おやすみ
「いち、にい、さん」
声に出して数える僕の前で、母はふっくらした瞼を閉じて相槌のように頭を揺らす動きをしている。
「しい、ごう、ろく」
少し前までは母も一緒に声を出してくれたけれど、僕が少し成長したから今は静かに僕の声を聴いていてくれる。
父は、今でも一緒に声を出してくれるかもしれないけれど、それは僕の成長を見逃しているからだ。でも僕は怒ったりしない。父が僕とお風呂に入れるのは母よりずっと少ない数だけだから。父は僕の成長を感じることより、僕と一緒の時間を持つことを優先してくれているのだと母が教えてくれた。
それは父の僕への思いだから、とても大切にしてほしいものなのだと。
「…じゅう」
最後だけ大きな声を出す。
母は瞼を持ち上げてにっこりとした。
頬が真っ赤だ。きっと僕も同じ色。
「よし、でていいよ」
母は僕より先に立ち上がり、お風呂から脱衣所に長い手を伸ばす。
二枚のバスタオルを握りしめた手も真っ赤だ。
緑色と、薄桃色のタオル。
緑色が僕のだ。母が湯船から出た僕にそれを手渡す。
僕は母の横を通り抜け、バスマットの上で体を拭く。
これも最近できるようになったことで、拭き忘れがないか、後ろから母がチェックしている。きちんと拭けると振り返った時母が大きく笑ってくれる。もしどこか拭き忘れがあれば、母は片眉をおかしな風に上げてみせる。そして徐に手を伸ばし、痛いくらい力強く僕の体に残った水滴を拭うのだ。それをされるととても可笑しい気持ちになって笑い転げて苦しくなるので、僕は一生懸命体を拭く。
お腹も、太ももも、足の先っちょまで同じ色になったまま、僕はパジャマを着る。
飛行機がたくさんのっているパジャマ。母のお友達がプレゼントしてくれた。僕はこれが今一番お気に入りだった。
「歯を磨いて」
ボタンを全部止めた僕に母が言った。母もバスマットに足を付け、僕と同じ色のままきれいな下着をつけて、薄い色のワンピースを頭からかぶった。
はーい、と返事をした僕は洗面台の前の、僕専用のイスの上に乗って鏡の前のコップと歯ブラシをとった。
母もすぐに後ろに付いては自分の歯ブラシを抜いて白いすっとした匂いの歯磨き粉を掬った。
僕はまだ何も付けない。
歯ブラシを持って、準備が互いに整ったのを確認すると、僕と母は一緒にそれを口へ放り込む。
しゃかしゃかしゃか。
あとは二人好きなように歯を磨いていく。
お風呂場からの湯気で曇った鏡を前に。
たまにちらりと母を見る。
母も、僕を時々気もなさそうに見る。
目があったって、何にも交わさないけれど。
僕は歯磨きをしながら色々考えたりする。明日の天気や、幼稚園で歌う歌について、母がどんな服を着ていくのか、とか。または今日の出来事について思い出す。縄跳びがどうしてにがてなのか、お絵かきはやっぱり絵具よりクレヨンがいいとか、給食は苦手なものがなくて良かった、なんてことを。
母の服装は、僕の通う幼稚園ではちょっとした話題の一つになる。
それは高級品を着るからでも、奇抜な服を着るからでもないし、いつもジャージだから何て言うわけでもない。
母の着る服は、毎日テイストが全く違う。
重たげなロングスカートに、明るい色の短いボレロを羽織ったり、レースの付いた短いパンツに船の絵がたくさん描かれたタイツを穿いたり、少女のようだったり、しっとりしていたり、奔放だったり、時には白黒を細かく重ねた複雑な恰好をする。
先生も、他の子の母親たちも、母のその日の服をいちいち評価したがる。
今では僕たち子供の女の子までそのお喋りをする。
その評価は日によって酷いものだったり、物凄く褒められたりするけれど、母も僕もそのことは全く気にしないことに決めているのだ。
私が何を着ても自由なように、それを見てどう人が思うのも自由だわ。
母はそういう人なのだ。
歯磨きを終わらせると、僕は母と父の部屋にお邪魔する。
父が帰ってくるまで、二人のベッドに寝かせてもらうのだ。
僕は先に布団の中に潜りこんだ。
母はゆっくりと今日読む本を探して、ラジオのスイッチを付けてから僕の隣へと足を入れる。
ベッド脇の読書灯をだけが明るくまるい。
僕は外の風の音に負けそうなくらいのラジオの音と、母が優しくめくる物語の音に耳を澄ましながら目を閉じる。
柔らかい暗闇の向こうに、透明な僕は引っ張っていかれる。
「おやすみ」
母が小さく呟くのを聞く。
いつの間にか眠った僕を、帰ってきた父が抱きあげて僕のベッドへと運んでくれる。
父からは一日彼にしみ込んだ色んな風の匂いと、ついさっき引っかかった夜の深い匂いがする。
僕はこのほんの少しの間透明に成りきれず、色がぼやけて染み出す。
あたたかく、甘いような父の腕から下ろされて、ひとりのベッドに横たわった時、本当の僕の今日がお終いになる。
「おやすみなさい」
おやすみ