ブラザーズ×××ワールド A0
プロローグ 戒人(かいと)
俺の命は、どうなってもいい――
十九年の人生で初めて、俺は心の底からそう思った。
そんな自分に、俺は驚いていた。自分の命はどうなっても構わない。そんなのは、ドラマの中だけの安っぽいフィクションだと思っていた。
けど、俺はいま、確かに感じていた。
恐れも何もない。
俺の中にあるのは、圧倒的な一つの願いだけ。
麗人(れいと)と輝人(きいと)……二人の弟を――
この世でたった二人の――俺の家族を救ってほしい。
状況は絶望的だった。
迫る熱気。たちこめる煙。そして出口はない。
「っくしょお! なんだよ! なんなんだってんだよ!!!」
麗人が絶叫しながら窓を叩き続けている。高層階の窓は、おそらく万が一の事故に備えて頑丈なものにしてある。逆に、救助で外から侵入できるよう割り安くしてあるとも聞くが、それも特別な道具なしには無理だろう。
仮に、馬鹿力だけはある弟が窓を破れたとしても、その先にあるのは確実な死の待ち受ける奈落だ。
どうにもならない。
そして、非常ハシゴがあるであろうベランダへの扉は、なぜか開閉することができなかった。火災の熱による歪みか……扉は不可解に思えるほどに微動だにしなかった。
廊下に出る扉も同様だ。なぜかまったく開閉できず、いまでは触れられないほどの熱を発していた。
外から、火が近づいているのだ。
(なぜ……こんなことに……)
唇を噛みしめる。
悔やんでも悔やみきれない。
両親を亡くし、生活に苦労するほどではないが、それでも余裕のあるとは言えない日々を共に生きてきた三人の兄弟。
そんな一家に、思いがけずおとずれた幸運。
麗人がバイト先の客から、海外旅行のチケットをもらってきたのだ。
そのようなものを簡単に受け取れるはずもなく、俺は麗人を叱るとそのチケットを返すべく、件の客が社長を務めている都心の高層ビル上階にある会社へと向かった。そこで会った年若い社長は、成功者が多かれ少なかれ持つ自尊心とはまったく無縁の謙虚な人物であり、チケットを送った理由も丁寧に説明してくれた。このチケットはもともと自分がキャンセルする予定のものであり、キャンセル料を出すくらいならと店でよくしてくれる麗人にプレゼントしたのだと。
彼は、こちらの家の事情も麗人から聞いていた。同情されたくはなかったが、たまには弟たちを遊びに行かせてあげたらという言葉に心がゆれた。
そして――
俺たちは、南国のリゾートへ初の海外旅行をすることになった。
麗人と輝人は、俺が思っていた以上によろこびはしゃいだ。そんな弟たちの姿に、柄になく俺も胸を熱くした。
それが――この有様だ。
あのとき心を動かされることなくチケットを突き返していたら……いまさら意味がないとはわかりつつ俺はそのことを後悔し続けていた。
「か……戒兄ちゃん……」
「輝人……!」
涙まじりの声ですがりついてきた末の弟を、俺はたまらず抱きしめた。
はかなくふるえる輝人。四つ年下の、まだ十五歳の子どもでしかない弟を、俺はただ抱きしめることしかできなかった。
「戒兄ちゃん……おれたち……死んじゃうのかな……」
「……!」
そんなことはない……そう言ってやりたかった。最愛の弟を襲っている恐怖を、いますぐにも払ってやりたかった。
しかし――
くり返すが、状況は絶望的だった。
「誰が死ぬかよ!」
麗人が声を張り上げた。
「誰が……だっ、誰がこんなところで……し、死んだり……死ななきゃ……」
言葉がつまり、その目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。十七歳の大の男が泣くのは、何も知らない他人から見れば滑稽だろう。
しかし、俺は知っている。
生意気で身体ばかりでかくなったこの弟が、小さいころは毎日のようにささいなことで泣いていたことを。
「麗ちゃん……」
輝人が俺から離れ、麗人に近寄る。
大泣きする兄を見て、自分よりもそれをなんとかしなくてはと思ったのだろう。末の弟の優しさに、俺はどうしようもなく胸をつかれる。
「泣かないでよ、麗ちゃん。おれがいるから……おれたちずっと一緒だから……」
「くっ……輝ぃ……」
がばっと乱暴に輝人を抱きしめる麗人。輝人も小さな身体で麗人を抱きしめ返す。
そんな二人を見て、俺はあらためて強く思った。
死なせたくない――
この……この世でたった二人のかけがえのない弟たちを――
このまま死なせられるものか!
「兄貴……!?」
「か……戒兄ちゃん?」
二人の弟が、驚いた目で俺を見つめてくる。
俺は床に拳を叩きつけていた。
二度、三度。
無意味にただ拳を叩きつける。痛みも、血がにじみ出すのも構わない。何もできない無力な自分への苛立ちを桶は拳に乗せて――
「な、何やってんだよ、兄貴っ!」
麗人に後ろから羽交い絞めにされて、それでも俺はしばらくもがき続けた。
ようやく我に返った。
そして――自分の無様さにどうしようもなく目頭を熱くした。
「兄貴……」
「戒兄ちゃん……」
案じるようにこちらを見つめる弟たちの視線が痛い。
俺は――無力だった。
両親が亡くなったあと、弟たちを守れるのは自分だけだと思っていた。そして、今日まで育ててきたという自負もあった。
それが、この有様だ。
何もできない。あげく弟たちをあぜんとさせる始末――
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」
叫んでいた。
ただ叫ぶことしかできなかった。
こんな無力な……こんなちっぽけな俺の命など――
弟たちのためなら、いくらだって捧げる!
そのとき――
「!」
爆発。
突然の衝撃に、俺はとっさに麗人と輝人の上に覆いかぶさった。
「ぐっ……!」
熱風に頬をこがされつつ目を開けた瞬間、俺はさらなる絶望に突き落とされた。
すぐそばに火が迫っていた。
どこから!? しかし、そんなことを考えている暇はない。早く弟たちを――
「……!」
あらためて俺は絶望に突き落とされた。
逃げ道は――ない。
「ごほっ……ぐっ……げほっ……!」
「苦し……戒……兄ちゃ……」
熱と煙が容赦なく弟たちを責めたてる。二人だけではない。俺もまたその暴威の前に成すすべなく膝をついていた
悔しい……悔しい!
本当にこれで……終わりなのか――
俺だけでなく、弟たちまで!
(……助けろ)
俺は怒っていた。この理不尽な運命に。
祈ることなど馬鹿げていると思っていた俺にここまで祈らせる運命に。
祈っても応えてくれることのない……何かに。
(助けろ! 麗人を助けろ! 輝人を助けろ! 俺の命などいくらでも持っていけ! 俺の命など……命など……)
命など――捧げる!
「!」
光が満ちた。
俺の視界を、炎の赤とは違う色が染め上げた。
消えていく――
感じていた熱さ……苦しさ……すべての感覚が消えて――
俺は――光に溶けた。
(捧げてもらおう――)
声が、聞こえた。
女の声だった。
声と言いながら、俺の耳は何もとらえていない。けど、俺にはそれがはっきり〝声〟だとわかった。
しかも、女の声と。
(捧げてもらおう――其方の命)
悪魔――
薄れゆく意識の中で、その言葉が浮かぶ。
構わなかった。
弟たちを救うためなら――俺の命などいらない。
俺は叫んだ。
(いくらでも持っていけ! 麗人と輝人のためなら!)
何かのうなずく気配がした。
そして〝声〟は宣言する。
(言問は果たされた。此れより其方は妾の――)
(此の〝世界〟のものだ――)
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