山を統べしもの

蟲師の二次創作、第二段となります。
今回は、山を舞台にしたお話。
よろしくどうぞ。

壱の章

「これは、酷いな」
木の枝が鬱蒼と茂り、陽の光を全く遮っている。
「まさか、これ程とは」
木の根が地面の至る所を()い回り、少しでも気を抜くと脚を取られて仕舞う。
とある南の地方の、山中である。草木が生い茂り、生命の香が濃密に大気を満たしている。呼吸をすると、()せる程だ。
不図(ふと)、ギンコが脚を止め、肩から薬箱を降ろし、その場に(うずくま)った。
地面に耳を着け、大地の声を聴く。正確には、大地に蠢く蟲の様子を、聴覚を通じて知ろうとしているのだ。
目を瞑り、(すべ)ての器官を絶って、少しの異変も逃すまいと、右耳に注力する。
ギンコが地面に臥して居るその僅かの間に、ギンコの周りでは草が一尺近くも其の背丈を伸ばした。木々には花が咲き、散って実と成り、落ちる頃には新たな(つぼみ)を付けている。種は落ちた傍から萌え、見る間に成長して行く。
百花繚乱———。
山には絶え間なく花が舞い、甘い香りが充満している。(さなが)ら桃源郷の様だが、しかし其の一方で、瞬く間に生命を燃やし尽くした草木は枯れ、腐敗して地面を覆っている。
此処(ここ)は極楽か、それとも地獄か。
生の尺度が胡乱(うろん)として、掻き混ぜられて煮詰まった鍋の底で、ギンコは原因に行き当たった。
「矢張りか」
立ち上がり、外套の泥を払って薬箱に腰掛ける。薬箱の天面には、落ち葉と花びらが入り乱れて堆積していた。
「聞いた通りだな。光脈の流れが、止まっている」
独りごちるギンコの肩に椿の花が首を落とし、跳ねて地面に転がった。

一ヶ月前。
ギンコの背負う薬箱がカタカタと音を立てて、文の到着を知らせた。数在る引き出しの一つに指を掛け、つつと引くと、中で(うろ)の繭が揺れている。
虚繭(うろまゆ)を手に取り、繭の隙間から見えている紙の端を摘み引き抜いた。
「誰からの文だ」
丸まった紙を広げ(なが)ら云った。
「此れは珍しい。淡幽からとは」
書かれている内容は、概ね次の様な事だった。
———南の方で、異常を来している山が有ると聞く。其処(そこ)は光脈筋で、その周囲の土地に於いて生命の根幹を支配する、非常に重要な場所だ。ワタリ達も気を揉んでいる。行って調べて呉れないか。兎に角一度、家に来い。詳しい話は其処でしよう———
「やれやれ、体よく呼び出された様な気がしないでもないが…」
読み終わった文を片手に、空いた手で後頭部を掻いた。
「まあ、光脈にまつわる問題とあれば、放ってはおけん。一先ず、話を訊きに行ってみるか」
仕様が無いな、と云う様な風情で立ち上がったギンコの頬に、(かす)かな笑みが灯っていた。

———あの人は、何処(どこ)だ。
何処に居る。
何処を漂っている。
この膨大な命の流れの何処かに、今も屹度(きっと)、其の個を失わずに漂っている筈だ。
見つけてあげなければ。
屹度まだ、元に戻れる。
そして、元通りになったら、また、二人で。
唯、もう一度彼女と一緒に、二人で過ごした、あの、日常に。
還る事が出来れば、それで。
それで、善い———

「おう、来たか」
(ふすま)を引くと、煙管(きせる)を手にした淡幽が、此方を振り向いて云った。
端正な顔に、笑みを浮かべている。
女性乍ら、煙管を持って肘を突いている姿が、妙に様に成っている。
「久しぶりだな、ギンコ」
淡幽のものでは無い声を聞き、咄嗟(とっさ)に顔を巡らせると、一人の青年が壁に背を預けて座っている。
「イサザ」
少し驚いた表情で、壁に(もた)れる男の名を呼んだ。開かれた襖から左手、淡幽に正対する位置に座した、イサザと呼ばれた青年は、
「遅かったじゃないか」
と云って、ふ、と笑った。
「イサザは、私が呼んだのだ。こう云う話は、見て来たものから直接聞くのが、情報の伝達に齟齬(そご)が起こらず善いだろうと思ってな」
然う云うと淡幽は、煙管を咥えてぷかぷかと紫煙を浮かべた。
宙に紛れて消える煙を横目に、ギンコは部屋を横切り、縁に背を向けて胡座をかいた。正面には淡幽の横顔が、右手にはイサザが目に入る格好になる。
「さて、話して呉れないか」
ギンコが腰掛けたのを見計らって、淡幽がイサザを促した。
「あの山に異変が起き始めたのは、半年程前の事だったか」
記憶を巡らせる様な表情をして少し視線を泳がせてから、イサザは事の顛末を語り始めた。

貳の章

———半年前。
件の山で大規模な火災が発生した。
火の勢いは凄まじく、この火災に依って、山の面積の実に八割近くが焼失した。木々は勿論、動物達すら、風に煽られて急激に成長した火炎に捲かれて逃げる間も無く皆死に絶えてしまった。
原因は一本の巨木の頭上に閃いた、雷であった。落雷が直撃した其の樹は、山のヌシだった。
齢二百年を悠に越える、辛夷(こぶし)である。
春になれば、青空をひび割る様に伸びた枝葉に所狭しと花を付けたと云う。白い花の天蓋は見るものを圧倒し、其の威容は正しくヌシに相応しかったと、彼の巨木を知る者は口を揃える。(ふもと)の里では、神木として崇められた程だ。
それは立派な、辛夷の樹だった。
其の巨木に雷が落ち、山は燃え尽きた。
里の住人の殆どは樵夫か猟師で、山を基盤に生計(たつき)を立てていたから、この世の終わりの様な心地がしたらしい。
しかし山は、驚くべき早さで再生した。
一月の後には既に緑に覆われ、以前程では無いとは云え草木が茂り、動物達も見掛ける様に成った。二月も経つと、すっかり以前と同じ景観を湛えた。
村人達は大いに喜び、神樹のご加護だと口々に云っては供物を捧げた。
が、肝心の神樹は、再生の気配を見せなかった。
山の草木は夏の盛りの様に茂っているのに、神樹には新芽のひとつも萌えない。
人々は訝しみ、また同時に(おのの)いた———。

「そんな時に、俺の一座が通り掛かったのだ」
然う云うとイサザは、ふうと深い息を吐いた。
「それで、調べたのか」
「当然だ」
と、ギンコの問いにイサザが返す。
「光脈の動向を知り、人と自然との調和を保つのが俺達ワタリの仕事だ。光脈筋に異変が起きれば、その原因を調べ、手に負えるものなら自分達で解決もする」
「で、原因は」
間髪を入れずにギンコが問う。淡幽はと云うと、微笑を浮かべて二人の遣り取りを眺め乍ら、紫煙を(くゆ)らせている。
「それが、分からんのだ」
暫しの沈黙の後、云い(にく)そうにイサザが口を開いた。
「光脈の異常である事は当然だ。そして、其の異常が何なのかだが、其れについては検討が付いている。恐らく、光脈が山の下で()き止められているのだ」
「馬鹿な」
「俺たちもそう思った。だが然うとしか思えん。光脈が塞き止められ、生命の源である光酒(こうき)が山に氾濫した。其の結果が、常軌を逸した繁殖だ」
「その道理は分かる。しかし光脈に影響を為すなど、ヌシの力でしか、いや、ヌシの力を以てしても」
「容易い事ではない。しかも、ヌシは」
「枯れている」
「———だから分からんのだ。ヌシの力でしか為し得ぬ事であるのに、ヌシは死んでいる。新たなヌシが生まれた気配もない。ムグラ乗りをして、山中を巡る神経に同調する事が出来れば、もしかするかも知れんが。生憎俺達は蟲を見る事は出来ても使役する事は出来ない」
「そこで、俺を呼んだ訳か」
「然うだ」
すっかり話の全容を掴んだギンコを見据えて、イサザは僅かな笑みを口の端に浮かべ、
「斯う云うのは、得意だろ」
と云った。
丁度其の時、煙草が燃え尽きたのか、淡幽が煙管を手元の灰皿に打ち付け、乾いた音が部屋に響いた。

「然う云えば、其の山に蟲師は居ないのか。光脈筋ならば、管理する蟲師が居る筈だ」
一座のものを待たせていると云ってイサザが立ち上がった時、不図思いついてギンコが訊いた。
「無論、居たさ。しかし、山火事の折に行方知れずとなっている」
イサザはそれだけ云うと、
「またな」
と言葉を残して、去って行った。
その後ろ姿を見送った後、淡幽と他愛無い話をしてから、ギンコも座を立った。
「帰って来たら、土産話でも訊かせろよ」
部屋を後にするギンコの背に、淡幽が言葉を投げた。
「お前、楽しんでないか」
肩越しに横目で淡幽をかえり見たギンコの目に、笑みを灯して此方を見遣る切れ長の涼しげな目元が映った。
「そんな事は無いさ」
微笑が悪戯な色を帯びて来た。
「いーや。それは楽しんでる顔だ」
淡幽に向き直り、半ば呆れて云うギンコを見て、堪え切れずに肩を震わせた。
一頻(ひとしき)り笑うと、今度はギンコの目を見据えて、
「気を付けてな」
と云って、笑った。悪戯な色は消えている。優しい笑みだ。
淡幽の後方、縁から光が入り部屋を満たしている。
「ああ、行って来る」
然う云うと背を向け、部屋を出た。
玄関を抜けると、乾いた空が広がっていた。庭の木々は葉を落とし、(こがらし)に枝を震わせて居る。地面に落ちた枯葉は、此処では掃かれて仕舞っているが、山では積もり、やがて土を豊かにするのだろう。
尋常の自然の移ろいである。
其処から外れれば(いず)れ、滅びが月下の門を敲く。
其の時ギンコは、音を聴いた気がした。
月夜の空に響く、不吉な予兆。
薄ら寒い気分を抱えて辺りを見澄ましても、枯れ木に僅かに残った葉が風に揺れているだけである。
遥か上空では、薄く、千切れた雲が風に流されていた。
ギンコの外套も、風に舞っている。

参の章

山の中腹に、巨大な辛夷の樹。
比類無い程に立派な樹だが、枯れている。
樹の周りでは、(いや)、山全体が盛衰を繰り返していて、最早咲いているのか散っているのか判断が付かない様な有様であるのに、此の樹だけは枯れた侭、静かに佇んでいる。
木肌が木漏れ日に照らされ僅かに光を反射し、樹の周囲が薄惘(うすぼんや)りと明るい。
「ようやく見つけた」
ムグラに乗るのに都合の良い場所を探して、辛夷の樹を目指して来たギンコが呟いた。
ムグラは、山中に、其れこそ山の神経の様に張り巡っていて、其の起点となるのが此の辛夷の樹であった。
ヌシは体内にムグラを宿している。山中に()かれたムグラと体内のムグラは繋がっていて、其処から山の凡ての情報が(もたら)される。樹の様に動けない存在がヌシと成っているならば、山中に巡るムグラは、ヌシを中心として根の様に広がっている筈だとあたりを付けていた。
果たして、その通りであった。
「さて」
背の薬箱を降ろし、ムグラに乗る準備を始めた。
(さかずき)を幾つかと小瓶ひとつ取り出し、自身の周囲に杯を並べて行く。
円を描く様に、八つ。
自分をぐるりと囲んだ杯に、次には小瓶の中身を注ぐ。
黄金に輝く液体が、瓶の口から零れて杯に満たされた。
満ちた液体は、光酒———。
凡ての生命の、元となるもの。
神々しく光を放つ液体は芳香を放っている。
何とも(かぐわ)しい。嗅ぐだけで酔って仕舞いそうだ。
何処か、此の山に漂う香りと似ている。
其の香が最も濃く香る、杯の輪の中心で、ギンコが(たなごころ)を大地に合わせた。
次の刹那。
黒い紐の様な、奇妙な物体がギンコの周りに噴き出した。
黒い蟲は、手に、脚に、顔に、身体に。ギンコの全身を隈無(くまな)く覆う様にして絡み付く。
(しか)してギンコは、目を閉じた。
体表から神経に同調したムグラを使って、山の隅々を巡る。
———異変は、何処だ。何が光脈を塞き止めている。
山の表層を奔る。
此処じゃない。
表面を(さら)う様にして山全体を巡った後、今度は地中深くを目指す。
山の下、遥か地下深く、大地を巡る光酒の流れが有る。金色に輝く河は美しいが、近づき過ぎれば戻れない。
人の身の侭では、光脈を直視する事すら危険だ。見続けると、視力を失いかねない。
だから、光脈を直接探るのは避けたかった。
———まあ、仕方無い、か。
然う覚悟を決めてムグラの指向を地下に向けた、其の瞬間。
突如、ムグラが何か別の意思に支配された様になった。
神経を同調させているが、主導権は飽く迄ギンコに有る筈だ。其れが、制御出来ないどころか、逆にムグラがギンコの意識に介入している。
こんな芸当は、ヌシでしか。しかし、ヌシは。
枯れていた。山の何処を探しても居なかった。
「莫迦、な」
意識が薄れる。
思考の地平にムグラが根を張り、其処から漆黒が滲んでいる。
じわじわと、しかし恐ろしい程の速度で、浸食されている。
———呑まれる。
焦燥と恐怖が入り交じり、諦念が色濃く香り出した時、ギンコは意識を失った。

肆の章

「天気が怪しく成って来たな」
そう云うが早いか、果たして空から雨粒がひとつふたつと落ち始め、あれよあれよと云う間に土砂降りに成った。
「ヌシ様で雨宿りしようか」
「そうだな、そうしよう」
妻の提案を()れて、丁度近くにおわす辛夷の樹の枝を借りる事にした。
「いや、しかし」
ヌシ殿の麓に辿り着き、乱れた呼気を整える。
春に爛漫と付けた花は散り、今は葉を所狭しと茂らせて居る。雨粒は葉に当たって弾け、下にいる夫婦まで届く事は無い。
雨に濡れた地面の、苔むした様な香りが色濃く辺りを満たしている。
「山の天気は予測がつかんな。もう何年も此処で蟲師をしているのにな」
そう愚痴ると、妻がふふと笑った。
「自然には敵わないわね」
「全くだ」
と、其の時、遠く雷鳴が轟いた。
「雷、か」
其の言葉と同時に、稲妻が空を割って間髪容れずに雷音が(こだま)した。谺した音は、雨の音に吸われて間も無く余韻を消した。
「此の樹は、危ないかも知れんな」
「大丈夫よ。ヌシ様の(もと)だもの」
一体何の根拠が有ると云うのだ。横目で妻の顔を見遣ると、眼が合って妻がはにかんだ。
———まあ、根拠など善いか。
屈託の無い笑顔が、安心した気持ちを連れて来た。
「然うだな。然うかも知れん」
転瞬。妻が、白い光に包まれた。

———何だ、何が起こった。
妻が倒れている。目の前だ。
手を伸ばす。身体が動かない。
身体が、焼けている。
目線を上げると、ヌシが、火に揺れていた。
ヌシだけは無い。後ろの森も、左の林も、前方の(くさむら)も。
山が、燃えているのだ。
雷か。
必死で状況を把握し乍ら、原因に思い至る。
雷に巻き込まれたのだ。
全身に広がる火傷が痛み始める。
妻は、妻は。
痛みなど瞬時に思考の外に吹き飛んで仕舞った。動かないと思った身体を無理矢理に()く。
這っても這っても、妻との距離が永遠の様に感じられたが、遂に妻の許に辿り着いた。
妻の顔を此方に向ける。
呼吸は。呼吸は、未だ有る。
しかし、今にも消えて(しま)いそうだ。
駄目だ。こんな、こんな処で。
呼吸が浅く、途切れ途切れに成って行く。
待て、待ってくれ。
祈る様に、妻の顔を抱き寄せる。
誰か、頼む。
抱き寄せた妻に顔を埋めた。
誰でも善い。
誰でも、何でも。
妻を、助けて呉れ———。
願いは強く、自身を犠牲にする事も厭わないと思った。
其の時。
何かが、目の前に落ちる気配がした。
顔を上げると、光り輝く、金色の果実が其処に在った。
此れは、辛夷か。
辛夷の実が、光を放っている。
自分を()えと、云っている様であった。
此れは、此の実には。
ヌシの、力が。
藁をも(すが)る想いである。
実を半分(かじ)り、妻に口移しで与える。
飲み込んだのを見て、残りの半分を自分で啖らった。
ヌシの力が、自身に満ちて行くのを感じる。
———妻は屹度もう、助からない。
だが、俺が屹度、助けてみせる。
ヌシの力を宿した男は、妻を脇に抱えて、ムグラを駆った。
精神のみならず、肉体其の物をムグラに任せる。
目指すは、山の遥か地下に流れる、生命の河。
俺が必ず、助けてみせる。

伍の章

目を醒ますと、眼下に光の河が流れていた。
眼前と云うべきだろうか。
周囲は漆黒の(とばり)に包まれ、目の前に輝く河が在るのみである其の光景は、上下や遠近と云った空間認識の感覚を狂わせる。
光脈だ。
意図せずに、目的の場所に辿り着いていた。
光の河は、河と云うよりは寧ろ湖の様な風情である。流れは滞り、揺蕩(たゆた)う光酒は波に身を(やつ)し、其れでも尚、煌煌とした輝きを備えている。
溜まり溜まった光酒の湖が放つ光は、見る者の心を両の(まなこ)ごと奪い去って仕舞いそうだ。
其の、眼も眩むばかりの光の中、逆光で明瞭(はっきり)とは分からないが人影らしきものが見て取れる。
「おや、目が醒めたか」
人影が、声を発した。人の声とは到底思えぬ様な声音である。
「何やら山を探っている蟲師がいると思ったのでな。邪魔をされては困る。其処で見ていて貰うぞ」
洞穴の中を幾度も反響した様な、音の輪郭を失った声だ。
声の主を、右の眼で()め付けた。
「光脈を止めているのは、あんたか」
鋭い声。元凶を目の当たりにして、気が立っているのか。
「そうだ」
ギンコが発する殺気など意にも介さぬ風情で、茫洋と響く声が答える。
「何の為に、こんな」
鋭さを隠そうともせずに、ギンコが言の葉を投じる。
「今直ぐにやめるんだ。山を、殺す気か」
「其れが如何した。やめる訳にはいかん」
「なに」
「俺に意見を出来る立場か。貴様は其処で見ていろと、云った」
朧げな声音に、殺伐とした色が混ざり始めた。
此の場所では、目の前の男が支配者だ。彼の意向ひとつで、自分の命など瞬く間に塵芥(ちりあくた)と成り果てるだろう。
咄嗟(とっさ)に身構えたギンコの目に、男の傍らに浮かぶひとつの影が映った。
「何の為に、と云ったな」
僅かに怒気を孕んだ声だ。
「ムグラに乗って来たのなら、見た筈だ」
然う云われてギンコは、先程夢に見た光景を(かえり)みる。
「あれが、答だ」
「そんな、ならば、あんたは」
真逆(まさか)とは思っていたが、本当に然うとは。
「人を、妻を、蘇らせるつもりか」
ギンコの言葉を受けて、男は(かたわら)に漂う妻の亡骸を抱き寄せた。
「落雷の傷は、光酒に依って癒えた。後は此処に、妻の意識さえ、魂さえ戻れば」
「莫迦な。何れだけの時間が流れたと思っている。死者の意識など、()うの昔に光酒に溶けている」
「常人ならば、な」
眼前の男が不適に言い放つ。右手で抱いた妻の顔を空いた手で撫でる表情に、深い情愛が浮かんでいる。
「妻は息を引き取る直前、辛夷の実を啖らった。確かに、飲み込んだのだ。あれはヌシの力を凝縮した実だ。あれを啖らえば、ヌシの力を手に出来る。現に俺は、半分啖って斯うして光酒を塞き止める程の力を得た」
「だから、細君の意識も光酒に溶けずに漂ってると云うのか」
「然うだ。俺は、彼女が此処に来るのを待っている。流れる光酒のひとつも見逃さぬ様にな」
「その代償が、山の凡てだとしてもか」
(くど)い」
声に明らかな怒りが。
「俺にとって、彼女が、彼女こそが凡てだ。必ず助けると、誓った」
怒声は光酒の海に拡散し、響いて四方からギンコを責め立てる。
身体を震わせる音量に紛れて、微かに女性の(こえ)が聞こえた。

陸の章

———あの人は、何処。
何処に居るの。
何処かで私を待っている。
この(おびただ)しい生命の流れの何処かで、今も屹度、私を捜して浮かんでいる筈。
行ってあげなければ。
最早元に戻れなくても善い。
いや、もう元通りには成れない事は分かっている。
唯、もう一度彼を見つけて、二人混ぜ合わさって、此の、命の源に。
溶け込む事が出来れば、それで。
それで、善い———

一際強く輝き乍ら、一条の光がするすると這っている。
男に塞き止められた光脈は流れを失っているから、其の中を這う光はひどく異質で、ギンコ達の目を引いた。
緩慢とした速度で、しかし確実に前に進む光は、真直ぐに男を目指している様であった。
おお、と男が(うめ)いた。喉から絞り出した様な、はたまた声帯から漏れ出た様な、覇気のない聲である。
そして光は、男の目の前で、止まった。
「やっと、やっと来たのだな」
漏れた聲は、辛うじて意味の在る音を形作っている。
男の呼びかけに応えたのか、光は垂直方向にゆらりと持ち上がり、徐々に凝縮して人の形を為した。
女である。麗しい見目をしている。
「はつ」
男が名を呼んだ。はつ、と呼ばれた女はにこりと笑って、
「あなた———のぶよりさん」
と云った。男の名を呼んだ透き通る聲は矢張(やは)り音の輪郭がぼけていて、人の出すものではないと直感させるものであった。
暫しの時間、二人は見詰め合っていた。やがて、
「はつ、聞いて呉れ。あの日の雷を、覚えているか」
と、男が云った。少し哀しそうな笑みを目尻に浮かべて、女は頷いた。
「あの日、あの雷に撃たれて、お前は息を引き取った」
「ええ、覚えています」
「そして俺自身、瀕死の重傷を負った」
「それでもあなたは、私を助けようとして下さいましたね」
「俺の願いに呼応して、ヌシ殿が力を貸して下さった。目の前に落ちた辛夷の実は正に天啓だ。息も絶え絶えだったお前は、何とか実を口にして呉れた。そのお陰で、斯うして再び出会えたのだ。ほら、お前の身体は此処に在る。傷は癒えている」
男が必死に紡ぐ言葉を聞く彼女の表情は、何故か少し哀しそうだった。
「さあ、おいで。元の暮らしに、還ろう」
哀し気な笑みを浮かべて、女はゆっくりと(かぶり)を振った。
「何故だ」
其の答を受け、信じられないと云う様な面持ちで男は聲を荒げた。
「元に戻れるのだぞ。ヌシ殿が機会を与えてくれたのだ。其れを無下にするのか」
「元になんて、戻れないわ。其れに、ヌシ様は機会を与えてなんて―――」
「何だと」
「ねえあなた。あなたが食べた半分と、私が食べた半分、あれが何だか分かるかしら」
突然の問いかけに、男は答に窮して仕舞った。
「あなたが食べたのは、ヌシ様の力。光脈を司る、力其の物。だからあなたは斯うして、光脈を塞き止めていられるわ」
目を伏せて、彼女は言葉を続ける。
「そして、私が食べたのは、ヌシ様の記憶。智慧(ちえ)とも呼ぶべき膨大な情報」
伏せた目を上げて、男の顔を見据える彼女の眼差しには、強い決意が宿っている。
「だから、ヌシ様の智慧を得た私には、分かる。私はもう元通りには成れない」
決意の色が示すのは、訣別(けつべつ)か。相対死(あいたいしに)か。
男が、惘と彼女の顔を眺めている。言葉が其の意味を顕す前に、鼓膜を素通りして仕舞った。
「あなた」
女の呼びかけに、茫然と失っていた自我を取り戻した男は、遅れて山に響く谺の様に、漸く言葉の意味を理解した。
「それは」
理解したが故に、聲に力が無い。
「そんな」
今にも消えて仕舞いそうだ。
「ねえ、あなた」
気骨が霧消し、絶望に眼を剥いた男の頬を、そっと彼女の手が覆う。
光酒の光を帯びた(たなごころ)は、男の顔を照らした。
光には温もりが満ちている。照らされた男の眼から絶望が抜け、諦念と安寧が漂う。
「あなたも最早、元には戻れないわ。此れだけの時間、光脈に身を(さら)していたんですもの」
光脈に反響する声に、子をあやす様な優しい響きがある。
「あなたの身体は、光脈の影響か、ヌシの力の代償か、限りなく蟲に近いものに成り———何れ、果てる」
慈しむ音が織りなす言の葉は、冷酷な事実であった。
「だから、ねえ、あなた」
慈愛に、抗い得ぬ蠱惑の甘さが滲む。
「私と一緒に」
耳元で囁く様な聲が、周囲を満たしてじわりと男を包み込んだ。
「———溶けて、仕舞いましょう」
聲の抱擁に身を任せた男は、導かれる様に、
「そうだな」
と云った。放たれた音は朧に響いて、やがて光酒に吸い込まれた。

漆の章

「待て」
二人を留めようとした聲は、しかし横隔膜の堰で足踏みし、終ぞ体外の大気を(ふる)わせる事は無かった。
呼び止めて、どうする。
何が出来る。
自身の無力が喉を締め上げている。
喉だけならば、駆け寄る事も出来ただろう。
思考も、脚も、身体の何もかもが無力感に支配され、ギンコはその場から一歩たりとも踏み出せなかった。
然して、呆と立ち尽くした侭、二人が消え行くのを、唯、視ていた。
女は男を包み込む様に抱いて、旋毛(つむじ)のあたりに頬を乗せ、眼を伏せた。
女の背を、ふたつの腕が這っている。両脇の下から出た左右の腕は、白日に背丈を伸ばす夏草の様に真直ぐに上へ伸びてから交差し、女を抱き締めた。
其れと時を同じくして、ギンコの眼下に溜まっていた光酒の湖が、ごく緩慢と、朝の訪れに押されて山から消え行く(もや)の様な速度で、流れ始めた。
堤は、切られた。
時間が無い。流れは瞬く間に激流となって二人を飲み込む。然う成る前に。
此の期に及んで漸く、ギンコは呪縛の鎖を断ち切った。
「待て!」
鋭い聲。ギンコの聲に女が反応し、伏せた眼を上げた。ギンコの顔を見据えて、ゆっくりと首を左右に振る。拒絶と、諦念。先程見せた強い決意もまた、色濃く滲んでいた。
関係ない。
然う思った。あの女の意思など関係ない。こんな幕切れはごめんだ。足掻いてやる。
女の諦めを撥ね付け、一歩を踏み出す。
しかし其の脚は、意に反して動かなかった。
根が生えた様だ。
咄嗟に視界を巡らせた。足下。地面などと云う概念は此の空間には無いが、敢えて形容するならば地面としか云い様の無い、足下の空間から、漆黒の紐が這い出し脚を締め上げている。
「———ムグラ」
顔を上げ、男女を見る。先程迄女を抱き締めていた男の右腕が開き、掌を此方に見せていた。
「おい」
掌が、拳の形に閉じて行く。其れに合わせて、ムグラが下肢から這い上がり全身の自由を奪う。
「やめろ」
男に訴えかけるが、ムグラは止まらない。身体の殆どは捲かれて仕舞った。意識の端にも黒いものが混ざり始めている。
何か、何か手だてが在る筈なのだ。
何が出来る。絶対など無い。故に不可能も存在しない。
しかし其の言葉遊びは、其れ自体が矛盾していると云う事実に、ギンコは気付かない。
何をすれば善い。如何すれば。
何か、何が、何を———。
ムグラに塗り潰され、僅かに残った思慮の浜辺で自問を繰り返したギンコは、意識が絶える前に漸く、始めから悟っていた事実に向き合った。
———何も。
何も、出来ない。
ギンコの意識を最後に塗り潰したのは、ギンコ自身の諦念だった。
光脈からギンコを弾いた男はその後直ぐ、押し寄せる光脈に呑まれて、妻諸共に溶けて消えた。

眼を開けると、日が暮れていた。
地面に俯せに倒れた身体を、肘を突いてのそりと持ち上げる。倦怠感が全身を支配していて、身体がひどく重い。
身体を起こし乍ら、辛夷の樹を見たギンコは、束の間目を奪われた。
月明かりを受けて、輝いている様に見えた。
いや、実際に輝いているのだ。
辛夷の枯れ木が、全身から微光を発している。
金色の光だ。男と女が消えた事で、ヌシの力を取り戻したのか。
甘い香りが、樹から漂い始めている。
光酒。生命の香。
然して、生命が萌えた。
蕾。ひとつ。
———ふたつ。みっつ。よっつ。
見る間に増えて行く。夜空に張った根の様な枯れ枝の、其の端々に所狭しと蕾が萌えた。
遥か上空では、雲が流れている。風が運んだ雲が月光を遮り、空から光が奪われた刹那。
地上では、月も眩む程に見事な辛夷が、花開いた。
雲が生み出した宵闇の中、煌煌と光を放っている。
六枚の花弁を持つ花は神樹の枝を隈無く彩り、ひとつひとつが光り輝く花の天蓋は、覆い被さる様にしてギンコを圧倒した。
惹き付けられ瞬きすら許されないギンコの前で、ひとひらの花弁が、枝から離れて舞った。
無風である。自然に落ちたのだろう。ひらひらと回転し乍ら、地面に落ちた、其の瞬間。
辛夷の雪が、冬の山中に舞った。
音も無く、無音で空気と戯れ乍ら、踊る様に地面に積もる雪は、落ちても尚、暫くは光を湛えていた。
舞い、降り注ぐ辛夷の中で、一輪だけ、その身を枝に残しているものが目に入った。
周囲の花に比べて一際大きい其の花は、他の凡てが散った後も暫く咲き誇り、やがて散った後に、金色に輝く実を付けた。
其の頃には、散った花弁は勿論、樹其の物さえ光を失い、輝くものは果実のみであった。ギンコの目の前、光り輝く実が地面に落ちて、神樹の子が、其の芽を出した。
「そうか。新たな、ヌシの———」
新たなヌシの、誕生。
『元になんて、戻れないわ。其れに、ヌシ様は機会を与えてなんて———』
不図、女の声を思い出した。
脳内に谺する女の残響に導かれる様に、ギンコは凡てを悟った。
「利用、したのか」
ぼつりと独りごちた言葉が、答であった。
落雷に依って傷付いたヌシと、山。山を修復するには時間が掛かる。光脈を塞き止め荒療治をしても、矢張り一月は要する。落雷の傷を受けたヌシは、其れ迄保たない。転生したところで、火に捲かれて燃える。ならば———。
然うして男の眼前に、「実」は落とされた。
詰まりは、然う云う事である。凡ては———
「凡ては、ヌシ殿の掌の上ってことか」
結局、彼らは、踊らされただけなのか。
「人間を何だと思ってやがる」
唸る様にして声を出したギンコは、其の手を振りかざし、辛夷の巨木に打ち付けた。
枯れさらばえた巨木はびくともしない。
唯、鈍い痛みが、余韻の様に拳に滲んでいた。

―了―

山を統べしもの

山を統べしもの

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-06

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