いところは人に押しつける。それが世間の常識と我々魔術師の常識の共通点だろうに」
「先生らしいです」
 通用しない皮肉に嘆息して、もう一度資料に目を通す。これ以上この講師に質問したとしてもどれほどの答えが返ってくるのか逆に底が見えた。だからこそ、そのギリギリの質問は今のうちにしておく必要がある。契約書にサインしてしまえば、今後この講師と会うことはないだろうから。
「先生、契約をする前に質問しますけど」
「ん、何でも聴いてくれ。答えられる範囲ではあるがね」
「もし、自分が死んだり敵に捕まったりしたら、どうなりますかね?」
 そこで講師は一瞬だけ呆けた後、今まで一度として見たことない大爆笑を青年の前で数分間見せ続けた。
 青年としては至極まともな質問ではあったが、講師は一流の冗談だと思ったらしい。まあ、軍人崩れの魔術師が真面目な顔して問うてくるのだ。答えは知っていて当然だし、アメリカ国民なら子供に問うても模範的に答えるに違いない。
 曰く、テロリストとの交渉には応じない。
 曰く、アメリカはテロには屈しない。
 曰く、アメリカに敗北はあり得ない。



 そんな会話があったことを、署長はうっすらと夢の最中に思い出していた。
 あれが一体何年前の話だったのか定かではない。全ては自分の妄想で、ひょっとすると自分はこの計画のために造られたホムンクルスではないかとすら思う。滑稽だとは思うが、絶対にないと言い切れないのがこの業界の怖いところである。
 意識の覚醒は瞼の開閉よりも早かった。時間帯を腹具合や喉の渇きで推測しようにも昨今の疲れと不摂生が祟ってまるで分からない。だが幸いといっていいのか分からないが、ロープによって拘束された両手足の硬直具合から数時間以上、半日未満と推測できる。おそらく途中までは両手首と足首をくっつけるように縛って逆エビ状態で搬送していたのであろう。そのせいかどうにも背骨が悲鳴を上げてならない。
 重い頭を無理矢理動かし耳を澄ます。猿ぐつわも目隠しもされてはいない。自然な動作でわずかな音を出しその反響を頼りに部屋の大きさを推測するが、これはどうにもよく分からない。小さいようにも思えるし、大きいようにも思える。
 だがそれでも迂闊なことを署長はしない。慎重に慎重を重ねて周囲の情報を視覚を除いた四感で収集する。
 部屋の中には……誰も、いない。
 そう結論を出したのは約五分後。ゆっくりと薄目を開けて顔を動かさない範囲で周囲を探り、安全だと判断してからはまずは目に見える足首の縄を確認する。ロープの巻き数が多いほど緩めやすく縄抜けの余地が生まれるが、しかしこれはどうにも難しい。戦友の中には関節を外して脱出する雑伎団のようなやつもいたが、あいにくと署長にそんなスキルはない。
「ちっ、なら……」
 と、背中に位置する手首を縛るロープをベッドとの感触で確かめようと上を向くが、
「よう」
 実に自然な態度で、視界の隅でキャスターが椅子に逆座りしながら顎を背もたれに乗せ、右手を軽く挙げて挨拶してきた。街中で偶然出遭ったかのようなさり気なさだが、そんな偶然があるならこの世は即座に滅びた方がいい。
「……悪趣味な奴だな。いつからそこにいた?」
「多分マスターが起きる五分くらい前からだ。だから一〇分くらい前からかな?」
 いつ起きたのかもキャスターにしっかりと確認されていた。就寝時と起床時の見分け方として唾液の嚥下量というものがあるが、そんな喉の動きでも見ていたというのか。相当な暇人である。
「演技かどうかは見てりゃわかる。仮にも俺は劇作家だぜ?」
 普通の劇作家は現場にでて役者の見立てをすることはない。それは監督の仕事だ。
「……いや、嘘だろ」
「反応が遅いな。いつもならもっと早くに突っ込みが入っている頃合いだぜ?」
「おかげで目が覚めつつあるさ」
 重い頭を自覚する。これは魔術などではなく薬禍によるものか。だとすれば自己制御をいくら徹底しようが身体のどこかから必ずボロはでる。演技が無駄である以上、ここからは捕虜として動くべきか。
 ……だからといってジュネーブ条約に基づき認識番号を言ったところでどれほどの意味があるかは不明である。今までの経緯を考えれば無意味でしかない。
 署長が誘拐された以上、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は次席である副官が指揮権を継ぐことになる。元々猫の鈴として“上”に押し付けられた男である。反目せずとも信頼関係などあるはずもなく、署長を助け出そうと動く男ではない。むしろ今後発生するであろう責任問題を署長に押し付けるべく秘密裏に葬り去ろうとする方が自然だった。
 どっちに転んでも殺されることは確定した。
 味方は一気に敵になった。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》も一から署長が丹精込めて育てはしたが、あれは魔術師である前に軍人として教育してある。上官が替わったところでその根幹が揺らぐことなどあり得ない。秘書官を含めた腹心数名ならなんとかまだなるだろうが、逆の立場であったのならとっくに拘束するか餌として野に放つかの二択を考える。
 状況確認は終了した。
 もうこれ以上になく詰まされている。三手詰めというところだろう。初心者にも易しいレベルである。
「しかし、わからんな、キャスター」
「ん? 何がだ?」
 解せない、と署長はキャスターを睨み付ける。
 ――何故、裏切った?
 ――敗色濃厚だぞ?
 ――令呪はまだ一画残っているぞ?
 署長の脳裏に数々の質問が思い浮かぶが、その全ての答えにキャスターは笑ってこう答えるだろう。
 ――その方が、面白いだろ?
 そんな決まり切った答えを聴きたくて質問するわけではない。分かりきっている答えなど、聴く必要はない。
 署長が理解できないのはただ一つ。
「お前は、裏方でこそ活躍するサーヴァントだ。何故表に出ようとする?」
 劇作家は名声こそ手にすれ舞台に上がることはない。
 キャスターは組織という手足があって初めて活きるサーヴァントだ。例え他のサーヴァントと同盟を組んだとしても彼の実力が発揮できるとは到底思えない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がなくなれば、最終的にキャスターは足手まといとして切られる運命にある。
「あー……それか」
 痛いところをつかれたなぁ、とばかりに後頭部をかきむしるキャスターは教師に叱られる悪ガキの態度によく似ていた。
 痛む腰に力を入れ、足を振り上げ下ろす力で上体を起こす。これで視線の位置が同じになった。わずかではあるがキャスターにはプレッシャーになったことだろう。案の定署長から目線を逸らしてみせる。
 元から嘘吐きのキャスターではあるが、こうしたとき嘘をつかずに黙るのはまた珍しい。
「それについては、いずれ話す機会もあるだろうさ」
 そう言ってキャスターは自然に席を立った。そしてそのまま部屋を後にしようとするキャスターに思わず声が出る。
「おい、私に何か話が合ったんじゃなかったのか?」
「いや、今のところは何もねぇよ?」
 あっさりと告げるキャスターの言葉に嘘はない。では、何故ここにいたのか。何の意図もなくここにいたとするならば、それは大した演出だ。こちらを信用させる手段としては有効だろう。
「ただ、一応俺はサーヴァントでアンタはマスターだ。状況は変わっても関係が変わってないことは理解して欲しくてな」
 十二分に関係は変わったように思えるが、キャスターの中ではここで自らが上位に立ったとは思っていないらしい。
「俺が説得する必要もなく現状を正しく認識してくれているようだから、俺から言うことは何もねえのよ」
「私はまだ色々と聞きたいことがあるし、待遇の改善を求めたいのだがね」
 皮肉気味に足首に巻き付けられたロープを見せつけるが、キャスターとしてはこれ以上ここにいるわけにもいかぬらしい。
「そのロープはもうじき外すよ。その前に兄弟に会わせたい人物がいてな」
「誰が兄弟だ。……それで、一体誰に会わせてくれるんだ?」
 うんざりしながら署長は一応の突っ込みを入れつつキャスターに探りを入れてみる。
 キャスターは気分屋ではあるが、それでいて計算高い男でもある。裏でこっそり裏切るならともかく、ああも真っ正面から堂々と裏切る真似を簡単にする男ではない。その行動には必ず意味があり、意義がある筈なのだ。
 自然と、署長は身体が強ばっていることに気付く。
 これから会う者が誰かは知らないが、このキャスターをして裏切らせしめた者である可能性が非常に高かった。そんな者が只者である筈がない。
 いいだろう、と自由の利かぬ手足であっても背筋を伸ばす。舐められればそこで終了する恐れすらある。すでに向こう側には戻れぬ身、生き延びるためならなんだってするしかない。
 だがそんな署長の気構えも、キャスターによって粉砕される。
「ああ、気構えなくてもいいぜ。今から会うのは確かにこの聖杯戦争での重要人物かも知れないが、本人には自覚がないからな」
「……どういうことだ?」
「つまりは、こいつ、だよ」
 キャスターが開け放ったドアの先には、一人の……東洋人がいた。
「この“偽りの聖杯戦争”におけるイレギュラー。七番目のサーヴァント、宮本武蔵の元マスター様だ」
 キャスターの紹介に、署長は自らが何故誘拐されたのかを悟った。
 パワーバランスや、情報を引き出すために署長は誘拐されたのではない。
 この“偽りの聖杯戦争”の裏を知っている者として、現状を分析するアナリストとして、署長は誘拐されていた。
「は……、はは、……ははは、ははははははははははっ」
 思わず、笑いがこみ上げてくる。
 既に諦めていたとはいえ、これは想像以上のカードを引いてしまったと署長は込み上げる笑いを抑えることができそうにもなかった。これは“上”どころか、“偽りの聖杯”をもひっくり返せる大チャンスだ。
 全てを署長は納得した。
 聖杯戦争のシステムが根本から覆される可能性が出てきたのだ。そんな手札を見せられたのなら、キャスターが裏切るのも仕方がない。署長がその気になってしまうのも、無理はない。
「いいだろうとも東洋人――私は何だって答えよう。キャスター、長い話になる。茶菓子くらいは用意してくれるのだろう?」
 仰せのままに、と自らの高揚を押さえ切れそうもない署長に肩を竦めてキャスターは去って行く。
 この聖杯戦争の準備をしてきた段階から、署長はここまで歓喜に震えたことはなかった。これまでは軍人として必要とされたことはあっても、魔術師として必要とされはしなかったのだ。そんな己を不甲斐ないとすら思っていた。
 だがそうではなかった。群体の長としてではなく、個として署長が必要とされる場所があったのだ。
 もはや署長に迷いはない。自らがどういった立ち位置になるのか不明ながら、足元を確認するよりも先に駆け出すことに躊躇はなかった。
「時間がもったいない。私のことはどうせキャスターから聞いているのだろう。それで、君の名は何と呼べばいいかな?」
 署長の問いに、東洋人はしばし戸惑いながらもつたない英語で口を開いた。


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 その午睡を邪魔したのは例によってろくでもない喧嘩の仲裁のためだった。
 スノーフィールド南部砂漠地帯……というよりもはやラスベガス北部といった方が近い丘の上。スノーフィールドからラスベガス方面へ正規ルートを通らずに秘密裏に渡ろうとすればこの近辺を通らぬわけにはいかず、結果として何かしら後ろめたい人間を見つけるには都合のいい場所だった。
 起こされた時刻は午後の二時。日陰は涼しいがこれから最も暑くなる時間帯である。だというのに喧嘩は日向で行われていた。まったくもって正気を疑いかねぬ馬鹿野郎共である。
「どうしました?」
 溢れる怒りを欠片も出すことなく近付いてきた上官に敬礼をしてくるも、訓練所上がりの新兵はそれでもなお互いに睨み合いを続けてみせる。
 顔立ちからして粗暴さが目立つ馬鹿面だ。何度も上申はしてはいるがここに連れてこられるのは決まって前科のある悪ガキや使いようのない馬鹿ばかりである。人殺しに抵抗がないのは結構なことであるが、脳みそまで本気で筋肉が詰まっているのかという学習能力のなさと倫理観の欠如は本気でどうにかして欲しい。
「ふぁ、ファルデウスたっ」
「おおっと。私のことを階級で呼ぶのは禁止です。前にも言ったでしょ? ちゃんと覚えていますか?」
 にこやかな笑顔でファルデウスは無礼な新兵の首筋に当てたアーミーナイフを元の鞘へと戻す。一体いつの間に抜いたのか周りにいた全員が把握できてはいなかった。柔和なファルデウスがひとえにこの荒くれ者たちの上に立てる理由は圧倒的戦闘力の差が大きい。特に初日に反抗的だった一人を永遠に黙らせたのが良かったらしい。
「それで、これは一体何の騒ぎですか?」
 本来であれば現場の全権責任者たるファルデウスがこんなただの喧嘩ごときに出向く必要はない。が、無視を決め込むにはこのベースキャンプは狭すぎた。
「あー……なるほど、つまり死体の数が足りてないってことですか?」
 これまた新任の女性副官の耳打ちにファルデウスが確認を取るように二人の新兵へ問い質してみると言いわけの嵐。聴かれたこと以外を喋るなと言う基本的なことも忘れているようである。
 いつまでもこの二人の言い分を聞いているわけにもいかないので二人を無視してファルデウスは死体を安置しているテントを覗き見る。数えてみれば、確かに報告された数よりも一つ足りていない。
 一応射殺死体は一体ごとに記録を取っている。ここでいなくなった死体は昼間日陰で休んでいたところを狙撃され殺された男のもの。足跡からどうやらラスベガス方面からスノーフィールドへ行く途中だったようである。これがどこぞの陣営の援軍だとしたら減点は免れぬだろう。
「こういうことがあるから“当たり”は油断ならないんですよ。無理をしてでも《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》から何人か引っ張ってきた方がよかったですかねぇ……」
 まったくもってつまらない任務だとファルデウスはぼやく。
 ファルデウスたちが今受けている任務はこの付近を渡ろうとする人間の射殺である。射殺した人間の多くはただの一般人(臑に傷を持つ者が多いが)であるが、中には当たりもいる。
 つまり、魔術師だ。
 現在射殺したのは全部で八六名、その内魔術師らしき人間は九名である。そうした“当たり”かもしれぬ死体は他の死体を選り分けている筈なのだが、その死体袋はどう見ても八つしかない。
 死んだふりをしていたのかそれとも蘇ったのか。判断は付かぬが今更どうしようもない。あの馬鹿者共のことだと改めて他の死体袋の数も確認したが、やはり一人分の死体がなくなっている。
 いつまで続くか分からぬこの作戦に兵士達が“遊び”を取り入れたのを黙認したのがまずかった。誰が何発で何人仕留めたのか賭けがあったらしい。中でも魔術師の射殺死体はポイントが高いのだそうだ。
「こいつらにも魔術師の怖さを教えなければなりませんかねぇ……」
 スノーフィールドでランガルの人形を壊した時、その光景を間近で見た兵士たちの衝撃は生半可なものではなかった。ここでの仕事は簡単とはいえ、いつ逆襲されてくるかは分かったものではない。むしろこのルートは通れないという認識を植え付けるための作戦なので進退窮まれば一斉に襲いかかってくる可能性も低くない。
 射撃ポイントは常に変えさせてはいるが、もうそろそろそのパターンも限界である。ここいらで何か手を打つ必要はあるだろう。
 と、
「タイミングがいいですねぇ」
 まるで見計らったかのようにファルデウスが事後処理をしようとパソコンの前に座ると同時に囲うようにして設置されている三台のモニターに電源が点る。だというのに映されているのは『SOUND ONLY』の無機質なロゴのみ。もちろん相手からはモニター上部に設置されたカメラを通してファルデウスの顔は見えている。
「まったく便利なシステムですね。いつから御覧になられていたのですか?」
 今まさに魔術師に逃げられたばかりだ。それ以外のことについては特段処罰されるものではないが、このポジションは軍事裁判を彷彿とさせて嫌になる。
『たった今だよ、ファルデウス君』
『君がパソコンの前に座ったようなのでね』
『君の手を煩わせぬようこちらで操作しておいた』
「ありがたいかぎりです」
 それなら事前に心の準備くらいさせてくれた方がよっぽどマシなのだが。
「報告書をこれから書こうと思っておりましたが、ならこの場をお借りして口頭で済ませてしまって構わないでしょうか?」
 冗談ではあるが皮肉を込めたファルデウスにしかしてカメラの向こうの御仁は信じられない言葉を口にしてみせる。
「――それは、本当ですか?」
 報告書を書く必要は本当になくなった。いやあ、冗談でも言ってみるものだと頭のどこかで混乱する誰かがいる。
『ああ、本当だとも』
『署長は、MIAと認定されたよ。キャスターが手引きしていることから事実上POWということだが……まあ、こうした事態になった以上我々が成すべきことは頭をすげ替えることだけだ』
「……それで、私に白羽の矢が立ったってことですか」
 あまりにも想定外の事態にあのファルデウスでさえそう返すことが精一杯であった。
 キャスターの裏切りによる署長の誘拐。それによって《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は事実上機能不全に陥り、早急な立て直しを要求されている。
 確か“上”の息のかかった副官が存在している筈だが、やはり“上”から見ても駄目であったらしい。一度会ったことがあるが、あの程度の男では《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は十全に機能しないだろう。
 いや、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の選抜と育成は署長の専権事項である。鈴としての役割を果たせるのがあの男しかいなかった段階で署長はこうした事態を読んでいたのかも知れない。
 そのおかげで自分は戦争の裏方から一陣営のトップに抜擢されたのだから感謝するべきか。
『すでに作戦は署長の独断でフェイズ5まで進んでおる』
『そこに君の責任はない。好きなようにやりたまえ』
『君の部隊も《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とは別に使用しても構わんよ』
 次々とされるお膳立てに断る理由などどこにもない。
 運が回ってきた、などとは思わない。最終的に残った陣営を鏖殺するのが彼らの役目であったのだ。それが少しばかり早まっただけのこと。内心これを待っていなかったといえば嘘になるが。
「身に余る光栄です」
 心にもない世辞ではあるが、ファルデウスの顔に張り付いた喜色に偽りはない。
 魔術教会のスパイを止めてまで宣戦布告の大役を務めたのだ。これで戦場を遠くにただ無防備な人間を撃つだけの裏方で終わるなど、これ以上つまらないことはない。
 通信を追えた後、ファルデウスは念のためカメラの届かぬところへと身を置いた。五分ほど沈思した後、さてと立ち上がる。
 あと小一時間もすれば迎えが来る。その前に色々と準備というものがある。まずは散々殺してきた死体をトラックに詰めさせ、テントを片付け撤収準備。忙しさにかまけて忘れかけていた最後の片付けも処理しておく。
 丁度迎えが来た頃合いに大体の作業は終わらせることができた。
「ファルデウス殿、お迎えに上がりました」
 迎えにやって来たのはファルデウス本来の副官である口髭の似合わぬ軍人であった。
 軍靴を鳴らしながら背を伸ばすその口髭から差し出されたタオルを受け取ってファルデウスは額の汗と返り血をぬぐい取った。この気温でこの急な運動は鍛えた身体であっても堪える。空を見上げれば黒い雲の塊が遠くに見えた。湿度が高くなったのも少しは関係しているだろう。
「……今回は、全員不合格でしたか」
「まあ、ここで寝ている連中は私の部隊には必要ないかな」
 笑いながらファルデウスは血塗れになったアーミーナイフをその場へ捨てた。あれだけの人数を殺したというのに未だナイフの切れ味は損なわれていない。それは魔術などではなく単純なファルデウスの卓越した技量によるものだ。
「お言葉ですが、短期教育の連中をいくら扱こうとも実戦に投入できるとも思えません」
 新兵の息絶えた姿を見ながら口髭の副官は苦言を呈す。最初から分かりきった結果であっただけにわざわざテストをする意味もない。つまりは最初から使わない方が無駄がないということか。それに関しては社会のゴミは排除すべきと考えるファルデウスは何も言わなかった。論議するだけ無駄である。
「ここで副官を務めていた女性士官はどうでしたか?」
 口髭副官がここにある新兵八名分の死に顔を確認しても、ここに女性の死体はない。他の新兵はともかくとして、あの副官は正規訓練を経て配属された士官候補生だ。不合格だからと殺すには少々惜しいらしかった。
「ああ、あの娘に関しては見所がありましたね。私の一撃を何とか避けて他の新兵を盾にして一目散に逃げていきましたよ」
 あの窮地にあって混乱もせずに的確に生きるための最善手を打てるのはもはや才能としか言いようがない。
「この近くにまだ潜んでいると思いますから、三〇分ほど遊んでください。一〇分以内に捕まるようなら殺してしまっても構いません」
「了解しました」
 いつものこと、と口髭副官は連れてきた部隊員にレクリエーションを説明する。
 これはファルデウスの入団テストである。
 追ってくる敵から一〇分以上逃げつつ、三〇分以内に何らかの交渉があれば合格だ。
 もとより、ここで行われた作戦は無差別殺傷の非合法かつ非公式の作戦。表沙汰にできぬ作戦である以上口封じは最初から決められていたこと。だからこそ、逃げ切った場合にはファルデウスとは関係のない別の機関が追うことになる。
 ただ逃げるだけだと今後安穏とした日常生活に戻れることはない。それが分かっているのなら、この危機的状況であっても冷静に冷徹に正解を手繰り寄せる努力をすることが求められる。
 ファルデウスの部隊にいる全員はそうした洗礼を受けてきた者たちだ。それだけに兵士としての個々人の技量は飛び抜けているし、メンタルコントロールも一流である。魔術師といった個を超越した魔道の相手であろうと彼らは怯えることなく対応し犠牲を怖れることなく隊に寄与してみせることだろう。
 連れてきた部下は全部で八名。その内の三名を連携も考えずに適当に選ぶ。一〇分前に逃げた獲物だ。全員で捕まえにかかれば五分で彼女は連れ戻されてしまう。それに試験であることを彼女に悟らせるにはこれくらいが丁度いい。
「では、レクリエーションを開始しようではないか」
 こうして、試験を称した愉しい愉しい“遊び”にファルデウスは選抜した三人を解き放った。彼らにしてもこの遊びで上手く捕まえればご褒美がもらえる。失敗しても特に懲罰もなく、相手が女となればわざと失敗するのも手である。そういうこともあってファルデウスの部隊にいる女性隊員は他の部隊員より技量と駆け引きにおいて実力者揃いという事実がある。
 だが見込みはあるのだろうが、ファルデウスの予想ではそれだけだ。彼女は数ヶ月後に誰とも分からぬ白骨死体として発見されることだろう。
「ご機嫌ですね」
「当然だろう? これでようやく私にも目がでたというものさ」
 これから本格参戦する“遊び”を思えば、どうにも顔が元に戻りそうになかった。


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 その廃工場には猿(マシラ)がいる。
 スノーフィールド近郊にあるいくつもある廃工場のひとつ。後は取り壊すだけなのが、取り壊すべき責任を持った者がいないため長いことこの工場は放置され続けていた。どれくらい放置されていたのかは分からない。スクラップにしかならない機械や錆だらけの鉄骨に積もった埃は少なくとも数年単位で人の活動がここでなかったことを意味していた。
 近所の悪ガキがたむろしてもおかしくない物件だが、住宅街とはかなり距離があったたために立地条件的に合わなかったのだろう。なので多少大きな音を立てても何の問題もない。
 そんな工場内を、猿は縦横無尽に飛び跳ねる。地面に足を付けるような真似はしない。工場内を血管のように張り巡らせている配管は手を掛けるには丁度いいし、錆びているとはいえ工場を支えているのは鉄筋だ。体重の軽い猿なら多少蹴ったところでびくともしない。
 まだ昼間。
 この工場内は窓に段ボールが嵌められているので薄暗くはあるが、それでも落日の遠さだけはわかる。
 猿が踊る度に屋根に開いた穴から舞い散る埃のせいで斜光が目視できる。もうここに来てからすでに二時間。猿は未だ飽きることなく遊び続ける。こうした廃工場というのはまだ幼い猿にとっては冒険島に等しい魅力を持つ。その気になればあと一日中だって遊び続けることだろう。
 だが、さすがにそろそろ休んだ方がいいだろうと、やはり錆び付いた工場の扉を叩いてフラットは猿に対して休憩を呼びかけた。
「椿ちゃん! ジュースを買ってきたけど、一緒に飲まない!?」
 夢中になって遊んでいた猿改め椿はその言葉に一瞬視線が目標物であった鉄骨から削がれた。
「ジュース!? 私アップぎゃ!」
 一瞬の油断で足場を見誤った椿は工場の鉄骨に頭からぶつかり実に痛そうな悲鳴を上げる。そしてそのまま五メートルを垂直落下。地面はとても固いコンクリートである。分厚い埃をクッションに椿は顔面からコンクリートに熱烈なキスをする。
「アップルジュースか。じゃあ僕はオレンジにしようかな」
 ガキリ、ととても日常では聞こえない音がしたが、フラットは特に気にした様子もなく紙袋からオレンジジュースの紙パックを取り出してみせる。
「あ、待って、私やっぱりオレンジがいい!」
 コンクリートにヒビを入れながら椿は何事もなかったかのように立ち上がる。そして急ぎフラットのもとに駆けつけようと低空を駆ける様は闘牛といったようだが、その攻撃をフラットはマタドールの如き体捌きで躱してみせる。
「ふふん。そう言うだろうと思って僕は二種類を二本ずつ買ってきたのさ!」
「すごいお兄ちゃん、天才だ!」
 闘牛並の突進をまたもやキャンセルできず、進路上にあった大木に頭突きを喰らわせることで椿は身体を止めた。あの大木を左右に激しく揺さぶる突進だったというのに椿は何事もなく、今度はゆっくりとてくてく歩いてフラットからまずはオレンジジュースを受け取った。
 汗と埃ですっかり汚れた以外に椿は掠り傷ひとつ負っていない。それでいて椿は工場の外で太陽を眩しそうに見上げながらジュースの味を堪能する。
 そう――ここは夢の世界ではない。
 夢にはなかった太陽がここには存在し、ジュースを味わうこともできる。不快とも思える工場内のオイルの匂いも何も感じることのできなかった夢の世界を思い起こせば新鮮この上ない。ほんの少しだけ伸びた手足と少し切りすぎた髪の毛も、自分という存在を椿に強く感じさせてくれていた。
「この調子なら問題はあまりなさそうだね」
「うん! ライダーのおかげで元気一〇〇倍だよ!」
 そんな二人の会話に椿の左手が携帯電話を操作する。ほら、と椿がフラットに見せる携帯画面には「私がいる限り問題は起こさせない」とある。
 傍目から見ればこれは椿の一人芝居にしか見えないだろう。この様子を医者に診せれば精神的ストレスによる自我分裂とかそういう結論に至りそうだ。
 しかし、そうではない。
 一年間身体を自分で動かさなかった椿が、人間離れした動きで遊び回り、今もまた即死してもおかしくない事故を無傷で耐えてみせる。今の医術や科学をもってこれを成し遂げるのは不可能だ。ならば残るは魔術に頼る他はないが、それですら一級の術者が人体操作と肉体強化を行ってもここまで精緻に椿の意志に沿った動きは到底できまい。
 魔術による精巧で精密な人体操作と常に変動し続ける最適値を再設定し続ける肉体強化、これを成し遂げるには人の手では不可能だ。もし成し遂げるとするならばそれは人間という枠を超えた英霊――そう、例えばペイルライダーとか呼ばれる規格外のサーヴァントくらい。
 つまるところ、ライダーはまだ消滅してはいなかった。
「けど、まだ意思疎通は上手くできていないようかな」
「そだね。私が視線を逸らしちゃうとライダーは上手く動けないようだし」
 それはどちらかというと視線を逸らした椿の責任であるのだが、ライダーとの意思疎通が進み身体が慣れていけば、ライダーも椿の視界を頼ることのない無視界作業にも慣れてくることだろう。
「ほんと、ライダーのおかげだよね、ありがと」
 椿の言葉に椿の左手は自動的に動いて「喜んでもらえて何よりです」とタイプしてみせる。
 そう、椿の肉体が今現在動けているのはライダーの力のおかげである。
 古今東西、ライダーのクラスに召喚される英霊がどれほどいるか定かではないが、宝具や幻獣などに騎乗するライダーはいても、マスター自身に騎乗するライダーはこのペイルライダーくらいだろう。
 他者の動きを自由に操る能力を持つライダーはその力を持って椿の肉体を操っている。だからといって、ライダーは椿の身体を好き勝手に操っているわけではない。ライダーの役割は椿の意志意向を正確にくみ取り、椿が日常生活を送る上で不自由ないよう介助しているだけに過ぎない。
 フラットが椿の現実復帰を考えたとき、障害となったのはいつ暴走するかも分からぬ椿の魔術回路と一年間寝たきりで衰えた筋力の二点である。
 脳内の魔術回路については椿の夢を一度消滅させることで強制的に沈静化させ、そこをフラットが調整することでなんとか片が付いたが、筋力についてはライダーの力に頼るしかなかった。
 椿とライダーの関係において最も致命的なのは二人の意思疎通に大きな齟齬があったことである。そのために一年ぶりに現実世界へと帰還を果たした椿に無理を言って令呪を使ってもらい、椿とライダーの認識の共通化を図った。
 結果は御覧の通りである。
 二番目の令呪の効果である「人を傷つけない」という命令も上手く機能し、加減の分からぬライダーも令呪の強制力から椿が傷つかない範囲を学習し、先ほどのようなアクシデントにも肉体強化か障壁展開か分からぬがライダーなりの対処をしている。
 本来のフラットが立てた計画では第一の令呪でライダーに脳内の魔術回路の暴走を止めさせ、第二の令呪で両者の意思疎通を図り、第三の令呪を念のための予防策として置いておく予定だったが、この調子であれば令呪なしでも椿とライダーは上手く付き合っていけることだろう。
「それで、これからどうするの?」
 オレンジとアップル、両方の紙パックを両手に持って交互に味を楽しみながら椿は実に自然な疑問を問いかけてくる。つい先日夢の中で出遭ったばかり(しかも一応敵同士でありながら)だというのにこの信頼感。フラットがいかに無茶なことを言おうとも椿は無条件に信じてしまうことだろう。
 それだけに、この脳天気男にしては珍しく視線を宙に彷徨わせることになった。
「そう、だねぇ……」
 曖昧な返事でお茶を濁すが、そう長くは続かない。実に自然な質問であるだけに、フラットもそのことについてはずっと考えてはいた。
 当初はティーネとすぐ会えると楽観視していたのだが、集合場所としていたスノーフィールド中央病院は近くにあった警察署がテロにあったとかで人目が激しくとてもではないが留まれる状況ではなかった。
 そして次に自らのサーヴァントであるバーサーカーに連絡を取ろうとしたものの、何度連絡しても一向に携帯電話が繋がる様子がない。魔力の流れから未だ健在なのは確かだが、バーサーカーはその性質上マスターであるフラットにも具体的にどの位置にいるのか分からぬ欠点を持っていたりする。そういう意味で実はかなり特殊なサーヴァントなのである。
「とりあえず、もうすぐ雨も降ってきそうだしこのまま中で身体を動かす練習でもしててよ。僕はもう一度街へ偵察に行ってくるからさ」
 そういって無策であることを誤魔化しながら遠くに見える雨雲を理由に無理矢理椿を廃工場の中へと誘導する。ついでに紙袋から食料としてサンドイッチやヨーグルトなども渡しておく。つい先日まで入院していた人間に食べさせるものではないかもしれないが、そこはライダーが胃腸を操作し上手く消化してくれることだろう。
 フラットの何か怪しげな気配に疑問符を浮かべる椿ではあったが、そのことを尋ねることはなかった。フラットが言うのだから、椿はただそれに従うだけで万事上手くいくという信頼によるものだ。それはある意味、フラットの思い通りでもある。
 椿と別れ、フラットは椿がいた工場と同じくうち捨てられた別の工場の中へと入っていく。ただ先の工場と違い少々手狭で、つい最近人の手が入っているという違いがある。少し奥に入れば、魔法陣とその上に敷かれた寝袋がある。
 街に偵察に行くというのは真っ赤な嘘だった。
 倒れ伏すように、フラットはその寝袋に俯せになる。紙袋から市販の強力な栄養ドリンクを取り出し、一本二本と無理矢理喉に流し込んだ。本当はもっとカロリーのある栄養食も取るべきなのだろうが、今はそれだけの気力もない。
 今、聖杯戦争においてフラットは脱落寸前にあった。
 バーサーカーのマスターは過去その殆どが魔力切れによる自滅で敗北したというが、フラットもその一例となりかけている。
 実はこの聖杯戦争で一番魔力効率が良く必要とする魔力も最も少ないバーサーカーではあるが、何故そのマスターであるフラットの負担が大きいのか。そこに疑問が入る余地などない。
 バーサーカーとアサシンの二重契約にティーネへの魔力供給とライダーとの戦闘、そしてトドメとばかりに一級魔術師が複数人でやるような繊細な儀式を準備もろくにせずに実施したのだ。どれだけ魔力量に自信がある魔術師であっても底をついて当たり前である。
 実際、この調子で魔力の消耗が続いたのならばフラットはあと数日……下手をすると明日にでも死んでもおかしくはない。もうバーサーカーのマスターとかが理由ではなく自業自得としかいいようのない敗北の仕方である。
 それなのに虚勢を張って椿の面倒をわざわざ見に行ったりしているのだから始末に負えない。
「けど……」
 けど、と呟きながらフラットはその手を宙へと伸ばす。そこには何もありはしないが、もうすぐ掴み取れそうな何かがある。
「もうすぐ、俺は英霊と友達になれるんだ……!」
 未だ持ってその子供じみた発想を捨てないフラットに救いの手をさしのべる者はいない。だが、当の本人の気力はそれだけを頼りに生き足掻こうとしている。
 ティーネとの約束を思い出す。
 ここを生き延びれば英雄王ギルガメッシュと会うことができる。それはこの世でどんなに憧れた存在に会うよりも胸の高鳴る瞬間であろう。
「たの……しみ……だな……」
 椿を心配させぬよう三時間だけ体力を回復すべくフラットは寝袋にくるまった。
 眠気は、何もせずともすぐにやって来た。
 シトシトと雨の音が近付いてくる。


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07

 スノーフィールドの夜に雨が降る。
 ただでさえ街に出る者が少ないというのに、最近の立て続けに起こったテロのせいで更に街を出歩く者が少なくなった。
 警察官や一般の青年団が自発的に組織した自警団が街を巡回し、スノーフィールド市長は先の警察署爆破テロを受けて非常事態宣言を発令し、州知事に軍の派遣を要請、速やかな治安の回復を市民に約束した。だがこの発表がかつてない危機にスノーフィールドが直面しているという露骨な示唆となり、少し前まで平和な筈であった街はもはや完全にその機能を停止させていた。
 だから、というわけではないのだが。
 一人で歩くその東洋人の旅行者は酷く目立っていた。
 警察官や自警団の巡回ルートをうまくすり抜け、街の北側へと移動しようとしている。 上手く人目を凌いでいるつもりだろうが、この辺りで最も高いビルの上から眺め見れば、その姿はアーチャーに丸見えであった。
 アーチャーが自らのクラスについて単独行動スキル以外意識したことはないが、こうした鷹の目の如き視界は存外に悪くない。そして単に視力が良くなるというだけではなく、この暗がりであってもその視界に入ったほんのわずかな手がかりも子細に思い出すことができる。
 長袖シャツで上半身を隠してはいるが、わずかに見えた首とシャツの隙間から怪しげな入れ墨のようなものが見て取れた。
「令呪とは手だけに宿るものだと思っていたが……しまったな。こんなことなら綺礼の奴にもっと聞いておくべきだったか」
 過ぎてしまったことはしょうがない。だがそうだとしても基本知識として腕に宿るという大前提がある以上、これはイレギュラーであることに間違いはあるまい。
 この聖杯戦争の裏で何かが起こっていることにアーチャーはかなり以前から薄々感づいていた。それが確信へと変わったのが先日のヒュドラ退治である。例によってあのヒュドラは人間如きが多少の小細工をしたところで制御できるものではない。
 あそこでティーネが事態の異常性に気付くようであればアーチャーもティーネを認めたろうが、それに気付けなかったティーネはアーチャーにとって足手まといの烙印を押されることになった。ティーネが安易にヒュドラに触れるのを止めず、また毒が全身に回ってから回復薬を与えたのもティーネが邪魔と判断したからである。
 身軽になったことでアーチャーは己で全て調べるという最も忌避すべき面倒事を引き受けることになったわけだが、その分の収穫はあった。
 このスノーフィールドの地はおかしい。それがアーチャーの出した結論である。
 相談役の老人へ意地悪く問いかけをしたアーチャーであるが、あの解答に満足したわけではない。老人の解答は半分は正しいがそれだけだ。長年住み続けている老人と新参者であるアーチャーの視点が異なるのも無理からぬ話。
 都市部で何かが蠢いていたのは確かであるが、それはもう収まっている。大勢の人間が倒れたと小耳に挟んだが、それはどこかのサーヴァントがぶつかり合ったのだろう。結果として都市部で蠢いていたサーヴァントは負けたらしい。
 だが一度怪しいと睨んだアーチャーの勘は誤魔化されない。負けたサーヴァント以外にも、何かが蠢く気配はこうしているだけでヒシヒシと伝わってくる。あまりに日常に溶け込んでいるその気配はそうと認識しなければ気付けるものではない。
 そしてそれは、随分と前からこの地に巣くっている。老人の気付かぬ様子から数十年は前。おまけにその胎動は日に日に大きくなっている……ようにも思える。この曖昧模糊とした違和感をアーチャーの知覚と知識でははっきりと捉えることはできない。
 だからこそ、英雄王らしからぬ虱潰しを保険の“設置”も兼ねて行っている。
 ティーネと別れるふりをして一度はヒュドラを召喚したマスターを探したものの見つからず、二度目は見つけたはいいものの慣れぬ追跡で見失ってしまった。こうして三度目の機会を得たのだから何らかの成果は上げたいものである。何より追跡や調査といった面倒事をこれ以上続けたくない。
「ふむ。面倒だな」
 設置した保険を使えば容易いだろうが、ここで使っては何のための保険か分からない。我慢など性に合わないが、結局は自身で何とかするしかない。
 アーチャーはその性格上大雑把に攻撃するのは得意ではあるが、生け捕りなどという繊細さを要求する手加減は苦手である。いくつか考えてみるものの、やはり選択された手段は大雑把なものだった。
 目標となる東洋人を宝具の群れで封じ込める。やることは簡単だが動く目標を封じ込めるにはしっかりと狙いをつける必要がある。隙間があれば逃げられてしまうし、これはなかなかに難易度が高い。
「まあ、手足の一本くらいは勘弁してもらおう――」
 アーチャーの後方に光り輝く一二もの宝具が蔵から顔を見せる。着弾の衝撃で死ぬ可能性もあるので宝具の選定にも苦労した。この距離であっても射出されれば一秒とかからず東洋人は宝具の檻に閉じ込められることだろう。
 あとは射出するだけ。
 弓兵という存在は、この狙いをつけている瞬間が最も無防備になる。近・中距離を想定する剣士や槍兵であれば集中しているこの瞬間、自身の真後ろであっても対処することは可能であるが、弓兵の領分は遠距離。集中しているが故に己の視界は限りなく狭くなっている。
 だから。
 雨の中、想定外の真下からの奇襲にアーチャーが気づけたのは自身の慢心のおかげだった。
 必中を期すなら雑念など捨てるべきだし、宝具の選定などするべきではない。迅速に確実に、そうでなくとも近付けば良かっただけの話だ。面と向かって立ち塞がり、策を弄せず威圧するだけで目的は達成できたかもしれない。
 全く以て、慣れぬことをするものではない。
 余裕とまではいかずとも半瞬早く気づけたおかげで相手の全力の一撃は一歩下がるだけで簡単に避けることができた。得物が短剣でなければそうもいかなかっただろうが、襲撃者の一撃はアーチャーのジャケットだけを切り裂いていく。
 襲撃の失敗。避けられたと判じた瞬間に襲撃者はその短剣を投擲しやや遅くも次撃としてみせる。
 その一連の行動に、
「遅いわ痴れ者がッ!」
 アーチャーは一喝して軽々と避けてみせる。
 このアーチャーをして激怒せしめた理由は自らの命を狙ったからではない。一撃で仕留められなかったと判断するのに余りに時間がかかりすぎていたからだ。
 暗殺者としてこれではあまりに二流。王を狙うならば万全の計画と入念な装備、相応の練度と想定されるあらゆる事態への対策、そして何より王を討つ覚悟を持って挑むべきだ。だというのに、この襲撃者はよりにもよって一番必要である筈の覚悟が圧倒的に足りていない。
 襲撃者に覚悟があれば、投擲された短刀はきっとアーチャーの胸を貫いていた。この英雄王を殺すチャンスが二度あろうはずがない。
 アーチャーは目標を遠くの東洋人から近くの襲撃者へと変えて一斉射。怒りにまかせて思わず反撃したが、この威力を近距離で放てば襲撃者は原型も留めぬことに遅まきながら気がついた。どうせなら、この襲撃者を捕まえた方が手っ取り早いではないか。
 だがそんなアーチャーの思惑も早計である。
【……構想神殿……】
 襲撃者に向かって放たれた宝具が手に触れたとたんに消えてなくなる。全てを避けきるのはさすがに無理だったのだろうが、アーチャーの予想に反して襲撃者は軽傷。これで多少アーチャーからの評価は上がったが、次に取った行動によって帳消しどころかマイナスへと再度転ずる。
 あろうことかこの襲撃者は――

 アーチャーから、距離をとって対峙した。

「――よくぞここまでの間抜けを臆面もなく晒させたものだな」
 襲撃者は黒いローブを纏った女だった。しかもあの宝具を消し去った業は明らかに宝具による奇跡。放った宝具を回収しようとするが、消された宝具は戻ってこない。
 その能力の真名とそれらしい外見はアサシンとしか思えない。
「……さて、アサシンのサーヴァントは消滅したと聞いていたが」
「……私は、消滅などしてなどいない」
 アーチャーの問いに怒気を持って答えながらアサシンは新たに懐から取り出した投擲用のナイフを四つほど繰り出す。掃射せず傍に残してあった宝剣を手に取り軽く防ぐが、アーチャーが抱いた気持ちは憐憫に近いものだった。
 あの奇襲は実に素晴らしいものだった。恐らくはあの東洋人は囮で、それを見つけ出すのにアーチャーがこの場所へ来ることを予想しずっとビルの陰に潜んでいたのだろう。そして予想通りアーチャーは現れ、しかも宝具を放とうと隙まで晒している。
 天の時、地の利、更に雨という時の運にすら恵まれながらこのアサシンはアーチャーの暗殺に失敗した。
 本来であるなら、アサシンはこのまま撤退するべきなのである。
 最初の奇襲は一撃必殺の気迫があった。よくある一撃で殺す威力という意味ではなく、その一撃で必ず決着をつけるという意気込みがそこには込められていた。だが運悪くアーチャーに避けられたことで、迷いが生じてしまった。投擲のタイミングがこれでズレ、アーチャーに迎撃の暇をも与えてしまった。そして今尚このアサシンは迷っている。撤退するべきか、ここでアーチャーを意地でも討ち取るのか。
 しかもこのアサシン、わざわざ相手にすることのないアーチャーの問いかけにムキになって否定してくる。何やらアサシンというクラスに拘りがあるのか、死んだと思わせておいた方が確実に有利になるというのにその自身のクラスすらも露呈させてくる。
 最初の一撃の評価とその後の評価のちぐはぐさに目の前のサーヴァントが何をしたいのかアーチャーには分からない。
 技量は確かにある。初撃に加えて殆どゼロ距離で放たれた宝具の群れを凌ぎきったのがその証左。だが戦術面における行動が素人同然。理詰めで考えればまだ分かりそうなものを、感情で否定して全ての面で足を引っ張っている。
 ひとつ、実験の意味をこめて再度アーチャーは後方に宝具の一群を展開させ、同時に射出させる。今度は先と違い距離が多少はある。だがその射出された宝具は全部で二三。簡単に捌ききれるものではない。
 助かるためには、再度あの奇跡の使用が必要だ。
「――っ!」
 歯を食いしばり覚悟を決めた顔。アーチャーの射出と同時にアサシンは地を蹴る。これで幾つかの宝具は確実に回避できるが大半の宝具の射線上に躍り出ることになる。
 アーチャーの予想通り、再度繰り返される奇跡。アサシンの手に触れた瞬間に必殺の宝具は露と消えるが、やはり無傷とはいかない。脇腹が抉られ、肩口が大きく斬られる。タイミングが悪かったのか宝具を消しはしたもののその手のひらは貫通していた。
 これだけの犠牲を払い、アサシンはアーチャーの三歩手前まで突進する。アーチャーは知らない。この距離であれば、アサシンはまさしく必殺の一撃を喰らわせることができる。自らのマスターを葬り去った一撃をアサシンは口に、
【……妄想――】
「くだらん」
 そうして、二二の宝具を凌ぎきり、何か必殺の一撃を用意していたであろうアサシンをアーチャーはそう評して、残る最後の宝具を目前に“落下”させた。
 アーチャーが目の前に落としたのはメソポタミア神話に登場する戦いの女神ザババが持つ《翠の刃(イガリマ)》という宝具。「斬山剣」という別名を持ち、その名の通りその刀身は山を切り裂けるほどに大きい。そのためこうして垂直に落とせば大地をそのまま裂ける「重量」を持っている。
 ビルに突き刺せば、ビルはそのまま真っ二つに割れることになるだろう。
 というより、真っ二つになった。
 何せ《翠の刃(イガリマ)》の剣幅はビルよりも広い。剣の長さこそビルより短いが、自重で刻一刻と沈んでゆくのだから関係あるまい。ほぼ垂直に突き立てたのでビルの支柱強度が高ければビルは倒壊せずに真っ二つになるだけで済むかも知れない。このビルの軋み具合からその可能性は低そうではあるが。
「これで引かざるを得まい?」
 斬山剣を迂回する道はなく、重装甲の盾よりもある厚みは突破を許さない。霊体化してアーチャーの傍へと現れることは可能だが、アサシンが実体化する瞬間はどうしても隙ができる。いかに頭に血が上ろうともこの現実を前にアサシンに冷静さを取り戻させる時間を与えることだろう。
 撤退より他の選択肢をアーチャーはアサシンに与えない。
 その気になればアサシンをこの場で倒すことは簡単だ。あの調子だと奥の手がまだ幾つかありそうだが、今の実験でアサシンには決定的に実戦経験がないことが露呈している。修練に修練を重ねてはいるが戦場には出たことはないのだろう。まるで貴族の愚息と一緒である。
 アーチャーが放った二二の宝具の中には明らかに殺傷力がないものも含まれている。装飾だけ華美な短刀や、安全第一とでもいうような子供用の木剣。明かに武器ではない文房具もその中にはあった。
 だがアサシンはそれらについて冷静に対処してはいない。何を焦っているのかは知らないが、冷静さを失い襲い来る宝具が何なのかも理解せぬまま迎撃をし、無駄な魔力消費をしてしまっている。
 注意するべき存在には違いないが、アーチャーにとって脅威とはなり得ない。
 だからこそ、今はこのアサシンを逃がす。
 奇襲をしかけたアサシン、囮となった東洋人、この二人だけでこんな計画を立てられる筈がない。
 このアサシンが周到な計画を立てられないのは確定的。そして東洋人はまず間違いなく旅行者、この街の地理には疎い筈なのに的確に動いている。だとすると第三の人物が彼らの背後に必ずいる。
 となれば、作戦はこれで終わりではあるまい。十中八九アサシンと東洋人が撤退した先に必殺の罠を用意して待ち構えている。敵はアーチャーがどう動くのかさえ予測して動いている。アーチャーがこうしてアサシンを何とかして逃がそうとするのも術中の内。些か他人任せが過ぎるが、ここで乗らぬわけにはいくまい。
 これは英雄王への挑戦状だ。
 虎穴に入らずんば虎子を得ず。さて英雄王、貴君に虎穴には入る度胸はあるのかな?
「――いいだろう。その挑発、受けて立とうではないか」
 ようやく撤退を決めビルを後にして東洋人の元へと駆けるアサシンに視線をやる。一目散に逃げるのではなく、悔しげにアーチャーを振り返りながら駆けるアサシンは実に滑稽である。殺すのが些かもったいないくらいだ。
 距離は十二分に取らせた。弓とは手加減が難しい武器だが殺さぬよう注意もしよう。街への被害もそういえば余り与えぬようティーネに頼まれたことも思い出した。これもこのゲームの制約に加えよう。
 慢心せぬと誓っておきながら慢心していたことに気付かせてくれたせめてもの礼である。だからせめて、
「この我を愉しませろよ、雑種」
 英雄王が、その全力をもって狩りに出る。


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「私が行くまでなんとかして保たせてくれ!」
 徐々に雨が酷くなっていく中、スノーフィールド市の路地裏を携帯端末を耳にバーサーカーは大声で怒鳴りながらひたすら走っていた。
 路地裏の地図は必要ない。武蔵戦の折に実際に歩いているし、類い希なる方向感覚のおかげか建物の形を見ただけである程度道を把握することもできる。
 しかしそれでも直線距離では大したことのない距離であっても随分と遠回りを強制させられる。屋根の上を走ればアーチャーに発見されかねないし、何よりアーチャー以外にも目撃される可能性が高い。
「くそっ、霊体化できないのがこんなに不便だとはっ!」
 どんな状況でも対応できるよう行動範囲を広げていたことが仇となった。各所に散らせている保険を使えれば簡単なのだが、キャスターと同盟を組んだことであえて街中から撤去してしまっている。それに保険は確実に切り札となるのでこんなところで出していいものではない。そのためにマスターであるフラットからの連絡も無視し続けているのだ。これまでの苦労を無駄にするようなことはできない。
 端末の向こうで悲痛な叫びがひっきりなしに聞こえてくる。当初の想定通りにアーチャーは手抜かりなく手加減しているようだが、当の本人が全力を出し切らねばいつ当たってもおかしくはない。アサシンを護衛に守らせているが、そのアサシンも魔力的には余裕でも肉体的には限界に近付きつつある。
 精緻な作戦ともなれば作戦通りに上手くいくことの方が稀である。そのため随分と余裕と対応幅を持たせた作戦になっていたが、作戦の要ともなる時間稼ぎが失敗してしまっている。
 当初の作戦では三段構えとなっていた。
 第一フェイズでアサシンの奇襲が成功すれば良し。失敗した場合も東洋人と合流し罠を張った位置に誘導する。
 第二フェイズは誘導が主目的だが東洋人が召喚するサーヴァントとアサシンの連携で撃破できればそれはそれで構わない。
 そして本命の第三フェイズで罠に落とせばアーチャーといえどほぼ決着をつけることができる――筈なのだが。
「第二フェイズで転ければ罠どころの話じゃないぞ」
 現在戦力となり得るのはアサシンのみ。キャスターは第三フェイズの罠で動くことはできず、バーサーカーでもアーチャーを相手に戦うのは不可能に近い。最悪、第三フェイズを諦めなければならないが、このままでは逃げることすらできはしない。
 今バーサーカーにできること。それは変身能力を使って最大限アーチャーを攪乱し時間を稼ぐことのみ。それでも高望みであるが、やるしかない。
 冷酷にことを考えればアサシンと東洋人は切り捨てても構わないのだが、それでは今後が続かない。ハッキリ言ってアーチャーとランサー以外の全員が結託してもアーチャー一人にすら勝てる見込みはないのだ。
 署長からの情報によると今ランサーは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の罠によって身動きが取れぬ状況にあるらしい。その内復活するだろうが、それまでにアーチャーをどうにかしておかねば状況は悪化するばかりである。
 だが、頼みの綱の東洋人がこれでは――
「――は?」
 考え事をしながら移動していたからか、自然と警戒が疎かになっていた。油断といえばそこまでではあるが、逆に問いたい。一体誰がこのバーサーカーに仕掛けるというのだろうか。
 アーチャー、アサシン、キャスターの居場所はハッキリしている。ライダーはフラットからの連絡によれば街外れの廃工場。ランサーは動けない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は混乱状況にあって積極策を取れるだけの動きはしないらしい。署長の後釜はよほどのことがない限り傍観に徹するとか。
 おまけにバーサーカーは変身能力を有するサーヴァント。そもそも聖杯戦争参加者と気付かれぬよう動いているし、殺人鬼の特性上人に気付かれず忍び込むことは得意である。一般人は無論として、確信を持ってそうと睨まれなければサーヴァントといえど発見されない自信すらある。
 襲われる可能性は皆無に近い。それ故にスピードを優先した。その判断に間違いなどない筈だ。ない筈だった。
「な、ぜ……?」
 私は倒れている? と呟こうとしながら脳が混乱しているのが分かった。正確には、混乱というより衝撃に混濁している。
 攻撃を受けたのは頭部。意識を一撃で刈り取られなかったのは幸いだったが、倒れ伏した身体は即座に動くことはない。
「……ふむ。単純な物理攻撃も通用するようだな。だがせっかく用意したのだ、軽く封印はさせてもらおう」
 からん、と落ちた鉄パイプが視界に入る。肉体強度は人間以上という自信はあるが、こんなもので全力で頭を殴られればこういう状態に陥っても不思議ではない。魔力によって形成された身体ではあるが、バーサーカーにかけられているイブン=ガズイの粉末は元々見えぬ霊体に物理攻撃を与えるために作られたという経緯がある。
「ぐっ……」
 四肢に力を入れてなんとかこの状況から脱しようと足掻くがそれよりも襲撃者の行動は迅速だった。懐から取り出し瞬時の内にバーサーカーの四肢に突き刺さしたのは金属製の杭。大した威力でもない筈なのに、一気に身体が重くなる。
「以前に教会の連中とやりあった時に手に入れたものでね。重力系捕縛陣の一種で突き刺せば著しく行動が制限される。いきなり身体が重くなったのではないかな?」
 俯せに倒れていたのをなんとか身体を捻り仰向けになる。雨を顔面に直接受けることになるが、これで襲撃者と顔を合わせることができる。当然のように、襲撃者はバーサーカーの知らない顔をしていた。
「……ジェスター・カルトゥーレか」
 未だ治まらぬ鈍痛を堪えながら、バーサーカーは唯一の心当たりを襲撃者へとぶつけた。消去法ではあるが、未だ正体の分からぬ者の中である程度の戦闘能力を持つ者をピックアップしていけば答えは自ずと分かってくる。しかし、さすがにこれほどの能力を持っているとはバーサーカーも想定していなかった。
 襲撃者はバーサーカーの答えに多少驚いた顔をするが、それ以上のリアクションはない。
「アサシンあたりから聞いていたかな。私も君と同じく変身能力みたいなものを持っていてね。あとついでにいうと鼻がとても利くのだよ」
 クハハハハハッと嗤いながら、だからお前を見つけることができたとでも言いたそうにジェスターはバーサーカーに告げる。それを真に受けるバーサーカーではないが、吸血種たるジェスターにとってそれは決して嘘ではない。
 武蔵によって邪魔はされたが、以前にジェスターはバーサーカーと対面もしている。一度でも対面した美味そうな獲物は喩え変身能力や隠蔽能力があったとしても見破れる自信がジェスターにはある。そして何より、バーサーカーが常に身に纏っている曖昧模糊とした雰囲気と殺人鬼という死を引き寄せる香りはジェスターにはどうしてもなく目立ってしょうがない。
「今まで散々探してきたというのに……こういう時に限って貴様は現れるのだな……」
「いやいや、君が探っているから私は逃げたのだよ。恐らく君と私の最終目的は反するものだからねぇ」
 実際ジェスターはかなりの回数バーサーカーとニアミスしている。最初こそ用心で避けていただけなのだが、先んじてこの聖杯戦争の裏を探っていたジェスターは自然とバーサーカーの目的に予想がついてしまった。故に最終的には避けるだけでなく妨害工作すら行っていたりもしている。
「なら、何故今更になって私の前に現れた……?」
「君が弱いと判断したからさ」
 クハクハと尖った犬歯が見えるのも構わずジェスターはバーサーカーを至近距離から嘲笑う。
「私一人でも十分に倒せる。霊体化もできず、ついでにいうと今君は宝具を出すことができない、だろう?」
 ジェスターの言うとおり、この状況でバーサーカーは宝具を展開することはできない。だからこそ、以前は防げた武蔵の頭上からの奇襲も数段格下であろうジェスターから無防備にバーサーカーは浴びてしまった。
 だが頭部を強打され四肢を重たくされたとしても、バーサーカーはサーヴァントだ。いかに弱点を突かれたからといってもその気になれば、即座に反撃に移ることはできる、筈だ。
「ご託はいい、本当の目的を話せ」
 私は急いでるんだと遠くに聞こえる破壊音に意識を向ける。だというのに携帯端末からは通話中だというのに悲鳴も聞こえない。すでに悲鳴を上げる体力もないのは明白。一刻の猶予もない。
 ジェスターが本気でバーサーカーを殺そうというのならもっとスマートに行えた筈だ。だというのにそれをせずわざわざ拘束するような真似までしたということは、何か別の意図があるからだろう。
「そう怖い顔をするな、倒す、とは言ったが殺すとは言ってはいないだろ?」
 そう言いながらバーサーカーの手に持つ携帯端末をジェスターは無理矢理奪い取ってくる。それを器用にくるくると手の中で回しながら確認をするようにジェスターは問うてくる。
「どうせ、東洋人がサーヴァントを召喚できずに困っている――そんなところだろう」
「――っ」
 バーサーカーのその顔にジェスターは満足そうに確認を済ませた。その様子に騙しきるのは不可能と判断し、バーサーカーはジェスターに掴みかからんばかりに迫ってみせるがジェスターの万力の如き握力に満足に動くこともできない。
 ここまでくると、バーサーカーもジェスターが並の魔術師でないことにも気付く。資料では確かに一級の魔術師とあったが、これは代行者クラスの実力がある。
 必死になって現状打破の方策を探るが、資料と現実との格差に事前に練っていたジェスター対策など紙屑同然に値落ちしている。
 時間稼ぎ、それぐらいのことしか思いつかないのが腹立たしい。
「何故、そのことを知っている!?」
「君らは馬鹿かね。何故、あの東洋人が無条件にサーヴァントを召喚できると思ったのだ?」
 それは――本人からそう聞いたからだ。そして東洋人本人はそれを白い髪に白い肌の女から聞いたと言っていた。実際に宮本武蔵はその願いに応えて召喚されている。
「では、召喚システムが異なっていることにはさすがに気付いているだろうね?」
 まるで幼子に教えるかのような物言いではあるが、バーサーカーはそれに逆らうことなく首肯した。
 時間稼ぎをすると決めた以上、今からバーサーカーがこの状況を打開して駆けつけたとしても間に合わない。ならば、ここでやるべきはジェスターから状況を打開できるために情報を得ることだ。
「あの令呪は召喚するだけのもの、ということは知っている」
 これは分析をしたキャスターの見解だ。本来マスターが持つべき絶対命令権とは似て非なるものであり、それでいて令呪の効果には時間制限があることも分かっている。
 少ない知識ながらも時間を惜しんで披露してみるが、その内容にジェスターは落第生に対する教師のように嘆いてみせる。
「そこまで分かっているなら何故気づけない。召喚システムが異なる。令呪の効果が異なる。そして何より召喚される英霊には時間以外の制約がない」
 そうして並べて言われると、バーサーカーとしてもその違和感に気づく。
 果たして、一体何故自分はフラットと契約したのだったか。
「――目的は、聖杯ではない」
「その通りだ。彼らが召喚に応じるのは己が願いを叶えるため。君たちと違って時間制限のある彼らでは聖杯を手に入れることは不可能だからねぇ」
 そう。宮本武蔵が召還に応じたのはひとえにあの状況を武蔵が望んだものだからだ。己が求道を試したいと願い、召喚に応じた。ヒュドラは自らを現界させたいという本能によって召喚に応じた。となれば、今東洋人が英霊を召喚できない理由というのも推測ができる。
「あの英雄王を相手に戦いたいという英霊なぞ……いるわけがないっ」
 唯一心当たりのある英霊は既にランサーとして召喚されてしまっている。戦いたいという理由だけで召喚に応じる英霊はいるだろうが、相手が些か悪すぎる。遠方から一方的に攻撃されるだけというのは戦いと呼べるものではない。そして何より時間稼ぎという目的がある以上、盾として機能するだけの実力が必要であるのだ。
 我知らず路地を拳で叩くバーサーカー。英霊を召喚できない理由が分かったというのに、肝心の喚べる英霊がいなければ結局どうにもならない。
「お手上げかな?」
「……何か良い策があるのなら聞きたいところだな」
 先ほどから一向に笑い顔を止めないジェスターにバーサーカーも苛立っていた。
 ジェスターは確実にこの場を打開する策を持っている。先の召喚できぬ理由もそうだが、よくよく考えてみればすぐに分かるというのにそれに辿り着けぬ自分に歯がゆくてならない。
「クハッ! 簡単なことさ。では、私が策を授けようじゃないか」
 そうして、くるくると回し続けていた携帯端末をジェスターは初めて握り、耳へと当てる。
「聞こえているなら返事をして――おや、意外に早い反応だね。随分と切羽詰まっているとみえる。ああ、私が誰だなんてことはどうでもいいさ。機会があればまた会うのだしな。――では、今から私が言う英霊を召喚してくれ。何、心配はいらない。彼なら絶対に召喚に応じる筈だ」
 ジェスターの目的は、恐らく特定の英霊を召喚すること。しかしそれに一体どういう意味があるのか皆目検討が付かなかった。時間制限のある英霊の召喚は一局面に対応出来ても戦局そのものに影響を与えることは難しい。
 果てしなく嫌な予感がする。殺人鬼としての直感がそう告げていた。
「耳を貸すんじゃ――」
「黙って聞いていろ、バーサーカー」
 咄嗟に声を振り絞って警告しようとするが、ジェスターはバーサーカーに馬乗りになってその口を塞いでしまう。
「では、――という名の英霊を召喚してくれ」
 ジェスターが告げた英霊の名を、バーサーカーは聞いた。
 耳慣れぬ英霊の名。その名だけではどんな英霊かも分からぬ者も多いだろうが、確かにその英霊ならば英雄王が相手でも召喚に応じることだろう。その呪いは強大過ぎることでも有名であり、大抵の宝具であろうとも対処することができる。
 だが、問題はそこではない。その英霊の名は、真名とは別にその逸話の方が世界的にも圧倒的に有名である。
 ジェスターの狙いが分かった。
 本来ならば絶対に召喚されることのない英霊。バーサーカーはフラットに何故期待もできぬ英霊を召喚したのか疑問を呈したことがあったが、この英霊はその比ではない。召喚したが最後、本人を含めたその聖杯戦争全体を根本から揺るがしてしまう災凶最悪の英霊。
「――! ――!」
 携帯端末に向かって叫ぼうとするが、ジェスターの手が口から離れることはなかった。そしてそれ以上話すことなど何もないとばかりに端末の電源を切る。非難めいたバーサーカーの視線に肩を竦めるジェスター。
「そう責めないで欲しいな。あの英霊以外一体誰が望んであの英雄王を前にするというのだね?」
 クハクハと嗤いながら、ジェスターはバーサーカーの口から手を離し、その拳を振り上げる。用を済ませた以上、これ以上バーサーカーに構っている暇はない。
「お前は一体、何をしようというんだ!?」
 何とかしてバーサーカーは逃れようとするが、その一撃を躱すことなどできはしない。
「決まっている。“偽りの聖杯”を奪いにいくのだよ」
 振り上げられた拳は、わずか一撃でバーサーカーの頭部を強かに揺すった。
 ジェスターはあっさりとバーサーカーを無力化してみせた。英霊としての最後の抵抗すらする暇もなく、バーサーカーは立ち去っていくジェスターの後ろ姿を見ながら意識を途切れさせた。


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 アーチャーがその召喚に気付いたのは特別に注意していたからではなく、その隠しようもない強力な魔力の波動を感じ取ったからに過ぎない。
 タイミングとしてもそろそろだろうと予測もしていた。アーチャーの攻撃が一区切りし、誤って建物が一棟倒壊したところだ。雨が降っているとはいえ倒壊時の土煙は一時的に逃走する二人の姿を覆い隠す。故意に狙ったわけではないが、何かを仕掛けるとするならば絶好のタイミングといえる。
 アーチャーの意図と予測は別として、この瞬間に召喚が行われたのは偶然に近かった。二人にタイミングを測る余裕はなかったし、最悪これ以上の体力の消耗は召喚の判断能力すら奪い、起死回生の一手を無駄にする可能性すらあった。
 だが、これにより召喚直後のもっとも隙のあるタイミングはアーチャーに見逃されることになる。
 通常の召喚と異なる東洋人の召喚は実を言えば召喚後の口頭での契約は必要ではない。召喚する前に召喚の目的を提示する先行契約であるので、そこをするかどうかは召喚された英霊個々人による。
 そして今回の場合は口頭での契約はなかった。
 状況が切羽詰まっていたという理由もある。一分一秒を争うこの状況で召喚された英霊に求められることはこの場からの二人の脱出とそれまで英雄王相手に時間稼ぎをすることである。しかしその英霊はそんなことを理由に口頭での契約をしなかったわけではない。
 彼は――憎悪を持ってアーチャーを睨み付ける。土煙の中からの視線にアーチャーは気付いていようが、その姿をまだアーチャーには見られていない。
「邪魔だ」
 英霊のその言葉にアサシンと東洋人はすぐさま理解する。
 この英霊は、こちらの都合を斟酌しているわけではない。ただ己にとって都合が悪いというだけで時間を惜しんでいるに過ぎない。元よりこの英霊は、時間稼ぎなど欠片もするつもりがなかった。
 この傲慢なる英雄王を倒す、ただそれだけの理由で彼は召喚に応じていた。
 幸いにも召喚者をないがしろにするつもりは彼にはなかった。邪魔だからといって殺すのは英霊にとっても本意というわけではないのだろう。それに召喚者を殺してしまえばただでさえ短い時間が更に短くなってしまう。
「――ふんっ」
 英霊の豪腕が振るわれる。
 その途端、周囲を振るわせる轟音と振動がアーチャーの攻撃に耐えきれなくなった建物を直撃し、更なる倒壊を連鎖的に起こさせる。
 衝撃の正体は空間にヒビを入れた英霊の一撃にあった。いや、正確にはそのヒビ割れた空間から現れ出でるモノ。見る者が見れば目を剥いて腰を抜かし、喩えそれが分からずとも人の理から完全に逸している気配は隠そうと思って隠せるものではない。
 疲れ果てたアサシンと完全に腰を抜かしている東洋人を英霊は無造作に宝具に乗せてその宝具の尻を叩いた。
 脱出しようとする二人の姿は土埃の結界から出れば当然アーチャーの視界の中に入る。英霊が召喚されたことで多少距離はとったが、十分に射程内であり、的が大きく走り始めたばかりということもあってその宝具を墜とすのに苦労はない。
 だが英雄王は歯を噛みしめ寸でのところで解き放とうとしていた宝具の発射を撃ち止める。
 その宝具には見覚えがあった。
 かつての第四次聖杯戦争、そこで相対したサーヴァントが好んで使っていた宝具。本来なら軍馬が率いるべきところを荘厳な牝牛が代わりと務める、稲妻を蹴り上げ空を駆ける古風な二頭立ての戦車(チャリオット)。
「――《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》、だと?」
 アーチャーの驚きはいかばかりか。
 なまじその宝具を知っているだけに、召喚された英霊を無視するわけにはいかなかった。
 征服王イスカンダル。第四次聖杯戦争で決着をつけたあのサーヴァントだけは、それがなんであれ誰を差し置いても相手をせねばならない。それが勝者たる英雄王の義務と敗者たる征服王の権利――否、そんな無粋なものではない。二人の王が交わした違えることのない約束である。
 ちっ、とアーチャーは舌打ちする。これで当初の目的は確実に遂行できなくなる。
 《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》は進路上にあったビルの屋上を破壊して空の彼方へと去って行く。その瓦礫が地に落ちたため更に視界は悪くなり、アーチャーは宝具を発射する態勢でいながら忍び寄るその気配の対応に遅れてしまった。
「はぁっ!」
 気迫と共に放たれる豪腕。そのことに違和感を覚えながら、余裕を持ってアーチャーは躱してみせる。既にアーチャーの格好は全身をくまなく輝く甲冑で覆った重装。本来であればどのような攻撃であろうと軽く受け流せる対魔力と防御力を誇る特級品――である筈だった。
 土煙はまだ収まらない。敵の姿はこの至近距離でもまだその腕しか見ていない。だが、この一撃でアーチャーは確信した。
 剛胆なる一撃は認めよう。しかしその振り上げた拳は無粋の一言に尽き、また姿を見せぬまま攻撃をしようという無恥はただの無頼漢に過ぎない。そしてそれらはアーチャーの心当たりにあった征服王イスカンダルとは対極に位置する者だ。
「――貴様、何者だ?」
 そして何より、征服王にこのような固有能力(ユニークスキル)はない。
 黄金に輝く甲冑をアーチャーは素早く脱ぎ捨てる。見た目こそ変化は分からないが、その中身はすでに別物。先の一撃を少し掠っただけでアーチャーはその甲冑を“穢された”と判じた。
 英霊の拳が掠ったのはせいぜい数ミリであり、本来ならダメージとしてカウントされるものですらない。だというのに一瞬で甲冑を脱ぎ捨てざるをえなくなった“穢れ”は明らかに現代では存在しえぬ神代のモノ。
 防具はまるで意味を成さない。珍しくもアーチャーは大きく距離を取った。逃げるような後退は英雄王の好むところではないが、戦闘で自らに有利な距離を取るのは当然のことである。
 この距離はもはや英雄王の領域。この距離を踏破することのできる英霊が一体どれほどいるというのか。だがそれでいて、英雄王の脳内で鳴り響く警鐘は止むことがない。
 雨に直接打たれる不快感をも呑み込んで、アーチャーの紅い双眸は収まりつつある土煙の中で仁王立ちする、紅い頭巾を被った英霊を睨み付ける。
「お初にお目にかかるな、英雄王」
 互いに初対面であることを、その英霊は認めた。しかし、その眸の中にあるものは確かに憎悪の炎に憤怒の嵐。決して許さしてはならぬとその英霊の全身が怨念めいた呪いを纏っている。
「私の名は黄金王ミダス――」
 英雄王を前に「王」と名乗りをあげる英霊。だが自らの名ですらこの英霊は憎々しげに吐き出してみせる。
「――貴様のような、富と贅沢を憎む者だ」
 それこそが自らの義務であり役割だと告げるミダスに、対峙するアーチャーはそれについては何も語るべきものはないと無言。
 王の狩りを邪魔した無粋者。これで二人の追跡は不可能となったし、自らの宝具をこうもあっさりと穢し、あまつさえその不快極まる視線と言動にあっては言葉など語ることすらもったいない。
 だから口にするべき言葉はただの一つ。
 王の裁定のみ。
「せいぜい足掻くがいい、雑種」
 そのまま、アーチャーは展開させたままの全ての宝具を射出してみせた。


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 宝具、というものはなにも英霊一人につき一つなどという制約はない。そして、逆に宝具一つにつき英霊一人だけという制約もない。
 例えばギリシャ神話最大の英雄ヘラクレスが持つ宝具(射殺す百頭(ナインライブズ))は、ヘラクレスの死後に共にアルゴー船探検隊に並んで参加したピロクテテスに受け継がれ、トロイア戦争の終結に一役買っていたりする。
 こうした一つの宝具が複数人に受け継がれることは決して珍しくはなく、そして《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》についても実は複数人が持ち主として受け継いでいる。一人はゼウス神に《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》そのものを捧げたゴルディアス王。そしてそのゴルディアスの結び目を断ち切り手に入れた征服王イスカンダル。主たる持ち主は確かにその二人だが、縁故こそ二人に劣るが三人目の持ち主ともいえる者がいる。
 それが、かのゴルディアス王の息子、黄金王ミダスである。
「なんつーもんを呼び出しやがる!」
 戦闘を開始しようというアーチャーとミダス王をライフルの光学照準器で確認しながらキャスターは叫んだ。すぐ傍らで同じくそのことを確認した署長も煙草の煙を燻らせながら叫ぶことこそしなかったものの同じ感想を抱いていた。
 《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》を確認できたことは僥倖だった。伝説通りの特徴的な紅い頭巾を被っているのだから知識さえあれば正体を推し量るのも難しくない。それだけに、あの英霊が聖杯戦争そのものにとって最大級の危険度を持つ存在であることも間違いはなかった。
 アーチャーは随分と距離を取っているが無闇矢鱈と撃ち放たれる宝具は当たる前にミダス王が周囲の壁を殴ってバラ撒く土煙にその軌道を曲げられてしまう。逆にバラ撒かれた土煙がアーチャーにダメージを与えている。
「噂通りの絶大な威力の呪いじゃねぇか」
 ミダス王自身が操る宝具で攻撃能力があるのは実のところ《神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)》ただ一つだけである。その代わりではないが、キャスターが言うとおり彼には自身すら制御できぬ絶大という言葉すら生ぬる過ぎる呪いを持っている。
 その一つが、黄金王の名をミダスに与える所以となった酒神バッコスの《黄金呪詛(ミダス・タッチ)》である。
 触れたモノ全てを黄金へと変える力。その力はありとあらゆるものに及び、木の枝や石は無論のこと、娘に触れば黄金の彫像と化し、果てには葡萄酒すらも黄金の氷と化す程。それ故に彼は飢えと渇きに苦しむこととなり、呪いが解けた後は黄金を強く嫌悪し、富と贅沢を憎むこととなった。
 今ミダス王が仕掛けているのは土煙の黄金化だ。それもただの黄金ではなく絶大な魔力を纏った黄金である。ただそれだけが無敵の盾と矛となり、アーチャーの攻撃を凌ぎきり、その上で着実なダメージをアーチャーに与えている。
 降りしきる雨もミダス王に触れれば跳ねた滴は即座に黄金へと変化し無敵の鎧へと姿を変える。この無敵の盾と鎧を突破するほどの宝具となれば、いかに英雄王の蔵といえども相当に数は限られる。だがその選ぶ、という行為がアーチャーをして射出までの時間を数瞬遅らせることになる。
 その瞬間を、ミダス王は見逃さない。
 ニタリと笑うミダス王は自らが持つもう一つの宝具を展開させる。その名は、《酒酔いの薔薇園(シレーニノス・ガーデン)》。優れた庭師としての側面を持つミダス王のこの宝具は大したものではなく、周囲一体に薔薇を生え茂らすそれだけの宝具。薔薇が目標を捉え拘束したり、薔薇の蔦が鞭と化すようなこともない。本来ならば戦闘などに用いられる宝具ですらない。
 ただこの状況でそんな宝具を使えばどうなるか。咲き乱れる薔薇は雨も相まってもはや完全にミダス王の姿を隠し通す。アーチャーが狙いを定めようにもこれではどうしようもない。
 事態は分かり易いくらいにミダス王優位にことが進んでいる。
「やばいな。これでは作戦どころの騒ぎじゃないぞ」
 ミダス王召喚の事情を知らぬキャスターは一刻の猶予もないと作戦の中止を決断した。ミダス王の危険性は彼が生きている限り払拭できぬ最悪のものだ。そのタイミングはいつか分からないが、アーチャーがミダス王を瞬殺でもしない限り安心さえできない。いつ爆発するか分からぬ爆弾を抱えて今か今かとびくびく怯えていていいのは愚者だけだ。
 傍らの署長も同時にその決断へと至り、二人はなんの打ち合わせをすることもなくそれぞれ同時に携帯端末で連絡を取る。
 なるべくこうした連絡を控えたかったが、こうなってしまっては仕方ない。
「ってジャックでねーし! 何があったんだこんちくしょうめ!」
 ジャックへと連絡してもまったく出る気配がない。あのサーヴァントがこの状況に気付いていないはずもなく、故意にボイコットするわけもない。ここに来てジャックに何らかのアクシデントが遭ったらしい。
「アサシンには繋がった。幸い、というか逃げるので精一杯で誘導など不可能だそうだ。念のため二人にはそのままスノーフィールド市街、移動できるギリギリの範囲まで退避し隠れてもらうことになった」
 署長の指示にキャスターは何の異論もない。それ故にキャスターは今後のことを考える。
 作戦遂行は不可能である以上諦めるしかない。が、黄金王と英雄王との戦いの行方は何としてでも見届けたい。そんなことは許される状況ではないが、こうなってしまっては仕方があるまい。
「……なぁ、マスター」
「言うなキャスター」
 さすがはマスターとサーヴァントというべきか、先ほどから考えることが被ってしょうがない。リスクとリターンを合わせて考えれば同じ答えが出るのも当たり前だが、ここで一番リスクを被るのはマスターである署長の方である。
「ミダスの呪いが防げるかどうかわかんねぇぞ」
「他に選択肢がない以上、仕方あるまい」
 言って、署長が見つめるのは己の腕。そこに描かれた文様はもはや一画のみ。これを使えば、もう署長にはキャスターを統べる手段はない。署長が負うリスクとは、そういうことだ。
「私はなるべく遠くへと逃げる。その時が来たら連絡してこい。令呪を使ってやる」
 どこまで効果があるか分からないが、もし《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》のトップのままであっても署長の決断は変わらなかったであろう。
 無駄に令呪を消費させ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》から引き離した元凶だというのに、今になってもこのマスターはキャスターを恨むことをしない。それが優しさとは全く別個のものだとは知っているが、これでは余りに薄情すぎる。
 自らの行動に呆れたくもなるが、できる限り貸し借りは作りたくない。それが対等なパートナーとしての正しい関係だろう。令呪という縛りがこれからなくなる以上、尚更である。
「……おい、兄弟」
「私はお前の兄弟では……っと、おい、これはなんのつもりだ?」
 この場を後にして逃げようという署長をキャスターは呼び止め、懐から金貨を一枚署長に放り投げる。突然に投げられた金貨を慌てて受け取る署長だが、その金貨を一目見ただけでこれが何を意味するのか悟る。
 この金貨は、年代物でそれなりの価値もあるが、そこに魔術的な価値はない。ごく普通に市場に出回っている珍しくもただそれだけの金貨である。
 だが、それは世間一般でのこと。キャスターにとってこの金貨は何物にも代えることのできない価値を持つ。キャスターの人生はこの金貨と共に有り、それ故に召喚の触媒にもなった縁の深い硬貨である。
「俺は金を湯水以上に使ってきた浪費家として有名だが、同時に吝嗇家であることも知っているよな?」
 キャスターは家を出てから大金持ちへとなり、そして最後には無一文となって死んでいった英霊だ。だが家を出る際に母から渡されたこの金貨にだけには決して手をつけようとはしなかった。
「……後で返せってことか?」
「特別に無利息にしといてやる」
 あえて期限を言わなかったのはキャスターなりの誠意であるが、元々これを手に入れたのは署長である。その意味では恩着せがましい行為ではあるが、署長は「わかった」と懐へと金貨を大事にしまった。令呪の代価としては少々安いが、やはり恩というのは金銭に換算できぬ価値がある。
 互いにそうした打算を抱きながらキャスターと署長はそれ以上の会話をすることもなく、それが被害を食い止めるための最小限の犠牲だと信じて、行動を別にする。
 爆弾が爆発する瞬間は、刻一刻と近付きつつあった。


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 この英雄王対黄金王の戦いを注視していたのは何もキャスターだけ、というわけではない。
 発端であるアサシンとの対決こそリアルタイムで把握はしていなかったものの、市内中央の巨大ビルの倒壊に引き続き、市内建物が連鎖的に倒壊すれば無視し続ける方が難しい。市民からの声も合わせて回線はパンク状態であるが、こうした混乱は想定の内。雨の勢いも増しているせいか慌てる市民を誘導する方が面倒ではあった。
 混乱する現場の警察官は上に確認を取ろうとするが市の上層部は以前に策定したテロ対策マニュアルを状況を考えることなく実行しようとした。避難所が更地になっていたり、以前のテロにより道路が塞がっていたりとしていたことを考慮もしていない。彼らは彼らで頭を悩ましているのだが、その必死さには温度差がある。
 そうした温度差は別のところでもあった。この事件を注視している当の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》でさえも外に出て雨に濡れながら状況を監視する者とオフィスで快適な空調のもと足を組みながらモニターを眺め見る者とでは同じ光景を見ていてもその緊張感には雲泥の差がある。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部に設置されているいくつものモニター画面からはこの戦闘の様子は市内各地に大量に配置されたカメラから秘匿回線を通じて少しの遅延もなくまさにライブ映像として観戦されていた。
『ふむ……やはりアーチャー相手にこういった作戦は有効なようだねぇ』
「はい、想定作戦事案の参考にはなりそうです」
 わざわざノートパソコンのカメラを通して本部のモニターを見ているのは安全地帯から戦場を見ている“上”の人間であり、それに生真面目に対応しているのはその“上”に従順な副官であった。
 現在、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は隊の再編成に全力で当たっていた。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の要である署長が誘拐されてしまった以上、それはある意味では仕方のないことだった。本来であればそのまま副官が署長代行として《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率いればいいだけの話なのだが、あいにくと政治的な意図を持って据えられた副官では難敵であることが確実なアーチャーとランサーが生き残っているこの局面を打開するだけの能力はない。わざわざ別任務に従事していたファルデウスが急遽呼ばれたのもそうしたところが理由である。
 その様子を後ろから冷めた目で秘書官は眺め見ていた。
 署長の腹心である彼女はあっさりと署長を見限った“上”に対してはっきりと怒りを覚えていた。もちろんそれを表に出すことはしないが、彼女はもう《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に貢献することをやめている。だからこそ、“上”も副官も未だ気付いていない事実を耳打ちする真似はしない。
 これから一体何が起こるのか、秘書官は薄々感づいている。この英霊が一体何者であるのか、アーチャーがどうせ勝つだろうと安易な推測をしている二人は興味を抱こうともしていない。これだけのカメラが捉えていることで分析をするなら後々で十分だと愚かしくも思っているのだ。
 ちらり、と周囲を見渡すと自分と同じく口を開くまいとしている者が何人か見られる。そのいずれも署長に心酔し、魔術師としても兵士としても忠実であろうとする者達だ。そして更に他の者の様子を見れば言おうか言うまいか厳つい顔をしながら悩む者が一人。これは何かアクションをしようとするなら何としても止める必要があるだろう。
 現行この情報部に与えられた任務はこの戦闘を細大漏らさず記録し、作戦本部が立てる作戦のための参考資料を収集することである。そして秘書官に与えられた任務は一時的な代行である副官の追従で、その副官はモニター越しの“上”へ対応することに忙しい。
 何か資料を確認するふりをしてペンを数回ノックする。やや不自然な行動ともいえたがそこを目ざとく見つけ出す副官ではない。ペンのノックに反応して同じく情報部の人間の一人が軽く咳払いをし、また他の一人は椅子の軋ませる音で反応を返す。魔術などに頼らぬ酷く原始的な意思疎通。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》全体から見れば少数派ではあるが、署長を見捨てるのではなく救出するために動こうという者たちがいる。その先鋒が何を隠そう秘書官本人であるが、それを真っ当に上申したところで却下されるのは目に見えていた。
 だとすれば、残された手段はクーデターを始めとするやや乱暴なものばかり。実際、それをしようと相談に来た者すらいた。クーデターを起こすなら明確なトップの不在である今が一番のチャンス……ではあるが、今の秘書官の合図はクーデターの順延を意味している。
 再計算された《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の勝率は七割を切っている。だがその数字があったが故に“上”は条件付きではあるがいくつかの宝具の使用制限を解除してきた。その筆頭である《スノーホワイト》ですら今は使用限界まで全開放されている。1ポイント使用率を上げるためにどれだけ署長が骨を折ったのか分からぬほどの大盤振る舞いである。これで勝率は再び九割を超え、“上”も文句を言いながらも余裕を滲ませてもいる。
 それだけに、秘書官は署長の苦労を踏みにじる者を許せそうにない。最初からあらゆる制約を取り除き全てを署長に任せておけば、最小限の犠牲で最大限の戦果を上げていたというのに。
 時計を見る。概算ではあるが、戦闘開始から一〇分が過ぎ、ミダス王は優位ながらも膠着状態が続いている。薔薇に隠れて近付いての奇襲。アーチャーは宝具を盾にその一撃一撃を防いではいるが、その度に宝具は黄金と化してその固有の能力を失ってしまう。
 アーチャーは面制圧を得意とするサーヴァントではあるが、そのためには視界が開けている必要がある。その視界を奪われたことで効果的な宝具の射出ができず、後手に回り続けるはめに陥っている。
『アーチャーは何故距離を取らないのだ?』
 軍人ですらない“上”からもアーチャーの戦い方に疑問が出た。
 アーチャーは戦士である。自ら剣を取り戦場を駆け抜け敵の首を刎ねる者。対してミダス王は戦士ではない。基盤を築いた父の後を継いだ二代目であり、刃物の扱いも庭師程度のものでしかない。
 つまりは、素人に指摘されるくらいに戦い方はあまりに雑だった。
 動きも読みやすく、消耗される魔力にも無駄が多い。手数こそ多くはあるが決定打にはまるでなっていない。せいぜいが最初の一撃で英雄王のあの重厚な鎧を失わせたくらいである。
 ミダス王の戦法は自らの呪いを活かした優れたものではあった。敵の視界を塞ぎ間隙を突いて確実にダメージを与えていく。これは対アーチャー戦用に作戦部も立案したものでもある。しかしこの作戦は単純に距離を取ることで解決できる。ミダス王のあの動きなら隙を突くのに苦労はしない。
「戦っているのはあの英雄王ですよ。下民相手に距離を取るなど彼のプライドが許さないのでしょう」
 安易な答えを語ってみせる副官は、やはり状況を読めてはいなかった。
 彼はこの映像の何を見ていたのだろうと秘書官は思う。
 初期段階で既にアーチャーはこのミダス王からプライドを捨ててわずかながらも距離を取っている。そこからアーチャーがミダス王を危険視しているのは間違いなく、敵と認識して戦っているのも間違いなかった。
 防戦一辺倒でありながらアーチャーへのダメージは少ない。それでいて豪腕での空振りの多いミダス王の体力は圧倒的に消耗している。堅実な戦法を取るならばむしろ現状のままの方が具合が良い――
 いや、それもまだ違うか。
 英雄王がプライドをかなぐり捨てて戦っているのは間違いない。敵からの一方的な攻撃にあのアーチャーが我慢しているのがその証拠。素人である“上”が言ったように距離を取った方がアーチャーとしてもその能力を発揮できるのも間違いないのだ。
 だとすればアーチャーはわざとあの距離を保っていることとなる。迂闊に距離を取ることを忌避している。
 双方が距離を取ったその時が戦局が大きく動く時と考えても良い。
 瞬間、秘書官の脳裏を駆け巡る幾通りもの作戦プラン。いつ爆発するか分からぬ爆弾であれば、その爆発タイミングをコントロールすることで最小限の犠牲で済ませることができるだろう。
「代行」
「……なんだ?」
 秘書官の声に不機嫌そうに副官は応じる。大したものではないとはいえ、“上”との直接の会話中だ。秘書官に割り込まれることは遠慮願いたいのだろう。そうでなくとも、署長に心酔している秘書官と副官の仲は余り良くはない。
「御覧の通り、状況は拮抗しています。これを機会に、現場部隊の包囲網を縮めてはいかがでしょうか?」
 秘書官からの提案に不機嫌そうな顔ながらも、副官は眉根を寄せて思案する。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は現在迂闊に動かせぬ状況ではあるが、全く動かせぬというわけではない。現に偵察任務としてではあるが、フル装備の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が現場を包囲している。任務内容が変わればすぐにでも戦闘することは可能だろう。それができぬ理由は単純に指揮系統の問題だけ。
「……彼らの任務は偵察であり、カメラで補えぬ場所を補うのが役割だ。これ以上縮めて危険な行動を取る必要はない」
「失礼しました。しかし、これはアーチャーを葬るチャンスではありませんか?」
 他に聞こえぬように小声ではあるが率直な意見に副官は何か言わんと口を開くが、秘書官から目線を外して戦闘を観戦している“上”の様子を覗いてみる。
 副官としても、秘書官がわざわざ言わずとも最初の一言でそのことには気がついている。だが彼の役割は署長の首輪であってそれ以上ではない。あらゆることをそつなくこなす器用貧乏な彼の能力ではここまでが限界なのだ。
 そこに、秘書官はつけ込んだ。
 現場の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がフル装備でいるのは偶然でも何でもない。こういう時のためのお膳立てとしてこっそりと秘書官が準備していたからに過ぎない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が偵察以外の任務につくというのならその全責任は現責任者である副官が被ることになる。そしてもちろん、作戦によって得られた功績も、彼の物になる。
 副官は自らが小物であることを十分に理解している。だからこそ危険と感じれば即座に逃げ隠れ守ることには積極的。チャンスがあったとしてもリスクと見れば殻から出てこぬヤドカリと同じである。
「……そんな馬鹿なことを」
「するでしょう。少なくとも、署長であるならば」
 なおも動こうとしない副官に秘書官は「署長」の一言を付け加える。副官は確かに小物ではあるが、署長の功績を認めていないわけではない。むしろ首輪として身近で見続けた分、彼の実力を誰よりも見てきたのが副官という男である。今更署長の存在に張り合うつもりも彼にはない。
 署長なら、動く。それが秘書官からの言葉であるとはいえ、これが大チャンスであると暗に告げられた。リスクばかりに目を向けてしまう副官も少し目線を移せばチャンスの芽はあちらこちらに転がっている。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の現場部隊長はいずれも優秀だ。しかも現状で彼等に任せる仕事はミダス王への援護であり、直接戦闘ではない。雨は彼等の気配を消してくれるし、指示さえ出せば五分も経たずに攻撃は開始できる。
「……これが、彼らの装備です」
 端末に表示された内容を最後の一押しとして、無理矢理副官に差し出す。迷いのある副官はそんな秘書官の口車に情報を一つでも得ようと装備一覧に目を通すべく受け取った。急場のことで装備の選定は現場に一任してある。副官がそこに口出ししないことを見越してあらかじめ秘書官は指示を出していた。装備一式は対サーヴァント戦に用意されたものばかり。勝率が上がりこそすれ下がる可能性のあるものがある筈がない。
 これが署長であれば、喩え秘書官や周囲の者が何と言ったとしても端末を受け取ることすらせず《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を動かしはしないだろう。リスクとリターンを考え、そうした状況判断を自ら行い決断できるからこそ署長はマスターたり得るのだ。甘言などに耳を貸した時点で副官にその資格などあろう筈もない。
 もっとも、署長であれば現状を正しく認識する筈なのでこの場に暢気に立っている筈もないだろうが。
「……いい、だろう」
 観念したように呟きつつ、目の奥に欲という名の暗い炎が宿ったことを秘書官は確認した。確認して、副官に見えぬよううっすらと笑った。
「了解しました。(二十八人の怪物(クラン・カラティン))に告ぐ。これよりアーチャー殲滅のため相対しているサーヴァントの援護を開始する!」
 副官の考えが変わらぬうちに秘書官は行動を開始する。
 これからは時間との勝負となるので作戦本部は大まかに指示を出すだけで現場は臨機応変に動くことになるだろう。そこで今後クーデターに荷担してくれそうな部隊とそうでない部隊との選別を行う。目先の餌に目を眩ませた副官は、秘書官に具体的な指示を任せたのは失態だった。秘書官はそうした副官の行動を見越した上で可能な限り有利な状況を作り出す。後で見返せばその不自然さは指摘されることだろうが、気付いた頃にはもう遅い。
『ん? 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を出すのかね?』
「これはチャンスですよ。アーチャーをここで倒せばその分我々は切り札を温存できます」
 これは私の手柄、とは言わないところが副官の副官たるところ。だが“上”はその言葉には満足したようだ。特に切り札の温存というのが心地よい。切り札ひとつで数億ドル節約ができるのだ。使わぬにこしたことはない。
『なら、司令官たる君の判断に委ねることにしよう。門外漢の私では何のアドバイスもできないからねぇ』
 言外に失敗したら責任を取れという含みを持たせた“上”の意図にどれほど副官が理解していたのか。“上”が彼に何を期待していたのか忘れたわけではないだろうが、その気になってしまった副官にそれ以上は何も言わなかった。普段なら気付いたであろう微妙なその顔にも、副官は気付けない。
 既に彼の視線の矛先は現場へと向いていた。


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「英雄王と黄金王の対決、ですか」
 車内から双眼鏡を取り出して眺める戦況は正直あまり分からなかった。雨で視界がそもそも悪いのと、距離がありすぎるのとではっきりいって何かが起こっているという程度にしかわからない。
 手にしたサンドイッチを口に放り込みながらコーヒーを口の中へ流し込む。冷めたコーヒーはお世辞にも美味しいとは言えなかったが、何もないよりはマシだった。
 スノーフィールド北東部丘陵地帯、街を俯瞰するのに丁度良い丘にワゴン車を停めさせてファルデウスはこの戦いを観戦していた。
 本来であればもう数時間は早く《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部へ出頭できたのだが、ファルデウスはあえてそれをしなかった。わざわざ南部の砂漠地帯から北部へ遠回りしながら移動したのは現場から離れたところでスノーフィールドの地を観察したかったからである。
 この北部を根城とする原住民の様子も見ておきたかったし、東部湖沼地帯で行われた戦闘跡も確認しておきたかった。そして何より、署長という軸を失った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にどういった変化が起こるのか見ておく必要があった。
 本来であれば即刻本部へ出向き辞令を受け取るべきなのかも知れないが、ファルデウスはこういう時だからこそどの陣営にも属さぬ者として戦場を見て回りたかったのである。そうした時間稼ぎはせいぜい半日とみていただけにその間にこうしたサーヴァント戦があったのはファルデウスには幸運だった。何せ、これで《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の様子を探ることができる。
「どうです? 繋がりましたか?」
「はい。侵入成功です」
 ファルデウスの隣でノートパソコンをカタカタ弄っていた部下が慎重な面持ちで何度もミスがないかを確認しながら返答してくる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「しかし、こんなところにバックドアがあるなんて――罠の可能性も排除できません」
 部下にファルデウスがやらせているのは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部のメインサーバーへのハッキングである。
 組織の中枢ともいうべき場所とあって、その防壁は鉄壁を誇っていた。魔術の及ばぬ地である以上、そこにあるのは現代技術のトップを行くプログラマーが叡智の限りを尽くして築き上げた難攻不落の要塞であった。これを突破するのは至難の業であり、少なくとも多少の腕があっても部下一人だけでは千年経っても不可能だったであろう。
 だからこそ、成功してしまったこの事実が信じられない。むしろ罠であって欲しいとすら思っている。
「だから、大丈夫ですって」
 そんな部下を尻目に門外漢のファルデウスは適当に相手をしながらハッキング行為を続けさせる。
 実際、これが罠であるのは間違いではない。
 システムの盲点を突いた一穴――に見せかけてその奥にあるのは知られても良い程度の真実とある程度の難度で時間を稼ぐ防壁に過ぎない。この聖杯戦争で電脳戦などあまり考えられないが、万が一を想定しあえて作られた罠である。
 だが今回に限ってはその罠は発動しない。何故なら、この罠の存在を教えてくれたのは“上”である。どういう意図を持ってこうした複数の裏コードをファルデウスに渡したのかはさておき、仮に逆探知されたとしても《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の長として内定しているファルデウスにとってそれは大した問題ではない。ばれたところで崩れる信頼関係など最初からないのだからそこは思い切っていくべきであろう。
 程なくしてファルデウスの膝の上に置いたノートパソコンに多数のウィンドウが開かれる。いずれも戦闘状況のライブ映像ではあるが、ひとつだけは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部内の様子が映し出されている。
「雨でよく分かりませんから無人機からの航空映像はいりません。本部カメラと周辺で監視中の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》のカメラを四方向からそれぞれ一台分お願いします」
「分かりました――っと、どうやらその本部から《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に出動命令が下ったようです」
「そうですか」
 部下の報告に素っ気ない返事を返すが、ファルデウスは目を細めて《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部の映像を眺め見る。秘書官と何やら話してから、副官にやおら変化が見受けられ、命令が下されている。
「愚かなことを」
 やや困った顔をしながらも反面、愉しげにファルデウスはその様子を見続ける。ファルデウスが嫌いなのは無能な人間で、もっと嫌いなのは無能な味方で、一番嫌いなのは無能で偉い味方である。その内どれか一つでもファルデウスの手にかからずいなくなってくれるのであれば歓迎すべきことだ。
 各部隊のカメラは指示を受けその包囲網を狭め始める。この様子だとあと数分で準備は整うことだろう。となれば、その数分後がターニングポイントとなる。
「君は、この状況をどう見ますか?」
「……率直に申し上げて、このまま見届けるのが正解だと考えます」
 ファルデウスの気軽な問いに今尚忙しくハッキングをし続ける部下は返答を遅らせながらもその問いに答えた。目をモニターから離さず数字の羅列を注視し、タイプする指には疲れの兆候も見られる。申しわけないことをしたかな、と思いながらもファルデウスは尚も続ける。
「何故かな?」
「アーチャーが距離を取らないのは十中八九相手の大技を警戒しているからです。そして、そこに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を投入すれば、二人は距離を取らざるを得ません。相手サーヴァントの支援という意味では良いかも知れませんが、これでは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の損害が大きすぎます」
「君もそう思いますか……」
 少なくとも自分の部下があの副官よりも聡明であったことは確認できた。様子からしてどうも副官はあの英霊の正体に気付いていない節があるが、それを差し置いても致命的な判断ミスといえよう。
 あの《黄金呪詛(ミダス・タッチ)》の本質は汚染である。そして汚染とは得てして拡散すればするほど対処は困難となる。あのアーチャーにしてそれに対処できぬことはないだろうが、大人しく大技を凌ぎきるような王ではない。
 街の半分が吹き飛んだとしてもファルデウスは不思議とは思わない。
 そして――
 問題の瞬間は、すぐに訪れた。
 ミダス王の接近戦にアーチャーが相対し、また多少の距離を取る。その瞬間は、敵が目前にいることもあってアーチャーの注意は前方に集中している。そこを狙わぬ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》ではない。
 最初の一撃は、アーチャーの右腕へと当たった。
 運の悪いことにアーチャーの上半身に鎧はない。それでもアーチャーの固有スキル対魔力はCであり、いかに対英霊仕様の銃弾であろうとそれ一発でのダメージは期待できるわけもない。
 一発、だけでは。
「あれが、例の宝具ですか」
 その様子をカメラ越しに見るファルデウスもこの光景にはさすがに圧倒された。撃ち続けられる銃弾はひょっとするとアーチャーに降り続ける雨よりも多い。マズルフラッシュで《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の位置はバレバレだが、アーチャーにそれを対処するだけの暇を与えはしない。
 現場の音声は切ってあるが、アーチャーの雄叫びがこちらにも届いてきそうなその気迫。以前の使用した際の報告書によると5秒もあれば原型を留めぬ程の威力であったそうだが、アーチャーはその前に自らの宝物蔵から盾を取りだしあの集中砲火を切り抜けた。
 ほんの1秒足らず。それが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がアーチャーにダメージを与え続けた時間であり、ミダス王に与えた時間の猶予だった。
 それだけあれば、ミダス王の準備は既にできている。
 この期に及んで、双方見ているのは互いの姿のみ。横槍を入れた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を見向きすることもしない。尚も銃撃は続いているが、盾に遮られた以上アーチャーの意識を逸らすことすら敵わない。
 ここに甘い見込みがあったとすれば、ミダス王が援護をしてくれた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に配慮する、という可能性だろう。銃撃は明らかにアーチャーだけを狙っていたし、その目的は明らか。大技を出すのではと予想していた者は現場部隊には何人もいたが、まさか命令を出した副官がそれを想定しておらず、ただ秘書官に唆されていただけなどとは夢にも思わない。
 だから、最初の被害は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に出た。
 ミダス王の動きを追っていたカメラが次から次へとシグナルロストしていく。最もミダス王に近かった隊員のカメラは突如現れた巨大な影を前に何もできずに蹂躙され、それを最後に映像は途絶える。
 至近距離であればそれが何なのかすらも分からずとも、遠目から見ればそれは一目瞭然だった。
 神の呪いに苦しめられたミダス王はある方法により解呪することができた。川で身を清めることによって呪いを川へと移したのである。
 故に、今ミダス王が解き放ったのは神の呪いそのもの。
 ミダス王、最後にして最大の攻撃。

 それは、黄金に輝く津波だった。

「パクトロスの川を喚びましたか!」
 ファルデウスの叫びは半分正解で半分不正解である。
 川に呪いを移したということは逆に呪いが川となったという解釈もできる。ミダス王は川を喚んだのではなく、黄金の呪いを川へと強制的に変換させ、アーチャーに押し寄せる津波としたのである。
 津波の高さは周囲の建物よりも尚高い。押し寄せる圧力に鉄筋の建物ですら紙屑のように耐えきれず崩れゆき、為す術もなく《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は一人また一人と津波に呑み込まれ消えてゆく。
 助かる見込みなど、あろう筈もない。
 どんな英雄であろうと自然現象に勝つことはできない。時にこの自然現象を指して“神”などと称される理由はそうした無慈悲かつ平等な絶対的力故である。そうした意味では元々黄金化の呪いは制御不能であって当然の力であった。
 遠く眺めるファルデウスと直近で見上げるアーチャーも、考えることはこの時まったく同じであった。
 逃走。横幅も広く、横は勿論空へと逃げるだけの時間もない。
 制御。水を操る宝具は古今東西存在するが、あらゆる宝具の能力を散々穢してきたあの呪いに対抗できる宝具が果たしてあるのか。
 防御。水を防ぐには全方位に展開できるシェルター型防御宝具が必要となる。ないこともないだろうが、あの黄金化の呪いに対抗できるか不安は残る。
 ならば、残る手段は一つしか残されていない。
 いや、最初から分かっていたのだ。この大津波がミダス王の最後の一撃。終局の一手に対して興醒めするような真似ができよう筈がない。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》からの集中砲撃によってアーチャーの身体は血だらけと成り果て、積もり積もったダメージは馬鹿にはできない。そんな状態にあっても、かの英雄王は一歩も引くことはない。
 血反吐を吐き出し、背筋を正し、怯むこともなく、視線を逸らすこともなく、迷うことすらなく、宝物蔵から歪な形の剣を取り出した。
 それは無名の剣だった。
 ファルデウスの目にはその宝具に一体どういう効果がありどんな威力があるのかは分からない。しかし事前資料に英雄王が危険であると記された理由は二つ。一つがあの無限の財であるならば、もう一つがあの無名の剣に違いなかった。
 名剣、霊剣、魔剣、聖剣、ありとあらゆる剣を持ちながらも財の一つとして宝具にあるまじき仕打ちをしてきたアーチャーが、その剣だけははっきりと礼節を持って扱っている。
 対城宝具、聖剣エクスカリバーの威力は魔術協会の資料で閲覧したことがある。だがあの英雄王が真に世界中の宝具の原典を持ち得るのならば、聖剣の原典をも上回る威力の宝具だってあってしかるべき。
 あのプライドの高いアーチャーがこの場で無名の剣を出す可能性は低いと考えていた。伝説の聖剣で魚を捌く真似はしない。呪いの魔鎗を物干し竿に使う者はいない。無粋な力押しに対して果たしてどの程度までアーチャーが許容するのか、それはアーチャー本人にしか分かる筈もない。
 だがアーチャーはファルデウスの予想に反して、それでもこの剣を選んだ。この場に必要なのは対城宝具以上の威力を持つ広域殲滅宝具であるが、それ以上に必要なのはアーチャーからの信頼に応える宝具。
 その宝具を、アーチャーは黄金の津波を前に構えた。
 唸り狂う空間。遠くこの場にいても鳥肌が立つような魔力の渦。
 ふと、ファルデウスは世界が螺旋の渦であることを思い出す。ミクロならばDNAの二重螺旋、マクロならば恒星の公転軌道。そうした世界の原点を思い起こさせるあの宝具が一体何か、直感的に理解する。
 瞬間、
「総員、対ショック防――」
 ファルデウスの指示が最後まで聞こえることはなかった。
 陽は既に西へと落ち、主役の交代とばかりに現れ出る月も厚い雲に隠れてどこにもない。
 だというのに、その光の奔流は真夏の太陽を思わせる強烈な圧を伴ってスノーフィールドの夜を文字通り切り裂いた。もし射線上に月があれば新たなクレーターすらできていたことだろう。厚い雲に大穴が空き、その隙間からヒヤリとさせられたと月が顔を覗かせていた。
 だが月が綺麗だなどと風流なことは言っていられない。遅れてやってきた衝撃波はファルデウス達が乗っているワゴン車を数回転がす程度の威力はあった。ファルデウスがあと数瞬その威力に気がつくのが遅ければ首の骨を折って間抜けな死に様を晒していた可能性もある。
「――状況、報告してください」
「全員、無事です! 現在機材のチェック中!」
 ファルデウスが確認の声と同時に後ろの席で情報収集を行っているスタッフが声を上げる。隣でハッキングの最中だった部下も無事であった。と、いうよりもファルデウス以外の全員が安全ベルトによる固定をしていたので一番危なかったのはファルデウス自身である。
 手元のノートパソコンはさすが軍用性というべきかなかなかの耐久力を示してくれている。だがモニターに映る大半のウィンドウはノイズを撒き散らすのみ。周囲一帯のカメラは先の衝撃で残らず破壊されたらしい。
「生き残った無人機はありますか?」
「航行中の無人機は全滅です! しかしたった今ドローン六機を飛び立たせた模様です。現場の確認まであと十数秒!」
 さすがは署長が手塩に掛けて育てた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》、対応が早い。
 大気が安定しないが、視界を邪魔する雨もない。こんな状況下で低空しか飛べぬドローンはさぞかし目立つだろうが、今はそうもいっていられる状況ではない。ファルデウスも車内から街を見下ろし確認するが、そこに黄金の津波はどこにもなく、ただ無残な爪痕があちらこちらに見られるのみ。大気の唸りは未だに響き渡っているが、これ以上の破壊はないだろう。
「これで、死んでくれていれば対処は楽、なんですけどねぇ」
 冷や汗を掻きながら気丈にそんな感想を述べてみるが、ミダス王が生きている可能性はかなり高かった。
 アーチャーの一撃は津波を狙ったもので、射角は上に三〇度といったところ。津波に隠れミダス王の居場所を確認することなどできなかったし、仮にミダス王が射線上にいたとしても距離的に直撃を受けたは考えにくい。生身の人間ならともかく、英霊であるならあの衝撃を受けても大丈夫に違いない。
「アーチャー、確認できました!」
「そんなことより、ミダス王が先ですよ」
 モニターを覗き見るファルデウスは上空より目を皿のようにして目的の人物を探してみる。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部からすると重要なのはやはりアーチャーなのか、どのドローンからの映像もアーチャーの姿が捉えられている。
 満身創痍といった様子のアーチャー。しかし、その血塗れの身体は血化粧の如く美しく、その血のように紅い眸も相まって喩え歴戦の勇者、いや、場を弁えぬ不埒者ですら王を前に立ち塞がる真似はすまい。
 だがアーチャーも心身共に消耗しているのを自覚しているのか、これ以上戦う気もないとばかりに、背を向け立ち去ろうとする。
 アーチャーも分かっているのだろう。ミダス王はまだ死んでいない。
 殺さない。それが、英雄王が下した裁定であった。
「いました! 五番カメラ、右端にミダス王らしき影を確認!」
 部下の言葉にすぐさま五番カメラを拡大して目を凝らしてみれば、確かに黒く煤汚れた男が一人。現場の状況からしてミダス王に間違いないだろうが、この姿ではさすがに判別ができない。
「ノイズが酷い。何とかなりませんか」
「画質を調整します」
 大気の帯電が通信障害を招いているのか、画質の精度が大幅に落ちている。気流が安定せずカメラも常に揺られているので尚更判別が付きにくい。もっと近づき観察することができればその骨格などからミダス王と判別もできるのだが、これではいくら可能性が高かろうと本人と断定することはできない。
 そんなファルデウスの心を読み取ったのか、その時一陣の風がその男の元で舞い踊った。もはや立つことが精一杯といった彼の足元に、紅い頭巾が風に舞い上がり、そしてそのまま地に落ちる。頭巾に守られていたおかげか、その頭部は汚れもせずこれ以上になくその存在感をアピールしていた。
「間違いありませんよ……ミダス王です」
 笑みすら浮かべて断定したファルデウスの台詞に、周囲の者は誰一人として言葉を上げることができなかった。
 ミダス王には強力な呪いが掛けられている。
 一つは、《黄金呪詛(ミダス・タッチ)》。
 そしてもう一つ、その呪いの逸話はこんな言葉で有名である。
 曰く、――「王様の耳は、ロバの耳」


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 ミダス王が持つ第二の呪い《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》はオリュンポス十二神の一人アポロンによる耳がロバとなってしまう呪いだ。
 そのロバの耳を持つミダス王の秘密を知ってしまった理髪師は秘密を誰にも打ち明けることはしなかったが、地面に穴を掘り囁いてしまう。その後穴を掘った場所に群生した葦がその秘密を暴露する、という逸話である。
 つまりこの呪いは秘密の暴露という性質を帯びている。
 聖杯戦争においてこの能力は致命的である。
 サーヴァントという性質上この“偽りの聖杯戦争”に関する秘匿情報は全て世に流れることだろう。各陣営サーヴァントの正体、宝具、能力、パラメーターは勿論、作戦内容や秘匿事項、ありとあらゆる秘密は外部へと漏れ出てしまう。
 一説には理髪師は涸れ井戸に叫んでしまったため町中の井戸からその秘密が漏れた、という記述もある。これを現代に置き換えてみると、どうなるか。
「クハ、クハハハ、クハハハハハハッ!」
 ジェスターは嗤いながら狂風の如き素早さをもってその施設を踏破していく。バーサーカーから奪った携帯端末には先ほどから凄まじい勢いで秘密の暴露が続いている。その中からこの施設の防壁解除パスコードを探しだし、ジェスターの力を持ってしても開かなかった隔壁をかくも容易く突破してみせる。
 そう、全てはジェスターの計画通り。
 聖杯戦争に限らず、幾多の生存戦略においてもっとも有効な方法は“群れる”ことだ。それは家族であり、村であり、國であり、社会であり、そして文明でもある。人類が生態ピラミッドの頂点に立っていられるの理由の一端は少なくともそういうところにあるだろう。
 だからこそ、そこを突く。
 ジェスターはこの聖杯戦争における主立った組織は四つあると睨んでいる。
 一つは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とその背後にいる聖杯戦争を仕組んだ組織。
 一つはスノーフィールド原住民。
 一つはバーサーカー達のサーヴァント同盟。
 そして最後に東洋人を送り出した何者か。
 最後に限っていえば未だに不明な点が多いが、少なくともこれで他の三勢力の情報は流出したことになる。特に、この聖杯戦争を仕組んだ組織の情報はこれ以上になく貴重である。
「クハ、クハハハ、クハハハハハハッ!」
 嗤いがどうにも止まりそうになかった。
 スノーフィールドは周囲から隔絶された地区にあるにも関わらず大きな街だ。そのため街を維持するためのガス・水道はともかくとして電力だけはラスベガスからの供給に頼っている。その送電線をこのタイミングで遮断してしまえばどうなるか。混乱に拍車がかかるのは間違いないことである。
 非常用電源にはすぐに切り替わるが対応が遅い。嬉しい誤算ではあるが、この施設には電力を馬鹿喰いする設備が数カ所ある。そのため自家発電に切り替わっても施設の警備網は後手に回っていた――後手に回らざるを得ない状況にまで陥っていた。
 この隙を、ジェスターは最大限に利用する。
 そのためにわざわざスノーフィールドを離れて砂漠の単独横断を行ったのだ。途中何故か射殺されたのは計算外だったが、それに見合うだけの成果は得られている。
 周囲には《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と思われる武装した兵士が意識を手放した状態で横に転がっていた。
 別にジェスターが何かしたわけではない。これは強力な宝具による強制睡眠によるもの。使用された宝具は《笛吹き男(ハーメルン)》と呼ばれるレベル2の規制対象宝具、と漏れ出た情報に記載があった。これでこのスノーフィールド一帯にいる八〇万人を一斉に眠らせたようである。本来なら奥の手の一つだったであろうに、こういう状況にあっては使わざるを得まい。
 おかげで鉄壁の守りである筈のこの基地が全てフリーパスで通れてしまう。
 スノーフィールド中央十四番地に存在する巨大地下施設。元々地下にあった大空洞を利用したシェルター構想からこの施設は核の直撃に耐えられるよう設計されている。有事の際にはお題目通りに機能させることだろうが、この様子を見る限り、この施設の在り方は全くの逆であろう。
 中のモノを外から守るのではなく、中のモノを外へと出さぬ監獄施設。
 そしてここのの一番奥に封印されているものは間違いなく“偽りの聖杯”そのもの。
「クハハハ――おっと、さすがにこれだけ時間が経てば対処もするか」
 想定よりも早い対応にジェスターは更新の止まった端末を懐へとしまう。恐らくメインシステムを停止させたのだろう。これで流出は防げたが、すでに必要な情報は手に入れてしまっている。
「肝心の“偽りの聖杯”そのものの肝心な情報はない……ようであるな」
 勿論、この《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》にも事前と事後において対処方法はある。
 事後の対処方法はそれこそ今やったように街の人間を暴露中眠らせてしまうという強制的なものもあるし、情報口となるサーバーを停止させてしまえば呪いはかなり限定的にしか発動できない。
 そして事前の対処策とはそもそも秘密をこのスノーフィールドの地で呟かない、ということである。そういった意味ではジェスターのような単独行動であれば秘密をそもそも呟かないので情報の漏れようもなく、また秘密であってもこの地から離れてしまえば呪いの範囲外として暴露は不可能となる。
 偽りの聖杯もこうした理由によってその内情が暴露されないのだろう。つまり、内情を知っている筈の“上”とやらはこの地にはいない、ということになる。これは事前に市内にいる“上”の人間を襲って確認を取ってみたので最初から期待していなかったが、ここまで徹底しているとはある意味予想外である。
『偽りの聖杯。クラス・ビースト。奪われし神。終末の英雄。番外のサーヴァント。設定資料処分。封印処理済。十番目の化身。崇められる者。奪還対象物』
「……これはどう判断していいのかわかぬなぁ」
 何しろ漏れ出る情報は形式の決まった資料などではない。単語の羅列など珍しくなく、情報を引き出すにも一苦労。そんな中で唯一見つけたこのこれらの言葉はそれなりに興味の引く内容ではある。特に、途中にある「設定資料」というのがなんとも胡散臭い。ババ抜きをやってるのかジジ抜きをやっているのか分からなくなってくる。
 しかし、これ以上漏れ出た情報をあてにするのも難しいということだけはよく分かった。
 予想以上に計画が上手くいったために現在ジェスターのタイムスケジュールよりも20パーセント以上余裕が出てきている。
 タイミングのいいことに今現在(二十八人の怪物(クラン・カラティン))の実働部隊は動けない状態で、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の指揮者も更迭となり混乱に拍車をかけている。
 アーチャーに動ける余裕はない。ランサーは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が封印中で、バーサーカーは動けぬようにしておいた。アサシンは東洋人と二人で街から遠ざかり、キャスターはジェスターの予想だと令呪によって眠らされている頃合い。正体不明のライダーもランサーと戦い消滅もしくは大幅に弱体化したかのような記述があちこちで見られている。そして、この施設の場所を事前に知る者は少なく、仮に知っていたとしても近道がない以上追いつくのにも時間がかかる。
 つまり、今この場で邪魔者が入る可能性はゼロと判断していた。少なくとも、ジェスターを相手取れるほどの魔術師はもうスノーフィールドにはいない。死徒であるジェスターであればそれこそ代行者クラスでもなければ相手にすらならないだろう。
「さて、そろそろ予習は終了して本番と行こうではないか」
 第十三隔壁を前に8桁のパスコードを入力していく。情報さえあれば掌紋、網膜を偽ることは容易い。機械相手に騙しても張り合いはないが、この厳重さからもこの中が一体どういった扱いをされているのかよく分かる。
 馬鹿でかい扉上部に設置されたセントリーガンをはじめとする自動警戒システムは機能していない。電力を集中させたのか、施設の電源は今は完全に落ち、非常電源が最低限の明かりを照らすのみ。そのためやるべきことはあと一つだけ。
「ふんっ!」
 この分厚い扉を一人で開けるだけである。
 厚さは優に五〇センチ以上。重量は軽く数十トン。とても人間一人が自力で開けることなど不可能だが、あいにくとジェスターは人間ではなく死徒であり、それも一線級の魔術師ですらある。
 とはいえ、それであってもこの扉を開けている間はどうしても反応が遅れてしまう。身体中の全筋肉と魔力を用いるのだ。地に足をつけ一方向に力を込めればどうしたって隙ができてしまう。
 例え敵となり得る者がおらずとも、そうした可能性を考え、穏便にジェスターは扉の開閉作業をするのだが。
「――っ!」
 何とか子供一人が通れるくらいの幅ができたところで、ジェスターは振り返ることもせずに真横に大きく跳んでみせた。そのまま二転三転移動し、元来持っていた肉体のポテンシャルを活かすことで天井まで一〇メートルはある高さを一息で跳び上がる。手に吸盤を付けたかのように、そのまま壁に張り付いて地面に落ちることはない。
 これらの挙動を一瞬のうちにやってのけたジェスターではあるがその全身は黒く焼け焦げ、盾に使った右腕は代償として炭化し崩れ落ちた。
 荒い呼吸のままにジェスターは全神経を集中させ現状を見極める。
 周辺への警戒は怠っていなかっただけに、対処が遅れるほど高速の攻撃が来るなど、
「これは――予想外」
 ジェスターの呟きに応えるように次撃が加えられる。爬虫類の如く壁を左手と二本足で移動してみせるが遮蔽物のないこの空間では逃げ続けるのは不可能に近かった。立体的に動くことで直撃を受けることなく躱してみせるが、それも時間の問題だった。
 一分。
 あの圧倒的火力の前にジェスターが耐え切れた時間だった。
 最初の奇襲で右腕をなくさねばまだ善戦できたのだろうが、手数はそれほどでもないのに一撃の範囲と威力が通常では考えられぬほど広く強い。反撃をするにもそんな隙はどこにもない。
 どさり、とジェスターがチタン合金の床に落ちる頃にはもはや人相すら分からぬほど全身黒焦げとなっていた。焼死体同然の有様ではあるが、あの攻撃を一分間も喰らい続けて原型を保てているのはジェスターならではの手腕といえた。
 とはいえ、この身体はもう限界。両足は吹き飛ばされて逃げることは敵わず、防御に費やす魔力が追いつかない。再生をしようにも馴染むまでの時間すらなくピンクに盛り上がる肉はあっという間に炭と化す。
 幸いにも床に落ちた段階でこれ以上の攻撃はなかった。オーバーキルも同然の状態にあってはそれも当然だが、ジェスター相手にこの攻撃程度ではまだ生ぬるい。
 ジェスターがまだ何とか動く左手でもはや黒ずんで何が何やらわからぬ胸に指を突っ込み、その概念核を入れ替える。ここまで派手にやられた以上、いくら蘇生可能といえど完全復活までは数十秒はかかる。
 まずい、とジェスターは危機感を募らせる。
 この期に及んでこの状況で奇襲を仕掛け、なおかつ自分と互角に戦える存在など想定していなかった。最初の一撃で力量は把握したが、まともにぶつかって負けるとは思わないが、勝てると断定することもできない。
 概念核は既にセットしてあるが、まだ起動はさせていない。というのも、未だもって襲撃者の視線はジェスターに向かれたままだからである。
「下手な芝居はよしなさい、ジェスター・カルトゥーレ。あなたの気配はまるで死ぬ様子がない」
 その一言に、ジェスターは襲撃者がこちらの手の内を知っていることを悟った。ハッタリかもしれないが、ここで無視するにはあまりに危険すぎる。
「これはこれは……原住民の族長自らが私のような小物退治とは、お忙しそうですなぁ、ティーネ・チェルク」
 ジェスターを前に、ティーネは襲撃時からただ一歩だって動いていない。腕を組んで睨み付ける双眸はどこかアーチャーを彷彿とさせていた。
 こうなってしまった以上隠す必要もないとジェスターは概念核を起動させる。焼け焦げた肌は見る間に崩れ落ち、その下からは肉ではなく直接肌が蘇る。燃やされた右手と両足も時間が逆行したかのように生え揃い、ものの十数秒ですっかり別人へと生まれ変わったジェスターがそこにいた。
 その間ティーネは何をするでもなく、ジェスターの復活を見続けていた。この復活途中のジェスターは無防備に近いというのにあえて攻撃しないのは格の違いを見せつけるためか。
 これで五回目の死亡。つまりこれが最後の概念核となるわけだが、最後であるだけにその能力は過去五体の概念核よりも数段上の強度を持つ。初見とはいえど、それが分からぬティーネとも思えないだけに、ジェスターは復活した後も迂闊に動くことができずにいた。
「さて、最初に聞いておきたいのだが、族長様は何故私がここにいることを知っているのかな?」
 ジェスターは常に単独行動だ。ジェスターに関しての秘密が《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》によって漏れ出ているわけがない。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に怪しまれていたことは確かだが決定的な証拠はない筈であり、唯一心当たりがあると言えば――
「途中、親切な御仁がいましてね。今ジェスターが“偽りの聖杯”を盗りに向かっていると忠告してくださいました。ついでにあなたが蘇生できることも。とどめを刺さなかったのは失敗だったようですね?」
「それは……返す言葉もないですなぁ」
 つまらぬミスをしたとジェスターは舌打ちする。
 ジェスターとしては丸一日は意識が戻らぬ程度に痛めつけたと思ったが、想像以上に早くに目が覚めてしまったらしい。今後のことを考え消滅させるわけにもいかなかったが、少なくとも迂闊な発言をするべきではなかったようだ。
「しかし、だとしてもどうしてこの場所が?」
 ここは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》内部でも機密レベルの高い場所。入り口一つにしても見つけ出すのにジェスターは苦労していた。そしていくら情報がダダ漏れしていようともあの情報の海から必要な情報だけを抜き出すには相当な時間がかかる筈だ。予め準備していたジェスターでさえ、それなりの苦労をしてここへと辿り着いている。まして、こうした情報処理に疎そうなティーネであれば尚更だろう。
「いいえ、“偽りの聖杯”の居場所だけなら既に知っていました。後は、――まぁ、子供らしい発想でここに来ただけです」
 ティーネはジェスターに笑いかけるが、その笑みにジェスターは年相応の可愛らしさを見いだすことはできなかった。ティーネの周囲には彼女の命令を今か今かと待っている莫大な魔力が渦巻いている。
 以前から機械的に動く少女ではあったが、どうしてだろう、今のティーネはそれに輪をかけて作り物めいていた。
「穴を掘った、ただそれだけです」
 その言葉だけでジェスターはティーネを相手取ろうとすることは諦めた。
 かつて入り口が埋まったピラミッドに潜入しようと爆破を試みた者がいたらしい。結局ピラミッド外壁の厚さに諦めざるを得なかったわけだが、ティーネはそれと同じ行動を取り、そして見事内部に到達する偉業を成し遂げていた。
「出鱈目だな」
「否定はしません」
 確かにこの地下施設の正確な場所さえ知っていれば可能なことではある。だが乱暴この上ないし、ここの深度は数十メートルはある。力まかせにしたって限度があるだろう。それを単独かつ短時間で行うなど非常識を通り越して不可能だ。
 以前に見かけた時のティーネの未熟な顔をジェスターは思い出す。その顔つきこそ変化はないが、醸し出す雰囲気はまるで違っていた。確か情報では数日間寝込み、夢の中でライダーと戦ったらしいが、その詳細は不明。一体何があったのかは分からないが、何かがきっかけで彼女が羽化してしまったのは確からしい。
 いや、それだけ、というわけではない。
 彼女が纏うこの魔力量は、ハッキリ言って異常過ぎる。
 先に調べておいたことが役に立った。あの単語の羅列の中にあった「奪われし神。崇められる者。奪還対象物」という言葉の意味が繋がった。
「――これで、合点がいった。スノーフィールドの民が、この地を取り戻したがっている真の理由が」
 ジェスターの言葉にティーネは反論しなかった。
 ティーネ達スノーフィールドの原住民はこの地の霊脈を利用した魔術を使用する、といわれているが、それは半分だけ正解であろう。地域限定の魔術など珍しくもない、とろくに調査もせずにいたが、これはもっと調査するべきであったかも知れない。
「君たち原住民は、この土地を取り戻そうとしているのではなく、“偽りの聖杯”そのものを取り戻そうとしていたわけか」
 彼らにとって“偽りの聖杯”は祀るべき神そのもの。同じ一族にしては血筋の異なる者が多いと思っていたが、それは当然だ。彼らは同じ神を崇める信徒を指して“一族”と呼んでいるにすぎない。ユダヤ教徒を指してユダヤ人と言っているのと同じ考え方であろう。
「そう、だからこそ、我々はずっとこの場所を探してました。助かりましたよ、大まかな場所が分かったとしてもあなたがいなければ私はここのセキュリティに阻まれて辿り着けなかったでしょうから」
 この地を侵されて約七〇年。政府によって巧みに原住民たちは謀られ、祀っていた筈の神は祭壇ごと動かされ、気付いたときにはもう既に手遅れであった。
「では、ティーネ・チェルク。君はこの中に一体どんな神が祀られているのか知っているのかね?」
「いいえ。詳細については我々も知りません。ただ――」
 ジェスターの言葉を否定しながらも、彼女は己の手を見やった。その手に溢れる魔力は未だ持って上限を持たず、それでいて溢れ出すということもない。それだけでそれ以上彼女が何も言わずとも言わんとしていることは理解できた。
 族長の立場が“選ばれた”者であることは既に調査済みである。漠然とスノーフィールドの地に選ばれたと解釈していたが、この“偽りの聖杯”を目の前にすれば何によって選ばれたのかは明白であろう。
 彼らはただの信徒ではなく、眷属だ。族長は司祭であり、巫女であり、時に生け贄となるべき依り代なのであろう。
 だからこそ、“偽りの聖杯”に近付けば近付くほど彼女の力は際限なく増大していく。ここまで“偽りの聖杯”に近付けば並のサーヴァントでも彼女を突破することはできないだろう。少なくとも、ジェスターにこれを突破できる自信はない。
 七〇年間、彼らはこの機会を狙っていた。聖杯戦争についても十数年前から調べていると聞く。だとすれば十二歳である彼女が自然に生まれたわけがない。“偽りの聖杯”に愛される要素を数多に埋め込まれ、怨念にも似た祝福に抱かれながら、本人にも自覚のないまま用意された最終兵器。
 そして、ティーネはジェスターに背を向け分厚い扉の向こうへと歩を進めていった。明かりがないためわかりにくいが、あの扉の向こうは馬鹿でかい空間だ。その中央に安置されているのが“偽りの聖杯”なのだろう。
 これで、この偽りの聖杯戦争は終了する。
 ジェスターは早い段階からこの“偽りの聖杯戦争”を怪しみ、この“偽りの聖杯”を探していた。本来ここに来たのも何かをするため、ではなくどちらかというと調査をするためだ。“偽りの聖杯”が何なのかを確認し、あわよくば確保していくことで全体をコントロールする腹づもりだった。
 しかし、ジェスターと違いティーネは“偽りの聖杯”どころか原住民の神が具体的に何なのかすらもろくな知識を持っていない。それでありながら、ティーネに埋め込まれた数々の因子は何をするでもなくティーネの思い通りに“偽りの聖杯”をコントロールしてみせるだろう。
 そして彼女が願うのは戦争の終焉と神の眠り。“偽りの聖杯”をただの墓石へと貶め、この地を元の自然な形のスノーフィールドへと戻していく。願いが叶わぬと知れば各陣営が争う必要もない。そして魔力源を失ったサーヴァントはそう遠くないうちに勝手に消滅していくことだろう。
「ちっ、つまらぬなぁ」
 ティーネの姿が完全に見えなくなって、ジェスターは耐えきれぬように愚痴をこぼしてしまった。
 つい五分前にあったこの胸の昂ぶりは一体どこに行ってしまったのか。目前のオモチャを没収された幼い頃を思い出す。それに似た悔しさと憤りは確かにあるが、それを上回る敗北感はどうしようもない。こうして殺されていない時点でティーネがジェスターを眼中に入れていないのかよく分かる。もしくは、こうしてこの場の露払いしてくれたお礼のつもりなのかも知れない。
 ティーネを止めるための戦闘は無意味だ。ならば言葉で、と思いバーサーカーから奪った携帯端末を拾い上げる。ジェスター自身は全身ズタボロと化したが、攻撃に巻き込まれ壊れぬようさりげなくティーネの死角に落としておいた携帯端末はあの攻撃の飛び火を受けることもなく無傷である。
 無駄と思いつつも漏れ出た情報を閲覧する。情報は莫大であり、重複したものも多く、暗号化されているものも多い。索引性など期待することもできず、唯一電子端末の利点は検索は可能ということだけだ。
 では一体、何を検索すれば良い?
 ティーネ・チェルク、偽りの聖杯、スノーフィールド、神、などと検索を入れても出てくる情報はろくなモノがない。もっとピンポイントの単語でなければ期待できる情報は出てこないだろう。
「聖杯……聖遺物……不朽体……?」
 ダメ元で連想ゲームの如く挙げて行くが、そこでふと頭の中を過ぎったモノがある。
 ジェスターは死徒だ。まさしく夜の眷属であり、そのために明かりのない場所であっても問題なくその視界は全てをさらけ出す。当然、扉を開けた時にジェスターはその“偽りの聖杯”そのものを見ていた。
 その形は巨大な直方体。一目で分かる複雑かつ緻密な回路がその全体を覆っていたそれは、一見箱のようにも見える。たが、死徒という吸血種たるジェスターにそれはまるで寝所にしか見えなかった。
 吸血鬼の寝所と言えば、一つしかない。
 それは奇しくもティーネが夢の中で“偽りの聖杯”に抱いた感想と同じだった。
 聖杯と同様の魔力を秘めるだけの――棺桶。
「まさか……聖櫃(アーク)?」
 我ながら現実味のない言葉に震えが来る。
 ピラミッドなどの墓所であるならともかく、こんな巨大な聖櫃(アーク)など見たこともなければ聞いたこともない。それが本当なら、中で眠っている不朽体の正体は一体何だというのか。
 だがそれでもおそるおそる検索をかけてみれば、ヒットした項目は数件ながら確かにあった。そのいずれも重要機密の判が押された《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の資料である。
 資料の内容に肝心の中身についての記述はないが、いくつかの資料を総合して考えるにその内容はジェスターの予想通り。原住民との関連性もある程度書かれているが、それと同時に物騒な言葉の羅列が所々に並んでいる。敵性勢力の接触項目の最終段階には「本部自爆決議」や「戦術核の使用」といった殲滅手段が大真面目に講じられていた。
 これが本当であるならば、ジェスター含めこのスノーフィールドの街はもうすぐ核の炎で灼き尽くされることとなる。大抵のことは経験してきたジェスターといえど、そんな経験はさすがにない。
「……いや、」
 笑ってしまうような自分の言葉に、ふとジェスターも違和感に気付く。
 周囲の状況を見回してみる。屈強な警備兵に、侵入者を返り討ちにせんとばかりの銃火器の設置、そして何重にもかけられた物理的・魔術的結界の数々。
「この程度のセキュリティで核攻撃などする筈もない……!」
 慌てるジェスターも当然。いくらここが秘密施設で厳重な要塞であるとはいえ、先ほどの黄金王ミダスの能力にあるような無差別かつ広範囲に影響を及ぼすような宝具があればあっさりとこの要塞は崩れゆくことだろう。これがアーチャーであるなら尚更簡単に突破されるのは明白である。
 このスノーフィールドを消し飛ばすほどの重要性があるなら、もっと他に対策をしている筈だ。資料を次から次へと流し読みをし、そして程なく、ジェスターは目的の書類を探し当てた。
 “偽りの聖杯”、その接触が禁忌であるならば、それに対する対処策は障害となる警備が眠り、施設の電源が根こそぎ落ちた今であっても、今尚稼働し続けていることになる。この場を守る仕掛けはこの扉が最後などではない。
「宝具開発コード《ノア》……?」
 添付された書類はキャスターが念入りに昇華し最高傑作と呼んだ特殊宝具の一つ。数ある防御宝具において最硬を誇る強度と何者にも拒めぬ絶対不可侵領域――
 ジェスターがその先を読もうとしたとき、奥へと一人進んでいったティーネの声が周囲に響き渡った。
 それはジェスターが予想していた神へと捧げる歌などではない。
 それは苦痛に喚くだけの、ただの叫びだった。


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 宝具(笛吹き男(ハーメルン))はかつて1284年6月にハーメルンの街で起きた子供の集団誘拐の逸話に出てきた笛を発掘し昇華させた宝具である。
 鼠や子供といった一定の対象物を無差別に惹き付けるこの宝具をキャスターはひたすら強化し、狙った対象を自由自在に操る宝具へと仕立て上げた。当初の予定ではこれを用いて即席の人形兵団(マリオネット・イェーガー)を用意し予備兵力とする手筈だったが、今回はそうした細かい操作を犠牲にしてスノーフィールド市民八〇万人を強制的に眠らせるだけに急遽使用されることとなった。
 この無茶苦茶な規模の宝具使用により《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が事前に貯蔵していた魔力は完全に底を突き、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》部隊も半壊、電力の供給がストップされたことで市内各所のカメラも機能停止となった。
 ミダス王もつい先ほど魔力切れから消滅し、アーチャーも光る黄金の船でどこかに飛び去っていった。
 つまり、今市内で何があったとしても、誰にも気付かれることはなかった。
 遠慮のない銃声が市街地で響き渡った。
 もはや何発放たれたのかバーサーカーは数えるのを止めている。追っ手が一人や二人であればそれもまた有効な情報なのだろうが、こうもあからさまに組織だって追い立てられると装弾の隙を突くことも不可能だ。
 ジェスターに殴られ目覚めてからバーサーカーは息つく暇もなく逃走を繰り返している。四肢に突き刺さったままの杭は相変わらずバーサーカーの動きを阻害し、抜き取る暇も余裕もない。キャスターから貰った携帯端末もジェスターに奪われ助けを呼ぶこともできない。
 逃げ足が自慢の殺人鬼だというのに殺すどころか逃げることすら覚束ない。まったく情けない限りである。
 激痛と疲労に自然と顎が上がり、目映い星明かりがバーサーカーの視界に映る。アーチャーの一撃により雨雲が消し飛ばされたことが唯一の救いだが、それだけで突破できる状況とも思えなかった。
 相手が一体何者かすらバーサーカーは分からない。継続的に《笛吹き男(ハーメルン)》による強制催眠の魔力波が放たれているが、追撃者たちがそれを意識しているようには思えない。魔術師ならば己の魔術回路を少し起動させるだけで抗うことは簡単だが、この追撃者たちはわざわざ対魔呪符を用いて魔力波に抗っている。
 装備こそ魔道に則った物であるが、それを操る兵士は間違いなく魔道を解さぬ一般兵。今までスノーフィールドのあちこちを調べて回ったバーサーカーではあるが、こんなちぐはぐな組織など初めてである。
 とはいえ、《笛吹き男(ハーメルン)》に対抗する手段を準備しているところからキャスター陣営の情報を正確に掴んでいる部隊なのは間違いない。となるとこれが署長が言っていた“上”の運営直轄部隊というやつか。
「どうやら表舞台に出すことには成功したようだな」
 これを逆にチャンスと捉えてしまうのはバーサーカーの悪い癖なのかもしれない。どの陣営も今夜は消耗しきっているし、《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》による情報漏洩を精査するのに必死である。己の危機においてすら邪魔が入らぬことを逆に好都合とすら思ってしまうバーサーカーである。
 相手が銃器である以上見通しのよい直線道路を避け、裏町を必死になって逃げ回っているが、頭の中で地図を広げればバーサーカーの行動が意図的に誘導されているのは間違いなかった。
 途中何とか敵を欺こうと策を練ってはみたが、敵はツーマンセルで一定距離を保ち連携を崩す様子はない。壁を壊したり登ったりとルート外への逃走も試みたが、その度に予め配備されていたとばかりに立ち塞がる敵兵がそれを許さない。
 ならば、選択肢はもう一つしかなかった。
 バーサーカーの体力・魔力共に疲労の蓄積は無視できなかったが、まだ限界ではない。バーサーカーの戦闘能力では敵勢力を強引に鎮圧できぬ以上、手のひらで遊ばれている様を装いながら、相手の虚を突く他はなかった。フラットのために意味のある死ならここで死ぬのも悪くないが、進んで死ぬ真似はしたくない。
 ここに至ってもバーサーカーは勝算を持っていた。
 この異常な練度を誇る兵であれば、無理に誘導などしなくともバーサーカーを仕留めることは不可能ではない。最終的に敵が何らかの交渉を仕掛けてくるのは間違いない。
 ……その、筈だった。
「お目にかかれて光栄の至りです。稀代の殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー」
 そう言って、誘導された場所で待ち構えていた男はバーサーカーへ対サーヴァント用の弾丸を容赦なく撃ち込んできた。
 相手を威圧するべく堂々とこの場へ現れたことが災いした。映画でよく見るこうしたシーンでは奇策を用いて避けたり防いだりということをするものだが、あいにくとこの場はフィクションじみてはいるが、現実であった。
 問答無用で打ち込まれた弾丸にバーサーカーは為す術もなく倒れ伏す。バーサーカーの計算は根本から誤っていた。交渉など、敵は最初からするつもりなどなかった。敵はただ、バーサーカーを相手に力尽くで攻めるより、こうして交渉の可能性を匂わせた方が効率的だと判断したに過ぎなかった。
 バーサーカーは生きていた。だがそれは即死を免れているだけで、致命傷には違いない。だがサーヴァントの致命傷と人間との致命傷ではその意味は大きく異なる。
「……何故、一思いに殺さないのかね?」
 呻くように、疑問を吐き出す。
 これまで何度となくフラットにも言ったことがあるが、瀕死のサーヴァントこそ近付くべきではない。できる限り遠くから、ただ力尽きるの待つべきであり、その場に留まり殺す手段があるなら、速やかに首を刎ねるのが正しい在り方だ。
 まだ可能性がある――などとは思えなかった。敵の首魁たるその男は、油断なく更に銃弾をバーサーカーに放ち続けてきたからだ。
「安心してください。ちゃんと殺します。助けるつもりなどありません」
 そうして、再度銃弾がバーサーカーへと撃ち込まれる。
「今、何発ですか?」
「右手五発、左手二発、左足二発、右足二発、胴に三発、計十四発です」
「そうですか」
 部下の報告にそっけなく答えて引き金を二度引いた。既に動けぬバーサーカーの両足にそれぞれ一発ずつ撃ち込まれる。
 これは、ただの実験だった。
 元々ヴァチカンで対死徒用にチューニングされていた弾丸が、一体どれだけサーヴァントに通用するのかを確認するための実験。そのための素材として、男にとってバーサーカーは丁度良いモルモットであった。
「クラス・バーサーカー。真名はジャック・ザ・リッパー。対魔スキルはなし。宝具は《暗黒霧都(ザ・ミスト)》――」
 手持ちの端末から漏れ出たであろう情報を次から次へと読み上げてみせる男。そしてその話が宝具へと移った段階で、バーサーカーは男の言葉通りに全力でその宝具を展開してみせた。
 宝具(暗黒霧都(ザ・ミスト))
 バーサーカーがかつて暗躍していた時代、産業革命により大量排出された石炭の煤煙がロンドンに大災害を引き起こしていた。この宝具はその“死の霧”を再現する宝具であり、一度結界内に閉じ込められれば脱出は難しく、それでいて着実にダメージを与え続ける代物である。
 だが、バーサーカーはこの宝具をこれまで何度となく使用してきたが、こうした本来の使い方をしたことはない。そしてこれに関してはマスターであるフラットやキャスターにも話していないのでその秘密が漏れ出ていることはない。
 ここには雨も風もない。
 敵は周囲を囲んでいる。
 我が宝具の餌食となる条件は整った。
 即座に首を刎ねなかった事を後悔させてやるとしよう。
「ではご覧に入れようではないか、我が宝具を――」
「必要ありません。もう、観察は終わっています」
 そんなバーサーカーの最後の抵抗を男は鼻で笑ってみせる。
 バーサーカーから立ち上る漆黒に、男は焦ることもなく余裕を持って背後にある車の後部扉を開け放つ。そこに用意されたそれは神秘や奇跡ではなく、どこにでもあるような現代技術の塊に過ぎぬモノ。
 それはただの、業務用の巨大送風機。
「気付かれていないとでも思っていたのですか? 宙に飛散し周囲を取り囲む結界型宝具。最小限度で発動すれば微弱な反応に使用者以外にはそこいらの土埃と見分けは付かない――そういえば、空間を削り取る能力者に砂使いの能力者が立ち向かうという話を聞いたことがありましたね」
 あれを参考にでもしましたか、と男の嘲笑にバーサーカーは告げる口を持たなかった。
 本来、この宝具は全力展開させることで周囲一帯の敵を捕獲し弱体化させる効果がある。しかしそれでは目立ってしまうし、展開するまでに時間もかかる。
 そのためにバーサーカーが考え出した運用方法がこれだ。バーサーカーはこの宝具を最小限度で周囲に展開させることで即席のレーダーとしたのである。これによって周辺地形を把握し敵を認識し、武蔵との戦闘においても奇襲を防いでいた。
 ただし、この宝具は展開時に邪魔な雨や風がないことが条件である。魔力の塊とはいえ霧という認識には違いなく、十分な魔力濃度が維持できない状況では結界も意味を成さない。バーサーカーがキャスターの前で《暗黒霧都(ザ・ミスト)》を見せた時も、換気扇ひとつで宝具を収めたのはそういった理由があったからである。
 送風機が働き、風があっという間にバーサーカーの《暗黒霧都(ザ・ミスト)》を消し飛ばす。事実上これがこの状況における最後の切り札であったというのに、その希望の糸は実にあっけなく切り捨て――いや、吹き飛ばされた。
「……一応言っておきましょうか。我々はバーサーカー、あなたを最も警戒していたのですよ」
 パン、とまた一発、薬莢が宙を飛ぶ。
「それは、光栄だ……」
「いえいえ。これは本当です。あなたが街中で何の準備もなく召喚された時から注目してました。最も、当時はあなたというよりマスターであるフラット・エスカルドスの戦略に注目していたのですが」
 男の言葉にバーサーカーは何が言いたいのかよく分からずにいた。フラットの魔術師らしからぬ思考と天然さは外から観察する分には不可解すぎるようである。
 そんなバーサーカーの内心を知ってか知らずか。男はせっかくです、と軽くその右手を挙げて合図を送る。今度は狙撃でも来るのかと覚悟を決めるが、放たれたのは銃弾などではなかった。
 放たれたのは、電気信号。
「――ッ」
 この場にそぐわぬ間抜けな音楽が、周囲に鳴り響く。
 だがバーサーカーには聞き覚えがある。これはフラットに連絡用として用意して貰った携帯電話の着信音。着信音一つで気分も盛り上がるとフラットがわざわざ有料ダウンロードまでした日本の国民的お笑い番組という触れ込みのオープニング曲。
 潜入や尾行といった調査業務の多いバーサーカーがマナーモードにしていない筈がない。それより何より、バーサーカーは事前に携帯電話の電源を落としていた筈だ。
 この事実に思わずバーサーカーはわずかに顔を歪ませるが、すぐにまた元に戻した。一瞬のことだったためか、その事実に目の前の男も気にとめていない。
「あなたの行動は最初から我々に筒抜けだったのですよ。御存知でしょうか? 最近の携帯電話は電源を切っていても勝手に再起動もできるし、位置情報も抜くこともできるんです。もちろん、盗聴も」
 男の言葉が本当であるのなら、これまでのバーサーカーの行動は全て把握されていたことになる。
 となれば、バーサーカーの不自然な行動にも気付いて当然。
「あなたはマスターから各陣営に不戦協定を結ぶよう要請されていましたね?」
「……」
 男の言葉に何も応えずにいると、またも無造作に弾丸がバーサーカーの胸を抉ってくる。バーサーカーではなく、自らの携帯電話を取りだし、バーサーカーに宛てた筈のフラットのメールをその証拠とばかりに読み上げる。
「しかしおかしいですねぇ。あなたがアサシンと会ったのは別として、ランサーと不戦協定を結んだのは、マスターからの要請の『前』でした。つまり、あなたはあなたで別の思惑があって不戦協定を結んでいたことになる」
 パンッ。
「それでいながら、マスターからの一番の要請であるアーチャーとの不戦協定を実行していない。しかも夢から戻ってきたマスターにすら未だ会いに行っていない……どうしてなのですか?」
 パンッ。
「……まあ、黙秘権を行使するのもいいでしょう。そうした分析は後ほどじっくりやるとします」
 そうして、男は無造作にバーサーカーへと近づき、その頭部に銃を突きつける。連続した発砲により銃身は熱を帯び、バーサーカーの眉間を焼きつけた。
「……貴様らは」
「はい」
 バーサーカーの最後の抵抗など考えもしていないような柔和な笑みで、男はバーサーカーの言葉に応じてみせる。
「貴様らは、一体何者だ?」
「……あー」
 その言葉には、男は想像以上に困った顔をした。
 そして、困った顔をしながら、バーサーカーの問いかけに答えることもなく、無造作にそのまま引き金を引く指に力を込めた。
 サーヴァントといえど頭部を打ち抜かれては末期の声を残すことも適わない。そしてその中身も人間同様にグロテスク。鬼も人も違いなどありはしない。
 返り血に汚れた頬を指先で拭いながら、男は光となって消え逝くサーヴァントに背を向ける。そしてふむ、と頭を掻きながら思いもよらぬ事案に頭を巡らせる。
「そういえば、まだ我々には呼び名がありませんでしたね」
 秘匿部隊という特性上、記号的な部隊名は確かにあるが、それを公言するにはあまりに虚しいし、これから改めて『新生(二十八人の怪物(クラン・カラティン))』などと名乗るのも気が進まなかった。ここで気付いていなければいざ動いた時に惰性で《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と名乗りそうである。
「まあ、おいおい考えておきましょう。では皆さん、撤収準備。第一班は退路を確保、二班は護衛をお願いします。三班は現場を清掃、バーサーカーが確実に消滅したことを確認してください。明日の朝までに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部へ出頭できるよう急ぎますよ」
 実に気軽な口調で、ファルデウスは率いてきた部隊に対して命令を下した。
 夜明けまで後六時間ほど。それまでに、やるべきことはたくさんある。
 だが幸いにして、わざわざファルデウスが出て行かずとも指示一つで部下はその全てに応えてくれることだろう。手持ち無沙汰という程の暇はないだろうが、まあ、組織名を考える時間くらいはあるだろうと、ファルデウスは暢気に考えながら指揮車両へと乗り込んでいった。


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08

 スノーフィールドにおける“偽りの聖杯戦争”、その八日目。
 既にこの段階で今回の聖杯戦争は完全に破綻寸前――否、破綻同然の状態にあった。
 連日のテロ騒ぎに一般市民への影響は限界に達していたのに加え、昨夜の《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》による極秘情報の広域拡散。通常であればもはやなり振り構わぬ形で協会と教会が全力で乗り込んでいることだろうが、そうならない理由は“上”の情報操作とライフラインの物理的寸断、そして宝具(笛吹き男(ハーメルン))による住民の強制睡眠・退去のおかげである。
 この内のどれか一つでも失敗していれば今頃世界中からスノーフィールドに注目が集まり、この戦争が露見していたことだろう。破綻寸前でありながらその屋台骨はまだ折れてはいないのである。
 しかし、ことが終わればその全てを誤魔化すことはもはや不可能だろう。昨夜の戦闘で市内の一割は完全に廃墟と化している。人がいないことで街としての機能が麻痺しているし、何よりラスベガスからの送電が完全にストップしているためこの異常は短期間では終わらない。いかに陸の孤島と化したとしても、外の人間に気付かれるのも時間の問題だった。
 これらの事態に対して住民を《笛吹き男(ハーメルン)》で操り復興作業をさせることも可能だが、八〇万人を同時に操作するような莫大な魔力や処理能力を割く余裕などどこにもない。せいぜい住民を複数箇所に集め被害を少なくすることで精一杯である。どちらにしろ専門知識を持たぬ者が操ったところでどうにかなるものでもない。
 そんなわけで、現在スノーフィールドの街はゴーストタウンと化していた。
 現在このスノーフィールド全域で動ける人間は約二千人。その内の八割は北部渓谷地帯の砦で籠城していた原住民で、あとの二割はスノーフィールドに未だ潜み《笛吹き男(ハーメルン)》にも抗った魔術師たちとファルデウスが合流した《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》である。
 数の利だけで語るなれば原住民に分があるが、残念ながら非戦闘員も多く有利というわけではない。それに原住民は族長の言葉を守り迂闊に動き隙を作ることもしていない。何より、街中に至る所に設置されているカメラの内蔵バッテリーと無線機能は未だ健在である。街中に出て行くにはリスクが高すぎる。
 そう。
 だから、こんな真っ昼間に堂々と街中を歩く存在を見れば、殺されても全く不思議ではない。むしろ、情報が大事であると痛感させられた全陣営においてこうも無頓着な人間がいるなど、一体誰が思うだろうか。
 スノーフィールド市の中心近くにある片側三車線の幹線道路のスクランブル交差点。大通りにも面しているこの中心部でその人物はサンドイッチを片手に食べながら困った表情で右へ左へ視線を動かしていた。
「……誰もいないね、ライダー」
 椿の言葉に左手が反応し「そうですね、椿」と携帯電話のメモ機能によって反応が返ってくる。
 椿がこのスノーフィールドの現状を知らなくて当然である。街を離れていたことが災いし、椿とライダーは街中での戦闘についてはまるで気付くことはなかった。《笛吹き男(ハーメルン)》の強制睡眠もライダーによって弾かれたため気付かなかったし、いくら待ってもフラットもティーネも迎えに来る気配がない。
 フラットから貰った食糧も尽きて街へ出る決意をしたのは陽が昇った後。ほんの少しだけと街へと出てきたが、このゴーストタウンと化した街の様子に椿が落ち着いていられるはずもなかった。また夢の世界に入ってしまったのではないかと不安に駆られ、途中のスーパーで食べ物を失敬しつつライダーに励まされながら探索へと乗り出したのだった。
「やっぱり、これは現実?」
 頬張るサンドイッチは新鮮野菜とウインナーの肉汁の染みこんだ実に美味しいものだった。状況こそ似てはいるが匂いや香りに包まれたこの世界は現実なのだと徐々に実感しつつあった。ライダーの感想も同じようで「現実世界かと思われます。しかし確実に何かが起こっています」と助言もしてくる。
 ここで、この様子を見る者がいたとしたら、彼女は一体どういう風に見られることだろうか。
 この非常事態以上の異常事態の状況下で携帯電話を片手にあちこち探るように動いている少女。無防備そうに見えてその実、動きは実に淀みなく不自然なまでに自然過ぎていた。目を凝らしてみれば少女の頭上には魔力の煙とも思える渦が発生しており、直射日光から少女を守ってすらいる。
 ネタをばらせばその全てはライダーが椿を慮ってやっていることだ。肉体になるたけ負担をかけぬよう動かそうとすればそれは無駄を省いた綺麗な歩き方となり、身体の軸はぶれず腰の位置も上下しない。端から見ればどう見ても訓練されたような歩き方になってしまう。
 携帯電話も持ってはいるが、これは椿がライダーと会話するためのもので電波を発信や受信するものではない。
 だがはっきりいってその姿は何かを探る強力な魔術師にしか見えないだろう。《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》のことを何一つしらない椿とライダーではあったが、まるで情報を整理し確認しながら余裕綽々で歩いているようにしか見えないのである。可愛らしい少女の外見もこうなってしまえば敵を油断させるものと判断されても仕方なかろう。
 だから。
 次の瞬間には、彼女は十字砲火に晒されていた。
「わわ、わわわわわっ、何かなっ? 何なのかなっ!?」
 慌てふためき何が起こったのかすらも分からぬ椿をよそにライダーはこの状況を余裕すら感じさせながら軽く凌いでみせる。
 そう、これは戦闘である。
 今現在スノーフィールドが完全異常事態に陥っていることは誰の目にも明らかである。それでいて無関係の人間は排除され、お互いの情報もすべて筒抜け。こうした状況で優位に立つためには交通の要所を押さえることである。
 この場は街の大通り。NYやシカゴと比肩しうるこの場所が街の大動脈であるのは間違いなく、だからこそ、下手なサーヴァント相手であっても容易に突破できぬだけの戦力を整えてこの場に配置されている。
 だが、情報が漏れ出た今であっても彼らは決して博識というわけではない。ライダーという存在については未だに不明な点も多く、その消滅の有無さえも直接確認できているわけではないのだ。
 ここに至って、椿も彼らも、無知でしかなかった。
 唯一の違いは椿とライダーは自らの無知を知っていたが、この場にいた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は自らの無知を知らなかった。
 無知とは、時に災いを呼び起こす罪になるのである。
 椿の左手がこの状況にあっても高速で打鍵する。
『一分程お待ちください』
「傷つけるのはダメだよ!」
 そんな場合ではないというのに椿は己の危険すら認識もせず、悠長に携帯電話を見ながらライダーに注意すらした。
『了解しておりますよ、マイマスター』
 椿の返事を待つことなくライダーは己の魔力を総動員して椿の身体を操ってみせる。
 まずは椿の身体を無理矢理跳躍させて軽く後方一回転、その間に椿の視界に映った射手の居場所を特定する。マズルフラッシュから特定するに、火線は全部で三本。左右のビルと背後のビルのY字に配置された火器は第一次世界大戦から教本に載せられているような典型的な攻略困難な戦法である。
 射手同士の連携も取れており、どうしても椿の視界を頼りに動くと死角からの対応には遅れてしまう。避けられぬ弾丸は張り巡らせた障壁で防いで見せるが、一息つくにはいくら何でも頼りない。何とか遮蔽物に隠れたいところだが、ここはスクランブル交差点のど真ん中。アクロバティックな機動と障壁で何とか避け続けてはいるが、無傷のままでいられるのにも限界がある。
 ならば、やるべきことはひとつであろう。
 椿の左手が高速で打鍵する。
「跳びますって何っ!?」
 一応椿にはこれから何をするかをライダーは報告したが、残念ながらその意図は通じなかったようである。令呪によって椿の思考はライダーに筒抜けだが、その逆はない。人外の存在であるライダーからの思念が人間に適合しない可能性があったため、ライダーの思考を椿は受け取ることができないのである。
 サンドイッチの袋を大きく火線の元へと投げつけることで一瞬の隙を作り出す。椿の両足がアスファルトの大地を踏みしめ、その膝が撓んで力を蓄える。この瞬間を三人の射手が見逃す筈もないが、それも一瞬のこと。次の瞬間には射手は全員椿の姿を見失うことになる。
 人間には決してあり得ぬ跳躍力。一〇……いや、二〇メートルを超える大ジャンプはまさしく想定外。なまじ事前に人間で行えるレベルのアクロバティック機動をしていただけにその落差はうまい具合に虚を突く結果となっていた。
 そして着地点は三カ所の射撃ポイントで一番高い場所である。夢の中で下の階から上の階へと攻め込んだことのあるライダーだ。相手の高所を取ることの利点は身をもって知っている。そして制圧の仕方も慣れたもの。
「はふんっ!?」
 強烈な加重に目を回しそうな椿であるが、血流を調整し筋肉を操作して無理矢理にその体勢を整える。ブラックアウト寸前の視界を無理矢理確保して見れば銃火器を持って未だ椿の姿を探す間抜けな射手と観測手。そして彼らの護衛役と思しき兵士と目が合った。
 ライダーはこの戦闘において初めて焦りを感じ取る。何せ、護衛役はその両手にロッド式の棒状の武器――トンファーを装着している。攻守ともに優れた近接戦闘特化武器なのは認めるが、まさか魔力が込められた弾丸を撃ち込んでくるような連中ががただのマイナー武器を趣味嗜好だけで装備させているわけもない。
 一瞬で目前にまで近寄り攻撃してくる護衛役を寸でのところで椿の身体は避けてみせる。身体が小さいことを活かし倒れ込むようにしてその両足に絡みつく。通常であればこんなことで護衛役の巨体を倒すことなどできはしないが、ライダーが強化した椿の身体は通常の一〇〇倍以上。護衛役も魔術師であろうが、まさに桁違いの出力に為す術もなく転がされ、
「はい、タッチ」
 椿の指先が転がされた護衛役の口内へと軽く侵入する。その指には予め椿の唾液、もっと端的にいえばライダーの端末そのものが塗られている。粘膜接触によって体内の免疫機構が即座に反応するが、そのショック反応に護衛役は耐えきれずあっけないほど簡単に意識を手放した。
 そして遅まきながら、背後に現れ護衛役を倒した椿に射撃手と観測手は大いに慌てるが、しかしそこの判断はプロであった。即座に手に構えた銃ではなくナイフを構えたあたり、二人ともそこそこ腕に自信があるのだろう。ナイフには何らかの呪印も刻みこまれ魔力も通っている。当たりどころが悪ければライダーが張り巡らせた障壁ごと椿の身体を傷つけかねない攻撃力である。
「え? 五月蠅いでしょうから聴覚を遮断します?」
 そんなあからさまな殺気を前にライダーはもう終わったとばかりに椿へ報告した。
 襲いかかる二人を前に、椿は慌てない。ライダーが動かないということはもう戦闘は終わっているということだと彼女は知っている。
 左右同時に襲いかかるナイフは、かなり余裕を持って止まっていた。最初こそ自らに起こった事態を飲み込めずにいた二人も、すぐにその瞳から意思の光が抜け落ちる。それもその筈、この場に椿が乗り込んで数秒経っているのである。この距離で数秒もあれば、“感染”させるのは非常に容易い。
 ライダーの“感染”は無敵の盾と矛となり椿を守る。
 魔術師ならば常に魔力を体内に循環して対処することも可能だろうが、先の護衛役の通り口内などの粘膜に直接接触されれば一瞬で“感染”するだろうし、油断していれば傍を少し通り過ぎるだけで椿の勝利は確定する。
 さすがに向かいのビルにいる敵兵を昏倒し操るレベルの“感染”は不可能ではあるが、ライダーが無策にこの三カ所の中から一番高所を潰したわけではない。
 “感染”させられた射撃兵はいくらか抵抗はしたようであるが数秒もすればナイフを落としてふらふらと椿を狙った機関銃を手に取り他二カ所に設置してある機関銃を狙ってその弾丸を容赦なくぶち込んだ。
 無線機から聞こえる仲間と思しき抗議の声に応じることなく虚ろな顔をした射撃兵は役目を果たすとそのまま倒れ伏していった。
 人を傷つけるな、という令呪を受けたライダーではあるが、この“感染”についてはその命令の範囲外という認識を持っている。そもそも怪我と病気ではその意味が異なっているので、ライダーが気をつけるべき点は“感染”によって人の体組織を傷つけないようにするだけだったりする。
「なんだったんだろうね、ライダー?」
 機関銃の爆音を間近に受け椿は鼓膜を痛めたが即座に修復。椿の認識の追いつかぬ戦闘に椿自身は白昼夢を見たような気分である。
 幸いだったのは椿自身がこの事態を正確に飲み込めておらず、自らの命の危機を自覚していないことか。そうだったら宥めるのは大変だっただろうとライダーは思いながら打鍵をしつつ――
 ふと、違和感に気付いた。
 敵が、余りに弱すぎる。
 椿の身体を借りて周囲の様子を眺め見る。周囲三六〇度開けたこのビルの屋上は周辺観測にうってつけであり、恐らく椿の存在もとうの昔に把握されていたことだろう。無線機を用意しておきながら連絡を取っていないということはあり得ない。
「どうしたの?」
 ライダーの行動に訝しんだのか椿が問いかけるが「何でもありません」と打鍵することはできなかった。
 確かに、この陣形は攻略しがたいものだ。対人戦闘は無論のこと、対サーヴァントとしても機能するだろう。ライダーについて相性が悪かったとしかいいようがないが、これが噂に聞くアーチャーや、実際に戦ってみたランサーであれば何の障害にもならない。
 情報に疎いライダーでさえそれくらいのことに気付けるのだ、何故宝具すら持って待ち構えていたような部隊がそんなことに気がつかないのか。
 ライダーは考える。そしてその結果、ライダーの、椿の身体の動きは止まった。
 それこそが、敵の狙いだった。
 例えどれだけ強固な守りをしていようと、その守りに絶対の二文字はあり得ない。
 絶対防御の一例たるランサーの《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》一つとってもライダーがやったように凝縮した魔力で抉り削ればその質量を奪われいつかは綻びも生まれてくるように、何らかの弱点は存在する。ランサーの気配感知スキルや形状変化による高速飛翔は個々にただ存在するだけのスキルではなく弱点を補うための必然としてのスキルなのである。
 では、ライダーの場合はどうであろうか。
 ライダーには以前のような莫大な魔力はない。しかし、消滅を免れていたということは未だに八万人との感染接続は消滅しておらず、そこから微弱ながら魔力供給は行われ続けている。
 それらの魔力を用いてライダーは周囲数十メートルに魔力を帯びた粒子を浮遊させ即席の警戒網を構築させている。飛び散った粒子も感知と同時に急速凝固させ即席の盾となり敵の攻撃を受け止め逸らすことだってできる。
 継続的防御能力に難はあるが、バーサーカーの《暗黒霧都(ザ・ミスト)》同様に、この方法であればよほどのことがない限り大抵のことは対応できる。
 だが残念ながら、よほどのこと、というのは大抵の場合、戦争ではよくあることなのである。
 その宝具には、名前はつけられていない。
 理由は簡単で、宝具と呼べる威力はあってもいつも使用される特殊処理された銃弾と運用方法が何ら変わらないからである。注意点としては通常ハードプライマーよりも衝撃が大きいこと。そしてその強大な威力故に通常の弾道計算ソフトもあまり当てにすることはできない。
 だから、その弾丸が椿の頭部数センチ横を掠っただけなのは単純な幸運によるものだった。
 ライダーの違和感は正しかった。
 サーヴァントは人間には持ち得ぬ高い機動力を持つが故に、まず高所を狙う傾向にある。場所的優位を確保する意味もそこにはあるが、英雄ならではの性格によるところも大きい。実際、アーチャーは人を見下せる高所を好んでいるし、ランサーも警察署を根拠もなく上から攻めている。ライダーも、この程度ならあっさり倒せると踏んだからこそ、ここを最初に攻めたのではなかったか。
 元よりこの陣取りゲームのように配置された部隊こそ、最初から罠でしかない。わざと高低差をつけた三カ所に兵を配置したのも囮。遠距離からの狙撃を可能とする、遮蔽物も存在しないこの場所へと誘導される。
 極超距離からサーヴァントを仕留める威力の精密狙撃。視線すらも曖昧、殺気すらも届かず、その息遣いに気付くこともない。これなら、直撃すればサーヴァントを屠るに十分すぎる。
 一撃目が外れたことは単純な幸運ではあるが、それは同時に狙撃手が弾丸の性質を理解したことに他ならない。
 狙撃手の位置はおおよそ二〇〇〇メートルの位置にあるビルの上階のどこか。そして椿の姿は狙撃手には丸見えであり、例えこの場から飛び降りても恐らく弾丸から逃れることはできない。
 防御しようにもあの威力の弾丸を防ぐことはライダーの全魔力を一点集中させても無理であろう。そらすことだって難しい。“感染”させた敵兵三名を盾にすることも考えるが、防げる保証もなければ自由に操るだけの浸食もまだできていない。
 と、そこまで思考してみたがそれよりも重大な事実に遅まきながらライダーは気付いた。
『椿、大丈夫ですか?』
 ライダーが打鍵してみるものの、焦点のぼやけた椿の視界を見れば大丈夫でないことは明白だった。サーヴァントをも一撃で粉砕しうる威力の弾丸である。数センチ横を横切ったその衝撃だけで椿の脳は完全に揺さぶられ、急いで衝撃を緩和したくらいでは即座に動ける状態にはない。
 椿の脳の代わりにライダーが直接椿の身体を動かしてはみるものの、身体は明らかに重い。サブシステムとしてフラットから調整を受けたライダーはメインシステムである椿の許可なく身体を動かすことはできない。それは当然の安全装置ともいえたが、この場においてそれは無視できぬ隙であった。
 この場において椿を助けるためにはその機動性を発揮して狙撃手を攪乱させるくらい。周囲に撒き散らした粒子を濃くして視界を悪くさせてはみるが、狙撃手が熱源探知でもしていれば何の意味もない。
 あの威力であれば次撃まで通常よりも時間がかかるのが救いだろうが、そんなもの多少の域をでるものではない。
 人を傷つけぬというライダーに命じられた令呪の力がフラットのプロテクトを驚異的な速度で解除していくが、あののほほんとした男はその天才性をこんな状況で発揮してみせる。
 到底、間に合わない。
 椿の同意がなければ魔力によるアシストにも限界がある。何とかふらつく足取りで少しでも遠くに逃げだそうとするが、そんな行動は悪足掻きにすらならない。そして案の定、三歩も歩けば無様に転げて時間稼ぎもできはしなかった。こうなってしまえば、ライダーにできることはもはやただ一つだけ。
 祈ること、のみ。
 ライダーという存在すらあやふやな神域の悪霊が“祈る”などとは笑い話でしかないが、しかし奇跡とは“祈り”から発せられるものである。ライダーであっても椿の“祈り”によって誕生した存在であり、そのライダーが“祈る”ということには笑うことのできぬ意味がある。
 祈る。ただそれだけで、ライダーは、この窮地を脱してみせる。
 太陽は直上にあった。陽光を遮るものなど何もない場所だというのに、ライダーの視界には影があった。
 黒いマントに身を包んだ細身の女性。それはライダーが“祈り”の先に見た幻影か、それとも現実であるのか判断は付かなかった。
 ただ、
「安心して。もう、あなたを傷つける者は誰もいない」
 着弾する瞬間にそんな悠長な言葉を聞ける筈もない。だというのに、ライダーは確かにその女性の言葉を聞いたような気がした。

【……伝想逆鎖……】

 そしてここで奉じられた奇跡を前に、椿を守らんと全力を尽くしたライダーは、奇跡の目撃者となった。


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 世界に可能性は無限に広く公平に分散している。
 歴史に「もし」などはありえないが、未来に「もし」は溢れている。それは可能性という言葉で一括りにされているが、しかし果たしてどれくらいの人間がその可能性を認識しているのか甚だ疑問であろう。
 署長は甚だ遺憾ながらも魔術師や元軍人の肩書きを持ってはいるが本職は警察官であり、警察官のつもりでもある。そして警察官は名探偵ではないので容疑者のちょっとした仕草からインスピレーションを発揮して犯人を特定するようなことはほとんどしない。警察がするべきは地道で綿密な捜査であり、例えどれほど怪しくとも容疑者の全員の行動を調べ上げアリバイを調査する。だから、全てが判明するのは大抵は事件後のことであり、そこで辿り着きようやく「あの時の行動はそのためだったのか!」と手を打つのである。
 つまりは、何が言いたいかというと。
「お前の嘘が役に立つとは思いもしなかった」
「こんなこともあろうかと思ってな」
 署長の皮肉にキャスターは大まじめに大嘘をついてみせた。
 スノーフィールド市内にある誰もいなくなったビル、その地下で署長はモニター中の漏れ出た情報のデータ整理を行っていた。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の情報はほとんど除外してある。計画中枢近くにいた署長が知らぬ情報の方が少ないだろうし、問題はこちら側の情報が一体どれほど相手に流れたかを確認したかったのである。
 予想通り、こちらで用意した計画は全て流れ出ていることが確認された。ただし、その九割以上はキャスターが適当にでっち上げていた嘘であり、ダミー情報である。中には“上”の誰々とキャスターは実は繋がっており、全ては計画の内、などというものもある。相手を揺さぶるにはほどよい策であろう。
 特に署長が逃走中に令呪を使い切り、キャスターが一時的とはいえ令呪に従い消滅したことで、マスター、キャスター共に脱落したという疑いを持たせることにも成功している。これがどれ程通用するかは不明だが、これで一応のアドバンテージを持つことはできた。後はこれをどう活かすかが問題だ。
「やはり、ジャック――いや、もうバーサーカーと呼ぶべきか。あいつの情報が漏れ出たのは致命的だな」
「しかも当人も戻ってこないしなぁ」
 キャスターの言葉に自分で入れた不味いコーヒーをすすりながら署長は別に指定席でもないのに空けられている空席を眺め見る。
 あの《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》による情報漏洩以来、公共の通信網は完全に沈黙。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が密かに張り巡らせておいた非常時の通信網を暗号変換させて何とか連絡を取ろうとしているのだが、それでもバーサーカーから応答はない。
「端末から時折反応だけは返ってきているんだがなぁ」
「案外本人は既に消滅していて、端末は誰かに奪われたか」
 何とはなしに言った言葉が正解であるなどと、神ならぬ署長に分かる筈もない。
「……そんで? これからどうすんだよ、マスター?」
「そうだ、なぁ」
 キャスターの軽い口調の割と真摯な質問にマスター権を失ったマスターは頭の後ろで手を組みながら天井を眺め見る。
 情報の整理はある程度検討がついているのでおおよそ終わっている。
 その情報によると目下のところ最大勢力は潤沢な宝具を装備した戦闘経験豊富な人員を持つ古巣たる《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。そして人員こそ最大であるが装備に劣り非戦闘員も多く抱える北部丘陵地帯で専守防衛とばかりに沈黙を守っている原住民の二派閥に別れている。強いていうなれば、そこに無理矢理第三極として署長たちサーヴァント同盟を加えても良いかもしれないが、組織として戦うには残念ながら話にすらならない。少しヘマをしただけで全滅必至なのが現状である。
 そして何より、アーチャーとランサーという二大英霊がここには含まれていない。それが故に圧倒的優位な《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が迂闊に動けない現実がある。つけ込む隙があるとすれば、今しかない。
 今しかない、のだが。
「戦力増強……するしかないだろ」
「一体誰を?」
 実に真っ当すぎる方策に対してキャスターは至極真っ当な意見を返した。それで簡単に答えが出るのであれば、最初から悩みなどするわけもない。
 ここにバーサーカーがいたのであれば、ひとまずマスターであるフラット・エスカルドスと同盟もできたであろう。更に、夢の中で共闘したらしいティーネ・チェルク、繰丘椿、銀狼との交渉も考えることもできた。だが、そのいずれも今はどこにいるのかようと知れない。
 つまるところ、即時戦力増強は絶望的という結論だけが出た。
「……そういえば、あの二人はどうした?」
 結論が出てしまったところで話題をかえようと署長は広さだけは無駄にある部屋の中を眺め見る。
「なんだ、あの錯乱状態を見ていなかったのか?」
「何のことだ?」
 やるべきことが多すぎてこの建物内を調査していた署長はその間にあった悶着については何か騒ぎがあったぐらいの認識でしかない。
「何でも、この建物には入れないらしい」
「……何を言っているんだ?」
 前後の会話とキャスターの言葉の繋がりが署長にはよく理解できなかった。
「俺にも分からん。しかし症状だけ見るとありゃ呪いの類にしか見えないな。もしくは悪魔が憑いている。とにかくこの建物には入らないと一点張りだ。仕方なく隣の平屋に入ってる」
 肩を竦めて説明をするキャスターではあるが、戦略拠点として自家発電施設があり、逃走ルートも確保でき、適度な物見もできる高さのこの建物は非常に優良物件である。一体何が不満なのか教えて欲しいくらいである。
 以前にも何か見たくない幻影を見たとかで酷く怯えていたこともあり、キャスターとしてもこれ以上の不安材料は抱えたくないのが本音ではある。
「一応聞いておくが、その呪いとやらは解呪できるか?」
「いや、残念ながらあの令呪の魔力が強すぎて判別ができなくてな」
 言葉を濁してキャスターは署長に報告してはみるが、ただの精神疾患という可能性もある。そして残念ながら、現状ではそうである可能性が非常に高いと言わざるを得ない。それを報告したところで改善する見込みがないのなら、ここは黙っておいた方が得策であろう。
「まあいいさ。ならアサシンは付き合って隣に行ったのか?」
 キャスターが何かしら隠しているのに気付かぬ署長ではないが、令呪を持たぬ署長とキャスターの関係は同等だ。無駄な追及は不和を招きかねないと考え、署長は露骨に話を切り替える。元より署長が気がかりなのはアサシンの方である。
「いいや。アサシンなら周囲を偵察してくるってよ」
 キャスターと接触する以前から二人で行動していたと聞いていたので勝手な推測をしたが、署長の予想に反してアサシンは単独行動をしているらしかった。何となくではあるが、あのアサシンは常に誰かと共にいるイメージが署長の中にはある。
「殊勝だな。だがこの辺りのクリーニングは終わっているだろう?」
 市内に仕掛けられたカメラにはどうしても死角があるし、一連の戦闘行為でダメになったものも多い。特に内蔵バッテリーを持たぬカメラは停電になった段階で死んだも同然である。それについては既に確認済みの筈だ。
「ああ、だからちょっと遠出してもらって、どうせなら中央通りに構えている《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に隙があれば突っ込んでみろとアドバイスしといた」
「……それは全然大丈夫とはいえないような気がするのだが?」
 それ以前に一応は同盟なのだからそういうことは早めに連絡して欲しい。そして、それは偵察とはいわない。
 署長の非難の視線の意味くらいはわかるのか露骨に視線を逸らせるキャスター。だが別に何となくで頼んでみたというわけでもない。
 アサシンは実を言えば非常に優秀なサーヴァントだ。アサシンというクラスでありながらそのパラメーターは異常な程高く、聞けば宝具の種類も数多く応用力もある。歴代のアサシンと比肩しうる者のいない破格のサーヴァントなのは間違いなかった。
 だというのに、明らかに格下であるバーサーカーに一度ならず敗北したとも聞いているし、先だってのアーチャー戦においても同等以上の戦力を持ちながら歯牙にも掛けられなかった不遇っぷりである。
 そしてその原因は明かな経験値不足に他ならない。
 今、アサシンに必要なのはそこらへんに散らばる雑兵でも、ラスボス級のアーチャーでもない。適度に強く歯応えのある中ボス級の敵である。
 その意味では、拠点防衛をしている《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は難易度は明らかに高いが試験対象としては相応しい……とキャスターは思っている。端的にいって負けるだろうが逃げるくらいはできるだろう、くらいには。
「いや、無理だろ」
 キャスターのその考えに真っ向から首を振って署長は否定するが、その気持ちは分からなくもない。
 情報漏洩以前の問題として、こうした現状ともなればあの場所は真っ先に占拠対象となる地点だ。となれば別に署長やキャスターでなくともどういう陣形となるのかは簡単に予測がつく。
 遠目でしか確認していないが、あの兵数からしてアーチャーやランサーといったサーヴァントに対応できるとも思えない。となれば、あそこに配置された兵は捨て駒だ。本命はどこか遠くで構える超遠距離からの狙撃に違いない。
「一応、どういう陣形と作戦かは教えておいたぜ? 狙撃があるとも言い含めておいたし」
「使うとしたら《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》の試作品である宝具まがいの銃弾だろう。あの弾速を躱せるのか?」
 事前に分かっていたとしても、恐らくは無理だと署長は判断する。
 狙撃である以上、狙撃手がどこにいるのか判断するには最初の一発を撃たせる必要がある。そしてよしんば撃たせて場所が分かったところで、数キロ先にいる狙撃手を仕留める手段がなければ意味がない。
 制圧だけならアサシンでもなんとかこなせるだろうが、その後の狙撃は無理だろう。防御・回避・反撃、その全てにおいてベストな行動を取らねば攻略は不可能だ。アサシンにそれを可能とするスキルやスペックはあろうとも到底こなせるとは思わない。
 キャスターにしても、その結論は同じ筈だ。
「実戦経験を積ませてレベルアップ、というつもりか?」
「無駄……にはならないと思いたいねぇ」
 署長とキャスターとの一番の違いはキャスターはこの戦争を盛り上げたいという意志があるというところだ。そのためには無駄であろうとなかろうと、そろそろアサシンに活躍の場を設けたいところなのである。署長としてはこれでアサシンという手札がなくなる方がよっぽど恐ろしいのだが。
「せめて、前線に出られる兵士が数人いればいいんだがな」
「俺に期待するなよ?」
「お前を出すくらいなら私が出た方がよっぽどマシだな」
 軽く笑いはするがその声は乾いている。実際、最悪の事態に陥ればそうした状況もあり得るのだ。
 戦力増強。それが最優先課題となっているのは間違いない。
「仕方ない。私はバーサーカーの情報を少しでも集めることにしよう。キャスターは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と原住民以外で戦力になりそうな人物を探してくれ」
「そうそううまくいくかねぇ」
「いかせるんだよ。っと、噂をすればアサシンが帰ってきたようだな」
 署長のノートパソコンにはエレベーターが起動したことを示す表示が点滅している。電源は完全に落ちているように見せかけてはいるが、実際には自家発電によって稼働できるように細工をしているのである。これが特殊部隊なら閉じ込められる可能性のあるエレベーターなど使わず階段を使って突入してくる筈だ。
 だが署長の言葉にキャスターは珍しく怪訝な顔をしてみせた。
「どうした?」
「……帰るのが早すぎる」
 署長はキャスターからアサシンが出かけた正確な時間を聞いてはいない。だが、あの拠点を偵察するには数時間は要するだろうし、攻略をするのならばもっと時間はかかる筈である。
 エレベーターにカメラは設置されていない。この建物は防音対策もされているので足音なども聞こえない。
 腰のホルスターから署長は静かに拳銃を抜き放ち、キャスターも壁に立てかけてあったソードオフショットガンを手にする。誰にも当たらぬキャスター本来の宝具ではあるが、己の魔力を込めねば普通に銃としても使用できる。
 使っていたテーブルを蹴飛ばして即席の盾を用意する。
「なあ兄弟。ひとつ賭けをしようぜ」
「誰が兄弟だ。それで、どんな賭けだ?」
 いつも通りの軽口を叩いてみせるが、これから現れる人間が誰かによって、二人の運命は大きく変わってくる。
「これから現れるのは、男か、女か、だ」
「敵か味方じゃないのか」
「それじゃつまんねえだろ」
「じゃあ、私は女にしておくぞ。若い女性だ。というかもうアサシンでいい」
「何だとっ!? 俺に男を選べというのか!? イヤだ。俺も女が良い!」
 割と本気で抗議するキャスターに呆れながら署長はノートパソコンに表示されたエレベーターが地下に降りたことを確認。テーブルの端から顔を覗かせてその時を待つ。キャスターも逆側から同じ事をする。
 そういえば女癖の悪さもこの英霊の特徴の一つだったと今更ながら署長は思い出していた。そして革命を経験している分、戦闘経験もそれなりに豊富だったことも思い出す。
「じゃあ、俺はもっと幼い可憐な美少女に賭けよう! ボーナスチャンスで一気に倍率ドンだッ!」
 何がボーナスで何がチャンスで何が倍率ドンッ、なのかは知らないが、署長とキャスターはそうした言葉の応酬の最中であっても油断はしていない。自らの装備をチェックして、退路を確認する。データ解析の途中であるノートパソコンを持ち逃げたいところだが、そこは邪魔にしかならなさそうなのですっぱりと諦める。
 この部屋の入り口は三カ所ある。前方に一カ所、後方に一カ所、後は地下の下水道へと通じる隠し扉が一つある。数年前までとある犯罪組織が使用してきた曰く付きの秘密基地である。こうした時の備えは万全だ。
 まあ、その組織を壊滅し全員検挙したのは他でもない署長であるのだが。
 玄関が開く音がした。廊下に敷き詰められた厚手の絨毯は廊下を歩む音を消し去る。今更ではあるが、攻められたときの備えを完全に怠っていた。わずか数時間で行えというのも無理からぬ話ではあるが、少なくとも絨毯は取り払っても良かったかも知れない。そうすれば人数くらいは把握できただろう。
 そして、ドアノブが回り、二人がいる部屋へと侵入者が現れ出でる。
「……何を、しているのですか?」
 一目見てこの状況を看破したアサシンの呆れたような一言に二人はどっと疲れた顔をしてみせた。額の汗を拭い取り、拳銃をホルスターへと戻しておく。緊張の糸が切れれば、喉が渇き腹が減ったことにも気付くものだ。
「……ほらな、私の勝ちだ。夕飯はキャスターが作るんだな」
「いや、勝ったら何かするか決めて――」
 ほぼ同時に、二人の視線は一点に収束される。
 疲れているのだろう、と二人は思った。
 何せ、こちらは潜伏中のお尋ね者。この地にいる以上袋の鼠に違いはなく、このままだと追い込まれるのは間違いない。自らの力で状況の打破は難しく、蜘蛛の糸より細い希望に頼るより他はない。ろくな睡眠どころか休息すら取れぬ中、ストレスは今がまさにバブル期真っ盛り。
 大抵の薬物には軍人時代に耐性をつけていたりする署長であったが、時折ドラッグの後遺症とも思える症状にうなされることもある。これまた大抵の悦楽を金の力で叶えてきたキャスターであるが、こうした禁欲生活に慣れている筈もない。
 両者の結論は同じだった。
 やはりストレスには勝てなかったようである。
「そういや以前健康診断とかいう名目でサーヴァントの脳内を調査してたけどさ、俺の視覚野と聴覚野がともに高い活動レベルにあったらしいんだよ。リアルな夢を見たり幻視や幻聴があってもおかしくないってよ」
「ふむ。しかしリアルな感触がある。視覚連合野に送り込まれる映像、体勢感覚野によって得られる感触、それら脳内ハイウェイのどこかに直接実在し得ない筈の疑似情報が送り込まれてるみたいだな」
「おお。集団幻想とかいうやつだな。本当に手触りがあるような感触がくる。しかし惜しいな。せっかくなら絶世の美女を願ってればよかったぜ」
 現実主義者の署長と快楽主義者のキャスターに頭をごしごし撫でられながら怯えて何も言えずにいる椿を見ながら、アサシンはやはりここに連れてくるべきではなかったと少しばかり後悔していた。


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 その宝具の名はその開発コードをそのままとって《ノア》と名付けられている。その名からも分かるように、元となったのは旧約聖書の創世記に登場するノアの方舟そのものである。
 アララト山で発掘された断片は既にその機能を失いつつあり、キャスターの力量を以てしてもその断片が真価を再現するには至らなかった不遇の宝具である。だが、かの大洪水に耐えるべく作られたこの宝具は現代においてなおその機能を所有者不在のままに効果を発揮する。
 その効果は、
「局所的時間停止――いや、時間遅延ってところかな」
 そんな結論を、ランサーは実を言えば罠にはまる前から気づけてはいた。
 ギルガメッシュ叙事詩にも登場する方舟である。実を言えば生前にその作り方を耳にした記憶もある。確か当時の触れ込みは時間遮断の域にあった筈だが、皮肉にもどうやら長い年月で劣化しきってしまったらしい。
 とはいえ、別段懐かしさからランサーはこの《方舟断片(ノア)》に取り込まれたわけではない。通常のサーヴァントであればこの結界から脱出するのさえ困難であろうが、ランサーに限っていえば例外である。いつでも脱出できるのだからいっそのこと敵陣深くに侵入しようという魂胆であった。
 最初は、であるが。
「しかし、困ったことになりました」
 《方舟断片(ノア)》の結界は時間遮断ではなく時間遅延である。それ故に周囲の光や音といったものも時間の影響を受けてはいるが当然出入りしている。こうしたランサーの呟きも外に筒抜けなのだが、ただの人間にこれを聞き取ることは不可能だろう。《方舟断片(ノア)》の内側と外側での時間差はおよそ一〇〇から二〇〇倍で一定すらしていない。それは結界内側にいるランサーにもいえることであったが、人ではないランサーにとって何倍速で話されようと言葉を理解するのは然程難しいことではなかった。
 だがこうして情報収集している間にきな臭い話になってきた。
 時間としてはランサーが捕獲されてから約半日後のこと。詳細は不明であるが、どうやら親友の手によってスノーフィールドの街は大惨事になっているようである。実際に見ていないので何ともいえないが、街がゴーストタウンと化したという話はあちこちから聞こえてきた。だが、それだけならランサーにとっては些事に過ぎない。
 問題は、その直後にこの結界に囚われた者がランサーだけではなくなった、という話を耳にしたからである。しかもそれが一人どころではなく、全員が知己ともあれば尚更である。いや、まだ知古程度であればまだランサーも悩まずに済んだともいえよう。
 召喚されてから、ランサーが助ける義理を持ってしまったのは己がマスターを保護し助けたティーネ・チェルク、フラット・エスカルドス、繰丘椿の三名だけ。他のマスターや親友を除くサーヴァントならば容赦なく見捨てるつもりであった。
 だが、捕まったマスターは事もあろうに無視するわけにはいかぬ者ばかり。
 ティーネ・チェルク。
 フラット・エスカルドス。
 そして――マイマスター。
 さすがのランサーもどうしようと悩まざるを得なかった。これは何かの試練だろうかと思わなくはないが、単純に敵がこちらの予想よりも数枚上手であっただけだろう。
 ランサーが銀狼と長時間離れて行動していたのは単純にその方が見つかる可能性が高くなるからだ。森の中でランサーがいればどうしたって目立つし、どんなに素早く動けようと視線という網の目を全てかいくぐるのは不可能に近い。街中に出てこない限り銀狼は単体で行動していた方がよっぽど安全な筈であった。
 マスターの状況を完全把握しているわけではないが、怪我が治ったばかりの体力不足もあってよほどのことがない限り銀狼はあの場から動くことはしない。むしろ、何か動かざるを得ないような事態があればパスを通してその感覚は結界の内外を問わずに共有できる筈。
 だというのにそれすら、ない。
 外界での時間はわずか一日足らず。その間に銀狼の位置を特定し気付かれる間もなく捕獲してみせるその手際は鮮やかを通り越して異常過ぎる。これはもはや練度がどうとかの域ではない。
 すぐさま結界を壊しマスターをはじめ他二人を助け出さなかった理由はそうした不可解な状況を早急に打破すべく、情報収集が必要と感じたからだ。
 幸いにも結界に囚われたということで脱出こそ難しいが、その身の安全は保証されているともいえる。
 しばらくは、であるが。
「……やれやれ」
 状況把握に努めようと耳を欹てても入ってくる情報は真偽も分からずどれもこれも断片的な上に暗雲立ちこめるものばかり。やはり場所柄、入ってくる情報にも限界があった。大袈裟にため息をつきたくなるところだが、そこは一応自重しておく。
 ランサーが封印されているのはスノーフィールド中央地下にある格納庫内の片隅である。普通こういった捕虜を幽閉するのは狭い独房と相場が決まっているが、諸事情によりそうもいかなかったらしい。情報源たる見張りの愚痴によるとランサーを捕らえた一辺十メートルの立方体(方舟断片(ノア))は比較的大型のものらしく基地内でもこの場所ぐらいしか置いておくことができなかったようである。
 だがそのおかげで《方舟断片(ノア)》を壊す真似をせずにランサーは情報を集めることができた。
 格納庫に出入りする人通りは激しい。ランサーが封印されているとはいえこの地下格納庫は当然のように大型重機や魔力の香り漂う航空機が鎮座していたりする。出入りしているのはそうした機器の整備兵なのだろう。中には封印されたランサーに危機感を抱いていない者も多く、中には写真を撮る者まで出る始末。程度は低くとも雑談だけでも情報には事欠かない。
 その雑談から他三人の状況を推測するに、ランサーよりもかなり小型の《方舟断片(ノア)》がいつでも移動できるようトラックの荷台で管理されているらしい。結界を解いて殺していないところから、彼らの役割は人質なのだろう。
 サーヴァントであるランサーはこうして封印するだけで意味はあるが、捕まえたマスターについては他のサーヴァントを釣る餌として十二分に機能する。特にティーネと銀狼が捕まったとなれば親友が動かぬ筈もない。
 そう予測できるだけに敵の作戦は明白。狙いはアーチャーただ一人。親友をおびき寄せ罠に嵌め自らの優位を持って殲滅する。いくら単独行動スキルがあるとはいえこの挑発に親友は乗らざるを得ないだろう。
 作戦の詳細までは掴めなかったが、決行日時と場所は掴んだ。そしてひっきりなしに格納庫で人が駆け回り運搬用トラックが何台も出て行っているところからかなりの数の実働部隊がこの作戦に参加するらしい。
 慌ただしいことだと思いながら、ランサーはその時を待つ。
 本来ならもっと時間がかかると踏んでいただけに計算違いではある。何でも、スノーフィールド市内における重要拠点が奪われたとかで作戦が前倒しになったせいらしい。敵さんも計算違いのようであれば、つけ込む隙はそこになるだろう。
 罠に飛び込むのが親友たるアーチャーなのは確定だ。後はバーサーカーとアサシンが乗り込む可能性が高い程度。けれども罠の中央にいる筈のマスター達に辿り着いてもこの《方舟断片(ノア)》から解放する手段がそうあるとも思えない。
 だからこそ、ランサーは作戦開始丁度一〇分前に無造作に槍を振るった。
 元来、《方舟断片(ノア)》における時間遮断は種の保存という神の指示によるもの。しかし宝具内部の空間容量には限度がある。恐らく個々にばらけたことでその機能と容量限界がかなり落ちたのだろう。その証拠にランサー一体を内包するだけで内部の時間経過にもムラができ、本来の機能に遠く及ばない性能まで劣化してしまっている。
「「――――!!」」
 二人の見張りは異変には気付いたが、それ以上のことには気付けなかった。声を出すことすらもできずにその首は床へと無慈悲に落ちていった。当然だ。あの時間の檻の中にあって通常通りに動くことなど予測できる筈もない。
 彼らにとって不幸だったのは時間遅延という機能上(方舟断片(ノア))についての十分な限界値を調べられなかったことにある。キャスターでさえ、方舟の断片を強力な時間遅延結界としてしか認識できていなかったのだから当然であろう。
 ランサーが突いたのは《方舟断片(ノア)》の欠点。種の保存を使命とする宝具は結界内部の生体数が増すにつれて脆くなる性質を併せ持つ。通常であればサーヴァントであろうとどうにかなるものでもないが、ランサーが振るうのは生命の記憶そのものともいえる創生鎗ティアマト。例えオリジナルの方舟がもつ時間停止の結界であっても許容量を遙かに超える種を蓄えるその槍はオリジナルであろうとも軽々と刻みこむことができる。
 振るう一撃で《方舟断片(ノア)》と見張り二名を無力化。そして、再度振るった二撃目で格納庫内の悉くを上下に分割してみせる。人も、重機も、そして格納庫の柱そのものさえも。
「……さて、残り一〇分で作戦開始。なら急がないとね」
 この場が地下にあることは事前に知っている。可能ならこのまま地下深くに降りて“偽りの聖杯”をどうにかしたいところだが、先にマスターである銀狼を殺され消滅してしまう可能性の方が高かった。ランサーにはこの地下格納庫を壊すことで時間稼ぎをし、その間に銀狼を助ける必要があった。作戦開始一〇分前という時間も狙ったのもそのためであるし、横合いからイレギュラーが飛び出す頃合いとしても丁度良い。
 作戦開始は正午きっかり。それまでにランサーは崩れゆく地下格納庫から脱出し罠が張られたスノーフィールド南部砂漠地帯を強襲せねばならなかった。
 落ちてくる天井の鉄骨を眺め見ながら、ランサーは天井を貫き南へと隼の速度で駆けだした。


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 ランサーが《方舟断片(ノア)》を破壊し脱出するほぼ半日前、日付が変わろうとする深夜、北部丘陵地帯に構える原住民達の要塞にある一室に三つの影があった。
 その内の一つはスノーフィールド原住民を現在統括する三人の相談役の内の一人、そして後の二つはキャスターのマスターである署長と、ライダーをその身に宿した繰丘椿である。
 相談役は明らかに歴戦の勇者にして現賢者といった壮観な顔つきであり、それに負けず劣らずの気迫のある署長に囲まれ、椿はただ一人恐縮をしていた。ライダーが必死になってそんな椿を慰めようと左手で携帯電話を操作するが、それもどれだけ役に立っているかは分からない。
「ふむ。どうやら、あの情報は本当だったようですな」
 そんな椿を相談役は一瞥して情報の真偽を確認した。夢の中での戦闘は《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》によって原住民にも伝わっているが、それ以降については何も知らない筈。だというのに、ライダーが未だ健在でしかも椿の中に存在していることに驚きもしなかった。
 端から見れば重圧に耐えきれず携帯ゲームに興じる少女にしか見えないが、その所作は所々に不自然。それでいて椿の筋肉をほぐしているのか身体の随所に魔力が巡っている痕跡がある。怪しむことはできようが事前に情報を仕入れておかねば解答に辿り着くことはできないだろう。
「なかなかに耳聡いですな」
「なに、お主より多少知っているに過ぎん」
 ブラフかとも思い、探りを入れようとする署長に対しティーネの叔父を名乗った相談役は軽い挑発をもって返してきた。
 敵同士ということもあり、両者の間に火花が散る……なんてことはない。末端はともかくとして仮にも互いにトップに近い者同士、私怨をもって行動するような恥ずかしい真似はできようもない。せいぜい外交として右手で握手しながら左手で殴りあうくらいのものである。
 しかし情勢が動いたとはいえ互いに敵であることには違いがない。本来であればこの場に両者が面と向かっているのもあり得ない光景なのである。そしてそんな光景を可能としたのも、誰であろう両者の間で縮こまっている少女の存在に他ならない。
「そんな携帯電話では会話に不自由するだろう。これを使いたまえ、ライダー」
 署長の存在など無視するかのように相談役は懐から無造作に片手サイズの機器を取り出す。拳銃といった火器を署長は持ってきてはいないがボディチェックを受けてもいない。万一署長が拳銃を持ち、相談役が取り出すのが拳銃と勘違いしていたら大事にもなりかねぬ暴挙である。
 だがそれもすべて相手の行動から心の内を推測する手段に過ぎない。署長は挑発後の行動であったというのに指先一つ動かしはしない。その様子を相談役は視界の端でしっかりと観察している。
「えっと、これは何ですか?」
 左手首をバンドで固定すれば左手の指がその機械のボタンやスイッチにフィットする形となる。少し不便ではあるが、常に携帯電話を持ち続けるより自由度は大幅に増している。
「それは意思伝達装置だな? こんなものまで用意していたのか?」
「その気になれば心臓移植もこの要塞内で可能だ。ライダー、悪いが操作をレクチャーする気はない。勝手に試して覚えてくれ」
 署長の言葉に気軽に応える相談役だが、その実要塞内の充実ぶりを誇示しているに過ぎない。でなければこんな稀少かつ必要性の低い機械が用意されている筈がないのだ。
 後半の相談役の言葉にライダーはしばし警戒しながら魔力を用いて機械の中を走査。安全を確認すると内部のプログラムを器用に読み取りながらものの数秒で操作方法をマスターする。
『ありがとうございます、ミスター』
「礼には及ばんよ」
 ライダーが操作しているのは本来であれば筋萎縮などで意思疎通が困難な者のために作られた音声発生装置だ。時にミリ単位の操作も必要となるが、慣れればリアルタイムで話すことも難しくない。
『これで椿ともお話ができます』
 音声システムは旧式なのかややたどたどしい言葉が発せられる。椿もテキストでのやりとりはライダーらしくないと思っていたのだ。
「良かったね、ライダー。おじさんもありがとう!」
 単純にライダーとの会話に喜ぶ椿ではあるが、署長としては素直に喜べぬところである。これでライダーは意思疎通のために声を出さねばならぬデメリットを得てしまった。携帯電話がなくなった以上、文面でこっそりと会話することができなくなったのである。プレゼントと称して内緒話を封じられたのは拙かったのかも知れない。
「夢の中での共闘は私の耳にも入っている。族長が守ろうとした御仁だ。丁重におもてなしをするのも当然であろう」
 好々爺然とした態度で椿に接してはいるが、これは明らかに署長はその範囲外であるということだろう。
「それで――一体何用かな、キャスターのマスター殿? いや、この際だからスノーベルク市警署長様とでも言った方がいいかな?」
 その言葉はもはや部下と令呪を失ったという皮肉と共に、署長の奸計の一端を的確に表していた。
 わざわざ部下に対しても署長という役職で呼ばせていた理由がこれだ。スノーフィールドには二つの市があり、警察署もそれぞれの市に別個にある。だがスノーフィールド市警の規模があまりに大きすぎるため周辺住宅街が主な管轄エリアとなるスノーベルグ市警は協力関係でありながら下部組織として見られることが多かった。だから、そこを署長は利用した。
 スノーフィールドの警察署長には違いない。しかし、スノーフィールド市警署長ではない。そうした誤解を招く言い方によってバーサーカーは結果的にランサーを《方舟断片(ノア)》の罠へと嵌めてしまったわけである。
「その肩書きは――いや、そのまま署長と呼んで欲しい」
 もはや《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の隊長でもなく、令呪を失った今キャスターのマスターとも面と向かって名乗れぬ以上、守るべき民がいなくなった街ではあっても彼はスノーベルグ市警の署長であることには違いなかった。
 そんな署長の葛藤を知ってか知らずか、相談役の言葉に返答をしたのは間で空気を読み取ろうと必死であった椿からだった。
「てぃ、ティーネお姉ちゃんを助けたいんです!」
 祖父と孫ほどに年の離れた者に頼みごとをするなど椿にとってはかなりの勇気を必要としたが、それだけに必死さだけは相談役にも伝わってきた。
 椿にとってティーネは間違いなく大切な人だ。過ごした時間こそわずかであるものの、椿の孤独を救い、癒やし、家族として迎え入れんとしたのは他ならぬティーネ。そして、椿はまだあの時の答えをティーネに伝えてはいないのだ。
 ティーネに会いたい。そのためなら、椿は何だってしてみせるだろう。
「……ま、それ以外に用件はないわなぁ」
 そして二度、相談役は無造作に懐に手を入れた。ただし今度出してきたのは先のような立体的なものではなく、一枚の紙切れ。それについては椿も署長も見覚えはある。陽が落ちようとする一時間ほど前に古典的ながら風船を使って市内全域にバラ撒かれた紙切れ。ご丁寧に魔力を介さねば中身は読めないようになっている。
 内容は実にシンプル。アーチャー、ランサー、アサシンのマスターを明日正午、南部砂漠地帯にて処刑する、とだけ書かれている。交換条件すら書かれていないこの紙は執行通告書に他ならない。
 小細工無用、助けたければこの場に来い。そうした挑発が透けてみるかのよう。それだけに、無視することなどできはしない。
「私としても、このマスターたちを助けたい」
 相談役の顔色を窺いそうした共通認識を持っていることを確認してから頭を下げる署長。椿も慌てて同じように頭を下げるが、この場での違和感に気付いた様子はなかった。純真無垢、椿のそうした態度を署長は最大限に利用する。
 椿は理屈ではなく、心で動いている。その様子に相談役は苦笑した。
「中々面白いことを言うではないか。処刑されるのは我らが族長。頭を下げるのはむしろ我々ではないか」
 先に頭を下げ交渉の矢面に立つ署長に言っているようではあるが、相談役の言葉は椿へと投げかけられたものだった。
 そう、処刑されるのはいずれも署長には直接面識のない者ばかり。むしろ敵として殺し殺されるのが普通の間柄。それをわざわざ敵陣に乗り込んでまで助力を請うのはおかしな話なのではある。
 勿論署長には署長の目論見がある。そのためにはここの原住民の協力は必要不可欠であり、当初は諦めざるを得なかった。繰丘椿、というカードを得る前までは。
 ティーネと椿の関係性は既に周知の事実だ。椿がティーネを助けたがるのも自然なことであり、椿と同盟を結ぶということで署長は原住民との協力の切っ掛けを得ることに成功した。これが署長だけなら話を聞くこともなく殺されていた。未だもって綱渡りに違いないが、署長からすれば大きな前進である。
「だが、残念ながらそれはできぬ相談での。我々は既に当の族長から無駄に兵を消費することを禁じられておる」
 そして案の定、相談役は椿と署長との協力要請を拒否してきた。
 理由としてはもっともであり、そして実際にそうした命令をしたという情報も漏れている。命令直前に急進派の相談役を粛正したということもあり、こうなることは予想通りである。
 原住民が積極的に動くことはない。それは族長の命令に逆らうことでもあり、アーチャーの籠城策に異を唱えることにもなる。確かに族長たるティーネの処刑は原住民にとって大変なことではあるが、原住民とて軽々に動くわけにはいかないのである。
 そして、アーチャーとティーネのそれぞれの指示は決して間違いではない。
「そんな! ティーネお姉ちゃんを見捨てるって言うんですか!」
 椿の悲痛な言葉に相談役も無碍にはできず返す言葉は優しかった。
「ワシらとて救いたい気持ちに変わりはない。だが、これは戦争なんじゃ。迂闊に動くことはできず、必要ならば涙を呑んで姫様を犠牲にせねばならぬ時がある。今が、そうなんじゃ」
 見捨てることで、原住民にも得るモノがある。それは時間だ。
 新たに《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率いることになったファルデウスが何故にこうも性急な作戦を決行したのか、それは短期決戦を望み、数日以内に戦争終結を目指すことにある。
 スノーフィールドの異常性はもはやどうやっても隠しきれるものではない。このような事態になった以上、外からの介入と同時に戦争は終結させられる。教会と協会はどんな犠牲を払ってでもこの“偽りの聖杯戦争”をなかったことにするに違いない。
 傍観していただけの原住民にもペナルティがあるだろうが、このスノーフィールドの霊脈を管理する観点から排除される心配はない。結果的に他勢力は全て取り除かれることになれば、それは原住民にとって十分戦果に値するものだ。
「それに、南部砂漠地帯に戦力を派遣するだけでもワシらには無理じゃろう」
 相談役の諦めた声色もまた事実。
 この原住民が現スノーフィールド最大派閥であることは間違いない。だが、これは純粋な数としての話。女子供も数多く、戦える者はあまく見積もって四〇〇人。前線で戦える者はその半分にも満たない。この要塞の防備を崩し部隊を編成したとしても太刀打ちできるだけの戦力を用意することはできない。
 それに、この要塞はスノーフィールドの北部。南部にある砂漠へと行くには長く行進せねばならず、いくら街中央拠点が失われたとしても決して安全に行き来できる場所ではない。
 彼らができることは最初からひとつだけ。
 英雄王の裁きが下されるのを座して見るのみ。
 祈ることさえ、そこにはない。
「……いいのですか、それで?」
 端的な署長の言葉に相談役は黙らざるを得なかった。
 彼らの行動は臆病者の誹りを受けても仕方ないものだ。そこに戦略論を振りかざして行動を正当化したとしても、後々あの英雄王と良好な関係が築けるかといわれると疑問でしかない。
「アーチャーは勝手気ままに独自行動をとっています。そしてこの地を拠点とすることもしない。原住民はアーチャー陣営とは名ばかりの完全に盤外の集団と成り果てますが――それでもよろしいのですか?」
 意地の悪い言い方を署長はする。
 実際、アーチャーは聖杯戦争四日目からこの要塞へ帰っておらず、連絡もとれてはいない。この状況で原住民が傍観に徹し、ティーネが処刑されることがあればアーチャーと原住民との関わりは完全になくなることになる。
「“蛮勇”ならば、族長が自ら示しておられる」
 それで代償となるとは本人も思っていないだろう。相談役の一人で英雄王の信頼に応えるべく散っていった者もいる。彼を見習うのは簡単だろう。身内の一人として、その生き様に胸を打たれぬわけがない。
 だが、自己犠牲を強いるにはこの原住民の組織は大きくなりすぎていた。守るべき家族を持ち、まとまることで精一杯な手足があり、そして最小の犠牲で目標へ至れる道標が目先にちらついていた。
 これは安易な妥協ではない。
 考え抜いた末の、苦渋の決断なのである。
 英雄王が彼らのそうした言いわけを聞くとは思えない。だが、理解はしてくれるだろう。相手にする価値はないとして今後の関係悪化は免れまいが、視界に入らぬ小物にわざわざその手を下そうとする性格ではない。
『……ならば何故、我々に会って下さったのですか』
 そこにためらうように質問してきたのはライダーだった。
 既に椿を超えた知性を持った彼である。この相談役が何を思って椿だけでなく署長同伴でこの場で会ったのか、その解答を得ていながらあえてライダーは言葉に出した。それがこの場での役割だと、ライダーは自覚していた。
 実をいえば、この場での会合は交渉などではない。椿も署長も、共にサーヴァントを失ってはいないが令呪を失った状態。表向きには聖杯戦争に敗退したマスターを保護する、という名目を持って行われている。
 勿論、一陣営に対してそんな応対をする義務はない。会う必要などどこにもない。
 だから、署長は賭けたのだ。義務はなくとも、椿に対しての義理があると信じて。
『我々だけでは、助けられません』
「あなた達だけでも、助けられない」
 ライダーの言葉に署長も続く。そして、椿もその言葉に続いた。
「協力すれば、お姉ちゃんたちは助けられます!」
 三者の畳みかけは些か演技が過ぎた。別に狙ったわけではないが、署長はこうなるだろうと予想はしていた。そして、相談役もこの展開になるだろうと思っていた。
 生き残った三人の相談役はいずれもティーネを慕う者である。彼らとて、内心としては族長を助けたいが、立場がそれを許さない。
 署長とキャスター、アサシンというティーネと縁のない者がこの救出のためにその命全てをベットしたとしても、彼らは信用しようとはせずに傍観し続ける。だからこそ、椿という存在が両者の鎹となる。
「嬢ちゃん」
「は、はい!」
 しばし沈思した後の相談役の声に、椿は緊張しながらも応えた。
 椿の覚悟は本物だ。例えそれが子供の覚悟だとしても、椿は単独でも砂漠に乗り込むつもりだし、それでどのような目に遭おうとも後悔はしないと決めている。ここでティーネたちを見捨てれば、椿は生涯後悔することになるだろう。
 だからこそ、相談役は椿を試す。
 ティーネと椿の信頼関係ではなく、署長と椿の関係を。
「そこの男が、嬢ちゃんの両親を殺したことは、知っているかな?」
 無造作に相談役が指さす先に、署長の姿がある。
 《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》によって漏れ出た情報は数あれど、その恩恵を受けぬ者もいる。それは単独行動をとっているアーチャーであったり、封印中のランサーであり、休息で意識不明のフラットであり、そして情報収集の術を知らぬ椿である。実際、椿は流出した情報について何一つ自分で調べてはいない。
 指摘された事実に、署長は何のアクションもしなかった。口を開くことはなく、態度もそのまま。視線すら動かさない。
 短くない時間が三人の間で過ぎていく。
 今日という日は椿にとって決して短くない。様々なことがあり、あっという間に過ぎ去りはしたが、その密度は非常に高い。疲労の蓄積はライダーの補助があったとしてもなかったことにはできはしない。日付が変わろうとするこの深夜であって既に彼女の体力は限界であり、精神力だけが頼りだった。
 ここで椿と署長との関係に亀裂が入るようであれば、話はそこまでだ。椿は保護の名目で幽閉され、署長は殺されることになる。原住民は動くことなく、状況は流れるままに任される。
「わっ……私は」
「私は?」
 促すように繰り返す相談役に、椿は俯きながらもはっきりと応えた。
「知って……いました。お父さんとお母さんを、殺したのは……この人だって」
 下を向いていた椿の視線が、ゆっくりと署長へと向く。涙など流さない。それは椿自身、予想していたことなのだから。
「正確には……多分、そうじゃないかと、思ってました」
「……ああ、そうだ。私が指示を出し、殺した」
 椿の言葉に署長は否定することなく、自らの責任であることを肯定した。
 ある意味、こうして指摘されることは想定した事態であるが、敢えて署長は椿にそのことを伝えてはいなかった。
 魔術師として当たり前の感覚を椿は持っていない。いくら署長が言いつくろったとしても椿が署長の指示に完全に納得することはない。事前に言い含めることもできただろうが、それをしなかったのは署長もまた椿を確かめたかったからである。今後のことを考えれえれば、これで敵討ちを言い出すようなら論外だし、怨恨が残るようならその程度ということ。
 椿はこの場で署長の行為を許す必要がある。棚上げや、条件付きの許しなど中途半端な真似は許されない。でなければ背中を預けることなどできず、ティーネを助けることなど最初からできはしない。
 ……もちろん、それだけ、というわけでもない。
「親の仇と肩を並べ、命を預け、恩人を助ける。話としては美談だが、それが嬢ちゃんにできるのかい?」
 幼い少女の双肩に、このスノーフィールドの運命がかかっていた。魔術師の両親を持ち、そのための教育こそ受けてはいたが、所詮はそれだけ。そんな彼女に、重すぎる決断を相談役は強いてくる。
 大人の世界は汚いものだ。甘い話を持ちかけつつも、都合の悪いものには蓋をする。特にこの地は戦争の最中にある。騙し騙される日常において、騙される方が悪い。巻き込まれたとはいえ、大人の世界に無防備に入り込んだ椿こそが、悪かったのだ。
 椿は、ティーネを助けたいと署長に頼んだ。署長はその言葉に、「君次第だ」と答えた。覚悟があれば願いは叶う、とも。そしてそのまま、この場へと連れて来られた。
 騙そうと思えば、いくらでも騙せた筈。利用するだけ利用して、捨てることは簡単だ。だからこそ、署長は騙すことはしなかった。黙して語らなかったのが、署長の精一杯の誠意だったのかも知れなかった。もしくはそれも計算の内なのか。
 ……そんな椿の考えを、ライダーはリアルタイムで感じ取っていた。
 ライダーは知っている。椿は死者と生者の秤を間違えてはいない。葛藤はあれど、その答えはもう出ている。あと数秒もすれば、ことは上手く運ぶことになるだろう。このいたいけな少女の心に傷を残しながら、状況は一歩前進する。
 それが、ライダーには我慢ならなかった。
『お二方は、何を勘違いしているのですか』
 椿が息を吸う。そして言葉を発しようとする直前に、ライダーは意を決して話に割り込んだ。
 ティーネを助けるために椿は署長への恨みを持ってはならない。だが、歪んでいたとはいえ両親の愛を奪った者を簡単に許すことなどできはしない。納得などできる筈もない。どんな事情があろうとも、その事実を忘れ去ることなどできはしない。
 そんな無理難題を表向きにでも解決することを周囲の大人は望んでいる。椿には酷であろうが、ライダーも必要なことだとは思う。
 同時に、必要なのはそこまでだとも思う。
 これ以上椿に覚悟を強いるのは、些か虫が良すぎる。
『椿の両親を、殺したのは、私です』
「ライダー! それは違うよ!」
 ライダーの突然の言葉に椿は慌てて否定する。ライダーが全ての切っ掛けであることには間違いない。だが何も知らず何も分からぬライダーが両親を救うことなどできはしない。
 悪いのはこの聖杯戦争だ、などと言うつもりはない。
 責任はいつだって人間にある。両親を殺したのは、ライダーを御し得ずマスターとしての役割を果たさなかった、愚かな少女一人でなければいけなかった。
『いいえ。違いません。椿の両親を殺したのは、私です。その責任は私のものです。私だけのものです。他の誰にも渡しはしません。
 ……だから椿、マイマスター。あなたが恨める者は、私だけなのです』
 子供を諭す大人のようなライダーの口ぶりに、相談役と署長は言葉を失い、椿は呆然となった。
 サーヴァントはマスターあってこその存在だ。分類上は使い魔の一種であり、強力な武器のひとつでしかない。拳銃で人を殺すとき、拳銃そのものに罪はない。ナイフで人を刺すとき、ナイフが悪いわけではない。
「意外だな、ライダー。君は自らの存在定義を否定しようというのか」
 ただのサーヴァントならまだ分かる。しかし、こともあろうにその発言をするのは災厄の権化たるペイルライダー。原初の時代よりライダーが奪ってきた命の数は誇張無く“京”の位に達している。これは人のみならず動植物、果てや神や幻想種と呼ばれる存在にまで平等に死を振り下ろしたが故の数である。
 そんな彼が、責任を主張するなど自己否定も甚だしい。
『私がこの人格を持ち、己の意志で操った結果の死です。だからこそ、ワタシハ令呪を持たぬ椿を守っているのです』
 それがライダーの責任であり、償い方だと主張する。両親の死の責任というのは牽強付会ではないかと思わなくもないが、筋は通っていた。
「ならば、君と関わり死んだ者の責も、ライダーにあるというつもりかね?」
『当然です』
 相談役の意地の悪い言い方にも、ライダーは即答する。
 ライダーは既に数万もの感染者を出している。その中の一人でも死ねば、それはライダーの責任となる。
 この場だけの話ならライダーのその言葉で凌げるだろう。過去についての精算はライダーが一手に引き受けることで決着を付けることができる。
「自分の言っていることの意味を分かっているのか、ライダー。君は過去のみならず、未来に渡って感染者の身の安全を保証しなければならないのだぞ」
『承知しています』
 署長の確認にライダーはその意見を変えることはない。
「話が変わってきたな」
 署長の言葉に、相談役も困った顔をして頷いた。
 ライダーという保証人がいる以上、椿と署長の協力関係は強固なものとなった。相談役としては土壇場での椿の覚悟まで見据えて試したかったのだが、これ以上の揺さぶりは強力な戦力であるライダーの機嫌を損ねることになる。
 ここでのライダーの宣言は、彼の守護対象が椿だけに限定されないことを意味している。夢の中で同盟関係を結んだティーネは無論、感染した者全てを守るための守護者としてライダーは全力で動くことを宣誓しているのだ。
 口約束の空手形とはいえ、大言壮語に過ぎる。いかに規格外のライダーといえど、とても信じられるものではない。
「……分かってるよ、ライダー。私はライダーのマスターだから、ライダーは私を利用して。私も、ライダーを利用する。
 だからまず、ティーネお姉ちゃんを助けるために、力を貸して、ライダー」
 ライダーの言葉の意味を真に理解しているとは思えずとも、相談役が要求した以上の椿の答えに異を唱えるわけにもいかない。
「プレゼントをしたのは、失策であったかな」
 静かに笑う相談役も、これで腹は決まった。
 ここで警戒するべきは、署長ではなかった。この場で最も目的に忠実で、覚悟があったのはライダーに他ならない。だとしたら、ライダーがこの場において何もしていないわけがない。
 この近距離だ。いかに抵抗しようともライダーがその気になれば“感染”を防ぐことはできない。そのリスクを恐れ、相談役は一人だけでこの場に臨んだ。いざというときを考えこの部屋を自分ごと滅菌処理する手段も整えていたが、この様子ではそのための対処もしていることだろう。
「協力を、していただけますね?」
 相談役の心を読んだかのように、署長は何をするでもなく、ことの成り行きだけで成果を掴んでみせた。結果としてではあるが、想像以上の成果である。
「策士だのう」
「そうですよ。あなた以上の策士でなければこんな真似はしません」
 最初の挨拶の意趣返しとばかりに、署長はうっすらと笑ってみせる。対して相談役は静かな笑いから徐々に口角を上げ、最終的には呵々と大笑してみせた。
 双方にとって、これは非常に旨みのある話だ。実質損をしているのは椿とライダーだけであり、椿にとってもそれは最初から覚悟の内。あとはどれだけリターンを多く取り、リスクを減らすかが焦点となる。
「いいだろう。我々原住民もこの救出作戦に乗ることにしてやる――いや、乗らせて欲しい」
 そう言って署長と椿に深々と頭を下げる相談役。
 この場で原住民を代表して確約できるものではないが、残った三人の相談役の権限は大きい。残り二人の相談役に反対されることだろうが、無理に動かせる戦士の数は決して少なくはない。
 となれば、善は急げ。南部砂漠地帯に向かうには移動手段も含め準備するなら早い方が良い。
 だがそんな相談役のテンションに水を差したのは、誰であろう協力を申し出た筈の署長本人であった。
「それは及びません。今回の南部砂漠地帯に原住民の方々は不要です」
「……ふむ?」
 署長の言葉に頭を上げた相談役の眉根に皺が寄る。
 歳を取りはしたが、相談役も一線級の戦士。周りが押しとどめようとも戦場で指揮官として出向くつもりですらあった。
「どういうことかな?」
「原住民の方々には別の作戦があるということです」
 相談役として、一度協力すると申し出た以上、戦力提供は譲れぬところ。物資提供などと生温いことなどするつもりはない。
「では、一体誰が我らが族長を助けに行くと?」
 アーチャーが出ることには間違いないだろうが、それでは敵の思惑通り。それを打ち破るためにはそれ相応の戦力が必要である。それがないからこそ、署長たちは原住民に協力を申し出たのではなかったか。
 だが、相談役が思い描いていた戦力と署長が思い描く戦力では、その意味はまるで違う。
 戦略と戦術ではその意味が違うのだ。戦術としてティーネを助けるだけの戦力ならば、現状で事足りるのである。
「救出作戦にはこのライダーと、」
 署長は椿を見ながら、その手で二本の指を立ててみせる。
「キャスターだけで十分です」


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 署長がキャスターの名を自信を持って告げた丁度その頃。
 その当のキャスターは、今まさに消滅しかけていた。
 戦争。まさに戦争だ。
 偽りの聖杯戦争、そのわずか一端に過ぎぬ戦いであるが、その経緯を語るにはあまりに密度が濃すぎた。
 北部丘陵地帯で行われた原住民、その穏健派との会談を“表”とするならば、キャスターが担当したのは“裏”である。つまり、原住民急進派残党との調整である。
 同時刻に同陣営の反対派閥に接触するのはあくまで“表”が失敗した時の保険であるが、ただそれだけではない。署長たちが勝ち残る――生き残る為に敵対するファルデウス陣営以外の協力が必要不可欠であり、手駒は多ければ多いほど良い。加えて同陣営ながら反目しあう間柄なので、意見調整ができるのであればそれに越したことはない。
 ここに、策略と陰謀と電撃戦と包囲戦と攻城戦と撤退戦と外交戦と内応と休戦と開戦と決戦の準備のための休戦と開戦の予備行動としての和平交渉が行われた。その場に至までに行われた戦争は数知れず。そして生まれた疑念と疑惑、誤解と行き違いも数知れず。本来では決して辿り着けぬであろうそのドラマに、全米は涙した。
 そして。
 その結末が訪れようとしていた。
 御存知の通り、この聖杯戦争で最も戦闘能力が欠如しているサーヴァントは間違いなくキャスターである。
 彼自身に従軍経験もあるが、キャスターの時代の軍隊と現代の軍隊ではその練度は比べものにならない。白兵戦をさせるなど論外であり、そもそも魔術師としてではなく劇作家として召喚されたキャスターは魔術を解することはできても習得はしていない。戦力などと呼べるサーヴァントではないのだ。
 だからこそ、キャスターが構えるのは拳ではなく舌。戦力比を試算すればでキャスターと原住民急進派は最低でも一対一〇〇以上。これを原住民急進派リーダーと一対一の決闘にまで持ち込んだのはキャスターならではの手腕と言えた。
 一対一で殴り合い、勝者が敗者の全てを奪うルール。そんな都合の良い条件にまで持ち込みながら、キャスターは、足元をふらつかせ、背後の壁に背中を預けるように崩れ落ちる。
 その姿はボロボロで、あと一撃でも喰らえば今にも消滅するまで消耗仕切っている。対して、キャスターと一対一で殴り合った急進派リーダーは無傷である。
 先だって急進派の中核がティーネ・チェルクに粛清されたため、急遽その後釜に座ったのがこのリーダーである。まだ若く血気盛んであるが、当然そこに知識と経験があるわけもない。一対一の決闘を承諾したのも舌より拳の方が得意だからに違いなかった。
 勝敗は決した。
 リーダーはこれ以上にない程完璧にキャスターに勝利し、キャスターはこれ以上にない程完璧にリーダーに敗北した。
 元からの戦力に差があったことは、認めよう。相手の得意なバトルフィールドも承知していた。リーダーに慣れたルールであったことも知っていた。
 だからといって、弱いとはいえ曲がりなりにも英霊と称される存在が、緻密かつ確実に下ごしらえをし、卑怯にも大人げなく宝具を隠して持ち込みながらこんな状況になるなど、一体誰が想定するというのか。当のキャスター自身でさえ、こんな消滅ギリギリのボロボロになるなどと想定してはいなかったのである。
「俺の……負けだ」
 そして、とうとうその言葉が紡がれた。
 ついに一度としてキャスターの拳はリーダーへと届くことはなく、一度としてリーダーの拳をキャスターが避けることはできなかった。この一方的な決闘に二〇分もかかったことを考えれば、健闘したともいえよう。

 キャスターの勝利が確定した瞬間である。

「俺たちの完敗だ、キャスター。俺たちは、お前についていく――いや、ついていかせてくれ。いかせてください。俺たちを――導いてください!」
 声が、急進派リーダーの口から響き始める。
 開いた瞳からは光が溢れ、かつて宿していた狂気に満ちた怒りを焼き尽くしてゆく。滂沱と涙を流し、己の不明を恥じて、自然とリーダーの身体は地に伏せていた。
「土下座とは大袈裟だぜ。ここはいつから日本になった?」
「いや、ただ頭を下げるだけなんてできやしねぇ! あんたの気が収まらないなら、このまま俺を殺して欲しいくらいだ。俺は、さっきまでの無知蒙昧な猿山の大将であった過去の俺を心の底から殺したい!」
 ここに銃なりナイフなりがあれば自害しかねないリーダーを見て、ちょっとやり過ぎたかなー、とキャスターは思わなくもない。
「命を大事にするんだな。俺が何の為にお前に殴られたのか分からねえじゃないか」
「ああ、そうだな。こんな屑な俺のためにわざわざ身体を張ってくれたんだ。これを無為にしちゃ俺たち原住民の名折れだぜ」
 身体を張るも何も、実力でキャスターがリーダーに負けた事実には違いないのだが、そこは黙っておく。
「まずは立ち上がれ。まかりなりにも急進派の頭目が皆が見ている前ですることじゃねえよ」
 キャスターが視線だけで周囲を確認すれば、この光景に目に涙を浮かべ感動している取り巻き連中がいた。アウェーで戦うスポーツ選手さながらの敵意を向けられたというのに、決闘前と後とでその態度が四八〇度ぐらい違う。一周以上するのはいろんな意味で凄いと思う。
「みんな、聞いたか! 俺たちがしでかした数々の非礼よりも前に、この御方は俺を慮ってくれる! 俺は今猛烈に感動している! こんなすがすがしい気分は生まれて初めてだ。ありがとう、キャスター!」
「サン・テグジュペリだ。たとえおまえが世界中の全ての人間を敵に回したとしても、俺はおまえを支持する。俺の名前を胸に刻め」
「大切なものは、目に見えない――この俺の矮小さに気付かされるばかりだ。兄貴、と呼ばせてくれ――!」


 ――なんてことが、あったりなかったりして。
「茶番ですね。反吐が出ます」
 と感想を述べながらどこからともなくアサシンはキャスターの傍に出現する。念のため拠点を出た時からアサシンには姿を隠して秘密裏に動いて貰っていた。別段驚くべき事ではない。
「……」
 そんなアサシンを地面に倒れたままキャスターは視線だけを返す。スカート姿のアサシンである。上首尾に運べばその中身を見られるかもとか欠片も思っていない。なのに何故かアサシンはキャスターに近寄ることなく絶対零度の視線を向けるのみ。仲間が床に倒れているのに助け起こさないとはどういうことだろうか。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
 沈黙合戦が続く。
 キャスターが「俺は良いからお前たちは自分のやるべきことをやれ」と言ったので急進派はもうここにはいない。キャスターに肩を貸そうと動く者もいたが、アサシンに言いたいこともあったので丁重に辞しておいた。これを深読みしたリーダーが「絶対に肩を貸すな。戻ってくることも禁止!」などと言っていたのでここに第三者が介入する可能性は低い。
 本来ならそれが一番正しいのだが、この気まずい空気を前にキャスターはリーダーのその判断を恨みたくなってくる。
 口から先に生まれ出てきたような男である。こうした不要な沈黙には慣れていないし、嫌いである。そして方やあのアサシンだ。寡黙とか沈黙が得意とかそういうレベルではなく、母親のお腹の中にコミュニケーション能力を忘れてきたような女である。アサシンにとって、この状況は日常の空気となんら変わるところではない。
 土台、最初から沈黙合戦で勝てるわけがなかったのだ。会話の糸口となるべきツッコミどころもアサシンにとっては気にするようなものでもない。「お前がサン・テグジュペリってツラかよ、同じなのは性別と国籍くらいだっつーの!」などとアサシンが口にするわけもない。
 幸いにして一番重要な点をアサシンは理解している。理解していなければ、キャスターの傍らに付きそうような真似をせず、仕事は済んだとさっさとどこかへ行くに決まっていた。
 はあ、と肺の中の空気をキャスターは思いっきり吐き出した。喋ると口の中に鉄の味が広がるが、確認しないわけにもいくまい。
「……さて。アサシン。この状況をどう見る?」
「計画通り。何の問題もない」
 仕方なく切り出したキャスターの言葉に、アサシンは用意していた台詞を完全無欠の棒読みで、小指を立てて耳をほじりながら応えてみせた。
「ほう? これが計画通り、だと?」
「あなたが陽動。私が本命。結果、原住民急進派は無傷のまま穏健派と合流。何か問題がある?」
「この俺の怪我を見ても同じ言葉がいえるかなお嬢さん?」
「何か問題がある?」
 臆面もなくアサシンは同じ言葉を繰り返す。
 表向き、この会談の成り行きはドラマチックである。山あり谷あり。時折獣にも遭遇し、反目し、敵対し、運命の悪戯があり、助け合い、打ち解け合い、倫理規定と放送禁止コードにひっかかり、そして最後に驚きの展開が待ち受けている。この場にたまたま居合わせた数十人の急進派は後世までこの幻想的な光景を語り継いでくれることだろう。
 それが本当に幻想であることも知らずに。
「計画なら、俺とリーダーが戦う前に決着はついていた筈だぜ? おまえの《狂想楽園》ならこの程度なら朝飯前とか豪語してなかったか?」
「実際、朝飯前。あと六時間もすれば朝よ」
「そいつぁ傑作だな! 死ね!」
 とうとう回りくどい言い方をやめて直截な物言いになってきたが、それでアサシンが反省するわけもなかった。
 キャスターがここに来て声を荒げる理由も当然である。
 既に崖っぷちに追い込まれている自陣である。この期に及んでお上品な選択肢が取れるほど余裕はないし、そもそもそんなことに頓着するプライドなど最初から持っていない。
 計画ではキャスターが急進派の耳目を集め、その隙にアサシンが狂想楽園で洗脳する手筈であった。ローリスクハイリターンの作戦だったというのに、なぜ自分はこんなところで床の味を知らねばならなかったのか。
「……効果が、薄かった」
「だよなぁ! あいつらの目の中のグルグルが一個多くなるのに結構時間かかってたようだしなぁ!」
 目線をキャスターから逸らし自らの手を見つめるアサシン。その手には汗と見紛う液体に濡れていた。
 暗殺教団を組織した初代“山の翁”、その業である狂想楽園は対象者を忠実な狂信者へと変える業――と、伝え聞いた内容と少しだけその中身は違う。
 狂想楽園の正体は術者の体内で薬物を作り出すラボラトリー能力である。
 人間が当たり前に備えているホメオスタシスを強引に操作することで、痛覚遮断や神経加速といったことは勿論、体内で毒を作り出すことも可能。汗腺から毒を出し爪で軽くひっかくだけで対象は中毒にかかり術者から離れられなくなるという。
 ……どこかで聞いたような能力だが、人間が行うにはこれくらいが限度であろう。直接接触ではなく空気感染、しかも数万人の行動すら制御できるサーヴァントの方が例外で異常で規格外なのである。
「時間がなかったとはいえ、こんなことなら実験くらいしておけばよかったぜ。伝説より効果が弱すぎだろ」
「違う。毒そのものはもっと強力にすることは可能だった」
「じゃあなんで強力にしなかったんだよ」
「私の身体が作り出した毒に耐えられなかっただけ」
 尚悪い。
 河豚が自分の毒に当たって死ぬようなものだ。過去の業を習得するのは結構だが、実用に耐えられる下地も習得しておいて欲しかった。
 この事実をアサシンはもう少し自覚するべきだ。
 一歩間違えただけでこの計画は水泡に帰していたかもしれない。水泡どころか怒った急進派によって反乱が起こっていた可能性だってある。粛清によって急進派は大幅に弱体化したとはいえ、その反乱は署長の“予定”にもあったものだ。上手く事が運んだから良かったものの、薄氷を踏んでいた事実に薄ら寒くなる。
 特に、真っ先に怒りの対象になるのはキャスターだろう。宝具で守られながらこの様だ。とても生きて帰れるとは思えない。
「関係ない。いざとなれば、全員殺せば済む」
 青ざめるキャスターの顔色に、アサシンは事も無げに応じる。
「それくらいなら、毒を作るより簡単」
「それをされたくないからこんな回りくどいことをしてんだろうが!」
 怒鳴るキャスターにもどこ吹く風。とりあえず、これで報告の義務は果たしたとばかりにアサシンはそれっきりどこかに消えていく。微風も起こってないところから回想回廊とかいう業ではなく、以前に渡した“石ころ帽子”を使用したのだろう。その事実にキャスターは苦々しく思う。
 あの“石ころ帽子”にここまで完璧なステルス能力はない。あれはただ気配を薄め周囲に気付かれにくくするだけの宝具で、実際に透明化できているわけでもない。霊体化もできぬのに目の前で完璧に消えられると、同じ条件で無様に姿を晒し動いているこちらの立つ瀬がない。
 今回の一件でキャスターが驚愕したのは、実はそこである。
 アサシンの気配遮断スキルが凄まじいのは知っている。同じく宝具の助けがあったのもまた事実。それでいて、急進派の注目はキャスターが一身に集めていた。お膳立ては整っているが、それだけでしかない。
 この広い空間に、数十人もの急進派が集まっていたのだ。その全員がそれなりの戦闘スキルを有した戦士である。その誰に気付かれることもなく、アサシンは狂想楽園を使用してみせた。
 キャスターの記憶では、気配遮断スキルというのは攻撃モーションに移れば極端にそのランクを落とす筈だった。だというのに、注意深く周囲の様子を伺っていたキャスターにさえ、アサシンは攻撃の瞬間を悟らせることができなかった。毒が回り時間差で様子がおかしくなったのを見て、ようやく気付けたくらいである。
 まさに天才――いや、化け物か。
 狂信者の看板すら生温すぎる。
 過去の業すらも彼女の本質にとっておまけでしかない。
「こりゃ、見誤っていたかもしれねぇな」
 ここでようやく、キャスターはアサシンのマスターであるジェスターが彼女に執着する理由に合点がいった。彼女の生き様は、彼女の能力に見合っていない。マスターとして彼女の記憶を垣間見ることのできたジェスターだ。その可能性は十分にある。
 久々に、劇作家としての血が疼く瞬間だった。無性にペンと紙が欲しくなる。
「アサシンのマスターは確か、砂漠地帯にいる筈か」
 アサシンをこっそりキャスターの護衛に付けて砂漠地帯へ赴く手筈だったが、ジェスターとアサシンが出逢うとシナリオが大きく狂う展開になりかねない。これは配置換えの必要があるだろう。
「……いや、これはいっそのこと欲張ってみるのも手の一つか」
 キャスターの頭の中で全ての作戦が練り直される。幸いにも、血気盛んな急進派をまるまる抱き込めたばかりだ。彼らには貴い犠牲になって貰うこととしよう。
 先程まで兄貴と呼ばれ慕われていたというのに、キャスターはそんな彼らの心情を踏みにじることを決定した。盛大な嘘をついて扇動もしたのだ。それで心を痛めるくらいなら劇作家など名乗ることなどできやしない。
「やはり、これくらいやらないと面白くねえよな……」
 本音を吐露しながら、キャスターはニタリと笑った。
 しかし、目下のところ一番の問題点は放置されたままである。
 明日の作戦は、全員参加が前提条件である。一人で立ち上がることすらままならぬキャスターが果たして作戦に挑めるのか、当のキャスターにも分からない。
 まさか作戦立案や事前準備、戦闘以外で地味に大ピンチに陥っていようとは、敵味方含めて誰も想像すらしていないことだろう。
「いてぇな、チクショウ」
 作戦開始まで、残り一〇時間を切っていた。


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09

 その報告に、ファルデウスは思わず眉を潜めた。
 キャスターの存在を確認。それは良いだろう。しかして彼が戦闘能力皆無のサーヴァントであることは間違いない。となれば、彼にできるのは全体の指揮を執るくらい。餅は餅屋、生兵法は怪我の元。それくらいのことは分かっている筈。
 だというのに、そんなキャスターが《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が陣を構える場所からおよそ二キロ離れた位置で車を降りこちらへ歩き始めている。ファルデウスはこれは一体何の冗談かと思った程である。
 何らかの策であることには間違いない。キャスターの傍らには小柄な少女の姿が見える。報告によると昨日の街中央拠点を潰したライダーのマスター、繰丘椿に間違いないという。
 ならば注意するべきはキャスターではなく繰丘椿。情報によると近接戦闘では《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を圧倒し、不可解な能力を有するものの、狙撃に対応する能力はないらしい。
「D1、H1、時間差をつけて狙撃。弾頭はC。ターゲットは繰丘椿。狙撃後はポイントを移動。J1は念のため風下へ移動」
 まずは様子見とばかりにファルデウスは容赦なく弱点を突く。
 空中を浮遊させている観測機器からの映像は、ほんの数秒で狙撃される椿の様子を映像として流すが、この程度の攻撃は予想範囲内ということか。
『ターゲットに着弾。効果なし。二射目を行いますか?』
「必要ありませんよ。この距離で仕留めるには火力不足です」
 淡々と結果を告げる狙撃手にファルデウスは待機継続を指示しておく。
 これで、二人の役割ははっきりした。
 キャスターが昇華した宝具は全て把握している。現在署長とキャスターがその中から持ち出した宝具についても同様である。
 今の狙撃を防いだ宝具は、恐らく《王の服(インビジブル・ガウン)》。
 アンデルセン童話で有名な『裸の王様』を原典とした宝具である。誰にも視認できず確認もできない服であり、周囲からの攻撃をある程度無効化する防御宝具。計画の要たる署長を狙撃などの奇襲から身を守るために用意されたのだが、今はキャスターが使用しているのだろう。
 繰丘椿がオフェンス、そしてキャスターがディフェンス。正面切って相手取るには攻守の力量が不足しているのは明らかなので、目的は交渉か。
 時間は、処刑開始一五分前。とはいえアーチャーが来るかどうかで作戦開始時刻は変化するのであまり余裕があるとはいえない。かといってキャスターを仕留めるために本番前に陣形を崩すこともしたくはない。
 嫌なタイミングであるのは確かであるが、対アーチャー作戦の立案にも携わったキャスターである。あの時と計画は大幅に修正されてはいるが、前半部分についてはあまり変化がないので作戦が読まれたのだろう。その意味ではキャスターの狙い通りであるが、こちらに交渉する意志がない以上彼らに勝機はない。この状況を多少工夫したことで覆せる戦力でもないのだ。
 ならば、アーチャーを相手にしている隙に人質救出でもするつもりだろうか? だが、《方舟断片(ノア)》の解除コードは変更してあるし、裏コードがある様子もなかった。時間前に人質を救出するには魔力を無効化する宝具か、解除コードを解読するようなスパコンが必要となってくる。そんなピンポイントなモノをキャスターが持っているとは到底思えないし、通告時間を過ぎればそんなものも必要なくなる。
「何が狙いですかね……?」
 不可解なキャスターの動きにファルデウスは唸らざるを得ない。
 現在、アーチャーも含めて全サーヴァントは《イブン=ガズイの粉末》によって強制現界させられている。見晴らしの良い砂漠地帯だ。幾つもの人の目と音波電波赤外線等の機械を欺きかいくぐって近付くことなどアサシンでも不可能だ。
 真っ当な作戦を立てるなら、原住民と協力関係を結び、正面衝突の混乱を利用してアサシンを投入するくらいと予想していた。そうでないと可能性として例え一人だけであっても人質を助けることなど不可能だ。
「北部に動きは?」
「今のところはありません」
 確認を取ってみても原住民が動き出すこともない。時間的に見て彼らが南部へやって来るのは不可能だ。
 あと五分もすればキャスターは到着する。その頃には通信妨害も行うので外部との連絡もできなくなる。そうでなくとも、キャスターから何らかの電波が出ていることもないし、魔術を使って交信している様子もない。
 あらゆる事態を想定してみるが、ファルデウスにはキャスターが行おうとする策が思いつかない。
「ファルデウス殿。アーチャーを確認。西部森林地帯から高速飛翔宝具で接近中。一分以内に到達予定です」
 そしてこちらについては予想通り。
 高速飛翔宝具での強襲。アーチャーらしいやり方ではあるが、リスクの少ない霊体化をしていないということは事前に《イブン=ガズイの粉末》が無効化されている心配は少ないということ。となれば、物理攻撃もある程度は有効となる。
「分かりました。……では、予定通りといきましょう」
 アーチャーの確認によって作戦遂行の条件は揃った。事前準備に抜かりはなく、キャスターと繰丘椿以外は想定通り。一応その二人について伝達し注意を促すが、それ以上のことはしない。
「状況開始。各員、優先順位を間違えるな。狙うはアーチャーの首ただ一つ」
 結局最後までファルデウスは特に何の対策もとることもなく、作戦開始を告げる。現時点をもって砂漠地帯一帯の通信を封鎖。内部にいる限り有線通信以外は役に立たない。
 そして、同時に。
 ファルデウスは直上からの轟音に耳を塞ぐことになった。


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 上空から砂漠地帯を見れば、どこに人質がいるのかは一目瞭然だった。
 真上に太陽がある時間帯だけあって影は少ない。その中にあって三つの真っ黒な箱がそれぞれ一辺数百メートルの三角形の頂点に位置する場所に置かれてある。中に何が入っているのかまでは分からないが、あの中に人質がいるくらいの見当はついた。
 周囲に人の姿は見えないが、砂漠の中で息を潜め、アーチャーの《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》を確認していることだろう。何となくではあるが、砂漠のあちこちから視線を感じている。
 だが、視線を感じるのは下からだけではない。
 宙を飛ぶ光の舟の更に上にはいくつもの気球と小さな航空機が確認できる。無機物からの視線を感じるのも妙な話ではあるが、これだけ雲一つない晴天であれば存在も隠しようがない。
 視線というよりもその存在そのものにアーチャーは不快感を示した。
「フンッ」
 鼻を鳴らしてアーチャーはその背後に幾つもの宝具が輝きを持って現れる。
 アーチャーの視界に入った観測用の気球と航空機の数は四〇。その展開範囲は広い上に上空には強い風が吹いている。全てを撃墜することは難しい。人間であればほぼ不可能であるし、サーヴァントといえど簡単なことではない。
 だが、英雄王のクラスはアーチャー。この程度の難易度でしくじるようであれば、アーチャーを名乗る資格などあろう筈もない。
「邪魔だ」
 一機でも残ればいい。そうやって配置された無人機群だ。アーチャーが通り過ぎてしまえば攻撃される心配はない。それだけの十分な高度は取ってある。だというのに、アーチャーはそれら無人機群を一瞥しかしなかった。
 放たれた宝具の数と、目標の数は同数。一度に四〇の標的を狙うのは宝具の能力などではなく、アーチャー自身の力量によるもの。三次元的に動く上に距離も大きさも風などの環境条件すら異なるとはいえ、所詮は機械。本気を出したアーチャーでは時間稼ぎにもなりはしない。
 追尾や必中の呪いなど宝具には込められていない。ただ威力が高いだけの攻撃は、その全てをほぼ同時に標的へと命中させていた。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の予想は甘い。
 アーチャーが事前にその資料を見ていればそう言っていたであろう。
 そして、実際にその資料を見てそう言った者も、いた。
「――ほう?」
 アーチャーの超絶技巧とも呼べる斉射であっても、それが罠ともなれば悪手でしかない。
 無人機に仕込まれていたのは、カメラだけではない。射出された宝具によって真っ二つになった無人機から、数百、数千に及ぶ小型爆弾が周囲一帯に一斉に振りまかれる。ただ墜とされないために拡がっていたわけではない。アーチャーを確実に捉え離さぬよう計算尽くで無人機は配置されていた。
 全て破壊されるくらいなら、いっそ有効活用しよう。そう言って、ファルデウスはカメラすら最小限の数にして無人機の中身をそっくり入れ替えていた。
 それは、俗にクラスター爆弾と呼ばれている。
「小癪な真似を」
 自らの攻撃を利用されたことにアーチャーは多少苛立つが、それで次の判断を誤ることはない。
 《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》は外から操縦席が丸見えである。この状態であのクラスター爆弾の中に突撃すれば《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》の運動エネルギーも破壊力に加わり、例え一発でも当たれば無事では済まない。
 宝物蔵から盾を取り出し身体を守る。その大きさゆえに《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》はその美しい船体を傷つけられるが、墜とすにはこれでもまだ火力不足。下手な回避行動などはせず、そのまま真っ直ぐに人質の元へとアーチャーは突き進む。
 だが、アーチャーは気付いていただろうか?
 いかに宝具といえども、空中を進む物体が上から衝撃を受ければ、その進行方向は下方へと修正される。そして、アーチャーは防御のために盾を展開している。周囲どころか前方すら満足に見えている筈がない。
 周囲の状況を、アーチャーは全く把握できてはいなかった。なまじ地形が把握できていたのが仇となった。
 敵の射程圏内に入ったことに、アーチャーは気づけていない。
 アーチャーの移動速度は通常の航空機とは比較にならない。いかに速度が落ち射程内に入ったとしても、通常の携行式防空ミサイルではレーザー誘導でもままならず、現代航空機のように熱源を持たぬ飛行宝具では当てることすら困難である。
 だが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》には宝具を狙う宝具(忠実なる七発の悪魔(ザミエル))がある。かの宝具の形状は何も銃弾だけに限らない。火器という枠組みにおいて必中の呪いは十全に機能する。
 それはミサイルであろうと例外ではない。
 放たれたミサイルは上空を飢えた牙獣となって駆け上ると、目覚めさせられた《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》により誤ることなく《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》の腹へと襲いかかり、食い破ってみせた。
 クラスター爆弾にも対サーヴァント仕様に魔力が込められているが、このミサイルの威力は最初から《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》を想定している。これで即撃墜というわけにはいかないが、操縦困難に陥ることは確実。
 そして、これで終わりではない。
 これはただの前座である。舞台を整えるためにアーチャーを赤絨毯の上でエスコートしているだけに過ぎない。
 対応力の優れたサーヴァントである英雄王といえども、この物量の先制攻撃を受ければ防御一辺倒にならざるを得ない。クラスター爆弾の網を抜けたところで、気を抜かず改めて周囲を確認したアーチャーは更に上空から豪雨の如く降りかかってくるモノに気がついた。
 それは一見するとどこにでもあるような木片に過ぎない。曲射砲により打ち上げられたそれは、この一キロ四方に高高度から襲いかかるが、威力だけをみるなら先のクラスター爆弾の方がよっぽど高い。アーチャーの盾どころか《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》にすら傷一つつけることはできない。
 代わりに、その木片は着地と同時に、一気に芽吹く。
 世界には死した後に木々が芽吹く話はよくある。ただし、キャスターがその逸話を組み込んだのはルーマニアにてトルコ軍二万人を串刺しにした十字架だ。元となる遺物が大量に確保でき、かのヴラド三世の曰くを引き継ぐその木片は大樹となって血を求めるようになる。
 当然、アーチャーに当たらず地に落ちた数千もの木片も、即座に芽吹いて一気に成長する。ものの数秒で広大な砂漠地帯に、半径一キロにも及ぶ森林地帯が形成された。

 宝具(串刺大樹(カズィクル・ベイ))三〇〇〇片による即席結界。
 作戦呼称(茨姫(スリーピングビューティー))

 これが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がアーチャーに対して用意した舞台である。
 《天翔る王の御座(ヴィマーナ)》の上に落ちた《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》はそのまま一気に船体を巻き込むように成長する。操縦困難な状態から操縦不可能な状態に悪化させ、舞台となる森林中央へとアーチャーを招き入れた。
「手荒い歓迎だな……雑種共」
 成長した大樹をいくつもの薙ぎ倒しながら船と盾を蔵へと収め、アーチャーはその地に降り立つ。
 いかにその飛翔宝具を墜落させたとはいえ、アーチャーそのものへのダメージは皆無。周囲の《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》が高い魔力を感知しアーチャーを捕らえ血を啜ろうとするが、その枝葉が伸びきる前に宝具の一斉掃射に蹴散らされる。
 アーチャーにとってこの魔の森も頓着するほどの脅威ではない。絶えず襲いかかってくる木々は面倒ではあるが対処できぬほどのものではない。厄介なのはむしろ攻撃力ではなく防御力の方。何せ大樹の枝葉を蹴散らすことができてもその影に潜む者に刃は届かないのだから。
「さすがは英雄王。我々の気配にお気づきでしたか」
 英雄王の先の呟きは不機嫌から来る独り言などではない。周囲に隠れ、影から王を射んとする不敬の輩への牽制だった。
 アーチャーの目前、一〇メートル離れた大樹の影から現れたのは緑色を基調とした野戦迷彩柄強化装備に身を包んだ男。ゴーグルのようなアイウェアとヘルメットによってその容姿は判らない。そして男の指にはそうした近代的装備とは不似合いな古びた指輪がそれぞれはめ込まれている。
「間抜けが。そこかしこに貴様らの影が丸見えだ」
 心底侮蔑したアーチャーの答えに指輪男は軽く笑うだけに留まった。
 成長する大樹の気配は濃い。そして血を欲する大樹が放つ殺気は生物が持つありとあらゆる気配を覆い隠す。しかしこの即席の舞台は全面を覆い尽くす壁などはない。例え木の葉に覆われようとも身体が全て隠れているわけではない。
 アーチャーは単純に、隠れきれぬその姿を目視したに過ぎない。
 だから、アーチャーには周囲に何名いるのか実は分かっていない。
 確認できたのは四人。だがその様子だともっと周囲にいたとしてもおかしくはない。そして注意を引くように誤魔化したつもりだろうが、アーチャーの死角ギリギリの上空に目を凝らせばうっすらと煙が上がっている。完全な死角から上げられていないところから背後を取られているわけではないらしい。
「我らが名は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。皆才なき身なれど、これより英雄王に挑ませていただきます」
 原始的手法ではあるが、狼煙が上げられたことからこの場にアーチャーがいたことを周囲に知らせたのだろう。指輪男の口上をただの時間稼ぎと見切って、アーチャーは周囲を見渡す。
 この即席の森は明らかにアーチャーを意識して作成されたものだ。視界が利かず、《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》も木々が邪魔して展開しにくい。おまけに先ほど切断した大樹も既に回復して元通りとなっている。これでは火力に任せて焼き払ったとしても時間がかかりすぎるし、それをさせぬための人質だ。時間短縮に上空から対軍宝具で焼き払うことも考えるが、木々の枝葉がそれを妨害するだろうし、直前に撃墜されたばかりだ。その手への対処を講じていないわけがない。
 状況は、明らかに劣勢。
 アーチャーのクラス補正によってこうした森林地帯での戦闘は決して不得意ではないが、人質救出の目的がある以上悠長にしている余裕はない。
 上空から見た人質の場所を思い返す。一体どこに誰がいるのかは分からないが、ティーネと銀狼の救出をするためにアーチャーはこの場に来たのだ。どこから回ったとしても二カ所は回らねばならない。
「チッ」
 雑人輩(ゾウニンバラ)に剣を抜くのも癪ではあるが、このまま引き下がるという選択肢はない。舌打ちをして苛立ってみるものの、アーチャーの口角は自然と上がっていた。
 かつて朋友と共に森の番人フンババと戦った時も、こうした森の中だった。
 この場に懐かしむ過去がある。たったそれだけのことに柄にもなくアーチャーの胸が高まる。こんな状況だ。もしかしたら、朋友に出会えることもあるかもしれない。
「良いだろう。せいぜい余興を愉しませろよ雑種共!」
 尚も時間稼ぎの長広舌の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に一喝し、周囲へ展開できるだけの宝具を狙いもつけず解き放つ。これで仕留められるとは到底思えぬが、号砲としては十分。
 両の手にそれぞれ剣を携え、アーチャーは一番近くの人質の元へと駆け出した。


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「本当に砂漠に森ができちゃったね、ライダー」
『そのようですね、椿』
 椿のそんな感想に骨振動スピーカーを通してライダーはその言葉に同意した。
 事前にキャスターから作戦を聞かされてはいたものの、椿には到底信じがたい現実だった。目の前に現実として森ができていたとしても、思わず頬を思いっきりつねって確認してみる。
「痛くないっ!」
『痛覚遮断をしています。肉に爪を立てる程つねらないでください』
 椿の突飛な行動にも慌てることなく対処するライダーではあるが、力加減というものを教えておかねば将来的に大変になりそうだと今後の課題に挙げておく。その行動はサーヴァントというよりも保護者じみていた。
 現在、椿はキャスターとは別れ、単独で森の中へ踏み入っている。
 森の中は狂気と凶器で満ち溢れた異界だった。
 血を欲し自立活動をする宝具故に彼らは貪欲だ。その枝葉は触れただけで人の柔らかな肉を削ぎ落とす威力を持ち、その全てが意志を持って行動する。獲物を捕獲できねば数時間で魔力切れを起こし枯れ果てる大樹であるが、逆にいえば芽吹いた直後の今が最も活動的な時間だ。
 キャスター曰く、イメージしたのは腑海林アインナッシュとかいう死徒だとか。森を形成するほどの大量投入を前提としていた運用方法のおかげでキャスターが昇華した宝具の中で最もコストパフォーマンスが悪く、そして使い捨て。しかも大気中のマナを吸い取り続けるのでこの森の中でそうした魔術は行使できない。こうした砂漠の枯れた地でもなければうかつに使用することもできぬ宝具である。
 ここで戦闘をするには、事前に魔力を注ぎ込んでおいた宝具を用いるか、他方に魔力源を用意している者だけである。
 そして繰丘椿の場合は後者だった。
 廃工場での肉体操作技術の練習が役立っていた。椿が手に掛けるにはやや大きい幹ではあるが、握力を強化することで問題なく樹上を生活の場とするオランウータンのようにこの森を移動することができる。手が届かねばあり余る魔力でもって大樹を蹴り上げ、その反動をもって移動してみせる。
「あははっ! ライダー! 楽しいねっ!」
 楽しげに森を突き進む椿であるが、並の者ならとっくの昔に死んでいる。
 血を求める大樹が椿へとその幹を伸ばすが素早い椿には追いつかない。進行方向の葉が急激に生い茂るが椿が軽く両手で払っただけで葉はその幹ごと四散する。本来の目的を忘れていなければいいと思いながらライダーは椿の思考に従ってその身体を機敏に動かしていく。
 椿とライダーの目的は、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の排除にある。封印されたティーネたちを解放する術を持たぬ椿は救出には役立たず。そのためにできる限り派手に暴れ回り、キャスターを援護するべく彼らを引き寄せる囮とならなければならない。
 作戦を聞いたときに椿は無邪気に頑張るなどと言っていたが、ライダーとしては一体どうやって《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を呼び寄せたものかと頭を捻っていた。
 猫を集めるならマタタビでも使えば良いだろう。砂糖を使えばアリが集る。香水を撒けば男が寄ってくるとも聞く。血を撒けばその匂いに殺人鬼がやって来るかも知れない。いや、その前にこの辺りの大樹が根こそぎ吸い取ることになるか。
 そんなことをライダーが考えていると、上からひっそりと伸びてきた蔓が宙を飛び交う椿の足へと巻き付いてきた。この森の中でライダーの粒子は木々に吸収されて役に立たない。完全に椿の視覚外であるが故にライダーも気づけない奇襲。どうやらこれら大樹にもある程度の知能があるらしい。
「あっ」
 調子に乗りすぎた、という顔で反省する椿ではあるが、本来ならこの状況から逃れる術はない。足を掴まれた以上、次から次へと襲いかかる蔦は四肢を拘束し、椿の血を一滴残らず吸い尽くすまで離しはしない。
『油断するからです』
 ライダーは窘める言葉と同時に魔力の刃を紡ぎ上げ蔦を切ろうとするが、その前に絡みつく蔦はまるで興味を失ったかのようにその力を緩め、あっさりとそのまま解き放ち椿を地面へと落とした。
 昨日までの彼女であれば頭から落ちているところだが、廃工場で落ち慣れたおかげか、ライダーが何もせずとも着地姿勢を取れるほどに椿も自身の身体を動かすことに慣れつつある。
 着地の衝撃にすぐ傍の根が椿を捉え動き始めるが、これもまた何かを感じ取ったような気配と共に興味を失い大人しくなる。
「キャスターさんの言うとおりだね」
 そんな大樹の動きを確認しながら、一歩間違えれば死にかねぬ状況を暢気に椿は眺め見る。
 この《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》は血を欲する性質をもつ宝具ではあるが、無差別に襲いかかるわけではない。ヴラド三世とて領地を治める領主である。故に、ヴラド三世の加護を持つ者にこの宝具は無闇に襲いかかることはしない。
「虫除けスプレーでも効果があるんだ」
『時間経過と共に効果は薄れるようです。油断は禁物ですよ椿』
 椿の言葉をライダーは訂正せずに注意だけをする。
 ルーマニアの地より湧き出た古い聖水を魔術加工し波長を合わせ、不眠不休(しかも消滅しかけた直後)で苦労しながらキャスターが作った加護ではある。とはいえ、子供の目から見れば虫除けスプレー程度の認識でしかない。
 キャスターの説明によると、《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》は対アーチャー用に調整された宝具である。特定の魔力の波長にのみ大人しくなり、それ以外には問答無用で攻撃する。いかに強力な原典を持とうとアーチャーがこれに対応することはできないようにしているのだ。
 その分、この急造の加護では周囲の魔力を吸い尽くし飢餓状態に陥った《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》には通用しないので、そうなる前にさっさと作戦をすませて椿を脱出させたいところである。
 椿はこの《茨姫(スリーピングビューティー)》における危険性を理解していない。事前に恐怖麻痺の処置をしていたのが仇となったかもしれない。恐怖で動けぬよりかはマシであろうが、このハイテンションではいざというときにライダーのフォローも通じぬ事態もあり得る。
 念のため、とライダーはこっそりと先日手に入れたばかりの固有宝具(感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン))を常駐させる。これを椿の無意識領域に接続すれば、椿の認識限界は天井知らずに跳ね上がる。つまり、情報を正しく精査できるようになるのでパニックになる可能性は低くなる……筈だ。
 ライダー自身もこの宝具の可能性を把握していないので“念のため”の域を出ないが、喩え最小限度にその機能を限定させても人の手に余る宝具であることに違いはない。この選択が今後どう影響を椿に及ぼすのかライダーが知る由もない。
『ひとまず、目的である《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を捜しましょう』
 《感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン)》の制御を片手間に、ライダーは椿の視界から見えないものかと探すが、残念ながら人影らしきものはない。
 いや、手がかりなら、あった。
『――椿、上を見上げてください。狼煙が上がっています』
「? 煙なんて見えないよ?」
 視界を共有する二人であっても、その見解は別である。
 自由に目線を動かし目的のモノを捉える椿と違い、ライダーは椿の視界を映像情報として解析し、焦点が合っていなくとも画像処理の要領でそこに何があるのかを認識してみせる。
 椿の肉眼で見えないことはないが、見分けることは難しい。改めて視覚を調節し、うっすらと狼煙が上げられているのをライダーは確認した。これは魔術によるものではなく、科学によるもの。特殊なゴーグルでもつけて波長をずらせばこの森の中でもその狼煙ははっきりと確認できるのだろう。
 となれば、あの下には《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》がいる。
 そして、アーチャーも。
『椿、ここから直進して――』
 ください、と言おうとしたところでライダーは背後の気配を敏感に感じ取った。そして、ライダーが応対するよりも先に気配の主は分かり易く声をかけてきた。
「動くな」
 そしてカチャリと分かり易い金属が構えられる音がする。
 狼煙があるということは、その場に向かう《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》もいるのは当たり前だ。そして狼煙を前方に向いていれば、狼煙を目指す《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が後ろから現れるのも当たり前。
 よくよく考えれば、一〇メートル以上の高さを落下したのだ。純粋魔力の放出や肉体機能増幅(フィジカル・エンチャント)を行うライダーではあるが、重力軽減といった魔術は習得していない。あんな大きな着地音を響かせておいて悠長に分析などをしてしまった。結局、ライダーも椿のハイテンションに引きずられていたらしい。
『動かないでください。やつらの言うとおりに』
 咄嗟に逃げようと足に力を込める椿をライダーは制止する。椿の姿勢は着地し立ち上がろうと左手と左膝が地面に着いたままだ。こうした状態で、人間という生物は機敏に動かない。蚊に例えれば、警戒を解いて口を動物の皮膚に突き刺し血を吸っている状態だ。平手一発で容易く叩き潰せる。
 それに、この近距離で背後から狙われているのだ。この対アーチャー作戦に参加している者がただの銃弾を装備している筈がない。椿が下手に動けばその瞬間に蜂の巣となりかねない。
 幸いにも椿の格好は街中を出歩くようなそれと同じだ。動きやすい短パンと半袖という武装の施しようもない軽装。装備と言えば、左手首に巻かれた意思伝達装置とそれに有線で繋がれた耳裏の骨振動スピーカーくらい。医療器具に詳しくない者なら不可解な機械であるが、武器に見えることはない。
 武装をしていたら警告なく即座に撃たれていた。
「子供、だと?」
「例の繰丘椿という元マスターか」
 三種類の声と、四種類の足音。どうやらフォーマンセルの小隊と遭遇してしまったらしい。
 敵が一人でないことで椿の思考にノイズが走る。そこに恐怖がないことが救いだが、何をして良いのか判断がついていない。やはり“念のため”程度で宝具をしようしてもあまり効果はないようである。
 ライダーとしてもここで明確な殺気を感じれば取るべき手段が限定され即決即断もできるのだが、何故か彼らからはそうした気配を感じない。むしろ、戸惑いの気配を色濃く感じる。
「……隊長、優先順位は理解しているつもりです」
 声の方角からして銃を構えているであろう《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が中でも特に戸惑っている。
 この作戦上、アーチャー以外の存在については可能な限り無視、そして作戦上脅威になりうると判断されれば排除されることになっている筈だ。戦力を集中させる上で別段珍しいことではない。ライダーもそれを承知で乗り込んでいる。
 全方位対処可能な防御宝具を持つとされるキャスターは戦力的脅威になりにくいが、子供ながら先の中央拠点襲撃でその戦闘能力が露見した椿は積極的に排除される条件を満たしている。それは打ち合わせ通りで、むしろ望むべき展開ですらある。
 だが、何故撃たない?
 ヘッドショットをされればさすがに防がなければならないが、心臓程度なら撃たれた後で即時回復も可能だ。ライダーは死んだふりをしてやり過ごすつもりである。
「お前の言いたいことは分かっている。だが、無視はできん」
 歩み寄り、椿の目の前に来たのは近代装備に身を包んだ初老の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。様子からして彼がこの小隊の隊長なのだろう。腰の後ろでX字に組まれた二振りの剣から隠しようのない魔力が漏れ出ている。メインを抜きやすいように少し斜めになっているところから、相当な腕と判断できる。
 しかし、その手に持っているのはそんな剣呑な雰囲気の宝具などではなく、警察官であれば珍しくもないただの手錠だった。改めて彼らの本職が警察官だとライダーは認識し直した。
「これで十分だろう。あとは、彼女の運次第だ」
 殺すつもりはないが、この森の中で自由を奪われることはそれだけ死の危険が高まることを意味する。
 なるほど、彼らは直接椿を殺すつもりはないらしい。
 その迂遠さについてライダーの理解は及ばないが、これはチャンスということだけは理解する。
『……椿。私に自由をください』
 声を潜める必要はない。骨伝導によってライダーの言葉は四人の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に気付かれることなく椿へと伝わった。ライダーの要請を受諾し、椿はそのための呪文を口にする。
 先日のスノーフィールド中央拠点での戦闘を反省し、ライダーはフラットが施した安全装置はその一部をキャスターに外して貰っている。
「ユーハブコントロール」
 呟いた椿の言葉をこの小隊長は聞き取れたのか。椿の右手首を掴み、その手に素早く手錠をかけようと動くが、それでもまだ遅かった。
『アイハブコントロール』
 椿の許可に、ライダーが応じる。
 そして手首を握られたまま、軽く前へ押すようにしてライダーは椿の身体を立ち上がらせた。
 これが通じるかどうかはライダーにとっては賭けだった。もちろん賭けに負けた場合のことも考えていたが、今回は勝ってしまったようだった。
「――ッ!?」
 不可解な事態に小隊長の身体が一瞬強ばる。
 何故なら、椿の右手を握った手が動かなくなったのだから。
 対サーヴァント戦闘に特化した部隊に囲まれているのだ。こんな状態で新たに魔術などを使えば気がつかぬ筈がない。実際、ライダーは椿と身体の主導権をスイッチしただけで魔術などは一切使っていない。
 なまじ強者との多対一の戦闘訓練を積んできただけに、こうした弱者からの奇襲に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は弱い。そして不可解な現象を全て魔術の一言で片付け、宝具を頼りにするのも《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の悪い癖。
 魔術を使っていないのだから、これは単純な技術なのだと当たり前の発想を小隊長は思いつけなかった。
 ライダーはただの人体の構造を利用しただけだ。何かを握った状態で相手からこうした動きをされると筋肉と靱帯が反射的に硬直し、握った手は開けなくなる。直後に小隊長が取るべき行動は手錠を手放し宝具に手を伸ばすことではなく、握った手を自ら殴って手を開かせるだけでよかったのだ。
 椿が立ったことで背後で銃を構えていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は小隊長の動きを把握できず、すぐに射殺される心配はなくなった。他二人の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》も隊長が手錠を落として宝具に手を伸ばしたことで異変に気付くが、ライダーを牽制できても殺せる姿勢ではない。
 そして、立ち上がったことでライダーと《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》小隊の勝敗は決していた。
 固まった腕を軸に腰を回す。小隊長と椿の体躯は一目瞭然。だというのに小隊長の身体は椿を軸に円を描くように回転し、背後に銃を構えている隊員からの盾とする。大樹の根がうねってただでさえ足場が悪い場所だ。小隊長の重心は完全に崩され、その勢いを利用してライダーは小隊長の顔面を地面へと叩きつける。ゴーグルをしているとはいえ、その衝撃は脳を揺らし頸椎を痛めつけた。
 これで一人。後は三人。その中で最大脅威なのは背後から銃を構えていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。しかし小隊長を盾にして半回転したおかげで今は正面から相対できてるし、その距離は二歩で辿り着ける。
 よくよく顔を見れば、まだ若い。この部隊はルーキーとロートルの組み合わせのようである。そしてこの距離にあって銃を握る手に力が入りすぎている。さっさと撃つか、ナイフを取り出せばいいのに、これでは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の中でも落第だ。
 小さな椿の身体を活かしてライダーはほぼゼロ距離にまで入り込む。簡易強化外骨格に身を包まれている彼らは素早い動きと高い防御力を有している。本来なら素手で相手などできるわけがない。
 椿の身体は軽い。ただでさえ小柄な上に一年にも渡る入院生活が無駄な肉どころか必要な筋肉まで削ぎ落としている。残された筋肉を強化することで軽量化された身体は俊敏な動きを可能とするが、リーチは短いし、悲しいくらいに打撃力はない。だから、ライダーは懐に入り込み、拳を強固なボディーアーマーに当てはするが、殴りつけるような無駄なことはしない。
 そして、わざわざ魔力で強化する必要もない。
 ライダーは、その技が何と呼ばれているのかは知らない。ただ、椿という身近なサンプルから人間の肉体構造を把握し、こちらの動きを最適化しつつ、効率の良い攻撃方法を模索し、人体の急所へと攻撃を当てるだけに過ぎない。
 このライダーの理論は中国武術においては発勁と呼ばれている。つま先を始点として運動量を発生させ、接触面のボディーアーマーすら利用して力を導く勁道を開かせる。人体の急所へその威力を爆発させるその技は、俗に寸頸と呼ばれる絶技である。
 かつて第四次聖杯戦争の折りに言峰綺麗はこの技で大木をもへし折って見せたが、ライダーが使ったこれは威力においては大きく劣っている。厳しい修練から得た極地と、ただの理論から得た解答で威力が違うのも当然。それでも人体に対する威力としては破格の域にある。
 残り、二人。
 血を吐き白目を剥いて倒れる仲間を見て躊躇してくれればいいのだが、一瞬で二人も倒された事実に今更手加減などする筈もなかった。折しも残り二人はライダーの左右に位置している。両者とも武器はどうやら中距離タイプらしく、挟撃するにはうってつけ。
 そして、迎撃するのにもうってつけだった。
 カメレオンの如く椿の目を左右別々に動かし二人を観察。散眼という多方面からの攻撃を捌く目の動きだが、またもライダーはそのことを知らずに実践してみせる。間合いを把握し、攻撃モーションを予測。素手で二人を倒したことからライダーには近接戦闘技能しかないとみたのだろう。間合いの外から大振りに構えるその所作が隙となった。
 トス、と挟撃する両者のボディーアーマーの隙間に五カ所ずつ、合計一〇カ所の刃が突き刺さる。急所こそ守られているが、傷口からライダーに直接“感染”した以上、もう戦闘能力は失ったも同然だった。
 突き刺した刃を引き抜いても大した血は出てこない。だが完全に意表を突かれた二人は足をもつれさせて倒れ込んだ。手にしている宝具がどういった効果を発揮するのか結局分からなかったが、発動前に使い手を倒したことでその魔力は拡散していく。
 これで四人。少し場所を移動して周囲を観察するが、五人目が出てくる様子はない。火器も宝具も使わせていないので直接見られていない限り援軍が来ることはないだろう。
 戦闘終了を確信して、ライダーは警戒を解く。
『ユーハブコントロール』
 左手の装置を操作してライダーから椿へ身体の制御キーが返還される。
「アイハブコントロール……って、ライダー、大丈夫!?」
『大丈夫ですよ、椿』
 椿を安心させるためだけに虚勢を張るが、ライダーにとってこの戦闘はかなり辛いものだった。
 人を傷つけてはならない。
 令呪によってそう縛られている以上、そのペナルティをライダーはしっかりと受けている。こうした短時間の戦闘ならば耐えられるが、もっと効率を考えねば作戦のタイムリミットより先に限界がやって来かねない。
『……それより身体に無理をさせてしまいました』
「えっと、……うん、まぁ、大丈夫じゃないかな。この爪はちょっと邪魔だけど」
 そういって、最後の二人を倒した血に塗れた刃を椿は不気味がることなく眺め見る。
 一〇本の刃。それは、伸ばした椿の爪である。肉体操作ができるのだから、ライダーにとって髪や爪を伸ばすことは難しくない。強度を高めれば剣として通用するかも知れないが、この森においては邪魔になるだけだ。
 ライダーが根元を軽く腐食させると一〇本の爪はあっけなく地に落ちた。敵に見つけられると警戒されるかと思ったが、落ちた爪は反応した木の根が即座に捕食し跡形もなくなる。バキバキと爪を咀嚼するその光景は想像以上にグロテスクだった。
「えっと……殺しちゃったの?」
『大丈夫、息はあります。感染させたのでしばらく動けないだけです』
 現実から目を逸らすような椿の質問にライダーは感染具合を確かめながら答える。爪で感染させた二人は軽傷。あとの二人も命に別状はない。
『それよりも、少し調べたいことがあります』
 ライダーの要請に「近付いても大丈夫だよね?」と何度も念を押しながら、椿は恐る恐る倒れた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の装備を確認していく。爪が食べられた光景に恐怖麻痺の効果が薄れてしまったらしい。それでもはやることなく冷静さを失わないのは宝具の影響だろうか。
 ともあれ一度戦闘を行ったのだから、そろそろ臆病なくらいが丁度いいだろう。兵が死ぬのは初陣よりも二度目だとも聞く。戦闘が人を殺すのではなく、無謀が人を殺すのだとか。これならば椿に関しては大丈夫なのかもしれない。
 だがそれよりも先に確認しておくべきことがある。
 重体である小隊長の装備を怪我を負っている首に力がかからぬよう慎重に調べる。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の装備は簡易強化外骨格に近接戦闘用宝具、対サーヴァント仕様の中距離支援火器。通信装備はあったがノイズが酷く使い物にならない。その代わりのように彼ら全員が煙弾を所持している。ゴーグルを通してみれば肉眼では見えにくくとも、木々の上で伸び上がる煙はライダーの予想どおりはっきりと認識できる。
 連携を取る以上通信装備は必須の筈。だというのに電子欺瞞(ジャミング)を広範囲に仕掛けているようである。数種類の煙弾程度でその代用が完全に務まるわけもない。連携が命の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にとってこれは自殺行為に近い。
 だとしたら、これはキャスターの想像が当たっている、と考えて動いた方が良い。
『あと四小隊くらいは感染させておきたいですね』
「それはいいけど、どうやって見つけるの?」
 この広い森で誰かを早急に見つけるのは難しい。時間制限があるのだから何か工夫が必要だ。椿の問いはもっともなことだが、目の前に煙弾があってどうするも何もないだろう。答えは一つだけだ。
『簡単です。その煙弾を上げてください』
「いいの? そしたらみんなが一斉に集まって来ちゃうよ?」
 四人を相手に苦労したというのに、それ以上の人数となると作戦上は都合良くてもライダーの限界が椿としては心配である。
『安心してください。彼らの弱点を発見しました』
「弱点?」
 鸚鵡返しに問い返す椿であるが、冷静にあの戦闘を考えれば《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にとって椿は天敵ともいえた。
 武装していないだけで、何故殺されなかったのか。
 明らかに無効化できる状況で、何故自由を奪うだけに留めたのか。
 答えは簡単。彼女が繰丘椿だからである。
 人を殺すことには相当なストレスになる。対サーヴァント部隊といえど、殺す対象がサーヴァントと人間とではそのストレスには大きな差がある。軍人でさえ人を殺してストレスを感じない者は一〇〇人いてもせいぜい数人だ。つまり人殺しのプロフェッショナルというのは貴重なのである。
 そして《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は人殺し専門の軍人ではなく市民の安全を守る警察官。
 警察官の仕事は、弱者を守ることにある。
『椿は可愛い、ということです』
「どういうこと?」
 サーヴァントを殺す覚悟はあっても、幼い少女を殺す覚悟を彼らは持っていない。
 その弱点は、聖杯戦争序盤で署長が指摘したものだった。
 彼らは中途半端なのだ。軍人として命令に従って人殺しになれないし、魔術師として目的のために手段を選ばぬ狂人にもなれない。それでいて警察官としての正義感を持ち合わせてしまっている。
 同情の余地のない繰丘夫妻は見捨てられるのに、残酷な仕打ちを受け長期の意識不明に陥った不遇な娘は見捨てられない。
 これを弱点とするのは酷であるかもしれないが、ライダーは、この隙を逃さない。
 椿の生い立ちと可愛いさを、この場において最大の武器に仕立てあげる。
 念には念を入れて、椿の足首を紫色に腫れ上がらせる。端から見れば骨折しているかのようだが、実際には何の支障もない。軽傷の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》二人はそのまま隠れて周囲を警戒するよう命令して、動けぬ二人には餌となって貰う。小隊長の装備だけを調べバラした理由は、その方が彼を介抱しているように見えるからである。
 これで、足を骨折した少女を守り傷ついた二人の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》という状況が演出された。
 煙弾が上げられる。
 ライダー監督、椿出演のアドリブ劇が、今開始されようとしていた。


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 かぐや姫や桃太郎の昔語りを聞いた時、物心ついた子供は真っ先にある疑問に突き当たる。どうして彼らは竹や桃を真っ二つにされながら無事に誕生できたのか。これは子供が現実という世界事象における物理法則を学び、それに反していることに気付いているからだ。答えに窮する大人が何と答えるかは別として、これにより子供はお伽噺と現実の違いを理解するのである。
 何故そんなことを急に思いついたのかといえば、今現在ランサーが同じような行為をしていることにふと気がついたからである。
 内部の時間経過が遅くなれば遅くなるほど光の侵入速度の関係で《方舟断片(ノア)》の内部は漆黒に染まってくる。この結界を豆腐のように切り裂くティアマトといえど、内部が見通せないためその侵入角度は慎重に期さねばならない。無闇に切り裂いて人質が真っ二つになってしまえば笑うに笑えない。
 仕方がないので、立方体の《方舟断片(ノア)》を少しずつ刻み込むしかないかと突き刺してみれば、ランサーの心配とは裏腹に《方舟断片(ノア)》は切り口からあっさりと連鎖的に崩壊していき、中の人質はその場に崩れ落ちた。
 なるほど、桃も竹も、切れ目を少し入れただけで割れるのであれば桃太郎もかぐや姫も真っ二つになる心配もない。薪割りの要領である。
 自らも《方舟断片(ノア)》と基地を破壊してこの場に現れるのにランサーはわずか五分でこの場に辿り着き、救出を果たしていた。
 この驚くべきスピード解決のヒントは、以前に出遭ったバーサーカーの大鷲の変身だ。自らの身体を自由に変形できるランサーは脱出と同時に一気に高度数百メートルの高さまで飛び上がり、高速飛翔に適した形へとその身体を変えていた。これもまた、夢の中でライダーと空中戦をした時の経験が活かされている。
 この時にはすでに上空のカメラとクラスター爆弾は全て処理されていたため誰の目にも留まることはなくランサーは森への侵入に成功していた。森の形成も既に完了し、仮に誰かに見られたとしてもその後の動きを把握されることもない。突入するタイミングとしてはまさしくベストだったのである。
 そして最高クラスの気配感知スキルを持つランサーにあって、森の中はまさしくおぞましき気配だらけだが、それでも三カ所だけ気配が全く感知できぬ場所がある。それだけ把握できれば、ランサーの視線が森の中に埋もれた《方舟断片(ノア)》の姿を枝と枝との間からはっきりと捉えるのに難しくはない。
 そのまま上空からマッハを超える速度で森へとランサーは突撃していった。クレーターを作り出したその衝撃だけで目標となる《方舟断片(ノア)》周辺の樹木が景気よく吹き飛んでいく。すでに再生は始まってはいるが、その速度は遅い。よくよく見ればただ再生するだけでなくその密度を高めながらの再生だ。彼らも樹木ながらランサーをただ者でないと看破し、恐れるようにその対抗策を練っているようである。
 この状況なら、しばらく話ができる程度の時間は安全だろう。
「……どうやら、助けていただいたようですね。ありがとうございます」
 時間の檻から解放され外界からの急激な修正を受けたことでティーネの身体は悲鳴を上げていた。それでも痛みを無視しながらティーネはランサーに謝意を示した。
「礼には及ばないよ。君に死んで貰うと僕が困るってだけだからね」
 なんでもないように答えるランサーではあるが、その言葉は本心である。ティーネもその言葉の意味を違えたりはしない。
 真にランサーが慮るのはマスターである銀狼と親友だけである。単独行動スキルを要する親友であれば、マスターたるティーネの存在はもののついででしかない。必然的にその優先順位は低くなる。
 助けられたのが銀狼であったのなら、ランサーは銀狼を連れて安全地帯へ移動するのだろうが、ティーネであればそんな安全策を取りはしない。ランサーがティーネに行うのはあくまで《方舟断片(ノア)》からの解放のみである。
「さて、念のために聞いておくけど、これから君はどうするつもりかな?」
 ランサーと共に同行する、というのであればできる限り守るつもりはある。だが、まがりなりにもティーネはアーチャーのマスターだ。ランサーとしては親友と同様に気高い魂を持ってもらいたい。
 率直に言えば、ランサーと同行しても彼女は何の役にも立ちはしない。それならば、自力でこの《茨姫(スリーピングビューティー)》からの脱出してもらいたいところである。
「これから、私はアーチャーの元へ向かいます」
 そうしたランサーの都合を踏まえた上で、ティーネは酩酊状態から脱しながら今後の方針をランサーに伝える。
 捕らえられ、こうして封印状態に陥ったことから同じような人質が他にもいることは簡単に推測がついた。ランサーがわざわざティーネが封印されているこの場に来たことから、どこに誰が捕らえられているのかは判別がついていないに違いない。
 そして、アーチャーのマスターであるティーネにはアーチャーの居場所が分かるし、その動きから目的地の推測もできる。この場所からは随分離れたところへ向かっている。同じような封印宝具がそこにもあるのだろう。
 目的はランサーと同じく人質の救出。
 ならば、ティーネの役割はアーチャーのマスターとしてアーチャーの援護に回るべきだ。援護とは別に武器を持って共に戦うだけではない。ランサーがこの森に駆けつけ別方向へ向かったと伝えるだけでも、アーチャーの行動を効率化することができる。
「それは助かります。人質はアーチャー、ランサー、アサシンのマスターらしいので、残る場所は二カ所。僕がもう一方にいけば全部回れることになる」
 ティーネの無謀ともいえる行動指針に異を唱えることなく、ランサーは自らの行動を優先した。
 確かに、ティーネの行動は全体の効率という面では正しい。ただし、その危険性はランサーと同行することに比べて大きな差が出る。
 この《茨姫(スリーピングビューティー)》でティーネのように霊脈から魔力の供給をダイレクトに受ける魔術使いは力を十全に出すことはできない。自前の魔力こそ満ちているが、効率よく動かねばアーチャーと出会う前にガス欠に陥るのは間違いない。判断を少し間違えれば森に吸血され殺されるのは容易に予想が付く。
 しかしそれでもティーネに選ぶ余地はない。人質となったのはティーネのミスだ。そのミスを濯ぐためにも、そしてアーチャーにマスターとしての気概を見せるためにも、ティーネは自らの役割を全うしなければならない。
「なら、僕は失礼するよ。くれぐれも、気をつけるようにね」
「いいえ、ランサー。私からもひとつだけ聞いておくべきことがあります」
 ティーネはアーチャーがいると思しき場所を正面に、反対方向へ行こうとするランサーを呼び止めた。
 両者共に背を向けたまま、立ち止まる。
「ランサー。あなたは、この聖杯戦争の終着点を理解していますよね?」
「夢の中でアレを見たからね。そんな質問をするということは、ティーネ・チェルク、君はアレを直接見たのかい?」
「はい。情けなくも、無様に捕まってしまいましたが」
 両者が共通して思い描く存在は、その強大さ故に《方舟断片(ノア)》によって守られている。否、封印されている。
 故にこの戦争の終着点は、全部で三つとなる。
 ひとつは、このままこの偽りの聖杯戦争を続けること。
 ひとつは、ティーネによって強固な封印を施すこと。
 そして、最後のひとつは。
「……多分、君が思い描く最後の方法は夢物語だよ」
 ティーネの思考を読み取ったランサーの答えは素っ気ないものだった。
 ランサーにとっての最大の目的は親友との再会と決着。それ以外は、どうでもいいものだ。この森でティーネが死ねば、賢明な選択肢は最後の一つだけとなる。
 英霊として、その使命にランサーは気付いている。しかしそれに気付きながらも行動しないとなれば、後は第二次偽りの聖杯戦争が開催されるだけとなる。
 それで良い、とランサーは思う。
 それで良い、とティーネは思わない。
 次に開催される偽りの聖杯戦争に、ティーネのような存在がいるとは限らない。ならば、このままこの聖杯戦争の真実に気付くことなく愚かなサバイバルゲームが続いていく可能性の方が非常に高かった。
 この偽りの聖杯戦争の真実。

 それは参戦する全ての目的に、願望機など必要ないということ。

 これはあくまで推測ではあるが、ティーネは確信している。
 彼女がその目的を把握している者はアーチャー、ランサー、ライダー、バーサーカー、銀狼、椿、フラット、それに自身を含めた八名。この内明確に聖杯を欲しているのはバーサーカーただ一人。この時点ですでに参加者の過半数が聖杯を目的としていないのだ。これではあまりに偏りすぎている。
 そして残るキャスター、アサシン、署長、ジェスターの目的も実際に聖杯を必要としていない。彼女の推測は的を射ているのだ。
 そもそも彼らサーヴァントを喚びだした偽りの聖杯からして、願望機とはほど遠い存在であることをランサーとティーネは知ってしまった。優勝商品がないのだから、偽りの聖杯はこの場への参戦をもって代わりとしているに過ぎない。
 参加することに意義がある、などとこの戦争の主催者は嘯いているに違いない。
 欺瞞に満ちたこの聖杯戦争は、勝利条件を満たすことは重要ではない。敗北条件を排除することこそが正解だ。即ち、敵を倒さず争わず、命を大事に生き残る。手と手を取り合い協力関係を結ぶことこそが最善。
 もちろん従来の聖杯戦争でそんなことが起こり得る筈がない。
 願望機は必要なくとも、各サーヴァントの望みは聖杯戦争の過程によって叶えられるよう仕組まれている。己が欲望を叶えるためには、必然的に選ばれる選択肢は一つだけ。戦いの最中にしか見いだされぬ望みならば、誰も平和な手段を模索することもないだろう。
 だからこそ、本来召喚された目的を全サーヴァントは忘却するよう仕組まれているし、ランサーのように気付いたとしても、協力的ではない。
 ティーネは笑いたくなってくる。
 畢竟、最善の選択肢が不可能ならば、最良の選択肢を持って終わらせるしかない。そしてその選択肢は、ティーネにしか選ぶことはできない。
 ティーネの犠牲をもって、この聖杯戦争を終わらせてみせる。既に一度失敗しただけに、次こそは必ず成功させてみせる。
 この命は、ここで散らせるためには使えない。
「……私は、ここでは死にません」
「良い覚悟だね。君の勇気は賞賛に値する」
 そうして二人はついに目を合わせぬまま前へと歩き出す。再生し生い茂る木々がそれぞれ両者を襲いかかるが、ランサーはティアマトを一振りし、ティーネは無音詠唱の炎によってその枝葉を撃退した。
 その歩むべき道は、真逆にあった。


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 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の戦闘において絶対視しているポイントは二つ。それは数の利と地の利である。
 キャスターにより昇華された宝具を装備しその戦力は大幅に上昇したが、それもあくまで補助として利用されているに過ぎない。決して、宝具を絶対視しているわけではないのである。
 この魔の(茨姫(スリーピングビューティー))が用いられたのは地の利を制するためだけ。隠れることはできても盾にすることはできない普通の森と違い、この《茨姫(スリーピングビューティー)》は宝具の一撃を受け止めるだけの強度がある。その攻撃性などはおまけに過ぎないないのである。
 そして数の利。狼煙によってアーチャーの居場所を知らされた(二十八人の怪物(クラン・カラティン))の小隊は次々とアーチャーの元へと殺到し、波状攻撃を仕掛けることによってアーチャーをひたすらに消耗させ、着実に追い込んでいく。
 以前にアーチャーを仕留めるための戦力を試算したことがあったが、理想的条件下であっても最低五小隊が必要だと算出されている。現場運用を考えると小隊はその三倍は必要となってくる。事実上この作戦のために《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の総力を結集する必要が出てくるため、キャスターの原案をたたき台に作戦本部は十回以上修正を加えている。
 内心、楽しみにしていただけに興醒めしたのは事実だった。
 キャスターが事前に知っていた作戦内容と現状に然程変わりがない。地表への不発弾被害を考えずクラスター爆弾を使用したことは単純に驚いたが、兵の運用に工夫が必要な作戦だというのに、そこには何の意外性もなかった。
 別に数えたわけではない。一部地域の兵員密度から森の広さを考えると、どうやっても《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》全戦力の六割以上が集結していることになる。黄金王ミダスとの戦闘などでかなりの人数が戦線離脱状態に陥っている筈なので、事実上の全戦力が投入されているに違いない。
「こりゃ、ライダーには酷な作戦だったかな?」
 目を凝らせばなんとか判る狼煙が遠くに判別できる。場所柄からしてライダーが奮闘しているのだろう。間引きをライダーに任せたわけだが、この調子だと想定以上の成果を上げているに違いなかった。
 キャスターは手元の魔力針を眺め見る。東洋人から交換条件で手に入れたもので、強い魔力を察知できるらしい。名前も彫られており明らかに他人の者だがそれを無視してキャスターはアーチャーの魔力だけに反応するよう細工を施していた。
 ライダーとこの魔力針のおかげで、キャスターは鈍足でありながらも何とか無事アーチャーに先んじることに成功していた。
 その針は目の前の一点をぶれることなく指し続ける。今にも壊れそうな反応を確認して、キャスターは魔力針を懐へと仕舞い、漆黒の匣を背に腰を下ろしてアーチャーを出迎えた。
 アーチャーの行く先は魔力針なしでは分からなかったが、その居場所だけなら遠くからでも分かる。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の狼煙もあるし、何より重戦車が地雷原を走り続けるような轟音が周囲を揺らし続けていた。そしてその音はもうすぐそこまで近付いてきている。
 森の奥から周囲を丸ごと吹き飛ばしながら現れたアーチャーの姿は、赤く血に濡れていた。その大部分は返り血であろうが、その一部はアーチャーのものに違いない。古城並の防御力を誇っていた筈の重装甲の鎧はその一部が欠落し、凹み、そして薄汚れ元の輝きを見いだすことはできない。
 想定通りに気力・体力・魔力が大幅に消耗された状態。しかしさすがは英雄王というべきか、その疲れた姿にあって所作のひとつひとつに凛々しさすら感じ取られる。
 劇作家として、アーチャーのそうしたオーラにキャスターは見惚れていた。アーチャーから放たれた一刀に対し瞬き一つもせずにいたのはただそれだけの理由である。
 キャスターの真横をすり抜け背後にあった《方舟断片(ノア)》にその一刀が深々と突き刺さる。投擲された宝具は魔力無効化の原典。その効果は突き刺さった直後から発揮していたらしく、漆黒の匣は崩壊し、宙へと霧散していった。そしてその中身は聞くに堪えぬ悲鳴を上げてぐしゃりとその場へと落ちていく。
「ふん。外れか」
 その光景にアーチャーは嘆息した。
 《方舟断片(ノア)》に封じられていたのは通告されていたマスターなどではない。あらゆる可能性を詰め込まれた確率の霧を概念核として生み出された生体宝具、その名もシュレディンガー。
 キャスターが初期に作成した制御不能の試作品にして《方舟断片(ノア)》の実験台となった文字通りの怪物。
 並の幻獣では歯が立たぬ力量を備えていた筈だが、《方舟断片(ノア)》と共にその魔力を無効化されればその存在を確定できず、溶けたタコのような形でしか顕現できない。時間を与えれば復活の目もあったかもしれないが、外界との時間修正によってすぐに動くこともままならない。そうこうしている内に周囲の大樹に捕食され、欠片も残さずあっけなく退場していく。
 随分と粗雑な罠だ。アーチャーを嵌める罠がこれでは通用せぬことぐらい理解できそうなものだというのに。
 いや、とキャスターは考え直す。これは単に倉庫の奥に眠らせるよりかはマシ、という程度で使ったのだろう。だとすればいよいよキャスターの予想通りとなる。
 そんなキャスターの思索の間にも、剣が、斧が、槍が、黄金の軌跡を描いて降りかかる。そのいずれも座ったまま動かぬキャスターに当たることはなく、もっぱら傍らに突き刺さり地面を抉り、大樹を貫通させるのみ。この距離でアーチャーが狙いを外すことなどあり得ないことだが、この現実をアーチャーは冷静に受け止めていた。
「貴様か。あの《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とやらに紛い物を作った贋作師は」
 近付けば自ずと分かるサーヴァントの気配に、先ほどまで戦っていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》との関係を推察したのだろう。キャスターの予想とは異なり、アーチャーは特に不機嫌になる様子もなくキャスターに問いかけた。
 その問いに、キャスターは即答せず、まずは目と鼻の先、大地に突き刺さった宝具をしげしげと眺め見ていた。これが全ての宝具の原典と謳われる本物。その姿形、秘めたる魔力は勿論のこと、オリジナルのみが持つ穢れなきその輝きは、祖を同じくした宝具であったとしても全く異なるモノだ。
 なるほど、これは、美しい。
 自然、キャスターはその歯をむき出しにして口角を上げた。
 本人は笑っているつもりだった。しかし、もしここに第三者がいたらその感想は別物であった筈。それは、獲物を前に舌舐めずりをする肉食獣の顔だ。もしくは、欲しがっていた玩具を目の前に出された幼子の顔であろう。
「贋作とは失礼だな、アーチャー。俺の作品はあんたの原典を上回っていた筈だぜ?」
 こんなつまらない宝具を、よくも恥ずかしげもなく使えるな、とキャスターは足元に突き刺さった小斧をアーチャーへと放り投げる。残念ながら筋力の足りぬキャスターではアーチャーの元へと届くこともなかったが、返礼としては満足していた。
「それは数の話か? 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とはよくいったモノだ。人数が明らかに二十八人よりも多いではないか」
「はっ。残念ながらそんなもんはミスリードですらねぇよ。かの大傑作『三銃士』だって四人組だろうが」
「くだらんな」
 キャスターの物言いにアーチャーはその一言で切って捨てる。心底、言葉通りくだらないと思っているのだろう。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にしろ、贋作宝具にしろ、どんな事情があろうと相手にする価値はない。
 邪魔する者は排除するのみ。それだけだ。
 その赤い瞳でアーチャーはキャスターを射貫く。そこに怒りはなく、ただその態度と能力を観察し、殺しておくべきか考えただけに過ぎない。並の者なら震えが止まらぬその視線であっても、キャスターは傲岸不遜にも、睨み返してみせた。
「へっ、これ以上雑種と語り合うことは何もないっていうのかい、王様よぅ」
 キャスターの挑発に、アーチャーはその眼を猫のように細めると無言で《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》を展開した。森の中ということもあって確かに三つか四つを射出するので精一杯であるが、それは動き回り的を絞る必要があるからだ。立ち止まって木々の隙間を上手く使えば宝具の一〇や二〇くらいは射出できる。
 今は一分一秒が惜しい。《方舟断片(ノア)》の中身が判明した以上、急いで次に向かうべきなのは理解していた。キャスターは明らかに戦闘態勢にはない。いかに重要人物であろうと今は安い挑発に乗って時間を浪費するつもりもなかった。それでも、わざわざアーチャーが宝具を大量に取り出し全力で相手をしようとしたのには理由がある。
 キャスターを観察してアーチャーは気付いていた。
 この男は、既に先手を取っている。
「おっと。言い忘れていたが、俺はキャスターのサーヴァント。戦闘能力では間違いなく最弱のサーヴァントだ」
 話を聞くつもりなど、アーチャーにはない。その機会は既に逸している。
 端から見ればアーチャーの先手なのだろうが、本人は後手に回ったと悟っていた。返答の代わりに、展開させていた宝具を、一斉射してまだ見ぬ先手を払い、キャスターを片付ける。
 そのつもりだった。
「だからよ、最強。最弱が教えてやるぜ。敗北の味ってものを」
 ここに生い茂っていた《串刺大樹(カズィクル・ベイ)》はキャスターを中心に全てアーチャーによって吹き飛ばされていた。ここに至っても、キャスターは何もしていない。相変わらず、ただ座り込んでいるだけだ。
 浅黒く、やや肥満体であるキャスターはお世辞にも美しいとは言い難い。王気が目に見えるようなアーチャーと較べると見窄らしさすら感じられる。だがその全てにおいて、キャスターはアーチャーに劣っているわけではない。
 キャスターがアーチャーよりも優れているもの。
 それは、勝利への確信だ。
「俺の能力は“昇華”だ。原典を上回ることのできる宝具を生み出す能力っつー触れ込みだが、実際にはそんなに大したもんじゃねぇ。出力がピーキーだったり、制約が多くなったり、コストがかかったり、欠点も多い。そしてその代わりに、オリジナル以上に強力にもなる」
 キャスターの“昇華”は確かに原典を上回っているかもしれないが、その分下回っているともいえるのである。
 だからこそ、キャスターの作品は面白いのだ。
 無垢な輝きなどよりも、キャスターは汚れた芸術を好む。
 完成された過去よりも、キャスターは可能性に溢れた未来を好む。
 キャスターは胸元のポケットの中にある自らの宝具を意識し、胸に手を当てる。以前バーサーカーに見せたときにはソードオフショットガンの形を取っていた《我が銃は誰にも当たらず(オール・ミス)》は、昇華され、その媒体も金貨へと移っていた。
 その名も、《我が人生は金貨と共に有り(アレクサンドル)》。
 自らの召喚媒体であり、マスターへと一時預けた、命よりも大事な金貨に、キャスターは惜しみなく持てる魔力と能力の全てを持って昇華してみせた。
 《我が銃は誰にも当たらず(オール・ミス)》は標的として狙うと当たらなくなる宝具であるが、《我が人生は金貨と共に有り(アレクサンドル)》は標的として狙われても当たらなくなる宝具へと変わっている。謂わば、究極の弾避けの加護である。
 アーチャーの《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》はキャスターに通用しない。それは初撃で気付いている筈だが、アーチャーは構わず宝具を展開し射出してくる。物量に押されれば、喩えどんな加護であっても最終的には英雄王にひれ伏すことになる。実際、あと何度か射撃を繰り返されれば、この金貨は砕け散り、キャスターは串刺しとなって消滅する運命となる。
「ハハッ。さすがだぜ、英雄王」
 人質の処刑執行時間の差し迫ったこの状況で、自らの宝具を絶対視でき、無駄かも知れぬ選択肢を選べるアーチャーをキャスターはうらやましくさえ思える。
 このアーチャーを打倒しうるこの機会に、感謝すらしたくなる。
「でも、これでチェックメイトだ」
 キャスターのその一言に、アーチャーの有無を言わせぬ射出が、その瞬間にピタリと止まった。勿論、アーチャーはそんな命令をした覚えはない。
「何だ?」
 射出しようとする自らの意志に反して《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》が動かない。宝具の鋭い矛先や剣先は既に出ている。が、それ以上の反応が返ってこない。
「こういう演出も、面白ぇだろ?」
「……一体何をした、雑種」
 キャスターの先手。その存在に気がつきながら逃げなかったのはアーチャーのミスともいえた。不可解で認識できないのであれば、下手な対処をするべきではない。逃げていたのなら、まだ最悪の事態に陥る可能性は低かっただろう。せいぜい爪の先の垢程度の違いであったとしても。
「あんたの攻撃は封じさせてもらった。ただそれだけだ」
 そんな分かりきった答えに余裕を持ってキャスターは答える。そのわずかな間にも自らの知識を照らし合わせ現状を探ってみるが、心当たりはない。《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》を急ぎ再点検してみるも、原因は不明のまま。
 ここに来て、初めてアーチャーに焦りが生じた。
 何かを仕掛けられた以上、今更ここで撤退は許されない。
 アーチャーは自らの最大の強みが莫大な財であることを自覚している。アーチャー自身の能力や、固有宝具である乖離剣ですら結局のところおまけでしかない。どんなに火力があろうと、火力だけで打開できる局面というのは非常に少ない。この莫大な財によってそれがどんな敵や環境であっても圧倒的制圧能力を有するが故に、アーチャーは最強の名を欲しいままにすることができる。
 その《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》が上手く機能しないとなると、これは放置できぬ問題だ。この場において早急に対応し、根本的解決を図る必要がある。
 幾つか思いついた対処策のひとつとして、試しに自らが最も信頼している宝具(天の鎖(エルキドゥ))を取り寄せてみせる。やはりその先端しか現れ出でぬ宝具であるが、掴めばジャラリとその姿を主の前へ見せてみせる。
「封じられたのは射出機能のみ……ということか」
「いいや、違うさ。《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》は戸惑っている。そう表現した方が適当だな」
 アーチャーの答えを否定するようにキャスターは答える。アーチャーが実際に行ったのはただの確認であるが、キャスターはその考えを補足する。
 宝具が戸惑う。それは一体どういう意味なのか。
 その意味は、程なくしてアーチャーの理解するものとなった。
 キャスターとアーチャーの中間地点に、一体どこにあったのか周囲から黒い霞が集まり出でる。黒い霞はその厚みを徐々に増していき、すぐにそれが人型であることに気付かされる。足があり、手があり、顔がある。細かいディティールが修正されると、それは鎧を着込み、その鋭い眼差しをもった男の姿をとっていた。
 一言で言えば、それは黒いだけで、アーチャーと瓜二つの存在だった。
 そしてその手にあるのは。
 ――鍵剣。
「ドッペルゲンガー、ダブル、離魂病……世界に同一人物が同時に二カ所以上に現れる自然発生的な呪いは数多い。それを意図的に作り出し、オリジナルにとって変わる。俺が対アーチャー戦に用意して置いた《王の入場(ドリアン・グレイ)》だ」
 キャスターの勿体ぶった説明に、アーチャーは有無を言わさず手にした《天の鎖(エルキドゥ)》を偽物のアーチャーへと投げつける。その咄嗟の判断にはキャスターも感心する。
 ドリアン・グレイの絵画をはじめとして、対象を実体化させる宝具や術は多い。英霊という格上の存在を無条件かつ即座にコピーするなど不可能である筈だが、アーチャーはそんな些事に拘泥しなかった。
 より大切な事実はアーチャーの目の前に顕現した黒いアーチャーが確かな敵戦力として在るということ。その手にある鍵剣が宝物蔵の制御に割り込みを入れている事実。
「安心しな。確かにこいつは偽物だ。本物の英雄王に匹敵はしない。けどな、その手にしている鍵剣はお前が持つ鍵剣と同じく本物だぜ」
 キャスターの言葉にアーチャーは合点がいく。
 あの鍵剣は、アーチャーがスノーフィールドに召喚された時の召喚媒体。アーチャー以外に扱えぬ代物だったためにそのまま捨て置いたが、それがこんな形で徒となるとは。
 瞬間、後悔の念がアーチャーに宿る。手にした《天の鎖(エルキドゥ)》こそ本物のアーチャーの支配が及んでいるが、その他については偽物のアーチャーの意志が介在している。この瞬間はいかな思いであれ油断すれば命取りになりかねない。
 《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》は戸惑っている。何故なら片方は射出を要請し、片方はその射出の中止を要請しているからだ。結果として安全機構が働き中止を優先しているが、ここに新たな命令が付け加えられる。
 新たな宝具を、射出せよ。
 そのオーダーに《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》は即座に応えた。今度は、それを中止する命令が下されることはない。
 本物のアーチャーが放った《天の鎖(エルキドゥ)》は黒いアーチャーが射出した宝具によってあっけなく防がれる。この行動からアーチャーはキャスターの言葉の意味を正しく理解した。《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》は二人いるアーチャーのどちらが所有者なのか判別できない。だから、両方の命令を忠実に実行してみせる。
 そのルールを理解した瞬間、二人のアーチャーは同時に《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》を展開し、宝具を取り出し合う。そして取り出した瞬間に、宝具の射出命令を中止させる。結果として宙に互いに向かい合って何百もの宝具が展開されるが、ただの一射たりとも放たれることはない。
 これでは千日手だ。
 確かにオリジナルのアーチャーの方が優れている筈だが、残念ながら一瞬で蹴りが着くほどに実力差は離れていない。もしこのまま宝具の射出だけで決着をつけようというのなら、千日と言わずともそれなりに時間はかかることになる。
 だが、思い出して欲しい。キャスターはこう言ったのだ。
 チェックメイト、だと。
「この俺を、忘れちゃいないかな、アーチャー?」
 ゆっくりと、キャスターは立ち上がる。
 もはや慌てる必要はない。型に嵌まってしまったアーチャーがキャスターを避けて通ることなどできはしない。
 キャスターは戦力と呼べる存在ではない。それはキャスター自身自覚しているし、アーチャーも看破している。喩え偽物のアーチャーに加勢したところで天秤の針は未だ本物に傾いている。
「褒めてやる。この我を前にこうも姑息な手段を用いるとはな」
 アーチャーは激昂しながらも、尚冷静に対処している。《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》が通用しないとはいえ、既に射出された宝具は利用できるのだ。周囲に撒き散らされ突き刺さったままの宝具を手に取り、偽物へと斬り込んでいく。
 その選択は、正解だ。《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》に固執していては敵を倒すことはできない。一般的なサーヴァントと同じく、自ら手にした武具をもって偽物を打倒するしか打開策はない。
 罠に嵌められたと激昂し我を失えば偽物にも勝機はあったが、アーチャーは我を失っていない。その傲慢さは影を潜め、偽物を侮ることもない。
 唯一アーチャーが誤っていると指摘するならば、キャスター自身はまだ、何もしないということのみ。
 姑息な手段は、これからだ。
「宝具――開帳」
 本物と偽物、両者がぶつかり合うその横で、キャスターは自らが持つもう一つの宝具をその手に宿す。

 それは光り輝く巨大な腕だった。

 キャスター自身の腕が単純に肥大化したというわけではない。巨人の腕だけが呼び寄せられた印象を与えるが、それと反比例するかのようにその腕が次第に目も眩む美しさをも併せ持ってくる。その輝きは何者をも寄せ付けぬ光を放ち、それが奇跡を成就させる神の御手だと誰もが一目で理解できる荘厳さ。
 そもそも、キャスターが行う“昇華”とはスキルなどではなく、この宝具が持つ特性の一面に過ぎない。元となる宝具をその御手でもって使用者の思うがままに改変する。ただそれだけの宝具であるなら、片手落ちだ。
 材料なくして、この宝具は役立たず。
 故にその能力は、“奪取”と“昇華”の二面性を持っている。
「見るがいいさ英雄王。これがお前には決して持つことのできぬ我が神の手」

「――宝具(お前の物は俺の物(ジャイアニズム))

 自らの宝具名すらシェイクスピアからの盗作。だがその名は確かにキャスターの宝具の名にふさわしいものだった。
 元々、キャスターは盗作したことで一躍世間から原典を上回るアレンジ力を見せつけた英霊ではあるが、盗んだものは何も形のないアイデアだけではない。
 劇作家としての名があまりに大きいためスポットが当たりにくいが、キャスターは実際に革命の最中に話術や偽造した命令書などによって敵陣へ乗り込み、その武器を大量に強奪した功績を持っている。
 相手の武具を“奪取”する能力といえば確かに強力ではあるがその成功率はかなり低い。何故なら、多くの英霊はその宝具の担い手として結びつきが極めて強固であるが故に、奪い取ることは事実上不可能だからだ。署長が世界各地から材料を集めてくることによって“昇華”のみを今まで活かしてきたが、この地この時にあって、ついにその能力をキャスターは使用することが可能となった。
 アーチャーと《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》の結びつきは強いものではない。それは単に捧げ物を入れておくための蔵であるからだ。蔵は利用するものであり、担うものでは、ない。
 それでも英雄王という格付けはキャスターであっても手が届くことはない。だからこそ、その宝具と英霊との結びつきを弱めるためにキャスターはありとあらゆる策を用意した。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が用意していた対アーチャー作戦に横槍を入れ、椿を用いて止めを刺されぬよう戦力を間引き、アーチャーを消滅させぬ程度に弱体化させた上で、秘中であった偽物で蔵との繋がりを弱め、この場を用意した。最初からキャスターの狙いは人質ではなくアーチャーの蔵にあった。
 この瞬間だけが、唯一のチャンス。
 全ての情報が暴露されながらも、マスターである署長や狡猾なファルデウスですらもあり得ぬ可能性として切って捨てた勝機。それを今まさに、キャスターは掴み取ろうとしていた。
 キャスターの巨大な腕が、王の蔵を掴み取る。この手は、奪う物が大きければ大きいほどその大きさを増していく。掴み取られた衝撃に空間が波打ち、歪曲した衝撃波によって並の宝具にも堪えうる強度を持った周囲の木々が根こそぎ薙ぎ倒されていく。
 アーチャーが口元を噛みしめ血が滴り落ちた。自らの財が根こそぎ奪われていくというのに、当のアーチャーは為す術もない。何かをしようとするならば、その瞬間に偽物の自分が襲いかかってくる。そうでなくとも、周囲からアーチャーを狙ってくる枝葉は無視できぬ存在だった。
 怒気を孕んだその表情は筆舌に尽くしがたい。だがそんな状況にあっても、この期に及んですら、アーチャーは無様に喚き散らすことをしなかった。口内を噛み千切り、その恥辱を確実に己の内へとため込んでいく。
 それが、一体どれ程の役に立つのか、分かる筈もない。
 周囲を覆い尽くすように育った樹木は、宝物蔵を失ったアーチャーを逃がしはしまい。偽物も、その攻撃を休めることなどしない。キャスターが、この期に及んで手加減する道理もない。
 そこに奇跡は起こらない。
 強奪の嵐は、程なくして消え行く。
 かくして、この聖杯戦争における究極の番狂わせ、アーチャー対キャスターの一戦はキャスターの《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》奪取により終結することとなる。
 この《茨姫(スリーピングビューティー)》での役割の一つが、ここで終わる。キャスターによる終止符は予想外であろうが、アーチャーをこの場に留めておくという作戦は成功裏に終わっていた。
 対アーチャー作戦は、これで終了。残る作戦は、事実上あと一つ残すのみ。
 予定されていた、人質処刑の時間まで、残り一分を切っていた。


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 時間は少しだけ遡る。
 《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》、いや、ファルデウスの作戦開始と同時に上方から響き渡った衝撃はそれだけで何が起こったのか容易に予想がついていた。
 相次いで報告される被害報告は、いずれも七番格納庫を起点としたモノだった。
「七番格納庫……やはり、ランサーが原因なんでしょうね……」
 格納庫は完全に崩壊し潰れており、周辺施設での救助作業も相まって中の様子は確認できない。だがランサー以外を原因とする崩壊などあり得る筈がなかった。
「いやぁ、しかしこれも予想通りに動いてくれると尚更キャスターの行動が分かりませんねえ」
 生き残った施設内のカメラと砂漠地帯を遠距離から撮影しているカメラを同時に見ながら、ファルデウスは自らの策を再検証していた。
 そう、今回の対アーチャー作戦の発案者でありながらファルデウスは現場にはいない。彼はスノーフィールド地下にある基地でその経過をコーヒー片手に足を組みながら優雅に観察するだけである。
 森を中心として半径約一キロ地点に自らの部下を配置し、定期的に連絡を取っているが、ただそれだけ。どんなイレギュラーが起きようとも、タイムスケジュールは“上”のトップが直接介入してこぬ限り変更できない。
 そのために事前準備は周到に用意されている。《茨姫(スリーピングビューティー)》を形成し、実働部隊として投入されたのは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》のほぼ全戦力。効率を無視した広域通信妨害に、上空に配置された国際法違反のクラスター爆弾。森周辺の地雷原とその向こう側に配置された対サーヴァント仕様の機関銃の数々。
 それでいて、必殺の一撃も既に放たれている。
 サーヴァント一人にこれだけコストをかけていては採算が合わないが、それだけの価値が例外的にアーチャーにはある。事前に刑の執行通告を撒き、それ以外にも色々な策を練って可能な限り他のサーヴァントや北部原住民をこの場へ誘い込みたかったが、食いついたのが無力なキャスターと令呪を持たぬマスターではあまり効果はなかったようである。
 それよりも、念のためという程度でわざと作戦を漏洩しておいたランサーがこうも容易く引っかかってくれたのは好都合を通り越して意外ですらあった。
「クハハハハハッ。作戦通りにいっているというのに、浮かぬ顔であるな。ファルデウス殿?」
「だからですよ。こうも予定通りだと逆に怖くなります。では、食客として助言の一つでも聞いても良いですか、ジェスター・カルトゥーレ」
 いつも通りの顔であるのに、浮かぬ顔と評されたファルデウスはゆっくりと部屋の隅で壁を背にニタニタ笑う男に視線を向ける。
 人質として通告されている筈のアサシンのマスター、ジェスター・カルトゥーレ。ティーネとの一戦で邪魔されはしたが、この聖杯戦争に単独で挑み真相へと最も近付いた存在。だが、ティーネが失敗したことで逆にジェスターの腹は決まった。
 組するならゲームの駒より盤外のプレイヤーだ。その方が面白いし、ジェスターが抱く二つの目標物、この世界とアサシン両方に影響を与えることができる。何より、未だその存在が良く分からぬ東洋人に迫ることができる。
 《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》をはじめとして数々の暗躍を繰り返しておいて今更感があるが、ジェスターはファルデウスと接触し、この立場に収まったわけである。勿論、これはかつて署長に約束した上が把握できぬ三日間の猶予があるからこその処置。公式には未だ敵同士という位置づけではある。
「ではまず、現状を確認するところからはじめてみるのはどうかね?」
「セオリーではありますが、既にこうしてしているではないですか」
「いやいや、私が確認するべきだというのは南部以外、だよ」
 南部に戦力を集中する、ということは他が手薄になる、ということだ。もしこれを逆手に取るならば、他で何かをしている可能性が高い。
「それも問題なし、でしょう。何の報告もありませんし、カメラに異常もありません。肩透かしもいいところです」
 この場にいるのは別段二人だけではない。今もって南部砂漠地帯を監視するオペレーターもいるし、街中に目を光らせているカメラの映像もモニターに映し出されている。異常があれば即刻判明している。
「そうですかね。私は何かが起こっているように思えてならない」
 そうした発言のわりにジェスターの言葉は実に愉しげだった。ファルデウスをからかっているかのようにも思えるが、そうした予感は別にジェスターだけのことではない。当のファルデウスも胸騒ぎがしてならない。だからこそ、内心では浮かぬ顔をしているのである。
 ファルデウスは、前任者である署長の動きが気になって仕方がない。キャスターの意図は分からないが、あれが囮という前提に立てば警戒するのも当然。相手はこちらの手の内を総て理解しているのだ、急場凌ぎで登用されたファルデウスよりこの地に精通しているのは間違いない。何をしてくるのか想像つかない部分がある。
「……コマンダー。G8より報告。ケースC8を確認。スペード4と8です」
 オペレーターの急な報告にファルデウスはむしろ安心した。イレギュラーではあるがこれは想定内。決まった台詞を使うだけで事足りる。
 ケースC8。現場からの《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の離脱を意味していた。
「作戦中の全トランプに離脱は許されない。警告してください」
「手信号からスペード8は重傷。両名共に加護を損傷。即時離脱を求むとあります。現在もスペード8を庇い4が森と交戦中とありますが、よろしいのですか?」
「愚問です。森の中から逃走するようなら威嚇射撃。それでも逃げるようなら銃殺してください」
 変わらぬ口調で、ファルデウスはあっさりと二人の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を見殺しにする。報告が本当であれば加護を失った以上、もはや森は彼らを逃しはしない。
「おやおや。可哀想なことじゃないか。不必要な犠牲を強いるのは本意ではないだろう?」
「敵に操られている可能性があります。事前に通達しているのですから、当然の処置でしょう?」
 からかうようなジェスターに表向きの説明をするファルデウスは笑うしかなかった。想定通りなら《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の損耗率は処刑時間までに四割を超えている。これにはこうしたケースでの数も含まれている。
 勘の良い《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》なら作戦に気付くこともあるかもしれない。だがそのために通信網を封鎖したわけだし、念のために説得力を持つキャスターとの接触も禁止した。軍隊において命令とは絶対だが、軍人ではない彼らがそれにどこまで従順に従うか、ファルデウスはそこに信頼など置いていない。
「ッ! スペード8、4を担ぎ森から離脱! 威嚇射撃には応じず! 宝具(毒虫化(グレゴール))を展開! 地雷原、突破していきます!」
「お。あれが噂のカフカの『変身』を昇華した宝具か。一体何を元にしたらあんな宝具ができるのかね」
 オペレーターの緊迫した声にジェスターは興味深げにモニターに映し出される黒い虫と化しつつある《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に見入る。
 追い詰められれば追い詰められるほどその変身宝具はその真価を発揮する。軽く硬い甲皮に強靭な筋組織は人間を遙かに超越する。頭部の触覚で匂いを感じ、肢(アシ)に生えた微毛で振動を感知、尾葉と呼ばれる器官で気流と音を捉えてみせる。
 この追い詰められた状況で、その能力は遺憾なく発揮されるだろうが、その宝具ランクは決して高くない。ゴキブリ並みの生命力などと揶揄されることもあるが、新聞紙の一撃で死ぬ程度でしかないのだ。原典ですら、妹が投げつけたリンゴが致命傷になるのである。
 ましてや、機関銃の一斉掃射に耐えられるわけがない。
「G8に通達してください。構わず殺しなさい、と」
 そのために用意した、といっても過言ではない機関銃の設置だ。宝具を身に纏っていたとしても、人の身にその威力は高すぎるし、弾もこうした事態を見越したものだ。
 そしてファルデウスの指示通りに、現場の部下は機関銃を掃射した。地雷原を抜け出し何とか仲間を助けようと逃げるスペード8の気高き精神こそ賞賛に値するが、結果的に仲間と自分の命を縮める結果となる。
 掃射された銃弾にスペード8はよく耐えた。しかし、撒き散らされた銃弾が運悪く地雷の一つに当たったのだろう。間近での爆発に耐えきれず、スペード8は宙高く舞い上がり、そして背負ったスペード4共々地へと落ち、その姿通り、虫のように死んでいった。
 念のために死体に数発打ち込んでいく光景をモニターで見ながらファルデウスは、自身の不安が的中していることに、遅まきながら気づき始めていた。
 撒き散らされる銃弾が、明らかに少ない。
 既に実践テストは済ませた宝具だ。その効果を知っているからこそ、配備したのだ。
「G8、何故宝具を使用しない?」
 オペレーターからマイクを取り上げファルデウスは直接問いただす。最悪の可能性が、頭を過ぎった。
『こちらG8。宝具は使用したつもりです。ですが反応がありません。今の掃射は私だけで行ったものです』
 部下の答えにファルデウスは瞬間的に別のチャンネルを呼び出す。呼び出した先は、北部原住民勢力の偵察部隊。そこでは軽口を叩きながら異常がないとぼやく部下の声がある。先刻オペレーターと直接会話もした部隊であったが、その異常にファルデウスは早々に気付いた。
 何を指示する暇もない。予めリークされていたこの基地の秘匿コードのひとつを士官専用端末に叩き込む。事前登録された端末、静脈認証、そして秘匿コードが合わさって初めてその命令は実行される仕組みである。
 基地の動力源は正・副・予備の三系統。そして過日の基地へのダメージとラスベガスからの断線によって正から副へと動力源は変遷している。それが更に予備へと一時的に変更される。その一瞬の隙を突いて、ファルデウスは全システムをメインからサブへと以降させた。途端、それまでほとんど静寂を貫いていたスピーカーが悲鳴を上げた。各モニターに映っていた映像が悉く別のものへと映り変わる。
 悲鳴と思われていたのは、救援を請う各部隊からの報告だった。地上に露出してあるカメラの一部は壊され砂嵐を撒き散らしている。かろうじて残ったカメラは、その惨状を映し出していた。
 状況を正確に把握している暇はなかった。
「第一種防衛基準体制を発令! 既に敵は内部に侵入していますよ! 各所に伝令を! 通信ネットワークを過信しないでください!」
 ファルデウスの突然の命令に基地内の警報が鳴り響き隔壁が次々と降りていく。この事態にあってもジェスターの態度は変わらない。最初から何か感じ取っていたジェスターにとって、これは予想の範囲内。どちらかといえば、どうやってファルデウスがこの異常を察したのか気になって仕方ない。
「はてさて? きっかけは分かるが、こうも完璧な通信欺瞞をどうやって見抜いたのかな?」
 一通り指示を出しながらファルデウスはジェスターの素朴な問いに律儀に答えてみせる。
「私の部下は全員一流の軍人ですよ」
「ほう?」
「その部下が、作戦行動中にこのような私語をする筈がない」
 その断言にジェスターは率直に拍手してみせる。事前に宝具が使用できなかった事態があったとはいえ、それだけのことでこの真相に気付けるとは中々の信頼関係である。しかもこの事態は想定の範囲外。
 こんな完璧な通信欺瞞となれば、もう方法は一つしかない。
「これは素晴らしい! ああファルデウス、こんな身分の私だが、是非一方の事案に関して私に行かせてもらえまいか!」
「……では、部隊を編成し派遣するまでの時間稼ぎなら、お言葉に甘えさせてもらいましょう」
 一瞬考え込むふりをするファルデウスであるが、答えは最初から出ていた。
 この基地は現在攻撃を受けている。カメラから確認したところ、一つは地上からの北部原住民とみられる一団の攻撃。
 そしてもう一つは、一体どうやって潜入したのか、この基地の中枢区画にいる少人数の工作部隊。その中には恐らく潜入能力を持ったサーヴァント、そしてこの基地の前任者である署長がいる。
 人数的には原住民が圧倒的だが、戦力はむしろ中枢区画に割くべきだろう。場所柄、部隊を送り込むには向かないし、送り込み制圧は可能だとしてもどうしても周囲への被害は大きくなる。ここで必要なのはシングルコンバットの実績である。それについては、この地にいる全ての者の中でジェスターは上位ランカーである。むしろ、これから編成する派遣部隊の方が問題だ。
「物理的に無理でしょうが、アレを失うと戦略的に困ります。くれぐれも壊さないようにしてください」
「そこは奪われるくらいなら壊せと言うべきではないのかね?」
 失う、という意味をジェスターは奪われる、と解釈したが、しかしどうやらそれは間違いのようである。
「ジェスターさんともあろう方が勉強不足ですね。残念ながら壊されるくらいなら奪われた方がまだマシなのですよ。奪ったところで使えなければ意味がない。そこに“ある”ということが一番重要なのですから」
「ふむ。では、行きがてら勉強しておくとしよう」
 手にした携帯端末には以前漏れ出た情報がそのまま入っている。重要ではあるが、あまりに専門的すぎて早々に読むのを諦めた項目だ。まあ理解できずとも頭に入れることで得られることもあるかも知れない。
「それは結構ですね。しかし明かりもない点検孔内を移動してもらうことになりますので勉強するには不向きですよ」
「狭くて暗いところは私の好むところだ。では、ルート案内をお願いしようか」
 渡された無線機を耳に当て、ジェスターはこの基地中央に座す主の元へと歩き出す。
 この基地の主の名は宝具開発コード・スノーホワイト。
 その正体はこの基地のメインコンピュータである。


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 多次元交信型次世代情報管理装置――通称、スノーホワイト。
 キャスター最高傑作究極宝具などとこの存在を知る者は賞賛するが、実を言えばスノーホワイトは正確には宝具などではなく、宝具紛いの逸品に過ぎない。何故ならその元となったものは宝具や魔術などとは対極に位置する科学の申し子、開発途中で放置された次世代型スーパーコンピュータである。
 4フロアをぶち抜いて作られているスノーホワイトは内部に冷却用の液体と小型の魔力炉三基、そして外部に大型発電施設と大型魔力炉を備えた巨大な建造物だ。ガラスに隔てられたオペレーター室から全体を見ることはできるが、その様は異世界めいた外観となっていた。キャスターの手により生み出された、魔術と科学のハイブリッドであり、その点では真っ当に生まれた現世の産物でないことには違いない。
 元ネタとなったのは白雪姫の魔女が世界一の美女を問いただしていた魔法の鏡である。古今東西に存在する魔力を秘めた鏡を数万単位で集め、鏡の中を飛び交う平行世界の情報を取り出すことでスノーホワイトは世界中のスーパーコンピュータ全てを束ねても相手にならぬ計算処理速度を手に入れていた。
 方法的にそれは第二魔法である平行世界の運営ともいえるが、扱うのはあくまで情報素子のみ。いかにキャスターといえどそれが限度であり、限界でもある。結局機能強化にのみ終始したわけだが、ただそれだけのモノ、と謙遜するにはこの宝具紛いの逸品は性能があまりに良すぎた。
 電子情報ネットワークが遍く世界に張り巡らされた現代において、スノーホワイトの存在はあまりに大きすぎる。その計算能力によって軍民問わず全ての電子情報に介入可能であり、カードの暗証番号から核ミサイルのセキュリティまでその全てが完全に無意味と化す。

 具体的には、このスノーホワイトは世界を誇張なく、支配していた。

 爆弾入りの首輪をつけて民を支配するデストピア的光景は、今や時代遅れの産物である。最先端の監視網は、そもそも監視を意識させない。それでいて、人々を完全に支配下へと置いておく。これを人の手で行うのは不可能であるが、人ならぬ機械であるスノーホワイトが可能とさせた。
 わずか数日足らず、それも試運転での実験でこの計画における天文学的予算を余裕で生み出したのがその証左であろう。
 だからこそ、スノーホワイトの天敵となり得るのが魔術師という時代錯誤の連中だ。世界最強の軍隊ですら一瞬で無力化できるスノーホワイトであっても、この英霊同士がぶつかり合う聖杯戦争においては役には立たない。
 この偽りの聖杯戦争は、謂わば実験場だ。“上”は敢えて《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》にスノーホワイトの機能を制限させて参加させていた。そして余剰処理能力によってスノーフィールド全域を人間・物流・通信に至るまで完璧に支配下に置いてその経過を子細に観察し分析する。
 どの陣営がいつどこで何をどうやって行動していったのか、そして一般市民がどのような反応をしたのか、既存のシステムで集められる限定的な情報を手にしていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》との情報精度差を見比べることで実験は進められる。そのデータは今後の聖杯戦争、もしくは対英霊戦闘へと活かされることに違いなかった。
 現状こそフェイズ5のまま推移しているが、ファルデウスが乗り込んだ段階で“上”はフェイズ6に移行することを決定していた。即ち主目的が実験場の観察から積極的介入へと、より危険度が増した状態にある。そのためにスノーホワイトを含めたレベル3の宝具のリミッターは解除されている。
 そんな重要かつ危険極まりないスノーホワイトに、安全策が取られていない筈がなかった。
 周囲の電気が一瞬だけ落ちて、復帰する。ただそれだけでスノーホワイトはその能力を活かすことができなくなった。
 外部との接続は隔壁に連動して物理的に遮断。供給される電力量と魔力量も一気にカットされたことでスノーホワイトはその機能を大幅に限定させ自己保存を優先し自閉モードへ以降。残った内部電力によってシステムチェックが開始される。
 どんなコンピュータでも、その電力供給が止まれば動くことはできなくなる。ファルデウスが行った安全策とは電力・魔力それぞれ独立させておいた供給源をストップさせる荒技である。シンプルなだけにスノーホワイト本体へのダメージが懸念される方法であるが、最も確実な方法ともいえた。
「くそっ、ばれたか!」
「そのようですね」
 コンソールをたどたどしく操作していく署長に対してアサシンは周囲の様子を窺いながら実に淡泊に答えた。
 アサシンの回想回廊によって署長と二人が侵入してわずかに十分。ほとんど基地中枢に位置するこの場所の警備は手薄である。四人の警備兵と六人の専門スタッフをアサシンは構想神殿で誰一人気付かれることなく消し去り、署長はキャスターが指示した手順に則って基地内システムに介入しその機能を一部ダウンさせると同時にモニターや通信をリアルタイムで改竄させていた。
 勿論、映像を改竄させることでで騙せるのは電子機器だけだ。それを眺める生身の人間はいずれその違和感に気付くことだろう。確認されれば欺き続けることは不可能と割り切っていたが、思っていた以上に対応が早い。地上の攻勢を誤魔化せたのはほんの数分だけ。スノーホワイトの援護が基地側にないとはいえ、数に劣る原住民の戦士たちで城攻めなどできるわけがない。
「それで、こちらの目的は達成できましたか?」
「無理に決まってる! これだけ特殊過ぎると操作一つにも専門家が必要だ! 欺瞞情報を流せただけでも奇跡だと思ってくれ!」
「そういうものですか」
 あまりに操作が複雑なため専用オペレーティングシステムを開発する話もあったくらいだ。だが開発期間の短さと、キャスターへの依存を嫌った“上”はそれを良しとせず、魔術に頼らず信頼度の高い既存のシステムを流用することで対応をしていた。
 何せ既存の概念が通用するかも分からぬ超々々ハイスペックモンスターコンピューターである。自己アップデートを繰り返すようになれば、いつ技術的特異点(シンギュラリティ)を超えてしまうか分からない。日々進化しかねないプログラムの変更作業を今の人類が行うにはあまりに危険すぎた。
 既に状況は専門家が複数人必要な段階へと移っている。それでも何とか今できることをしようと署長はダウンしたシステムを介さずに、持ち込んだノートパソコンをスノーホワイト本体へと直接接続し、残されたログから目標となるデータを参照しようと試みる。時間さえあれば可能かもしれないが、この短時間でやるには少々無謀だ。
 だがそういえば、とアサシンは思い出す。
 かつて一度だけだがキャスターがこのスノーホワイトを操作しているのを見ていたアサシンだが、そこまで難しいものだという認識はなかった。ひょっとすると署長がやるよりもよほど上手くできるのではないか、という根拠のない自信すらアサシンの中から生まれてきつつあった。
 生前から、こうして一度見たものを理解するのは得意な口である。パズルの一ピースを見ただけで全体の絵を想像することができる。細部こそ異なるだろうが、このスノーホワイトの基本システムを徐々にアサシンは理解しつつある。
 この安全装置についても、スノーホワイトを奪取される事態を想定したものではない。頭と手足を切り離すような処置の仕方から、おそらくスノーホワイト自身が暴走した時のためのもの。外部アクセスが閉ざされた状態にあってもシステムを維持できる内部電力と常駐魔力は問題なく循環している。人手さえあれば復旧作業が簡単にできるところからも間違いない。
「……なら、もしかして?」
 システム面においても、すぐに復旧できるよう処置している可能性が高い。
 幸いにもスノーホワイトは複数人で運用するシステム。空いている席はいくらでもあった。アサシンはおもむろに席に座ってコンソール画面を呼び出してみる。想定通りであれば、自閉モードにあってもバグを見つけ修正するための手段がどこかに用意されている筈である。
「おいおいおい! すぐに敵が向かってくるってことを理解しているんだろうな!?」
 そんなアサシンの思惑を知るよしもなく、署長は叫ぶ。いや、アサシンの考えを聞いたとしても、署長は叫んだに違いなかった。
 ここでの署長とアサシンの役割はハッキリとしている。
 署長は専門知識こそ有していないものの、最低限の操作方法をスノーホワイト始動時にレクチャーされた経験があり、事前にそれを踏まえたキャスターから講習も受けた。だからこそ慣れぬ身でありながらこの場で四苦八苦しているのだ。
 そしてアサシンの役割はこのスノーホワイト制御室への侵入と署長の護衛。そこにはこうした場合に署長が作業するための時間稼ぎも含まれている。本来ならば、アサシンはここで迎撃のため出向くことが最も正しい行動である。できるかも知れない、という程度で護衛を放棄しイレギュラーな行動を起こすのは結果の如何に問わず間違いである。
 護衛の意味を果たして理解しているのか小一時間くらい問い詰めたい気分に署長はかられていた。
「来たらちゃんと対応します。気にしないでください」
「誰だこいつを召喚した奴は! もっと命令を聞く奴を呼び出せよ!」
 署長の悲痛の叫びはもっともだった。アサシンのクラスは基本的にマスターに忠実と聞くが、このアサシンははっきりいって滅茶苦茶である。両者納得の上での同盟関係でありながら自分勝手に動き回るので共にいてこの上なく不安である。
 そうした署長の叫びをアサシンは風がそよいだ程度に聞き流す。視線と思考こそモニターへ集中しているが、別に無視するつもりはない。ただ、傾聴するに値しないと判断しただけだ。
 その判断は、合理的思考からすれば正しい。ファルデウスの部下が作戦中私語を慎むのと同じことだ。信頼関係や仲間意識を育てるなら事前にこなしておくべきであり、こうした状況でただ喚くことは別の作業をしながらも耳を澄ませ周囲を探り続けているアサシンの邪魔でしかない。
 惜しむらくは、アサシンの経験不足を事前に把握していた署長が、この場で有用な傾聴すべき発言をしなかったことだろう。署長が無駄に喚いたのは己の不遇を発することでのストレス発散という意味合いでしかない。そしてこのタイミングでそれを行った理由は、襲撃まで数分のタイムラグがあるとみたからだ。
 ファルデウスが安全装置を働かせてまだ二分も経っていない。どんなに急いだとしても、ここへの通路には簡易ながらもトラップも仕掛けているのだ。その八割はただワイヤーを張っただけのダミーだが、中には指向性対人地雷(クレイモア)を設置している箇所もある。強行突破できたとしても五分、慎重にトラップを解除してくるなら更にその数倍は時間がかかると踏んでいる。仮にそうしたトラップを嫌って点検口を利用したとしても、その狭さから時間はそれ以上かかるし、まとまった数の投入も見込めない。この署長の常識的判断を、誰が責められようか。
 スノーホワイトの稼働音は大きい。そうしたノイズをキャンセルして耳を澄ませばかなり遠くまで気配を感じることはできる。ランサーの気配感知スキルと違い、アサシンのそれは純粋な聴覚によるものだ。壁などの障害物にもよるが、事前に周囲の簡単な間取りはその目で確認してある。物音は聞こえないし、反響音からも変化はない。このことから現時点で安全であると判断していた。
 強いて上げるなら、この近くで最も近い音の発生源は直上。音も小さいことからネズミなどの小動物を想定しこれを警戒するべき対象としなかったことが、アサシンのミスであり、直上にある点検口の存在を教えていなかった署長の非である。
 何かが落ちてきたのは、署長の愚痴の直後である。それについてアサシンはモニターから視線をかすかに動かしただけだったし、自らの上に落ちてきた署長に至っては何も気付くことすらできていなかった。
 署長はふと、顔を上げた。そこで視線が合った。
「――それはすまなかった。だが、獅子は馬鹿な子には旅をさせるというだろう?」
 その言動が、先の署長への解答であるなどと、当の署長も気づきはしなかった。あの《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率いていた剛の者であるというのに、ことわざの間違いなどを頭の中に思い浮かべ指摘しようとすら暢気に考える始末。それだけ、この襲撃は彼らの予想外にあった。
 このオペレーター室はスノーホワイト全体が見渡せるガラス張り。そしてスノーホワイトは4フロアをぶち抜いているのだ。この場の天井までは実に二〇メートル。強襲をかけるにしろ、何の装備も魔術も使わずに、ただ天井から落ちてくることなど予想外。着地点の凹み具合からすると、純粋な肉体強度のみで襲撃者は二〇メートルを落下してきたことになる。
「――構想――」
「馬鹿の一つ覚えみたいにこの宝具を使うのは感心しないなぁ、アサシン」
 座っていた椅子を蹴り飛ばし、土台としたオペレーター用機材が反動で壊れる。超速で接近するアサシンに男は慌てることなかった。慌てず冷静にアサシンの手首を片手で掴み、背負い投げの要領で逆に数メートル先の壁に叩きつけてみせた。
 上下が逆さまになった視界で、初めて見た顔だというのに、アサシンはその男の名を間違えることなく、親の敵のように吐き出した。
「ジェスター……カルトゥーレ……!」
「気付くのが遅いぞアサシン。私からの魔力供給をこの距離になるまで気付かなかったのか?」
 心底呆れたようにジェスターは肩を竦めて手にしたモノを口につけ、流れ出てくる液体を口にする。それがただのカップで飲んでいるものがコーヒーなどであれば何の問題もなかった。
 それは、人間の右腕。ジェスターが飲んでいるものは、傷口から流れ出る血液に他ならない。
「ふむ。やはり令呪はないな。欺瞞かと思ったがどうやらちゃんと使い切っているようだ」
「あっ? はっ?」
 遅まきながら、署長が立ち上がろうとし、そしてそのままバランスを崩す。対応の遅さといい、無様に床に転がる様といい、署長の行動はいつもの精彩さが欠けていた。だがその行動をジェスターは賞賛する。
「よく動けるな、署長? 私は魔力ごと君から奪い取ったつもりだったが、手加減が過ぎたようだな?」
 ジェスターの言葉に、ようやく署長は自らの右手がないことに気付く。そして同時に自らが酩酊状態にあることにも気付いた。
 一体何をどうやったのか定かではないが、着地と同時にジェスターは署長の右手と魔力を根こそぎ奪いとったらしい。意識の間隙を突いたとはいえ、とても人間業とは思えない。魔術師としてともかく、指揮官として咄嗟の判断を下すことのできる署長が赤子同然に扱われている。
 切り落とされた腕から流れ落ちる血が周囲を汚す。傷口に口をつけたジェスターの顔も汚れるが、一通り堪能したのか、口元を拭って署長の腕をそのまま地面へと落とした。その行為に、アサシンはどうしようもなく嫌な予感を抱いて仕方がない。
 理屈よりも直感をアサシンは信じて動く。
【……回想回廊……】
 咄嗟に繰り出した御業はこの聖杯戦争で構想神殿に次いでよく使ったモノ。だが、その使い方はいつもとは違っていた。
 展開させる通路の入り口は直径三〇センチ足らずの小さな穴。それでいて、出口までの距離はたった数メートル。未だ逆さま状態で壁にめり込むアサシンは満足に動けないが、何とかその手に持った短剣を投擲してみせる。
 その、異界の通路の入り口へと。
「ほう! ようやく応用というものに辿り着いたか!」
 通路の出口はジェスターの頭の後ろ。完全な死角にありながらも、ジェスターはその一撃を完璧に避けてみせた。紙一重で避けずに大きく距離を取ったのは、アサシンの視線から大まかに予測しただけに過ぎないからだ。
 必殺の一撃こそ外したものの、それでもアサシンの最悪の事態を避けることには成功した。ジェスターの身体から放たれていたのは赤い影。床へ捨てられた署長の右腕は赤い影に舐め取られた一瞬で骨と化す。床を這いずり署長へと近付く影は本体が大きく傾いだことでその目標を大きく逸らすことに成功した。
「すま……ない」
 朦朧とした意識でありながら、それでも片手で器用に服を破き、止血する署長。傷口を縛ったことで意識を持ち直したのか、荒い息でジェスターから距離を取りながら立ち上がる。
「こいつが、君のマスターか」
「認めたくはありませんが、残念ながら」
 何とか床に立ち、ジェスターを中心に回るようにしてアサシンは署長の傍へ移動する。経験こそないが知識なら持ち得るアサシンから見ても、署長のダメージは無視できぬレベルに陥っている。右腕がないこともそうだが、その身体からは魔力が感じられない。立っているのが不思議なくらいである。
「離脱します」
「いや、待て」
 アサシンの言葉に署長は首を横に振る。身体を支えようとするアサシンの手さえ拒否し、その左手で腰のホルスターから銃を抜いてジェスターへと向ける。
 ジェスターからの赤い影はもうどこにもない。身体にこびり付いていた血も綺麗になくなっていることといい、魔術を用いずにあの人間離れした肉体性能といい、これだけ状況証拠が揃えば正体は自ずと知れてくる。
「死徒がマスターとは恐れ入る。今回の聖杯戦争、マスターまでイレギュラーとは聞いていなかった」
「なんだ、今頃気がついたのか?」
 馬鹿にしたような言い方に、これ見よがしにその発達した犬歯を見せながらジェスターはゆっくりと二人の元へと近付いてくる。距離は五メートルもない。二人は後ずさるが、その距離は徐々に埋まっていく。
「この聖杯戦争のカラクリを知っているのだろう? 選ばれる基準を満たそうとすれば、真っ当な魔術師などが選ばれるわけがない」
 だからこそ銀狼などの人外や、魔術師として欠落のあるフラット、幼すぎる椿などが選ばれる。最初から指名されていた署長は例外であるが、最も魔術師らしいアーチャーの元マスターも、ティーネに取って代わる“運命”にあった。基準だけでいうならまだジェスターは割と正統派だったりする。
「その様子だとこの戦争の裏は知っているようだな。何故、そちら側につく?」
 その署長の質問に、ジェスターの歩みが止まった。
 この聖杯戦争に聖杯は存在しない。マスターが望む願いはこの戦争の過程の中に用意されている。問題は、願いを叶えた先にある。全陣営に確実に用意されているのは、殲滅の二文字だ。そのために用意されていた駒がファルデウスであり、署長が率いていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》である。
「ファルデウスに例外などない。ジェスター、君がいかに優秀であろうと、確実に殺されるぞ? 私たちは、既に鍵を得ている。この閉じた箱庭をこじ開け外に出ることのできる鍵だ」
 この“偽りの聖杯戦争”の計画に、そもそも救いなどありはしない。
 最初期にスタートした段階でどうだったかまでは知らないが、少なくとも署長がこの計画に乗った時点で戦後の関係者の処分は決まっていた。そして教会や協会が出張ることになれば、その前に“上”はスノーフィールドそのものの破棄を決定する筈だ。人口八〇万のこの都市でさえ、最悪の場合そもそもなかったことにされかねない。
 生き残るためには――その可能性を掴むためには、ここで互いに手を取り合うより他はない。この戦争の裏を、その真実を知っていれば、尚のこと。
 だが、そうした署長の説得に対してジェスターの視線は冷たいモノだった。侮蔑の色すら見えるその瞳は完全に呆れ果てていた。それと同じくらい、こうして無知を晒した署長と話をしたことを後悔した。
「つまらないことを口走るな。今更それぐらいのことで私は立ち位置を変えないし、その程度で勝算が本当にあると思っているのかね?」
 先刻承知していることで説得されるとなると、これはジェスターに対する侮辱ですらある。
 はあ、とジェスターはため息をついた。
 意気揚々と出て行ったものの、結果はこの有様。リーダー格の署長がこれでは、今後期待はできないだろう。色々と暗躍していることは評価できるが、肝心要の危機感が彼らには圧倒的に足りていない。

 これでは一体何のためにアサシンを預けているのか分からないではないか。

 ジェスターの目的はアサシンの絶望だ。
 そのためにアサシンには成長し、その本性を悟らせることが必要となってくる。アサシンには教えねばならない。理解しないことが最高の幸せだったのだと。全てのアサシンクラスが持つ偽りだらけの仮面から、仮面を持たなかったアサシンを解き放つ。アサシンの生まれた意味を、ジェスターはこの世に教えてやるのだ。
 極まった希望を行き詰まった絶望へと相転移させる、そのためならば、この命ほど安いものはない。
 当初の想定ではとっくにアサシンは己の本性に気がついている筈だ。それを経験不足の一言で雑に扱われては、わざわざ敵対関係となったジェスターの意味がない。
 いい加減に気付いて貰いたいものだ。わざと署長を殺さなかっただけで、アサシンは回想回廊の新たな使い方、その応用に気がついた。その一点だけのために、ジェスターはこの場にいるといっても過言ではないのだ。
「まあ、感謝をせずにはいられないか」
 よくぞ、この場に二人だけで来てくれたことに。即座に逃げず、会話をしてくれたことに。
 ジェスターは、心の底から感謝する。
 二人がこの場で何をしていたのか、ジェスターは知らない。が、何かをしていたとするならば、アサシンはこのスノーホワイトの重要性を知ったことになる。わざわざジェスターも直々に注意されたのだ。スノーホワイトを巻き込むような真似はアサシンもできない。
 それでいて、署長の怪我は重傷。
 この二つは、アサシンに大きな枷となる。
 大きな進化の、鍵となる。
 単体戦闘能力で英霊と渡り合うことは人間にはほとんど不可能だ。これはジェスターとて例外ではない。死徒の中には例外もいるかもしれないが、少なくともジェスターの戦闘パラメーターとアサシンの戦闘パラメーターを単純に較べたなら確実にアサシンへ軍配が上がる。ジェスターがアサシンに勝てるのは特殊能力としての赤い影と、長年の戦闘経験だけ。
 署長の怪我が上手い具合にアサシンの気を逸らす。会話による情報収集と時間稼ぎに一定の成果を得たことで署長は勝機を見いだしていた。いざとなれば脱出できるという自惚れが敗因となる。
 集中力は才覚の領域ではないことを改めて実感した。鍛え、積み上げてこその集中力。天才に驕りというものを教えてやるのも悪くなかった。
 尚も会話をしようとする署長が、咳き込んだ。そのことにアサシンの視線が一瞬だけ横にぶれる。それだけで、ジェスターには十分すぎる隙だった。
 立ち止まっていれば、攻撃に時間がかかると二人は思っているのだろうか。二人の目の前にいるのは、神秘を追い求め死徒とまで墜ちていった魔術師であるというのに。
 呪文など必要ない。姿勢や呼吸による集中も不要。ジェスターが二人にやったことは、ただ己の本性を少し解き放っただけ。美しいモノを穢したい、その一心で六連男装という張りぼてが必要なほど、ジェスターの本性は純粋だった。解き放てば、それだけで人を傷つける崇高な概念。隠さなければ漏れ出てしまう醜悪で純潔の魔瘴が、二人を正面から打ちのめした。
 構えていながら、その急激な圧に蹈鞴を踏む二人。意表を突いたのは確かだが、これくらいは何食わぬ顔で耐えて欲しいとジェスターは思う。
 本性を抑えることはしない。ブースターというわけではないが、アドレナリンが出ていればそれだけでこの状況を愉しむことができる。そうでもしないと、やってられないのが本音だ。
 ……その後のジェスター対アサシン・署長の戦闘については割愛する。
 二人を分断し、適当に痛めつつ、隙という希望を幾度となく見せながら宝具で逃げる暇だけを与えない。時にヒヤリとしながらもジェスターは二人を殺す真似だけはしなかった。その様を表現するには訓練という言葉が相応しい。
 手抜かりなく手を抜いたジェスターの訓練は、通路に仕掛けられたトラップを解除し駆けつけた応援部隊が辿り着くその時まで続けられた。後に提出された応援部隊の報告書にジェスターの危険性が大きく書かれることになるが、単体でアサシンと署長を捕らえたジェスターの有用性は示されたことになる。
 これにより、南部砂漠地帯、スノーホワイト、基地上層という三面作戦は表向き決定打を入れられず瓦解したこととなる。
 事実上、ファルデウスの勝利がここに確定した瞬間であった。


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10

 その報告が上がってきたのはスノーフィールドにおける三面作戦全てが終了して数時間経ってのことだった。
 ファルデウスたちが“上”と呼ぶ組織の長は、デスクの上に丁寧に置かれた資料を上着を脱ぎながら眺め見る。その多忙さから彼に報告が上がってくるのは重要性が高いモノだけ。しかもGOサインは数代前の長が出しているので結局彼が見るのは結果報告という読み甲斐のないものだった。
 第一次報告とわざわざ銘打たれているが、最終的に何次報告になろうとも添付された画像データが変わるとも思えない。かかったコスト面についても同様だ。頭が痛くなる額なのは確かだが、スノーホワイトによって生み出されたクリーンなお金によって汚い事実は綺麗に消し去られることだろう。
 革張りの椅子に身を沈め、斜め読みした一ページ目を捲って次のページへと目を走らせる。デスクの前に用意されているソファーにはその様子を方杖を付きながら眺め見る“上”の上級幹部が三人。この部屋に入ってから挨拶もしないが、誰の目を気にする状況でもない。逆にさっさと資料に目を通せという催促に違いなかった。
 時間にして数分。簡単ではあるが、概要は掴んだ。再度読み返す気力もなく、白い天井を眺め見る。
「……他に方法はなかったのかね?」
 無駄とは思いつつも、ここで問わずにいるわけにもいかなかった。
 トップの言葉に幹部はさて、と惚けた口ぶりで問い返す。
「どちらのことを仰っておられるのですか?」
「改良型の地表殲滅爆弾の使用についてはサブプランの範疇と理解している。だが、一人年間何万ドルもかけて育てた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の処理については承認した覚えはない」
 やや語気を強めるが、これで怒っているなどと幹部たちは思わないだろう。舌を二枚も三枚も持つのが常識の世界だ。多少のパフォーマンスはしておく必要はある。
 スノーフィールド南部砂漠地帯に形成された《茨姫(スリーピングビューティー)》、そしてそこに配置された《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》と人質、おびき寄せられたサーヴァントとマスターたち。それら全てを処分するために行われたのが本作戦だ。全ての役者があの場におびき出され混戦状態になったところへ、グレーム・レイク空軍基地から飛び立った爆撃機(ジョーカー)が現場にいる全てを殲滅するという豪快な作戦。
 タイムスケジュールに沿って撮られた衛星写真が全てを物語っている。砂漠と森とキノコ雲と焼け焦げた黒い大地、その座標が全て同じだとは信じがたい事実である。それもわずかに一五分という短時間で変遷していっている。
 米空軍が国際社会に廃棄を通告しながら秘匿していた地表殲滅爆弾、通称デイジーカッターを使用したことについては構わない。むしろ、こうして秘密裏に使用したことで後顧の憂いを拭うことができたし、表沙汰にできぬが魔術という力で核兵器以上の威力を持たせることができたのは僥倖ともいえる。だが、そのために手塩にかけて育ててきた猟犬たちを殺す必要があったとは思えない。
 添付されていた作戦参加(二十八人の怪物(クラン・カラティン))名簿の殆どがMIA認定を受けている。現場の状況と簡易ながら弾き出された威力計算を見る限り、生き残る確率はほぼゼロ。現在、爆心地一帯を捜索しているとのことだが、実際に探しているのは生存者ではなく使用していた宝具の方だ。
「リスクコントロールです。彼らのトップが裏切り、新たにトップとなったファルデウスに対しても異を唱え反抗する者も多い。そして各員の繋がりが強いからこその《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》です。一人粛正すれば二人の反乱分子が生まれてくる。丁度良い機会だったのですよ」
 それに、と別の幹部は他人事のように呟くのを聞き逃しはしなかった。
 英雄王と共倒れならば彼らも本望でしょう、と。
 添付の資料には、行方不明者・死亡者の他に生存者についての記載もある。皮肉なことに、味方陣営ではなく目標である敵陣営にそれはいた。
 英雄王ギルガメッシュのマスター、ティーネ・チェルク。デイジー・カッターに巻き込まれながら生き残っている事実は信じがたいが、どうやら一次衝撃波で殺傷圏内から吹き飛ばされたのが幸いしたらしい。彼女の体格と体重、それに莫大の魔力があって初めて成し遂げられる奇跡である。これで最初に発見したのが味方であれば真に奇跡と言えたことだろう。
 現在彼女は火傷や骨折による重体で現在基地内部の集中治療室で治療中。意識は戻らず生死の境を彷徨っているらしいが、その手にマスターである証の令呪は消えていたと報告書にはある。
 追い詰められたティーネが令呪を立て続けに使用した可能性も否定できないが、スノーフィールド全域をサーチしてもアーチャーの反応は返ってきていない。報告書はこの事実からアーチャーは消滅したものと分析している。
「それで、現場責任者の判断で使い潰した、と?」
 それについて、彼らは否定する言葉を持ってはいなかった。
 処分対象の中に最初から《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が含まれている。そのため彼らにはデイジーカッターの使用を知らされていない。現場で行われた必要以上の通信妨害も本当のところは集団脱走せぬための措置である。
 処分する理由は幾つも資料の中に挙げられているが、それを鵜呑みにすることができるはずもない。急いで作られたからか、色々と粗の多い資料だ。意図的に隠した形跡も多いし、注意を逸らすかのように誘導している部分もある。そうせねばならぬほど伏せる項目が多いのだろうと解釈した。
 だがどう解釈しようと疑問は残り、放置されたままであることに違いはない。いくらコスト以上のハイリターンが得られるとはいえ、こんな調子で次から次へと聖杯戦争を開かれてはたまったものではない。
「現場責任者と回線は繋げられるか?」
「無理ですね。スノーフィールドは今や完全に陸の孤島です。ライフラインは物理的に寸断され、衛星を介した通信すら傍受の可能性があるため遮断されています。こうした報告書ですら複数経路から鳥に運ばせるという古典的手段によるものです」
 予想された通りの言葉がそこで述べられる。事前報告で復旧に時間がかかることから事態沈静後に通信回復を行うと報告があった。無理にでも通信回復を優先させても彼らはいかようにも取り繕って思い通りにさせることはなかっただろう。
 現状がコントロールできないよう仕組まれている。トップという立場にあってそう仕向けられてながら何もできないことにむず痒さを覚える。
 そもそもが、彼らにとってこの場にいることがただのパフォーマンス。形ばかりの神輿に報告したという体裁が欲しいだけなのだ。時に秒刻みで動くこともあるトップにこうした計画に口を出して欲しくないということだろう。
 重大な案件は他にもある。この件ばかりにかかずっているわけにいかないのもまた事実。だからといって、ただの神輿と侮られるのはプライドに関わる。
 元々切るつもりもなかったカードだ。遅すぎるタイミングなのは認めるが、遅きに失するほどでもない。
「――そういえば、君は数日前に視察に行ったのだったな?」
 不意を突いた言葉に対しても、幹部たちは泰然としていた。だが問いかけた幹部に対して残りの幹部が責めるような視線を一瞬向けたことを見逃しはしなかった。大方、他の者にも秘密裏に行動をしていたのだろう。本人にしろ、その顔に変化はなくとも己の行動が筒抜けだったことに内心驚いているに違いない。
「私は現場からの報告をラスベガスで受けていただけですよ」
 戦場に踏み入る度胸などありません、と臆病者を演じてみせるが、それだけである筈がない。
「その報告を私は受けていないが?」
「必要でないと判断したまでです」
 答えとしては不自然ではなかった。その時はまだ通信回線も生きていたし、内通者としての《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》副官から報告される情報も周囲の幹部たちに共有されていた。その気になれば整理されていなくとも情報をネットワーク上で閲覧することも可能だった。末端工作員と直接会ったくらいで一々報告されては面倒この上ない。
 末端、であれば。
「裏切った前現場責任者と直接会っていながら、何の報告もなかったのかね?」
 その言葉に、明らかに動揺が生まれていた。
 問い質した本人以外の幹部たちが、だが。
「ならば、御存知でしょう。私が彼と顔を合わせたのは一分に満たない時間ですよ。彼が何をしたかったのかは分かりかねますが、軽く挨拶しただけです」
 確かに、顔を合わせたの時間は数十秒、これでは面会ではなく接触時間と称するべきだろう。しかも会ったのは人の往来があるホテルのロビーでのこと。何かを受け渡したりした様子もなく、会話するにも時間がなさ過ぎる。その状況を見る限り、指摘通り目的は不明としかいいようがない。
 だが前現場責任者は、そのためだけにヘリを飛ばしてスノーフィールドからラスベガスに急行している。そのまま蜻蛉返りしたことから目的はその面会ともいえぬ接触であることは明らか。本人に直接理由を問い質そうにも、その翌日には行方不明となり、そして敵となって計画に立ち塞がっている。
 今ここで開示していない情報だけでも不自然さは際立っている。口論こそないが、幹部連中の雰囲気は変わった。この部屋を出ればさっそく緊急会議を開くことになるだろう。それが査問会となるか裁判となるかは分からないが、これで少しは牽制できただろう。
「……ひとまず現場との密接な連絡体制は確実に用意しておきたい。最優先で、だ。スノーフィールドで何が起こっているのか確認できないことには《フリズスキャルヴ》の使用を許可することはできん」
 卑怯だと思いながらも、言い慣れぬこの言葉を盾に要求を突きつける。
 実際にはトップとしてそれを要請されれば断ることは難しいだろう。躊躇するだけの時間も与えられまい。形式として与えられているに過ぎぬ権限だが、これを無視するわけにもいくまい。
 大事なことは用意しておくことであって、使用することではない。だからこそ、上層部に求められるのは準備と責任であり、現場に求めるのはその最悪の事態を防ぐだけの行動力である。
「歴史に名を刻めますよ?」
 計画における最悪のシナリオ、そうした事態に備えて天文学的な費用と時間をかけて用意された最終手段は、全てを無に帰すとされる威力を持つ。なまじその必要性が計画とは別のところで昔から主張されてきただけに、表沙汰になれば大変な事態になる。
「功績としてか、罪科としてか。いずれにしろ私は歴史に名を刻みたいがためにここにいるわけではない。そろそろ貴君らも私が穏健派だからこそ、この地位にいるのを忘れないでもらいたい」
「心に留めておきます」
「では、そろそろ時間だ。お引き取り願おうか」
 有無を言わせぬその一言で幹部たちはまたも挨拶抜きで部屋を去って行く。その後ろ姿を眺め見るが、どうにも問い質した幹部の落ち着き具合が気になった。直接対談をしたことはないが、最近になってからの付き合いというわけでもない。
 そこまでの自信家という印象などないし、根回しは怠らずともあからさまに暗躍するタイプでもない。魔術師などと交流を持つと、ああも自信家となり落ち着き払って目的に邁進することになるものだろうか。
 あの男の瞳を思います。
 昏い影に鬼火めいた野心が宿っていた。それもまた、あの男には似つかわしくない燻りだ。
「……あれが、暗示とかいうやつかね」
 広い執務室。今この場にいる者は彼一人である筈だった。時間は押しているが、彼は自分の言葉に返事をしてくれる存在を半ば確信していた。
 予想していたよりかは幾分早く、そして意外にも視界の中から肯定の言葉は聞こえてきた。
 その質問に答えたのは女。白い髪に白い肌、紅玉の瞳に凍えるような存在感。その四肢も含めて絶世の美人としか形容できないが、作り物めいた印象はどうにも拭えない。ソファーに優雅に腰掛け、暢気に紅茶などを嗜んでいるが、人形が人間の真似をしているようにしか見えない。今の今まで気付くこともなかった紅茶の香りを愉しむ所作も、どこか白々しく思えてくる。
「いつからそこにいたんだ?」
「最初から、よ」
 ソファーは元々四人がけ。幹部三人がそれぞれ座っていたが、その全員がこの女の存在に気付くことなく真横で顔色を赤や青に変えていたのだ。間近で見物するにしてももう少し面白いものもあっただろうに。
「凡人ながら、よく暗示の存在に気がついたと褒めるべきかしらね」
「職業柄、人を見る目はあるつもりなのでね」
「あなたがそれを言うと重みがあるわね。一応言っておくと、あの暗示は深くて強力よ。時間と共に効力は薄れていくけど、無理矢理解呪すると心が欠けてしまうわ。やっかいだわね」
 まるで他人事のような物言いは言外に私は解呪を行わないと断言していた。それでいてこの女が言っていることが本当だとすれば一大事だ。あの幹部を抜きに話を現場に通すことはできない。自国のことながらスノーフィールドと早急にホットラインを設置するとなると、テロ支援国家にホットラインを結ぶことよりも難しいかもしれない。
 誰が暗示をかけたのか、などどうでもいい。それを今この場で推理しようと対処するだけの時間はない。
「ならばどうする? この報告書を信じるなら、残ったサーヴァントはアサシンただ一人だ。これでは君がわざわざ用意した聖杯が起動する保証はないぞ?」
 ライダーとバーサーカーは数日前に消滅。アーチャー、キャスター、ランサーは本作戦に巻き込まれたと報告書にはある。残ったアサシンだけでは聖杯の起動に足る中身は期待できない。
「あら。報告書を信じているのかしら?」
「無視はしていない、というくらいだ」
 遠く離れた地にある頭は現場の手足を信用していない。以前から別の諜報機関を使ってそれとなく幹部連中を監視しているし、何より彼らにも内緒で目前の彼女をとこうして繋がっているのだ。
「このまま大人しく終盤戦となれば私の出る幕ではないが、君にそのつもりはないのだろう?」
「もちろんよ。あなた方と違ってアインツベルンは今回の介入は異例中の異例。次を用意するつもりもなく、我らが願いを成就させてみせましょう」
 それは事実上の勝利宣言に近いものだが、それによって彼が何かをすることはない。
 アインツベルンとの接触は組織としてではなく個人として行ったものだ。この戦争のための安全策のひとつとして彼はアインツベルンと手を組んだ。そのおかげですでに十分すぎるほどの利益を得ることに成功している。多少強引であってもこれで完全に幕引きを行えるなら、アインツベルンが全てを奪い取ってくれてもいいくらいだ。
 カチャリ、とソーサーの上にティーカップが置かれた。
「この資料持っていくかね?」
「お気遣い結構よ。嘘がないだけの報告書なら読んでいて面白いけど、嘘と真実が織り交ぜられた報告書は読むのが面倒なだけ」
 非常識な登場の仕方をしたというのに、退場は実に普通だった。ソファーから立ち上がり、ドアを開けて去って行く。やはり挨拶などをすることはなかった。
 そして女が退場するのと同時に、秘書官が入れ替わるように登場してきた。タイミング的には女と絶対にすれ違っている筈だが彼がそのことに気付いた様子はない。女が魔術を使ったのか、それとも単純に彼がそれだけ焦っていたということだろうか。
「申しわけありません、スケジュールにミスがあったようです」
「構わんよ。私は君を時々完璧超人と思っていたのだが、こうした人間らしいミスを見ると安心する」
 私の確認ミスです、と平謝りする秘書官に笑って応じる。どうせ、ここを出入りした幹部の周りにいる魔術師かあの女が誤認させたのだろう。どうやら奴らは世界中が自分の庭であるとでも思い込んでいるらしい。
 外にあっては敵と味方の違いは明確だ。だが、内にあってはおいそれと線引きできるものではない。星条旗(スターズアンッドストライプス)の下には複数の矛盾した意志が存在する。彼は確かにトップであろうが、それは多頭竜の中で一番頭が大きく従う首が多いという意味に過ぎない。
 世の中、何もせずして成功することはない。ツテとコネ、根回し手回し下準備、時間と金と権力と人間関係に対して万難を排して挑んでこそ、成功へと繋がっていくものである。それで失敗してしまったのであれば、それは単純に想像力の欠如か、そもそも運が悪かっただけなのだろう。
 さて、なら原因はどちらなのだろうか。
 失敗は確定していない。それだけが救いだが、成功にはほど遠い現状を思えばいつ失敗してもおかしくはなかった。それでいて思い描く選択肢はどれもこれも対処に困るものばかり。
 現状、具体的にできることは現場との回線を復帰させることだけだが、これは自分の仕事ではなかった。今、自分にできることは、スノーフィールドが消滅した場合に、どう言いわけをするのか考えることだ。

 それが、彼――米国大統領の仕事である。

 山積する内外の課題よりも少しだけ長考しながら、彼は己のミスを嘆く秘書官を慰めるべく少し早足で執務室を後にした。
 結局頭の中に浮かんだ選択肢を言葉にすることはなかったが、大統領が思い描いた最悪のシナリオが進みつつあることを、彼はまだ知らない。


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 北部丘陵地帯、原住民要塞にはその広大さ故に休憩所兼食堂が複数ある。特に要塞南口付近にあるここは指折りの開放的空間である。しかし普段であれば食事時で賑わうこの時間帯であっても利用しているのは二人きりだった。理由は簡単、現在この要塞を維持するだけの人員が足りなくなったからである。
 ただでさえ広い要塞を少なくなった人員で効率よく使うため、不要な施設のいくつかは閉鎖せざるを得なかった。ここも南側に面しスノーフィールドを一望できるが、その分襲撃された時に被害を受けやすいということで食堂の調理機器はそのままに放棄することが決定された。
 それだけに、人目を気にすることなく密談するには適した場所だった。
「まったく、原住民のくせに食文化は普通のアメリカ人じゃねえか。なんかスノーフィールドならではの食い物とかねえのかよ。ニシンの発酵食品みたいなインパクトのあるもんがよー」
 そんなことを愚痴りながら、キャスターは棚の奥底にホコリを被った業務用ツナ缶(2キロ)に目を付けた。他にも保存食はいくらでもあったが、迷うことなくそれを手に取る。
「……キャスター。あなたは確か美食家としても有名だったのでは?」
「おう。美食事典も出版している。だが業務用ツナ缶は食べたことがない」
 金に物を言わせて象の足まで食べた英霊は鼻歌まじりに缶の蓋を開けた。当然、業務用になったことで味や匂いが変わる筈もない。
「いるか?」
「結構です。自前で用意しているのが見えませんか?」
 キャスターの奇行に呆れながら、その人物は予め他の食堂から持ってきた食事を外見年齢に似合わぬ落ち着きを持って食べ始める。
 手にしているのは僻地での作戦行動時に軍などが支給する戦闘食。少量でありながら高カロリーで高タンパク、栄養バランスにも秀でている代わりに口当たりはひたすらに悪いと評判の代物。鉛筆を囓ったような薬臭さが周囲に拡がる。
 業務用ツナ缶が放つ圧倒的な物量を持ってしてもこの匂いは消せそうにない。
「……ライダー、もう少しマシな食事は選べなかったのか?」
「カロリーと栄養価を優先しました。が、マスターに意識があれば絶対に食べないでしょう」
 匂いだけで顔をしかめるキャスターにライダーは率直な意見を述べた。味覚についての情報をライダーはあまり持っていないが、それでもこれは不味いのだろうとはっきりと理解できる。
 現在、繰丘椿の身体をコントロールしているのはライダーである。マスターである椿自身は三面作戦の終了後にその精神的疲労から深い眠りについている。ライダーはその間に身体の疲れを少しでも取り除くべく栄養摂取を行っている最中である。
 三〇回咀嚼してからの嚥下が規則正しく機械的に行われていた。
「……それで、キャスター。そろそろ私を連れ出した理由を教えていただけませんか」
 機械的に行動し感情を持たぬライダーではあったが、キャスターがわざわざこのタイミングで声をかけた意味が分からぬ筈もなかった。
「念のため言っておきますが、我がマスターは男性経験がないので私の一存で花を散らせることはできません。
 ああ、キャスターがナブコフやキャロルの眷属だと公言するつもりはないので安心してください」
 分かっていなかった。
「人気のない場所にわざわざお前を連れてきたのはそういう意味じゃねぇよ!」
「こう見えて私は忙しいのです。栄養を摂取し終えたら脱糞し直腸まで綺麗にし、シャワーを浴びながら自慰行為で性欲発散をする予定が詰まっています。椿が起きるまでに体調を万全に整えなければならないのです。あなたのように暇ではないのです」
「お前何言ってんの!?」
「まさか本気にしているのですか? 円滑な人間関係に冗談は付きものでしょう」
「無表情で台詞が棒読みでなければ安心して冗談だと受け止めるられるがな!」
 玩具を自慢する子供のようなライダーの言動にキャスターは声をかけたことを半ば本気で後悔する。同盟関係上、戦果の報告はすべきだと少しでも思った自分がバカだった。マスターに対して嘘ばかりついていたことを真摯に反省するキャスターである。
「それで、今回の三面作戦は成功か失敗のどちらですか?」
 先ほど冗談を言った口ぶりのままで、ライダーはこの現状に対して成功か、失敗かを問うてくる。じっと見つめ続けるライダーの視線に、どこまで話したモノかとキャスターは思案する。
「……傍目から見たら、間違いなく失敗だろうな」
 この作戦で署長とアサシンは敵の捕虜となり、原住民精鋭部隊は壊滅状態。対してファルデウスが失ったのは捨て駒として利用した《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》くらい。三面作戦とあるが、その全てにおいて敗北したように見えても仕方がない。原住民側は既に敗戦処理に走っている節もある。
 だが、それでもライダーはこの現状に成功の可能性を見いだしている。
「かろうじて辛勝ってところか」
 キャスターの言葉に嘘偽りはなかった。
 キャスターたちの目的はお題目であるティーネの救出……などである筈がない。
 それも確かに目的の一つであろうが、最大の目的はアーチャーの宝物蔵を奪い取ることにあった。そのために必要であったのは《お前の物は俺の物(ジャイアニズム)》を使うための魔力の調達である。
 この砦の中にはライダーに感染していない健康な人間が数百人もいた。署長が椿を連れて砦を訪れたのも同盟のためなどではない。その健康体にライダーを“感染”させ、キャスターに魔力を供給させるため。それ以外に関してはことごとくオマケでしかないのである。
 そんなわけで、キャスターにとって戦闘の勝敗など些末に過ぎない。目下問題とするべき被害はアサシンと署長が捕まったことである。
 アサシンについてこちらから知る術はないので可能性に過ぎないが、署長については契約のパスから様子は少なからずわかる。大怪我を負っているが、生きているので虜囚となったのは間違いない。
 次の目的としていた時間稼ぎはスノーホワイトが停止したことから辛くも達成されている。これでこちらがすぐさま全滅する可能性を大幅に減らすことには成功した。この時間差がなければ、こちらに勝機はない。
「解せませんね。確かに署長とアサシンを失ったのは痛い。しかしバビロンの宝物蔵を奪え時間稼ぎができた以上、あの場での目標達成率は一〇〇パーセントに近い筈。これのどこが辛勝なのですか」
 細かいところを全てすっ飛ばして、ライダーは核心を突いてくる。
 アーチャーの宝物蔵、ライダーの魔力量。ただでさえ非常識な物量が二つも結びついたのである。危険度はかけ算どころか乗算だろう。おまけにこの事実を知っているのはここにいるキャスターとライダーだけ。あれだけの敵であろうと、最初の一撃で勝負を決めることも十分可能である。
「いや、それがな……」
 やや気まずそうな顔をしながら、キャスターはおもむろに食べかけのツナ缶を横にして、その手のひらを上に向ける。
 空間が波打つ。その現象は間違いなくアーチャーが使っていた《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》によるもの。だが、キャスターの手の中には突然現れたようにも見えたソレはライダーが予想していたものとは多少趣が異なっていた。
 コトリ、とキャスターは蔵から出したモノをツナ缶の横へと置いた。
 それは石だ。多少形が変であることはわかったが、ライダーにその真価は分からない。噂に聞く賢者の石かとも考えるが、手にとってみても魔力は感じない。間近で角度を変えて観察しても見るが、それでも分からない。角度を変えてみればなんとなく猫の顔が浮かび上がっているように見えなくもないが、それはただの錯覚だろう。
「……これは何ですか?」
「分からん」
 解答を見つけられなかったライダーの質問に、キャスターは正直に同じ見解であると答えた。
 想定していなかったのは、痛恨のミスであろう。森からの脱出の際には偽アーチャーもいたのでバビロンの宝物蔵から好きなように宝具を取り出せたが、こうしてキャスターが一人で扱おうとするとこの様である。
 かつて、アーチャー自身も言っていた。蔵の中の貯蔵量は、自身の認識を遙かに超える、と。
 持ち主ですら把握仕切れぬモノを、盗人が把握できる筈もなかったのだ。
 すでに何度も試しているというのに、出てくるのはこうしたわけの分からぬものばかり。見る者が見れば一級品なのだろうが、鑑定眼を持たぬ者からはガラクタ同然。分かり易い武具ですらまだ一つとしてお目にかかったことはない。武器庫ではなく宝物蔵なので、実は武具の割合は圧倒的に少なかったりするのだろうか。
 片っ端から中の物を出すことも考えるが、それは止めておいた方が良いだろう。それこそニシンの発酵食品でも出てきたら大騒ぎになる。食べ物ならまだ良いが、中には使用者以外を自動で攻撃するような宝具だってある。出す宝具が全てキャスターに利するものとは限らない。
「これが辛勝の正体というわけですか」
「そういうこった」
 これならいっそ宝物蔵を奪ったことを知られていた方がブラフとしてよっぽど役に立つ。その機会も失われてた今となっては後の祭りでしかない。
 もし宝物蔵を有効に扱えたのであれば、この時点での勝率は四割を超えている。ありとあらゆる周囲の被害に目を瞑れば五割は固いだろう。
 しかし一転して宝物蔵が使えないとなれば、勝率は一気に落ちて一割にも届かない。キャスターのこの告白はそれを更に下方修正することを意味していた。生存率を考えれば、もはや絶望的ともいえる数字しか出てこない。
 改めて、彼我の差を思い知らされる。
「……それで?」
 そんな状況にあって平然と続きを促すライダーの言葉に、キャスターは苦笑いを禁じ得ない。
 ライダーは、そんな絶望的な数字になど何の驚きも感じていない。
 キャスターがこうも正直に告白したのは、単純にライダーの信頼を勝ち取るためだ。今後の戦略を練る上でライダーの協力は不可欠であり、強固な関係構築はドラマを生み出す上でも欠かせない。
 だが、キャスターのそんな小賢しい演出など、ライダーには何ら通用しなかった。キャスターがいかに演出しようともライダーはその事実を平然と受け止め、ただ粛々と自らの役割を全うするのみ。
 それに、勝敗は水物であるが故にひっくり返ることは珍しくもないことをライダーは知っている。あの夢の世界にあって、ライダーが敗北する可能性などこの状況より遙かに低かったのだ。逆転できる要素は、どこかに必ず存在している。
 黙々と食べ続けるライダーとは対照的にキャスターはスプーンをテーブルの上に置いてツナを頬張る手を休めた。
「……こうして直接戦ったことで色々と情報収集ができた。特に敵の指揮官がファルデウスという魔術師だと判明したのは大きい。厄介な相手だが、見ず知らずの人間より多少はその思惑を読みやすい」
「それで?」
「結局、あの場で人質として確認されたのはティーネ・チェルクただ一人。俺が確認できた《方舟断片(ノア)》も罠が仕掛けられていた。他のマスターの確認ができていなかった以上、捕らえたという情報はファルデウスのブラフである可能性が高い」
「それで?」
「対アーチャー作戦は伊達じゃない。デイジーカッターの威力は現代兵器の中でも最大のものだが、俺はそこに時間操作も付け加えておいた。爆心地付近にその威力を限定させ、更に核並の超高熱の爆風と衝撃波を五分以上も集中させている。魔力を枯渇させるための《茨姫(スリーピングビューティー)》では防ぐための魔力もなかろう。アーチャーの消滅は決定的だ。この宝物蔵を取り返しに来る心配はない」
「それで?」
「逆に言えば、あの威力に物理的に持ち堪えられればその限りでは無い。ランサーの《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》ならもしかするかもしれん。生存の可能性がある以上、先んじて接触に成功することができれば共同戦線を張ることは可能だろう」
「それで?」
「フラット・エスカルドスの行方が未だ持って分からない。又聞きだが、あのマスターが自分のサーヴァントを消滅させられて尻尾を巻いて逃げ帰るとも思えん。生きていれば、必ずどこかで何かをしている筈だ」
「それで?」
「以前に署長は上層部を数日間黙らせると第三者から通告されたらしい。それを署長に代わって、現在ファルデウスがその猶予期間を利用している。時が経ち、上層部が詳細を知ればファルデウスは自滅することになる」
「それで?」
「スノーホワイトが一時的に使用不可能になったのは先にも話したが、それによって敵主戦力となりうる宝具の使用には大幅に制限が科せられる筈だ。スノーホワイトなしでサーヴァント相手に動ける《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は壊滅。実質奴が自由に動かせる手駒は魔術師とは対極にいる職業軍人の部隊だけだ」
「それで?」
「原住民主戦力は確かに壊滅したが、壊滅させたのはファルデウスの部隊ではない。奴らは早急に事態を片付けるために奥の手を晒してしまった。手札が見えている以上、ファルデウスの次の手は読みやすい」
「それで?」
「原住民は協力的だ。繰丘椿のおかげでな」
「……なるほど」
 キャスターの言葉に耳を傾けていたライダーは最後の皮肉で打ち止めと判断したようだった。他にもキャスターが隠していることはあるが、ライダーが問い質してくる様子はない。代わりにしてきたのは確認だった。
「敵の次の手が読めると言いましたね?」
「その通りだ。奴らは自分の好き勝手に行動している。少なくとも、上層部には自分にとって都合のいい報告をしていることだろう。帳尻を合わせるためには、自由の利く今のうちに動き出さなくてはならない」
「……その帳尻というのは?」
 少女の身体には多すぎる戦闘食を全て胃の腑に落としたライダーは口休みなのか角砂糖をそのまま口に放り込み、立ち上がり問うてくる。
「撤退中に敵に捕獲されたティーネ・チェルクを助けるために突進したバカがいてな。せっかく消滅したと誤魔化せたのに生き残ってるのがばれちまった」
「要は、消滅したと報告したマスターとサーヴァントを掃討するということですか」
「だからこそ、次の手は――」
 キャスターが言いかけたその時、要塞が振動した。
 内部からではなく、外からの振動。見上げれば天井の照明が瘧がついたように震えていた。天井部の岩から砂状の粒が食べかけのツナ缶へと落ちていくが、キャスターは気にすることなく再度スプーンを手に取りツナを口の中へと頬張った。
「……こちらを休ませる間もなく奥の手を投入ってところじゃねぇかな?」
 ファルデウスが頼みの綱としているのはお抱えの職業軍人部隊。そして、それ以外は奥の手であろうと使い捨てだ。実に気っぷの良い限りだが、まったく嬉しくない。
「まあ、予想はしていました」
 いくつもある閉鎖区画からわざわざこの場所を選んだのも、こうして外からの襲撃に備えやすくするためだ。人気がおらず景観が良いだけで選んだわけではない。
「念のため確認しますが、現有戦力で迎撃に割けるのは私一人だけですか?」
「まさか俺に期待しているのか?」
「それこそまさかです。足手まといは必要ありません。部屋の隅でガタガタ震えながらそこのツナ缶でも片付けておいてください」
 襲撃を受け、要塞内部が騒がしくなるのが分かる。その間にも振動が続くことから敵は砲撃でも続けているのだろうか。遠距離タイプだとするとライダーと相性は悪いが、それで負けるような可愛い英霊ではない。
 仕方ないので、キャスターは懐から小さな缶を取り出しその中の物をライダーに放り投げる。
「? 何ですか、コレは?」
「飛行宝具ラピュタだ。これを持って飛び降りれば、下で鳥打帽を被った少年が受け止めてくれる筈だ」
「ありがとうございます」
 受け取ったドロップ飴を口の中に含み、ライダーは冷たい視線で礼をする。幼気な少女の乾いた視線にキャスターは癖になりそうである。最初は機械的にしか動けなかったと聞いていたが、中々どうして、実に人間臭くなっている。
 人間臭いということは、その精神も人間に近付いているかも知れない。
「そう言えば、」
 テクテク歩いて窓から気軽に飛び降りようとするライダーの肩越しに、キャスターが声をかけた。
「なんでしょう?」
「お前のマスターが助けたティーネ・チェルク。さっき手術は無事に終わったってよ。一晩も埋めておけば明日の朝には全快するとも言っていた。さすがは族長様々だな」
「結構なことです」
 ライダーの声に変化は見られない。
 あの状態のティーネ・チェルクを助け出すのを強行したのは椿の独断だった。キャスターは無論のこと、相談役と責任論を交わしたライダーですら、状況を鑑み見捨てるべきだと判断した。一目で重傷と分かるティーネが助かるなどと誰も思わなかったし、何よりこちらが生存していることがばれる。連れ帰ったところで原住民は協力的になろうともう戦力にはなり得ない。
 天秤の傾きが多少戻ったくらいでマスターである椿の失態が帳消しになるわけもない。
 けれども、ライダーの心は軽くなったに違いない。
 そう勝手に思うのは劇作家の悪癖であろうか。
「……ならキャスター、原住民の方々に伝言を頼めますか」
「ふむ。任された」
「巻き込まれたくなければ、決して外には出ないように」
 窓枠に立ってライダーは外を眺め見る。その視線の鋭さは同じ椿の顔といえど怖いくらいに違っている。
 思わず背筋が寒くなるのを覚えながら、キャスターは戦場へと飛び去ったライダーの後ろ姿を見送った。
 遠目から見る限り目立った敵戦力は三。もちろんこれで終わりである筈もない。ライダーといえど楽観できぬ戦力であるが、この様子なら援護も必要あるまい。
「さて。ならば俺がやるべきは実働部隊を警戒することかね」
 ぼやきながら、キャスターは踵を返した。
 ファルデウスのことである。表だって攻撃を仕掛けているこの部隊は陽動、本命は既にこの要塞内に侵入している筈だ。狙いはティーネ・チェルク――だけではない。
「恐るべきはこの規模の戦力を平気で使い捨てる胆力だな」
 これで威力偵察だというのだから恐れ入る。
 ファルデウスの目的はライダーと要塞内にいる戦力を正しく見極めるところにある。この戦力でどの時間耐え、また殲滅し終えるのかその対処能力をどこか遠くから覗き見ているに違いない。
 手の内はばれてしまうが、こちらも戦力を出し惜しみしている場合ではない。事前に指示はしておいたがどこまで上手く欺けるかで今後の動きも違ったものとなる。
「――さて。つまんねぇ仕事はさっさと終わらせちまうか」
 盤上の駒を思いながら、劇作家は億劫そうに動き始める。
 軍師でもないキャスターであるが、キャスターの中で今後の展開は決まっている。そして実際、そうなることだろう。
 結局イレギュラーたり得る存在がいなければ戦争は数字へと置き換えることができる。勝敗を占うのなら秤に乗せるだけで事足りる。そこにドラマを見いだすのも乙ではあるが、残念かなキャスターはそこに群像劇としての価値すら見いだすことはしなかった。
 戦闘は、この三〇分後に何の起伏もなく収束した。


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 最後まで残った敵はやはり別格の戦闘力を持っていた。
 敵の宝具は木槌。能力はその大きさを持ち主の自由自在に操れること。その伸縮性から間合いを測りがたく、距離を取れば直径一〇メートルを超える巨大化した木槌が上から振り下ろされる。
 だがそれだけであるのなら、この宝具はランサーの脅威になり得ない。ランサーにとってほとんどすべての打撃は《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》が受け流してしまう。本来なら気に掛ける必要すらない。
 絶対的な実力差がそこにある、筈だった。
 もう何度目になるかわからぬ木槌の一撃が放たれる。度重なる連撃はランサーの動きを完全に縫い、そして何の意外性もなく、木槌はランサーの腕に接触した。同時に、ランサーの腕が爆散したかのように遠くに吹っ飛んでいく。
「……」
 さすがに初見こそ驚きはしたものの、それが何度も続けばその正体にも気付く。敵は単に接触した瞬間に木槌に急制動をかけ、その爆発的な衝撃だけを接触面へと伝達しているのだ。結果として、《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》は受け流せる許容量を超えて遠くに吹き飛ばされる。
 明らかに対ランサー戦を想定した技である。これによりランサーの身体はその約二割を周囲に飛び散らせている。消滅したわけではないので回収すれば元通りだが、ここまで回収を許されたことは一度としてなかった。
 それに、わざわざ回収する必要もない。
「――ッ!!」
 木槌による衝撃を受けたところでランサー本体の動きに支障はない。そして急制動してしまった以上、すぐに敵は動けない。これまではその隙を仲間がカバーしていたわけだが、頼みの仲間は全て地に伏していた。
 動きを止めた敵の懐に潜り込み、新たに生やした腕はあっけなく敵の胸板を貫く。
 健闘を称えるべきだろう。一人になった時点で敗北は明らかだった。それでも戦法を変えなかったのは、それしか勝算がなかったからだ。
 力なく崩れ落ちる敵の顔を、なんとなしに覗き見る。フルフェイスのバイザーを上げてみれば、女の顔がそこにある。口から止めどなく血が零れ出るが、そこに呼吸音は既にない。虚ろな瞳に映る自分の顔に堪えられず、ランサーは目蓋を下ろした。
 この女の顔とランサーの顔には同一の表情が張り付いていた。
 女の死に顔が自らの未来を暗示しているようで酷く気分が悪かった。
「コングラッチュレーション、ランサー!」
 全てを影から見ていた黒幕が、お供の部下を大量に引き連れて登場してくる。新たな敵かとうんざりするランサーではあるが、彼らの目標はランサーではなく、ランサーが倒した敵集団にあるようだった。
 ひとまず戦闘継続の必要性がないことに安堵しつつも、別の意味で面倒な相手を無視するわけにもいかなかった。
「……一体何がめでたいのですかね、ファルデウスさん」
「なんだい、君は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を討伐目標に据えていたのではなかったのかな? 彼女が《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》最後の一人だよ」
「ああ、そうなんですか」
 語られた衝撃の真実、などというほどでもない。実に淡泊なランサーの対応にファルデウスも鼻白む。
「気に入らなかったかな? せっかく君のためにわざわざ用意したというのに」
「彼らの長である署長とキャスターがまだ生きているのに目標達成したというには無理があるでしょう。それに――」
 周囲でランサーが倒した敵を嬉々として調べている人間を眺め見る。その様は戦場跡で死体から金品を掠め取ろうとする腐肉漁りを彷彿とさせる。そしてあながちそうした表現は間違っているわけではない。
「それに、この実験は僕のためではなく、彼らのためでしょう」
 ランサーの言葉にファルデウスも笑って否定しなかった。
 彼らが漁るのは金品などではなく、技術という名の見えぬものだ。
 パワードスーツという知識ならランサーも知っている。装着者の動作を強化拡張する現代の鎧。繰丘邸や《茨姫(スリーピングビューティー)》での戦闘で《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が装着しているのを実際に見たこともある。だが、今戦った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が装着していたパワードスーツは明らかにそれとは一線を画している。
 以前に見たそれはスーツの名にふさわしい大きさと形状であるが、これはスーツと呼ぶよりも鎧に近い。火力と機動力は比較にならないほど強化され、通常では考えられぬ反応速度まで向上されていた。
 熟練者であれば、これ一機でサーヴァントを打倒することも不可能ではないだろう。ましてや、これを八機同時に正面切って相手をするともなれば勝機はないに等しい。
 唯一の救いは、このパワードスーツが未完成だということか。
「実用化の目処はつきそうですか?」
「安全基準はクリアできそうにないですね」
 安全基準以外はクリアしていると告げていた。
 人間である以上、その身体の強度には限界がある。いかに外骨格で強化したところでサーヴァント並の無茶な戦闘機動を行えば自滅は避けられない。緩旋回ですら怪しいところを鋭角ターンなどすればいかに保護機能があっても内蔵へのダメージは計り知れない。事実、装着者の何名かはランサーが手を下すまでもなく数分で動きが鈍くなっていた。
「まぁ、貴重な実験データが取れましたから問題ありません」
 言って、パワードスーツから慎重に運び出される死者に対してファルデウスは十字を切る。そのわざとらしさにランサーは呆れるが、その死者の中に見覚えのある者がいた。
 かつて繰丘邸でその身体を貫き、夢の中でライダーに操られたのを殺した《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。決して前線で戦える状態でなかった筈だ。
 分かっていたことだが、最初からファルデウスは安全基準を満たすつもりなどはなかったということだ。
「何か?」
 言いたげなランサーの視線にファルデウスが問いかける。
「……別に何も。あなたが何を企もうと、僕に何の興味もありませんよ」
 その言葉には確かに偽りなどありはしなかった。
 例え目の前で無辜の命が失われようとも、どんな悪辣な巧みがあったとしても、ランサーはそれに感知することもない。ましてや、動くことなど考慮の埒外。
 その筈だった。
「アーチャーが消滅したとはまだ確定したわけではありませんよ?」
 試すような口ぶりのファルデウスに、ランサーは瞬間、我を忘れる。
 ――一体どの口でそんな言葉を吐いているのか。
 気付けば、ランサーは先の戦闘ですら慎重を期して使わなかった創生槍ティアマトを手にしていた。神速の突きでファルデウスの喉元に迫るが、寸でのところで槍が血に濡れることはなかった。ランサーが無意識に放った殺意に、熱狂していた筈の技術者達ですら本能的に押し黙り手を止めていた。
「ああ、我々のことは気にせず続けてください」
 そんな技術者を、殺されかけた当の本人が気にすることもなく作業を進めろと命じてくる。やや戸惑いながら、そしてランサーを警戒しながら、技術者達は自らの作業へと戻っていく。
 腕をほんの数センチ動かすだけで、ファルデウスは何の抵抗もできず、自らが死んだということを認識する間もなく、簡単に殺すことができる。
 知らず、ランサーの腕が震えた。
 理性があることを恨まずにはいられない。
 このままファルデウスを殺すのは実に容易いが、ここで彼を殺すわけにはいかなかった。
「自制が利いてくれて助かりますよ、ランサー」
 未だ余裕の笑みを浮かべるファルデウスにランサーは仕方なくその矛を文字通り収めた。
 ファルデウスは確定していないというが、実際にはアーチャーの消滅は確定している。それを確定させたのは皮肉にもランサー自身のスキルである気配感知。デイジーカッターがいかに強力でその後の被害が甚大であろうとも、その程度のノイズでこのスキルを偽ることなどできはしない。
 爆発後、ファルデウスが接触してくるほんの一時間足らずではあるがランサーはこのスノーフィールド全域をその気配感知スキルで隈無く走査している。
 ティーネ・チェルクの生存は確認した。ライダーだって繰丘椿の中で生存していることも確認した。おまけのようにキャスターが生き延びているのも確認できた。他にも確認できた者はいるが、朋友の気配はどこに感じることもできはしなかった。
「……」
 もはやとりつく島もないランサーの様子にファルデウスも肩を竦め嘆息する。
 アーチャー消滅は、ランサーにこの戦争での意気込みを失わせるには十分すぎた。親友を失えばそれも当然ではあるが、本来の目的を達成しようともしないのはファルデウスにとっても僥倖だ。
「大丈夫ですよ。あなたが約束を守ってくれる限り、僕は約束を守ります」
「実に頼もしいことです」
 実に当てにならない保証をしてランサーはファルデウスに背を向ける。その後ろ姿に頼もしさを感じることはできないが、先のやる気のない戦いですらランサーは強化――狂化した《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》たちを圧倒していた。
 アーチャーがいなくなった以上、事実上この聖杯戦争でランサーを打倒しうるサーヴァントはいなくなった。ライダーとの戦いで消耗し、デイジーカッターの直撃で焼き尽くされてなおこのサーヴァントは圧倒的だった。
「……ああ、そうそう。二点だけ伝えておくことがあります」
 今思い出したかのようなファルデウスのわざとらしい言い草にランサーの歩みが止まる。振り返るようなことはしない。
「我々の名前が決まりました。
 ――その名もレギヲンです」
 マルコ傳福音書、第五章九節にある悪霊の名。かつてはローマ軍団を指し示し、今では軍団そのものを意味している。
「……捻りがありませんね」
「これでも、随分と考えたんですけどね」
 苦笑いするファルデウスではあるが、実際に意味があるのはその名ではない。発表のタイミングである。
 彼らの前身となる筈だった《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は今ここで全滅した。その死骸の上に成り立つレギヲンは《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とは似て非なる存在。総じて、ランサーが《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》に向けた害意とは関係していないことをファルデウスは告げている。
 それは臆病者の発想だ。そんなことでは免罪符になりはしない。
「それで、ファルデウスさん。もう一つは?」
 早くこの場を去りたいと、ランサーは面倒そうにファルデウスを急かした。
「……いい加減、私をマスターと呼んではくれませんかね?」
 伝達事項と言いながら、それは依頼だった。命令でないところが、やはり臆病者の発想だとランサーは切って捨てる。
 ファルデウスのその手には、令呪の輝きがある。
 残り一画限りの絶対命令権。対魔能力に乏しいランサーでは、その一画だけでも抗えはしないだろう。
「ならその令呪で命じてください」
「ハハッ、冗談ですよ」
 戯けたようなファルデウスの物言いだが、ランサーが振り返らずともその瞳が笑っていないのは確かだった。
 臆病者は恐ろしい。下手に出ながらも、慎重にこちらの出方を伺ってくる。それでいて切り札をもちらつかせても伏せ札は伏せたまま。
「僕のマスターは彼だけです」
「重々承知しています」
 それっきり、新たなマスターに対してランサーは振り返ることなくその場を後にする。結局ランサーは背後にある“偽りの聖杯”について何のアクションもとることはなかった。
 《方舟断片(ノア)》に封印され内部を覗き見ることはできないが、ランサーがその中身がどういったものか気付いていない筈がない。創生槍ティアマトを自制して使わなかったのは、万が一にもティアマトで《方舟断片(ノア)》を無力化し、“偽りの聖杯”が解き放たれるのを恐れたからである。
 大胆にも、ファルデウスは臆病者(チキン)でありながら賭博師(ギャンブラー)でもあった。
 この空間を実験場として選んだのは単に観測設備が充実し、戦闘するのに適した広さがあるというだけではない。封印され動かすことのできぬ“偽りの聖杯”を前にしてランサーがどう出るのか見極めたかったという狙いがある。
 かくして、賭けに勝ったファルデウスは多くの成果を得ることとなった。
 もっとも、“世界が滅びる”というリスクに見合っていたかといわれれば誰もが首を振るだろうが。


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 ランサーが地下の“偽りの聖杯”を後にした頃、その頭上にある基地の一室でもひとつの勝負が終わった。
 生きたまま時間をかけて身体を少しずつ切り刻む拷問を勝負というには些か語弊があるだろう。だが勝手に勝負を設定したのは拷問執行者自身である。それでいて“拷問中に声を上げさせる”という分かり易い判定に敗北したというのだから、笑うに笑えない結果である。
 女の肌を、血が絶え間なく流れ落ちる。結局女は気絶するその時まで呻き声一つあげることなく拷問に耐えていた。ここで無理矢理起こすことは可能だが、その滴る血を前に拷問執行者はどうにも我慢はできなかった。
 手枷に繋がれ、壁際に吊されたままアサシンの血を、脇目もふらずジェスターは舐め取っていた。
 手枷は強力な魔力封じであるが、マスターとの直接接触であれば魔力供給が可能である。血を舐め取る舌が触れる度に消滅寸前まで追い込まれていたアサシンへ魔力が供給され、失われた五指や両足、削がれた耳に抉り取られた眼、裂かれ内臓が見え隠れする腹がゆっくりとだが確実に癒えていく。
「――ああ、もう癒えてしまった」
 心底残念そうに、ジェスターは最後に口元に付いたアサシンの血を惜しむように舐め取った。
 アサシンの血は、ジェスターにとってどんな料理にも勝る嗜好の逸品だった。既に三度も同じことを繰り返しているが、それであっても飽きることがない。長い年月を経て数万にも及ぶ血を啜ってきたジェスターだが、これに匹敵する血を味わったことなど片手で数える程度。その砂糖菓子のような甘やかで、麻薬のように断ちがたい死徒の本能に、本来の目的すら忘れそうになる。
 自制が利かなくなる。
 あと一度。あと一度だけその血を舐めてみたい。
 壁や床に飛び散った血もジェスターの赤い影で残らず舐め取った。テーブルマナーにあるまじき行為であるがそれでもまだこの身体はアサシンの血を求めていた。アサシンの血で汚れたナイフを傷つくのも厭わずキャンディーのように舐め回すその姿は、控え目にいっても異常であった。それでいてその異常性を本人が一番良く理解している。
 気付けば意識を取り戻してすらいないアサシンにジェスターはナイフを振り上げていた。慌ててその軌道を逸らし、己に突き立てることで危ういところを回避する。
 死徒とは総じて狂気に呑まれた存在だが、魔術師上がりのジェスターにあって、本能の赴くまま簡単に狂気に呑まれては本末転倒である。
 ナイフでズタズタになった自らの舌が煙を上げて修復されていく。蕩けそうになる頭を必死になって保たせた。
 誰か私を引き留めてくれないか。
 このままだと、このままだと、私は、私は、ワタシハ――
「死徒とは随分と変態なのだな、ジェスター」
 救いの声は、近くから聞こえた。
 ゆっくりと、時間を掛けてジェスターはその声の主へと振り返る。
 声の主は、アサシンと同じように向かい側の壁に吊り下げられている。
 近代基地施設、それも使われる予定もない秘密基地にそもそも拷問部屋などあるわけがない。せいぜい尋問室と営倉くらいであり、こうした拷問部屋はジェスターがファルデウスに無理をいって作って貰った一室のみである。
 今回はそれが幸いしていた。この部屋でアサシンと二人きりであったのなら、再度同じことを繰り返し、最終的にはどうなっていたのかジェスター自身も保証することはできなかった。
「目を覚ましたようだねぇ、署長……」
 なるたけ平静を装うように時間をかけて振り向いたがその甲斐もなかったようだ。よほど壮絶な顔をしていたのか、ジェスターと目を合わした瞬間に覚悟をしていた筈だろうに、署長の身体が震えた。右手を失っていることなど関係なく、署長の全身から汗が滝のように流れ出てくる。
「醜態を晒してしまった……いつから目を覚ましていたかな。夢中になりすぎて気付かなかったよ」
 署長を落ち着かせるように、そして自身に言い聞かせるように、ジェスターはなるたけ穏やかに口を開く。
 署長にしても、ジェスターが落ち着こうと努力していることは伝わった。言葉が伝わるのならば、いきなり殺されることもない。悪魔との取引も、その契約書は読めずとも言葉が通じるのが大前提だ。
「ペチャペチャ犬みたいに血を舐めてる音が五月蠅くてな。それでいて自傷行為に走り始めたんで、つい声を出してしまった。邪魔してしまったかな」
「いいや。お陰様で目が覚めて感謝したいくらいだよ……傷の具合はどうかね?」
 自らに突き立てたナイフを無造作に引き抜き、そのままナイフで署長の失った右手の切断面を軽く撫でる。厚く巻かれた包帯に遮られてナイフの刃が通ることはないが、些細であってもその感触は傷口に伝わる。死なない程度に処置はしてあるが、麻酔などは打っていない。アサシンへの拷問とは較べるまでもないが、それでも大の大人が泣き叫ぶぐらいの痛みが署長を襲っている筈だった。
「……ッ! お、お陰様でこの通りだ……それよりも、吊されてる左肩が痛くてしょうがないな……ッ!」
 先よりも激しく噴き出す汗が署長の現状をジェスターに教えてくれる。アサシン同様に魔術封じの鎖に繋がれているせいで、魔術回路を通しての痛覚コントロールも満足にすることができない。
「令呪を使われては困るのでね。念のため切り落としてしまわねば安心できなかったのだよ」
「死徒の動体視力なら令呪を使い切っていたことくらい分かりそうなもんだがな……」
 念のため、で腕を切断されたのではたまったものではないが、署長がジェスターの立場であっても同じことはしていただろう。もっとも、署長であれば右手ではなく首を切断している。
 わざわざ生かして捕らえたのだ。無意味に拷問するためだけに生かされたのではないと信じたい。
「全ては貴様の思惑通りというわけか」
「いや、なかなか上手くはいかんようだ。署長よりもあのファルデウス、相当に頭がいかれてる」
 含みのある言い方でジェスターは悩みを吐露してみせる。
 市内は無論、ラスベガスでも確認したが、周囲で監視している“上”の幹部は悉く暗示にかかっている。その犯人がジェスターであることにもはや疑いの余地はない。
 署長が見るに、ジェスターの魔術の腕は群を抜いている。それでいてファルデウス自身の魔術の腕はそこまでではない。その気になればどうとでもなりそうであるが、実際にやっていないところから察するに、ファルデウスは相当非常識な手段でそれを封じているのだろう。
 しかしその割りにはジェスターに余裕がある。
「なら、ここで一体何をしてる? 若い女を吊すなんて趣味が悪いじゃねえか」
「クァハッ! クハハハハッ! これは仕事だよ、誰もお二方を監視しないので私が引き受けた次第だ」
「趣味、の間違いだろう?」
「おかしなことを。拷問なんて残虐非道なこと、仕事でなければできはしない。私も苦しい。殴られれば殴った方も痛いと知っているかね?」
「その言葉がどこまで本気かは知らないが、監視と拷問が同一の仕事だとは思いもしなかったぜ……?」
「クァハッ! これは痛いところをつかれた!」
 心底可笑しそうにジェスターは口元を抑えて嗤う。嗤いながら、ふらふらと気絶したアサシンへと歩み寄り、拷問によって剥き出しになったその乳房を撫で回した。荒い息と常軌を逸したその表情。その姿は劣情を催した獣に似通ってはいるが、ジェスターにあってそんな上品なことをする筈がなかった。
「そうだな、署長。そんな君に褒美といってはなんだが、アサシンを犯してみる気はないか?」
 唐突な、そして想定外の言葉にさすがの署長も言葉を失った。未だ収まりようもない痛みに幻聴だとすら思った。
「聞こえなかったか? 犯して良いといったぞ?」
 繰り返される言葉に幻聴という可能性も消し去られる。いや、ならば単にからかわれているだけに違いない。
「……何を、馬鹿なことを。自分でやればいいだろう」
「そんなものに興味はない。私は観客として愉しみたいのだよ」
 アサシンの裸体をその舌で這わせておきながら、ジェスター自身がアサシンを犯すつもりはないようだった。この男に吸血衝動はあっても性欲はないらしい。
「本当は輪姦される彼女を見たくて基地の連中にも声を掛けたんだが、サーヴァントを犯すのはどうやら恐ろしいらしい。ファルデウスにも規律を盾に一蹴された。妥協案だが仲間に犯されるというのも乙というものだろう?」
 そうして、徐にその首筋へキスをするように噛み付いてみせる。恍惚としたその表情は麻薬中毒者と何ら変わりない。ジェスターの喉がごくりと鳴ってその血を胃の腑に落とした。
「こう見えてまだアサシンは未通娘(オボコ)でな。貴様も慣れたものだろう? 腹心の部下だろうと催眠と自白剤の前に忠誠心など役にたたんよ。署長の性癖など聞く必要があったとも思えないが」
「……ついでに洗脳もされていそうだな」
「クハァッ! なかなか鋭いところを突くが、安心しろ。署長の前に敵として現れることはもうないさ。永久にな」
 離れているとはいえ、この部屋にも微振動はあった。アサシンに夢中で気付かなかったが、いつの間にかそれがなくなっている。ということは、そういうことだろうとジェスターは判断する。
「……ッ」
 部下の死を婉曲に告げられ、署長は奥歯を噛みしめ自らの怒気を抑えこむ。
 秘書官として、自らの懐刀ではあったが、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の中で彼女だけを特別扱いするつもりはない。すでに元とはいえ幾人もの部下を失った無能な上司だ。それについて喚き散らす権利を署長は持っていない。
「一体何が目的だ?」
「……目的?」
 署長の言葉に、目を覚ましたかのようにジェスターは唐突に焦点を合わせる。またテンションが上がり、アサシンの血を啜っていたことにようやく気がついた。荒い呼吸にも同時に気付き、今度は口元を舐め取るようなこともせず、大きく深呼吸し、アサシンから離れて壁を背に座り込んだ。そのままの姿勢で、ジェスターは署長を眺め見る。
「知れたこと。アサシンの真価を見極め暴く。ただそれだけだ」
 全てを語っているわけではないが、その言葉に嘘偽りはない。最高の料理を仕上げるにはその食材にも気をつけねばならない。今はその食材をどう育成するのかをジェスターは語っていた。鶏肉を使うのにヒヨコを調理する馬鹿はいまい。素材があれだけ良いのだ。手間暇をかければ、最高級の食材へとアサシンは変貌することだろう。
「それとこれとがどう繋がる?」
「クハハハッ……クァハッ……おかしなことを言う。元とはいえ《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の長がこの聖杯戦争の仕組みを知らぬわけではあるまい? どういう基準でどんな強さのサーヴァントが選ばれるのか。なら、アサシンはそれに当てはまるのか?」
「それは……」
 ジェスターの言葉に署長は言葉を詰まらせる。
 歴代ハサンの業を習得し、各パラメーターも総じて高い。実戦経験の少なさと後先考えぬ性格というマイナス面を補ってあまりある強さがアサシンにはある。これが通常の聖杯戦争であったのなら、何の文句もなかっただろう。
 だがこの偽りの聖杯戦争には、相応しくない。
「……アサシンに令呪で縛りを入れているからではないのか?」
「クハァッ! さすがに気付いていたか」
「薄々気付いていたさ。戦い方ひとつとってもアサシンの動きには非効率で無駄が多すぎる」
 例えばあの武蔵が召喚された戦場でも、アサシンはわざわざ宝具を使って敵を排除している。単純に敵を殺すだけなら、ナイフ一本でも十分な筈だ。無駄に魔力を消費する必要もなければ、宝具の正体を知られるリスクもある、アサシンの行動にはその性格を差し引いても合理性がなさ過ぎる。
 そうした不合理も令呪の強制と考えれば納得もできよう。
 だが、そうしなければならない理由には思い至れない。
「そんなブレーキをかけて何の意味がある?」
「署長はマシンというものに詳しくないようだな。ブレーキは減速のためだけのものではない。馬力を生かすには強力な接地力は必要不可欠だろう?」
 接地力がなければ、タイヤは宙で空回りするだけだ。それだけでなく、逃しきれぬ慣性の力はコントロールすら失わせる。おおよそ魔術師らしからぬ例えだが、その意味が分からぬわけでもない。
「ひとつ、面白いことを教えてやろう。彼女はアサシンのクラス以外も適正のあるクラスを持っている。一体何が該当すると思う?」
「アサシンに、アサシン以外のクラスが該当――?」
 ジェスターのからかうような問いに署長は考え込む。複数のクラスに該当するサーヴァントは珍しくないが、アサシンに限っては難しい。正当後継ではないとはいえ、彼女はれっきとした暗殺教団の一員だ。環境からしてアサシンであり、強いて挙げるなら狂信者という意味ではバーサーカーのクラスなら該当しそうである。
 だがそんな答えはあまりに普通すぎて、ジェスターがわざわざ問いかけるほどのものでもない。
 そこまで考え、署長は思考の迷宮を突然に抜け出てしまった。
 本来であるなら考える振りをしながら時間を稼ぎ、署長の魔術回路を調整し痛覚遮断と今後の対策を練る筈だが、そういうわけにもいかなくなった。
「……馬鹿な」
 思いの外あっけなく辿り着いた答えは、荒唐無稽ともいえるものだった。
 クラス・セイヴァー。
 それは、救世主のみがなり得るクラスである。
 署長がそのクラスを知っていたのは計画の付属資料にその名が記載されていただけであるが、それがどれだけ破格のクラスか想像はつく。何せ、クラス・ビースト以上の脅威度設定であったのだから。
「アサシンが生涯幽閉されていなければ、そうなっていただろう。クハハッ、たかだか暗殺教団ごときが歴史を変えていたとは驚きだな」
 それが本当であるなら、召喚されたサーヴァントとしての選定にも納得ができる。
 当初の想定ではアサシンクラスにおいてハサンは召喚されないと思われていた。理由は簡単で、直接戦闘能力において大いに不安があるからである。対人戦闘を主とする暗殺教団ではこの聖杯戦争では力不足なのは間違いない。
 ともすれば、アサシンが繰り出す歴代ハサンの業も、彼女本来の能力の一部に過ぎないことになる。救世主のクラスで召喚されなかったために各種能力も相当に低下しているに違いない。
「勿論証拠があるのかと問われればそんなものはない。だが彼女の血はかつてルーアンで舐めさせてもらった聖人の血となんら遜色はない。少なくとも聖人並の素養はあるのだよ。そしてそれ以上の可能性をアサシンは持っていた」
 ちろりとその血を舐め取った舌がのぞいた。
 そんなものが証拠になるわけもないが、少なくともジェスターはアサシンが想定を遙かに上回る能力を秘めた別格のサーヴァントであると認識している。実際、専門家が必要なスノーホワイトの再起動にも後一歩のところまでアサシンは“何となく”やっただけで辿り着けていた。
 彼女の実力など、問題ではないのだ。
 理屈を差し置き、全てを見通す能力が彼女にはある。
 足りていないのは、その自覚だけだ。
「アサシンはバネ仕掛けの玩具ってわけか」
「そうとも。そして令呪程度ではまだバネを圧縮しきれない。だからこうして拷問し、せめて肉体だけでも痛めつけている。神に捧げるべき穢れなき肉体だ――肉体の穢れは魂の穢れに繋がっていく。
 見てみたくはないか、このアサシンの羽化を。彼女は地獄にあって最も強き光を得る者だ」
 独特の嗤い方をしながらジェスターの眼は死徒とは思えぬ輝きを放っている。アサシンがいかに素晴らしい可能性を秘めているのかを署長に力説する。納得したふりをしながらも、署長は内心嘆息せざるを得なかった。
 ジェスターの言葉は狂人の戯言に近い――いや、そのものだ。
 アサシンは追い詰められれば追い詰められるほどその真価を発揮する――だから令呪で縛り、拷問を行い、レイプを依頼する。本来であれば、そんな言葉は相手にする価値もない。仮説の一つとしては面白いかも知れないが、その程度でしかないのである。
 この戦争で彼女がサーヴァントとして選定され召喚されたのは変えようのない事実。こちらが勝手に推測し計算した結果が下回っただけで、帳尻はどこかで必ず合っている筈なのだ。
 そして何より、もう状況的に戦争終盤に入っているというのに、アサシンの羽化などと言って拷問やレイプを悠長に行っている時間などありはしない。ジェスターの目論見が日の目を見ることなど考えにくい。
 ……いや、だからこそ、こうして捕まえているのか。
 焦っているのは、ジェスターの方だ。
「なるほど。アサシンの助命を条件にファルデウスに組したというわけか」
「ただ組するだけで最低一日延命できる。安い買い物だったさ」
 この話しぶりだと、ジェスターはファルデウスが最終的に約束を反故にすることも折り込んで動いている。
 初期段階で令呪を全画使いきってまでアサシンの行動を制限し、中盤においては《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を揺さぶって盤上をコントロールすらしている。今現在においてもファルデウスを利用しているが、これまでの経過を見る限りそれだけでないことは確実だ。
「狂人の発想にしては計画が緻密だな」
「それだけ綿密に調べたのでね」
 強いてジェスターの計算外を挙げるとすれば、肝心のアサシンが予想以上に成長しなかったことだけ。
 だからこそ、こうして直接的な行動に移らざるを得なかったのだろう。
「……ならジェスター。お前はアサシンのためになると判断したならファルデウスも裏切るということか?」
「無論だ」
 署長の苦し紛れの質問に、ジェスターは悩む間もなく即答してみせた。
 どうやら本当に伊達や酔狂で生かされていたわけではないらしい。幾つもある保険のひとつ程度の扱いではあろうが、首の皮一枚で署長の首は繋がっていた。そうはいっても、ジェスターを裏切らせるだけの魅力的なプランなど提示できるようにも思えなかったが。
「頭が回ったか? 署長が生きている理由をわざわざ教えなければならないほど愚鈍ではないだろう?」
「起きたばかりの人間に無茶を言う」
「いやいや、私は君という人間には期待しているのだよ」
 ならばその根拠を示して貰いたいものだと署長は思う。大方、この聖杯戦争に精通しているからに決まっている。
「時間が欲しい」
 署長の言葉に、ジェスターは先とは異なり、しばし思案する。
「せいぜい……半日、だな」
 それはジェスターの我慢の限界――などではない。
 半日後には、この戦争の趨勢が確定してしまう。そうなればジェスターがどうしたところでアサシンの消滅は避けることはできない。
 署長がそのタイムリミットを黙って受け入れたことを確認し、ジェスターは腰を上げる。名残惜しげに署長からアサシンへ視線をやるが、アサシンに意識が戻る様子はなかった。
「……ここに長居しすぎたな。そろそろファルデウスも次の手を打つ頃合いだろう。せいぜい彼に阿り時間を稼ぐことにしよう」
 相変わらずどこまで本気かは分からないが、今のジェスターにとって時間は黄金に等しい価値を持つ。時間稼ぎについては本気であり信頼できると思うが、その他の点については欠片も信頼できそうにない。
 ファルデウスも馬鹿ではない。ジェスターの思惑を承知の上で使い潰すつもりなのは目に見えている。早晩互いの関係に罅が入るのは確実だろう。だとすればジェスターが設定した期限など当てにはできない。
「一つだけ――」
「ふむ?」
 この場から立ち去ろうとするジェスターの背に向けて署長は問いを投げかける。これがドラマならトレンチコートの刑事の役柄だが、立ち去ろうとしているのはジェスターの方である。
「世界と、アサシンなら、」
「アサシンを選ぼう」
 署長の問いかけを最後まで聞かず、ジェスターはまたも即答し、そのまま振り返ることなくこの部屋から逃げるように出て行った。心なしか、去って行く足音も急ぎながらも一定ではない。禁断症状に苛まれる麻薬患者と似た様子であるが、まさにその通りなのだろう。ここにこのままいれば、アサシンを殺さぬ自信がジェスターにはなかったのだ。
 五分ほど、そのまま署長は沈黙していた。
 ジェスターの言葉を反芻していた、ということもあるが、署長が沈黙していたのは部屋の外を警戒してのこと。ジェスターが戻ってきたり、外に見張りがいないか、傷口の痛みを堪えながら必死に気配を探る。勿論、見張りがカメラやロボットといった機械式の場合はどうやっても気配を捉えることなどできるわけないし、ジェスターがその気になれば署長には感知することはできないだろう。よくよく考えれば、以前にも同じことをやって傍にいたキャスターに気付かなかった署長である。その精度など当てになるわけもない。
 沈黙を破ったのは警戒することの無意味さを悟ったから、ではない。単純に、自らの肉体が限界に近いと判断したからだ。
「まったく。キャスターの忠告に従ったらこの様だ。あの男は疫病神だな」
 キャスターを罵り遠のきそうな意識を何とか繋ぎ止めながら、署長は声を出す。
 キャスターがアサシンとジェスターの接触を嫌った理由が良く分かった。その見識は正しいのだろうが、わざわざ作戦変更をした結果がこれではどうしようもない。
「……それで、これからどうすれば良いと思う?」
 確信などしていたわけではないが、答えが返ってくることを予想外だとは思わなかった。
「……もしかして、私に期待しているのかしら?」
 いつ目覚めたのか、などと聞くつもりはない。最初から気絶したふりをしていただけだ。この場に繋がれてから恐らくアサシンはずっと意識を保ち続け、隙を窺っていたに違いなかった。
 そういえば脳内麻薬を自在に調整できる業を持っているとも言っていたか。
「ジェスターは俺に期待しているらしい。なら俺もお前に期待してもいいだろう、アサシン?」
 それは一体どういう理屈なのか、言った署長自身分かるわけもなかったが、特にそれについてアサシンが追求することはなかった。ジェスターはアサシンに対して随分幻想を抱いているようだが、当のアサシンからしても眉唾物だ。このことについて署長もアサシンも最初から議論するつもりはなかった。
 もっとも、各サーヴァントの力がセーブされている事実はある。バーサーカークラスで召喚されなかったランサー、誰かに寄生せねば現実では何の力もないライダー、狂気に犯されていないバーサーカー、戦闘能力を一切持たぬキャスター。そこにセイヴァークラスで召喚されなかったアサシンというのを付け加えてみるのも良いだろう。
 アサシンはゆっくりとその瞼を開いてみせる。先の拷問で抉られた眼は回復したばかりだ。まだ馴染んでいないのか、その焦点は合っているようには見えない。感覚器がそうなら、手足も同様と思った方が良い。
「その様子だとお前も自力脱出は難しいようだな」
 とっくの昔に署長は自力脱出を諦めている。そうしたスキルはないし、何より利き手をなくしたことで満足に動くことなどできはしない。
「確かに無理そうね。関節を外してもこの手枷から抜け出せそうにない。いっそのこと両腕を切断してくれればなんとかなったかもしれない」
 手枷を軽く揺らしてその強度と手首との隙間を確認する。その身体を少しずつ削られていったというのに、アサシンのその言葉はどこか他人事のように聞こえてくる。
「宝具は?」
「行使した瞬間に魔力切れで消滅するわ。それに、恐らく令呪の命令で自決に類する行為は禁止されている。自爆してジェスターを巻き込むこともこれではできない」
 またも他人事のように言うが、アサシンはすでに何度となくそれを試そうとしたのだろう。ジェスターとして当然の安全策だろうが、もし令呪で禁止されていなければ署長は巻き込まれて死んでいたことになる。
 サーヴァントは明確な触媒がない場合、マスターと似通った性格の英霊が召喚されると聞く。自分を含めた周囲の危険を顧みない点はジェスターとそっくりである。
「こっちからも聞かせて貰うわ。何か希望の光でもあるかしら?」
「直接的な希望は見えないな……が、ジェスターの言葉を信じるなら恐らくキャスターのシナリオ通りに事態は動いていると考えて良い。希望を持つとしたらそこしかないだろうさ。俺たちのこの状況も想定通りだとすれば腹立たしい限りだがな」
 最後の一言はただの軽口だ。さすがのキャスターでもこの状況はイレギュラーに違いない。
「根拠は?」
「あと半日とか言っているんだ。まだファルデウスはキャスターたちを掃討できていないようだし、一気呵成に潰せていないことから最低限の戦力は無事に残っているようだ。そしてスノーホワイトがすぐに復旧していればそんなことはあり得ない」
「スノーホワイトさえあればどうにかなりそうな言い方ね?」
「それをどうにかしちまうってのがスノーホワイトって宝具だ。スタンドアローンである限り無力ではあるが、ネットワークに接続できれば外部コントロール可能な機器を全て掌握される。一騎当千のサーヴァントも万軍には勝てないって寸法だ」
 まだ試験段階での話ではあったが、東部湖沼地帯での対サーヴァント試験運用では、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》一人で六機ものM240機関銃を同時に操り制御することに成功している。遠隔操作が可能な現代兵器に限らず、宝具であっても使用者をスノーホワイトがバックアップすることで、その負荷を著しく軽減し、精度の向上も実証されている。
 最終的には《フリズスキャルヴ》のオプション兵装である無人機(エインヘリヤル)を衛星軌道から敵地へ投入し、スノーホワイトで制御するというヴァルキリー構想なるものが目標らしい。実に合衆国らしい発想だが、軍事的には理に適っている。
 肝心の無人機開発が難航しているため今回の聖杯戦争では見送られたが、無人機でなくとも「魔術師」「強化外骨格」「宝具」「スノーホワイト」という組み合わせであれば容易にサーヴァント並の戦力を得ることができる。搭乗者の安全性に難点があったため署長は採用しなかったが、スノーホワイトを完全解放できる今、ファルデウスがそれをしない理由はなかった。
「何はともあれ、半日のリミットはスノーホワイトの解放時間と見ていいだろうさ」
 思ったより時間を稼げているが、キャスターが見積もっていた時間よりも少しばかり短い。キャスターたちがここを襲撃するとしても、時間的にはギリギリとなるだろう。
「では、半日以内に助けが来なければあなたは殺されることになりますね」
 さっきから他人事のように言っているが、今度こそ本当に他人事だった。
「お前を犯すって言えば多分延命くらいしてくれると思うぞ?」
「私を犯すのなら、魔力を絞り尽くして殺します。私の糧となる覚悟があるのなら、どうぞお好きに。あなたの死は無駄にはしません」
「お前、それ本気で言っているだろ……」
 サーヴァントは生粋のソウルイーターだ。アサシンが意識して魔力を吸収しようとすれば、魔力体力共にギリギリな署長は搾り取られて確実に死ぬ。要は本人の加減次第だが、この様子だとむしろ積極的に吸い取ろうとする意志すら感じられる。欠片も署長を助けるつもりはないらしい。
「まぁ、恐らく大丈夫ですよ」
「何がだよ!」
 何の慰めとも思えぬアサシンの冷徹冷淡な言葉に思わず声がでかくなる。この場はできる限り体力消耗を抑えるべき場面だが、その前にストレスで胃に穴が空きそうだった。
 だがアサシンが言いたいのはそういうことではない。
 それは、希望の光というものだ。
「あと数時間もすれば、助けは来ます」
 アサシンの言葉は、推測でありながら確信に満ちたものだった。


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 スノーフィールドから人影が消え、およそ六〇時間が経過した。
 早朝前のもっとも冷え込むこの時間帯であっても街のあちこちから腐った匂いが漂い始めている。その多くは電気の通わぬ冷蔵冷凍庫からだが、中には戦闘に巻き込まれ死んでいった一般人もいる。運が悪かったとしかいいようがないが、今しばらくはそのまま放置されるままだ。今スノーフィールドを支配している《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》改めレギヲンもそんなことに人員を割くことはできない。人がいない以上、公衆衛生に気を遣う必要もないからである。
 だがそんな物言わぬ彼らだからこそ、役に立つこともある。
 市内においてそこは間違いなくもっとも賑やかな場所だった。スノーフィールド八〇万市民を操り地下シェルターへ待避させた《笛吹き男(ハーメルン)》であるが、生きた人間だけをターゲットとしたため畜生は放置されたままだ。故に、この場に野犬や野鳥が餌を求め集まるのも当然だった。
 眼球を失った死者の眼窩にその嘴を突き刺し中身を啜る鳥の傍らを、フードを被った赤髪の男は十字を切りながら通り過ぎていった。そのことにカラスはまるで気付いた様子はない。唯一その赤髪に気がついたのは、普段は地下で過ごしている筈のドブネズミ。早い歩調で歩む赤髪の足に器用にしがみつき、するすると肩にまで駆け上がる。
「周囲に敵はいないな?」
『確認できる範囲にはいない。念のため後方警戒を密にしている』
 赤髪の質問に、肩に乗ったネズミが毛繕いをしながら答える。
 見る者が見れば分かるが、このネズミは使い魔だ。鳥などの使い魔と比べるとその探索範囲は数百メートルと狭いが、その小さい体躯はわずかな隙間に潜り込み探査や破壊工作に向いている。自然界の掟としてより大きな獣に襲われることはままあるが、幸いにもこの辺りの獣は腹を満たしているのであまり問題はない。
「ちっ、当てにならんな。鳥型なら上空からすぐに分かるだろうに」
『鳥は確実に把握されているという話だ。無理を言うな』
 俄には信じられないことではあるが、この街を支配している奴らは鳥の一体一体まで正確に識別し、その上魔力の反応から使い魔かどうかも判別することができるらしい。迂闊に鳥を飛ばせばせっかくの隠れ家を発見される恐れがあるらしい。
 木を隠すには森の中とはいうが、その木を全て把握できる能力は率直に言って脅威以外なんでもない。このドブネズミですら生息地から怪しまれぬよう現地調達し即興で使い魔としたものだ。
『四重に確認した。つけられていないようだが、念のため罠を張ってる迂回ルートを通ってくれ』
「罠って、あのネコイラズを撒いた地下道のことか?」
『トリモチも設置してある。俺が見落とすほど小さな使い魔なら飛び越えられないが、人間なら何とかなるだろ。引っかかるなよ』
「もっと魔術師らしい罠を作ろうぜ。魔術師として」
 悪態をつきながらも、赤髪は指示通りの迂回ルートを取る。周囲にも気を配るが、そこにあるのは破壊の痕跡だけで怪しい気配はない。気配を発しない機械に対して無力ではあるが、そうしたカメラも事前にネズミの使い魔に囓られ念入りに壊されている。
 ここは少し前に英雄王と黄金王が激突した場所だ。周囲には黄金化の魔力が未だもって漂い、背の高い建造物は悉く上層階が消滅している。それでいて上空からは看板や庇、崩れた建物で守られている。
 そして赤髪の隠れ家は、そんな戦場跡地にある。
 どこにでもある地下のバーへ続く階段の途中に、その入り口はあった。見た目こそただの壁だが、触れれば水面のように抵抗なくすり抜けられる。魔術師たちにとって決して珍しくない入り口の偽装である。
 だが珍しくないだけで、並の魔術師ではこの入り口を再現するのは難しいだろう。これは桃源郷や竜宮城、鼠の御殿に雀のお宿といった異界への扉だ。入り口の設置は異界の主の自由自在。人がいない今だからこそ固定化しているが、人が戻ればいつでもこの扉は消滅させることもできる。
 入り口という境界を踏み越えれば、世界は異なっていた。位相をずらしただけの結界ではあるが、それを実現させているだけでも魔道の奥深さを思い知らされる。これを突き詰めれば噂に聞く平行世界に辿り着くことも不可能ではない。
「ただいま戻りました……何だ、我らがマスターは不在か?」
 報告をしにこの世界の中央に聳える城に登城するが、そこにいたのは外へ使い魔を放ち操作している魔術師が数人いるだけだ。おざなりながらも対応してくれたのは先ほどまでネズミを使って指示をしてくれたネズミ顔の魔術師だった。ペットは飼い主に似るというが、彼の場合は逆らしい。
「偵察ご苦労さん。マスターならもうじき起きてくると思うぜ」
「ならここで待たせて貰おうか」
「急がなくていいのか?」
「急いで報告する内容もないんでな。それに怖いくらいマスターの予想通りだ。俺たちがやるべきことに変わりはない。時間までゆっくりさせて貰おう」
 体力的には全く問題はないが、気を張りっぱなしだったこともあって精神的に疲れていないといえば嘘になる。クシャっと丸まった煙草のソフトパッケージをポケットから取り出し、肺一杯に煙を吸い込んだ。動物を扱う以上そうした煙と匂いを嫌がりそうなものだが、ここにいる魔術師はこの程度で集中を乱すほど三流ではないらしい。
 そうこうしている間に、目の前の通路を次々と他の魔術師たちが通っていく。彼らの目的地はこの先にある大広間、集合予定時間より一時間も早い。血気盛んで結構なことだが、些か張り切りすぎではあるまいか。
「……俺はてっきり逃げ帰ろうとする奴らも多いと思ったんだがな」
 周囲の気配に敏感であり、そうした魔術に秀でているが故に偵察など行っていたのだ。雰囲気だけでもこの場に集まろうとする人数くらい把握できる。
 集まったばかりの時は烏合の衆に過ぎなかったというのに、今やどこの精鋭組織とばかりに誰も彼もキビキビと動いている。その様は神の名の下に集う教会の騎士団を彷彿とさせる。魔術師というのはもっと利己的な存在だと思っていたが、どうやら考えを改める必要があるようだ。
「恩義に報いようと思うのは当然じゃないか?」
 赤髪の独り言にネズミ顔は律儀に答えてくれた。対応こそ雑だが実は良い奴なのかも知れない。
 この結界内にいる魔術師は、そのほとんどが“偽りの聖杯”の相伴にあずかろうとした間抜け共だ。その内実も知らず、情報の真偽すらも確認できずに踊らされた愚か者。しかも武蔵によって出鼻を挫かれた結果、彼等は物語のエキストラにもなれぬ運命を背負わされた。
 その令呪を狙った前科があり、それでいて戦況次第で裏切りかねない風見鶏な彼等を信じ保護してくれる陣営などいるわけがない。逃げ帰ることすら困難な状況、彼等の運命はただ無様に駆逐されるだけの筈だった。
 目前にマスターとそのサーヴァントを見た瞬間、死を意識しなかった者は皆無だ。手をさしのべられたことさえ冗談だと自害を試みた者すらいる。あまつさえ、仲間として迎え入れられるなど一体誰が想像しようか。
 時代錯誤にも恩義を感じ、忠誠を誓う者がいても不思議ではない。信じがたいことではあるが、それを納得させるだけの理由がそこにある。
「さっき確認もしたが、逃げ出した奴は皆無だぜ」
「……命をかける奴の気が知れないな」
 これからのことを思えば命の保証などできはしない。だからマスターからも無理強いはされていない。むしろ逃げ帰ることすら推奨されたくらいだ。
「斥候なんて一番危険な任務をこなしている奴がそれを言うのか?」
「……俺はフリーランスで仕事として請け負っているからいいんだよ」
 ネズミ顔がニヤニヤしながら斜めに赤髪を見る。
 恩義をうんぬん語るつもりはないが、どうにもあのマスターを見捨てることはできない。令呪を無防備に剥き出しにしたまま休むし、明らかに敵対している者に対しても彼は涙を流して説得しようとする。しかもサーヴァントが傍らにいない状況でそれを実行するのだ。危なっかしくて見ていられない。
 決して一枚岩でない……それどころか敵対関係にすらある彼等があのマスターの下に離反せずまとまっていられる理由は、そういうところにあるのだろう。
「しかし協会の連中もこの中にはいる筈だろ。そいつらは一体何してるんだろうな」
 マスターに保護された者の多くは聖杯戦争に参加しようとした者だ。その場合目的は聖杯だが、協会の諜報員であるならその目的は情報収集にある。この場に留まる必要などどこにもない。むしろさっさとここから出て行くべきだ。
 紫煙を宙に吐き出すことでさりげなく視線をネズミ顔から逸らしながら語ってみる。確認などはしていないが、ネズミ顔は協会諜報員に違いなかった。使い魔を現地調達し見事に使いこなす腕前や諜報員然とした癖から推測した……というわけではない。以前ランガル氏の諜報活動に協力した際に見かけたことがあっただけだ。
「……いや、彼等が動くことはないよ」
「断定的だな。理由を聞いても良いのか?」
 これから一戦を交えようという時に余計ないざこざを抱える必要もない。これは個人的な情報収集だ。わざわざ蛇を出そうと藪をつついているわけではない。
 だがそんな赤髪の気遣いは杞憂に終わる。
「もう報告済みなんだよ」
「――なんだって?」
 冗談だとは思わない。だが現実味のないその話に聞き返さずにはいられなかった。
 この地から脱出できた者は未だいない。逆に潜入できた者もいないことから硬度の高い情報だ。それでいて一般通信網は使用不可。魔術による伝送も強力なジャミングがかかっている。雄志諸兄がこれを破ろうと努力していたようだが、突破できたとは聞いていない。これで一体どうやって報告できたというのか。
「進退窮まって相談した奴がいたんだよ。そしたら、あっさりと送信だけならできた」
 誰に相談したのかは敢えて聞くまい。
 どこか遠くを見つめるネズミ顔。彼だってその道のプロであるが、そうした人間を頭数揃えて解決できぬ難問を、あっさりと解決させられると、立つ瀬がない。
 世の中、歴史を変えるのはこういう人間なのだと思い知らされる一瞬である。
「事後承諾だろうが、今後の行動は協会承認の正規行動扱いになるだろう。俺ら、臨時の騎士団所属らしいぜ」
「マジかよ」
 状況が状況だけに、協会がどう動くかは容易に想像が付く。ここで逃げ出すのは勝手だが、もし本当にこの状況が報告されていたとしたら、後々やっかいなことになる。逆に、逃げ出さずにマスターの下で戦えばその後の栄華は約束されたようなもの。
 あのマスターがそこまで考えて動いていたとは到底思えないが、これで俄然旨みが増したのは確実だ。
「――それで、騎士団名はなんだ?」
 念のためそこだけは確認しておかねばなるまい。旗印にしろ、赤枝騎士団や円卓騎士団とか空気を読まず付けられた日にはその功績よりも赤っ恥をかく可能性もある。あのマスターのことなのでその可能性は否定できない。
「ええと、確か――」
 赤髪の不安にネズミ顔が答えた名は、彼が知るよしもないことだが、かつての聖杯戦争にもあった名称だった。



 同時刻。ロンドン、時計塔の一室。
 スノーフィールドとの時差は約二時間ではあるが、まだ陽が昇ったばかりでようやく人々が家の外に出始めた頃合いだ。だというのにこの時計塔は早朝とは思えぬ騒ぎに見舞われていた。原因は、あと一時間もしないうちに開かれる緊急会議にある。あまりの緊急ぶりに極秘の二文字を諦めたほどである。
 もっとも、会議出席者の豪華メンバーを考えれば最初から無駄なのかも知れない。
「失礼します」
 ドアをノックしつつも、返事を聞く間もなく召喚科学部学長室へロード・エルメロイⅡ世は足を踏み入れた。彼もまた緊急招集を受けた身であるが、会議の前にここへ足を運ぶようロッコ・ベルフェバン学部長から連絡が来ていた。
 何か事態が動いたことだけは確からしいが、しかし様子がおかしい。
 立場的にロード・エルメロイⅡ世はベルフェバンと派遣した魔術師との仲介役を担っている。報告があれば、まず第一に自分の下へ来なければおかしい。いくら責任者とはいえ頭越しに報告がいくことなど通常では考えられない。
 その上、彼はつい先ほど予想外の人物と廊下ですれ違った。軽く挨拶くらいしたものの、本来であれば彼がこの場に来ることなどあり得ない筈だった。権威主義的魔術師集団である時計塔において、彼は実績はあれど新参であるエルメロイⅡ世よりも見下されやすい立場にある。その彼に頼らざるを得ない状況まで事態は進行している。
「来たか」
 非礼を責めることなく迎えてくれたベルフェバンではあるが、顔に疲労の色は隠せない。何かがあったのはもはや確実だった。
「先ほど法政学部の幹部とすれ違いましたよ。一体何があったのですか」
 魔術師のための研究機関としての側面が強い時計塔において、政治家を目指す法政学部は学部にすらカウントされぬ学部だ。そんな連中と会議前に会うことの意味は、もはや一つしか考えられない。
「“偽りの聖杯戦争”の背後組織が明らかになったのだよ。首謀者は、米国だ」
「それは以前から指摘されていたことなのでは?」
 米国機関が一枚噛んでいることは空港での検閲体勢と魔術師の動員規模から確実視されていたことだ。調査は遅々として進んではいないが、資金の流れから相当大きな組織であることは伺えていた。
 そんなエルメロイⅡ世の勘違いを、ベルフェバンは首を振って否定した。
「違う。違うんだよ、ロード・エルメロイ」
「何が違うんですか」
 眉根を顰めながら何が違うか理解できない。以前からⅡ世を付けるよう言っているというのに、ベルフェバンにはその余裕すらもない。
「裏で糸を引いているのは米国の一機関などではない。米国そのものだ。陣頭指揮をホワイトハウスがとっている。報告書が本当なら、軍が爆撃もしたそうだ……」
「ちょ……ちょっと待ってください。話が突飛すぎます」
 俄には信じられぬことには違いない。だが、ここまで話が大きくなってくると、逆にどんなに証拠があろうと信じるわけにはいかない。神秘の漏洩防止こそが魔術協会の目的であり、そこに例外などあろう筈がない。
 確かに協会の歴史を紐解けばナチスの祖国遺産協会(ドイチェス・アーネンエルベ)を殲滅対象としたこともあったが、それも国家の一機関の位置付けだ。戦争というどさくさだからこそ可能であったのであり、そこがある種の限界でもある。
 この平時に世界最強国家そのものを殲滅対象とするだけでも到底不可能。ましてや実行できるとも思えない。
「残念ながら事実だよ。それに、米国もそうしたことは理解している。我々が今の今まで情報を仕入れることができなかったのも、米国の完璧な情報統制によるものだろう」
 神秘の漏洩に敏感な魔術協会が何の情報も得られない。それこそが米国の切り札だ。本来であれば協会が動くべきところを、自国で内々に処理できることを暗に伝えて動かぬよう圧力をかける。
 事前に喧伝されたことが状況に拍車をかけている。あれもこうなることを見越しての策の一つと考えれば辻褄も合う。魔術師同士という極狭い範囲であっても、魔術協会が米国に対して有効な策を持てなかった、などと風聞が立てば面目は丸潰れ。協会の信用は失墜し、教会をはじめそれに乗じて動く者も大勢いることだろう。
 それに最悪、国家としての強大さを利用して神秘そのものが暴露される危険性もある。そうなれば魔術協会どころか、魔術基盤そのものが危うくなる。普段通りのセオリーが通じるレベルではもはやない。
「協会はこの件を政治決着で片付けるつもりですか」
 苦肉の策であることは承知の上で問うてみる。
 そのつもりがなければ、法政学部など呼びはすまい。だが、それだけで済ませるにはあまりに事が大きすぎる。米国が全て内々に処理することで神秘の漏洩は防げたとしても、協会は根幹となる“偽りの聖杯”と呼ばれるシステムを無視することはできない。
「それが――問題、なのだ」
 エルメロイⅡ世の思考を先回りしたベルフェバンが大きくため息をついた。
「米国はこの計画を実に子細に研究している。我々の動きも、そのための対策も、少なくない年月を費やし挑んできた。我々も彼等の努力が十全に発揮され、万難を排して貰えれば、政治決着も吝かではなかったのだよ」
「婉曲な物言いですね」
「つまりだよ、事が政治決着ですまなくなった、ということだ」
 そのための手段を講じながら、ベルフェバンはその事実から導き出される結果を否定する。
 いかに米国といえども交渉材料にするだけで実際に神秘を暴露する可能性は低い。その上で様々なカードを切り出し、より優位な立場を築こうとするだろう。政治的には険悪となるだろうが、これを機に直通回線を用意できれば対等な立場で様々な面から交渉しやすくもなる。協会としても、米国が強気に出ている以上、政治決着以外の着地点はない、筈だ。
「米国は致命的なミスをしでかした。我々は、例え基盤を失ってでも動く必要がある。法政学部の連中に動いて貰うのは、ただの時間稼ぎだ」
 断言して――ベルフェバンは手元の資料に手を置いた。先の報告書とやらだろうが、遠目に見る限りどうにも体裁が整っているようにも見えない。協会の専属諜報員からの報告ではなかったのだろうか。
「ロード・エルメロイⅡ世。君は、英霊を簡単に召喚する方法は知っているかね?」
「そんな方法はありません。それができれば苦労はしないでしょう」
「では、質問を変えよう。英霊が簡単に現れ出てくる状況は知っているだろう?」
 その問いの答えは、先の事実よりもよほど深刻だった。
 召喚は、しかるべき手段によって行われる儀式だ。そこには人の意図があり、目的がある。だが人間以上の存在である英霊を召喚するとなると、その難易度は一気に跳ね上がる。ましてや、それが簡単に現れ出てくる状況など、一つしか考えられない。
「まさか――」
「その通りだ。奴ら、あろうことか抑止力を利用してサーヴァントを召喚している」
 この世界には、破滅を回避するためのシステムが予め備わっている。集合的無意識によって作られた、世界の安全装置。世界が滅びの危機に瀕した時、抑止力として英霊が顕現することがままにある。
 理論的には可能だ。世界を滅びの危機に陥れる“何か”さえあれば英霊は自然に召喚される。そこを上手く介入するシステムを用意すれば、英霊の認識を歪め聖杯戦争と誤認させることもあり得るだろう。
「荒唐無稽の絵空事――と切って捨てるのは簡単ですね。学生がそんなことを言い出したら問答無用で殴り飛ばしています」
 だが、これを言い出しているのはその道の権威である召喚科学部長である。ここ数時間でいきなり呆けた可能性に賭けたいところだが、そんなことこそあり得ない。こんな時間に時計塔の幹部を全員呼び出さねばならぬ程度には信頼できる情報があるに違いない。
「“偽りの聖杯”、米国計画呼称クラス・ビースト。これが世界滅亡の原因だそうだ。現在は封印されているらしいが、いつ目覚めるかは不明ときている」
「各サーヴァントは本来そいつを倒すための抑止の守護者ってことですか。まさか聖杯戦争のシステムで抑止力そのものに干渉するとは。思いついた奴はアホか天才かのどちらかでしょうが、良い度胸しているのは確かですね」
 だがこれなら大聖杯などを用意する必要もなく、実現するためのハードルは遙かに低い。それでいてクラス・ビーストとやらの封印を自在に操れるのであれば何度でもこの“偽りの聖杯戦争”を繰り返すこともできる。
 米国の誤算はこの一点だ。リスクを管理できていると認識している米国に対して、協会はこのリスクを容認することなどできはしない。
「これからどうなされるおつもりです?」
「“偽りの聖杯”を確保。可能なら完全破壊、不可能なら厳重封印だ」
 聞いてはみたものの、処置としては当然だろう。
 交渉がただの時間稼ぎなら、すぐにでも大隊規模の戦力を派遣する必要がある。だが、現地は相変わらずの完全な隔離状態。結界は確認できたものの、その規模と強度は不明。調べようにも結界外周部に展開されている何者かによって少人数の斥候部隊ですら消息を絶つ始末。
 問題は既に開戦から一〇日目だということか。事前に派遣した第二次部隊も現地へ到着するのは急いでも明日以降。もう決着がついていてもおかしくない頃合いだ。仮に部隊を派遣したところで到着より早くこの戦争が終わってしまえば、目的の“偽りの聖杯”はどこか手の届かぬところに移送されてしまう可能性がある。そうなってしまえば手遅れだ。
 事の推移を思い返し検証するが、もはやどうやったとしても、現地にそんな戦力を送り込み、状況を完遂できる予想図を描くことができない。
 いかにそうした連絡役を他人に押し付けていたとはいえ、そんな無茶なタイムスケジュールを目の前の御仁が組むとも思えない。
 代替案……いや、あるいはすでに動いていると考えた方が良い。
「……質問してもよろしいでしょうか?」
「今更だな。私は今か今かと待っていたくらいだ」
「情報が些か正確過ぎます。米国での情報は担当たる私ですらほとんど把握できていない。現地情報なら尚更です。あの情報封鎖の中から一体どうやってその情報を得たのですか?」
 エルメロイⅡ世の言葉に、ベルフェバンは今まで手にしていた報告書らしき紙の束を差し出してきた。
「これは現地から直接私に届けられたものだ」
「……直接、ですか?」
 あの完全情報封鎖された現地から、というのも疑問であるが、わざわざ直接届けられたというのはおかしな話だ。ベルフェバンに直接、ということはメールなどの現代機器の介入はないと思った方が良い。そして魔術による通信は学部長という立場からフィルタリングにより検閲が入る。直接連絡を取ろうとするのなら、事前に決められた手順を踏む必要がある。
 なんだか嫌な予感がしてきた。
 この報告書を提出した魔術師は、スノーフィールドから未だ詳細も不明なあの結界をすり抜けられる程の腕前を持っている。おまけに時計塔の検閲魔術に関しても精通しているようである。
「スノーフィールドのシステムを解析。“偽りの聖杯”の本性を見抜き、サーヴァント本来の目的を示唆。背後関係を明らかにしたのもこの報告書によるものだ。裏は完全に取れてはいないが、九分九厘間違いないと判断した」
「優秀な調査員がいたようですね」
 あのランガル氏でさえ手玉に取られたというのに、よくぞそこまで調査できたと感心――したいところだが、その異常な優秀さには非常に覚えがある。
「その上で我々が動くことを危惧までしている。協会が動いて米国と一触即発の状況になるのは好ましくない。であれば、これは向こうの提示したルールに則って、片付けることがもっとも望ましい」
「はは。まるで聖杯戦争で優勝するような物言いですね」
 乾いた笑いを自覚する。
 確かに報告者の言うとおり、協会が無理に動くよりもスノーフィールドの聖杯戦争に参加しているマスターが自力で解決するのが最良の策だ。これなら戦力・時間・場所・政治、全ての問題に対処することが可能となる。
 米国と全面対決するよりは幾分マシな方策だろう。それでも、まだ夢見がちな様な気がする。全てが露見しておきながらそれでも尚ルールに従い解決しようとする愚直さに凄く心当たりがあった。
「まあ、これから反攻作戦するので学長の潜り込ませた諜報員も使いますと正直に書くのはどうかと思うがね。これから行う緊急会議は、この報告者が率いる集団を協会正規の部隊として取り扱うためのものだ。ここに至って戦後処理を見越して動くとは将来有望だな」
 もうここまでくると自分の推測が外れて欲しいとすら願う。
 だがしかし、エルメロイⅡ世は聞かねばなるまい。
 その報告者が一体誰なのかを。
「……残念ながら、報告者及び作戦遂行部隊に君の教え子であるフラット・エスカルドスの名はなかったよ」
「そう、ですか」
「ただ、部隊“アイオニオン・ヘタイロイ”、部隊長“絶対領域マジシャン先生の弟子”とある。つかぬ事を聞くが、絶対領域マジシャン先生とは君のことかね?」
 早朝の時計塔に名物講師の怨嗟の声が木霊する。
 その後の会議において、協会は部隊“アイオニオン・ヘタイロイ”、部隊長“絶対領域マジシャン先生の弟子”を正規部隊として認定し、その作戦行動を承認することとなる。これは公式書類として半永久的に保存され、後世の人間に晒されることとなる。
 その後、ロード・エルメロイⅡ世に新たな二つ名が付けられたとか付けられていないとか。それはまた別の話。


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 この偽りの聖杯戦争においてフラット・エスカルドスの注目度はマスターとサーヴァント全てを含めた主要人物内において常に上位にあった。
 時計塔出身にしてあのロード・エルメロイⅡ世の秘蔵っ子という経歴、そして街中でサーヴァント召喚に挑む大胆さと即座に《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の厳重な警戒網を撒いてしまう能力。
 そして当初からバーサーカーを真名であるジャックと呼ぶことで、クラスを秘匿し、結果としてヒュドラをバーサーカーとして周囲に誤認させてもいる。更に本人は宮本武蔵と遭遇以降完全に姿を眩ましつつ、夢世界から繰丘椿とライダーを救出するという偉業を成し遂げ、現実ではバーサーカーの変身能力及び情報抹消スキルを駆使して各サーヴァントと平和協定を結ぶべく卒なく動いている。
 致命的であったのは、フラットがこの戦争に参戦した動機が「英雄を友達にしたい」という恐るべきものだったことだろう。この願いが、一体どれほど“上”を焦らせたか本人には分かるまい。何せ、この戦争はサーヴァント全員を束ね“偽りの聖杯”に対抗させることで御破算となる。せっかく互いに争い合っているところを平和裏に団結されては元も子もない。
 こうした他者を欺き利用する狡猾さ、“偽りの聖杯戦争”の根本を揺るがす動機、そして実際に行ってきたこの戦争での実績を考慮すれば、彼を誤解するには十分過ぎる材料ができあがる。彼を知る者ならこの高評価に一通り呼吸困難に陥るほどに笑い転げ、ゆっくりと立ち上がり肩を叩いて真顔で「偶然だ」の一言で片付けるのは間違いない。そしてその事実により深い疑惑の渦へと陥るのだ。彼は普段から昼行灯を気取り周囲を欺いていたのかと。
「少しだけ擁護させて貰うと、“上”がそう思うのも無理もない。あっちには世界を支配できるスノーホワイトの分析力があるわけだからな。たかが“偶然”などによってこの緻密な計算と莫大な予算によって計画された“偽りの聖杯戦争”の土台が揺らぐわけがない、そう判断してもおかしくはない」
 そう言いながら、キャスターは行儀悪く足を組んで机の上に乗せた。その衝撃は机の上に置かれたゲーム盤にも伝播するが、駒は多少位置がずれたところでその役目を変えることはない。
 机に足を乗せたことで自然とキャスターの視界は盤上から天井へと移っていた。この部屋の天井には星空の如く光る無数の光源。その大半は小さく淡いだけではあるが、中央に座す光だけは例外的に強く光り輝いていた。
 かつて、ここには原住民が神と崇める“偽りの聖杯”があったと聞くが、今やその面影もない。ただ広い空間がそこにあるだけで、荘厳さはどこにもなく、大部分は闇に呑まれている。このどこかにティーネ・チェルクがいるらしいが、未だにその姿をキャスターは見ることができなかった。
 チラリ、とまた盤上へと視線を移す。キャスターの次の手を読もうと必死になっている繰丘椿はそこまで気が回っていないようだった。随分と時間をかけて次の手を打つが、キャスターは足の指で器用に駒を動かし即座に応手する。その表情から察するに、次の手を打つにはまた時間がかかりそうだった。
「――けれど、実際にただの“偶然”によってその土台が揺らいでしまった。全容の一端しか知らなくとも、少なくともフラットにそんな計画性などないことは実際に出逢った私がよく知っています」
 闇の奥から、ティーネの声が響き渡る。
 この状況を作り出す元凶を無理矢理導き出そうとするならフラットの他にいないだろう。容疑者が一人だけなら、犯人と怪しむのは定石である。
「だからこそ――これは神の御手によるものなのさ」
「抑止力が働いている、ということですか」
 実にあっさりと、その解答にティーネは辿り着いてみせた。
 キャスターがこの聖杯戦争のシステムを解説したつもりはないが、“偽りの聖杯”の巫女たる彼女であれば、何となく予想はついていたのかもしれない。
 偶然と呼ばれる神秘。
 その正体こそ、抑止力と呼ばれる力だ。
「おかしな話ですね。そのスノーホワイトやらがそれほど優秀であるとするならば、何故こんな安直な答えに辿り着けないのですか?」
 むしろシステムとして抑止力を取り入れている以上、真っ先にその答えが出てしかるべきだ。
「簡単な話だ。スノーホワイトはこの問題に関しては大前提として抑止力を想定せぬよう設定されているからだ」
「……それはよくある政治の話ですか? 計画に予算がついた後で見つかった致命的なミスを隠そうとかいう」
「だいたいそんなところだ」
 さすがは一組織のトップだけあって、キャスターの言い方からそうした利権がらみの柵に関して思いつきも早ければ、理解も早い。
 抑止力はコントロールできる、それが大前提。それができないと少しでも疑念を抱かれれば計画そのものが泡と消えかねないし、動き始めた車輪を止めるには不都合な人間も数多かった。
 勿論、そのための準備は万全にはほど遠くとも十全以上に用意してある。抑止力を必要としない予防策こそが、抑止力コントロールの要であると計画は謳っている。抑止力介入の隙間は予め存在していたのだ。
「――成る程。その間隙を利用してフラットを陥れたのですか、キャスター」
「……」
 ティーネとキャスターの話の隙間を縫ってくるように、椿がまた一手、駒を動かした。ライダーによって椿はゲームに集中できるよう聴覚を閉じられている筈なので偶然であるが、ティーネの推測にキャスターは駒を間違った位置に置いてしまう。
 盤の中頃を支えていた歩兵が椿の駒によって食い破られた。同時に何やら慌てる椿であるが、キャスターは特に何もしない。駒の動きこそルール違反ではないが、ミスであるのは明白だ。
 相手のミスにつけ込むような手は気が惹けたのだろう。しかしこのゲームに「待った」はない。
 この一手で趨勢は逆転した。
「これも抑止力ということか……」
「足でゲームなどするからです」
 キャスターの負け惜しみにティーネのもっともな意見が突き刺さる。これまで注意しなかったのも、このタイミングを見計らっていたからなのか。邪推はいくらでもできるが、どうやらティーネはこのゲームを注視しているらしいことは理解できた。
 この闇の中、果たしてどこにいるのか。
「――さて。話を戻しましょう。
 キャスター、あなたがフラットを陥れた犯人ですね?」
 ずばりと尋ねてくるティーネに刑事ドラマの取り調べを思い出す。ライトを犯人に照らし付けることで心の浄化を促し自白させる、心身医学学会注目の治療法である。だからだろうか、天井中央の光源が先ほどよりも輝きを増している。あとはカツ丼が出てくれば文句はない。
「……まぁ、否定はしねえよ。犯人は俺だ。正確には、俺とバーサーカーだけどな。もっと正確にいえば、バーサーカーだ」
「責任転嫁ですか」
「いやいや、実際俺が把握していないところでバーサーカーの奴、色々と暗躍してたからな」
「後期クイーン問題というのを御存知ですか?」
「俺を高く買ってくれるのはありがたいが、それについては否定しておくぜ。バーサーカーがジャック・ザ・リッパーだと知ったのも《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》以降だ。それを知っていたならもっと面白可笑しくあることないこと吹き込んでおいたってのにな」
 残念がるキャスターに呆れたような視線が突き刺さる。
「スノーホワイトについても教えていたのでしょう?」
「ああ、いの一番に教えたぜ。携帯持ってると情報が筒抜けになるってな。それを逆手にとって偽情報を流したり位置情報を誤魔化してたりもしたようだな。外に出られない俺じゃそんなことはできなかった」
 後から考えると、バーサーカーはわざと自分が狙われるように動いていた。ファルデウスが初手でバーサーカーを仕留めたのも実はバーサーカーの思惑通り。
 あの時点でスノーホワイトの能力を専有していたのは“上”だけだ。バーサーカーの行動に危機感を抱けるのも“上”だけ。バーサーカーの目的は、そんな“上”に連なる者をこの舞台に引っ張り上げることにあった。
「何故そんな回りくどいことを?」
「俺たちサーヴァントが一致団結するためには明確な敵が必要だったんだよ。古来より危機的状況に陥らなけりゃ人間ってのはまとまれない生き物だからな」
 キャスターの言葉にティーネは押し黙る。だが押し黙ったのは皮肉を言われたからではない。
「……解せませんね」
「何がだ?」
 盤上では先の悪手が致命的となり、キャスターの敗色が濃くなりつつある。さすがに足の指で駒を操作するのはもう止めておいた。
「聖杯戦争のシステムに詳しいあなたが扇動する、というのなら理解できます。しかし、バーサーカーの行動はそうしたものではありません。不自然です」
 本来なら真っ先に嘘を疑われるところだが、ティーネのその口調にキャスターはそうした疑惑を感じとることはできなかった。
 信用してくれるのは素直に嬉しいが、少々こそばゆい。
「あの冬木から来たっていう東洋人、だ」
「――?」
「奴が召喚したサーヴァントが宮本武蔵。そして直後にアサシンに遭遇した。該当クラスが明らかに被っていれば疑いもする」
 そしてキャスターが裏切った理由はバーサーカーからこの話を聞いたからである。署長がああもあっけなく寝返った理由も、東洋人が持つ別系統の召喚システムが存在したからだ。
 セイバーのクラスを補完する存在などと説明されていたようだが、そんなものを設定しているわけがない。規定外のサーヴァントの召喚は盤石とされたシステムに穴があることの証明だ。
「俺や署長も含めて、抑止力が働いてもその力は弱いと考えていた。それだけ精緻に計画されていたからな。万が一にも抑止力が働くとすればそれはバグにまず働きかけるように仕向けられていた」
「バグ、というのは東洋人のことですか?」
「バグってのはつまるところフラット・エスカルドスだ。繰丘椿であり、銀狼であり、ジェスター・カルトゥーレであり、そしてティーネ・チェルクでもある。東洋人は確証を得るためのきっかけにすぎない」
「マスターそのものがバグだと?」
「この“偽りの聖杯戦争”に願いを叶える聖杯は存在しない。故に選ばれるのは聖杯に願いを持たない魔術師として欠陥(バグ)を持つ者だけだ。そうしたバグ同士を聖杯戦争の名目で潰し合わせることで従来の向けられるべき矛先を逸らし、本来のシステムに気付かないように仕向ける。
 つまり――」
 キャスターが言葉を句切る。
 ゲームの勝敗は結局覆ることはなかった。
 バチン、と椿の手にした駒が、盤上を強かに打つ音が響き渡った。
 繰丘椿が、不安げな眼差しのまま、勝利宣言にも似た言葉を放つ。
「――王手、です」
「俺たちは、チェスをやってるつもりで、実のところ将棋で遊んでいたようなものさ」
 獲った駒を自軍の駒として利用できる。それに気付くことができれば、見いだせる事実もあるだろう。その背景に、思惑に、流れともいうべき運命を見いだすことも可能かも知れない。
 確率的に起こり得ないことがこの聖杯戦争は起こり過ぎている。奇跡のバーゲンセールのようなものだ。例を挙げれば切りがないが、その最たる存在が、キャスターの目の前に暗闇のベールの中から現れる。
 夢世界に捕らわれ能力を活かせないながらも現実に帰還し、
 ファルデウスに捕まりながらも殺されることなく乗り切り、
 デイジー・カッターの直撃に巻き込まれながらも生き残り、
 敵に囲まれ重体でありながら見捨てられることをされなかった。
 ティーネ・チェルク、スノーフィールド原住民の長。
 彼女は間違いなく、その身を抑止力によって守られている。
「お姉ちゃん!」
 もはやその身に掠り傷一つ残すことなく復活したティーネに、椿が叫びながら抱きつき、そのまま泣き始めた。その様子は何とも温かいことだが、残念ながら悠長な時間はあまりない。
「完全回復したようだな?」
「お陰様で」
 天井の光は、原住民の数を表している。そしてその輝きは強さの証。現時点でティーネの強さは際立っているが、それは他の原住民がティーネに追随する力がないことも意味している。
「現状は分かっているな?」
「無論です」
 前回は、一人で突入し、そのまま虜囚の身となった。同じ間違いを繰り返す愚を犯すことはできない。
 つい先ほど斥候からの報告によりアイオニオン・ヘタイロイとか名乗る魔術師集団が基地に攻め入ったとの一報が入った。その数、確認できただけでも一〇〇名余り。人数こそ多いが、拠点防衛を行い遅滞戦闘を繰り返すファルデウスたちプロの軍人相手に決定打を与えることはできないだろう。
 それを打破するためには一刻も早い援軍が必要だった。それも魔術を解し、軍の訓練も受けたことのある、この状況に通じた練度の高い即応部隊が。
「投了だ。何なりと望みを言ってくれ」
 キャスターと椿の将棋対決は、その実互いの望みを叶えるための真剣勝負。
 キャスターはチェスなら嗜んだことはあるが、将棋は初めてである。対して椿は将棋の経験こそあれ殊更秀でているわけではない。一見すると一長一短で良い勝負をする可能性もあったが、人生経験において両者に差がありすぎる。実際のところ敵の手を読むことに長けたキャスターが圧倒的に有利であった。
 これは実験だ。
 もし、抑止力がここで働かず椿が負けていたのなら、キャスターは手を貸すつもりなどなかった。もしここで椿が負けるようであれば、最初から抑止力など働いておらず、本当にただの偶然だったとすら思う。
 結果は御覧の通り。
 足掻くことは可能だが、あの最悪手(ブランダー)で取られた歩兵が決定的だった。どう先を読んでも最後に歩兵を打たれて詰んでしまう。冗談ではなく、あれは本当に抑止力だったのかもしれない。
 椿をなんとなしに眺め見る。気の効いた言葉のひとつでもかけようと思っていたが、椿の顔には何か焦りが見えるように感じられた。
 そんなキャスターが何か言う前に、椿は先んじて口を開く。
「では、キャスターさん。お姉ちゃんに、あなたの部隊を貸してください」
 やや早口。その行動に疑問こそ覚えるが、もはやこうなってしまっては些事であろう。勝てば官軍というやつだ。敗者は勝者に傅くべきだ。
「仰せのままに」
 キャスターがパチンと弾かれた指の音を合図に。
 背後でじっと待機していた部隊が一斉に立ち上がる。
 あの南部砂漠地帯での戦闘で助けた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。その数は皮肉にもその名の通り、二十八人である。
 獲った駒を利用することが将棋とチェスの最たる違いだ。
 ティーネ・チェルクはそれを実践してみせる。
 かつて敵としていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を率い、彼女は最後の戦場へ立ち上がった。


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11

 魔術師と相対する現場には即時臨機応変な対応が求められる。
 これは魔術師を同じ人間ではなく人間の上位互換として扱い、高い知性による貪欲な探求心と魔術という看過できぬ特殊アビリティがあることを前提とした結論である。彼等独自のテクニックとセオリー、そして豊富なバリエーションは従来の軍隊でそう簡単に相手取れるものではない。
 この問題点を一朝一夕に解決することは難しいが、策がないわけではない。ファルデウス率いる“レギヲン”ではそのことを重視し、従来のピラミッド構造から並列多重スター構造へとその指揮系統を変えている。現場指揮官は無論、その末端に至るまで多くの情報と大きな裁量権を与えることで、その場凌ぎながらも対応策を打っていた。
 だからだろう。
 こうしたヘタイロイの猛攻に対して、レギヲンは慣れぬ敵にあっても相手を侮ることもなく、よく耐えていた。
 スノーホワイトが試算した通常戦力による対魔術師屋内戦闘による予想全滅時間は約三分。これを彼等は三倍以上の時間持ち堪え、更に自軍の数倍に及ぶ魔術師を逆に葬り散っていた。奇襲を受けながらのこの戦果は奇跡にも等しい。
 彼等は自らを犠牲に、貴重な時間を稼いでくれた。
「報告します。各メインゲートの充填封鎖終了しました。メインシャフトの完全硬化まで残り一〇分。B2、C3、D5フロアの部隊から通信途絶。これで第二層まで完全制圧されました」
「第八区画の防火扉を閉じてください。残った部隊はその隙にバリケードを再構築。遅滞戦闘をこのまま継続しますよ」
 陽が昇ると同時に仕掛けられたこの奇襲によって地上戦力はあっけないほど簡単に全滅していた。部隊の三割をものの三〇分で消耗したというのに、ファルデウスの口調は変わらない。上に立つ者の資質とかそういうものではなく、単純にこれくらいの被害は想定済みというだけだ。
 奇襲当時、ファルデウスがたまたま仮眠から目覚めており、作戦司令室にいたことが幸いした。直後にファルデウスは基地第五層までの破棄を決定し、“偽りの聖杯”に至るメインシャフトも充填剤注入による封鎖を指示してある。
 本来籠城目的の指示であるが、目的はほんの一時間ばかりの時間稼ぎ。いかに強大かつ多勢である魔術師を相手にするとはいえ、この決定はあまりに慎重すぎるとも思えた。これでは誰も――ファルデウスたちすらも“偽りの聖杯”を確保することができない。確保するにしても、年単位の大掛かりな復旧工事が必要となってくる。
 それでも、これが勇み足だったとは思わない。
「皮肉なものですね。まさか我々がここの防衛にあたるとは」
「まったくです。ですが、そのおかげで被害は最小限に留まっています。敵司令官に一言お礼を言いたいところですな。この下手くそ、と」
 椅子に座って頬杖を突くファルデウスの独り言に隣で直立して指揮を執る口髭副官も同意する。最後に添えられた口髭副官の言葉に司令室の各所から含み笑いが漏れ出てくる。
 上層部を赤く染めた基地の概略図がメインモニターに映し出されている。赤は敵浸透具合を分かり易く示したものだが、その侵攻速度はプロの軍人と比べればあまりに遅い。魔術師の火力と機動力、そして一〇〇名を超える数は恐るべきものだが、残念ながら敵指令官はそれらを生かし切れていなかった。
 署長率いる《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》ならば、今頃この司令室か“偽りの聖杯”のどちらかは制圧を完了していることだろう。ファルデウス率いるレギヲンならば、その両方を制圧できている。
 これは別に根拠のない自信から来る勘違い、などではない。
 並の軍隊でいきなりこの基地を制圧するのは難しいだろう。専門の特殊部隊だって手こずるに違いない。精鋭揃いの“レギヲン”だって基本条件は同じである。唯一違うことといえば、彼らはこの基地の制圧訓練を数年前から繰り返し行っていた点である。
 ファルデウスが根城にしているこの基地は、本来であればこの聖杯戦争中に使用されることのない秘密施設である。しかし大深度地下に“偽りの聖杯”やスノーホワイトといった重要機密が設置されている以上、聖杯戦争の過程で敵に発見され確保される状況は想定される。
 元々ファルデウスたちは戦後処理をするための部隊でもある。こうした基地制圧も仕事の内。攻め入ることを検討した以上、この基地の弱点は知り尽くしている。奇襲を受けた段階でどれだけ早くその弱点をカバーできるかが鍵だったのだ。
 彼等は時間をかけすぎたのだ。
 ファルデウスの視線が基地内における敵分布を指す。赤い領域は徐々にではあるが確実に下に伸びつつあるが、それでも遅い。この調子ならば、第五層に到達する前に時間切れ。“偽りの聖杯”は誰の手に届かぬ場所へと隔離され、スノーホワイトは再起動を完了する。駆逐するのは難しいことではない。
「……などと楽観視はできない、か」
「? 何か言われましたか?」
「いえ、なんでもありません。引き続き状況に注意してください」
 魔術師を理解せぬ口髭副官にファルデウスの危機感を共有させても何かできるとも思えない。余計な情報を与えるより、ここは混乱を避け手堅く対処することを優先した。部隊の指揮は口髭副官に完全に任せ、自らはこの状況の分析に入る。
 敵の正体には当初から気付いている。彼等は序盤で武蔵に蹴散らされた雑魚が寄り集まってできた集団だ。烏合の衆とまではいかないが、即席部隊であることには違いなく、現状のように連携などとれていないのが当然だ。
 だが、それだけにファルデウスは彼等の司令官が恐ろしく思えていた。
 先ほど口髭副官は敵司令官を指して「下手くそ」と笑っていたが、全員が笑う中でファルデウスだけは笑うことはできなかった。
 魔術師は己の魔術を秘匿するためにスタンドプレイを好む傾向がある。いかに切羽詰まった状況であっても、一〇〇人以上の魔術師に同じ目的を持たせ、彼等をまとめあげることなどできることではない。
 ましてや、今までファルデウスは彼等の存在に気づきもしなかったのだ。初日敗退からこの瞬間まで、彼等は一体どこで何をしていたのか。誰か一人でも裏切れば致命的、そうでなくとも誰か一人尻尾を出せば、その痕跡をスノーホワイトが見逃す筈がない。《ロバの竪琴聴き(オノスリューリラ)》ですら彼等の情報は全くなかったのだ。
 指揮能力など、問題ではない。
 脅威であるのは、異常なまでの統率力。
 それでありながら、敵の大将は最初から彼等の指揮を放棄している。下手な連携など逆効果、大まかな指示だけを残し後は前線指揮官の判断で行動。他部隊の危機をろくにカバーすることもなく無駄が多い動きにも、それならば説明も付く。
 問題は、その大まかな指示が何を目的としているのか分からないことか。
「……捕えた者たちはどうなっていますか?」
 頭を巡らすが、城攻めを行う理由を他に求めるならば、これぐらいしかファルデウスは思いつけなかった。
 傍らにいた基地内管制を担当しているオペレーターに確認を取る。急な質問であってもオペレーターはすぐさまファルデウスの質問の意図を察し、モニターに順に情報を呼び出してくる。
「合成獣は第六層で拘束中です。カメラにも異常はなし。署長とアサシンは第四層で拘束中です。カメラと盗聴器の類はジェスター氏に取り外されていますが、熱源反応から同じく拘束中と思われます。そして――」
「第四層、ですか?」
「はい。第四区画Cブロックです」
 引き続き報告しようとするオペレーターの台詞を遮り、ファルデウスは確認する。オペレーターの手元で表示される画像には檻の中で鎖に繋がれた合成中のライブ映像。アサシンと署長らしき二つの熱源が表示されている。続いて操作しようとするオペレーターの行動を手で制し、画面上に表示された位置を確認する。
 第二層までは敵に占拠された。第三層も数分以内に占拠されるだろう。いくら遅滞戦闘を行っても第四層をこのまま守ることはできそうにない。
「これは、失念していましたね」
 口元を覆って自らのミスに今更ながら気付く。
 署長とアサシンが敵の目的であるとは考えにくい。彼等の生存は偶然の産物であり、敵はその生死の確認すら取れていない筈。そんな確証のないものに時間を費やすとは思えない。
 しかしジェスターは別だ。ここでアサシンを奪われるようなことがあれば、彼女に固執するジェスターがどう動くか分からない。使い潰すつもりだが、ここで寝返られたらやっかいなことこの上ない。
 ひとまずジェスターに二人を安全圏に移動させようと指示を口にしようとした直前、上層部の区画がまた一つ赤く染められるのが目に入った。
 ランサーに破壊された七番格納庫がある区画。元より復旧できる見込みがなかったので侵入されぬよう天井を厳重に塞いだだけで放棄された区画だ。搬入リフトは生きているが、真下にある区画は充填剤によって硬化してある。ここから下へと侵入するのは不可能――
「……、何を言いかけた?」
「はっ――捕らえた者の情報をお求めの様子でしたので、」
 ファルデウスの突如としたその気迫に圧され、オペレーターは一度唾を飲み込んだ。

「スノーフィールド市民の情報を出そうとしておりました」

 その言葉に、ファルデスは敵の狙いがこれだと理解した。
 この基地には付属となる避難シェルターが外周部に存在している。基地上層と繋がっているもこの施設には、現在八〇万市民が施設一杯に詰め込まれた状態にある。
 あり得ぬ選択肢ではない。むしろ目的としては真っ当であろう。八〇万もの命はこれを論議するまでもなく、犠牲にしてはならぬもの。この戦争に巻き込まれ死なせるようなことはあってはならない。
 けれどそれは、魔術師としての考え方ではない。
「……ハハッ。これは傑作です。公務員たる我々が市民の犠牲を許容し、呼ばれもせぬのに湧き出た蛆虫風情が市民の保護を進んでするとは……」
 馬鹿にするのにも程がある。
 挑発するにも分を弁えろ。
 普段の柔和な態度でありながらも、ファルデウスの身体から我知らず殺気が漏れ出てくる。殺気を敏感に感じ取って思わず振り返る者も何人か。隣で指揮を執る口髭副官ですら素知らぬふりをしながらも、さりげなくファルデウスから距離を取っていた。
「副官」
「はっ。なんでありましょう」
「スノーホワイトの準備を急がせろ。システムチェックは省略。オプションは戦闘モードで出撃準備」
「はっ。スノーホワイトのシステムチェックを省略。オプション機は戦闘モードにて全機出撃準備急げ」
 俯きながら指示を出すファルデウスに口髭副官は疑問を解消することもなく復唱し命令に従った。立場上ファルデウス自らが命令してもいいのだが、今はダメだ。このメンタルで誰かと面と向かうには、些か以上に自制が必要だった。
 小さく深呼吸を二回。頬を叩けば、いつものファルデウスがそこにいる。
「……ジェスター氏はどうしていますか?」
「現在第三層エレベーターホールにて防衛中です」
 先のファルデウスの殺気に咄嗟に答えることのできぬオペレーターに変わって口髭副官が答える。
 手塩にかけて育ててきた精鋭が怯えるほどの殺気を出していたことに、ファルデウスは反省する。
「彼に急ぎ七番格納庫の様子を確認してもらうよう連絡してください」
「七番格納庫――お言葉ですが、ジェスター氏が応じるとは思えません」
 背後にいるアサシンが奪われる可能性はジェスターの足を大きく引っ張ることだろう。実際、あの場が持ち堪えているのはジェスターによるところが大きい。ジェスターがそこから抜ければ戦線は瓦解し第四層まで一気に攻め込まれる可能性がある。
 それに、七番格納庫に行くには敵中央を突破していく必要がある。いかにジェスターといえどもそうそう簡単になせることではない。
「なら、一個小隊を援軍に向かわせましょう。ジェスター氏が許可するならアサシンもより安全な場所へ移動させると伝えてください。そう言われて首肯しないわけにもいかないでしょう」
「……よろしいのですか?」
「二人の元にはランサーを向かわせます。想定外ですが、ここでジェスター氏にはご退場願いましょう」
 ジェスターの不運はアサシンの元へ戻る間もなく奇襲に応戦せざるを得ない状況に陥ったことだ。アサシンの安全を確保するためにはファルデウスの協力が必要であり、この要請をジェスターは断ることはできない。断るようならば、二人の命を保証しないと暗にファルデウスは告げている。勿論、保証どころかジェスターが七番格納庫に行った直後にファルデウスはランサーを用いて二人を始末する腹積もりである。
「これから敵は何かを仕掛けてきます。不確定要素を先んじて排除するに越したことはありません」
「何か、と申しますと?」
「さあ。それはまだ何とも言えませんね」
 敵の目的は、八〇万市民の脱出だ。七番格納庫を確保したのは搬入リフトを下ではなく上へ動かすためだろう。一〇〇名以上の魔術師を総動員しながら、やることは脱出ルートの確保でしかない。
 これは謂わば前座だ。現状を許容するのであれば、わざわざ八〇万市民を脱出させる必要はない。逆に言えば、これから許容できぬ何かをするから、市民の脱出を試みたのだろう。
 敵はファルデウスやスノーホワイトなど眼中にない。
 狙うはただ一つ、“偽りの聖杯”のみ。
「彼等は“偽りの聖杯”を――倒すつもりです」
 このファルデウスの言葉を裏付けるかのように、その瞬間、激しい衝撃が基地全体を揺るがした。


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「ええっ! まさかもう始まっちゃったのかな!?」
 基地を連続して揺るがす衝撃に足を取られながらもフラットは慌てながら基地の通路を駆けていた。
 ヘタイロイを形成させた立役者でありながら、その周囲にヘタイロイの護衛はいない。作戦が始まってからある程度過ぎた段階で彼の役目は終わっていたのだ。フラットなどいなくとも後はどうにでもなる。それ故の単独行動だ。
 将でも兵でもない今の彼は、一人のマスターとして行動している。つまりは、アサシンの救出にフラットは動いているのである。
 フラットとアサシンの間には魔力供給のパスがある。現在はアサシン側からそのパスを閉じられているようだが、パスそのものがなくなっているわけではない。このスノーフィールドの隔離結界を突破し、時計塔の学長の下まで連絡をしてみせたフラットである。少々手間取りはしたが、アサシンの大まかな場所くらいならなんとか把握できる。近付けば近付くほどその位置は正確に把握できる。
「アサシン、聞こえるなら返事をして!」
 声にも出してみるが、反応はない。
 電子欺瞞(ジャミング)は予想できてはいたが、魔術による通信も各層毎に強力な結界が張られている。ここまで近付いても反応は返ってこない。意思疎通を図るにはもっともっと、近付く必要がある。
 駆け抜ける通路は地下墓地(カタコンベ)を彷彿とさせた。あちこちに戦闘の痕がみられ、血塗れの死体が思い出したかのように横たわっている。敵味方問わず死体の横を通り抜ける度にフラットは十字を切った。この責任は全て自分にあると本気でフラットは思っている。ヘタイロイを利用するような形になったことにも罪悪感を抱いていた。
 ただ、そんな彼であっても嘆き悲しみ足を止める愚だけは犯さなかった。最小の犠牲で最大の成果を得る。避けられぬ争いならば速やかに、最大の効率をもって終わらせる。ヘタイロイの形成と時計塔との交信、アサシンの距離と方角を特定するという偉業を成し遂げながらフラットがもっとも心砕いたのが作戦に向けての覚悟である。その下準備はからくも役に立っているようである。
 とはいえ、フラットの目論見が順調に進んでいるわけではない。
「ま、たっ!」
 荒い息を抑えながら、これで三度目の外れを引く。
 この基地の図面は事前に頭の中に入れてある。問題はその図面の中に隔壁という項目がなかったことだろう。
 隔壁というより防火壁に近い薄さだが、それでも人力で開けられるものではない。ダメ元で傍らの走査端末から隔壁解除を試みようとするが、案の定自壊措置が作動しており中の電子回路はショートしていた。さすがのフラットもこれでは解除のしようがない。
「どうしよう……やっぱり無理してでも突破するべきかな……」
 こと魔術全般について天才の域に達しているフラットであるが、物理的な破壊は性格的にも苦手な分野にある。先日には魔力切れで危うく死にかけたところだ。多少回復したとはいえ無理できるほど回復しているわけでもない。魔力にものをいわせて突破しても助けるべきアサシンに供給する魔力がなければ意味がない。
 脳裏に描いた地図を検討するが、無駄に広いこの基地はどのルートも迂回するのに時間はかかるし、次も隔壁が閉じていた場合には同じように悩むことになる。ならば、ここいらで覚悟を決めるべきだ。
 フラットの手に武器はない。護身用にと結構な物を渡されもしたが、丁重に辞退した。こんな状況であるが非武装だからこそ平和的解決に繋がるものがある筈だとフラットは信じている。その思いが見事に裏目に出た瞬間である。
 呼吸を整え、肉体に魔力を通して強化する。魔術師として身体は多少鍛えてはいるがフラットに武術の心得などはない。なのでやることはシンプル。隔壁のとっかかりに指をかけ強引に開かせるだけだ。隔壁の材質や各部強度を読み取る限りではこの方法がもっとも魔力消費が少なく、派手な破壊音から敵を呼び寄せる心配も少ない。
 その判断が、フラットの命運を分けることとなった。
 悩み時間をかけていれば死んでいただろうし、強化の魔術以外を選択しても死んでいた。窮地に陥りながらも無自覚にピンポイントで回避しているからこそ、フラットは重要危険人物に指定されるのである。
 強化完了した瞬間に、それは来た。
 火花が散ったと見粉ったが、それが瞼の裏でない確証はなかった。
 見るより早く知るより先に、吹き飛ばされたという感覚だけを得る。激痛は後から頼みもしないのについてきた。
「――なっ? くっ! かはっ!」
 あまりの衝撃に受け身も取れずに固い通路の床に無様に落ちる。
 武器は持たずともプロテクターは装着している。衝撃は胸部プロテクターが一手に引き受けていた。手榴弾を始めとする破壊を撒き散らすタイプの武器は一定の距離がなければその効果を発揮することはできない。その意味ではフラットが助かった一因は距離が近すぎたおかげだった。
「これはこれは。そこにいるのはもしや、フラット・エスカルドスかな?」
 ガラガラと隔壁が崩れる音に混じって隔壁を潜り抜ける男が一人。
 隔壁の向こう側にもフラットと同じように隔壁を壊そうとした者がいた。ただそれだけの事実。もっとも、このタイミングには悪意が存在している。
 隔壁を爆散させた人物は、隔壁の向こうに誰かがいることは百も承知であったのだから。
「そういうあなたは……ジェスターさん、ですね?」
 罅が入った肋骨を治癒しながら、フラットはふらふらと立ち上がる。
 見覚えのある容姿ではない。それでもジェスターと確信したのはフラットの目からその人物が人間に見えなかったからだ。消去法ではあるが、こんな異形がそうそう他にいるわけもない。
 アサシンの正規マスターにして、この聖杯戦争トップクラスの武闘派魔術師。事前に聞かされた情報はどれもこれも警戒するよう促すものばかり。遭遇したら必ず逃げるよう、お節介なヘタイロイメンバーに幾度も念押しされていた危険人物。
「ク……クハハハハッ。その見識眼には恐れ入る。そして想定以上の強運の持ち主。始めましてだ、フラット・エスカルドス。この奇襲の首謀者は君だと思っていたのだが、こんなところで何をしている?」
 一歩、ジェスターは足を踏み出す。先の一撃で両者の距離は多少開いたが、その気になれば一瞬で詰めることは可能だった。
 それが分からぬフラットでは、ある。
「アサシンを助けにいくところです。どうです、俺と一緒に行きませんか?」
 敵味方を問うことすらせず、フラットは本心から己の目的を真っ直ぐに告げ、ジェスターに同道を提案してみせた。
 つい数秒前に殺されかけたこともフラットにとっては些事。今まさに殺されようとしている事実ですら気付いていたとしても意に介すことはなかっただろう。彼の言葉が、ジェスターに届いている、それだけで彼には十分過ぎた。
 ジェスターの顔に浮かべた笑みが、静かに消えてなくなる。踏み込もうとしていた足の力が抜けていく。戦闘状態を一時的に解除しながらも、ジェスターは瞳孔を開いていた。
 ジェスターが見いそうとしているのはフラットの身体の動きでも思考ですらない。心の在処、その本性。穴を穿たんとばかりの視線を浴びせながらも、フラットの動きにはまるで変化はない。
 フラットは、別段何かを待っているわけでも仕掛けようとしているわけでもない。
 単純に、待っているのだ。フラットの提案に対する、ジェスターの答えを。
「……何故、私にそんな提案をする?」
「え? 助けたくないんですか? ジェスターさんはアサシンのマスターと聞いていたんですが、違いましたか?」
 質問には疑問で返された。
 フラットにとって、それは不思議なことではない。マスターはサーヴァントを助ける者という図式はフラットにとって不変のものとして刷り込まれている。精度の高い事前情報や真摯な忠告があったとしても、ジェスターを前にこの子供じみた強固な観念をフラットは臆面もなく主張してみせる。
 ここは呆れるべき場面だ。話し合いの通じる相手ではなく、そうでなくとも戯れ言と切って捨てられるのが常道。どこかで誰かが走る音をバックに数秒の沈黙があってもそれは誤差の範囲だ。
 案の定、ジェスターの返答を再度待っていたフラットは、一瞬のうちに懐に入り込んだジェスターによって二度、宙を舞うこととなる。
 今度の滞空時間は長かった。
「へぷ……っ!!」
 雷光一閃。
 彼我の戦力差をよく感じさせる一撃に間抜けな呼気がひとつ。滞空した後でさえも威力は相殺しきれることなく、ほんの少し前に駆け抜けた通路を球のように回転しながら逆行してく。
 ようやく回転が止まったのは通路の分岐路であるホールの壁にぶつかったからだ。三層と二層を繋ぐ階段こそ壊されているが、それだけに天井は高く、そして広い。休憩所もかねていたのか中央には簡易式の机と椅子が無造作に置かれてあった。電源系統が破壊されたのか光源はなかった。
 一体何十メートル飛ばされたのか判断はつかない。常人なら死んでもおかしくない一撃の筈だが、幸いにもフラットにはまだ命があった。
「ごへっ、かは……ッ!」
 血反吐を吐き出し気道を確保しながら、荒い呼吸を自覚する。
 あまりに早すぎて何をされたのか分からない。
 両足が分かり易く骨折している。さっき修復したばかりの肋骨が再び折られていた。推測するに、足払いをかけられた直後に胸を殴られたのか。酷いことをするなぁと思うが、言葉にすることはできなかった。
 脇腹が酷く痛んでいた。零れ落ちる血液は鮮やかに赤く、泡混じり。折れた肋骨が片肺を傷つけたのは確実だった。出血量から血圧の高い血管は傷つけられていないと判断するが、安心できるものではない。ひとまず即時に死ぬ可能性は低いが、早急に対処する必要はあった。
 骨折などと違い、内臓系統の修復は難易度が跳ね上がる。それをこの激痛の中で行うのはいくらフラットであっても難しい。
「クハハハハハハッ! さすがはフラット・エスカルドス! 殺すつもりであったのにそれを耐え凌いでみせるとは素晴らしいじゃないか!」
 先の深刻な顔つきはどこに行ったのか。カツンカツンとわざとらしく足音を立てながらジェスターはフラットに近付きつつあった。通路の光源は失われていないため、その影法師が長く伸びていた。
 さっき通った時は明るかったような気がした。薄暗い二層部分のテラスに人影を見た気もするが、はっきりしない。
「しかしいかんな。敵を前にして説得するなど聖人か愚者のやることだ。聖人気取りも結構だが、失敗すれば愚者の誹りは免れん」
「ぼれ、どっ……いっじょにっ……!」
 ジェスターの言葉に条件反射するかのようにフラットが口を開くが、吐血するばかりで言葉にはならない。
 しかしジェスターに何が言いたいかは、よく伝わっていた。
 フラットの意志は、その身体よりもはるかに丈夫にできていた。
「成る程、それが君の原動力というわけか。いやはや、ここに至って挫けぬ意志があるとは素晴らしい。クハハッ……この歳になって浮気をしたくなるとは思いもよらなんだ」
「……?」
 その言葉が意味するところをフラットは知らない。ジェスターがアサシンに拘泥する理由など思い至ることすらできはしない。ジェスターがアサシンとフラットを重ねて見ているなど、考慮の外だ。
「だが君は、もう喋らなくていい。私は、ちゃぁあんと理解しているさ。考えるべきは、いかにスマートに殺されるかだ」
 ジェスターの歩みが止まった。
 ホールの入り口で立ち止まるジェスターは丁度通路からの光を遮る形になる。逆光のためその表情は見えないのに、その赤い瞳だけが炯々と光り輝いていた。
 黒い影は、フラットの足元にかかっている。
「君の噂は聞き及んでいる。その脅威も体感している。寄り道をしている暇などないのだが、君という存在は別だ。時間は惜しいだろうが、確実に仕留めなければならない。その首を刎ね、その眼は潰さなくてはならない」
 一歩、ジェスターは足を進めた
 通路からホールへと、場所を移動する。
 黒い影が、赤く、紅く、朱く染まり――
 ふと、フラットはそんな状況にあって疑問に感じた。
 光を遮るジェスターがあってこその影。ジェスターの赤い影はそのままだというのに、遮蔽物の形は五体揃っていなかった。
 具体的には、その頭部がない。
「―――あ?」
 とん、と何かが落ちる音がして、その何かから音が漏れた。
 ほぼ同時に、ジェスターの身体にいくつもの赤い線が走ったのが見える。いつの間にかその両脇には、鞘を迎えるように納刀する老体と、輝く銀糸を五指から放つ女が互いに背を向けて侍っていた。
 最後に頭上から、音もなく降ってくる小さな影が一つ。崩れ落ちようとするジェスターの身体はそれすらも許されず、六連男装をその身に刻まれた一つの魔術結晶は、一瞬赤熱しただけでこの世から塵も残さず消し去られた。
 降って落ちてきた影が赤い影に着地し、その上に転がる頭部の前髪を乱暴に掴み取り、その目線を合わせてみせる。
「ええ、全く同意します、ジェスター・カルトゥーレ。ここは確実に、あなたという脅威を排除するべく、全力を持って仕留めましょう」
「……でぃーで、ぢゃん?」
 ジェスターに殺されかける瞬間にあって、フラットが回復の手を休めることはない。そんな彼であっても、突然のティーネの登場には思わずその手が止まっていた。
 何故、彼女がこんなところにいる?
 この人たちは、何者だ?
 渦巻く疑問の中に彷徨うフラットであってもティーネは一顧だにしない。その視線は鋭く、真っ直ぐ伸ばした手の中にあるジェスターの頭部へと突き刺さっている。ジェスターはこの状態にあってもまだ完全に死んでいるわけではない。
 てっきりティーネはジェスターを見ているのかと思いきや、それは違った。
 彼女が見ているのは、正確にはジェスターの耳元にあるカメラ付きの通信機器。その先にいる存在に、ティーネは己の存在を誇示していた。
「さよなら、ジェスター。そして次はオマエの番だ、ファルデウス――!」
 再会と離別は簡潔に。そして敵への宣誓を行って、首はティーネの手から零れ落ちる。わずか一メートルと少しの高さでありながら、床に落ちた頃には燃え損ねた金属製の通信機器が小さな音を立てただけだった。
「ディッ、ディーデッ――」
「喋らなくて結構です。動くと傷に障ります――だから騒ぐなと言っています!」
 ティーネに抱きつき本物かを確かめようとするフラットの頭をジェスターと同じように頭を掴んで大人しくさせるティーネ。少々気恥ずかしいのか、その顔は赤みがかっていた。
「げほっ、ぶはっ! っで、どうしてここにティーネちゃんが!? この人たちは一体!?」
「落ち着いてください。まず吐き出した血を拭いてから喋りましょう」
 肺の出血を止め、気管内へ逆流した血液を吐き出したフラットの口元を幼子の面倒を見る母親の如くティーネはハンカチを取り出し拭い去った。
 重傷であった内臓を自身で治療した今、フラットの外傷を治しているのはティーネが連れてきた魔術師たちだった。
 二層のエントランスから素早く降りてきた彼等は即座に周辺警戒を行い、そしてその内の数名がティーネの指示の下、フラットの身体を分業して癒やし始める。
 骨折は両足や肋骨だけではない。吹き飛ばされ転がった際にフラットの両手の腕や指はあらかた折れてしまっている。時間と魔力の節約のため治療を諦めていたが、同時進行で外部から治療される分にはそれほど問題はない。
 状況からしてティーネを中心とした部隊なのはフラットにも理解できた。けれども、彼等の手にある武器は、その全てが宝具である。
「そうさ、フラット・エスカルドス。彼等は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。今は彼女の指揮下にあるが、仲間と思って貰ってかまわない」
 ティーネや《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》とはかなり遅れて小太りの男が二層から垂らされたロープを伝って降りてくる。マスターであるフラットには、その男がサーヴァントであることは一目瞭然だった。
「キャスターさんですか! お目にかかれて光栄です!」
「その反応は嬉しい限りだが、握手は後にしておこうか」
 さすがのキャスターも全ての指があり得ぬ角度に折れ曲がった手を握るには抵抗があったらしい。代わりにティーネが骨の位置を直すべく手を握るとフラットの喉から愉快な悲鳴が漏れ出てくる。
「さて、フラットも少し治療には時間がかかる。現状を説明するのは一度で済ませたいのだが?」
 周囲を警戒する《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を意にすることなくキャスターは傍らに設置してある椅子に腰掛け、葉巻を出しながら床に視線を向けていた。ティーネは治療に専念しているように見えて、その実下方からの動きに警戒している。最後にフラットが自らの足元に語りかけた。
「大丈夫ですか、ジェスターさん。そんな姿になって痛くありませんか?」
 三者が注目していたのは、ジェスターが残した赤い影。光を遮る物がなくなった今になっても存在する赤い影は、その実よくよく見れば、薄い血で構成されていた。
「……満身創痍の君は他人より自分を気遣ってはいかがかな?」
 フラットの言葉に返す声がある。
 耳にした覚えのない高い女の声。
 平面であった赤い影が、立体的に再構成を始めていた。
 魔術世界には延命するためにその身を他のものへと置き換えることはままある。吸血種ともなれば、それはより顕著にもなろう。身体はただの器でしかなく、その行き着く先は個々人によって異なる。ジェスターの場合、それが赤い影の如き血液だっただけ。六連男装はジェスターにとって代わりの器であると同時にただの操り人形に過ぎなかった。
 血が人を形作る。そこに臓器と筋肉が生み出され皮膚が表面に張り巡らされる。頭部には生糸の如き金髪が流れ落ち、眼窩から真っ赤な球体が迫り上がる。
 この麗しき赤眼金髪の少女こそ、ジェスターの魂が覚えているかつての姿。吸血種に成り果てる前の、人間だった頃の残滓。
 その血塗られた経歴を知る者にとってジェスターの容姿は逆に恐ろしさを醸し出すものでしかない――
「えっと……最初から演技と信じてはいましたけど、まさか女性だったとでばぎゃっ!」
「何をジロジロと見ているのです。アレに劣情を催す程あなたは馬鹿なのですか。キャスター、あなたもです」
「ばっか、裸の女がそこにいるのに見てやらないってのは失礼に当たるだろうが」
 中指を鼻のラインに沿わせ、ティーネの人差し指と薬指が容赦なくフラットの両眼を突いた。視線をキャスターにやるも、好色として有名なこのサーヴァントはティーネの言葉に耳を貸すことなくジェスターの裸をガン見し続けていた。
「……ジェスター、あなたもさっさと服を着なさい」
「あいにく燃やされた血液が足りなくて服までは構成できなくてね。この姿だって十代前半だった頃か。全盛期の私の姿を晒せずに逆に恥ずかしい限り――ああ、いや、申しわけない。キャスター、そのコートを貸して貰えるかな?」
 ティーネの手が自分に向けられたのを見て渋々肌を隠すジェスター。既に格付けが終わっているだけにティーネの怒りに触れたくはないのだろう。何せジェスターの本体たる血液が足りていないのは五度目に殺された時にティーネに散々燃やされたからである。
「それで――私の演技はどうだったかな? 我ながら気が利いていたと思うのだが」
 コートの裾を自らの体格に合わせて折りながら、死徒は恐れ多くも自らのアドリブ劇を稀代の劇作家に問うてみる。
 ジェスターの目的は最初からアサシンの救出にある。そのためにはファルデウスの眼を欺く必要があり、そのためのイレギュラーを何としても欲していた。その意味ではフラットと遭遇したのも何も完全な偶然というわけではない。最初の隔壁爆散はともかく、死徒が明確に殺そうとしていたのならあんな無駄の大きなことはしない。その場で五体を引き裂いて殺した方がよっぽど確実で手間もかからない。
「あー……そう、だな。三文くらいは貰えるんじゃないか?」
「三文? どういう単位だ?」
 視線を宙に彷徨わせながら言葉を選ぶキャスターに疑問符を浮かべるジェスター。三文役者という言葉を幸いにもジェスターは知らないらしかった。
 状況が特殊であり即興であることを差し引いても、ジェスターの言葉はやや直截に過ぎている。フラットに黙るよう告げ、自らの殺し方を注文し、殊更ファルデウスの眼となっているカメラを潰すよう促している。そして時間がないと言いつつもフラットへの攻撃方法は不自然であり、赤い影をゆっくりと伸ばしてカウントダウンめいたこともしている。
 そしてそれらは全てファルデウスに筒抜けとなっている。
「我々が来なければどうするつもりだったんですか? この平和主義者(チキン)はどう騙くらかしてもあなたに手を挙げることなどしませんよ」
「誰か近くにいるのは足音で確認できていたのでな。そうでなければ途方に暮れていたところだったが」
 フラットですら足音だけなら聞こえていた。ジェスターであれば尚更だろう。死徒の感覚を以てすれば距離は勿論、足音の数や軽重から部隊人数と練度だって判断できる。
 ジェスターにとって幸運だったのはその部隊にティーネがいたことだ。
 フラットと魔力を通じているティーネはフラットの位置と状態を少なからず把握でき、時間を節約して最短ルートでこの場へ辿り着き準備を整えることができた。ジェスターの六連男装も把握しているので、カメラを意識してジェスターが確実に死んだように身体を燃やし尽くすことが可能であり、その点ではよくやったといえる。
 ジェスターのアドリブはともかくとして、ティーネによる演出はジェスター敗退としてファルデウスを大いに困惑させることだろう。疑念は抱かれるだろうが、この状況で確証まで得られはしまい。
「それでフラット・エスカルドス、確認するが先のアサシン救出の話は本当かな?」
 自分のことはもう話したとばかりに、ジェスターは自らの胸を揉みながらフラットに確認を取る。どうやら胸の大きさが不服らしい。
「はい。今までこっそり助けてきた人たちに協力して貰って、ここに捕らわれてる市民を助けるのが目的です。けど、アサシンの居場所はどうやら地下にあるようだったから俺一人だけでここに来ました」
「君の正気も含めて問い質したいことが多すぎるが、それはこの際置いておこうか」
 どういった経緯で人を集め、隠れ、まとめ、作戦を練ったのか気にかかるが、時間がいくらあっても足りやしないので放置しておく。どうせ魔術師とも常人の発想とも異なるのだろうから気にしないのが吉である。
 コートを引き締めやや胸を強調することで満足したのかジェスターはキャスターの向かいに座って足を組む。紙に印刷された基地の見取り図を机の上に拡げてその一点を指さした。
「アサシンがいる場所は第四層の第四区画Cブロック。三層から天井を崩して侵入した方が早い。壁抜けのための装備はあるな?」
「任せろ。天の岩戸伝説に準えどんな場所だって穴を開けるスーパー宝具を用意してある。起爆パスワードは開けゴマ」
「この忙しい時に嘘をつかないでください。プラスチック爆弾なら用意があります。いざとなれば、私がぶち抜きます」
「頼もしい限りだ。ああ、そうそう。アサシンと一緒に署長もそこにいる」
「なんでい。やっぱ兄弟は生きてたか」
 何でもない風を装うキャスターであるが、その実確かに安堵していた。サーヴァントとしての利害関係上マスターの生存は喜ばしいことだが、それだけでない。戦友として、キャスターは署長の生存を好ましく思っている。
「魔力供給が止まっているのは魔力封じの鎖に繋がれているからだな。それと署長の右腕は切り落とされているから、Bブロックで人形師が作った腕を回収しておけば治療して戦力にもなるだろう」
 キャスターから赤ペンを受け取り、ジェスターがそれらの場所に印を付ける。二人を痛めつけた張本人でありながら厚顔無恥なこと甚だしいが、幸いにしてその事実を知る者はここにはいない。
「ジェスター、情報には感謝しますが、場所を教えるということは我々と同行はしないということですか?」
「私は欲ばりでね。全てを手に入れたいと思うのさ。アサシンについてはフラット・エスカルドス、君に任せる。私は地下のスノーホワイトを目指すとしよう。折良く裏道を教えて貰ったばかりだ」
 ジェスターは以前通った点検孔を思い起こす。以前の侵入口は六層からだったが、この三層からも繋がっていた筈だ。ジェスターが死んだとファルデウスが思い込んでいるのであれば、このルートは比較的安全ともいえた。
「話が早くて助かるぜ。こっちの思惑は承知済みというわけか」
「クハハッ! なに、一番慣れている場所を選んだまで」
 キャスターの言葉を否定はせずに、ジェスターは他にも選べる目標の中から慣れているというだけでスノーホワイトを選んでみせる。
 ティーネたちの目的はアイオニオン・ヘタイロイの援護であるが、そこを更に分ければ三つになる。市民の避難に協力するのが繰丘椿とライダーのペア。ティーネは“偽りの聖杯”とファルデウスの確保、キャスターはスノーホワイトの制圧担当である。《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の護衛はあるものの、飛び抜けて戦闘能力の低いキャスターでスノーホワイトを制圧するには荷が重過ぎた。かといって操作もできぬ他の者が行っても仕方がない。
 ジェスターが先行することで露払いをしてくれるのなら、キャスターにとって願ってもないことだ。これで《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の戦力を分散する必要もなくなってくる。
 ……などと恩を売るような真似をしているが、ジェスターはそんな殊勝な存在ではない。何か裏があるに決まっていた。
 探りを入れるにしても時間はないし、ここは乗るより他の選択肢はない。
「それでフラット、ヘタイロイの動きからして市民の救出で終わるわけではないのだろう?」
「あ、はい。救出が第一段階で、第二段階がこのあとにあります」
「ならその第二段階にタイミングを合わせた方が攪乱できるな。投入予定はいつ頃だ?」
 折良くフラットの治療が一段落したのを機にキャスターは最後の質問をしておく。ファルデウスが睨んだように、市民の避難をわざわざするからには、それなりの次撃が用意されているとキャスターも読んでいた。
 第四層突入までは同行できるが、そこからは別行動。互いの様子が分からなくなる以上、今後どんなことが起こるのかは確認しておかなければならない。
「えっと、そのことなんですが……」
 身体を動かし調子を確認しながらフラットは申しわけなさそうに答えた。
「俺、方針とかに口出しはしましたけど、実はこれからどうなるのかほとんど何も知らされていないんです」
 頭目でありながら作戦を聞かされていない事実をフラットはカミングアウトした。その事実にその場にいた全員が納得すると同時に、全く同じ疑問にぶち当たる。
 では、一体誰が作戦を考えた?


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 基地付属の避難シェルターは割と地表付近に存在している。爆撃などを考えれば全くの無意味であるが、シェルター使用想定が竜巻などの自然災害なので無理からぬこと。一時利用であればこれくらいで十分であると判断されたらしい。予算の都合という現実的な問題が立ち塞がったのも理由の一つかも知れない。
 収容人数はシェルターひとつあたり数千人。しかし人間のライフスタイルをまったく考慮せず、通勤ラッシュの電車内の如く鮨詰めに収納すれば、八〇万市民全員を収容することも不可能ではない。
 数日間飲まず食わずで立ちっぱなし。空調こそ機能はしていたが、トイレにもいけない状態で衛生面が保たれている筈もなかった。過酷な状況であるが、《笛吹き男(ハーメルン)》に操られた彼等が抗議することはない。誰かがこの状況を打破するべく動かねば、彼等はこのまま静かに朽ち果てるだけだ。
 目の前をゆっくりと虚ろな目をしたまま前進していく市民を前に、繰丘椿は複雑な心境にあった。
『何を考えているのですか?』
 椿の心境を敏感に感じ取ったライダーが声をかける。複雑に入り交じった思考はライダーに筒抜けであったが、それでも尋ねずにはいられなかった。
 椿自身がいつか向き合うべき問題。ここで黙って見過ごすのは簡単だが、次が巡ってきた時に理解者が傍にいるかは限らない。
「……私はね、ライダー。この戦争が始まって、楽しかったんだ」
『はい』
 肯定ではなく相槌として、ライダーは応じた。
 孤独であった椿をライダーが最初に癒やした。ティーネが、フラットが、銀狼が、椿の心の支えとなった。アサシンに窮地を救われ、南部砂漠地帯で《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を救出し自らの意義を見いだすこともできた。
 この数日間は間違いなく椿にとって充実した日々だった。幸せだと思ってしまった。こんな戦争でもいつまでも続けていたいと心のどこかで願ってしまっていた。
「けど、それは間違いなんだなって、思ったの」
 椿の目の前で倒れる椿と同年代の子供がいた。何事もないようにすぐに起き上がるが、傍らで子供の転倒に巻き込まれた老人はそのまま蠢くだけで起き上がることはできなかった。
 体力のない者はとうの昔に限界を迎えている。残念だが、そうした者を一人一人救出していく余裕はない。せめて踏まれぬよう通路の横に運んでやりたかったが、それすらも許されることではなかった。
 時間は有限だ。目の前にいる助かる見込みのない命より、すぐ傍らにいる助かる可能性の高い命を優先するのは、仕方のないことだった。幼い椿が直視するには辛すぎる現実だった。
 この戦争で椿はまだ人が死ぬ様を直接見たことはない。無自覚に人を殺しかけたこともあるし自覚して人を傷つけたこともあるが、それはこの戦争参加者として仕方ないと割り切って考えていた。
 けれどもその考えは余りに自分本位だった。この人たちは違うのだ。椿と同じように巻き込まれながらも、抗う術を持つことは許されなかった。
 身体が動かぬ苦しみを椿は知っている。
 時間を奪われた哀しみを椿は知っている。
 自らの意志がない不条理を椿は知っている。
 そんな自分が無自覚にもこの状況を作り出し片棒を担いでいたのだ。
 椿が楽しんでいた影に、無関係であった筈の彼等に犠牲を強いていたのだ。
 ライダーを効率よく扱い、戦争を終結させるべくもっと積極的に動いていたのなら、この惨状を引き起こすことはなかったのかもしれない。
 それがたまらなく椿の心を苛んでいる。
『……椿はよくやっています。椿がいなければ、犠牲者はもっと増えていた筈です』
 空々しいと思いながらもライダーは椿を慰める。
 当初ヘタイロイが立てた脱出計画では市民の移動に時間と手間がかかることからせいぜい数千人の脱出が限度である。しかし椿がこの場に駆けつけたことで、市民の脱出スピードは飛躍的に向上していた。
 収容されている市民にライダーを“感染”させ、その脳内に脱出のためのプログラムをインストールする。《笛吹き男(ハーメルン)》の影響もあって夢遊病のように歩く市民は不気味なことこの上ないが、驚くほど効率的に脱出作業ははかどっていた。
「それは、ライダーがやったことだよ。私じゃないよ」
『椿がそう思わなければ、私が動くことはありません』
 突き放すような椿にありきたりな言葉しか吐けぬ自分をライダーは嫌になる。
 その気になればライダーは椿を眠らせるだけでこの身体の操作権は簡単に奪える。セロトニンを分泌させ、少し眠りを促すだけであっさりと事は成就するだろう。それは戦闘中に椿が起きぬよう昨夜の襲撃を凌いだことで実証されてしまっている。痕跡はできる限り消しておいたが、椿ははっきりと違和感を覚えてしまっている。
 椿は、周囲が思う以上に聡い子供である。
 魔術師として実践的な教育は為されていないが、その素養はあったのだろう。その歳でありながら周囲を把握し適した行動を決断でき、頭の回転も速い。メンタル構造も特殊で、一年もの孤独にも耐える強靭さと、信念を貫く気概を併せ持っている。
 それでも、人は彼女を“聡い子供”としか見ないだろう。
 彼女の体躯を見れば誰も彼女を子供としか見ないし、肉体年齢も相当かそれ以下でしかない。
 では、その精神はどうだろう。
 ライダーは、ここに至って後悔をする。
 人間の一生の中で最も成長する時期は、幼年期である。人間以外であってもその傾向はあるが、特に顕著なのが椿ぐらいの年頃である。乾いたスポンジの如く知識や技術を吸収し蓄えてみせる。人間が最も変わる時期と言い換えても良いだろう。特に、戦争という特殊なイベントに遭遇していれば尚更だ。
 ……それで納得できるほどライダーは幸せな性格をしていない。
 出逢ったばかりの幼く何も知らない繰丘椿。
 今現在の自責の念に陥り泣いている繰丘椿。
 どちらの同じ存在でありながら、前者は停滞を、後者は行動を選んでいる。一体この差を生んだ原因は何なのか。
 ライダーはその原因となる解析結果を一読する。
 三〇万と一〇の七乗ミリ秒――年に換算すれば、およそ一〇〇年。無限の時を生きるライダーであるならそれは瞬き程度の時間。それでも、人間が生きて死ぬには十分な時間だ。それだけの影響があるのなら、人が変わるのも納得であろう。
 《感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン)》、マスター繰丘椿の無意識領域への全アクセス記録の分析データ。ライダーがこの固有宝具を手に入れ、今に至るまで椿が受信した時間である。
 中には勉強もある。仕事もある。遊びもある。犯罪もある。食事もある。睡眠もある。セックスもある。出会いがある。別れがある。後悔がある。歓喜がある。信仰がある。裏切りがある。信頼がある。

 人間が経験できるほとんど全ての経験を繰丘椿の脳は受信している。

 ライダーはマスターである繰丘椿に“寄生”するサーヴァントだ。ライダー単独ではなんの力も持っていないため、椿というフィルターを通さねばライダーは力を行使することができない。
 畢竟、ライダーが力を行使すれば、フィルターである椿に必ず影響が出る。
 気付くのが、遅すぎた。
 ライダーの《感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン)》は“感染”という性質上、ライダーの意志で出力調整はできても完全シャットダウンができない。《感染接続(ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン)》の起点となっている椿の無意識領域には、常に“感染”した人々の“経験”が浸食していたのだ。
 椿本人に自覚はない。だがその経験は椿の精神年齢を加速度的に上げ、更には彼女の知る由もない知識を与えている。
 その最たる例がつい一時間前のキャスターとの将棋勝負にある。
 キャスターの悪手があったとはいえ、顕然としたルールの中でただの子供が偶然や抑止力程度で勝てるわけがない。ただの遊びとして知っているだけで、椿は将棋に精通しているわけでもないのだ。数手先を読むのも難しければ、ルールを完全把握していることすら怪しい。だというのに、彼女は常時十手以上先を読み続け、更には“打ち歩詰め”というルール違反にも気がついていた。
 椿が勝つためには、キャスターのミスにつけ込み、その勢いのまま押し切るしか無かった。二度目はないし、何より時間が惜しい。“打ち歩詰め”のルール違反を承知した上でキャスターがそのルールを知らないことに賭けたのだ。
 結果は御覧の通りである。
 以前の椿であれば、愚直にルールを守り、そのまま敗北していたことだろう。真に抑止力というものが働いていたとしたら、それは椿の無意識下に受信していた“経験”の中にある。
『椿、一度止まってください』
「そんな暇はないよ。私の一秒でどれだけの人が救えるのか分からないライダーじゃないでしょ」
 ライダーの進言にも椿は止まらない。
 将棋勝負であれば椿の成長は喜ばしいといえただろう。しかし今の状況は椿の成長が完全に徒となっている。彼女本来の性格と能力が相反し、事実を深刻に受け止め過ぎている。端的に言えば、責任を感じすぎていた。
 まずい兆候である。
 責任はライダーにあると言ってしまうのは簡単だ。実際に署長と原住民相談役の前で語ってもいる。だがあれが方便であることは椿が一番よく知っている。優先すべきは椿であり、他はついでに過ぎない。あのティーネですらライダーは見捨てる決断を一度してしまっている。
 ここで何を言っても椿は聞き入れることはしないだろう。なまじ能力があるだけに負け戦だと分かっていても喜んで自らを犠牲にしかねない。
 そんなライダーの心配をよそに、椿は基地周辺のシェルターを駆け巡る。ライダーは空気を介して“感染”もできるがその効力は些か弱い。集団感染を引き起こすにはなるべく距離を縮める必要があった。
 現在まで脱出プログラムをインストールし実行できるまで強く感染しているのが約二〇万人。感染具合がまだ弱くプログラムが実行できないのが約一〇万人。感染だけなら然程難しくはないが、このままだと残りの五〇万人については命令を発することもできず、その殆どが見捨てられることになる。
『椿、この短時間で五〇万人に命令を下すことは不可能です』
「けど私にできることはこれくらいなの」
 ライダーの“感染”は魔術でも宝具でもスキルですらない、ただの特性だ。そこに魔力は必要としないが、脱出プログラムのインストールとなると、情報発信と情報書き換えのために少ないながらも魔力を消費する。感染者から魔力は回収できるとはいえ、そのためのフィルターとなる椿の身体には確実にダメージが蓄積される。
 水滴だって長い年月をかければ岩を穿つのだ。水滴が集まり滝となれば、もっと簡単に岩は耐えきれなくなる。
 分かりきった結論に、ライダーは椿を説得しながら考え続ける。天秤は、まだ傾き始めたばかり。完全にダメになる前に、手は打たねばならない。
 ここで椿を眠らせることはできる。しかしこの状況下で眠らせることには不確定要素も多く、何より今後の両者の信頼関係にも影響が出る――。
 ふと、今後という発想が自然と出たことにライダーは苦笑した。今日を乗り越えられる保証もないというのに、後のことを考えるなど愚かなことだ。死ぬ可能性の方が高いし、“偽りの聖杯”がなくなればライダーも消滅する可能性も高い。
 椿の生存を第一とするならば、今後のことなどどうでもいいではないか。
『――椿』
「…………」
 ライダーの呼びかけに椿は何も答えない。
 わずか十数分で四つのシェルターを巡った椿の魔術回路は限界に近付きつつあった。破格の性能を持つ椿の魔力回路であるが、この短時間での酷使に回路の形成を助けていた脳内細菌が死にかけていた。本人に負担がないため自覚症状は出ていないが、自覚できた頃にはもう手遅れとなる。そうでなくとも、今後の椿の成長過程に悪影響が出るのは間違いない。
 ここが分水嶺とライダーは決める。
 最後に一言、別れの挨拶をしようとライダーは意思伝達装置を操作する。
 椿のために自己を犠牲とするライダーの思考も結局椿と同類であるが、そのことにライダーは気付かなかった。もしかして気付けたのかも知れないが、その機会をライダーは逸してしまった。あるいは、ライダーが選択を迫られたこのタイミングを読まれていたのかも知れない。
 周囲を椿と同速で奔る銀の鎖が、視界に入った。
 椿が駆けていたのはシェルター間を繋ぐ通路のひとつである。
 工場のように発電施設や空調施設の間を縫うようにして簡易に設置されており、通路というより足場と称した方が近い。その不安定さと周囲の危険性からこの施設内に市民は収納されていない。網目状に拡がるパイプや遮蔽物もあり、それだけに待ち構える場所としては都合が良かった。
 油断した、と思う間もなく反射的にライダーは椿の身体を強化し防御を固める。しかし警戒していた鎖は椿とは異なる場所に巻き付いていた。
「――? あれは?」
 ライダーに遅れて椿がその鎖に気がつく。鎖は椿の進行方向に大きく×印を作りその場を通行止めにしる。これではさすがの椿も止まらざるを得ない。
 敵意がないのは一目瞭然。それでいて、高い魔力の篭もったこの鎖は宝具と見迷うこともない。巻き付いた鎖を辿って後ろを振り返れば、鎖に引っ張られるように高速移動する見慣れた装備の男がいた。
「伝令です! お二人とも待ってください!」
 男の口から発せられたのは慌てたような高い声。立ち止まった椿にライダーは交代を要請するが、椿はその必要性をまだ認めなかった。
 背後から現れたのは、見覚えのある顔。南部砂漠地帯で最初に遭遇した若い《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。ライダーの寸頸で受けて倒したことも記憶に新しい。確か、今はティーネと共に地下へと潜っていったのではなかったか。
 砂漠地帯でも行われていた電子欺瞞(ジャミング)は基地全体で仕掛けられている。そのため、情報伝達はこうした古典的手段に頼らざるを得ない。先んじて動いていたヘタイロイが上手く統率されていないのも当然だった。
「何かあったんですか?」
「はい、移動を中止して大至急この周辺エリアの警戒にあたってください」
 かつて倒されたことがありながらも律儀に敬礼しつつ、若い《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は状況が悪化しつつあることを告げてきた。椿の割り当ては市民の脱出支援の筈だが、それを放棄して警戒しろという。それこそ、ライダーが告げたように、残り五〇万もの市民を犠牲にする必要があるというのだ。
「基地内メインシャフトから地上に向けて移動震源が確認されました。状況から考えて敵の反攻作戦に間違いありません」
「メインシャフトは封鎖されてたんじゃないんですか?」
「はい。ですから、奴ら充填剤注入してまで築いた強固な壁を内側から崩してきているんです」
 実に思い切った策であろう。短時間で突破できぬ壁と分かっていればそこを警戒することはない。他の場所にこちらが兵力を回したところで、封鎖されたルートを強引に突破できれば、簡単に地上へ戦力を送ることができる。そうなると基地に浸透しているこちらの戦力を上と下から挟撃できることになる。
 電子欺瞞(ジャミング)され連絡が取れぬ今、部隊として動く敵にこちらが迅速に対応できるわけもない。
 それに、硬化した充填剤を短時間で突破するなど常識的には考えられない。土竜爪をはじめとして《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》本部には掘削に秀でた宝具も多々あった筈。これらを使用されると、この周辺でまともに戦えるのはライダーくらいだ。
『椿。事態が事態です。急ぎ確認する必要があります』
「……分かってるよ、ライダー」
 五〇万人の市民を助けようと思うのなら、先にその敵を確認し排除しなくてはならない。リスクヘッジに甘く、可能性があればその最善を求めるが、現実問題として立ち塞がれば、椿はその順番を間違えない。
 椿の思考は、ライダーには筒抜けだ。二人の会話も、口内での呟きと骨伝導によって行われている。目の前の男には、全く聞こえていなかった。
 二人の意見は一致していた。
「じゃあ、ライダー。お願いするね」
 椿の命令と同時に、左手の指に変化があった。
 タイミングはライダーに一任してあり、どういったことをするのかも椿は感知していない。威力や精度は二の次。求めるべきは早さであり、ライダーがしたことはそうした奇襲だった。
 薄く鋭い爪は、音もなく床に突き刺さった。
 完璧な一撃。視覚外から予備動作なしに足先を攻撃されて回避できるわけがない。一つの身体に二つの意志を宿す椿とライダーならではの連携である。
 しかして、その結果は。
「――参ったな。いつから気がついていたのかな?」
 宝具や魔術を使うことなく、その脚力のみで、目の前の男は十数メートルもの距離を一息で取って、ライダーの奇襲を避けていた。
 確認は終えた。
 この《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は、偽物だ。
「最初からです」
 男の高い声に椿は即答する。
「この広い基地内で、勝手に動く人物を簡単に見つけられる筈がありません」
「言われてみれば、それもそうだね」
 椿の指摘に男は子供のようなあどけない顔で納得してみせる。
 それ以外にもこの男のミスを指摘すれば数多い。本物の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》が使っていた宝具はナイフであるし、仮に予備の宝具だったとしても練度が高すぎる。咄嗟の決断ができぬからライダーに一瞬で倒されたというのに、敏捷性や決断力も高すぎる。会話らしい会話をしたことはないが、この年代の男にしては声も高すぎた。実際、ライダーが記憶している声とは異なっている。
 そして何より、この基地に侵入している《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は全員がライダーによって一度は傷つけられている。感染していない《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》などいるわけがない。
 ライダーが指摘するまでもなく椿ですら気づけたのだ。役者としては三流だろう。
「慣れないことをするもんじゃないね。説得するより騙した方が早いと思ってさ」
 悪びれもせず(二十八人の怪物(クラン・カラティン))は手元に鎖を回収した。それは戦闘のための準備にも見えなくはなかったが、相変わらず敵意を感じることはできない。
「ユーハブコントロール」
『アイハブコントロール』
 目の前の男は、敵意すらもなく敵を屠る意志と実力がある。これ以上は対処できないと椿は判断した。最近こうした状況判断ばかり異様に鋭くなりつつある椿である。数日前まで無垢だった少女は一体どこに行ったのだろうかとすっかり保護者面となったライダーは嘆きながら交代する。
 傍目からは何の変化もない筈だが、これを男は見逃さなかった。状況判断が鋭いのも椿だけではないらしい。
「待ってくれよライダー。ボクは戦うつもりなんてないんだ」
「ならばあなたは何者ですか」
 ライダーの質問はもっともだ。
 男が持つ鎖の宝具はいささかランクが高すぎる。訓練を受けた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》でさえそこまで高ランクの宝具を自由自在に使えるわけではない。となれば、この男がただの人間であるわけがない。
 油断なくライダーは椿の爪を大きく伸ばし、構える。ライダーといえどその鎖を相手に何の対処もせずに生身で向き合い続けるには危険すぎた。
「この場で身元証明をするのは難しいな。フラットがここにいれば味方だと保証して貰えるんだろうけど、彼は今下にいるしねえ」
 フラットの一言に奥に引っ込んだ椿がぴくりと反応する。交代していなければ致命的な隙を作っていたかもしれなかった。
「バーサーカーを気取るつもりですか?」
「いや、ボクはバーサーカーじゃないよ。ボクのこれはせいぜい変装止まり、認めるのは業腹だけど、彼の変身には遠く及ばないのはよく知ってるさ」
 まるで以前に戦ったような言い方をするが、ライダーはそれに取り合うつもりはない。今この場でこの男の言葉を確認する術などないのだ。最初に騙そうとした段階で信用するつもりなど皆無である。
「騙そうとしたことは謝るよ。ただ、ボクが伝えたことに嘘はないよ。君たちには敵勢力を排除して貰いたい」
「あなたがそれをすれば済む話では?」
「残念ながらボクには別にやることがあってね。本当ならこうして問答している余裕もないくらいなんだ。時間を惜しんでなければ騙そうだなんてするわけがないさ」
「ならここに全てを解決する手段があります。手間もかからず、私から確実な信用を得ることのできる、唯一無二の手段が」
 ゆっくりと、ライダーはその爪を男に向ける。
 ライダーに感染さえしてしまえば、操り本音を喋らせることなど簡単である。こうして時間をかけて空気感染も続けているが、騙していることが発覚してからこの男は周囲の空気をほとんど吸っていない。ライダーに対抗するだけの免疫能力も人間とは明らかに異なっている。
 感染させるためには直接接触するのが最も確実だろう。
「……やっぱり、ボクは君が嫌いだなぁ。汚い、気色が悪い。吐き気すら覚えるよ」
 その言葉は本心だったのだろう。微かではあるが、確かにその男は言葉だけでなく心の奥底から嫌悪感を露わにした。ライダーの提案は男の奴隷化を意味する。嫌悪して然るべき手段ではあるが、ただそれだけという風には見えない。
 この男はライダーという存在を憎むでも蔑むでもなく、ただ単純に嫌っていた。
 元より“病”という災厄の権化であるのだ。理解に苦しむことでもない。
「交渉決裂、ということで宜しいでしょうか?」
「はは、これは交渉ではなく恫喝って言うんだよ。せめて説得と呼べるくらいには努力して貰いたいね」
「詐欺師相手に譲歩しているつもりです。あなたはご自分が何をしているのか自覚していますか?」
「ボク? ボクが行っているのは――」
 両者の間でその瞬間、火花が飛んだ。
 仕掛けたのはライダー。それも魔力弾などによるものではない。魔力弾は数を出さねば防がれるのがオチだし、そんな数の魔力弾を練っている時間はない。故にライダーが行ったのは一挙動で繰り出す一〇本の矢。
 あの《茨姫(スリーピングビューティー)》で散々実験してきたのだ。爪の厚さや長さ、曲がり具合の操作も会得した。その過程で編み出したのが、伸ばした爪の根元を腐食させ、腕の振りで放つ投擲術である。
 爪は指に繋がっているものという思い込みを逆手に取った奇策。爪の成長過程でその形状と重心は微細に修正され、手首のスナップもあって一〇本全てが異なる軌道を辿り、速度さえ変えて標的へと襲いかかる。その内の一本でも掠れば、感染の糸口となってライダーの勝利は確定する。
 だがそんなライダーを見て、男は不適な笑みを浮かべていた。
 一〇本の内、四本は避ける。三本は鎖を真横に薙いで弾き飛ばす。二本はプロテクターを掠めただけ。残りの一本は、行儀悪くもその白い歯で噛んで受け止めていた。
 あっさりと攻撃を凌がれたことに驚くなど無駄なことをライダーはしない。投擲した瞬間に疾走を開始し、あと五歩もすれば懐に入り一撃を加えられる。後ろに跳躍し距離を取ろうとするが、ライダーの突進の方が速い。頼みの鎖は真横に放たれたままで、今更回収しても間に合わない。
 勝利を確信するライダーであるが、男は噛んで受け止めた爪を吐き捨てると、遮られた台詞の続きを静かに口にしてみせた。
 この男が行っているのは、

「――ただの時間稼ぎだよ」

 残り一歩の距離にまで近付きながら、ライダーは両足を全力で強化してまで急制動をかける。急激なGに中で椿が悲鳴を上げるが、それに対応している暇はない。
 ライダーが周辺警戒に放っていた粒子に反応があった。
 急制動によって膝に蓄積されたエネルギーを利用して上方へと跳躍する。同時に真横から聞こえてくる破壊音と、一瞬遅れてライダーがいた場所に顕現する破壊の嵐。
「言っただろ、この周辺を警戒してくれって。それって、敵が現れる可能性が高いってことだよね」
 男が報告していた内容に嘘はなかった。
 基地のメインシャフトとこの施設は直接繋がっているわけではない。ただ、硬化した充填剤を突破するよりも、薄い壁を介して間接的に繋がっているこの施設を中継した方が地上への出口は近かった。
 信用に値しない、ただそれだけでライダーは男の言葉を斟酌するのを怠っていた。感染という安易な手段を選択したのは早計だったのかもしれない。
 先に投げられた鎖の先端は、その薄い壁に穴を穿ち、壁を引き抜くことで更なる大穴を空けていた。その壁の向こうに見えるのは、人型の機械――重装甲パワードスーツの一団だった。その両肩と両腕には馬鹿みたいにでかい多連装チェーンガンが装備され、こちらへとその照準を合わせている。
「ここで彼等の侵攻を食い止めなければ、犠牲者は増えることになるよ?」
 その言葉はライダーではなく、奥に引っ込んだ椿へと向けられていた。
 男の思惑通りに動かされることは気にくわないが、かといって無視することなどできよう筈もない。椿がどう判断をするのか、ライダーは聞かずとも分かっている。
「それじゃ、後は頼みますね。せいぜい死なないよう持ち堪えてくださいよ」
 言葉だけを残して男は最後まで名乗ることもせずライダーの目の前でその姿を徐々に消していく。
 変装による透明化とはシステムが明らかに違う。光を遮断し歪曲させるエアカーテンによる光学迷彩に加え、臭気・温度といったものも周囲と同化していく。ライダーの感覚をもっても男を捉えることができない。
 鎖・変装・透明化の宝具を男は三つも持っている。フラットの居場所を知っている。生き残った《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の顔も知っていた。男は椿を呼び止めるのに「二人」とライダーを数に入れている。移動する敵の動きさえも把握していた。
 正体不明でありながら、各陣営の内情を知りすぎている。
 それでいて、状況を考えるにこうして最悪を防ぐべく敵の増援をライダーにぶつけるよう仕向けたのはこの男。結果的に、ライダーの負担は大きいものの現時点で被害は最も少なく済んでいる。
「あなたは一体何者ですか?」
 疑問を口にしてみるも返ってくる言葉はない。透明化できぬライダーを囮に本人はさっさとこの場から立ち去ったらしかった。
 撒き散らされる銃弾をその機動性と遮蔽物を駆使してなんとかライダーは回避し続ける。回避しながら周囲の違和感からあの男を探し出そうとするが、もはやその残滓も感じられない。その間にも、傷つけた動脈から吹き出す血のように、破壊された壁から人型機械が溢れ出てきた。このまま放置していけば、程なく周囲には死が訪れるだろう。
 生命体を始めとする有機物に対して圧倒的優位であるライダーではあるが、機械などの無機物に対しては相性が悪すぎた。ライダーの感染は非生物には通じにくいし、そもそも戦闘をするための直接的な宝具をライダーは持っていない。ライダーが“騎乗”している椿からして貧弱な少女でしかないのである。
 冷静に考えて、そこに勝機があるわけもない。
 既に先手を取られ劣勢となっている。挽回するのは難しく、撤退し体勢の立て直しを図るべきだが、ここで退けば地上ルートを確保される上、脱出した市民にまで被害が出る。それだけは、何としてでも阻止しなくてはならない。
 波のように押し寄せる敵を前に、ライダーはその覚悟を決める。
 守るべきは椿、ではない。
 守るべきは椿が帰るべき場所だった。
 こうして、最初に椿とライダーが無自覚に抱えていた自己犠牲愛は、“救う”から“守る”ことへとすり替えられることによって当面の解決を見る。全てを見通した上で、あの男がこれを仕掛けたことに、二人が気付くことはなかった。


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 中央作戦司令室の占拠はさほど時間がかかることもなく、容易く迅速に成し遂げられた。
 敵本部といっても過言でない場所であるが、残念ながら戦力に違いがありすぎる。
 レギヲンの主戦力は前線である第四層に引きつけられ、後方の守りはないに等しい。バリケードの構築もなく、敵兵装はせいぜいが携行用対戦車榴弾(RPG-7)くらい。それに対してこちらには《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の数だけ宝具があり、そして並の攻撃は跳ね返す《王の服(インビジブル・ガウン)》とアーチャーの猛攻にも耐えた《我が人生は金貨と共に有り(アレクサンドル)》を持つキャスターがいた。司令室のある第七層に密かに辿り着かれた段階で、既に彼等は詰んでいたのである。
「被害は?」
「《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》全員に目立った被害はありません。しかし壁抜きに爆薬は全て消費、弾薬もここまで来るのに使いすぎました。宝具の魔力も尽き欠けていますし、兵にも休息は必要かと具申します」
「助けられた身でそれらについて文句は言えんよ。警戒は密に。わずかだが休める者は食事をとってなるべく休ませろ。ただしすぐに動けるようにだけはしておけ」
 恥じるような部下の報告に署長は制圧したばかりの司令室へと足を踏み入れる。
 もの言わぬ骸が七。その内六人までが銃かナイフを握り締めたまま壮絶な最期を迎えていた。
 レギヲンのメンバーはクレバーな戦闘狂ばかり集められていたと聞く。中にはデルタやシールズといった特殊部隊から引き抜かれた者も数多く、この場でオペレーターを務めていた者もその例に漏れていなかった。
 宝具で守られている以上、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を撃退するには接近戦しか道はない。そこに勝機を見いだせば躊躇いなく死地へと飛び込む連中だ。魔道を囓っていても彼等の行動に恐怖したのも無理からぬこと。オーバーキル同然に叩き込まれた銃弾がそれを証明している。
 そして唯一武器を持たずに死んでいった口髭の似合わぬ男も、ただで死ぬようなことはしていなかった。殺される寸前まで彼はシステムに細工を施し続け、ある意味ではこの口髭男が最も《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》を苦しめていた。
「どうだ、何とかなりそうか?」
「無理ですね……システムの初期化こそ食い止められましたが、制御権限をスノーホワイトに委譲されています」
 床に倒れた死体をそのままに、未だ血糊がこびり付いたままのコンソールを操りながら部下は署長に首を振る。
 この司令室をスノーホワイトより先に制圧したのはここから基地全体を操作できるからである。上手くいけば隔壁を解放し、電子欺瞞(ジャミング)も解除することができる。基地内カメラから全体を把握することも容易となる。
 筈だった。
「キャスター、スノーホワイトはどうだ?」
「ん、ん~……やっぱこっちもダメだな。ここからスノーホワイトへのアクセスそのものができてないみたいだ」
 キャスターが打ち込んだパスワードは認識されているが、スノーホワイトからは何の反応も返ってこない。ネットワーク管理画面を呼び出し接続状態を確認すれば、スノーホワイトと繋がっている筈の専用ケーブルの断線が確認できる。
「迂回はできるか?」
「メインとサブ、共に断線しているので無理だな。交換するより他はない」
「やっかいだな。事実上何もできんということか」
 スノーホワイトに制御権限が委譲されたということは、この司令室で何かをコントロールすることはできないということだ。権限の優先処理設定から取り返すことは可能だが、それには専用ケーブルでのアクセスが前提となる。悠長に交換する時間はなく、それ以前に予備の専用ケーブルがそもそもあるのかすら分からない。
「電子欺瞞(ジャミング)装置を壊しちまえばいいんじゃねえの?」
「あいにくと電子欺瞞(ジャミング)装置はスノーホワイトの傍にある。後々のこともあるし、スノーホワイトを確保した方が手っ取り早い」
 唯一の救いは、有線接続されている基地内のカメラはリアルタイムで把握できることくらいか。署長が仕掛けた先日のスノーホワイトによる通信欺瞞対策をしたのか、スタンドアロンのシステムとして切り替えられている。
 こちらとしては好都合である。
「キャスター、お前はこれからどうする? 予定通りスノーホワイトを確保しに行くか?」
「それしかないだろうさ。それに、少々ジェスターの奴には文句を言わねばならないようだ」
 基地内をモニターしたことで各所の戦闘状況が明らかになった。
 第四層でレギヲンとヘタイロイが鬩ぎ合い、メインシャフトから基地外縁施設へと侵入した重装甲パワードスーツ部隊がライダーと交戦中。あのジェスターだと聞かされた金髪赤眼の少女が予想よりも遅いながらもスノーホワイトに辿り着き、周辺の敵を掃討している。
 そして第八層。
 そこで先程署長と同じく開放されたアサシンとティーネが、ランサーと対峙していた。
「ジェスターの奴、わざとランサーの存在を教えていなかったんだろうぜ」
「ランサーがわざわざ敵対するとも思えん。これは銀狼を人質に取られたか、令呪をファルデウスに奪われたか。あるいはその両方か」
 何か裏があると睨み、スノーホワイトを後回しにして司令室を先に抑えたのは正解だった。ジェスターがこちらと同行せずに一人動いていたのはランサーをぶつける腹積もりだったからに違いない。
「銀狼の令呪は確か残り一画だった筈だ。銀狼さえ保護できれば交渉材料になるかもしれねえぜ?」
「その可能性は高いな」
 キャスターの案に署長も同意する。
 銀狼の令呪を奪ったとしてもランサーが素直にそれに同意するとも思えない。無理強いするなら令呪を使う必要もあるが、一画だけではそれも無理だ。だからランサーがファルデウスの思惑通りに動くことはない。
 その証拠に、この危機的状況にあってランサーは後詰めにしては意味のない場所で待ち構えている。
 ランサーがいる第八層は“偽りの聖杯”が眠る第九層への緩衝のための層。神殿めいた巨大な柱が立ち並ぶ広大なだけの空間がそこにある。
 ここまで侵入されれば重要施設である司令室やスノーホワイトが制圧されてしまう可能性が高い。事実、司令室は制圧され、スノーホワイトは制御こそ奪われていないもののジェスターによってスタッフは排除されつつある。
 ランサーには交渉の余地がある。戦闘に発展しなければ時間稼ぎくらい付き合ってくれるかもしれない。
「ふむ。ならばここは隊を四班に分けるか」
「おや、俺はてっきりここは放棄すると思ってたんだがな」
 署長の考えにキャスターは意外そうな顔をした。署長が戦力を四分するのはやるべき事が四種類あるからだ。
 第一班はスノーホワイトの制圧。
 第二班は銀狼の探索、そして保護。
 第三班はこの司令室を堅持。
 第四班は司令室から各所へ有線通信網を構築。
 妥当な目標設定であるとは思うが、あいにくとそれを実践するには戦力が足りない。
 この場にいる戦力はキャスターと署長を除いて二八名。これを仮に四等分すれば一班七名となる。戦力の分散は部隊の危険度を上げることに繋がる。当初の優先順位を考えるなら、この何もできぬ司令室は放棄して第三、第四班をなくすべきだ。
「優先すべきはスノーホワイトだろう。俺としてはいっそのことこの場の全員で制圧に向かうべきだとすら思うぜ」
「装備が万全ならそれも考えるが、魔力も弾薬も心許ない。やはりあの強行突破で無理をしすぎたな」
 署長とキャスターたちがこの場に短時間で来ることができたのは、ジェスターからの情報で手薄となっている場所が分かったからだ。そこをティーネとアサシン、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の宝具によって無理矢理突破して来たのである。
 こうした強行突破はアサシンと署長の救出前にも何度も行われている。基地内を時折揺るがす衝撃はそうした《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の宝具全力使用によるものだ。そう何度もできるものではないが、その対処に応じる戦力から敵規模も推測できるし、何より味方の健在を確認できるので士気が上がる。
「幸いカメラは生きている。ここから連絡が取れれば援護にもなるし、市民の脱出もよりスムーズになる」
 これ以上の攻勢に出るには現状でも戦力不足。だからこそサポートに回るべきだと署長は言う。しかしそうすると、先ほどの班分けでウェイトが大きくなるのはむしろ第三、第四班となる。
「……もしかして、さっきの質問は今後の《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》ではなく、俺がどうするのかを聞いていたのか?」
「言ったろ。『お前は』どうするのかって」
 署長の案だと、スノーホワイトの制圧人数はキャスター一人だけとなる。
 やはり救出するべきではなかったと、キャスターは半ば本気でそう思う。
 スノーホワイトには既にジェスターが敵を蹴散らしているし、キャスターには防御専用宝具がある。人員配置を考えれば途中レギヲンに襲われる心配は少なく、ただ辿り着くだけなら問題はない。心配なのはキャスターがスノーホワイトへかかりっきりになる瞬間にジェスターが何をするか、だ。
 キャスターが全員でスノーホワイト制圧へ向かうのを提案した理由のひとつがジェスターに対抗するための保険である。
 いっそのことスノーホワイトを諦めるべきだとすら思うが、署長が敢えてそれをしなかったのは、ジェスターの牽制は必要だと判断したからだ。
 つまり、キャスター一人でジェスターを抑えろということらしい。
「今ライダーと戦っている重装甲パワードスーツ部隊はヴァルキリー構想とかいう時間経過と共に成長する戦域支配システムだ。スノーホワイトを操れるお前でないとあれは止められん」
「お前も少しできるだろうが!」
「この慣れない腕で細かな操作はできん」
 署長に取り付けられた人形の右腕は確かに良い仕事をしている逸品ではあるが、負傷から時間が経っていることもあって神経接続が不完全である。銃に手を添える程度はできるが、その程度の戦力でしかない。
「せめて護衛をつけくれ」
「ジェスター相手に護衛など何人いても無駄だ。諦めろ」
 ついに泣きついてきたキャスターににべもなく署長は無情にも首を振る。
「それに我々の目的は“偽りの聖杯”そのものだ。そのためには邪魔が入らぬよう全サーヴァントと令呪を持つマスターを探索するのが優先だろう」
 作戦の立案にこそ携わっていないが、計画を遂行する現場指揮官として署長の判断は正しいといえた。
 ティーネと別れる際に署長は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の指揮権を受け取り、同時に各作戦プランを簡単ながら説明を受けている。基準となるのは“偽りの聖杯”に対する処理方法とその過程における犠牲の多寡。犠牲を最小限に抑えるためのミッションフェイルドのタイミングは署長に一任されている。
 状況は《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》の介入により優勢となりつつある。そして“偽りの聖杯”へ至る第九層が充填剤を注入し完全に封鎖されたことによって突破は想定通り不可能となった。
 通常戦力によって穏便に“偽りの聖杯”を確保するプランAは破棄。“偽りの聖杯”に強固な封印を施すプランBへと移行する。
 当初遂行していたプランAで邪魔となるスノーホワイトも、第九層封鎖によって手出しができなくなるのならその意味では脅威とはなり得なくなった。その代わりに、危険度が増しているのはこちらに協力的でないマスターとサーヴァントである。
 それを睨んだ上で署長がティーネに任されたのは司令室の占拠、そして危険人物の所在確認、そして排除である。
「ファルデウス。我々はまだ奴の姿を確認すらできていない……!」
 この司令室を襲撃した時には、既にファルデウスの姿はなかった。指揮を執っていたのは口髭の男で、周囲の痕跡からはかなり前からここにはいなかったようである。
 ここでファルデウスが無目的に動くとも考えられない。
 署長が最も力を入れなければならないのは、ファルデウスの確認だ。そのためにはこの司令室は確保し続けなければならない。有線で各員と連絡つけるのも戦況を有利に運ぶというより眼の数を増やし発見を容易にさせるためである。
 ここでランサーを視認できたことは僥倖ともいえた。やや“偽りの聖杯”に近いことがネックだが、ここでならランサーの動きは逐一確認できるし、何かあったとしてもアサシンとティーネがすぐに対処することができる。
「すぐに隊伍を編制する。キャスター、魔力は十分にあるな?」
「待て、話を進めようとするな。俺は行かねえぞ」
「よし、問題ないようだな。ルートを確認させるから二分待て。」
「聞けよおい」
 ――などと今後の戦況における意見交換を行っている署長のキャスターの間に、一つの報告が飛び込んでくる。
「マスター、状況に動きがありました!」
「どうした?」
 問う署長に対し、戦況監視を続けていた《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》は緊張した面持ちでただ事実だけを告げる。
「ジェスターが電子欺瞞(ジャミング)装置を破壊しました! ジェスター発、ランサー宛の通信を確認、現在暗号解読中です!」
「ジェスターからランサーへ?」
 訝しむキャスターであるが、しかし署長はジェスターの真の狙いを理解する。
 ジェスターはアサシンを慮りながらも、その現状には満足していない。ジェスターはアサシンのためなら世界さえも犠牲にする。
 ジェスターの狙いは、アサシンに最後の試練を与えることだ。
「ランサーはどうしたっ!?」
 脳裏に巡る最悪の予想を裏付けるかのように最悪の報告は行われる。
「ランサー、アサシンと戦闘を開始しました……!」


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 同じファルデウス陣営に組みしているランサーとジェスターは立場的に味方ではあるが、ただそれだけの関係でしかなかった。
 その思惑と立場の違いからファルデウスも含め、三者に仲間意識があるわけもない。せいぜい、敵ではないという程度。ランサーに交流の意志はなく、ファルデウスも両者の仲を取り持つ真似をするわけもない。そのまま没交渉が続けば互いに死ぬまで会わぬ可能性もあった。
 故に、交流があったのはジェスターの意志だった。
「随分と浮かぬ顔をしているではないか、ランサー」
「そういうあなたは随分と楽しそうですね、ジェスター」
 初対面ながら自己紹介はなかった。
 マスターをすげ替えられた間抜けなサーヴァントと、マスター権を早々に放棄した酔狂なマスター。同じ基地内にいれば意識せずとも情報は耳に入ってくる。
 それにジェスターはランサーがこの通路を通ることは調べていた。でなければこんな広い基地で偶然出逢うなどあり得ない。通路の壁に寄りかかり待ち構えているのだ、隠すつもりもないようだった。
「……僕に何か用ですか?」
 無視してこの場を立ち去りたい気持ちを殺してランサーはニタニタと笑うジェスターに言葉をぶつける。ジェスターの思惑に乗るのは癪だが、ここは乗るしかなかった。乗らざるを得ない状況にされていた。
「クハハッ! いやなに、私も似たような立場であるからな。君と銀狼の話を聞いていても立ってもいられなくて駆けつけたところだ」
「あなたと同類だと? 冗談も休み休み言ってください」
「いやいや、相手に死んで欲しくないという点では同じではないかね?」
 その言葉を本気で言っているのだから、呆れるより他はなかった。
 ジェスターがアサシンにしていることは周囲に無関心なランサーとて聞き及んでいる。殺さぬように傷つけることと、死なぬように癒やすのでは、悪魔と天使ほど違う。
「それでランサー、君の大事な大事な“元”マスターは、まだ生きているのかな?」
 土足で人の領域を踏みにじるジェスターは心から愉しそうに聞いてくる。
 そう、銀狼は死にかけていた。
 ただでさえ短い合成獣の寿命を更に犠牲にして産まれてきた銀狼だ。ランサー召喚前に受けた銃弾や夢の中での戦闘によって肉体や魔術回路に小さくない罅が刻まれている。時間経過と共にその罅は大きく、そして決定的なものへとなっていた。
 もはや銀狼は戦うどころか生きることさえ難しい。皮肉なことにファルデウスが令呪を奪わなければ、ランサーへの魔力供給で死んでいてもおかしくはない状況ですらあった。今は夢の中で微睡むことが精一杯な状態である。
 ファルデウスに対しランサーが面と向かって反抗しない理由も、そこにあった。
「私も死徒という身の上だ。そういう研究は散々してきたからな。聞きかじっただけでも大方の予想は着く。テロメア領域の最低ループ分は使い切ったと聞くが、本当かね?」
「……それをあなたに言ったところで問題解決に繋がるとは思えませんね」
 溺れる者は藁をも掴むと言うが、ランサーはそんな真似はしなかった。
 ある意味で数百年の時を生きるジェスターはその筋の専門家ではあるが、それを踏まえても銀狼を助ける手段などあるとは思えない。銀狼の症状は怪我や病気ではなく、寿命なのだ。これを根本的に解決するには、それこそ聖杯が必要となってくる。
「ほう、その様子だと私の推測も当たりのようだな。となれば、細胞死の促進による新生細胞を活性化するような回復手段は逆効果か。ここの施設では崩壊を止めるのが精一杯……ヘイフリック限界でも操作して冬眠状態にでも保つのが限界だな」
 ランサーの答えを聞くまでもなく、勝手に結論を出し納得するジェスター。自らが通ってきた道だけあって、その推測は気持ち悪いくらいに正解だった。
 微かな希望を臭わせる台詞ではあるが、その程度で期待することなどできよう筈もない。
「おっと。期待されても困るので予め言っておくが、いくら私でも末期状態にあってはどうにもできんよ。吸血鬼らしい手段をとっても、無駄だろう」
「私はあなたに何も期待していませんよ」
 最後のは冗談だと笑うジェスターにランサーは我知らず苛立っていることに気付いた。さすがに創生槍を取り出す真似はしていなかったが、ここでジェスターが仕掛ければ殺さずにいられる自信はなかった。
「……クハハッ、ようやくマシな顔になったではないか。さっきまでの白けた顔よりずっと良い。人形相手に喋っているつもりはないからなぁ」
 表情を変えたつもりはなかったが、ジェスターの眼からは明かな変化であったらしかった。泥人形から人間に近付いていったランサーだ。その振り幅で彼の強さは大きく変わってくる。
 ランサーを苛立たせることで人へと近付かせ力を削ぐ算段か。しかしジェスターがそんなことをする意味が分からない。
「貴様の逸話はよく知っている。なかなか皮肉の効いた展開ではないか。朋友を残して先に逝った貴様が、今まさに残されようとしている。アーチャーがもういないことが悔やまれてならんな」
「……話は、それだけですか?」
「それだけ、と言うと嘘になるな。確認がしたかったのだよ。果たして、貴様はどうしてここにいる?」
 ジェスターの言葉は、確かにランサーの身を貫いた。
 マスターの危機に令呪で呼ばれるまで気付くこともできず、切り札を使いながらライダーを消滅し損ね、無様にもその後も敵の罠にかかり封印され、敵を出し抜いたと思いながらその実手のひらで踊らされていただけ。あまつさえ、朋友と同じ戦場で散ることもできず臆面もなく生き残り、最後の寄る辺すら失おうとする今、英霊としての本分を果たす意志も放棄して文字通りの奴隷(サーヴァント)に身を窶している。
 これのどこが英霊なのかと。
 これのどこが英雄王と肩を並べる存在なのかと。
 なんと無様。滑稽なことこの上ない。
「……何を僕にさせたいのです?」
「クハハハッ。その殺気、その怒気。実に結構ではないか。去勢された畜生だったらどうしようかと心配していたぞ」
 売り手と買い手があってこその商売だが、ジェスターはランサーの考えなど介することなく、愉しそうに虚空に未来を幻視する。ランサーの返事など必要ない。モノを与えれば、ランサーが何を考えようと無視することなどできないのだから。
「代価は戴く。その代わりランサー、貴様に英雄としての場を与えてやろう」



 ――そんなことを思い出しながら、ランサーは創生槍を構え駆けだしていた。
「このタイミング……ッ! ジェスターの話を聞いてはなりません、ランサー!」
 突然の攻勢に一瞬でファルデウスではなくジェスターの仕業と判断したのはさすがだが、そんな説得をするくらいなら距離をとる方が賢明だろう。
 数十メートルの距離をランサーは一瞬で詰める。尚も説得を続けようとするティーネ・チェルクには申しわけなかったが、ランサーはここで止まるつもりは微塵もなかった。
 ファルデウスの味方をするつもりはない。かといって敵対するわけにもいかない。妥協の産物としての役立たずの後詰めを選択し、結果、愚かにも説得を試みるティーネとアサシンをこの場に留めてしまった。
 ファルデウスが指示に従わぬランサーに何も言わなかったのはこうなることを見越していたからかと邪推する。今ランサーは、確かにファルデウスに利する行為を取っている。戦わずとも敵主力となりうる二人を足止めする行為は立派な戦果となる。
 だがその選択肢すらも、ジェスターからの一報が全て奪った。
 送られてきたのは一通のメール。ただし、その添付ファイルにある画像はランサーを動かすには十分な理由となった。
 画像に映し出されているのは檻の中でぐったりとした姿の銀狼。一見するとペットの犬を鎖に繋ぐ、家庭でも珍しくもない光景だが、銀狼の様子をよく知るランサーはこの状況を看過できない。
 銀狼から、生命維持装置が外されていた。
 呼吸一つですら今の銀狼は死に直結する。一刻も早い処置が必要となる。それだけにメールの指示を無視するわけにはいかなかった。
 戦闘は、止められない。
「下がりなさい、ティーネ・チェルク!」
 ランサーの創生槍を受け止めたのは、アサシン。魔力を秘めた現代風の大振りナイフ二本を交叉させてランサー渾身の一撃を受け止めた。それだけでナイフに罅が入るが、突風めいたランサーの動きは完全に止まってしまう。
「手加減はできません、ランサーッ!」
 説得を試みたわりに攻撃の機をティーネが逃すことはなかった。
 ティーネの叫びと同時にランサーの全身が燃え上がる。衝撃を逃し斬撃を殺す《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》であるが、こうした純粋属性による攻撃は程度の差こそあれ低減させるだけで無効化はできない。ランクB相当の宝具であっても耐えられる自信はあったが、ティーネの一撃はそれ以上の威力を持つ。
 惜しむらくは、ランサーがその程度で怯む相手ではなかったことか。
 鋼鉄をも蒸発させる焔に舐められながらもランサーは構わず創生槍を繰り出し再度の前進を開始する。長柄の武器にあって間合いを詰めるのは自殺行為だが、近付くことでアサシンは後退せざるを得なくなる。ティーネの火炎に巻き込まれればランサーはともかくアサシンはただで済まない。
 ランサーをアサシンが抑えることができたのはほんの数瞬。その間にティーネは大きく後退し、安全圏への退避を確認したアサシンも限界に近付いたナイフを投擲しながら大きく後退する。
 否、それだけでは済まない。
 全身が黒焦げになって尚燃えながら、その頭部をナイフで貫かれ視界を閉ざされながら、ランサーは神速と呼ぶに相応しい渾身の一撃を無防備になったアサシンへと繰り出していた。
 創生槍に込められた魔力は過去最大。形状の定まらぬ創生槍は魔力の多寡によって威力も異なる。宝具開帳による《天命渦巻く混沌の海(ムアリダート・ギムリシュン)》に及ぶべきもないが、直撃すれば跡形も残らぬし、穂先を掠っただけでも命の保証はできない。
 まさしく必殺の一撃を前にアサシンは、

【……幻想御手……】
【……伝想逆鎖……】

 その一撃を逆に利用して見せた。
 第八層は広大で何もない。直径数メートルの柱が乱立しているだけで、中心部から外殻まで一キロ以上ある。だというのに、中心部にいた筈のランサーの体は冗談のようなスピードで馬鹿みたいに外殻の中に埋もれることになった。
 途中にあった柱は緩衝材にはなり得なかった。あまりにランサーが高速過ぎて運動エネルギーを柱に拡散させる前に貫通してしまう。音速超過の衝撃波が強靭無比な外殻を抉り、衝撃波に吹き飛ばされた床の一部が火を吹いた。
 何があった、などとは思わない。
 これでは話が違っている、とは思った。
「切り替えが早過ぎる……それでいて応用力もあるじゃないですか……」
 冷静に状況を分析してみるも、さすがのランサーも原型も留められぬ状態ですぐに起き上がることはできなかった。
 事前情報としてアサシンは経験不足から状況判断が遅い、とランサーは聞き及んでいた。
 そのためにランサーはわざと定石を外した前進をおこなったのだ。アサシンが判断に迷い生じた隙を突くつもりであった。
 そんなランサーの予想をあっさりと裏切り、アサシンは迷うことなく槍に対して悪手である後退を選択、耐久限界を迎えた武器を見切り、ランサーの視界を奪おうともしている。後退することで槍に最適な間合いとなり、武器がなくなることで防ぐ手立てすらなくしている。
 一見するとこれらはランサーとの実力差を計り間違えたアサシンの苦し紛れの手にも見えるが、全て計算の上での行動であった。アサシンの目的はランサーに最高の一撃を放たせ、宝具によるカウンターで仕留めること。
 しかもこれは増幅と反射による宝具の重複起動か。ランサーの攻撃はその威力を数倍に膨れ上がらせた上でベクトルを一八〇度返され、山をも穿つ破壊力をここに示した。単なる衝撃であれば流し殺すことも可能だが、瀑布の如き流れはランサーの体内へ留まり続ける。アサシンによって誘導された破壊力はそのまま圧縮され、ランサーの体躯を《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》ごと消し飛ばそうとしていた。
 ランサーが知るよしもなかったが、アサシンに関する情報は少々古い。アーチャーへの奇襲から見切りの遅さを自覚させ、椿を庇った超距離射撃から秒速一五〇〇メートルの弾丸の精密カウンターを経験し、ジェスターによる一方的な蹂躙で宝具の応用を知ったアサシンはその天才的な才覚をもって急成長を果たしていた。
 もっとも、この程度のことでランサーが動揺することはない。ランサーが戦ったライダーだって、急成長どころか進化の域に達していたのだ。驚嘆すべきことかもしれないが、ただそれだけのこと。
「……なるほど、“代価”にしては安すぎると思いましたが、これは意外に適正価格だったのかもしれませんね」
 手加減というのは性に合わなかったところだ。
 これぐらいの強さの方が、ランサーには丁度良い。
 銀狼を人質に取るような真似はしていたが、そのことに触れることなくジェスターがランサーに要求したのはかつて約束した“代価”だった。内容は、アサシンを痛めつけ窮地に陥らせること。
 アサシンのこの強さなら手加減することもなく、そして本気を出す必要もない。
 実に全身の半分を今の一撃で吹き飛ばされながら、それでも尚ランサーは微笑み、疾駆して目前に迫ろうとするアサシンを出迎えた。
 宝具の重複起動など初めてだろう。相手の攻撃を利用するとはいえ、そのための魔力が必要ない筈がない。コンマ一秒の狂いも許さぬタイミングに気力体力の消耗も激しくないわけがない。
 そんな状態にあって両の手に先と同じようなナイフを持ち、呵責ない追撃をアサシンは行おうとする。その様は獲物を捕らえようとする大鷲を彷彿とさせた。
 これで仕留めたと過信することなく機を逃さなかったことにランサーは高評価だ。
「だから君に敬意を表して、忠告しよう」
 舐めていたことを詫びるべく、ランサーは外殻にめり込み動けぬままに上から目線でアサシンに告げた。
「この程度で、僕を倒せると本気で思ったのかい?」
 瞬く間に距離を詰め、先とは真逆の状況でアサシンのナイフがランサーへと迫るが、その切っ先がランサーを貫くことはなかった。
 逆に貫かれたのは、アサシンの方。
「――……ッ?」
 全身を貫かれ動けぬ事実にアサシンは受けいることができずに意外そうな顔をする。吐血しながら自らを貫いた正体を探るべく周囲を見渡せば、そこには撒き散らされたランサーの身体――否、宝具(天の創造(ガイア・オブ・アルル))の一部から細長く鋭い針が伸び出ていた。
 思い出して欲しい。彼は人間に近くとも人間ではない。神の宝具であり、泥から産まれた人形だ。その器は泥であり、形は定まっておらず、全体と部分の区別すらそこにはない。
 アサシンが狙ったランサーは、単純に最も大きい塊というだけだ。周囲にグラム単位で撒き散らされた小さな欠片を、彼女はランサーとして認識していなかった。そこに意志があり、自由に動くことができるなどと想像だにしていなかった。
 全身を四〇以上も貫かれながら、アサシンはまだ生きている。単純に一つ一つの威力が低いことも理由だが、何よりランサーはあえて重要器官を外していた。
「僕を倒そうと思うなら、塵一つだって残してはダメですよ」
 事実上アサシン最大の攻撃手段が直撃しながら、ランサーのダメージは全体の三割にも届いていない。
 よく健闘したと、ランサーはアサシンを讃えた。ランサーの奥の手を出させたのだ。その事実だけでも大したもの。いかに成長しようとも彼我の戦力差は、恐竜と蟻よりも大きいのだから。
 だから、ランサーはアサシンを侮る。
 たった今、その蟻に奥の手を出させた事実を忘れ去る。全てはアサシンの計算尽くの行動であったと分析しながら、それ以上を考えない。自らをこれ以上傷つける方法をアサシンにはないと慢心してしまった。
 アサシンの手から、ナイフが落ちる。ナイフの代わりに、針となって全身を貫く《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》を掴み取る。
 そして、その口角が上がったのをランサーははっきりと見た。
 後悔してももう遅い。このアサシンは、忠告という贈り物をありがたく受け取り、平然と実行してみせる。

【……瞑想金色……】

 唱えた奇跡の名は、アサシン自身すらも知らぬもの。
 歴代のハサンが極めた業に、そんな名のものはない。
 使うのも初めてなら、その効果も遠目に見ただけ。
 それでも、音に伝え聞く業よりもよほど再現は簡単だった。
 アサシンのその手が、黄金の輝きを解き放つ。
 否、その輝きは黄金そのもの。
「《黄金呪詛(ミダス・タッチ)》――!」
 ランサーの解答にアサシンは正解とばかりにその手の魔力を解放、この世で最も忌むべき黄金がランサーの《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》の浸食を開始する。その侵攻はゆっくりと、だが確実にランサーへと迫りゆく。
「何故君がそれを扱える!?」
 これは、宝具でも奇跡の業でもない、神の呪い。
 一介の暗殺者如きが扱って良いものではない。
 あまりに非現実的な光景を突きつけられ、ランサーはアサシンに問わずにはいられない。
「私の本質は、どうやら模倣にあると気付いた。ただそれだけのことです」
 何とでもないように、アサシンは神に迫る己の才覚を告げてみせた。
 考えてみれば、彼女の素養は明かであった。奇跡を生み出せぬと言われながら、彼女は過去に存在した十八の秘技を『伝聞のみ』で修得するという奇跡を完成させている。その才のどこが奇跡でないというのか。
 それが猿真似であることは認めねばなるまい。見た目ばかりで極意を解さぬ以上、その業は張り子の虎。しかし『真似る』とは『学ぶ』ことでもある。このままいけば、その極意を得るのも時間の問題だった。
 暗殺教団が最も恐れたことは、そんな彼女が異教の秘技を得てしまうことだった。異教の奥深くに眠る秘技は経典の教えに勝る真理を保有している。教団が彼女を外に出さずにいた理由は、異教を解する可能性を恐れたのである。
 なんてことはない。暗殺教団が真に疑っていたのは狂信者である彼女の信仰心そのものだったというオチ。
 それが分かっていたから、ジェスターはアサシンにランサーをぶつけたのだ。ランサーの《天の創造(ガイア・オブ・アルル)》を攻略できる可能性がある業は、この聖杯戦争では《黄金呪詛(ミダス・タッチ)》のみ。
 直に目にしているのだ。真似るだけならアサシンの能力なら容易いこと。後はアサシンの覚悟次第となる。己が才覚を自覚した今、異教の真理はアサシンの意志とは関係なくその信仰心を蝕むことになる。異教の業、それも神性の呪いを扱うということは、アサシンにとって毒杯を呷るに等しい。
 かくして、ジェスターの目論見通り、アサシンは黄金の呪いをもってランサーを追い込んでいく。今更ながら、ランサーはジェスターの求める“代価”がぼったくりである事実に気がついた。


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12

 たった一層しか違わないというのに、第八層の激闘は第九層には何の振動も伝わっていなかった。
 単純に間にある岩盤が厚く、周囲に繋がるルートが悉く完全封鎖されているのも理由のひとつだが、それ以上に異常なまでに執念深く張られた結界がそうした外界から隔絶させていることが大きい。
 第九層、“偽りの聖杯”が祀られているこの祭壇は、薄暗い闇の中で完全に閉じていた。
 第八層同様に広大な空間の中央に巨大な“偽りの聖杯”は座している。その神体を《方舟断片(ノア)》よりも尚強力な封印結界宝具(方舟(オリジナル・ノア))が球状に光を逃さぬ極黒で覆っていた。
 目に見える安全装置が一つだけとはなんとも頼りないかもしれないが、この基地そのものが物理的にも魔術的にも強固な結界の役割を果たしているのは明らか。その上スノーフィールドの霊脈そのものも“偽りの聖杯”を封じるよう人為的に流れを変えられている。
 これほど大規模な封印は、世界中のどこを探しても見当たるまい。それだけの処置を執られながらも、これでもけっして過剰とは言い難い。
 この封印が人為的に弱められたことでこの“偽りの聖杯戦争”は開始されたのだ。現行の封印を八割にまで弱めたわずか数秒で、世界は自らの危機を感じ取った。すぐさま封印を元に戻したことで何事もなかったかのように装ったが、世界はこれだけの封印であっても無視できぬことと判断したのだ。
 六騎のサーヴァントの本来の目的はこの“偽りの聖杯”をどうにかすることにある。最善は完全破壊、次善は弱体化、次々善は封印の強化。
 だがそうした本来の目的を偽ることがこの“偽りの聖杯戦争”の妙。六騎全てがそのことに気付き、力を合わせぬ限り“偽りの聖杯”を破壊することは叶わない。一騎でも失えばそれを補う力がない限り、最善や次善を捨てなければならなくなる。
 だから、第九層に突如として実体化したサーヴァントは、次々善の封印強化を目的として送り込まれていた。
 本来であれば、あり得ぬこと。
 正規に召喚された六騎のサーヴァントは全て《イブン=ガズイの粉末》を受け霊体化はできない。だからこそ物理的な封鎖は有効であり、ファルデウスがそう指示したのも頷ける。そうした想定があったからこそ、彼は今まで温存されていたのだ。
 黒い霧を纏って顕現したのは、金髪赤眼のサーヴァント。
 その姿、その形、かの英雄王ギルガメッシュに他ならない。
 だが残念かな、この姿の英雄王は、すでにない。このサーヴァントは英雄王に似ているだけで、中身はまるで違っていた。真鍮を黄金と偽るには土台無理だということだ。
 このサーヴァントはかつてキャスターが南部砂漠地帯でアーチャーと対峙した際に用いた偽者である。
 だがサーヴァントは偽者であっても、その宝具は本物以上に本物だった。
 背後の空間で、目に視えぬ“扉”が開く。
 背後に浮かぶ数十にも及ぶ武具の数々は、確かに英雄王の所有物。
 キャスターが奪ったバビロンの鍵は、この偽者が持っていた。
「さて、では始めようか――」
 一つ小さく呟いて、黄金改め真鍮のサーヴァントは、その宝具の的に“偽りの聖杯”を定めた。
 全てはキャスターの策。
 本物でない以上、その齟齬にかかる軋轢は偽者への負担となる。予め注ぎ込まれた魔力では現界もままならず、一度だって戦闘をすることは危うい。かといって《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》を扱えるのはアーチャーの記憶を持つ偽者のみ。他に選択肢はなかったのである。
 故にキャスターの策は“偽りの聖杯”が安全に確保できなくなった時点で可能な限り不確定要素を排除、もしくは“偽りの聖杯”から遠ざけ、この偽者をこの場へと招く道を作ることにあった。
 まずは試しに一つだけ、ランクの低い宝具を偽者は射出する。自動迎撃システムの類がないかを確認するためである。念入りな様子見ではあるが、宝具はあっさりと“偽りの聖杯”へと辿り着き、そして予定通りにそのまま静止する。
 これが、封印の強化の方法である。
 “偽りの聖杯”を封印する《方舟(オリジナル・ノア)》は触れたものの時間を停止させる静止機能を持つ。偽者が投射した宝具はその切っ先が表面に触れた瞬間に時間が止まり、さながら選定の剣の如く誰も抜くことの適わぬ飾りと化した。
 この宝具が真価を発揮するのは、時間停止の機能が解除された瞬間である。
 つまり時間停止の最中であれば世界は危機に陥ることはなく、時間停止が解かれても《方舟(オリジナル・ノア)》表面で静止し留まっていた宝具が“偽りの聖杯”を串刺しにすることで始末する。
 キャスターの計算では“偽りの聖杯”を四〇〇本の宝具で串刺しすることで機能不全に陥れるだけの威力を出せる筈だった。
 残り三九九本――だが念には念を入れ、その倍の数の宝具を《方舟(オリジナル・ノア)》表面に貼り付けておきたい。作業は単調であり、邪魔が入らぬよう露払いもされている。脱出は考えないので、消滅するその瞬間まで宝具を射出し続けるつもりだった。
 注意すべきは宝具同士がぶつかり邪魔し合うことだ。そのため狙いは慎重に定める必要があった。
 球状に展開されている《方舟(オリジナル・ノア)》を上下に別ち、縦に十字に切り取って八区画に分ける。単純計算で一区画当たり一〇〇本。本物と違い偽物が一度に放てる宝具は多くとも一〇程度。それも精度に難がある。これは気が遠くなる作業だと偽物は思い、目標へと集中する。
 だが、狙いが一区画に偏ったことで視野は狭まった。
 偽物でありながら、本物と同じミスをしていた。
 隙が、できる。
 銃声が響いた。
「……な、に?」
 宙で第二斉射に装填されていた宝具が消え去る。
 ダメージはある。だが消滅に至るほどではない。全身を駆け巡る衝撃に、集中を乱し暴発を恐れて蔵を閉じただけ。
 だがそれ以上の衝撃を、背後を振り返った偽者は感じ取ることとなった。
「何故……何故貴様がここにいる!?」
 第九層の封鎖は完璧に行われている。ここは完全な密室だ。秘密の通路などある筈もなく、エアダクトすらもない。霊体ですら結界に阻まれ、侵入も容易でない。だというのに、その男は確かな肉体を持って、ここに存在していた。
 どうやってここに辿り着いたのか、密室トリックにしては余りに陳腐な手法だろう。
 あろうことか、最初からこの場で待っていたのだ。
 勿論、侵入が不可能であれば脱出も不可能。救助は早くとも一月はかかり、水や食料も用意されている筈もない。この中で待っているのは無慈悲で確実な孤独死だけである。そこに勝敗を論じる意味があろう筈もない。
 だが、偽者が問うたのはそれだけではない。
 現場の最高司令官が、何故そんな役回りをしているのか理解ができない。
「答えろ、ファルデウス!」
 偽者の後方数メートルという近くに、最大排除対象となる者がいる。
 左足を前に出した基本に忠実なウィーバースタイルでファルデウスは偽者に狙いを付ける。間髪入れず、二発、三発、四発、五発、六発と、撃ち続け偽者へと叩き込む。しかも使用されているのはホローポイント弾と呼ばれる貫通力を落として通常よりダメージを増加させる弾頭だ。
 人間相手に使用するなら十分すぎる威力だろう。だが対サーヴァント仕様であったとしても、この程度の火力では不十分。
「ああ、やはりこの程度では殺せませんか」
 その場から動くことすらせず、余裕たっぷりにポケットから弾丸を取り出して回転式拳銃に弾を込めるファルデウス。火力が足りぬと理解しながらその行為を止めることはない。
 そんなあまりに無意味な光景を前に、偽者は隙だらけのファルデウスを殺すことはできなかった。
「貴様は一体、何がしたいのだ?」
「知れたこと。ここに現れるであろうサーヴァントを倒す為に決まっているではないですか」
 つまりあなたを倒すことですよと、さも当然のように答えるファルデウスは弾を込め終える。
 再度発射された弾丸を、偽者はわずかな動きだけで全て避けてみせた。威力ばかりで遅い弾など、不意打ちでもなければ役に立ちはしない。いかに偽者といえど、偽物がサーヴァントである事実に違いはない。
 またも全弾を撃ち尽くすファルデウス。ポケットの中を探ってみるが、取り出すことができたのはたったの一発だけだった。肩を竦めて弾を込めることすら諦め、ファルデウスは拳銃を放り投げた。
 これではどうやっても勝つことはできない。
 最初の不意打ちだけが、ファルデウスが唯一勝機を見いだせる機会だったのだ。それを逸した以上、如何に訓練を積もうと彼の実力だけで現状は打破できるとは到底思えなかった。
「射撃は苦手なんですよ。どちらかといえば、私はナイフが専門でして」
「ならばその腰のものを抜け。私を倒すのだろう?」
「遠慮しておきましょう。サーヴァント相手に接近戦など人間がやることではありません。けれどご安心を。あなたのお相手は、ちゃんと別に用意しています」
「その右手の令呪でも使うのか?」
「はは、あなたを相手にこんなもの必要ありません」
 笑って否定しながら、ファルデウスは傍らの操作盤にあるスイッチをオフからオンへと切り替える。そんなことで警戒することはない。配線からそれがただの電灯の電源スイッチであることは分かっていた。
 案の定、スイッチと同時に壁際一〇メートル頭上に人工の光が点る。それが第八層と繋がる貨物運搬用エレベーターの明かりだった。
 目を凝らす必要がある程距離は離れてはいない。相手を用意しているというファルデウスの言葉は嘘ではなかったが、それにしては様子がおかしかった。
 瞳の焦点は失っており、弛緩しきった唇からは虚ろな笑いと涎を垂れ流し、床にへたり込んだその身体はひくひくと痙攣していた。どう見てもサーヴァントを相手にすることなどできるとは思えない。それどころか放っておけばそう遠くない内に死にそうですらある。
「どういうつもりだ、などと言わないでください。ああ、しかし少々恥ずかしくもありますね。どの陣営も考えることは同じのようです」
「一体何を――ッ!?」
 ファルデウスの言わんとしていることに偽者は気付く。
 エレベーターにいる者の手にある、ただ一つ輝く令呪の存在に。
 そのトリックは、既にこの聖杯戦争でも扱われている。
 例えば、《忠実なる七発の悪魔(ザミエル)》。七発と銘打っているにも関わらず、その実鋳造された弾丸は全四〇発である。
 例えば、《二十八人の怪物(クラン・カラティン)》。二十八人とありながら、その構成人数は全体で一〇〇名を超えている。
 これは具体的な数字を挙げることで意図的に誤解を招くよう仕組まれた例だ。
 そうした思い込みを利用したトリックは、何もキャスター陣営だけがやっていたことではない。
 テレビゲームにもよくあるシステムだ。プレイヤーはゲーム開始時に操作するキャラクターをセレクトする。ゲームに登場するのはプレイヤーが選んだキャラクターで、選ばれなかったキャラクターが登場することはない。
 けれども、それはただの思い込みだ。選ばれなかったキャラクターが登場しない保証などどこにもない。プレイヤーが一人だけだという保証もどこにもないのだ。
「アインツベルンが投入した五つの令呪を持った東洋人。作戦呼称は“プレイヤー”もしくは“A氏”だそうです。私が知る限りでは、年齢性別体格バラバラの八体が確認されていますね。
 その内勝手に戦って死亡したのが三体、ティーネ・チェルクやキャスター達に確保されているのが一体、我々レギヲンが確保したのが四体――内二体まではライダーにやられてしまいましたが」
 ファルデウスの言葉が本当ならば、このエレベーター内にいる東洋人がその最後の二人の内の一人なのだろう。
 その事自体に、偽者は驚かない。
 何せ、過日にこの基地を襲撃した原住民を撃退し、昨夜に北部原住民の要塞を襲ったのは複数人のサーヴァント。そして、それを操っていたのが令呪を持った東洋人であることはとっくに確認が取れている。
 交戦したライダーからの情報と、当初より協力関係にあった一人との情報を統合し整理したことで、彼等にある四つの制約は明らかにされている。その内の一つが、『エレベーターのある建物に入れない』というものだ。
 この制約によって、この地下基地攻略における東洋人の脅威はないものと推定されていた。排除すべき不確定要素の中に東洋人の項目はなかったのである。
 だからこそ、偽者はそのことに驚愕する。
 ファルデウスはキャスターの策を読み切った上で、東洋人を切り札に仕立て上げていた。
 物理的に考えれば、人間が『エレベーターのある建物に入れない』なんてことはあり得ない。入れない理由は強固な呪詛が、あるいは単なる精神障害か。どちらにせよ、自力で入れないのであれば、他力を使えば良いだけの話。
「色々と実験してみたのですよ。制約のどれか一つでも解決できればより有意義な切り札になり得る。おかげで一人は使い潰してしまいましたが、もう一人はこうして無事に生かすことができました」
「惨いことをする」
「自覚しています」
 平然とファルデウスは自らの罪状を肯定した。
 詳細は不明だが、東洋人の様子は普通ではない。何らかの薬剤によって“処置”を施されている。ロボトミー手術をされていたとしても、おかしくはない。
 この様子で切り札として機能していると断言するのだ。ファルデウスはやはり“プレイヤー”が持つ令呪について熟知している。既にそうした実験も終えているのだろう。
 これが事実であれば、状況は最悪だった。
「なら、無条件に英霊を召喚できないことも知っているのか? 召喚に応じる英霊側にも拒否権がある。この英雄王を相手にする英霊がそう簡単に喚べるわけがない」
「あなたの実力が英雄王と同等程度にやっかいであることは認めましょう。しかし、アーチャーは既に退場していますし、その雰囲気からしてもあなたは偽者です。であれば、こちらが選ばずとも喚ばれる英霊はいくらでもいます」
 あっさりと、ファルデウスは偽者を偽者と断じてみせた。外見と宝具から見破れる筈はないのだが、やはり問答無用で反撃せずにいたりと、英雄王にしては大人しすぎる性格が拙かったか。
 偽者の最後の悪足掻きも限界だった。
 ここいらが、潮時だ。
「ならば、君たちを殺すより他に道はないな」
 戦闘は可能な限り控えたいが、それは無理であるらしい。
 罪もない“プレイヤー”には悪いが、ここでファルデウス共々殺すしかない。
 宝物庫を再度展開させようと偽者は動くが――
「何を戯れたことを。私が一体何のためにこんな時間稼ぎをしていたと思っているのですか」
 嘲笑するファルデウスの傍らに、いつの間にかパイプを片手にこちらを見つめる鷲鼻の男が佇んでいた。
「言い忘れていましたが、“プレイヤー”の令呪はその魔力によって英霊を現界させるため、令呪の魔力が尽きるまで消えることはありません。申しわけありませんが、私が君を撃った時にはもう召喚は終了していたのですよ」
 一体何度驚き、そして踊らされるのか。
 ファルデウスの言葉に、鷲鼻の男はゆったりと前に出る。
 目の前で見てみれば、男の持つ魔力は微々たるものと分かる。ただでさえ結界が張り巡らされた場所だ、これなら召還時の魔力に偽者が気付かぬのも無理はない。どこの英霊か知らないが、英雄王の蔵を前にして堂々としたものである。余程の自信があるのか、それとも命知らずなだけか。この程度の魔力でどうにかなるほど英雄王の蔵は甘くない。
 出鼻を挫かれたのは確かだが、何か攻撃を受けているようにも思えない。
 そう判断して、偽者は迅速に蔵を開く。これ以上の会話は相手のペースに巻き込まれるばかりだ。鷲鼻の男が今から何をしようとも、もう遅い。できることなど、末期の言葉を残すくらい。
 だから、鷲鼻の男は残された時間で言葉を操る。
 己にできる、唯一にして絶対の力を、行使する。

「             」

 魔術の発動、言霊の蛮名化――などではない。
 男は、たた暴いただけ。真実を告げてみせただけ。一切の魔力を使うことなく、ただ数分にも満たぬ観察と召還時に仕入れた知識だけをもって、偽者の正体を、そして本性までを暴いてみせた。
「な……な――……ッ!!」
 その言葉に偽者は震えるより他はない。
 同時に、バビロンの宝物蔵はここに消失する。
 カランと、偽者が持つ鍵剣が床に落ちて転がっていった。
 偽者が王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)を扱えたのは、偽者が英雄王の知識と原住民が保存していたアーチャーの召喚媒体である鍵剣を持っていたからだ。だが、今の偽者にそんな知識はなく、そして鍵剣を起動するだけの魔力も資格も失っていた。
 確率という砂漠の中にあった砂粒ほどの可能性は、今ここで鷲鼻の男が消滅させたのだ。
 自らの手を汚すことなく彼は全てを終わらせてみせる。
 男は、世界の真理をただひたすらに暴くだけの存在だ。
 魔術など頼らずとも、知性のみによって過去を見通す。
 パイプを片手に、知識の深淵を彼は覗き見る。

 男の名は、シャーロック・ホームズ。
 ベーカー街221Bの諮問探偵――。

「さて、己の願いを叶えた気分はどうだ、切り裂きジャック?」
 正体を暴かれた殺人鬼を前にして、名探偵はつまらない質問をしてみせた。


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(ライダー、これって、もしかして)
 絶え間ない銃弾の嵐をかいくぐり、地形を利用して何とかパワードスーツの動きを抑え込みながら椿とライダーは敏感に第九層にいるバーサーカーの状況を確認していた。
「そのようです。バーサーカーがしくじりやがりました」
 ライダーにしては珍しく語気を荒げるのも無理からぬこと。
 何故なら、このプランBの要たるバーサーカーに莫大な魔力を供給しているのは他ならぬライダーなのだから。
 バーサーカーの能力は、“誰にでも無条件に変身できること”ではない。彼の能力の本性は、“切り裂きジャックとしての可能性の具現化”である。
 バーサーカーは切り裂きジャックとしての“確率の霧”の中から好きなように変身でき、変身後はその知識と能力も限定的に使用することができる。軍人ならば戦闘能力が上がり、医者ならば医療知識を得られる。そして複数犯という可能性を呼び出せば、バーサーカーは己の存在すら分割することができるのだ。
 そうした能力を駆使してバーサーカーは最初から自らを複数の個体へと分割して活動をしていた。《イブン=ガズイの粉末》によって強制的に現界させられたのもその内の一体だけであり、これをライブベイトにすることで敵の動勢をコントロールすらしてみせる。ファルデウスにその一体が殺された後も暗躍を続け、南部砂漠地帯ではキャスターの嘘を本物にみせるべく偽アーチャーとして戦ってもいた。
 そんな反則級の能力と抜け目ない策略を駆使するバーサーカーであるが、それが本人だけで実現できる筈もない。
 バーサーカーの能力の弱点は、切り裂きジャックとして可能性がなければ変身できぬことにある。英雄王に化けているバーサーカーであるが、それは英雄王が“当時の倫敦で召喚され凶行に及ぶ”という限りなくゼロに近い可能性を強引に引き寄せたからである。
 この無茶を実現させているのがライダーの魔力だ。
 ライダーが現在戦闘に使用している魔力を五〇とするならば、バーサーカーに供給している魔力は一〇〇〇に近い。これでただ現界しているだというのだから宝物蔵の宝具を全力投射して戦闘するともなれば、一体どれほどの魔力を消費するのか。市民の大半に感染することで謀らずとも聖杯戦争史上最大の魔力を手にしたライダーであるが、こんな出鱈目な供給量は相当の負担である。
 その負担が、つい先ほどなくなった。
 バーサーカーに供給していた時間はわずか数分。これで目的を達したのであれば何の問題もないが、いくらなんでも供給時間が短すぎるし、想定よりも少なすぎる。それに、こうなる直前に魔力消費が瞬間的に高まったのも感じ取れた。
 戦闘状態に入った可能性は高い。
 そして、瞬殺された可能性も高い。
 ライダーとしてはこのまま尻尾を巻いて逃げ出したいところだが、そうもいくまい。
(私が代わるから、署長さんに連絡して)
「分かりました」
 ライダーの考えを見透かしたような椿の指示にライダーはパワードスーツ部隊と一度距離を取って魔力の制御キーだけを椿に委譲する。
 少々時間はかかったが、周囲に散布し続けた魔力の粒子は部屋中に溢れ飽和状態にある。これだけあればパワードスーツの関節部分や銃口を魔力で固めることで、その機敏な動きと問答無用の火力をある程度封じることができる。
 椿と交代し、ライダーは通信回線が正常に機能するか確認する。つい数分前に電子欺瞞(ジャミング)は解除され、司令室を占拠した署長から通信も届いていた。ライダーの魔力で編んだ回線と急造ながら基地内に張り巡らされた有線ケーブルを用いれば、スノーホワイトが介入する心配もない。
「署長、拙いことになりました」
『どうしたライダー。残念だがスノーホワイトはまだ確保できていないぞ』
 ライダーが戦っているパワードスーツ部隊は、スノーホワイトのコントロールによるものらしい。電子欺瞞(ジャミング)が解除されたことで、署長と連絡がとれるようになったのは良いのだが、スノーホワイトも電子欺瞞(ジャミング)に邪魔されることなくパワードスーツ部隊を動かせるようになり、動きも機敏になりつつある。相性の悪さもあって、時間稼ぎもいつまでできるか保証もできない。
「それも早急に行って欲しいですが、もっと拙い事態です。バーサーカーはどうやら失敗した様子」
『――それは本当か?』
「確かです。魔力の供給量からバーサーカーはまだ生きているようですが、反応が弱すぎます。蔵どころか自身の宝具も使っていないのは間違いないでしょう。となれば、」
『……これは変身能力が裏目に出たようだな』
 ライダーの推測に署長も同意してみせる。
 切り裂きジャックという箱の中身は、様々な存在確率が平等に存在する霧みたいなものだ。そんな“確率の霧”も箱を開けて観測されれば、ひとつの確率に収斂し確定されてしまう。
 つまりは、バーサーカーは誰にも変身することができなくなる。変身することのできないバーサーカーがプランBで役に立つとは思えない。それどころか、今後彼が役に立つ機会があるかどうかすら怪しい。
 一体誰がそんなことをしたのかは気になるが、バーサーカーを無力化した存在は、少なくとも真っ向から相対する戦闘能力の持ち主ではなかったらしい。それが救いになるかどうかは知らないが。
「プランBは事実上失敗したとみて間違いありません」
 司令室であっても第九層の様子をモニターすることはできぬよう回線は切られている。それもファルデウスの策なのだろうが、こうしてライダーが魔力供給をしていたことで図らずもその様子を伺い知ることができた。
 先んじて次の手を打つことができれば、まだ最悪は回避することできる。
「署長、私はプランDの遂行を進言します」
『……お前はそれでいいのか?』
「ここで何とかできる、などと甘いことを考えてはいないでしょう?」
 一体どうやって英雄王の宝具を持ったバーサーカーを撃退したのか不明だが、ファルデウスは確実にこちらの手を潰してきている。プランAですら初手から充填封鎖されなければ余裕を持って完遂できた筈なのである。ここで順当にプランCを選ぶには不安がありすぎる。
 作戦プランは“偽りの聖杯”という目標こそ変わりはしないが、その手段とリスクに違いがある。それぞれを一言で言い表すとすれば、プランAが“確実性”、プランBが“保険”、プランCが“先送り”、そしてプランDが“他人任せ”である。
 プランCは、この基地を自爆させることで“偽りの聖杯”を年単位で誰も手出しできぬよう時間稼ぎをするプラン。自爆方法にもよるが、まず間違いなく基地深部にいる者は生き埋めとなるし、脱出途中の市民も巻き込まれる恐れがある。
 プランDは、外部――より正確には“上”である米国政府と連絡を取り、予め用意されている安全装置を起動させようというプラン。勿論、安全装置の起動は米国大統領の判断による。衛星軌道上の《フリズスキャルヴ》を使いピンポイントで“偽りの聖杯”を破壊するのか、それとも熱核攻撃でスノーフィールドそのものを焦土とするのか。さすがに後者はあり得ないと思いたいが、それに近いことをされる可能性は大いにある。
 どちらを選んでも、リスクはプランAやBの比ではない。
 そしてそのリスクは、そのまま椿の生存率と同義でもある。
 椿を危険に晒してでも“偽りの聖杯”をどうにかしたい……などという自己犠牲めいた考えをライダーはしない。単純に、椿の身と今後を守るための最善と思った手段を口にしているだけだ。それだけに、ライダーがいかに現状に危機感を抱いているのか署長にも如実に伝わったことだろう。
『地表付近にいるお前さんより、地下深くの俺の方が死ぬ確率が遙かに高いんだが、それについてはどう思う?』
「か弱い市民を守るのは警察の義務です」
『給料分は十分働いたつもりだがな……』
 軽口を叩く署長の声に思案の呼気がひとつあった。
 まかりなりにも元軍人。散々部下も殺しておいて、ここで命を惜しむような人間ではない。ひとつ懸念があるとすれば、戦後を踏まえたまとめ役がいなくなることか。いずれのプランにしろ、署長かティーネ・チェルクのどちらかは生きていて貰うことが好ましい。
「この会話は椿には聞こえぬよう処理しています。ティーネ・チェルクに何かありましたか?」
『……第八層にいる。あそこはモニターができても通信はできていない』
 椿に聞かれたくない話かと気遣うライダーに、署長は現状を伝える。
 元から署長の生存は絶望視されていただけあって、ティーネ・チェルクの優先度は高い。それを何より推したのが繰丘椿である。このまま第八層に留まるようなら、脱出には間に合わない。
「……それでも、私はプランDを進言します」
『了解した。ひとまずオブザーバーとしてライダーの意見は聞こう。しかし幸か不幸か、CとDのどちらを実行するにもまだ時間がかかる』
「どうするおつもりですか?」
『自爆と通信、どちらであってもこの基地にある既存のシステムを利用することには違いない。ファルデウスの手が入っている可能性が高い以上、システムチェックの時間は必要だ。だからその時間を利用してプランCとDの両方を同時進行させる』
 それはライダーにとってもティーネの脱出時間が稼げる以上願ってもないことだが、人手を割けば割くほど効率は悪くなる。いくら時間がかかるとはいえ、本来であればプランを絞り戦力を集中させ一分一秒でも時間を短縮するべきところ。
 署長とは思えぬ及び腰に、ライダーは違和感を覚える。
「署長、バーサーカーを仕留めた者や、先に私たちを襲った男もこの基地にいるのです。悠長なことをしている場合ではありません」
『……ライダー、だからこそ、俺はプランCとDを同時進行させようというんだ』
 ライダーの揺さぶりに、時間の無駄と署長は割り切った。
 ライダーの主は椿であり、椿が信頼するのはティーネである。ティーネであれば重ねての進言などすることはなかっただろう。署長にはまだ味方としての信用がない。それが分かっていたからこそ、署長は自らの行動理由を告げてみせる。
『プランBは今現在も継続中だ。失敗の可能性が出てきたから、念のためにサブプランを走らせているに過ぎない』
「――失敗の可能性? バーサーカーは行動不能なのですよ?」
 失敗の可能性ではなく、それは失敗そのものではないか。
 そう反論するライダーに、署長は言った。
『ああ。だからバーサーカーに代わり、お前を襲ったあの男が引き継いでいる』


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「実に――興味深い内容ですね。よければその真相とやらをボクにもお聞かせ願えないでしょうか?」
 突然現れた第三者を驚愕をもって出迎える者は不在だった。
 ファルデウスは視線を動かすだけでその態度に変化はなく、同じくホームズもパイプを口に咥えただけで見向きもしない。正体を暴かれたバーサーカーにそんな余裕はなく、エレベーターの上にいる東洋人については語るまでもない。
 なんとも張り合いのない観客ではあるが男は諦めた笑顔で肩を竦め、カラカラと床に転がる鍵剣を拾い上げる。
「随分と早いお着きですね。どこから聞いていましたか?」
「ついさっき到着したばかりだよ。だからバーサーカーの正体に驚いているところだ。謎解きはもう終わってしまったのかな?」
 鍵剣を弄びながら親しげに話す男とファルデウス、しかしその場で男は立ち止まる。その立ち位置は、明らかに相手を意識したものだった。
「なら問題ないでしょう。私もホームズ氏から聞いたのはそれだけですから」
「名探偵皆を集めてさてと言い――そんな場面に巡り会えるとは、ボクはやはり運が良い」
 互いに隙を伺いながらも暢気な会話にここでようやくホームズは呆れたように睥睨する。
「……君たちはどうやら守秘義務とやらを知らないとみえる。探偵に説明義務があるとは思わないで欲しいな。答えは、そこのバーサーカーが示している。それで十分ではないかな?」
 知りたければ私の伝記作家に言ってくれと、名探偵の態度は変わらず冷たいまま。犯人が言い逃れするからこそ、そうした真相暴露の場面が必要なのであり、犯人が認めてしまっては真相を確かめる推理の披露は必要ない。
 犯人たるバーサーカーは、必死になって身体を変化させようと努力しているようだが、それも無駄なこと。本人が認めようと認めまいと、その身体が誰かに変化することはない。
 切り裂きジャックは、その正体を確定させてしまった。
 殺人鬼は、名探偵に屈してしまった。
「まあ待ってくださいよ、名探偵。幸い君の現界時間にはまだまだ余裕があるではありませんか。私も真相を知りたいと思っていたところです。このまま何もせぬまま消えていくのもつまらなくはないですか」
 依頼主同然のファルデウスの言葉に、ホームズは眉間に皺を寄せる。
 召喚の要請内容は“バーサーカーの正体を解き明かす”こと。そしてホームズが召喚に応じたのは“答え合わせをする”ためだ。そのどちらも達成した以上、彼の役割は終わっている。そのまま消え去ろうかとホームズは思ったが、せっかく現界したのだからさっさと消えるのも確かにもったいない。
 エレベーターの上にいる東洋人をホームズは仰ぎ見る。令呪に強制命令権がない以上、ホームズが東洋人をマスターと認識することはない。目的を達したのだから依り代としての価値すら東洋人にはない。ましてや、薬漬けのあの状態である。長くないとはいえ、さすがのホームズも早々に“止め”を刺すのは気が咎めた。
 小さく嘆息して、ホームズはパイプを口から離す。
「私としては、こんなつまらないことを説明するのは恥ずかしい限りなのだがね」
 召喚されたばかりで証拠集めも何もない。ホームズが持つのは召還時に提供された情報のみ。その情報も裏付けがないので全てが推測の域を出ない。これが裁判なら証拠不十分で棄却されるところだ。
 もっとも、時間と協力さえあれば確認を取る方法はいくらでもある。
「……この“偽りの聖杯”は、サーヴァント召喚のためのただの餌。偽りの情報を召喚されるサーヴァントにインストールするシステムこそがこの“偽りの聖杯戦争”の正体。だからこそ、この戦争に参加する全マスター全サーヴァントに求められるのは聖杯を必要としない願い、だ」
 そのために聖杯そのものに望みを託そうとする者は排除、もしくはその願いを修正させられる運命にある。実際、アーチャーの召喚者はティーネに殺され、ジェスターはアサシン召喚により心変わりしてしまっている。
「その中にあって、バーサーカーだけが唯一、聖杯を求め続けていた。それなのに、世界から、システムからもバーサーカーには何の排除も修正も行われていない。それも当然だ。バーサーカーが介入を受けなかったのは、単純に――」
 未だ蠢き足掻くバーサーカーを見ながら、ホームズはパイプを咥える。すでにその身体は一人の人間へと固定してしまっていた。英霊としての側面はなくなり、無理な変身の反動によって、全身は狂うほどの痛みが襲っている筈だった。
「聖杯を必要とせずに、願いが叶う条件が出そろっていたからだ」
 バーサーカーの願い。それは、自らの正体を知ること。その願いの答えはバーサーカーの内側にこそある。それこそ聖杯などに頼らずとも、フラットの令呪に頼れば済むほど、その願いはあまりに小さかった。
 そのことにフラットが気付かぬのは当然であるが、聡明なバーサーカーが気付かぬのは解せぬ話でもある。それこそが、この“偽りの聖杯戦争”のシステムの妙であろう。
 この“偽りの聖杯戦争”には二つの異なるシステムがある。
 ひとつは、世界の脅威を取り払おうとする抑止力。もうひとつが、互いを争わせようとする“偽りの聖杯戦争”のシステム。この両システムの狭間にあって、もしバーサーカーが願いを叶えてしまえば、他のサーヴァントと戦う動機がなくなる上に、こうして抑止力としての意味を為さなくなるほど無力になってしまう。
 両システムは、その意味でバーサーカーにとって救済措置を執っていた。
 真実など知らない方がよっぽど幸せなことがある。あらゆる可能性を内包しているバーサーカーだからこそ、その中にある絶望という可能性を考慮するべきであった。追い求めなければ、希望は希望のままであり続けられたというのに。
「ではその条件とは、何なのかな?」
 しばし沈黙するホームズを促すように男が問うてくる。
「知れたこと。君は、ただのレプリカで切り裂きジャックが召喚されると本気で思っているのかね?」
 聖杯戦争において狙った英霊を召喚するために必要となるのが英霊と縁の強い魔術触媒だ。だというのにフラットが用意したのは、偽物と証明されているジャック・ザ・リッパーの銘入りナイフ。
 これで狙った通りの英霊が召喚できるなら、戦争参加者は事前準備に金と時間と労力を投入する必要がない。それこそ最初から聖杯のレプリカで聖人でも喚べば良いのだ。それができないから聖杯制作に秀でたアインツベルンは、聖杯戦争を仕掛けたのではなかったか。
 しかし、実際にフラットは狙い通りにジャック・ザ・リッパーを召喚してみせた。それこそ、街の広場の中心という祭壇や魔法陣や供物といった補助も必要とせずに、だ。いかに天才であろうとも、物事には限度がある。
「触媒なしに召喚したとも考えられるのではないかな? 実際、バーサーカーとフラットには共通点があるだろう」
 互いに“聖杯戦争の理念とは最も遠いところにいる存在”であることには違いない。それを見越したように、ファルデウスの疑問にホームズは逆に問いかける。
「では、具体的に何が共通しているのかね?」
「それは――……」
 バーサーカーは殺人鬼として人間の倫理観が欠如し、フラット・エスカルドスには魔術師としての合理性が欠如している。これは立派な共通点ではないのか。
「常識がない、というだけでは浅いのだよ。特にバーサーカーは殺人鬼などと称されていても、殺した数などたかが知れている。人が人を殺すのに理由などさほど必要ではない。ファルデウス、君ならよく分かるだろう?」
 ホームズの皮肉にファルデウスは苦笑いした。
 ファルデウスは何でもない顔をして右足を半歩下げている。胸の前で無造作に腕を組んでいながら、その間には隙間がある。
 ボクシングはプロ級、バリツという日本式格闘技の心得があるとされるホームズである。知識だけでなく、戦闘経験からもファルデウスの技量はそうした所作だけで簡単に推し量られていた。殺した人の数だけなら、確かにバーサーカーよりファルデウスの方が多いのである。
「もっと単純に考えてみれば、彼等にはもっと身近で当然の共通点がある」
「それが――倫敦ということか」
 既に正解を知っている二人だ。その共通点に納得もいく。
 一般人がその共通点を指摘されれば呆れたことだろう。同じ倫敦に住む人間なら時代を遡れば何百万といる。そんなもので納得しようもない。
 だが、それは一般人の考え方だ。
 倫敦には何があり、フラットは一体何者なのか。
 倫敦には時計塔があり、フラットは由緒正しい家系の魔術師である。
 さて、それらを踏まえてこの切り裂きジャックの正体を考えてみれば、ひとつの可能性に辿り着く。

 ――バーサーカーの正体は、フラットの祖である魔術師だ。

 ジャック・ザ・リッパーが何故切り裂き魔と呼ばれているのか。それは犯人が被害者の切り裂き、その臓器を持ち帰っていたからである。
 時計塔お膝元の倫敦市街でそんな猟奇殺人があれば、魔術師が関わっていると考えるのも不思議なことではない。魔術研究の一環として人を解体するのは決して珍しいことではない。
 ついでに言えば、フラットの魔術師らしからぬ思考はジャック・ザ・リッパーの劇場型犯罪とも一致している。協会の極秘会議を簡単にハッキングしてみせ、アナログ・ハイテク問わず見ただけで暗号を解読。そうしたフラットの解析能力が優れている要因も、彼の祖先による研究にあったりするかもしれない。
「だとすれば、バーサーカー召喚の触媒は、」
「そう、フラットの――エスカルドスの血統だ」
 ここまで推測ができるのであれば、確認することは難しくない。エスカルドス家の歴史を調べてみるのも良いし、もっと手っ取り早くフラット自身に刻み込まれた記録を覗き見てもいい。
 あいにくとホームズの推理ならぬ推測では、エスカルドスの血統に連なる者という以上のことは分からない。仮に五代から七代前までその血筋を遡ったとすればバーサーカーの候補者は二二四名である。これで稀代の殺人鬼を特定したなどと到底言えないだろう。それも、ジャック・ザ・リッパーが起こしたと言われている一連の事件のどれか一つの犯人、という程度。
 しかし、それだけ分かれば十分なのである。エスカルドス家が生み出した最高傑作がフラットという人間だ。その礎となった者がその傑作以上である筈がない。
 バーサーカーの無力化は果たされた。今なら弾丸一発で労することなく、ファルデウスでも屠ることもできる。
 屠る必要性がないほど、弱っている。
「――さて。こんな穴だらけの説明で十分かな」
「ええ、ありがとうございます」
「ボクも十分です。中々に新鮮ですね。ボクの時代には推理小説なんてなかったものですから」
 ホームズの説明にファルデウスは頭を下げ、男は拍手をしてみせる。
「それでは、そろそろお暇するとしよう――が、その前にファルデウス」
「何でしょう?」
「この男についての推理は披露しなくても良いのかな?」
 ホームズの視線の先に、男の姿がある。
 親しげに会話はしたが、ファルデウスはこの男のことを全く知らない。ファルデウスにあったのは、この“偽りの聖杯”を狙って最低一回、おそらく二回、何者かが来るという予測だけ。正体など、知るわけがない。
「ああ、それは必要ないよ、名探偵」
 そんなホームズの言葉を、にべもなく断ったのは、当の男だった。
「せっかくの舞台だ。いい加減黒衣に徹するのも飽き飽きしていたわけだからね。名乗りは、ボクの口から言わせて貰いたいね」
 そう言って、男は自らの服を脱ぎ捨てる。否、その正体を破り捨てる。
 宙に舞ったのは、姿を欺くマント状の宝具。これを巻き付けることで、周囲に違和感を与えぬ姿となる。その効果は、警戒心の強い動物にだって気付かれぬほど。
 その姿にファルデウスは素直に驚き、ホームズは自らの推理と違わぬ正体に鼻を鳴らす。
 そこに現れたのは、金髪赤眼の――少年。
「ボクは、アーチャーのサーヴァント、英雄王ギルガメッシュ。そして――」
 金髪赤眼の少年は、せっかく手にした鍵剣を、使わない。
 彼はこの状況にあっても、バビロンの宝物蔵には頼らない。
 そんなものは、必要ない。
 彼が今頼るのは。
「これがボクの策、《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》だよ」


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 アイオニオン・ヘタイロイ。
 それはかつて、英雄王に挑んだ征服王が持つ宝具の名。
 彼と彼の臣下で英傑たち、その絆の象徴を指して、《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》。数多の存在を嘲笑い、雑種と蔑む英雄王であろうとも、彼等の絆を笑うことなどできよう筈もなかった。
 しかし、この名にそんな意味があるなどと、名付け親たるフラットが知る由もなかった。
 彼はただ、師がよくネット対戦ゲームで使っていたチーム名を使っただけ。そこに深い意味はなく、これを使えば師が気付いてくれると思ったからだ。更に分かり易いように代表者名にも気を遣ったが、果たして師は気付いただろうか?
 最初に、空間が揺れた。
 それは空間と空間が繋げられた証拠でもある。
 小石を投げた水面のような波紋を生じさせながら、その人物は現れる。
 宙より最初に飛び出してきたのはフラット・エスカルドス。彼なりに格好を付けた登場の仕方ではあったが、薄暗いこともあって蹈鞴を踏む。何とか転倒だけは避けたが、幼い英雄王から「挫きませんでしたか?」などと心配される始末。
「準備は本当に大丈夫ですか?」
「ああ、もうバッチりだよ」
 怪訝そうに確認する英雄王にフラットは親指を立てて応える。
 突然のフラットの登場に、さすがファルデウスも驚きを通り越して視線が釘付けになっていた。噂の当人の登場程度に、彼が注視する価値はない。彼が注視するのは、フラットに引き続き揺らぎより現れ出でる人影に、である。
 一人、二人、三人、四人――……数えようとするのを止めたのは、虚空にうねる波紋が辺り一帯を包み込む程拡がったからだ。それは正解だ。人の目で数えるにはその数は多すぎる。
 その数、実に一六三名。
 その全員が、即戦力となり得る一線級の魔術師だった。
 その全員が、溢れんばかりの魔力を秘めた宝具を持っていた。

 アイオニオン・ヘタイロイ、その正体は宝具を装備した魔術師軍団である。

「これは……一体いつから魔術師を集めていたというのですか!?」
 ファルデウスは完全に見誤っていた。
 何者かが、魔術師を手当たり次第に狩っているという情報は事前に入ってきている。武蔵が暴れた時にだって行方不明者が七八名も出ているし、スノーフィールドを離れラスベガスに行こうとする人数にも確認できるだけでも大きな差があった。
 知ってはいたのだ。だから基地を襲撃した部隊に驚きはしなかった。だがそれ以上の人数の本隊がいるなどとは思わなかった。行方不明となった人数のほとんどが生き残っていたなどファルデウスでも予想できるわけがなかった。
 そしてこの事実はそのままヘタイロイを創設したフラットと英雄王にだって当てはまる。一体何をしたら彼等が必要とされる未来を予見できるというのか。
「フラット……ッ!」
 前後不覚に陥っていたバーサーカーも、久しぶりに会う自らのマスターに焦点を取り戻す。見たことのない姿のバーサーカーであっても、その呼びかけにフラットもすぐに気がついた。
「ジャック! よかった無事で!」
 駆け寄るフラットがバーサーカーの身体を調べる。マスターであれば、バーサーカーから変身能力がなくなっていることに気付いてもおかしくはないが、フラットはそんなことには気付かない。ただバーサーカーの傷だけを心配していた。
 幸いにも、バーサーカーの正体をフラットは知らない。いや、知っていたとしてもそんなことに頓着することはないだろう。
「……いや、私は大丈夫だ。しかし、何故アーチャーが君とここにいる?」
 彼等、と言いながらもその実バーサーカーの視線は幼い姿の英雄王に注がれていた。
 彼もまたサーヴァントである。宝具で身を隠していないのであれば、この英雄王がかつて相対したアーチャーかどうかの区別は付く。
 本物であることは確かだ。だが、本物ならばキャスターによって手にしていた《天の鎖(エルキドゥ)》以外の宝具を奪われている筈。だというのに何故こんな多くの宝具を持っているというのか。
 いや、そのことについては何の不思議もない。
 予め準備していただけのこと。
 フラット・エスカルドスと英雄王ギルガメッシュ。この二人が手を組み、人を集め、宝具で匿っていた。蔵を奪ったところで、蔵から出していた宝具を失うわけではない。
「いやあ、ちょっと椿ちゃんを助けた後に死にかけちゃってさ。その時に英雄王に助けて貰ったんだよ」
「ボクも丁度ティーネ以外で正規マスターの協力者が欲しいと思っていましたからね。お互いの利害が一致したので一緒に暗躍して貰ってました」
 この戦争で暗躍していたのはバーサーカーやジェスターだけではない。このアーチャーもティーネが倒れてからはむしろ彼等以上に暗躍していたのだ。特にジェスターたちは調べることに主眼を置いていたが、アーチャーは戦力を整えることを主眼に置いて行動していた。
 行き場を失っていた魔術師は数多い。そんな彼等をアーチャーは保護し、協力者として仕立て上げていた。
 組織を形成していく上で、重要なのはトップの指導力と報奨だ。英雄王の恐るべきところはその財力であるが、もうひとつ挙げるならそれは呪いとも呼べる人類史上最大のカリスマを持っていたことだろう。
 この時点で、アイオニオン・ヘタイロイの下地は既に形成されていたのである。これを更に強化したのが、フラットの存在であった。
 実をいえば、予てよりフラットは他のマスターでない外野の魔術師たちを気にかけていた。というのも、序盤から魔術師を捉えまくっていたアサシンの存在を知っていたからである。
 アサシンの“構想神殿”は触れた者を異空間へと封印し、その魔力をゆっくりと吸い取る食虫植物のような宝具である。だがオリジナルでなかったおかげか、一度は捕らわれながらもフラットは持ち前の解析力であっさりと脱出。できることなら他に捕らわれた魔術師たちもすぐに助けたいところであったが、その直後に今度は夢の世界に捕らわれてしまった。
 それが逆に良かったのかもしれない。
 フラットが救出を試みた時、アサシンに捕らえられた魔術師は二〇〇名近くに膨れあがっていた。これを全て救出しアーチャーに匿って貰うことで、被害を最小限に抑えつつ、その存在を表に出すことなく戦力を整えることができたのである。
「もっとも、あの森でのことはボクにとっても予想外だしたけどね。そこはティーネに感謝、かな」
 ファルデウスがアーチャー消滅したとみていた根拠は四つ。
 ほとんど奇襲に近いデイジーカッターの威力に耐えられる可能性は皆無、ティーネの令呪が消失しており、ランサーの気配感知スキルにも反応がなく、ファルデウスの諜報網をもっても痕跡すら見つからなかったことだ。。
 付け加えるなら、この時アーチャーは宝具をキャスターに奪われており、ファルデウスが考える以上に進退窮まった状態にあった。
 通常であれば考えにくいことだが、これらをクリアする方法がひとつだけある。
「令呪による強制時間跳躍……なるほど、道理であれだけ探しても反応ひとつなかった筈です」
 アーチャーが助かる唯一の可能性は、ティーネと合流し、デイジーカッター投下に先んじて令呪の力で空間跳躍を行うしかあり得なかった。
 そして、それらは見事に成就された。
 いや、それ以上のことが令呪によって命令されたのだ。
「ボクも大人げなくってさ。あの状況に怒り狂っていたから、無理矢理にこんな身体にされたんだよね。令呪を全部使って、時間跳躍と、跳躍後に冷静でいられるように若返りの霊薬を飲まされたんだよ」
 だからまだこんな身体なんだよね、と幼い英雄王は困ったように言ってみせる。
 ここでのティーネの選択はこれ以上になく正しいものだった。時間ではなく空間跳躍を選んでいれば、アーチャーの生還はすぐさまファルデウスの知るところになっていた。霊薬を呑ませなければアーチャーはそのプライドにかけて強攻策を打って出かねないところだった。
「正気ではありませんね……普通に考えれば彼女がデイジーカッターの威力を耐えられるわけがないのですから」
 もしティーネが自らを最優先とするのであれば、令呪で自らの守護をアーチャーに命令するべきであった。令呪で強化し、自らも全力で防御すればあの場で助かる可能性はずっと高くなる。
 それをしなかったのは、ティーネがこの聖杯戦争終結に最も必要な存在は巫女であるじぶんではなく、英雄王だと判断していたからだ。アーチャーなら自分以上にこの戦争を上手く終結させられると信じ、託したのである。
「まったくだよ。これは一度サーヴァントとしてマスターとじっくり話し合う必要があるね」
 両者とも確実に助かる方法がなかったとはいえ、マスターの犠牲となってサーヴァントが助かっていては英霊の名が泣いてしまう。
「おかげでボクとしてもプライドをかけてこのスノーフィールドを救わなければならなくなってさ。一から作戦の練り直しなんて柄にもないことをしちゃったよ」
 それなのに彼女なんか生きてるし、と幼い英雄王はため息をつく。
「なるほど――では、あなたの目的は?」
「当然、この戦争を終わらせることさ」
 ファルデウスの確認に、アーチャーは迷うことなく断言した。
 ヘタイロイは“偽りの聖杯”を取り囲むように三日月型に展開し、こうして話している間にも三日月は細長く円に近付きつつあった。
「さてファルデウス。君はボクらが来ることを予測してはいたようだけど、どうやら用意できた切り札は一つだけのようだね?」
「ええ、私が土壇場で用意できたのはこの東洋人一枚きり。まあ、そうでなくとも英雄王相手の切り札なんて用意できる筈もありませんけどね」
 ファルデウスは唯一のカードもバーサーカーの相手に既に切ってしまった。ホームズはアーチャーが名乗ったところで興味をなくし、さっさと勝手に退場している。いたところで役に立つとは思えないが、せめて令呪の効果がある内は現界して欲しいところではあった。本人の意志を無視したサーヴァントの召喚はできても、発動した令呪の止め方や新たに別のサーヴァントを喚び出す方法をファルデウスは知らないのだ。いないよりかは多少マシであろう。
 降参ですと手を挙げるファルデウスであるが、その目に敗北の色は見えない。
 フラットがバーサーカーを後方に引きずっていったので、この場で邪魔者はファルデウス一人だけ。ヘタイロイの攻撃準備はここに整っていた。即席の部隊であるために練度は低いが、それを補って余りある宝具の数がここにある。
 後は、アーチャーの指示ひとつだけで開始することができる。
「下手な芝居は止してくれ。君はここに誰かが複数回襲撃することを予測していた。だからこそ、この脱出不可能な檻に自分から入ってきたんだろう? 襲撃が一度だけなら、そこの東洋人を置いてオートで対応できるようにすればいいだけだからね」
「まるで私にまだ奥の手があるような言い方ですね」
「あるだろう、その右手に、一つだけ」
 言い放つアーチャーにファルデウスは視線すら動かさない。
 ランサーの現マスターとして、ファルデウスには一度限りの絶対命令権がある。確かに奥の手と呼ぶべき代物だが、この状況で一体どんな命令をしようともアーチャーとヘタイロイを排除することはできやしない。
 それに、現在ランサーはアサシンとの戦闘で消滅こそしていないものの、消耗が激しい。パスを通じてそれが分からぬファルデウスではない。
「これは奥の手というより定石というものでしょう。……ああ、そう言えばランサーは君の親友でしたね。なら、彼を人質に取るという搦め手もありますね」
「今ここで思いついたような手段を安易に取らないで欲しいね。ボクは退屈な時間が殺したいほど嫌いなんだよ。最初から君がしようとしていることは分かっている。君を殺さない理由は、それを使う時を待っているだけだと自覚して欲しいね?」
 その視線だけで、アーチャーはファルデウスを牽制する。
 殺そうと思えば、いつでも殺せる。ファルデウスを串刺しにすることは難しくはないが――それでも、面を向かって相対している以上、令呪を使う方がわずかに早い。
 だから、早く使えとアーチャーはファルデウスを急かす。
 令呪を使えと、脅しをかける。
「言っただろ。僕の目的は、この戦争を終わらせることだ。それこそ、次なんてありえないくらいに、徹底的に。君たちに敗北というものを教えてやる」
 それが、英雄王の決定。
 署長は、勘違いをしている。アーチャーはプランBの続行など、欠片もするつもりはない。抑止力としてわざわざ召喚されてまでやることがたかが封印の強化などと、そんな自分を貶めるようなことを許すわけがない。
「仕方、ありませんねえ……」
 やれやれ、と挙げていた右手を裏返し、そこにある令呪をアーチャーへ見せつける。
 たった一画限りの命令権。アーチャーとしては友であるランサーを勝手に操られるのは腹立たしい限りだが、それは子供の姿となったことでなんとか押さえ込むことができている。
 令呪の魔力が解放された。
「令呪を以て命じる――ランサーよ、“偽りの聖杯”を解き放て!」
 その瞬間、ランサーの創生槍が分厚い岩盤を貫き現れ、《方舟(オリジナル・ノア)》へと突き刺さる。

 《方舟(オリジナル・ノア)》が、砕け散る。


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 奇しくもその瞬間、キャスターは何とかスノーホワイトの制圧に成功させていた。
 ジェスターによって周囲は物言わぬ骸骨だらけ。そのジェスターの姿ももはやない。ランサーをけしかける真似をしてくれやがったが、ジェスターは最低限の仕事は約束通りに行っていた。ジェスターの協力がなければ、キャスターはスノーホワイトに辿り着けず、その制圧もできなかったのは間違いない。
 だからそれはギリギリ間に合った、といっていいタイミングだった。
 戦闘によって多くのモニターは半壊していたが、生き残ったモニターを埋め尽くすように赤色の『警告』が出現し、サイレンが警報を発した。スノーホワイトに何か仕掛けられていたのかとキャスターは疑うが、その可能性は意識せずとも分かるおぞましくも尊い神気の波動によって否定される。
 同じサーヴァントであれば如実に分かる、格の違い。
 これは、生半可な存在ではない。王であるアーチャーや神の宝具たるランサーだってこれと比べれば可愛いもの。
「これは《方舟(オリジナル・ノア)》が破られたな」
 キャスターがその存在がある方向を睨み付ける。
 瞬間、基地全体が大きく揺れた。
 本来霊質(アストラル)にしか作用せぬ神気が、あろうことか物質(マテリアル)にまで影響を及ぼしている。震度こそ大したものではないが、震源のエネルギー量は半端ではない。
『――おいキャスター、大丈夫か!?』
「兄弟か。こっちは大丈夫だ。無事にシステム制圧完了した。それよりもこの状況、気付いているよな?」
『誰が兄弟だ。それはともかく、これはどうやら最悪の事態になっていそうだな』
 署長が見ているであろう監視カメラに手を振りながら、キャスターはスノーホワイトの全システムを掌握するべくコンソールにコマンドを打ち込んでいく。
 ファルデウスが予め仕掛けておいた自爆システム、通信システムを一瞬で復元。パワードスーツ部隊には緊急停止信号を送信。モニターを確認すればライダーと戦闘中の全パワードスーツが停止し、電池として利用されていた虚ろな瞳の搭乗者が緊急脱出(ベイルアウト)によって外へ投げ出されていった。
 これでライダーは時間稼ぎの必要なく、脱出に専念することができる。
「フラットから聞かされた話だと、ヘタイロイ本隊が“偽りの聖杯”に突入してる頃合いだったな」
『だとすると私たちは一杯喰わされたのかもしれん。奴らの目的は最初から“偽りの聖杯”の破壊か。“偽りの聖杯”の状況は分かるか?』
「残念ながらモニターはできんな。サーモセンサーによる熱源感知と振動感知が精一杯だが、どうやら《方舟(オリジナル・ノア)》は崩壊したようだな。資源観測衛星(ランドサット)からも高重力子の崩壊が確認されたようだぜ?」
 スノーフィールド全域に関わる情報をスノーホワイトがすぐさま取得し偽装する。だがそれにだって限界はある。整合性を考えるとどうしても不自然さが残ってしまう。普段であれば問題にならないだろうが、今は“上”が全力で監視中だ。その眼からはいつまでも逃れることはできない。
『……聞かされていた内容とは異なるな』
「やっぱり気付いたか。この観測データはちょっと誤魔化せるレベルじゃねえな」
 先の振動といい神気もそうだが、事前に“上”からもたらされていた封印方法とその出力数値が大きくかけ離れていた。
 具体的には、三桁ほど。
 《方舟(オリジナル・ノア)》による封印が強すぎる。いくら“偽りの聖杯”が世界を滅ぼしかねないとしても、この出力は明らかに異常過ぎる。ここまで過度な封印を施されれば、“偽りの聖杯”が封印解除の衝撃でそのまま壊れかねない。
 こちらとしては望むべくもない展開であるが、“上”がそんなことを仕掛けているとは考えにくい。となれば、仕掛けた人間は一人だけ。
 ファルデウス――あの男は一体何を考えている?
『悪いが“偽りの聖杯”と《方舟(オリジナル・ノア)》に対するログを転送してくれ、奴が何をしたのか確認が取れなければ動くに動けん』
「アイサー兄弟。なら、こっちもこっちで色々と仕掛けておくか」
 スノーホワイトが手に入ったのなら、ありとあらゆることができる。肝心の“偽りの聖杯”には何の手出しもできないが、情報を仕入れ動きやすいようサポートはできる。万が一にも備え、基地からアクセスできるオンライン兵装システムのヴァージョンを最新データからアップデートを行っておく。
 それと、既存のプログラムをひとつ呼び出し、少々設定を変更しておいた。
「それでどうする? プランBは引き続き継続か?」
『それは英雄王次第だが、プランCとDはいつでも実行できる状態にはしておく。基地内の脱出警報は煩わしいだろうがそのままにしておけ』
 基地内モニターを確認すれば、ヘタイロイ陽動部隊は全力で後退し、ライダーは市民の脱出を手伝い、ティーネとアサシンが手足を失い黄金に輝くランサーを連れて脱出している最中だった。
 うまくいけば、犠牲者は六〇万程で済むかもしれない。
 二〇万人も助けられるのだ。これは奇跡と言っても過言ではない。
「ただし、その中に俺は含まれなさそうだな……」
 ここをキャスターが離れれば、スノーホワイトはその制御を失いかねない。大まかな制御はできても微調整をするにはまだまだ人の手が必要なシステムなのである。“上”に却下されたが魔導書の精霊を利用した制御システムを準備しておくべきだったのかもしれない。
「せめて最終決戦を見られればまだ良かったんだろうけどな」
 ぼやきながら、どうにか第九層の様子を見られないかセンサー類の調整を行うが、どう頑張っても観戦することはできそうにない。
 もっとも、大まかな動きは分かるので戦況くらいは判断できる。熱源と振動から解析された九層の戦力図は静止画として数秒毎に更新されていく。全長五メートルほどの“偽りの聖杯”を取り囲み一方的に攻撃している様は、卵子に群がる精子のように見えた。
 画像を見る限り、“偽りの聖杯”は反撃している様子がない。《方舟(オリジナル・ノア)》崩壊のダメージが深刻で動くことすらできないのか、自らの回復を待っているのか。このまま倒される可能性も否定できない。
 これはもしかすると本当に倒してしまうのではとキャスターが考え始めた頃。
『キャスター!』
 悲鳴にも似た署長の声が聞こえた。「どうした?」などとキャスターが応じる暇もなく、
『基地の自爆システムを起動させろ! 今すぐに、だ!』
 最大級の措置をするよう命令してきた。
「どうした、何があった?」
 そう言いながらもキャスターはマスターの言う通りにシステムを起動、起爆まで六〇〇秒のカウントダウンが開始される。本来ならもっと厳密な手順を踏むべきだろうが、スノーホワイトに任せればそんなモノは一気に短縮できる。
 自爆システムと称されていても、ここは街中の秘密施設に過ぎない。第八層の柱を一斉起爆させることで自重により内部へ崩壊が伝達する仕組みである。周囲一帯を巻き込む派手な爆発はなく、地表部が大きく陥没するだけである。それでも、中にいる人間は助からない。
『こいつを見ろ』
 相手が応じるわずかな時間で署長はキャスターに先ほど送った《方舟(オリジナル・ノア)》のログを指し示す。
 方舟の断片から作り出した《方舟断片(ノア)》ならばキャスターはその機能までよく知っているが、肝心のオリジナルについて知っていることは少ない。何故ならキャスターに寄越されたのはその断片だけ。オリジナルについてはキャスター召喚以前から“偽りの聖杯”の封印に使われており、手出しができなかったのである。
 故に、ログに「+4Y」などあってもその意味が分からない。
『《方舟断片(ノア)》は時間操作を限定化させることでその汎用性と使用を簡便にできるのが特徴、だったな?』
「ああ、時間停止を諦め、時間遅延のみを再現させた」
 昇華というにはあまりに性能が落ちているが、それでも大魔術の域にあるものをこうも容易く行えたのはキャスターの功績である。これはこれで十二分にオリジナルを上回っている。
『反対に《方舟(オリジナル・ノア)》の特徴は出力がピーキーで使い勝手が悪い代わりに、時間の進み具合をどのようにも操れるというものだ。だからこそ、“偽りの聖杯”は時間の檻の中に入れられていると聞かされ納得していた』
「だが違ったと? なら何が行われていた?」
『そこにある「Y」は「year」の略だ。「+4Y」とあるなら、それは内部時間で四年の歳月が過ぎたことを意味している』
「時間停止でなく時間加速……? それに何の意味がある?」
 ログを辿っていけば、つい数日前まで「+0S」とある。Yが年ならSは秒ということか。「+0S」が続いている限り、内部の時間は停止していることを意味している。それが、ある時期を境に急激に変化している。
 丁度、ファルデウスがここの実権を握った頃合いだ。
「ん? いや、チョット待て。これ、単位がおかしくねえか?」
 ログには「+2Y」や「+9Y」とその数字は安定していないが、これが一秒毎に行われている点においては共通している。
 毎秒、数年間の時間が《方舟(オリジナル・ノア)》の中で経過していることになる。それがおよそ七〇時間に亘って計測されていた。
 内部経過時間は、およそ――四〇万年。
 その余りの果てしなき時間の流れにキャスターも絶句する。
 いくら封印されその意志が奪われていようとも、四〇万年は余りに酷い。それだけの時間に身体が耐えられるとも思えないし、封印から解放されたところで現実との時間の齟齬は回避しようがない。こちらが何をするまでもなく、世界からの修正により“偽りの聖杯”は風化を通り越し一瞬にして塵と化しかねない。
『西暦四二八八九九年、だ』
「……一体それは何だ?」
『“偽りの聖杯”と呼ばれているその英霊が降臨する、と言われている時代だ』
 その時代を指して末世(カリ・ユガ)。
 言葉通り、世界の終末とされる時代。
 そんな時代に合って必要とされる英霊が何をするのか、そんなことは決まっていた。
「成る程。世紀末覇者ならぬ末世覇者というワケか」
『これで、ファルデウスの狙いははっきりしたな』
 キャスターは“偽りの聖杯”の中身について聞かされてはいない。
 けれども、そんな運命を背負わされている英霊など、一人しかいない。
 彼はヴィシュヌ一〇番目にして最後のアヴァターラ。
 白い駿馬にまたがった白い馬頭の巨人の姿で現れる。
 ヒンドゥー教においては乱れた身分制度(カースト)を正し、世界の秩序を回復する存在であり、仏教においてはカースト制を破壊し、衆生を救いシャンバラに君臨する聖王である。
 末世(カリ・ユガ)の最後、西暦四二八八九九年に降臨し、この世の全ての悪を滅ぼして、黄金時代(クリタ・ユガ)をもたらす破壊者にして救世者。

 その名を、カルキ。
 世界を終わりに用意された英雄である。

『ファルデウスの狙いは、この世界を終わらせることだ』


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 その一撃は、天をも貫く一条の光となって顕現した。
 基地に施された九層の結界はひとつひとつが特別かつ超一級の城壁だ。九重に張り巡らすことで『宮中』と『九』『十』の二つの意味を含有させ言霊による結界増幅の役目を担っていた。例え聖剣クラスの対城宝具であってもおいそれと貫けるものではなく、最新式の地下貫通弾(バンカーバスター)であっても弾き返しかねない強度を持って設計されている。魔導建築学の新たな一面を感じさせるような設計者の涙ぐましい努力と考え抜かれた工夫がそこにあった。
 そんな汗と涙と技術の結晶が、露と消えた。
 蓄積された現代技術など役に立たなかった。
 伝承された魔道の秘技も無為と消えていく。
 その光景を見た者は一体何を思ったのか。
 間近でこれを見ていたフラットは数分をかけてようやく立ち上がった異形の巨人がゆっくり剣を頭上に掲げたのを確認した。それから後に何があったのかは分からず、衝撃が感じられないのに強烈な光が迸ったことで一時的に視力を失った。
 地上で脱出者を誘導していたヘタイロイの一人は光の柱が突如出現したように見えた。それが果たして上空から降ってきたのか地から沸いてきたのかすら判断がつかない。ただ神々しい光と呆然と立ち尽くす。
 戦場となった基地から遠く離れた位置で待機を命令されていたレギヲンの狙撃手(スナイパー)は、この光の柱をSOL(Stallite in orbital laser-weapon)、衛星軌道から放たれた超高出力レーザービームと判断していた。やや現実味に欠ける発想ではあったが、彼は万が一の可能性に躊躇なく次に訪れるであろう衝撃と爆風に備え地に伏せた。
 高度四〇〇キロメートルの衛星軌道上にある国際宇宙ステーション常駐の宇宙飛行士は、アメリカ大陸から一条の光が突き刺さるように放たれていることに気がついた。今まで見たこともない光景に彼は目を疑い、すぐさまヒューストンへと連絡を取ったが、気のせいであるとの結論に達した。軌道上から目視できるほどの光条であれば熱量を確認できる筈であり、大気にも無視できぬ影響がある筈だ。宇宙飛行士は首を傾げて再度アメリカ大陸上空を確認するが、雲の動きにも不自然な点を確認することは敵わなかった。
 そして。
 その現象を起こした英雄は静かに上空に掲げた剣を下ろした。
 長さ三メートルはあろうかという大剣は根元よりも切っ先が太く、幅も広い。畸形ではあるが、それよりもその剣を使う英雄の方がもっと異形であった。
 全高およそ五メートルはあろうかという巨人。伝承では白い駿馬にまたがるとあるが、ケンタウロスの如く馬の首から上が人間の上半身に置き換わっている。頭部も馬というよりはでき損ないのスライムのようになだらかであり、本来眼球がある筈の場所には漆黒の穴が空いているだけ。そこに知性があるようには思えない。
 誰もが直視した瞬間に、この存在を理解する。
 これが、世界に終わりをもたらすために用意された存在。
 終末英雄カルキ。
「■■■■――!」
 カルキが空へと咆える。
 そう。空だ。
 カルキの頭上にあるのは無機質な岩盤などではなく、空だった。
 それは一体どんな理屈なのか。
 一撃で九層の結界を打ち破るだけならば、アーチャーの乖離剣だって可能だ。威力という見地からみれば、可能であるに違いない。だが威力以外を考えれば、そんなことは不可能だ。
 何かに何かが干渉する時、そこには必ず相互作用が生じる。一方が受ける力と他方が受ける力は向きが反対であり、その大きさは等しい。俗に作用・反作用の法則と呼ばれる原則である。
 だが、その反作用がここにはない。
 放たれた一撃は確かに九層の結界と厚い岩盤を食い破ったが、ただそれだけ。地下の閉鎖空間でありながら、強大な衝撃波が周囲を荒れ狂うこともなければ、消滅した空間によって生じる莫大な空気の流動すらもない。光の柱が大気圏外まで出現させたというのに空には未だ雲がある。
 万象を切り裂きながら、破壊だけを行うわけではないのだ。破壊した後の再生までこの一撃には込められている。
 これが、救世剣ミスラ。
 友情と契約の神の名を冠する、破壊と再生を両立させる救世の力。
 基地の切断面を見れば、綺麗な円を描いているのが分かる。基地の結界はまるで機能しておらず、物理的にも魔術敵にも完璧なその防御がまるで意味を成していない。今は頭上に放たれたが、平地でこれを横薙ぎにされれば見渡す限り均された平地ができ上がることだろう。
 そんな破格の力を、あろうことかこの英雄は数百にも及ぶ宝具を身体に突き刺さったままに、天井に向けて放ったのである。

 カルキは、傷ついている。

 元より、彼は聖櫃から解放されたばかり。謂わば、生まれたての赤子に近い。そんな状態で《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》に囲まれ、《天の鎖(エルキドゥ)》により縛られ、《王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)》から射出される宝具を浴びせられる。加えて、カルキの身体は四〇万年という時間流の誤差から破滅そのものといえる“世界による修正”を受け続ている。
 生きているのが不思議という段階ではとうにない。
 存在していること自体が有り得ないレベルなのだ。
 いつ消滅しても、おかしくない。
 それなのに、カルキはその剣をアーチャーや《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》に向けようとは欠片もしなかった。
 つまりは、カルキにとってヘタイロイの攻撃は何の障害にもなり得ない。英雄王という英霊の頂に立つ存在ですら、カルキから見ればそこらの塵芥と同列に扱われるべき存在に過ぎないのだ。
「巫山戯た、真似をしてくれる」
 そんなカルキを憤怒に満ちた視線で睨み付けるのは、霊薬を飲み元の姿へと戻ったアーチャーである。
 かつてない屈辱を感じながらも、アーチャーは動けない。否、自らの意志で動こうとはしなかった。
 最初の英雄がギルガメッシュならば、最後の英雄こそがこのカルキ。その実力は互いに他の英雄英霊を圧倒している。常人から見れば共に見果てぬ雲の上の存在だが、雲の上であっても優劣はある。逆にギルガメッシュが居る高みだからこそ、カルキと己との実力差を如実に感じていた。
 カルキの存在理由は世界を終わらせることである。そのためにカルキは想定される世界人口と真っ正面から相対できるだけの魂の総量を持っている。その量、およそ一〇〇〇億。現在は大幅に弱体しているとはいえ、それでも一億近い総量を持っている。ギルガメッシュですら数十万だということを考えれば、どれだけ絶望的な差であるかわかるというものだ。カルキがギルガメッシュを無視するのも当然であろう。
 とはいえ、ここで乖離剣を抜き放てばさすがにカルキも無視はできまい。だが、それによってできることといえばそれだけに過ぎない。
 乖離剣と救世剣がこの閉鎖空間でぶつかればどうなるのか分からない。出力負けするなどとは思わないが、直撃せぬ限りカルキを仕留めることは不可能。その上で周囲にいるヘタイロイは余波だけで確実に全滅する。
 怒りが逆にアーチャーの思考をクリアにする。
 頭上が吹き抜けになったことで戦場を移す選択肢が増え、状況的にはむしろ良くなった。救世剣の威力と特性が見られただけでも十分。カルキがヘタイロイを歯牙にもかけぬのならそれを利用してやれば良い――
「――? なんだ?」
 こうしている間にも、攻撃の手は止んでいない。
 カルキ本体にダメージはないが、その表面を覆う鎧のような体表には確実に罅が入りつつある。突き刺さる宝具が再生と共に体外に排出されるが、その傷口まで塞ぐまでには至っていない。
 それでも何の反応もなかったカルキが、何かに気付いたように、動いた。
 カルキが頭上を見上げる。
 天井をわざわざ貫いたのだから、そこから外に出ようとするのは当然の行為であるが、カルキの行動にはそれ以外のものがある。
「――アレは」
 アーチャーがソレを視認する。
 驚くべきはアーチャーのクラス特性で強化された視力より、カルキの直感が優れていたことか。
 カルキが、地を蹴った。
 巨人の跳躍はただそれだけで周囲のヘタイロイを薙ぎ倒し、地下二〇〇メートルから上空一〇〇メートルまで軽々とその身を移す。この急加速にカルキの全身にまた罅が入り込むが、それを気にする様子もない。いや、気にしている暇などないのだ。
 カルキにしても、アーチャーの乖離剣、ランサーの創生槍を前にすれば無視はできない。無視できないレベルの存在がそこにある。だからこそ、カルキは跳躍し、迎撃のために救世剣を構え、放ち、そして、

 堕ちた。


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 その聖櫃が発見されたのは西部開拓時代に遡る。
 ゴールドラッシュに沸いた当時、スノーフィールド北部丘陵地帯の岩場はすでに穴だらけであったこともあって、幸いにも好きこのんで手出しする者は少なかった。しかし道が開拓されたことでスノーフィールドに金以外を狙う者が現れる。それは魔術師などではなく、この地を欲したただの政府の役人であった。
 閉鎖的な環境の未開文明。狙いどころとしては格好の獲物であろう。
 当時のスノーフィールド原住民にとって不幸だったのは、彼等を明確な敵と認識していなかったことにある。彼等によってもたらされた現代文明の一端は魅力的であり、その瞬間が訪れるまで彼等は友好を結ぶべく努力すらしていた。
 そうして、彼等はスノーフィールド奥深くに封印され祀られている巨大な聖櫃を発見し、そして無知蒙昧なる彼等はあろうことか聖櫃を開けて中を確かめてしまった。
 ここでの被害は、記録に残されていない。
 ただ、原住民達が総出で封印に当たり、その大半が死亡した。
 抑止力とみられる存在が出現し、中の英雄を“どうにか”した。
 これらの事実を暴きながら生き残った恥知らずが政府へと報告した。
 その後、原住民を裏切り騙し欺いて、米国政府はこの聖櫃を手中へと収めた。聖櫃のための研究機関を秘密裏に設立し、方々手を尽くしてそのために調査と封印を専門とする魔術師を世界各地から見つけ出し、引き抜いてきた。
 計画は一〇〇年以上前からスタートしていた。
 それでありながら、彼等は結局何も理解してはいない。
 封じられた英雄が本当にカルキであるかのか確証すら得ることができていない。
 彼等が必要としていたのはこの聖櫃を利用することで英霊が呼べるという一点だけ。
 その中身の興味など、最初からなかったのかもしれない。
 だから、その英雄が聖櫃から解放された時、何が起こるのか米国政府は理解していなかった。
「――これは全て、君たちの仕業かね?」
 砂嵐となったモニターをそのまま見ながら、大統領は静かに言葉を紡いだ。
 つい先ほどまで、彼は署長と直接連絡を取っていた。
 裏切り者と目されていた人物との直接交渉。本来ならしかるべき順番で報告は伝わってくる筈だが、事前に送られたデータからその手間が省かれている。青ざめた顔で報告してきた計画遂行の幹部連中は、場合によっては比喩としではなく物理的に首を斬る必要も出てきていた。
「あら、何のことかしら?」
 やはり優雅に紅茶の香りを楽しみながら、白い女は気付かぬ間にそこにいる。
 署長との通信も聞いていた筈だというのに、その表情には何の変化もない。
「惚けるな。これを聖櫃の破壊を仕組んだのはお前たちアインツベルンだろう」
 大統領の糾弾に平然と白い女は紅茶を一啜りする。
 署長からの通信によると、本計画でもっとも危惧すべき状況に陥りつつあるらしい。犯人はファルデウスなる現場司令官。彼はその権限から米国が後から施した封印である《方舟(オリジナル・ノア)》を悪用。発見当時から英雄を封印していた聖櫃を破壊し、中の英雄を解き放ったらしい。
 それ以上の詳細は通信途絶により不明。
 ヒューストンから光の柱が現れたとの報告もある。件の英雄が何かをしたのは明白だった。
「濡れ衣だわ。そのファルデウスとかいう者が暴走した。ただそれだけのことでしょう?」
「現場の創意工夫だけでどうにかなるものではない。事前の準備がなければそんなことはできるわけがない」
 実のところ、彼等がどのようなことをしようとも、聖櫃の機能に何の影響も与えることはできていない。
 聖櫃はあらゆる干渉を拒絶する。どのような方法をもってしても傷つけることは敵わず、蓋の開閉以上のことを許さない。それがどのような原理によるものかさえ、科学でも魔術でもついに解き明かすことはできなかった。
 これだけの年月をかけて何の干渉もできなかったというのに、それをあっさり成し遂げられれば疑って当然。
 おまけに《方舟(オリジナル・ノア)》はその断片を解析したキャスターでさえ詳細を解明できなかった宝具だ。そんな詳細不明であやふやなものを数十年も前から保険と称して使用していたとなれば、これは余りに不可解。
 この状況にあって聖櫃破壊に使われたと聞けば、最初から仕組まれていたと考えた方が余程しっくりと来る。
「このカラクリを仕掛けるには相応の協力者は必要だ。なら、その容疑者の筆頭が誰か、言うまでもないだろう」
 大統領はこの計画の後任に過ぎない。
 政府主導の秘密計画と言えば聞こえはいいが、魔術を解さずその時々の情勢に動かされる歴代大統領がこれに何か意見することができる筈もない。蚊帳の外に置かれた神輿という立場は、歴代大統領全員に当てはまる。
 その全員に、アインツベルンは秘密裏に接触してきたのだろう。
 自分と同じように。
「……仮に、ですが」
 カップをソーサーの上に静かに置き、白い女が冷たい――というより温度を感じられぬ視線を大統領へと移す。
「我々が犯人であったとして、何か問題でも? 契約違反だと騒ぎ立てますか?」
 まさか、と大統領は大仰に首を振る。
 既に抜き差しならぬ間柄。どちらが利用し利用されようとも、それは自己責任というものだ。ここを御せぬようなら大統領どころか政治家を辞めてしまった方が良い。
「我々は一蓮托生だ。私は君たちアインツベルンを擁することで周囲に惑わされることなく動くことができる。君たちは、私という駒を利用して大手を振って聖杯戦争の黒幕を演じれば良い」
 大統領の発言に白い女が反応することはない。しかしその視線は相変わらず大統領の顔に張り付いたままにある。
「我々があなたを惑わしている可能性を考えないのですか?」
「君たちは私の期待に応えてくれた。成果について騙しているのなら考えるが、それ以外について何か制限をかけたつもりもない」
 大統領の言葉を最後に、互いに見つめ合う。
 探りを入れているというよりは、互いを確認し合う風でもあった。
 互いが裏切ることなど両者が考えていよう筈もない。
 最初から信用していないのだ。裏切りなど起こる筈もない。
「なら、大統領。これから如何するおつもりで?」
 試すようなアインツベルンの口ぶりに、大統領は窓の外を眺め見た。肉眼で確認することは敵わぬだろうが、もしかしたら大気圏突入の光くらいは見えるかもしれない。
 米国政府は英雄が聖櫃から解放された時、何が起こるのか理解していない。
 だが、理解していないことは、理解していた。
 だから、そのための手段は講じていた。
「では、アインツベルン。君はスターウォーズ計画というものを知っているかね?」



 一九八三年、時のレーガン政権より打ち出されスタートした米国の戦略防衛構想――通称、スターウォーズ計画。大陸間弾道弾を軍事衛星で打ち落とし、核の無力化を図ったこの大胆な計画は、冷戦終結と共にその意義を失い、技術的問題をクリアできずに自然消滅していった。
 ――と、言われている。
 確かに計画そのものは終結したが、それらの基礎技術は後世へと形を変えて受け継がれ、生き残っている。この“偽りの聖杯戦争”にも当然その技術は流用され、新たな形を得た衛星軌道兵器を完成させていた。
 宝具開発コード《フリズスキャルヴ》。
 キャスターが作った三つの最高傑作の一つであり、その名は主神オーディンが座す高座から取られている。
 だが、神話に描かれる全世界を見渡すことのできる、という機能はそこにはない。高座である以上そこに攻撃能力などあるわけもなく、衛星としての機能は全て現代技術によるものである。
 唯一、キャスターが《フリズスキャルヴ》に与えた機能は、持ち主を錯誤させる偽造認証の一点のみ。宝具というのは使用者やその状態によってその威力や性能が少なからず変動する。キャスターはその性質を逆手に取り、所有者を偽りながら高度に比例して神性が増すという認識をその宝具に与えている。
 《フリズスキャルヴ》には、ある宝具が搭載されている。発掘されはしたものの、この世の誰にも扱うことのできぬ宝具を使用するためだけに、この宝具は特化させられている。

 搭載されている宝具の名は、《大神宣言(グングニル)》。
 主神オーディンが持つ、必中の呪いを持つ神槍である。


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 例え現在がいつであったとしても、カルキ自身は四〇万年の月日を経てこの地に降り立っている。時間の齟齬は彼にとって斟酌するものではなく、己の使命を全うしない理由にはならない。また世界側にしてもカルキが用意されている存在である以上、聖櫃から解き放たれた段階で抑止力を働かせることはない。
 ここで世界の終焉は決定されたようなものだった。
 抗える手段など、本来ならどこにもない筈だった。
「■■■■■■■■■――ッ!!!!!」
 中天で《大神宣言(グングニル)》に貫かれたカルキが、始めて苦悶の聲を響かせた。
 衛星軌道上にある《フリズスキャルヴ》から投擲された《大神宣言(グングニル)》は通常弓なりに描く軌道をあろうことか直進していった。大気圏突入に赤熱こそするものの、そこに存在するあらゆる物理法則を神槍は嘲笑う。
 この神槍を防げる手段など、この世のどこにもない。
 おそらく最大威力で放ったであろう救世剣による迎撃も、迎撃不可能という概念を形とした《大神宣言(グングニル)》にあっては意味がなかった。再度放たれた極大の光の柱に包まれながら、神槍は目標を誤ることなく光の速度で打ち貫いていた。
 驚愕すべきは、カルキのその頑強さか。
 対界宝具である乖離剣と違い、《大神宣言(グングニル)》が対象とするのはあくまで個人。受けた瞬間に塵すら残さず消滅する威力でありながら、カルキは未だに原型を留めている。
 破壊の衝撃が再生によりキャンセルされる救世剣とは違うのだ。例え受け止め耐えていたとしても、神槍から伝わる衝撃はカルキを身体の中から打ちのめす。カルキの咆哮は体内で暴れた衝撃を外へと伝播させる意味もあったのだ。
 瞬間。
 爆音に等しい衝突音が大気を震わせた。
 空間の歪みをはっきり視認できる威力が全周囲に撒き散らされていく。
 上空一〇〇メートルとはいえ、ここはスノーフィールド市街地、しかも中心部である。カルキという緩衝材があったとはいえ、その威力は想像を絶して余りある。周囲のビルは衝撃に耐えきれず倒壊し、地面はクレーター状に抉れていた。
 弾道弾を確実に迎撃する防衛兵器として表向き設計されてはいるが、同時に核をも凌ぐ威力を備えた攻撃兵器であるのも周知の事実。スノーフィールドどころか、世界最大の人口と規模を誇る東京圏ですら一瞬で消滅させる威力も持っている。大量破壊兵器など、この神槍の前には霞んで見える。
 これが、米国が自信を持って“偽りの聖杯戦争”を実現させた理由。
 迎撃するには神槍を上回る神秘が必要であり、必中の呪いは誤差をミリ単位で許さず、神や巨人、最強の竜種ですら一撃で滅ぼせる威力がここにある。
 おまけに、この神槍は命中後、敵に奪われることすらなく自動で持ち主に帰る機能を持っている。
 この攻撃手段を、米国は何度だって使おうと思えば使えるのだ。
 一撃目で倒せないのなら、二撃目を出せば良い。
 二撃目で倒せないのなら、三撃目で仕留めれば良い。
 攻撃は理論上無限に行える。
 これに耐えられる存在など、この世のどこにも居はしない。
 カルキといえど、例外ではない。この威力の宝具をこの状態のまま再度受け止めれば、確実に消滅させられる。
 神槍を受け止めたカルキの身体は、無様に地へと堕ちた。ここまでくれば、もはや罅程度の損害では済まされない。大きく開いた傷口から血飛沫の如く肉片が撒き散らされ、身体の欠損は著しい。ただでさえ異形な姿が更なる異形へと歪められる。
 ここで、決着は付いた。
 カルキには、世界を終わらせるだけのありとあらゆる能力が付与されてある。
 救世剣の圧倒的な攻撃能力は無論として、あらゆる物理攻撃を凌ぎきる頑強さと神代の時代の魔術でさえ無効化する対魔力。どんな抵抗であっても即座に対処できる超直感とそれを可能とするスキル群。
 だがそれも限界だった。
 本来であればこうした事態に備えて瞬間回復めいた自己修復能力や蘇生能力も有しているが、それを下支えするための魔力が彼にはない。《方舟(オリジナル・ノア)》により強制的に加速された時間流では、本来なら蓄積されていた四〇万年分の魔力をカルキは得られていなかった。
 度重なる策に、最終英雄は敗れた。
 破格と評してもまだ生温い例外にして規格外の最終英雄が、ついに膝を屈した。
 この事実を知れば、大統領は喝采して喜ぶことだろう。協会と教会が手を組み総力を挙げたとしても、かの英雄を止めることなどできやしない。
 本計画は、失敗の代わりに十分すぎる成果を得た。
 米国は今後“偽りの聖杯戦争”を開催することは不可能となったが、世界を手玉に取れる情報制御能力と、最終英雄でさえ討ち滅ぼせる脅威を協会と教会に見せつけることに成功した。
 この成果で歴史に名を残せないのは残念だが、これを礎に数十年後に世界は合衆国にひれ伏すことに間違いなかった。
 もっとも、この判断には無視できぬ誤算がある。
 神槍がカルキの体内で蠢いた。
 その真価を存分に発揮させた神槍は、己の役割が全うされたことを正確に把握していた。迎撃を阻止し、確実に当たり、その威力を敵に打ち込んだ。後は、持ち主の元へと帰るのみ。
 だというのに。
 神槍は、動かない。
 否、動けない。
 神槍はカルキの胸を貫いているが、貫通しきっているわけではない。神槍が帰るためにはカルキの身体から抜け出す必要があるのだが、それをカルキは胸の肉を盛り上がらせ力任せに押しとどめる。神槍を壊すことこそできないが、このままカルキの体内にあり続ける限り、神槍は《フリズスキャルヴ》に戻れない。
 再度の攻撃をカルキは許さない。
「■■■■」
 カルキが動く。
 もはや立ち上がるだけで身体の崩壊は進んでいく。
 確かにカルキの消滅は免れない。あと一度神槍を放たれれば避けることもできず、受け止めることも敵わない。
 逆に言えば、この神槍を放たれなければ、あと一〇分は保つ。
 それだけあれば、世界を終わらせるのはまだ可能だった。


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 カルキに挑んだのは、一つの影だった。
 黒く暗い、闇底に堕つる影のように頭上よりアサシンは現れ出でた。
 回想回廊を用いてティーネとランサーを連れていち早く基地を脱した彼女は、その勢いのままにカルキへと挑む。
 召喚された六体のサーヴァントでただ一人だけ、最初から“偽りの聖杯戦争”を壊そうとしていたアサシンだ。元凶を目の前にして挑もうとするのに不思議はないが、そのタイミングと方法は誰が見てもあまりに無謀だった。
 救世剣の一撃と神槍の衝撃で周囲一帯に身を隠せるような遮蔽物などどこにもない。頭上であろうとも、直感だけで神槍を感じ取ったカルキがアサシンに気付いていないとも思えない。
 おおよそ全ての英雄英霊の頂点に立つアーチャーでさえ、無謀と断じ正面から相対するのを避けた相手を、あろうことか格下のアサシンが実行してみせる。
 彼女は暗殺者である前に、狂信者だ。
 機を窺うなど悠長なことはしない。カルキの強さなど関係ない。カルキが弱っていようとも関係ない。誰であろうと怖れる者などどこにもいない。神が造りしこの世界を壊し、神を崇める信徒を滅ぼそうというのなら、狂信者として神の敵を前に躊躇する暇などあろう筈もない。
 ここに至って、カルキは頭上のアサシンを仰ぎ見る。感情があるのかすら分からぬカルキだが、心なしその動きには苛立ちがあった。
 天地ほどの力の開きがありながら、今のカルキは弱り傷つき、そして時間がない。確かに塵芥程にしかアサシンを認識していないが、それでもここまで追い詰められれば無視するには大きすぎる塵芥である。
 カルキにとって今は一分一秒が惜しい。世界を壊すには救世剣を特殊な状態にして解き放つ必要があり、そのためには数秒の隙ができる。それを邪魔するだけの実力がアサシンにあるとカルキは判断した。
 だから、カルキは己の残り少ない寿命の内、貴重な一秒をアサシンのためだけに使う。
 終末に現れ最終決戦まで生き残る救世主だけあって、カルキはEXランクの戦闘続行スキルを持つ。核が傷ついた今もカルキが持つ本来の戦闘能力が失われることはない。アサシン相手であれば、一秒でも十分すぎた。
 重力加速も合わさって急速に接近するアサシンにカルキも応じてみた。地下より地上へと瞬時に移動した跳躍力を、足への負荷を考えることなく発揮してみせた。
 この巨体でこの加速と俊敏さは脅威の一言に尽きる。人間相手ですら満足な経験を積んでいないアサシンだ、巨人相手の間合いなど心得ている筈もない。案の定、急激に狂わされた彼我距離にアサシンは対応しきれず、彼女は必殺の一撃を入れるタイミングを完全に逸してしまった。
【……妄想心――】
 それでも、黒いローブからシャイターンの腕を取り出せたのはさすがと言うべきか。同時に写し取った武蔵の宝具“二天一流”で再度両腕に構えたナイフに過剰なまでの魔力を注ぎ込む。ナイフはすぐに壊れるだろうが、一瞬だけでも保てば良い。このナイフとシャイターンの腕で救世剣を受け止めるしかない。
 アサシンはその動体視力であっても銀閃にしか見えぬ一撃を、ナイフとシャイターンの腕は何とかかち合わせることに成功した。アサシンにとってそれは最善の防御方法であり、これより他に方法はない。
 だが、最大限魔力を込めたナイフも何の役にも立たなかった。本来の使い方ではないとはいえ、奇跡そのものであるシャイターンの腕ですら一瞬で消し飛ばされる。両の腕も一瞬で砕かれ、それだけの代償を払っても迫り来る剣はアサシンの身体を両断する未来を変えることはできなかった。
 わずかにできたことと言えば、剣の軌道を逸らすのが精一杯。
 胸を両断されるか、腹を両断されるかの違いだが、刹那であっても彼女は霊核の直撃を避け、その瞬間を生き延びることに成功した。
 成功しただけだった。
 ぐしゃり、と刹那の時が終わらされる。
 救世剣をカルキは片手で扱っている。片手でダメならば、もう片方を使うだけ。
 そこに卓越した技巧など何もない。力任せに行われたシンプルな方法に、アサシンは走馬灯を振り返る間もなくあっさりと、トマトを潰すようにその頭部を潰された。あまりに素早いその動きに気付くこともできなかったのかも知れない。
 時間にして、一秒未満。
 はっきり言って、時間稼ぎにすらなっていない。
 これが誰かとの連携というのであれば、あるいは役に立っていたのかもしれない。
 カルキは上空から襲いかかるアサシンに中空で迎撃した。胆力を込めるべき場所がないこの場にあっては機敏な動きはできず、両手はアサシンを仕留めるべく使われたことで次の行動には微かではあるがタイムラグが生まれてしまう。
 だが、その隙を突ける者はこの近辺には誰もいない。
 この場には、カルキとアサシンしかいない。
 カルキがそこまでを計算して動いたとは思えないが、直感的に最善の迎撃を選択している。正面衝突するように挑めば、どんな小細工を仕掛けられようとも圧倒的実力差だけで鏖殺できるのだ。
 彼女が狂信者で無ければ、こんな戦法など取らなかっただろう。
 しかし、忘れてはならない。
 彼女は狂信者であると同時に、暗殺者だ。
 正々堂々正面から、敵の虚を突いてみせる。
「■■■■」
 カルキが何を口走ったのかそれを理解する者はその場には誰もいない。
 果たして言語という概念があるのかすら疑問だが、それが“驚”を意味していることは確かだった。
 アサシンの割れた頭蓋から脳と脳漿が垂れ流れ、破裂し糸屑みたいになった目玉が揺れている。アサシンを仕留めたことは確かな筈。だというのに、その黒いローブから、更に二つの影がカルキの左右へ躍り出ていた。
 つい今し方倒した筈のアサシンが、同時に二体出現している。
 これが用意していた奥の手の一つ。
 アサシンが生前ついに習得できずにいた宝具“妄想幻像”。
 かのハサンは己が持つ多重人格をベースに複数個体の出現という奇跡を作り出したが、多重人格というベースを持たぬアサシンにそんな真似は不可能。狂信者がために己の強固な精神を分割する隙を彼女は持たない。自分には不可能だという思い込みもあって、アサシンは同時代に生きたハサンを目前にしながらこれまでその業を習得せずにいた。
 だがそれも過去の話。
 己の本質に気付いた彼女は、条件さえ揃えば“妄想幻像”は可能であると結論を出した。
 その条件とは、人格分裂。シャイターンの腕が無ければ“妄想心音”が実行できないのと同様に、この秘技は複数の人格を形成させなければできない。
 アサシンのように成長段階を終えた者が意識の分離を進めることは普通ならば有り得ない。ある種の記憶や自己感覚を変容させ、それを切り離すことなど、強固な精神の持ち主であればあるほど不可能だ。
 生前であれば不可能だった。だが、現代であれば不可能ではない。
 メスカリン系の幻覚剤を用いた自己洗脳。これによって人格分裂と類似する症状を意図的に発症させることができる。ライダーの“感染”を直に目にしてもいる。知識さえあれば実践できる。狂想楽園によりそういうことができることは確認済み。
 これから戦闘をするというのに意識を緩慢にする幻覚剤を摂取するとは自殺行為に等しいが、アサシンはこの無謀な特攻を、意義ある囮へと昇華させた。
 囮が機能し、術者が隠密状態になるのはせいぜい一秒。
 それだけで、十分な隙となる。
「■■■■――――!」
 カルキが叫ぶ。
 自らの知覚が及ばず、その上敵に背を触れられたことに危機を感じ取る。
 タイムラグがあるとはいえ、それでも限度がある。自らの背に沿わせるように返す刀でアサシンの身体を唐竹に両断してみせる。しかしそれできたのは一体だけ。

【……理想略取……】

 死の天使が、カルキの身体に刻まれた傷口から肉片を鷲掴む。
 そのまま肉片を抉り出そうと膂力を込めるがその瞬間に、アサシンの身体は突然に放たれた不可視の衝撃に宙へと弾き出された。
 これは魔力放出。
 自らの身体に直接手を入れられたことで、カルキの危機意識は最大限に達した。目視できず勘によって放たれているため直撃しても威力は低いが、それでも“即死しない”という程度でしかない。
 衝撃で内臓のいくつかが破裂した。だがアサシンにいくらダメージを与えようと、魔力放出はアサシンを利している。これによってアサシンが自力で離脱するよりも遙かに早く遠くへと行ける。アサシンを仕留めるためにはカルキは宙で身を翻し、全力で追いかけなければならない。
 アサシンが無様ながら墜落したのは、クレーターより離れたビルの瓦礫の中。剥き出しの鉄骨が突き刺さらなかったのは幸運と言えたが、目前には出鱈目な速度で迫り来るカルキがいる。
 カルキがアサシンに費やすと決めた一秒はもう過ぎている。その上、余計な魔力放出でアサシンを弾き飛ばし、宙での姿勢制御にも使用したこともあって無駄な消耗をしてしまっている。
 目標の危険度をカルキは引き上げた。再度の囮を考慮し、周囲一帯を力任せに吹き飛ばすことにする。目標にあるのは奇策のみで、最速の一撃であれば逃げることも、受けることはできぬと判断していた。
 この判断がアサシン迎撃前であれば、話は変わっていただろう。
 上段より振り下ろされた救世剣は、その軌跡にアサシンの身体を捉えていた。
 アサシンが逃げ切ることなど、不可能だった。
 アサシンだけで、生き残ることはできやしない。
 アサシン以外がいれば、生き残ることは可能だった。
 最速で振り下ろされる救世剣を、受け止める何かがあった。
 救世剣はカルキが使うだけあってその大きさは数メートルはある。単純な重さだけでも数トン。そこにカルキの膂力が加わるのだからその破壊力はちょっとしたミサイルにも匹敵する。
 爆発に匹敵する破壊力は確かにあった。しかしそれ救世剣の延長ではなく、その遙か下にある瓦礫の山で起こった。それはつまり、カルキの一撃が完全に受け流されたことを意味している。
 いかな宝具とて、カルキの一撃を受け止め流せるものなどそうありはしない。
 この場にあるとすれば、それはただ一つ。
 創生槍ティアマトのみ。
「死ぬつもりですか?」
「死ぬつもりはないわ。あなたがここにいるのは知っていたから」
 非難の声を上げるランサーを口から血反吐を吐きながらアサシンはなんてこともないように応じてみせた。
 不定の器である創生槍だからこそ、その形次第でいかなる威力を持つ武器であろうと万全に対応することができる。
 一見してランサーはカルキと鍔迫り合いをしているように見えるが、そう見えているのは瓦礫の上だけ。ランサーは創生槍を大地に根差させることで何とかカルキの一撃を凌いだに過ぎない。
「ああ、けど、ダメですね……」
 ランサーといえど、カルキと鍔迫り合いをするにはさすがに無理がある。カルキがあえて一度離れて次撃を放たぬのは、この状況が有利であると自覚しているからだ。下手に距離を取ればまた奇策を打たれかねない。このまま力任せに押しつぶした方が、より確実である。
 カルキの背から迸る魔力の噴流が救世剣に更なる力を与え続けている。対してランサーはこれ以上創生槍に注ぎ込める魔力がない。
「軟弱ですね」
「あなたのせいなんですけどね」
 先のアサシンとの戦いでランサーの魔力は著しく落ちている。絶好調の時を一〇〇とすれば、今はせいぜい二〇くらいの力しかない。そんな状態にありながらアサシンを助ける余裕などどこにもないが、ここでアサシンを失えば戦況は確実に悪化する。上手くいけばアサシンを助けて一時退避することもできるかと思ったが、想像以上にカルキの能力は高い。
「見誤りました。やはりあなたが殺される隙を突いた方がまだ勝機はあったかもしれません」
「いいえ。あなたの行動は正解よ」
 後悔するランサーを慰撫するようにアサシンは微笑する。
 両手両足こそ無事だが、内蔵はぐちゃぐちゃだし、度重なる宝具使用に魔力も底を尽き欠けている。絶望的な状況にあって気が触れたのかとランサーは訝しむが、しかしアサシンにはちゃんとした秘策があった。
 その手に掴んでいるのは、先ほどカルキから奪ってきた血肉。
 それを、アサシンは口に含む。
 同食同位という言葉がある。
 自分の肝臓が悪いなら、他の生き物の肝臓を食せば良い。血が足りなければ血を飲み、性欲がなければ睾丸を食す。つまりは、自らに足りないものを他者より補う東洋医学の考えである。
 別段珍しい考え方ではない。むしろ人体改造を積極的に行っていた暗殺教団では積極的に取り入れられていた考えだ。
 アサシンが行使した理想略取は、そのハイエンド。奪った血肉をその場で文字通り己の血肉と化す。補うよりも足すことを重視した超常の移植の技術にして増設の技術。シャイターンの腕すら移植するこの御業は下手をすると自己崩壊を起こしかねぬ危険性を秘めているが、そんなことを気にしていては暗殺者は成り立たない。
 奪ったカルキの血肉は微少。それでも喉を通る頃にはアサシンの五臓六腑は完全回復を果たし、胃に落ちた瞬間に魔力は全快、消化を始めた瞬間には身体中が破裂し血塗れとなった。
 薬も過ぎれば毒になる。
 それでも今のアサシンは過去最高の魔力の獲得に成功していた。
 尚も有り余る魔力を体外に出しながら、アサシンは鍔迫り合いを続けているランサーの傍らに立ち上がった。
 突如として爆発的に膨れあがったアサシンの魔力にカルキは更なる危機を感じ取り、反射的に最大限の魔力放出を行い剣に最大限の重さを加える。
 同じことを一度されただけに、ランサーもそれが悪手であると理解する。
 もっとも、今回のそれはあの時の比ではない。
「では、最終英雄。せいぜい、耐えてくださいね――!」
 アサシンの準備が整ったと判断し、ランサーはついにその態勢を崩した。
 アサシンが何もしないのなら、そのままランサーは跡形もなく吹き飛ぶ。
 幸いにして、そんなことは起こらなかった。
 アサシンの言葉に応じ、体内から最終英雄の肉片が爆発するかの如く駆け巡る。
 その瞬間、アサシンは己の身体を通して世界と繋がる。

【……無想涅槃……】
【……幻想御手……】
【……伝想逆鎖……】
【……仮想盤儀……】
【……連想刻限……】

 正気の沙汰とも思えぬ宝具の五重掛け。
 いかに最高密度の素材を自らに取り込んだとはいえ、そんなことは普通ではない。
 アサシンにとって多重起動といえど二つが限界。それ以上は身体が保てないし、サーヴァントという器にあっては限界もある。奇跡の一つや二つを扱うならともかく、それがいきなり五つともなると、いかに人の域にあらねども、確率がゼロではないというだけに過ぎない。
 それだけあれば――お釣りが来る。
 忘れてはならない。
 彼女こそは、歴史に名を残すことのなかった救世主の可能性。
 不可能を可能にしてこその英雄だ。
 絶対不可能を可能にせずして、救世主とはなり得ない。
 生前に生み出されることのなかった雛鳥は、ここに来て世界をその嘴で貫いてみせた。
 世界を、アサシンは書き換える。
 ほんの一瞬だけ、アサシンの望む通りの世界へと改変させる。失敗し続けても、成功するまで繰り返す。何千何万何億何兆もの繰り返しの中で、たった一つの成功を得るまで世界をやり直す。ようやく引き摺り出した未来も、元の場所へと戻ろうと身を捩りアサシンの手から零れ落ちようとする。
 歯が割れ砕けるまで強く噛みしめた。暴走し溢れようとする魔力に全身を犯し尽くされるが、皮肉にも破壊と再生を両立させる最終英雄の血肉が、アサシンにここで倒れることを許さなかった。

 世界が、屈服した。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――!!!!!!!!!」 最終英雄が、雄叫びを上げながら吹き飛んでいく。
 無事であった高層ビルがミニチュア模型の如く壊れていく。
 余りに現実味のない破壊を前に、ランサーですら呆然と立ち尽くしていった。
 ビルの倒壊が始まる直前に、遠くカルキが人形のように倒れ伏す姿が確認できる。
 そんな姿をアサシンは見ずに、
「不味い」
 口の中に残った英雄の肉片を、吐き捨てた。


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13

 カルキは、倒れたまま己が置かれた状況を再確認することになっていた。
 度重なるイレギュラー要因に、想定外の宝具、思わぬ反撃。特に最後の一撃はカルキをして無視することはできなかった。
 確かにカルキの肉体に与えたものとしては、神槍の一撃の前に霞んでしまうだろう。それでもカルキの最終英雄としてのプログラムに与えた衝撃はその比ではない。いかなる神や英雄、あるいは世界そのものを敵にして破壊するとされる最終英雄が、ただの塵芥と断じた者に想像を遙かに超えるダメージを負わせられた。
 これは由々しき事態だ。
 あってはならぬことだ。
 動揺ともとれるカルキの内部葛藤に、予め施された自己診断スキル――システムが自動起動する。
 目的。
 世界の破壊と再生。但し内部時間と外部時間に著しい誤差を確認……内部時間を優先。問題なしと判断。
 手段。
 救世剣ミスラの完全解放。救世剣ミスラの機能チェック……無問題(オールグリーン)。
 肉体機能。
 肉体機能低下は甚大、平常時の一割以下。修復は不可能。戦闘機動にも問題あり。既定出力が期待できない部位は排除。その他バイパスやエミュレートを施して機能回復に努めるが戦闘出力は不可能。
 スキル。
 最終英雄カルキ固有スキル“粛正権限”発動を確認。同固有スキル“全能(ジ・オール)”“世界支配”“物理無視”“魔力否定”発動不可。神性の獲得に失敗。同じく基本情報の取得にも失敗。条件付き解放スキル一〇八種確認。“技能置換”スキルにより高ランクスキル“無我”“精神遮断”を低ランクスキル“物理保護”“戦闘続行”に緊急置換。
 魔力。
 魔力の枯渇は甚大。理想値のコンマ一パーセント以下。魔力の補填は効率面から改善不可能。魔力放出をはじめ各種魔力消費スキルの使用を控えることを推奨。現在応急処置として救世剣の備蓄魔力を反転流入。通常出力での救世剣使用限度回数、残り三。
 残り時間。
 最大五三二秒。ただし、救世剣の完全解放には最低四〇秒必要――
「――――」
 自己診断が中断される。
 カルキが大人しくしていた時間は、わずかに三秒。倒壊したビルの下敷きになり、いまだ粉塵立ち上るこの状況にあって、カルキは周囲の塵芥をはっきりと敵と認識する。
 数百トンに及ぶ瓦礫にカルキの視界は完全に封殺されている。それでもカルキはこちらに秒速三〇キロメートルで近付く存在を四つ確認した。突入コースを逆算すれば、発射元は神槍と同じ。弧を描く軌道を確認する限りでは、神槍のように物理法則を無視するような機能はないと判断する。ただし、あの質量の物体があの速度でぶつかればカルキはともかく地球がただではすまない。
 粛正の顕現たるカルキではあるが、絶滅させては元も子もない。
 救世剣が、再度の唸りを上げた。
 真上に折り重なっていたビルは音もなく光の柱の中へと消失し、高度約二〇〇〇メートルで四つの質量兵器も蒸発させる。そしてそれだけではカルキは済まさない。更に救世剣の光は大気圏外にまで伸びていき、そのまま衛星軌道上の《フリズスキャルヴ》へと直撃させる。些か無理をしたが、これで《フリズスキャルヴ》へ帰還しようと暴れる神槍が大人しくなる。
 救世剣使用限度回数、残り二。
 最後の全力解放を考えれば、使用できるのは残り一回だけ。それでも、神槍を抑える必要がなくなった分だけ、リスクは大幅に軽減できていた。
 肉体の欠損は著しい。
 精神と魂の強度を落としてでも肉体強度を保たさねば一分と保たず崩壊していたことだろう。置換したスキルでどうにかなりはしたが、既に手遅れな部分も多い。機動力を上げるため余分な肉は排除すべきであるが、どうせ捨てるのならばこれを利用しない手はなかった。
「■■■■――――」
 カルキの身体が、崩れる。いや、周囲の肉を刮ぎ落とすようにして小さくなる。相変わらず神槍はその胸を貫いたままだが、周囲に撒き散らされた肉の一部はぴちぴちと魚のように跳ねている。
 いや、それは魚そのものだった。
 そこにいるのは魚だけではない。カルキの肉から生み出されたのは、他にも亀や猪、獅子頭人身や矮人まで合わせて四〇程産み落とされた。
 宝具(九界聖体(ダシャーヴァターラ))
 それはヴィシュヌがかつて変化してきた姿の一つ。マツヤ、クールマ、ヴィラーハ、ハラシンハ、ヴァーマナである。崩れ落ちるカルキの血肉に魔力を与えることでカルキは即席の軍隊を作り上げる。カルキ単体で周囲の塵芥を掃討するよりよほど効率的に動くことができる。
「――ほう。わざわざ自らを弱めるとは。あまりに愚かではないか?」
 瞬間、この場で唯一生み出された矮人が銀の鎖に巻き付かれた。
「どうやら上位の化身になればなるほど生み出せぬようだな。ふん。逆に貴様の力も底が見えた。せっかくの出番が台なしにされると焦る必要もなかったか」
 周囲は救世剣により舞台が整えられている。
 ビルの瓦礫はすり鉢状に抉られ、古代の闘技場を彷彿とさせていた。唯一異なるのは、闘技場の中心と観客席とで陣営が分けられている点か。
 そのまま、矮人は鎖に潰され首と胴が離れて落ちる。
 《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》が、二度現れる。
 魔力が尽き脱落した者もいるために数は減ったが、それでもまだ一〇〇を超える歴戦の魔術師が宝具を手にカルキと《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を包囲していた。この歴然とした実力差でありながら、それに屈した者は誰もいない。彼等をこの場に立たせる理由は我欲に違いないが、それより彼等の背後に王が佇んでいることが大きかった。
 アーチャーが居る限り、彼等の戦意は揺らぐことはない。
 乖離剣は、まだ出さない。その代わりこれ以上にない程多くの宝具を宙へと浮かび上がらせる。
 カルキも先のように無視する真似はしない。力任せに突撃する真似もせず、相手の動きを読んでいる。
 戦術をカルキは解していた。逆に言えば、それは戦術を解さねばならぬ程カルキが窮地に陥っている証左でもある。
「――貴様らは周囲の雑魚を相手にせよ」
 張り上げ宣言するアーチャーの声にヘタイロイはただ一言をもって答える。もう戦端はいつ開かれてもおかしくはないが、まだだ。
 まだ、役者が出そろってはいない。
「ついでにお前にも言っておこう。我の邪魔だけはしてくれるなよ?」
 それは誰に言ったものなのか。
 アーチャーの声に応じるように、四つの影が轟音と共に空を縦横無尽に駆け巡っていた。
 カルキも異形の巨人であったが、彼等もそれに負けず劣らず異形の巨人であり、そして鋼鉄の巨人でもあった。
 全高五メートルもある超巨大パワードスーツ。
 《フリズスキャルヴ》のオプション兵装、無人機(エインヘリヤル)の試作機。
 先の質量兵器は実をいえばこの試作機を地上へ運ぶための突入殻でしかない。武装も未完成で実証試験も行っていないため最初から搭載していないが、それを補う手段は地上で用意してあった。
『おっと、招待状も貰ってないのによく気付けたな?』
「ふん。一度は俺を謀り嵌めたのだ。露払い程度には役に立つのが当然であろう」
 アーチャーの声に応じ、パワードスーツの外部スピーカーから劇作家の声が出力される。だがその中にキャスターの気配はない。
 当のキャスターは、未だ地の底でスノーホワイトを前にしている筈だった。
 アーチャーの頭の中には基地の図面が叩き込まれている。基地の被害は“偽りの聖杯”の頭上と地上部のみ。“スノーホワイト”が設置されている場所はほとんど無傷の筈。キャスターの動きこそ知りはしないが、戦闘能力のないキャスターが役に立つためにはスノーホワイトに行くしかない。
 最初から、アーチャーはキャスターが生きていることを前提として動いていた。どこかで何かを仕掛けるとは思っていたが、こんな玩具を用意しているとはさすがのアーチャーも予想していなかった。
「それで、使えるんだろうな、その木偶の坊は」
『愚問だな。試作機ではあるが、機動性に問題はねえよ。対ライダー戦で蓄積されたデータも適用済みだ。
 それに、こいつもある』
 四機のパワードスーツはその手に闇色の剣を持っている。
 形は違えど、その剣にアーチャーは見覚えがある。
 あの南方砂漠で異形の生物を閉じ込めていた時間の匣。
 《方舟断片(ノア)》。時間停止の拒絶結界。
 モード“剣”。
『間違っても触れないように気をつけておけ。三次元空間にあってこれに触れて斬れないものはないぜ?』
 時間制御を行う《方舟断片(ノア)》に必要なのは魔力などではなく、それを制御するために必要とする計算式の入力である。
 モード“檻”のように形に留めておくだけなら空間座標を固定するだけで放置もできる。が、剣のように絶え間なく振るおうとするならば、その動きに合わせて空間座標をリアルタイム演算をし続けなければならない。
 本来ならば持ち主がそれを自力で行うしかない。だが、それをスノーホワイトが代理演算を行うことで、四機のパワードスーツは最強の矛と最強の盾までも自由に扱うことが許される。
 カルキにとって予想しようもないことだが、最初の一撃でスノーホワイトか通信設備のいずれかが破壊されていればこんな手段を取ることは不可能だった。おかげでキャスターはスノーホワイト制御室に閉じ込められることになったが、そんなことは些事に過ぎない。
 今ここで、最終決戦に参戦できる。この一点だけが、重要なのである。
 英霊として、この地に立った。
 ならば、キャスターとしてここで役に立たねば意味がない。
「さて。もうここで名乗りを上げぬと言うのなら、それはそれで構わないが――お前が役立つ場面は他にはないと思うのだが?」
 再度、アーチャーは周囲に問いかける。
 その顔は厳しくもありながら愉快そうに笑っている。
 呼びかけられた人物はアーチャーから隠れている――わけではない。何せ彼は当のアーチャーがヘタイロイと共に連れてきたのだ。今更隠れる必要などどこにもない。ただ、ホテルの高級スイートルームに薄汚く汚れたホームレスが迷いこんだように、場違いな雰囲気に出てくるのを躊躇っていただけ。
 バーサーカー。
 この場の誰よりも弱い彼は、アーチャーの後方からしぶしぶ出てきた。
「私に何をさせようと言うのだね? 今の私はキャスターよりもひ弱だぞ」
「なら舞台くらいは整えろ。それぐらいしかできぬのであろう?」
 ぼやくバーサーカーに有無を言わせぬ口調でアーチャーは命じる。
 本性を暴かれ変身能力を失った今、バーサーカーに残されたのはひ弱な魔術師としての肉体と、唯一残された宝具(暗黒霧都(ザ・ミスト))のみ。
 バーサーカーとて、理解している。
 カルキを相手取る上で一番やっかいなのは、ここでカルキに逃げられることだ。どこまで通用するのかは怪しい限りだが、この状態のバーサーカーであっても役立てる可能性がそこにあるなら、やらない選択肢はない。
 バーサーカーにとって重要なのは、カルキの目を誤魔化すことなのだ。
「いいだろう。私は結界の形成と維持に専念する。余波だけで死にかねぬから、十分気をつけてくれ」
 キャスターとは真逆のことを言いながら、バーサーカーは黒い霧を周囲に生み出して結界を構築し始めた。
「三分だ。それまでに結界を完成させる。それまで死ぬな」
「誰にものを言っている?」
『時間稼ぎは良いが――別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?』
 得意げに言ってみせるキャスターをアーチャーとバーサーカーは無視することにした。ここで突っ込みを入れている猶予などありはしない。
 ここに至って、ようやくカルキも焦れたように動き始めた。
 カルキがこちらの時間稼ぎに付き合ったのは、生み出した《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》がその身体に魔力が定着し自由に動けるまでの時間を稼ぎたかったからに過ぎない。そしてそれは十分に果たされた。
 もはやカルキにこちらに付き合う理由はなかった。
「■■■■■■――――ッ!!!」
 戦叫(ウォークライ)。
 それが意味するのは鼓舞か、威嚇か。
 何であれ、カルキの攻撃意志や敵意が向けられたことは喜ばしいことだ。
 アーチャーは、キャスターは、バーサーカーは、ヘタイロイは、ここでようやく敵と認識されたことに安堵する。
 背に冷や汗が伝い、心拍数が上がってくる。
 戦端は、開かれた。


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 一番槍は、キャスターだった。
 アーチャーが放つ宝具の群れと同速に、四機のパワードスーツは低空を疾駆する。
 味気ない機体番号しか付けられていないのでキャスターは彼等をアトス、ボルトス、 アラミス、ダルタニアンと名付けていた。どれも三銃士に出てくる騎士の名である。
 三銃士の背面に備え付けられているスラスターが爆音を上げる。機体の各所は試作機でありながら設計限界を超えた出力を得ていた。機体の全システムをスノーホワイトが掌握しているのだ。人間には真似できぬマイクロ単位の精度で機体はコントロールされている。
 カルキを称して巨人と言わしめたが、カルキが《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を生み出し小さくなったこともあり、三銃士の巨大パワードスーツと同じ程度の大きさでしかなくなった。これなら、対人戦闘プログラムも有効に作用することができる。
 三銃士は二機ずつに分かれ、カルキの左右から挟撃する。
 申しわけ程度に装備されていた火器はカルキには通用せぬと判断し、最初から投棄している。故に装備は《方舟断片(ノア)》の“剣”のみ。これが通用するかは試してみない限りキャスターにも分からない。
 両者の距離を縮めるのに一秒もかかりはしない。
 その間にも暴風雨が如き数と勢いで宝具が叩きつけられながら、カルキは先と異なり無傷のまま耐え続けている。小さくなったのは《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を生み出しただけではなく、その密度を高め防御力を上げるためであった。あの英雄王の攻撃も、短時間では目眩まし程度にしか機能していない。
 だがそれだけで十分すぎる。
 カルキは、この《方舟断片(ノア)》の“剣”の威力を知らないのだ。
 だから振るわれるアトスの刃を、カルキは避けることもせずに救世剣で迎え入れる。
 ここまで魔術の粋を凝らしたものになってくると、既に概念と概念の戦いだ。互いの秩序はどちらも神域。救世剣は解放することで破壊と再生を行い、対してこちらは時間の固定化を常時行っている。
 真っ正面から打ち合う場合、意表を突ける分だけ有利である。
 機械の巨人と、異形の巨人がぶつかり合った。
 それだけで、空間が、振動した。
 三次元を斬り割く四次元の刃に理論上斬り裂けぬ存在はない。分子間結合がいかに強かろうと、時間という存在をその刃は強制的に止めるのだ。時の流れに差違が生まれればそこには断層が生まれる。その摂理に抗うのは世界を壊すことよりも難しい。
 そんな一撃を、救世剣は見事受け止めていた。
 用意できる宝具の中では随一であった一撃だけに、キャスターはこの事実を忌々しく思うが、どちらかといえば驚愕したのはカルキの方。
 カルキの膂力と救世剣であれば、力技だけで壊せぬものなどそうそうあるものではない。神槍グングニル、創生槍ティアマトと立て続けに遭遇したというのに、まだその次が用意されている。
 しかも、そんな“剣”が四つもある。
「■■■■■■――――ッ!!!」
 惜しむらくは、その“剣”の襲撃にタイムラグがあったことが、カルキを仕留めるチャンスを無為にした。タイミングをずらすことで避けにくくする魂胆だったが、それが裏目に出た瞬間である。
 火花を散らしながらカルキは救世剣を無理矢理に引き戻し、その巨体を俊敏に動かして神速でボルトスの一本を迎撃する。
 これまで力押ししかしなかったカルキが、この瞬間から剣技を使用してみせる。救世剣と自らを一体とみなし、重心移動をもって回避と迎撃を同時に実行する。アラミスの“剣”が軽く擦るが、致命傷には至らない。これで三本までどうにかなったが、四本目はどうあっても逃れられはしない。
 方法は他にない。
 魔力放出により攻撃と離脱を同時にカルキは行うが、ここまでくればその手は読まれている。ダルタニアンは攻撃を諦め、スラスターを噴かせて大きく跳躍することで凶悪な魔力放出から難を逃れる。
「たわけ、仕留め損なったか」
『すまんっ』
 距離を取るカルキに反撃の隙を与えぬよう、アーチャーは執拗に宝具で爆撃しながらキャスターを罵る。
 キャスターは前衛として立派に機能することは分かったが、いかんせん、カルキに危機感を抱かせてしまった。ただでさえ巨人の力を持つ敵でありながら、それ上に剣技まで習得されてはより一層やっかいになる。
『だが、このまま封じることはできそうにないが、奴の身体に《方舟断片(ノア)》の“剣”は有効だ。あのやっかいな救世剣を抑えて数で押し切れば、奴を倒せる』
 キャスターの言葉は希望であると同時に楽観論だ。
 アーチャーが言うのもおかしな話であるが、アーチャーたちはカルキの傲慢さを利用して何とか戦っているに過ぎない。カルキが己の目的を何もかも放棄してしまえば、自分たちなど一瞬で蹴散らされてしまう。
 カルキの対応能力は常軌を逸している。
 スノーホワイトが一体どれ程のものかアーチャーは理解していないが、それでもカルキ相手に人形では力不足。一度見せた技は通用せぬばかりか、逆に利用されかねない。動きを解析し、技や連携のバリエーションを豊富に揃えようとも、カルキはその神髄を一目で見破りかねない。
 アーチャーが先ほどから積極的に戦闘に参加せず、距離を取って単調に宝具の投射をし続ける理由がそこにある。カルキにとって目眩まし程度の威力に敢えて抑えたままでいるのも、その程度の宝具しか投射しないからだ。
 仕掛けるのなら、一気呵成に仕掛ける必要がある。
 機が満ちた瞬間こそ出し惜しみはしない。宝具の全力投射で串刺しにし、乖離剣で仕留めなければ、この英雄に勝てはしない。
 宙を飛び交いカルキを翻弄する三銃士。並のサーヴァントを圧倒する能力を秘めているのは分かるが、それでもまだ足りていない。人間の創造物では神の創造物に迫ることはできても及ぶことはできない。
「ちっ」
 我知らず、アーチャーは舌打ちした。
 あの中に入って戦闘に参加できるほどにアーチャーは白兵戦を得意としない。参加したところでスノーホワイトによって計算尽くで動く三銃士に混ざれば、要らぬ計算を強要しキャスターの足手纏いになるのは確実だった。
 結局、アーチャーにできることは状況を俯瞰し適宜援護をするだけ。ただ機が満ちるまで時間を稼ぐより他はないのだ。
 だから。
「大人しくしていろ」
 と、振り返ることもなく背後に佇む少女に告げる。
「我の背後に不用意に立てばどうなるか、知らぬお前ではあるまい」
「お願いです――どうか、私を行かせてください!」
「ならん」
 アーチャーの背後で嘆願をしたのはティーネ・チェルク、アーチャーのマスターである少女。
 会うのはあの南部砂漠地帯以来か。
 令呪によって意志をねじ曲げられ強制転移させられたことに言いたいことはあったが、彼女の心を思えばそれも致し方なかった。それによって彼女はアーチャーに貸しを作ったわけだが、そんな彼女を前に、アーチャーはその願いを一蹴した。
 ティーネが何をしようというのか、アーチャーにはよく分かる。
 カルキは本来、勝敗を競えるような低位の存在ではない。アレは敬い畏まるものであって、相対するのに必要なのは剣や矛などではない。神殿を前に武器を鳴らし土足で押し入るのは夜盗の所行である。
 英雄の格が違う。
 存在の核から違う。
 アーチャーですらそれを実感しているのだ。ましてや民草であれば尚更であろう。
 だからこそ、彼等はカルキを畏れ敬い祀り奉る。
 万一に備え、怒りを静め慰撫するために、彼等は一億の祈りに勝る一の供物を造り上げた。尊き血脈を造り上げ、淀みない誠心を持つ存在を気が遠くなる年月をかけて仕立て上げる。
 ティーネ・チェルクの存在意義(レゾン・デートル)。
 それを、今やらずしていつやるのか。
 そんなティーネの必死の訴えを、アーチャーは聞く耳を持たない。
 最初からアーチャーはティーネを犠牲にするつもりなどない。
 自らのマスターを差し出し許しを請うような真似を、英雄王ギルガメッシュの名にかけてさせるわけにはいかない。そんな負け犬のような幕引きなど決して許容できよう筈がない。
「アレは我が倒す。お前の出る幕はない」
「倒せるのですか!? いかに底が見えたとしても、アレに勝てる存在はいません! そう仕組まれた存在なのですよ!?」
 普段の理知的な行動からは考えられぬほどの剣幕でティーネはアーチャーに詰め寄る。傍らに控えていたヘタイロイがそんなティーネを二人がかりで押さえつける。少女にしては、よく暴れたといえよう。
 ただの少女にしては。
「奉納すべき贄にも格が必要なのです! 私が行かねば、更なる犠牲が増えるだけです!」
「その通りだ。だから、ティーネ・チェルク。お前は不要だ」
 ティーネの言葉を、アーチャーは肯定する。
 肯定するからこそ、ティーネはこの場に必要なかった。
 アーチャーの言葉に、ティーネは滂沱と涙を流して崩れ落ちた。
 奉納するモノにはなんであれ、必要なモノがある。王としてこの世のありとあらゆる財を進んで捧げられたこともあるアーチャーだ。その中には人身御供として捧げられた者もいる。高位の神官が王の行く末を祈って死に、純真無垢な乙女が王を讃えて泉に身を落とし、ある時など雫を滴らせ脈打つ心臓をそのまま差し出されたこともある。
 それをアーチャーは良しとする。
 無駄なものなどどこにもない当時にあって、必要なものを無為に散らせるからこそ、王は王としてその心を満たすことができるのだ。肝心なのは、捧げられる側が満足するかである。汚れた罪人をいくら捧げられても王の不敬を買うだけなのだ。
 だから、ティーネにその価値はないと、断言できた。
 彼女自身も気付いている筈だ。
 原住民の役割は聖櫃を守り、未来へと繋げること。
 四〇万年程その月日が早まりはしたが、彼等の役割は見事に達成させられた。そして達成してしまった以上、それより先に彼等が必要とされることはない。
 つい少し前まで彼女がその身に宿していた莫大な魔力は霧散していた。彼女はスノーフィールド屈指の魔術使いなどではなく、今や年相応のただの少女だ。“偽りの聖杯”の奴隷ではなく、解放され自由となった人間でしかない。
 既にアーチャーとティーネの間に契約はない。魔力を供給できぬ彼女ではサーヴァントのマスターはこなせない。今アーチャーがこの場に現界しているのは、アーチャーとしての単独行動スキルに因るものでしかない。
「それでも! ここで命を懸けねば、捧げねば、私を頼み散っていった仲間たちに申しわけが立ちません!」
「それが不敬だと言っている。捧げるならば、真に願って身を捧げろ。仲間のためにではなく、敬うべき者のためにその身を散らせ」
「……――ッ」
 気丈にも、目尻から零れた涙を乱暴に拭い、ティーネはその場ですっくと立ち上がる。拘束の必要性を確認すべく二人のヘタイロイが視線で問うてくるのに、アーチャーは無言で頷いた。
 アーチャーが南部砂漠地帯で令呪を使ったことに何も言わないのは、ティーネがアーチャーを真に思って取った行動だったからだ。そこにどんな下心があろうと、アーチャーはそれを無碍にはしない。
 今度は、アーチャーがティーネを思って返す番だ。
「貴様には、生きて貰わねばならん」
 それは、サーヴァントが元マスターを思っての言葉ではない。
 英雄王ギルガメッシュが、原住民の長ティーネ・チェルクを思っての言葉だ。
「生きて、民をまとめ、この地を癒やし、反映をこの手で掴め。それまで死ぬことは許されないと肝に銘じるが良い」
 それがお前の次の役目だ。
 その言葉を聞き届け、ティーネはこの場を静かに立ち去った。
 もはや何も言うことはない。返す言葉もない。
 アーチャーはついに背後を振り返ることはなかった。
 ティーネもアーチャーの後ろ姿を振り返って見ることはしなかった。
 二人が会うことは、二度と訪れなかった。


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 振り返れば、あれだけの激闘が嘘のようにその場は静まりかえっていた。
 広すぎる第九層に、ファルデウスは一人、取り残されていた。
 戦場が地上へと移ったことで、あれだけ数がいたヘタイロイもアーチャーの宝具に連れられて消えていった。バーサーカーとフラットもいなくなっているので、一緒に連れて行ったらしい。
 どうにか交渉すれば共に地上に出られたかも知れないが、ファルデウスは移動するヘタイロイを横目に何もしはしなかった。
 頭上を見上げれば、天まで見通せる大穴。
 中央にあった聖櫃もその残骸が周囲に散らばっているだけで、もはや神秘どころか魔力の欠片すら感じ取ることはできない。
 ここは終わった場所だ。二度とこの場所が必要とされることはない。
 一人朽ち果てるには、これ以上に相応しい場所はない。
 思い、手にした拳銃を手に取った。
 弾丸は、一発だけ残っている。
「てっきり戦場で死ぬと思っていましたが、存外つまらない最期になりましたね……」
 一人、ファルデウスは自嘲気味に呟く。
 ここに助けが来る可能性は低い。よしんば助かってもこの状況を生んだファルデウスを米国が許すわけがない。指示をしたアインツベルンも表だって助けようとはしないだろう。
 拳銃の筒先を咥えて口内へ。
 後は引き金を搾るだけで全てが終わる。
 右手全体を握り込むようにして絞った引き金により、吐き出された弾丸は違うことなく標的へと吸い込まれていった。
 ファルデウスの、背から横腹へと、弾丸は貫いた。
 背後からの銃撃に、ファルデウスの身体はダンスのようにクルリと回る。引き金に指をかけていたことも災いして、口内から銃口が抜け出た瞬間に最後の弾丸は明後日の方向へと射出されていった。
 かつて祭壇であった場所にファルデウスは倒れた。
「勝手に死んで貰っては困るな。悪党ってのは今際のきわに全てを吐露して死んでいくモンだ」
「……――それはどこのドラマの話ですか?」
 横腹の痛みを耐えながらファルデウスはなんとか仰向けになる。撃たれた方向に目をやれば、頭上からの光を避けるように暗闇に佇む男の姿がある。よくよく見れば、近くには垂れ下がった紐らしきものも見える。上階からファルデウスに気付かれぬようラペリングして降りてきたらしい。
 撃たずとも聞かれれば話しますよ、とファルデウスは動かぬ身体に代わって笑顔で彼を出迎えた。
「ご無沙汰しています、署長」
「ファルデウス。こうして面と向かって話をするのは初めてだな」
 銃を構えながら署長はファルデウスへと油断なく身を低くしながらゆっくりと近付いてきた。
「息災なようで何よりです」
「お陰様でな。部下をあれだけ殺しておきながら生き残ってしまった」
 言いながら、署長は銃口をファルデウスの右手に向け、撃った。指が吹き飛んだだけで致命傷ではないが、これでファルデウスはナイフを使うことはできない。
 ファルデウスは呻き声すら上げなかった。
「……それで、お前は一体何がしたかったんだ?」
「それを聞くために、わざわざここに降りてきたんですか?」
「当然だ。生き残った者の義務として、それを聞いておく必要がある」
「ハハッ……――この期に及んで生き残った者、ですか」
 小馬鹿にしたようなファルデウスの言葉に、署長は今度は左手に狙いを定める。
 耳を澄ませば、上方から剣戟の鳴り響く音がする。どんな状況なのかは分からないが、戦闘は未だに続いている。その一方がカルキであるのは間違いない。
 世界は終わっていないだけで、終わりつつある。ここで生き残りを語るには少々早過ぎだろう。
「いいや。私は生き残った。
 ――お前が、生き残らさせた。違うか?」
「それは過大評価ですよ……」
 困ったように笑いながらも、ファルデウスはそれを否定しない。
 ファルデウスの目的は世界を終わらせることであるのならば、それにしては計画がいささか甘い。
 アーチャーに急かされたとはいえ、カルキ解放のタイミングは狙い澄ましたかのように最悪だった。ファルデウスがその気になれば、アーチャーやバーサーカー到着前にカルキを解放することもできた筈だ。単に世界を終わらせるだけならもっとやり方は他にある。
「……署長。あなたは、あの東洋人が何者か御存知ですか?」
 唐突な質問。だが、話は変わってはいないと署長は感じた。
「アインツベルンが鋳造したホムンクルス――そう、私は睨んでいる」
 しらばっくれても無駄と思い、正直なところを署長は話す。
 東洋人曰く、自分は冬木から来た旅行者であり、途中でアインツベルンの者と思しき者に出逢い、令呪を授かりこの地に来たと言う。
 だが、話をすればするほど東洋人の言葉は曖昧となる。聖杯戦争を調べるために元となった冬木の地を調べたこともある署長である。その記憶と照らし合わせても東洋人の言葉は一致しない。時間は足りなかったがスノーホワイトのログを辿っても、東洋人が冬木に住んでいた記録はない。かつて犯した罪を悔いているようなことを言っていたが、それらしき事件の記録も見当たらない。ただ唯一、そんな根拠のない噂が冬木で流れていたということだけは確認している。
 確証こそ持てなかったが、アインツベルンらしき存在がちらついたことでむしろこのスノーフィールドの状況に納得すらしていた。
「ああ、そこまで推察はできていましたか。ですが、それでは半分だけです」
「半分?」
「彼等の正体は、確かにホムンクルスです。正確にはアインツベルンの小聖杯を兼ねたホムンクルスです」
「――あれが、小聖杯だと?」
「大量生産の粗悪品――本来ならば廃棄され見向きもされぬような代物ですがね。
 彼等に託された目的はスノーフィールドに召喚されたサーヴァントを倒し、自らに蓄えることです。仕組みは単純で、大聖杯を用いないだけで冬木のシステムをそのまま踏襲しているとか」
 仕組みは単純であろうが、英霊という破格の存在を内部に蓄えるには当然上限がある。小聖杯が蓄えられるのは、サーヴァントの格にもよるが、せいぜい一体か二体が限度。それでも大した量ではあるが、音に聞くアインツベルンの聖杯に対して到底足りる量とは思えない。何より大聖杯もないスノーフィールドで願望機と呼べる程の機能を実現させることは不可能だ。
 いや、その前に一体や二体程度のサーヴァントを倒し蓄えてどうしようというのか。
「……それに、何の意味があるというのだ」
「彼等には、ある過去をやり直したいという共通した願いがあるのは御存知ですよね。彼等は小聖杯として器が満ちた時、自然とその願いを叶えるようセットされています」
 サーヴァントを二体も倒せば死んでしまうなど、彼等は知らないでしょうね、と嘯くファルデウス。
 ついでに言えば、機密保持のために令呪を五回使いきると彼等は死ぬようにプログラムされている。何のダメージも受けていないというのに、エレベーターの上で東洋人が事切れている理由がそこにある。
「過去改変……そんなことが可能だというつもりか?」
 正気を問う署長の言葉にファルデウスも同意した。
「まず無理でしょう。ですが、万能を求めずとも、できる範囲で似たようなことは行えます。アインツベルンは小聖杯を用いて過去へメッセージを伝えるためだけに、彼等を送り込んでいるんです」
「……――俄には信じられんな」
 ファルデウスの告白に、署長は嘘だと判じた。
 過去改変など、どんなに小さくとも早々簡単にできるものではない。確かに倒したサーヴァントを触媒にして言葉通りにメッセージを送り届けることは可能かも知れないが、それで一体どれ程のメッセージを過去に送れるというのか。
 送ったところで、時間遡航による抵抗でデータが欠損してしまう可能性も遙かに高い。成功率を考えれば、到底許容できるリターンではない。
「およそ――八億回、だそうですよ」
「……何の数字だ?」
「この“偽りの聖杯戦争”が繰り返された回数です」
「何を言っている?」
 確かにこの“偽りの聖杯戦争”は理論上冬木よりも遙かに短期スパンで何度だって繰り返すことができる。だが、システムが確立したのは今回が初めてで、そして“偽りの聖杯”を失ったことで二度目は有り得ない。
 それが――八億回?
「平行世界というやつですよ。
 どこか別の世界のアインツベルンもこの“偽りの聖杯戦争”に参戦していたようです。しかし聖杯もないこの戦争で願いが叶う筈もない。アインツベルンにできることは、せめて“何度でも繰り返せる”という特性を持つこの戦争を利用し、聖杯が確実に降臨する冬木の聖杯戦争をやり直させることだったのですよ」
 この“偽りの聖杯戦争”で実現可能な範囲の奇跡を、アインツベルンは時間遡航によるメッセージ伝達にあると結論づけた。
 一度メッセージの伝達に成功すれば、それだけでも世界は改変される。
 二度メッセージの伝達に成功すれば、更に少しだけ世界は改変される。
 これを、八億回、アインツベルンは繰り返したという。
「気が遠くなるような作業だな」
「繰り返し実現させるのは平行世界の自分なのですから、時間の感覚はここでは問題ではありません。問題は、例え成功しても恩恵を受けるのが現在のアインツベルンではなく、過去の、しかも平行世界のアインツベルンだという点ですか」
 普通であれば、それは許容できることではない。いかに無意味を知る魔術師といえど、このやり方ではハイリスクノーリターンだ。実行する価値を見いだす方が難しい。
「けれど、アインツベルンはそれを許容したんです。
 最初こそ気まぐれだったのかも知れませんが、いつの日か確実に蓄積されていくメッセージにアインツベルンは確固とした意志と目的を持って取り組み始めました。そしてより効率よく、過去にメッセージを送る手段を確立させました」
「それがあの東洋人というわけ、か」
 選んだ手段は「参加」ではなく「介入」。
 マスターとして直接参戦するよりも、はるかに安価かつ安全。数を揃えて投入することで確率も上がる。与えられた五つの令呪も、そう考えると同士討ちを狙っていたとも考えられる。
 その通り、とファルデウスは頷きながら、苦しげに息を吸った。
 小口径ではあるが、横腹に撃ち込まれ、右手の指を吹き飛ばされている。止血もしていないのだから、そろそろ目が霞んできているに違いない。
「――ですが、もはやその東洋人もあなた方が保護しているのが最後の一人。その上、ここに来て脱落したサーヴァントは皆無。
 ……これは奇跡なんですよ、署長。恐らく今まで一度として最終局面まで脱落者のいなかった戦争はありません。召喚された六体のサーヴァントが揃い、しかもカルキという本来の目的に向かって団結している。あの最終英雄を倒せる千載一遇のチャンスが、来たんですよ」
 先の話で、小聖杯に注ぐことができるサーヴァントは一体か二体と言う話だった。元凶であるカルキであっても、倒すことができれば小聖杯にその魂は注がれるのだろう。一瞬で壊れることだろうが、その一瞬には十二分な価値がある。
「英雄としての最高純度を誇るカルキです。その量からすると確実に器から溢れるでしょうが、それ以上に質が高い。カルキ一体で英霊数千、あるいは数万人分が賄えるとなれば、これを試さないわけにはいかないでしょう」
 それが世界を破壊する可能性が高くとも、アインツベルンはそれを試さずにはいられない。
 巫山戯たことにこの男は、六柱の英霊が最終英雄を倒すプランを模索していた。
「正気か」
「正気のままで、魔道を修めることはできないということでしょう」
 それで話は終わりとばかりに、ファルデウスは大きく息を吸った。
 血は流れ続けている。
 あと数分もすれば、ファルデウスは失血死する。
 あと数分しなければ、死ぬことはできない。
「最後に、一つ質問だ。答えるなら、今すぐ殺してやる」
「……それは魅力的な取引です。何でしょう?」
「何故、お前はアインツベルンに従った?」
 ファルデウスの運命は、カルキを解放した時に決まっていた。
 協会を裏切り、そして米国も裏切った以上、彼に待っているのは確実な死だ。最後に従ったアインツベルンにしても、巨大組織と一国家を相手にしてまでファルデウスを匿おうとするわけがない。
 組織の大きさや方向性を考えれば、少なくとも排他的なアインツベルンに付くという選択肢はないが、それを彼は敢えて選択している。一体何が彼をアインツベルンに従わせたというのか。
「……――ああ。そんなことですか」
 署長の問いにファルデウスは模範解答を試すように出してみせる。
「最初からアインツベルンの間諜だと言えば、信じますか?」
「意外性のない答えだな」
「驚愕の事実を提示できなくて申しわけない限りです」
 それがどこまで本当なのか確認する術を署長は持たない。
 だが、戦後処理部隊の隊長という立場は間諜としては最適だ。情報も集めやすく、意図して操作するのも容易い。それにアインツベルンが関与した形跡を消すのも難しくはないだろう。
 この作戦にあたって入念な身元調査が行われた筈だが、いくらでも抜け道はあったということだ。もしくは、それを突破できる程にアインツベルンはこの国に浸透している、ということか。
 大統領の側にもアインツベルンが居ると告げられても、署長は驚きはしない。
「済まなかった。時間を取らせた」
「いえいえ。こんな与太話で申しわけないくらいです」
 ファルデウスは青ざめた顔で笑ってみせるが、そこに力はない。
 銃口を署長はファルデウスの頭部へと向けた。
 引き金を三回引く。ハンマーが三回撃鉄され、三発の弾丸を吐き出した。


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 必殺の意志を込められ創生槍が繰り出される。
 狙うは首、最速、最短で繰り出される一撃はいかに弱ったランサーといえど侮ってよいモノではない。
 点にすぎない槍の軌跡は光となって目標を穿つ。
 サーヴァントでもない標的にこれを躱す術はない。
 もしランサーに誤算があるとすれば、それは標的に躱すつもりがないということか。
 そもそも、彼女は躱す必要がないことを知っている。それは討ち手であるランサーの手元が狂うとか、自らの強度が創生槍を上回るとか、そういうことではない。
 彼女の危機に、彼女が間に入らぬ筈がないのだから。
 剣戟などと高尚な音はなかった。
 あるのはただ路傍の石を砕く音。
 そして衝撃を殺せず骨が砕ける鈍い音だけだった。
「……なんのつもりです、アサシン」
 ランサーの問いに、アサシンは答えられなかった。
 自らのしでかしたことがよく分からない。
 ランサーの創生槍を、あろうことかアサシンは咄嗟に拾った石を“二天一流”によって全力で強化し、標的と創生槍の間に手のひらを入れることで防いでいた。石は砕け散り、石を持っていた手もかろうじて胴にくっついている有様。ただでさえ少ない魔力を無理矢理に捻りだし、片腕が用を為さなくなったことでアサシンの身体には想像を絶する苦痛が奔っている。
 だがそんな苦痛など、この驚愕にあっては些事に過ぎない。
 何故。
 何故、私はこの者を守っているのか。
 殺す理由は山ほどある。
 生かす理由など塵ほどもない。
 なのに、アサシンはこの少女を守っていた。
「無駄だよ、ランサー」
 続けてランサーが繰り出す突きも掬い上げるように放たれたアサシンの蹴りに軌道を逸らされ、標的には傷一つ付きはしない。今度の一撃は先と違って大地を踏みしめ腰が入ったモノだ。アサシンといえど、意識を集中させずに防ぐことなどできはしない。呆けた顔で、防げるような甘いモノではない。
 これは――
「――令呪」
「ご明察」
 アサシンの反応からランサーは即座にその答えに辿り着き、今まさに殺そうとした赤眼金髪の少女――ジェスターが可愛らしくもパチパチと手を叩く。
「けど、よく私だと気付いたね、ランサー」
 自らの不詳に迂闊に動くことのできぬアサシンを蛇のように後ろから抱きしめ見せつけるように胸を揉みしだきながら、ジェスターは自らの正体に即座に気付いたランサーを褒めてみせる。
「あなたの醜悪な気配であれば嫌でも気付けますよ」
「酷いなぁ。この姿を見れば分かるでしょうけれど、実は私も女の子でね。醜悪と言われると傷ついてしまう」
 大袈裟に悲しむ素振りで目元を隠しながら赤い舌をチロリと出すジェスター。その仕草は外見相応の女子のものだが、そんな可愛げのある存在でないことはよく知っている。
 ジェスターが二人の前に現れたのは、アーチャー達が戦闘を開始し、剣戟が辺りに響き渡る頃合いだった。恐らくバーサーカーの《暗黒霧都(ザ・ミスト)》のせいか、まだ午前中だというのに周囲の空は急速に暗くなりつつある。直射日光が遮られたことでこの吸血種は怖れることなく外に出ることができていた。
 何故か男物のコートを羽織り、外だというのに裸足であるが、ここでそのことを追求するのも無駄であろう。
「――私に、何をしたのですか、ジェスター」
「うん? いい加減気付いていると思っていたけれど、もしかしてまだ気付いてないのかな?」
 アサシンはジェスターに抱きつかれながらも、己の状態を確認し続けている。その上で、先ほどからジェスターを一撃で仕留めるよう動こうとしているのだが、その行動が意志とは裏腹に悉くキャンセルされている。
 令呪で自害を禁じているのには気付いている。そしてジェスターを守るように命令されていたのだろうか。
「――クァハッ! なんだか見当違いなことを考えているようだね、アサシン」
「――……」
 思考を覗かれた感覚にアサシンの肌が粟立つ。
 そんなことは有り得ないと思いながら、疑惑に変わり、疑心暗鬼に陥りそうになる。
「心配せずとも、君の思考を読むなんて野暮なことに令呪は使っていない――私が命じたのはね、君をこのスノーフィールドの守護者にすること、だ」
「守護……者?」
「正確には、サーヴァントを除く戦争関係者を守護すること、かな。君が私を攻撃できないのも、君の守護対象に私も入っているからだ」
 思い返してみれば、そうした心当たりはある。
 つい先程ランサーと戦うのにアサシンはティーネを巻き込まぬよう、戦場を中央から端の壁際へと移している。署長と二人でジェスターと対峙した時、最後まで署長を守りもしている。椿が殺されそうになっていた時、危険を顧みず銃弾の前にその身を晒しもしている。
 合理的に考えれば、ティーネと二人がかりでランサーを相手取る方が確実性は上がる。署長を犠牲にすれば捕まることなく簡単に逃げることはできたし、本気でジェスターを相手取れば殺すことだってできた筈だ。椿だってアサシンがわざわざ助ける義理などどこにもない。
 もっと遡れば、何故アサシンは街中の魔術師を片っ端から捕まえていたのか。それは、そうすることで捕まえた魔術師たちの安全が確保され、彼等が周囲に害を与えるのを防ぐため。
 自害の禁止は、アサシンが死ぬことで被る被害が大きいから。
「……この様子だと、どうやらアサシンがそれに気付かぬよう令呪も使っていますね?」
「またもご明察だね、ランサー。それは第三の令呪に使った。第一、第二の令呪の命令に気付かないように、と」
「第一、第二……?」
 呻くように呟いたアサシンに、ジェスターはアサシンの胸を揉みながら名残惜しげにその身から離れた。その顔は両親を驚かせるサプライズを仕掛けた子供のよう。
 ただし、そのサプライズは邪悪に満ちている。
「私が気付いていないことが、まだあると言うのですか……?」
「それをここで言ってしまっていいのかな?」
 絶望に満ちたアサシンのその顔にジェスターは興奮せずにはいられない。この光景はジェスターの胸に焼け付き、向こう一〇〇年は飽きずに愉しむことができる。許されるのなら、このままアサシンをベッドか地下室へと連れ込みたいくらいだ。
 だが、それは我慢しなくてはならない。
 今、アサシンは己の不明に気付きかけている。第三の令呪の効果はジェスターがその存在を告げたこの瞬間から消え失せている。あとはアサシンがその事実に向き合うのみ。
「……そのために、私をアサシンにぶつけたわけですか」
「おっと。興醒めになるので教えないで欲しいな。まあ、教えたところでどうなるものでもないが」
 結局、ジェスターがやったことはアサシンに世界の広さを見せつけることに終始する。狭い世界の神ではなく、広い世界の事実をその身に刻みつけ、己が役割の矛盾に気がつかせる。
 召喚されたばかりのアサシンは、赤子のように無垢だった。何も知らず、何も知ろうとしない。放置された赤子が辿る道は、獣でしかないという良い例であった。
 ジェスターはそんな彼女を教育する。そのために、行動理念はそのままに初志を忘れさせた。果たして他者を知り、異教を知り、世界を知った彼女は、今でも獣であるのだろうか。狂信者であり続けることができるのだろうか。
 その答えが出る瞬間が、ジェスターは愉しみで仕方がない。
「……いいでしょう。ですが、さっさと本題に入っていただきたい。そろそろ私も我慢の限界が近付きつつありますので」
「まあ、その通りだな」
 ランサーの言をジェスターは肯定する。
 アサシンを前後不覚に陥れながら、その実、ジェスターの目的はアサシンにはない。
 ジェスターは、最初からランサーにだけ、用があった。
「君が限界なのは、我慢“だけ”ではないのだろう?」
「……」
 ランサーの無言は雄弁に勝っていた。
 ジェスターが現れた直後くらいに、ファルデウスは死んだ。
 今は残りの魔力で何とか過ごしているが、あと五分もしないうちにランサーは自然消滅する。ランサーであれば、アサシンが守ろうともジェスターを仕留めるのにそう手はかからない。だというのにわずか二撃で諦めたのは、ジェスターのためにこれ以上無駄な魔力を消費したくなかったからだ。
「代価を払ったのだから、私も義務を行使せねばなるまいと思ってね」
「これは失礼。そこまで律儀な性格には見えませんでした」
 このまま誰かと再契約しなければ、カルキを相手にするどころか、ランサーは友と再び相まみえることなく消滅することになる。それを回避するには――契約をするより他に手はない。この目の前にいる、狡猾な吸血種と。
「盗人猛々しい限りですね」
 アーチャーが生きていたのは別にジェスターの功績などではない。それなのに、さも当然のようにそれを餌にランサーを動かそうとする。あまつさえ、銀狼に手を出しながらどうしてこの死徒は臆面もなくそんなことが提案できるというのか。
「これは善意の提案なのだが? 私とて、アサシンと君の二重契約は負担になる」
「ご謙遜を。あなたがその程度であれば何の苦労もありません」
 サーヴァントと直接単独で相対できるような者が何を言うのか。
 令呪の効果は長期間に渡るとその効力が落ちると言うが、アサシンの様子を見る限り、それはない。この一例だけでもジェスターは紛れもなく、破格のマスターなのである。六連男装などという偽りの仮面を全て脱ぎ捨てた今であれば、尚のこと余裕であろう。
 目的だけを考えるのならば、契約するべきだろう。
 目的だけ、であれば。
「残念ですが――」
 はっきりと言葉にしながら、ランサーは三度創生槍を構えた。
「僕にも英雄王の友としてプライドがあります。本来叶うことのない願いのために、あなたに屈する姿を、見せたいとは思いません」
「そのために世界が滅びてしまうぞ?」
「それも運命です」
 ランサーは己の矜持と世界を天秤にかけ、前者を取った。それは英雄が取ってはならぬ選択肢だ。
 だから、とランサーは言い訳をする。
 残り少ない魔力と現界できる時間を前にこの外道は仕留めなければならない。
「私を信じてくれないかなぁ」
 ニヤニヤと、ジェスターは余裕を持ってランサーを見下していた。ランサーとの間にアサシンがいる。それ以外にも、ジェスターは必ず何か手を打っている。ここで最悪なのは、ジェスターが強制的にランサーと再契約してしまうこと。
 それだけは何としても防がなければならない。
 故に、ランサーは次に放つ一撃に全てを賭ける。
 二撃目など考えない。一撃で必ず決着をつける。ジェスターを仕留め損なったとしても、ランサーは魔力が尽きて必ず消滅する。契約を結ぶ暇など与えない。
 後ろ向きだなあ、と呟くジェスター。強制的に守護せざるを得ないアサシンには申しわけないが、ここで手加減をする余裕などはない。せめて、消滅しないようにとランサーは祈った。
 瞬間、ランサーの周囲の空気が滞る。
 世界から陰影が消えてなくなり、色すら失われる。匂いや音は消滅し、必要な情報だけが選択される。
 人間が動作を意識するには、どうしても脳と身体の構造上、動作を始めた直後から、動作を後追いする形になる。それでは意識速度はどうしても遅い。だからこそ、鍛練を重ねた武術の達人は意識する情報を「軽く」して「立ち上がり」を早くする。
 泥人形であるランサーも、それと同じことをする。人間でないため興奮剤を分泌するなどのブースターはできないが、それ以上に徹底的に情報を遮断してみせる。普段から意識せずに使っている気配感知スキルですら、ランサーは必要ないと判断していた。
 見る必要があるのは、己の敵であるジェスターただ一人。アサシン介入が最初から分かっているのだから、それを見越した動きをすれば良いだけのこと。幸いにも、こちらの犠牲は考えずとも良い。
 ジェスターの唇が動こうとするのが分かった。それに合わせて瞬きする刹那を、ランサーは意図して狙う。
 敵を前にして愚か、などとは言うまい。ジェスターは己の視界など頼りになどしていない。しかしこれがフェイクであると分かりつつも、ランサーはこの機を逃すわけにはいかなかった。
 左足で大地を踏みしめる。ただそれだけで下にあるアスファルトが罅割れ砕け散るが、それも一瞬。わずか数メートルの距離。この距離は、槍の間合いだ。だから踏み込みはこれだけで良い。
 後は、右手を突き出せば、それだけ。
 次の瞬間に突き出された一撃を、ジェスターが回避することはできない。人としての機能を捨てることで、ランサーはより「神の宝具」へと近付きその威力を高めている。魔力が尽き欠けているアサシンが間に入ったとしても、先のようにこれを防ぐことなどできはしない。
 そして――。
 そして。
 放たれた創生槍は、次の瞬間に、地に突き刺さっていた。
 アサシンが何か仕掛けたわけではない。
 ジェスターが何か仕込んでいたわけでもない。
 ランサーが、この一撃を故意に外していた。全開の魔力を込める直前だったおかげで、魔力の消費も消滅ギリギリのところですんでいる。まさに寸でのところでからくもランサーは、

 己が主を殺さずにすんだ。

「がっ――!」
 ランサーが止まったというのに、悲鳴を上げたのは矛先を文字通り逸らされた筈のジェスターから漏れ出ていた。
 ランサーが知り得ぬことではあるが、血液が本体であるジェスターは身体の構造からして人間よりもどちらかといえば不定形であるランサーに近い。そのため眼球などに頼らずその身は周囲をつぶさに観察することができる。
 ジェスターに対して奇襲は通用しない。
 通用しない、筈だった。
 しかし、こともなげにその奇跡は成し遂げられた。
 何故、どうやって、などと言うのは無粋だ。如何にして奇襲を成し遂げたのか、それはランサーが一部始終を見ている。彼は近くに潜んでいたわけでも、高速でこの場に駆けつけたわけでもない。
 ただ、彼は突如としてその場に現れた。
 シュタッ、と彼は地面に華麗に着地し、喰い千切ったジェスターの喉笛を無造作に吐き捨てる。
 銀狼、だった。
 ジェスターにその救命装置を外され、いつ死んでもおかしくない、立ち上がることなど不可能である筈の銀狼が、そこにいた。
「ば、馬鹿なっ」
 銀狼に噛み千切られた喉笛は瞬時に再生するも、ジェスターの心に立った波風まではすぐさま収めることなどできはしない。
 奇襲を受けたことさえ驚愕。それを行ったが、あの銀狼であったことがジェスターの焦りに拍車をかける。
 分厚い窓越しに一秒毎に命が零れ行く様を見ていたランサーですら目の前の事実が信じられないのだ。殺していないとはいえ、殺すに等しいことをしていたジェスターがこの現実を信じられるわけもない。アサシンでさえ、その場から動くことすらできなかった。
「有り得ないっ! この私が手ずから確認したのだぞ! こんな、まるで――っ!?」
 自らの言葉に、ふと何かに気付いたようにジェスターは天を仰いだ。
 夜と見違えるばかりのその厚いスモッグから陽光が堕ちることはない。
 その光景を、ジェスターは聞いている。
 この光景に、ランサーは見覚えがある。
「この結界は――」
 ランサーが答えを出そうとする前に、『特撮ヒーローが変身を解いた後、何食わぬ顔で仲間の隊員のところに戻ってくる』ように無邪気に駆け寄る男が一人。
 いや、この男はいつだって無邪気であるか。
「ジェスターさん、アサシン、ランサー!」
「……フラット・エスカルドス?」
 妙なところで妙な人物が現れる。
 銀狼が突如として現れジェスターに牙を剥いている以上、これが偶然ではある筈がない。フラットが現れ出る時間差が、尚のことジェスターに焦りを産む。わざわざ一緒に現れなかった以上、フラットは何かを仕掛けている可能性が高まってくる。
「――やはりフラット・エスカルドス、もっと早くに処理するべきだったかっ!」
 状況を完全に飲み込めたわけではないが、ジェスターは己の不利を悟る。
 こうなった以上、ランサーが狼かフラットと契約するのは確実で、そこにジェスターが入り込む余地はない。フラットと銀狼を殺して黙らせるにしても、今度はアサシンがその凶行を阻んでしまう。それよりもジェスターですら気付かぬうちに取り込まれたこの結界から早く抜け出ねば、取り返しの付かぬ事態にもなりかねない。
「アサシンっ!」
 ジェスターが咄嗟に身を翻しアサシンを捕まえようと手を伸ばすが、その前にランサーがアサシンの身体を捕まえ抱き寄せる。令呪で守護者となったアサシンも、直接的にジェスターの支配下に入っているわけではない。傍にいる狼もそれを理解しているのか、むしろ積極的にジェスターとの間に入ることで、ジェスターが手出しし辛い状況を生み出していた。
 そして、アサシンも、ジェスターの手を拒絶していた。
 夢にまで見た光景であろうが、ジェスターはアサシンのその顔に愕然とする。
 その顔に、悩みはあろうと、迷いがない。
「ジェスター、私はこの現状を見過ごすことはできません。神のために――私を助けてくれた全ての者のために、私はここで立ち止まることは許されない」
 不意を突くアサシンの言葉に、ジェスターは呆然となる。
 アサシンは、神の存在と、自らを助けてくれた全ての者とを同列に語った。そして異教の教義に毒された自分の存在をも肯定している。狂信者たる自分が神に代わってこの地を救えることに、喜び色すらそこにあった。
 フラットが近付いたことで、アサシンは最初の出会いを思い出す。
『関係ないよ。他人が傷ついていて、自分には治す術がある。なら、僕は治してあげようって思うんだ。
 だって、痛いのってイヤじゃない?』
 実に、馬鹿馬鹿しい台詞だ。
 そんな愚かなまでの善意に、アサシンは突き動かされた。
 アサシンには、力がある。他人には決して実行できぬ、奇跡を行使する能力が。
 まずはそう、例え何があったとしても、できることがあるのなら、それをやってみるべきだ。それが神のため。神が使わした私の役割だ。
「ジェスター、あなたに感謝します。守護者として命じられなければ、私は要らぬ血を流し、神の名を汚すところでした」
 屹然と言い放つアサシンの言葉に、ジェスターはキッと振り返りフラットを睨み付ける。
「……――やってくれたな、小僧!」
「何で俺怒鳴られてるの!?」
 ようやくこの場に駆けつけることができたフラットにジェスターは罵声を浴びせるが、当の本人は何のことだか分からぬ顔をした。何をしても本人にその自覚がないので罵り甲斐のない男である。
 もちろん、フラットがジェスターに対して何かしたということはない。
 強いて言うなれば、基地の脱出途中に銀狼を保護したくらい。それでも、別に回復させたわけでもなんでもない。ランサーの危機に銀狼が駆けつけたのは、純粋に彼の意志であり、アサシンに至っては勝手にアサシンが立ち直っただけである。
「……アサシンが絶望に染まる時、もう一度私は会いに来る。それまでせいぜい生き延びておくことだなっ!」
 悪役が去り際に放つお決まり台詞をそのままに、ジェスターはそれぞれを睨み付けながら、その身を虚空へと退場していく。
 ジェスターは消えた。
 この場には、憑き物が落ちたようなアサシン、ランサーに擦り寄る銀狼と銀狼の毛並みを優しく撫でるランサー、そして何が何だか分からないフラットが残された。
「えっと……?」
「心配は要りませんよ。ジェスターはもうアサシンの前に現れることはないでしょう」
「どういうこと?」
 ジェスターは敵だという認識がないフラットに、ランサーが一々説明することはない。
 だから、結論だけをフラットに告げる。
「今暫く君がアサシンを支えてください。それだけで、アサシンは世界と向き合えます」
 やはり首を傾げるフラットをそのままに、ランサーは迷わず銀狼の手を取り、主従の契約を再度果たした。余分な令呪がないためその手に令呪が現れることはなかったが、確かにこの瞬間、ランサーと銀狼との間に魔力のパスが通る。それは両者の強い絆を表すように、強く太い確固とした道だった。
 魔力が、ランサーの身体に満ちつつある。
 銀狼が、今どういった状況にあるのか、ランサーは分かっている。この地であっても、銀狼の容態が良くなったわけではない。銀狼がこうして立ち上がり、ランサーと共に戦えるのは、消えかけた蝋燭の最後の輝きに過ぎない。
 銀狼を思うのならランサーは銀狼ではなくフラットと契約するべきだった。
 それでも、ランサーは迷わなかった。
「私たちも急ぎましょう。戦闘はまだ終わっていません」
「フラット、早く私の怪我を癒やしてください」
 状況を伝えるべく走ったフラットであったが、そんなことは不要だった。
 アサシン、ランサー、フラット、銀狼が戦線へと復帰する。
 六柱の英霊が、戦場へと集まりつつあった。


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「――これで、私ができる仕事は終わりだな」
 結界を張り終え、黒く夜のように染まった空を見ながら、バーサーカーは己の身体から漏れ出る黒い霧の放出を止めた。
 直径一〇キロ四方を覆う程の超巨大結界(暗黒霧都(ザ・ミスト))。気象学的には既に霧ではなく靄である。これをわずか数分で完成させたのはある意味凄いことであるが、残念なことにこの結界に本来の能力はない。適切な大きさと適度な魔力濃度であれば結界内の人員に多大な被害を与える大災害であるが、これだけの規模になるとコントロールなどできはしない。
 この結界は外界と遮断するためだけのために張られている。
 全ては、犠牲を最小限に抑えるために。
 中で戦う全ての者たちが、心置きなく戦えるために。
「ありがとうございます、バーサーカーさん」
 精も根も尽き果てたバーサーカーに、労いの言葉がかけられる。そんな言葉が、バーサーカーにはこそばゆい。
「礼を言うのは私の方だ。こんな私が役に立てるのも、君の――君たち二人のおかげだ。繰丘椿、ライダー。ありがとう」
 バーサーカーにはもう立ち上がる体力もない。魔力だってライダーから供給を受けることで賄われている。本来なら戦闘能力を失った殺人鬼など、何の価値もない。そんなものに魔力を供給するなど無駄遣いもいいところ。
 だからこそ、バーサーカーは椿とライダーに感謝する。
「そんなことないです。バーサーカーさんがいなければ、カルキさんをこの結界に捕らえることはできませんでした」
「それはフラットの手柄だ。彼のサーヴァントとして誇らしく思うが、それは彼に直接言ってあげて欲しい」
 椿の言葉にバーサーカーは力なく笑って否定する。
 バーサーカーの解析能力は、確かに秀でているものではあるが、それだけだ。対象を襲い、解体し、その眼で直接確認しなければその能力が十全に発揮されることはない。一目で未知を既知と化し触れずして相手を解体する天才を前にあっては、多少優秀程度では到底及ぶべくもない。
 バーサーカーがしたことと言えば、そのフラットを多少手助けした程度。結界を張るのに必要な情報だっただけに、もしかすると手助けどころか足を引っ張っていたかもしれない。
 けれどもわずか数分という短時間で、奇跡とも言える成果を得ることはできた。
 外界と隔絶させるバーサーカーの結界、カルキを巧みに誘導するフラットの解析能力、それらを下支えするライダーの魔力総量、多くの人を救おうと動いた椿、そのどれか一つでもこの場で欠けていてはカルキを嵌めるなどできよう筈もない。
 いや、これだけでは足りないか、とバーサーカーは最後の一人に声をかける。
 この場で最も多くの人命を救った大英雄を忘れてはいけない。
「改めて感謝します、大賢者殿」
「礼には及ばぬ。どんな形であれ、無辜の民を助けることに私が助力を惜しむことはせん」
 その大英雄は、額から角を生やした白髪の老人の姿で召喚された。
 角はともかく、一見すると穏やかそうな顔と苦労をしてきた皺に好々爺とした印象を受けるが、そのローブの下から時折垣間見える筋肉は伊達ではない。彼は指導者としてその名を馳せているが、同時にその肉体で死の天使サマエルと戦い勝利した逸話を持つ戦士でもある。
 彼こそが、旧約聖書の『出エジプト記』に記された古代イスラエルの民族指導者。神よりイスラエル人を乳と蜜の流れる地、約束の地カナンへと導く使命をうけた大英雄。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教およびバハーイー教など多くの宗教において、もっとも重要な預言者の一人。
 大賢者モーセその人である。
「君もこの地より立ち去るなら送り届けるが?」
「こんな殺人鬼にもったいないお言葉。ですが、頂戴するだけにしておきましょう。私はこの戦争の行く末を見届ける義務がありますので」
「ならばそうすると良い。悔いを残さぬようしっかり見届けなさい」
 約束の地を目前にしてこの世を去った大賢者はバーサーカーの言葉に一人頷いた。
 カルキ覚醒後の救世剣ミスラの一撃、そして神槍グングニルの衝撃はその付近の人間を全員殺してまだお釣りが来る破壊を周囲にもたらしていた。なんとか安全域に退避できていたのはおよそ二〇万人。本来であればこの時点でスノーフィールド市民の内、脱出に間に合わなかった六〇万人は全滅する筈であった。
 それを阻止すべく召喚されたのが、この英雄が持つ奇跡である。
 宝具(神火の導き(エクソダス))
 かつてエジプト軍に追い詰められた際に紅海を割って脱出路を作り出した奇跡が宝具となったものである。避難民に対して脱出路を形成するこの奇跡は、こうした状況であれば尋常ならざる効果を発揮していた。この宝具と椿とライダーの活躍によって、一般市民への犠牲者は奇跡のようにゼロである。
 とはいえ、その代償は決して小さくない。《神火の導き(エクソダス)》そのものには然程魔力が必要なかったとはいえ、六〇万人をスノーフィールドの外へ脱出させるのはいかにモーセといえど賄えきれる魔力量ではない。モーセが高位の英霊ということもあって短時間の召喚ながら東洋人は令呪を二画消費し、八〇万人に“感染”したライダーですらその総魔力の五割を消費することになった。
 そして今は残りわずかな現界時間を有効に活用するべく、東洋人と銀狼をそれぞれの目的の場所へと送り、戦い傷ついたヘタイロイを随時戦場から結界の外へと運んで貰っている。そんな細かな芸当ができるのもモーセだからであろう。
「しかし、君のマスターはそそっかしいな。私が送れば一瞬であったというのに」
 銀狼をモーセが送った瞬間に、フラットは「銀狼じゃ説明ができないよ!」と今更なことに気付き、引き留める間もなく慌てて駆け出していった。
 現状に絶望していないことは結構だが、もう少し緊張感があっても良いのではないかとこの場の全員が思う。
 このフラットの平常運転にジェスターがあらぬ疑いを抱き急ぎ離脱することになろうとは、いかな預言者といえど分からぬようである。
「ならば、そこのお二方はこれからどうしようと言うのかな?」
 その矛先を、モーセはバーサーカーから椿とライダーへと移した。
「私共に何かありますか?」
 平坦なライダーの口調ではあるが、心なしその声は疲れているようにも聞こえる。
「言葉通りの意味だ。既に君たちの使命は果たされている」
 数多の試練に耐え抜きその使命を全うしたモーセはあえて戦の勝ち負けなどを論議しない。挑むことに意義があるのならそれも良い。ここで見届けたいというのならそうしよう。死して得られることもある。
 だが、椿とライダーに限ってはそれが許されるバーサーカーとは違う。
 椿の望みは、無用な被害を出さぬよう市民を外に逃がすことで、カルキを結界内に閉じ込めることだ。そしてそれは既に叶ってしまっている。現状、結界にこれ以上手を加えることはできず、結界を支える魔力を供給している以上、結界内から離脱することは許されない。
 椿とライダーはこの場に居ることが重要なのであって、こんな戦場近くに留まり見届けることは推奨されないし、戦闘に参加するなど無謀極まりない。最も賢明な選択肢は戦闘に巻き込まれぬよう結界の端でひっそりと隠れ過ごすことである。二人が死ねばせっかくの結界は崩壊し、避難した市民はその命を再び危険に晒すことになる。
 責任を感じ「何でも」すると言う者は多けれど、その中には「何もしない」という選択肢も含まれていることを理解せぬ輩は多い。幸いにして――不幸にも、聡い椿はそのことを理解していた。
 だから、椿は己の心を隠す。隠そうとしていた。
 それを預言者は見咎める。
 そしてあろうことか、椿の背中を押すような言葉を放ってみせた。
「これより先をどうしようとも、君たちを非難する権利を持つ者は誰もいない。戦っても良いのだ。後になって悔やむと分かっているのであれば、尚のこと」
「……それは、許されることではありません」
 椿に代わってライダーがモーセの言葉を否定する。
 椿の心がどこにあるのか、それは周知の事実。だがこの場の状況がそんな私心を許すわけがない。椿はマスターとして、ライダーがこれ以上責任を被らぬようにする義務がある。ただの善良な市民としても、多くの市民を危険に晒すような真似は到底許されることではない。
「繰丘椿。あなたは動くことで罪を償おうとした。そして今は動かぬことで罪を償おうとしている。それは非常に正しい行為だ。私の眼からも、そう見える」
 予言者は椿の肩に手をかける。
「だが、あなたはあなたの心を犠牲にしてはならない。エジプトの初子を代価にファラオから許しを得た私だ。罪もない彼等に犠牲を強いたことは、私の後悔のひとつでもある。椿、君によって助けた民草がこれを知れば、きっと彼等は後悔し、その罪を背負うことになる。そんなことを、彼等にさせてはならない」
 正否の問題ではないのだ。
 釣り合うかどうかも問題ではない。
 問題ですら、ない。
「だから、椿。自らの心を偽らずに最善と思うことをしなさい。ライダー、椿を罪深き者にしたくなければ、死力を尽くして事に当たりなさい。その結果どのようになろうとも、きっと神はお許しになる」
 その言葉に、椿は逡巡する。
 ライダーに心を手に入れさせた椿が、その心を押し殺す。そんな皮肉にライダーは心躍らせる。結果は、もう分かりきっていた。
 椿の視線が、バーサーカーへと向けられた。
「結界の維持管理くらいなら今の私にもできる。気にすることはない」
「……――あり、がとうございますっ!」
 モーセに押された背中は、椿に新たな一歩を踏み出させる。
 一歩が出れば、二歩目は容易い。椿の傍らにはライダーもいる。共に歩み行くのであれば、これほど心強い者はいまい。
 小さな戦士が、戦場へと駆け出していく。
 そんな小さな背中を、バーサーカーは動かぬ身体で見送った。モーセは椿を激励した時のまま、動かない。
「……随分とこじつけがあったように思えますが?」
 あっという間に消え去った背中を未だに見つめるバーサーカーの言葉にも、モーセは動かなかった。
「物事に犠牲は付きものです。それは理屈だけで理解しきれるものではありません。人を殺しながら一度は逃げ出した私だって、納得できるものではありませんでした。そのようなものを、あんな幼子に全てを背負わせるとは余りに酷というものでしょう。犠牲になる者――いや、救われるべき者にだって順序があります」
 私はそれを正しただけです、とモーセは言い繕った。それで八〇万市民が納得するとは思えないが、知りようのないことを納得する必要はあるまい。
 この聖杯戦争の事実が外に漏れることはない。八〇万市民の意識は今も朦朧としており、事が終われば協会なり米国なりが適切な処置をどうせしてくれるのだ。他者の目など気にして躊躇するくらいなら、その枷を外してやった方が良い結果に結びつくというものだ。
「それで、わざわざ危険を冒して椿を激励したのです。戦況は芳しくないようですね」
「そこを見通せているのだから、君は指導者に向いているのかもしれないな」
「いえいえ、私などせいぜい詐欺師止まりでしょう」
 子孫がああも問題児であれば尚のこと。
 バーサーカーが戦況を推察したのは、単純に聞こえてくる剣戟の数が少なくなりつつあるからだ。アーチャーの一斉掃射に轟音は絶えず聞こえてくるが、その中にヘタイロイが奏でるものがない。
 モーセが犠牲を顧みずに椿を送ったのは、同じ犠牲を払うのならば、救われる者を増やしたいというシンプルな理屈。全滅しかねない状況にあって予備戦力を出し惜しみするのも馬鹿馬鹿しい。
 カルキを結界に閉じ込め、アーチャー、キャスター、ヘタイロイによって攻め続けてはいるが、これでもカルキを倒しきることは難しい。すぐに行き詰まるのは間違いない。事実、行き詰まった。
「それで、改めて聞きますが、戦況は?」
 バーサーカーの問いに、モーセは自分の役割が終わったことを告げた。
「今し方、ヘタイロイが――全滅した」


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 戦況は誰もが予想した通りに推移していた。
 数で囲み、数で押す。最低でもスリーマンセルで敵に当たり、常に一対多で行動することを心掛ける。そもそも質で劣る彼等に一騎打ちという概念はない。キャスターの三銃士とアーチャーの宝具で制空権は確保され、戦場は完全に支配されていた。
 並の軍ならこの一方的展開に為す術もなく全滅するところであるが、あいにく相手は最終英雄カルキその人。そのカルキから生まれ出てきた《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》も一体で一軍を相手取れる化け物揃いである。《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》が一線級の魔術師で構成され、数多の宝具で武装しようとも、本質的な戦力差は如何ともし難い。
 結局、《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》は時間稼ぎに終始するのが精一杯。《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》の突進を食い止め、その隙にアーチャーが思い出したかのように上方より串刺しにする。傷ついた者はモーセによって移動させられはしたが、彼等の全滅は避けられない運命にあった。
 《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》の全滅に止めを刺したのは、カルキが《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》に新たな使い方を覚えたことによる。
 自らの肉体を切り離すことで生まれる《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を、カルキは高速で射出する。その巨体は近・中距離を制圧することに長けているが、長距離攻撃手段には乏しい。それを補わうために編み出した使い方である。
 文字通りの生きた弾丸は、ただの一斉射で弱まった《王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)》を残らず食い破った。庇うようにキャスターのボルトスが咄嗟に間に入りはしたが、それでも運命は変わらなかった。鋼鉄の身体を容易く食い破られ、ボルトスは再度立ち上がることができず、崩れ落ちた。
「■■■■■■――――!!!」
 周囲を囲む蟻に加え、鬱陶しい蚊蜻蛉も一体落ちたことで巨人は歓喜の声を上げる。
『すまん、しくじった!』
「構わん。奴に有効な攻撃手段として認識させただけまだマシだ」
 キャスターは自らの選択ミスを謝るが、アーチャーはそうは捉えない。《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》によってカルキは分裂すれば分裂するほど、カルキ本体の質量を削られ弱くなる。厄介ではあるが、やり過ごせればそれに見合った釣果はある。
 とはいえ、元からいた《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》もまだ数体は残っている。これらを捌きながらカルキに救世剣を使わせないよう攻めるのは、アーチャーであっても難しかった。
 ヘタイロイが全滅し《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を抑える者がいなくなれば、面倒なことになりかねない。まずはこの多勢を何とかする必要がある。
「キャスター、我を護れ。乖離剣を使って奴らを駆逐する」
『アイアイサー!』
 アーチャーの命令にキャスターは瞬時に応じる。乖離剣のデータはキャスターにもある。構えて放つまでのタイムラグは無視できるものではない。それにカルキが乖離剣を確認すれば、救世剣を使うのは確実だろう。
 そう何度も使える手ではない。ならば出し惜しみはなしだ。
 キャスターはアラミス、ダルタニアンをアーチャーの左右を侍らせて《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を押しとどめ、残ったアトス一体でカルキへ無謀な特攻を行わせる。ここで確実にアーチャーに先手を取らせねば、次がない。
 キャスターの判断は、正しかった。
 アーチャーが虚空から乖離剣を取り出した瞬間、カルキの反応が一変する。
「■■■■■■――――ッ!!!」
 カルキは同時に二つの脅威を検知する。一つは特攻するアトス。そしてもう一つが遠くでアーチャーが構える乖離剣。より脅威度が高いと認定されたのは後者だ。
 真っ正面からスラスターを全開にしてぶつかるアトスを受け止めながら、慌てたようにカルキは救世剣を構える。邪魔するアトスを《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を至近距離から滅多矢鱈に撃ち出して排除しようとするが、もう遅い。《方舟断片(ノア)》は“剣”から“盾”へとモードチェンジさせてある。“鎧”でないため全体のダメージをゼロにすることはできないが、それでも数秒の時間稼ぎはできた。
 過去のデータから、乖離剣と救世剣では発動までの時間に大差ない。
 出遅れたカルキが先制することはもはやできない――!
「仰ぎ見るが良い、《天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)》を――!!」
 英雄王が、その歪な剣を解き放つ。
 目標すら必要としない対界宝具であっても、その矛先はカルキをはっきりと捉え離さない。虚空を穿ちながらカルキ迫り来る暴風は、それだけでアーチャーの狙い通りに周囲から襲いかかろうとする全ての《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》を奈落の渦へと呑み込んでいく。
 救世剣を構えながら、わずかでも距離を取ろうと背後に跳ぼうとするカルキであるが、しかしその足を死に体のアトスが掴んだ。
 直撃は免れない。
 不安定な足場のまま、カルキは救世剣を解き放つ必要に迫られた。
 それはどうしようもない選択肢。避けることも、先制することも許されない。ならばもう、防ぐための手段を講じるより他はない――

 ――筈だった。

 他に選びうる選択肢があるなど、一体誰が思おうか。
 確かにカルキは万能である。あらゆる事象に対して対抗策を練れるだけの頑強さと柔軟性がその肉体に宿っている。だが、神ならぬ英雄であれば全能ではない。付け入る隙は必ずある。
 それが、この一撃。
 回避は不可能。防御も無駄。
 予定通りに、カルキは救世剣を確かに撃ち放った。両者の間で破滅の刃は互いにぶつかり合い、天は干上がり、時の流れもせき止められ、銀河の形すらも変えかねぬ、究極すらも生温い極致を見せつける、筈だった。
 誰もが脳裏に思い浮かべたそんな瞬間は、見事に裏切られた。
 救世剣から光の柱が解き放たれる。極大威力の《天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)》とそれは真っ正面からぶつかり――そのまま素通りした。
 何が起こったのか、誰にも分かるまい。互いにぶつかりながら、ぶつからない。そんな矛盾がここに起こる。
 アーチャー、そしてキャスターは完全に見誤っていた。
 乖離剣であれば、カルキは救世剣を使うという推測。それが正しいことは証明された。が、何故救世剣をカルキは使うのか。そこに大きな誤りがある。
 失念していたのだ。救世剣ミスラは、望んだ対象にのみ、その影響を与える。中和、拡散、均質化、圧縮、相殺、歪曲、その他どんな手段を取っても救世剣はカルキの思考を読まぬ限りは迎撃することができない。
 その特性は、《天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)》にだって通用する。
 あろうことかカルキは、救世剣を迎撃などに使いはしなかった。
 目標は、乖離剣を放つアーチャーそのもの。
 最終英雄は、防御の代わりに攻撃を取る。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッ!!!」
 巨人が叫ぶ。
 本日三度目となる極大の威力の攻撃をその身に受ける。迎撃をしないのだ。解き放つタイムラグがある限り、救世剣より乖離剣の方が早く相手に届く。三度受けたからといって慣れるというものではない。
 乖離剣は、その威力を言葉で語れるほど生易しいものではない。森羅万象の悉くを崩壊させる以上、威力を論じるなど馬鹿馬鹿しい。
 当たれば消滅は免れない。
 この決定に、異論を唱えられる者などいよう筈もない。
 カルキも異論は唱えなかった。
 特級の宝具ですらろくに傷つけることもできなかったカルキの身体を、《天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)》は容易く両断し、破砕し、灼き尽くし、塵と化してみせた。
 完全消滅――いや、まだその場に残っているモノがある。
 その場に、ドシャリと落ちるモノがある。
 カルキの頭部、そして救世剣を持ったままの右手である。
「■■■■■」
 この状態であっても、まだ最終英雄は動きを止めない。
 よくよく周囲を見渡せば、再起不能である点では同じであるが、まだまだ塵と呼ぶにはやや大きい程度の滓もある。そしてカルキの身体があった場所より後方は、明らかに被害が小さくなっている。
 全てを平等に呑み込む必滅を体現しながら、最終英雄の身体は無視し得ぬほどに強大であった証である。いやさ、世界よりもなお深く、広く、遠い存在であった証左ともいえよう。カルキがもし完全な状態で乖離剣を受け止めることができたのなら、あるいは原型を留め耐えきることもできたのかも知れない。
 こうして、《天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)》の直撃を受けながら、この最終英雄は生き残るという快挙を成し遂げてみせた。
 もしカルキにまともな思考があったのならば、ここで喝采していたことだろう。共に絶死を免れぬ一撃同士、互いに直撃しながら生き残ったということはそれ即ちカルキが勝利したことに等しい。
 もっとも、カルキにまともな思考は存在しない。
 乖離剣を持ったアーチャーがまだ生き残っていることを前提に、その身を集め形を整え、慢心して周辺観測を怠るようなことはしなかった。
 そしてそのカルキの行動は正しかった。
 カルキが最初に見た光景は、覆い被さるように展開された黒く黯く暗い塊。見る者が見れば、それが本来は形を持たない混沌の塊であることに気づけただろう。それは原始の海とも呼ばれる生命の記憶そのもの。

 創生槍ティアマトの生命爆発。
 ――《天命渦巻く混沌の海(ムアリダート・ギムリシュン)》に違いなかった。

 カルキが犯した失敗は、救世剣の消滅対象設定を“生命存在”にしていたこと。次元断層という純粋エネルギーでは救世剣を防ぐことはできないが、生命の原典を解き放つ創生槍であれば救世剣から放たれる光の柱を受け止めることはできる。
 少し離れたところで、ランサーがその創生槍を繰り出す姿勢で膝を付いている。
 銀狼と再契約したことでランサーの魔力は多少回復しているが、それでもこの短時間に大技を放てるほどには回復していない。今の《天命渦巻く混沌の海(ムアリダート・ギムリシュン)》にしてもかなり無理を要したが、それでもかつてライダーへ向けて放った一撃の一割にも届かぬ量でしかない。
 全力であれば互角に耐えることもできたのであろうが、蓋を開ければ拮抗できたのは、わずかに一秒足らずでしかなかった。
 アーチャーが居た場所を覆い被さるように展開された混沌の塊には、大穴が空いている。大穴が空いた向こうに、乖離剣を放ち終えたアーチャーの姿はどこにもなかった。
 これはカルキにとって嬉しい誤算だった。
 乖離剣に引き続き創生槍を防御ではなくカルキに向けて解き放たれていれば、いかに出力が落ちていようと、カルキに抗う手段は残されていなかった。特に、今の状態であれば、避けることすらままならない。波状攻撃こそ、今のカルキが最も忌避すべき戦法であろう。
 その可能性が、ここで潰える。
 アーチャーをその両側で護っていたアラミス、ダルタニアンの両機も乖離剣で大気がかき回されたことで通信障害に陥っている。所詮は試作機ということもあって、スノーホワイトのサポートなしでは自律制御で動くこともままならない。その手にある《方舟断片(ノア)》も空間座標が固定された“檻”へと戻っている。
「■■、■■■!」
 それはもしかしたらカルキが大笑している声なのかも知れない。
 残ったカルキの肉体は右手と頭部のみ。
 それであっても元の大きさが五メートルを超えるような巨人である。多少の欠損があってもその肉の量は再度身体を構成するのに十分すぎる量がある。
 自ら残された血肉を材料に、最終英雄はその姿を人間大のサイズに一新する。破壊と再生はこの英雄のお家芸みたいなもの。自らを対象としてもそれは変わることはないらしい。その気になれば、土塊からパンを作り出し、泥水をワインに変えることだって不可能ではない。
 多大な魔力を消費し再構成された身体は人間の形を模していた。
 大きさは一般成人男性程度か。形を模しているだけで、そこに鎧どころか服や装飾すらもなく、黒々とした硬質な肌が剥き出しとなっている。その顔も目鼻耳口などは余分とばかりにどこにもなく、当然そこに表情などがある筈もない。ストリートのウィンドウに立っているマネキンだってもう少し表情は豊かに、動きだって生き生きとしている。
 マネキン以下の姿と成り果てても、それでもカルキはカルキだった。巨人サイズにあってようやく釣り合いの取れていた救世剣をその手は軽々と持ってみせる。軽く振り回して感触を確かめ――

【……回想回廊……】

 背後に向けて全力で救世剣を振り回す。
 以前の巨体ならまだ対応できなかったであろうが、サイズが小さくなったことでパワーは落ちつつも俊敏性は遙かに上がっている。
 奇襲に飛び出た直後に目の前に迫る大剣を、アサシンは避けることも防ぐこともできずにいた。
 だから、アサシンに代わって共に奇襲を仕掛けたアーチャーが手にした乖離剣で救世剣を受け止めてみせた。
 並の宝具なら衝撃だけで耐えきれず砕け散るところであるが、さすがは乖離剣、その能力と共に頑強さも桁違いである。
「貸しは返したぞ」
「その程度では利子分にすらなりません」
 受け止めた救世剣をそのままアーチャーが押さえ込み、アサシンが両手にナイフを持って接近戦をしかける。アサシンのナイフはリーチが短く重さがないため一撃必殺には向かないが、変幻自在な軌道と手数の多さはここでは何よりの長所となる。
 嵐のようなアサシンの連撃ではあったが、それでもカルキを焦らせるには至らない。
 片手で児戯のようにアサシンを精密且つ正確にあしらい、片手で玩具のようにアーチャーを救世剣で弾き飛ばす。アーチャーが弾き飛ばされる直前にアサシンの襟首を掴んでいなければ、アサシンの身体はそのまま素手で解体されていたことだろう。両者の距離が、一気に五〇メートル以上も離れる。間髪入れずアーチャーは宝具を驟雨の如く投射するが、その全てをカルキは精緻且つ確実に迎撃してみせる。
「奇襲にも、我が生きていることにも驚いた様子はないな」
「そもそも彼にそうした感情があるとも思えませんが?」
 襟首を引っ張られた情けない姿のままにアサシンはアーチャーの一言に疑問を呈す。たった一度の接敵で使い物にならなくなったナイフを放棄し、次のナイフをローブの下から取り出した。一体何本あるのか気になるところである。
 乖離剣と救世剣、どちらも互いに互いの主を直撃していた。
 カルキは自らの肉体で乖離剣を耐え抜いただけだが、救世剣を拒絶するような類の盾や鎧はいかにアーチャーといえど持ってはいない。アーチャーが生き残れたのはランサーの《天命渦巻く混沌の海(ムアリダート・ギムリシュン)》による時間稼ぎとアサシンの回想回廊によるもの。アーチャー単独であれば、どうにもならず消滅するより他はなかったことだろう。
 惜しむらくはこのせっかくのチャンスを活かしてカルキが形を整える前にケリを付けたかったところだが、アサシンもランサー同様に魔力不足が深刻になっている。こうしてランサーと駆けつけたところで宝具を乱発することは難しい。
 アーチャーとランサーは、カルキを挟み一〇〇メートル以上も離れながらもお互いの姿を認識した。これが何も知らぬ者であれば礼の一つでも考えないこともなかったが、相手が朋友であるのならば、今はする時でないとアーチャーは判断した。
 それはランサーも同じ事。だから二人はこうして面と向き合っても話しかけることはしない。
 彼等が真に語り合う場は、ここではない。
「それで、どうするつもりですか?」
「ふん。業腹だが、ここまで追い詰めてもまだ奴の方が上だ」
 立ち上がってそのまま突進しようとするアサシンの襟首からアーチャーは未だ手を離さない。しかたなくアサシンはアーチャーに策を問う。
 乖離剣によって周囲数百メートルは遮蔽物のない完全な平地と化し、数の利を活かしやすい。幸いにして、アーチャーは朋友たるランサーと一度戦ったアサシンの技量も把握している。これらを踏まえてカルキの実力と特性を冷静に見比べれば戦術を組み立てることは十分可能だ。
 撤退戦術は選べそうにないが。
「キャスター、聞こえているな?」
『……――何とか聞こえてはいる。お前らの状況もモニターくらいならできている』
 ノイズ混じりではあるが、再起動したダルタニアンからキャスターの声が出力される。共にアーチャーの防衛に当たったアラミスも目立った被害があるように思えないが、胸部の一部が歪に歪んでいた。これが致命傷らしく、再起動できる様子もない。
「動けるか」
『そっちも何とか、だ。だが、主機出力が思ったよりもあがらねえ。アラミスを捨ててバックアップ演算をダルタニアンに集中させるが、戦力比は七割ダウンしていると考えてくれ』
 各種スラスターを軽く噴かして調子を確かめるキャスター。機体を軽くするため増着装を排除したわけだが、高機動戦闘ができないとなると、一気にこの機体の利用価値が低くなる。四機でようやく牽制できたというのに、一機ではまともに相手もできないだろう。無駄と承知でオプション兵装も積んでおくべきだったか。援護するにしても選択肢がなければ適切に動くこともままならない。
「ならば相応に動いて盾となれ」
 キャスターの報告にアーチャーはにべもない。ダルタニアンが持つ《方舟断片(ノア)》はカルキにダメージを与えられる数少ない武器ではあるが、当たらぬ武器に意味はない。無人機であれば遠慮の必要もない。
「それより、“荷物”は届いたな?」
『確認したかったのはむしろそっちか。もちろん届いたぜ。今スノーホワイトに接続して仕組みを解析させているところだ』
「ならば演算処理とやらはそっちに集中させていろ。貴様は貴様にしかできぬ仕事を優先しておけ。片手間にできることではあるまい」
『ありがた過ぎて涙が出そうだ。その意味が分かって言ってるんだろうな?』
「忖度する必要はない。早くしろ」
 苛立つアーチャーにキャスターは軽く応じてみせる。キャスターに指示を出したことでダルタニアンの機動力が更に低下することは避けられない。戦局そのものに大した影響がないとはいえ、それでも戦力が落ちたことには変わりない。
「何を企んでいるのですか?」
「戦後処理だ」
 いぶかしげに問うアサシンをアーチャーは一言で片付ける。
 今後があるマスターであればこうしたことに東奔西走するのは理解できるが、後を気にする必要のないサーヴァントが一体どんな戦後処理をするというのか。
 多少興味は引かれたが、そんなことを気にしても仕方がないとアサシンはすぐに諦めた。どうせこれ以上聞いてもアーチャーは答えないに決まっている。
 ただ、アーチャーがカルキに対し勝利するつもりでいることは理解できた。
「それで、作戦は決まったのかしら? いつまでもアレが大人しく待っているとは思えないのだけれど?」
 アサシンが言う通り、救世剣を構えるカルキがこうしていつまでもこちらの出方を待ってくれる保証はなかった。
 こうしている間にもアーチャーは秒間六〇もの宝具を全方位から投射し続けている。これだけの宝具の連射に足止めできているようにも見えるが、実際のところカルキにはまだ余裕がある。その証拠にカルキの頭部にある眼と思しき窪みは絶えずアーチャーを見続けている。
 時間が指し迫りつつあるというのに、カルキは先のように力任せに突撃を仕掛けてこない。ここまで追い詰められたことで先程以上に不用意に動けないことを理解している。先程はまだカルキの肉体の質と量も十分であったし、《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》もあって死角から襲いかかられるということもなかった。
 だが今は乖離剣と創生槍という無視できぬ得物を持った二人がカルキの前後を挟んでいる。一撃で相手を倒せぬ上に一撃で倒されかねぬ状況では、さすがのカルキもこれを何とかするべく考え始める頃合いである。
 このままでは、アーチャーたちが選択できない撤退戦術をカルキが取ってしまう可能性もあった。本格的に逃げられると追撃は困難を極める。そのためにはどうしてもこの場にカルキを釘付けにしてしまう必要がある。
 ここいらが限界か、と考えた頃に、ようやくその兆候をアーチャーは感じ取り、宝具の投射をストップした。
「貴様とランサーが前衛、我が後衛。この木偶が盾だ。奴が殴られた瞬間に一斉に仕掛ける」
「……殴られたら?」
 順当な作戦――というより配置だが、合図というには少々不可解な指示がアーチャーの言葉にあった。アサシンの猛攻を片手で捌くような猛者を相手に、一体誰が殴り飛ばすというのか。
 アサシンの疑問は程なく解消される。
 頭上より、それは来た。
 スノーフィールド全域を覆う漆黒の結界はバーサーカーの宝具(暗黒霧都(ザ・ミスト))。その結界の一部が、大きな塊となって、頭上より降り注いでくる。
 直径は小さいもので数センチから大きいもので二メートル程度。数は大小合わせて一万を超えている。そんな黒色の雪が隕石よろしくカルキの元へと降り注ごうとしていた。
 勿論それらは虚仮威しに過ぎない。《暗黒霧都(ザ・ミスト)》の正体は石炭の煤煙であり、それを凝縮させて落下させているだけ。最も大きいものが直撃したところでダメージを期待できるような攻撃ではない。
 その程度のこと、一目でカルキも見抜いている。
 カルキはその場で救世剣を構えたまま、降り注ぐ《暗黒霧都(ザ・ミスト)》を無視して動かず、目前のアーチャーと背後のランサーに気を配る。アーチャーの投射が止んでいる今こそカルキが攻勢に転じる好機なのだが、あからさまな罠の気配にカルキも動けずにいた。もしくは単純にとまどっているだけか。
 とはいえ、カルキの判断は間違っているものではない。
 降り注ぐ《暗黒霧都(ザ・ミスト)》もこれだけの量にあってはそう長い間降り続くことはできない。足元を覆い隠す程に降り積もる黒色の量からもそれは明らか。だから、降り終わった瞬間こそが両者が動き始めるタイミングだった。
 それまで誰もがそこを動けない。動かない。
 標的が動かないのだから、それを思いっきり殴り飛ばすことは、思いの外簡単であった。
 降り注ぐ《暗黒霧都(ザ・ミスト)》に紛れて上空よりソレは接近していた。極大の塊であればカルキも多少警戒したかも知れないが、直径一メートルも満たない塊では隠れようもないと高を括っていたのかもしれない。
 成人ならば、確かにこの大きさではどうにも隠れようがない。
 ならば、子供であれば。それも発育が送れた女児であれば。
 繰丘椿。
「――うわあああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!!」
 そこに技術などという高尚なものはない。
 拳を強く握り込むぐらいのことは出来ていたが、握り方は拙いので指を確実に痛める。フォームは滅茶苦茶だし、脇が空いて腰は入っていない。地に足を接着せずに放ったのだから、むしろ当てただけでも大したものであろう。
 だがその小さな拳に、山をも砕く魔力がライダーによって瞬間的に乗せられていた。
 やや斜め上方からカルキの左頬に向けて放たれた一撃は、見事その身体でクレーターを作り出して沈めてみせる。
 その瞬間を待っていたかのように、周囲に舞っていた《暗黒霧都(ザ・ミスト)》が一斉に人の形をとる。魔力こそ少ないが、姿形はこの場にいる全員を似せていた。遠くにいながらも、バーサーカーは全力で囮を務めてみせる。
 ここに、六柱のサーヴァントが、それぞれの形で戦場に馳せ参じた。
 最終決戦、その第二ラウンドが始まる。


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「■■■■■――――!」
 カルキが雄叫びを上げる。
 ダメージはあったが、身体はまだ動く。クレーターにその身を沈ませながらも、カルキは自らを殴り飛ばした椿に向けて救世剣を奔らせる。
 アスファルト混じりの固い地面であっても、カルキには何の障害にもならない。地面を紙のように切断しながら、あっけなく、カルキは華奢な少女の肉を裂き骨を断ち、胴を両断した。
 そのことにカルキが疑問を抱くには少々遅かった。
 救世剣の切れ味はお世辞にも高いモノではない。刃引きでもされたのかと思える愚鈍な鉄塊であるが、これは意図して行われたもので、これが完成形である。何故なら救世剣は罪深き者の処刑を執行するための処刑刀(エグゼキューター)でもあるからだ。
 この剣に必要とされるのは全てを両断する切断力などではなく、全てを圧倒する莫大な破壊力。だから処刑刀の先端に望まれるのは遠心力を増すためのバランス狂いの超重量である。
 神が用意したものにしては些か物理学に則っているが、おかげでカルキはその魔力を消費することなく自身が持つ肉体ポテンシャルだけで、複数のサーヴァントを相手取ることができていた。
 しかしそんな剣だからこそ、サーヴァントならともかく、人間の少女などという矮小な存在を斬ったことに手応えなど伝えるものではない。カルキは少女を斬ったのか、霞を斬ったのか、手応えだけで判別がつかない。斬ったことを目視しただけで、少女を殺したものと勝手に判断し、次なる目標を周囲に探す愚を犯した。
 斬られた少女の顔に、笑みがある。
 バーサーカーが無理をして大量に《暗黒霧都(ザ・ミスト)》を降らせ、無茶をしてそれをこの場の人間に似せて形作った理由。カルキ相手に児戯にも等しい行為だが、上首尾に運んだ。
 これは、囮。
 本物は、カルキの真下に既にいる。
「――もう、いぃっぱあぁぁつぅぅぅっ!!!」
 今度の殴打は、地に足が付いている。
 大地を言葉通り「踏み砕く」強烈な震脚。先の奇襲ではライダーはその気配を消すため肉体操作を行わなかったが、ここまで接近し密着すれば関係ない。椿の拳は既に血塗れとなっているが、あと一発くらいなら問題なく放つことはできる。
 寸頸。
 爪先から始まって、足首、膝、股関節、腰、肩、肘、手首。すべてをひねりながら、その力が拳に集約されていく。気合いを込めた椿の叫びに喉が傷ついた。この最終英雄相手に通用する技かは不安であるが、幾度となく放ってきた技は精錬され威力は当初の数倍に跳ね上がっている。そこに、ライダーは再度山をも砕く――否、山をも消し飛ばす魔力を練り込んだ。
 かつての巨人の姿であったのならあるいは効かなかったのかもしれない。
 恐竜が蟻を怖れる理由はないが、しかし熊と犬程度にその距離は縮まっている。

 空間すらも軋み砕ける一撃を、カルキの体内で解き放つ。

 これで勝てるなどとは思わない。
 けれども、これが椿とライダーに出来る最後の力だった。
「■、■、■、■、■、ッ――――」
 悲鳴などはない。
 嘔吐くように漏れる音だけが、カルキから漏れ出てきた。
 この近距離にあって未だカルキから反撃を受けない事実が、何よりの成果を物語っている。とはいえ、それも時間の問題には違いない。
 離脱は無理だった。
 古の城壁どころか城塞そのものを吹き飛ばせる出鱈目な拳だ。力を伝導していった両足から右手まで、残らずその負荷に耐えきれてはいなかった。骨は粉砕され肉は寸断。痛みはカットするまでもなく脳が拒絶していた。
 無事なのは左手一本だけ。
 これでは脱出などできよう筈もない。
 だから、
「あとは、お願いします」
 椿はこの瞬間を逃さず近付いたランサーとアサシンにバトンタッチした。
 カルキの動きは精彩を欠いていた。未だ動かぬ足を引き千切るように無理矢理動かしてアサシンの刺突を躱し、救世剣を盾にランサーの創生槍を受け止める。
 カルキの悪癖か、カルキは己の肉体ダメージを無視して動こうとする傾向にある。それはあの巨体があってこそ成り立つ荒技だ。ここまで身体が小さくなれば、それももはや限界。
 この機を、逃すわけにはいかない。
 畳みかけるようにスラスターを噴かし、ダルタニアンも《方舟断片(ノア)》を大上段に掲げて襲いかかる。その上でマシンガンのように宝具を投射するアーチャーもいる。
 こうした窮地にもなれば、カルキがしでかす悪癖がもう一つ。魔力放出。
 暴風のように一帯に放たれた魔力を、しかし全員読んでいた。ランサーはその場で創生槍を円錐に展開して留まり、アサシンは椿の身体を掴んで離脱。ダルタニアンは咄嗟に上へ跳んで難を逃れる。素早く動けぬバーサーカーの《暗黒霧都(ザ・ミスト)》が幾つか逃れられずに霧散し、軌道を逸らせぬ宝具が魔力放出に弾かれ地に突き刺さる。
 唯一今までと異なっていたのは、その魔力放出が一瞬で済まなかったこと。十秒以上も四方に魔力を放出し続け、誰も寄せ付けぬ即席の防御結界を作り出す。体勢を整えねばこのまま押し切られてしまうのをカルキも自覚していたのだ。
 アーチャーやキャスターの見立てではあと数分でカルキは活動限界を迎える。この魔力放出で、更に一分はその寿命を縮めていよう。次にこんな激しく燃えるような状況になれば、その蝋燭は確実に尽きることになる。
 暴風が収まった後には、最終英雄が佇んでいた。
 残り少ない寿命と引き替えに、椿とライダーに与えられたダメージからカルキは立ち直っている。
 魔力が底を尽き欠けた今であっても決して油断できる相手ではない。その膂力だけでサーヴァントを倒せる実力は健在なのだ。
 それに、救世剣は最後の一撃を残したままだ。
「アーチャー、乖離剣は使えないのですか?」
 その方が手っ取り早く方がつく。催促するようなアサシンの視線にアーチャーは首を横に振った。
「次を撃てばこの結界は確実に壊れる。相殺されぬと分かっていれば、おいそれと使えるものか」
「役に立ちませんね」
 アーチャーの出した結論にアサシンは不平を言うが、アーチャーにしてもそのことを不甲斐ないと思う。魔力供給がない今、アーチャーが放てるのは後一度限り。決定的場面でなければ使うことは許されない。そしてその一撃は恐らくこの場で使うことはできないと直感していた。
「では、作戦は今まで通りということですか」
 言いながらアサシンは傷ついた椿の身体をボールでも放るようにアーチャーへ投げつけた。前衛と後衛の役割が変わらないのであれば、保護をするのは後衛の役割だろう。しぶしぶアーチャーは椿の身体をやはりボールのように受け止めた。
「申し訳ありません。椿を説得できませんでした」
「子供とはそういうものだ。むしろ可愛げがあって良いではないか」
 椿、そしてライダーが消滅すればこの結界は崩れ落ち、全ては台無しになりかねない。だというのに、ライダーの言葉にアーチャーは気にも止めなかったとめない。何せ彼のマスターは歳は近くともそうした可愛げは皆無であった。多少うらやましいとすら思ってしまう。
「過ぎたことはどうでも良い。貴様はさっさと自力で動けるように努めておけ。最後の仕上げはお前のマスター次第だ」
「承知しております」
 八〇万人分の魔力を吸収しながら、今のライダーには椿の身体を修復させる余力すら満足に残されていない。市民の避難やこの結界を展開するのに力を使いすぎていた。最初からアーチャーにのみ魔力を供給していれば、乖離剣の乱発でカルキを倒しうることもできたかもしれないが、過ぎたことを考えても仕方がない。
 どちらにせよそんなことは有り得ない。そんな施しを受けるのはアーチャーの趣味でないし、何よりその場合、カルキに代わってアーチャーが世界を破壊しかねない。これが、被害が最も少ないベストな方法であると信じるより他はないのである。
「話は終わりましたか。あなたの命を助けた分、早く返して欲しいのですが?」
「この我にここまで悪態をつけた者は古今東西、お前くらいのものだ」
「お褒めに預かり光栄です、英雄王」
 皮肉などではなく、本気でアーチャーはその剛胆さを褒めたわけだが、アサシンはその言葉を誤ることなく受け取った。
「さて。では再度参りましょうか。アーチャー、援護しかできぬのですからしっかりしてくださいね」
 念を押しながら、アサシンは低空を薙ぐように疾駆を開始する。不満そうな顔をしながら、それでもアーチャーはアサシンを守るように宝具の射出を開始した。
「■■■■■■■■■■■――――――!!!!!!!!!」
 同時にランサーも逆方向から仕掛け、カルキがそれら行動に応えた。
 救世剣を防げるのはこの場では《方舟断片(ノア)》と乖離剣、そして創生槍しかない。しかし《方舟断片(ノア)》を持つダルタニアンは俊敏性に欠け、乖離剣を持つアーチャーは後方。消去法によってランサーがこれを受けざるを得なかった。
 創生槍と救世剣が火花を散らす。
 三メートルもある大剣は一撃を振るわすだけで大気を掻き乱し、周囲に立つのもやっとの暴風をもたらす。そんな中にあれば《暗黒霧都(ザ・ミスト)》でせっかく作り上げた人形が為す術もなく散るのも道理。それでも、何とか残った人形に混じって近付くアサシンを最後まで隠すことには成功していた。至近距離に近付いたその瞬間まで、カルキはアサシンに気付けずにいた。
 アサシンの一撃を、カルキは軽く見る。いかな魔力の篭もった武具であろうと、その威力はカルキにとって猫に噛まれる程度に過ぎない。カルキの防御力をアサシンの攻撃力で打ち破ることは難しい。
 アサシンの攻撃は当たる。だがそれだけ。ランサーの攻撃を捌く片手間に時折カルキから反撃を受けるが、それを受け止める防御力をアサシンは持たない。全力で攻撃し、全力で回避する。いっそのこと宝具でも使えればいいのだが、アサシンの業でカルキに有効なものはない。唯一通用しそうな伝想逆鎖もカウンターに特化しているため、こうして相手にされなければ使えるモノではない。
 それでもアサシンには他の選択肢はない。
 雨粒に打たれる程度のダメージでもダメージには違いない。
 片手間の反撃だろうと、その分ランサーの負担は減っている。
 だが、それだけで抑えきれるほどカルキは甘い存在ではない。天秤の針は砂粒一つで一気に傾いてしまいかねない。
 ランサーの顔に焦りが出る。アサシンとアーチャーの援護が機能しなければ、単純な技量差で押し切られてしまう。
『二人とも、一度離れろ!』
 上空より、キャスターの声がノイズ混じりに響いた。
 キャスターの判断は正しい。
 カルキに全身全霊を賭けた攻撃を続けても効果は薄い。むしろ悪化しかねない状況にあっては、仕切り直す必要がある。ならば、一箇所に留まることなく戦場を移しながら一撃離脱(ヒット&アウェイ)を繰り返した方が勝機は高い。
 互いに立ち止まっていてはカルキの思う壺。この状況を打破すべく、キャスターは《方舟断片(ノア)》を構えたダルタニアンがカルキめがけて突っ込ませる。
 そんな雑な攻撃がカルキに当たるわけもないが、周囲に撒き散らされる暴風は《暗黒霧都(ザ・ミスト)》の人形は近寄れずとも、ダルタニアンの重量とスラスターの高出力には無意味。
 そして《方舟断片(ノア)》の“剣”が繰り出された以上、カルキもこれを無視するわけにはいかない――
『あ。やべ』
 仕切り直しをさせるために突撃したダルタニアンを、カルキは正面から見据えていた。
 キャスターの判断は、正しい。しかし、その方法も正しいかといえば疑問を呈する必要がある。何故なら、カルキの狙いはおそらく最初から《方舟断片(ノア)》の排除にあった。ダルタニアンの突撃にランサーとアサシンが距離を取ったこの瞬間を、カルキは望んでいたのだ。
 ピンチをチャンスとみて行動するカルキの悪癖を知りながら、キャスターはこの行動を予測できではいなかった。全高五メートルはあった巨人の身体ならまだしも、今のカルキは人間サイズだ。ダルタニアンの巨体を受け止めるのはリスクが余りに大きく、成功してもダルタニアン一機を仕留めるだけでリターンも小さい。アーチャーと対決したハイリスク・ハイリターンとも趣がかなり異なる。
 もっとも、カルキの行動に危機感を覚えつつも、キャスターに止まるつもりなど毛頭なかった。アーチャーにも言われたように、この機体の役割は盾だ。ここで怖じ気づく必要はどこにもない。むしろカルキが避けぬと分かった瞬間、スラスターの出力を限界一杯に引き上げていた。
 カルキの狙いは分かっている。半壊しながらしつこく動いたアトスがあり、一部が損傷しただけで機能不全に陥ったアラミスがいるのだ。同一機種である二機を比べれば機体の弱点は明白である。
 一応、《方舟断片(ノア)》の“剣”で弱点部位をカバーするが、ダルタニアンではカルキの反応速度を捉えることはできない。
 突撃から激突まで、一秒とかからなかった。
 救世剣と《方舟断片(ノア)》が真っ向からぶつかり合う。だが重量において両者は圧倒的な差違があり、片や特攻機と化しているのだからぶつかり合って終わりではない。いかに堅牢な防御姿勢を作ろうとも、ダルタニアンが持つ運動エネルギーはそんなカルキを易々と吹き飛ばしてみせた。
 カルキが宙を舞った時間は軽く五秒はあった。
 落下というより墜落。
 ぐちゃりという音がする。
 ここで何事もなければ、ダルタニアンはそのまま急上昇し、再度カルキを狙うことだろうが、世の中そう上手くいかないようにできている。
 ダルタニアンは、カルキと衝突した場所から何ら回避行動を取ることもなく真っ直ぐに突き進む。そのまま数百メートルは離れたオフィスビルに激突し、ようやく止まった。勿論、この巨大パワードスーツの弱点を論議するまでもなく、原型を留めぬこの機体が動くことは二度とない。
 対して、吹き飛ばされたカルキの方は何事もなかったかのように、むくりとすぐさま立ち上がってみせた。
 カルキはダルタニアンと激突した瞬間に、右手の救世剣で《方舟断片(ノア)》を押さえ込みながら、左手の手刀でダルタニアンの中枢ユニットを貫いていた。激突した衝撃は中々のものであったが、カルキ自身の頑強さもあってダメージは許容範囲内に収まる筈だった。
「――――?」
 カルキが、首を捻る。
 ここでの誤算は、キャスターとカルキの意識差にあった。キャスターはこの激突をハイリスクローリターンと思い込み、カルキはローリスクローリターンのつもりであった。カルキはダルタニアンを真っ当に評価することもなく、ただ毒針を持った蜂程度にしか感じてはいなかった。
 気をつけるべき《方舟断片(ノア)》は確実に捌いた筈。ダルタニアンには他にカルキを傷つける武装は無かった筈だが、これはどうしたことか。
 カルキの左腕が、なくなっている。
 不思議ではあるが、一体どこでなくしたのか、などと考えるまでもない。
『てめぇがいずれ弱点を突いてくるなんて予想済みだ』
 キャスターの声が、沈黙しているアラミスから聞こえてくる。主機が落ちてはいるが、バッテリーそのものは生きている。戦闘に参加できぬまでも、アラミスは観測機器として健在である。
『てめぇが貫いた弱点には予め《方舟断片(ノア)》モード“鎧”を不活性展開させてあったんだよ。他人の懐に手を入れるなら、もっと優しくしなけりゃモテないぜ』
 カルキが弱点の胸部を貫いた瞬間に“鎧”は活性化し、時間断層を作り上げてカルキの腕を時間の檻の中へと隔絶させていた。
 元々実戦証明などできていない不安のある試作機である。システム上の問題はスノーホワイトでなんとでもなるが、機体強度などハード面での問題を完全にクリアすることは不可能だ。最初からクリアできないのが分かっているのなら、そこに予め罠を張るのは当然の策だろう。
 敵が持つ《方舟断片(ノア)》の数が四つだと思い込んだのがカルキのミスである。
「■■? ■■■■?」
 急激なバランスの変化にカルキは明らかに戸惑っていた。
 片腕を失ってその行動が大きく制限されることになったのだからそれも当然だ。カルキの膂力は片手であっても救世剣を使いこなせるのだが、救世剣はそもそも人間サイズで使われることを想定していない。端的に言って、大きすぎ、そして重すぎる。
「キャスター、貴様はもう用済みだ。死んでも良いぞ」
『死亡許可!? ここは礼の一つも言うべきじゃねえかな!?』
「ありがとうございます。後は僕たちに任せて、気にすることなく御自分の作業をなさってください。それぐらいしかできないのですから」
「礼を言われたいならもう少し役に立て、役立たず」
 キャスターに辛辣な言葉を浴びせながら、二体のサーヴァントが三度、カルキへと襲いかかる。
 片腕を失ってもカルキは身体を変形させて腕を作ることができる。そんな時間をやるわけにはいかないし、キャスターが作った隙をみすみす逃すつもりはない。
 二人とカルキとの彼我距離は約五〇メートル。サーヴァントなら一息で踏破できる距離だが、今はその一息分だってカルキに余裕を与えたくない。二人は同時に地を蹴りカルキへと向かうが、何故かその瞬間、不可解な風が流れた。
 度重なる戦闘でこの周囲一帯はすり鉢状となって立地的に風が吹きやすくはなっている。通常であれば風が吹くのも当然であるが、しかしここは結界の中。外界と遮断された空間にあって風が吹くなど有り得ない。
 強風であり、向かい風であった。つまりそれは、カルキが起こした風。
 では何をしたのか、それがアサシンには咄嗟に理解できない。
 カルキの戦闘スタイルが変わることは予想できていたことだ。ランサーは近接戦闘にあたって救世剣の重心を利用した足技を多用するのではないかと予想した。アサシンは救世剣を満足に扱えぬならヘタイロイを一掃したように《九界聖体(ダシャーヴァターラ)》で中・遠距離戦を行うのではと予想した。
 どちらも不正解だった。
 何故なら、二人の予想にあった大前提がそもそも間違っていたのである。
 あろうことか、カルキは己の目的に必要不可欠な救世剣を投擲してみせた。
 確かに、この状況で救世剣は手枷になっても役には立たない。ならば解決手段は明瞭である。投擲することで己の枷はなくなるし、敵にダメージも与えられて一石二鳥。必要であるなら再度取り戻せば良いだけのこと。
 敵に奪われるなど、そんな発想をカルキは持っていなかった。
 アサシンは、全力で移動しようとする己の足を止めた。
 横を見ても、そこにランサーの姿はない。
 振り返れば、そこでようやく音が聞こえた。
 ランサーはアサシンの遙か数百メートル後方、幾たびの衝撃で土台が折れて壁と成り果てた高速道路のアスファルトに、これ以上ないほど叩きつけられていた。胸元を救世剣で貫かれたその姿は、処刑された聖人を彷彿とさせていた。もしくは、出来損ないの昆虫標本か。
 消滅する様子がないのでランサーはまだ生きているのだろう。だが今すぐに戦闘復帰ができぬのであれば、そんなことは何の慰めにもならない。
「アサシンッ!」
 状況を俯瞰していたアーチャーが一喝し、宝具が投射される。
 気付けば爆発と見紛う跳躍をもってカルキがアサシンに肉迫しようとしていた。なんて間抜けと唇を噛むも、アサシンがここでカルキを避けるという選択肢はない。
 カルキが狙うモノには優先順位がある。
 一位がランサーであり、二位がアーチャーである。理由はどちらも創生槍と乖離剣というカルキにとって致命傷なり得る武器を持っているからだ。特にランサーはカルキと同じく神が作った宝具である。カルキの方が上位存在であろうが、それでも同系種であるならば戦い方次第で時間稼ぎは可能である。時間のないカルキにとって両者は無視することのできぬ脅威である。
 ではアサシンはというと、敢えて順位を付けるなら確かに三位であろうが、二位と三位の間にはあまりに高い壁――もしくは無視できる程に低い溝がある。
 アサシンの残り少ない魔力であの宝具の重複起動などできはしない。アサシンにカルキを倒せる手段はないのである。それが分かっているからこそ、カルキがアサシンを相手にすることは有り得ない。
 ランサーを排除したのであれば、次に狙うのはアーチャーに決まっていた。ここでアサシンが退けば、カルキは一直線にアーチャーへと向かうだけ。アーチャーが瞬殺されるとは思えないが、アーチャーの傍には結界の要たる椿が未だ動けずにいる。余波だけで死にかねないというのに、それを座視するような真似ができようはずもない。
「何と不甲斐ない」
 己の無能に腹を立てながら、アサシンは最後となったナイフを両手に構える。このわずかな距離にもアーチャーの宝具はカルキに襲いかかるが、その歩みを完全に止めることすら敵わない。
 攻撃の余波で吹き飛ばされて少なくなったバーサーカーの《暗黒霧都(ザ・ミスト)》がアサシンの姿を隠してフェイントを仕掛けるが、そんなことに惑わされる――頓着するカルキでもなかった。
 全ての《暗黒霧都(ザ・ミスト)》がカルキが片手だけで起こした突風に吹き飛ばさる。アサシンは振るわれるその片手を、ありったけの魔力を込めたナイフで受け流した。
 カルキとの戦闘でアサシンは加速度的にその技量を上げている。カルキの手に救世剣はなく、しかも片腕というハンデもある。だというのに、アサシンはもはや雪崩のように押し寄せるカルキの一撃をまともに防御することもできない。
 カルキの出鱈目な防御力は未だに健在。貫くことのできぬ壁がそのまま迫ってくるような状況に等しい。並の宝具ですら持っていない今のアサシンでは受け流すことでしか対処する術はない。それくらいしか、時間稼ぎもできないのだ。
 アーチャーの宝具のサポートもあって徐々に後退を繰り返しながら、なんとかカルキの正面に居続けることには成功している。カルキの注目をアーチャーから逸らすことには成功している。
 だが、それも限界だ。
 カルキの連撃にアサシンよりも先にナイフが悲鳴を上げて砕け散った。受け流すのに失敗したのではなく、受け流す程度のダメージであっても、これが武器の耐久限界だったのだ。
 あとは指一本でも擦ればそれだけでアサシンはあっけなく消滅する。この呵責ない暴風に晒されているだけでも多大なダメージがあるのだ。これ以上はいかにサーヴァントといえど耐えられるわけもない。
「……は」
 諦めにも似たため息が出る。
 火砕流、雪崩、土砂崩れ。いずれも押し寄せる方向が一定であるが故に真横に移動することで回避はできる。今のカルキはそれと同じである。避けるだけなら、容易い。だがそれは、同時に戦いの放棄である。限界に近付いたからといって、安易に選ぶことが許されるものではない。
 死に際にこそ、人間は本性を露わにする。
 サーヴァントであっても意志を持った存在である以上、例外ではない。
 祈りか。恨みか。懺悔か。呪いか。命乞いか。
 みっともなく泣き叫び最期を迎えるのか、それとも潔く死を迎え入れるのか。
 以前の彼女であったのなら、神の名を叫んで突撃していったことだろう。無駄と知りつつそれ以外の行動を取れはすまい。それ以上のことを考えることはせず、ただ殉死する己に満足して消えるだけだ。
 だが、今の彼女は違う。
 ジェスターにかけられた令呪の封印は解かれている。
 彼女を狂信者たらしめていた理由は、狭い世界で偏った教義のみを教えられてきたからだ。例え外の世界に触れようとも、召喚されたあの時のままであれば彼女は何も学ぶことなく何も変わらず、ただ無為にその命を散らすだけだったに違いない。
 令呪によって自身の方向性を曲げら、あらゆることを知ってしまった彼女は、もう昔の彼女などではない。
 彼女は世界を知っている。
 彼女は異教を知っている。
 彼女は他者を知っている。
 彼女は自分を知っている。
 だからこそ、彼女はいくつもある最期から“悪足掻き”を選び取る。
 この最終英雄を止めるため、プライドを捨てて、彼女はその武器を掴み取る。
 触れれば分かる、その力。神だけを盲目に見ているだけではきっと彼女はこの剣を取ることはできなかった。許容することは決してできなかった。
 けれども、
 それでも。
 こんな無様な最期を今の彼女は許容できない。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 大地に突き刺さった剣が、引き抜かれた。
 それが何なのか、彼女は手に取るその瞬間まで知りはしない。手に取ったとしても、それの正しい使い方を読み取ることはできない。彼女ができるのは、その剣が何をしたいのか意志を汲み取ることまで。
 彼女は学ぶモノだ。教師はこの世界にあるあらゆるもの。ひとつの閉じた世界にあってはひとつしか学び取れないが、無限の開けた世界にあっては無限に学び取ることができる。
 それは自身の上書きだ。
 新しい論理は古い思考を侵略し上書きする。
 自らの恒常性をも破壊し、強固であった筈の本能でさえ変質する。
 それは、狂信者であることの否定だ。
 狂信者であり続けることの否定だった。

 ここにいるのは、どこの誰でもない、ただの英雄だ。

 火炎が撒き散らされた。
 閃く雷電が打ち据える。
 衝撃波が轟きをあげる。
 超高圧搾の水流が迸る。
 それは無名の剣だった。戦斧だった。大鎌だった。長槍だった。弓矢だった。鎖だった。鈎爪だった。手甲だった。縄だった。飛礫だった。刀だった。棍だった。銃だった。曲剣だった。薙刀だった。鋏だった。釘だった。戦輪だった。鋼糸だった。扇だった。旋棍だった。十手だった。棒だった。砲だった。針だった。鞭だった。杭だった。鉄球だった。鎚矛だった。
 ありとあらゆる宝具が、この場にある。
 宝具はただそれだけで世界の神秘を封じ込めた経典だ。しかもアサシンが今使っているのは英雄王が持つ原典である。世界に拡散し人が扱えるよう純度の落とされた劣化品などではない。人の手に余るレベルの真理がアサシンの精神を浸食していく。
 アーチャーによって周囲にバラ撒かれた宝具を、アサシンは手に取り次々と解放してみせる。
「■――■■■■!?」
 瀑布のように迫りくるカルキの進撃が、明らかに緩んだ。
 アサシンは宝具の所有者でもなければ担い手でもない。
 どんな宝具を持とうとも、その力を十全に解放することはできない。
 解放された宝具の力はせいぜいが三割。それは同時にアサシンが彼等を理解できる限界でもあった。
 向こう数千年を語り継がせる伝家の宝刀が、ただの一撃で使い捨てられる。アサシン自身に魔力がないのだから、宝具の起動には宝具が持つ魔力そのものが使用されている。結果としてアサシンが使用した宝具は永久に喪われることとなる。その事実に宝具自身は嘆くことかもしれないが、そこを斟酌してやる感傷など――余裕など、アサシンは持ち得ない。
 一つの宝具を使うごとに、アサシンは生まれ変わるような体験を一瞬にして味わっていた。
 自らが立っていた土台そのものが崩されていく。行動の根幹となる“基準”が狂わされていく。アサシンから純粋さが失われていく。
 自らの神が奪われていく恐怖。
 そんな恐怖もいずれは感じられなくなる。
 これが、ジェスターが待ち望んでいたアサシンの“絶望”。
 都合、その場にある一二〇もの宝具を消費し尽くした頃、アサシンはようやく、その動きを止めた。
 身体はまだ動く。が、精神の変質は極まっていた。
 アサシンにとって、かつての狂信者は他人だった。同一人物であることが自分で信じられない。神を崇める気持ちこそ保持し続けたが、崇める神が同じであることに自信がなかった。
 そんなアサシンの傍らを、カルキは行く。
 特別に強力な一撃などはなかった筈だが、カルキの歩みは遅い。
 そこに、遠くで宝具を投射していた筈のアーチャーが、佇んでいた。
「時間切れだ」
 幕引きは、あっけない。
 トスと実にそっけない音がカルキの胸から聞こえた。
 鈍い切っ先でありながら、アーチャーの乖離剣はカルキの胸板を貫通している。
 それでカルキが死に絶えることはない。動くことはできずとも、彼を消滅させるにはまだまだダメージが必要だ。捻れ廻る刀身がその力を発揮する瞬間まで、彼は生き続ける。
 ふと、忘れ物に気がついたように、カルキは乖離剣に貫かれながら背後を眺め見た。
 視線の先にあるのはランサーを貫き磔にした、救世の剣。残り一度のチャンスを、彼は二度と使うことはできない。
 しかし、手放してしまった以上、カルキは死してもこのままでは救世剣は残ってしまう。それだけはどんなことがあったとしても、許されない。
「――■■■」
 カルキの中から、信号が救世剣へと送られる。
 世界を然るべき姿に破壊し再生させるのは最終英雄たるカルキの役割。その役割が果たせぬ今、救世剣は無用の長物どころか存在させてはならぬ遺物だ。
 だからここで、カルキは救世剣を処分する。
 救世剣による世界解放命令(掃星の夜明け(クリタ・ユガ))を、カルキは手を触れることもなく極小範囲で起動させた。カルキ以上の堅牢さである救世剣は、こうした自壊するにもそれなりの手順が必要なのだ。
 それによって直径一五〇キロメートルは消失、マントル層にまで被害が出ることになるが、正規の手順で全力解放した時のことを考えれば、些細なものだった。六五〇〇万年前のメテオインパクトだって同じような威力はあったが、衝突ではなく消失なので人類が恐竜のように絶滅する恐れはない。
 傍目からはそれは自爆にも見えたかもしれない。
 カルキを倒した六柱のサーヴァントが、《掃星の夜明け(クリタ・ユガ)》から逃れることは難しい。少なくとも、あと三〇秒で最低二〇〇キロは距離を取らねば余波だけで消滅は必至だった。
 最初から、カルキを前に勝利の二文字は有り得なかった。
 だというのに、アーチャーはその事実を鼻で笑う。
「下らんな。最終英雄。手のひらで踊った気分はどうだ?」
「―――■■■?」
 カルキは言語を習得しない。必要としない。それでもアーチャーの言葉が嘲りを指すものだとは理解した。
 ズルリとカルキから乖離剣が抜き取られた。
 胸元に開けられた穴に風が通る。
 乖離剣は、放たれない。
「後は任せたぞ小娘。安心しろ、身体はちゃんと始末しておいてやる」
 そう言って、黄金のサーヴァントは虚空へと消えていく。
 いや、黄金のサーヴァントだけではない。
 この場にあるありとあらゆる存在が、次々と塵と化していく。
 磔のランサーも、力尽きたアサシンも、破壊された街も、カルキが命令を下した救世剣ですら、全て等しく消失する。
 例外はカルキ、そして、目前の少女のみ。
 ライダー――ではない。
 彼女は、繰丘椿。
 この“偽りの聖杯戦争”、最初に選ばれたマスター。
「ごめんなさい、カルキさん」
 少女は謝罪する。
 彼女が何をしたいのか、カルキには分からない。
 既に目的を果たせぬカルキだ。ここで彼女をどうにかするつもりはない。これ以上世界に干渉するつもりは欠片もない。
 カルキは、ただそのまま片手を失い、胸に風穴を開けたまま立っている。そうこうしている間にも世界は次々と消失していき、やがて世界を隔離している筈の結界も、解れてきた。
「―――――」
 カルキは、そこでようやく理解した。
 ここがどこで、自分が何をされたのか。
 彼女たちが躍起になってカルキを結界の中に隔絶しようとした理由が、そこにあった。
 カルキは空を仰ぎ見た。
 時間帯としてはまだ午前。中天にかかるのは灼熱に燃え上がる太陽である筈。だというのに、そこにあるのは青白い輝きを放ち留まり続ける衛星があった。空のどこを見渡しても、役者はその一人しか見当たらない。
 カルキは見誤っていた。
 彼がこの場で倒すべきは、アーチャーでもランサーでも、ましてやアサシンなどでもない。この繰丘椿、ただ一人だけだったのだ。
 椿、という名前は繰丘の魔道に進まず、それどころか魔道とは正反対にサイエンスに傾倒し植物学者となった叔父だったか叔母だったかの親戚が付けた名前である。
 残念ながら、繰丘の家は力のある血ではない。衆愚に墜ちたと影で嘲笑いながらそれでも名付け親として彼らを選んだのは両親にそれだけの才能がないことに薄々気付いていたからであろう。
 それだけに、両親の狂気に触れ持ち出されたその意味は小さくはなかった。
 椿という名に込められた意味は語源とされる「強葉木」に因んで丈夫に育つ、などという可愛らしいものではない。他家受粉で結実するために変種が生じやすいという両親の屈折した愛が感じられるものだった。
 そして、幸運なことに――不幸なことに、繰丘椿はその名を期待された通り、あるいは期待された以上の変種としての二つの資質を持って生まれ落ちた。
 一つは、あの両親の実験にさえ耐えたその強靭な肉体。後天的に増幅・拡張された魔術回路など、普通に考えればここまで異常な成功などあり得ない。暴走によって昏睡状態に陥ったとはいえ、死ななかったという結果は彼女の肉体があったからこそ。
 そして、もう一つ。彼女の肉体に呼応し備わってしまった魔術回路は「夢の中への現実投影」という魔術を習得させた。本来であれば数代に渡って発展させるべき魔道の一つを、彼女は何の努力もすることなく、無意識でありながら開拓してしまったのである。
 この二つの資質は、人体改造を受けずに単に繰丘の魔術師として成長していたのなら、永遠に開花することのなかったものだ。そうでなくとも、少しでも手順が異なっていたのなら、彼女の人生はそこで終わっているはずだった。
 本来ならあり得ぬ可能性。
 これを偶然と呼ぶのは簡単だ。奇跡とやらの認定は難しいが、偶然ならば巷に溢れている。確率的にゼロに等しくとも、宝籤で当選する人間は必ずどこかにいる。これはその類のもの―――
 そんなわけがない。
 全ては逆だ。
 スノーフィールドの地によって繰丘椿という変種が現れたのではなく、繰丘椿によってスノーフィールドの地が変えられたのである。
 何故か。
 それは全て、この時のため。
 ティーネ・チェルクがカルキを聖櫃へと鎮める巫女ならば、
 繰丘椿は、カルキを夢の中へと沈める御子。
 ここは繰丘椿が作り上げた、夢の世界。
 全てを夢幻へと導く、ご都合主義の闇舞台。
 夢の世界へといつの間にか引きずり込まれていたカルキは、ここで誰を倒そうとも、何を破壊しようとも、現実世界そのものには何の影響も与えることはできない。例え世界を滅ぼそうとも、結界の主である繰丘椿を倒さねば現実に戻ることすら敵わない。
 勿論、便利な魔術には必ず欠点かペナルティー、そして高いハードルがある。
 取り込む対象は弱体化していなければならず、取り込んだとしても結界を維持し続けるための莫大な魔力と演算能力を要する。おまけにカルキはそもそも自我を持たぬため、椿の夢の世界とは相性が非常に悪い。フラットがそうと気付かれぬよう解析し、バーサーカーが《暗黒霧都(ザ・ミスト)》を暗幕代わりに展開させカルキの目を誤魔化していた。
 普段であれば一瞬で気付かれてもおかしくはないが、精神防御のスキルを必要性が低いと置き換えてしまったのが致命的であった。
 サラサラと、世界は消滅し続ける。
 そしてそれとは別に、カルキの身体も虚空へ消えつつあった。
 現実世界で、アーチャーが乖離剣を使ったのだろう。それを卑怯だと思う感覚はカルキにはない。目的を達成できぬ悔しさもない。自己を持たぬカルキに何を思う心はないが、いやしかし、救世剣によって要らぬ被害が出ぬことには安堵と呼べぬこともない揺れ動きがあった。
 繰丘椿は、カルキの前に立ち続ける。
 何故ここに居続けるのか、カルキは理解しない。言語を解さぬカルキといえど、彼女が自身に対して謝罪したことは伝わっていた。
 だが消滅する間際になって、カルキは彼女がここにいた理由を理解した。
「――ありがとう、ございます」
 それは何に対する感謝なのか。
 勝手に偽りの聖杯へと祀り挙げられた最終英雄がそれを理解することはない。
 所詮は彼女の自己満足。
 神社仏閣に足を運ぶ理由と同じだろう。
 彼女がこの“偽りの聖杯戦争”で遭遇した全ての事象にカルキの意志はない。
 けれども、彼女はそれを理解しつつ、この英雄に礼を言っておきたかった。
 ありがとう。あなたがいなければ、私は誰とも出会うことはできなかった。
 夢の世界、たった一人の少女に見送られ、早すぎた英雄は静かに消え去って逝った。

 偽りの聖杯戦争が、ここに終結した。


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14 epilog

 ラスベガスの路地裏を走る影がいる。
 通りを一本挟んでもまだ夜とは思えぬBGMとネオンの光、さすが遊興の街。そして路地裏だというのにどうしてこうも人が多いのか。一人二人を簡単に誘惑し誘える環境は魅力的だが、ここは些か出歯亀が多すぎる。
 しかしそれでも、彼女はその走りを止めない。人目は嫌いだが、飢えと退屈そして太陽よりも憎々しい者に対してそんな些事は関係なかった。
 今夜の彼女は慈悲深い。声をかける者、歩みを阻もうとする者は容赦なく即座に殺すが、無視を決め込む者を相手にはしなかった。
 おかげで苛立つ彼女が外出しながら、今夜の被害はわずか八人ですんでいた。
 血塗れになった手をその赤い舌で舐め取りながら、ジェスターはバーサーカーを袋小路へと追い詰める。
「一日ぶりだな、殺人鬼」
「一日ぶりです、吸血鬼」
 互いに鬼の名を冠しておきながらその強弱は明かだった。
 戦争の最中ですらバーサーカーはジェスターに負けている。正体が看破され大幅に弱体化した今なら尚更だ。戦闘になれば一秒だって相手できないし、こうして逃げ隠れするのが精一杯。それも一日が限度だった。
 昨日は初手から切り札を出しまくって何とか逃げ切ったが、それが二度通じる相手でもなかった。
 ジェスターは可憐な少女の身体のまま。その掴めば折れそうなほど脆く華奢な繊手であるが、バーサーカーがいくら頑張ろうとも小指の先だって動かすことはできない。ろくな抵抗もできずに首を掴まれれば、この身長差であってもバーサーカーの足が浮く。そのまま背後の壁に罅が入るほど叩きつけられた。
 いかに治安が悪くともここまで騒ぎが大きくなれば警察がほどなく駆けつけることだろう。結界も張らずにろくに変装すらしていないのもそうだが、ジェスターはもはや形振り構っていなかった。
「さて、バーサーカー。二人はどこだ?」
 ジェスターの影が、朱く染まる。影は足元だけでなく、ネオンの光に逆らうように壁を這いずり舐め回す。逆らえばこうなると言いたいのか、壁を張っていたトカゲが一瞬にして干からび地に落ちた。
「何度も言ったと思うが、私は知らない」
「知らないわけはあるまいよ。正規契約のマスターとサーヴァントなら地球の裏側だって通じ合える。優秀なマスターであれば尚更だ」
「だったら自分でアサシンを探せばよいではないかな」
「それをできぬようにしたのが貴様のマスターだろう。もう一度聞こう、二人はどこだ?」
「知らな――ッ!」
 ボキリ、と鈍い音がする。赤い影は器用にも肉を啜らず骨だけを折る。折った上で、その骨を啜った。霊体のくせに海月のようになったバーサーカーの左手は使い物にならない。回復するにもこれは時間がかかる。
「次は、右手だ」
 冷酷にジェスターは赤い影をバーサーカーの右手に這わせた。宣告しておきながら、バーサーカーが何か口にする前に小指の骨に罅が入りつつあった。そのことにバーサーカーはむしろ安堵した。この調子ならバーサーカーが消滅するその瞬間まで、あと五分はかかる。
 自然と、バーサーカーは笑みを漏らしていた。それがジェスターの癪に障ったのか、右手は捻じ切られるように潰された。これはまずい。五分といったが、これで一分は無駄にしてしまった。
 しかしバーサーカーの心配は杞憂に終わった。
 五分とバーサーカーは目算したが、実際には三〇秒も必要なかった。
 ジェスターの背後、数メートル後方にその長髪の男は不機嫌そうな顔でゆっくりとした足取りで現れた。
「すまないが、その者を離してやってくれないか?」
「…………」
 ジェスターのただでさえ真っ赤な眼球が、さらに血走る。ようやく気付いたのだろう。真っ当に相手にできないと分かっているのだ。こうしてジェスターを罠に誘導するぐらいしかバーサーカーにはできはしない。
「私は忙しい。こいつが口を割るか死ぬまで、待っていて貰えるかな?」
「それは奇遇だな。私も忙しい身でね。フラット・エスカルドスの行方については私も知りたかったところし、御相伴に預かっても良いだろう?」
 葉巻の煙と同時に長髪の口から出たフラットの名に、ジェスターは反応する。どうやら関係者と分かったことで殺意が湧いたらしかった。
 バーサーカーの首を掴んでいた腕の一本を、ジェスターは長髪に向ける。そこにそれほど意味などないが、しかし赤い影は腕に指揮されたかのように一斉に長髪へと突き進む。ジェスターの赤い影はこうした入り組んだ路地裏などにおいてこそ、その真価を発揮しやすい。
 哀れ突如現れた長髪は、自らに何が起こったのかも分からずに死ぬこととなる。
 だから、
「――え?」
 外見相応の可愛らしい声で、ジェスターは驚いた。
 この長髪が何の対策もしていないことは分かっていた。脅威となるような魔術は欠片も感じ取れないし、その肉体を駆使するようなタイプにも見えない。こんな男がバーサーカーの援軍かと侮りもするが、手加減するような真似はしない。
 ジェスターが確認したのは、長髪の直前まで赤い影が伸びたところまでだった。
 何が起こったのか分からなかったのは、長髪の方ではなくジェスターだった。
 視界が急速にブレ、何故か地面が迫っていた。
 いや、違う。これは、首を斬られている。
 長い年月に様々な殺され方をされたジェスターだからこそ、そのことにはすぐに気がついた。血液が本体であるジェスターに斬首など通用しないが、それよりも身体が酷く重たくなっている事実に遅ればせながら気がついた。
 ゴロゴロと首が転がり、路地裏から切り取られた空を見る。そこからジェスターを見下ろす視線があった。
「なっ……あっ……!」
 それは、この戦争でついに見ることのできなかった勢力だった。
 神秘の秘匿を第一義とする異端狩りの筆頭。それでありながら、ついにこの“偽りの聖杯戦争”で活躍の場を設けられなかった大間抜けたち。
「聖堂、教会――」
「悪いが、そういうことだ。ジェスター・カルトゥーレ」
 ジェスターを哀れむように長髪は語る。
 偽りの聖杯戦争は終結した。となれば、後は戦後処理について色々話し合わねばならず、その場に聖堂教会の席も「一応」用意されていた。
 世界最大の組織としてその場に出席しない選択肢はない。しかし肝心な時に何も出来なかった聖堂教会がでかい顔などできよう筈もない。彼等の面目はこれ以上になく潰れているのである。
 だからこそ、ここでいらぬ恨みを買わぬよう協会は体裁を取り繕う必要があった。
 折良く、この場には都合の良い生け贄がある。
 数百年を生き延び続け、数十万人もの生き血を啜ってきた死徒。おまけに“偽りの聖杯戦争”に深く関与しながら生き延びてすらいる。これだけで、この死徒の評価は鰻登りである。
 手土産としては、最適だった。
「ここまで――ここまで読んでいたというのか!?」
 ジェスターの叫びに、代行者が屋根から飛び降りてくる。
 ほんの数秒。
 かの吸血鬼の実力を考えれば実にあっけなく、決着はついた。戦争終結直後にあって、魔力が尽き欠けていたのが運の尽き。アサシンなどに執着せずにいれば、まだ逃げおおせた可能性もあったであろう。
 その横を、スタスタと危機感を抱くことなく地面に崩れたバーサーカーに長髪は近付いて行く。
「初めましてだ、バーサーカー。馬鹿弟子が世話になった」
「こちらこそ、私のマスターが迷惑をかけた」
 ジェスターから解放されたバーサーカーがそのまま冷たい路地裏に腰を下ろして挨拶をする。
「話したいことは山ほどある。できればお茶でも誘いたいところだが、時間はあまりないようだな?」
 すでに、バーサーカーの身体は傷ついたところから消えかかっている。
 最初から不自然であったのだ。戦争が終結しているのだから、用がなければさっさと消えるのが筋だろう。いかに低級であろうとサーヴァントはサーヴァント。自前の魔力で現界し続けるには無理がある。
「こうして役目を果たしたのでね。フラットには無理を言って令呪を使って貰った。でなければとうの昔に消えさっていただろうさ」
「説得には手間取ったようだな」
「ジェスターを相手取るより難敵だった」
 互いにハハ、と笑うがその声は乾いている。
 聖杯戦争中、ついに使う機会のなかった令呪である。相当渋られたが、最終的に令呪がなければ消滅すると騙すように脅して何とか使わせることに成功した。実際にはフラットの魔力供給があれば弱体化したバーサーカーなど半永久的に縛り付けることもできる。それをしなかったのは、色々と区切りが必要だと判断したからだ。
「私が彼にできることは、もうこれくらいしかないのでね」
 よくよく考えてみれば、バーサーカーがフラットと共にしたのは初戦の武蔵戦だけだ。聖杯戦争に参加しておきながら彼のサーヴァントとして直接役立ったことなどほとんどない。だからジェスターという今後の憂いを取り払うことだけが、彼のサーヴァントとしてバーサーカーができる最後の仕事だった。
 まさか連絡を取った彼の師匠が直接出向いてくるとは思わなかったが、これも何かの縁なのかも知れない。
「それでは、彼のことをよろしく頼みます……ああ、しかし例の件については、彼を止めることのできなかった私にも非がある。彼を責めないでやって欲しい。情状酌量の余地は……きっとあるはずだ。多分」
「……後のことは全て私に任せてください」
 今際のきわにその台詞はどうなのだろうと思いながら、ロード・エルメロイⅡ世は消え逝くサーヴァントを見送った。
 ロード・エルメロイⅡ世はこれから協会代表の一人として交渉の席に着くことになっている。個人的には絶対に行きたくはなかったのだが、協会上層部は全会一致で彼をスノーフィールドに派遣することを決定した。そこで取り上げられるであろう“絶対領域マジシャン先生の弟子”なる人物について最大限援護するのに適任であると判断されたからだ。
 この戦争の最大の功労者として、フラット・エスカルドスの名は魔術史に刻まれることになる。それを穢すような真似は許されそうになかった。
 最後にそのフラットのサーヴァントに直々に頼まれては無碍にするわけにはいかない。ひとまず協会の意向通り動くより他はなかった。彼を殴るのはかなり先のことになりそうである。
 どこにいるのか知らぬ弟子を思い、ロード・エルメロイⅡ世は大袈裟に溜息をついてその場を後にした。


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「ど、どうしよう……」
 ガタガタと生まれたての子鹿のようにブルブル震えるフラットを隣に、アサシンは呆れながらこれを見ていた。
 事の発端は彼に送られた二通の手紙だった。
 一つは、魔術協会からヘタイロイの統率者として送られたものだ。
 この“偽りの聖杯戦争”でのフラットとヘタイロイの功績を称えると共に、戦後処理について協会の人間として交渉のテーブルについて欲しいという要望書。フラットが結界の隙間をすり抜けて届けた情報のおかげで協会は非常に有利な立場を築けたらしい。明言こそ避けられているが、ヘタイロイとは別にフラットに相応の報酬を用意する旨が匂わされている。
 それはいい。
 問題は、二通目の手紙にある。
 見た目には何の変哲もない手紙だ。だというのにその手紙を見た瞬間、アサシンは何故かおどろおどろしい何かを感じとった。怨念と称するべきか、呪いとでも言うべきか。勿論、魔力など感じ取れるものではないが、どうしてだろうか、その手紙の中にカミソリが入っていても驚かない自信があった。
 一通目には困った顔をしながらくねくね身体を揺らせて喜んでいただけにアサシンもさほど気にはとめていなかった。そのテンションのままで差出人すら確認せずに手紙を読んだフラットは喜色で赤くなった顔を一気に死人のような青さへと変えていった。古代の魔導書でも読んで何か知ってはならないおぞましい事実を知ったようにガタガタと震え出し――
 そのまま夜逃げ同然に逃げ出した。
「そんな、先生がなんで、喜ぶと思って……ッ!」
 始終、そんな調子である。
 一通目についてはフラットがアサシンに読み聞かせるように話していたので内容を知っているが、二通目についてはどうにも要領を得ない。言葉の端々から察するに、どうやらフラットは何かとても大きな――それも取り返しの付かないようなミスをしでかしたらしい。それこそ、一通目の内容を忘れるほどに彼は何かを怖れていた。
 戦争中であっても常にマイペースであった彼が取り乱すとは、一体何があったのだろうか?
 序盤で別れてしまったバーサーカー以上にアサシンはフラットと交流がない。ただでさえ雲を掴むような性格のフラットを理解できていようはずもない。フラットが学生であるということを知ったのですら、つい最近。どういう師の元で何をどのように学び、どういった経緯でこの戦争に参加したのかアサシンはまるで知らない。
 彼の功績を考えれば怖れるものなど何もないとアサシンは思うのだが、残念なことにフラットの功績が大きければ大きいほど、彼が公的文書に刻みつけた師の二つ名が凄まじい勢いで拡がってしまうのである。
 手紙の内容は簡潔に言えば首を洗って待ってろ、というものだが、そこにフラットは明確な殺意を感じ取っていた。聖杯戦争ですら緊張感を持てなかったフラットである。そのフラットがこうして怯えているのだからやはりエルメロイⅡ世は教育者に向いているのだろう。
 そんなこんなで、今、フラットとアサシンは飛行機の中にいる。
 まさかこの逃避行がジェスターにフラットに対する誤解を更に与え、結果的に破滅に追い込むことになるとは今の彼女が知る由もない。パスを通じて追跡される可能性を怖れたフラットによってジェスターとアサシンとのパスは切られている。彼女がジェスターの死を知るのはまだ先のことである。
 わざわざフラットに同行する義理もアサシンにはなかったのだが、現界するためには魔力供給が必要だし、今更そこらの人間を襲ってソウルイーターの真似事などできよう筈もない。それに何より、今のフラットを放置するのは危なっかしい。
 心的外傷ストレスなんて言葉が自然と思い浮かぶ。戦争帰りの帰還兵にもよく見られるというが、フラットをその範疇に含めていいかは悩むところであろう。
 窓の外に拡がる雲海を誰ともなくアサシンは頬杖を付いて眺める。
 かつてはこんな光景を見ても心一つ動くことはなかったであろうが、今のアサシンは確かに何かを感じ取っている。単純にいれば、胸が躍っていた。見るもの全てが新鮮に感じられてならないのである。
 自然と、彼女の口角は上がっていた。
 それは彼女にとって、幼少時以来忘れていた笑顔というものだった。
 世界を見て回ろう、と恐怖でガクガク震えるフラットの隣でアサシンは一人静かにそう思った。


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 カウベルを鳴らして喫茶店に男が入ってきたのは、客の入りが少なくなる午後のひとときのことであった。
 ヘルメットを深く被り、サングラスとマスクを装備。復旧工事の作業員といった風情ではあるが、右手が不自由なのかやや庇っているように見える。事前に知らされていなければ警察に一報を入れるところである。多少驚きはしたものの、「待ち合わせている」との一言でウェイトレスはにこやかにこの男を奥の席へと案内した。
 広い店内にはポツリポツリと孤島のように数卓が埋まっているだけ。案内された場所はそんな孤島からも離れた場所にあり、覗き込まない限り誰がそこにいるのか分からぬよう配慮されたスペースである。
 コーヒー一杯を注文して案内してくれたウェイトレスを追っ払う。向かいの席に座って待っていた人物はバケツほどもあるパフェを攻略中だった。一心不乱に食べてはいるが、さすがに男の存在には気がついている。
「……なんですか、その珍妙な格好は」
「変装だ。一応立場が立場なんでな」
 もきゅもきゅと口の中一杯にアイスを放り込みながらティーネ・チェルクは署長の格好に呆れながら文句を言う。誰かに見咎められたらそれはそれで要らぬ噂の種になる。要らぬ口止めに労力を費やされるのは勘弁して欲しいところである。
 今日だって無理を言ってこの場を借りたのだ。内々にしたかったこともあって原住民内部でもティーネがここで密会していると知っている者は少ない。
「ここは全国展開してる大手外食チェーンだろう? ここまで族長の権力が及ぶとは思わなかった」
「単純にこの店に発電機と燃料を無償提供しているだけです。店主の好意に甘えてこの場を貸して貰っているに過ぎません」
 ティーネは暗にここは中立地帯であると告げておく。原住民の力が直接的にここへ及んでいるわけではない。もっとも、先のウェイトレスをはじめこの場にいる数人には予め息をかけている。署長だって何の準備もしていないことはないだろう。
 共同戦線を張ったとはいえ、互いに敵であることに違いはない。妙な連帯感こそあるが、警戒して当然である。
「……そっちは大変忙しいようね」
「それはお互い様だろう。話はあちこちから聞いている。色々とこれを機会に取り入っているんだってな」
「人聞きが悪いことを言わないで欲しいものです。困っている隣人がいれば、手をさしのべるのは人としての義務ですよ」
 この店に提供されている発電機を含め、原住民は全力で街の復興に力を貸している。籠城のために備蓄していた物資をほぼ全て放出し、政府からの援助が来るまでは炊き出しも行い、住み処を失った者たちに仮の宿も提供している。原住民から恩恵を預かっている者は戦争前より格段に多くなっている。
「それよりもどんなシナリオができたのか見せて貰えますか? お互い忙しい身なのですから」
「違いない。ひとまずこれが表向きに用意された資料だ。確認してくれ」
 カバンの中から取り出された一冊の資料を渡される。中身を軽く見れば概ね予想通りの内容であった。
 スノーフィールドは、表向き大災害に巻き込まれたことになっている。
 街を襲ったのは強大な竜巻であり、そのせいでインフラ各種は寸断。街の地下にあるシェルターに避難したものの、シェルターは構造的欠陥もあって崩壊、原住民の助力もあってからくも助かった、ということになっている。
 八〇万もの人間を誤魔化すのは大変な作業であるが、シェルターに避難したことなどは別に嘘ではない。事前にこうしたことも想定されていたこともあって無理のない範囲で辻褄合わせが行われているとのことだった。人を騙すのに必要なのは魔術などではなく、認識をすり替える技術だとか何とか。
「それで、大統領はいつこちらに来る予定かしら?」
 原住民の貢献を記した資料を入念に確認しながら、ティーネは核心を問うてくる。
 戦争は終結した。しかしその爪痕と米国政府がやらかしてしまったことを無視することはできやしない。それ故に魔術協会、聖堂教会、スノーフィールド原住民、そして米国政府が一堂に会して話し合いをする場が設けられることになっている。
 魔術協会にわざわざ宣戦布告してしまった米国政府である。相応の責任者がこの場に出るとは予想はしていても、まさか現職大統領が席に着くとは誰も思っていなかった。おかげでどの陣営も上から下への大騒ぎになりつつある。協会はここで恩を売るべきか厳しく糾弾するかで揉め、教会は大統領と政治的なパイプがあることを最大限利用するべく仲介者として裏工作に乗り出していると聞く。
 勿論原住民の長としてティーネのところにも事前交渉に訪れる者は多い。
「復興視察の名目で明日の正午には到着予定だ。そういや、お前、スノーフィールド被災者の代表として大統領と会うんだってな?」
「耳が早いのね」
「被災地を案内する名目で大統領と行動を共にすることになっている」
 名目上の役割とはいえ、やっかいなことに署長は現職の警察官である。表向きの仕事もきっちりこなす必要がある。
「そう。ならついでに言っておくけど、その時の写真が各新聞のトップに掲載されるよう手配もされているわ」
 一緒に写るかもしれないから身なりには気をつけなさい、とティーネは変装している署長をからかうが、当の本人はそんなことよりも新たな火種の存在に渋い顔をした。
 一般人から見れば、ただ被災地の少女が花束を渡して大統領と握手しているだけの写真である。しかしティーネの立場を知る者がこれを見れば一体どう見るだろうか。受け手がどう捉えるかは別として、何かがあると思われても仕方がない。
 今回の“偽りの聖杯戦争”を企み実行したのが米国政府であることは秘匿されることが事前調整により決まっている。秘密は秘密のまま闇へ葬りたい教会と協会には多少睨まれることだろう。当のティーネとしては会談前の手付け金としてこれくらいは大目に見て欲しいところだ。
「大統領にピエロを演じさせるとは、少し欲ばり過ぎじゃないのか?」
「聖人なのね。あなたを殺そうとした者の肩を持つの?」
「公務員なんでな。死ぬことも込みで給料を貰っている」
 やけくそ気味にぼやく署長をティーネは楽しげに見つめる。
 それで納得できることでもないが、署長も署長でそれなりの対価を得てはいる。個人的には甘酸っぱい匂いの放つ本皮張りの椅子など捨て置きたいところだが、部下のためにもこの立場を維持し利用する必要があった。死んでいった部下もいれば、生き残った部下もいるのだ。彼等を見捨てられるほど署長は人間を捨てることなどできなかったし、魔術師でもなかったということだ。
「……ひとまず、本件はファルデウスの暴走で片を付ける腹積もりらしい。これ程の事態を管理不行き届きで済ませようとはなんとも剛胆だとは思うが」
「それは先日来た役人から聞いたわ。無茶苦茶だとは思ったけれど、それに協力すれば、相応の権利を得られるとか」
「自治権は現実的に無理だろうが、原住民への待遇改善と復興費用と称した賠償金を支払う用意はあるらしい。協会にも有耶無耶だったスノーフィールドの管理者(セカンド・オーナー)として原住民が正式に認められるよう後押しもする」
「我々は我々を邪魔する全ての者を排除するために参戦したのだけれど?」
「私を脅してもしょうがないだろう。どうせ“偽りの聖杯”はもうないんだ。意地を張るよりも適当に妥協して恩を売るのも悪くないと思うがな」
 そんなことを言ってみるものの、我ながら空々しいと署長は思わざるを得ない。
 現実的に考えればこの辺りで手を打つのが打倒かもしれないが、だからといって米国政府の口車に乗ることはこれらの諸問題の片棒を担ぐことにもなる。同じく全てを知っている協会と組んで糾弾するという選択肢はあって然るべきだろう。
「まあ、良いわ。その条件で原住民は了承する予定よ」
「……自分で言っておいてなんだが、それでいいのか?」
「欲ばらずに恩を売れ、と言ったのはあなたよ? それにあの大統領、おそらく“偽りの聖杯戦争”の魔術儀式に関しては協会に全て委譲するんじゃないかしら」
 だとすれば協会も踏み込んで糾弾するより迎合して安全に成果を接収することに重きを置くだろう。どうせ現地調査の名目でスノーフィールドに乗り込んでくるのだ。下手に抵抗して長く居座られれば、今度は原住民と協会との間でいらぬ争いが起こりかねない。
 良くも悪くもあの大統領には欲がない。
 米国は保有する切り札を悉く失いはしたが、この戦争で得られた技術や情報だけで採算は十二分に取れている。欲張らず堅実な道を歩むことで逆に手出ししにくい状況を作り出そうとしている。
 実にやりづらい。
「……さて。ではそろそろお暇するわ。この資料は貰っていくわよ」
「そいつは一応重要機密なんだが」
 カラン、と空になったバケツにスプーンを捨ててティーネは立ち上がる。暗にここで読んでいけと告げる署長であるが、ティーネは聞く耳を持たない。
「これからデートなの」
「……そいつは野暮だったな」
 デートと言われては仕方がない。署長もあっさりと身を引いた。諦めたとも言う。
「本人にその気があるなら、いつでも移植の準備はできていると伝えておいてくれ」
「伝えるだけは伝えておいてあげる。けど、無駄になるでしょうね」
 魔術師としての署長の言葉を、ティーネは軽く否定した。それが祖先に対する裏切りだと理解はしているが、ティーネがいる限りそんな道を歩ませるつもりはない。そしてティーネはどこに行くつもりもない。
 そんな決意を胸に、ティーネは「また明日」と署長に告げて店の外へと出た。
 土埃の混じった空気と熱気が辺りに満ちていた。太陽は中天に差し掛かっている。戦争がスノーフィールド市街に与えた爪痕は大きいが、復興に向けて動き出す街は活気づいていた。


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 銀狼の身体は考えた末に、繰丘邸跡地の隅に葬ることに決めた。
 本当はもう少し森の奥深くで眠らせてあげたいところだったが、椿の矮躯で銀狼の大きな身体を道もない場所へ運ぶことは難しい。汗だくになりながらこの場に穴を掘ることで精一杯だった。
 銀狼は、戦争終結を見届けるのを待っていたかのように、静かに息を引き取った。
 良く保った方であろう。夢の中でのこととはいえ、そこであったことは肉体と完全に無関係ではない。死んだと錯覚するような攻撃を受ければ実際に死ぬし、激しい戦闘を行えばそれだけ脳を酷使する。ましてやサーヴァントと再契約をすればその身にかかる負担は莫大なものになる。
 それが分かっていながら、椿は銀狼を夢の世界へと連れて行った。
 言葉が分からずとも、その眼を見れば銀狼が何を訴えようとしているのかは分かる。すでに呼吸すら覚束ぬ身体でありながら、銀狼は椿に懇願した。生きたいと願いランサーを召喚しながら、彼はそんなランサーを助けるために己の命を消し飛ばそうとしていた。それを断ることなどできよう筈もなかった。
 結局朝から作業を始め、墓標代わりに大きな石を苦労して運んだ頃には、もう太陽が真上に来る頃合いだった。
 昼過ぎにはティーネがここにやって来る予定。
 できればそれまでにシャワーを浴びて身なりを整えておきたいところだが、いやしかし、この勇気ある戦友にまだ伝えていないことがあった。
「私、ティーネお姉ちゃんの妹になりました」
 墓前で手を合わせながら、椿は照れくさそうに笑いながら報告する。
 原住民族長の妹ともなればティーネ独断でおいそれと承認されるものではないが、幸いにも砂漠地帯でのティーネ救出の功もあって比較的すんなりと話は進んでいる。正式にはまだ先の話であるが、事実上原住民からはそのように扱われている。しかし重要なのは周囲ではなく、椿とティーネの認識だ。
 戦争が終わった今になって二人が家族になる意味などもはやどこにもないが、天涯孤独となり繰丘の家名の加護もない椿が生きるためにはこうするより他に道はなかった。
 もう、椿は魔道を歩むつもりはなかった。
「……考え直すつもりはありませんか?」
 ふいに、椿の口から言葉が漏れ出た。椿が喋っているわけではない。椿の中にいるライダーである。
「ライダー、起きてたの?」
「肉体を酷使しすぎです。あまり魔力に頼る身体の使い方は控えてください」
 ため息をつくようにライダーは椿の身体を労る。労っていたということは、ずっと椿の気付かぬところでライダーは身体をフォローしていたのだろう。今朝方からずっと話しかけていたというのに全く反応がなかったのでてっきり眠っているものと椿は思い込んでいた。
 銀狼の墓に背を向け、椿は崩壊した繰丘邸内で唯一無事であった山荘風の小屋へと入る。長い間放置され続けてきた施設である。水道は何とか通っていたが、長年使われなかったことで少々錆臭い。それでも汗を流してバスタオルで軽く身体を拭いたそのままの姿で椿はぺたぺたとその建物を歩き回る。
「考え直すつもりはないよ。私は、魔術は学ばない」
 この建物は一般住居と較べても相当な広さを持っている。それだけに、部屋の数も多いし、子供部屋の大きさも相応のものだった。複数人の子供が駆け回る広さや、シーソーなど一人では遊べない遊具もそこにはある。まるで、幼稚園のようだ、と行ったことすらないのに椿は思った。
 服を探しに洋服ダンスを開けてみれば、そこには少ないけれども子供服の種類だけは沢山ある。それも、一定年齢以上になると椿に合わせた服だけとなる。小さな頃は、男の子のような服を着せられることが多かったのが不満だった。
 少々きついが服も入手し、いよいよ彼女は崩壊した繰丘邸内を歩き回る。
 崩壊し瓦礫の山となった工房へ足を踏み入れる。ここで数日おきに注射を打たれていた。この程度の痛みは最初から我慢するほどでもなく、体内で虫が這いずる感覚すらも、不快感は覚えながらも泣き喚いたことはなかったはずだった。それなのに泣き喚く声が耳に残っている。
 記憶を頼りに瓦礫を押しのければ、地下シェルターへの入り口を見つけるのは難しくなかった。全ての研究棟に繋がっている通路兼倉庫の地下に潜れば、そこはちょっとした迷路になっている。迷路の原因はガラス瓶だ。ガラス瓶に刻まれているラベルにはまるで墓標のように誕生日と命日が刻まれており、そして大量の付箋が貼り付けられている。その多くの単語こそ読み取れなかったが、「Failure」の意味だけは理解できた。夢の世界では覗き見ることができなかったガラス瓶の中身も、この現実であれば確認できる。直視するには、辛すぎる光景だった。
 繰丘邸を、一通り回ってみた。大半が崩壊しているので全体の一割程度でしかなかったが、それでも懐かしさを感じる。
「終わりましたか?」
「うん。もういいかな」
 懐かしさと同時に、自らが忘れていたことも、はっきりと思い出す。今まで、実に多くの犠牲の上に、繰丘椿という存在が成り立っていたことを、実感する。
 それだけに、椿は自分で自分を許せない。
 自分という存在を繰り返してしまう魔術の道を志すことはできない。
 この繰丘邸は即日解体することを依頼している。まだ無事な研究結果や貴重な資料もあろうが、その全てを椿は廃棄する。椿が受け取るべき遺産は、塵と化す。
 繰丘の魔術は、ここで断絶する。
「だから、ライダー。ごめんね」
「いいえ。最後まで悩んだ上での道なら、これ以上私が止める理由もありません」
 椿の決断に、ライダーはもう何も言うまいと決めた。
 繰丘椿は、魔術によって生かされている存在である。
 脳内の虫は今でこそどうにか沈静化しているが、いつ暴走するのか誰にも分からない。肉体を動かすにもライダーの補助なしで彼女は自力で歩くこともままならない。魔術に頼らず普通の生活を送るためには、数年はかかることだろう。半身不随のまま一生を過ごす可能性もある。そうでなくとも、長生きはできまい。
「……できる限りのことは施しています。余計なこととは思いましたが、脳内に圧縮プログラムを幾つか用意しておきました。視覚情報から発火に連動しているので何かあった場合にはオートでスイッチが入ります」
「ずっと黙ってたのはそれを作っていたから?」
「はい。私がいなくても椿が自分を守れるように」
 子を見守る親の気分で、ライダーは最後の贈り物を椿へ渡す。
 ライダーは燃費の悪いサーヴァントだ。マスター一人でこれを支えようとすれば三日もすれば限界を迎えてしまう。これを何とかするために他者から魔力を補ってきたが、それももう行っていない。
 椿の魔術回路をライダーは閉じた。今まで行ってきた魔術による補助がなくなり、椿はゆっくりとその場に仰向けに倒れる。
 青い空が見える。
 ここは、もう夢の世界ではない。
「バイバイ、ライダー」
「はい。椿もお元気で」
 夢の中で出逢った友人のことを、椿は忘れない。
 椿の孤独が癒やされ、自らの道を選び取ったことを確認し、ライダーは椿の中から消えていなくなった。


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 気がつけば、どこか異質な空間の中にカルキは存在していた。
 はて、とカルキは人間風に言うなれば首を傾げる。自分は確かに消失したはず。だというのに何故こう考えることができるのだろうか。
 アーカイブによればカルキは肉体消滅後、“座”に保存される筈だが、こんな窮屈なところが“座”である筈がない。座標を確認しようとするも返ってくるのはエラーばかり。英雄神話のための免責条項に該当したのかと照会もするが、それも違う。
 状況に悩むカルキであるが、しかしそれも長い時間ではなかった。
 カルキの目の前に、東洋人が居た。
 こんな近くにいながら気付かないなど普段であれば有り得ない筈だが、事実としてカルキは今の今まで気付けなかった。
 すぐさま取得できる身体情報から“世界”に保存されている無限ともいえる人体情報と照合させるが、該当する人物はいない。この目の前にいる人物は正規手続きに則って作られた存在ではないと判断した。人ではなく物として検索すれば、該当データは現時点で約五〇億件。いずれもアインツベルン製ホムンクルス――小聖杯と呼ばれる器の一つ。
 正体が分かれば、ここがどこかというのも理解できる。
 ここは小聖杯の中。
 カルキは消滅と同時に“座”へと戻ろうとする途中でこの小聖杯に絡め取られたらしい。
 肉体を失ったがためにカルキの認識は曖昧なままにある。ここにある身体はそんなカルキの認識に基づいて投影される幻みたいなものなので、当然この身体で小聖杯に何か影響を与えることはできはしない。
 仕方なく、カルキはなにもしないことを選択する。
 この英雄の身体を絡め取ったことは賞賛に値する魔術なのだろうが、残念だがそれまでだ。所詮虫取り網で捕まえられるのは蝉程度。小魚だって捕まえられるだろうが、巨大な鯨を相手にどうにかできるわけもない。
 そうこうしている内に、この異質な空間に亀裂が走る。今すぐというわけではないが、あと数分もすれば限界に近づき壊れることは確定していた。
 確定していたのだが。
「………?」
 空間の走った亀裂は、しかして誰が行ったのか。
 最初はカルキが自身の重みに小聖杯が堪えきれずに裂けたのだと思っていた。今も確実に小聖杯を圧迫し続けているカルキであるが、しかし、そうではない。目の前にいる東洋人が、何かをしたのだ。その手に輝く魔力の一画で、何かを喚び出そうとしているのだ。
 亀裂は、より大きく裂ける。そんな中から現れ出でる者が居た。
 即座に検索――該当件数、一。
 この“偽りの聖杯戦争”に参戦したキャスター。それもカルキが解放された世界に投影された個体と同一個体である。
「これが小聖杯の中か! うちの兎小屋よりも狭いな!」
 ずるりと蛞蝓の如く空間を割いて小聖杯に入り込もうとするフランス人はお世辞にも優雅さとはほど遠いところにあった。それを気にするキャスターではないが、土足で踏み入る泥棒だってもう少し礼節を弁えていることだろう。
 一頻りキャスターは周囲を見渡し勝手な感想を述べてから、
「さて。何をしに来たって感じの顔をしてるな、最終英雄? いや、もう英霊か」
 ポケットに手を入れ気取った表情でキャスターは語る。
「俺の目的はこの聖杯戦争の行方を見届けることだ。なら、俺がここに居たとしてもおかしくはないだろう?」
 いや、おかしい。
 普通はこんなところに令呪を使ってまで入ってこない。
 ここは小聖杯。世界の路より逸れた閉じた世界だ。入ることは令呪を使えば不可能ではないのだろうが、入った時のままの状態でここから去ることはできない。この小聖杯が堪えきれず崩壊した時には、中身は綺麗に消化され純粋な魔力と化して意識すら留めることはないだろう。
 魂の許容量に差があるカルキならまだしも、キャスター程度ではその術に抗えることはない。入ったら確実に消滅する。それが分かっていてどうしてこの場に来ようというのか。
「消滅、か。それも大いに結構だ。随分愉しませて貰ったし、何より舞台を最後まで特等席で見られたからな。こんな命が代金なら安いもんだろう。むしろ安すぎるくらいだと思ってしまった。
 だから俺はここに居る」
 キャスターの言葉をカルキは理解できない。まるでキャスターは、代金を返すためにここにいるような言い草ではないか。
「おいカルキ。お前は何故こんなところにいる? 何故お前は負けた? 何故、己の使命を全うしなかった?」
 キャスターの問いに、カルキは答えられない。
 カルキはシステムだ。全てを合理的に考え、自らにできるその時々の最善の道を選び、実行する。最善の選択が必ずしも最良の結果に繋がらないがために、カルキは今ここにいる。そこに疑問が入る余地などない。
 そんなカルキの思考を理解したかのように、キャスターは論う。
「わかってねえなぁ。
 世界が唯一でないことぐらい、お前も分かっているだろう? この東洋人を見れば俺にだって分かる。苦労して八億回繰り返し、ついに辿り着いたのが最終英雄の打倒だ。これは最初の一回目だ。そして一回あれば、あとは何度だって負け続けるだろうさ。繰り返される挑戦に、お前は何度も膝を屈するのさ」
 キャスターの言うことは、正しい。世界は唯一なのではない。数多ある分岐の先には無限の未来が存在する。本来であれば、その中にカルキの敗北はないとされている筈であったが、こうしてその可能性が生まれてきた。であれば、他にも敗北の可能性は次々と生まれてくるはずだった。
 カルキを失った世界には大きな齟齬が生じてくる。
 救世主となるべき存在がいなくなったのだ。強大であるが故に、そのために生じた歪みは大きい。世界が修正できる許容量を超えてしまっているのだ。一分後か、一年後か、一万年後か知らないが、この小聖杯のように、崩壊は不可避の存在となる。
「だがな。この敗北はお前のせいじゃない」
 そんなカルキを慰めるように――いや、自らを自慢するように、キャスターは告げた。
「お前は確かに最終英雄だ。お前の前には全てがあり、お前の後には何もない。そんなお前に勝てる存在はいやしねえよ。お前の敗因は、単純な設定ミスだ。
 お前が大人しく四〇万年を眠っていれば何の問題もなかった。途中で起こされるような柔な寝床が悪いのさ。
 まあ、代金が安いってのもあるが、気にくわない脚本を修正しときたかったってのもある」
 ふと、カルキはこのアインツベルンの小聖杯が他と少し違うことに気がついた。
 基本となる器の製造法に大した違いはない。基本を同じくしながら少しずつ設定値を異にしているだけだ。しかし、この個体だけはその設定値が出鱈目だ。これでは小聖杯として東洋人が役立つことはない。
 アインツベルンの設定ミスか。そんな偶然があろう筈がない。
 何故なら、送られる場所と時間は、カルキが用意された時期と同一のもの。
 あろうことかキャスターは、創造主に対して脚本のだめ出しをしようというのだ。
 “偽りの聖杯戦争”、その元凶たるカルキを起こさぬために。これから起こりうる全ての可能性を否定するために。世界から救済が損なわれることのないように。
 キャスターは、ここに居た。
「今度からは、気をつけるんだな」
 ニヤリと笑いながら、キャスター自己満足に漬りながら小聖杯の中に溶けて消えて逝く。その姿を見ながら、カルキはようやく納得した。
 キャスターがここに居た意味。
 それは単に、終わりを告げる英雄に、終わりを告げたかっただけなのだ。現実世界のエピローグを捨ててまで、そんなくだらないことのためだけに、彼はこの場に現れ、消滅していった。
 到底、システムに則って動くだけのカルキには納得できても理解はできぬ行動だ。
 最後にひとつだけそんな不合理をカルキは考えながら、カルキは小聖杯を破壊して“座”へと戻っていく。
 ここに約八億回続いたとされる“偽りの聖杯戦争”は幕を閉じる。
 もう次に“偽りの聖杯戦争”が開かれる可能性はなくなった。


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 スノーフィールド、南部砂漠地帯に二人の足跡があった。
 ひとりはアーチャー。
 ひとりはランサー。
 二人の足跡はつかず離れず。
 まるで互いに語り合うかのように点々と続いている。
 ただ、そんな彼等の行方を知る者はいない。
 二人が共に立ち去る姿を見た者はいても、その立ち去った後の姿を見た者はいない。
 その結末を知る手がかりとなる足跡も、砂塵は徐々に、そして確実に消していった。
 “偽りの聖杯戦争”、その最後の戦いがあったかどうか、定かではない。


 FIN

Fate/strange fake Prototype -Another Player-

プロト版Fate/strange fakeの補完するよう書いています。
なので、
1.プレイヤーであるA氏がいる理由
2.偽りの聖杯戦争が始まった理由
3.各種疑問点の解消
について整合性をとりました。

その他、コンセプトとして
1.全サーヴァント全マスター生存エンド
2.予想の斜め上の展開
3.プレイヤー(A氏)を極力登場させない
4.HPに掲載されていたアイテムやキーポイントの使用(魔力針、義手、14番地等)
5.全登場人物が織りなす群像劇
6.オリキャラはなるべくいれない(ラスボス除く)
7.全令呪の使用
8.全サーヴァント全マスターの望みを成就
など、勝手に縛りを入れて書いています。

ちなみにプロト版の時点でWikipedia等に書かれている内容と齟齬がある点がいくつかあります。
1.署長がスノーフィールド市の警察署長とは書いていない
2.繰丘邸がある場所の地名がスノーベルグ市と書いてある
3.キャスターとライダーの正体はほのめかしているだけ
4.バーサーカー召喚の触媒がレプリカによるものとも明言していない
5.クラン・カラティンの人数は三〇名程としか書いていない(二十八名とは書いてない)
等々。
結構情報が曖昧なところがあります。伏線だと勝手に解釈しているところもありますが、スノーベルグ市とか一度しか出てないので単純に間違っているだけなのかもしれません。
他にもアーチャーは5番目に召喚されたハズなのに署長が召喚されてもいない時に存在を知ってたり(時系列を意図的にずらしているのかもしれませんが)するので全てを信じちゃいけませんね。

本作は色々と好き勝手想像できる要素が多分にあったので書いていて楽しかったです。アーチャーVSミダス王、アーチャーVSキャスター、ライダーVSランサーが特に気に入ってます。極論、このシーンを書きたかったがために執筆したといえます。
ただ、その結果文章量が1メガを超えてしまったのは申し訳ありません。量的にいえばSNのセイバールートと同じくらいです。おかげで友人からも笑って読むのを断られました。
元ネタを知っていることが前提かつ、この長編具合を考えればあとがきまで読んでくれた皆様は本当に暇人です。感謝に堪えません。
成田氏が今後書かれるstrange fakeがどうなっていくか分かりませんが、きっと自分など足元に及ばないと思います。まだコミック一巻しか読んでいませんが、是非本流strange fakeも楽しんでください。

Fate/strange fake Prototype -Another Player-

本作品は2008年に、成田良悟氏がエイプリルフールネタに書いた二次創作小説「Fate/strange fake」の二次創作(三次創作?)です。 設定が面白かったので「どうせエイプリルフールネタだから誰も書かないだろう」と思い立ち、書きました。書いた当時はまさか数年越しに作者自ら執筆するとは本気で思っていませんでした。 せっかく書いたものなので、お蔵入りするのももったいないと思い、原作発売前に一ファンとして投稿させてもらいました。これを機に「Fate/strange fake」を読んでいただければ幸いです。 追記15年8月 漫画一巻を読んだので冒頭等を加筆修正しました。原作か漫画一巻を読まれた方はその続きで読めるようにしています。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-08

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. 01
  2. 02
  3. 03
  4. 04
  5. 05
  6. 06
  7. 07
  8. 08
  9. 09
  10. 10
  11. 11
  12. 12
  13. 13
  14. 14 epilog