もくまおう

しゃべるな。
しゃべるな。
猫は厚い肉球をのんの小さな唇に押し付けて唸った。
のんは子供だが、猫のその鋭い目を見て静かに頷く動作をした。
「よし」
猫はふとい前足をはなした。
のんは、自分の胸からゆっくりと降りた猫の、ふくふくとした胸を見つめた。

そこは公園のすべり台のそばの深い草の伸びる一角だった。
のんたちはそこを秘密基地のような、神聖な場所として扱っていた。
夏、にょきにょきと自分たちの背を抜いて伸びていく草への畏敬のような気持ちだった。
それは秋、すべての力を失って枯れる姿を何度見ても、変わることはなかった。
のんはすべり台の上から、まだ力を取り戻しきっていない春先のその場所を見ていた。
誰も公園に来ていない時の、それはのんだけの楽しみだった。
今、のんがその聖地へと入り込んでいるのは、先ほどこの猫の目が草陰で光り、ガラス玉かと勘違いしたからだった。
猫は緑の闇からひらりとのんの上に降りてくると、身のこなしとは全く噛み合わない重さで押し倒したのだ。
立派な、黒ぶちの、多分雄猫は言った。
「お前、今のを見たのか」
それは鎌を振り上げられて問われてているような、とても慎重な答えを要求する声だった。
「スズメ」
だからのんは正直に見たものを口にした。
それのどこがいけないのか、のんには分からない。
猫はふとい前足でのんの口を塞いだのだ。


猫の様子をうかがいながら、起き上がると、のんは瞬間息を吞んだ。
音を立ててしまったらいけない。
だから吞んだ。
そこには、千切られたスズメが一羽。
やわらかそうな羽根が周りにも落ち、そして少ない血が溜まっていた。
のんが最初に見たのはスズメの頭だった。
猫はそれ以外をその身で隠すように覆い被さっていたのだ。
今、起き上がったのんを見ていた。
「スズメをどうして殺したの」
のんは死体を時々見る。もう生きてはいない、死んだ体。
猫はぴんとひげを張り、変わらないひくいひくい声を出した。
「うせろ」
「何を言うなといったの」
「俺が」
そう云って猫は目を逸らした。
スズメは無残な姿で、静かに冷たさを放っている。
蟻が一匹、その死も去ってしまった体を見つけた。
猫がすかさず蟻を殺し、黙らせた。
「スズメを殺したことだ」
絞り出すようなガラガラ声と、注がれ続ける視線に、のんはまた頷いた。
「死は悲しいの?」
猫は撃たれたように耳をぴくんとさせた。しかしすぐに表情を消して
「さあな」
といった。
そしてひとつ鼻を鳴らすとすっくと立ち、スズメへと顔を寄せた。
鋭い牙が見えた。
がぶりと、肉に牙は刺さる。
猫はスズメを食べていた。
その様子を、のんは更に静かに見つめた。
やさしそうな羽根。血に錆びたような目の色。
幼いのかもしれないくちばし。カラクリのような足。
ミミズとよく似た内臓から、ぷんと痺れるようなにおいが流れた。
それもあっという間のことで、猫はのんのことなど忘れてしまったかのようにスズメを食べた。
食べつくし石や草についた血も舐めていった。
スズメの生も、死も、体もなくなったようだった。
たった数分間に。
猫はしばらく呆然としたように見えたが、のんの存在を思い出したのかくるりとのんのほうへと向き直った。
「お前、俺をどう思う」
「話していいの?」
「訊いている」
「分からない」
「分からない?」
小首を傾げたのんに、猫も気持ち短い首を傾げた。
ように見えた。
のんは少ない己の言葉を掻き集め、積み木で城を作るときのような心持で口を動かした。
「どうしてスズメを殺してしまったの」
「きくのか」
「ききたい」
猫は背を丸めて座った。
尾はくるりと体に巻きつく。
スズメを食べた口元を見た。
そちらに気を取られたのか、猫はぺろりと舌で口元を拭った。
「俺は猫だ」
「うん」
「猫には約束がある」
「のんたちにも約束はあるよ」
「違う。理としての約束だ」
「うん」
「分かるか」
「きっと」
猫は左目にかぶさったぶちの模様を掻いた。
手をしゃぶり、また掻く。
「お前たちは約束を破っても人間だ。
でも猫は違う。
約束を破ったら、猫としての事実を失う。」
「うしなうとどうなるの」
猫は黙った。
両手をそろえて、じっとその先を見ている。
のんは猫の瞳に平等に映る自分の姿を見た。
人は、誰と約束をしているのだろうか。
「そんなこと知るか」
「知らないのに、約束を守っているの」
「当たり前だ。守るから約束なんだ」
「そっか」
「そうだ」
「のんのママは約束破るよ」
「人間はそういうものなんだろう」
「そっか」
そうだ、と猫は言わなかった。
猫はのんと同じで言葉が少ない。そのことにのんは安心していた。
のんのママはたくさんの言葉を知っていて、それを駆使して約束を破ったことを正しいことのように思わせる。
それは不公平だとのんは思う。
けれど少ないのんの言葉では、それをママに伝えることが出来なかった。
日はゆっくりと傾いている。
猫も空を見た。
淡く高い、透明な。
雲は見当たらず、ここはなんてぽっかりした場所なんだろう。
「猫の約束を破っちゃったの?」
「そうだ」
猫は正直に答えた。
まだ空を見ている。
のんは地面にぺたりと沿わせていた足を胸に引き寄せた。
大きな草と、その下には小さな草。
その間ににのんと猫はいた。
「どんな」
膝に口元を隠し、こもるような声をこぼした。
猫はぺたり、ぺたりと尻尾を振った。
ぞ、ぞ、ぞと毛が逆立った。
猫の鼻はやさしい桃色をして、濡れていた。
「スズメと恋をした」
「こい?」
「知らないか」
「うん」
「いい。俺はスズメと恋をしたんだ。」
「うん、それは分かったよ」
「スズメは鳥だ。鳥は鳥と恋をするのが約束だ」
「それも約束?」
「そうだ」
「でも、猫はスズメとこいをしたの?」
「ああ」
思いだいたように猫の目はぱちくりと瞬いた。
その中でスズメは愛らしくくちばしちくちくをと落としている。
「それは間違ったことだったの」
「そうだ。だけど間違ってはいなかった。約束は横切っただけで、俺とスズメの恋に横たわっていただけだ」
「スズメは、猫が好きだった?」
「おう」
「猫も」
「おう」
そういった猫は鼻を上に向けて、誇っているようだった。
自分の心の動きのすべてを。
それがとっても真っ直ぐな歌うような素直さを表していた。
のんは猫をとても雄々しいと感じた。
だからこそ聞きたかった。
「こいしたのに、食べちゃったの」
「すずめが美味しそうに見えた。とても可愛くて、だからこそより美味しそうに見えた」
「それで食べちゃったの」
「そうだ」
のんはこくんと頷くと、あのね、といった。
猫は、おう、と答えた。
「のんのママは、パパと別れちゃったの。仲良しだったのに、今は違うのかな。ママはそれがパパのためでもあるんだっていった。
のんが、パパはって聞くたびに、パパのために別れたんだって。
猫はそうしなかったんだね」
「猫と人は生きる時間が違う。ずっと長い」
「長いと、好きになったり、嫌ったりするの?」
「人のことは分からん。
猫は相手を変える奴はあまりいない」
「のんたちも、短かったら仲良しでいられたの」
「そんなことは分からん」
のんのママはよく働く人だ。
のんのパパもよく働く人だ。
人として正しいことも知っている。のんのことも大切に思っている。
それでも別れを選ぶことはある。
のんには二人の顔がぼんやりとしか見えなくなっていた。
なんとなく女の顔をみては、「ママ」と呼んでいた。
だからのんには、ママがその時哀しいのか、怒っているのか分からない。
猫はゆっくりと動いた。
おしりを深くつけ、上手にバランスをとりながら後ろ足をあげた。
赤い舌が舐める。
細めた目が月のようだ。
「スズメ、食べちゃって猫はさみしくないの」
「お前と話していたから、腹が減ってきた」
「のんは食べられないよ」
「食べられるさ。
だけどお前に尻尾を持ち上げられたりしたら厄介だから止めておこう」
「ねぇ、猫はまたスズメを食べる?」
「そうだな」
でも、と猫は足を下ろして欠伸をした。
「俺のスズメが一番美味いさ」
猫はひげはぴんと張り、風の言葉をすべて受け取っているようだった。
まるいおしりと、まるい胸。
今、スズメはどのあたりだろう。
「ねぇ」
「なんだ」
「猫に触ってもいい?」
猫は瞬間、む、と眉間を寄せたようだったが、仕方ないという風に地面にぺたりとお腹をつけて座った。
「ありがとう」
そっと手を伸ばすと、猫は何となく更に大きな生き物のように思えた。
手のひらと、猫の頭の毛先との間に空気が動くのが分かるほど、のんの神経は手に集中していた。
ふわりと、その上におくと、猫は静かに目を閉じた。
「のん、はじめて猫に触ったよ」
「そうか」
「猫って、あったかいんだね」
「そうだ」
同じ動きで目を開くと、猫は眠たげに瞬きを繰り返した。
「眠いの?」
「まあな」
「猫って夢見る?」
「見るさ」
「そっか。じゃあ、スズメの夢を見られるといいね」
「そうだな」
のんはゆっくりと猫の頭を撫でた。
何でだかのんまで眠たくなってきていた。
やわらかくて、細い毛。あたたかくて、綿毛みたいに飛んでいく。
「猫、でも、どうしてもさみしい時はどうするの」
「そうだなあ。どうしたもんだろうなぁ」
「猫は、他の猫ともう仲良くしないの?」
「しないさ。
スズメにはすぐあえる」
「そうなの?」
「そうさ、あっという間さ」
「そっか」
のんは久しぶりにパパの顔を思い出してみようとした。
うまくいかない。
ママは、パパを思い出せるだろうか。
のんのことを、これからも好きでいてくれるだろうか。
のんは心配になった。
どくん、どくん、どくん、どくん。
「俺はスズメを食っちまったが、スズメに恋してよかった」
猫は、ぽつりと呟く。
「食べなきゃよかった、って思わない」
「思う。思うが、それで今が変わりはしない」
「のんは、今でもママとパパが仲良しだったらって思うよ」
「お前のは親で、俺のは恋だからな。また違うんだ」
「うん」
「お前も恋をすればいい」
「うん」
のんは瞼を閉じるともなく閉じていた。
あたりは夕闇がするするとやさしいベールをかけていく様子がきっきりと見える。
のんは人ともこんなんに話すことがなかった。
ママは朝早くに仕事に出かけ、夜遅くに帰っているようだった。
のんは、ママに好きでいてもらいたいと、初めて分かった。
パパにも好きでいてほしいと。
でもどうしたらいいのか分からない。
猫もきっと、分からないと云うだろう。
なら、のんはママと話をしなくては。教えてもらわなくては。
今日みたいに、公園の隅っこに隠れているのではなくて。
もっと。
もっと。


遠くで、のーん、と声がした。
遠くかもしれないけれど、声がした。

もくまおう

もくまおう

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-07

Copyrighted
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