Vamp's

Vamp's

俺、来生一樹(きすぎかずき)
神崎希(かんざきのぞみ)

澤木、志田 クラスメイト

嘉村 (英語の教師)

保科医師

ビッグ・スリープ(大いなる眠り??)
部下 新海、堂本

Ⅰ 高架線

河川敷をブラブラ歩いた。今日は高校の初登校日だってのに曇り空の中を歩く。
同じブレザーを着た女子が元気良くママチャリで追い越してゆく。
 遠くまで続く高架線を仰ぎ見た。高架線のてっ辺を見なければいけないような気がしたのだ。
何億年も前に見たような空がそこにあった。
そんな風景を切り裂くように赤や黒のスポーツ・カイトの群れが横切ってゆく。
映画のワン・シーンにそんなのがあったなと思う。

 多分、恐らく救いのない映画だ。二次元の歌姫を愛し、虐めを受けた相手を殺してしまう中学生と、虐めの上にレイプされる中学生と、援交の果てに自殺で生を閉じる中学生が出てくる全く救いようのないりアルを描いた映画だ。

 教室に入った。これから三年間俺はここで過ごすんだな。
同じ出身中学のやつらは固まってお喋りに興じている。
教室はおおむね曇り空とはうってかわって華やいだ雰囲気に包まれていた。
 机の上に俺の名前があった。出席簿順に配置された机。俺の前の席には先客が座っていた。

机の上の名札には「神崎希(かんざきのぞみ)」と書いてあった。俺の席はその後ろなのだが、なぜか座るのを躊躇った。
じりじと後ずさりする俺。なぜ座るのを躊躇ったのか……なんだろう? 鳥肌が立った。
 神崎希が座っているその場所だけがぽっかりと空虚感を漂わせていた。
そこだけが人を寄せ付けない異様な雰囲気が取り巻いていた。

 無造作に肩まで垂らした漆黒の髪、切れ長の眉、まるで宇宙さえも包括しそうな蒼い瞳、薄く一文字に閉じられた唇、尖った顎、華奢な体躯、それら全てが人間離れした美しさを湛えていた。
その異常なまでの美しさに眼を奪われていた。

 気配を感じたのか、振り向いた神崎と眼が合った。その瞳は美しく澄んでいたけれど、底なしの井戸のたたずまいで俺を見ていた。
 俺ははっとした。ほんの少し前この瞳と出会ったことがあると感じたからだ。
それはほんの一瞬の出来事だった。
口元に笑みが浮かんだように見えたんだが、俺の気のせいだろう、きっと……。
何事もなかったように神崎は正面を向いた。

「謎だよな……来生(きすぎ)。取りあえずこの街の中学じゃないことだけは確かだ。あんな美少女いたら噂になんないわけがない」

同じ中学出身の澤木(さわき)がしたり顔で耳打ちした。
そして、更に続ける……澤木、お前はいつも顔が近いんだよ!

「腐れ縁だな、来生……またお前と一緒だなんてな。……神崎って、うちらのクラスの女子とは明らかに違うもんな。なんだろな、あの妖しい雰囲気ってか人を寄せ付けないオーラってかなあ」
「なに? また女子の噂してんでしょ、どうせ……やらしいんだから澤木クン……あなた?、ええと、ええと……来生君だっけ?」
 なんだその鼻にかかったような「クン」は、それも澤木の時だけかよ……。
 同じ中学の確か同じクラスだった志田(しだ)って言ったっけ、なんだよ、親しいんだな、付き合ってンのかこいつら……彼女は、神崎とは正反対のショート・ヘアで快活を絵に描いたような中々の美少女なんだが、いかんせん神埼希の前では誰だって霞んでしまう。

 「来生君ってあんま印象ないなあ、中学ん時も普通中の普通って感じだったもんねぇ、来生一樹(きすぎかずき)ねえ、名前だけは非凡な気がするけれど、それはお父様のセンスだしね、まあ平凡の中ではきっと非凡なんでしょうけど」
「あははは、志田、お前それちょっと言いすぎ」

 なんだよ、澤木と全然態度が違うじゃんかよ。
 同じ中学だった澤木とは一度だけ鼻血が出るほどの殴り合いの喧嘩をした。理由がなんだったのか、それさえ忘れるような些細なことだ。
 それ以来なぜか親しくなった。
まあ変人の俺の唯一の理解者と言うべきか……。いや、唯一の友人と言うべきか……。
 「まあ澤木は俺と違って成績いいし、中一からバスケ部のレギュラーだったしな、ってか普通だとか平凡だとかって、大きなお世話なんだよ、ほっといてくれ」
 「気付くのも遅いよね、来生君。あはは」
 屈託なく笑う志田に俺も釣られて笑っていた。
 神崎が一瞬振り向いた。 ぞくっとするような悪寒が走った。恐らく澤木も志田も、同じその皮膚感覚を味わったに違いない。
 「なに、なにか書いてある? わたしの顔に……」
その瞳に魅入られたように俺たちは眼を逸らせずにいた。
始業のチャイムがその気まずさを救った。

 ドアが開き最初に顔を見せたのはハゲ面の教頭だった。続いて入ってきたのは長身のイケメン、クラスの女子から一斉に溜息が漏れた。

「ええ、静かに……急なことで、あれなんですがぁ、担任の鴻池先生
こうのいけせんせい
が産休を取られまして、長期の休暇に入りました。で、本日より、嘉村先生(かむらせんせい)が当分の間、このクラスの担任をしてくださいます。新任ですが嘉村先生は優秀な方です。皆さん協力してこのクラスを……」

 教壇にたった嘉村は更に女子の溜息を誘った。百八十は軽くあるだろう長身と、よく通る低音は、その顔と相まって嫌味なほどのイケメンを強調していた。
 イケメンの司会でホーム・ルームが始まり、クラス委員長に志田が選ばれ、志田は副委員長に澤木を指名した。俺はといえば、俺は、神崎希を見ていた。

主にそのスカートから見事に伸びた美脚なんだが……。
 何かがおかしい。俺の回りには日常の当たり前の光景があった。屈託のない笑顔や、話し声や、しかし、眼には見えない悪意が俺の前にいる神崎に注がれていた。恐らく気付いているのは真後ろの俺だけだろう。

 殺気を感じた。それも身の怪がよだつほどの殺気だ。それは、見て見ぬふりをしている教壇の横に陣取った嘉村と神崎の間で交差していた。

 志田の声に我にかえった。
「はい、注目、江東中(こうとうちゅう)出身者が多いのでわたしが選ばれたわけですが、不平、不満、罵詈雑言は副委員長の澤木までお願いします」
笑いが起こった。

 なにも変わらない日常があった。死ぬほど退屈で、つまらない日常……俺は夢でも見てたんだろうか?
 「書記と会計は、ええと、誰か立候補いる? いない? じゃあ、わたしが指名します……じゃあ、本日の議題ね。さっそくですが体育祭なんですが……」
 俺はその後も前の席の神崎から眼が離せずにいた。もちろんあのイケメンとも何度か視線が合った。

 昼休み神崎から声をかけられた。
「授業中、わたしの脚ばかり見てたでしょ、違う?」
「み、み、見てない……」
 華奢だと思ってたが俺の前に仁王立ちの神崎は制服の胸元が窮屈そうなほど隆起し、何より特筆すべきはその脚の長さだ。
脚フェチの俺は自然に視線がその不自然なほどのミニ・スカートから伸びる脚に釘付けだ。
「今だって見てるじゃない! 珍しい女の生足?」
紺のニーソックスにピカピカに磨かれたローファーが眩しい。
「いや、み、み、見てない! それよか、どっかで会ったことあるかな?」
俺はとにかくなんとかその場を取繕おうとしどろもどろに答えた。
 教室には弁当を拡げた女子のグループが何人か残っているだけだが、そろそろ、こちらに注目を集めそうな雲行きだ。
「この街は初めて、あんたみたいなヘンタイと会ってるわけない」
「へ、ヘ、ヘンタイって!? 初対面のお前になんで俺がヘ、ヘ、ヘンタイ呼ばわりされなきゃなんないんだよ!」
 神崎の瞳は吸い込まれそうなほど透明で、俺の心は全部見透かされてるような妙な気分になる。
「初対面のあなたにお前呼ばわりされる筋合いはないわ、なれなれしい、気をつけて」
こいつ、かなりのツンだな、デレはあるのか?
「新任の嘉村、お前のこと、いや神崎のこと見てたよな。それも、スゲー目つきでさ」
はっとした顔をした。朗かに驚いた様子だ。半開きの口元から犬歯が見えた。鋭い犬歯だ。可愛い口元とは異質ななにか。
 俺はまじまじとその整った顔立ちを見詰めた。美しいものはその鋭い犬歯でさえ見詰めてしまう。
「今度、そんな無遠慮な視線向けたら死刑だから、いい、死刑!」
そう言い放つと神崎は踵を返し、教室を出ていった。

 俺は口を開けたまま暫く席を立てなかった。
「……し、し、死刑って……」
まあ、とにかくこれが神崎との会話らしい会話の最初だったのは間違いない。

 放課後俺は神崎の待ち伏せを受けた。
 「余計な詮索はしないで、うっとうしいから」
 河川敷を神崎と歩いた。気分だけは、デートなんて思ってるのは俺だけか……生まれてから十六年、女子の待ち伏せにあったのは記憶にない。自慢じゃないが一度もだ。
 「なんだよ、話があるってついてきたらそれかよ。俺なんか神崎と以前にどこかで合った気がするんだ」
睨まれた。
「なにそれ? 幼稚なくどき文句かなにか? 沈黙は金って言葉知ってる?」
にしても美しい顔立ち、俺を睨んでる瞳も、見様によっては素敵な藍色で、透明な青磁のような輝きを放っている。
「黙ってりゃいいのか、黙ってりゃそれで満足なのか? 綺麗なものを綺麗だと思っちゃいけないのか? 綺麗な脚を見ちゃいけないのか、お前を生んだ神様を恨めよ」
俺は開き直った。どうにでもなれだ。
なにもかもが違う神崎とはどうあがいたところで縁はない。
「なにそれ? ここ笑うとこ?」
疑問符ばかりの会話……。
「笑うとこじゃねえよ、正直なだけだよ、他のやつより」
「来生君、あなたなんかヘンよ」
神崎が俺の苗字を呼んだのは始めてだ。
「へんじゃねえよ。ヘンタイなんだよ」
絶世の美小女を前にして自らヘンタイだと名乗ったのも始めてだ。脚フェチだ、ニーソ萌えだ、黒髪好きだ、いやもっとマニアックな属性だってあるヘンタイだ! いやはっきり言えば河川敷を女の子と二人で歩くのも初めての経験だった。

 俺たちを沈黙が支配した。
キャッチボールをしてる家族連れ、レトリバーを連れたカップル、いつもの河川敷の風景がそこにあった。
連日の雨で多少増水した流れが白濁した表情を見せた。

「これ以上わたしに近付かないで、お願い!」
長い沈黙を破ったのは神崎だった。
「無理だよ……なんだか俺、恋したみたいだから……」
また睨まれた。しかし、目元には今まで見たことのなかった戸惑いが浮かんで、それはすぐに消えた。
「わたしのなにを知ってるっていうの! わたしの、わたしの、わたしがなにか知ってるの!?」
「知らないよ……神崎希、それだけだ」
「慙死に値する愚行だわ。許せない! 勝手に恋なんかしないで!」
 初夏の優しい風が俺に勇気をくれたのかもしれない。

 平凡に溢れかえった日常に飽き飽きしていたのかもしれない。
 神崎の非日常的な美しさに踏み込みたかったのかもしれない。
 俺の偉大なる平凡をぶち壊したかったのかもしれない。理由なんかなんでもよかったんだ。とにかく俺は一世一代の勇気を奮い起こし、神崎に告白した。
「死刑でもなんでもいいよ……俺は神崎、お前に恋したよ、たった今……」
 神崎は恐らく俺が過ごした十六年の人生で出会った最高の美少女だ。間違いようのない事実、まさに月とスッポン、 近寄りがたい美形だ。すっくと俺の前に立ったその姿は凛として紺のブレザーにチェックのミニスカという制服の幼さは残してはいるが、まるでボッテチェリのビーナスのようなこの世のものとは思えない、美を称えている。
いや、美という概念を形にするのならそれはきっと神崎に与えられるべきものなのだ。
 また睨まれた。口をへの字に曲げた顔もまた可愛い……可愛い? 俺はどうかしちまったみたいだ。
「初めてだわ、わたしにそんな告白したの……来生君、あなたが始めてよ」
ウ、ウソだろ! 神崎。それが本当なら世の中のオトコ供のほうがどうかしてる。
「ラブレターは何通も貰ったわ、それこそ何通もよ。朝、下駄箱を開けたら零れ落ちるくらいにね。でも面と向かってわたしに言い寄ったのは来生君、あなたが始めてだわ」

 見詰め続ける神崎の眼差しに俺の心臓は高鳴り、見返す俺の視線の先で神崎は恥じらいさえ見せた。
「始めてついでに駅前のマック寄ってかないか、おごるよ」
「なにそれ、来生君、調子に乗った? まだわたしの脚見たりないとか……」
絶世の美少女、神崎希を前にして俺はどうやら切れてしまったらしい。言葉が勝手に喉元から溢れた。
「いや、調子には乗れない。音痴だからな……脚、見たりないってのは正解! いつまでも見ていたい」
「バカ! ヘンタイ!」

 駅前の路を神崎と歩いた。ショーウインドウに写った俺たちは不釣合いだったけれど、俺は満足だった。
なにより神埼とこうして歩いている、それだけで楽しかった。
指が触れた。思い切って神崎の手を握った。十六年分の勇気を振り絞った。
神崎は小首をかしげ俺を睨んだ。
「なに、これ? 誰がこんなことしていいって……」
「神崎の手、冷たいな。俺が暖める、俺が……」

 心臓が高鳴り、掌に汗が滲んだ。制服で一度拭きさらに神崎の手を握りなおした。今度は何も言わなかった。

 マックのメニューは俺が決めた。神崎は一度も入ったことがないと言ったからだ。
とりあえず食べた。相変わらずの混雑した店内、他校の男女の視線が一斉に神崎に向けられる。嫉妬と羨望のため息、つづいて俺を見る。落胆と困惑、なんでこんなブサメンとって声が聞こえそうだった。大きなお世話だ。
「食べないのか、ダブル・マックめちゃ上手いよ」
「うん、始めてだから……」
「飲めよ、シェイク」
「うん、飲んだことないから」
「な、な、上手いだろ」
神崎は怪訝そうな顔をしていたが、それが、笑顔に変わって俺はなんだかほっとした。
「よっぽどのお嬢様なんだな、マック食べたことないなんて……」
「機会がなかっただけよ。バカにしてるの?」
「んなことない。ジャンク・フードは食べないのかと思ってさ」
「美味しいわ、これ」
 神崎はほんとに美味しそうに人生初のマックを齧った。
「好きな音楽は」と俺。
「バッハ、ベートーヴェン、モーツアルト……」
知らなかった。まじ気まずいじゃんか。
「俺はミスチルとかグリーンとかバンプとか…… 」
「知らない」
一言で片付けられた。
「好きな作家は?」と俺。
「シェークスピアとかゴールズワジーとか、ストーカーとかレ・ファニュとか太宰とか芥川とか三島とか色々」
読んだこともなかった。俺の愛読書は主にラノベだ。話が進まない。
「中学の時彼氏はいた?」と俺。
「答えたくない、私的なことよ、それよりそのマヌケ面とくだらない質問なんとかして……」
 言いながらシェークを飲み干した神崎の頬が可愛くしぼんだ。そんなしぐさ一つ一つに胸キュンだった。
ポテトを頬張りながら「これ、すっごく美味しい」とかマジな顔で言われるとなんだかとても新鮮な気がした。マックを知らない女子高生なんているんだろうか? いや現にここにいる、俺の眼の前に……。
「趣味は罵詈雑言か?」と俺、矢継ぎ早に質問するしか間が持てない。
神崎が始めて俺の前で笑った。天使のような笑顔だった。

「笑ってる顔のほうがいいな、神崎にはずっとそれが似合うよ」
「あなたバカなの、それとも厚顔無恥なの、それとも他の何か?」

 信号が青に変わった。
「また明日ね……」
「今日が終わらなきゃいいのにな」
神崎がはにかんだ笑みを見せた。
急に映像がスローモーションになった。
神崎の髪が密かに揺れた。俺の頬に神崎の唇が触れた。まるで天使の羽みたいなキッス。
「マックのオマケよ、予期してなかったでしょ」
 神崎の言葉には重力がなかった。横断歩道を渡る姿はまるで蝶のように軽やかだった。
「明日も明後日もずっと一緒にいたい!」大声で叫んだ。
聞こえたんだろうか、神崎はすでに横断歩道の中ほどにいた。
点滅する信号、神埼が手を振った。
 歩行者の間から悲鳴が聞こえた。
信号無視の真っ黒い乗用車が神崎に向かってゆく。
俺は、とっさに走り出した。
「神崎!」
 突き飛ばした神崎が歩道の端に転がった。
「き、来生君!」
 車は全くスピードを落とさず神崎がいた場所に突っ立った俺に向かってきた。
運転席の人影が見えた。
「きゃあああああ!」
神崎の悲鳴と俺の身体が吹っ飛んだのはほぼ同時だった。
 空が見えた。真っ赤に染まった空だ。数メートルぶっ飛んで地面に叩きつけられた。
 コンクリートに転がった俺……朦朧とする意識の中で神崎の胸に抱かれている自分を知った。
額にぬめっとした感触。血がだらだら流れ、無機質なコンクリートに落ちた。
「死ぬんだな、俺……」
「き、来生君、死んじゃ駄目! 許さない、始まったばかりよ……なにもかもこれからよ……」
 頬に落ちた。白濁する意識……大粒の涙が神崎の瞳から俺の……暗闇……「来生君、来生君……」
……神崎、死ぬんだな俺、お……れ……。

 俺は知った。高架線のてっ辺にいた。
あの日、カイトが横切ったてっ辺に確かにいたのだ。
そして、俺を見詰めていた。そうだ! 間違いない、間違いようのない瞳の輝き……神崎希が俺を見詰めていた。蜃気楼のようなその姿を包み込む漆黒の羽は紛れもなく神崎の背中を覆っていた。

Ⅱ 光と闇の契り

 「血圧、体温、急激に下がってます! 心拍数低下、 バイタル反応微弱!」
「人口呼吸!」
「離れて! AED!」
 身体が何度もバッタみたいに跳ねた。
「バイタル、反応なし……」
「来生君……来生君……」神崎の震える声。
「お嬢さん、救急まで搬送します。ついていてあげてください。手は尽くしました……」
 漆黒の闇、何も感じない.……『昼の光に夜の闇の暗さなど分るものか』好きな作家の言葉だ、なんで今頃……どうやら俺は死んだらしい。

 意識が暗闇に閉ざされる寸前、首筋に神崎の吐息を感じた。匂いだ、とてつもなく甘みでいい匂いだ。匂いで分る神崎の……。
救急車で搬送されてるらしい。眼の前は霞がかかったようにぼやけていた。 
【お別れのキスか……】
ぼやけた輪郭が神崎だと分るまで何秒もかかった。
【バカ! 来生君、あなたを巻き込みたくなかったんだけれど、こうするより仕方なかったの】
 不思議だ。俺も声など発していないし、神崎の唇が動いているわけでもなかった。それは、左脳に直接送り込まれる明滅する光、意識の波動なのだ。これがテレパシーってやつか!?俺はいつからエスパーになったんだ!
【死んだんじゃなかったのか、俺】
【死ぬもんですか……命をかけても……大事な人……】
 「バイタル、正常値 呼吸、脈拍、体温も安定してきました」
「信じられんよ、搬送中に確かにバイタルが……」
「すぐ輸血の準備して……これだけ出血して……ありえない!」
「麻酔医呼んで、傷口の縫合、頭蓋骨及び周辺のレントゲン写真……急いで!」
切れ切れに聞こえるのは医師や看護師たちの切羽詰った怒号だけ、しかし、意識の中では神崎が波動を送り続け俺はそれを全身で受け止めていた。

【今は眠って、あなたは死なない。絶対に、わたしたち始まったばかりでしょ、違う?】
【ずいぶん優しいんだな。神崎ケガはないの?】
【かすり傷が少しね……助けてくれて……王子様みたいだったわ、白馬の王子様……】
【愛は勝つ……】
【バカ……】

 本当の暗闇が襲ってきた。俺は死なない、確信した。神崎がそういうのだから、俺は死にはしないんだ。


 ブラインドからこぼれた光に一瞬たじろいだ。真っ白な壁、天井も真っ白、ところどころに見える細い亀裂が幾重にも重なりあっていた。
「眼が覚めた?」
「神崎? ここは……天国か?」
「ばか、病院よ、ベッドの上」
「生きてるのか……俺」
神崎がゆっくり俺の手を握った。
「生きてるし、もう大丈夫って先生が……お母様がきてたわ、今担当の先生のところで経過を説明してもらってるみたい」
 顔を近づけて話す神崎に見とれていた。誘うような唇の動きに目を奪われた。多分、俺がそう思っただけだ、多分……。
「そうか、母さんとなんか話したのか……」
「……私を助けようとして……最初、オロオロしていたけれど、先生が命に別状はないって説明してくれたら、落ち着いたみたい」
「そっか、俺、別に痛みとかもないような気がするんだが……」
 不思議な感覚が襲った。確かに俺は車に弾き飛ばされ、灰色のアスファルトに叩きつけられたのだ。ありえない方向に曲がった脚や、血みどろの今にも千切れそうな腕が気が遠のく前の俺の記憶なのだ。それが全てなのに、いたるところ包帯でグルグル巻きにされてるっていうのに、痛みすら感じないというのはいったいどういうことなんだ。
 腕を上げてみた、滑らかだ。脚もちゃんとあるし、動く、いたって快調だった。そして、俺の眼前には、今まで見せたことのない笑みを浮かべた神崎がいる。夢なら覚めないで欲しい。俺は切に願った。
「とりあえず今日一日は安静にしててって……一週間は入院よ、なにしろ生死の境をさまよったんだから…… 」
「ああ……」

 それから一週間、俺は医師も驚くほどの驚異的な回復力を見せた。神崎は毎日学校の帰りに花束とともに現れ、面会時間いっぱいまで付き添ってくれた。


 「きてやったぞ、来生!」

 三日目には、澤木が志田とともに現れた。
「面会謝絶とかいってた割には元気そうじゃんか」
開口一番嫌味かよ澤木。
「見直したわ来生君、クラスでも噂になってるよ。神崎さん助けたこと……それと、いつからそんな仲だったんだとか、どうとか……」
志田の目にはなんだろうな、俺を見直したような、まぶしい視線が浮かんでいた。女ってやつは……ころころ変わるんだな、ええ? 澤木。
「神崎は、そのええと……」
澤木と志田が顔を見合わせ大声で笑った。
「神崎さんのこと、そんなに気になる? 昨日もお見舞いにいったって言ってたよ」
志田が澤木と目配せしながら言った。
「ラブラブじゃねえか、来生。やっとお前にも春がきたのか、感慨深い」
そういう粗野な言い方、似合わないんだよモテモテクン。いつでもモテモテだったお前に今の俺の気持ちなんか分かんないよ。
「神崎さん、あれ以来ずいぶん変わったのよ。顔がね、穏やかになったっていうか、それより来生君の手の早さに驚いてるけどね、わたしも俊もね。そんなもてるやつに見えなかったけどねえ、それも神崎さんを虜にするなんてねえ」
 こういう軽口にもなんだかほっとした。澤木と志田がいる限り、世界は正常に地軸を中心に回転してるんだと思えた。
 まるで、TVドラマの中でしかお目にかかれないさわやか高校生を絵に描いたようなカップルがそこにいたからだ。
「一週間で退院だからな、大したことなかったんだな」
なあ澤木俺自身が信じられないんだよ。俺はあの日神崎を助けた。それだけは分かってる。
でも、この状況が把握できないんだ。俺は死ぬと思ったよ。

 人間、死ぬ時は分かるっていうだろ。そうなのさ、間違いなくあの時俺は死ぬんだと思った。それがどうだよ、なんともないんだぜ、どうなってんだ?
「まあ何よりだよ、連絡もらってあの日病院きた時はドラマのE・Rみたいなとこに運ばれて、おまけに面会謝絶だ、もうお前と会えないかもと腹をくくったよ」
「わたしもビックリよ、澤木君が来生死んじゃったって泣きながらテルしてくるんだもの」
と、ここで俺と二人の視線が合った。
一瞬の沈黙のあと、志田が吹き出した。俺も澤木も涙が出るほど笑った。
「なあ来生よ、生きてるって最高だな、そうだろ」
言った澤木の顔に安堵の表情を見た。俺はまた泣きたくなった。今度は違う意味でだがな。

 「来生君、ちょっといいかな」
退院の日、若い担当医の保科(ほしな)の訪問を受けた。

 神崎に会いたかった。そればかり考えていた。
保科医師は、俺の前に立ち、バインダーに挟まれたカルテを見ながらこういった。
「興味深い、実に興味深い事例だ」
 若い有能そうな医師だった。冷めた瞳が少しだけ気になった。
「君の蘇生力というか再生能力は実に興味深いよ、赤血球やヘモグロビン濃度も異常に高いし、まるで活動限界を知らないような活発な動きをしているし、細胞の新陳代謝・組織再生能力も普通じゃ、普通のという言い方が正しいのかどうなのか分からないけれど……」

「うん? 何が言いたいんですか、手短にお願いします」
保科は黒ぶちの眼鏡の位置を整えながら言った。
「通常の人間では考えられないような蘇生力なんだよ、僕個人の意見として思うんだが、赤血球の異常な活動が恐らくその原因なんだと思う、その理由が知りたいんだ。医学を志すものの端くれとしてねえ」
「で、俺になにを望んでるんですか……?」
「まあまあそうムキにならないでよ、君が協力してくれればの話なんだが」
保科医師はその眼鏡の奥の冷徹な視線を窓に向けた。
「一度、大学病院で精密検査させてくれないかな、あれほどの重症を負ったんだ。脳への相当な衝撃も考慮してCTやその他……」
俺は遮った。
「俺の身体を心配して、それとも先生の言う、学術的な何かに対しての興味ですか、俺は実験材料なんかじゃないですよ、第一今まで身体検査受けてるけど平凡なんですよ、身長も体重も、視力だって、頭の中も、なにもかも普通なんですから……」
「まあまあ、そう敵視しないでよ来生君。君が協力してくれれば話しなんだし、カルテでは全く異常は見られないんだからね、あれほどの事故を経験しながらねえ。あくまでも僕の個人的な興味の範疇として聞いて欲しいんだよ……」

 ドアが開いた。
「退院おめでとう。迎えにきたわ」
神崎が現れた。辺りに神々しいほどの美しさを放っていた。
 続いて母親が現れ、保科医師にペコペコ頭を下げ「色々、お世話になりました」とかなんとかお決まりのセリフを交わしていた。
「協力してくれる気になったらいつでも……」
ドアを出る時保科医師が言った。
「なんの話?」
「気にするな、マッドサイエンティストの戯言だ」
俺は神崎の疑問符を軽く受け流した。
神崎は一瞬いぶかしげに俺を睨んだ。
母親が自宅に来るように神崎を何度も誘った。とうとう根負けして神崎は俺たちとタクシーに乗り込んだ。
 病院を出ると夏の匂いがした。幾分雨の匂いが混じっていたかもしれない。
 西の空に崩れかけた入道雲が見えた。
タクシーの後部座席で神崎と密着しているとなんともいえないいい匂いがした。
今日はやけに匂いに敏感だな、俺。
「こりゃ一雨くるね」
運転手が誰にでもなく一人ごとのように呟いた。

 家に上がると早速母親はチーズ・ケーキなんぞを神崎に進め、今回は色々どうもありがとうとかなんとか世間話しをしたそうだったが、神崎が食い終わるのを待ちきれずに俺は二階の俺の部屋に誘った。
 母親の名残惜しそうな顔だけがポツンと広い居間に取り残された。

 部屋のドアを閉めるなり俺は神崎に切り出した。
「どういうことなんだよ、説明してくれよ……」
神崎は黙って窓を打ち付ける雨を見つめていた。
にしてもだ、まさかこの神崎が俺の部屋にいるなんて想像もできなかったな、そうだろ?
「どういうことって……?」
「なんだかさ、俺の身体どうかしちゃったみたいでさ……匂いとかさ、視覚とか、頭ん中とか……うまく説明できないんだ! なんだか何もかもが違うんだよ。今だって神崎を……」
 窓辺にいた神崎が瞬間移動したみたいに俺の眼前に迫った。
「な、なんだよ!? 今のはいったいなんなんだよ?」
「ね、来生君分かって! 貴方をこんなことに巻き込みたくなかったのよ……でも、助けるにはああするしかなかった」
 神崎の吐息がかかるほどお互いの距離は近かった。
キス許してくれるかな? 今、押し倒したら……。
「今から話すこと信じられないと思う。でも、信じて……話は信じなくてもいい、でもわたしだけは信じて、わたしのことを……」

 夏の雨の匂いがする部屋で神崎はこの世のものとは思えない光と闇の契りを語った。
こんなリアルに向かい合った俺たちなのにお互いの距離は銀河の端から端までほどもあるんだとその時は思ったんだ。

 「来生君、これから言うこと、信じるのも信じないのも貴方しだい。でも、これだけは、分かって……貴方を助けるにはこれしか方法がなかったの!」
 神埼との距離十センチ、俺にはピンクに光る唇しか見えなかった。
いい匂いがした。このまま押し倒して神崎を征服したい欲求がムクムクと沸きあがってきた。
なんなんだこの活力、いや、この内から湧き上がる衝動は……俺はいつからこんな色情狂になっちまったんだ!
 思いっきり握った掌が汗ばんでいた。
「うなじに触れてみて、まだうっすらと傷が残ってるでしょ」
神崎に言われた通り、うなじに手を充てた。
黒子のような、言われなければ分からないほどの小さなふくらみが二つあった。
 なんだって、???なんだって!?、これってまさか、あの、あの、あれか……。
「察しがついたようね、そうよ、私はヴァンプスの一族なの。あのおぞましい姿で人の生血を吸うため、夜な夜な棺おけの中から這い出してくる、あはは……来生君もそんな物語いっぱい読んでるでしょ」
 神崎は壁に作られた俺の書棚を見ながら言った。
「ヴぁ、ヴァンプスって……!? 神崎、まさか、お前がそんなDQNだなんて思わなかったぞ、あはは、ヴァンプスの一族だと!? それって吸血鬼ってことかよ……」

 神崎が更に顔を近づけた。なんて綺麗な顔してるんだ! なんて可愛い唇なんだ。なんて瞳の色だ、濃い藍色がじっと見つめていた。
「そうよ、来生君、信じる? 私が吸血鬼だってこと……」
神崎がゆっくりと口を開けた。
犬歯が見えた。それが俺の目の前でゆっくりと伸びてゆく。
「うわああああ、神崎、神崎、もういい、もういい!」

 やはりあれは幻なんかじゃなかったんだ。入学式のあの河川敷を跨いだ高架線で見たあの瞳、そしてあの真っ黒な翼、あれはやっぱり神埼だったのか!?
「なあ、つまんない冗談だよな、その犬歯だってどんなマジック使ってるんだよ、あはは、俺はどうかしちゃったみたいだよ」
 深い、深い沈黙、見つめる神崎の瞳、吸い込まれそうだ。
ベランダに打ち付ける雨の音がまるで規則正しいメトロノームのように部屋中に響いた。
重苦しい、鉛みたいな沈黙を破ったのは神崎だった。
「貴方を助けるため仕方なかった。あなたを巻き込むつもりなんてなかったのよ、それだけは信じてね、それだけは……」
「おい神崎! 怒るぞ、いい加減冗談やめろ。つまんないレッド・カーペットにしたって笑えないぞ!」
 おい、そ、そんな目で見るなよ……襲うぞ、何しろ自分で、自分の感情をコントロールできないんだ。なんなんだこの高揚感は……。

「来生君、硬貨持ってる?」
「なんだよ、硬貨って? あるさ、ほら」
ジーパンのポケットから何枚かの硬貨をテーブルに置いた。
神崎はその五枚の硬貨を無造作に人差し指と親指に挟んだ。
 俺の目の前でその硬貨がひしゃげた。いとも簡単にひしゃげた。
「来生君、貴方も手に入れたのよ。この力を……ヴァンプスの血を受け継ぐ力を……」
俺は震えながら五枚の硬貨をつまんだ。

 何も、力など何も加えずその硬貨が俺の手の中でひしゃげた。
全身に悪寒が走った。
「死んでしまうと思って無意識にやってしまったの、貴方を眷属にすることなんて望んでもいなかったの、信じてね。でも、こうなってしまった以上私のことを知ってもらうしかないわ」
「なあ神崎、ちょっと、そのー、俺のほっぺたをつねってくれないかな、俺は夢でも見てるんじゃないよな」
 神崎は言われた通り俺のっほっぺたに手をやった。
「いてえええええ!」
「ご、ごめんなさい。痛かった?」
知らずに神崎の手を握っていた。
 暫く見つめあった。神崎のピンク色の唇が近づいてきた。そっと触れた。吸血鬼だと、こんな可愛い唇の主が吸血鬼だなんて、そして俺もその仲間になったってのか……!?。
 俺のファースト・キスがよりによって絶世の美女で、それも、吸血鬼だったなんて……こんなばかげた話、しかし、今の硬貨はなんだ? 俺のこの身体の変調はなんだ? 死ぬほどの傷が、医者も驚くほどの回復を見せたのは一体なんなんだ!?

「神の御子がゴルゴダの丘でロンギヌスにとどめの一撃を受け、絶命した時から私たち一族の影の歴史が始まったの……」

 それは、現実とは思えない、にわかには到底信じられない話だった。神崎はそれを滔々と話した。
 神の御子の返り血を浴びたロンギヌスは人間であるにもかかわらず、不死という十字架を背負わされたのだ。呪われた半人、半獣の影の歴史。そして、神と見紛うほどの力をその体内に宿した一族の永遠の物語の始まり。
 それは恐らく神の怒りだったのだろうと神崎は言った、そして、どっちにしても神様の考えなんて私たちには分からないとも言った。
 己の御子を殺すという人間の愚行に対する神の制裁をロンギヌスの一族はその後永遠に背負うことになる。

 彼らには血が不可欠となった。神の御子の返り血の記憶が、そうさせるのだ。永遠に肝臓を喰われるプロメテウスのように、彼らは永遠に神の御子の血を探し続けるという罰を受けるのだ。
 満たされない、飢え、渇望、血は彼らの生きる証となった。

 光に溢れた地上と天空の全てを支配していた神と、暗黒の闇を支配していた悪魔にとって、影の存在は予期せぬ出来事だった。
 光と闇の支配を脅かす影という存在が、やっかいなものとして浮かび上がった。光と闇には彼らは邪魔者でしかなかった。神のごとき、あるいは悪魔のごとき力を持った人間などという存在が知られれば、人類の畏敬は消え去るではないか、ただでさえ縦横無尽に振舞う人類を、その創造主たる神が恐れ始めていたのだ。
光と闇はこの影という存在を抹殺しようと契りを結んだ。エデンから追放しなければならない。人類という手綱が切れてしまう前に、きれいさっぱり抹殺しなければならない。
 主に抹殺の役目は悪魔が背負った。
神はその御子の返り血を浴びた御子の分身、背徳の士をただただ傍観するだけだった。
 神にとってはそれすらも退屈しのぎのお遊びでしかなかったのかもしれない。

 しかし、ロンギヌスの一族はわずかだが生き延びた。いつしかその一族は、恐怖となり、伝説となり、人の記憶から消し去られはしたが、人間はその脅威をヴァンプスという名のもとに留めた。
 ヴァンプス、影の一族、あるいは吸血鬼の伝承は、この時代にも連綿と生き続ける。
 光と闇は、探し続け、殺戮する。その影を、根絶やしにするまでそれは続くのだ。

 「で、俺は神崎の血によって蘇ったのか!? 俺もその一族の仲間になったのか、その、ヴァンプスとかいう仲間に……俺は、眷属なのか?」
「……私には貴方を眷属にする力はまだないの、ヴァンプスの寿命は千年、私はまだその半分も生きてはいないしね、だから貴方は完全なバンプというわけではないの、ごめんなさい」
「か、神崎って!?せ、千年だと!? いったい今いくつなんだよ!」
「失礼な奴! 女子に年齢なんて訊くものじゃないわ」
「へえ? で、なんだよそれ、俺はなんなんだよ、相変わらず半人前ってことか? あはは」
「笑わないで! 必死だったのよ、貴方を助けるだけで、命を繋ぐだけで精一杯だったのよ」

 カーテンの隙間から轟く雷鳴の光彩が神崎の整った顔に陰影を作った。
「泣いてるのか、神崎……」
涙が一筋光った。
俺はゆっくりと手を頬に充てた。
「俺たちは神と悪魔を相手に闘わなければならないのか……そんなことって……」
神崎は涙で濡れた瞳を向けた。
「私はずっとずっと思ってるよ。なぜこんな私みたいな化け物がこの世界に存在しているのかって、神にも悪魔にさえ疎まれて、いったい何処へ行こうとしてるのかって……生きる目的は何って……」
 神崎は涙をぬぐいこう言った。
「でも、今分かった気がするの、来生君。私がこうしてここにいるのは貴方に逢うためだったんだって……今は確かにそう思えるの」

 神崎がゆっくりと立ち上がった。俺の前に手を差し伸べた。
俺はゆっくりとその細くしなやかな手を握った。
ベランダの戸を開いた。
「さあ、行きましょう。来生君……貴方がどんな力を手に入れたか、この雷鳴と雨粒の中で確かめに行きましょう」

 俺たちは飛翔した。雷鳴は更に更に勢いを増し、雨は額を打ちつけた。
一気に百メートルはジャンプしただろうか、神崎は更に高層マンションさえ凌駕しそうな勢いだ。
 雨にけぶる街並みが眼下に見えた。そこは、あまりにもちっぽけで、現実の尻尾を引きずっていた。俺は今現実を飛び越えているんだと感じた。
一気に河川敷を飛び越え、高架線の天辺に降りたった。
俺の気分は高揚し、神崎はまるでそんな俺を母親のような優しいまなざしで見つめていた。
 降りしきる雨、轟く雷鳴の中、俺たちは高架線の天辺で今日二度目のキスをした。



     


 

Ⅲ 生きる為に闘い続ける……

 夢を見た。俺の中で汚れた血が俺の身体を蹂躙していた。張り裂けそうな激痛が体中を何度も、何度も、襲う。

 《貴方の耐性がどこまでなのか、分からなかった。だから、ほんのちょっとね、私の血を混ぜてみたの……リジェクションが怖かったけれど、生きて欲しかったの! 絶対に生きて欲しかった……》
 血管を血流がまるで濁流のように蛇行し、うねり、すさまじい速さで駆け巡る。
《貴方はまだ半分人間、そして、半分はバンプスよ……もう一つ不安なのは、貴方が手に入れたその強大な力を貴方自身が制御できるかどうか……自堕落に自分を抑えきれず、破滅していった人間を見てきたから、多くの人間たちはその力に溺れ、自ら破滅していったわ……》

 夢の中で俺は神崎を何度も、何度も、力ずくで犯した。抑えきれない衝動が全身を捉え、無節操な行動に駆り立てるのだ。

 目覚めた時の不快感は今まで感じたことのないほど大きかった。吐き気がした。パンツが濡れていた。精液が固まってゴワゴワした。
 夢精なんて始めての経験だった。
 起き上がり、シャワーを浴びた。歯をゴシゴシ磨くと幾分かすっきりした。
鏡に裸の全身を写してみた。別にこれといった変化はなかった。
 ただ、あの日受けた傷はすでに跡形もなく消え失せていた。うっすらと、ほんのうっすらと幾重にも重なった傷跡が赤味を帯びているだけ、これもあと二、三日もすれば完全に消えてしまうだろう。
 あの担当医の保科が訝るのも無理もないと思った。

「一樹、もう大丈夫なの? 学校行ける?」
テーブルの上には親父の食べ残したトーストと飲みかけのコーヒー。日経と朝日、親父の姿はなかった。
いつもの日常がそこにあった。
「ああ、とりあえずすることもないしね、学校行くよ」
そう答えた。
「大丈夫なの、ほんとに? 二、三日、ゆっくり休んでもいいのよ。昨日退院したばかりなんだから……」
母親が朝食のトーストにバターとジャムを塗るのを、ぼんやりと眺めていた。

通学路でママチャリを漕いだ、いつものように……。
なにも変わらない日常がそこにあった。
ふと、思った。なぜ俺は神崎の言葉を鵜呑みにしたんだろう……。
神様など信じてはいなかった。
 そんなものはサンタのおっさんと一緒にドブに捨てたはずだった。
 ましてや悪魔などいるはずないと思っていた。そんなものは、狂信的な宗教の信者か、ラノベやアニメにしか存在しないと思っていた。

 しかし、俺は神崎の言葉を信じた。
神崎の美しさが神々しいほどだったからだ。
その神崎が俺を助けたのだ。
 多分、俺はあの時、神崎が助けてくれなければ間違いなく死んでいたのだ。これは確信だ。
神崎の血が俺の中に生を植えつけたのだ。そういう確信が俺の全身を貫いたのだ。
 だから、俺は信じた。神崎の荒唐無稽ともとれる電波な話を信じたのだ。

「後ろ、乗せて」
路地から顔を出したのは神崎だった。
「待ってたのか?」
腰に回された神崎の腕がくすぐったい。そよ風に混じって神崎の匂いが鼻腔をくすぐる。
「身体、大丈夫? 覚醒した後って妙に暴力的になったり、性的な興奮状態に陥ったり、とにかく高揚感が先走りすぎて普段考えられないくらい突飛な行動に駆り立てられたりするの……自分でも制御できないくらい代謝エナジーが増大するから」
 俺は顔が火照った。確かに昨日の夢は異常だった。いたって普通の高校生なのだから性的興味くらい普通にあるし、普通に自制するくらいの理性ももちろん持ち合わせているのだが、まさか神崎をレイプする夢を、それも、執拗に何度も犯すなんて……神崎は見透かしたように俺を見ている。
「な、な、なんだよ、俺の顔になんかついてるか?」
「ううん、別に……急に顔が真っ赤になったから、どうしたのかと思って」
「誰だって学校一の美少女、後ろに乗っけて登校したら顔くらい赤くなるさ」
「バカ! よけいなこと言うな」
 満更でもない口ぶりだった。いつもの神崎だった。そして、いつもの日常がやってきた。
俺の身体になにが起こっているのか……今度、ゆっくり神崎にレクチャーしてもらおうと思う。
 俺の周りの現実はなにも変わっていないのだ。
昨日、高架線の天辺で神崎と交わしたキスだけは夢であって欲しくない。
 リアリテイがなかった。
俺の身体に起きた変化だって案外夢なのかも知れない。
俺はまだ夢の中にいるのか……。

      ************


 教室に入るなりクラスの注目を浴びた。
「来生、もう大丈夫なのか?」
澤木がいつもの好青年顔で近づいてきた。
「うむ、生まれつき身体は丈夫らしい」
「身体だけはでしょ、あはは」
志田の嫌味も今日ばかりは懐かしい。
「来生君、クラスの女子たちの一躍人気モノよ、命がげで神崎さんを救ったって評判!」
そういえば回りの女子たちの視線がなんだかいつもと違う。いつもと違うってか、いつもはほとんど相手にもされてなかったんだが、なんだか視線が痛い……。
 志田でさえ俺を見る目が違う。
「今日、神崎さんチャリに乗っけてきたんだってね、やるじゃん来生君」
神崎を見た。あいかわらず窓側の席に座りクールな態度をくずさない。美しい、素直にそう思った。高架線の天辺でキスしたんだ、大声で叫びたかった。

 神崎を狙い、そして俺を跳ね飛ばした車は、現場から数キロ先の公園の駐車場に乗り捨ててあったと担当の刑事の説明をおどおどしながら聞いている母親の姿を見たのは、意識は戻ってはいたけれど、いまだ朦朧としてる時だった。
 悪質なひき逃げには、断固とした対応をすると付き添っていた母親に言っているのを聞いた。
 特定されたその車はもちろん盗難車両で、全面ガラスが粉々に砕け、ボンネットが大きく凹み、俺の血痕が無数にこびり付いていたそうだ。よくある4ドアの大衆車だってのも知った。知ったところで、俺がなにかできるわけでもない。
 しかし、朗かな殺意を持って神崎を襲ったことは疑う余地がなかった。神崎もそれを知っている。神崎が言ったわけじゃない。俺の直感がそう言っているのだ。あれ以来、頭の中で密かに警報音が鳴り続けている。
 俺は運転席の影に見覚えがあった。俺の近くにその運転席の影はいるのだ。間違いなく……。

 あの事件以来、俺と神崎はまるで初々しい恋人同士のように四六時中一緒にいた。
神崎は、俺の体調の変化と精神のバランスが特に気になったようだが、体調は徐々にというか、常人では考えられないような回復を見せた。
 神崎に言わせると俺の体内には世界を破滅させるほどの力が宿っているらしいのだが、本人の俺にその自覚はない。あるわけがないではないか、それまでの俺はどこにでもいるいたって普通な男子高校生だったのだ。
 いや、普通以下だったかもしれない。成績も中の中、特にスポーツができるわけでもなく、顔もいたって普通すぎるくらい普通だったのだから、急に世界を破滅に導くことだってできるパワーが宿っているのだと言われたって、にわかには信じがたい。

 ただ、朗かに違っていたのは、体内を行き交う血液の流れが、代謝が、異常に活力に満ち満ちていることだった。
 俺自身が俺のこの体内の異常な活動に戸惑うくらいそれは発散したがっているように感じた。
制御できるのか俺に……この得体の知れないパワーを……神崎もそれが心配で俺と四六時中一緒にいたいのだろう。いったいどんな変化があるというのだ!

 朝、神崎はいつも俺の家の近くの公園で待っていた。
神崎をチャリに乗っけて登校するのが日課になった。
放課後も帰宅部の俺たちは一緒に帰った。
 デートはもっぱら学校帰りの河川敷だ。
 チャリを押しながら神崎と歩く河川敷は俺にとって至福のひと時となった。
神崎は日に日に打ち解け心を開くようになっていた。
 俺は神崎の目がくらむほどの美しさに虜になっていった。
その人を魅了するような美しさ以外はごく当たり前の女子高生なのだと俺は思い始めていた。
 彼女がバケモノだと言った言葉すら遠い記憶の隅に追いやられ、俺自身の身体の変化すら忘れてしまいそうなほど平凡で幸福な日常がそこにあったからだ。
 神崎と過ごす一時間は一分にも満たない。こんな幸福な時間は生きてきて初めて味わう類のものだ。もちろんその感覚もだ。
「明日の放課後は駅前のマックでデートだな、俺が奢る」
「ずいぶん横暴ね、私はいいって言ってない」
「いやなのか?」
「いやだって言った? いいって言ってないだけよ」
いいか、こんな可愛い絶世の美少女と俺はキスしたんだぜ……多分、恋人同士なんだぜ、多分ね……時々、そう叫びたい衝動に駆られはしたが、もちろんそんなことはしない。
 神崎とこうしていられるだけでもう充分じゃないか、俺はシアワセだ。

 放課後、神崎をケツに乗っけて帰るのが日課になった。夕暮れ時の河川敷が俺たちのデート・スポットになった。
 神崎がこの風景を好んだのだ。
 
 無機質な高架線とあいかわらずのカラフルなスポーツ・カイトの群れ……ひょっとすると神崎はその昔、自由に空を飛び回っていたのかもしれない。なぜなら時々、空を見上げて、まるで飛べなくなったペンギンみたいな哀しい顔をするからだ。
 神崎は自ら声をかけ、カイトを操らせてもらっていた。うれしそうにカイトを操る神崎を見ているだけで俺は胸が熱くなるのだ。

 帰り道、他校の不良グループに絡まれた。それも十数人はいただろうか……神崎が目立ちすぎるのだ。
テレビに出てるアイドル顔や、モデル顔が束になっても神崎の足元にも及ばない。神崎はそんなオーラを放っている。
 今までの俺なら多分こそこそと迂回したであろうそんな状況も今の俺には格好の場のように思えた。
 人気のないビルに囲まれた駐車場に連れ込まれた。
 神崎の手前、いいカッコしたかったのかもしれない。そうじゃない。俺の中の血が充血していたんだ。
全身が暴力への渇望に沸き立っていた。
 体中のアドレナリンが沸騰して眩暈すら覚えた。
 俺は暴力に飢えている。
 だから、神崎の静止も耳に入らなかった。神崎は大声でリリースしちゃだめと言った。
「リリースってなんだよ?」
「解放しちゃだめよ!絶対にダメだから!」

 「よう、ボウズ、お前ずいぶん不釣合いないい女とつるんでるじゃんか」
百八十は優にありそうな、金髪に染めた髪がぴったりのいかにもBボーイくずれのヤンキーファッションを纏い、恐らくこのグループの頭らしいやつが俺を見据える。
ハイエナのように狡猾な瞳が舌なめずりしていた。
 神崎の全身を舐めるように見ている。俺なんかいないかのように完全に無視した無遠慮な視線。

「俺、この姉ちゃんに一目ぼれしちゃったよ、ボウズ、半殺しにされたくなかったら消えな。もちろんこの姉ちゃんは、俺と残るんだけどな」

 何かが俺の中でブチっと音を立てて切れた。自制心とか、抑制とか、制御とかそんな類の単語が浮かんだ。
俺はその頭が空っぽそうなでかい図体の男に一歩近づく。
「やってみろよ、俺を半殺しに……」

神崎が音もなく俺の前に立ち塞がる。
「止めて!私たち、いいえ! 彼に構わないで。か、彼はこう見えても武道の達人なのよ。無益な暴力はいけないことよ……私たちの態度が気にいらなかったのなら謝ります。ごめんなさい」
「神崎、なんでこんなやつらにお前が謝る! こんなクズみたいなやつらに、俺たちはなにもしていない」
俺の言葉がボス以下のやつらの顔色さえ変えさせた。クズと言われたのがよっぽど気に障ったらしい。
「ボウズ、今の言葉で殺されても文句言えなくなったなぁ、ふひひひ」
その顔に下卑た笑いが張り付く。こいつもこれから始まるであろう事態……俺を血祭りに上げ、神崎を蹂躙するという欲望に全身が震えていた。
「貴方たち! これ以上彼を挑発したら、貴方たちの命の保障はできないわ! わたしは貴方たちを心配してるのよ!」
 俺は神崎を押しのけ更にヤンキーの集団に近づく。
神崎は俺の後ろで口をつぐんだ。
「おい、聞いたかよ、ふひひ。この姉ちゃんは俺たちのことを心配してくれてるんだってさ。張ったりかますのはそこまでだぜ」
 ボスみたいなでかい男がボクシングをかじっているのか、そのでかい図体に似合わず、俺の前で軽快なフットワークを見せ、眼前に重そうなストレート・パンチを繰り出す。
「泣いて謝れよ。この女の前でな、土下座して謝れよ、ふひひ、そうしたら半殺しくらいで許してやってもいいがなあ、なあお前ら」
 ドスの利いた声、喧嘩慣れした風情。
「相崎さんに謝れよ。なにカッコつけてんのボウズ。土下座してアスファルトに血が出るまで額を擦りつけたら許してくれるってさ、腕の一本くらいはへし折られるけどな」
 後ろの数人がその声に反応して笑い声を上げた。

 機関車みたいな図体が突進してきた。拳がうなりを上げて俺の顔面を狙う。
俺は数ミリの感覚でそれを除ける。
 俺自身が驚いていた。なんだこの感覚は! そいつのパンチがまるでコマ送りみたいにゆっくりとしていたからだ。ハイスピードカメラで捕らえた映像みたいに見えた。
 俺は笑っていた。そいつの動きが亀のようにのろかったからだ。
 脚先が勝手に反応してそいつの股間を蹴り上げた。まだ自分でコントロールできないからどのくらいの力で蹴り上げたのか分からなかった。そいつは数メートルは空中を漂い、頭から無様に地面に落下した。
あたりに断末魔の悲鳴を上げながら……勝負は一瞬だった。股間を押さえたまま、そいつはブルブル震えて地面に突っ伏したまま、立ち上がれない。
 残った数人が一歩引いた。
「あ、あ、相崎さん……」
 ざわめきが拡がる。地面にぶっ倒れたのが俺ではなかったからだ。

 ポケットからバタフライ・ナイフを出すものさえいた。数十人が本気で身構える。百七十センチもない俺が百九十、百キロはあるだろう相崎と呼ばれた男を一撃で倒したからだ。

 神崎は仕方ないといった風情で俺を見つめている。その顔には薄笑いさえ浮かべていた。
 そういえば神崎は真性のヴァンプスなのだ。俺は神崎の本気を見たことがない。神崎がこいつらに蹂躙されることなどありえない、と、今、気付いた。
 俺の能力がどのくらいなのか分からないが神崎はきっと俺以上だから。
「てめえ!!」
叫び声とともに一斉に俺に向かって数人が先人を切った。
 のろまな亀を倒すのは簡単だった。一瞬で数人が地面にぶっ倒れ、のたうち回る。まだ加減が分からないのだ。俺はいったいどんな力を手に入れたのだ!!
 残った連中が更に数歩引く。彼らには俺の動きが見えなかったのかも知れない。ぶっ倒れた数人の仲間が見えただけだったのかも知れない。
 なぜなら彼らの顔には得体の知れない恐怖が浮かんでいたからだ。
「やりすぎよ来生君! 彼らは怖がってるわ。もう止めて! 攻撃してこない相手にまで拳をふるうことはないでしょ」
 俺は神崎を振り返り、ニヤリと笑った。
「無理だよ、もう……止められないさ、俺自身でさえ……」
逃げようとした数人をぶちのめした。恐怖に失禁するものまでいた。頬骨が砕ける鈍い音。返り血を浴びた。
「うわああ……バ、バケモノ! 近寄るなあああ……」
恐怖に歪んだ顔を片腕で吊り上げ、失神した頃合いで地面に叩きつけた。
なんなんだ、この全身を貫く高揚感は!? 
「もう充分でしょ、尋常じゃない力を手に入れた感想はどう? 解放した気分はどう? 満足したの……」
背後からの神崎の言葉を無視した。俺は俺の力の行使に酔っていた。
戸惑ってもいた。俺はいったい何を手に入れたのだ!? この有り余る力を俺は本当に手に入れたのか?
最後の一人の腕をへし折った時、神崎に腕を取られた。
「お願い、止めて! 来生君……ケダモノに成り下がる前にもうよして!」
神崎の叫び声に俺は、ふっとわれに帰った。
 俺の後ろには数十人の男たちが地面に突っ伏していた。
 苦痛と恐怖に歪んだその顔には一様にバケモノを見た驚愕がべったりと張り付いていた。
初めて自分のやったことに気付いた。
 シャツや拳が血で真っ赤に染まっていた。さすがに返り血を除ける余裕はなかった。
強引に神崎の腕を取り引き寄せた。
「キスしてくれよ神崎。俺は始めて使ったんだぜ、お前がくれた力ってやつを……」
「や、止めて来生君。落ち着いて、お願いだから」
離れようともがく神崎を更に引き寄せた。
 暴力と抱擁、俺の中でアドレナリンが煮えたぎっていた。俺自身が制御できない欲望。
このまま神崎を押し倒したい衝動に駆られる。
 「そんなにケダモノに成り下がりたいの?」
振り向いた神崎の歯から伸びた犬歯が覗く。
「自分を制御できなきゃ、その力に自ら破滅する気?」
「ううっ!」
逆に羽交い絞めにされビルのてっ辺まで一気に駆け上がる。俺を担いだままだ。尋常じゃない。
 俺たちはもう人間じゃない。そう確信した。じゃあなんなんだ!
 ビルのてっ辺から片手だけで吊り下げられた。
「わ、分かった。無理やりべろちゅーなんてもう望まない。神崎、や、止めてくれ……」
「来生君が理性を取り戻すまで、許さない」
神崎の瞳が憤怒に真っ赤に燃えていた。本気で怒らせたみたいだ。
犬歯が更に伸びる。美しい仮面のまま悪魔に豹変してゆく神崎、背中がみるみる盛り上がる。
 衣服の張り裂ける音、そして、翼だ、蝙蝠の翼がみるみる神崎を覆う。

「貴方を引き込んだのはわたし、だから、あなたの生には責任がある。絶対に生きなきゃならない。つまらない力の行使はわたしたちの存在を特定される危険を増長させる。だから、これだけは肝に命じて!理性をなくしちゃだめ!」
「分かったってば! もう二度と力づくなんてしません。べろちゅーなんておねだりしません。神崎、お願いだから、もう止めてくれ」
神崎の腕から力が抜けた。
 真っ逆さまに落下した。
「死ぬの?俺……えええええ?」
「肝に命じるのよ来生君! 獲得した力に酔っちゃだめ」
地面に激突する寸前、真っ黒な物体が俺を包み込んだ。
 空を飛んでいた。神崎に抱きかかえられたまま、飛翔していた。

 「約束して、力ずくなんて……二度とあんなことしたら許さない……」
「お前って、空も飛べるのか!?」
俺は思い出していた。あの高架線のてっ辺から俺を見つめていたあの瞳を……。
「私はヴァンプス、貴方は眷属、いわば贋物。私の能力を侮らないで」
「さっきは本気だったのか……?」
「来生君、分かってないのね。贋物だけれど、貴方は無限の力を手に入れた、その代償はなんだと思う?」
 代償だと? 誰もが手に入れたいと思う力を俺は手に入れたんだぜ。
 空を飛ぶという行為がこんなにも簡単に具現化されるなんて、自分が飛んでるわけではないんだと思いながらも逸れ雲の隙間を神崎に抱えられたまま滑空する体験は新鮮だった。

 三十回建てのマンションのてっ辺、Rとペイントされたヘリ・ポートに着地した。
 神崎から解放されても脚がふらついた。重力が戻るのに数分。
 眼下に夕暮れの街並み、遠くにレインボー・ブリッジの灯りがぼやけて見えた。
 改めて神崎の人間離れした異能にも素直に頭を垂れる。俺はとんでもないやつと恋仲になったもんだ。
神崎にはいったいどんなすごい能力が隠されているのか、神崎と俺だけでもひょっとしたら世界を破壊できるんじゃないか。世界を征服する力……世界を救えるんじゃないかなどとは考えもしなかった。
 異能の力は確かに人間を変える。それも突拍子もない力を与えられたのだ。
世界をこの手に治めることだってできる。それが、俺の中に宿ったのだ。
 そんな不遜な考えすら頭を過ぎった。
「わたしはこの容姿のままでさえすでに百年。この意味が分かる、来生君?」
俺は解放した力に酔っていた。飛翔した数時間に酔っていた。神崎の言葉など上の空だった。
 「ヴァンプスってどのくらい生きられると思う? 澤木君も志田さんもみんな貴方の回りから消えてゆく、もちろん家族も……でも貴方は余程のことがない限り生きつづける……生きつづけることの孤独。死にたくなったら私の手で、他の誰でもない私が殺してあげるから……貴方をケダモノにしたのは私、だから、貴方の生の責任も死の責任もわたしが背負う」
 神崎の言葉が俺を現実に引き戻した。
つまり俺はこの先、死ぬほどの孤独を味わうのか……。
 でも、みんな俺の回りから消えたとしても、街の景色も、なにもかもが失われたとしても……。
俺の心はたった今決まったよ、神崎……例え、どんな運命が待ち構えていようとも、俺は、お前と生きたい。
生き続けたい……。

   *************

 いつもの河川敷、寝てる俺の横には神崎……平穏な日々、流れてゆく雲、おだやかな時間、神崎は最初の出会い以来全く自分のことを語ろうとしない。その上、俺に近づこうとしない。俺は高校生なのだ。普通に完璧に健全で正常な性欲の持ち主なのだ。
 ヴァンプスでもある、半端だろうと人間離れした何かを手に入れたのだ、引っ込み思案で、自信のかけらもなかった俺、性格まで激変してる。
 神崎が悪いんだ。そんな、ミニスカートで俺の回りをうろつくから、どうしたって意識してしまう。
神崎のしなやかな指に掌を絡ませる。
「なに?」
「絡ませちゃいけないか?」
神崎は優しくしかし、確固たる意志を滲ませて俺が絡ませた指を見つめた。
「無理だとは思うけれどわたしを異性として見ないで……」
「じゃあ、お前はいったいなんだ? なんなんだ?」
「人の形をした化物よ。それ以上ではないわ」
「こんな美しい化物がいるか? 恋をしてなにが悪い?」
「来生君、落ち着いて。それは、恋じゃない。同族意識よ、ヴァンプスは惹かれあうものなの、恋とかそういった性質のものじゃなくて流れている血脈がそうさせるのよ」
「なんでもいい! 俺は、神崎、お前のためならなんだって差し出す。お前が世界が欲しいといえば喜んでこの力を使う」
 俺の左頬に平手が飛んだ。神崎は立ち上がり、俺を睨みつける。
「思い上がるのもいい加減にして! 半人前のくせに! 貴方は人間の怖さを知らない! わたしたちは駆逐されるべきものなのよ。生きていてはいけないもの、人間の世界で人間以上の異能の力を持つものは、虐げられ、差別され、抹殺されるの!」
「じゃあ俺たちの紡ぐ物語は悲劇でしかないのか!? 俺をその世界に引き込んでおいて神崎! お前は俺を見捨てるのか……」
 背中を向ける神崎、こんな美しい化物がいるか? 俺は仲間じゃないのか?
「見捨てない。絶対に見捨てない。けれど、お願い聞き分けのいい子でいて、でないと、生きるのにとっても面倒なことが待ち受けるわ……」
 そこで会話は途切れた。神崎が見つめた先に男が二人いた。神崎の顔色が変わった。
 二人の影が近づく……この場にそぐわない黒のスーツを着込んだ屈強な若者だった。
「お久しぶりです、ノゾミ様。こちらのお方はどなたですか?」
「新海、堂本……なぜここに、なぜ姿を現す!? お前たちはわたしの影のはず……」
俺は身構える。本能的に神崎とは少なくとも顔は見知っていても、友だちであろうはずがないと感じたからだ。 
「ビッグ・スリープから警告せよとのご命令で、我々がここにいる。ノゾミ貴女の行動は、我々の存在を人間たちに知らしめる危険があると……」
「新海、いつからわたしにそんな口を! 彼に手出しをしたら承知しない」
「神崎! こいつらはなんなんだ? いきなり現れて……」
「来生君は黙っていて! 新海、堂本、貴方たちはわたしを守るのが仕事ではなかったの?」
「今までは確かに、しかし、あまりオイタが過ぎると、我々の立場も危うくなるのです。ノゾミ」
 新海と呼ばれた男が答える。堂本は俺を睨みつけたまま臨戦態勢を崩さない。  
 「わたしをストーカーしてたんでしょ、それなのに、あの車の暴走すら阻止できなかったくせに!」
「ノゾミ! 敵対行動を取っているのは貴女のほうだ、あるいは、我々の庇護の範囲から逸脱した行動を自らおとりになったのも貴女のほうだ」新海がたしなめる。続けざまに堂本が口を開く。 
「お嬢様、勝手な行動はいい加減慎むべきでは……また、貴女は眷属を作るなど、選定されていない人種などとの混血など許されてもいない。貴女の軽率な行動は今後、審議されよう。ビッグ・スリープ(大いなる眠り)は、悲しみ、心配しておられる、そして激怒してもおられる」

 同じ匂いがした。神崎の言う通り、ヴァンプスは匂いで分かる。神崎以外のバンプスと会うのは初めてだった。
 新海に堂本、二人とも俺よりふた回りはでかい。こいつら、神崎とはどういう関係なんだ? 胸板は俺の倍はありそうだ。俺の犬歯がむき出しになる。ズルズルと伸びてゆく犬歯、本能が敵とみなしている。
 こんな状況でなければいい友だちになれたかもしれない。
いや、そうじゃない。神崎が敵だと認識すればそいつは全て俺の敵だ。
「ノゾミ、そこの小男に分をわきまえろと……我々は味方であるが、はむかえばただでは済まない」
俺の剥き出しの犬歯を見て、戦闘態勢に入ったとでも思ったのか、新海と呼ばれた男の眼光が一際するどく輝る。
「お嬢様、この場は穏便な話し合いで終わらせることもできる。ビッグ・スリープも手荒なことは望みはしない。ただ、警告しておく……貴女の我侭な生き方が我々一族に被害を齎すのであれば、我々は躊躇なく貴女を切り捨てることを……それと忠告だ、イルミナティのものが数人、日本に送り込まれた。すでにノゾミのすぐ傍にいるかも知れない。くれぐれもお体を大切に……」

 堂本と呼ばれた男が指を鳴らした。黒塗りの高級車が河川敷の下の国道に姿を現す。運転手もまたダーク・スーツを着込んでいた。
 「お嬢様、人間の世界は陰謀術数が渦巻く世界。我々とは相容れぬ。ビッグ・スリープの計画をぶち壊さぬように……行動には抑制を、我々は常に貴女の影とともにあることをお忘れなく」

 「なんなんだあいつら!? ビッグ・スリープってなんだ?そいつの計画ってなんだ?」
「……今は、なにも聞かないで。いえ、聞いて欲しくない。いつか、ちゃんと、来生君に話せる時がくるわ」
 「分かった、でもこれだけは言っておく。俺は神崎を恨んじゃいない。俺は、俺は、もう平凡な俺じゃない。なにか、そうとてつもないなにかに成れる気がしてるんだ」
「巻き込んだのは、わたしの責任ね。貴方を獣にしたのは、わたし。いい? これだけは忘れないで、貴方もわたしも人から見ればバケモノなのよ。知られたら人は必ずわたしを憎み、忌み嫌う。貴方を抹殺しようとする、そういものなのよ、人知を超えた存在は人の世界では生きてはいけないの。 存在すること自体許されないの」

 ****

 いつもの教室、笑い声が響く。澤木も志田も屈託なく高校生活を楽しんでいる。
 俺は決定的にこの場所から浮いている……すでに、この日常に違和感を抱いていた。日常の尻尾はとうに彼方にあって、俺は非日常の世界に強く惹かれていた。
 しかし、中味がどう変わろうと俺は高校生なのだ。そのギャップが更に俺に違和感を抱かせる。
神崎はいつものように物憂げな表情で窓の外を見ていた。いや、神崎が見ているのは百年の孤独か……。神崎が見ているのは少なくともここではない。

「なにぼけっとしてるんだよ。バスケだぞ今日の体育」澤木はすでにジャージ姿で廊下に立っていた。
クラスの子たちがガヤガヤと教室を出ていく。
 今日の神崎は機嫌が悪い。話しかけても無視される。ヴァンプスにもあれの日ってあるんだろうか?

 体育の時間、男女混合のバスケ。体育の筋肉マン、セクハラ教師と噂の恩田が風邪で休んだため、急遽男女合同になったのだ……偶然神崎と俺は同じグループになった。澤木と志田のグループと対戦する。
「澤木君、手加減してあげて。ただでさえ運動音痴の来生君なんだからね、バスケ苦手なんだからね!」
澤木も志田も俺を見て笑ってる。無理もない。俺は運動が苦手だった。球技は特になんであれ苦手だ。
「分かってるって、誰かジャンプボール頼む」
神崎と志田がセンター・サークルに立つ。ボールがトスされた。志田が一瞬遅れた。
神崎がタップしたボールを俺にパス。
 俺はドリブルし……澤木さえ軽く抜く。「おいおい来生!?お前いつから」フリースローラインが見えた。
俺の身体が勝手に反応した。ダンクを決めた。ボールが床に落ち、隅に転がる。静けさが体育館を包む。
 えっ!? 俺はいったいなにをしたんだ……神崎が俺を睨む。
「ええっ!? き、来生……お前!?」
澤木が驚いた顔を隠さない。クラス全員の視線が俺を見、あんぐりと口を開ける。
「あはは、まぐれだよ、まぐれだ澤木……」
「まぐれってお前、今、ジョーダン張りのダンクだったぞ。そ、それになんだ今のジャンプ……いや待て俺の目がおかしいのか? 俺は夢でも見てるのか?」

「うおおおお、慣れないことしたああ。足痛ええええ、足くじいた」
俺は床にぶっ倒れた。そうでもしないとこの場を取り付くろえないと思ったから。大袈裟に床をのた打ち回った。
 志田がすかさず俺に駆け寄る。委員長らしいいつもの志田の反応。ここにきて固まっていたようなクラス全員がやっと動き出した。
「大変!保健室に連れていってあげる。神崎さん、手を貸して」
「大丈夫、わたしが連れていくわ。澤木君、わたしたち抜きで授業続けて、お願い」
ドリブルしながら澤木が頷く。なんだよ、そんな不審そうな顔して俺を見るなよ澤木……。
「そう? じゃあお願いします。神崎さん」志田が一歩引いた。志田は神崎が苦手らしい。
 神崎が俺を睨みつけたまま腕を貸す。

 体育館を出るとすぐ神崎は俺を放り投げた。廊下の床に頭から落ちた。
「痛ぇええ」
「くだらない! そんな演技したって……澤木君はもちろん、志田さんだって今後貴方を注目するわ。貴方の一挙手、一投足をね。あんなことして、どこまで馬鹿なの!」
「……分からないんだ。神崎からボールをパスされて身体が勝手に動いちゃって、ユーチューブで昔見たジョーダンのプレイが勝手に頭の中、支配して、気付いたらダンクしてたんだ」
「許せない!軽率すぎる。今度、校内で目立つようなことしたら腕の一本くらいへし折ってやるから。いえ、一本じゃ済まない!」
腕組みして俺を見下ろす神崎。本気だった。犬歯が捲れ上がり目が真っ赤に燃え上がっていた。

「やれよ神崎! 今やってみろよ。早く腕をへし折れよ!」
「なんですって!?」
「このままじゃ俺はまたお前に迷惑をかける。俺は、俺は、この力を使ってみたい。なぜ使っちゃいけない?
自分が制御できないんだ! 使いたくてうずうずしてるんだ! 人知を超えた力を得たってのに……なぜおとなしくしてなきゃいけないんだ! 俺は誰よりも強い存在なんだ!」
 哀れむような瞳があった。
神崎の哀しすぎる顔を見ていた。
「……力を行使して人類を敵に回す気? 戦士の孤独を味わうの? 誰一人貴方に見方しないわ。いい一樹、貴方がバケモノだと知れたら、貴方は終わりよ……そんなに死にたいの? 死になさい、勝手に……」

「見捨てるのか俺を……こんな非現実の世界に引きずり込んでおいて見捨てるのか!」
「一樹……貴方はもっと聞き分けのいい子だと思っていたわ。こんな我侭なガキだなんて……」
「くそおお!」開いていた窓から飛び出す。
「一樹!!」神崎の制止の声を無視した。
 一気にジャンプした。二歩で校庭を飛び越え、車道を超え、壁を数歩で駆け上がり二十階建てのマンションの屋上に降りた。

 「口で言っても分からないようね一樹……」
追ってきた神崎と対峙した。
「俺はさ、いまだに身体が変化してゆくのが分かるんだ。増大する力を実感できるんだよ。神崎いずれ俺はお前の力を凌駕する。お前だってそれは分かってるだろ、決定事項だ。殺る(やる)なら今しかないぞ! 俺はこれからも何度もバカなことやらかして、きっとお前を危険に晒す……」

 こんな現実ってあるか? 美少女の神崎と俺が対峙してるのは20階建てのマンションの屋上。制服姿の本気の神崎は俺を殺すかもしれない。
 高校生なんだよな俺たち……俺は死ぬにはまだ早いと思わないか? 十六だぜ、まだ……。
 心の中で何度も自問する……こんな現実ってあるか? 理不尽だろ、こんなの……。
 好きだ! 大好きなんだよ神崎……神崎が俺を値踏みするように見つめる。
「ここじゃ目立つわ。あそこの高層ビルの屋上でケリをつけましょう」
 いつもの神崎の声色じゃなかった。ぞっとするような凄みがあった。
 尻尾を巻いて逃げ出したい衝動、震えていた。こんなことってあるか! 好きな子に殺されるかもしれないなんて!? これを招いたのは俺だ。俺自身だ……これも運命なのかもしれない。
 俺は腹をくくった。
 神崎が飛翔する。すぐに俺も後を追った。

Ⅳ 死闘

 高層ビルの屋上。ヘリポート……俺は、吹きすさぶ強風の中で神崎と対峙していた。
「神崎! 本気なのか、本気で俺を殺すつもりなのか!?」
 無言の神崎……纏うのは俺の高校の三本線の赤ジャージ。そぐわない、なんだよ、このシュールな展開!? 超絶美少女が俺を殺そうとしている。はぁ? こんな殺し屋がいるか!

 「迷うな一樹! 闘う以外に生き残る術はない!」
神崎の渾身の拳が俺の鳩尾にヒットした。
「ぐぇっ!」
臓物が口から飛び出さんばかり激痛で全身が痙攣した。マジかよ!? マジで俺を殺すつもりなのか?
 恐怖から闇雲に出した右腕を掴まれ、捻られ、身動きできない。神崎の素早い肘が顔面を直撃する。
「うぐっ!」血反吐が辺りに飛び散った。
へし折られた右腕が鈍い音を立てた。
「ぎゃああああああ……」
 神崎、手加減してくれよ……俺はまだ成りたてのヴァンプスなんだぜ……自分の力だって制御できないんだ……そんな、そんな、ひどすぎる。泣けてきた……。激痛と、ボロボロになった俺の身体……もう無理だ。
 膝に更に神崎の強烈な蹴りが飛ぶ。膝から下が妙な角度で捻じ曲がった。
もんどりうってぶっ倒れた。
「あはは……折れちゃったよ、左足折れちゃった……それでも愛してるんだ……神崎、好きなんだよー!」
「一樹、ケダモノとはそういうもの! わたしが欲しかったらそのうす汚れた邪な愛とか言う代物よりも腕ずくで手に入れたら!」
 馬乗りになった神崎の拳が容赦なく俺の顔面を粉々にする。
 振り回した俺の拳が偶然に神崎の顎に命中した。
「うくっ!」神崎が吹っ飛ぶ。
唇が切れ、神崎の口元から鮮血が流れた。
「立派よ、一樹……まだ立っていられるなんて……いつか貴方は間違いなくわたしを凌駕するわ」
 俺はやっとの思いで右足一本で立ち上がった。神崎が頑張ったと褒めてくれたからだ。
すでに身体はボロボロだった。血だらけの身体でよろよろと神崎に拳を振るう。
 神崎の強烈な回し蹴りが俺の脳天を直撃した。数十メートル吹っ飛んだ。頭からドロドロ血が流れた。
 立ち上がれない……もう無理だ。ここで愛するものに息の根を止められるのも本望かもしれない。
 いや、本望なもんか……神崎! なんだよこの仕打ちは……到底勝てない俺をどうしてこうまで痛めつけるんだよ!? いや、今殺れと言ったのは俺じゃないか!? 神崎はそれを忠実に実行しているだけだ、忠実に……。

 俺は泣いていた。こんな理不尽ってあるか? この場から逃げたかった。
「神崎……許してくれよー。痛いよー、痛いんだよー。もう止めてくれ……頼むから」

 「命乞いか一樹。なぜあの時わたしを助けた? 運命だと……そう思っていた。愛してるだと……贋物のくせに……わたしは、わたしは……一樹に会えたこと……生も死もわたしが引き受けるといったはず……」
 
 学校では相変わらずきゃっきゃっ言いながら澤木や志田はバスケに興じてることだろう。
楽しい高校生活の只中であいつらは……青春してるってのに……。
 しかし、俺は……血みどろの身体で生死を彷徨っている? それも絶世の美少女に殴る、蹴るの乱暴されて……なんだこの非現実な世界は!? 俺は、ここで、死ぬのか?
 鼻水を垂らし、泣きじゃくりながら俺は懇願していた。
「……死にたくないんだ、神崎……死ぬには若すぎるだろ……うぐっ!」
見えなかった。神崎の鋭い蹴りが俺に止めを刺す。
 数メートル吹っ飛んで外壁に叩きつけられ、血反吐を吐いてぶっ倒れた。
血の混じった涙が無機質なコンクリートの地面に拡がった。

 神崎の足音が近づいてくる。殺されるんだな……俺。
 ぶっ倒れた俺の前に神崎が跪いた。
「貴方は……わたしの恩人。ただ一人の人。強くなって、誰よりも、なによりも。そして、いつか来る命がけの闘いに備えて……わたしを守れる人になって……」

 神崎の嗚咽が俺の頬を濡らした。俺は神崎の懐に抱かれ、大声で泣きわめいた。泣きつづけた。
「貴方を死なせやしない……」
 神崎が俺の返り血をいっぱいに浴びたジャージのファスナーを下ろし、項を見せる。
「さあ一樹……蘇生するの。そのケダモノの牙でわたしの血をたっぷり吸うの。貴方は再生する。わたしの血が貴方のヴァンプス細胞を極限まで活性化させるはず」
 神崎の項が俺の血だらけの顔面に迫った。
 瀕死の俺は神崎に従うしかなかった。いや、従ったのではなかった。生への本能がそうさせたのだ。
 闘うとはこういうことだと神崎は俺の骨身に叩き込んだのだ。
 例え、血族であろうとも闘う本質とは相手を殺し、自分が生き延びることなんだと……。

 痙攣する身体で神崎にしがみついた。項に牙を立てた。
「はうっ……」神崎の荒い息遣いが、俺を覚醒させる。鮮血が神崎の項から鎖骨に流れた。
 それは非現実的な美しさだった。真っ白い神崎の肌に真っ赤な血がふた筋……えもいわれぬ美しいふた筋の流れに死の間際の俺は見惚れた。
 吸血……なんと甘みな響き……それも神崎の血を吸うなんて……全身の血流が生気を帯びる。血中のアドレナリンが沸騰する。
 いきそうになった。これ以上の陶酔感は味わったことがなかった。生々しい生への渇望が目覚めた。
「生きるよ神崎……俺は、お前のために闘い、そして、生きる……」
「生きて、一樹。わたしのために……生き続けて、なにがあっても……」
 俺は忘れない……神崎、お前が流した涙を……俺は命に代えても神崎、お前を守りぬく……。

 ***


 「おお! どうだった来生……足、大丈夫なのか?」
「ああ、なんとかな……」
俺はゆっくりと踝に巻いた包帯を見せる。安堵のため息が漏れた。現実の世界に帰ってこれたから……。
「神崎さんに肩貸してもらうなんて、贅沢よ来生君。保健室で寝てなくて大丈夫なの? 放課後まで休んでいればよかったのに……」
志田が心配そうに覗き込んだ。
「保健の先生が軽い捻挫だって、湿布してくれたの。一晩安静にしてれば痛みも引くそうよ」
神崎の言葉を聞きながら膝から崩れた。外見はほとんど蘇生してはいたが、内臓はいまだ激痛にまみれていた。しかし、この激痛もあと一時間もすれば蘇生されるだろう。神崎の血が俺の中でのたうっているからだ。
「来生、ほら俺の肩貸してやる。神崎重そうじゃんか。それともなにか俺の肩じゃ不満か?」
つくづくニヤケ顔が似合わないやつだな澤木。

 俺は澤木の助けを借りてやっとの思いで席についた。いつものように神崎の後姿を眺める定位置だ。
二人分の血だらけのジャージは神崎が処分した。焼却炉の裏で神崎に助けられて制服に着替えた。
 泣き明かした目が腫れぼったかった。
 あれだけ血を流し、俺を死ぬ寸前まで痛めつけた神崎は、全く変わらずいつもの神崎で、俺はといえば、いまだに内臓の痛みを抱えて四苦八苦。
 しかし、あれだけの大量の出血をしても、俺は生きてるわけで、外見だけ見れば、ほとんど完全に蘇生も終わっていた。
 折れた右腕も、左脚も、今は完全に正常に戻っている。それも、これも神崎の血のお陰なのだろうか?

 『痛む?』
 脳のシナプスに直接送り込まれる神崎のテレパスにももう慣れた。
『ああ、なんであんな本気で殴ったり蹴ったりするんだよ。死んじゃうじゃないか!』
 五時限目英語、今日最後の授業。とりあえずこの時間を乗り切るしかなかった。
 『知らなかった? 新海と堂本が貴方を狙ってたのよ。わたしに何かあれば、貴方はここにいなかったわ』
『分からなかった? 俺は常に監視されてるのか?』
『いいえ、彼らはビッグ・スリープの命令でわたしをガードしてるのよ、一応はね。貴方のことは味方として認識してはいるけれど……わたしにもしものことがあれば彼らは粛清されるわ、きっとね。だからわたしを守ることに彼らの命運がかかってる。わたしがもしも一樹との闘いに負けて蹂躙でもされるようなら……分かるでしょ? だから、本気で貴方を痛めつけなければ、奴らが介入してくる。で、貴方はこの世から消える……』
 『酷いこと平気で言うんだな……でも、いつか俺たちはその……思い続けてればいつかは結ばれるんだろ? 決定事項じゃないのか? どうなんだ神崎』
 『バカ! そんなものいつ決定事項になったのよ! この数百年、ヴァンプスと人間が結ばれたなんて話聞いたこともないわ……』
 『神崎? いったい、いくつなんだよ?』
『前にも言ったでしょ? 女の子に歳なんて聞くもんじゃないって!』

 『うわっ!?』温和だった神崎の精神感応が一瞬にして真っ赤になった。
 敵意だ! 黒板の前から神崎に向かってまっすぐにその敵意は発せられていた。
 その強大な敵意の根源が今、神崎を苛立たせたのだ。

 そいつが今、俺と神崎の目の前で流暢に英語の例文を読んでいた。
 臨時の担任教師、嘉村……。にこやかな仮面の下で確かにこいつの敵意の波動は尋常ではなかった。
 俺は瞬時に理解した。
 一瞬だったが見覚えのある顔……あの神崎を跳ね飛ばそうと突進してきた車を運転していたのはこいつだった。間違いなく嘉村だった。
 神崎をチラ見した。神崎の瞳は憤怒にまみれていた。もちろん、俺もだ。
神崎の口元を見逃さなかった。
無視しなさい。今は、なにもしちゃだめ……と、唇が動いた。
 嘉村は教壇の上から俺と神崎の両方に視線を注いだ。口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。
冷徹な意志を秘めたその笑みを俺はすぐに知ることになる。
 今、目の前に神崎と俺を抹殺しようとする大いなる意志が密かに蠢いているのを、そして、その予感めいた感覚に全身を悪寒が貫いた。


 ****

 放課後、うまく歩けない俺を神崎が心配して付き添ってくれた。外見のダメージはほぼ百パーセント回復しつつあるのだが如何せん神崎の本気の猛攻、受け続けた俺は内臓の各部がいまだにズキズキ痛む。

 人気もまばらな学校近くの神社……俺が回復するまで神崎はここで時間をつぶそうと言う。
あんなことがあったのに俺は能天気にデート気分を楽しんでいる。
 「一つリクエストしていいか?」
「なに?」
「そこのベンチで膝枕してくれよ。頼む一生のお願い」
「バカ!」
 そう言いながらも神崎は大人しくベンチに座る。
「今日だけは許してあげる。貴方を痛めつけたのはわたしの責任でもあるしね」
こんなに優しい神崎が俺を半殺しの目に合わせたとは、なんだか信じられない。今だって目を疑うくらいの美少女っぷりなのだ。
 おまけに神崎の太股は生暖かいときてる。
「バカ! こっち向かないで」
「お前のスカートが短すぎるんだよ! 校則違反だ」
「バカ! 一樹のバカ!」
いつの間にか俺のこと君づけじゃなくて名前で呼んでくれるようになったんだな神崎。俺はうれしい、猛烈にうれしいぞ。

 『じっとして! 動かないで……どうやら長居しすぎたみたい。囲まれてるわ』
神崎の精神感応での会話にもやっと為れてきたってのに、危険信号がビンビン、シナプスに染み渡る。
神崎に押さえられなかったら跳ね起きてたことだろう。
 暗闇から数人の影が俺たちに飛び掛る。
神崎は俺をふっとばし、影を一気に殴り倒した。

 「神崎希!! 止めろ! こいつの息の根を止められたくなかったら、抵抗するな!」
嘉村が数人に捕らえられた俺の鳩尾に蹴りを入れた。
「うぐうううう」
失神しそうなほどの痛みが全身を貫く。よく訓練された傭兵のように嘉村は振舞う。その蹴りも格闘家のそれだった。
 まだ完治してないんだぜ。お手柔らかに頼むぜ。
「一樹にもしものことがあったら許さない。絶対に許さない」
 神崎の愛を感じる言葉。こんな状況だってのに俺は能天気にうれしかった。

「例えばお前を常日頃ガードしている新海と堂本でさえ我々イルミナティには手出しできない。いや、ビッグ・スリープはすでにお前を見限っているのだ。見放したと言ってもいい。
 組織とはそういうものだ。崩壊から守るためには例え、直系の子孫である神崎希、お前ですら切り捨てる。現実を知れ! お前一人が抗ったところで運命は変えられぬ……神と悪魔に見捨てられし一族よ。潔く死を選べ!」
 嘉村の強烈なパンチが俺の顔面にヒットした。
「ふはああ……」
口元から鮮血が飛び散った。

 神崎のその皮膚が怒りに満ち、獣の本性を顕にする。膨張し、亀裂が走った皮膚が裂け、白狼が姿を現す。あまりにも美しくおぞましいその姿に、俺の視線は釘付けになる。
 人が恐れ、人を超えた存在。美しく気高き白狼が本性剥き出しに嘉村たちに襲い掛かる。
「理性を失ったな、神崎! その変身を待っていた。ここがお前の墓場となる!」
 嘉村が、そして、数人のアサシンが一斉に懐からシルバー・バレットを取り出す。
 銃口は全て白狼に変身した神崎の心臓を狙う。
 「撃て!撃てええ!」
 数十発の銅の弾丸が白狼の心臓を貫く。もんどりうった白狼が神崎とフラッシュバックする。
 血だらけの白狼が俺を庇うように仁王立ちでアサシンと対峙する。
 冷たいアスファルトに白狼は崩れ落ちた。しかし、穴だらけの皮膚はすでに蘇生を始めていた。神崎の身体にめり込んだ数発の銀の弾丸がゆっくりと皮膚から押し出され零れ落ちる。

 「早くしろ! 蘇生する前に拘束具を!」
  嘉村が倒れた神崎を羽交い絞めにする。
 「嘉村、きさまあああぁぁ。神崎になにをする!」
 俺の犬歯が勝手に伸び、剥き出しになった。牙は獣の引き金となる。俺は俺自身を制御できなくなっていた。
 アドレナリンが身体中を活性化させる。その原動力は怒り。紛れもない憤怒だ。蘇生力が倍化され、俺はみるみる自分の肉体が復活してゆくことを悟る。なんだこの力は! 

 「人と獣の混血などが生きてゆける狭間などこの世には存在しない。我々イルミナテイは、神の御加護の元、お前たちを抹殺せしとの令を受けている。この世には神に背くものは悪魔だけと決まっているのだ。お前たちの住処などこの世にはない!」

 「わたしたちは、神に背こうなんてしていない! 悪魔にさえ、見限られた種族! 小さな居場所が欲しいだけなの。生きてゆく最小限の居場所が欲しいだけ……」拘束具でがんじがらめの神崎が叫んだ。
 獣に変身した神崎の叫び声に異様な違和感を感じた。
「さすが獣だな、縄張りを要求するとは、いいか、もう一度言う! きさまたち獣に、居場所などない!」
 怒りが俺を殺戮へと駆り立てる。一人殺せば、箍が外れる。それは封印されたケダモノへの一歩を意味する。神崎が警告し、俺を諌めた箍を自ら俺は外そうとしていた。
 俺は解放した。神崎を拘束する数人を殴り倒し、拘束具のままの神崎を片手に抱きかかえたまま、嘉村の首根っこを捕まえた。
「アサシンどもに銃を捨てるようにいえ嘉村! 早くしろ! 首根っこをへし折られたくなかったら」
 俺の剣幕に嘉村は震えあがった。獣人の顔にでもなっていたかもしれない。
 嘉村の首が軋む。
 「銃を捨てろ……お、お前たち……」

 拘束具を引き千切った神崎が俺より早く嘉村に飛び掛った。その首筋に牙を剥く。
「ぐわあああああ!」嘉村、断末魔の悲鳴。
変身したヴァンプス相手では人間など余りにも非力。更に嘉村には武器すらなかった。
 
「……お、お前たちを抹殺しようと送り込まれたアサシンは私だけではないぞ、憶えておけよ……イルミナティよ永遠(とわ)に……」
 嘉村はばったりとコンクリートの地面に倒れた。死に際に口から漏れた言葉は……
「Earth to earth,ashes to ashes, dust to dust……土は土に、灰は灰に、塵は塵に……」
 嘉村の身体が塵となり、灰となって大気に溶けた。
 神崎のテレパスで嘉村は吸血されたのではなく、神崎が自らの血を大量に送り込んだことを知った。
通常の人間の有機的活動では大量に送り込まれた神崎の活性化された血液を処理しきれず、細胞が粉々に分解されてしまうのだ。灰になって嘉村が消えてしまったのはその為だったのだ。
 恐ろしくすさまじい神崎の力。

 残ったアサシンたちが後ずさりする。

 「残りのアサシンの始末は我々におまかせを……」
 新海と堂本がどこからともなく現れた。
「お前たち! 今頃のこのこと……」
 ズタズタの拘束具を纏ったままの神崎が吼えた。怒りが消えうせた瞳が濃い藍色に変わってゆく。同時に獣の擬態が神崎自身を取り戻す。
「希、我々はビッグ・スリープから任を解かれた。ビッグ・スリープは貴女を野に放てとお考えのようだ。あの小僧を眷属にしたことで怒りが頂点に達したようだ。これは我々の最後の仕事だ。希、私たちは、貴女が生きてゆくことを望んでいる……」
 新海がアサシンの群れに向かう。神崎に一瞥をくれて堂本も後を追う。堂本は神崎に特別の感情があるのかもしれない。その眼に憐憫が宿っていたからだ。

Vamp's

Vamp's

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-02-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. Ⅰ 高架線
  2. Ⅱ 光と闇の契り
  3. Ⅲ 生きる為に闘い続ける……
  4. Ⅳ 死闘