弓の姫と軍師

田舎者が都会へ出て頑張る話です。多分。

プロローグ

不幸だと思ったことはない人生だった。だからと言って幸福ばかりだったかと言えば、そうとは言えないのだけれど。

少なくとも、わたしは不幸という言葉を身近に感じることのない日々を送っていて、今日と同じような明日が来るのだろうと何の疑いもなく信じていた。

今までのようなこれから。揺らぐことのない確信を、わたしは確かに持っていた。変化なんて、望んではいなかった。だって、楽しかったから。大抵の場合は、幸せだったから。

それでも、変化は訪れる。

今までのようなこれからが、もう二度と訪れないと知った日、わたしの人生は一度、終わってしまったのかもしれない。不幸だった。確かに、不幸だった。この二文字の言葉を、わたしはその日初めて身近なものとして抱いた。

その日は、ずっと雨が降っていた。

ぬかるんだ地面を蹴って、わたしは、わたし達は走っていた。必死に、走った。わたし達のために。明日を掴み取るために。

走って、走って、ずっとずっと走った。後ろは振り向かなかった。前だけを向いていた。大切なものを惜しげも無く手放して、何も持たないで走った。

否、ほんとうに大切なものは、手放さなかった。わたしの手と繋がった、白い手。雨でぐしゃぐしゃになりながら、一緒に走り続けた、わたしの、命よりも尊い彼女の手。

乱れた髪で、顔はずっと見えなかった。けれど、別に良かった。彼女がこの手を握り続けていてくれるから、わたしは走れた。走り続けられた。

遠くにぼうやりと光る灯りが見えた時、わたし達は泣いてしまった。立ち止まって、わんわん泣いた。

もう、走らなくて良かったから。

もう、耐えなくて良かったから。

走った先にあったのは、今までのようなこれからではなくて、目まぐるしく変わる世界と、それに翻弄されるだけの日々。それでも、わたし達は、不幸ではなかった。

わたしの隣には、彼女がいた。

彼女の隣には、わたしがいた。

だから、わたし達は前へと進み続けた。また前と同じようなしあわせを噛み締められる、いつかのために。

第1話 田舎者二人、大陸へ

どんなにすごいことがあったとしても、自分の身に降りかからなければそれは対岸の火事に過ぎない。

自分の世界とは、あくまでも自分が見てとれる部分だけで、広い世界なんて最初から他人事。だから、彼女だって、その例に漏れず自分の日常を怠惰に生きていた。

夏を目前にして、島は緩やかに気温が上がっている。もう少し経つと風は生温くなり、日差しは容赦のない熱を生み出す。今は、まだ、涼しくて過ごしやすい頃合い。

木陰はやわらかい風の音が時折すり抜けていくので、とても好ましい。少なくとも、彼女はそう思っている。

お気に入りの木の下には、ひんやり冷たい石が鎮座していて、彼女はいつもそこに座る。静かな世界、自分の本のページをめくる音。誰もいない、彼女だけの世界。

この世界に浸かっているのが、彼女はとても好きだ。

けれど悲しいかな、その世界はすぐに壊れてしまうのだ。いつも。

馬の蹄の音が聞こえたら、お終いといつだって決まっているから。

「ちょっとエミラ!あんたまた学校サボったでしょ!!」

来た。この状況下で最も聞きたくない声。嫌々ながら本を閉じて、彼女は声の主を見た。

「ビーチェ、うるさい」

ビーチェと彼女が呼んだ少女は、一応この島国の王女様だ。ここは一応王国で、彼女はなもなき民草であり、ビーチェは頂きに立つ姫である。

しかし、ビーチェは姫と呼べるほどおしとやかでもなければ、清楚でもない。

ビーチェはいつだって男物の衣服を身につけ、平気な顔で馬に乗る。いつも背負っている筒の中には矢が入っていて、左手には弓。馬上で鳥や野ウサギを涼しい顔で射止めることができる狩の天才で、お姫様とはかけ離れている。

「あんたが学校サボるからでしょ?先生もおかんむりよ」

そして、島の子供たちと同じように唯一の学校に毎日しっかり通っている。基本的に、この国で必要な公務は少ない。一応島の一番高い場所にある城だって、余所者が見たらきっとただの砦か何かにしか見えないだろう。

「だって、学校で習うところなら、もう勉強し終えたし…」

彼女は島で一番の秀才だ。しかし、協調性にはやや欠ける。案の定ビーチェはため息をつく。もはや慣れてしまったことではある。

「あのね?学校は集団行動を習うための場所でもあんの。つまりあんたみたいな自分勝手なやつを矯正するための場所でもあるってこと」

お姫様らしからぬ言動、お姫様らしからぬ姿。性格もさっぱりしていて、ヘタな男よりよほど男前。密かにファンクラブがあるとか、ないとか。

「たかだか数十人しかいないのに?」

この国は小さい。国民の数だって少ない。よって子供はもっと少ない。彼女らの通う学校は、全校生徒三十七人。教員は五人いて、うち一人が校長を兼任している。

「あんたそんなことでどうすんのよ、今大陸では戦争真っ只中で大慌てだってのに」

「こんな地図でも端の端にある、世界の果てみたいな場所に、戦争が飛び火してくるの?」

現在、ここからえらく離れた大陸では、西と東の陣営に別れて大きな戦争が続いている。西はジントラダ、東はアグレア。どちらも大国で、その勢力は拮抗している。この国も、つい最近西側陣営につくと王が宣言したばかりだ。

しかし、ここは世界地図の端の端に載っている点のような島。ここにまで戦火が及ぶとは考えづらかった。

「そりゃ、そうだけど…とにかく、明日はちゃんと来なさいよ!明日は特別授業だってあるんだから」

「あ、そっか…めんどくさいなあ」

どんなにサボりたくてもサボれない授業、それが特別授業。こればかりは、絶対に出なければならない。

「来なかったらあんたの家の蔵書、全部燃やすわよ」

「行きます、行けばいいんでしょ?」

「ったく、手間かけさせて…」

どれほど面倒臭くても、明日は早く起きて学校に行かなければならない。今日は早く寝ようと彼女は決めた。最近の寝る前の楽しみになっていた小説は、帰ったら読んでしまわないと。

その時だった。

パン、と大きく音が鳴った。

近くの木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立った。二人の顔に緊張が走る。

すぐに動いたのはビーチェだった。ビーチェは開けた場所に出て、空を見上げた。

「ビーチェ、何色?」

見上げる先、城の上空に、赤い煙幕が揺らいでいる。ビーチェの顔が険しくなった。

「赤。急いで帰らなきゃ…」

ビーチェの足はいつだって愛馬のマーラだ。真っ白で毛並みも良い、この島で一番価値のある馬。

近くにつないでいたマーラにまたがると、ビーチェは彼女に手を差し伸べた。

「エミラ、乗って。あんたの出番かも」

「…わかった」

彼女、エミラの顔は、おそろしく真剣だった。

○◎○◎○◎○◎○◎

砦のような城には、珍しく王がいて、臣下達と厳しい顔で何事かを話していた。

王のいる小さな審議室には、臣下達の他に、農夫姿の中年男性、黒いローブをすっぽりとかぶった年齢性別不詳の人物がいて、円卓にそれぞれ座している。

そこに、走って入って来たのがビーチェと、遅れて入って来たエミラだ。

審議室の顔という顔が一斉に二人を見た。

エミラ達は馬を駆ってここまで来たので、髪の毛がすでにボサボサだったが、今はそれどころではない。もちろん誰も何も言わない。

「父さん!何があったの?」

「ビーチェ、それにエミラ…座りんさい。話はそれからだ」

王はひょろひょろした男性で、一応王らしく王冠を載せてはいるが、服は座っている農夫となんら変わらない。頬には土埃の汚れがあって、二人はさっきまで王が農作業をしていたことを知った。

二人の席は、王の座る最奥の席の真向かい、つまり入ってすぐの席になる。おとなしく席につくと、王は笑えないほど真面目な顔で二人を見た。

「ビーチェ、そしてエミラ…とうとう、この日がやって来てしまった」

「父さん、一体何があったの?赤の煙幕なんて、特別授業以外で初めて見たけど」

ビーチェの父親でありこの島国の王は、重々しげに口を開いた。

「…今、大陸間で戦争が続いていることは知っているさね」

「ええ…ランバラルドは西側、ジントラダの傘下に入ることになった」

先日、王は国民に西側陣営に入ると宣言した。今は全くそんな気配はないが、一応この国は戦時中にあるのだ。

「まあそれでね、つい先日、お客さんが来たろう?」

「ええ、船酔いで随分とやつれてたけど」

船旅に慣れていないらしく、随分とげっそりしていた。しばらく医者がつきっきりで世話をしていたからよく覚えている。

王は懐から一枚の上質紙を取り出すと、臣下に渡した。臣下はその紙を重々しくビーチェへと差し出した。

「お客さんはジントラダ政府の使者でね、この文書を置いていった」

受け取ったビーチェの顔は険しい。

「…貴国ランバラルドの英断、誠に感謝する。現在の戦況、熾烈を極める。味方は寝返り敵が仲間に、我が国の勢力の把握も困難極まりなし…味方の証明に、貴国の姫君を我が国に預けられよ。最も安全な場所にて、手厚くもてなすことを約束する…次に月が満ちる頃、パルバタンで姫君を待つ」

最初に口を開いたのは、その隣で聞いていたエミラだった。

「つまり、人質としてビーチェを寄越せと」

王は頷く。

「そういうことさね。拒否権はないし、まあ、こんな日が来ることくらい分かっていたしね…ランバラルドは最果ての辺鄙な島だが、鉄鉱石の鉱脈がいくつもある。両陣営共にこの島を見放してはくれないさ」

対岸の火事は、今や足元にまで迫っている。とうとうこの国にも、戦争の二文字がやって来てしまった。

「父さん、それで私はいつ出立するの?」

人質として来いと言われた張本人は、しかし冷静だった。この文書の意味を、正確に捉えていたから。

「今日の夜、出港さね。今日は満月で、次の満月までしか猶予はない。まあ、大陸に上がってからは馬で駆ければすぐだろうから…」

ビーチェがマーラで突っ走れば、恐らくすぐだ。ランバラルドを真っ直ぐ北上していくと見えるのがジントラダの南端、アローアン。北上するのに一週間、そこから馬で駆れば数日で王都パルバタンに入れるはずだ。

「私はいいけど、エミラは?」

「お付きの侍女として連れて行きんさい。いいかい、ビーチェ。お前は何があってもエミラを守らなければならない」

王と王女は暫し見つめあった。そして、王女は頷く。

「分かってる。エミラは面倒臭がり屋で協調性に欠けるけど、この国の頭脳、私たちの生命線だもの」

「エミラ、頼んだよ。何をすべきかは、分かっているね」

エミラは、ただお付きの侍女としてついていくわけではない。彼女が動くということが何を意味するか、それを王もビーチェも、この国の者は皆理解している。

エミラは席を立つと、すぐ横で王に向かって膝をついた。

「御意」

「さあ、二人とも支度を。特にエミラ、持っていける本には限りがあるからね」

「…わかっています」

「あとは、いいね。さあ、皆、持ち場につきんさい。これからこの国一番の繁忙期だ」

○◎○◎○◎○◎○◎

持っていく荷物はもう決まっている。だって自分で持って歩くのだから、どれくらいまで、というのは分かり切っている。

エミラは非力な娘である。よって、分厚い本なんて持っていけるわけがないのである。

しかも、大陸は戦火にある。となると、走れるだけの身軽さでなければ、命を落としかねない。

皮の肩掛けカバンの中に入れたのは、カンテラ、火打ち石、ナイフ、そして非常食。これだけ。

部屋の壁一面を埋める本棚に、本は一冊も入っていない。すべて、裏庭に放棄した。これから、最後の仕上げをする。

学文書はすべて頭に入れてある。娯楽小説くらいは残しておきたいが、ヘタをすればこの国の土を二度と踏めないかもしれない。なら、置いていく必要もない。だから、すべて捨てる。

それにもし、この国が侵攻された時、何も手がかりを与えてはならないのだ。だから、本という本を消しておかなければいけない。

すでに太陽は沈みかかっている。もうすぐ、出立の時間。この国と、さようならをする時間。

一人きりの家を出て、エミラは何時もの場所に向かった。お気に入りの場所、自分だけの世界。

そこは彼女の家の裏の林の奥にある。いつもはこんな時間に行かないのだけど、今日は特別。

薄暗闇の中、空からの光でちょっとだけ明るい場所を歩いていくと、目的地はすぐそこ。木の下に鎮座している大きな岩、エミラの特等席。

エミラは岩に腰掛けて、空を見上げた。もうすぐ、完全に夜の帳が下りる。

さっきは、気楽にここで本を読んでいた。ビーチェだっていつもの様子で。でも、それももうお終い。戦争の中に、これから行くのだから。

茂みから音がして、エミラは顔を向ける。

「やっぱり、ここにいた。あんた、本は?」

ビーチェは馬ではなく、歩きでここまで来たようだ。マーラのいななきは聞こえない。

「これから捨てる。付き合ってくれる?」

「いいよ、それくらい」

裏庭に、捨てられた本の山。それらがどれくらいエミラにとって大切なものか、ビーチェは知っている。

二人は、家までの道を何も言わずに歩いた。

いつもは先を歩くのはビーチェだが、今日はエミラが先を進んでいる。あくまで、ビーチェは付き添いだ。

林を出ると、山になった本が見えた。先ほど、エミラが一人で積み上げたものだ。

エミラはポケットから火打石を取り出すと、手早く火種に火をつけて、そのままそれを本の山に放り投げた。

すぐに火は燃え広がり、本の山は火の山になった。

「ビーチェ、見ててね。これが、私の覚悟」

「うん」

赤々と燃える火に照らされた横顔を、ビーチェは複雑な思いで見ていた。

「さよなら」

本が燃え尽きるまで、二人はじっと見守った。

○◎○◎○◎○◎○◎

満月ののぼる空の下、二人を乗せた船はランバラルドの港を出た。船には何人かの従者とマーラ、それにしばらくの食料などが積み込まれた。

島総出での見送りになった。二人の学校の生徒も、皆来た。泣いていたり、不安げだったり、意地を張っていたり。けど、最後は二人の無事を祈って大きくてを振ってくれた。

船はそれなりの大きさがあり、二人のいる船室からは海中が見える。今は、真っ暗だ。

「でも普通、朝じゃない?こんな辺鄙なところに見張りとかっているの?」

この国に来るには、船で何日もかけて海を渡り、そして唯一の港から上陸しなければならない。しかし、そんな不審者は今の所いない。

「裏切り者なんて、どこにいるか分からないから」

最初から、あの中にいる可能性だってある。どうやって大陸と通信しているか、という疑問はあっても、可能性はゼロではない。

「まあ、そうだけどさ」

「…夜出たのは、単に朝出るとこの辺の渦潮に巻き込まれる可能性があるから。今から出れば、昼にはそのエリアを抜けられる」

この先に、海流がぶつかり渦になる地点がある。そこにはまると、最悪船が沈む。だからランバラルドを発つ時は、決まって夜なのだ。

「そういうことね。でも、これから一週間は船の上…感覚か狂わなければいいけど」

「ビーチェなら、まあ、大丈夫じゃない?」

「そういうあんたはどうなのよ。言っとくけど、ゆっくり行く暇ないからね」

「わかってる」

あまりもたもたしている暇はない。

今日は満月。次の満月までに、西の都パルバタンへ行かなければならない。

「迎えを寄越さず、私に来いと言ったってことは、私が期日までに行くことが恭順の証になる…つまり、私が死んだら」

「世界地図から、ゴマ粒の島が消える」

「なんとしても、パルバタンへ行かなきゃ」

「意外と、国に着いた思ったら殺されたりしてね」

鉱山が欲しいだけなら攻め込めばいいのである。恐らく、西側の上層部は揉めているはず。

「可能性は否定できないのよね…鉱山の島なんて武器庫にはぴったりだもの」

「どんなにはやい船でも、ランバラルドまでの航路は数日かかる。でも、その中継地点を押さえさられれば戦況はどちらかに傾くかもしれない」

武器庫を手に入れるのは西か、東か。最果ての島だけど、ランバラルドだってかやの外ではない。

「私たち、それなりに重要人物?」

「かもね。大陸では賞金かけられてるかも」

「まあ、どんな大男に襲われたって、あたしは負ける気はしないけど」

ビーチェは強い。腕っぷしだってそこらの男よりずっと強い。でも、お姫様なのだ。

男勝りなお姫様は、エミラを見た。その瞳は笑っていない。

「エミラ、あたしから絶対に離れないで。あんたに死なれたら、ランバラルドは終わりなんだから」

「分かってる。私たちは生命共同体。片方が死んだら、もう片方も死ぬ」

だから、あなたの手は離さない。

「絶対に、パルバタンへ行くわよ」

「うん」

こうして、田舎者は一路、大陸へと向かった。

第2話 田舎者二人、上陸

船が大陸の南端に着いたのは、予定より一日早い六日目の夕暮れだった。

荷物を港に降ろし、宿にたどり着く頃にはとっぷりと夜が更けていた。同行した数人の従者たちが大体のことはやってくれたので、二人は安心してベッドにダイブした。マーラは近くの馬小屋にお泊りしている。何頭かいたが、白い馬はマーラだけだった。

一行が泊まる宿は海に面した表通りにあり、五階だてで海を眺望できるテラスがある。観光客で賑わう名所だけども、今は戦争の影響からか軍人やその関係者が多い。途中、避難のために街を出て行く人もそれなりに見かけた。

二人の部屋は二階の端で、ベッドが無造作に置かれただけの簡素な部屋だった。しかしながら大陸に無事つけたこと、すでにクタクタなこともあり、二人は何も言わずに、以下同文。

「やった、大陸に着いた」

この六日間、二人は果てしない海と海中の魚と空と海鳥と潮風だけに囲まれていた。星は綺麗だったけど島でも飽きるほど見たから目新しくない。普段馬で島の大地を駆け巡っているビーチェからすれば、とても辛い日々だった。ちなみにエミラは基本寝ていた。

「明日すぐに王都に向かうべきだと思ってたけど、雨が降るみたい」

近くの売店で買った新聞の天気予報によると、明日はここら一帯が雨らしい。しかも、長雨になるかもしれないらしく、ここに長く留まる必要があるかもしれない。

「そうね。まだ時間はあるし、焦らなくても良さそう」

「あんまりマーラを酷使しないで済むといいけど」

ここアローアンから王都パルバタンまでは馬で三日から四日はかかる。女二人を乗せたマーラなら、恐らく五日もあればつく。

「まあ、何日もぶっ通しで走ったってマーラは平気な子だけど…あんたがダウンしそうね」

ビーチェ一人なら三日もあれば十分だが、いかんせんエミラがいる。エミラは自他共に認める運動音痴で体力もなく、馬だって一人では満足に乗りこなせない。

「私の体力のなさ、ビーチェは知ってるでしょ?それに、ここも近く戦場になるかも」

「…そうね。アグレアの軍勢が最近になって盛り返して来てるって聞いてたけど、結構すごいみたいね」

エミラは頭の中の勢力図を広げていく。大陸は楕円に近い形をしていて、楕円の中央には大きな湖がある。よって移動のためには湖の上か下のどちらかを通らなければならない。湖には昔は大きな橋がかかっていたが、開戦時に崩落した。

ランバラルドは世界地図で言うと、ずっと下にある。世界の果ての島と呼ばれるのも、ランバラルドより先に島がないから。東西どちらよりかと言えば西寄りにあり、地図でも左側にある。だから真っ直ぐ北上するとアローアンに着く。

「『東には、神の声を聞く巫女がいる』『西には、世界を統べる神の子がいる』…これを聞く限りだと神の子のほうが強そうな気がするけど」

東のアグレアは正式名称を神聖アグレア・ヴァーレ帝国といい、皇帝が頂きに立つ。現在の皇帝は同時に巫女でもあり、神の意志のままに指揮をとるとされる。

西のジントラダは正式名称をジントラダ王国といい、王が頂きに立つ。現在の王は神の子であるとされ、神の名の下に戦っている。

もともと、この大陸は東はアグレアが、西はジントラダが元締めのような存在だった。今回の戦争は、アグレアとジントラダの戦争に諸国がメンツや存亡をかけて参加しているもので、アグレアとジントラダの二国間の対立に諸国が巻き込まれている形になる。中立なんて言おうものなら次の日にはその国は地図から消えている。だから、皆戦争に参加せざるを得ない。

神の意志と神の子なら、確かに後者の方が威力はあるような気がする。しかし、戦争はそんな簡単なものでもない。

ビーチェはすでに戦局がどうこうという予想を立てることは放棄しているので、すべてエミラに一任という名目でぶん投げている。

「それを調べるのはあんたの仕事。でも、巫女姫って基本戦場には出て来ないんでしょ?それほどの求心力はどこから来てるんだか」

開戦した一年前から、どちらの陣営が勝つか、また、終戦時の被害はいかほどかを、エミラはその都度予測してきた。

開戦直後は東側が優勢だと言われていたが、それから半月も経たずに湖を囲む国、つまり大陸の中心にある国リーストが西側陣営に加わることを宣言し、西側の軍勢が東側へとなだれ込んだ。西側が交通の要所たる上下の道を掌握したため、一気に形勢が逆転した。

エミラは当初から、この戦争の長期化を予見していた。西側が一気に東側を攻略し尽くすと予想されていた中、エミラは東側が兵を味方陣地に温存している可能性を指摘していたのだ。案の定、勢いのままに突進した為、東側の地形を把握し切れていなかった西側の連合軍は度重なる敗走を喫し、勢力図は一ヶ月で元の形に戻った。この時点で西側は随分と兵を消耗した。

東側優勢へと再び傾くかと思われたが、そうはならなかった。半年以上、不気味な休戦状態が続いた。西側にとっては態勢を立て直すのに十分な時間だったと言えるが、東側にとっては敵に塩を送るようなもの。しかし、エミラはこの不気味な休戦状態は、東側にとってとても重要な意味を持つと考えていた。

休戦状態の解除は、東側の大連隊によるリーストの首都ボローワへの急襲がきっかけだった。ボローワを制圧した東側は、そのまま西側へと進軍し、一気に勢力を拡大させて行った。西側が東側へと進軍した時と違い、順調に進めたのは地理地形を東側が把握し切っていたから。エミラは半年の休戦状態が、このためのものだと予測していたのだ。

「あんた、よく分かったわよね。現地にいるわけでもないのに」

ベッドに寝転がったまま、ビーチェはそこそこ感心した顔で隣のベッドのエミラを見た。

対するエミラはどうでも良さそうで、でも少し嬉しそうな顔をしている。エミラは少々意地っ張りな性格なのだ。

枕に顎を乗せ、当時のことを振り返る。

「そりゃ、それを予測するのが私の仕事だし。一応、ゴマ粒の島の頭脳なんで」

「なんで分かったの?地理地形を把握するため、なんて」

特別授業で、ビーチェもどちらが勝つかの予想は立てたりしたのだが、いつもエミラに鼻で笑われていた。悔しいが、エミラの立てた予測の的中率は百発百中で、こればかりは敵わない。

「開戦直後に来た西側の陣営の人、覚えてる?」

「ああ、えっと、西の参謀ペルトーカね」

開戦から間も無く、東西両方の陣営から使者が来た。東はアグレアの神官が、西は連合軍の参謀がそれぞれやって来た。

「そう、ペルトーカって人が言ってたの。東側の敵兵の荷物の中に、西側の地図は全然無かったって」

ペルトーカはそのことに首を捻っていた。これから敵地へ行くとは思えないからだ。頭に地形を叩き込んでいたとしても、なんらかの地図は持つはず。部隊長を捕らえて取り調べをしても、そもそも地形を把握していないと答えたという。

「初めて聞いた時は、準備ができなかったのかと思ったんだけど…必要ないから持ってないんじゃないかって思ったの。半月経って優勢になった西側の先頭部隊は結構奥の方まで行った。この辺は新聞の記事とかのが詳しいだろうけど、そこで尽く待ち伏せしていた東側の部隊にやられてる。西側は勢いだけで進んで、結果進み過ぎて(・・・・・)しまった。だから東側の罠にまんまとはまった」

「最初っからおびき寄せて叩くのが目的だったと?」

西側の優勢は、東側のお膳立てによるものだった。そうなると、そのために死んだ東側の兵が哀れに思えてくる。

戦争を動かすのはお上で、動かされるのは名もなき兵たち。いつの世もそれは変わらない。

「そう。奥まで入りすぎると、戻るのにも時間はかかる。態勢を立て直すべく西側は撤退するとなると、東側には時間が生まれる。その猶予時間が長ければ長いほど、東側はより細かい、地図にすら乗ってないような道や河川を把握できる。西側が疲弊している時に伏兵を派遣しておけば、停戦が終わる頃には西側のそういう情報は全部東に流れる。運が良いことに西側は随分と消耗してたから、時間はたっぷり取れた。全部東側の思惑通りだろうって、思ったわけ」

「なるほどねえ…あたし、てっきり東側がこのまま行くんじゃないかって思ってた」

「でも、西側だってそこまで馬鹿じゃない。あのペルトーカって人、その辺はちゃんと考えてる。どんなに地理地形を把握出来たとしても、地の利は西側にある。だから東西入り乱れて泥沼化する流れになるって決まってた」

でも、とエミラは思う。東はまだ何かを隠している気がする。そして、それが戦局を左右する一因になるのではないかと、勘繰ってしまう。何より、東側の動きには不審な点が多い。

突拍子もなく特定の村や集落を狙ったり、西側の陣営の集合している地点に奇襲をかけたり。単なる戦争に勝つという目的だけでなく、何か重要な目的が、東にはある気がする。

「もう一年だもんね、で、ここアローアンも近々戦火に包まれると」

窓の外には、いかつい顔の兵隊たち。長閑な風景とは言えない。

「東側がアローアンを押さえたら、ランバラルドは東側のものになるかもしれない。多分、東側がここを突ついてくるのはもう少し先だけど」

ただ、東側の行動は読めないところが多い。戦略的な予測を立てても、その通りにはならないかもしれない。つまり、いつ、このアローアンが襲撃されるかは見通しが立たない。

「でもまあ、その前にここを出ないとね。生きてパルバタンに行かなきゃだし」

ビーチェが死んだら、西側はランバラルドを制圧しに来るだろう。船で逃げるにも時間がかかるし、数が限られている。ちっぽけな島の未来は、男勝りな王女と協調性のない小娘にかかっている。

「雨が止んだら、すぐに出よう。王都までの道は、どこを行くつもりなの?」

「ひとまず、公道は使えないでしょ?あたしを見てどこぞの姫だと思うやつはいないだろうけど、女二人が旅をしてるなんて目立つに決まってる」

遠目から見れば、ビーチェは少年に見えるだろうが、近くで見れば少女だとばれる。ここまで一緒に来てくれた従者たちは、またすぐにランバラルドへ戻ることになっている。従者たちは男三人に女一人で、皆島でやるべきことがあるため一緒には来ない。となると、女二人なんて、目立たないわけがない。

ビーチェは弓が得意だが、剣だって扱える。ビーチェは強い。訓練された兵士に負けないくらい。でも、エミラは弱い。だから、エミラを守らなければならない。

エミラを守りながらだと、ビーチェに負担がかかる。でも、公道は使えない。

「地図で確認したけど、この先すぐのアザン山道を使うと近道になる。もしかしたら西側の部隊がいるかもだけど、敵じゃないんだしなんとかなるでしょ」

アザン山はアローアンのすぐ北にある山で、ここの山道はあまり使われることがない。道幅が狭く、進みづらいのだ。

しかし、アザン山道は悪路だけど、背に腹はかえられない。道が入り組んでいるから、東側だってここを攻めるのは躊躇うはず。

「なんとか、ね。そうなると護衛付きで王都まで行けるかもしれないし…でも早くつきすぎるのも問題か」

期限は次の満月。その前に王都に入ったとしても、迎えの者はいない。

でも、ビーチェは笑う。

「路銀はそこそこ貰ってるし、なんとかなると思う。王都観光なんて楽しそうじゃないの」

ど田舎の島からやってきた二人が、王都になんて行ったら迷子になるしぼったくられるに決まっている。エミラは歩くのがそんなに好きではない。よって観光なんてしたくない。

「田舎者よろしくお上りさんになれって?」

かと言って、別にビーチェだって物見遊山がしたいわけじゃあ、ない。必要があるから言っている。

人質として王都に行くということは、これから王都で過ごすということ。ならば、住む前にある程度のことを把握しておいた方が良い。

「だって、あたしたち都会の人の中でこれから生活すんのよ。分かってるでしょ、あたしたちが住む場所」

「王都、柱の城…」

王都パルバタンの中心、柱の城。幾つもの柱が乱立していることからその名で呼ばれる、神の子のお膝元。

「そこではあたしだってこんなカッコはできないし、所作だって。なら、その予習をしといても、バチは当たらないでしょ」

ビーチェは分かっている。田舎者で男勝りだけど、自分は王女。本来ならこんな格好ではなく、その身にふさわしい衣装を着る必要がある。所作だって、それにふさわしいものでなければいけない。

「まあ、そうだけど」

「ごきげんよう、とか言わなきゃいけないのよ?今から寒気がする」

「ビーチェ、似合わないことはするものじゃない」

エミラは結構真剣に言った。ビーチェはこめかみに青筋を立てたけど、自分でも分かっているから怒れない。

「うっさいわね、分かってるわよ。でも、しなきゃいけなくなるの、これからは」

ビーチェは女の子らしいことが苦手で、本当ならやりたくなんてない。でも、近いうち、やらなければならない。

「ごきげんよう、か」

これからそんな女の子らしいビーチェを見るのがちょっと、信じられない。でも、エミラだってそれらしいことをしないといけないのは同じ。

眠る前に、しおらしく振る舞うビーチェを想像して、エミラは薄ら寒くなった。

○◎○◎○◎○◎○◎

次の日、大雨が降って二人は部屋でおとなしくすることになった。

何度か従者たちが部屋にやってきて、これからのことを話した。雨が止んだら、従者たちは島に帰る。これからは、二人きり。

「いっそあんたをお姫様ってことにして、あたしはその護衛ってことにするのどう?」

朝食の際、ビーチェは良案とばかりに言った。

「えー…」

朝食はパンとお茶と卵を焼いたもの。それだけ。パンが柔らかいので、二人にはなんの不満もない。

もしその案を飲むとなると、ビーチェがえらく危険になる。けど、エミラが護衛というのも確かに無理がある。

「あんたのが細くてそれっぽく見えるでしょ、事実あたしがあんたを守るんだし」

「うーん、まあ、いいけど…私、囮」

「囮くらいしかできないでしょ、あんたなら」

ビーチェなら、いざとなればエミラを担いで走ることだってできる。でも、エミラには無理だ。

「そうだけどさ」

「荷物の中にひらひらした服あるから、それっぽくしといて」

エミラだってそんな女の子らしいわけではない。島にいた時、いつも着ていた服は地味で華やかさのかけらもないものばかりだった。

二人とも、女の子らしさとは離れた場所にいる。生物学上女ではあっても、年頃の女の子らしさは微塵もない。片や馬上での狩りが得意で、獲物を難なく捌ける男勝りな少女、片や寝食も忘れて本に夢中になる本の虫な少女。

でもこれから行く場所にいる同年代の子達は、皆ひらひらした服に身を包み、物腰柔らかで重いものなんて持てませんって顔をしている。

「予行練習になるかもね」

「どんな練習なのさ、それ」

気は進まないけど、でも、エミラにできることはそれくらいしかない。

朝食を食べ進めていると、外で物音が聞こえてきた。人の、争っている声。

「…なんか、窓の外が騒がしい」

ビーチェが、思い出したように声をあげる。

「さっき、子供がパンを盗んだんだって。たまたま警察がいたからすぐ捕まったけど」

この雨の日に?

窓の外を見てみると、確かに通りには人だかりができていて、その中心で警察官が子供を取り押さえている。子供は薄汚いなりで、食う物欲しさに盗み出したように見える。

「この雨の日に、わざわざ」

「この辺って、浮浪者多いんだってね。だからああいう子供がいたっておかしくないんじゃない?」

丸裸のパンを後生大事に抱きかかえる少年と、その少年を捕まえた警察官。そして出来た人だかり。

嫌な予感がする。理由はない、これは直感。

「ビーチェ、今すぐベッドの下に隠れて」

「なんで?」

「いいから!」

ビーチェは不審な顔をしつつもベッド下に潜り込んだ。エミラがこういうことを言う時は決まって意味があると知っているから。

二人がベッド下に隠れたその直後、雨音をかき消す、大きな爆発音が聞こえた。

「な、何?!」

二人がさっきまでいた場所は衝撃で窓が割れてガラスが散っていた。ベッド下まで粉塵が舞い込み、視界がたいへん悪い。

「ビーチェ、急いでホテルを出よう。雨とかそんな問題じゃない。もう、ここは戦場になる」

ベッドから這い出ると、エミラは蒼白の顔でビーチェの手を引っ張った。エミラはかばんだけひっつかんで、ビーチェは矢筒と弓を持って部屋を出た。従者たちのことが気になるが、残念ながら手は回らない。

廊下を走り、階段を飛ぶように駆け下りる。足の速さはビーチェの方がずっと上だから、最終的にはビーチェがエミラの手を引いて走っている。

「さっきの子供と警察官は?!」

「たぶん、自爆テロ。あのパンは、爆弾か何かだった」

「子供になんてことさせんのよ!」

二人は表の入り口ではなく、避難用の裏口から外に出た。マーラのいる馬小屋へと、ひた走る。

馬小屋は今しがた爆発のあった通りとは逆の方向にある。逃げ惑う人の流れに沿っていくと、十字路にぶつかった。もう秩序はない。悲鳴と怒声とでしっちゃかめっちゃかで、とにかく街から出ようと皆、真っ直ぐ前へ行こうともがいている。昨日、逃げておけば良かったのに、とエミラは思った。けれど、この様子だと、昨日逃げ出した人もどうなっているか分からない。

踏み潰される老人、他者を押しのけて先へ行こうとする若者、泣いている子供、空に祈る女性。

そして、爆発音。

二人は人の流れから離れて横道にそれた。この先に、マーラはいる。

ガラス片、赤黒い水溜り、鉄錆のにおい、雨。

雨のおかげでそこまで燃えることは無いだろう。雨脚は強い。でも、その分音が響かない。何が起きているか、分からない。

横道をまっすぐ進むと、馬小屋が見えてきた。

「マーラ!」

白い毛のマーラは逃げ出すことなく小屋の中にいた。昨日見た他の馬は一頭もいない。

「エミラ、この雨でアザン山道を行くのは無謀よね」

瞬時に脳内で他の道を探すが、何もヒットしなかった。

「でも、他の道はたぶん…」

きっと公道には敵の軍勢。道は一つしかない。

「あたしにつかまって、振り落とされないで」

凛とした横顔に、エミラは黙って頷いた。

遠くから、また爆発音が聞こえる。人の悲鳴も。

時間はない。

二人はマーラにまたがると、そのままアローアンを抜け出した。

途中、昨日アローアンのあちこちで見たものとは違う軍服の行進を見た。

東の兵隊は、公道の上、列を乱さず騒乱に落ちたアローアンへと消えていく。

その様子を、エミラはじっと見ていた。

東側が、アローアンを奪いにやってきた。ランバラルドが、危ないかもしれない。

でも、エミラ達はパルバタンへ行かなければならない。二人にできることは、それだけ。

「スピード上げるわよ。口閉じてて!」

エミラは、マーラの、甲高いいななきをどこか遠くに聞いていた。

雨が降っている。でも、爆弾のテロ。さっきの子供がパンを後生大事に抱きかかえていたのが、火薬が濡れないためだったなら。

「戦争って、くだらない」

ビーチェの腰にしがみついて、エミラはこれからのことを考えた。東の動きが見えない。一刻も早くパルバタンへ行かないと、本当に死んでしまう。

東の目的は何なのだろう。あんな子供にあんなことをさせて、何がしたい?

戦争に勝つためだけではない。何かを、絶対に隠している。ではその何かは、一体。

アグレアの目的を知らなければ。でなければ、なんの予測も立てられない。俯瞰するように戦局を見ることはもうできない。エミラ達は、大陸の上にいる。

その日、二人と一頭はアザン山道へと入った。

第3話 田舎者二人、進路変更

アザン山道に入って一時間以上経過した。雨はやや弱くなったものの、風があるため邪魔臭いことこの上ない。

山道はうねりながら北へ伸びていて、迷わず北へ出ることが出来れば王都へと続く街道に出ることができる。二人と一頭は今のところ北への道を進んではいる。

既に濡れ鼠の二人は、このままだと風邪を引くことが宿命づけられているくらいで、どこかで休息を取る必要があった。残念ながら休めそうなところは見当たらないのだけど。

「どうする?このまま進む?それとも…」

「もうちょっと進んで。確かね、この先に休憩用の小屋があるはず…私たちが北への道を行ってれば」

「ま、行くしかないわね」

ビーチェは丈夫だが、エミラは貧弱だ。一時間以上雨に当たっているから、体は冷え切っている。早くエミラを休ませないと、まずい。

気持ちは急くのに、道幅が狭いからスピードは出せない。しかも、雨。最悪滑落する可能性もある。

「エミラ、死なないで」

ビーチェの言わんとしていることが伝わっているのかいないのか、エミラはちょっと怒った声で呻いた。

「生きてるよ」

生きててね。あんたがいないと、全部がダメになるんだから。

自分にしがみつく細い腕が、離れませんように。祈るように、ビーチェは目を閉じた。

それからしばらく黙って、二人と一頭は先を進んだ。雨は、止まない。

○◎○◎○◎○◎○◎

エミラが言っていた通り、道を進むと小屋が見えてきた。木造のちんまりとしたものではあるけど、二人には十分だった。だって雨漏りしていない。

近くに家畜小屋だったようなものが残っていて、マーラにはそこに入ってもらった。屋根があるからなんとかなるだろう。たぶん。

小屋には簡素ながらベッドやテーブルなどの家具が置かれていて、割と綺麗な服も何着かタンスに入っていた。男ものだけど、贅沢は言えない。二人とも黙って着替えた。

既に意識を保っているのがやっとなエミラをベッドに寝かせて、ビーチェは暖炉に火を灯した。勝手にエミラのカバンの火打石を借りたけど、怒らないと信じる。

窓が風でガタガタと揺れる。雨脚は弱まって来たけど、風が強くなった。

島のこと、置いて来た従者のこと、これからのこと、心配ごとは尽きない。でも、行くしかない。エミラと二人で、王都まで行くしかビーチェにはできない。ちっぽけな自分達では、それくらいしか。

ただ、王都に行くだけならビーチェ一人で十分で、エミラはいらない。でも、ビーチェの父、ランバラルドの王はエミラを連れて行けと言った。

エミラは、ランバラルドの頭脳であり生命線。エミラの導き出した答えが、島の行く末を決める。何より、エミラの言うことは大体合っていて、滅多に外れない。この戦争の行く末も、きっと情報さえ手に入ればエミラは寸分の狂いなく予測できる。

今は戦争の真っ只中で、ついさっき、二人がいた街も襲撃された。こんな時に、王都に行くから、だから、エミラが必要になる。

実際のところ、西側にとって必要になるのはビーチェではなくエミラなのだ。ランバラルド王が西側に何と言ったのかは知らないけど、エミラという島の生命線を差し出すことの意味は、軽くない。

権威のためにビーチェは行くけど、あくまでもそれは大義名分。賄賂であるエミラの頭脳こそ、西側にとってとても価値がある。ビーチェは島のこれからを左右するエミラを守るために、ここにいる。

エミラの、寝顔を見た。ちょっと顔が赤い。まさかと思って額に手を当てたら、やっぱり熱い。

「今晩はここに泊まりね」

お腹が空いたけど、この辺に獲物はいるんだろうか。

○◎○◎○◎○◎○◎

ポロン、ポロン…

弦が弾かれる音。高音で、でも柔らかい。

どこかで、聴いたことが、あるような気がする。でも、どこだろう。思い出せない。

ポロン、ポロン…

ひたひたと近づくたびに、音は大きくなる。ここは暗くて、何も見えない。

「お前は、わらわを裏切らないでいてくれるね」

誰?その声を、自分は確かに知っている。知って、いるはずなのに。

高くて、神経質そうな声。陶器のように滑らかで、でも、ちょっととげのある。

なおも進むと、音はふと止んだ。あたりは今も暗くて、何も見えない。

「…わらわは、待っているよ。お前が、わらわのもとに帰ってくるのを」

あなたは、誰?どこにいるの?

問いかけは声にならない。暗闇から聞こえる音は、幻のよう。

あなたは、どこにいるの?

手を伸ばしても、何もつかめない。

「だから、覚えていて。わらわのこの音を、わらわの願いを」

あなたの願いって、なに?

突然、暗闇は霧散した。急に眩しくなって、目を覆う。

「はやく、帰ってきて。わらわは、そんなに気が長くないから」

あなたを、知っているの。すごく懐かしい、あなたの音。あなたのことを、知っているはずなのに、何も思い出せない。

「待っているよ。愛しいお前を」

やっと、目が慣れて手をどけたら、もうそこには、誰もいない。

あなたは、誰?

知っているはずなのに、分からない。

ポロン、ポロン…

この音を、どこで聴いたのだろう。ひどく、懐かしくて、愛しいこの音を。

待っているよ、ここで、お前をーーー

あと少し、あと少しで、あなたを思い出せるのに。

あなたは、私の、

「私の、なあに?」

ポロン…

ねえ、教えてよ。お願いだから…

○◎○◎○◎○◎○◎

エミラが目を覚ますと、辺りは薄暗かった。

すぐにここがどこだか考える。アザン山道に入って、しばらく来て、途中の小屋で休むことになって、

「ここが、その小屋…か」

そういえば、服を着替えた。前着ていた服は暖炉の前に干されている。でもこの服は、着替えた後の服とも違う。

小屋のどこにも、ビーチェはいない。雨は止んだみたいだから、食料を探しに行ったのかもしれない。

「朝?夜?」

のろのろと起きて、ベッドから降りる。足取りは少し重い。熱がある。あの雨でやられたみたい。そこまで、ひどくない。もう少し休めば動けるはず。でも、何か飲まないと脱水症状を起こす。

窓から外を確認する。月も星も見えない。

「…夜じゃない、朝だ。え、何日経った?」

てっきり、夜だと思っていた。でも、朝だ。薄暗いのはまだ太陽が昇っていないから。鳥のさえずりも聞こえてきた。

途中変な夢を見たから、眠りはきっと深くなかった。

「ビーチェ?」

やっぱりビーチェはいない。

水を飲まなきゃ。喉が渇いている。

あと、お腹も空いた。最後に食べたのは、ホテルでのパンと卵。あの柔らかいパンが恋しい。

ふらふらの足でベッドに戻る。

「ビーチェ、ごはん…」

「あたしは食料じゃないわよ」

「!ビー、チェ」

びっくりして前を向くと、扉の前にビーチェが立っていた。

「と、うさぎ…」

王女様はうさぎを二羽ほど仕留めてきてくだすったようで、すでに二羽とも息はない。

「これだけあれば十分でしょ?あと、木の実とか、キノコとか…ちょっと分からないのもあるから、この辺はあんたが選別して」

テーブルの上にゴロゴロと食料が広げられる。赤や黄色の木の実に、茶色のキノコ、白いものもある。

「この、黒い木の実は…」

「近くにたわわになってる木があったわ。食べれるの?それ」

つやつや光る黒い木の実。掌に収まる球体、ずっしり来る重さ。

エミラの脳内で、現在の相場予想が瞬時に展開して行く。このご時世だと平時よりも値が格段に高いはず。

「ねえ、ビーチェ…私たち、今、いくらもってる?」

食べられそうなキノコを鍋に放り投げていたビーチェは、そこで顔を青くさせた。あの時は必死だったから。

「…あたしのカバン、ホテルに置いてきたかも」

そう、すっかり忘れていたけど、二人は今何も先立つ物がない。路銀はビーチェの荷物の中にあって、その荷物はホテルに置いてきてしまった。

「無一文…だよね。なら、この黒い木の実はたくさん持っていこう。これは薬屋に持って行けばお金になる」

「そうなの?」

「この黒い木の実は、プラヌラって言って、皮も種も薬になる。しかも、あんまり手に入らなくて貴重だから、いくつか売ればしばらくの路銀になる」

プラヌラをカゴ一杯に詰めれば置いてきた路銀分にはなるはず。

「りょーかい。じゃあ、食べ終わったらとりにいってくる」

ひとまず選別したキノコを入れた鍋に水を注いで、ついでに摘んで来た香草を入れて火にかける。ビーチェの作る鍋料理は大抵肉のごろごろ入ったものになる。もちろん採れたて新鮮。

ウサギをさばくべく席を立ったビーチェに、エミラは待ったをかける。

「あ、ねえビーチェ…」

「何?」

それらしい(・・・・・)音、今までに聞いた?」

ビーチェの顔つきが固くなった。

「…遠くで、それらしきことが発生してる可能性はある。今戻ってくる時、アローアンで聞いたような爆発音に似たの、聞こえてきた」

アローアンには兵士がそこらにいた。西側だって支度をしていたはずなのに、奇襲にあれほどやられたとするなら、あまり本腰を入れて構えていたわけではないのかもしれない。

でも、このまま北上されると王都は目と鼻の先。二人が王都に入る前にパルバタンが陥落するなんて笑えない事態だって起こりうるかもしれない。

「となると、ここらも危ないから、すぐに出た方がいいね」

「このまま進むのはまずいでしょ?道を変えるとしたらどこを進むの?」

今のところ、二人は山道をまっすぐ進んでいる。でも、進路変更をしないと危ない。

「この先急な斜面に出る道があるはずなんだけど、そこから山を下りたら街道とは違う細い道に出られる」

ただ、今までの雨がある。それこそ滑落するかもしれないし、マーラが転ぶかもしれない。

「その細い道って?」

「パルバタンの近くの街の裏側に出られるはず…今街道に出るのは危ない。山道にまで来たってことは、王都も視野に入ってる」

「りょーかい。東側の兵隊とかち合うんじゃ意味ないしね…その急な斜面、馬じゃないと下りれない?」

ビーチェも考えていることは同じ。平時ならマーラで駆け下りればいいところだけど、今の地面でそれはあまりに無茶だ。

「滑り落ちた方がいいのかも。行って実際に見ないとわからないけど…」

地図は頭に入っているけど、さすがに現地の状態まではわからない。この雨で地面はえらく柔らかくなってしまった。

「じゃ、まずは腹ごしらえね。悪いけど鍋見てて」

それだけ言うと、ビーチェは今度こそ小屋を出て行った。

まだ、体調は万全じゃない。でも、ここにとどまって居たら命の危機に瀕する。

ご飯をしっかり食べれば大丈夫だということにして、鍋を漫然とかき混ぜる。キノコと香草の香り。調味料はない。せめて塩が欲しい。

「…」

今まで見たことのない夢だった。

語りかけて来る声、懐かしい音。でも、それをどこで聴いたのかは思い出せない。

わらわは誰で、どこで誰を待っている?

もし待ち人がエミラだったとしたら、てんで見当がつかない。だってわらわ、なんて大それた一人称の人物を知らない。

エミラの知り合いの中で一番地位の高い女性は、ビーチェだ。そのビーチェは、あんな声じゃないしわらわなんて言わない。

でも、知っている気がする。だって、とても懐かしいと感じた。

「でもごめんなさい、私…王都に行かなきゃ」

あなたの待っている場所に、きっと行くことはできない。それどころじゃ、ないから。

○◎○◎○◎○◎○◎

手早くウサギを新鮮な肉片に変身させてビーチェは帰ってきた。煮立った鍋の中にお肉がごろごろと沈んでいく。

肉に火が通ったところで木をくり抜いた皿に盛り付ける。木のスプーンもある。戸棚に一式揃っていてとてもありがたい。

「皮でなんか防寒具でも作ろうかなとか思ったけど、もう夏になるのよね」

豪快に頬張って勢い良く咀嚼する。ビーチェはなんというか、気持ちのいい食べ方をする。もちろんそれらしい食べ方だってできるけども。

「それも街に行ったら売れば?」

喉も渇いていたから、エミラは味の薄いスープばかり口に入れる。

「肉食べなさいよ」

「はいはい…」

「プラヌラとこの毛皮でなんとか路銀は賄うとして…ねえ、あたし達って人質なのよね?」

「あの文面からして、そうじゃない」

安全な場所にいられるらしいけど、この状況だ。それもどうなるやらわからない。

「王都行ったら、何するの?」

「賓客としてもてなされるか、逃げないように幽閉されるか…最悪殺されるか」

エミラの予想としては、賓客扱いはされるが人質のため幽閉され、事故に見せかけ暗殺されるルートが一番濃厚だ。そうなったら殺される前に逃げるけど。

「あたし達ってまだ十代のオンナノコよね?なんでそんな殺伐としてんのよ」

ビーチェも、エミラも、まだ十代。ほんの子どもなのだけど。

「戦争だから、仕方ない」

今は戦争の只中で、二人はその中に飛び込んで行くようなもの。いつ死ぬかなんてわからない場所に自ら行かなきゃいけない。子どもだけど、そんな次元の話じゃあ、ない。

「全ては、パルバタンに行ってから」

「そうね。あたし、これ食べたらプラヌラ回収してくるから」

「分かった。あんまり欲張らなくていいから」

ちょっと、怒ったような顔をしている。

ビーチェは割と心配性だから、十個必要と言われたら十五個は持ってくる。

「わかってるわよ…」

今は、この辺りは静か。でも、いつ戦闘がここらで発生するかはわからない。

アローアンのように、いつ東が攻めてくるかはわからない。俯瞰できればいいけど、今はそんなことできない。王都までいければ、情勢が見えるのに。

そういえば大陸に来てからこっち、エミラは頭を全然使っていない。

○◎○◎○◎○◎○◎

プラヌラをカゴに詰めて、二人と一頭は小屋を出た。天気は良く、昨日と違って視界は良好。

本来行く道をあえて外して、より細い道を進んでいく。慎重に進まないといつ滑落するかわかったものではない。左右の木々の枝が鬱陶しいが、振り払って進むわけにもいかない。

どうにか進み続けると、エミラの言っていた通り急な斜面に出た。平時なら駆け下りられる程度だけど、今は雨が降った後。

「これ、どうにか滑る感じで下りれそうね。服はえらいことになるけど」

「…今は、街へ行くことだけを考えよう」

きっと、ここを下りたら二人は泥まみれになっている。でも、そんなのは今はどうでもいい。

「そうね…」

意を決して、二人は斜面を滑り下りていった。マーラは二人が乗っていない分、軽やかに下りていった。マーラはぬかるんでいようとなんだろうと、その身を汚すようなことを自らするような馬ではないのだった。

結果、二人と一頭は無事斜面を下りて、山道から出ることに成功した。

馬は白い毛並みを汚さなかったけど、ビーチェも、もちろんエミラも泥まみれ。プラヌラのカゴは死守したけど、主に下半身が凄い。結局、そんな二人がまたがったから、鞍は汚れたしマーラにも、ちょっとついた。

「後は道が平坦だから、さっさと街へ…行こう」

「まず換金しないとね!」

まだ本調子じゃないエミラを、早く休ませないとまずい。マーラは今までの鬱憤を晴らすように駆け出す。

道は細くて、人は全然いない。

空は青くて、ちょっと暑い。この調子で行けば街には今日中に着くけど、エミラの体調を考えるとまずいかもしれない。

すると、爆発音。ちょっと、大きい。

「これ、さっきいたあたり?」

「かもね!」

斜面を滑り下りたのは、泥まみれになったのは正解だった。今頃どちらかの兵がついさっきまで誰かがいた小屋を発見しているかもしれない。

さっさとここを離れないと。これから行く街も、時間の問題かもしれないけど。

その日の太陽が沈む頃、二人と一頭は目的の街ファンドゥに入った。

弓の姫と軍師

ちまちまとかきます。よろしければお付き合いください。

弓の姫と軍師

小娘のエミラは大陸から遠く離れた小さな島国、ランバラルド王国で生まれ育った。幼馴染の王女ビーチェと共に平穏な日々を送っていたが、大陸で勃発した二国間の戦争が二人の日常を引き裂いた。東のアグレアか、西のジントラダか。諸国が両国の傘下に入る中、ランバラルドも選択を迫られる。国王は西のジントラダと共に東のアグレアと戦うことを宣言。ほどなくしてジントラダの政府から派遣された役人達が、国王へジントラダ王からの書状を突き出す。 『我々と共に戦うならば、その証として王女をジントラダへ引き渡すこと』 エミラはビーチェのお付きの侍女として、彼女と共にジントラダの王都、パルバタンへと向かうが…

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. プロローグ
  2. 第1話 田舎者二人、大陸へ
  3. 第2話 田舎者二人、上陸
  4. 第3話 田舎者二人、進路変更