幸せをよぶ人

幸せをよぶ人

小雨の降る日

一、『小雨の降る日 』

外には静かな雨が降っていた。その中でも鳴く蝉の声に、八月の気だるい蒸し暑さを感じた。
部屋の中は静まり返っていた。
雨音と蝉の鳴き声は届いているのに、耳が痛くなる程の静けさを感じた。そして湿った匂いだけが僅かに『生きている』事を実感させた。
 俺はベッドに寝転んでいた。冷たいシーツ。微かに湿っている様な気がした。
「……外が雨、だからかな。」
小さく言葉が零れた。


◇◆◇◆◇

なんてことのない出会いだった。
第一印象は『タレ目のちび』
彼女の容姿を人に説明するなら、それ以上に似合う言葉は無いと今も思っている。
「タレ目は化粧じゃなかったんだ。」
そして初めて彼女の素顔を見た時に、そう言ったのを覚えている。
いつも以上に幼く感じた素顔に何だか照れてしまって。
「ひどーい!」と、サチコは口を尖らせ、睨みつけた。
それでも童顔で、どんぐりみたいに大きな瞳のタレ目な彼女の睨み顔は、迫力なんて全くない。
むしろ精一杯睨みを効かせようとする、彼女の抗議の仕草を思い出すと、自然に口元が緩んだ。


付き合って二年経った時にプロポーズした。
一時の感情の昂りだけでなく、彼女と過ごす時間をこれからも大切にしたいと思ったから。
彼女がころころと笑う姿が好きだった。何も話さない沈黙も苦じゃなかった。
プロポーズもありきたりだったと思う。彼女が好きそうな指輪を買って、部屋でそれを渡した。
大きなタレ目を瞬かせて、問うようにサチコは俺を見つめた。
「嫌なの?」
意外そうな表情に、思わず問いかけた。
首を大きく横に振って、サチコは頬を染めた。
「ううん! びっくりしただけ!!」
そう言うサチコの大きな声に、俺がびっくりした。
嬉しい…… 小さな声で彼女はそう言い、むずがゆそうに笑った。
「返事は?」
答えてくれないから俺が催促をすると、
「もちろんおっけーよ!」
と、まるで夕食の誘いを受ける時のような返事。
……こんなもんなんだろうか、と俺がその様子を見つめていると、彼女はその指輪を付け直して、にやにやと笑った。
緩んだ頬が、さっきより赤く染まっていた。
「なに?」
堪えるように笑う姿に問いかけた。
「え…… だって……」
とサチコは目を潤ませている。
「……あなたが、こんな可愛い指輪をどんな顔して選んだんだろう、って想像すると……」
そして彼女は噴き出した。
……失礼だな。そう思いはしたが、サチコのころころと笑う姿が嬉しくて……
「想像はしなくていいよ。」
とだけ言った。
彼女は笑った。嬉しそうに。
そして言った。
「……幸せになろうね。」
そして俺は、もちろん。と返事をした。



ささやかな結婚式を挙げた。
俺の両親、そしてサチコの母親はすでに他界していたので、サチコの父、サブロウさんと、数人の友人を呼んでの本当にささやかな式だった。
純白のドレス姿のサチコは本当に綺麗だった。
感動…… と言うのだろうか、サチコのその姿を見た時、全身に熱が走り、心臓が止まったように感じた。
何を言えば良いのか分からなくて、ただただ照れた俺はいつものように、「タレ目がもっとタレ目だ。」と、からかった。
タレ目をからかうと、サチコはいつも口を尖らせるのに、その日は溶けるような笑顔を向けた。
小柄な彼女が本当に溶けてしまうのではないかと、案じる程の笑顔。
だから俺は彼女を抱きしめた。
友人たちは囃したてた。それでもサチコは零れるような笑顔を浮かべていた。その笑顔が俺にも笑みを浮かばせ、そしてサチコの笑顔を近くで見て、感じられる事に俺は『幸せ』を感じた。
 俺はなんて易い男なんだろう。
ただ彼女が笑ってくれるだけで、『幸せ』を感じるなんて。
ただ彼女がそばにいてくれるだけで、他に何も要らない、なんて思えるなんて。
サチコがいてくれればそれだけで良くて、そしてサチコがここにいるからこそ、その笑顔の為に生きているんだ――
俺はそう思い、力一杯彼女を抱きしめた。



良いのか、悪いのか、仕事はいつも忙しかった。
朝は早く、夜は遅い。呑んでもいないのに、終電で帰るのなんてザラだし、
「新婚だから、早く帰れ」なんて優しい言葉は一切かからない。
『仕事場』は『戦場』、って意味らしい。
パソコンのモニター、書類、モニター、書類とを交互に見て、振られた仕事を消費して行くも、その山は、無くならなければ、減りもしない。
そんな帰りの遅い俺を、サチコはいつも寝ずに待っていてくれた。
「お帰りなさい。」
玄関の扉が開くと、サチコの笑顔。
「今日も一日お疲れ様でした。」
と、深夜に近い時間に二人で取る食事。
「夕食、先に食べていてもいいよ。先に寝ていてもいい。」いつか俺がそう言ったら、
「あなたが帰って食事を取るなら、あたしも一緒に取るわ。」
サチコはそう答えた。
だから早く上がれるように、といつも仕事をこなすけれど、慢性的な人不足で定時になんて上がれない。
毎日くたくたになって重い体を引きずるように帰路を歩いた。
「お帰りなさい。」
そう言い、扉からサチコは笑顔を覗かせる。暖かい我が家の灯りと、その笑みが暗い夜道を歩いて来た俺には眩しくて、そして安心を与える。
「ただいま。」
サチコの笑顔とその一言で、一日の疲れなんて吹っ飛ぶんだ。



平日のサチコとの時間は、食事だけで終わる。だからこそ、休日は俺にとって重要だった。何も気にする事無く過ごせる、サチコとの貴重な時間だから。
二人きりで、二人だけの部屋で、二人しかできない事をして、疲労困憊と疲れた身体と頭を癒して過ごしたかったけれど、外交的なサチコは、外に出たがった。
馬車馬のように働いた後の休みだからこそ、ゆっくりとしたかったが、俺がサチコに逆らえるはずは無い。
月に一度か二度はドライブに遠出した。賑やかな遊園地や、ライトアップされた港にも。数年に一度訪れる(らしい)絵画展…… 系は苦手だったけれど。
その中でも、季節を感じる庭園や公園には良く行った。
「ねぇ、この花の花言葉…… 知っている?」
サチコはそう言いながら、上目づかいに問いかけた。春の終わりを感じる、段々と暑さが増す太陽の下、彼女の指先には桜の花のように、花弁の先が白っぽくなった淡いピンクの花。
「もちろん。
その花言葉が気に入って、式のブーケに選んだことも。」
そう言うと、段々とサチコの顔が赤く染まっていった。大きな瞳が心なしか潤んで、いつも以上に幼く見えた。
表情も豊かだが、反応も分かりやすくて嘘が付けないのも、彼女の可愛い所だ。
「花言葉は……」
「! 分かったから! 覚えていてくれているのは分かったから!!」
と、聞かれたから答えようとしたのに、サチコは慌てて俺の言葉を遮った。
サチコはふぃっと、話す俺とは真逆の位置に顔を向けた。それは彼女の照れた時の癖。
照れるくらいなら、言わなきゃいいのに。それとも俺が知らないとでも思ったのだろうか。
そんな俺たちの様子を笑う様に、ピンクの花はそよ風に揺れた。儚げな淡い色なのに、存在感があるのは、俺にとって重要な花だから。
花言葉は『愛している』。
恥ずかしがり屋なサチコは、今も俺には一度も言ってくれない言葉だけれど、
「俺に向けて、この花を選んでくれたんだよね。」
 ドレス以上に、サチコがこだわったのはウエディングブーケ。一輪一輪に花言葉を込めたと言っていた。そして俺の胸元に着けてくれたブートニアにも。
『これがあたしの気持ち。』とその時サチコが小さく呟いた事は忘れない。
サチコの顔が今まで以上に赤く染まった。耳も首も真っ赤だ。リンゴなんて目じゃないくらい。
サチコは黙った。熱があるんじゃないか、と思うほど顔を真っ赤にさせて。
俺はそれ以上聞かなかった。その仕草、その表情全てが、間違いなく肯定を露わしている事を知っていたから。



ある日の休日、二人で海を見に行った。
「たまには良いでしょう?」と、彼女が誘ったから。
 季節の変わり目で風邪でも引いたのか、ここしばらくサチコは体調が良くなく外出を控えていたが、思わぬ場所への誘いの言葉に、俺は内心驚きながら二つ返事をした。
海の事故で母親を亡くしたサチコが、海を見たいと言ったのは初めてだったから。
日帰りの遠出だった。春先の日差しは暖かかったけれど、ゆっくりと夕闇に染まってゆく海辺には、少し肌寒く感じた。
駐車場に車を止め、二人で手を繋いで浜辺を歩いた。
「……ねぇ、ヨウ。」
名前を呼ばれて、俺は彼女を見つめた。
サチコは、俺の事をあまり名前で呼ぶ事はなかった。呼ぶ時は、喧嘩をした時と何か大切な事を話す時だけ。もちろん今は喧嘩なんてしていない。
「なに?」
問いかけの言葉に、サチコは俯いた顔を上げて俺を見た。
頬が染まっているのは、夕日が彼女の頬に映っただけじゃなさそうだ。瞳も何だか潤んでいた。
その様子は、彼女が浮かべる嬉しい時の笑みにも見えた。
……でも何だかいつもと違うものを感じた。
「良い事でもあったの?」
サチコは微笑んだ。彼女と出会って三年が過ぎ去った。だからサチコの癖も、何もかも知っていると思っていたけど、その時浮かべた彼女の笑みは、見た事もない笑みだった。
サチコははにかんだような照れたような笑みを浮かべ、立ち止まって、俺の手を握り直した。
「ヨウ。……赤ちゃんができたよ。」

握り直した俺の手を自分の腹に当て、彼女は続けた。
「病院の先生にも診てもらったから、間違いないわ。
三か月だって。ここにあなたとあたしの子がいるのよ。」
細いサチコの体。手を添わせ彼女の腹を撫でるも、ぺったんこ。この中に何がいると言うのだろう。
「……うれしくないの?」
黙りこむ俺を、サチコは覗きこんだ。
「いや、驚いただけ。」
正直に言った。それ以外には何も無かったから。
「……じゃあ、うれしい?」
大きなタレ目が問いかけた。笑みを浮かべて。頬は染まり、小さなくちびるも笑みを浮かべていた。
「……うれしいよ。」
サチコの笑顔が見られてうれしかったから、俺はそう言った。


特に子どもが欲しいと思った事はなかった。サチコとの会話に出る事も無かった。
日増しに大きくなってゆくサチコの腹。『なにか』がいるのはもう一目でわかるようになった。
彼女は鼻歌を歌いながら、ベビー用品の雑誌を見ていた。
「男の子か、女の子かは、生まれてからのお楽しみにしましょう。
どちらでも、大切なあなたとあたしの子だから。」
ころころとサチコは笑った。
「子ども、好きだっけ?」
今更ながらの質問。
俺は正直好きではない。って、言うか嫌いだった。
うるさいし、汚いし…… 良い事なんてなさそうだから。
「もちろん! それにあなたとの子よ。
まだ会えるのは先だけれども、楽しみで、楽しみでしょうがないわ。」
ふーん…… と、俺は相槌を打ち、彼女の真っ直ぐな髪を手で梳いた。
最近の俺たちの会話は全部、産まれてくる子どもの事ばかりだ。
「名前はどうする?」
「このベビーカー可愛くない?」
「女の子だったらピアノとか習わせたいな。」
話は尽きる事はなかった。
それにサチコもどことなく変わった。
甘い物に目が無かったのに身体が受け付けないとかで、全く食べなくなった事や、時間があれば外に出かけたがっていたのに、今や完全なインドア派になった。休日のドライブも、あの海へ行ったのを最後に出かける事はなかった。
その他にも急に体調が悪くなったりする事も多々あり、仕方が無い事、と言うのは分かっていたけど、何だか胸がもやもやした。
 そう言えば、最近彼女は長い髪を切った。ボブショート、と言うらしい。肩に届くぐらいの長さに。
出産の時やそれからは、髪の手入れに気を使っていられないと、先輩ママさんが言っていたそうだ。
……出産予定まではまだ五カ月もある。早すぎないか?
それに、俺は長い髪の方が好きだ、って言ったのに……
短くなった毛先を引っ張ってみた。
「なあに?」と、タレ目が問いかける。
特に何も無かったから、別に、とだけ言った。
「変な人ねー。」
そう言って、サチコはまた雑誌に視線を移した。鼻歌は続いていた。
俺は心中でため息。事ある毎に、胸のもやもやは湧き出るから。
……どうやら俺は、まだ見ぬ自分の子にヤキモチを焼いているようだった。


◇◆◇◆◇

「ちょっと、父さん! いい加減に起きなよ!!」
寝室の扉を開けて、シンは怒鳴り声を上げた。
「……うるさいなぁ。
一週間がむしゃらに働いたんだから、ちょっとはゆっくりさせてくれても良いだろう?」
「もう九時半になっちゃうよ! 九時には起きる、って言ったの父さんだよ。
起きなよ。もう十分寝たでしょう?
それにあまり寝過ぎると、脳ミソの老化が進むらしいよ。」
シンは俺を引っ張り、ベッドに座らせた。
「冷たいやつだな。」
「冷たくないよ。
父さんの事を思って言ってんだから。
ほら、朝ごはん出来ているから、ちゃっちゃと着替えて食べちゃって。」
シンはクローゼットから着替え用の服を取り出し、俺に投げつけた。
身体に力の入らない俺は、再びベッドに倒れ込む。


◇◆◇◆◇

仕事は変わらず忙しかった。
このご時世、仕事があるだけ幸せだ、と皆は言うが、明らかに許容範囲を超えた仕事量を押し付けられて、『幸せ』だなんて思えない。
気づけば、成りたくないと思っていたのにも関わらず、中間管理職とやらにちゃっかりと収まっていた事にもため息が出る。
遅くまで仕事に追われる日々。ちっぽけな残業代なら、早く帰ってサチコとの時間を過ごしたい。
そう思っていたら、夜のオフィスに電話が鳴った。それを取った部下が、慌てて俺に繋ぐ。
病院からの電話だった。俺は仕事を投げ出し、走り出した。
タクシーで駆け込み、息を切らしながらも、俺はサチコがいる病室に走って向かった。
途中で看護士が、院内は走らないで下さい! と叫んだが、気にしていられなかった。
「サチコ!!」
ベッドで横になった彼女は、俺が乱暴に開けた扉の音か、それとも呼んだ声で、うっすらと目を空けた。
「……ヨウ?」
「ああ! どうした?! 大丈夫か?! 痛くはないか?!!」
憔悴しきった彼女の様子に俺は焦った。
慌てる俺の様子がおかしかったのか、サチコは疲れた笑みを浮かべ、
「……すっごく…… 痛かったぁ……!」
と、声を上げた。
「おめでとうございます。お父さん。
男の子ですよ。」
看護士が笑みを浮かべ、俺にそう言った。


◇◆◇◆◇

「とーさん!!」
シンは俺を呼び、睨みつけた。
それでも迫力を感じないのは、彼がまだまだ子どもだからか、それとも大きな瞳のタレ目だからか、俺は彼の顔をじっと見つめて考えた。
「いい大人がだらしないな!!」
白い頬が怒りで赤く染まっていた。
『ぷりぷり怒る』と言う表現が似合う、迫力のない怒り顔。
シンは俺の両腕を引っ張り、再度ベッドから起した。
間近でシンの顔を見たのは久しぶりだった。大きなタレ目はまつ毛が長い。
「……折角、サチコ譲りの可愛い顔なんだから、そう怒るなって。」
「うれしくない!!」
そう言い、シンは近くに脱ぎ棄てたジーンズを俺に投げつけた。


◇◆◇◆◇

出産から一週間が過ぎて、サチコは退院した。小さな、小さな子どもを抱いて、俺たちの家に戻って来た。
初めて見た新生児は赤くてしわしわで、まさに未完成だと思った。
小さくて壊れそうで、俺は首が据わるまで、抱く事すらできなかった。
「名前、決めた?」
ベビーベッドで寝入る赤子を見ながら、サチコは問いかけた。俺に声をかけるも視線は、寝入るその子に注がれていた。
「いや、良いのが浮かばなくて。」
うそ。実は全く考えてなかった。
男の子なら俺が。女の子であればサチコが考えた名前を付けよう。そう話していたけれど、どうにもこうにも、俺には子どもの名前なんて考えられなかった。
もー! と、サチコは口を尖らせた。
「名前が無いのは困っちゃうわ。 候補も無いの?」
うーん…… と、声を上げるも、出る訳が無い。
「じゃあね……」
サチコは赤子の頬に指を当て、小さな唸り声を出した。サチコが細い指で触れた赤子の小さな頬は白い。サチコの肌の色身に似ていた。
……本当に良く似ているな、と改めて赤子を見つめ直して思った。
小さくぽってりとした口元も、丸くて小さめの鼻も、サチコに驚くほど似ている。
「……コウ! って言うのはどう?」
「こう?」
目を輝かせて言うサチコ。上気した頬が赤い。
サチコが大きな声を出したので、赤子は起きた。起きて泣き出した。
体は小さいのに、声はやたらと大きくてうるさかった。サチコは慌てて抱き上げて、赤子に笑みを向ける。
サチコが微笑んだからだろう。赤子は泣きやみ、きゃっきゃ、と笑った。『ころころと笑う』サチコそっくりの笑みで。
顔も手も、何もかもが小さいのに、目だけは大きいな、と思い、俺は赤子を見つめた。大きなタレ目がサチコそっくりだ。
「いいこ、いいこ。
あなた良い子ねー。直ぐに泣きやんだねー。」
サチコは笑い、その頬に赤子の頬をくっつける。
「……『ヨウ』の名前にちなんで『コウ』よ。
漢字はあたしの字、『幸せ』を使って『幸(コウ)』
どうかしら? 二人の名前の良いとこ取りじゃない?」
頬を寄せ、二人は同じ顔で笑っていた。
以前感じた胸のもやもやはまだ健在だった。
サチコから生まれ出た子は、サチコそっくりで、サチコはその子に夢中。
更にサチコは、その子に名前も与えると言う。自分の漢字も。
「――いや、だめだ。」
「へ?」
「男の子の名前が『幸』だったら女の子みたいだ。
顔もサチコ、お前そっくりだし、きっと女の子に間違われる。」
「そーお?」
「そうだ。」
俺は言った。断定的に。
「だったら何がいいの?」
太めの眉を八の字にし、彼女は問いかけた。
「……ぴったりだと思ったんだけどな……
あたしたちの子、って直ぐ分かるのに……」
残念そうな声に、少し胸が痛んだけれど……
「シン、ってのはどうだ?」
「しん?」
「そう。『心』と書いてシン。
心のある子に。
どんな出来事にも、中心にいる子に育つように。」
咄嗟とは言え、良くもまぁ考え付いたものだと今でも感心する。
「……こころ、って書いて心(シン)……
悪くないかも。
ううん。良い名前!」
サチコは満面の笑顔を浮かべた。つられる様に、『シン』も同じ笑顔で笑っている。
『嫉妬心』から浮かんだ名前、『シン』―― なんて、とてもじゃないけど言えなかった。


◇◆◇◆◇

脱ぎっぱなしのジーンズにはベルトが付きっぱなしで、金具は俺の頭に見事命中した。
「……良い名前を付けてやったのに、心ない事するな。
名前が泣くぞ。」
金具の当たった頭を撫で、俺はぼやいた。……結構痛い。
「父さんが悪い!」
シンは謝らない。……育て方を間違ったようだ。
「準備、出来ているよ。今日、何の日か忘れちゃったの?」
「忘れる訳なんてないだろう。」
「なら早く起きて降りて来て!」
そう言い、どかどかと五月蠅い足音を立て、シンは階段を下りて行った。
ピアノの音が聞こえた。
まだまだ上手いとは言えない、ぎこちない音。でも段々と難しいメロディーを弾いている事は感じていた。
……あ、間違った。


◇◆◇◆◇

久しぶりに仕事が早く終わったので、今日は外食を、と駅前でサチコとシンと待ち合わせた。
久しぶりだから落ち着いたレストランでゆっくりとディナーでも、と思ったけれど、三歳になった小さな恐竜を連れて、静かな場所なんて行けない。駅前のファミレスでの夕食。
「これ、あげゆ!」
まだまだ舌足らずなシンは、アニメのキャラクターの絵が描いたスプーンで、俺の皿の上にニンジンを乗せた。
……ニンジンが嫌いなだけだろう……? そう思いながらも、
「それはありがとう。」
と、一応礼を告げた。
「もう! ヨウはシンに甘いんだから!」
サチコはシンの好き嫌いを治そうと日夜奮闘をしているらしい。でもさすがにこんな公共の場でそれをする訳にもいかない。
なぜなら、嫌がり方が半端ない。耳も頭も割れそうな程の声を上げるから。
「今日は特別。良いだろう? たまには。」
「ぱぱすきー!」
と、シンはサチコそっくりの笑顔を浮かべた。本当に良く似ていた。俺の面影なんてないくらい。
不満げに口を尖らせるサチコには、デザートを選ばせた。
サチコは甘い物が好きだ。シンが腹の中にいる時は、甘い物を全く受付けなかったようだったが、産まれてからはその嗜好が戻ったらしく、生クリームもチョコレートもぺろりと平らげるようになった。それに改めて、人(女性)とは不思議なものだと関心をし、そして以前のサチコに戻った事に安堵した。
特に彼女はクリーム系には目がない。最近は『ダイエット』と言い極力食べないようにしているらしい。太りやすい体質らしいが、俺は彼女が太った所を見た事が無かった。
太ったサチコも可愛いだろうな、と思いはしたが、口には出さない。きっと更に口を尖らせるだろうから。
お腹一杯になったシンは、気づけば俺の膝の上で寝ていた。
……スーツによだれ染み。勘弁してくれぇ。
「シンはパパが大好きねー。」
山のような生クリームが乗ったクレープに、鮮やかなフルーツが眩しく感じた。それをゆっくりと口に運びながら、どこか嫌みのようにサチコは言った。
「そうか?」
「ええ。あたしよりきっとパパの方が好きよ。
妬いちゃうわ。」
俺こそシンにヤキモチだ。四十六時中サチコにべったり。こいつが生まれてから、サチコと二人きりになる時間なんてない気がする。
「構いすぎ…… なんじゃないか?」
「そうかしら。小さな時が肝心かな、って思ったんだけど。」
思った以上に子育てに熱心なサチコ。いや、確か彼女は教育学を専攻していた。
だからこそ、なのだろうか、シンが幼稚園に入れる齢になったものの、サチコはその場所に、吟味に吟味を重ねているよう。彼女のお眼鏡に合う場所はまだないようで、資料を請求したと思われる冊子が家には多くあった。
「肝心なのには違いはないけど、いつまでも俺らがべったり、って訳にはいかないだろう?
……良いも悪いも、最終的にはこいつ自身で判断できるようになれば良いよ。」
サチコはイチゴを頬張り、目を瞬かせた。その仕草は、『どう言う意味?』と問いかける仕草だった。
「……こんなちびの恐竜でも、一人の人間だ。
良し悪しを教えてやるのは大切な親の仕事だと思っているけど、先ずは自分で考えさせる事を教えてやりたい。」
「どう言う事? 詳しく教えて。」
と、次は仕草通りの質問。
「そうだな……
人が『良い』と言ったから良いものだ、って思うより、なんで『良い』って言ったのかを考えて欲しい。考えて自身で導き出すんだ。
そっちを理解する事の方が、大人になってからの方が役立つだろう?」
「……まだ早くないかしら?」
「物事に早いも遅いもないよ。
むしろ早すぎる方が、役立つ事も多い。」
ふーん…… と、サチコは聞き入った。
「具体的にはどうするべきだとあなたは思う?」
その頃の俺たちの会話の中心はいつもシンだった。『中心にいるように』なんて言ったけれど、まさかここまで『名は人を表す』とは思ってもみなかった。
俺は少し黙り考えた。シンの事より、サチコとの事を考えたいし、話したいのは山々だが、それをするのは過保護のママさん(サチコ)を納得させてからだ。
「多くの人に触れさせるべきかな。
同じ年齢の子どもはもちろん。少し年上でもいい。俺たち程の歳の差があると、全部鵜呑みにしてしまわないかが心配だ。
後は人によっては、教え込ませようとするかもしれない。
間違いでもだめでもないと思うけど…… やっぱりそれが正しいかどうかを決めるのはこいつ自身で見極めて欲しいな。」
ナイフとフォークで器用に生クリームを避けながら、サチコはクレープ生地を口に入れた。
珍しいな。
彼女はクリームだけを先に食べる事はあっても、最後に取っておく事はしない。
「……何だか意外。」
「意外?」
デザートの手を止め、サチコは俺をじっと見つめた。
「ヨウがしっかりシンの事を考えてくれている、なんて思って無かった。」
「なんだそれ?」
「無表情で言葉が少ないのはずっとそうだけど、もしかしたら子ども嫌いなのかなー、って時々思っていたの。
ごめんね。誤解していた。
ちっちゃなシンの事も、今だけじゃなく、大人になってからの事を考えてくれていたんだね。」
俺を見つめる表情が笑みを作った。
大きな目を細め、タレ目がもっとタレ目になった。サチコの嬉しい時の笑顔。嘘を言ったつもりはないし、俺なりに考えて言った言葉には違いない。
でも『さっさとシンを手放してサチコとの二人の時間が欲しい。』 これが包み隠さない俺の本心だけれど。
「慎重になるのも大切だと思うけど、成長ある限り、間違いも成功もただの過程なんだから。そこから学べる物は多いと思うよ。
それにサチコも、シンに四十六時中べったりも大変だろう?」
『さっさとシンを幼稚園にでも放りこんで、サチコとの時間が欲しい。』 正直、最近の俺はこれしか考えていない。
また二人きりでドライブに行きたい。映画でもいい。シンが寝入った深夜に、奴が目を覚まさない事を気にすることなく、日中もシンにべったりのサチコを独占したい。
「幼稚園も候補を見つけたの。
絶対ここ! ってワケじゃないけど、あなたの話を聞いたら、悪くないと思うし、シンの為にも良いかも、って思った。」
「じゃあ……」
さっさとシンを幼稚園に入れよう。
そう言おうとするも、いつもと違う様子のサチコが気になっていた。
食べない生クリームもそうだけど、いつものようにころころと笑うものの、その笑顔は『なにか』が違うように感じたから。
「それに…… これからは今までのようにシンにばっかり構っている訳にいかないし……」
小さな呟きを漏らし、サチコは俺に微笑みかけた。寝入って俺の膝によだれを垂らすシンはサチコからは見えない。だからその笑みは俺だけに向けられた笑み。
 そう思うと俺からも自然に笑みが浮かぶのを感じたが、彼女の先ほどの呟きが気になっていた。
そしてどこかいつもと違う微笑みも。……でも、いつか見た笑みのように感じた。
「ヨウ。
来年にはね、もう一人家族ができるわ。」
――――文字通り、俺は絶句した。


◇◆◇◆◇

間違うものの、練習には熱心なようだった。
ピアノの音を俺は休日しか聞く事はないが、少しずつ上手くなっているようにも感じた。
最近のお気に入りの練習曲は、毎週日曜日朝の八時半から放送されるお気に入りのアニメの曲らしい。可愛い女の子が変身して悪い奴を倒してく話だそうだ。
嬉しそうに、楽しそうにその番組の話を聞かせるヒナタは、時々そこに出てくるキャラクターが変身するポーズを俺に見せてくれた。
その様子を見てシンは「まだ子どもだねー。」と、ぼそりと冷めた一言。
……ほんの半年ほど前まで『将来の夢、海賊』と言い、そのアニメの主人公と似たような格好をしていたシンとの違いが正直俺には分からない。いや、でももしかしてそれを卒業したから(最近その恰好をしていない事を聞いたら、『卒業した』と言われた)シンにとってヒナタは子ども、なのだろうか。
それでも、「なら将来は何になるんだ?」と聞いた俺に、「海賊は現実性が無いから。僕は少年探偵になるんだ。」と、シンはまだまだ細く小柄な胸を張り、視力は良いはずなのに眼鏡を欲しがった。
……『少年』探偵は現実性があるのだろうか。
考えを巡らせるも、ランドセルを背負う息子の中にある、子どもの境界線は俺には理解できそうにない、と改めて思った。
ピアノの音はサビのメロディーをくり返す。くり返すから、そのパートだけは間違わない。短い指を器用に動かしてヒナタはメロディーを奏で、ご機嫌に歌詞を口ずさみ始めるが、
「……へたくそ。」
と、シンは容赦なく、歌い出すヒナタに言った。


◇◆◇◆◇

「名前はもう決めているの。」
二人目の子が生まれ、俺はシンと一緒にサチコの見舞いに訪れていた。
赤くて小さい…… いや、産まれたてのシンよりは大きいか…… 赤子に満面の母の笑みを浮かべながらサチコは言った。
シンは物珍しそうに、身を乗り出し、その赤子の顔を覗いていた。
「ヒナタ、だろう?」
そう言った俺にサチコは頬を染めたタレ目が更にタレ目になる笑みを向け、軽く手を叩いて喜びの声を上げた。
「そう。『太陽に向かう』と書いて、陽向(ヒナタ)ちゃん。」
「……ひなた?」
シンは産まれたての妹から目が離せないようだった。呟くような質問に、サチコは応えた。
「そうよ。シン。この子はあなたの妹よ。
パパの名前、ヨウから付けたの。
パパは『太陽』のようにいつも輝くように、って意味を込めて『陽(ヨウ)』と言う名前をもらったの。
パパの名前から、そして『太陽が当たる場所』のようにいつでも明るい未来がありますように、ってママのお願いを込めての名前よ。」
「へー……」
と、シンは生返事。シンが大きなタレ目でじっと見つめるヒナタは眠っていた。話すサチコとシンの声も気にならないのだろう。穏やかな寝顔を浮かべていた。
「……パパに似てる。」
呟くシンの声に驚いて、ヒナタの顔をまじまじと俺は見返した。
……産まれたばっかりの新生児の顔なんて皆同じに見えた。それに目も瞑られている。俺にはサルにしか見えなかった。
「シンもそう思った? 寝顔が一番そっくりよ。」
「そうか?」
俺には理解できなかった。自分の寝顔なんて見た事無いし。
「口元がパパそっくり。 への字、って言うんでしょう?」
ヒナタの口元はシンが言ったように、への字に結ばれていた。
……俺はこんな寝顔なのか……?
問うようにサチコを見ると、彼女は笑いを堪えていた。小さく震えている。
「ゆでたじゃがいもの匂いがする……」
くんくん、と子犬のようにシンはヒナタの匂いを嗅いだ。
「……いもうと、って…… へんなの。」
シンはそう言って、不思議そうな表情を浮かべていた。


◇◆◇◆◇

バン! と乱暴に鍵盤は叩かれた。
「うるさいわね! シン! 練習中なの! 邪魔しないでよ!!」
ヒナタは大きなかなぎり声を上げた。
仲の良い時もあるが八割、いや、九割以上は仲が悪い。年の近い兄弟とはこんなものだろうか? 俺もサチコも兄弟がいない。いないから分からないが、ここまでひどいとは思えなかった。
「お前はいくら練習しても、上手くなんないよ。
才能ないもん。」
息子よ。そんなにはっきり言わなくてもいい。
「うるさい! うるさい!! うるさい!!!」
「ヒナタ、お前の方がうるさいよ。」
きー!! とヒナタの奇声。
……静かな土曜日が崩れ去った。起きよう。ご近所に迷惑がかかる前に。
シンが投げた服にもそもそと着替えた。二階にまで届く、騒がしい言い合いは続いていた。
ヒナタに音感のセンスが無いのは俺に似たのだろう。……いや、ピアノが引けるだけ、まだマシかも知れない。
『音痴は治る!』と音楽の先生は熱心に、俺の放課後練習に付き合ってくれたが、全て無駄に終わっていた。
初めてヒナタが歌の練習をしているのを聞いた時は絶句した。音痴の俺が分かるくらいの音程の外しっぷりに。サチコも珍しく頬が引きつっていた。シンは腹を抱えて笑っていたけれど。
そして普段泣かないコウが泣きだした時は、その破壊力がいかに凄まじいものかを表すように感じた。


◇◆◇◆◇

恐竜が一匹から二匹になった。
騒がしさは二倍ではなく三倍になった。教わった足し算とは違う現状に戸惑いながらも、慌ただしく毎日は過ぎて行った。
もう恐竜じゃなく怪獣だ。と言うと、サチコは笑って、
「静かより良いでしょう。」って言った。
子どもの成長は何よりも早く感じた。
シンはあっという間に小学生になった。真新しく、体には大きすぎるんじゃないか、と思ったランドセルも一年、二年と使っていると、身体にも馴染んできたようだったし、幼いシンが『おさるさん』と呼んでいたヒナタも来年はやっと小学生。今から何色のランドセルにするか悩んでいるようだった。
そして初めて見た妹を、シンが俺そっくり、と言った意味が齢を重ねるとともに理解していった。
ヒナタは俺に良く似ていた。
薄いくちびるに大きな口元。はっきりとした顔立ちではあるが、目元は涼しげで切れ長な所も。サチコの面影は目尻が下がっている所ぐらいだろうか。明るく少し癖のある髪の毛も俺そっくりだった。
サチコは毎日器用にヒナタの髪を結い上げる。
「ヒナタの髪は、パパに似て柔らかいわ。だからどんな髪型でも出来ちゃう。」
三つ編みにシニヨン、時々コテと呼ぶ棒のようなもので巻き髪を作った。お人形のような可愛がり方だ。
日帰りの旅行から帰ったある晩、サチコと俺は車の中で眠りこけた二人をベッドに寝かせる為に抱き上げ、子ども部屋に連れて行った。
「シンはずいぶんでかくなったな。あのちびすけがうそのようだ。」
今年で八歳になるシン。あの抱き上げるだけで壊れそうだった赤子が嘘のように、手足は伸び、身体つきも少年らしくなっていた。
「まだ同じ年頃の子よりは小柄な方よ。でも手が大きいから、きっとそのうち身長も伸びると思うわ。
あなたの子だしね。」
「どうだろうか。シンは俺の面影が無いくらい、サチコにそっくりだろう?」
サチコはヒナタを横にならせ、シーツをかけた。
「そう? あなたにも似ているわよ。
ご機嫌斜めな時の表情が、そーっくり。」
「なんだよ。それ?」
からかうようにサチコは小さく笑った。小さな二人の子を起さないように。
「ヒナタもそうよ。
どの角度から見ても、あなたそっくりでしょう?
お隣のハヤサカさんは、ヒナタが大きくなったらあなたに似て美人になるだろうから、今から楽しみだ、って言っているわ。」
はいはい、と俺は生返事。
怪獣は一匹ずつでも大変なのに、二匹になるとその三倍も四倍も体力を奪われる。特に今日はこの二匹に引っ張り回されてくたくただった。
「サチコ。うるさいちびっこは朝まで起きないだろうから……」
それでも俺は、サチコと二人でゆっくりとしたかった。
シンが生まれ、ヒナタが生まれ、二人の時間はほとんどない。
身体はくたくただけれども、邪魔が入らないだろう静かな夜だから、俺はやっとサチコが独占できると心が高揚していた。
でもサチコは今も、シンの寝顔を確かめるように覗きこんでいた。
「……シンももう今年で八歳。ヒナタも五歳。
あたしたちもベテランのパパママね。」
成りたいと思ったパパではないし、ベテランかどうかも俺には分からない。それでも二人が素直に、そして元気に育ってくれているのはありがたい事だと思っている。
「熱心で、子ども大好きなサチコのおかげでね。」
動こうとしないサチコを、そっと俺は抱き上げた。
きゃ、っと小さく声を出して彼女は俺にしがみ付いた。
「ベテランのパパとママは良いけれど、休息は取るべきだろう?
この前買った美味しいワインと、今日買った美味しいチーズでゆっくりしよう。
録画した映画もまだ見てないし……」
サチコはころころと笑った。声を出さずに。
「うれしいわ。ヨウ。
大きな子どもがいるのに、あなたはあたしの事を変わらず『奥さん』として可愛がってくれるのね。
子どもがいる旦那さんは、奥さんの事を子どもと同じように『ママ』とか『母さん』って呼ぶのに、変わらずあたしの名前を呼んでくれているし……
あたし、本当に嬉しいわ。」
「当たり前だろう。たった一人の大切な俺の奥さんなんだから。」
満面のとろけそうなサチコの笑み。
俺だけに向けられるその笑みだけで、くたくたになった疲れも吹っ飛んだ。
「でもごめんなさい、ヨウ。
ワインは当分ダメなの。」
へ? っと、間抜けな声が俺から出た。
サチコはお酒を飲まない。でも時々俺が飲むワインだけは特別で、量は多くはないが少しだけ、俺に付き合うように、嗜むように飲んだ。
サチコは微笑んだ。暗い部屋でもほんのりと頬が染まるのが分かった。
今年で結婚して十年。サチコと出会って十二年目。その中でも僅か二回しか見た事のない特別な笑みを、彼女は浮かべていた。
初めてその笑みを見た時は、その笑顔の理由が想像つかなかった。
二度目に見た時は、彼女に告げられて理解した。
そして三度目の今、何も言わなくてもその微笑みの意味が理解できた。
「……そうか、分かった。」
理解した俺は、そう返事を返した。
……気を、付けていたんだけどな……
そしてどうしようもない焦燥に気付かれないように、俺は力一杯サチコを抱きしめた。


◇◆◇◆◇

着替え終わり、大きくなった怪獣二匹の喧嘩の仲裁をしようと居間に降りた。シンとヒナタの口論は最高潮に近付いているようだった。……そろそろ手が出そうだ。
「止めなさい……」
二人とも。
続けようとする俺の言葉を遮り、ヒナタの握りこぶしはシンの腹部を狙った。シンはその手を受け止め、
「手を出すのは禁止って、いつも言われているだろう?! お前は本当に頭悪いな!!」
「なによ! シンが悪いんじゃない!」
「二人とも悪い。」
シンとヒナタの中に割って入った俺は、両者を引き離した。まだまだ手が出そうなヒナタの細い腕を掴み、牽制をかける。
「毎日毎日喧嘩して…… よく飽きないな。」
「昨日はしてないわ!」
「一昨日もしてないよ。」
こんな所で気が合わなくてもいい。
「――そいつは悪かった。
ほら、間違った俺も謝ったからお前たちも謝るんだ。
ヒナタはシンに。シンはヒナタに謝りなさい。」
シンもヒナタもくちびるを尖らせ、互いに睨み合った。
「ヒナタは約束を破ったから謝らないといけないけど、僕は本当の事を言っただけだもん。
だから謝らない。」
シンはあさっての方角を向き、ヒナタはシンに蹴りを入れようとした。
「ヒナタ! 暴力は行けない。」
べー、っと赤い舌を出し、シンは俺の陰に隠れた。
「シンも煽らない!
お前が謝らないといけないのは、ヒナタの邪魔をした事だ。」
「……本当の事なのに?」
そこは突っ込むな。
「お前もテレビの邪魔をされると嫌だろう? それと同じ。ヒナタの練習の邪魔をした事を謝るんだ。」
シンの尖った口元は、への字に曲がった。
「シンが言い始めたんだから! シンが謝らないとあたしは謝らないから!!」
ヒナタはシンを睨みつけた。
謝らない二人をどうしようか、と思っている最中、コウが片手にブランケット、そしてもう片手にくたくたになったウサギのぬいぐるみを抱きかかえ、こちらを見ているのに気がついた。
はっきりとした顔立ちや、薄いくちびるは俺に似ているが、大きなタレ目はサチコ譲り。タレ目の血は本当に強い。
騒がしい兄と姉の声に起されたのだろう。ご機嫌斜めにこちらを睨むように見ていた。
「ほら、コウも仲の悪い兄さんや姉さんに何か言ってやれ。」
二歳になったばかりのコウ。まだまだ言葉を通しての意志疎通は難しいように思えたが、睨む姿が不満に思っているように見えて、俺はそう言った。
「――めっ!!」
コウの精一杯の大声。声と言うか、音と言うかは分からないけれど、俺は頭をフル回転させながらその意味を考えた。
「ほら、コウも『だめ』だとよ。お前ら二人、仲が悪いのは。」
コウの一言を俺はそう意訳し、俺は二人を見つめた。
憤っていた二人も、小さな弟に咎められたのが聞いたのだろうか、叱られた子犬のように小さく肩を落とした。
「……コウがそう言うんだったら…… 仲良くするわよ……」
「そうだな…… 邪魔して悪かったよ。ヒナタ。ごめんなさい。」
なんてこった。親父の貫禄ゼロだな。
俺の言葉よりも、ろくに話せない年の離れたこの小さな弟の方が、我が家の怪獣二匹には効くらしい。
「らぁめっ!!」
コウはもう一度言った。次はヒナタをしっかりと見つめて。
「分かったわ。あたしも謝るわよ。
シン。手を出してごめんなさい。」
「良し。それじゃあ二人とも仲直りだ。」
はーい。と、次は素直に返事するシンとヒナタ。
コウはよちよちと歩きながらこちらに近付いた。まだまだ頭の重そうな不安定な歩き方だった。そして彼はヒナタの隣で立ち止まり、
「だぁめーっ!」
と、三度の注意の声。
……もしかして…… コウが『だめ』と言っているのは、ヒナタの歌に対してか?
「どうして? コウ?
あたしも謝ったわよ。ほら、シンと仲直り。」
ヒナタはコウにそれを示すように、シンと手を繋いだ。ちらりとコウの大きな瞳はその手を見た。
そしてまた声を出そうと、口を開けようとするのが見えて――
「コウ! お前のおかげで、シンもヒナタも仲直りだ!
なに? お腹が減った?
お前も起きたばかりなんだな。よし、先ずは出発前に腹ごしらえだ。」
あまりにもヒナタが不憫に思えて…… 俺はコウを抱き上げてキッチンに逃げ込んだ。


◇◆◇◆◇

「これがあたしのおとうと?」
ヒナタは目を瞬かせ、問うように言った。
「そうよ。ヒナちゃん。あなたとシンちゃん、二人の弟よ。」
次に産まれたのは男の子だった。
新しく産まれた『家族』に会いに、俺はシンとヒナタを連れて病院を訪れた。
「……おさるさんみたいー。」
さすがは兄妹。発想が同じだ。
「ヒナタ。お前もさるだったんだぞ。」
三歳だったお前が覚えているのか? シン?
「シンちゃんも、ヒナちゃんも、この子はおさるさんじゃないわ。私たちの家族よ。
名前は……」
サチコは覗きこむように俺を見つめた。名前はもう決まっていた。
「名前はコウ。
サチコの名前から、『幸せ』と書いて『コウ(幸)』だ。
仲良くするんだぞ。」
そう言った俺に、サチコは文字通りの幸せそうな笑みを見せた。
それはシンの名前の候補に上がっていた名前。出産前に度々見舞に来た俺にサチコはよく言っていた。
「男の子なら『コウ』が良いな。ヨウの名前を文字っての『コウ』。」
あの時思い着いた名前は、相当のお気に入りだったらしい。
今も俺は子どもに、サチコの名前を与えるのには不満があったが、それ以上にサチコがうれしいのなら、とそれを承諾した。
「こう?」
「そうよ。コウちゃんよ。」
「こぉー?」
ヒナタの大きな声で、コウはうっすらと目を開けた。
泣きだすか? と思ったけれど、彼は『眠い』と言わんばかりに、小さな、小さな目をしばしばさせた。
「……おはよう。コウちゃん。
あなたのパパと、お兄ちゃん、お姉ちゃんよ。」
コウは虚ろな目を動かし、こちらを眺める。まだまだ見えるのは先だろうが、俺たちの顔をゆっくりと見渡しているかのように見えた。そして虚ろな表情でも分かる特徴は下がった目尻。いわゆるタレ目。
そう。兄弟皆、見事なタレ目だ。
「はじめまして! こぉちゃん!」
「ヒナタ、うるさい。」
コウは首を傾げた…… 様に見えた。
「……まだ何言ってっか、分かんないみたいだね。」
コウは黙ってシンを見つめた。……大人しい子だ。
「こぉちゃんに触ってみたい。」
と、ヒナタは手を伸ばした。
「今日は、おてて、だけよ。」
ヒナタの小さな手は、コウには大きな手だった。コウはヒナタの指をその小さなか細い指で握った。
「ちっちゃいね。」
シンは関心するかのような声を出した。ヒナタは無言で頷いた。
「弟ができたら、キャッチボールしたかったのに、こんなちっちゃい手だと、全然出来ないじゃん。」
そして残念そうな声を出すシン。
「五年後ぐらいには出来るよ。」
宥めるように俺はシンの頭を撫でた。


◇◆◇◆◇

「コーヒー、飲む?」
ああ。とシンに返事をしながらコウをベビーチェアに座らせた。
「……チーズトースト?」
キッチンのテーブルの上には、チーズがたっぷりの厚切りの食パンが乗っていた。
「ちがうわ。ピザトースト。
今日は全部ヒナタが作ったのよ。温め直して上げるね。」
ヒナタは中々料理を作るのが好きらしい。最近の朝食の用意は、ほぼ毎日手伝っているそうだ。
「……ピザソースとピーマンとベーコンがないピザトーストだって。」
シンが呆れたようにメニューの説明をした。
娘よ。料理も良いが、先ずは言葉の勉強からだ。
「せめてケチャップが欲しいな。」
「パパはケチャップが好きねー」
と、ヒナタは冷蔵庫からケチャップを取り出して、チーズの上に落書きをした。
「はい! ニコちゃんマーク! 召し上がれ!!」
ありがとう。と返事をし、俺は笑顔になった具無しのピザトーストに被り付いた。
「出発まで練習するー。」と、ヒナタは再びピアノに向かった。
俺はケチャップだけの具無しピザトーストを小さく切り、コウの小さな手に握らせた。
「あー。」と言いながらコウは口に運んだ。
……よだれでベタベタだ。
部屋にコーヒーの匂いが広がった。良い匂いだが、外が雨だからだろう、より部屋が湿気を帯びたような気がした。
「夕飯は本物のピザにするか?」
ピアノの音が聞えて来た事を確認してから、俺はシンに問いかけた。
「ピザ以外をメインに説明しないと、機嫌損ねるから気を付けて。」
入れたてのコーヒーをマグカップに入れ、シンはそう言った。
ケチャップだけのピザトーストは物足りない。
「もっとぉー!」
「……もっと欲しいの?」
コウは手を上下しながら具無しピザトーストを指差す。小さな頭を乱暴に振り、返事をしたので、俺はそれを小さく切り、コウの手に持たせた。
シンとヒナタの幼い時と比べて、コウは表情が乏しく感じていた。それでも食事の時は別のようで、具無しのピザトーストに目を輝かせている。俺には物足りないが、彼には丁度良いようだ。
「父さん。コウへのご飯も良いけど、ちゃんと食べてね。
 只でさえ父さんは燃費が悪いんだから。」
……燃費? 自動車か? 俺は?
 問うようにシンを見ると、彼は入れたてのコーヒーをテーブルの上に置き、睨むように俺を見つめた。
「残さず食べる。
朝食は一日の基本です。」
そしてサチコそっくりの口真似で言った。それに俺は、はいはい、と返事をする。
サチコの言う事には逆らえないから。
俺は睨むシンが満足出来るようにと、具無しピザトーストをもう一口齧り。そして欲しがるコウにも食べやすい様に切り分け、シンが俺から目を離した隙に、よだれでベタベタのコウの手に乗せた。
空っぽになった具無しピザトーストのあった皿の隣には、サラダが用意されていた。
さすがはサチコの子だ。『三食野菜をしっかり食べる。』という彼女の教えは、小学生ながらも守っているようだ。
しかし――
「……緑、だな。」
ちぎったレタスが小さなボウルに乗っているのを見て、思わず呟いた。イタリアンドレッシングが光るも、緑一色だ。
「『グリーンサラダ』に他の色があるのはおかしいらしいよ。
それに色んな色があるより、一色の方が綺麗なんだって。」
「来月のヒナタの誕生日プレゼントは、料理の本で決まりだな。」
俺はそう言い、緑一色のサラダを口に入れる。
 ……こっちも物足りない。
そう思いながら、視線を感じた方を見ると、具無しピザトーストを平らげたコウが、目を輝かせて俺を見ていた。
「さーら!」
…………誰だ、それ? 
「さ・ら・だ。
ほら、コウ。言ってみな。」
シンが自分用に、だろう、コーヒーにたっぷりの牛乳を入れながら、コウの言葉を訳する。
「さあら?」
「さ・ら・だ。」
「まだコウには難しいんじゃないか?」
兄らしくシンは面倒見が良かった。ヒナタとは喧嘩も多いが、俺の分も彼女に気をかけてくれているのも知っている。
「そうでもないよ。
コウ、パパにお前の好きなものを教えてあげて。」
「すきー?」
「そう。好きなもの。」
コウは一度考えるような間を取り、
「ちーず、みゆく、くいーむ、うささゃん、しん……」
小さな指を折りながら、コウは数える様にその好きなものを言った。
「おひるね、とーすと、ひなた、ぱぱ……」
ほー、と関心の声が漏れた。小さなコウが、いつの間にかそんなに言葉を覚えていたことに。そして、
「ぴぃざ!!」
と、一段と声を上げ、コウは満面の笑顔を見せた。普段の表情が乏しいと、浮かべる笑みが輝いているようにも見えた。
「ピザ、好きなのか?」
「うー!!」
と、にこにこと浮かべる満面の笑み。タレ目がもっとタレ目になる、サチコそっくりの笑みだった。
「それじゃあ、夕食はピザで決まりだな。」
俺はそう言って、シンの目を盗み、コウにグリーンだけのサラダを食べさせた。

キリシマ サチコ

二、『キリシマ サチコ』

サチコとの出会いの事を聞かれると、友人の紹介と答えるが、決して『紹介』はされてなかったな、と今でも思っている。
大学四年の夏のある日、大学近くのファミレスに、小さな頃からいつもつるんでいたタカセに呼び出された。
焦った声のタカセに何事か、と思い急いで来たら、喧嘩した彼女と話をするからそばに付いていて欲しい、と言われた。
「なんだそれ?」
タカセの彼女とは面識があった。中々気の強い美人だ。
「ほら、ミチコって気が強いだろ? 二人で話すと平行線でさ、しまいには暴力まで出そうになるんだ。」
「だからこんな公衆の面前で、そんで俺を呼んだの?」
「そう。
お前は俺とミチコの仲を良く知っているし、いつでも冷静だろう?
頼むよ。喧嘩はするけど、やっぱりミチコが好きなんだ。別れたくないと思っているんだ。」
「それを言えば良いだけじゃないか? それに原因は何なんだ?」
そう言った俺に、タカセは視線を逸らした。
……分かりやすい。彼の方が、歩が悪いに違いない。
「ノゾミ、知っているだろう?」
「えっと…… 確か、お前と同じスポーツ科学の?」
「そう。一度だけ飲みに行ったんだ。……二人だけで。」
「――それだけ?」
「それだけだったら、ここまで大事になってないよ……」
そう言ってタカセは落胆するように顔を埋めた。
「どう考えたって、お前が悪いんじゃないか……」
そう言った時―― ドアが開かれ、ミチコの姿が見えた。
明るく色を抜いた長い髪に、ゆるいパーマをかけたミチコ。表情は…… 言うまでも無く険しい。
タカセの位置からは入口は見えない。それでも客が入って来た気配に彼は身を縮込ませた。
「……お前たちが別れないようには最善を尽くすけど、ミチコがお前を殺そうとするのは、止められないかもな。」
「――イサム!!」
ミチコはこちらに気付いたようで、タカセの名前を呼んだ。

ミチコは美人だ。それはお世辞ではなく、十人いれば十人がそう答えるだろう、正統派の美人だった。顔立ちが整っているからこそ、その表情が険しいと、それだけで迫力があった。
ピンヒールをカツカツと音を立ながら、彼女はこちらに近付いてきた。
「なに? ヨウもいるの?」
「ああ。話し合いが、あまりヒートアップしないように。
見守るぐらいしか出来なさそうだけど。」
確認するかの様に、彼女は俺を睨みつけた。タカセは立ちあがるも、恐怖…… だろう、小さく震えている様に感じた。
「……あんたはどっちの味方?」
ミチコは立ち上がるタカセには目もくれない。
「どっちも。タカセの肩を持つべきだろうけど、明らかにタカセが悪い。」
そう言った俺に彼女は、ふんっ、と鼻をならした。
タカセの隣に座らせるとまずそうだ。俺は隣の椅子を引いて、彼女にこちらに掛けるよう促した。
「ミチコ。
本当に悪かったと思っているんだ。だから冷静に話をしたいと思っていて……」
平謝りのタカセ。ミチコは返事もせずに俺の隣に座った。
「――ああ。さっちゃんも来てくれたんだ。
どうぞ。こっち。」
そのタカセの言葉で、俺は初めてミチコの後ろからこちらに向かってくる子に気付いた。
真っ直ぐな癖のない長い黒髪。明るくしていない髪色は珍しい。背の高いミチコの後ろから付いて来たからか、ずいぶんその子は小さく感じた。
それなのに大きな瞳が印象的だった。愛嬌を感じる目尻が下がった顔立ち。
……タレ目のちび。それが俺の第一印象。
タレ目が俺を見つめた。この身も凍るようなこの空気の中で、彼女は不器用な笑みを浮かべ、
『初めまして。』小さなくちびるがそう動くのを感じた。
それでもその声は聞こえない。声が小さいから? もちろんそれもある。
でもそれ以上に――
「大体、男のくせに、友だちを連れてくる、ってどう言う考えよ?!」
ミチコの怒鳴り声が、俺の真隣で響いたからだ。

口論、にはならない。ただミチコの罵詈雑言が溢れるように響いていた。
タカセは口を堅く結び黙りこみ、それでもミチコから目を離さずに話を聞いていた。『さっちゃん』は冷静に、自分の分とミチコの分のアイスティーを頼み、自分の分にミルクとガムシロを入れた。そして彼女は手持無沙汰なのか、ストローでくるくると氷を回しながら聞いている。
……周りの視線が痛い……
ここにも、そこにも、大学のキャンパスで見る名前の知らない学生たちがいる。こんな近くのファミレスを話し合いの場にしようなんて、見せ物も良い所だ。
ミチコの話の後半は覚えていない。ってか、聞いていなかった。肩を落としてゆくタカセが、自分の撒いた種とは言え、不憫にも思った。
怒鳴り散らしたミチコが再び椅子に腰を落とした。いつの間にか立ち上がっていたようだった。
『さっちゃん』の弄ぶ氷の音が涼しげに響いた。
「……やっぱり……」
そして、沈黙を破ったのは『さっちゃん』。
「別れた方が良いと思う。」
え?! と、驚きの声を出したのはミチコだった。
「だってそんなに怒るミチを見るのは、あたしも初めてよ。
理由も理由だし…… 悪いけど、イサムが悪いとしか思えないし……」
「さ…… サチ?!」
と、なぜか驚きの声を上げるミチコ。『さっちゃん』はタカセを睨むように見つめている。
「本当に悪かったと思っているんだ。
怒るのも当然だと思っている。
ミチコがここまで怒るなんて思いもよらなかったし、自分のした事も、言われた事も…… ごめん。本当に悪かった。ミチコが嫌がる事は、もう絶対にしない。
二度としない。約束する。」
「本当?」
「絶対。」
タカセのはっきりとした答え。それでも『さっちゃん』は信じられない、と言わんばかりにタカセを睨み見つめていた。
隣に座っているせいか、タカセと『さっちゃん』身長の違いが分かった。タカセは平均的な身長だと思うが、きっと彼女とは頭一つ分程は違うだろう。そして彼女の上目づかいの様子が、何かに似ている、と思った。
不意に大きな瞳がこちらに向けられ、
「……ねぇ、あなたはどう思いますか?」
と質問を投げかけられ、俺は驚いた。
うーん…… と唸り声が口から洩れた。タカセは縋る様に俺を見つめていた。……男のくせに目のでかい奴だ。昔から思っていたけれど。
ミチコからは怒りの表情は消えていた。あれだけ怒鳴り散らしたからか、さすがに落ち着いたのだろう。
「タカセが反省しているのは本当だと思うよ。
逃げ出しもせずに、今もこうやっているし。」
隣でミチコが小さく頷くのが分かった。……どうやら彼女もタカセと別れたくないようだ。
『さっちゃん』はタカセの様子を食い入るように見つめていた。
「でも、タカセが二度と浮気しないかは分からん。」
「おい?! ヨウ?!」
「仕方ないだろう? わかんねーもんはわかんねーんだから。
衝動的にやっちまったんだったら、治すのに苦労すると思う。
考えた上での行動なら、治らないと思うし、それが嫌だったらとっとと別れた方が良いと思う。」
「……仲裁をお前に頼むんじゃなかった……」
タカセは悩むように頭に手を置いた。ミチコは目が泳いでいる。『さっちゃん』は瞬きを繰り返した。ぱちぱち、と音が聞こえてきそうだ。
「しょうがないだろう? 原因はお前だ。
――ミチコ。」
名前を呼ぶと、彼女は驚いたように目をこちらに向けた。
「俺が知っているタカセは、好奇心旺盛だから色んな事に手を出すけど、そこから学ぶ失敗も成功も、ちゃんと後々役立てている。
ただの口約束は絶対にしない所は、男の俺から見ても誠実だと思うし、だからこそ、俺もタカセと長くつるんでいると思っているんだ。
――別れる気が無いんだったら、原因と改善を考えるのが一番だよ。」
ミチコは俯き、何も言わなかった。不意にグラスに入った氷が音を立てた。
さっきより店内は人が少なくなっていた。それでも伺うような視線をちらちらと感じた。
「じゃ、俺そろそろ行くわ。」
「ヨウ?」
「仲裁とは言え、他人がいたら落ち着かないだろう?
二人で話し合って、また必要になったら呼んで。直ぐ来るよ。」
落ち着いたミチコの様子に、俺たちはもう必要ないだろう、そう思い、俺は彼らの返事を待たずに立ち上がった。
「ほら、あんたも。」
「へ?」
驚いたように『さっちゃん』は目を大きくさせた。それでもタレ目はタレ目だった。
「最終的にはこの二人の問題だ。
それぞれの考えは言っただろう?」
「……でも……」
心配、なんだろう。『さっちゃん』は困ったように形の良い、太めの眉を寄せた。大きな瞳が泳ぐように、確認するようにミチコを探した。
「大丈夫よ。サチ。ありがとう。
二人で話してみる。――また、連絡するね。」
ミチコは落ち着いた声と、無理矢理作った笑顔でそう答えた。


俺と『さっちゃん』はファミレスを出た。夏の日差しが熱い。一歩外に出ただけで、汗が噴き出すのを感じた。
『さっちゃん』の表情は暗い。
「……心配?」
問いかけると、彼女は黙って頷き、ガラス越しに二人を見つめた。ファミレスを囲む丈の低い植物の塀に隠れながら。
中からだと、小柄な彼女は上手い事隠れているように見えるだろう。でも、歩道を歩く人は不思議そうにこちらを見ていた。
一目でわかる程の『怪しい人』だったから。
「心配なのは分かるけど……」
声をかけて、止めさせようと思ったが、あまりにも真剣なようすに俺は口を噤んだ。


――俺はこんな所で何をしているんだろう?
中を食い入るように見つめる『さっちゃん』の隣に腰掛け、俺はそんな事を考えていた。
友人の痴話喧嘩の仲裁に入り、後は当人の問題だから、と席を立った。
じりじりと焼ける、夏の日差しの痛みを肌に感じた。白人の血を引いているからだろう、俺の肌は日差しに弱い。
『さっちゃん』は上手く日陰に身を隠していた。体が小さいからだろう。百八十を超える長身の俺の身体は、どうやっても日陰に収まりきらなさそうだ。身長が高くて得をすることなんてないな、と改めて思った。
 隠れながらタカセとミチコの様子を伺ってみた。ミチコは俯き、タカセは両手を動かし何かを説明していた。
まだまだ時間はかかりそうだ。
『さっちゃん』は動かない。その横顔は『心配』の文字が浮かんでいた。
……帰ろうかな。そう思ったけど、『さっちゃん』の様子に気がとがめた。
彼女は何も話さなかった。じっと中を見つめる様子は、またも俺に『何か』を思い出させた。
何だろう? 俺は彼女の横顔を見ながら考える。
大きなタレ目に小さく丸い鼻。結ばれた口元は赤くて小さい。
『童顔』、ってこんな顔の事を言うのかもしれない。多分同じ齢だろう。――ミチコの友だちだし。
夏の暑い日差しに頭もやられたようで、ぼんやり彼女を見つめていた。
暫くすると、額から汗が流れ落ちて我に返った。女の子の顔をじっと見つめていた事が急に恥ずかしくなった。
じろじろと通りを行く人は、こちらに疑問の視線を浮かべていた。
もちろん『さっちゃん』は気にする様子なんてない。……ってか、気づいていないようだ。
喉が渇いたから、一度そこを離れた。自販機で冷たいコーラとアイスミルクティーを買った。
「……はい。」
と、『さっちゃん』に冷たいミルクティーを渡そうにも、彼女は気付かなかった。
俺は再び同じ位置に腰かけて、ちらちらと『さっちゃん』の様子を伺った。
『何』に似ているのかが気になったから。
――――そう自分に言い聞かせて。


――俺は本当に何をしているんだろう?
再び自問が頭を駆け巡った。携帯で時間を確認すると、五時を超えていた。
俺らがここに座り初めて入って行った客も、数組出て行った。
「……気にしないで下さい。」と、俺は不審者を見るような目に言った。
買ったコーラも飲み干した。ごみ箱に捨てて戻るも、『さっちゃん』は動いた様子もなかった。
小さくため息が出た。いつまでここにいるんだろう…… って思ったから。
すると不意に――
「――あ。」
と、何も言わず、動こうとしなかった『さっちゃん』から声が聞こえた。
『心配』を浮かべていた横顔は溶けるようになくなった。
半分の表情からでもわかるように、その顔には笑みが浮かんでいた。
「……仲直り、したみたい。」
「え?」
「ミチコとイサム!」
『さっちゃん』は満面の笑顔を浮かべて俺を見た。
タレ目がもっとタレ目になった。表情でも声でも、彼女の様子は『嬉しい』と語っていた。
幼さを感じた表情が更に幼く感じた。
俺がいた事なんて全く気にしていなかっただろうと思っていたから、彼女の笑顔が向けられて、少し驚きも感じた。
「……そいつは良かった。」
『心配』を浮かべていた表情がなくなった事に、そして彼女が笑顔を浮かべた事にそう思い、言った。


「名前は?」
「え?」
「『さっちゃん』の名前。」
「サチコ。キリシマ サチコよ。」
「『サチコ』の『さっちゃん』ね。」
もう二人は大丈夫だろう―― 俺たちはそう確信してその場を後にし、駅までの帰り道を二人して歩いた。
「ええ。あなたは、ヨウさん―― でしょう?」
「え?」
「カツラギ ヨウさん。
ミチコから聞いているわ。イサムとは幼馴染の親友だって。」
「親友と言うか、なんと言うか……」
「『仲が良い』証拠でしょう?
改めて、初めまして、ね。」
そう言い、サチコは笑った。
小さな鈴が鳴るような、どこか素朴なじんわりと胸に染みる笑みだった。そんな零れそうな笑みは、さっきまでの待ち疲れも溶かすような気がした。
「ミチコと仲が良いの?」
「うん。同じ教育学科なの。
ヨウさんは文学部だっけ?」
ああ。と俺は返事をした。
……何だかフェアじゃない。
サチコは俺の事を知っているようだけど、俺は彼女の事を何にも知らない。
彼女は笑っていた。ミチコの事、イサムの事を話しながら。
楽しそうに話す子だ。表情も声も柔軟に、『うれしい』そして『楽しい』と、自分の感情を表現しているように見えた。
「……ねぇ。」
地下鉄の下降が近付いた。俺は立ち止まり、サチコに声をかけた。
地下に入ると声は聞こえにくくなると思ったから。彼女も立ち止まり、俺を見上げた。
「ピザ、好き?」
「へ? うん。結構好きよ。」
「食べにいかない? 昼間っから何も食べてないでしょう?」
俺を見上げる瞳が大きくなったように見えた。タレ目を囲うまつ毛は長くて、髪の毛と同じく真っ直ぐだった。
「――あ、彼氏がいるんだったらいい。
ミチコがさっき言っていたみたいな誤解は生みたくないし、下心は全くない。」
ミチコの罵詈雑言が蘇った。俺は全く気にしていなかったが、どうやら異性と夜に飲みに行くのも飯を食べるのも、『浮気』になるらしい。
ぷ、っと吹き出し、サチコは笑った。鈴が鳴るような、ころころした満面の笑みを浮かべて。良く笑う子だ。
「彼氏はいないわ。もちろんおっけーよ。
それに……」
「それに?」
「ヨウさんとお話しするなら、座ってくれないと、首が痛くなっちゃう。」
照れたように、からかうようにサチコは笑った。目を細めて笑う姿は幸せそうにも見えた。
「ヨウ、でいいよ。
じゃあ、あっち。」
と、俺は下降の向こう側を差した。
「『マリオ・コッポラ』!
あたし、あそこのパイナップルのピザ、好きなの!」
ぱたぱたと足音を立てるようにサチコは前を歩いた。
その様子にああ…… と俺はやっとわかった。
彼女に似ている『何か』。
「ヨウ! 込んじゃう前に行きましょう。」
小さい、と思っていた口元は、笑うと大きく笑みを作った。
大きなタレ目に、形の良い眉――
……犬に似ているんだ。確かキャバリアと言う種類の毛長の犬。
はいはい、と返事をして、俺は彼女の後に続いた。
名前は『サチコ』
マリオ・コッポラのパイナップルのピザが好きで、犬似。
下心はないと言ったけど、俺は彼女の事をもっと知りたい、と思っていた。
そしてパイナップルのピザは苦手だけれども、あの笑顔を見る為なら食べられるかも知れないとも思った。



好きなものは甘いもの。特に生クリーム系には目が無いらしい。
中華よりはイタリアン。イタリアンよりは和食が好きだそうだ。でももっぱら外食はイタリアン。……和食は自分で作れるから、と言った。
あの後も何度か彼女を食事に誘った。でもどんな酒も飲む事はなかった。警戒されているのかな、とも思ったが、ただ単に酒はあまり好きではないらしい。
彼女は大学近くの喫茶店でバイトをしていた。俺も知っているコーヒーショップ。前に付き合っていた彼女とよく待ち合わせに使っていた。
もうその彼女とは終わっていたが、何だか気まずさを感じた。そこで俺を見かけた事もあると言ったから。
「気づかなかった。」と、俺が言うと、
「そんなもんよ。」と、サチコはころころと笑った。
彼女は話上手で、またおしゃべりでもあった。笑いながら話す姿は楽しそうで、その姿を見るのが俺は好きだった。
『表情が豊か』
それは彼女の為にある言葉な気がした。彼女と出会ってまだまだ日は浅いのに、楽しい時や嬉しい時の笑顔を何度も見る事が出来た。でも同じ『笑顔』なのにそれでも不思議と同じものは無かった。
『嬉しい時』は頬が少し染まり、くちびるは小さくUの字。タレ目は更にタレ目になる。
『楽しい時』は小さかった口元が大きく開いて、大きな瞳が更に大きくなった。
くるくると変わる表情は見ていて飽きない。そしてその柔軟な表情を見たくて、俺はわざとからかったりもした。
『驚いた時』は瞳が落ちそうなくらい大きく見開いて、小さな身体は跳ね上がった。
「ヨウ! 驚かさないでよ!!」
とサチコは大きな瞳で俺を睨むが、タレ目の睨み顔は驚くほど迫力が無かった。頬を赤く膨らませ、小さく口を尖らせサチコは睨みながら言った。
「もー! 笑わないでよ!」
笑わないで?
言われて気づいた。口元が緩んでいる事に。
彼女の柔軟な表情がうつったのだろうか。無表情と言われた俺が、人に伝わるぐらいの表情を浮かべていた
 それ以外にも、
「あれ? 嫌な事でもあった?」
「もしかして、驚いている?」
「……嬉しいんだ。」
 感情豊かなサチコは、俺の感情の動きにも敏感だった。
「ヨウもタレ目になるよ。――笑っている時。」
 サチコはそう言い、頬を染め笑った。目を細めタレ目が更にタレ目になる、嬉しい時の笑みで。
 その笑顔に引き寄せられるように、俺は彼女を見つけるとそばに寄った。そして彼女も俺を見つけると、ぱたぱたといつかのように足音を立てて駈け寄ってきた。子犬のような姿にまた、口元が緩むのを感じた。


そんなある時、俺はサチコの癖に気付いた。それは顔が直ぐ赤くなる事。
からかって怒った時、恥ずかしいのか照れた時、彼女は頬を真っ赤に染めた。それが面白くて俺は彼女を更にからかった。
迫力の無い怒り顔だった。真っ赤になった頬を膨らませ、小さく口を尖らせサチコは睨み『怒る』。
ぷんぷん、と効果音が聞こえてきそうだった。からかい過ぎると、更に顔を赤らめ、口元が小さく震えた。まずい、まずいと思い謝るも……
「あら、ヨウ。
何だか嬉しそうね。イイ事あった?」
テーブルに花を生けながら母は笑みを浮かべ言った。
「……そう?」
俺はそっけなくそう答えた。
 キッチンにいると思っていた母の声に驚き、それでも思い出し笑いをしていたのがばれるのが気恥ずかしくて、見てもいないテレビのチャンネルを変えた。平然を装う為に。
バイトの無い平日の午後だった。父の帰りを待つ夕食前。俺は居間にいた。ゴールデンタイムと呼ばれる時間のわりに、興味を引く番組は無く、番組を一周した所でリモコンの電源オフのボタンを押した。
 母はニコニコとした笑みを浮かべ、俺の顔を覗いた。
「なに?」
「コウヘイさんに似て、あなたは表情が変わり難いし無口だけれど、私には分かるわ。
今は照れているのを隠しているでしょう?」
母には隠せそうにない。そう思いもしたが気まずさを感じた俺は、真っ直ぐと俺を見つめる母の淡い緑色の瞳から目を逸らした。
「目を逸らす仕草もコウヘイさんにそっくりだわ。」
ああ、始まった…… と、内心でため息。
 恋人夫婦、とでも呼ぶのだろうか。二十一の息子がいるのに俺の両親はまるで付き合いたてのカップルのように、いつも仲が良い。
 今回のノロケ話の終わりは、もうすぐ最寄り駅に着くだろう父を迎えに、母が家を出る頃だろう、と思い覚悟を決めたが、母は俺の隣に腰かけ、いつもだだ漏れの父への愛を語るでは無く、じっと俺を見つめ、
「ん、ふふ。」と、含み笑い。
「彼女が出来たら、いつも教えてくれるものね。だから彼女じゃないわ。
じゃあ、新しいお友だち?」
と、満面の、でもどこかしらこちらを探るような笑みを浮かべた。
 笑みを浮かべる母の視線から逃れる為に、俺は何もない逆方向を向いた。
 何だか分からない気まずさを感じたから。
「ねぇ。あなたが嬉しそうに笑っていたワケ、母さんにも教えてよ。」
人差し指でツンツンと俺の頬を差し、鼻歌でも歌うかのようなご機嫌な声を出す。
 笑っていたワケ、と言っても、サチコの怒り方に笑ってしまった、なんて言えやしない。
 ……そうだ、彼女の笑い方を、『ころころ笑う』と例えるのであれば、怒った時は『ぷりぷり怒る』はどうだろう。……ぴったりだ。
「ねぇ、ヨウ。
 一人で笑ってないで教えてよ。新しいお友だちはどんな子?」
三度の質問と、頬を引っ張る様子に我に返った。母はじっ、と俺を睨みつけている。
 吹き出そうな笑いを噛みしめながら、もしくは自らの例えに関心をしながら、母の言う『新しいお友だち』の事を考える。
「……可愛い子、だよ。」
怒った時も、笑った時も。ありのままの彼女が素直に可愛いと思ったから。
そう思ったから言ってみた。からかって真っ赤になったサチコに。
すると彼女は更に顔を赤くして、顔を隠した。隠されると見たくなる。だから俺は背けた彼女の顔を覗いた。
「へぇ……」
と、小さな相槌。驚いたような間の後、母は穏やかな笑みを浮かべた。
「背が高いとか、映画の趣味が合うとかじゃなく?」
サチコの背は低いし、インドアに映画を観るよりもアウトドアにどこかに外出する方が好きなようだった。俺とは全く別のタイプ。
俺は首を振り、母の質問に応えた。
「ふぅん…… 可愛い子、なんだ。」
「なに? 何か言いたげだけど。」
母の浮かべる笑みの理由が分からない俺は疑問を感じた。母は穏やかに…… でもどこか嬉しそうに笑った。
「『可愛い』ってどう言う意味か知っている?」
「知らない。」
意味なんてあるのだろうか。『可愛い』は形容詞。形を表すものだ。
うふふ。と、母はまた笑った。
「その子のどこが可愛い?」
「答えになっていない。」
明らかにからかっている母に不満を表わした。
「そんな顔しないで。ヨウ。
『可愛い』って意味はね、『愛すべき』って意味なのよ。」
突拍子のない母の言葉に何も言えなかった。嬉しそうな笑みをうかべ、母は続けた。
「漢字でも、可能の『可』と『愛』でかわいい、って書くでしょう?
『愛』が無いと、出てこない言葉よ。
 ……特にヨウ、あなたは今までの彼女の事を聞くと、『背が高い』とか『趣味が合う』とかしか言わなかったでしょう?
だからよ。あなたの『可愛い』には、特別な意味があるに違いないわ。」
「……そこまで深い意味を込めては無いけど。」
母の口調は段々と熱を帯びて行った。大げさすぎる。
「無意識に出るのは『本心』よ。」
それに『好きな人』よりも『愛する人』。『愛する人』よりも、『愛すべき人』と言う方が、感情が揺さぶられている気がしない?」
「そう? 『すべき』なんて義務っぽいけど。」
「他人から言われ、強要されれば、義務かもね。
 でも自ら言うのであれば、せざる負えない強い思いを感じるわ。無意識だしね。
 ねぇ、今度連れて来てよ。ヨウの『可愛い子』に会いたいわ。」
「……時間大丈夫?」
俺は居間の時計を指差し、したり顔の母に言った。遊ばれている、間違いないと思ったから。
 ああっ!! っと、母は大きな声を出し跳ねあがった。
「コウヘイさん! もう駅に着いている時間だわ!」
ばたばたと足音を立て、母は玄関に走った。
 これで解放される、と安堵のため息。
「ヨウも一緒にお迎え行かないー?」
「行かない。待ってる。」
ちぇー、っと返事をし、母は足音を立て玄関を出た。
背けたサチコの顔を覗いたら…… 声を上げて、彼女は嫌がった。顔は言うまでも無く真っ赤。耳も首も赤かった。
 ――可愛い。その仕草が、表情が。俺はそう思って、その時彼女を見つめたんだ。


「……何? それ?」 
サチコと知り合って三週間ほどが過ぎた。
場所は大学構内のカフェテリアの一角。
『サバの味噌煮』を食べた事が無いと言った俺に、サチコはそれを家で作って来てくれた。サチコの手作り弁当を食べる俺を見つけたミチコとタカセは、隣の席にかけ、不思議そうに問いかけた。
「『サバの味噌煮』はイサムも初めて? 意外に知らない人、多いのね。」
サバの味噌煮以外には、豆の煮物にほうれん草のおひたし、ポテトサラダも入っていた。厚焼き卵にはチーズが入っていた。珍しい、とも思ったが、俺の好きなものが入っているのが素直にうれしかった。
「ヨウ、食べた事無いの? へー。変わってるー。」
と、ミチコ。
「いや、ヨウが食べた事が無いのは不思議じゃないんだけど……」
「そうなの?」
「ヨウの母ちゃん、ハーフだろう。それに和食はあまり食べない、って言っていたから。」
「へー。でも納得だわ。存在が浮世離れしているもんね。」
『存在が浮世離れ』? なんだそれ。と思ったが、口に物が入っていて声が出せなかった。
サチコは瞬きして俺を見つめた。
「……言ってなかった、っけ?」
問いかけるような仕草に、口に入れた物を飲み込み言った。
彼女は無言で頷き、
「……でも、何だか色々納得した。」
「色々?」
「身長が高い事とか。髪が明るかったり、肌の白さがちょっと違ったり……
カラコンかな、って思っていたんだけど、緑色の瞳も元々?」
次は俺が無言で頷いた。ポテトサラダを口に入れたから。……これも好みの味だった。
「……それより、ヨウが、さっちゃんの手作り弁当を食べているのはなんで?」
「知らないの? サチ、お料理上手なのよ。
小学校の時にお母さんが亡くなって、それから毎日、お父さんにご飯作っているんだもんね。」
それは俺も知らなかった。
でも、料理を作る事が趣味、と言っていたのが――
「納得した。」
「なっとく?」
……次は言葉に出していたらしい。
「サチコは料理上手だと思った。初めて食べる味噌煮も上手いと思ったし。
チーズが入っている厚焼き卵も美味しい。」
ほんのりと―― サチコの頬に赤みが差した。
「……ありがと。」
俯いて小さく彼女はそう言った。……可愛いな、って思った。さすがにタカセとミチコの前じゃ言わなかったけど。
「なに? なに? この空気?
それに何なの? お前たちは? いつからそんなに仲良くなったの?」
タカセは俺とサチコを交互に見返し、問いかける。
「それになに?
俺もミチコの手作りとか食べた事が無いのに、なんで作って上げて、食べてんの?」
「うらやましいの?」と、ミチコ。
「いいだろー。」と、俺。
サチコを見ると、ほんのり染まった頬が、一段と赤くなっていた。
「ってか、なに? いつから付き合ってんの?
聞いてないけど、俺。」
と、タカセは身を乗り出し、詰め寄るように言った。
……ああ、そう言えば……
「言ってなかった。」
「そうだろう?! ヨウ、俺は聞いてない!」
「付き合おう。サチコ。」
「そっち?!」
と、タカセとミチコは同時に突っ込んだ。
サチコは固まっていた。一段と赤くなった頬から、顔全部が真っ赤になった。
「冗談やノリとかじゃなく、本気で言っているんだ。
………………いや?」
真っ赤になって、返事をしないサチコを見つめながら問いかけた。
暫くして彼女は首を横に振った。でも、その仕草だけじゃ分からない。
「どっち?」
「………………………………いやじゃない。」
サチコの声は良く通る。返事は小さいけれど、くすぐるように俺の耳にも届いた。
「――なら、よかった。」
断られない、なんて自信は無かった。
サチコは可愛い。見た目も、性格も。彼氏がいないのが不思議なくらいだった。
自分から人を知りたい、と思ったのは初めてだったかもしれない。それくらい彼女に惹かれていた。
「……ヨウが笑う所…… あたし、初めて見た。」
不意に聞こえたミチコの声。それで俺は我に返った。
口元が緩んでいるのが分かった。それが分かると、急に恥ずかしさが込み上がった。
「笑う所、って言うか、ヨウ。……お前耳が真っ赤だぞ。」
タカセが肩を振るわせ、笑いを堪えていた。
「――ヨウが照れてる!」
そう言い、タカセは噴き出した。ミチコも隣で笑っていた。
俺は気まずくて…… 二人から視線を外した。
二人から視線を外すとサチコが見えた。
彼女も笑っていた。真っ赤な顔で。大きなタレ目を細め、うれしそうに。
……まぁ、いっか。
からかわれる様に笑われるのは落ち着かないけれど、サチコも笑っているなら……
俺は口元が再び緩むのを感じ、ごちそうさま、と、それを隠すように言った。

「どうしてあたしと付き合いたいと思ったの?」
サチコは上目づかいで問いかけた。
 夏の日差しは暑いけれど、秋の訪れも確かに感じる涼しい木陰に俺はサチコと二人でいた。
 彼女の頬は赤く染まっていた。暑いから? いや、きっとそうじゃない。
 耳元に熱を感じた。……きっと、彼女の頬が赤いのと同じ理由だろう。
『可愛い』は『愛すべき』 母が言った言葉が思い浮かんだ。
 今も俺には母の言った言葉の意味は理解できない。
でも、サチコに対して感じる『感情』と呼ぶべきもの全てが、俺にとっては初めてで、胸のあたりがむずむずとして、身体の中にあるものすべてが正しい位置に収まっていないような違和感があった。
「なんでだろう?」
大きな潤んだ瞳に緊張した俺がそう答えると、サチコは大きな目を更に大きくして…… 俺から目を逸らした。
 ――照れるな、自分。と独り言ち。
 身体の違和感に落ち着かなかった。でも嫌な違和感では無かった。
 ただのカンにしか過ぎないけれど、サチコを知る事によって、もしくはサチコと一緒にいる事によって、その違和感の意味が分かるような気がした。


父子家庭だと聞いたから、夜食事に誘うのは控えるようにした。ずっと彼女のそばにいたい、という思いはあったものの、一人娘の帰りが遅いと親父さんは心配するだろうから。
それに彼女の生活のリズムを崩すのもあまり良くないだろうとも思った。すると、
「お父さん、ヨウが彼氏だと安心だって。」
「え?」
「ちゃんと自分が帰る前に、あたしが帰っているから安心だ、って言ってた。」
ころころと笑いながらサチコはそう言った。
サチコも親父さんの事が大切なようだ。……当たり前だけれども。
それは良かった、と俺は返事をし、うれしそうに親父さんの事を話すサチコの手を握った。小さくて細い指。爪には淡いピンクのマニキュアが塗られていた。
俺は小柄な彼女の顔を覗きこむ。そうしないと、表情が見えないから。覗きこむと、サチコは大きな目を瞬かせ問うように俺を見つめた。
彼女と付き合って初めて知った事。それは彼女の親父さんに妬くほど、自分が嫉妬深いと言う事だった。
「なあに?」と、見つめる俺に彼女は問いかける。小さなくちびるは赤い。大きなタレ目は不思議そうに俺を見つめていた。
 そして俺は彼女にキスをした。それは『彼氏』ができる特別な事だから。
 触れた彼女のくちびるは柔らかくてあたたかくて、少ししっとりとしていた。くちびるに感じる、微かな震えに胸が熱くなるのを感じた。
 キスをすると、彼女の顔が近すぎて表情が見えない。『彼氏』しかできない事をして、小さくそれでも広がる様に感じた嫉妬の炎は収まったが、彼女をもっと見たくて知りたくて、俺は真っ赤になった彼女を覗きこんだ。
 大きなタレ目は瞬いて、瞳は潤んで、触れたくちびるはむず痒そうに結ばれている。潤んだ瞳には俺しか映っていなかった。
 嫉妬の炎は収まったのに、また俺の中に、何とも言えないむずむずとした、ともし火のような炎を感じた。そしてそれが段々と大きくなるのも。
……物足りない。
 その炎がなんであるか悟った時、俺は一人そう思った。
でもそれは、健全な二十代の男子の考え方に違いなかった。


◇◆◇◆◇

「もう、準備出来ているんだっけ?」
シンが入れてくれたコーヒーを飲みながら俺は問いかけた。
「もちろん。父さん待ち。」
と、シン。牛乳にストローを差し、コウに飲ませると、コウは一気にその牛乳を飲み干た。
……なるほど、コウが言った『みゆく』は『ミルク』。牛乳のようだ。
一気に飲み干したコウは満足げな笑みを浮かべ、小さくゲップ。……きたないなぁ。
今日は前々からサチコと彼女の父、サブロウさんに会いに行く約束になっていた。彼女たちがいるのはここから車を使って二時間弱ほど。夏のこの時期は、否が応でも渋滞する。
……約束の時間は一時だから、ちょっと早いがそろそろ出るか、と思い席を立った。
「おじいちゃんへのお土産は買った?」
「もちろん。お前たちが食べないように、部屋に隠してあるから取ってくる。
サチコへのお土産も用意しといて。」
あー…… と、珍しくシンの唸り声。
「なに?」
「母さんへのお土産…… 聞いてない?」
サチコへの土産はシンに任せていた。
彼女が大好きな生クリームとカスタードがたっぷり入った、駅前のケーキ屋のシュークリームを。
『シュークリームはこれが一番!』といつも以上に笑顔を見せ、大きく頬張る様子が直ぐに浮かんだ。
「なんの事?」
「――ヒナタ!」
シンが呼ぶとピアノの音が止まった。暫くして、様子を伺うように、覗くようにヒナタが扉から顔を覗かせた。
「……まさか……?」
怒られるのを恐れるような仕草に俺は悟った。
「……シュークリーム、食べちゃった。」
と、ヒナタは八の字に眉を寄せた。
「四個、全部をか?」
用意を頼んだのは、サチコ、シン、ヒナコとコウの分。七歳のヒナタが全部食べられるとは思えなかった。
「二つ食べちゃった。」
「じゃあ半分は残っているんだな?」
ううん。とヒナタは首を振った。
「コウも二つ食べたの。欲しそうにしていたからあげたら、クリームだけぺろりと食べちゃったわ。」
「あー……」
と、返事をするようなコウの唸り声。
「二人で全部食べたのか? サチコへのお土産の分も?」
「ごめんなさい。」と、頭を下げるヒナタに、
「ごみゃん…… なさー。」
――ごめんなさい。でいいのだろうか? コウも同じように頭を下げる仕草を取った。
ふう、と、俺はため息一つ。
こんなに小さくてもやっぱりサチコの子だ。甘いものには目が無いらしい。叱ろうか、とも思ったが、素直に謝る様子に俺は何も言えなかった。
「しょうがない。駅前のケーキ屋に寄って行こう。
罰としてヒナタ、コウの手と顔を拭いて、車に乗せる準備をしなさい。
シンは戸締りの確認を。
サチコへのお土産を買い直すなら、直ぐに出発しないと約束の時間に間に合わなさそうだ。」
「はぁい!」
と、ヒナタは素直に返事をし、シンは頷いた。
そして俺はサブロウさんへの土産を取りに、寝室に向かった。


サブロウさんも甘いものが好きだ。
クローゼットに隠してあるのは栗羊羹。丁寧に包装されたそれを、紙袋ごと取り出し、俺は二階の戸締りをしようと、窓に手をかけた。
――遠くから、サイレンの音がした。
小雨の雨音に隠れるように、夏の蝉の声を掻い潜る様に。微かだが耳に届いた音に、俺は蒸し暑い中でも寒気を覚えた。
雨は嫌だ。救急車のサイレンの音も。否が応でも、その音、その空気は俺に思い起させるから。
……思い出したくない――
俺は全身全霊でそれに抗った。それも虚しく、記憶は蘇った――

カツラギ ヨウ

三、『カツラギ ヨウ』

綺麗な人だな、って思った。
彼を初めて見た時。
細身。でも半袖から覗く腕は逞しく見えた。細身の筋肉質? でも肌は白い。
背は見上げる様に高い。男の人の中でも高め。だから…… かな、ちょっと猫背ぎみ。
柔らかそうな髪質に、色は明るい色をしている。日が当たると金髪の様にも見えた。
猫毛、って言うのかな。パーマとはちょっと違う…… んー、くせ毛なのかな? いや、もしかしたら寝ぐせなのかも。短いけれど、緩やかなカーブがかかった髪で、前髪はちょっと長め。隠れるような目元は切れ長。
そして瞳の色は淡い緑色だった。
初めて間近で見た時、失礼にもまじまじと見つめてしまった。
場所はバイト先のコーヒーショップ。彼は綺麗な女の人とそこでいつも待ち合わせしていた。彼女だろう。間違いない。
絵になる二人だな…… って思っていた。
「ご注文はお決まりですか?」
「ええ。ブレンド二つ。」
店員とお客様の会話。それでもあたしは彼と言葉を交わした事が無い。
注文に応えるのはいつも綺麗な彼女さんだから。
「……お前は甘党だな。砂糖、入れ過ぎだ。」
彼の声は低め。落ち着いた声。いつも心地いい優しい声で綺麗な彼女さんに話しかけた。
「良いでしょう? 好きなんだもん。
ヨウはいつもブラックね。」
その彼の名前は『ヨウ』。コーヒーには砂糖もミルクも入れない。
「ああ。……甘いのは苦手なんだ。」
あたしは店員。彼はお客様。
それでも横を通る度、あたしは二人の会話を聞いていた。
同じバイトのマユミは『ヨウ』の事を『仮面王子』って呼んでいた。どうやら大学でも有名な人らしい。
『王子』と呼ばれるのはぴったりだと思った。モデルさんのような綺麗な顔立ちに高い身長、明るい髪色。昔、お母さんが呼んでくれた絵本に出てくる王子様みたいだから。
『仮面』が付くのは、めったに表情が変わらないからだと思う。
でも、彼女さんと話している時、彼は優しい笑みを浮かべているように見えた。
……憧れ、って言うのかな。あたしは絵になる二人が好きだった。
日当たりの良いテラス席が二人のお気に入りの場所みたい。ほとんどいつも、その席にいたから。
春の日差しが心地よく当たる場所。人気のその席に座る人たちは、しあわせそうな笑顔を浮かべるカップル。そんなしあわせそうな彼らの笑顔を見るのが好きで始めたバイトだった。
柔らかい日差しが当たると、彼の髪は一層明るく見えた。彼女さんの話にゆっくりと相槌を打つ姿は、日差しにまどろんでいるようにも見えた。
お化粧室に立った彼女さんを待っている『ヨウ』は、大きな口を開けて大きなあくび。
……猫みたい。
目を細め、夢現にぼーっとしている姿にあたしはそう思って、彼を見ていた。


「この…… 無表情!!」
ある日のバイト中、時間は昼下がり。店内に大きな声が響いた。
何事か、と声がした方を見ると、『ヨウ』の『彼女さん』は席を立ち、綺麗な顔を怒りに歪めていた。
『ヨウ』は何かを言った様子。
「あんたなんか大っ嫌い!
終わりよ! 二度と会いたくない!!」
大きな声は再び響いた。あたしが止めに入ろうと近付くと、『彼女さん』は氷の入った水を『ヨウ』にかけた。
唖然、とした。ドラマのような修羅場だ。
「……なんであんたは最後までそうなのよ?!」
固まり、凍る空気の中、『彼女さん』はそう言い捨て、去った。
扉が閉まる音であたしは我に返った。慌てて渇いたタオルを持って、彼のそばに行った。
「大丈夫ですか?!」
グラス一杯の水とは言え、頭から掛けられていた。びっくりしたのと、ずぶ濡れになった姿がすごく可哀相に思えて…… 渇いたタオルで滴り落ちる水を拭き取ろうとした。
タオルが彼の頬に触れると、驚いた緑の瞳があたしを見た。
オリーブグリーンの優しい色。カラコン? でも自然な柔らかい色味。吸い込まれるように彼の瞳を見つめていた。時間が流れているのを忘れるほど、じっと見つめた。
タオルを持った手が、止めるように彼に掴まれた。
「……大丈夫。水だから……」
落ち着いた低い声。隣を通る度に耳に届いた『ヨウ』の声。
顔は俯き、瞳は逸らされた。何か返せばよかったのに、あたしはまだ彼の瞳に視線を奪われていた。
『ヨウ』は立ち上がった。あたしと距離を保つように。背の高い彼のそばにいると、背の小さいあたしは首が痛くなるような気がした。
それでもあたしは彼から目が離せなかった。彼はあたしを見ていない。視線を逸らし、店内をぐるりと見渡し、
「お騒がせしました。」
と、一礼。伝票を持ってスタスタとレジに向かった。
「あの!」
あたしは彼を呼び止めた。彼は振り返った。濡れた前髪の隙間から微かにオリーブグリーンの瞳が見えた。……悲しそうに涙を堪えるような表情も。
「これ…… どうぞ。」
お店のだけど…… あたしは持ったタオルを差しだした。
「大丈夫。すぐ乾くだろから……」
彼はそう言った。表情を変えずに。
そしてお店を出た――


『ヨウ』も『彼女さん』もお店には来なくなった。
別れちゃった…… らしい。
マユミは嬉々として、『仮面王子がフリーになった! 今がチャンスよ!』と、言っていた。
あたしは目の保養を無くして、バイトに行くのが楽しくなくなっていた。
優しげな笑みも、心地いい声も、彼が来なければ見られる事なんてないから。
ちぇ…… 残念。って、落胆。
彼らのお気に入りの席には、今は別のカップルが座っていた。……どこにでもいる、しあわせそうなカップル。
お付き合いを始めて、まだ日が浅いように思えた。どことなく緊張しているようにも見えたから。
好きだったはずの、そんなカップルのやり取り。……全然面白くないな、って思った。
 それで気づいた。
 あたしはカップルを見るのが好きだったんじゃなくて、『ヨウ』を見るのが好きだったんだ、って。


『カツラギ ヨウ』
彼の名前を知ったのは、ただの偶然だった。ミチコの彼氏、イサムの幼馴染らしい。
時々聞くそのお友だちが、まさかあの『ヨウ』だとは思わなかった。
文学部で、イサムと同じくスポーツはバスケが好き。見るのもするのも。
彼曰く、あまり人に懐かない『野良猫』のような性格らしい。
二人が『ヨウ』の事を話す時、あたしは耳をダンボのように大きくして聞いていた。お店で『彼女さん』といた彼以外の事も知りたい、と思って。
ただの好奇心 ……ううん。
『憧れ』
ちびで童顔なあたしと対極の位置にいる彼への憧れ。
あたしから彼の事を問う事はなかった。
……知りたいけれど、知りたくない。『憧れ』なんてそんなもんだ。
テレビの中にいる映画の俳優さんと一緒。アイドルのようなもの。『アイドル』って、確か偶像、って意味なんだよね。
ぴったり、だと思った。彼とあたしとの距離――
だから信じられない。その彼が今、あたしの目の前にいる事が――

『マリオ・コッポラ』は学生御用達の安い美味い狭いお店。
ピザがメインだけれども、パスタもラザニアも美味しい。男女問わずに人気のあるこのお店はいつもカップル率が高い。……まぁ、あたしは女友だちとしか来た事が無かったけれど……
隣の席には女の子の三人組。ヨウを見ると、目を瞬かせてうっとり顔。そしてあたしを見たら目を剥いて驚いた顔をした。
……そんな露骨な反応しなくても……
「……パイナップルのピザの他には何が好き?」
心地のいい、優しい声があたしに問いかけた。隣を通り過ぎた時に聞いていた声は、確かに今、あたしに投げかけられていた。
「ほうれん草のラザニア。」
うんうん、と言うように彼は無言で頷いた。
『え? デート?』
隣の女子がこっそりと呟いた。
「あなたは何が好き?!」
その言葉に緊張して、聞こえないようにあたしは問いかけた。
……ちょっと声が大きかったかな?
「俺?」
オリーブグリーンの瞳があたしを見つめた。
今更、あの『ヨウ』とあたしが、こんな近い距離でご飯を一緒に食べようとしている事に気が付いて、本当に今更だけど驚いた。
ミチの彼氏、イサムが浮気をし、泣き叫んでいた彼女があまりにも可哀相で、文句を言ってやろう―― ってか、別れさせてやろう、と思って話し合いの場にほぼ強制的に同席したら彼がいた。
『男の浮気は治らない』って言うし、調子のいいイサムが二度とミチを裏切らないか、って言うと、あたしには分からないけれど……
でもだからこそ、確かにヨウの言う通り二人の問題だから、言いたい事は山ほどあったけど、部外者(あたし)は口出せなかった。
そして連れられ席を外したものの、またミチを泣かす事があるのなら、黙っていられない、と様子を伺っていたら、二人は仲直りをしたようだった。
ファミレスの窓を通して見ていた、険しいけど泣きそうなミチの表情が、くしゃ、っと崩れて、笑ったから…… それはイサムとの事を嬉しそうに話す、いつものミチの表情だった。
いつか見た、オリ―ブグリーンの瞳が真っ直ぐとあたしを見ていた。
『デート』と言われた言葉の意味が頭を駆け巡る。
……『ヨウ』とデートだなんて…… 違う違う、ただお腹が減って、ただご飯食べるだけだから…… そう、だから『デート』じゃない!
緊張があたしの顔を熱くさせた。直ぐ顔が赤くなるのは、昔からの癖。
意味も無く、顔が赤いとヘンに思われるだろうから…… だから落ち付けあたし!
でもどうしてピザなの?! 大口開けなきゃ食べられないじゃない!! と、色々と叫びたいのをぐっと我慢する。
「……チーズが乗っていれば何でも好きかも。」
――ぼんやりとした、マイペースな回答だった。
そして再びメニューに落ちたヨウの視線で、あたしは幾分か冷静さを取り戻した。
少し早い夕食時間。満席…… では無いけれど、お客さんの入りはいい。賑やかな話声の中、ヨウの落ち着いた声は低いけれどあたしにしっかりと届いた。
「ミチコとはいつからの付き合い?」
「タカセとも仲が良いの?」
「バイトしているの?」
……なんだろう……? 質問攻め?
「他に好きな食べ物とか、食べたいもの、ある?」
「映画は好き?」
「本は読む?」
イサムはヨウの事を『無口』って言っていたけれど、そんな事はないみたい。
あたしがその事を問い返すと、
「サチコが俺の事、色々と知っているみたいだから、フェアじゃないと思って。」
『フェア』? 『色々』って?
「そんなに知らないわ。
今ここでお話ししている方が、あたしこそ色々とあなたの事が分かっていくもの。」
「……そう? 色々、って?」
彼はまた問いかけた。綺麗な瞳でまっすぐにあたしを見て。
目を見て話す人だな、って思った。長い前髪から覗く瞳にはいつもあたしがいたから。
……何だかさっきの緊張が蘇った。
「そうね…… 先ずは『負けず嫌い』なんだろうな、って。」
「え?」
「『フェア』じゃない、って言ったわよ。
公平じゃないと嫌だ、って言うのは『負けず嫌い』な証拠じゃない?」
きょとん、としたようにヨウは止まった。変わらずまっすぐにあたしを見つめたまま。
あれ? おかしなこと言ったかな?
すると制止した表情が変わっていった。スローモーションのように、あたしにはその動きがゆっくりと見えた。
先ずは口元が横に紡がれた、むずがゆそうに噛みしめるように。
そして瞳が見開かれるように、大きくなった。それでも瞳はまっすぐにあたしを捉えていた。
薄暗い店内の中だから、確かかどうかは分からない。けれど、頬赤みが差したように見えた。
「……確かにそうだ。」
――あ、笑った。
「俺、負けず嫌いだ。」
細い目が更に細くなった。大きな口元は口角が上がり、それに合わせて少し、ほんの少し目尻が下がった。
……無表情なんてとんでもない。見間違えでも何でもない。ヨウが笑っている。破顔一笑、ってこの事かも知れない。
うぁ…… めっちゃかわいい。鼻血が出そう。
あたしは本当に鼻血が出ないか心配になって、鼻と口を隠すように手を置いた。
ヨウは暫く笑っていた。何だかむせているよう。
「そんなに可笑しかった?」って、聞くと、
「……サチコが真っ赤になったのが面白い。」
って、からかうように言ったから……
「ひどーい!」って、睨んでやった。
――ウソ。ただそのかわいい笑みから目を離したくなかっただけ。

「また誘っていい?」
別れ際に彼はそう言った。
「もちろん!」って、あたしは答えた。断るなんてとんでもない。
「ならよかった。」
ヨウはそう言った。そしてあたしたちは正反対の方向の電車に乗った。
地下鉄であたしは東京の下町へ。彼は横浜に住んでいるらしい。
電車に揺られていつもの帰り道。
でも…… ちょっと違う。あたしは一人でにやにやと笑っていた。今日、話した事を思い出すように、噛みしめて。
あ、しまった。
あたしの低い鼻から、本当に鼻血が出た。


意外にも彼は人より食べる量が多い。背は高いけど、贅肉のカケラも見えないのに。
意外にも女友だちは少ないようだった。綺麗な女の人に良く話しかけられる所を見たけれど、彼は『多分同じ科の人。』と、答えたから。
本当かな? でもあたしに隠す理由も思い着かないし、嘘を言っているように見えなかった。
不思議に思ってあたしが彼を見ていると、
「人の顔と名前覚えるの…… 苦手なんだ。」との事。
へー、とあたしは、どう答えて良いか分からず、相槌を打った。すると、
「……サチコは特別。マリエに似ているから。」
彼はいつものようにあたしを真っ直ぐ見て、そう言った。
「『マリエ』ってだあれ?」
かわいい名前。女の子の名前。……コーヒーショップで会っていた、彼女さんの名前かな?
でもとてもじゃないけど、あの彼女さんとあたしは全く似ていない。
彼はちょっと黙ってから答えた。
「……お隣のハヤサカさんが飼っている犬。」
……………………
「――ひどーい!!」
あたしがそう言うと、ヨウは笑った。以前のように、顔を綻ばせて。
あたしは小型犬に似ている、ってよく言われる。
体つきが小柄だからだろう。おしゃべりな所も、キャンキャン吼える犬見たい、って。
「気にしてるんだから……!」
あたしは睨んでやった。そんなかわいい顔で笑っていても……!
「許してあげない。」
あたしが腕を組んで膨れていると、彼はごめん、ごめんと二度謝った。
「……でも、可愛く睨む所もそっくり。」
か…… かわいい、って?!
言われ慣れない言葉に、あたしは言葉が詰まる。驚いてヨウを見つめ返したら、
「……顔が真っ赤。」って、呟いて……
いつものように真っ直ぐにあたしを見つめていた。
「――からかわないでよ!」
と、やっとあたしから言葉が出た。でも顔が熱くて、どうしようもなくて、あたしは俯いた。
ヨウはそんなあたしを覗きこんだ。大きな体を縮込ませて。
「……本当にかわいいと思っているよ。」
呟くような小さな声。確かに聞こえた、心地いい低い声は、まるで嘘のようで……
「知らないっ!」
って、言ってあたしはそっぽ向いた。
そっぽを向くも、ヨウはまたあたしをからかうかのように、顔を近付かせ覗きこんだ。
吐息が触れそうになるくらいの距離。男の人なのに、何だか良い匂いがした。
……って、ほんとに近い!
「――――もー!!」
って、あたしは声を上げて、またあさっての方を向いた。
恥ずかしさを隠す為に。そして心臓のどきどきする音が聞こえないように。
ヨウは笑っていた。肩を震わせて、声を押し殺すように黙って。
あたしは彼を見なかった。だって、見たら心臓が爆発する―― 間違いなくそうなると思ったから。


夕食を度々誘われた。もちろんあたしは断らない。
健全なお友だちのお食事、だと思う。お酒が飲めない、と言ったあたしに彼は勧める事はなかったから。そして遅くても、八時頃にはいつも駅に送ってくれる。
帰りが遅いお父さんの前に無事におうちに着ける事も、安心して彼と食事を楽しめた一つだと思う。
……物足りない……
いや! だめだ、だめだ!! そんな事、ちょっとでも思ったら罰が当たる!
色々と意外な事が多いヨウだけど、一番驚いた事は、『サバの味噌煮』を食べた事が無い、って言った事。
どう言う話の流れでそれが発覚したかは覚えていないけど、それを知ったあたしは思わず、言った。
『じゃあ明日、作って来てあげる。』

コトコトと湯気を立てる目の前の鍋には、約束通りのサバが味噌で煮込まれている姿。
――何だか、とんでもない約束をしちゃったかな……? 成り行きとは言え、彼女でもないのにお弁当だなんて……
「……男、か。」
ぼそり、とお父さんが後ろで呟いた。
「お友だちに、いつものお礼を込めてです。」
夕食後にさっそく仕込みに入ったあたしを、お父さんは無言でずっと見ていた。
……やり辛い、ったらない。
そそそ、とお父さんは付け合わせの仕込みに入ったあたしのそばにやって来た。
「……でも、性別は男だ。」
お父さんは鍋を覗きながら言った。
鍋の中には、明日のお弁当の主役。ヨウの分、あたしの分とお父さんの分のサバの味噌煮がある。
「……明らかに一つ、大きいのがあるから間違いない。」
じろり、とお父さんはあたしを睨んだ。
「なによ……?」
物言いたげな視線に問い返した。
「……『お友だち』なら『片思い』か……」
がっくり、と肩を落し、お父さんは泣き真似をした。その大げさな仕草に――
「悪かったわね!」って、思わず声が出た。
「――何だ、アタリか?」
お父さんはあたしの顔を覗きこんだ。あたしは恥ずかしさを隠すように黙りこみ、茹でたほうれん草を乱暴に切った。
「大丈夫。
お前の手料理は天下一品だ。死んだ母さんも料理上手だったが、今のお前には敵わないだろう。
今も昔も、男は美味い料理を作る女には弱いからな。
自信を持ちなさい。」
ポン、と肩に手を置き、父さんは言った。
自信、って言ったって……
ヨウは綺麗でカッコイイ。ちんちくりんなあたしとは住む世界が違う程に。
……どうせ…… ただの片思いだもん。とあたしは何も返事ができなかった。
「今年で五十年『男』をやって来た父さんから、娘に対して助言をするなら……」
「なによ?」
気になってあたしはお父さんの顔を見た。
あたしのタレ目はお父さん譲り。そのタレ目がゆっくりと笑みを作った。
「厚焼き卵の味付けは気を付けろ。
メインも付け合わせも大事だが、厚焼き卵の味付けが一番料理人の気配りが出る。」
「……なに? それ?」
そんなの聞いた事無い。
「ほら、母さんは甘いの苦手だっただろう?
だから新婚当時、母さんの手作り弁当の厚焼き卵は、塩味がメインだった。でもある日父さん好みの甘口になったんだ。
うれしかったよ。今でも覚えている。父さんの為に作ってくれた弁当なんだー、って思って、思わず会社で子踊りしちゃったよ。」
「……それ、初めて聞いた。」
お父さんのうれしそうな顔に思わず頬が緩んだ。
「そうだっけ?
その彼の好きな味付けを知っているなら、試してみなさい。」
ヨウの好きなもの…… 思い浮かぶものがあった。間違いなく彼はそれが好きだ。だってそう言っていた。
「分かった。ありがとう。お父さん。」
素直にお礼を言ったら、お父さんは、あたしから目を外して――
「いい歳をして、彼氏もおらんのは寂しいだろうしな……」
「――って、大きなお世話よ!」
からかいの言葉に、あたしから大きな声が出た。


『付き合おう。サチコ。』
あたしにそう言った人は今、あたしの隣にいる。
ミチコとイサムは一頻りあたしたちをからかい、そして笑った後、去って行った。
お昼が終わって、他の学生たちも各々の場所に向かった。涼しい木陰のベンチで、あたしとヨウは二人、隣に並んで座っていた。
座っていても感じるのは、ヨウとの身長差。何から何まで距離があるのに…… って一人、思っていた。
そんなあたしが彼を覗くように見上げていると、
「……なに?」って、言って、言葉通り問うようにあたしを見つめた。
嘘みたい。……本当に、本当にからかってないのかな?
彼みたいな人が、どうしてあたしにそう言ったのかが分からなくて……
「……どうしてあたしと付き合いたいと思ったの?」
今だと、その質問を自分でもよく聞けたな、って思っている。
ヨウは驚いたように、少し黙った。
「……なんでだろう?」
………………………………聞くんじゃなかった…… かも。
あたしの問いかけを聞いて、彼は自分に問いかけたようだった。
「あの、えっと……
もっと知りたくなったから、って言うのが一番強いかな。」
「へ?」
「サチコの事。」
オリーブグリーンの瞳が真っ直ぐにあたしを見つめた。
「……いつもしあわせそうに笑うから、サチコの笑顔が見ていたい、とも思った。」
どき、っと大きく心臓が音を立てるのが分かった。
ヨウの瞳に、驚いたあたしの顔が映っていたから。
「怒った顔も、真っ赤になった顔もかわいいな、って思った時に、独り占めしたいと思った。」
優しげに笑みを浮かべる姿に、目眩を起しそうになった。
「……真っ赤になるのは、照れている証拠?」
「…………からかってる…… でしょう?」
お互いを確認してまだ三週間ほど。それでもヨウはあたしの『癖』を知っているし、あたしもヨウの『癖』を知っている。
「……なんで?」
あまり表情の変わらない彼だけど、問いかける表情はどこか意地悪くも見えた。
「あなたが顔を近付けるのは、からかう時じゃない?」
息が触れる程近い距離―― 心臓が飛び出そうになった。
そう言ったあたしに、ヨウはまた驚いた様に少し黙って…… でも笑みを浮かべた。鼻血が出そうな程、かわいい笑みを。
ダメだ。今、あたしの心臓が飛び出したのが分かった。
違う、違うと彼は二度、否定の言葉を繰り返す。
「……俺がサチコに顔を近付ける時はね……」
飛び出したあたしの心臓はどこかに行ってしまった。
だから、だろう。
彼の大きな手があたしの頬に触れた時、あたしの体全部が、どっかに行ってしまった心臓の代わりに大きく震えた。
体全部が心臓になったあたしには、彼の声が聞こえなかった。
でも、あたしの目は確かに近づく彼の口元を見ていた。
『――キス、したい時。』
彼はそう言って、言葉通りあたしにキスをした――


『彼氏』ができた事をお父さんにも伝えた。
「おおおおぅ!!」
と、ヘンな歓声を上げて手を叩いて喜び、お父さんはヘンな踊りを踊り始めた。
よかった。よかった。と、うれしそうに。
……別に初めての彼氏じゃない事は、お父さんも知っているはずだけど……
「よかったな。サチ。
連れて来なさい。連れて来なさい。父さんもサチの好きな人に会いたい!」
と、満面の笑顔。
「――いや、もうしばらくしてからか。
いきなり男親に会うと、まだ二十前半の男は怯んでしまうからな。
せめて一年…… いや、十か月は待とう!」
……何だかあたし以上に盛り上がっていませんか……? 十か月、とか細かいし……
「悲しいが、サチもお年頃だしな……遅くなる時は前もって連絡してくれよ。
でも……」
と、ここで崩れるほど笑った顔が、厳しい父の顔に戻った。
「――外泊だけは許さん。
せめて、その『ヨウ』に会うまでは――」
……大丈夫です。お父さん。
そんな事を考えただけで、あたし、失神しそうです――


ほとんど毎日、大学で会った。
講義が重なる事はなかったけれど、同じ大学に通っているから。
ヨウのバイト先は小さな出版社。外国の記事の翻訳をしたり、構成を手伝ったりしているらしい。
締め切りが近付くと、バイトの彼も忙しくて、学校にこれない時もあった。
それでも会えない日は、夜に電話をくれた。電話越しの声は、いつもと違って更にあたしを緊張させた。
時々だけれども、喧嘩をする事もあった。
ちょっとした考えの違い、が原因だと思う。意地っ張りなあたし。負けず嫌いで説明下手なヨウ。でも喧嘩は、その日のうちにいつも仲直りしていた。
別れ際の喧嘩も、深夜十二時を回る前にどちらかが電話をかけて、『ごめんね。』って。
どちらかが謝罪を言うと、もちろんあたしたちは受け止める。嫌だった事を、ちゃんと伝えて、仲直り。
『じゃあまた……』
『うん。また明日。』
喧嘩は落ち込むし、世界が終っちゃったように感じるけれど、仲直りしたら、もっと彼の事を好きになっている自分に気付いた。
そして段々とヨウの事を色々と知っていった。
『無表情』とあの彼女さんは言ったけれど、違う。ちょっと分かりにくいだけ。長い前髪と硬い口元がそう見せているだけ。
よく見ると分かる。彼の表情が変わる瞬間や、表情の癖が。それを見つける事がうれしくて、そう思う自分自身に感じた。
あたし、本当にヨウが好きなんだな、って。
毎日が楽しいと思っていた。だからあんな事が起きるなんて夢にも思わなかった。
でもその出来事は、まさに無情。
無情にも…… ヨウを襲った――



その日はあたしのバイトの日だった。
夕方、ヨウはあたしをバイト先まで送ってくれて、そして別れた。
特に何でもない、いつもと同じように。いつもと違うのは、曇り空に湿った空気の匂いがした事ぐらいだった。
朝からの雨予報。でもまだその時は降っていなかった。
三時間のバイトが終わった時に、小雨が降り出していた。傘を差しておうちに帰って、お父さんと夕御飯を食べた。
そして夜、寝る前にヨウに電話をかけた。
恒例になったそれは、十一時頃にどちらかがかけていた。もちろんいつも直ぐに繋がるわけではなかったけれど、彼は必ず電話を返してくれた。
――でもその日は折り返しが無かった。
今まであたしが持つ事はなかった携帯電話。ヨウとお付き合いを初めて、お父さんもいつでも連絡が取れるようにしたいと言ったので、買ってみた。だから、着信に残るのは、うちの電話番号か、ヨウの携帯番号ばかり。
一時頃まで待って、睡魔に勝てずに寝入ってしまった。
でも、握りしめて寝た携帯電話に、ヨウからの着信はなかった。
「あれ……?」
と、朝起きて直ぐに携帯の画面を確認した。寝ぼけるも連絡のない、その不自然さに不安を覚えた。
メールを打とうにも、文章が浮かばないから、もう一度電話をした。
繋がらなかった。
一先ず、大学に行った。
携帯をずっと右手に持っていた。ミチからのメールも着信も届いたのに、ヨウからは何も無かった。
その日のお昼は、一緒に食べる約束だったのに、彼は来なかった。
何の連絡もないまま。
積もった不安は、いらいらに変わった。でも、どう発散したらいいか分からずに、もう一度電話をした。
…………やっぱり繋がらない。
講義を終えて、帰ろうかどうしようか迷って、ぼーっとしていたら、イサムがあたしを見つけた。
いつもにこにこしているイサムが珍しく顔を曇らせていた。
「……ヨウと連絡取れた?」
取れない。って、あたしが言うと彼は言った――
「ヨウのご両親…… 昨晩事故で亡くなったんだ……」


イサムはヨウの幼馴染。
イサムの実家はヨウの家の近くらしい。家を出て一人暮らしをしている彼は今朝、それを親御さんからの電話で知ったらしい。
「本当に仲の良い人たちで…… 俺らが小さい頃から、ヨウの母ちゃんは毎日、親父さんを駅まで迎えに行っていたんだ。
その日も、いつもと同じように迎えに行って、二人で家に向かっている時に、飲酒運転の車に跳ねられたんだって……」
頭の中で、ぐるぐるとその言葉が回った。
ヨウのお父さんとお母さんが亡くなった…… 二人とも一緒に。
仲の良い姿は彼からも聞いていた。
「……俺もイイ齢になったのに、今も平気で目の前でキスをしたりするから、目のやり場に困る。」
って、眉をひそめて。困っているようにも見えたけど、あまり表情の変わらない彼からは、その両親が『大切』だと言うのが感じ取れた。
連絡なんてできるはずない。きっと、何も考えられないんだ。
……お母さんが死んじゃった時、あたしもそうだったから……
彼に会いたい、って思った。
何ができるかなんて分からないけれど、きっと…… きっと寂しい思いをしているだろうから。
でも、まだまだ付き合い始めたあたしが、そんな所にのこのこ行って良いものか、とも思った。
「サチコ。」
お父さんがあたしを呼んだ。
どうしたらいいか分からずに、でもどうしようもなくて、あたしはお父さんにその事を相談するように話した。
「行ってあげなさい。
ヨウ君も…… きっとどうしたらいいのか分からないだろうから……」
夜も遅い時間になっていた。あたしは言葉が出ずに、ただお父さんを見つめた。
「父さんも母さんを亡くした時に、どうしたらいいのか分からなかった。
でも、サチコ、お前がいてくれたから、父さんは乗り越えられた。
大切な人は亡くなってしまったけれど、彼にはお前がいる事を、そばに行って伝えてやりなさい。」
お父さんの言葉はその時のあたしには理解できなかった。
あたしにあるのは、ただヨウに会いたい、って事だけだったから。

ヨウのおうちの場所なんて知らない。だから急いでミチに電話をして、イサムに場所を聞いてもらった。
教えてもらった場所は、あたしんちから電車で二時間ほど。
……たどり着いても、今日中には帰ってこれないかも。あたしがそう言ったら、お父さんは玄関先で、
「今日の外泊は特別。明日にはちゃんと帰ってきなさい。」って、言った。
「まだ、父さんはヨウ君に会っていないんだから。」って。
コートをはおい、財布と携帯だけ持って跳び出した。
昨日から続く小雨は降り続いていた。秋の終わりに差しかかった季節。小雨と夜の時間帯で肌寒さを感じた。
ヨウの携帯をまた鳴らしてみた。
……やっぱり繋がらない……
電車の動きがもどかしく感じた。
――早く。早く! 祈るようにあたしは手を結んだ。
早くヨウに会いたい…… あたしの中にはそれしかなかった。

初めて歩く、知らない土地。しかも深夜の時間帯。
外套は薄暗くて、メールで送られた道順を辿って行くと、かわいい英国風の一軒家が見えた。お庭には手入れされたバラが綺麗に咲いていた。
ローマ筆記体で書かれた表札には『カツラギ』と書かれていた。だから間違いない、ここがヨウのおうち。
ドアベルを鳴らした。 ……でも、おうちの中からはもの音すらしなかった。
だからもう一度、あたしはベルを鳴らした。……ピーンポーン、って甲高い音がもう一度、夜の静けさに響いた。
居ない…… のかな? ヨウ、どっかに行っちゃったのかな……?
ううん、そんなはずはない。自信も確証もないのにそう思って、あたしはもう一度ベルを襲うと手を伸ばした。すると、
「――――誰?」
カチャリとドアが開かれ、ヨウは顔を出した。
「……サチコ?」と、彼は確認するようにあたしの名前を呼んだ。
「はい。」
って、あたしは返事をした。いつものように。
逆光になって、あたしの場所からは彼の表情が見えない。
「……よく分かったね、俺の家。」
「イサムに聞いた。」
「そう…… おいで。」
そう言って、彼は言葉通りに、扉を開いた。

一目でわかる程、手入れの行届いたおうちだった。彼はあたし用にスリッパを出してくれた。
あ…… と、ふと止まり、ヨウはあたしを覗いた。
「……ごめん。連絡できなかった……」
疲れた顔に見えた。いつも以上に、無表情にも。
ううん。と、あたしは首を横に振って、彼を覗き返した。
「……お茶でも入れるよ。」
彼は目を逸らして、あたしを先導した。
外観と同じく、英国風を思わせるようなかわいい居間に通された。
きっとお庭で取れたものだろう。テーブルには綺麗にバラが活けられていた。
隣の部屋の台所のシンクには、食事後の食器が見えた。
……ヨウ、ちゃんとご飯食べているのかな? 生気の感じられない顔色にあたしはそんな心配をした。
お湯を沸かす音が聞こえ、ヨウはトレーにお花柄のマグカップとティーポットを乗せてきた。ポットからはお花のようないい匂いがして、そのあたたかい匂いに、体が冷えている事を感じた。
お部屋の中にはたくさんの写真があった。
きっとヨウのお父さんとお母さん。面影があった。
「……綺麗な人ね。」
「え?」
「お母さん。ヨウにそっくり。」
居間には大きな写真があった。それを指差して、あたしは言った。
微笑みを浮かべる姿がヨウにそっくりだった。オリーブグリーンの瞳も。髪色はヨウより明るめ。長いウエーブのかかった髪は柔らかそうで、高価なお人形のよう。お姫様みたいなふあふあのドレスを着ていた。
「……結婚式の時だって。
『一番綺麗に撮ってもらったから』、って言って、ずっと飾っている。」
ふーん、とあたしは相槌。
「目元と口元はお父さん似ね。」
その隣には、ご両親が二人並んだ写真。
満面の、零れそうな笑みを浮かべるお母さんに対して、ヨウのお父さんの表情は硬い。
……見ていても緊張が伝わってきそうな硬さだった。
「え? ああ……」
「……仲良さそうな二人ね。」
何枚もの家族写真。もちろんヨウも映っている。
ランドセルを背負った姿に、学生服の姿。バスケのユニフォーム姿も。どれもこれも、めちゃめちゃかわいくて、頬が緩んで鼻血がでそうになった。
「仲…… 良かったよ。
ほんと。いっつも二人でいて、飽きないのか? って、よく聞いた……」
「仲が良かったら『飽きる』事なんてないんじゃない?」
「いや、あれは度が過ぎていたよ。
見ている方が恥ずかしいくなるくらいだったし……」
カップに琥珀色のお茶が注がれた。柔らかい湯気が部屋を包んだ。
「……『死ぬ時も一緒よ。』とかもよく言っていた。
まさか、本当に一緒に死ぬとは思わなかったけど……」
俯いて呟くヨウはソファーに腰を落とした。あたしもその隣に座った。
「……二人には、一番良い…… 形だったんだと思う。
父さんも、母さんの事を一人にしたくない、ってよく言っていたから……」
時計の秒針だけが部屋に響いていた。コチコチと。それだけが生きている部屋は静まり返っていた。
「親族の方…… 来ないの?」
ヨウに兄弟がいない事は聞いていた。それでも若いご両親に見えたし、お爺さんやお婆さん、もしくは誰かがいてもおかしくない。
写真はたくさん、たくさん飾られているのに、ヨウとヨウのお父さんとお母さんしか映っていないように見えた。
「……いないの。」
「え?」
「母さんは孤児だったらしい。施設で育った、って言っていた。
まぁ、あの見た目だから、全部が『日本人』じゃないのは確かだと思う。どっちの親がどこの国の人かも分からない。分かるのは、きっと白人だろう、って事だけ。
父さんの方には何人か兄弟がいるみたいな事を聞いたけど……
……母さんとの結婚を反対されて、家を跳び出した、って言っていた。完璧な絶縁状態で連絡を取っている姿を見た事無いし、遺品を探したけれど、何も出てこなかった……」
あたしは言葉が出ずに黙ってしまった。
「……だから、って言ったら言い訳のようだけど…… 何をどうして良いのか、分からなくてさ……」
「…………え?」
「連絡。何度も着信くれたでしょう? サチコが家の前にいてびっくりした。
……あれから時間が経っている事にもびっくりだ。」

「父さんはいつも仕事が終わって、帰る前に電話をしていたんだ。最寄りの駅に何時に着くって。
連絡しないと母さんが心配するから、って言っていた。小学生ぐらいまでは俺も一緒に迎えに行っていたよ。
『家族はいつも一緒にいるものだから。』って言うのが母さんの口癖だった。
ついこの前も、駅に母さんが父さんを迎えに来て、一緒に帰っている姿を見たんだ。
……いい歳してんのに、手を繋いでいた。
『恥ずかしいから、外では止めてくれない?』って言ったら、二人して笑って、『じゃあ、今度はヨウが真ん中に来て、三人で繋ぎましょう。』とか、言ってんの。
……小学生のガキじゃないんだから……」
ヨウはあたしを見なかった。いつも、いつも真っ直ぐに、人の目を見ていたのに、彼は俯いて話した。長い前髪が彼の顔を隠して、表情は見えなかった。
固く握られた彼の手に、あたしは自分の手を添えた。彼はその手も気付かない様だった。大きな手は驚くほど冷たく感じた。
「……事故に遭った時も…… 手をしっかりと繋いでいたんだって。
離すのに苦労した、って言っていた……
……仲良すぎるんだよ…… 二人して逝って……
俺――――」
詰まるような声に、あたしの心も震えた。
「俺…… 残…… されちゃった。」
繋いだ手から、ヨウの震えが伝わった。
思い出の言葉からも。決してその言葉を口にはしなかったけど、あたしには分かった。
震えが伝わるように、彼の心も、感じる痛みも。そして孤独も――
だからあたしは、彼を抱きしめた。
強く、強く抱きしめて、そしてあたしは――――



目の前には指輪があった。かわいいピンクの宝石の付いた、ダイヤモンドの指輪。
そしてヨウが言った言葉は、彼のご両親が亡くなった時にあたしが言った言葉。
あれからその話をする事はなかった。だから忘れちゃっているものだと思っていた。だけど、彼はその言葉を言った。ダイヤモンドの指輪を用意して。
ダイヤモンドの指輪の意味は? その言葉の意味は?
あたしの勘違いかもしれない。そうだと嫌だから、どうしたらいいか分からず、指輪と交互に彼の顔を見つめた。
「……今のプロポーズ。なんだけれど……」
ウソ?! ほんとにほんと?!!
あたしは信じられなかった。信じられるはずが無い。
だってだって、お付き合いを初めて今日が二年目の記念日。だからお祝いをしようと、お父さんにも断って、ヨウのおうちで二人きりのパーティ。
ご飯を食べて、ケーキを食べて、ソファーでくつろいでいると、渡された大きなリボンの小さな箱。
まだまだ信じられずに、あたしが黙っていると、ヨウは箱から指輪を取って…… あたしの左手の薬指に、その指輪を付けてくれた。
サイズもぴったりだった。どうして知っていたんだろう、って思った。
「……嫌なの?」
と、と、と、と、とんでもない!!
あたしは大きく首を振って、そして誤解をされたくなくて言った。
「ううん! びっくりしただけ!」
かわいい指輪。憧れていた指輪。
男の人が、たった一人の、大好きな人に贈る指輪。
その指輪を、大好きなヨウからもらえるなんて…… あたしはなんて…… なんてしあわせ者なんだろう……
「うれしい……」
気持ちは思わず声に出た。
本当にうれしい…… それ以上に何も感じなかった。
「……返事は?」
ヨウはあたしを覗きこんだ。ちょっと困った様に眉をしかめて。
それであたしはやっと気づいた。一人で有頂天になっていた事に。
「! もちろんおっけーよ!」
――――今思うと、もっと良い返事ができたはずだ、と後悔している。
あたしの返事にヨウは、ほっとした、と言わんばかりに、しかめた眉を解いた。
ヨウも心配するんだ。ヨウのお誘いを断る人なんていないのに。
そしていつも無表情のような、難しげな表情の彼が、どこでどうやってこんなかわいい指輪を見つけたんだろう、って思った。
指輪を確かめるようにつけ直した。大好きなヨウが選んでくれた指輪。
間違いない。今日からあたしの宝物だ。大切な、大切な宝物。
うれしくて、うれしくて…… あたしから涙が出そうになった。
「……なに?」と、ヨウはあたしを覗きこんだ。
零れそうな涙が恥ずかしくて、え…… だって…… と言葉が詰まる。
「あなたがこんなかわいい指輪を、どんな顔して選んだろう、って想像すると……」
右手で指輪を確かめるように触れた。あたしからは笑顔が零れた。でもうれし涙は見せたくなくて、いつも以上に笑った。
照れ隠しで選んだ言葉に、ヨウは目を逸らし、想像はしなくていいよ。と言った。
あたしはその言葉と、仕草にも笑った。
うれしくて、うれしくて、あたしは笑った。
そして言った。
「しあわせに…… なろうね。」
今以上に。これからもずっと。
そう言ったあたしに、ヨウは、
「……もちろん。」
と、彼はあたしの大好きな穏やかな笑みを浮かべた。



出会って三週間でお付き合いが始まった。
付き合って二年で婚約をした。
その三ヶ月後の、二十四歳の私のお誕生日が入籍日。
あたしはその日、『キリシマ サチコ』から『カツラギ サチコ』になった。
お友だちはみんな言った。
「色々と早すぎない?」って。
あたしは首を振って答えた。
「早すぎないわ。」って。
だって『結婚』ってずっと一緒にいる事の約束だから。
あたしはあの日、ヨウと約束した。もう、すでに約束をしていたから。だから早すぎる事なんてない。ただ『形』にしただけ。
あたしの左手の薬指には、宝物が二つ。
一つは、ダイヤモンドとピンクの石が付いた指輪。
もう一つは、ヨウとおそろいの指輪。
あたしは時間があるとそれを眺める。そしてヨウとの約束を考える。
約束を守る為に、あたしはここにいる。
『カツラギ サチコ』になったあたしは、ヨウが育ったおうちに引っ越してきた。
ヨウのお母さんが毎日丁寧に手入れをして、花を咲かせていた小さなお庭にお水をやって、居間に飾られたしあわせそうな笑顔の写真たちに、あたしとヨウの写真を加えた。
ご近所の方々はあたしの事を『若奥さん』とか『ヨウ君の奥さん』って呼んだ。くすぐったくて、でもうれしくて…… もっともっといい『奥さん』になろう、って頑張った。
だからあたしにできる事を探した。
お料理にお洗濯、お掃除も大丈夫。小さい時からやって来たから、お手のもの。お仕事でいつも遅くなるヨウの健康状態を考えて、栄養士の資格を取った。
今日一日、明日も、明後日も、これから先ずっとヨウが元気でいられる事を考えての生活。
「ねぇ。他にあたしに何かしてほしい事はない?」
それを聞いたのは、四か月前に入籍を終えた挙式の前日だった。
あたしは考えに行き詰って聞いてみた。
 結婚式に憧れはもちろんあった。女の子なら誰でもそう。純白のドレスを着たお姫様になって、大好きな人と永遠を誓う儀式だから。だけど、まだまだ若いあたしたちには贅沢過ぎて、『別にいいよ。』って、あたしは言った。
でもヨウは、大切な事だから、って――
「……どうしたの? 急に……」
切れ長の瞳が驚いた様にあたしに問いかけていた。
盛大ではないけれど、大切な人たちを呼んでの挙式。ヨウが遅くまでお仕事を頑張るのも、きっとそのせいだ、って思ったら、もっと、もっと彼にあたしもなにか出来るんじゃないか、って思った。もっと他に、あたしはヨウに何をしてあげられるだろう、って。
「あたし、あなたの為に出来ることを探しているの。」
彼はえーっと…… って声を上げ、
「……特に……」って、言った。
「なんでよ?」って、あたしが睨みながら言うと、ヨウは無表情に眉を寄せて、もう一度唸った。
知ってる。それ、本当に困った時の仕草。
「あ、でも……」
「でも?」
「いつもそばで笑っていて欲しいな。」
「へ?」
「……サチコがしあわせそうに笑う笑顔、好きだから。」
そう言ってヨウは顔を綻ばせた。
たまに見せる笑顔が反則だ。かわいい、ったらありゃしない。
「考えとく。」って、あたしが言ったら、
「……考えるだけ?」って、意地悪な笑み。
「なによ?」
何だか悪い予感がして、様子を伺った。意地悪くにやにやとヨウは笑っていた。
「今、見たい……!」
「! わ!」
大きな手が伸ばされて、あたしをくすぐった。こそばゆくて、こそばゆくて、あたしは大きな声で笑った。頬が痛くなるほど、お腹がよじれるほど笑って、息が苦しくなった時に、くすぐる指の動きは止まった。
「……もー!!」って、あたしが涙目になって睨んだら、ヨウも笑っていた。大きな口を開けて。
もー…… って、もう一度あたしは唸った。心の中で。
でも、お腹を抱えて笑うヨウの姿に、あたしの顔は綻んだ。



あたしが小学生の頃、お母さんは海の事故で亡くなった。
それからお父さんと二人暮らし。おしゃべりで、楽しい事大好きなお父さんとはいつも仲が良かった。
学校の事はもちろん、お友だちの事も、多くはないけど今までお付き合いをした彼氏さんの事も、包み隠さずあたしはお父さんに相談してきた。
その中でも、お父さんはヨウがお気に入りだった。
お付き合いをしている時も、両親を亡くし、一人暮らしになったヨウを、度々うちに呼んで三人でご飯を食べた。
ヨウは初め、緊張している様子だったけど、二度、三度、とおうちに招くと、お父さんの陽気な性格と、どこかふざけた仕草に、あのヨウの硬い表情も溶け、笑っていた。
お父さんがヨウを気に入った理由はわかる。隠し事も曲がった事も大嫌いなお父さんの性格に、マイペースで無表情でも、真っ直ぐな性格のヨウと気が合ったのだろう。
でも初めてお父さんがヨウに会った時、あたしは気が気でなかった。だってあたしの心の準備なく、その日は訪れたから。

 お父さんとヨウが初めて会ったのは、彼のご両親が亡くなって、あたしが彼に会いに行ったその日の翌朝だった。
 翌朝の早朝。まだまだ朝も空けない暗い時間。お隣のわんちゃんの鳴き声に起されたヨウは、隣で寝ていたあたしを見て、驚いた声を上げた。
何を今さら…… と、寝起きのあまり良くないあたしは不機嫌。でも、蒼白な表情でヨウは、
「……サチコのお父さんとの約束、破っちゃった……」と、見た事もないほど焦っていた。
お父さんにももちろん伝えてある。ヨウのおうちの場所も。携帯だって直ぐに繋がるようにしていた。
それでも、さっきの言葉と動揺は『ヨウに会うまで外泊禁止』令がある事も知っていたからだろう。
説得虚しくあたしは車に乗せたれた。
まだまだ色々とヨウは忙しいだろうから、あたし一人で、電車で帰る、と言った言葉も彼は断固として拒否。
車で一時間半ほどのあたしんちまでの道のりは、ずっと口論していた。
もろに朝帰りの時間帯だし、擦ったからか二人とも目元が腫れているし、それよりお父さんも良い、って言ってくれたからの外出だったのに、そんなに怒る事無いじゃない、一人で帰れるわ、小さな子どもじゃあるまいし、って!!
そしてあたしのおうちが近付いた所でヨウは言った。あたしが思ってもみなかった言葉を。
「――ちゃんとサチコのお父さんに俺から謝るから!」
その言葉は、あたしの頭の中で、大きな銅鑼の音の様に響いた。
どーん!! って、響いて、あたしは体が揺れるのを感じた。
……………………え? 会っちゃうの……?
って、想像もつかなかった出来事が起ころうとしていたから。

その日、お父さんとヨウが会ったのは、多分十分も無いぐらいの時間。
気が動転していたあたしは、彼らが何を話していたかは覚えていなかった。
でも、頭を下げたヨウに、お父さんが目を丸くしていたのは覚えている。引き渡すかのように、あたしを置いて、ヨウは帰って行った。何事もなかったかのように。
茫然とするあたしにお父さんは言った。
「おまえ、ちゃんと意味、分かっているか?」
「へ?」
何を? どう言う意味?
問いかける間もなく、お父さんは笑いだした。声を押し殺すように、肩を振るわせ、顔を隠して。
「……なんで笑うのよ?」
お父さんは返事をくれなかった。暫く笑っていたから。そして言った。
「良い人を見つけたな。」って。
小さい声だったけれど、確かに聞こえた。
お父さんの『良い人』って、何を指しての良い人かは分からなかったけど、
「うん。」
って、あたしは答えた。


プロポーズされた事も、あたしは一番にお父さんに言った。
でも、お父さんはすでにヨウから聞いていたらしい。お泊りから帰ったあたしにお父さんはにやにやとした顔で、
「で? なんて答えた?」って、聞いてきた。
あたしは貰った指輪を見せながら、隠さずに全部言った。お父さんは、あたしの大切なお父さんだし、一番の親友だと思っているから。
そして暫くして、ヨウは『ご挨拶』として、お父さんを訪れた。
もう何度も会っていたし、全部を知っているお父さんには、まさに『形だけのご挨拶』。三人の歓談の後、ヨウを見送っておうちに戻ったあたしにお父さんは言った。
「約束をちゃんと守る人だな。ヨウ君は。」
『約束』? なんの約束?
あたしがその意味が分からず黙っていると、
「ヨウ君が初めてうちに来た時に言った『約束』だよ。
 二年以内にちゃんとした形で挨拶しに来ます、って言っていただろう?
……お前、やっぱり理解してなかったのか?」
初めて来た時? ヨウが初めてお父さんに会った時?
あたしは茫然とした。理解できなかった、って表現の方が正しいかもしれない。ヨウがそんな頃から考えてくれていた、って事に驚いた、って言うのもある。
暫くあたしは黙った。お父さんも。
じっと、あたしは父さんの顔を見つめた。何を言っていいのか分からなかったから。
「『今はまだ学生だから、直ぐにとは言えないけれど、ちゃんと仕事についてサチコさんと一緒に人生を歩んでゆく基盤を作ってから迎えに来たいと思っています。
だから二年下さい。二年以内にちゃんとした形で挨拶しにきます。』 ヨウ君はあの日、そう言ったんだよ。」
あたしはその日の朝の事を思い出した。車の中で口論した事。子ども扱いしないで、的な事を言った事を。
 あんなに激しく口論した中で、ヨウは私との事を真剣に考えてくれていた――
「――ヨウ君らしい、真面目な言葉じゃないか。一年後だと社会人になって直ぐだからまだまだ未熟だ、とでも思って二年にしたんだろう。うん。きっと間違いない。
サチコ。本当にいい人を見つけたね。父さんも安心だよ。
……しあわせになりなさい。」
お父さんはあたしの頭を撫でた。小さい時、よくしてくれたみたいに。その手は、あたしが一番安心できる、大きな手。
気づいたらあたしはお父さんに抱きついていた。小さな子どもみたいに。
大きいと思っていたお父さんは、いつしかあたしと同じぐらいの大きさになっていた。
「……抱きつく相手…… 間違っているぞ。」
お父さんは照れたようにそう言って…… あたしは黙って首を振った。


あたしはお父さんを一人にするのが嫌だった。
ずっとずっと一緒だったから。大きくはない住まいだったけれど、一人だとすごく広く感じたから。
だからヨウにももちろん断って、三人で一緒に暮らそう、って言った。そしたらお父さんは笑って、
「二十年後か三十年後にはお願いするよ。
新婚の若い二人のお邪魔をするのは嫌だからね。」って。
お父さんと離れて暮らす事を考えると、すごく、すごく悲しかったけれど、結婚、ってそんなものだから、って言われると、あたしは何も言えなかった。
あたしが泣きそうになっていると、
「いつでも会える。遊びにおいで。二人に会いにも行くよ。」
って、言ってくれたから、あたしはお父さんに会いに行った。
ほとんど毎日、と言いたい所だけど、でも週一度は必ず。
一緒に暮らしていた時と同じように、その日あった事を話して、お父さんの好きなものをたくさん作って、ヨウとのおうちに帰った。
そんな日を過ごしていた。
二十年後か三十年後には、またお父さんと、そしてヨウとも暮らせると楽しみに思っていた。
だからまさか、そんな事が起るなんて、夢にも思わなかった。


白檀の香の匂い。
嗅ぎ慣れていた。毎日欠かさずに、朝と夜にお母さんにあげていたから。
「どうしてお線香を焚くの?」
小さなあたしはお父さんに聞いた。
「母さんがここを離れてしまっても、しあわせに笑えるように…… だよ。」
幼いあたしは、『死』と言うものが理解できなかった。
「お母さん…… どこ行っちゃったの?」
お父さんはいつも笑っていたから、目を真っ赤にして、口を堅く結んでいる姿が悲しくて、お父さんがそんな表情をしているのがどうしてか知りたくて、そう聞いた。
「……遠い所、だよ。」
お父さんはあたしに背を向けて、そう言った。
小学校一年生の夏、海に家族三人で遊びに行った。泳げないあたしとお父さんは、浜辺にいた。
泳ぐのが大好きで、海が大好きなお母さんは『沖まで泳いでくるわ。』そう言って…… 帰ってこなかった。
遺体も発見されなかったから、あたしはお母さんは『消えてしまった。』んだ、って思った。もっともっと大きな海の奥まで泳ぎに行ってしまった、って。
笑って、泳ぎに浜辺を駆けて行ったから。
泳ぎながら、浜辺にいるあたしたちを確認すると、大きく手を振ってくれたから。
泳ぎが上手で、高校の時に都内でも一番泳ぎが早くて、一等になった事がある、って言っていたから……
だから理解できなかった。お母さんが海に飲まれてしまった、って言われた事が。
だから『死』と言うものが理解できなかったのかも知れない。遺影の写真は、海に駆けて行った時と同じ笑顔だったから。
……でも、あたしの目の前にいるお父さんは、青白くて冷たくなっていた。
手を触っても、あのあたしが一番安心できるぬくもりは無かった。
真っ白な装束を着て、白い木の箱の中で寝ていた。酷い花粉症なのに、お花に埋もれて。でもくしゃみをする気配もない。
あたしが泣くと、慌てておかしな事や、良く分からない事を捲し立てたのに、今は何も言ってくれない。
……だけど、目を瞑った姿は、テレビを見ながらうたた寝をしている姿と同じように見えた。たまによだれを流しながら、ふと、びくって動き出してあたしを驚かせるのに、そんな気配もない。
お父さんは『止まって』いた。
もう『動かない』。
否定の言葉しかあたしの口から出なかったのに、それでもあたしは『理解』していた。
お父さんはもう、あたしとお話しをしてくれない。
あたしに笑いかけてくれない。
あたしの作ったお料理を食べてくれない。
それが…… あたしが理解した、『死』だった。


泣き崩れるあたしの代わりにヨウは準備を進めてくれた。
お父さんを『送り出す』準備。
白い木箱の中で寝ていたお父さんが、白い白い、小さな石のようなかけらになった。
あたしはお父さんのかけらを拾い…… お父さんは白い陶器に入った。
けっして大きくないお父さんの体が、あたしにでも持ててしまうくらい小さくなった。
あたしは、あたしのお母さんとお父さんを、ヨウとのおうちに連れて帰った。
お仕事で忙しいのに、ヨウはあたしを心配してお休みを取ってくれた。
「大丈夫。もう大丈夫。……心配しないで。」
あたしがそう言うと、ヨウはあたしを抱きしめてくれた。
「俺はいつでもそばにいるよ。約束は守るから。」って――
ヨウは約束を破らない。忘れた事もない。
お父さんも言った。『ヨウは約束を守る人』だって。
だからその言葉に不安はなかった。大きな腕があたしを包んで、そして耳元から聞こえる規則正しい音と、伝わるあたたかさにあたしは安心できたから。



――――でも、あたしは……?
急に不安は襲った。大きな不安。それは恐怖。
『死』は急に訪れる。何の前触れもなく。
お母さんは事故で亡くなった。そんな事が起るなんて予想も出来ないうちに。
お父さんは病気だった。『心筋症』と言われた。それも突然だった。
ヨウのご両親も。いつものようにお父さんを迎えに出たお母さんを、ヨウはおうちで見送ったらしい。
予想なんて出来はしない。それは何も変わらない日常の中で起った出来事だから。
その無情さには、何も抵抗ができない人間の弱さを感じた。
そしてその無常さには、しあわせは続かない、そんな危機感も感じた。
ヨウは約束してくれた。
『いつでもそばにいるよ。』
ヨウは約束を破らない。何があっても。
でも…… あたしは――?
あたしは約束した。
『あなたはひとりじゃない。ひとりにはしない。』
そう約束した。一人『残された』と言ったヨウに。
ウソでも何でもない。
ただ、そうしたいと思ったから。自分の何に変えてでも、彼の為にそうしたい、って思ったから。
でも、あたしは守れるのだろうか?
『心筋症』で亡くなったお父さん。
小さな頃からお世話になっていた先生は言った。
「さっちゃんも…… 定期的に検査をしなさいね。」って。
言葉の意味が分からず調べてみた。
『心筋症、その多くは遺伝性の疾患』
お父さんそっくりなあたし。見た目も、性格も。カナヅチな所も。
なら…… もしかしたら……?
もしかしたら、あたしもお父さんのように、急に死んでしまうかも知れない。
ヨウを残してしまうかも知れない。
ヨウを一人にしてしまうかも知れない。
『約束』守れないかも知れない……!
あたしには何ができる?
ヨウの為に何ができるの?
お料理も、お掃除も、お洗濯も、でもそんな事なんてどうでもいい!
彼があたしに望んでいる事、
『いつもそばで笑っていて欲しい。』
そばにいたい。そばで笑っていたい……! ヨウのそばにずっといたい!!
――でも、それができなくなったら?
……ヨウはどうなるのだろう……?
あたしがいなくなると、ヨウは一人ぼっち?
『残された』と言って、涙を流したヨウを一人ぼっちにしちゃうの……?!
だめ! そんなの出来ない!! 絶対に!!
どうすればいい?
どうすればいいの?!
あたしは探した。あたしに出来る事。
ヨウの為に出来る事を。
あたしにしかできない事を。
ヨウを一人にしない為に出来る事を。
あたしは考えた。あたしに出来る事を。
あたしは探した。色々な方法を。
あたしは考えた。ヨウの為に――
ヨウの為に、あたしが出来る事を―――――――


子どもたち

四、『子どもたち』

――――!
目の前で、音を立て窓は閉められた。
「――父さん、早く。
あのお店、土曜日のお昼はすごく込むんだ。
シュークリーム、売り切れちゃうよ。」
いつの間にか隣にいたシンが、乱暴に窓を閉めたようだった。
「せめて母さんの分は必要でしょう?」
表情を伺うようにシンは上目づかいで俺を覗きこんだ。
「もちろん。
手ぶらじゃ会わせる顔も無いよ。」
シュークリームの代わりになる、サチコの好物なんていくつも思い浮かぶ。それでも、彼女はそれが食べたがっているだろう、と俺は確信していた。
「サチコが今食べたいのはそのシュークリームなんだから、他のものじゃ変わりも務まらない。」
シンは返事もせずに黙って聞いていた。黙り、俺を見つめるシンはサチコには似ていなかった。鏡で見る、俺自身の表情にそっくりだ。
「なに?」
問おうとするような表情。なのに、黙り様子を伺うシンに俺は問いかけの言葉を投げた。
「……顔色が悪い……
小雨も救急車のサイレンも嫌いでしょう?
日、改める?」
サイレンの音はもう聞こえない。元々遠くに、微かに聞えた音だったし、今は窓も閉まっている。
聞こえるのは小雨が地を濡らす音だけだった。
「大丈夫だよ。」
俺はシンから視線を外し、窓の外を眺めた。
小雨には嫌な思い出ばかりだった。
特にこの家にいると、否応なしに思い出す。
『父さんを迎えに行ってくるわね。』母はそう言って帰ってこなかった。
『いってくるよ。』そう言って、いつものように、その朝にここを出た父と共に。
サチコに言った様に、それは二人にとって一番『良い形』だった、と今も思っている。
自慢の母には違いなかったが、同時にコンプレックスでもあった
一目でわかる、異端の容姿。他人とは異なる扱いを俺ですら感じる時があった。そう思うと当人はどれほど傷ついてきたのかなんて考えたくも無かった。
写真を見れば一目瞭然だ。母が心からの笑みを浮かべるのは、父と俺だけだと言う事が。
気真面目で寡黙な父は母といる為に、すべてを捨てたらしい。
俺たちは『三人だけ』の家族だった。
『母さんはね、母さん自身の親の愛を知らないけれど、ヨウ、あなたには母さんが欲しかった親の愛をすべてあげるわ。』
そう言って母はいつも笑い、俺にくれた。無償の『親の愛』を。
そして父も。口数はけして多くなかったが、それでも父はそんな母を愛し、そして俺も愛してくれた。支える様に。
仲の良い両親を煩わしく思う気持ちもあったが、それも『羨ましい』と思っていたから。二人は理想の恋人像であり、理想の夫婦だった。
でも『三人だけ』の家族は、その日突然に終わった。
医師、警察、その他にもたくさんの人に会った。色々な言葉をかけてくれたが、やはり他人だった。
動かない両親を目の前に、震える自分の身体に感じた。俺だけが生きていると。
『悲しい』その言葉が胸に浮かんだが、俺が感じていたのはそれでは無かった。
彼らの生が終わりを告げた時に、何も感じず、いつものように一人家にいた事が、俺と彼らの違いだった。
ただ独り生き残った。
様々な『手続き』の説明を受けながら、ペンを走らせながら、閑散とした、何とも言えない空虚を感じていた。
 生気の感じられない家に戻り、一人時間を過ごした。
母がその日の夕食に、と作っていたものを食べた。
『昨日は父さんの好きな物だったから、今日の夕食はヨウの好きなものよ。』
そう言って作った最後の手料理。
冷たくなった料理は、いくら温め直しても美味くは感じなかった。あれほど好きだったのにも関わらず。
三人分の料理を詰め込むように一人で食べた。空っぽの皿と、食べ荒らした後、そしてそれでも巣くう胸の空虚に『孤独』を感じた。
独りになった――
誰もいない。俺以外。
たくさん飾られた写真。その中の両親はすべて笑顔を浮かべていた。
その小さくて薄い写真たちが、更に俺に彼らが遠い場所に行った事を自覚させた。

『俯かないで、こっちを見て。
ヨウ。あなたは一人じゃないわ。あたしがいる。
寂しいのはわかる…… 残されちゃった、って言った気持ちも。』
夜に訪れたサチコは俺を抱きしめてそう言った。
小さな身体のどこに、そんな力があるのかと思う程強く。
俺の頬に触れた彼女の頬から、あたたかいものを感じた。抱きしめられ、触れた身体からも。
『だけどね、ヨウ。
一人だなんて思わないで……
あたしはいるわ。あなたの目の前に。』
サチコは俺を見つめた。
大きな瞳から、大粒の涙を流しながら。茫然とする俺は、彼女がどうして涙を流しているのかが分からなかった。
俺はぼんやりと、眺める様にその姿を見つめていた。
大きな瞳には俺が映っていた。
『約束するわ。あたしはいつでもあなたのそばにいる。』
彼女の瞳に映る俺は震えていた。彼女から流れる涙が俺をそう映している。そう思った。
『何があっても、あなたは一人じゃない! 一人にはしない!』
……いや、違う。
苦しくなった呼吸に、自分が嗚咽を出している事に気付いた。頬を伝わる熱いものに、自分が涙を流している事が分かった。
『本当よ。あなたが嫌がってもそばにいてあげる。
だからお願い。悲しまないで。
だから間違っても一人だなんて思わないで!』
俺はその時、もがく様に咽び泣いた。ただただ感情をさらけ出した。
言葉でなんて説明できない。声なんて出なかったから。
ただただ彼女が必要だと思った。
孤独を埋める為に? 空虚を埋める為に?
そんなのは分からなかった。
サチコは俺の腕の中にいた。涙に震えながら。
俺は彼女を感じた。あたたかくて柔らかい身体を。俺と同じ『生』ある身体を。
強く、強く、抱きしめて、自分の『生』と、サチコの『生』を感じた。
落ちる様に眠りにつき、暗い夜明けの中、目覚めた時にも変わらずサチコが俺の腕の中にいてくれた。
俺はそれに安堵を覚えたんだ。感じた孤独も空虚も無かったから。
シンは何も言わずに、背けた俺の顔を覗きこんだ。
「……なに?」
観念するように俺はシンを見つめ返した。
――――サチコに会いたい。
願うだけ無駄な事ぐらい分かっている。
思う度、焦がれる度にまた叶わない現実を思い知る。
それはまた、痛みになって俺を蝕むんだ。
じわり、じわりと食われるかのように、浸食して行って――――


◇◆◇◆◇

今日の晩御飯のデザートは季節の果物と、甘さ控えめのクリーム系がいいな。
検診が終わり、あたしはそう考えながら、駅までの道を歩いた。
そうだ、折角町に出たんだし、この前テレビで放送されていたケーキ屋さんが駅前にあったな。ヒナタもそこのプリンが食べたい、って言っていたし寄って行こうかな。
ああ、でも、偏食気味のヒナタが、ヨウの苦手な甘い物を見つけて、
「パパも好き嫌いもだめ!」って、騒いだのはつい最近の出来事。そしてヒナタは、かわいい笑みを浮かべ、でもちょっと意地悪に、
「パパ。はい、あーん、ってお口あけて。」って。
スプーンに乗ったチョコレートケーキを食べさせられた時のヨウの表情が浮かんで、あたしは一人、噴き出してしまった。
 ……恥ずかしい。いや、大丈夫。小雨が降っているから傘を差しているあたしの表情は、上手く傘に隠れて見えないだろうから。
ヨウは「美味しい。」って言ったけど、硬い表情が引きつっていた。無理をしているなんて一目瞭然だ。
シンはそんなヨウを大きな声で笑って、コウは不思議そうに目をぱちくりさせ、ヒナタは膨れた。
「好き嫌いはだめだけど、ウソはもっとだめよ!」って。
……好き嫌いと、苦手、って教えるの、難しいな。だからあたしはこっそりと、ヨウの分のデザートは甘みを控えめに作る。
うーん、やっぱり買っては帰れないか。ヨウのデザートだけ手作りだなんて、きっとヒナタにばれちゃう。
そんな事を考えながらも、あたしは『しあわせ』を感じていた。
 小学生五年生になったシンは、野球に夢中。運動神経の良さはヨウに似たんだろう。ユニフォームがいつも真っ黒になるまで練習をしている。
 二年生になったヒナタは、ピアノを弾くのが一番楽しいみたい。真面目に毎日練習をして、段々と、難しい曲も弾けるようになった。歌は…… まぁ、これから…… かな。
 コウはまだまだ赤ちゃんだけれど、オリーブグリーンの瞳の色と、表情が分かり辛い所がヨウそっくり。それでもご飯の時に、零れそうな笑顔を見せる姿がたまらない。
 ヨウは―――― 昔と変わらず、あたしを愛してくれている。それが何よりもうれしくて、そして彼の奥さんとしてのしあわせを感じる。
 朝、目が覚めると、必ず隣にヨウがいて、そしてあたしは一番初めに、
「おはよう」って彼に挨拶をするの。
それは当たり前になった日課。そして、眠そうに目を擦りながらヨウは、
「……おはよう。」って、挨拶を返してくれる。
それだけで、あたしは今日も一日がんばろう。明日ももちろん、って思えるの。
ヨウの為に、ヨウとの子どもたちの為に、笑顔でいたい、って。
それがあたしの『しあわせ』。なんて事はないかも知れないけれど、何にも変えられないあたしの『しあわせ』。
だからそのしあわせを守るために、忘れずに年に一度は検診に行っている。気がしれた先生は今回も「大丈夫。」と太鼓判を押してくれた。
「病は気から、と言うでしょう。心配し過ぎの方が問題。
カツラギさんは生活のリズムも安定しているし、食事の管理も出来ているわ。毎日を健康的に過ごして、笑顔でいるならほとんどの病気にはかからないわよ。
でも来年の検診も忘れずにね。」
『念の為に』受けている検診も、先生がそう言ってくれるなら、もう大丈夫。心配すらしない。
 あぁ、あたし、本当にしあわせだな。
 大好きな…… ううん。愛する旦那さまと、かわいい子どもたちに囲まれて、何事も無く無事に毎日を過ごせているんだから……
 そんなあたしの憧れは、お隣のハヤサカさんご夫婦。
 二人暮らしの老夫婦は、朝もお昼も夜も一緒。わんちゃんのお散歩の時ももちろん。
この前、偶然にもその姿を見たの。誰もいない所で二人、手を繋いでいた。でも、学校帰りのシンが二人に挨拶をすると、慌てて手を離した。恥ずかしいのかな。別に恥ずかしがる事無いのに。
それでも、シンが行ってしまうと、ふたり微笑んで…… また手を繋ぎ出したの。
いいな、って思った。おじいちゃま、おばあちゃまになってもずっと一緒にいる姿が。頬に刻まれた深い皺は間違いなく笑い皺。……笑い皺、っていいよね。流れた時間が証明する、『しあわせの証』だと思う。
 三十年後、四十年後もヨウと一緒にいる姿をあたしは想像する。
 あたしは笑い皺で皺苦茶のおばあちゃま。ヨウには…… 笑い皺は難しいかな。でも、同じように年を重ねて行きたい。
 あたしの左手の薬指には、今も変わらず指輪が二つ。それは約束の証。
『サチコが言ってくれたように、俺もそばにいるよ。
約束する。
この先何年も、何十年も。何があっても、どんな時も。』
それはヨウがあたしにくれたプロポーズの言葉。
彼はあたしに約束をしてくれた。キラキラ光る、この指輪が何よりの証拠。
『約束するわ。あたしはいつでもあなたのそばにいる。
けしてひとりじゃない。ひとりにしないわ。
何があっても、どんな時も。』
それはあの時、あたしがヨウにした約束。
大丈夫。それは今も守られている。あたしが元気に、笑顔で彼のそばにいる事がその証拠。そしてあたしの『子ども』たちも。みな笑顔で彼のそばにいる事が、あたしに出来る、約束の守り方――――
女に生まれて、これほどまで『よかった』と思った事は無かった。
女に生まれたからこそ、ヨウとの約束を守れる、そうとも思った。
でも約束なんて、もういいや、って思う事もあった。……いや、守りますよ。ちゃんと。絶対に。
いいや、って思ったのは、『約束』だからヨウのそばにいるだけじゃない事。
『約束』だから、じゃない。それは今もあたしがヨウのそばにいたい、って思っているから。
それはきっと変わる事のない想い。そして変わらない私の誓い。
三人の子どもたちとヨウとあたし。家族五人、毎日みんなでしあわせに過ごすの。頬が痛くなるほど笑い合って、これからもずっと…… ずっと、ずっと変わらずに――――

――――ん?
聞いた事のある、聞き慣れない音が聞こえた。
その音は甲高く、強く、擦れる音。
どこで聞いたんだろう……? ああ、この前、ロードショーでやっていた映画だ。それはアクション映画で、刑事の二人組が犯人とカーチェイスをする所が見物だった。
……あれ? でもどうしてこんな所で、それが聞こえるんだろう?
その音は、生々しく、身近に聞こえた。こちらに向かっているようにも。
「――――!!」
叫び声のようなものが聞こえて、あたしは振り返った。
そして――――――


◇◆◇◆◇

「――父さん?!」
シンに叫ばれる様に呼ばれ、ふと我に帰った。
「ちょっと、しっかりしてよ?! 大丈夫なの?!」
小さなシンの体が俺の身体の下で、もぞもぞと動くのが分かった。覆いかぶさるような体制に、自分が倒れ込んだ事を知った。
「……大丈夫。」
眩む目元を抑え、潰れそうになっているシンから離れようとするも、身体が思うように動かなかった。
「全然大丈夫じゃないでしょう?!
――ヒナタ!」
シンはヒナタを呼び、器用に小さな身体を動かして、俺から離れた。
俺は地に尻を付け、壁に背を預け、動かない身体をどうにかしようと思った。
どうにかしよう。そう、動かすんだ。
手を、足を。
サチコと約束したんだ。サブロウさんとも。会いに行くんだ。三人を連れて。
――――でも、会いに行った所で、会えることなんてない。
言葉を交わす事も。
サチコの心があたたまるような笑みを、見る事も出来ない事も分かっている。
でも―― 約束したんだ。
そう思うも、身体が段々と冷たくなって行くのを感じた。
雨音と共に、か細い自分の呼吸音が聞こえた。
――しっかりしろ。サチコと約束したんだから。
そう言い聞かせるも、身体は俺の意志に抗った。
『なにか』に食い荒らされ、体の四肢が飛び散った様に思えた。
頭の中で、俺は飛び散った自分の身体を拾おうとする。拾い集めるとまた、『俺』は動けるだろうから。
それでも大切なものが欠けていた。それが無いと俺は動けない。
俺は散らかった俺の身体の中でそれを探した。
でもそれが見つからない事は分かっていた。
「――サチコ……」
何もしないでも、彼女が思い出されるのに、彼女はいない。
粉々の俺の中には、彼女の小さな欠片一つもない。
だから俺は動けない。
このまま動けないんだ。 …………彼女がいないから。


「……じゃな……」
声、が聞こえた。微かに。
「ひより…… じゃなー。」
夢現の中にいた俺に、小さな声が聞こえた。
コウ……?
「ひより、じゃなぃ。」
たどたどしくも彼はそう言って、俺を見上げた。
「ひ・と・り、じゃない。よ。コウ。」
「ヒナタ、今は良いから、そっち持って。
父さんをベッドに横にならせる。」
右にシン、左にヒナタが俺の腕を掴んで引っ張った。せーの、の掛け声で俺を引っ張るものの、まだまだ小さな子どもたちの力では、俺の身体はびくともしなかった。
「ひとりじゃなぁー。」
立って歩くのがやっとのコウは、一歩離れた所でその様子を見守るかのように見つめ、声を上げていた。
「もうちょっとよ、コウ。
ひ・と・り・じゃ・な・い。」
「ちょっと、ヒナタ! 集中しろよ!」
「――待ってシン。
ヒナタ、コウは…… 何を言っているんだ?」
コウのたどたどしい言葉。それをヒナタは知っている。
「『一人じゃない』よ。
ママの合言葉でしょう?」
「…………え?」
「『私がそばにいるわ。あなたは一人じゃない。』
パパ、知らないの?」
「違うよ、ヒナタ。
母さんは僕たちが三人だから、『私』じゃなくて、『私たち』だって、言っていただろ?」
「……シン?」
「『私たちがそばにいるわ。あなたは一人じゃない。』
母さんは、合言葉だ、って言って、僕やヒナタ、コウにもそれを教えたんだ。」
俺の直ぐ隣に腰を落としたシンは、サチコと同じ顔をしていた。
大きな瞳に下がった目尻。小さな鼻に、ぽってりとした小さな口元。サチコと同じ顔で、サチコと同じように俺を見つめ、そう言った。
「ママは言ったの。
もし、パパが泣いちゃう時があったらそれを言え、って。
そう言って、パパは寂しがり屋だから、そばにいてあげて、って。」
ヒナタはシンと反対の位置に腰を落とした。
覗きこむ目元は下がった目尻。そして誰よりもサチコに似た声でヒナタはそう言った。
「ひとりじゃない!!」
そして一段と大きな声で強く、コウはそう言った。
どこか不機嫌に口元を尖らせ、睨むように見つめる表情も、俺を見つめる目元もサチコそっくりの下がった目尻で。
「あら、コウ! 言えたじゃない!
ママに報告しなきゃ! ちゃんと小さなコウも『合言葉』を半分言える様になった、って!」
手を叩いてヒナタは喜びの声を上げた。サチコと同じ声、同じ喜び方だった。
「報告は良いけど…… でもお墓参りはちょっと日を改めようよ。
父さん、しんどそうだ…… って?!」
驚いた声を上げてシンは俺を見つめた。
その声を聞いて、ヒナタが、コウが俺を見つめた。皆、サチコそっくりの驚いた表情で。
「パパ?! どうしたの?!
どこか痛いの?!」
「どうしよう?! どうしよう?!!」
驚いた声を上げ、ヒナタもシンも文字通り慌てふためいた。
「――ヒナタ! お前が悪い!!」
「なんでよ?!」
「父さんは燃費が悪い、って母さんがいつも言ってただろう?!
朝ごはんの量が少なかったんだ! ベーコンもソースもないピザトーストだと足りなくて、お腹が減ったから父さん泣いちゃったんだ!」
俺はシンの荒げる声で、自分が涙を流している事に気がついた。
「だからって、どうしてあたしのせいなのよ?!」
「コウもお腹が減ると泣きだすだろ! だから――!」
「ひとりじゃなぁー!!」
各々に声を荒げる子どもたちを俺は抱きしめた。


強く、強く。それは確認する為に。
サチコは逝ってしまった。小雨の降るある日、突然に。
いつものように会社にいた俺は、警察からの電話でそれを知った。どうやって向かったのかは覚えていない。病院に着くと、シンもヒナタもぼろぼろと涙をこぼし、コウも声を上げ泣いていた。
茫然とするも、シンが、ヒナタが、そして警察や医師がサチコの死を俺に告げた。
手続きを進め、葬儀を進めるも、俺には彼女の死が理解できなかった。
彼女はいつものように眠っている様に見えたから。
花に埋もれた箱に入り、小さな部屋に入ったサチコは、白い抜け殻になって出てきた。
それに俺は、サチコは『消えてしまった』ものだと思った。
サチコだけが消えた家で、子どもたちと食事をし、サチコが隣にいないベッドで眠った。
「おはよう。」と、いつも一番に挨拶を交わし、サチコの笑みを見ていたのに、それすらも出来なくなかった。
そして、いつものように仕事に行くけれど、サチコがいない家に戻った。
抜け殻のように、何も無い、そんな無気力な生活を繰り返していた。そして両親を亡くした時の様に『残された』。俺はそう感じていた。ずっと。
でも…… 違ったんだ。
サチコは今もそばにいてくれている。
彼女を感じた。シンに、ヒナタに、コウに。それは面影だけじゃない。
彼女自身を感じたんだ。子どもたちの言葉に、仕草に、そのすべてに。
バラバラに飛び散った俺の中を、どう探そうともサチコは見つからない。見つかる訳はなかったんだ。俺の中にあるのは、彼女との思い出だけだから。
サチコ、今やっとわかったよ。
『あなたの為に出来ること。』
君はそれを探していたね。
俺はサチコさえそばにいれば何も要らなかった。サチコが幸せそうに、すぐそばで笑っているならそれで十分だった。
そう言った俺に、どこか不服そうに口を尖らせた事を覚えているよ。
そして君は残してくれた。
君自身を。君に似た、三人の子どもたちを。
心に、陽向に、幸に、君を見つけたよ。
どうして今まで気付かなかったんだろう。
心の面倒見の良さ。気の強い陽向の楽しげなおしゃべり。そして幸の満面の笑顔。そのすべてにサチコ、君がいる。
『私がそばにいるわ。あなたは一人じゃない。』
それはあの時、君が言ってくれた言葉。俺を救ってくれた言葉。
それを子どもたちに残したのは、君自身に何かがあったとしても…… サチコ、君が変わらず俺のそばにいてくれる事を表す為だったんだね――

俺は泣いた。涙を流して、大声を上げて。
確かに見つけた君を―― 
三人の子どもたちを強く…… 強く抱きしめたまま

幸せをよぶ人

エピローグ

サチコは『幸子』と書くものだと信じて疑わなかった。
その間違いに気付いたのは、折しも彼女の二十四歳の誕生日、俺たちの入籍の日だった。
 先ず、俺が『葛城陽』、と名前を書き、そしてサチコにペンと届け出を渡した。
 彼女は自分の名前を書く欄に『桐島幸呼』とペンを滑らせた。
「幸…… 呼?」
思っていたものとは違う文字にどこか面喰い、俺は確認するかのように呟いた。
「そうよ。幸せな子、って書くと思ってた?」
うん。と正直に返事をした。いつも幸せそうに浮かべる笑みが『幸せな子』と言う意味にぴったりだと思っていたから。
「『幸せな子』だと、あたし一人で幸せになるだろうから、それじゃダメだ、ってお母さんが言ったの。」
「……だめなの?」
「うん。
『幸せを呼んで、みんなで幸せになるように』って意味で、『幸呼』。」
サチコはそう、誇らしげに答えた。
サチコの笑顔は俺にも『幸せ』を与えてくれた。 
それは心があたたかくなるような『幸せ』―――― すべての不安、孤独、そして痛みを取り除くような安らぎでもあった。
「いい名前だな。」
そう呟いた俺に、サチコは笑みを浮かべた。
頬を染め、大きな目を細め、花の咲くようなあたたかな笑みを。
……幸呼。
俺は彼女の名前を呟いた。それは確認する為に。
彼女がそばにいる事を。そしてこれから、ずっと離れずにいる事を。
俺の呟きは小さすぎて、自分でも言葉として声に出したとは思えないほどだった。
それでも彼女はその呟きに応えた。
俺の誓いでもあり、願いのような呟きに、
「はい。」
と、俺を見つめながら、そして幸せそうに笑みを浮かべながら――


おわり

幸せをよぶ人

『葛城 陽』 年齢、三十代半ば 性別、男 夫であり父親。 湿気に蒸し暑い部屋の中で、ヨウは昔の思い出に浸っていた。 妻・サチコとの出会い、結婚式、新婚生活から、子どもたちとの生活。 なんて事はない、日々の日常に『幸せ』と呼べる物は埋まっていて、そしてそれは妻・サチコからの贈り物の日々でもあった。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-01-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 小雨の降る日
  2. キリシマ サチコ
  3. カツラギ ヨウ
  4. 子どもたち