誰がために雪は降りしく(深海魚)
目が悪い女の子、意地が悪い男の子。
乾神奈は目が悪い。
誰がために雪は降り敷く
深海 魚
朝の通学路は薄暗い。ひび割れたコンクリートの上で陰鬱に反射している水溜りは、きっと凍っているのだろう。神(かん)那(な)はしかし、少しの躊躇もなく氷を踏んだ。悲しげに透明な音が足元から聞こえてきて、やっと、自分の靴が薄氷を踏んづけたことに気づく。まとまりを失った氷が、淡い朝日に反射してきらめいていた。だが、それを見つめる神那の横顔は、沈んだまま。
彼女は俯いて歩く。車の通らない道路の上、ふらふらと頼りない足取りで、ひとりぼっちで歩く。彼女は今、行きたくもない学校へと向かっている。
ふと、目の前を白いものがちらついた――雪だ。
「…………」
神那は視界に現れた白い影に、目をしばたたかせた。そして、億劫そうに鞄を開き、そこから眼鏡を取りだした。既に家を出て十五分は経っているが、今朝は眼鏡をかけ忘れていたことに、今しがた気が付いたのだった。神那は頼りない足取りで歩きながら、視界に屈折を与えた。その黒縁でいかにも野暮ったい眼鏡は、彼女の無造作に伸ばされた髪と相まって、垢抜けない印象を与えていた。しかし、神那はそんなこと、一向に気にしない。物は使えればそれでいい、というのが神那の考えだった。だから彼女は髪を染めたこともなければ、爪を塗ったこともなく、スカートの長さも高校入学以来、変えたことがない。クラスでは地味で目立たない子という役柄だった。学校にいるときの神那は、まるで影のようだった。色も、温度も、輪郭もはっきりしない、ぼんやりとした暗やみ。けれど、神那はそれを気にしたことはない。それは、自立している、とか、我が強い、という意味ではない。単に、自分を取り巻くものたちに無関心なだけだった。
神那はいつも、下ばかり向いている。見たくないからだ。神那を取り巻く様々なものたちや、色々の人たちを、見たくない。だから、神那の視界には、余計なものは何一つ映らない。映るのは、青白い両手、硬い地面、そして、フィクションを象る文字ばかり。
乾(いぬい)神(かん)那(な)は目が悪い。だから、いつも眼鏡を掛けている。もっとも、彼女は――同世代の子供らが多くそうであるように――近視であるわけではない。神那の視力は悪くなかった。むしろ、良すぎる。
「乾さん」
神那は自分が呼ばれたことに分かりやすく驚いて、はい、と小さな声で返事をした。顔を上げると、中年の女性教師と目があった。神那はすぐに目を逸らした。正直に加齢を反映した目元の皺がはっきりと見て取れた所為だった。
「乾さん、この時の主人公の気持ちは何だったでしょう?」
「あ、ええと」
神那は頭が真っ白になってしまって、俯いたまま、意味もなく教科書を捲った。しかし、答えなどどこにあるはずもない。無数に並ぶ文字ばかりが鮮明に目に飛び込んできて、気分が悪くなった。
「……もういいわ。じゃあ、次、賽川君」
「はい」
神那が惨めに口ごもっているうちに、先生はさっさと次の人を当ててしまった。神那は恥ずかしさに顔を真っ赤にして、強く目を閉じた。いやだ、と口のなかで呟く。神那は当てられるのが嫌いだ。指名されると、途端にそれがどんなに簡単な問題でも、わからなくなってしまう。自分の席で、自分の世界に閉じこもっているうちは冷静でいられるのに、たまに誰かが邪魔して、神那を外の世界に引っ張りだす。それが、神那は嫌で、嫌で、たまらなかった。顔をあげたら見えてしまう。神那の見たくないものが、否応なしに視えてしまう。だからいやだ、とまた、口のなかで呟いた。学校は嫌い、見たくないものまで、私に見せるから。
乾神那は目が悪い。それは視力がという意味でなく、むしろその逆で、見えすぎる、ということだ。神那は普通の人より何倍も目が良くて、そのせいで、何もかもが見えすぎてしまう。彼女は病的に精緻な世界に、うんざりしていた。もはやこれ以上、眼球に走る毛細血管や、宙を舞う不快な埃、机の上の無数の傷など見たくはなかった。だから、彼女はある時から、顔を上げることをやめたのだ。必要のない眼鏡を掛け、前髪を長く伸ばして、いつも足元を見ている。空も、鏡も、友達も、見なくなった。神那は自分の世界だけを見ることに決めた。そして、いつからか他人も、そんな彼女を見ることを止めたようだった。
神那は夜が好きだ。月明かりは余計なものを照らさない。だから、眼鏡を掛けずとも外に出られる。いつしか、夜の散歩は神那の日課となっていた。最初は口うるさく注意していた母親も最近は何も言わなくなった。もとより、素直な気象の母親は無口で気難しい神那を持て余していたようだったので、内心ほっとしているのかもしれなかった。
「天の海に 雲の波たち月の舟」
神那が歩くのは、比較的街燈の少ない、山の近くだった。危険だとはわかっていたが、あまり明るくては意味がない。彼女は結局いつも、自分の安全より視界の自由を優先した。実際、夜目がきくのでそう不安でもない。何より、月と星に彩られた夜の世界は限りなく魅力的だった。俯いてばかりの神那が唯一、前を向ける時間帯。ひやりと冷たい夜の下を歩く時、神那はまるで、この夜すべてが自分のものだ、としばし空想した。それほど、枷のない視界は喜びにあふれ、幸福に満ちていた。
「星の林にこぎ隠る――」
「あの」
神那は反射的に足を止めた。浮かれた気分は一瞬で霧散し、重苦しい沈黙だけが残った。今、確かに誰かに呼ばれたような気がする。しかし、振り向くことは恐ろしい。頭のうしろがキリキリと痛み、指先が凍る。心臓の音ばかりが煩く聞こえた。
「乾さん、だよね」
私の名前を知っている! 神那は尚更、振り向けない。かなり若い男の声、ということは、クラスメイトだろうか。見られた、恥ずかしい、どうしよう。いや、それより、どうして高校生がこんな時間にこんなところにいるのだろう、でもそれを言うなら私だって同じだ――神那は現実から逃げるように、些末なことに考えを巡らせた。しかし、後ろから近づいてくる足音が容赦なく神那を現在に引き戻した。いよいよ身体が強張り、呼吸が浅くなる。神那は目を強く、閉じた。
「ねえ、どうしたの。俺だよ、同じクラスの賽川」
賽川――どこかで聞いた。しかも、つい最近。神那は恐怖を忘れて、目を開けた。無邪気に丸い目がすぐそこで待っていた。
「ひっ……」
「やだな、そんなに怖がることないのに」
反射的に一歩退いた神那に、賽川はちょっとだけ笑ってみせた。子供みたいな笑い方をする、と神那は思い、案外冷静な自分に気づく。そうだった、と神那は思いだした。この賽川という男子は今日、神那の後に当てられていた生徒だった。しかし、その賽川がなぜ、こんなところにいるのだろう――
そう思った矢先。
「乾さん、どうしてこんなところにいるの」
言いたいことを先取りされて、神那はすこし腹がたった。神那は毎日この時間にここにいる。そして、運が良ければこの辺に住んでいる野良猫と遊ぶのだ。イレギュラーは賽川の方だ、と神那は思った。
「賽川君こそ、どうしてこんな時間にここにいるの」
今が夜でなく、神那が眼鏡を掛けていたとしたら、こんな言い方はしなかっただろう。しかし、自分の習慣を乱されたという怒りもあって、神那を妙に積極的にさせていた。普段ならば、こんな踏み込んだことは絶対に尋ねない。
賽川はそんな神那の態度に驚いたように、しかし相変わらず笑顔は崩さぬまま、軽く答えた。
「俺は、ちょっと散歩だよ」
「ふうん……どうして」
「たまたまだよ。眠れなくてね」
妙に、胸騒ぎがした。それは賽川の穏やかな態度が、あまりに夜に似合わないせいかもしれない。神那にとって夜は特別だから、いつも通りの方がかえって不自然なのだ。
次第に警戒を強めていく神那にまるで気づいていない、というように、賽川は神那に尋ねた。
「乾さんこそ、どうしたの。散歩にしても、女の子が一人でいていい時間じゃないよ」
「心配ありがとう。でも私も、散歩なの。いつものことだから大丈夫」
「いつも……そうだったんだ。それじゃ、俺たち、仲間だね」
賽川は目を細めた。それは今までの笑顔とは少し種類の違うもののようだったが、どう違うのかははっきりわからなかった。ただ、その笑みに――笑みと、仲間という言葉につられたように、神那も微笑んでしまって、神那は慌てた。そして、気恥ずかしさを誤魔化すように言った。
「あの、この場所、猫がいるから、それ、で……」
そこで、神那は気づいた。
毒気のない笑顔で佇んでいる賽川、その両手は暗闇の中に巧妙に隠されている。もし神那が眼鏡を掛けていたら、それに気づかなかっただろう。けれど、不幸にも今は夜で、神那は眼鏡をかけていなかった。今、神那の眼にははっきりと映っている、それ。
「それで? 乾さん、どうしたの」
不自然に途切れた言葉を促す賽川の声に、特別なものは感じられない。それが、今見えている姿とあまりに似合わなくて、神那は堪らなく恐ろしくなった。
「あ、あなたの、あなたの、」
声が震えた。上手く言葉にならなかったのは、動揺と、不安、そして嘘であってほしいという脆い期待のため。
賽川は、ああ、と納得したように頷いた。そして、はにかんだように笑いながら、下ろしていた手を片方掲げて見せた。
「えへへ、ばれちゃった。暗いからわからないと思っていたのに」
その手は、黒く濡れて光っていた。つんと鼻につく鉄のにおい、間違いなく、間違いなく、血液。
「あ――」
神那は、もうすこしで悲鳴をあげそうになった。しかしそうは出来なかった。視界が揺れ、賽川の癖のある髪がはっきりと映って、唇に刺激。
「ごめんね、でもあんまり騒がれたくないので」
賽川はすぐに身を引いた。離れ際、頬を軽く撫でられる。容量限度を超えた頭でどうにか、口づけられたらしい、ということだけはわかった。そんな場合じゃないのに、初めて、という言葉が浮かび、溶けた。
「それじゃ、俺は帰るね。このことは秘密にしておいてくれると嬉しい。あと、夜遊びはほどほどにしといたほうがいいよ」
夜は、危険がいっぱいだから――そういう賽川の声は、楽しそうに弾んでいた。彼は、呆然と立ち竦む神那にあっけなく背を向け、血に濡れた左手を軽やかに振ってみせた。
と、横顔が振り返る。一瞬だけ、その瞳が何かを反射し、鮮烈に光った。その閃光はまっすぐに神那の網膜を焼きつくし、消えない像を結んだのだった。
「そうだ、乾さん、下の名前は?」
神那はその質問に、半ば無意識に答えた。
「神那……乾神那」
「そう、かんな。漢字は?」
「神に那覇の那」
「ありがとう。神那」
に、と賽川の口の端が上がった。賽川ってこんな生徒だったかな、と神那は疑問に思った。こんな、つくりものじみた笑い方をしていただろうか。わからない。なにせ神那は人に無関心だから、教室での賽川を知らないのだ。
賽川は最後に、と前置きして、言葉を放った。
「きみ、眼鏡はかけない方が可愛い」
それじゃね、と言って、賽川は今度こそ本当に去っていった。賽川の後ろ姿が完全に闇に消えて、神那はようやく我を取り戻した。
「さいかわ……」
口に出してみると、ますます夢のように感じられた。しかし、唇に残っている感触がたしかに現実を告げている。神那は思いたって、さっき触れられた頬をこすってみた。赤黒い血が手に移った。やはり、夢ではない。
神那はどうしていいかわからずに、夜空を見上げた。空気は済んでいたが、月は隠れてしまっていた。これ以上散歩を続ける気にもなれなかったので、来た道を戻り始めた。歩きながら、賽川の下の名前を聞き忘れたな、などと、そんなことを考えた。
ふと、目の前を白いものがちらついた――本日二度目の、雪だ。
「雪……賽川、ゆき」
なんとはなしに口に出してみた。それは当たってはいないだろうが、あながち間違ってもいない気がした。さいかわゆき、というのは、悪くない響きだ。さいかわゆき、さいかわゆき。口に出してみる。なぜだかおかしくて、神那はちいさく笑った。なんておかしいんだろう、さっきまであれほど怯えていたくせに、今はなんだか、明るい。
明日は眼鏡をつけないでいよう、と神那は決めた。あんなに嫌だった景色が、なぜだろう、今はさほど気にならない。街燈の下で、コンクリートのつぶつぶが一斉に目に入ってきても大丈夫だ。先ほど焼き付いた賽川の眼光が、神那の眼球を作り変えたみたいだった。
「天の海に 雲の波たち月の舟 星の林にこぎ隠る見ゆ」
お気に入りの歌を口に乗せて、神那は夜の街を横切っていく。降る雪の結晶、そのひとつひとつの形を、微細に映しながら。
雪が溶けることを忘れ始めたころ。神那は、再び夜の下にいた。
「賽川君、久しぶり」
やや癖のある後頭部がゆっくりと動いて、黒い双眸が神那を見据えた。口の端が歪み、あの日の夜を思い出させる。
「乾、神那だね。久しぶりではないんじゃないかな。クラスは一緒だろ」
「うん、でも、夜に会うのはこれで二度目だから」
神那が一歩近づくと、賽川が立ちあがった。足元には何か転がっていて、その手はやはり、血に濡れていた。
「賽川くん、また、殺したのね」
猫殺し。
神那の鋭い声に、賽川はにっこりと笑った。
市内の野良猫が次々と殺され始めたのは、ちょうど一か月前。神那と賽川が出合った、丁度あの頃からだった。極めて事務的な手口で猫の腹を裂くことで、犯人は同一人物だろうと目されていたが、まだ犯人は捕まっていない。今のところは。
「眼鏡、やっぱり、ないほうが可愛い」
賽川は、相変わらず子供のような笑顔で笑っている。昼に学校で見る賽川と、何ら違いはないようにすら思える程だった。しかし、三分前、彼は誰もいない公園で、猫の腹を裂いていたのだ。
「賽川くん」
神那はさらに一歩、近づいた。賽川がすうと目を細める。
「来ない方がいいよ」
「どうして?」
「君は猫じゃない」
賽川の顔から一瞬だけ笑顔が抜け落ちて、能面のような無表情が現れ、すぐにもとに戻った。猫の血に塗れた包丁の切っ先は、過たず神那の喉元を捉えていた。
神那は息を飲む。しかし、目を逸らしはしない。
「痛いのは、きらい」
「そう。それなら帰ったほうがいいよ。夜は――」
「危険がいっぱいだから?」
神那は唇で笑ってみせた。その目はいつだって鮮やかすぎる景色を捉える。過敏な視力は神那にとって苦痛でしかなかった、以前までは。でも今はもう違う。神那は見ることを恐れない。無秩序に乱れた外の世界で、見るべきものを知ったからだ。神那の視界でただひとつ価値を持つもの、賽川の瞳、その光。
「ねえ賽川君、あなたの名前を教えて」
「どうして……」
「教えてよ。私、あなたの名前が知りたいの」
賽川は眉根を寄せ、当惑したような顔をした。ややあって、口を開く。
「ゆきと……幸せの人、で幸人」
「賽川、幸人」
近からずとも遠からず、と神那は心の内で密やかに笑んだ。やはり賽川には、ゆきが似合う。神那を貫いたあのときの光、あれは、太陽を反射する白雪のそれに似ていた。
「ねえ、幸人。あなたの遊びに私も混ぜてよ。私たち、仲間なんでしょう」
賽川は首を傾げてみせた。神那の意図を測りかねている、というように。
神那は賽川から視線を離さず、突き付けられていた包丁の切っ先を、軽く咥えてみせた。黒く変色した猫の血が神那の唇を穢す。
賽川の瞳が大きく見開かれる――あの夜のように、黒い瞳はなにかを反射し、激しく煌めいた。
ああ、と神那は嘆息する。その輝きを待っていた。それが見たくて、こんなことをしているのだ。神那は所詮、安全で無刺激なことに興味はないのだ。欲しいのは刺激、危険を伴う変化、つまり、
「幸人、私あなたが欲しいの。ちょうだい、私に、あなたを」
賽川は、手にした包丁を引くこともできずに、神那を見つめて呟いた。彼はもう笑っていなかった。その宝石のような双眸だけが、彼の意思を秘めて瞬く。
「わかんないな……乾神那、どうして、君は」
「わからない? それなら教えてあげる、私がこんなことをする理由、あなたを欲しがる理由」
神那が包丁から口を離すと、賽川はもう、包丁を向けてはこなかった。神那は確信をもって賽川に歩み寄り、その腕で彼を抱きしめる。
「私は夜が好きだから、です」
君と私と猫の死体に、雪は降りしく。白い欺瞞が溶ける前に、私はあなたを手に入れて見せる。
神那はそっと目を閉じ、夜に微笑した。
誰がために雪は降りしく(深海魚)
もっと設定をうまく使いたかった。