晴れわたる朝には

 もう十年も昔のことになる。五月。気持ちよく晴れ渡った朝。おじさんが帰ってくるのはいつだって五月のそんな朝だった。
 僕はこの季節が好きだ。それは僕にとって、何かしらの予感に満ちた季節だった。

 僕の家は木造の平屋建てで、この界隈ではちょっとしたものだった。平屋の母屋のほかに、椿や松が植えられた手入れの行き届いた庭、農機具とサンダーやグラインダーといったこまごまとした電動工具がしまわれた納屋、トラクターや耕運機、車を何台も一緒にしまっておける木造の車庫、70アールのサツマイモ畑、水田が三枚、そしていくつかの畑をつぶして作った、周囲の景観と全く調和していないタイル張りのアパートと月極めの駐車場、水田に水を引くためのポンプ小屋。こういったものが僕の家の所有物だった。
 納屋の壁には釘が打ち込まれ、ビニール紐で頭を結ばれたタマネギだとかその季節ごとの野菜がつるしてあった。車庫の一部は物置として使われた。表面がぼろぼろになった合皮のソファー、本棚(と本。ずいぶん古い辞書、子供向けの絵本、様々なジャンルのペーパーバックがぎっしりと収められていた)、古タイヤ、ドラム缶、一揃いのオープン・レンチなどの一群が最奥のスペースを占有していた。庭の片隅には埃まみれになったトラックタイプのサンバーが野ざらしになっていた。
 
 僕の家を出ると、道がある。僕の家の前には見ているだけであくびが出そうなくらい長い道路が、あくびが出そうなくらい真っ直ぐにひかれていた。そしてそれを追いかけるように、電線が道路に沿ってどこまでも続いていた。他に特徴と呼べるようなものはない。川もなければ、山もなかった。数キロ先には海があったけれども、それだって僕の家からは見えなかった。海までの数キロは畑に覆われていた。海に近づくにつれそれは足首くらいまでの草が生い茂った原っぱとなり、そして原っぱは林へと姿を変え、やがて最後には砂浜となった。早朝にはいつも海からの風が吹いた。林を抜けてきた風は、様々な種類の鳥たちに彩られた鳴き声やわずかな磯の香り、冷ややかに湿った土の匂い、そして夏の始まりの気配を運んできた。朝一番にその風を胸いっぱい吸い込むときには、それはきまって僕の心を浮き立たせた。
 田植えを終え水田に水をひくと、数日後にはそこから微かな笑い声や、あるいは無邪気な落胆が聞こえてくる。よく晴れた日曜の昼には、近所の子供たちがこっそりと田んぼに忍び込んでおたまじゃくしを探したのだ。彼らを驚かさないように、僕のほうでもこっそりとその様子を眺めた。それは僕の好きな光景の一つだった。
 
 僕の家族は、いくつかの理由でこの町ではいくらか有名だった。まず一つはこの町-小さな、本当に小さな町だけれども-で一番の大きな、そして古い家であること。祖父は頑固で気難しい人だったが、いくつかの商売を成功させ、町-まだ村だった頃だ-に産業をもたらした人物で、年寄り連中に尊敬をされていたこと、僕の姉は母親に似て美人であったこと、親父-これが最大の理由だった-はろくでなしで、母さんは僕たち兄妹を捨て親父から逃げ出したこと(おまけに一度も連絡がないときたもんだ)、そして僕の親友でもあるおじさんだ。僕はおじさんが好きだったのだけれども世間の人々の意見を総合すると、おじさんはろくでなし、というのだそうだ。おじさんと同年代の何人かはひどく憎くみさえした。あるときは見知らぬ誰かに後ろからひっぱたかれて、次にあいつをみかけたらガソリンをぶっかけて火をつけてやるからな、そう伝えておけよ、という伝言を預かったこともあった。そういうわけでおじさんはこの町で二番目に嫌われていた。ちなみに町一番の嫌われ者は、‐まったくありがたくないことに-僕の親父だった。だがまぁ、僕はおじさんに対する不当な評価に対して腹を立てることはなかったし、弁解もしようとは思わない。もし逆の立場だったら、と考えてみるのだ。僕にしてみたところで、小さいころからおじさんと関わることがなかったとしたら彼についてはおそらく町の人々と同じような印象を持ったに違いないだろう。

 窓を叩く音で気付いた。僕は目を覚ます前からもうおじさんだろうな、と思っていた。寝返りを打って窓の方へ顔を向けるとそこにはやはりおじさんがいた。「やあ」と言って申し訳なさそうに手を振っていた。
「起こして悪かったね」
「ちょうど起きようと思っていたとこだから」僕はそういって窓を開けた。
「いやね、本当はわざわざ起こすこともないかな、まだ朝も早いし、とおもったんだけど」そう言って言葉を切った。
「鍵の番号だろ?」僕がかわりにその先を続けた。
 おじさんは頷いた。「ああ、そうなんだ。鍵。鍵の番号を忘れちまってね」
 僕は笑った。
 おじさんは恥ずかしそうにして、弁解した。
「ほら、俺って四ケタ以上の数字を覚えるのって苦手だろ、三ケタまでは覚えてたんだけどなぁ」そして少し考えてから、「たしか012までは覚えてたんだけどな、どうしても最後の一つがね」
 おじさんはそういって、いかにも不思議そうな顔をして見せた。だが、おじさんが僕に言った数字は最初から最後まで全部間違っていた。
「番号式のじゃなくて、鍵穴にさしこむやつにしてみたら?」僕はランニングシャツの上にジャージを羽織りながら言った。
「いやね、そしたらきっと俺は鍵をなくしちまうから、余計に面倒だと思うんだよ」おじさんはポケットから煙草を出しながら言った。
 まぁそのとおりだな、と思った。
 海まで数キロ歩いたところに古い納屋がある。このあたりの納屋はだいたいが僕の家のものだった。けれども、その納屋は違った。誰のものでもなかった。もちろん厳密にはだれのものでもない、などということはないのだろうが、それでもその納屋を僕たち以外が使っているのを見たことはなかった。おじさんは40代の半ばになるけれど、おじさんが子供の頃からこの納屋はだれも使っていなかった。おじさん以外は。何十年にもわたっておじさんによって手入れされてきたこの納屋はもうほとんど家のようなものだった。というか実際におじさんはこの小屋に住んでいた。-鍵というのは、その小屋にかけている番号式の鍵のことだ。おじさんはいつだってその番号を忘れてしまうのだ-必要なものはひととおりが揃えられていた。彼は変わり者で内気だったが、そういうことにはある意味で精通していた。一年のうちほとんどは日本中のどこかをうろうろしていたし、たまに帰ってきたときも祖父のいる家ではなく、この小屋でほとんど過ごした。町にもあまり出なかった。彼が一体何を仕事としているのかはよくわからなかった。あるときには知り合いの仕事を手伝い、そしてまた、様々な物を売ったりもした。売るものは毎年変わった。石鹸を売る年もあれば、似顔絵を描いて売ったり、手相を占ったりもした。でも一番多かったのは木彫り細工だ。彼は木と名のつくものならどんなものでも細工することができた。特に竹細工と、木彫りはけっこうな人気だったらしい。僕もその細工は好きだったし、その技術を教えてほしかった。あるときに、どこでそんなことを教えてもらったのか、と尋ねた。おじさんはちょっとはにかんで若い時に刑務所で学んだんだ、と答えた。じゃあぼくも刑務所に入りたいな、といったらおじさんはちょっと困ったような顔をしてしばらく何かを考え込んだ。そしてややあってから顔を上げて、あそこは呪われた場所だ、と呟いた。

 一年中どこかをうろついているおじさんだったけれども、この時期にはいつも帰ってきた。僕と僕の飼っていた猫の誕生日があったからだ。おじさんはいろいろなところに友達がいたけれども、この町では僕と僕の猫だけが彼の唯一の友達だった。僕はトムという名前の猫を飼っていた。これは何年か前の誕生日におじさんが僕へのプレゼントとしてどこかから拾ってきたものだ。立派なひげを持った雄猫で毛は長毛のグレー、そして極めつけのでぶだった。雨の日に納屋の片隅で彼がうずくまっているところは飼い主の僕をしても見れたものではなかった。なぜならびしょびしょになった彼はその長毛と色も相まって、まるで捨てられたモップのようなありさまだったからだ。彼と僕の誕生日は一緒だったのだけれども、それはおじさんが僕に彼をプレゼントした日を彼の誕生日と決めたからだ。そういうわけでおじさんはこの季節、町に舞い戻り僕にケーキを焼いたり、手作りの木彫りをプレゼントしてくれるというのがここ何年かの間の僕らのあいだのならわしとなっていた。いつもはどこかをうろついて-おじさんとおなじじゃないか-一日に一回は僕の部屋に帰ってくる。だがおじさんが帰ってくる時期がわかるのだろう、この季節になるとこの小屋のあたりに足をのばすようになり――とちょうどその時何かが小屋の格子のにひょいっと影を表し、隙間から覗き込んだ。トムだった。僕はしばらく彼を見つめていたが、それ以外にめぼしい反応をしなかったので、彼は一鳴きした。まるでたまたまここにきたら、おや、珍しい顔があるじゃないか。俺の方でもね、たまたま来たんだからね、うん、別に俺も仲間に加えてくれよって思ってきたわけじゃないんだ。本当ならわざわざ俺の方から、にゃーなんて鳴いてやる義理はないんだけど、まぁあんたが何も言わないんならしょうがない、俺だって大人だからね、挨拶ぐらいはするさ。という感じの鳴き方だった。おじさんはトムに気付いてから窓の格子を一本外して彼が通れるようにしてやった。トムは中に入り込んでくると、さもつまらなそうな感じでさっきの格子の外を眺めながら机の上に丸くなった。

 そういうわけでおじさんと僕はショート・ケーキを作るための材料を集めているところだった。ショート・ケーキこそが我々三人に共通する好物だったからだ。だが問題は-毎年のことなのだが-材料をどうやって集めるかということだった。もちろん材料なんてのはスーパーで買えばいいので、厳密にはそのお金だった。僕にしても親父からはほとんどお金なんかもらってなかったし、おじさんにしても毎年帰ってくるときはきまってすっからかんになって帰ってきた。この中で一番望みがありそうなのはトムだったが、彼にしたところで僕らと大して変わらなかった。そういうわけで僕とおじさんはいつもなんやかんやでお金を稼いでこなければなかったのだ。そしておじさんはその手のことに関してはちょっとした権威だった。一週間後にあるフリーマーケットにおじさんの木彫りを出品するということでその資金を調達することにした。木の方は去年から乾燥させたものがいくつかあった。道具もそろっている。会場の場所の申請については前日までに電話を一本かければオーケー。いつも人が足りないので飛び入りでも歓迎されるだろう。問題は、だ。できたものやらを運んだりする車がない、ということだった。車は毎年何とかしているのだが、その方法が問題だった。つまり親父だ。オヤジと僕はあまり親しくなかったし、おじさんのことは心底バカにしていた。この親父というやつは飲んだくれのくそったれだけど、そんなことは親父が筋金入りのケチでその上最低に意地が悪いということに比べれば全然大したことではなかった。去年この町に派遣されてきた駐在がいたのだけれども、親父はそのとき飲んだくれて路上でわけの分からないことを喚き散らしながらションベンをしていて職質を受けた。新任の駐在の初仕事はオヤジだった。クリスマスだった。親父は駐在所に連れて行かれて、ひとしきり話をした。こんな風に書くと親父はどうしようもないやつのように思えるのだけれども-というか実際にそうなのだが-人と仲良くなる、ということに関しては人並み以上のところがあった。それは媚を売る、というようなものに近く、付き合っているうちにそのわざとらしさだとか、陰に潜む卑屈さだとかが見えてきてだんだんとうっとおしくなってくるのだけれども、それでも彼の『不誠実』な態度は往々にして人と仲良くなるのにはかなり役に立っていたようだった。つまり、本当は相手のことなどどうとも思っていないにもかかわらず、ただその人と仲良くなることで得をしたいというだけで、何か相手の褒められるところを見つけ出してきてはそれをほめそやす、というわけだ。それは、この新任の駐在のように、友達もなく、こんな辺鄙な田舎町にとばされてきて、自信をいたく傷つけけられた人間には特に有効なのだった。
 というわけで、親父と駐在は仲良くなった。しまいには気をよくした駐在が奥さんに食事を用意させオヤジに振る舞ったくらいだ。親父はそれに心から感動して、俺はもう今日限りで一切酒はやめる、それもあんたのような心優しいおまわりに出会えたおかげだ。この俺の顔をよく見てくれ。これは怠け者で嘘つきで、飲んだくれの男の顔だ。だが見ていてくれ。俺は変わる。時間はかかるかもしれない。だが俺はやって見せる。あんたや、そして自分の為に。この顔を覚えていてくれ。そしていつか俺が変わった時の顔と比べてほしい。そして俺がどれだけあんたのおかげで変われたか、あんたに見せてやる。
 駐在はその言葉を聞いて感動のあまり涙を流した。そうか、と呟いて親父を固く抱きしめた。親父のほうも泣き出してしまった。そしてその感動的な光景を見ていた奥さんも泣いた。親父は駐在をはなし、奥さんに近寄って、そして抱きしめた。駐在はちょっとためらったが、その上から二人を抱きしめ、これからはちゃんとやるんだぞ、といった。はい、と親父は答えた。その晩はもう遅かったのでうちに泊まっていったらどうだ、と駐在は言った。親父は泊まることにした。そして夜中に、こっそりと気付けの一杯を冷蔵庫から失敬した。このときはまだ本当に一杯だけで終わりにするつもりだったのだろう。だがこの生まれつきの怠け者で、くそったれの飲んだくれが一杯で止まるわけもなかった。自分が生まれ変わる記念として、また禁酒の誓いの前の最期の一杯として冷蔵庫のビールをすべて開け、そしてそれだけでは飽き足らずに、引き戸の下に隠してあった駐在自慢のスコッチをあけてしまった。当然べろべろに酔っ払い、屋根の上にのぼり、わけの分からないことを叫び始めた。その叫びはやがて駐在の奥さんの名前に変わり、オナニーを始めた。その奇声に目を覚ました駐在夫婦が外に出ると、親父が屋根の上で何かわけの分からないことを叫んでいる姿が目に入った。駐在はまさか親父が禁酒宣言の直後に、酔っぱらっているとは思わず-それも自分のお気に入りのスコッチをだ-、何か精神異常でもきたしているのでは、病気なのではないかと親父を心配した。夫婦がオヤジの下に来て何かを言ったところで親父も限界を迎えた。親父は駐在の奥さんの名前を叫びながら射精した。その下にいた夫婦に親父の白濁が降りかかった。夫婦は夜に目が慣れてきたので親父の手が股間にあることががわかり、そして何よりその独特の臭いで自分に降りかかった災いの正体が一体何であったのか理解した。もっとも理解はしたが認めることができず、数秒の間動けなかった。そして力が抜けた親父は屋根から滑り落ち-足を折ったのだが-彼らの足元に転がり、呻き声を上げた。駐在は吐き気が込み上げてきた。駐在の奥さんは悲鳴を上げた。駐在は激怒した。駐在はオヤジに蹴りを食らわせた。そして駐在所に戻り、電話して着替えてくると、親父が自分のウイスキーを開けていることに気が付いた。それをみた駐在は外に出て親父をもう一発、思いっきり蹴っ飛ばした。親父は晩飯の奥さんの料理を残らず玄関に吐いた。結局この駐在はけがをして動けない親父を蹴り飛ばした、ということで戒告処分になりよそへ飛ばされたのだが、親父は、あんな暴力警官は見たことがない、これが一体法治国家のすることか、と近所の皆に言いふらしていた。そして警官の悪口から国の悪口となり、やがて世間一般の悪口になった。こんなとんでもねェ国こっちから願い下げだ、まったく世界中でこんなバカな国日本だけだ、といった。
 親父はそういう男だった。当然僕としてはあまりかかわりたい人物ではなかったのだ。だが仕方がない。姉貴はまだ17だし、爺さんは何台か車を持っているが、おじさんは爺さんに関わろうとしなかった。というか避けていた。爺さんに車を借りるくらいなら、俺は首でもくくったほうがまだましさね、といって譲らないので、親父に借りる以外仕方がなかった。だがまぁ、ちょうど留置所に入っているので-隣町で酔っぱらって騒ぎを起こしたのだそうだ-車の方は使わないだろうから、少々気が楽になった。
 親父ときちんと話をするのは何か月ぶりだろう。僕はずっと親父のことが怖いのだとばかり思っていた。でもこうしてきちんと-つまり牢屋越しに、ということだ-話をしてみると、そうではないということがよくわかる。親父は僕のことをよくぶん殴ったけれど、でもやっぱり恐れというのとは違う。ただ、嫌な気持ちになるのだ。
 親父は床にあぐらをかいて座り込んでいた。僕が話しかけるとめんどくさそうに眼だけをこちらに向けた。
「話があるんだけど、」と切り出したところで親父が僕を遮った。
「なんだおめぇ、ずいぶんと偉そうな口ききやがるじゃねぇか」と言った。そしてまためんどくさそうに立ち上がると、ポケットに手を突っ込みめんどくさそうに僕を見降ろした。
「俺に向かって偉そうな態度取ろうってのか、このガキは」
「そんなことはないよ」僕は言った。
「はっ、そんなことはないよ、だと、このガキが。あんまり俺をバカにした口ききやがるんじゃねぇぞ。なにか?てめぇは自分が父親よりも上等な人間だと思ってんのか?」
「そう思うところもあるし、そうじゃないところもあるね」
「しばらく見ねえうちにだいぶ気取ったふうになりやがったなこの野郎。よし、ここ出たら散々ぶん殴ってやるからな、よく覚えとけよ。ああそれからだ、おめぇ高校なんかに進学しようとしてるらしいじゃねぇか。一体誰がそんなバカげたことおめぇに吹き込みやがったんだ?」
「別に誰にも吹き込まれてやしないよ。いまどき高校くらい誰だっていくさ」
「誰だっていくだと、俺に対するあてつけか、あ?おい。知ったような口ききやがって、だいたいだな、いったい誰がそんな金出すと思ってるんだ?俺はそんな金絶対にださねぇからな」
「だろうね。そもそも期待なんかしてないよ。それについてはおじいちゃんにお願いしてあるよ。もう話はついてる」僕は少しむっとしていった。やめとけばよかったのだけど、僕はいつも余計なひと言が多い。
「だいたい僕はオヤジに一円だって」そう言ってポケットからガムを取り出した。最後の小遣いで買ったガムだ。「世話になった覚えなんかないよ。給食費からなにからなにまで僕は爺さんの世話になってるじゃないか。それより僕の小遣い返してくれよ」そう言ってガムを口に含んだ。
「あのじじいが!いいか、俺は高校なんか行かなかった。お前のお袋もだ、俺の知ってるやつで高校になんか行ったやつはいねぇんだ、それをおめぇはジジイの金でぬけぬけと高校になんか行きやがって、なにか?それで俺より偉くなったような気にでもなったのか?それで俺に威張り散らそうってんじゃねぇだろうな、あ、何だおいそのガムは、ちょっと俺によこさねぇか、このガキが」
「いやだよ。最後の小遣いで買ったんだ、それに-」
「てめぇの小遣いなんか知るか。そもそもはジジイの金じゃねぇか、ばかやろう、威張るんじゃねェ、いいからよこせってんだ」そういって格子の隙間から手をのばして僕からガムの残りをふんだくっていった。僕としてはもううんざりして、さっさと帰りたかったのだが、今日ここに来た要件を思い出した。僕はため息を一つついてから言った。
「親父、ちょっと車貸してくれないかな」
「いやだね」そう言って親父はガムを口に放り込んだ。くそ親父。
「なんだこれ、ミント味じゃねぇか、くそガキが」そう言ってガムをはき出した。
「一体なんに使おうってんだ?」
「おじさんと一緒にフリーマーケットをやろうと思ってね。その荷物を運ぶのに車を貸してもらいたいんだ」
「そうか」と言って親父は少し考え込んだ。
「いやだね」
「もちろんいくらかは親父に金を支払うよ」
「ばかやろう、そういう問題じゃねぇんだ、このばか」
「じゃあいったい何が問題なのさ」
「俺はお前が嫌いだが、あいつのことはそれ以上に嫌いなんだ」

 そういうわけで結局車を借りることはできなかった。おじさんに話したら、ひどく残念そうな顔をしていた。
「ねぇこれからどうしようか」
「ん、まぁなんとかするさ」おじさんは言った。
そうしてしばらくのあいだあごひげをいじりながら考えていた。
「納屋にあったエポキシの樹脂だとか、ラッカースプレーだとかはまだ残ってるよな?」
「うん、よくわからないけど、たぶんあると思う」
「よし、そりゃ助かる」おじさんは嬉しそうに笑った。

 おじさんは樹脂を固めて親父の車のナンバーの型を取り、そいつをスプレーで着色してナンバープレートを作ってしまった。ただ、樹脂が乾くまで半日近く寝かせなければならないといっていた。おじさんが親父のナンバープレートから新しいプレートを作っていたり、荷物の準備だとかをしているあいだに、僕の方は庭の片隅にあるサンバーの修理をしていた。僕は昔からこの手の機械いじりが好きだったのだ。
 サンバーの状態は思ったよりもよかった。ブレーキの錆も表面だけだったので、少し走っているあいだにすぐに落ちるだろう。僕が作業していると姉がその様子を見に来た。なにをしているのか、と尋ねたので僕は車を直している、と答えた。僕が機械をいじるのは珍しいことでもなかったのだけれど、何か感じ取るものがあったのだろう、姉はなぜそんなものを直すのか、と尋ねてきた。僕は少し考えた。というのも、姉はおじさんを嫌っており、おじさんと僕があまり仲良くするのを好まなかったからだ。けれどもやはり正直に言おう、と思った。
「ちょっと荷物を運ぶのにね、おじさんの荷物だよ」
姉は表情を変えなかったが、しばらく何かを考えているようだった。そして何かを言おうとしたときに、ちょうどおじさんが僕の様子を見に表れた。
 まったくやれやれだ。僕はこういうときにすごく気まずい思いをしなければならない。なぜならば僕はおじさんが好きだったが、姉のことも好きだったからだ。姉は僕をすごくかわいがってくれた。そして、僕は二人には仲良くなってもらいたかったのだけれども。
二人はしばらくのあいだ見つめあってから、おじさんが「やぁ」と言って手を挙げた。笑顔はぎこちなかった。
姉の方は特に表情を変えず、「あら、いたんですね」といった。
「うん、まぁね」とおじは答えた。
「では、私はこれで失礼します」姉は去っていった。
 二人はもともと互いに苦手意識があったのだが、仲が悪くなった事件については僕に大きく責任がある。僕がまだ小学生だった頃に、僕は二人に仲良くなってもらいたかった。その為には姉とおじさんの話のきっかけを作ってあげればいいと思っていた。僕はおじさんの木彫り細工が好きだった。それを持って学校に行くと皆がそれを褒めたから、というのもあった。それはカブトムシだとかトンボだけでなく、小学生が好みそうな、毒グモだとか、ムカデだとか、ゴキブリだとかちょっと悪趣味な昆虫を現実以上におどろおどろしく彫りあげていたからだった。僕はみんながほめるこの木彫りなら、姉貴もおじさんに一目置くのではないか、と思った。
 姉はあまり家が好きでなかったので、休みの日は帰ってくるのが遅かった。僕の方は、それを利用して、姉貴のベッドの中や、部屋中にムカデやらゴキブリやらの木彫りを置いて、イタズラしてやっていた。だが、その日はちょうど夕方まで遊んで少し寝てしまった。僕はいたずらのことなどすっかり忘れて、起きた後におじさんの納屋に遊びに行った。その次の日がおじさんがこの町を出るといっていた日だったからだ。そしておじさんは次の日の朝にふらりと出て行った。僕が家に帰ってみると、姉が玄関で待っていた。あいつは?と僕に訊ねた。そこで僕はとんでもないことをしでかしたのだ、ということに気が付いた。ねぇちゃん、ちがうんだ、あれは僕が、と言ったところで姉が遮った。
「そんなことはどうでもいいの、あいつはどこ?」初めて姉をおそろしいと思った。姉は本当に怒っていたのだ。僕はおじさんの弁護も忘れて、「もう出て行ったよ」とだけ伝えた。姉は少し考えてから、「そう」とだけ言って部屋に帰ってきた。そして現在の状況に至るというわけだ。
 僕はしばらくして姉にそのことについて尋ねてみた。まだ怒ってるの、だから仲良くしないの?でもあれは僕が悪かったんだよ、と。だが姉はそうではない、と言った。
「ちがうわ、そんなことじゃない。あんなのはただのきっかけよ。あの人がいい人だということはわかってるわ。正直な人よ。私たちの両親とは違ってね。(姉は両親をひどく憎んでいた)親切で、優しくて。でもね、あの人にはまっとうに生きていくための、現実的な能力が欠けている、というかそれを気にも留めないようなところ、私が許せないのはね、そういうところなのよ。わかる?」
「わかるよ」と僕は答えた。
「いいえ、あなたにはわかってないわ」と姉は言った。それは姉の言ったとおりだった。僕が姉の言いたかったことを本当の意味で理解したのは、ずっと後になってからのことだった。ぼくはすこしむっとして、じゃあそういう能力がなかったらいったいどうなるのさ、と尋ねてみた。
 姉はまっとうに暮らしていくことはできないわね、と答えた。やっぱりその時の僕は何もわかっていなかったのだろう、それじゃあまっとうな暮らしができないとどうなるの、と尋ねた。姉は少し考えてから、人から白い目で見られて、欲しいものは何も手に入らなくて、とても惨めな思いをすることになる、といった。今度は僕の方でも少し考えてから、それじゃあ大したことないな、と言った。

 結局フリーマーケットにはサンバーで乗り付けた。おじさんは出店での商売には手馴れているらしく、非常に手際よく準備を進めていった。それにおじさんが彫った木彫りはとても人気があったのであっという間にすべて売れてしまった。大した額ではなかったけれども、それでもガス代と三人分の豪勢なケーキくらいなら十分に買える額になった。僕はそのうちの少しで、中古のブレスレットを買いおじさんにプレゼントした。
それが僕とトムの誕生日の前日だった。そしてよりによってその日がオヤジの釈放の日だった。僕たち三人が今日の勝利について互いを褒めあっているときに、親父はドアをけり破るようにして入ってきた。
「てめぇら、いばりやがって、このばかやろうが」何かに対してひどく腹を立てているようだった。
「おかしいとおもったんだ、あの後お前らが泣きついてくるのを待ってたけどいつまでたってもこねぇ、それで友達に探りを入れてみたのよ。そしてら案の定てめえらを見たっていうやつがいたのよ。しかもそいつがいうには、俺の車と同じナンバーの軽トラがいたっていうじゃねぇか。てめぇがどうやったのかは、この際どうでもいい。だがな俺の車を調べてみたらよ、ナンバーが少しばかり汚れてるじゃねぇか、なぁおい。一体てめぇらどうしてくれるつもりなんだ?」
「兄さん、」
「てめぇは黙ってろ。俺はめんどくせぇ話は嫌いだ。用件だけを言う。金をよこせ。てめぇらが俺を利用して稼いだ金だ」
僕たちはみんな黙っていた。トムだけが噛みつこうと親父の脚にしがみついた。親父はそれを軽くすくいあげてから足を振り上げた。トムはドアの外にとばされていった。ひどいことするなぁ、と思った。
「だいたいがだ、てめえみたいなのうたりんがこの町に帰ってきて、いったい何のつもりなんだ。どうせこの町にもわざわざ会いにくるような友達なんかいないくせに。親父から憎まれているくせに。偉そうにするんじゃねェよ、このフーテンが」
おじさんは金を渡し、親父はそれをひっつかんで、そしてさらに口汚い罵りをおじさんと僕に浴びせると、機嫌をよくして出て行った。
 おじさんは泣いていた。先ほどスイッチを入れたコーヒーメーカーがこぽこぽと音を立てている。ときおりじゅうぅという音だけが静寂の中にこだました。
しばらく二人とも黙っていたが、やがてトムが帰ってきておじさんの脚に体を擦る付け始めたおじさんはやがて元気を取り戻した。そして彼の唯一の、そして最大の財産であった、ウイスキーを取り出した。
「ケーキじゃなくてすまないのだけれど」と前置きして、三人分ウイスキーをついだ。そして僕らは乾杯した。そうして夜は過ぎて行った。
 朝日が昇って少しした頃に目が覚めた。夜にはカエルの鳴き声がいくつにも折り重なって聞こえてきたものだったがこの時間にはもうすっかり鳴りを潜めていた。遠くの空は鈍い青に色づいていて、それがやがて少しずつ思い紅色に変わっていった。空気は澄み渡っていた。美しい光景だった。僕は一人外に出て、空が徐々に色づいていくのを眺めていた。芝生の上に座り込んでみる。朝露が気持ちよく僕の肌を冷やした。ふと気が付くと、トムが僕の隣に座っていた。行儀よく座っていた。彼は何かの臭いをかごうとして鼻をひくひくさせていた。おじさんも起きてきた。僕から少し離れたところに立ち、また僕とは少し違ったものを眺めていた。おじさんが何をそんなに熱心に眺めていたのかはわからない。だが僕らはそれぞれに誰にも干渉などしなかった。僕たちはみなこの時間がそれぞれにとってどれだけ大切なものなのかということがわかっていたからだ。素晴らしい朝だった。そしてこれが僕たち三人がそろって過ごした最後の朝になった。

 次の年に、僕はここと同じくらい田舎の水産高校に入学した。学費が安く、そして寮住まいでここから出ていくことができたからだ。おじさんからはたまに手紙が来た。僕の方からは返せなかった-なにせどこに住んでいるのかもわからなかったのだから-それから僕はほとんど家には帰らなかった。

 そして今こうして久しぶりにこの町に帰ってきたというわけだ。納屋は何も変わっていなかった。もちろん変わってしまったこともある。爺さんは少し耳が遠くなった。姉さんはこの町をさっさと出て、大学に進学し、そして就職し、職場の男と結婚した。相手は大して面白くもなさそうな男だった。猫はだいぶ年を取った。体重もめっきり減り、元気がなかったようだった。親父の方は相変わらず飲んだくれてはわけの分からないことを喚き散らしていた。そしておじさん。おじさんはどこかの町でたちの悪い連中に絡まれたそうだ。おじさんは喧嘩で袋叩きにされた。そいつらから逃げ出した叔父さんは繁華街のビルのゴミ捨て場のゴミ袋の山の中に潜り込んで隠れていた。そしてそのまま死んだ。二日後の朝に生ゴミの袋と一緒にカラスにつつかれているおじさんを回収員が発見した。それまで誰にも気づかれなかった。叔父さんは財布だとかは持っていなかったけれど、僕のプレゼントしたブレスレットは身に着けていた。それが身元を特定する手がかりになった。

 そして現在。僕はこのように小屋で朝を迎えている。こうしてみるとここには変わってしまったものたちも、その昔の姿を保ったまま僕の前に姿を現すように思える。あの日の思い出も。何かが僕の脚を撫でる。トムだ。彼が頭を擦りつけてくるのだ。僕ほとんどは泣きそうになった。こうしてここに来てみるとよくわかった。ぼくは結局のところ何も変わっちゃいないのだ、と。そしてまた五月の気持ちよく晴れた朝には、この小屋を思い出さずにはいられないのだ。
そういう日にはいつだって「鍵の番号を忘れちまってさ」という声が聞こえるような気がして。

晴れわたる朝には

晴れわたる朝には

「僕」は退屈な街に生まれ、崩壊した家庭で育った。 嫌なことはたくさんあったし、少年時代の思い出はといえばほとんどが忘れたい思い出ばかりだった。大人になった「僕」が街へ帰り、ある「友達」と過ごした小屋を巡る。そこでの思い出は忘れたいものではなかった。でも楽しいものでもなかった。ただ「僕」にとってはとても大事なものだった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-31

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