子供の名前
「人は私小説を書く時、本当に正直に自分の人間性や体験について、書いているだろうか。少なくとも私は、自分のことを書く時は7割がた嘘である。それはただ単に恥ずかしいし、もし、本当のことを言ったら、みんなの気分を害すことは間違いないであろう。それに正直に言っている私の胸がきっと苦しい。そういう時のために、自分以外のそういう人達のために、やはり私は神ではなく、悪魔になりきって、演じ、人生のダンスホールで踊り狂うのである」。
「それ、本当にしゃべっているの?」リョーヤはワタシにそう尋ねる。リョーヤが私に訊いたことは、まるで、文学体で書く文章のように、しゃべっているみたいだということだ。つまり、不可能な話体だ。説明が遅れましたね、リョーヤはワタシの息子です。この子は実によくできた子で、成績優秀、スポーツ万能、聞くところによると「ファンクラブ」まであるらしい。しかし、一つだけ、真面目ではないんですよね。親が少々、手荒く教育したせいか、どこからどう見ても「悪」なんですよ!
リョーヤは父親を憎んでいた。なぜなら、それは「良也」という名前が原因だった。リョーヤこと良也は最初は善を志していた。しかし、学校のみんなは良也のことを「不良!」「フリョー!」「不良や!」「フリョーヤ!」とからかったのだ。それは毎日毎日、何十回と続いた。それは同学年のいじめっ子や、なんと女子生徒までもが、良也の名前を文字って「不良!」と呼んだのだ。良也はショックだった。きっと僕に嫉妬したんだろう。良也はそう思った。リョーヤは良也なんだ。決して「不良」ではない。
なぜ、ワタシはそういう名前を付けてしまったのだろうか?読者様はこの物語をどう思われますか?子供が親に付けられた名前で災難な目に合っている。そのことによって子供は「善」を諦め、グレて「悪」になってしまった。「良也」という名前は「良」という思いから付けたものだが、それが誠に「不良」と化してしまう。読者様はきっと微笑されるかも知れないが、ワタシは大真面目だ。ワタシは親として失格だ。死のう。ワタシは川のほとりに向かったが、すぐに引き返した。死ぬ度胸がなかったのである。
家に帰って、息子に謝った。「ごめんなさい」と。すると息子は「何もかも不公平だ」と言って出て行った。ワタシは出て行った息子が心配になり、外へ探しに行った。すると、息子はワタシが行った川のほとりにただ一人、たたずんでいた。「その件はもういいじゃないか。その件でなにもお前の人生が終わったわけじゃない」ワタシがそう言うと、息子はすごく喜んだ。名前は普通に平凡に付けるべきか。それとも、厳重に検討しながら、息子が納得がいきそうな名前を付けるべきか。もうどうでもよい。
ワタシは良也がオカマだったら、絶望的であったが、なにゆえ名前程度なことなので、安心しているところもある。しかし、仮にオカマであっても、そんな深刻ではないと教えてあげたらいい。人生は何度でもやり直しがきくし、いざとなった場合は逃げ道さえある。これはワタシの浅薄な意見に過ぎないかも知れないが、ワタシ自身はそうやって生きてきたし、それで今だって生き延びている。困ったことがあったら、そのことに直面せず、他の違うことを考えよ。これは個人的な哲学だ。頭を使えば、なんとかなる。
「それでも、悔しい時や悲しい時がある…」良也が言った。ほう。「そんな時は大好きな女の子のことを考えたらいい」。「ふざけるな!」ワタシは良也を怒った。しかし、ワタシはそんな良也が大好きだ。この子のためならなんだってできる。川でおぼれてても、泳いで助けに行くし、いじめにあったら、やった奴と決闘しに行く。ナイフで刺しちゃうかも知れない。だから、胸を張って、どうどうと生きてくれ。自分のことを好いてくれ。そして、俺はお前と一緒に走り続ける。
真面目に書くべきだったか。でも、やはり私は真面目というものを心から愛している。真面目に書けないのは、真面目すぎるからだと思う。少なくとも私には正義しかない。人間は正義を志す権利がある。そして、それはとても楽しいものなのだ。私の主張は永遠に理解されないだろう。それゆえに正義であるのだ。友達が少ないのもそのせいか。そこにいる君よ、志してみないか。(この物語には多少、嘘が混じっています。力量がそこまでに達していなかったと諦めるほかないです)。
子供の名前