ブラザーズ×××ワールド A1
戒人(かいと)―― 01
「兄さん、死にたいのかい」
男の声を聞くと同時に、戒人の意識は覚醒した。
感覚が徐々に戻ってくる――
頬をそよりとなでる冷えた風、背中に感じる硬質な感触。そしてゆっくりと目を開けた先に見えたのは――
建物の合間に浮かぶ――満月。
「……っ」
あお向けに倒れていた戒人の身体がこわばる。
聞こえてきた。何の獣のものかわからない遠吠えが。
それは、はっきり獣のものと断言できる咆哮。荒々しく、猛々しく、獲物を求める本能の叫び。
「チッ……やつら盛ってやがるな」
再び聞こえた男の声に、戒人はそちらを見た。
薄汚れた格好をした無精髭の中年男が立っていた。鼻は高く、髪はちぢれた茶色、そして目は緑に近い青だ。
戒人は気づく。彼が英語に近い言葉を話していることに。幼いころ海外にいた経験のある戒人は、自然とそれを普段の言葉として受け止めていた。アイルランド……もしくはウェールズ? それらのものと思えたが、しかし判然とはしなかった。
「起きな、兄さん」
男が戒人の手をつかんだ。生活の苦労を思わせる節くれ立った荒れた手だった。
まだ頭に霞がかかっているような状態ながら、戒人は男の手を借り、その場に立ちあがった。
そして、男の小柄さに気づく。日本人としては戒人も長身のほうではあるが、それでも西欧人の平均よりやや低めといったところだ。目の前の男が西欧人とするなら、明らかに小柄の部類に入る。
「ほれ、急ぎな」
考える間を与えず、男は戒人の手を引いて走り始めた。
思考がまとまらないまま、戒人はふらつく足取りでそれに付き従った。
石積みと思しき建物の間には石畳の道が伸び、夜の闇を照らすのは男がもう片方の手に持つアンティークなランタンの火のみ。
(ランタン……?)
その気づきが、戒人の心に疑問を芽生えさせた。
ここは……ここはどこだ?
自分はほんのわずか前まで、こことはまったく違う場所にいたはずだ。
靄がかかったように思考がまとまらない。男に手を引かれながら、戒人は必死に記憶を手繰り寄せる。
自分は……自分たちは――
ここでない場所に……自分たちは――
自分〝たち〟は――
「!」
戒人の目が大きく見開かれた。
「兄さん……!?」
不意に手を払われ、男が驚きの声をあげた。
戒人は構わず、
「麗人! 輝人!」
声をはりあげ辺りを見渡した。あるのは隙間なく立ち並んだ石壁のみ。しかし、構わず戒人は声をあげ続ける。
「麗人、輝人! どこにいる! 俺はここだ! 麗人! 輝人!」
「兄さんっ!」
男が飛びつくようにして戒人の口を塞いだ。
その直後だった。
「!」
闇の中を何かが跳ぶのを戒人は見た。
「……!」
そして、気づく。
狭い石畳の道の前後に、闇に潜むその〝何か〟が立ちはだかったことに。
月明かりの下、それは人影のように見えた。しかし、明らかにシルエットが違う。人の身体を一回り大きくしたような……そして夜風になびく全身のそれは――
(獣毛……)
獣――そのイメージが闇に潜む影に輪郭を与えていく。
むき出しの上半身を覆う体毛、人間を明らかに超える太い四肢、闇に炯々と光る目、裂けた口からもれるよだれとうなり声――
(な……なんだ……)
動けなくなる。
異形の存在を目の当たりにし、衝撃が戒人の身体を凍りつかせる。
ハリウッドの最新映画のような光景。しかし、臭い、息遣い、そしてスクリーンでなく自分の目を通して見る感覚が、それを別世界のものでないと戒人に伝える。
「く……」
見ていた。
異形の人影たちは、食い入るように戒人を見つめていた。
その目に渦巻くのは渇望、餓欲、熱情――何かを欲し求めるありとあらゆる感情の色。好餌を前にした獣そのものの目の色だった。
喰われる――
戒人が感じたそれは、人が野に生きていたころの野生の血が告げた未来だった。
ぼうんっ!
「!」
視界がまばゆい赤に染め上げられた。
火――
不意にふくれあがったそれが、闇に潜むものたちを照らし出す。
人と獣が混じりあった絶叫。毛と肉の焦げる臭いが戒人の鼻をついた。
絶叫はいつ果てるともなく続き、全身を火に包まれた異形のものたちは石畳の道を跳ね回りながら逃げ去っていった。
「………………」
戒人は、動けなかった。
火――
それが戒人の記憶をあざやかによみがえらせた。
(そうだ……)
自分は……自分たち兄弟はリゾートホテルの火災に巻きこまれて……。
逃げることもできずに……そのまま――
(捧げてもらおう――其方の命)
「!」
脳裏によみがえる女の声。
そして、そのあとの記憶は――ない。
(俺は……死んだのか?)
思わず自分の手のひらを見つめる。そして、そこに実体があるのを確かめるように自分の身体を抱きしめる。
死んでいるとは――思えない。
自分は確かにここにいる。生きた肉体を伴って。
ただ――
そこはかとない違和感が戒人にはあった。
これは、自分の身体である。しかし、自分の身体ではない。
そんな説明のつかない、他にどう例えたらいいかもわからない奇妙な感覚だった。
「……!」
不意に手をつかまれ、戒人は息をのんだ。
思い出す。薄汚れた身なりの中年男が、自分のそばにいたことを。
「行くぞ。これ以上集まってこられたら手に負えねえからな」
戒人は何も答えられなかった。
聞きたいことはいくらでもあった。しかし、まず何を聞くべきかをとっさに思い浮かべられなかった。
さらに、男の言葉から戒人はあることに気づき、静かな衝撃を受けていた。
あの異形の者たちを追い払ったのは……この男なのか?
爆発するように突如出現し、三体の影を包みこんだ巨大な炎。
爆弾? 火炎放射器? そういったものを戒人はイメージしたが、それらに類する物を男が携行しているようには見えなかった。
目についたのは、手にしたアンティークの四角いランプの火のみ。
そこに何か仕掛けが? しかし、そんなものを古ぼけたランプに仕こむ意味がわからなかった。
もともと、不可解なことははっきりさせないと気が済まない性格だ。
しかし、いまの戒人には、それよりもはるかに大きな気がかりがあった。
(麗人……輝人……)
なぜ自分はこんなところにいるのか? そもそも自分に何が起こったのか?
あらゆることが判然としない中、やはり戒人の胸を第一に占めるのは、血を分けた二人の弟たちの安否であった。
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