ブラザーズ×××ワールド A2
戒人(かいと)―― 02
迷路のような道だった。
始まりは、石壁の家の隙間を縫うような路地。その先にある石段を上った直後、すぐさま下りになり、右に左にと曲がっていくにつれ、戒人は完全に自分がどの方角に進んでいるのかを見失った。
「く……」
不意の軽い頭痛。戒人は顔をしかめる。
自分の身体が以前と違うという感覚は消えていない。しかし、具体的に何が違うと断定できないもどかしさが彼を悩ませていた。
「離れるなよ」
前を行く中年男が背を向けたまま言った。すでに戒人の手は取っていない。しかし、戒人にしてみれば、彼についていく以外に術はなかった。
ここがどこで、そして自分がどうしてここにいるのかもわからないのだ。
そんな中、自分をどこかへ導こうとする謎の男。不安は当然あったが、いまは彼についていくしかないと思えた。
異形の人影――
あの生き物のことを思えば、なおさら一人ではいられないと感じた。
もし弟たちがあの怪物たちに襲われていたら……そう考えるたび戒人は身を切られるような思いに苛まれる。しかし、右も左もわからない世界を一人で行くほど無謀なことはない。弟たちを助けるより先に自分が果てる……そうとわかるだけの理性は戻っていた。
「ここだ」
中年男の声に顔をあげる。
そこには木製と思しき扉があった。
戒人が息をのんだのは、その扉の形状や古めかしさによるものではない。
魔法陣――戒人の知識ではそうとしか言えないものが、扉の中央にくっきりと描かれていたのだ。
二重の円の中に、三角形と逆三角形を組み合わせた六芒星が描かれている。さらに、戒人の目からは不規則としか思えない位置に、見たこともない文字らしきものが微細に描かれていた。漫画等で見るような単純化されたものではない。その文字一つ一つに、描いた者の念とでもいうべき生々しさがにじんでいた。
男が無造作に扉を開いた。
「……!」
戒人は、思わず息を止めた。
空気が違う――
具体的にどこがどうというわけではない。実際、建物の中の空気と、高い石壁に挟まれた道の澱んだ空気とではさほどの差はないと頭では思える。
しかし、違うのだ。
空気というレベルでなく空間が――世界が違う。
妄想じみたその感覚は、しかし、無視できないほどに大きかった。そのように感じられる自分自身にも戒人はうろたえていた。
「……わかるか」
男の声が、戒人の意識を現実に引き戻した。
呼吸が戻る。かび臭い湿った空気が鼻腔に流れこむ。
出会ったときには気づかなかった。しかし、こちらを見つめる薄汚れたその中年男の目には、深い知性の光が確かに宿っていた。
無言のまま戒人を見つめたあと、男は何も言わないまま家の中に入っていった。
「………………」
戒人もそれに続いた。
灯りのない狭い廊下を行く。周りを照らすのは男の手にしたカンテラのみ。
戒人は、あらためてここが自分のよく知る一般的な建物とかけ離れていることを思い知る。外国ではともかく、現代日本で石造りの建物などまずありえない。
(どこなんだ……)
再度その疑問が浮かぶ。
「入れ」
男が廊下に面した扉の一つを開けた。
ベッド、小さな棚、それにテーブルと椅子しか置かれていない狭い部屋。家具はどれも長い年月を経ていると思われる木製のアンティークなものだ。これまで感じてこなかった生活臭と言えるものが、かすかだが初めて感じられた。
「わしの部屋だ。他に空きはなくてな。ここで我慢してくれ」
「おい」
さすがに、戒人は口を開いていた。流暢とは言えないながらも、日常会話程度はこなせる英語を使い、
「……どういうことだ」
「なに?」
「どういうことだと聞いている」
戒人は、目の前の男を油断なく見つめ、
「なぜ、俺をここにつれてきた? そもそも、あんたは何者だ?」
「………………」
男は、無言で戒人の視線を受け止めた。
そして、
「……兄さん」
「………………」
「あのまま夜道で寝てたら、兄さんはやつらに喰われてた。放っておくのは、さすがに寝ざめが悪かった。それだけだ」
「………………」
「ふぅ」
不信の目を注ぎ続ける戒人に、男はため息まじりに頭をかき、
「わしだって、好きこのんで夜中に出歩いてたわけじゃない。娘の薬を取りに行かなきゃならなかったからな」
「娘……?」
思わぬ言葉に、戒人は眉根を寄せる。
「別の部屋で眠ってる。あの娘のためにはどうしても薬が必要でな」
薬。
その言葉を口にしたとき男の目がかすかにゆらいだが、戒人は気にとめなかった。
正確には、気にとめる余裕がなかった。
「……っ」
再び訪れた頭痛。
戒人はたまらず顔をしかめた。
あらがえないほどの疲労に包まれていることに気づく。人の暮らす家に入り、わずかなりとも緊張がとけたことで、その波が一気に押し寄せたのだ。
「無理をするな。今夜はおとなしく寝るんだな」
「………………」
「わしのことが信じられないというならそれでいい。だが疲れ切ったその身体で何ができるかよく考えるんだな」
正論だった。
孤立無援。誰も知る者がいない。それどころか、自分がいる場所がどういうところかもわからない。
すべての疑問をぶつけたいという衝動が高まる一方、それだけの気力がいまの自分にないことも戒人は冷静に悟っていた。
「………………」
目を閉じる。
自分一人なら、いくらでもあきらめがつく。
しかし、麗人と輝人……二人の弟の安否がわからないこの状況で、無責任に力尽きることなどできはしない。
この世で、たった二人の自分の家族。
それを守ることは、長男として戒人が自分自身に課した――
「……!」
この世――
思い浮かべたその言葉が、戒人に静かな衝撃をもたらす。
ここは――〝この世〟なのだろうか?
切り出された石によって形作られた街、月夜にうごめく異形の怪物、怪物を追い払った炎の奔流――
そして、自分たち兄弟が死の危機に瀕していたという事実。
(麗人……輝人……)
限界だった。
戒人は倒れこむように寝台につっぷした。
湿っぽい……。そう感じたのも一瞬で、戒人の意識は疲労の波にのまれ闇の奥底へと沈んでいった。
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