ナルシスト
「私ってほんとイイ女」
鏡に映る自分に見惚れ、妻は口癖を呟く。メイク道具を手に取る度こうして止まるものだから、妻は長いこと三面ドレッサーと向き合っていた。
鏡の端にはちらちらと、せわしなく動き回る夫の姿が見える。朝食の食器を洗い、二人分の洗濯物を干し、燃えるゴミをまとめる夫。ドレスアップした妻とは対照的な安っぽいスーツも相まって、まるで女王に仕える奴隷のようである。
一見ありがちな恐妻家の日常風景。しかし、実際は真逆だった。
「ねえ、あなたもそう思う?」
気まぐれに呼びかけてくる妻の声を、決して聞き逃しはしない。夫は片足まで履きかけた靴を脱ぎ、嬉々として駆けつけた。
「もちろん。今日も最高に綺麗だよ」
「でも、ネックレスが少し黒ずんできたわ」
長いつけ爪で胸元を指し示すと、待ってましたとばかりに夫は懐へ手を入れる。
「そう言うと思って、昨日買ってきたんだ」
取り出される赤い小箱の中、輝く高級ブランドのネックレス。妻はやっと振り返って、勢いよく夫に抱きついた。
「いつも悪いわね」
「よせよ。君を幸せにすることこそ、僕の幸せなんだから」
長い髪を撫でる手は、優しく仄かに温かい。妻にとって好都合な夫の幸福論は、こうして良好な結婚生活を支えていた。
「……ノロケ話なら他で頼むよ」
うんざりした様子で、男は来客用のカップをテーブルに置く。鋭い眼光、きつめの香水。掃除の行き届いた穏やかな部屋には、全てが不似合いな男だ。
「そうじゃなくて、つまらないの」
夫とは違う無骨で冷たい手に、妻は細い指を重ねる。ただそれだけでピリリとした刺激が背筋を伝った。癖になりそうな高揚感と背徳感に、妻は瞳を輝かせる。
「旦那が不憫だな。そこまで尽くした結果が他の男とは」
「だって退屈なのよ。私ほどの女が、カゴの中の鳥でいいと思う?」
午後の風がカーテンを揺らし、不安定な影を作る。徐に妻は男へ身を寄せた。
「もっと冒険したいわ」
「……本当に、君がそう言ったの?」
乱れた寝室を眺めながら、夫は淡々と問いかけた。情事を覗いていた時から今に至るまで、落ち着き払っている夫に妻は怯えたままだ。
「ごめんなさい」
逃げ去り際、全て告げ口していった男を恨む。謝り慣れず涙を流す妻に、夫はそっとハンカチを差し出した。
「謝らなくたっていいさ」
泣きじゃくる子どもをあやすように、華奢な肩をポンポンと叩く手。やっぱりこの手が一番だ、と妻は確信する。夕暮れの陽が小窓をほんのりと照らし、白いはずのベッドは赤みがかっていた。
「別れよう」
夫の言葉に打ち抜かれ、妻は目を見開いて顔を上げる。
「嫌、お願いだから許して」
思わずすがる妻を、やんわり引き離す夫。表情には反省の色が浮かんでいる。
「僕は君に不満を抱かせてしまった。彼と一緒にいた時、君は本当に幸せそうだったよ」
一呼吸置き、夫ははっきり宣言した。
「僕でなく、彼のほうが君を幸せにできるんだ。だから、僕は身を引くよ」
「そんな、違うわ」
「違わないよ。言っただろう?君を幸せにすることが僕の幸せだって」
迷いのない夫に、妻は言葉が出てこない。今朝まであれほど愛していた妻を、こうもあっさりと手放せるものなのか。それほど落胆したのか、あるいは根本的に何かがおかしいのかもしれない。
困惑する妻を残し、夫は寝室を出て行った。開け放たれたドアの隙間、足取りは洗面所へと向かう。
帰宅後に済ませていなかった手洗いの後、夫は髪を触っていた。男に突き飛ばされ崩れたヘアスタイルを、櫛で丁寧に整えていく。
鏡に映るのは、妻の幸せを第一に考え、己を犠牲にする献身的な人格者。その姿に見惚れ、夫は独り言を呟いた。
「僕ってほんとイイ男」
ナルシスト