Night prince and Moon Princess

夜王子と月の姫

それは昔々のお話。

世界が生まれたばかりで人間がまだ出来たばかりのころのある王子様のお話です。

王子様は生まれたばかりのまだキレイな世界から生まれたとてもキレイな人でした。

キレイな王子様は世界が大好きでした。

そして世界が大好きな王子様は人間たちも大好きでした。

毎日、毎日、王子様は散歩をします。

それは世界が好きだったからですし、人間たちが大好きだったからでした。

毎日、毎日、王子様は散歩をします。

王子様は人間が大好きです。

でも、王子様は人間を見たことがありません。

散歩を毎日するのに王子様は人間を見たことがありませんでした。

毎日、毎日、毎日毎日。

やっぱり人間は一人もいません。

ある日、王子様は思いました。

「ぼくは嫌われているのかな?」

そんなことはありません、人間たちも王子様が大好きでした。

でも、人間たちも王子様の顔を知りません。

王子様の名前は夜王子。

誰も起きることのない夜の神様です。

人間は夜になると眠ってしまいます。王子様は夜になると起きてしまいます。

だから人間達は王子様の顔を知りません。

だから王子様は人間達の顔を知りません。

毎日、毎日、王子様は散歩をします

毎日、毎日、毎日毎日毎日……。

ある日、王子様は思いました。

「人間が…悪いんだ………」



その日から王子様は変わってしまいました。

王子様は夜の神様です。

人間は夜、決して起きてはいません。

「人間が悪いんだ…」

まるで祈るかのように王子様はその言葉を言い続けます。

「人間が悪いんだ…」

まるでライオンのように王子様は人間を食べ続けます。

気が遠くなるまで人間を食べて、のどが潤うまで町を壊し続けます。

毎日、毎日、毎日毎日毎日……。

人間達は王子様を怖がるようになりました。

でも、人間は夜、起きてはいません。

でも、王子様は夜、起きています。

人間達は言います。

「王子様は壊れてしまった」

そう、王子様は壊れてしまいました。

人間を食べて、町を壊して。

毎日、毎日、毎日毎日毎日。

地面は真っ赤に染まり、世界は真っ赤になってしまいました。

世界は言います。

「王子様は壊れてしまった」



ある日、王子様はいつものように外に出ました。

やっぱり人間は起きてはいません。

地面は真っ赤でした。

王子様は言います。

「人間が悪いんだ…」

でも、そんな中、丘の上に白い色が見えました。

王子様は丘の上に向かって夢中で走りました。

毎日、毎日、毎日毎日見ることのなかった人が今、丘の上にいるのです。

早く会いたい、早く会いたい。

そう心の中で言いながら丘の上まで走りました。

丘の上には一人のお姫様がいました。

お姫様は泣いていました。

王子様は言いました。

「君、何で泣いているの?」

お姫様は少しびっくりするとゆっくり後ろを向きました。

「あなた、誰?」

真っ赤な王子様は優しく微笑んで答えます。

「ぼくは夜王子。君は?」

真っ白なお姫様は静かに微笑んで答えます。

「私は月の姫。誰もいないから寂しいの」

王子様はやっぱり微笑みます。

「ぼくがいるよ。ぼくも誰もいなくて寂しかった」

二人は手を握りました。

二人は初めてタイオンというものを感じました。

二人は初めてシアワセというものを感じました。

二人は初めてセカイというものを嫌いました。



その後のことはあっという間でした。

二人は毎日夜に会います。そして一緒に散歩をします。

人間はやっぱりいません。

地面はやっぱり真っ赤です。

でも二人はもう一人ではありませんでした。

二人は一つになれたのですから。

とても楽しい時間。時間がないのだと思ってしまうほどに二人は幸せでした。

でも、時間はやっぱりそこにあったのです。

王子様が壊れてしまってから、世界もだんだんと壊れていってしまったのです。

王子様は世界のかけら。

そのかけらの形はいびつで決してパズルにはまりません。

なら、パズルは一生、一度も完成しません。

世界は決めました。

「リセットしよう」

雲は血のように赤くなり、空は夜よりも夜らしい。

世界の“始まりのための終わり”が来てしまったのです。

王子様は走りました、初めて会った場所に、お姫様に会うために。

二人が丘に着いたのは一緒でした。

二人一緒に丘の上についたのです。

消えてゆくお姫様は言います。

「王子様と離れ離れになるのはいや。世界なんて大嫌い」

消えてゆく王子様は言います。

「お姫様、ぼくたちはずっと一緒だよ。世界が終わっても離れ離れなんかじゃない。

世界が終わってもきっと君を迎えに行くよ。だから世界を嫌いにならないで」

世界は終わります、二人を丘に残して。

世界は終わります、二人をずっと一つのままにして。

昔々の、ある王子様とお姫様の小さな恋のお話です。

One week -1-

ー1ー

長針が12を指した。その回数は20回目を数え、夜と呼ばれる時間帯に入っていた。夜の天蓋が空に掛かり、あたりは月の光と星の光を頼りに静かに存在をこの夜に示すのみだ。草木や山々、海に至るまで全て物が夜に染まり、まるで寝静まっているかのように静かだ。海には暗い闇が掛かり、光り輝いているのは月を反射し、穏やかさを示すさざ波だけが海を海であると感じさせる。植物達は昼の息吹を沈め、ただ風にそよがれ、静かに眠りへと誘う葉音を奏でるのみだ。

そんな中でレシオンは静かに目を覚ます。

目を覚ました少年はその夜の中で月の光を受け、静かに輝く金色の髪を体とともに地面に寝せていた。美しい金髪とは対照的に、身にまとう外套の色は全てを包む夜のそれだ。輪郭を成す容姿は対照的な出で立ちで、薄く開く眼の間からは美しい碧眼がのぞき、その容姿はまるでこの夜の晩を全て身に宿しているといって違いなかった。

そんな少年は丘の上で目を覚ます。薄手でも寒さを感じない春夏の夜ならそれもまだ不思議ではないのかもしれない。しかし、レシオンが目を覚ますその丘の季節は既に秋を迎えている。

レシオンが住む町の名はアーク。イリス大陸の東側に位置し、大小様々な山に囲まれた内陸の街だ。夏の暑さをどこかに忘れて来たような肌寒さは丘だけではなく、冬が訪れる前にいささか早い寒さが街を染めていた。寒さは冬を連想させ、秋の色が丘を染めているにも関わらず街の者達は寒さで日暮れで丘を後にする。そんな場所に数分前までレシオンはまるで当然のように眠っていた。街の者からすればその光景はまさに異様だっただろう。黒い外套は幾分か寒さを凌いでくれるだろうか。しかし、それを差し引いてもレシオンの服装は冬を連想させるこの丘では寒さに対して無防備としか言いようがなかった。故に彼の姿は異様だった。

誰から見ても異様で、その姿は世界から見ても…。

「またやってしまったか…」

レシオンは頭を掻きながら身を起こす。それは自分の悪癖に対するいつもの仕草だ。

”満月の夜になるといつの間にか丘の上で寝ている”

幼少期からの悪癖でレシオンはどうしてもそれを解消できずにいた。どんなに深く眠ろうと、部屋に鍵をかけようと満月の夜になると月の見える丘に登り、そこで眠りに就き、数時間の後に目を覚ます。義姉に連れられ、医者にかかった事もある。

夢遊病の一種ではないでしょうか。

医者は頭を抱えた末に、そう義姉に伝えた。今住んでいる町とは異なる、首都の名医にかかってもその程度の事しか答えられない。義姉は全く納得する様子もなく、他に何件の名医様に連れて行かれたが、少年は義姉ほどその症状に悩まされてはいなかった。17を迎えた現在でもこの悪癖を悩みの種と考えた事はなかった。雨の日や天候の悪い日には丘に登る事はなかったし、危険な目に合う事もなかった。丘に登り、体調を崩した事もない。悩み、恐れるほどその悪癖は少年に悪意を持って発症したのではないと思っていたのだ。

だから、この悪癖に少年は義姉の為に悪態をつく。

「また姉上に心配をかけてしまう」

再びレシオンは頭を掻く。今度の悪態は悪癖を治そうとしない自分に対する物だ。気が済んだような表情をすると少年は飛び起き、一度丘の下を見下ろす。見下ろす海や自分の周りを取り囲む丘は先ほどと変わる事なく静かだ。月の光も変わらず、彼を癒している夜だった。先ほどと変わろうとしていたのは街の方だろう。

街には中央に一本の線が見える。教会通りだ。丘の下に立てられた星の中で最大規模の宗教”教会”のアーク教会。その教会からのびる大通りを街の者達は教会通りと呼んでいた。街は教会通りを中心に南北に分かれ、南側は住宅地、北側が工場などの生産業の他にも様々な商業施設などが軒を連ねる。対照的に分かれた二つの地域は教会通りで初めて交わる。そんな街は今、眠りにつく準備を始めていた。会社が建ち並ぶ北側は建物のライトが消え始め、南側の明かりは眠りの時間を告げるように点々と少なくなり始める。

少年が丘を下ると開けた教会通りにおりた。教会通りは道幅が広いが車の通りはなく、露店や多くの商店が軒を連ねる大通りである。露店のほとんどは生鮮食品などを扱い、道端の店を営む所は宿屋や雑貨屋など様々な店が並んでいた。商店はもちろん、武芸の教室、様々な医院や飲食店などこの街の者達が利用する施設のほとんどが教会通りに集約されていた。
しかし、レシオンが丘を下った時間は午後9時過ぎ。ほとんどの店が店じまいを始めていた。秋とはいえ、冬を感じさせるこの季節に長い時間営みを続ける店は少ない。だが、少年にとってはその方が良かった。この街を少年は嫌っている訳ではなかったが、幾分、幾分だ、少年は人との関わりに恐怖に似た物を感じていた。

「よう、坊主。今帰りか?」

「あぁ」

そんな会話とも呼べるかもわからないほどにレシオンの返事は短く、関わりを拒んでいるかのように感じさせるほどに冷徹さを感じさせる。だが、そんな返答をレシオンに話しかけた街の者はいつもの事と少し残念そうに店じまいを進める。丘に登る悪癖よりも十分にこの悪癖の方が重症だと彼を知る者はそう思ってしまう。それほどまでにレシオンの他人への対応は“冷たい少年”と言われるのがほとんどだった。

それほどにレシオンの悪癖にも近い他人への壁は生半可な物ではない。

そんな彼が店じまいを進める商店の横を通り過ぎ、教会通りを数百メートルほど進むとまだ営業中の花屋があった。花屋の名前はロ・ブリーナ。レシオンはその花屋の前で止まるつもりだったかの様に静かに足を止めた。
それに気づいたのか、レシオンと同じ年頃の少年が奥から抱えきれないような量の花束を持って現れる。

「よう、レシオン。随分遅いな、今日も丘にいったのか?懲りないっつーか、なんというか」

「悪かったな、クルス。しかし、今日も随分遅くまでやってるな。花屋でこんな時間まで営業している所なんてそうそうないだろ」

先ほど前を通り過ぎた商店の店主とは全く違った接し方だった。お互いを知り、お互い挨拶を交わすのがまるで当然で約束されているかのようにその挨拶はレシオンにしてはとても自然だ。レシオンの顔を見るとクルスは花束越しに満面の笑みで話を続ける。

「花買ってくか?」

「随分唐突に、そして勝手に、花を勧めるな。とっくに俺が花を買う季節は過ぎた。知っているのに押し売りするんじゃない」

「まぁ、そういうなって。別にネイティスさんに余分に買っていつ来ても大丈夫なようにしておくってのもありだろ?ちょうどつぼみがつき始めたぐらいの花も揃ってるしな」
クルスは満面の笑みで自分が持っている巨大すぎる花束を勧めてくる。と、いつものやり取りを交わす。街を歩いていた時のレシオンとは明らかに表情が違い、安心して話すようなそんなやわらかな表情だった。数少ない心を許せる友人。レシオンにとってクルスはそんな存在なのだろう。レシオンの表情をみると安心したのか、クルスは抱えていた花束を花瓶代わりのバケツに静かに生けた。

「学校ではなんとなく元気なさそうに見えたけど、そんな事ないみたいだな。そうだ、俺もこれで仕事終わったし、うちで飯でも食ってかないか?リドアも喜ぶ」

「いつも世話になってる。今日ぐらいは大人しく帰るさ」

「別に気にするこたぁねぇよ。寄ってけ寄ってけ、ほらほら入った入った」

「お、おい」

クルスはレシオンの手を引き、店の中へと入っていくと勢い良くシャッターを閉めた。古びた鍵を無理矢理まわすと錆び付いた施錠の音がなる。それを確認すると仕事着のまま店の奥へ直行していく。レシオンはそれを追うではなく、ゆっくりと店内を見ながら歩いた。

ロ・ブリーナの店内は広くはない。家族で花屋を営み、クルスの曾祖父の代から続く街の中では老舗と呼ばれる花屋だ。そんな街の住人から愛される店ではあるが、決して店を大きくするつもりはないらしく、曾祖父の代から店の名前、店の間取り、店の設備全てをそのまま使っていた。そんな狭い店の中は壁中にまるで絵画のように花々が並び、花独特の香りが広がっていた。赤、黄、紫、青など色とりどりの花からはそれぞれ違った香りが漂い、決して混ざる事なく、しかしそれでいて調和された香りを放っていた。

街の眠りの時間も近づいているのだろう。静かに水を注ぐ水道の音はもちろんだが、昼間は外の雑多な音にかき消されていた花達の呼吸も聞こえてくるように静かだ。そんな静かな店内でクルスはいきなり上の階に向かって叫ぶ。

「リドアーーーーーー!!!レシオンが来たぞー!!」

「ちょっと、お兄ちゃん。びっくりするでしょ!!」

「リドア」

「レ、レシオンさん!!ど、どうしたんですか、こここ、こんな時間に・・・あっ!!」

クルスの叫び声への怒りはどこへ行ってしまったのか。リドアはレシオンの顔を見ると、突然の来訪に驚いたのか足を滑らせ、階段を数段落ちて、レシオンとクルスの前で尻餅で着地した。いたたた、と小さく漏らすとリドアは自分の目の前にいるレシオンに再び驚く。

「あ、れれれれレシオンさん。なんか・・・その・・・すみません・・・」

「いや、気にするな。俺の方も突然、現れてしまってすまない」

「そ、そんな事ないです。レシオンさんならいつでも大歓迎ですよ!」

「そうか、そういってもらえると助かる」

薄く微笑むとレシオンは視線をそらして頭を掻いた。これは感謝なのだろうか、悪態なのだろうか。おそらく前者であろう。そんな二人のやり取りを全く気にする様子もなく、クルスはリドアを責付いた。

「そんなことはいいからよ。リドア、飯出来てるか?」

「うん、すぐ食べられるよ。あ、でもお兄ちゃんはちゃんと手を洗ってね」

「なんだよ、人をばい菌まみれみたいに言いやがって。こいつだって、さっきまで丘に居たんだから、ばい菌まみれだぜ?」

「レシオンさん、手洗いの場所わかりますか?」

「あぁ、大丈夫だ。ありがとう」

「おいおい、レシオンには優しいなぁ、おい」

「お兄ちゃん、うるさい。早く手洗って来なよ」

「へいへい」

ーーー数分後。

レシオンとクルスの二人が戻ると食卓には既に夕食が用意されていた。クルスとリドア、そして二人の両親の分食器が置かれ、そこにリドアがレシオンの分の食器を持ってくる。その食器は真新しく、黒を基調とした食器だった。客人向けの高級感というより、趣向に合わせた物というようなそんな食器だった。

「はい、これがレシオンさんの分です」

「ありがとう。なぁ、リドア。最近まで違う食器を貸してもらっていたと思ったんだが・・・」

「え!?えー?そうでしたっけ?」

その様子を見ていたクルスがにやついた顔でレシオンを小突いた。

「お前の分だよ。先週リドアのやつが買って来たんだ。大事に使ってやれよ」

「そうなのか。すまない、気を使わせてしまって。なるべく、馳走になるのは控えるようにする」

「バカ、そうじゃね———・・・」

瞬間、クルスがレシオンの視界から消えた。そして、いつの間にかリドアが拳を振り切った状態で固まっている。その一連の出来事があまりにも一瞬で、全く気づく事が出来なかったレシオンは数秒後、クルスが壁端に置かれたゴミ箱に突き刺さっていた事にやっと気づいた。リドアの機嫌を損ねたクルスはリドアの拳のもと、ゴミ箱へ召されたのであった。気づけば、食への感謝の気持ちなのか、クルスへの供養なのだろうか二人の両親は両手を合わせている。

「(リドアは怒らせないようにしよう。どこかの馬鹿並みにパワフルだ)」

「それじゃ、食事にしましょうか」

———一時間後

全員は食事を終え、食卓の片付けを始めていた。

「お兄ちゃん、食べ過ぎ。レシオンさんの分まで食べたでしょ!?」

「いいじゃねぇかよ、そもそもこいつは小食なんだ!それに店番手伝ったんだから、それぐらい食う権利はある!」

食事が終わった後もーーー片付けをしながらではあったが、兄妹喧嘩を継続していた。レシオンは口を挟む事なく、静かに二人の様子を見ながら片付けを手伝う。これもいつもの光景だ。二人の両親はもう見慣れてしまったのか、16歳と17歳のほんの些細な小競り合いにはもう口を出す事はない。

「そういえば、レシオン。今日は早退してたけどなんかあったのか?」

「…いや、別段何かがあった訳じゃないんだ」

「なんだ、親父さんから連絡でもあったのかと思ってたのに」

「なんというか、体調が優れないというか。胸が締め付けられるような感じがしたと言うか…」

今日、レシオンは丘に登ってしまう数時間前まで学校にいた。成績が悪い訳ではなかったが、話していたように早退する事が月に数回あった。成績、運動、体調共に不良な所は見当たらない分、友人としては気になるのだろう。しかし、クルスはレシオンが答える事以上の事を詮索する事はしなかった。いつものように…。

「そうか」

の一言だった。何かあったら必ず言ってくる。クルスはそう信じているようにレシオンに不要な詮索をする事はなかった。だから、レシオンもクルスを警戒する事や拒絶したりはしない。自分が欲しい存在がココにあるから。

食事の片付けも終わり、クルスが時計を見やると時刻は22時をとうに過ぎていた。

「っと、もうこんな時間か。レシオン、送ってくぜ」

「気にしなくて大丈夫だ、一人で帰れる」

「そういうな。じゃあ、お袋。俺、レシオンの事送ってくるわ」

「あ、おい。ご…ごちそうさまでした」

二人の両親に見送られながらクルスに玄関まで案内されると後ろからリドアも階段を下りて来ていた。上から厚手の服をを羽織っている。どうやら一緒に見送りにいこうとしているようだ。

「あ、私も一緒に」

すると、クルスはまるで既にその行動が分かっていたかのように素早く人差し指を立てた手でリドアを静止した。

「今日は飯ぐらいで我慢しときな。じゃな」

「あ、お兄ちゃん!」

「また学校でな、リドア」

ロ・ブリーナを出て、教会通りを背に街灯がまばらな細道へ向かう二人。教会通りはもちろんだが、細道に立ち並ぶ家々もすでに眠りにつこうとしていた。食卓の明かりは既に薄暗く、みな寝室の明かりを灯す時間だ。街灯の少ないこの道ではどちらかと言えば月明かりの方が二人を照らしていると言えるだろう。

月明かりに照らされる少年達は先ほどと比べ少々口数が少なかった。一方はどこからか取り出した飴を舐めながら空を仰ぎ、もう一方は何かを言いたそうに言葉を探しているようだ。

そんな中、口を先に開いたのはレシオンだった。

「なぁ、クルス」

「なんだ?」

「本当の兄弟や家族って言うのは、やっぱりいいな…」

おそらく、食事の礼をしたかったのだろう。少し照れているようなその表情は、自分の中で友人に対する言葉がうまく見つかっていないと自覚しているからだ。

「そうだろうさ、うちの食事の時間は近所でも有名なぐらい騒がしいからな」

「原因のお前が言うな」

「そういえば、最近教会に行ってるか?」

「いや、元々行くほどの用事もないしな」

「まぁ、何があったとかではないんだけどな。親父とかが忙しい時、教会に教会通りの商店協会費を持ってくんだけどさ、最近牧師さんが変わったんだよ」

「それ、前に年に三回ぐらいあるって言ってたやつだろ」

アークの中心街、教会通りに店を構える商店は協会を作り、教会に身近な土地で商売を出来る事に感謝をしているという名目で会費を納める。ロ・ブローナも教会通りに商店協会に属し、年に数回協会費を直接教会に持って行っていた。クルス曰く、教会の牧師は年に数回代わるらしく、変わる度にクルスはレシオンに今回の牧師は良い奴だ、今回の牧師は変わり者だと変わる度に報告していた。

「で、今回はどんな牧師だったんだ?」

「…不思議な人だった」

「…それは変な奴だったってことか?」

「いや…、そうじゃねぇんだ…」

レシオンはクルスの言い方に若干の違和感を感じていた。基本的に相手の事を直接的に話すのがクルスの話し方だったが、その牧師の話をするときは自分の中で言葉を選びきれていないような表情だった。

「それはどういう…」

「おや、本日は随分お帰りが遅いと思えば、こちらでしたか。レシオン様」

「あ!おぉ、アリシアさんじゃないですか。こんばんは」

どこから現れたのか、ロングスカートのメイド服を纏ったメイドが突然月夜の小道に現れた。アリシアと呼ばれたメイドは、整った顔立ちに銀色の髪を靡かせ、纏う服は黒と白のメイド服だ。その姿は町中に住まう者達と比べると異質でどこにいても気付かれるような格好だが、気がつけばそのまま夜闇に消えてしまいそうな危うさを感じさせる。

「こんばんは、クルス様。私がお迎えに行かなければならない所をわざわざこんな所までお見送りいただいてしまい、大変申し訳ございません」

「いやいや、アリシアさんに迷惑かけたくないだけっすよ」

「左様でございましたか。私のような身分の物にそのようなお気遣い、重ねてお礼申し上げます」

メイドは流麗なお辞儀をして、クルスに感謝を示していた。その様子をレシオンは静かに見ていたが、突然外套を翻し、一足先に帰路に向かった。

「帰るぞ、アリシア。クルス、また学校でな」

「おう。レシオン、明日は学校くるんだよな?」

「あぁ」

「それでは、クルス様。私も失礼いたします」

街灯のみが照らす道でクルスに見送られながらレシオンとアリシアは暗闇の道に消えて行った。

−*−

大通りから大分歩くと、もはや街灯はなく、全ては月に照らされながらも黒一色になっている。昼に見られる色とりどりの景色は見る影もなく、不気味さすら感じる時間だ。

そんな中、金髪の少年と銀髪のメイドは何も言わずに静かに歩いている。黒が支配するその中に月に照らされ唯一輝きを放つのはその二人だ。街の住人達が見たら幽霊とすら思うのではないだろうか。現に横を通り過ぎた2、3人はぎょっとした顔で通り過ぎて行った。しかし、そんな事を気にしている様子は二人には無く、歩幅も一定に着実な足取りで自宅へ向かっていた。その静寂を破ったのは、レシオンだ。

「アリシア、いつも急に現れるなと言ってるだろ」

「お言葉ですが、レシオン様。こんな夜遊びをしておいて、あなたに仕えている私にも連絡も無く、何かあったらどう責任を取るつもりですか?」

「なんで俺が、なんの責任を取らなくちゃいけないんだ」

「コノス様からの信頼が無くなったらどうするんですか、という話です。わかりませんでしたか?」

「だったら、父上に仕えれば良いだろうが。俺はそもそも一人で此処で暮らしたいんだ」

「それ、コノス様に言えますか?」

「ーーーーーーーーーー」

レシオンは言葉を失った。ラルドフォール家に養子になってから10年近くになる。レシオンは養子にしてもらった事の感謝を忘れた日はなかった。だからこそレシオンは、養父であり恩人であるコノスに自分の要求ばかり伝える事はしたくない。それを知ってか知らずか、いやアリシアは知っているからレシオンに言っている。

「レシオン様、お返事を返していただいてもよろしいでしょうか?」

「ーーーーー…、さっさと帰るぞ」

「畏まりました」

レシオンは先ほどよりも歩を進める速度を上げていた。アリシアの言葉が気になっての事だろう。今の自分にそんなことを言う権利も理由もないと知っているから。

20分ほど歩いて自宅の前についた。アークの中心街からは少し離れ、レシオンが頻繁に登る丘とはおよそ反対側に位置する場所だ。アークはイリスの中でも田舎町と言われる事が多い。その中でも近代的な建築として、白を基調とした建物で部屋数は20を数えるレシオンの屋敷は噂の対象だった。

「コノス様もなぜレシオン様にこんな立派な建物を…つくづくコノス様はお優しい…」

「うるさい、早く確認しろ」

「はいはい」

屋敷を見上げ、一呼吸置くとアリシアの双眸が異なる色に光る。その光は一方は緑に一方は赤に光っていた。しかし、その光は一般人にもレシオンにも見えない光だ。それは魔術の光。赤い光は屋敷を照らし、緑の光は見えざる壁を静かになぞった。瞬き一つせずにアリシアは言葉を紡ぎながら、光を放っている。

「外壁に設営した結界は健在、術式解除の痕跡も見られず。屋敷の結界も同様に健在。問題ございません。どうぞ、お入りください」

「そうか…。…ありがとう」

「おや、今日は三ヶ月に一度の感謝をいただける日でしたか」

「黙ってろ」

屋敷に入ると、自動で電気がついた。門からは見る事の難しい奥行きに長い室内はフローリングの廊下に白い壁で外観に似た清閑な印象の室内だ。掃除は隅々まで行き届いているようで、汚れを探すのが難しそうなほど。そこからはアリシアの日々の努力が感じられる。広々とした玄関から直線に伸びる長い廊下を進むと、リビングに出る。ソファーや観葉植物、壁に設置された大型のテレビなど室内にきれいに配置された家具はきれいに整っているが、掃除が行き届いているというよりも使用感がない物寂しさがあった。

「お休みなる前に何か飲まれますか?」

「いい、そのまま寝る」

レシオンはリビングから4カ所もある階段の1つをを上りながら一瞥もせずに言葉を返す。しかし、その方向はアリシアが振り返った方向とは違う方向だった。

「畏まりました。ところで、そろそろ物置ではなくてご自分のお部屋でお休みになられたらどうですか?」

「ベッドはある。あそこが落ち着くんだ、俺の勝手だろ」

「旦那様が聞いたらお嘆きになるでしょう…」

そんな言葉を背中に受けながらレシオンは部屋へと消えて行った。

その姿を確認するとアリシアはリビングの片隅に置かれた豪奢な電話に近付き、番号をまわす事無く受話器をとった。しかし、電話から音は鳴っていない。

「ご連絡遅くなってしまい大変申し訳ございません」

しかし、その電話の先にはアリシアの主が待っていた。

「旦那様」

電話の先の主、それはコノス・ナキ・ラルドフォール。星の三大名家に数えられるラルドフォール家現頭首で星の魔術師を統括する魔術同盟に属し、イリス大陸の統括を行っている大物だ。レシオンの養父であるが、レシオンの希望によりレシオンはアーク、コノスは大陸の中心部ヴィーリアに住んでいる。そんな両者の間をつないでいるのがメイドのアリシアだった。一日の終わりにアリシアは必ず、コノスに一報を入れる。それはメイドとしてレシオンに仕えているからであり、アリシアがコノスに心酔しているからでもあった。

「アリシア、今日レシオンに何か変わった事はあったかい?」

様々な称号を持つ大物とは思えぬ、穏やかな口調だった。アリシアもその話し方に同調したのか、レシオンと話している時とは全く違った口調で話す。

「はい、特に変わった事はございませんでした。本日は満月の日でしたので丘に登ってらっしゃったようですが、怪我も無く、帰り道ではクルス様のお宅で夕食を召し上がられていたようです」

「そうか、クルス君か。彼はいつもレシオンの事を気にかけてくれるな。親として、申し訳ないが有り難い限りだ。アークに立ち寄った際には声をかけさせてもらおう。申し訳ないが、アリシアからクルス君にはいつもありがとうと伝えてもらえるかな?」

「…はい、畏まりました。…ただ、そのクルス様ですが教会の新しい牧師に面識があるようです」

その言葉を聞くと、電話越しにだが明らかにコノスの雰囲気が変わった事が分かった。

「そうか…、おそらく地域協会の用事でだろうが…洗礼を受けた様子などはあったかい?」

「いえ、そのような気配はございませんでした」

「わかった。こちらでも調査を進めよう。頼みっきりになってしまうが、レシオンの事をよろしく頼んだよ」

「はい、旦那様」

「それではおやすみ、アリシア」

「おやすみなさいませ、旦那様」

メイドは受話器を置くと使用人室に向かった。時間は深夜だ。廊下は暗い、扉はもちろん自分の歩いている場所すら危ういほどに暗い。しかし、そこに向かう足取りに迷いや夜に対する恐怖を感じなかった。凛とした姿、そんなメイドはいつの間にか暗闇に消えてしまっていた。

全てが眠りにつく時間。屋敷の周りは虫の鳴き声のみ。空には多くの星々と夜の天蓋を穿つ月が輝いていた。

満月の夜が眠りにつく。静寂の中に静かな胎動を秘めながら…。

One week -2-

ー2ー

既に冬を感じさせる風が吹くいつもの丘。

何もかもがいつもと同じだった。

だが、そう何も変わっていなかったはずの日常だった。

そんな夜、俺は彼女に出会った。

初めて出会ったはず、だったのに・・・。

「久しぶり、救世の王子様」

まるで旧友のように彼女は俺に話しかけた。

ー*ー

俺は気付いている。

今、俺が見ている物は夢なのだと。

悪い夢だ。

昔の事を無理矢理に思い出させる夢。

忘却を許さない過去の記憶だ。

一面に広がるのは炎。

俺達の使っていた食堂。俺達が使っていた勉強部屋。俺達が使っていた寝室。

それら全てが真っ赤な炎に包まれている。

そこに居るのは俺一人。

俺達のほとんどは炎の中だ。

悲鳴は聞こえない。

ただそれは生きている者が居ない証なのだろう。

それをただ見つめる。

感慨も、感傷も、感憤も無く、ただ見つめていた。

そして、気付くのだ。

彼女が何者かに■■されている事に。

「■■■■■■ーーーーーーー」

彼女が何か言っている。

でも、その声は俺には聞き取れない。

炎は俺の事を包む事は無く、やがて俺は彼女に包まれる。

—————そこで目が覚めた。

「またか…」

寝起きは最悪の一言だった。結局、昨晩は横になっても落ち着かず、そのまま壁に寄りかかったまま寝てしまっていたのだ。だが、眠れたのならばそれで良かった。心や体、全てが休まる必要は無い。ただ、肉体的に回復できれば支障はないのだから。

アリシアに物置と呼ばれるこの部屋は四方をただ壁で囲み、物置とはいっているものの物置を使うほど物欲を持たない我が家では、物が無く広さだけで言ってしまえば客間を一回り小さくしたほどの広さを有していた。寝床を置けば、俺にとっては事足りる。

しかし、問題があるとするならこの部屋には窓が無い。おまけに時計も置いていないので何時なのかその場で判断するのは難しかった。何度もアリシアに言われている事だが、何度も言われてる分置くのが癪だったのが本音だ。まぁ、おそらくは朝なのだろう。アリシアが起こしにこない所をみると登校時間に支障の出る時間ではないことは確かだ。なら、日課を行う事にしよう。

壁にかけてある木刀を持ち、廊下に出る。

階段のそばに設けられた物置からは階段の上からリビングが望めた。我が家で最も陽光に照らされる場所、ガラス張りのリビングでは時間をおおよそ計る事が出来たが、光は弱く、おそらく4時か5時か、それぐらいの時間だろう。

リビングの戸を開け、外に出る。広々とした庭では屋敷の仲では感じる事の出来なかった寒さが蔓延していた。もう、冬がやってくるのだろう。

黒い稽古着を着て、木刀を振るう。幼い頃に叩き込まれた動きを何度も忘れる事の無いようにひたすらに再生し続ける。

いつか必ずこの力が必要になる事を俺は知っている。

それは今朝の悪夢と同じ事が起きた時に欲しても無駄なのだから。

基礎を終え、靴を脱いだ。大地を感じ、風を感じ、己を感じる。そうする事によって己の身は高まっていく。先生にそう教えられた。

素足で地面を踏みしめると血が脈動するのが分かる。風を感じると刃の行く先が感じられる。そして、自身の力の感じる事によって鍛錬の行き届きが分かる。全ての力が循環し、その循環が強まる事によって、自分が高まって行く事が分かる。

己が身で振るえる剣は少ない。そう教わった。

「相変わらず演舞のように見事な鍛錬ですね」

「お前が褒めるとは珍しいな、アリシア」

ほんの数分前からリビングから見ていたアリシアが鍛錬の終わりを見計らってタオルを持って来てくれていた。普段は口を開けばろくな事しか言わないこのメイドもこういった所は心底気が利くと思う。

「いつもそう思っておりますよ、口に出さないだけで。どうぞ、そろそろ冷える季節になります」

「助かる。だが、お前がそんな風に言っていると裏があると感じてしまうのはきっと俺だけではなく、父上もだろうな」

「旦那様はそのようなことお考えになる方ではございませんよ。あの方は裏を見計らずともお強いのですから」

相変わらず口の減らないメイドだ。ああ言えばこう言う。

「朝食はお召し上がりになられますか?もう6時半頃ですが」

気付けば陽も登り、庭の全景が見渡せるほどに辺りは明るくなっていた。汗もかいているようだし、食事にはちょうどいい時間だ。

「あぁ、頂こう」

「あ、でもその前にシャワーは浴びてください。汚いですから」

今日の目覚めはやはり良くないみたいだ。

ー*ー

シャワーを浴びてリビングに戻ると既に朝食の準備がされていた。

食卓は大きく、8人ほどの人数が使えるようになっているが客間と同じくその椅子達が使われる事は稀だ。父上達がアークに来られた時やクルスが押し掛けて来た時ぐらいにしか使われない。もっとも父上や姉上は世界中を飛び回る身で忙しく、クルスも家が遠いし、実家の手伝いもあって、そう頻繁にくる事はない。それ故にこのテーブルが本懐を遂げる事は容易ではないのだ。

食事の用意された一脚の椅子に座ると既に俺が戻ってくる時間を知っていたかのようにキッチンからアリシアが料理を持って来た。

「今朝のお食事はビボルフォ地方の食材で揃えてみました」

「ビボルフォとは随分健康思考だな。それとも通販にでも目覚めたのか?」

「いえ、普段はアークの物で取り揃えるのですが、旦那様がレシオン様にと食材を送ってくださいましたので、おいしく召し上がれるうちにと思いまして」

相変わらず父上は律儀な方だ。世界中を飛び回りながらも俺やアリシアの事を気にかけてくださる。

実際、ビボルフォの食材は科学的な技術を使う事をせず、健康志向な金持ち達には人気が高く、ましてや同じ大陸内とはいえ、飛行船で10時間もかかるアークとの距離を考えれば、この地域でビボルフォの食材を求めるのはよっぽどの物好きだろう。

「そうか、父上は今ビボルフォにいるのか」

「明日にはエリノクスだそうですよ」

「健康に気を使うのは俺よりも父上の方が先なんじゃないのか」

「それだけ、レシオン様を大事にされてらっしゃるのですよ」

純粋に、うれしかった。天涯孤独の身だった俺を養子にしてくれただけではなく、アークに残る事を許し、屋敷まで与えてくれた。そんな父上には出来る限り心配はかけたくない。昨日の夜の症状だって姉上にバレてしまった事ですら、悔やまれるのにそれが父上に知られたあの日の事は本当に悔やまれる。

「ところで、食事の味はいかがですか?出来立てで食べられるようにタイミングを計ってお出ししたのですが」

「わかってる、いちいち言わなくていいだろう」

「そうでしたか。レシオン様の事ですから気付かれていらっしゃらないかと思いまして」

急かされるような形になったが、朝の鍛錬で腹は空いていた。そして、料理の出来ない俺にとってアリシアの料理は無くてはならない物だ。その食事を無駄にする事は出来ない。

一口、前菜から口に運ぶ。見た目は普通のサラダだ。いくらアリシアと言えど有機野菜というだけで舌の肥えていない俺に味の違いを分からせる事は…。

「……うまい」

「そうでございましょうとも!何と言っても旦那様が送ってくださった食材なのですから」

今なら自分を立てれば良い物を父上を立てるとは。いい性格というべきなのかなんなのか。

「いや、しかしこうも違う物なんだな。純粋に食材の違いという物を思い知った」

「食事は作る者の感情が移ると思いますが、食材も同様です。食材を作ってる方々の気持ちが移って、違った味になります。メイドになる為に様々な食材に触りましたが、やはり違ってくるのはそういった人の気持ちなのでしょう」

「……人の気持ちね」

「ですから、レシオン様も旦那様やクルス様方にはお気持ちを素直にお伝えしていいと思います。昨晩もお伝えし辛かったのではないですか?」

随分痛い所をついてくる。昨日の夜だって、もっと正直に伝えたかった。でも、それを自分の中でせき止めてしまう。深い関わりという物が怖いから。

「お強くなろうとしているのはその為なのではないですか?」

「——————。……今日は随分おしゃべりだな」

「えぇ、そういった気分なのです」

「…そうか」

「ところで、今日は何かご予定はございますか?昨晩のように何の連絡も無く帰りが遅くなってしまうのは困りますので」

「一言余計だ。予定は特にない、すぐに帰ってくる」

俺がそう返すと、アリシアは若干肩をすくめて返答して来た。

「そうですか。そのお言葉真実である事を祈ります」

どうやら俺の返答には納得してないようだ。露骨に見て取れるほどのリアクションをしやがって、滅多に話さないような事を話したかと思えば、相変わらず嫌味なメイドだ。

「うまかった。夕食も期待している」

「はい、期待して早く帰って来てください。あと、制服の準備はこちらです。着替えがお済みの頃には出発できるようにしておきますのでごゆっくり着替えていたいて大丈夫です」

あぁ、と一言返答して物置に向かった。黒をベースにブルーのラインの入ってる制服に袖を通し、ネクタイを締めれば準備は完了だ。制服はアーベルト学園の物で、服にはあまり頓着しないつもりだがこの制服は気に入っていた。袖に腕を通せば、今日も一日が始まったのだという緊張感すら生まれる。

父上がわざわざ推薦状を書いてくださり、俺がアークに住みたいと言った事からアーベルト学園の入学が決まった。なら、俺は精一杯の努力をすべきであるし、家の名に恥じない振る舞いをしなくてはいけない。俺にとって学園はただ時間を消費する為に行く場ではなく、父上に感謝する時間なのだ。

時刻は6時半。今ぐらいに出れば諸々都合がいいだろう。

物置のドアを開け、外に出る。鍛錬の時に出た時よりもリビングには日が射していた。下ではアリシアがこちらを見上げながら…あいつの事だ、二度寝の心配でもしているのだろう。

何も言わず階段を下りると手元にほこりを払う為のブラシを持っているアリシアが待ち構えていた。数度、両腕にブラシをかけ、俺を無理矢理一回転させ確認すると満足げに笑った。

「今日もラルドフォール家に恥じない身だしなみです、レシオン様」

「行ってくる」

今日も一日が始まった。

ー*ー

学園は屋敷から徒歩で20分ほどの距離だ。教会通りを跨ぐ事無く山沿いの道、学生達からは裏門通と呼ばれる道をひたすらに歩く。早朝に近い時間の為、通学の学生も車もまばらだ。もう30分ほどすれば賑わいが出てくる通りだが、俺はあまり人気の多くないこの時間帯が好きなのでちょうどいい。

早め出発したのが功を奏したか。という事を考えながら歩いていると後ろから猛烈な走る音。嫌な予感がする。

「よぉーーーーーーーーーーーーーーーーーー、レシオン!」

右足を半歩左へ。前方で盛大な砂埃をあげて、スラインディングをして止まるクルス。

「避けるんじゃねぇよぉ!!」

「なんでそんなにうるさくて元気なんだ。せっかく早く学校に来て静かに昨日出来なかった宿題を済ませてしまおうと思っていたのに」

「へっ、そんな事だろうと思ったぜ!俺も昨日店の手伝いで出来てねぇんだ…頼む、見せてくれ!レシオン」

そんな事だろうと思ったよ。啖呵を切るようなポーズをとったと思ったらあっという間に土下座している俊敏さ。

「これはこれで褒めるべき物なのかもしれないな」

「は?どういうこと?」

これもいつものやり取りだがこいつには何度も借りがある。早退した時の授業や連絡事項などを伝えてくれるのはいつもクルスだけだ。それを考えれば、この程度の事は借りを返すにも値しないのだろう。

「別に良いさ。早く行こうぜ、宿題が終わらないかもしれない」

「お、サンキュー。助かるぜ、レシオン!持つべき物は友達だな」

「随分厚かましい友達も居たもんだ」

「まぁ、そう気にするなって。ところでよ、昨日リドアがなお前が帰った後に…」

他愛の無いやり取り。

先生とともに旅をしてからアークに戻って来たのは15の冬頃だった。それまで同じ学び舎で勉強した学生達は既に仲間の輪が出来、俺のような余所者は中々その輪の中に入れなかった。

そんなある日だった。

教会通りに買い物に来た時だった。路地裏で声がしたので見にいってみるとクルスとリドアが数人の男達と口論になっていた。どうやらその場で聞く限り、言いがかりをつけられた二人が路地裏に連れて行かれ、クルスが泣きじゃくるリドアを男達から庇っている様子だった。

素知らぬ振りも出来たがその時はなんとなく気になって、

一人投げ飛ばした。

数秒間、何が起こったか分からない様子のクルスだったが、俺の視線に気付くと一人居なくなった所から駆け出し、俺と一緒に男達から脱出した。3人で教会通りを走り、ロ・ブローナの前で二人は走るのを止めた。

ーーーーーーホントに助かったよ。なぁ、この後時間あるか?よかったら家寄ってけよ、礼をさせてくれ。あ、俺はクルス。よろしくな。

クルスとはそれからの付き合いだ。もう2年になる。

それからというもの、同じ学園という事もありクルスは何かと俺を気にかけてくれる。部活に参加したり友人が多く居るにもかかわらずに。

「礼をしたいのは俺の方だけどな」

「なんかいったか?」

「いや、何も」

「そうか」

裏門通りにはまだ人はまばらでまだまだ増える様子も無い。このまま行けば10分程でつくだろう。

「さっさと学校に行こう。宿題が待っている」

「そういう言い方はナシだぜ、レシオン〜」

「そんな事言ってると、終わらないぞ。早くしろ」

クルスの愚痴や馬鹿話をしているといつの間にか学園が見えてきた。アーク有数の進学校アルベート学園だ。

山沿いの道を遮るような広大な敷地。視界に飛び込んでくるその巨大さは、首都の学園の大きさと並ぶほど。学校選びには俺だけならいざ知らず、父上、姉上、アリシアまで参加されたのは今でも俺の苦い思い出の一つだ。


山沿いの道は正門からは遠い為裏門にあたる門から入るがこのまま行けば図書館が近い。正門につながる教会通りからの道を比べると込み合わない上に何かと都合がいい。裏門には警備員が一人いた。アルベート学園は学生に学生証の携帯を義務づけており、正門はもちろんだが裏門を通る際にも学生証を提示しない場合学園に入る事は出来ない。俺が学生証を提示すると警備員が一礼のもと、俺を通してくれた。少し歩くとクルスがいない事に気がつく。後ろを振り返ってみると、裏門の前で手こずっていた。
「おい、クルス。まさか学生証忘れたのか?」

「ま、まさかぁ…」

あからさまに慌てている。どうやら、クルスの奴…。

「忘れたな…。すまんが、先に行くぞ」

「お、おい。待ってくれよ、レシオン!」

「…ちゃーん!」

図書館に向かおうと向き直ろうとすると後ろからクルスの後ろから声が聞こえて来た。クルス、感謝しろよ。こんな優しい妹を持って。

「お兄ちゃーん!学生証忘れたでしょ!」

陸上部仕込みの走り方でクルスを後ろから追いかけてくるリドア。うん、良いフォーム。これなら次の大会も優勝できそうだ。

「すまないな、リドア。こいつに取りに行かせれば良かったのに」

「い、いえ。お兄ちゃんがだらしないのが行けないんです」

「おい、お前ら。あんまり俺を悪く言うんじゃない」

「お兄ちゃんがいうんじゃないの!」

「いってぇぇぇぇぇ!」

俺よりも圧倒的に速いスピードでクルスに平手打ちを決めるリドア。昨晩も驚いたが、あれを毎日受けているのか。クルスも俺と同じような毎日を過ごしているんだな…。

「お疲れ」

「そう思うんだったら見てないで助けろよ、この野郎」

「まぁ、そのうちな」

「さ、さぁ、レシオンさん!行きましょう!」

リドアに促され、俺とクルスは図書館へと向かった。

ー*ー

裏門から図書館までも少し距離がある。大学クラスの蔵書量に設備も整っている学園の図書館は近隣の町から学園の図書館の為だけにアークを訪れる人までいる程だ。それだけに学園の出入り口からは離れて設置され、広大な土地を使っている。そして、図書館は校舎よりも豪華に作られ、こんなにも豪華な図書館が果たして学生が使い果たせるのかという疑問すら浮かんでくる。

建物が豪奢だからか、それとも本当に蔵書されている図書の希少価値からか。おそらく後者の問題だが、図書館に入るには学校内に入る以上に警備が厳重だ。図書館に近付くと裏門以上のセキュリティが待ち構えている。まず、学生証によるICチェック。次に警備員による手荷物検査、ボディーチェックを通り、やっと図書館に入る事が出来る。

「いつも思うんだけどよ、こんなに警備厳重な必要あんの?」

「アークの他にある図書館と比べて蔵書量と希少価値がある物があるからな。それを知っている人からすると、これでもザルなんだってよ」

「学生からするといい迷惑だぜ。学生証のパスだけでいいじゃねぇか」

「お兄ちゃん、変な事言わないの。後ろ詰まってるんだから早く行ってよ」

俺、クルス、リドアの順で警備を通り抜け、図書館に入る。

中央部分は図書を所蔵している図書区画。蔵書量の為に図書区画から伸びる4つの渡り廊下を進むとガラス張りの閲覧区画だ。閲覧区画はただの鉄骨で支えているのではなく青銅の柱に所々金の装飾が施されている。

「調べる物がある訳でもないし、今日はまっすぐ閲覧区画に行こうぜ」

「おう、そうだなって…。すまん、俺は本探してから行くわ」

「ん、部活の為に必要なのか?何だったら手伝うぞ」

「花の名前を俺より覚えてからそういう事言え。リドアと先に宿題やっといてくれ。そうすれば俺は写すだけでいいからな」

「ちょっと、お兄ちゃん。そうやってレシオンさんに任せっぱなしにしないの!」

「後でどうなっても知らんぞ?」

「かまいやしねぇさ。じゃ、いい席取っておいてくれよ」

そういい残すとクルスは図書区画に消えて行った。

「行くか、リドア。ココにいてもしょうがない」

「そ、そうですね!行きましょう!」

そういうとリドアは先に閲覧室の方に向かった。しかし…、足と手の運びが一緒だが大丈夫なのだろうか。

裏道同様閲覧区画に人影はなかった。警備員も俺達が図書館に入ろうとした時に驚いていたぐらいなのだから当然と言えば当然か。基本的にこの時間に図書館を使いにくる物は少ない。昼休みや放課後に使う者は見かけるが、時間的にもこの時間は人が少なくて助かる。

「あの席にしよう」

若干奥まった場所にある4人がけの席を指差して、俺とリドアは対面する形で席に着いた。

閲覧区画は9つの方尖柱の場所だ。天井の先端に至るまでガラスと青銅の柱が連なり、一面の景色を見渡す事が出来た。中央の柱には螺旋階段が付いており、そこを登って行くと個別閲覧室がある。6階まで螺旋階段は各階3つずつの個別閲覧室に続く。そのなかでも最上階である6階の閲覧室でその高さからの景色は街を一望できる事から最も支持が高いが、螺旋階段を6階分登る学生は中々いない。その為、支持は高いが空きが多いと矛盾した場所となっている。

「今日は6階に行かないんですか?」

「あそこの席は二人掛けだしな」

6階の閲覧区画は学校の中で最も気に入っていた。調べ物がある時は必ず6階の閲覧室にいる。図書館の高い所にあるという事もあり、静かで、考え事をするには最適だし、あまり人が上がってくる事も無い。だから、学校で息苦しくなるとそこにいる事が多かった。

クルスもリドアもその事をよく知っているから二人とも顔を出してくれる。俺にとって図書館はいつでも落ち着ける場所なのだ。

「今日はリドアもいるからココの方がいいだろう」

「す、すいません。私が急に来たから」

「いや、構わないさ。むしろ、あいつの忘れ物を届けてくれてありがとうな」

「そんな!レシオンさんが悪い訳じゃないのにそんな…」

「優しいな、リドアは。クルスも兄貴なんだからもっとしっかりするべきなんだがな」

俺がそういうとリドアは少し俯き加減に返答して来た。

「お兄ちゃん、昨日も家の手伝いしてて…。お兄ちゃんは楽しそうだけど、私も手伝わなきゃいけないのに…」

「でも、リドアはしっかり家事を手伝っているだろう?それも大事な事さ」

「部活に出てるとどうしてもお店の手伝いが出来なくて…。でも、お兄ちゃんは部活にもちゃんと出て、お店の手伝いもしてるんです。私じゃ、ちょっと真似できない…」

「二人とも俺からしたらずっとしっかりしてる。俺は家事もまともに出来ないし、部活にも入っていない。そんな俺とは比べ物にならない程に二人は努力家だ。自信を持て。まぁ、クルスの忘れ物癖は早めに治させた方がいいぞ」

「あはは。そうですね、ありがとうございます。話聞いてもらったら少し楽になりました」

「抱え込みすぎるな、リドア。俺で良かったらいつでも相談に乗る。

「はい、ありがとうございます」

俯いていたリドアが顔を上げて柔らかに微笑んでくれた。少しは力になれたのだろうか。

「よし。じゃあ、はじめるか。リドアはもう終わってるんだったな」

「はい。昨日のうちに半分ぐらいは終わらせたんですけど、わからない所があったので教えてもらえると嬉しいんですけど…」

「あぁ、構わない。わからない所になったら教えてくれ」

閲覧区画には俺達の筆記用具を走らせる音のみが響いていた。渡り廊下で隔てられた巨大な建造物の中に俺達二人のみ。他の音は全く聞こえてこない。

20分程経っただろうか、俺の方の宿題は概ね終わりそうだった。リドアの方を見るとどうやら問題に苦しんでいそうな表情だ。

「リドア、わからないところでもあるのか?」

「あっ、いえ、もう少しで解けそうなんですけど…」

「どの問題だ?見せてみろ」

「えっと…、この問題なんですが…」

見てみると一年生の頃に割と苦戦する問題だった。そういえば、この問題はクルスにも教えながら解いた事があったなと、ふと思い出した。

「クルスと同じ所で躓いているな。この辺は兄妹といった所か」

少し微笑ましかった。しかし、それを聞いたリドアは少し頬を赤らめながら反論して来た。

「お、お兄ちゃんと同じ所で躓いていられません!私、がんばります!」

「そうか。じゃあ、横で見ているからわからない所で教えてくれ」

「は、はい!ありがとうございます…」

閲覧室のテーブルは大きい。正面に座っていてはリドアも聞き辛かっただろうし、幾分教え辛い。配慮が足りなかったな。

「う〜ん、え〜と…」

先ほどとは違い、早く解きたいのか、苦悶の声をあげながら必死に考えている。そんな声を出しているうちはまだ大丈夫だろうと宿題を5分程で終えた。終わる頃までリドアは答えを導きだせなかったようだ。

「ふむ、わからなかったか」

「すいませ〜ん…。全力で考えたんですけどわかりませんでした」

「よし、じゃあ教科書借りていいか?」

「ここはだな…」

教科書を使いながら、リドアが頷くまで教えると大きな瞳が段々と見開かれて行く。クルスと同じでだんだんと理解して来ている仕草だった。

「わ、わかりました!レシオンさん、教えるの上手ですね!」

「そう言ってもらえると嬉しい。しかし、教えている時のリアクションがクルスにそっくりだな」

言いながら思わず頬が緩む。全くどこまで似た者兄妹なんだ。

「やっ、やめてください!そ、そんなに似てないですよ!」

「そうか?結構似ていると思うぞ?」

と、そんな事を話していると渡り廊下から歩いてくる音が聞こえた。クルスだろうか?しかし、俺が渡り廊下の方を振り返ると予想とは違う人物がこちらに歩いて来ていた。そいつはこちらのテーブルを見ると躊躇の無い足取りでこちらに近付いて来た。

「あら、レシオンとリドアさん。御機嫌よう」

「げ、フィリア!」

「ふぃ、フィリア先輩!おはようございます!」

「おはよう。にしても、随分失礼な挨拶ね、レシオン。朝から何か嫌な事でもあったの?」

「俺にとってあんたに朝から会うのは嫌な事なんだよ。なんで、こんな早くにお前がココに来ているんだ」

「あら、失礼ね。卒業が迫っているこの時期に3年生が、勉強の為や、卒業論文の為に、図書館を使う事はいけない事かしら?」

わざとらしく誇張するかのような話し方をする赤髪の女。

フィリア・アウェル・ゴートバルト。イリス大陸貴族階級の五大貴族に数えられるゴートバルトの令嬢だ。アークの属するバルト地方で最も土地と権力を持つ家だ。アークに住むと決めた時父上が一緒にゴートバルト家の屋敷につれってくれた。その時に始めてフィリアに会った。貴族という言葉からはかけ離れている豪気な当主の横で静かに食事をとっていたのを今でも覚えている。最初は生まれながらに淑女の教育を受けた奴だと思っていたが…、姉上は気が合うといっていた。だが、どうも俺はフィリアと話すのは苦手だった。

「別にいけないとはいっていない。いつもはいないから今日も静かに勉強できると思たのに…」

「あら、でもリドアさんに教えているという事は概ね終わっているんでしょう?だったら、私とこうやって話していても、私が、あなたの勉強に、特に支障をきたしているという事はないのではなくて?」

フィリアはまたわざとらしく、誇張しながら話したが、今回は返す言葉が出てこなかった。と、そんな言い合いをしていた所で今更クルスが小走りでやって来た。

「わりぃ、わりぃ!」

「おせぇぞ、クルス!」

「いやいや!遅くなってすまん…、ってあれぇ!フィリアさんじゃないですか、おっはようございま〜す!」

「御機嫌よう、クルスくん。今日も元気ね」

「へへ、元気だけが取り柄ですから」

「いいからさっさと宿題終わらせろ、見せてやらんぞ」

「なぁに怒ってんだよぉ、レシオン。フィリアさんが来てくれたんだぞ、よろこべよ!」

「喜ぶのはお前だけだ!さっさと座れ!」

「ってことみたいなんで、フィリアさんもどうぞ、ご一緒に」

「あら、いいのかしら?レシオンは私と一緒にいたくないみたいだし…。それに…、せっかくの二人の時間をお邪魔してしまったみたいだし…」

「ふっ、二人の時間って、なななななななんですか!?」

抑えようの無い感情がわいてくる。

「お、そんないい感じだったのか?兄ちゃんにも聞かせてくれよ」

「お、お、お兄ちゃんは黙ってて!」

「いいじゃありませんの、年頃の男子と女子が静かな空間で二人っきり。そう言った雰囲気にならない方が不思議だと思いますよ?」

あぁ、駄目だ。言ってしまう。

「お前ら、黙れ——————————————————————!!」

ー*ー

結局、その後は最悪を通り越した災厄だった。俺の怒号を聞いて図書館の司書が駆けつけ、俺はその場で反省文を書き、クルスはその間に宿題を黙々と写し、反省文を書く横でフィリアに茶化され、リドアには横からひたすらに謝られた。

だが、宿題は無事終わり、学校の授業も滞り無く終わった。朝の事が無ければ、今日は何事も無い無事な一日だったという事だ。

「朝の所為で嫌な一日だった…」

帰り支度をして、教室を後にする。今日は特に用事もない。クルスとリドアは二人とも部活に向かっただろう。寄り道をせずに、まっすぐ帰ろう。

学園の生徒達のほとんどは帰りに教会通りを通る。大概の生徒はそのまま寄り道をするという事だ。しかし、寄り道をする程の用もない俺はいつも裏門から帰る。裏門は部活棟や第三運動場の近くを通るから帰りがけにあいつらの顔を見る事が出来るからという理由もあるが。

部活棟には20を超える部活が部室を構えている。文科系の部活のほとんどが部活棟に拠点を置いており、クルスの所属する華道部もその一つだ。一階の校舎側から5番目の窓、その窓からは花の香りが香ってくる。

「おっ、レシオンじゃねぇか。今帰りか?」

ちょうど手が空いたのか、それともサボっているのか。どちらかはわからないがちょうど良くクルスが窓から顔を出して来た。

「あぁ、今日は用事もないしな」

「そうか、じゃあ家にも来ないな」

「そう毎日のように世話になる訳にもいかないしな。それにまたクルスの家でご馳走になったら、あのメイドから何を言われるかわからん」

「よく言うぜ。あんなきれいなメイドさんに飯を作ってもらってるくせによぉ」

「いいから、続きを始めろ。コンクール近いんだろ?」

「あんなのなぁ、賞をもらってやる為にやるようなもんだぜ。別にそこまで気合い入れなくたってなんとかなるさ」

「まったく、お前って奴は…」

部室にいる奴に聞かれたらどうするんだ。しかし、クルスが言う事はただの傲慢等ではない。実際に幼少期からロ・ブローナで手伝いをしていたクルスは、幼くして才能を開花させたらしい。バルト地方のコンクールでは賞を総なめし、首都でのコンクールでも最優秀賞を取ったのはアークの新聞を飾った事でも有名だ。だからといって手を抜いてる様子が無いのはあいつらしいというべきなのか。

「じゃあな、レシオン。呼び止めて悪かった」

「気にするな。部活に入っていない俺を呼び止めたって誰も怒りはしないだろ?」

「はは、それもそうだな。じゃ、気をつけて帰れよ」

そう言ってクルスは手を振りながら部室の中に戻っていった。俺も帰るとしよう。

夕方の時刻にさしかかった裏門通りは朝より人通りがあり、仕事終わりの主人達が家に帰っている所を見かける事が多い。家からは父親の帰りを喜ぶ子供達の声も聞こえてくる。そこから買い物に出掛ける主婦達も多く、買い物かごを持っている姿が目に入った。

しばらく歩き、山と丘のつなぎ目、住宅街が途切れる場所に出る。山と丘の間からは静かな風が下り、静かな冬を感じさせる。

「今年も終わりが近いか…」

そんな事を思いながら帰り道に向き直り、見やって歩き出した。ほんの数十歩進んだ頃だっただろうか…。

ーーーーー視界が凍り付いた。

前から一人の女が歩いてくる。真っ白い軍服のような服を纏い、服とは対照的な光沢のある黒髪が風にそよいでいた。

異質。

アークでは見た事の無い女だ。それに毎日此処を通っても見かけた事は無い。

どこか他の街から来たのだろうか?いや、感じる違和感はそれとは全く異なる異質さだ。この感覚は…、“先生”に近い。

すれ違った一瞬でその場が燃え尽きてしまうような圧倒的な存在感。それが目の前の女から感じられる。

一歩、また一歩と女が近付いてくる。

いつの間にか俺の歩みは止まっていた。

静かに横を過ぎて行く女は耳元で囁く。

「もうすぐだ、気をつけろよ」

耳元でたった一言だけつぶやいた。

「ーーーーー!!」

振り返ると女はもういなかった。

「何だったんだ、今の…」

日常とはほんの一瞬で激変する。先生に出会ったときや今朝の夢のような事が突然起きるのだ。

それを知っている。それをあの女も知っている…?

胸が激しく動悸しているのがわかる。息苦しい。

「人…、通りが…、少なくて…よかっ…た…」

近くにある木に寄りかかるが、それでも自分を支える事が出来ない。そのまま、ずるずると根元までずり落ちて、そこでやっと落ち着いた。そこで20分程だろうか、呼吸が落ち着くまで深呼吸を繰り返す。呼吸はやっと落ち着いて来た。

「何度言ったらわかる…。いきなり…現れるな…」

いつの間にかアリシアが静かにとなりに立っていた。

「お帰りが遅くなる時はご連絡くださいとお伝えしたはずですが…」

こちらに視線を向ける事無く、静かにこちらに話しかけて来た。おそらく、俺がこうしている事の理由は知らないが何かあった事を理解してる、と言った所だろうか。必要以上の事は聞くまいとしている。たまには俺が望む気遣いが出来るようだ、このメイドも。

「何か失礼な事をお考えではありませんか?」

「別に…。すまなかった、これでもまっすぐ帰ろうとしていたんだ。そしたら、急に胸が苦しくなってな。それでココに寄りかかっていた」

「左様でしたか。お迎えが遅くなり申し訳ございません」

「構わん。動悸も治まったし、帰るぞ」

背中の汚れを払って立ち上がる。しかし、それでも気に食わなかったのか、アリシアが次いで背中を払う。せめて何か言ってからできんのか、こいつは。

その後の記憶は朧げだった。家に戻るまでの道、朝はうまいと思って頬張った食事からも何も感じない程に。部屋に戻る時にアリシアに何か話しかけられた気もしたが、何を話しかけられたか覚えていない。気付けばベッドの上で横になっていた。

「もうすぐだ、気をつけろか…。何がもうすぐなんだ…?」

帰り道も食事中もそれ以外の事は何も考えられなかった。あの異様さは、“先生”に初めて会った時と同じ感覚だ。それが何を意味しているか、俺は知っている。何か、大きな事が起きる。それがもうすぐだって…?考えれば考える程、過去の記憶が蘇る。だが、その痛みの所為か、段々と眠りに誘われていった。

「ヒカリ…俺…は…」

—————どこからか歌が聞こえる。

その歌は聴いた事のある懐かしい歌だ。

歌詞を覚えているとか、鼻歌で歌えるとか、そう言ったモノじゃない。物心がつく前に聞いた事がある、それもよく聞いた事のある歌。

—————誰が歌っていたのだろう。

何も思い出せない。だけど…、懐かしい。

誰なんだ…、君は…。

歌声の聞こえる方に走って行く。歌声が聞こえるのはどうやら丘の上だ。丘の上に向かって走る。丘は目の前だ。そこに行けば、君に会える。

しかし、後ろから何かが迫ってくる。僕が走るよりもそれは早く迫ってくる。青黒いそれは、丘に向かって走っている僕を簡単に追い越して…。

彼女への道を閉ざしてしまった。

—————そこで目が覚めた。

目が覚めた場所はいつもの部屋ではなく、既に冬を感じさせる風が吹くいつもの丘だ。夕方に夕食を終えて、部屋に戻った。しかし、丘の様子は既に夜の様子。さして時間が経っているつもりではなかったが、どうやらまたやってしまったのようだ。

でも、不思議だ。丘には昨日登ったばかりでいつもだったら二日連続で丘で目が覚める事は無かったのに。

そんな自分の状況に戸惑っていると、俺が横たわっている所より上から歌が聞こえてくる。

「この…歌は…」

夢で聞こえた歌だ。起きたばかりで体が少し動き辛かったが、そんな事は気にせずその場から駆け出した。あの歌が何なのか知りたかった。

誰が、何故、そしてこの歌は何なのか。それが知りたかった。

丘の頂きに走る。辿り着くと、そこには一人の少女がいた。

「—————」

そこは劇場だった。夜の天蓋は揺れ動くカーテン、スポットライトのように美しく輝く月明かり、虫の音色は伴奏だろうか。

おそらく、誰もがその姿に目を奪われるだろう。

少女は夜の天蓋よりも美しい黒髪、薄く開いた瞳からは宝石のように様々な色を窺わせていた。そして、その歌声は心奪われる程の美しさだった。

初めて見る少女だ。

初めて出会ったはず、だったのに…。

「久しぶり、救世の王子様」

まるで旧友のように彼女は俺に話しかけた。

One week -3-

−3−

雨は突然降り出した。

天気が悪かった訳ではない。それでもそこに雨が降り出した。

しかし、彼女は嫌がる様子も無く、歌い踊っている。

まるで舞踏会を見ているかのようなようだ。

その姿に違和感は無く、まるでこの場所が彼女を歓迎しているかのよう。

そして再び彼女は微笑んだ。

ー*ー

そこはいつもの丘だった。

しかし、その様子はいつもと違っていた。

まるでそこは劇場の様で、いつもレシオンが気に留める事の無い物達ですら美しく輝いているようだ。

その中心にいるのは見知らぬ少女。

初めて見かけるというのにまるで旧知の友人のようにレシオンに話しかけた。

困惑していないと言ったら嘘になるだろう。

だが、それよりもその劇場全ての美しさにに目を奪われていた。

「どうしたの?」

彼女の歌はいつの間にか終わっていたのだろう。少女はレシオンの顔を覗き込んで来た。突然の閉幕にレシオンは驚いて、たじろいだ。

「え、あ、な、なんだ?」

「なんか、ぼーっとしてたから。どうしたの、寝ぼけた?」

劇場の美しさも、もちろんだが何よりもその劇場で輝いていたのはやはりその少女だ。長い黒髪、夜の闇ですらその髪に解けて行きそうな黒に月の光が更に美しさを与えていた。

異国の服だろうか、腕を包み込むような袖に、黒いロングスカート。衣服の所々に金の装飾が施され、服からは気品さが、その優しい顔立ちからは優雅さが感じられる。一目見た瞬間に、それ相応の身分が見て取れた。

「いや、何でも無いというか…、その聞き惚れていたというか…」

と同時に、見惚れていた。

「そう?ありがとう」

「いや…ありがとうなんて…」

また悪癖のように頭を掻く。その時、やっとレシオンは先ほどからの疑問を思い出した。

「そう言えば、久しぶりって言ってたけど…、どこかで会った事あるか?それになんの王子様って…—————!」

後ろから丘を登ってくる音が聞こえてきた。音に反応したレシオンは耳を澄ます。人数は一人、しかし、この時間は街の者達が来る事は無いに等しい。ということは外部の者という事が濃厚になる。

レシオンの脳裏に夕方の出来事が掠める。目の前の少女から異質さを感じる事は無かったが、夕方の女はまさに異質だった。あの女が現れた時の事を警戒し、レシオンは構えていた。

足音が近付いてくる。レシオンは重心を下に集中し、今ならいつでも踏み出せる。

「さぁ…、来い…」

「待って、レシオン!」

現れたのは黒髪の—————白い軍服姿。

レシオンは一瞬のうちに間合いをつめた。常人ならば近付いた事すら気付く事無く撃退できる程の速度だ。確かに夕方に対面した瞬間には自身の師匠と同様の強さを感じた。それでも毎日鍛錬を欠かさず、こんな日の為に心身を鍛えて来たのだ。

地面を踏みしめて、掌底を突き出す。女性相手ではあったが手加減無く、躊躇なく。

「良い足運びだ。あぁ…そう言えば奴の弟子だったな」

—————その言葉を最後にレシオンの視界は暗転した。

ー*ー

夕方に見た女はすれ違い様に『気をつけろ』と言った。そして、『もうすぐだ』とも言っていた。レシオンの脳裏には今朝の悪夢が蘇る。

—————炎の中にいる。

炎の中にいる自分、崩壊した日常、失った光。

—————白い部屋の中にいる。

呼吸を管に任せ、栄養も管に任せ、排泄物も管に任せた。

体中に管を通された。頭にも。

全てが自分以外のモノに任せている。

自分で生きていない。

—————みんなの部屋の中にいる。

朝起きて、勉強をして、食事をして、友達と遊んで、そして眠る。

何も起きなくていい。

日常を繰り返す事の幸せ。

むしろ変わる事が怖かった程だ。

その事を子供ながらに理解した。

自分で生きていた。

—————森の中にいる。

泣くのが嫌だと、また失うのが嫌だと、強くなった。

何年も“先生”と共に鍛錬した。

嘔吐をした、血を吐いた、腕すら失いかけた。

なのに…、なのに…。

—————炎の中にいる。

目の前には赤黒い少女の亡骸。起き上がる。歩み寄る。

「あんまり…だよ…レシオン」

—————レシオンの目が、覚めた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…っつあ…」

レシオンは気がつけば顔を手で抑えながら、大量の汗をかいていた。呼吸も荒かった。今朝の悪夢に加えて、その悪夢すらも超えた悪夢を見たのだ。彼自身からすれば当然と言えば当然だった。

「なんだってんだ…今朝といい…今といい…」

レシオンはまだ夜なのがわかった。しかし、後頭部にまだ痛みを残こし、前後の記憶が不確かだった。レシオンは状況を整理し始めた。

夕方に見知らぬ女に会い、具合が悪くなった。そこにアリシアが迎えに来て…そのまま寝た。そして、気付けば、丘の上にいて…夕方の女が…。

「—————!!」

立ち上がり、辺りを確認する。しかし、そこには誰もいなかった。先ほどの少女も記憶の最後に映った白い軍服の女も。だが、場所は変わっていなかった。

丘には変わらず、夜の天蓋が掛かっていた。

時刻は予想できないが、町の灯りが見えない。おそらく夜の11時を過ぎたぐらいなのだろう。その様子はあまりに日常的で、先ほどの夢のように歌を歌い、劇場を作り上げていた少女もまるで夢だったではないかと感じさせる程だった。

「まるで何もかもが悪い夢みたいじゃないか…」

拍子抜けしたようにそんな言葉を零し、丘に再び横たわる。夜の風は静寂に押されているかのように無性に騒がしく聞こえる。レシオンがそんな事を感じているのは、おそらく劇場の歌が忘れられないからだ。

聞き覚えのある歌。まるでその歌は眠る前に子守唄で聞いていたようで水のように淡く、安らぎを呼び覚ます歌だった。あのまま聞く事が出来たのなら安らかに眠る事が出来たのだろうと、そんな事まで思う程だった。

「…名前、聞けなかったな」

言った後にまた頭を掻く。悪癖でもなく、自分の不安定な感情にいらだっている。丘にいるのは自分一人。だからだろう、どこかにその感情を吐き出したい。

「——————!」

するとレシオンの背後からかすかに音が聞こえた。その音は足音だ。丘の頂上に登るため、草を踏みしめる音。また先ほどの女だろうか、そんな事を考えて再びレシオンは構える。

しかし、息は荒い。先ほどは完璧に奇襲できたと確信していた。それでも届かなかった相手だ。そんな相手に勝てるのだろうか、不安と興奮が入り交じっている。

それでも足音はなんら気にする様子も無く近付いてくる。

「……来るか…」

しかし、聞こえてくる音は奇怪だった。最初に聞こえた音は草を踏みしめる音だけだ。だが、近付いて来たからだろうか、別の音も聞こえる。

—————草を踏む音。何かが落ちる音。

それは液体の様で、鈍く地面に広がる吐瀉物のようにも聞こえる。

—————異様だ。

体の全ての神経が異様と判断するであろう、音と…臭い。その臭いに思わず、レシオンは目を瞑った。まるで腐乱しているかのような鼻を突く、その悪臭の主は…。

—————いつの間にか目の前にいた。

「——————————!!」

叫んだのはどちらだったのだろうか。

それは咆哮だったのか、悲鳴だったのか。

レシオンの目の前には異形の者がいた。そして、その腐乱したような巨大な腕を既に振り上げている。

「くっ…」

間一髪の所で振り上げられた腕をレシオンは避けた。地面に叩き付けられた腕は自身を砕く事は無く、そのまま叩き付けられた地面を轟音と共に割る。人の身でこれを受ければ、ひとたまりも無いだろう。

レシオンは先ほど攻撃を避けた状態で背を向けないように転がりながら距離を取った。そして、距離を取りその巨体に驚いた。

背丈はゆうに2メートルを超えるだろう。全身が腐食しているかのようにただれ、顔は獣だったか、亜人種だったか、もしくは人間だったのか判断する事は難しい。そんな巨体の中でも最も目を引くのはやはり先ほど振り上げた右腕だろう。左腕は腐食しながらも筋肉が隆起し、鍛え上げられた人間ならば到達し得る力を宿している。

しかし、右腕は常軌を逸していた。まるで左腕の筋肉を幾重にもつなぎ合わせたような異常な筋肉の付き方。腕の長さはその巨体の身長程に長く、地面を擦るかのようだ。そんな異常な力で地面を叩き付けたのだ。地面が隆起する程の破壊されるのにも納得がいった。

明らかに日常を逸脱した存在。一目見ただけでわかる、その姿は奇怪で異常だ。

レシオンは辺りを見渡したが武器になるような物は無い。せめて木刀でもあればレシオンにも戦う方法があったが、このまま逃げていてもこの場をやり過ごす事すら難しい。

しかし、唯一の救いは異形の物の動きが極端に遅い事だった。未だに振り下ろした腕を地面に叩き付けたまま硬直をしている。その事を認識するとレシオンは丘を下り、森の中へ一気に走り出した。

「(振り上げるスピードや俺に一気に近付いたスピード。爆発的な動きに関しては危険視をしなければいけないが、それ以外に関してはまるで遅い。武器を手に入れられれば、なんとか戦える)」

丘を下りながら戦う方法を一気に考えだす。既に何年もこの丘に来ているレシオンだ。森の中とはいえ既に道は熟知していた。走る方向に迷いは無い。この丘を管理する老人がいつも使用している物置小屋だ。あの中ならば武器になる物が必ずある。それを手に入れる事が出来れば、戦う事が出来ると確信していた。

目の前に広がるのは夜の森だ。視界は暗く、しかも様々な所に木々が乱立している。しかし、それでもレシオンに取っては問題ではなかった。夜の闇の中にあってもレシオンの視界は曇る事は無い。子供の頃から暗がりの中にいても何がどこにあり、どんな物かを常に認識する事が出来ていた。そんな自慢話にもならないような事がこんな所で生きている。思わず、その場でハハと乾いた苦笑を浮かべた。

数分程走って、レシオンは物置小屋の前に着いた。鍵は幸い開いている。

「…壊す手間が省けた」

ドアを開け、中に入る。中には芝刈り機や斧、鉈と言った物が壁中にかけられていた。得意の長物の得物を探したが、やはり見当たらない。

「これか…」

レシオンは鉈を手に取った。得物を見つめ、長さを記憶する。初めて使用する物だ、得物の長さを測らずして戦う事は出来ない。そして、強く握りしめ、数度振った。

「これで…倒す…」

—————瞬間、轟音と共に小屋の扉の破片がレシオンの頬を掠めた。

小回りが利く動きを出来る訳ではないのだろう。先ほどから轟音を立てながら、レシオンを追って来ているのは気付いていた。予想よりも少し遅い程だった。

「————さぁ、今日の悪夢はお前で終わりだ」

ー*ー

すでにレシオンは外に出ていた。

異形の敵は自身で扉を破壊したまでは良かったがそのまま扉の所で詰まっている。どうやら知能は獣以下なのだろう。隙を見て窓を割って、外に出た。相手の事を見据えながら、鉈を構え、再度敵の形を認識する。

異常であるのは変わりがない。しかし、その巨体に散りばめられた特徴はレシオンの知識の中に既に、ある。つまり、弱点はあるのだ。

鉈を持ったまま、巨体に疾駆する。扉に詰まっている間に何度か攻撃を重ねる事で幾らでも優位にたてる。

「まずはその足、もらうぞ」

走りながら引き延ばされた右足の腱を断った。

「————————————!!!」

絶叫をあげる敵。鉈の切れ味が良かったのか、それとも敵は腱まで腐食していたのか、その巨体を支えている足にしてはあまりにも容易に切る事が出来た。そして、目の前にある木の幹を蹴って、左足の後ろに跳躍する。今度は左足の腱を断った。

「————————————!!!」

森の中に再び響く絶叫。激痛のあまり怪物はそのまま小屋を破壊し、自由を得た。しかし、すでに両足の腱は切られている。満足に立つ事も出来ず、よろめきながら怪物は異形の腕を地面につけ、苦悶する。

しかし、武器も揃っていないレシオンには怪物が立ち上がるのを待っている余裕は無い。そのまま勝負を決めに掛かるため、再び巨体に疾駆する。

「次は左…腕だ」

先ほどの腱を断った感覚をレシオンは覚えている。おそらくは如何に鋼のように見える怪物の筋肉も腕ごと容易に断つ事が出来る。

鉈を下手に構え、狙いを定め、鉈を、投げた。

レシオンはそのまま走り続ける。怪物は避ける事も出来ず、苦悶したままの体勢で左肩に鉈を受けた。狙いは正確だ。怪物の左肩、骨のつなぎ目部分、左脇に鉈が深く切り込みを入れる。

「悪いな、そのままもらうぞ。左腕…」

レシオンは怪物の巨体、左肩の前で急停止する。そして、その状態から鉈を思い切り、蹴り上げた。鉈からは肉を断つ感触が伝わる。一本一本、筋繊維を断つ感触まで伝わるような感覚。それが一気に骨まで到達した事を知らせる。

「がああああああぁぁぁぁぁぁあっ!!!」

その感触を感じた瞬間に体の芯から力を爆発させる。全身の力を足先に集中し、鉈を全力で蹴り上げた。

瞬間、爆発するように左肩が弾け飛び、血の雨と共に鉈が左肩から飛び出した。鉈は宙を舞い、数度回転してレシオンの手に着地した。

血の雨を浴びながら、レシオンは左手で顔を拭う。

「くっせ…」

怪物はその異形の右腕を残して、その場に倒れ臥した。

ー*ー

決着はレシオンが考えていたよりも早かった。

異形の化け物。修行していた頃には戦った事も無かった相手だったが、数度攻撃を加える事で相手の戦う術を奪った。立つ事も出来ず、かなりの出血だ、右腕を攻略する事も容易に考えられた。

しかし、レシオンにとって今気にかかっていた事は夕方の出来事だった。

すれ違い様に女が言い残した言葉。

「…気をつけろ。こういう事なのか…」

こんな事が自分の日常に介入してくる。そんな異常は認められなかった。ならば、もう一度女に会い、話を聞き出さなければいけない。

だが、あの女はこの街で見た事が無い。どこにいて、どこに行けばいいのか。レシオンには見当もつかなかった。

そして、レシオンの脳裏には先ほどの少女が浮かんだ。

「(———また、丘にくれば会えるのか)」

そんな事を考えた。

すると、すでに倒れ臥した怪物が呻き声をあげ始めた。

「グルルルルル—————。アガ…ギ……アバ…」

「止めておけ、お前は立てやしない。両脚の腱と左腕ごと切ったんだ。トカゲじゃあるまいし、そんな悶えたって腕なんか生えてきやしねぇよ」

しかし、その呻き声は止まない。激痛が体を苛んでいるからだろうか、右腕の肘をつきながら切り落とされた左腕を押さえている。出血は止まらず、すでに滴る血は血溜まりを作っていた。足を失い、左腕を失いながらもまるで殺意を失わず、レシオンを凝視するその姿は手負いの獣そのものだった。

思わず、レシオンは後ずさりした。手負いの獣の恐ろしさは知っている。山で出会った時、最も警戒しなければいけないのは手負いの獣だと教わった。背に死が迫った状態で如何なる行動を起こすのかわからない。獲物ではなく、完全に敵と見なしているのだ。

—————ならば、全力で殺しに来る。

「———————————————————!!!!!」

その咆哮はあまりの大きさに音と認識できない。数十メートル離れていながらも、耳を塞ぐのが数秒遅れれば鼓膜は破れ、聴覚を失ってしまう程だ。そのような強烈な咆哮をあげる同時に怪物の左腕が

—————生えた。

しかも、その腕は先ほど切り落とした左腕とは異なり、右腕と同様の大きさだった。レシオンは戦慄する。

あの殺意の塊がより強烈な殺意と暴力を持って自分に向かって来る。

—————自分の死が目の前にいる。

怪物は両腕を使いながら、レシオンに向き直る。そして、両腕を地面に叩き付け、跳躍した。先ほどの速度とは全く違う。

音と同時に、レシオンの視界一面を怪物が蹂躙した。

「ぐっ、がっ—————」

跳躍一度で数十メートルの距離を一気に詰めた。その速度でレシオンに激突したのだ。

腹部からは骨の砕ける音がした。内臓がかき乱されるような衝撃が走った。その衝撃が血を逆流させた。

レシオンの全身を濡らした怪物の血。しかし、今は怪物の顔がレシオンの血で染まる。激突しても怪物の突進は止まらなかった。

一度、激突したまま木にぶつけ、粉砕。

二度、再び木に激突、粉砕。

三度目にして、岩に激突、ようやく停止。

レシオンは岩に磔のような形で血の跡を描いた。口から吐いた血など微量な物でしかない。岩に叩き付けられた衝撃で岩を染めた血の量は致死量に至るだろう。

呼吸が遠い。気管が既に血で満ちている。肺も既に潰れている。

首から下、すべての機能が一瞬にして欠落した。

怪物は巨大な杭のようにレシオンを岩に磔にしたまま動かない。

誰かの力なくして、現状を打開するのは不可能。

誰かの力————————。

—————このままではレシオンは死を待つだけだ。







「何を勝手な事して、死にかけている。馬鹿者が」

瞬間、怪物が炎に包まれた。

「ウォーーーーーーーーー!!」

森に再び咆哮が響き渡った。

しかし、レシオンはその炎から熱さを感じなかった。

自身を磔る杭が目の前で燃えているのに熱くはなかった。

それはレシオンがすでに感覚を失ったからではない。その炎は怪物だけを容赦なく焼き、灰燼すらも残さない炎、という概念なのだろう。

故にレシオンは熱さを感じず、敵だけが焼かれる。

そして、レシオンを岩に叩き付けた怪物はいつの間にか焼滅されていた。灰も残さずに。

「こっちは、OKだ。リエル、レシオンを治してやれ」

それらは一瞬の出来事だった。響き渡った咆哮は夜闇に消え、そこには血塗れの少年と白い軍服の女。そして、先ほどの歌姫の姿があった。

—————丘が再び、歌に包まれた。

ー*ー

そこは丘の上だった。

少年は何度この風景を見ただろう。冬に染まる街は既に眠りについていた。昨晩と変わる事無く、月の明かりと星の光は昨日と変わらず健在だ。変わった事と言えば、少年の日常かもしれない。

名家に引き取られ、名家の恥にならぬように送る生活。少年は苦ではなかった。その名を知った時、その名を冠した時にすでに彼はその名が誇りだったのだから。

自身の思い出の地に残る事を許され、心許す事の出来る友に出会った。自分だけが生き残った現実の中で許される事が何よりも救いだった。

そんな彼は、救われ続けていた生き方に負い目を感じていたのかもしれない。許されるだけではなく、償いを。

—————あの悪夢の果てに償いがあるのなら。

それを追い求めて生きて来た。そんな少年だからこそ強くありたいと願った。その生き方を否定は誰もしない。

だが、少年は否定する。

—————俺の生きる意味は…。

「目が覚めたか?まったく心配ばかりさせるんじゃない、馬鹿者め。丘の上に居なかった時は久々に肝を冷やしたぞ」

「俺…は……」

レシオンの意識は朦朧としていた。傍らに居る女が誰かという疑問すら浮かんでこない程に、傷による一時的な記憶の混濁は明らかだ。

あの戦いの後、レシオンは丘の上に再び連れてこられた。怪物の血に染まり、自身の血で染まった少年はまるで荷物のように丘に運ばれた。白い軍服の女の右肩に担ぎ上げられ、そのまま丘に連れてこられた。その為、女の肩には赤い血が大量に付着していた。

「そ…の…右肩……」

「ん?あぁ、これか。気にするな、お前を運ぶ時に付いたものだ。私の血じゃない。それにしてもこんな得物で中々頑張ったようだが、最後は惨敗だったじゃないか。残念だったな」

「よく…喋る女だ…っ!」

「大人しくしていろ、傷も内臓も治したが痛みが全くない訳じゃないだぞ」

—————歌が聞こえてきた。

その歌を聴くと、レシオンは傷の痛みが引いてきたようだ。思わず、女を凝視する。

「黙って聞いていろ。そして、今は休め。彼女の歌を静かに聴いてな」

雨は突然降り出した。

天気が悪かった訳ではない。それでもそこに雨が降り出した。

しかし、少女は嫌がる様子も無く、歌い踊っている。

まるで舞踏会を見ているかのようなようだ。

その姿に違和感は無く、まるでこの場所が少女を歓迎しているかのよう。

そして再び少女は微笑んだ。

「おやすみ、レシオン」

歌が終わると共に雨が止んだ。劇場の幕が下りる。

夜の闇は深い。少年はいつのまにか夜に抱かれるように安らかに眠っていた。

One week -4-

−4−

—————瓦礫の中に子供が居る。

子供は膝を抱えて、ただ、空を見ている。

子供が居る瓦礫は黒ずんでいて、一目見ただけでそこに火事があった事を物語っていた。

そこに子供は住んでいた。

住んでいた場所が一晩だろうか、それとも一昼夜だろうか、そんな一日もしないうちに失われた。

日常は瓦解する。

子供の心に刻まれた最初の絶望なのかもしれない。

そんな、子供の絶望をよそに空は何事も無いように澄み切っていて、子供はその様子に吸い込まれて言ってしまいそうな危うさを感じる。

遠雷のような音が遠くから響く。

それが子供を呼ぶ見知らぬ大人が呼ぶ音だと気付いたのは、どれほど繰り返し呼ばれた時か、子供はわからない。

「ねぇ、生きてるの?死んでるの?」

随分ぶっきらぼうに聞いてくる大人だ。子供はそう思いながら呼ばれた方向を見た。

「お、生きてるね」

なんて、果たしてその事に興味があったのか危ういような気軽さで、

「ねぇ、ここに居て死ぬ?それとも、世界を見に行く?」

見知らぬ大人は大仰にそんな事を言って、子供に話しかけた。

「—————」

子供の表情はどこか虚ろな表情をしていた。

それはあまりにも突然に告げられた生と死の境界線だったからか、その大人が言っている意味が頭に入ってこなかったか。

言葉を選んでいるのか、それともその姿に目を奪われているのか、子供は見知らぬ大人を見上げたまま、黙っている。

「あれ?死んでるの?」

「僕……生きてるよ…」

子供は精一杯、生の主張をした。

自分が生きていると、まだ生きたいと精一杯告げた。

それだというのにその大人は

「そう。じゃあ、世界を見に行きましょうか?」

その時、俺は先生の弟子になった。

ー*ー

気が付くと、物置ではなく自室のベッドに居た。

「—————っ!」

窓からは陽光が差し込み、既に朝を過ぎ、蛭が近付いている事がわかる。

昨日の晩の事はうろ覚えだったが、軋む体がその記憶が事実であった事を物語っていた。

「これは…遅刻だな……」

痛みながらも見た時計は既に2限目の授業が終わっている時刻を指していた。

普段ならどんな時間に寝ても早朝に起きる事が出来るが、今日に限ってはそうはいかなかったようだ。

しかし、その話を置いておくとしてもアリシアが起こしに来ない事は珍しい。なるべく頼らないようにしていたつもりだが、それにしてもメイドとして職務怠慢なのではないだろうか?

そんな事を考えていると、ドアをノックする音が聞こえて来た。

「レシオン様、お目覚めですか?」

なんだあのメイドは、心の声でも聞こえるのか?

「お話がございます。お着替えをお持ちしましたので、お支度が済みましたらリビングまでお越し頂けますでしょうか?」

「なんだ、用があるなら今済ませばいいじゃないか」

「そうはまいりません。お客様がお待ちですので、早急に」

客?この時間に家に来るというのは誰なのだろうか。俺に用があるというのなら俺が今、ここにいる事を知っているという事か。

「客というのは構わないが、今起きたばかりだ。すぐには行けな…」

「早急に、お願い致します」

そう言い残して、アリシアは俺の返答も待たずに部屋を出て行った。

まったく、どれだけ勝手なんだ、あのメイドは。

にしても、客が居るならどの道待たせるのはいけない。すぐに準備をして、向かわなくては。

ブレスレットを確認し、アリシアが用意した私服に着替える。ネクタイまで付いているのは何か意味があるのだろうか。

それなりの身なりを整えろってことか?

廊下に出るとリビングの方向から話し声が聞こえる。アリシアの声は聞こえるが、その他の声は…。

「———————っ!!」

リビングに向かって伸びる廊下を一気に走り抜ける。

この傷の記憶が確かなら、この声の主は…。

「あ、やっと起きた」

「眠り過ぎだぞ、レシオン」

硬直した。リビングにいたのは昨晩出会った少女と、そして昨晩、自分をおそらく昏倒させたであろう女が座っていたのだから。

「お前ら、なんでいる!」

「レシオンが昨日あのまま寝ちゃったから、送って来たんだよ?」

「そもそも、自己紹介もさせずに、人の話を聞かずに、殴り掛かって来た奴が言う台詞ではないな。とにかく座れ。色々と、問いつめんといかん」

「いや…それは…」

「ほれ、座れ」

言い返す事の出来なかった。しかし、相手が言っている事はもっともなので大人しく座る事にした。

階段を下りると、キッチンでは無言でアリシアが飲み物を準備していた。二人は俺が座る椅子の対面に座っている。

なんだ、この異様な雰囲気は…。

アリシアからは何をしたのか、この場で問いつめていやると言った恐ろしい雰囲気が。名前の知らない二人からは、早く話を始めさせろという雰囲気が。

板挟みだ…。

席に着くと、いつものようにタイミングを見計らっていたのか後ろからアリシアが飲み物を出してくれた。

「どうぞ、レシオン様。女性のお客様がお二人もいらっしゃるとは…、レシオン様も隅に置けない殿方になられたようですね…」

こいつ、何が言いたいんだ。

「お前は屋敷もあり、しかも、家には美人メイドまで居るのか。随分なご身分なのだな」

こいつも、何が言いたいんだ。

「自己紹介がまだだったね。私はリエル。この人はブレード」

君は随分マイペースなんだな、リエル。

「よろしく、リエル」

「なんとも無作法な男だな。私には無いのか?」

「なんで自分を気絶させた奴に自己紹介をしなければいけない?」

「それともお前は、相手が名乗ったのに名乗り返す事も出来ないのか?」

「やめなよ、ブレード。レシオンだって困ってるでしょ」

「…レシオン。レシオン・ラルドフォールだ」

「あぁ、知っている」

と、ブレードと紹介された女は即答した。何を考えている、この女。

「…じゃあ、何故自己紹介をさせた?」

「名を交わす事は大事な事だ。今回は私がすでにお前の名前を知っていた訳だが、名を交わしていない相手を仲間と呼んだり、信頼する事は出来ないだろう?」

「…そう言う事か。まぁ…、言ってる事は確かにそうだな」

「なんだ。やけに素直じゃないか」

「あんたの話はそれなりに筋が通っている。まぁ、俺のことを無作法だの、 なんだのと言った奴の発言にしては、だけどな」

「なるほど…その年頃だと感情的に話す奴に育ってるかと思ったが…」

「感情に任せて話していても、埒があかない。それにあんたは信頼、仲間と言った。その言葉が気になる」

「そうだな。なら、単刀直入に話そう。リエル、頼んだ」

リエルの雰囲気が変わる。静かに目を細め、その表情は憂いを感じさせる。

「……うん。レシオン、落ち着いて聞いてほしいんだけど…。レシオンの命が危ないの、そしてこの街も…」

「—————!…どういう事だ?お前達が何かするってことか」

「—————」

アリシアも後ろで静かに反応しているようだ。いつもティーセットを音を立てずに片付けるアリシアが少し音を立てた。

この二人ならばおそらく可能だろう。昨晩の異形の怪物の事を思い出す。なんとか傷を負わす事が出来たが、それはおそらく偶然に近いのだろう。その後、死にかけた。ほんの一瞬で人を抹殺できる敵が居た。それを一瞬で手を直接下さずとも滅殺出来るこの女。

昨日戦った敵もそうだが、この女の力も異常だ。そんな奴が本気を出したらどんな被害が出るか、想像も出来ない。

しかし、ブレードは俺の目の前に掌を突き出し、俺を静止した。

「そういう訳ではない。そもそも私はお前と戦う意志はない。まぁ、今の所…お前の方は戦う意志があるようだが」

「戦う意志に関して、否定はしない。そもそも、名は交わしたが素性が知れん奴をそう簡単に信じられるものか。何かあれば…」

何かあったとして…何か出来るのか?俺が倒す事の出来なかった怪物を一瞬で倒した女だぞ?そいつと戦って果たして俺が勝つ事なんて出来るのか?

「単刀直入と言ったろうが、そう急くな。そうだな、素性が知りたいのなら素性から教えよう。私たちは天界からの使いだ」

「は…?」

時が止まった気がした。まさか、本気で言っているのか、こいつは?

「だから、私たちは天界から来たの」

だめ押しだ。まさか、リエルまで言ってくるとは思わなかった。しかし、この二人が言っている事の真偽は確かめなければならない。

「テンカイ?どこかの地名か何かか?聞いた事無いが…」

「確かに、聞いた事無いだろうな。天界は地上の者達からは神話として考えられている」

ブレードは自分で用意したのか、紙にに図を描き始めた。汚かったが…。

「下手だな…」

思わず、口に出してしまった。円を描いているのだろうか。それにしては歪過ぎる。絵心がないのは俺も一緒だが、これはそれ以前の問題だろう。

「ブレード、これはちょっと…」

「う、うるさい!剣士が絵をうまくする必要などないだろ!」

「お前、やっぱり剣士だったのか。だが、昨日見た剣がどこにも見当たらないが、部屋にでも置いてあるのか」

「順を追って話す、黙っていろ」

どうやら下手と言われたのが相当恥ずかしかったのだろう。赤らめながらブレードは絵を描くのに集中し始めた。丸はおそらく星を指しているのだろう。その周りに丸を二つ。これはおそらく衛星の太陽と月といったところだろう。

「よし!」

「よしじゃない。世界地図を諦めて消した挙げ句、やっと描いたのが丸3つか。それに、この丸を描くのにどれだけ慎重に描いてるんだ」

「まぁまぁ、レシオン。人には得手不得手があるから」

「二人で私を馬鹿にするな。黙って聞け。この星は二つの衛星、月と太陽が存在しているのは知っているな」

そう、俺たちが住むのは“星”。その星を中心に太陽と星が周りを回っている。その他にも多くの衛星があるらしいが、俺の知った所ではない。天文学は専門外だ。

「だが、そんな事はずっと前に証明された事じゃないか。今更それを話して天界の話になるのか?」

「まぁな。では次に聞くが、天界と魔界の存在を証明された事は?」

「…それは…ない。だが、天界だの魔界だのってのは御伽話だろ?」

「天界と魔界は歴史の中には伝説のみで語られてるだけだからね。歴史の勉強をすればする程、やっぱり御伽話って思われてしまう事が多いよね。でも、天界も魔界も実在する」

光の多く差し込む瞳で、真剣に、俺の事をじっと見つめる。その瞳には虚偽などは一切無く、目をそらす事は許されない、いや出来ない。

そんな俺の事は他所にブレードは俺に話しかけた。

「ちなみに聞くが、天界、魔界のイメージを話してみろ」

「天界は陽、魔界は陰と言った所か。天界は善行を行い、魔界は悪行を行うのが御伽話の定番だろ?」

ブレードはやはりか、小さくため息をついた。どうやら俺の回答には満足していないようだ。

「期待通りと言えば、期待通りだがな…。まぁ、御伽話と言っている時点でそんな気はしていたがな…」

「何だ、不満があるのか?お前が言ったように俺のイメージを伝えただけだ。そもそも、人の回答に満足できないなら質問をするべきじゃないんじゃないのか?」

「まぁまぁ、二人とも」

俺達を宥めるリエル。どうやらこいつとは気が合わない気がする。だからこそ、こいつの解答とやらを教えてもらないと気が済まない。

「で、じゃあ天界の使いさんが解説してくれる天界、魔界って言うのはどんなものなんだ?」

「ふむ、では説明するか。お前達、地上に住む者達は住んでいる土地によって人種を分けているだろ?」

「イリスやベロニカといった大陸や国、他に細かく分ければベロニカだと純名、混名といった所か?」

イリス大陸、ベロニカ大陸を二大大陸として、その他にも五つの大陸が存在する。大陸それぞれの特色はあるが、人種やそう言った違いがあるのは特にベロニカだ。ベロニカは古の時代、神代期に領地争いがあった。その領地争いの時代から存在する名前をベロニカの人々は純名、それ以降に何代も代を重ね、新たな名前を見いだし名前を混名と言う。

天界と魔界にはそのくらいの差しかないというのか。

「そうだな、中々博学じゃないか。そう言った、天界や魔界はあくまで太陽を頂く星の異界であり、月を頂く異界なんだ」

「つまり、種族などの明確な違いは無く、住む場所…あぁ、異界によって分けている。という認識でいいのか?」

「そうだね。ただ、魔術器官の違いによって得意な魔術とかの細かな違いがあるんだけど。だから、魔界の人だからって悪い人たちばかりではないし、天界だって善い人たちだけって言う訳ではないの」

「…なるほどな。天界と魔界の違いは理解した。“ある”というのなら、あるのだろう」

俺がそう言うとリエルとブレードの二人は意外そうな顔をして、俺を見つめていた。どうやら、天界や魔界と言った類いの事は自身で話しておきながらも、すぐに信じられるということはあまり多くはないのだろう。まぁ、俺がラルドフォール家にいるという事も一因なのかもしれないが…。

「話が早くて助かるな、この小僧は。では、先ほどの話に戻ろう」

「俺の命が危ないという話か?」

「そう、その話。昨日、教われた怪物は覚えてる?」

忘れるはずがない。昨日の怪物は俺を殺した相手だ。自分を一度殺した相手を忘れろという方が無理がある。

「覚えてる。そもそも、自分を殺した相手を忘れろという方が無理なんじゃないか?」

「それは…ひっ!」

俺がそう言った瞬間、いきなりキッチンからフォークが飛んで来て、テーブルに突き刺さった。銀細工の職人が丹誠込めて作った物をこのメイド、躊躇なく投げやがる。

「レシオン様、そのお話。私、最も興味がございます」

父上、もう一度こいつにテーブルマナーを教えてやってください。

「えっと、話を続けてもいいかな?」

リエルは明らかに動揺していた。申し訳なさで頭がいっぱいになる。

「面白いメイド殿だな、ぜひとも私の侍女になってほしいものだ」

どうやら、このブレードという女は、頭が逝ってしまっているらしい。

「大変申し訳ござません、私はコノス様に遣えておりますので」

俺じゃないのか、アリシア。まぁ、そう言うだろうと思ってたがな。

「すまない、リエル。話を続けてくれ」

「う、うん。いいの?」

「構わない。あいつはああいう奴なんだ」

後ろからアリシアの殺気を感じる。明らかに睨んでやがるな、あいつ。

「うん。じゃあ、話を続けるね。昨日、レシオンが戦ったのは先兵とされる“壊儡”という敵なの」

「カイライ?操り人形という事か?というより、昨日戦った奴は魔物とか、そういう類いの生き物じゃないのか?」

「魔物、というのは自然から生み出される生物。今回お前が戦った敵とは全く異なる物だ。魔物を幻想世界の生物と捉えてもいいが…。まぁ、いつかは会うかもな」

俺が危ない、いやむしろ、街が危ないというのに魔物なんて人外桁外れな存在ですらないのか。

「壊儡は、壊された生き物だ。人間でも、獣でも構わない。壊す者が壊される対象の不要な要素や制限を全て破壊された者を壊儡と呼ぶ」

要素。生命が宿す魂の外殻。その外殻がある事で生命は魂というエネルギーを体という器に保ち、世界に適合する事が出来る。

「壊儡は魔物よりも目的意識が圧倒的に強く、生という言葉に縛られるが故に相手を必ず仕留めようとする。まぁ、端から見れば執着の度合いが異様で、まるで死に急いでるかのように見えるだろうがな」

「制限もなければ、要素に縛られる事もないか。厄介な敵だな。しかし、そんな事が出来る奴なんて居るのか?魔術師でも要素を破壊できる術を使える奴なんていないと、父上からは聞いてるが」

俺がそう言うと二人は沈黙した。そうか、この後が本題か。

「この“世界”の破壊を担う存在、いや源か。それが居たとしたら?」

破壊の源、果たしてそんなモノがあるのか?

破壊能力が圧倒的に高い魔術師や超人が居るとは、父上から聞いた事がある。しかし、それはあくまで源ではなく、世界の理や理を逸脱したという力だ。源とは、根源だ。

根源を宿すなんて事、世界が許す訳がないし、出来ない。

「 そんなモノいないだろ?世界にそんなモノ存在できないし、許されない」

「ううん、いるよ」

リエルは再び、光を多く含んだ七色にも見える瞳でこちらを真剣に見つめた。その瞳はさっきと似ているようで異なる。

これは、生死に関わるモノだ。聞かなければ死ぬぞ、という警笛をならしている瞳。

「邪神。聞いた事あるか?」

「神話の邪神か?聞いた事はあるが、世界の英雄に封印されたっていう伝承なら聞いた事あるが…」

「あぁ、その伝承で間違いない。今回の敵だ」

待て、なんでそんな奴が敵なんだ。そんな神話級の存在がこの街を狙っているって言うんだ。

「創造主様。この世界の全ての生命に関わっておられる御方。その創造主様が数年前、殺された、いや、壊されたというべきかな」

「元々、邪神の力を沈める為に力を蓄えていた創造主様だったんだけど、邪神が従える王に壊されてしまって力を失ってしまったの」

「創造主様の力の欠片は星中に散らばってしまい、もうほとんど王によって壊されてしまった。今は、創造主様の使者達が護っている力と、このアークに眠る最後の欠片を残すのみとなってしまったんだ」

「だから、アークを護る事は絶対、というのもあるんだけど、王が群がって来ているのが、何故かレシオンが関係している所に集中してるの」

二人の話を総括してみても、話がいまいち分からない。

この世界には邪神の力を沈める為に創造主が存在して、邪神はその創造主の力を奪う為に邪神の王を使って、アークを破壊しようとしているってことなのか?

「まぁ、理由は何となくはわかっているんだがな。お前には関係ない事だ、気にするな」

「いや、待て。気にするなって言うのには無理があるだろう。俺が関わっているんだ、全部話せ」

「すまんが、天界にも機密事項という物があってな。お前に話せない事もある。ただ、それだけだ。受け止めろ」

頬杖を付きながら話すその姿は、完全な拒否をしている事を露骨に表している。

「—————————。…あぁ、…わかった」

「ごめんね、レシオン。わかってくれて、ありがとう」

理解はした、納得はしていない。だが、それしか出来ない。

俺には権利がない。それだけなんだ。

俺には力がない。それだけ。

—————あぁ、やっぱり力がないのは、嫌になる。

ー*ー

—————いつも見る夢は暗い夜の夢だ。

夜の中、俺は一人立ち尽くしている。

そこは誰もいない。

生き物の気配は何もない。

ただ、そこには自分しか居ないとわかる。

誰かいないかと探しまわる。

それでもどこにも、誰も、いない。

どこかもわからない広い場所。

そこは風の音もしない場所で、まるで真空の中に居るよう。

地面はどこかぬかるんでいて、すごく歩き辛い。

やがていつもと同じような丘にたどり着く。

見知らぬ場所だ。でも、そこは懐かしさがこみ上げる場所。

その丘の真上には月が見えて、とても綺麗だ。

そこで振り返ると、いつから居たのか、綺麗な女の人が泣いている。

そして、気付くと俺も泣いている。

「君の名前は…?」

—————いつも、そこで目が覚める。

疲れているのだろうか、また眠ってしまっていた。

先ほどの話の後、アリシアが用意した昼食を食べた。アリシアは珍しく、終始無言だったが、そこまで露骨に態度に出す必要はないだろうに。

昼食を食べた後、ブレードは俺を半ば強制的に連れ、屋敷をぐるぐると一通り探検した。

特に俺の部屋と物置をやたら念入りに探したのは…まぁ、目を瞑ろう。

外周をぐるりと回ると一言だけ、いい屋敷だと言って、アリシアに案内された部屋へと戻って行った。

リエルはずっとリビングに残り、アリシアと談笑していた。屋敷には中々客人が来る事が少ない分、アリシアも楽しそうに話していたのは助かる。俺がアリシアに出来る事は限られているし、ラルドフォール家の一員として、しっかりとした生活をしているかという事すら最近はまともに出来ていない。それなら、同性の客人が居てくれて、なおかつ話し相手になってくれるのなら、俺としては大助かりだ。

その二人に声をかけて、そのまま自室で眠ってしまったようだ。

あまり普段は見ないベッドの上の天蓋。自室に置かれた豪奢なベッドは本当に使っていいのか迷ってしまう程だ。だが、こうして使ってみるとやはり父上が選んでくれたベッドだけあって、寝心地がいい。

気を抜くと、また眠ってしまいそうで…。

「スゥ…スゥ…」

「——————————————————!!」

今まで生きて来た中でこんな声を出した事があっただろうか。もはやここまで来ると端から聞けば悲鳴だ。そんな声がいきなり出た。

「な、なんで俺のとなりで寝てるんだ…リエル」

ブレードとリエルはアリシアが客室に一度案内したと聞いた。間違いなく聞いた、絶対に聞いた、一言一句間違えずに聞いた。なのに、なんでその客人が俺のとなりで寝てるんだ?

気付けば、ドアノブに手をかけていた。

「レシオン様、もの凄い声がされましたが、大丈夫ですか?」

「アリシア!?どういう事なんだ?」

「どういう事…と申されましても、どうかされましたかと、私が窺っているのですが?」

何を素っ頓狂な返答をしているんだ、このメイド。質問に質問で返すなとでも言いたいのか?

「リ、リエルが俺の部屋に…」

「あぁ、その事でしたか。リエル様がレシオン様のお部屋を案内してほしいとの事でしたので、ご案内致しました」

さも、当然のようにアリシアは俺に話す。これが当然だっていうのか?仮にも俺の屋敷とまで言わない。俺の部屋も父上からもらった物だ。それでも、俺が居る部屋に、おまけに俺が寝ている部屋に彼女を通したというのか?

「俺の許可とか、ないのか?」

「そうですね、取るべきでした」

と、本当に忘れていたかのように話した。

「そうか…。昨日の事、まだ怒ってるのか?」

「えぇ、当然でしょう」

これはかなり怒っているようだ。ドア越しに伝わって来る怒気。だが、いつものようにただ怒っているというよりは何か違う感じだった。

「……すまない」

「済みません。昨日の夜、私がどんな思いをしたか、ご存じないでしょう?女性に担がれて、屋敷まで戻って来られて、更には血塗れの制服、あの瞬間…本当にレシオン様がお亡くなりになられたのかと思って…立っていられませんでした」

昼食から一言も俺に対して軽口すら言わないと思ったら、ずっとそんな感情を押し殺していたのか。いつものように言ってくれればいいのに。

「本当にすまない…」

「…今回のお話もすぐには信用できません。ただ、その時は私があの方達と戦うだけです。でも、あの方達はどうやらお強い、と思います。それならばレシオン様を少しでも護っていただければと思って、お屋敷にお部屋もお貸ししました。ただ、あの方達を信じる前に少し位、私を信用していただけませんか、レシオン様?」

「…あぁ、そうだな」

「今度、遅くなるときは必ず屋敷にお立ち寄りください。いいですね?」

「あぁ、わかった」

本当に頭が上がらないな。どんな時もぞんざいに人の事を扱うかと思えば、いつ何時も俺の事を心配してくれているのだから。どっちが本当の姿なのかわからなくなる。

「ところで、お話は変わりますがブレード様がお呼びです。リエル様もお連れしてほしいとの事でしたので、レシオン様はお先にリビングへ向かわれてください。リエル様は私がご案内致します」

「あぁ、わかった」

先ほどのままの服で眠ってしまったようだ。皺が出来ている。まぁ、このままでいいか。しかし、そんな事を考えて部屋のドアを開けると、その隙間から魔物が覗いていた。

「レシオン様、お着替えはお持ちしております。そのようなの格好でおりられるような事は決してされませんように…」

「あ…あぁ、わかってる」

鬼かと見間違えるような形相をしやがって、心臓が止まるかと思ったぞ。

アリシアからは黒いシャツにグレーのパンツ、スカイブルーのネクタイを渡された。まったく、俺の好みをよく知っていやがる。着替えを終えてもリエルは寝たままだった。俺のあの叫び声を聞いても起きなかった。リエルも疲れていたのだろうな。

「それでは、また後ほどリビングで」

「あぁ…」

いつものようにアリシアは礼をすると、音を立てずに俺の部屋に入って行った。

光が差し込まない廊下はいつにも増して暗い。夜を迎えているのだろう、普段なら太陽の光が差し込むリビングも暗く見える。廊下も心なしか長い。

普段見慣れている物がひどく不安定な物に感じてしまう。

それは昨日、不意に訪れた非日常の所為だろうか。屋敷には客人が来て、少しいつもよりも賑やかになった。でも、それですら壊す何かが近付いて来ている。

—————一瞬、体が強ばるのを感じた。

「また失ってしまうのか…」

そんな事は嫌だった。今までの日常も突然訪れた非日常も、自分の大切な何かが手の平からすり抜けて失われるのは堪え難かった。

なら俺のするべき事は—————。

「起きたか、レシオン。まぁ、座れ」

少しでも最善の策を見つけ出す。そして、なんとしても護り抜く事だ。

リビングは照明で照らされ、オレンジ色に染まっていた。食卓とは別に置いてあるソファーにブレードは座っている。

「庭でも見ていたのか?」

「まぁ、そんな所だ。いい屋敷だ。昼間に見せてもらったが、あのメイド殿は中々の魔術が使えるようだな」

「あぁ、父上に遣えるメイドの中でも、アリシアは別格だと言っていた。元々、結界などを潜り抜けるような仕事もしていたから、結界の魔術を覚えるのも人一倍早かったみたいだ」

「ふむ、さすがはラルドフォール家のメイドと言った所か」

ラルドフォール家は神代期から続く名家だ。

俺のような孤児を養子に取ってくれたというのは他の名家からは考えられない事だと聞いたが、父上はそんな事は関係ないという様子だった。

そんな様々な分野に置いて大きな力を持つ名家であるラルドフォール家は暗殺などは日常茶飯事だったと聞いた。実は、アリシアもその暗殺者の一人だ。しかし、何があったのかは教えてもらえなかったがアリシアは父上に恩義を感じ、それ以来ラルドフォール家のメイドになったとアリシアから何度も聞かされた。

—————あれは運命だったのです、レシオン様。

なんて、必ず決め台詞のように言って。

「外れた人種が世の外れた人間を戻すとはな」

「何か言ったか?」

「いや、別に。それよりも話がある」

「あぁ、それを聞きに来たんだ」

ソファーに座り、ブレードの方を見やる。その膝元には昼間には持っていなかった白鞘の刀が置かれている。白鞘の柄には『村正』とだけ刻まれていた。しかし、その刀の存在はそこにあるというのにどこか虚ろというか希薄な印象だ。まるで陽炎のように靄が掛かっているような。

「戦いが近い。だが、そうなるとお前の身の安全を護らねばならないが、今のお前に王達と戦う事は出来ない。弱過ぎるからな」

「—————!」

「事実だ、受け止めろ。そもそも地上に現存する武器で奴らに対抗する事は難しい。そうなるとお前は屋敷で退避しているのが懸命だ。それで、今後の方針に付いてなのだが—————」

ブレードの話はそこから頭に入らなくなってしまった。俺は最善の策を見つけて、護りたい物を護り抜く。

その為に俺は11年間強くなる為に鍛錬を欠かさなかった。

どんな小さな事でもいい。自分が毎日、進歩して少しでも力を手に入れる事が出来ればと思って、鍛錬した。

いつか、力が必要になった時、その鍛錬が意味を持つ事が出来れば…、俺の生きている意味にもなると思って…。

「いいか、そうしたら、この屋敷に炎の神殿を作り上げ…。おい、レシオン聞いているのか?」

「ん?あぁ…、聞いて…いる」

「どうした、考え事か?まず、話を聞け!黙るのは構わんが、話を聞かんのは許さん。いいか、また最初から話すぞ…」

また、俺は護れないのか…。大切な物を、護りたい物を…。

「そして、ここに…!おい、レシオン!いい加減に……!!」

しまった、また怒らせてしまった、と顔を上げると…。

「伏せろ!!」

突然、目の前にブレードが飛びかかって来た。次の瞬間、庭側に設置された窓ガラスと共に家具が吹き飛んだ。

「な、なんだ!?」

「敵襲だ…。…隠れていろ、例の王が来た」

庭には一人の男が立っていた。その男は金髪に紺碧の瞳。顔立ちは整っており、敵というよりも聖職者の印象に近い。しかし、その額にいくつもの傷が刻まれ、手の平には穿たれたような丸い穴が空いていた。

—————その男と目が合った。

呼吸が出来なくなった。体を射抜くような眼光。体の全ての感覚が警笛を鳴らす。この男と対峙してはならない、この男と戦ってはならない。

すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ。すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!すぐ逃げろ!

昨日の晩に戦った怪物なんて足下にも及ばない。圧倒的な死が目の前に居る。

視線をそらした瞬間に首が飛ぶイメージが浮かんだ。

こんな存在を敵というのか。否、敵とは戦える事を前提した存在だ。

こんな存在とは戦えない。戦うよりも早く蹂躙され、瞬く間に死が襲う。

男は脇に筒のような物を抱えていた。その筒を背負うと、男は気怠そうに話しだした。

「なんだ、避けちまったのか。まぁ、いいけどよぉ、今死んじまった方が楽だったんだぜ?」

「黙れ、詭計の王!天界の三剣士を舐めるな」

なぜ、そんな当然のように話せる?

異形の武器、異形の存在。そんなモノが目の前に居るんだぞ?

戦えるはずが—————。

「参る!!」

ブレードが一瞬で距離を詰める。男は背中に背負った筒を取り出し、奇襲の刃に対し構える。

会話など最初からするつもりもなかったのだろう。武器を抜き、詭計の王と呼ばれた敵に襲いかかった。

「なんだよぉ、名乗り位させてくれたっていいじゃねぇかぁ」

刃の軌跡はあまりにも美しい。軌跡は銀光となり、弧に空間を薙ぐ。

そんな美しさに気付けるのはあまりの速度だからだろう。残像のように残るその軌跡は例え、刀の軌道を読む事が出来なくても美しさをここに残していた。

息を呑む、とはこう言う事なのだろう。圧倒的な実力に目を奪われ、その美しさに呼吸を忘れた。

ほんの一瞬でわかる圧倒的実力。これが本物。

これが今、俺の置かれている現状で戦場なのだ。

「はは!はえぇな、あんた!天界の奴だって聞いたからどんだけ平和ボケしてるのかと思ったけどよぉ!やるじゃねぇか!」

数度の刃を交わした後、男の持つ筒はいつの間にか棒状に変形していた。

遠距離は砲撃、近接先頭においては棒術。それが相手の武器。

飛び道具において、ブレードの神速はやはり脅威だろう。間合いを瞬間的に詰め、自身の支配領域に置ける戦闘を強制させる。その制圧力は、もはや暴力を通り越して天災に等しい。

そんな中でその神速にも並ぶ速度の棒術もさることながら、遠近を兼ね備えた技巧はやはり人間の領域ではない。

詭計の王と呼ばれた男もブレードに等しく、凄まじい。

「黙れと言っておろうが!貴様が話す一言一句が汚らわしくて、虫唾が走る!!」

敵の攻撃を去なし、刀を振るいながらブレードが吼える。

最初こそ、ブレードの一方的な攻勢に見えたが相手の棒術も並外れている。

あの速度の剣を幾度も受け、更には反撃に転じていた。

ブレードの攻撃が線ならば、男の攻撃は主に点だ。

棒の圧倒的な間合いは槍にも似て、薙ぐという行為を主体におけば間合いの制圧力は刀を凌ぎ、圧倒的だろう。

しかし、男の攻撃のほとんどは打突。

弾丸と形容する事すら、違和感を覚えるその打突はもはや知覚すら許さない。

それをあの白き麗人は尽く、薙ぐ。

戦えない己を恥じた。しかし、今はこの戦いに参加できると考えていた己を恥じる。

愕然とした事実を実感したのだろうか、それとも戦いの凄まじさに目を奪われたからだろうか。何分、そこに立ち尽くした。

そして、気付いた。途中から男の反撃が止んでいた事に。

剣戟の音は聞こえず、ただただ男の笑い声だけが聞こえて来る。

—————異様だ。

度外れた戦いなのはブレードの動きを見ればすぐにわかる。その様はまさに烈風以上、もしくは雷にも近いだろう。

刀の一振りごとに大気が音も無く両断され、聞いた事の無い悲鳴にも近い高音が耳につく。

これが人間の領域を超越した戦い。

だが、異質さはそこではなかった。

ブレードの跳躍もブレードの驚異的な速度の刃も相手に攻撃を許す物ではない。

先ほどの攻撃から察するに相手の筒は“砲”と“棒”。砲撃による攻撃で長距離からの圧倒的制圧力をもって敵を蹂躙する物だろう。ブレードの速度はそれを押しとどめる程に速い。

それ故の棒術。近接戦闘を考慮しての武器だったのではないのか。

しかし、男は攻撃しない。攻め手を失ったのか、それであっても男は窮地を感じさせない陽気さだ。

一見すると男の防戦一方にも見える。しかし、その剣の軌跡を男は焦る事も無く、右へ左へ、上へ下へ、巧みに交わしている。

ブレードの実力が圧倒的なのは一目見ただけでわかる。しかし、男のそれは、実力をひた隠しにし、ひたすらに相手をあざ笑っているかのようだ。

「—————————!!」

ブレードが刀を鞘に納め、地面に突き刺した。男とはまだ武器を交えていない。離れている俺にも聞こえる程に歯軋りの音がする。

「貴様、私を愚弄する気か?」

「あぁ?これが俺の戦い方よぉ。それに愚弄するとか、俺の仕事じゃねぇしなぁ。愚弄されたいんなら、あいつとやってくれやぁ」

再び、ブレードは鞘ごと刀を地面に叩き付け轟音を響かせる。地面は砕け、庭はおおよそ先ほどまでの原型を留めてはいない。

無理は無い。奴の話し方も明らかに挑発しているが、奴の言う戦い方もあの武人にとっては侮辱以外の何物でもないのだろう。

しかし、それを覆せない。ブレードにとって、侮辱と共に歯痒さもあるのだろう。

殺気を帯びた眼光で鋭く男を凝視する。

すると男は棒を再び筒に戻す。その筒は血で染め上げたかのように紅色で、どこか生きているかのような脈動すら感じさせる。

その筒を男はブレードに向けた。また、砲術で攻撃するのか?しかし、ブレードの神速にそれは既に封じられているというのに。

「まぁ、そこまで戦いたいって言うんならやってやるよ。ただ、あんたじゃ相手になんないんじゃないねぇかなぁ?」

また、くつくつと笑いながら男はブレードにその筒を向けている。

「そぉだ。あんた、名前、なんて言うんだ?女とせっかく会ったって言うのに聞き損ねちまったしよぉ」

—————瞬間、爆音が響く。

あまりの閃光、あまりの轟音に目と耳の両方がいかれかけた。

その音は男の攻撃かと思ったが、違った。

「ブレードが燃えている…」

怒りなのだろう。その炎はあまりにも高く燃え上がり、天を焦がさんとしていた。

「天界と侮ったか、女と侮ったか、ならばここで消し炭にしてくれる。我が名はブレード…、炎神のブレードだ!」

再び響く轟音。

瞬く間に構え、瞬く間に跳躍し、数十メートルの距離を一気に無くした。

刃の軌跡は線を描き、その刃は男を捉える—————。

「ばぁか」

はずだった。

「あっがああああああああああああああああああ!」

その瞬間は夜にもかかわらず鮮明に見えた。ブレードが一瞬にして詰めた距離。それが致命的だった。

男の目の前の地面から無数の筒がまるでそこに元々在ったかのように、ブレードの目の前に現れ、肉を幾重にも抉った。

先ほどの攻撃は筒からの砲撃。砲撃から棒術へ、そして、今度は地面からの打突。

仕込んでいた…、いやそんな類いの攻撃ではない。あの速度に驚嘆した。それでも、瞬きをせずに見ていた。一瞬で伸びた、一瞬で飛び出した、そう言った攻撃ではなく、“空間に割り込ませた”。

ブレードの傷は傷というにはあまりにも奇怪だった。銃弾でもなく、槍でもなく、無数の筒に右腕を抉られ、斑点のような紋様が右腕にいくつも刻まれてしまっていた。

「き、貴様ぁ…」

「いやぁ、惜しかったぁ、惜しかったなぁ。あんたがあんまり怒ってるもんだから騙したくなっちまったんよぉ。しっかし、右腕だけか。全部突っついたつもりだったんだけどなぁ、これも惜しかったなぁ」

これが詭計の王。砲撃や棒術はあくまでこの攻撃を成立させる為に囮。そして、おそらくこの攻撃ですら、こいつにとっては必殺や奥の手ですら無いのだろう。

「なぁなぁ、どんな気分よぉ。天界三剣士だっけかぁ?女を騙すって言うのは男の冥利に尽きるよなぁ?」

刀を支えに辛うじて立つブレードに歩み寄り、見下す男。

「舐めるなよ…、王ごときに私は負けは…」

「ほい」

男が人差し指を上に上げる。

その瞬間に鈍い音がした。その音は細い筒がブレードののどを貫いた音だった。

「もう終わったと思ったか?思ったんだよなぁ?ホント、あんたわかりやすいわぁ!そらぁ、天魔に刀折られたってしょうがねぇよなぁ!」

ブレードが崩れ落ちる。最後の支えであった刀ごと、その場に倒れ臥し、身動き一つしない。

聞こえるのはおそらく体が呼吸を続けようとする音だろう。ヒューヒューと本来の行き場を失った息が音を立てている。

先ほどの轟音とは対照的に静まり返った庭に聞こえるのはブレードのそんな呼吸の音だけだった。

ブレードの倒れ臥したその姿に満足したのか、男はその視線を俺に向けた。

「さぁてぇ、次はてめぇだなぁ…。男とやり合う趣味はねぇから、お前はすぐに殺してやんよぉ…」

呼吸が止まる。あれほどの実力を持つブレードが倒せなかった男。

—————死が目の前にある。

「逃げ…ろ…レ…シオ…ン…」

ブレードの声だ。まだ、息がある。

それに気付いても、男は気怠そうに俺の方に歩いて来る。

—————逃げなくてはいけない。

だが、足は一歩も動こうとしなかった。

—————ドクン、ドクン。

こんな時だからだろうか、鼓動が耳元で鳴っているかのように響く。

「来い…」

無意識に言葉を発する。

これは昔、子供の頃に誓った事。

誓った。

—————なら、今此処で成せ。

宣誓する。

今までの誓いを、そしてこれからの誓いを!

護る。

俺を護ってくれるもの、俺を護ってくれてたもの、俺が護りたいもの。

—————すべてを。

誓いを此処に、そして力を此処に。

—————なら、叫べ。

「死んじまいなぁ、小僧!!」

胸が熱い。

夜の闇は深く、その闇すらも包むように月が————俺を照らしてる。

「我が剣……」

夜闇を照らしている月は変わらず輝いている。しかし、俺の周りだけを暗闇が、いや夜が包み込む。

「な、なんだ、こいつは!?」

さっきの敵が外にいるのか?夜に包まれて、辺りは何も見えない。

見えているのは夢の続きのようだ。

—————暗く広がる大地。

—————俺を照らす月。

—————丘の上で泣いている誰か。

—————そして、その誰かを護ろうと思った思い。

「夢と幻の果てを見よう」

誰の声か、わからない。でも、確かに聞こえる。

その声に届くように、手を伸ばす。

伸ばした手の先に握ったのは剣だ。

俺の内に宿る剣だ。

「ベル…ディオン!!」

ー*ー

—————少年は夢を見ている。

辺りは暗い。

もう、夜を迎えているのだろう。

少年は明かりを探すが明かりは、無い。

故に、そこに明かりはない。深い、深い闇の中にいるようだ。

部屋…いや此処がただひたすらに暗い。まるで夜の中にいるようだ。

そんな事を少年が思っていると、ふと明かりが指した。

それは月の光だ。

辺りは暗い。しかしこの月光は少年に光だけではなく、暖かみすら感じさせていた。

少年が見るいつもの夢に似ている。

いつも見る夜の中をひたすら歩く、夢に。

だが、少年はその夢とは違う印象を受けていた。

夢の終わり、必ず悲しみを感じて、気付けば涙を流している事もあった。

そんな悲しみがこみ上げて来る夢とは違う。

この夢には続きがあった。

剣を手にする夢の続きが。

「て、てめぇ…こんなの聞いてねぇぞぉぃ…」

“夜”が晴れた。少年の眼前にいるのは詭計の王。昨晩、少年を蹂躙した敵を瞬殺した剣士がその奸計に掛けた男だ。

その男が目の前にいる。その双眸を少年に向け、その双眸で殺意を睨め付けながら…。

先刻、少年はその殺意に戦慄した。しかし、その殺意に相対、受け止めて尚、少年は呼吸一つ乱していなかった。

それはその手にある漆黒に染まった剣を得てからだろう。

—————ベルディオン。

深く、夜のように黒い刀身。そして、無骨ながらに装飾されたその剣は聖剣、魔剣に例えられる剣に似ている。

しかし、星の歴史にそんな名前の聖剣・魔剣は登場しない。

名刀や名剣を作り上げた名工が産み落とした物でもなく、神話、寓話、聖典、外典、儀典問わずの遺物ですらない。そして、魔術を一切使えないレシオンに魔術で剣を編む事など出来ない。

故に少年が手にしたその剣は不明瞭すぎた。出自は明らかでなく、自身を圧倒的に凌駕する怪物に対する武器としてはあまりにも不安、あまりにも不確か。

それであっても少年に取っては十分であり、十二分であった。

深く、澄んだその碧眼で王を見据える。その目のように思考・感覚は今までに無く、澄んでいた。

二人の戦いを見守っていた時は自身が戦っていないにも関わらず、呼吸を乱し、視線すら逸らしたい感じた事が幾度あっただろう。そんな少年が呼吸を乱す事無く、視線をそらす事無く、見据えている。

ただ、ただ敵を。ただ、ただ誓いの果てを。

「ベルディオン…」

今一度、少年は剣を呼ぶ。剣はそれに呼応するかのように、手の内で脈動する。その脈動は少年の体に伝わり、まるで撃鉄を打ち据えたかのように、内側が切り替わった。

「レシオン・R・ラルドフォールだ、詭計の王…」

少年が敵を呼ぶ。倒す者、倒される者の名を宣誓する為に。毎朝の鍛錬通りに剣を下段に構え、重心を下げる。呼吸は深く、夜を五感全てで感じる。

—————戦いが始まる。

敵は前方30メートル程。駆け出し、跳躍し、一瞬で距離を詰める。昨日の晩とは違う。一瞬で敵までの距離を縮減する。その跳躍は疾風という言葉すら置き去りにした。

詭計の王は思わず、身構える。先ほど携えていた砲はいつしか赤黒い棍に変わっていた。

「餓鬼が、調子づいてんじゃねぇよ!」

レシオンを襲うのは再び打突。その圧倒的速度は、視認を許さない。

しかし、先ほどのブレードのようにその暴力的な速度の打突を躱す。更に剣を握りしめ、踏み込んだ。

男はその姿に驚愕する。獲物、あくまで狩る対象でしかなかった存在が剣を握っただけで敵に変貌している。

その事実に思わず、飛び退いた。

跳躍すること30メートル。防ぐでも無く、挫くでも無く、距離を置き、飛び退いた。

男の頬を伝っているのは汗だ。少年は敵ではなく、呼吸をするように殺す物でしかなかった。それだというのに、あの一瞬の攻防で自分の先が見えた。

—————斬られる。その傷が致命傷に至ると直感した。

ブレードとの戦いでも感じる事無く、自分の戦いを貫き通したにも関わらず、その動きに、その刃に、その眼光に敗北を確信してしまった。

「ふざけるな…、ふざけるな、糞餓鬼がぁ!!」

憤る。この夜、男が初めて見せた激情だろう。

動じない。少年はその激情を受け止めてなお、清廉な面持ちだ。

男はその様子に更に憤る。怒り、恐怖し、そして欺く。それが何よりに喜びだった。だというのに、目の前にいる少年は怒りもせず、恐怖すら感じていない。男を敵と認識している。

「まだだ」

一言、静かにつぶやいて、再び少年は駆け出した。

瞬く間に距離を詰め、再び、斬り掛かる。

男は武器を再び構え、襲撃者を迎え撃つ。打突は躱される、そう確信したのか。今度は真横に薙いだ。が、今度は防がれた。そうして、防ぐと瞬く間に勢いを殺し、少年の剣が薙ぐ。

瞬間、男の真下から先ほどブレードを貫いた筒が突然現れた。

筒は少年の攻撃を防ぎ、甲高い音を庭に響かせながら、その衝撃は殺される事無く、辺りに衝撃を与えた。地から飛び出した筒はひしゃげ、地は砕き、風は木々を大きく揺らした。

「やるじゃねかぁ、救世主よぉ…」

「救世主?何の事だ?」

そんな破壊の直中に在りながら二人は会話をしていた。救世主、昨晩少女にも同じ呼び名で呼ばれた。それが少年は気に掛かっていた。

「んん?なんだろうなぁ?」

しかし、その事を男は答えようとしない。少年の質問を、疑問を、不安を楽しんでいる。それが詭計につながる。それが楽しくて仕方が無い。それ故に詭計の王なのだ。

「気にする事はねぇさ…、お前は気にしなくていいんだからなぁ!」

再び棍で薙ぐ。間髪入れずに打突の雨が少年を襲う。夜のように暗い外套が揺らめき、陽炎のように全てをすり抜け、剣が駆けた。しかし、それも男を切り裂かない。棍が剣を阻み、そして足を払う。

少年はそれでも体を回転させ、体勢を崩す事は無かった。

すでに三合、やがて十数号。戦局は拮抗し、剣戟の音が響くのみで互いに決着の音をその夜に響かせる事はなかった。

再び、男が距離を取る。拮抗し、均衡し続ける戦いに先ほどの困惑の色は無く、不適に笑みを浮かべながら、少年を見つめている。

「やぁやぁやぁやぁ…、ホント巫山戯てるぜぇ、お前。そんな隠し玉あるんだったらよぉ、女に戦わせたなんて卑怯つぅかぁ、情けねぇっつうか」

「名乗った時に、俺達の戦いは始まった。巫山戯ているのは、むしろお前の方だろう、詭計の王。別に今から名乗っても無礼とは言わない。戦いの結果がどうなろうと、名乗らないのが心残りにならないように、今此処で名乗っても聞いてやる」

「やたら喋る餓鬼だな…。お喋りは嫌いな方じゃねぇが、お前みたいな餓鬼と話してると吐き気がしてくるんでな…」

明らかな怒気を含んだ言葉。だが、男の笑みは変わらない。少年を嘲笑している事がその男に取ってはたまらなく幸福に近いのだろう。

それ故に少年はこれ以上会話をしたくなかった。鮮烈な眼差しで男を睨みつける。

「同感だな。お前のような男とこれ以上、言葉を交えたくはない」

「そぉかよぉ。なら、なんか言いたい事ねぇかぁ?最後に」

男は棍を肩で静かに打ちながら、少年に“最後”とあからさまに付け加える。そして、少年はその言葉に一言で返答する。

「ない」

—————月は隠れている。夜闇は途方も無く暗い。

「じゃあ、お前ごと“墓標”になっちまいなぁ!!」

—————瞬間、少年を無数の筒が貫き、鮮血をまき散らした。

少年が立つその場所に、少年が立つそのままの形で、筒が無数に突き刺さっている。

「在りし日の墓標ーゴンラ・ヴェーラーだ。糞餓鬼…」

数千年前、とある大陸のとある街のとある教会の名だ。逸話では内乱の果てに墓標を立てる事すら叶わず、内乱で使われた鉄筒が教会の周りに無数に立てられたと記録されていた。

しかし、その墓標が此処に再現された。

血が滴り、その血をを啜り、呼吸をしているかのようなその墓標は、墓標というよりも蛭のそれに近い。

「あぁ〜、やっちまったなぁ…。こんなとこで、使いたくはなかったんだけどなぁ…」

男は変わらず、気怠げだ。その様子に、傷の為、驚愕の為に、口を開けずにいたブレードが、その墓標の出現に力を取り戻す。

「レシ……オ…ン…」

墓標は変わらず人型を成している。

—————しかし、そこに散る鮮血は全身を貫いた人の血の総量には遠い。

「ちと、擦ったな…」

「—————!!」

「糞餓鬼、生きてやがったのか!」

少年はどこにいたのか。夜闇から溶け出すように緩やかに此処に現れた。月の光がその金色の髪を濡らしている。頬と腕を紅色に染め、少年は黒き剣を携え、男に向けて構える。

それがこの戦いの終わりを告げる剣の煌めきだった。

「今夜は決着だ、詭計の王。名を教えてもらおうか」

「詭計の王、グリバーデン・ラ・フォンソだ。次は殺す」

—————鮮血と共に黒き剣が月を割った。

Night prince and Moon Princess

Night prince and Moon Princess

「夜王子と月の姫」 それは”世界”に存在する”星”のお話。 いつしか忘れ去られた悲しい恋の物語。 イリス大陸アークに住むレシオンはとある夜、見知らぬ少女リエルに出会う。 そして少年は己の運命を知る。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-03

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

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  1. 夜王子と月の姫
  2. One week -1-
  3. One week -2-
  4. One week -3-
  5. One week -4-