涙

 カランカラーン。
 古代ローマの「コロシアム」のような会場に、大きな鐘の音が鳴り響く。体重678キロで5000万円という、史上最高の値がつき、どよめきも起きていた。
 すると、真っ黒な瞳から、大粒の涙がボロボロとあふれ出す。ツヤのある黒い毛の上をなめらかに伝っていく。それを見た、1人の男性も、もらい泣きしそうになるが、グッとこらえる。帽子を深くかぶる。まわりから、赤くなった目を見られないようにした。
「ようやってくれた。ありがとう」
 背中をポンポンと2回叩くと、いつも通り、ゆらっゆらっと大きなしっぽを振って、応じた。これが、最後の別れだ。

 カランカラーン。
 これが噂に聞いたことのある「最期の鐘」か。オレに値段がつき、新しいご主人に
引き取られる合図だ。この先、どうなるかは、はっきりとは知らない。2度と帰って来ることができない。それは、確かだ。
 何か、急激に眠たくなる液体を飲まされるらしい、という話だけは耳に挟んだことがある。
 オレは「兵庫県」というところの、真ん中あたりで生まれた。人はオレのことを「神戸牛」と呼ぶ。生まれた時から、ごちそうばかりをいただいた。時には1日にビールを6本もごちそうになったこともある。人間が数人がかりで、全身マッサージをしてくれる時もあった。至福のひとときだった。
 ご主人様は、70歳代の後半だろうか。しわの多い、色黒の方だった。見た目はきついし、人間には厳しいが、オレにはいつも優しかった。必ず、やさしい声をかけてくれた。
「今日も元気か?たくさん食べて大きくなれよ」
 その言葉に甘え、好きな物を好きなだけ食べさせてもらった。
 少し前、「口蹄疫」という伝染病が九州で流行った時は、困った。「オレたちも殺処分されるのか」と戦々恐々としていた。しかし、ご主人様はオレたちを守ってくれた。感染経路を断つため、飼育舎の全面に、目の細かい金網を張り巡らせてくれたのだ。
「こんなやさしいご主人様は、うちぐらいやろうな」
 隣のやつと、話をしたほどだ。
 そして、この日がやって来た。
 トラックに乗せられ、競りの会場に向かう。実は、オレはトラックに乗るのを拒んだ。急に恐くなったからだ。自分の身がどうなるのか、うすうす感じてはいた。眠たくなる薬を飲まされたあとの、話だ。
人間たちの話を総合すると、オレたちは殺される。そのあと、体を刻まれて、肉として売られる。
「神戸牛」というのは、そのブランドで、その業界では最高級らしい。誇らしいことだが、やはり、死を前に、怖じ気づいてしまった。
トラックの荷台に乗るのを渋っていると、ご主人様がやって来た。
「どないしたんやぁ?お前の晴れ舞台やないか。行かんかい!」
 ハッとした。
 声こそ明るかったが、目にはうっすらと涙を浮かべていた。そのご主人様の姿を見て、全身の力が抜けてしまった。その場にうずくまり、しばらくして、荷台に乗り込んだ。そうだ。つらいのは、オレだけじゃないんだ。
 競りの会場では、たくさんの人間たちに囲まれた。全身をジロジロ見られ、あまりいい気分ではなかったが、ご主人様がまわりから褒められているのを見て、オレも鼻高々だった。胸を張ろう。最初で最後の「晴れ舞台」なんだから。
 競りで、史上最高額がつき、新しいご主人に連れられ、トラックに乗せられた。ほかにも何頭かいたが、オレが1番だというプライドがあった。でも、そんなプライドもへったくれもない。オレたちはみんな、あと少し先には、肉になって店に並ぶのだ。
 その宿命を受け入れる時がやって来た。
 オレは人間の胃袋を満たすために、生まれ、死んでいく。それでもいいじゃないか。1人でもオレを愛してくれる人がいて、その人と暮らすことができたのだから。

 競りの時。鐘の音とともに、涙があふれた。自分でも、なぜだか分からなかった。悲しいわけではない、そのことだけは、わかった。胸の中は、ご主人様に育てていただいた、感謝の気持ちでいっぱいだった。
 車がブレーキをかける。ほかのやつとともに、少しよろめく。いよいよだ。もう腹はくくった。どんとこい、だ。
 オレのできることは何か。それは、人間の胃袋を精一杯満たすこと。それしかない。最期の務めだ。さぁ、行こう。
 外は、雪まじりの冷たい雨が、降っていた。史上最高額の「神戸牛」は黒毛を濡らしながら、凛とした姿で、荷台から降りたった。その瞳に、涙はなかった。

畜産農家の親類の方から聞きました。神戸牛は落札された時、涙を流すんですって。どんな涙なんでしょうか。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-13

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