素晴らしき夜に虹を見つけたら、世界にさよならを教えて

しゅ‐み【趣味】0.自由時間の不自由な過ごし方。

素晴らしき夜に虹を見つけたら、世界にさよならを教えて

ネペンテス・アッテンボロギの捕虫器を満たす溶解液に浮いたボウフラ、それと似た星が冷たい大気に固まっている。
眼輪筋が痺れるほど長い時間覗いていたのは、望遠鏡ではなく、双眼鏡である。
実際、私は星ではなく、虹を探している。
夜空で虹を探す、なんて馬鹿げているだろうか。
「無知かキ印のいずれか」と問われれば、私は「その両方です」と誤魔化すだろう。

勿論、虹の仕組みについては、素人なりの一般的知識は持っている。
”光”と呼ばれている可視光線は780nm~380nm前後の範囲に含まれる波長の電磁波で、それを受けて眼球の奥にある網膜の中心窩に分布する錐体視細胞が興奮し、ヒトが持っている3色型と呼ばれている青・緑・赤のスペクトル感度曲線の山を持つシステムが活性化され、主観的に”色”を認識する。
光の波長と色名の分類関係は色彩命名関数と呼ばれており、生物によって違う。
ほとんどの哺乳類は2色型、ヒトは3色型、ニワトリや爬虫類は4色型、アゲハチョウは5色型、サンゴ礁に住むシャコの一種は13色型を持つものもいると言われている。
それぞれの種の生存戦略によって、仲間や外敵の識別、毒や餌の在り処などを識別する為に進化の過程で枝分かれしたと考えられている。
つまり、生物によって見えている虹も様相が違う。

直截的に言ってしまえば、まず虹には光が必要ということになっている。光の無いところに虹はない。
虹という固有の物質があるのではなく、共同主観的現象に名前が与えられている。
卑近な比喩で言えば、光の無い夜に虹を探すのは、ドラッグストアで不老不死の霊薬を買おうとするようなものだ。
ある物はある場所で、ない物はない場所で探すべきだ、と部屋の隅から茶筋蠅捕蜘蛛が言う。
お前は何を知っているんだ。
電磁波の擦過傷から滲む血漿にナイトレートフィルムを浸せば幽玄の不在票になる、と本棚の上からアルギロデルマが言う。
お前は何を言っているんだ。

本で読んだ事がある。
曰く「科学的とは反証可能性を持つということ」と定義されていた。
たとえ藁山の針一本、大海の雫一滴、砂漠の砂一粒でも可能性があるのであれば、仮説は理由もなく棄却されてはならない。
別段熱心な学徒ではないものの、私は「ありえない」という言い草を好まない。
夜の虹を探す行為は、白い烏カラスや黒いハクチョウを探す事に似ている。
「カラスは黒い鳥であり、黒くない鳥はカラスではない」と考えている限り、白いカラスを認識する事が出来ないだろう。
だから、私はまず「ありえる」と考えるところから始める。
だけど、本当に見付かるのだろうか?

虹の根本はその重心にある。
追及すると極小へ収束する性質は、言葉にも似ている。
美醜、善悪、真偽、誰もがそれを知っているような顔をしながら、突き詰めるとそれぞれ別のものを見ている。
幻ほどの形も持たないのに、事実よりも力を以て現実へ介入する。
私が見ているものは物質、知識、記憶、想像、その他有象無象が綯い交ぜになった一塊の情報で、私は私が考えているよりも遥かに不確実で混乱しているのだろう。

思考は言葉に制限される。
例えば、私と公、幻と現、恣意的な二元化により世界を矮小化する事で「自分は全てを知っている」と思い込む。
知識を増やせば増やすほど、知らない事が増えていく。
言葉を増やせば増やすほど、言えない事が増えていく。
分かることは分かるもので、分からないことはわからないもので相対するべきだ、とペテンな茶筋蠅取蜘蛛が言う。
お前は何を知っているんだ。
言葉の端が世界の端ならば、日記帳は生活の分子結晶になる、とペダンなアルギロデルマが言う。
お前は何を言っているんだ。

窓の外から猫の鳴き声がする。
肉眼で確認した訳でもないのに、それだけで世界が平常に保たれていると感じてしまう。
五分前に始まった世界で培養槽に浮かぶ脳味噌の私は泥人形かも知れない、のに。

想像する。
水割りの青墨に沈んだ住宅街の路地を、朱に交わった野良の赤が走査線の姿勢で嗅ぎ回る。
砂山の上に建つ幽霊屋敷のお化け煙突からは個人情報が白煙となって立ち昇っている。
飽和量まで記憶が溶解した下水路には、グラウコマやコルピディウムを捕食して無垢な悪意が繁殖する。
一つ屋根の下、揺り籠の中でテープを手繰るチューリングマシーンと、それをあやす父はマクスウェルの悪魔、微笑む母はラプラスの悪魔。
知恵の木を隠した無知の森に鈴生る仏手柑が宇宙線で綾取り遊びをしてカロリン展開された黄道の巣に夢の胡蝶が囚われる。
胡蝶が藻掻くと、三千世界の千年王国で九百九十九人の人身御供が歌う嘘の八百八町に一対の陽が落ちる。
袋小路で藁の犬が燃えている。
白々しい夜が来る。

家々の窓に明かりは消えている。
右の隣で子が生まれ、左隣りで人が死ぬ。
その間で生きている私は空腹を満たす為に加湿器の霞を顔に浴びながら口を開閉している。
私の生き様は斯様に無様な有り様である。
この命は来た道も行く道も暗い。

物語はこうだ。
脇役同士が向かい合い、将棋盤にチェスの駒を並べてサイコロを転がしながら変形マンカラに興じている。
片や死んだ九十九神がサイコロを振って種を蒔き、片やポーカーフェイスの遮光器土偶がナイトの駒をひっくり返す。
主役不在の二人非零和無限不確定不完全情報ゲームが裏舞台で誰にも知られず白黒歴史に沈没していく。
空理空論の電荷分布によりその距離はオルタード・ドミナント・スケールの音階に保たれている。
カルテジアン劇場の緞帳が閉じたまま舌切雀の涙に濡れている。

今は亡き昼の面影が姫沙羅の枝に引っ掛かって干からびている。

例えば、机にメモ用紙が置いてある。
そこには買い足しが必要な日用品をミミズ文字で書きなぐってある。
洗剤、胡麻油、トイレットペーパー、あとはなんだろう。
あまりにも汚い文字なので、見る者によっては奇妙な素描にすら見えるだろう。
あるいは舌足らずの会話を持ち出しても構わない。
文字と絵の、言葉と音の、有意味と無意味の境界線は何だろうか。
対象と観測者の境界線も紐解くと一本の線になってしまう。
その一本を張った此方より彼方へ綱渡りする弥次郎兵衛は憐れ天地倒錯前後不覚の左右盲である。
人間が生活や娯楽にかまけて空虚や不条理から逃れようとするように。

萎びた世界なら私の布団で寝ている。
静かな虫の息が聞こえる。

ヴィジュネル方陣を眺めながら考えたことがある。
それは平文を暗号文へ、暗号文を平文へ変換する為の規則を表した一覧表である。
人間は生体的暗号機かも知れない。
同じ事物を見ながら異なる言葉で表し、同じ言葉で異なる事物を表現する。
複雑怪奇に高度な知的作業を行っているにも関わらず、誰もが「出来て当然」と思っている会話や文章という意思伝達行為。
それは、ほんの僅かに重なり合う共通項を頼りに、暗闇でお互いを手探り合っているようで。
まるで、夜に、

そうだ、話を戻そう。
私は夜の虹を探している。
勿論、「月虹」という現象も聞いた事がある。
しかし、ここには水飛沫を上げる滝も無いし、ましてや十分な光量を持った月も出ていない。
双眼鏡を覗く。
葡萄蔓の炭を塗り込めた塗炭板の上で星のボウフラを黒いハクチョウが啄んでいる。

「鍵を探すなら街灯の下」という小話がある。これには笑い話と警句、二つの側面がある。
私は頭を冷やす為、窓を開けてみることにした。
双眼鏡に蓋をして、目の周囲を指でほぐす。
それからアルミニウムの錠を開らき、サッシを横に滑らせる。
吹き込む空気が鋭く、冷えた頬がひび割れる。
そこでやっと冷静になる。
私は一体何をしているのだろう。
私は一体何を考えているのだろう。
窓から見える視界には、冷えた構造物だけが屹立し、まるで生き物が居ない、まるで偽物の世界のように。

本物と偽物の境目はなんだろうか。
私は本物と偽物を知っているのだろうか。
区別を付ける為には予め対象を判別できるように知っていなければいけない。
世界を見分けるなら世界を、虹を探しているなら虹を。
「本物の虹は七色であり、七色ではない虹は偽物である」と考えている限り、私は虹を認識する事が出来ないだろう。
お前は何を知っているんだ。
この素晴らしき夜に虹を見つけたら、世界にさよならを教えて、と色のない言葉が言う。

素晴らしき夜に虹を見つけたら、世界にさよならを教えて

主人公は居ません。

素晴らしき夜に虹を見つけたら、世界にさよならを教えて

虫と植物だけが友達の無益な趣味人の夢現一夜。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted