光速勇者ハイナイン・プラス
戦隊モノとか仮面ライダーとかが好きな人向け。
第一話OP~その名はハイナイン・プラス
♪『その名はハイナイン・プラス』by Raptorz
(TV「光速勇者ハイナイン・プラス」オープニングテーマ)
(作詞:橘綾/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲・歌:真樹卓磨(B))
変身完了5秒前!
遂に目覚める正義の瞳!
黄金騎士 ハイナイン・プラス!
光速勇者 ハイナイン・プラス!
邪悪な奴らが降りて来る
僕らの街が狙われる
黒い叫びが耳を打ち
破壊の闇が現れた(無へ帰るのだ)
くすむ青空 割れる大地 濁る海原
誰もが諦め膝を突き
地球の嘆きが
こだまする
だから! だから!
だからあいつはやって来た!
次元の果てから飛んできた!
光の速さで 駆けつけた!
「スーパーヒーローなんていないというが
ここにいるから安心しろよ!
実はこの俺 スーパーヒーロー!
悪と戦う スーパーヒーロー!」
唸れ!(たぁっ!)
超絶! プラズマ・ガトリング!
響け!(そりゃぁ!)
完全! ブライト・ナックル!
閃け!(うおぉーー!)
最強! ディメンジョン・フィニッシュ!
変身完了5秒前!
遂に目覚める正義の瞳!
黄金騎士 ハイナイン・プラス!
光速勇者 ハイナイン・プラス!
彼が来るならもう大丈夫
地球の平和は彼が守る
全ての人らの希望を守る
正義の 正義の 正義の雄叫び
光速勇者ハイナイン(ハイナイン)
プラス!
第一章~バナナココア
がたぴしのガラス引き戸を苦労してこじ開け、振り返った佐原孝彰{さわらたかあき}は初老の店主に軽く会釈をして店を出た。
駅前アーケードの西側、裏街の中ほどにあるそのその小さな文具店は、孝彰の通う中学校からほど近く、また通学路傍にあったので、品揃えの少なさと古さにも関わらず頻繁に利用していた。
角の尖った新品の消しゴムが入った紙袋を白い引っ掻き傷だらけの鞄に仕舞ってから、垂らした前髪越しに薄く曇った冬空をちらりと見上げた。
頬を指す寒風と乏しい日射量の下だと着ている学生服の黒さが引き立ち、自分が随分とみすぼらしく感じられる。葬式への列席を許される格好なだけのことはあるな、ふとそんな事を考えた。
「何だか冴えないなぁ」
前髪をいじりつつ、孝彰は溜め息交じりで呟いた。
それは頭上の空模様と共に、ここ半年の彼自身の心情へ向けられたものだった。
もう一度、今度は誇張した呼吸でもある溜め息を吐き、自室で彼を待ち構える参考書の山に目掛けて渋々歩き出した。振り出す両足が昨日よりも重い、そんな錯覚が孝彰の表情を益々曇らせる。
「おーい、タクぅ」
文具店から十歩ほど進んだところで、背後から彼を呼ぶ声がした。
学校と自宅以外で声をかけられることなど殆どないので、その呼びかけが或いは自分宛てではないかもしれないという幼い躊躇ちゅうちょが振り返る動作を若干鈍らせた。が、すぐにそれは好奇心により相殺された。自分をタクと呼ぶのは家族と、クラスメイトのうちの親しい相手のみだから、というのもあった。
ぎこちなく振り返って見ると、誰かが彼目掛けて小走りで近付いて来る。先方に見覚えはないような、と思う間もなく相手は目の前まで寄ってきた。
「いやー、ちょいと走っただけで息切れしたよ、歳かね? よお、久しぶりだなぁ、元気か?」
荒い息遣いの継ぎ目に無理矢理ねじ込んだ風に、その小柄な女性は云った。
あれ? 誰だったかな? 孝彰の眉間にそんな意味の皺が出来る。
思い切って刈り込んだ黒いショートカットの下は、赤と白のタータンチェックのボタンダウンシャツ。見ているこちらが寒くなりそうな、細い足の突き出た膝丈のショートパンツ。彼よりやや低い程度の上背のその女性は、周囲の造作とは規格外とも思えるほど大きな、それでいて愛敬のある両目をぱちくりとやり、薄い唇の両端を上げた。
その途端、孝彰の頭の隅に押しやられていた記憶が勢い込んで浮上した。
「……ミコ? ミコだ! うん、元気だよ」
やや興奮気味に返しつつ、孝彰はパッと表情を輝かせた。
その女性の名は神和彌子{かんなぎみこ}。
幼稚園頃から小学生当時までの孝彰の一番の親友で姉代わりであり、ついでに姉御役と宿敵をも務めた、彼の人格形成の中枢部分を占める重要人物である。思い出す限りの記憶の殆どに彼女は立っているといっても大袈裟ではない。家族よりも長く接して、どの友達よりも多くを語り、そしてある日、姿を消した。
彌子は孝彰より八年ほど長く人生を歩んでいて、彼が中学にあがった年に就職して、近郊の市街地へと引っ越した、そう覚えている。
別れ際の情景と彌子の言葉、この部分の記憶は当然新しい筈だが、どうしてか曖昧になっている。そして、突然という印象で姿を消した彼女が今、目の前に立っている。これは一体、孝彰はやや困惑していた。
「しっかし、随分と大人っぽくなったなぁ。こないだ会ったのはいつだったっけ?」
額にうっすらと浮かんだ汗をシャツの袖で無造作に拭い、彌子は整列した白い歯を輝かせて満面の笑みを浮かべる。言葉に表情や動作が伴ってみると、孝彰の記憶中の彌子と眼前の女性は完全に一致した。
最初に、第一声で気付かなかったのが我ながら不思議なほど、彼女は全く変わっていなかった。最後に会ったのは随分と昔、そう……
「小六の夏休み」
「へぇ、そんなになるっけ?」
すっかり息を整えた神和彌子は、三年分の感慨を鼻を鳴らすことで表してみせた。それから顎をしゃくって左手の喫茶店を指し示し、「おごるぜ」と芝居めいた声色で云った。
二人は駅前アーケードの西側、裏街とも呼ばれる商店街にある、古めかしく見える新建材の塊といった風情の、何処にでもあるような無国籍喫茶店に入った。
「――んで、タクは今、中学生、だっけか?」
孝彰のミルクティーはすぐに運ばれてきたが、バナナココアという奇怪なものを注文した彌子は、未だに冷えた水を啜っている。
バナナココア、孝彰には一体何がやってくるのか想像も出来なかった。
「三年。受験生さ」
やや自嘲気味な孝彰に対し彌子は、
「そっか、そりゃ大変だ」
と全然大変そうではない調子で頷く。だがそれとて如何にも奔放な彼女らしく、おざなりな返答には聞こえなかった。
孝彰は薄笑いを隠そうともせず「ミコは?」と悪戯っぽく云った。白く濁った氷を派手な音を立てて齧っていた彌子は、冷えた唇をへの字に歪め、溶けたばかりの水を飲み込む。
「あたし? あたしは立派に勤め人やってるさ」
「ミコが? 冗談でしょ?」
「……タク、そりゃないぜよ。少なくとも真面目に見える程度には働いてるんだから」
孝彰が、続いて彌子が表情を崩し、目を見合わせてから二人はくくくと喉を鳴らした。
「成長したんだ」
「そうそう、あたしも随分と……ってオイ!」
数年のブランクもなんのその、他愛ない会話での二人の息はぴったりだった。
と、からからとドアベルが響き、豚肉や葱の詰まったビニール袋を抱えた三人の主婦が二人のテーブルをかすめていった。どうやらここは商店街の井戸端会議場らしく、孝彰達の他は全て主婦や、主婦に見える女性客である。
「ミコ、今、暇?」
唐突に、声色を秘め事めいたものに変えた孝彰がデコラテーブルに小さく乗り出し、対する彌子は口元に掌を翳かざし、軍事機密でも語るような調子で囁いた。
「聞いて驚け。あたしはいつでも暇なのさ」
「そうなの?」
孝彰は思わず裏返った声を上げてしまい、隠密会談は儚い寿命を終えた。
「冗談よ。何? どったの?」
「家に遊びに来ない? 面白いビデオがあるんだ」
それを聞いた彌子は一呼吸だけ悩み、
「そうさなぁ……いいぜ」
提案を承諾した。
そのミリ秒以下の思案は単なる会話への飾りに過ぎず、そんな技巧など不要な生活を送る孝彰は、それに気付きもしなかった。彌子は奇麗に並んだ白い歯を再び覗かせ、力強く頷き、先の承諾をさらに強調した。
そうと決まれば、と彌子は、注文したバナナココアを取り消し早々に会計を済ませ、孝彰にミルクティーを飲み干すように促した。
このドタバタした感じもまた、いかにも彌子らしい。彼女はいつもこんなだったし、それが楽しくもあった。
それとは無関係に若干気になるのが、バナナココアなるもの。恐らくは飲み物、ソフトドリンクの類だろうが、変わり者の彌子が選ぶのだからきっと妙なものなのだろう。
次にこの店に来た時に注文してみようか、孝彰は密かにそう思ったのだった。
第二章~佐原邸
駅前アーケードを出て、ひしめく住宅街に入るまでの十分足らずの道程で二人は、彌子がまとまった休暇により帰省していてあと二週間は街に留まること、孝彰の高校受験が来月に迫っていることなどを、駄洒落や内輪ネタを交えつつ語った。
懐かしい面子に挨拶を、とぶらぶらしていたらしき彌子なので、孝彰を見付けたのは半分は偶然で、半分は必然だった、とも。
当面の話題がそろそろ尽きそうになって、漸く佐原さわら邸、とはやや大袈裟だが、孝彰の自宅に辿り着いた。その両脇を固める折り込み広告掲載の典型のような建売住宅は、火事になったら紫の煙でも立ち昇りそうな謎の建材の塊に見える、とは彌子からの評論である。
「おかえり……まぁ! ミコちゃんじゃないの! あらあら! お久しぶりねぇ」
ぺらぺらの木造二階建てに張りついた両開きドアから孝彰の母親、佐原真理恵{さわらまりえ}と、彼女から発せられた黄色い声が飛び出した。
「こんちわ、おじゃまします」
彌子が伸ばした指二本を右眉に当て、敬礼のようにお辞儀をすると、真理恵もそれを真似てから「後で挨拶してね」と云い、狭い入り口を譲った。
世代を越えるコミュニケーション。
二人のそんなやり取りは昔から変わらずであり、彌子の図々しさと真理恵の寛大さにより実現している、決してどちらの資質も欠かせない絶妙なものだった。
少なくとも孝彰は、自分の母親に対してそんなに図太く接することは出来ない。彌子は孝彰よりもずっと真理恵と親しく見え、しかし真理恵は彌子に対して、親子や娘というよりも友達のような態度が常だった。
スニーカを脱ぎ散らかして玄関脇の急勾配階段を昇る孝彰の背に、
「タク、ジュースでも持ってこようか?」
と真理恵が声を掛ける。
「うん、お菓子あったかな?」
「クラッカーでいいの? 朝ご飯の」
「いいよ」
穴蔵のような階段室を抜けると、途端に目の前が広がる。
階段は廊下を介さず直接居間に繋がっていた。
二階に設えられたその板張りの居間には、小さな天窓による頭上からの採光と、構造的制限の許す限り穿たれた引き込み窓によるちょっとした眺望があり、佐原邸は外観から受ける印象以上に慎重で丁寧な造りになっていた。こちらも彌子の科白で、昔も似たようなことを言っていた覚えがある。
孝彰は別の住宅、例えばクラスメイトの家などにあまり出向かないので比較対象がなく、そんなものかな? と昔も今も首を傾げるだけだった。
彌子を壁際のソファに案内し、孝彰は駆け足で居間を出ていった。
適度に硬い革張りのソファに腰掛けた彌子は、ふむ、となにやら唸りつつ、ぐるりと周囲を見渡す。
白漆喰を塗りこんだ壁と天井。
くすんだ床板には小さな傷が幾つかある。薬によるわざとらしい艶や、日の丸の地のような科学的白さは何処にも見当たらず、そこはリビングではなく、暖かさを込めて、居間と呼ぶのが相応しい。
数少ない調度品は木の素地色でまとめられていたので、大きなテレビモニターや凝った音響設備を始めとする家電製品の黒さがちぐはぐに見える。
これらは孝彰の父親、佐原孝一さわらこういちによるもので、彼のオーディオマニアっぷりの変わらずに、彌子はにやにやした。偉そうなウーファーの上に座る手縫いの兎人形達が真理恵婦人のささやかな抵抗を物語っていたが、戦況は芳しくない様だった。
「どお? 懐かしの我が家は?」
小皿とグラスを大振りの木卓に載せて現れた真理恵は、意味ありげに微笑んだ。
彌子は「落ち着くねぇ」としゃがれた声を上げ、背もたれに反り返った。
「何処となく品があるんだよね、真理恵さんの趣味はさ」
今度は枯れた風に。
「ふふ、らしいこと云うのね。孝一さんのお陰よ」
「店舗デザインには品なんてもの、ないない。だからやっぱり真理恵さん」
「ありがとう。私、買い物に出掛けるけど、ゆっくりしていってね」
指を額に翳してから真理恵は降りていった。入れ違いで、手書きラベルを張り付けたビデオテープを数本抱えた孝彰が戻ってきた。
「真理恵さん、出掛けるってさ。買い物だってよ」
「うん。ミコ、今日は何時までいられる?」
云いつつ孝彰はクラッカーの載った小皿を肘で押しやり、木卓にテープを並べる。テープは全部で五本あった。
「十八時、かな」
「それだけ?」
孝彰の表情がふっと陰ったのを見て取った彌子は、ぱちんと手を合わせた。
「すまん! 暇ってのは本当なんだが、外せない野暮用があってね。都合、悪い?」
顔をしかめた孝彰は腕を組み「うーん」と唸る。
「じゃあ、どれにしよう……」
「どれ? ビデオのこと?」
お伺いを立てるような低さから彌子は見上げた。
「うん。どれも面白いからさ、困ったなぁ」
孝彰は、花嫁を決めるかのごとき慎重さでラベルを順番に見比べる。彼の独り言に彌子は「なんだ」と呟き、安堵の溜め息を吐いた。繊細なんだか単純なんだか、年頃の子供は良く解からん、そんな意味の溜め息を。
「おいおい、タクさんよぉ」
五本を三本にまで絞り込んで、しかしそれからどうしても進めない孝彰に、彌子は唇の端を釣り上げて云った。
「このあたしに二番や三番を拝ませようなんて、そんなつもりじゃあ無いだろうねぇ」
上目遣い。孝彰は一瞬きょとんとして、
「……ああ! そうだね!」
弾けるように笑った。
「うむ。解かれば宜しいぞな」
彌子は冷えたオレンジジュースを大袈裟に呷あおり、クラッカーを頬張った。真似るように喉を潤した孝彰は、今度は微塵の躊躇もなく一本のビデオテープを取り上げ、ラベルを彌子に向けた。
「これ。これが一番……」
「一番?」
「カッコイイんだ!」
そこには孝彰の手書きらしい不揃いな字で『ハイナイン・プラス 1、2』、その下の方に『消すな』と記されていた。
今時にビデオテープを記録媒体に選ぶ辺りがオーディオマニアの息子らしい、そんなことを思った彌子だったが、当然口にはせず、ただ「へぇ」と返すだけだった。
第一話前半~「プラス、降臨!」
漆黒の宇宙に浮かぶ美しき緑の星、地球。
その、白いヴェールを纏った輝く水の惑星に寄り添うように忙しなく駆ける、科学技術庁の地球観測衛星〈いざなぎ〉は、鋭い電波の目で眼下の故郷を飽きもせずに眺めていた。
彼は、時折送られてくる耳障りな電子命令に対し面倒くさそうに「はい」だの「いいえ」だのと応え、静かになるとまたその絶景を楽しんだ。
彼は間違いなく幸運だった。
厳重に固定された視線の先がこれほど美しく神秘的でなければ、彼は通り過ぎてはまた現われる任務に飽き飽きし、その精密な体をむずがらせたり、うだうだと愚痴をこぼしつづけていたに違いないのだから。
その証拠に、彼の姉である〈いざなみ〉は二人の距離が縮まる度に、黄金色に輝く四枚の太陽電池パネルをきしませて、
「こっちは岩とクレーターだらけでちっとも面白くないわ」
とパルス信号で洩らし、彼を羨ましがっていた。
姉には申し訳ないと思いつつも、彼はその任務を満喫していた……つい昨日までは。
太陽に背を焦がされながら南アメリカ大陸の幾何学的な海岸線を見詰めていた彼に、ぱりぱりとした命令が届いた。だがそれは、何時もとは形式も内容もずいぶんと違っていた。
「はい、坊や、ごきげんよう。ねえ、良い子だからそっと後ろを振り向いてごらん」
「そう、それからほんのちょっぴり顎を引いて」
「とっても良く出来ました。じゃあ次、眼鏡を取り返るのよ」
「どお? 何か見えた? 何が見えたか云ってみなさいな」
目盛りの付いた視界の中央には、真っ白な太陽。
その端に黒い影が現われ、それは植物の成長記録を早送りした映像のようにみるみる大きくなり、そして――
「――久作! 久作ったら! ねえ、聞いてるの?」
「……聞いてないよ」
それを耳にした加納勇かのうゆうは、顔をしかめてから厚みのあるマニュアルを肩関節の稼動域一杯に振りかぶり、大きく息を吸った。
「そう云えば――」
銀縁眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、速河久作はやかわきゅうさくが視線を分光モニターに残して向き直ると、彼の矯正された目に『要点観測望遠鏡ほむら・操作技術便覧』と書かれた薄緑の壁が猛速度で迫って来た。
ぱん!
乾いた音が制御室の金属天井で反響し、周りにいた職員の手が止まる。
「な! なんだよ! いきなり!」
肘掛け椅子から転げ落ちた久作は、ベージュ色の帯電防止床で仰向けになって叫び、
「いきなりじゃない!」
と勇。それを聞いた職員達からどっと歓声が湧いた。
「おいおい、挙式前だってのに夫婦喧嘩かい? まったく、先が思いやられるぜ」
「予行演習なんだよ。備えあれば、ってな」
「妬けちゃうなぁ、先輩、見せ付けないで下さいよ」
柔らかな野次が飛び、再び歓声が勇と久作に浴びせられた。
湯気でも立ち昇りそうなほど顔を火照らせた勇は、白衣の裾をくるくると丸めたり伸ばしたりしている。一方、久作はというと、すっ飛んだ眼鏡を求め、冷たい帯電防止床を右往左往していたのだった。
今世紀初頭、大西洋ラコニア島のパルナソス山頂に設置された国立天文台の〈ほむら望遠鏡〉は、狭域ながら世界最高水準の分解能と感度を誇り、要点観測の主力として様々な成果を上げてきた。
その、ほむら天文台でのここ最近の話題は、超新星発見でも彗星接近でもなく、加納勇と速河久作、二人の天文台職員の結婚話であった。
宇宙などという途方も無いものを相手にしていると、そんなごく身近な出来事が新鮮に思えるのかもしれないし、或いはどこであれ、めでたいものはめでたい、そういうことかもしれない。
ともあれ、空ばかり見上げ、地上どころかお互いの顔すら見ていなかった二人がどうすればそんな仲になるのか、これこそ宇宙の神秘だ、そんな冗談まで飛び出すほど勇と久作は仕事に夢中だった。
「久作君と勇君、いますかね?」
台長の永山ながやま教授が制御室の扉を開け入ってくると、凍えた外気が狭い部屋で渦巻いた。微かに覗いた外はすっかり闇夜である。
永山教授は温度差により曇った四角いセルフレームの眼鏡を取り、細い目をこすり、ふさの付いた分厚いコートを手近の椅子に放ってから、だるまのような巨体をコートと同じく肘掛け椅子にもたせ掛けた。ガススプリングがみしみしと悲鳴を上げる。
「ここに」と勇。
遅れて、まだ眼鏡を捜している久作が床から「いませんよ」と永山教授のすねの辺り目掛けて云った。
「先週末に提出してもらった例の報告書、太陽活動の赤外・電波観測についてなんですがね――」
傍に腰掛けた勇と、五歩ほど向こうで四つんばいの久作との中間に顔を向けた永山教授は、アルミのアタッシュケースから取り出した分厚いファイルを糸目で追いながら、関取のようにひしゃげた声で続ける。
「――とある方面から、追跡調査の依頼があったんですよ。出来れば二人にお願いしたいんですが、どうでしょう?」
「とある?」
「追跡調査?」
最初が勇。怪訝そうに眉をひそめ、わざとらしくのけぞって見せた。
一方の久作は「なんでわざわざ」とでも云いたげな表情で立ち上がり、一拍後には実際に口にした。
「なんでわざわざ? 極大期の黒点観測なんて理科の実習みたいなものでしょ? ほむらの出る幕じゃないですよ。ギャラク・アイにでも押し付けちゃ、どうです?」
久作は嫌みにならないぎりぎりの声色で制御室の壁、国連所属の光学干渉望遠鏡〈ギャラク・アイ〉のある東の丘陵あたりに流し目をくれた。そんな二人の反応は、永山教授が登頂ジープから制御室までの道程で予測していたものとぴたりと一致していたので、彼は可笑しさの余り吹き出しそうになった。
勇の凝り固まった実直さと久作のひねくれた技術者魂は、ほむら以外の、パルナソス山頂にひしめく各国の天文台にまで知れ渡るほど有名なのである。咳払いを一つ、永山教授は居住まいを正し、仏の笑みで説得にかかった。
「……うほん。えー、まず、依頼は日本スペースガード協会からの、文部科学省経由の正式なものです。なんでも、今回の依頼は一種の国家プロジェクトとして位置付けられているそうで、そんな訳ですからギャラク・アイに、とは行かないんですよ。私には詳しい事情は解りませんが、是非、担当者をとのことですので、お願いしますよ。さあ、これで宜しいですか?」
下唇を尖らせた勇が目配せをし、久作は肩を竦めてそれに応えた。
二人の沈黙の了解を取り付けた永山教授は、肘掛けに体重を預け苦労して体を持ち上げると、隣接する研究所への扉に手を掛けた。
と、彼は、おう、と声を上げてから、
「迎えのジェットが来るそうなので、夜明け前に下山して下さいね」
そう云い残し、巨体を揺さぶりながら連絡通路に消えた。
「げぇー!」
漸く息の合った二人であった。
「はは、御愁傷様」
「土産、期待してるぜ」
「いってらっしゃーい」
再び野次が飛ぶ。
翌日。
現代の航空技術を駆使しためまぐるしい帰省を果たした久作と勇は、久方ぶりの日本を味わう暇も無く、重い瞼をこすりながら北海道・室蘭工科大学の苔生した門をくぐった。
休日だったのでキャンパスに人影はなく、二人の目的地である日本スペースガード協会の出張所らしき建物は周囲には見当たらなかった。
歩き回ること三十分。
学校案内地図のコピーと風景を見比べていた勇から、蓄積した疲労が白く煙る愚痴となって漏れ出し、久作は聞えないフリをするのに苦労した。
また三十分が経ち、敷地の外れを重い足取りで進んでいた二人は、不意に立ち止まった。久作と勇はお互いの、汗の浮いた顔を見合わせ無言のやり取りを繰り広げ、ミュージカルの振り付けの如く同じタイミングで振り向く。
視線の先、十歩ほど行き過ぎたそこには、くすんだ板張り壁にトタン屋根の乗った平屋の建物が申し訳なさそうにたたずんでいた。それは、建築学だか民俗学だかを専攻する学生達の教材にすら思えるような、掘っ建て小屋のお手本のような建物だった。
「……ねぇ」
目をぱちくりさせた勇が掠れた声で久作のウィンドブレーカーの裾を引っ張り、もう一方の手で外壁に釘一本で打ち付けられている、かまぼこ板を十倍くらいにしたような柾目看板を指差した。口を半開きにした勇は、その色褪せた縦書き文字を噛み砕くように読み上げる。
「……にほん……すぺーすがーど、きょう、かい……。久作、これ、どう思う?」
泣き笑いのような複雑な表情で訴える勇に対し久作は、唇を尖らせて鼻を鳴らし、細い指で顎をつまんでから斜に構えて、看板を睨んだ。
「ああ、これは間違いなく……」
納得したように小さく何度も頷く。
「……達筆だ」
笹川新総理の打ち出した「開かれた軍事、明るい軍事」法案が国会を通り、その先駈けとして航空自衛隊の種子島基地が一般公開されて半年が経っていた。
基地を訪れる人々に一般らしからぬ胡散臭い輩が紛れることは当然の成り行きとはいえ、管制室にずらりと並んだモニターを眺める脇田わきた少将は、面白くなかった。
極東紛争を生き抜いた叩き上げの軍人である彼は、老若男女さまざまな来客がそろって口にする「平和」という単語に対し極度のアレルギー症状を示していた。それを口にする彼らにとって兵器や軍隊は許されざる存在であり、その矢面に立たされる脇田少将などは、死神か疫病神かといったところなのだ。
揃いも揃って恒久平和を望む来客達の前で彼は、分厚い胸板や重機を思わせる四肢を目一杯縮めては「防衛力なのです」と繰り返して、こわばった笑顔を振り撒いていた。
一昔前の子供たち、男の子なら、夕日をバックに屹立する高射砲群や、流体工学の結晶たるJFⅡジェット戦闘機、通称〈ソニック〉の勇士に色めき起っただろうに、脇田少将は自分が幼かった頃を描いてそう思った。
近頃では小学生あたりでも冷ややかな眼差しで「人殺しの道具だ」だとか「ジェット推進なんて時代遅れな」といった始末である。民間団体と文部科学省の提唱する反戦教育と、すっかり浸透したハイテク学習装置により育まれた子供たちの思想など、脇田少将のような前時代の遺物には想像も出来ないのだった。
午前中最後の見学者団体を連れて管制室を訪れた脇田少将は、ざわざわとやかましい団体をひょろながい新米に引き渡し、戸口に立つ同じく古株の新塚にいづか軍曹と肩を並べ、見学者の頭越しにモニター群を見詰めた。
「……良い時代じゃあないですか、少将」
丸刈りの頭部をがりがりと掻き毟りながら、新塚軍曹は角張った顎で団体を示した。
「軍隊が政治主権を握っていた前世紀に比べれば、今は文字通り楽園ですな。幾らか退屈ではあっても、身の危険に晒されて夜も眠れないなんてよりは、ずっと、ずっとマシでしょうよ」
「戦争は滅びた……か」
脇田少将は顔を正面に向けたまま、テレビキャスターの吐いていた科白を真似てみた。
「そうかもしれん。なら、我々も滅びるか?」
「平和ってのは寂しいもんですよ、いつの時代でも」
定規のような背筋で新塚軍曹は云い、小さく鼻を鳴らす。
「不要だと指を差されれば、いつでも滅びてやるよ、俺は」
溜め息と共に脇田少将はそう呟いてみせた。
「本当に不要なら、な」
正午を知らせるアナウンスが基地全体に響き(人気の女性声優による録音だ。勿論、来客者を意識したものである)、団体が回れ右をして出口に向かい始めた。
「間もなく正午です。皆さん、所定の場所でゆっくりと休んでください――」
小鳥の囀りの如きアナウンス、その直後だった。
急ごしらえのアナウンス用ではない方の、天井に埋め込まれたスピーカがアナウンスを押しのけて一斉に騒ぎ始めた。
「メーデー! メーデー! こちらテンペスト・ツー、テンペスト・ツー。所属不明機を目視にて確認! 当機に急速接近中! 約二十秒で接触コース……レーダーはクリア! 繰り返す、レーダーは、クリア! 本部、情報送れ! こちらテンペスト――」
壮大なノイズを残し、スピーカは唐突に沈黙した。来客者団体は足を止め呆けている。
「どうした!」
脇田少将はオペレータの一人に怒鳴り、壁際から飛び跳ねた。
「本土上空を定時哨戒中のAWACSエーワックステンペスト・ツーとの交信が……途絶しました」
インカムマイクを手で押さえた若いオペレータが云い、別のオペレータが、
「IFF(機体識別反応)消失。該当アンノウンの反応ナシ」
と付け加えた。
脇田少将は新塚軍曹を振り返り、団体に一瞥いちべつをくれてから「何だ!」と叫んだ。
錆びたブランコに満杯の屑篭。猫の額と呼ぶにふさわしい雑然とした公園は珍しく人々で溢れていた。
半袖シャツにジーンズ、足元はサンダルといった休日ファッションに身を包んだ係長は、晴れ渡った秋空に向けて手を翳かざし、小学三年生になった息子の丸刈り頭を二度三度撫でる。
「望遠鏡? はは、そんな大袈裟じゃあなくても大丈夫さ」
尻ポケットから茶色のウォレットを取り出し、そこから一枚のテレホンカードを抜くと、口をだらしなく開いた息子に手渡し「その穴から覗くんだ」と、得意気に云った。
「ちっちゃ過ぎない? お日様は大きいんだよ?」
息子は京都、清水寺の風景がプリントされたテレホンカード(先週、出張した際に駅の売店で買ったものだ)をひらひらさせている。係長は「云う通りにやってごらん」と会社の同僚や妻には見せたことも無いような柔らかな笑顔で云い、自分も使用済みテレホンカードを手にした。
「ほら、こうやるんだ」
ゼロ度数を示すパンチ穴を右目に、空いた左手を腰に当て、係長は空を、太陽を仰いだ。真っ白な円にしか見えない太陽の中央には、それに空いた穴のような影が一つ――皆既日食である。
「わあ!」
息子の囁くような歓声が聞えた。
「ね! ね! あれがお月様? 凄く大きいよ?」
「お日様が近いから、大きく見えるのさ」
と寛大な教師のような物言い。
「へえ! お父さんって物知り!」
どうやら、頭上で繰り広げられる天体ショーにより息子に対する株が上がったようで、係長はとても満足した。周囲で同じく空を見上げる人々も「わあ」「へえ」などと声を上げていた。
天文予測を完全に無視したその皆既日食は、学会でさまざまな議論を呼んでいた。
だが、地上のこと、得意先の機嫌と住宅ローンのことで精一杯の係長は当然そんなことには縁遠く、暫くすると、動きも音も無いそのショーに飽きてきたのか、大きなあくびを洩らした。
「ほら、あんまり長く見ていると目が疲れるから、程々にしなさい」
しかしそれには応えず、間を置いてから息子は、
「……お父さん、あれはなぁに?」
と云い、真っ只中の日食を指差した。
「どれ?」
息子の指し示すまま係長は顔を上げ目を細めた。
太陽に穿たれた穴、黒い円の中央で、何かがゆらゆらと動いていた。周囲と同じ色で影にしか見えず形までは解らないが、小刻みに震えるようなその不可思議な挙動は、航空機の類ではなさそうだった。
「……雲? かな?」
係長と彼の息子と、周囲の人々が凝視する中、影は見る見る広がってゆく。その光景に係長は知らず表情を陰らせていた。
翳かざした掌から血の気が引き、喉を唸らせた。
虫の知らせ? 生ぬるい汗が脇の下に浮かび、臓腑に苦いものを感じた直後、滑り台の上で同じく空を見上げていた見知らぬ青年が叫び声を上げた。
「落ちてくるぞ!」
係長は無意識のうちに息子を引っ手繰たくり、駆け出していた。
それからちょうど二秒後、その小さな公園は周囲の住宅街もろとも、突然飛来した莫大な質量により押しつぶされたのだった。
錆びたブランコや満杯の屑篭は数百トンの粉塵に紛れて舞い上がり、音速に達した衝撃波は係長と息子をペーストにしてから隣県のビル壁に叩き付けた。
溶解した岩石の発する熱が誕生したばかりのクレーター周囲の大気をかき混ぜ、一帯は粉塵による黒いフードを被せられ、監視衛星の目すら完全に遮断してしまった。
大地に穿たれた、あばたの中央では、誰知るともなく蠢くものがあり、そして……日食はいまだに続いていた……。
第一話後半~「プラス、降臨!」
勇は、ほったて小屋の扉らしき苔だらけの板を数回ノックした。
力を掛けると喜劇よろしく建物全体が倒壊しそうな気がしたので、中指の節でそっと、慎重にこつこつと叩いた。
「……新聞も保険も間に合ってるよ」
すぐに薄暗がりからしぼんだ声が聞こえた。
建物の内部は外観から想像した通りの、くたびれた様相を呈していた。
板天井にぽつぽつと並ぶ剥き出しの白熱灯はその半数くらいしか電球が無く、残りの半分も灯るのかどうか怪しいものだった。
埃の臭いのする空気は入り口の扉を開いたくらいではびくともせず、その場に居座っている。足元にあるビニールのスリッパは長らく使われた形跡も無く、その傍らに革靴が一足だけ揃えられていた。
どうしたものか、勇は下唇をとがらせて久作を窺う。
「間に合ってるってさ」
勇の癖を真似て唇を尖らせた久作は云い、肩を竦める。
「だから?」
ぷいと顔を背け、勇は再び扉をノックした。
「あの、永山教授の指示で――」
それに重なるように、暗がりから誰かがどたどたと駆けて来たので、勇は言葉を切った。
現れたのは若い、二十代前半の男だった。
鮮やかな黄色のシャツが壁や天井の様子から浮いている、久作と同じく中肉中背のその男は、無精ひげに覆われた角張った顎、削げた頬と太い眉を器用に操り、驚きと感嘆を同時に表現してみせ、同じことを両手を広げる仕種でもやった。
「……ひょっとして、ほむらの人? なんだ! それを早く云ってくれなきゃあ! さ、狭いところですけど遠慮無く」
早口で捲まくし立てるやいなや、彼は勇と久作の後ろに回り込み「さあ」と二人の背を押した。
「待ってたんですよ、実際」
軋む廊下の中ほどで男は二人の前に躍り出て、右手の扉を開き、
「掛けていて下さい。お茶でもいれますから」
と、廊下と同じく薄暗い部屋を指し示し、返事も聞かずに廊下を進んでいった。
ふんと鼻を鳴らしてから、久作は扉を覗いた。
二十畳ほどの部屋の北側の壁には、頑丈さだけが取り得といった事務机が一直線に並び、大小様々なモニターが陳列されている。
その白い民間仕様のパソコン用モニターの全てにそれぞれ別の映像が映っており、その幾つかはスクリーンセイバーの幾何学模様だった。
モニターの反対、入り口側を占領する、天井に達するスチールラックは、不揃いのファイルで埋め尽くされ、そこに収まらなかったファイルとダンボールが床に積み上げられ、さらにそこから崩れたいろいろが床の至る所にかき集められている。
暗めの室内がモニターを見る為なのか、非力で時代遅れの照明器具の為なのかは定かではないが、本を読んだり談笑したりするような雰囲気ではなさそうである。
座礁した貨物船倉庫のごとき乱雑ぶりのその部屋の東の壁際に、男が薦めた応接セットらしきものを見付けた久作は、たじろいでいる勇を戸口に置いて部屋に入り、ソファに腰掛け、
「どうやら座れそうだ」
手招きした。
仕方なく勇は、床を這いずるケーブル群を必死でかわし、うっすらと埃を被ったソファ、久作の隣に座った。合皮がぎゅうと妙な音を立て、勇の体形に合わせて沈んだ。
暫くして先程の男、おそらく唯一の住人であろう彼が、四角い盆を持って帰ってきた。
「申し訳ない、ミルクを切らせてるんです」
男はソファの前の小さな円形テーブルに乗った書類を肘で押しのけ、コーヒーカップを三つとスティック入りのグラニュー糖を一掴み置いた。勇は無言で小さく会釈し、久作は、お茶にミルクはないだろう、と思ったが、取り敢えず黙ったまま、勇と同じく頭を軽く下げた。
「おっと、申し遅れました……」
云いかけて、男はくるりと向き直り、横手の事務机の引き出しを二つ三つ抜き出し、目当てのものを見付けてから再び「申し遅れました」と云って、小さな紙切れを勇に差し出した。
「日本スペースガード協会の露草つゆくさです。宜しく」
頭を上げて、露草と名乗った男は口を引き伸ばして笑顔を作った。
勇の手にあるそっけない名刺には、確かにそうだと書いてあった。代表という肩書きも添えられている。横からそれを覗き込んだ久作は、文字と露草の顔を交互に見て、ほんの少し間を置いてから、
「名刺はありませんが、僕……失礼、私がほむらの速河久作で、こっちは加納勇です」
膝から僅かに掌を浮かせた。
前世紀末の国際スペースガード協会発会に関する経緯や、様変わりした今日の同協会の意義を手振りを添えて語る露草を、勇は熱すぎるコーヒーに舌を焼きつつ、味に対する興味も知識も無い久作はただただ喉を通過させながら、もう三十分余り眺めていた。
なおも続くであろうことに二人はうんざりしつつも、それを顔に出さないだけの技術を年相応に身につけてはいた。
「――そもそも、近傍を漂う小天体はごまんとあり、そのうち地球軌道をかすめるものは文字通り無数ですから、観測・警戒には少なくはない意味がありました、確かに。しかしそうやって近い将来に飛来するであろう小天体を、一般でいうところの隕石ですね、それを前もって予測できたとして、その予測にそれほど価値が無いことに気付いていた人々もいた訳です。というのも、例えば一週間後にどこかの都市に、さしわたし百メートルくらいの小天体が落下することを観測技術によって前もって知り得たとしましょう。百メートルというのは小天体の規模としては日常的なものです。それくらいの質量になると、もはや地球大気による摩擦保護力は働かないですから、そのものずばりが大地に突き刺さることになります。かくして一週間後にその都市は、地上から蒸発してなくなってしまう訳です。ねえ速河さん? そんな巨大なものが頭上から降ってくると知らされて、あなたならどう思います?」
天井や壁に目掛けて弁舌を披露していた露草は、くるりと振り向き、久作に左手を翳し首を傾げた。泥水の入ったマグをいまいましげにテーブルに置き、久作は小さく喉を鳴らして腿の横をさすった。
「余計なお世話、ってところでしょう。知らない方がいいことも世の中にはある、科学とは逆行する意見ですがね」
露草は人差し指をぴんと突き立てて「そう!」と照明を仰ぎ見た。
「その昔、五十年くらい昔に、廃棄された長距離ミサイルを使って小天体を迎撃しようなんて馬鹿げた発想があったことを、速河さんはご存知です?」
太い眉をひくひく動かしつつ、露草は再び指を立てて振り返る。
「国連主導の『宇宙防衛構想』の延長線上で出た、水爆だか核ミサイルだかの再利用ってやつでしょう? ええ、知ってます。……良かったら久作と呼んで下さい。永らくそうだったので、どうも姓での呼び掛けには反応が遅れるんです、慣れてなくて」
返しつつ、神妙な顔つきで久作は提案した。隣の勇が俯いて肩を揺らし、笑いを堪えている。
「ふむ、成る程……了解しました、久作さん。なら、加納さんの方も――」
「ええ。勇で、お願いします。理由は久作と同じです」
勇はそう云ってから、小声で「初対面だって云うのに」と久作の耳元に囁いた。
目を細めそれに応えた久作は、ソファで弾みを付けて立ち上がる。
「そういった、無意味であろう観測・警戒を未だにあなた方が続けているということはつまり、その都市を穴ぼこに変えるだけの小天体をどうこう出来る手段を手に入れたと、そう解釈していいんでしょうか? 露草さん?」
「手に入れつつある、その程度です」
それまでの道化めいた仕種とは打って変わり、露草の瞳は冷たい光を放った。
久作にソファに座るように無言で促し、それを見届けた露草は腕を硬く組んで瞼を軽く閉じる。
「我々スペースガードの『地球圏防衛網』計画、発案はもう十年も前です。軍事仕様の人工衛星による宇宙規模の哨戒任務と、それを支えるだけの圧倒的火力、当然宇宙用のです。地上からの迎撃と大差ないように思われるかもしれませんが、運搬から始めとする効率が段違いです。技術的問題をなぎ倒した具体案を提示したのが五年前。予算を取り付けて本格的に発動したのがつい二年前。準備は今現在も進行中、だが……」
唐突に言葉を切った露草は、ゆっくりと振り返り「だが、遅すぎたようです」と何も読み取れない表情で云い、二人を交互に見詰めた。
漸く話の区切りを見付けた勇が、前髪をいじりながら立ち上がって言葉を割り込ませた。
「あの、そろそろ私達が呼ばれた理由を聞かせて欲しいんですけど」
声色に僅かな苛立ちが混じっている。
「これまでの話、当然関係があるんですよね? 私達……いえ、ほむらと」
学者然とした顔つきを崩し、露草は勇の切れ長の瞳を見詰めた。
「勿論です。すいません、長話が私の悪い癖でして」
云いつつ、二人を居並ぶモニターの一つへと手招きする。そこには良く見知った太陽の電波観測映像がモニター一杯に映し出されていた。日付は一週間前になっている。
「これは――」
露草を手で制して久作が「僕が撮影しましたから」と映像を凝視したまま云った。
「何か問題でもありましたか?」
と勇が付け加える。
「ここの――」
露草はモニターの一端を指差す。
「――これです。何だと思いますか?」
露草の肩越しに二人は映像を睨み付ける。巨大な太陽表面に黒い染みがちらほらと浮かんでおり、その一つを露草の指が指し示していた。
「黒点です」
久作がきっぱりと云い、勇が「間違いありませんよ」と付け加えた。
「では」
と露草は煙草のヤニですっかり茶色に変色したキーボードを左手でぱたぱたと叩き、映像を切り替える。同じくほむらによる太陽の映像で、日付は二週間前に変わった。
「ここから最後の映像までを繋げます」
露草がキーを叩き、ぎこちないコマ撮り映像が流れる。太陽がぎくしゃくと回転していることが表面のムラと黒点の移動で見て取れる。くるりと回った太陽が一週間前の日付で止まり、再び頭から映像がリプレイされ、それを三回繰り返した後露草が「どうです?」と事務椅子を軋ませて振り返った。
「黒点が現れたり消えたりするのは自然現象ですけど、それはご存知ですよね?」
嫌みにならない様に慎重に言葉を選んで久作は云った。
「はい。ところで、地上から太陽を観測している天文台は現在、ほむらだけだと聞いていますが、間違いありませんか?」
「おっしゃる通りです」
勇が応える。
「観測衛星の方が精緻な情報を得られますから、誰もやりたがらないし、ほむらにしたって別段力を入れている訳ではないんです。実際、大した発見はなくて、単なる補足データ収集に付き合わされただけですから、ねえ?」
語尾は久作に向けられたものだった。
「これを見て頂けますか」
露草は鍵の掛かった引き出しから一枚の写真を取り出し、久作に渡した。
「むぅ、観測機だかの影が映り込んでいるじゃあないですか。それに随分と劣化してますね。素人の撮影か……これが何か?」
写真はノイズが酷く、乱れていたが、宇宙空間から電波撮影された太陽だと辛うじて解った。傍の事務椅子を手繰り寄せて二人にあてがい、露草は重々しく口を開いた。
「久作さん、それ、映り込みではないんです。ほむらの最終観測から丁度まる一日後の太陽の、装置的には完全にクリアな映像です。撮影したのは素人ではありません。出所は極秘なのですが……お二人なら問題無いでしょう。それを撮影したのは、地形解析用の観測衛星〈いざなぎ〉です」
それを聞き久作は、派手な音を立てて唾を飲んだ。勇は「え?」と小さく声を上げ、久作の手にした写真を覗く。
ほぼ中央に据えられた太陽の中心から僅かに左下にずれた部分に、表面積の二割を越えるほどの黒い真円が映っていた。先程久作が映り込みだと云ったのはこれのことだった。
「あの……何かの影がレンズに映り込んだという可能性は?」
一応勇は云ってみたが、あくまで可能性を潰す為であり、写真の質感がそれを否定していることを誰よりも勇自身が痛感していた。露草もそれを承知しているようで、念の為といった口調で応える。
「入念に解析した被写体、その影までの距離は、きっかり一天文単位です。何かの影だとしても、それはレンズにではなく、その……太陽に落ちた影ということになりますが……」
語尾はしぼんでゆき、後を久作が継いだ。
指で銀縁フレームを押し上げ、事務椅子を後ろ手で押しのけると、久作はすっくと立ちあがり、自身の細い顎をそっと撫でた。
「光源に落ちる影とは、なかなかどうして詩的なことで。形容矛盾ってやつですね。良いでしょう、我々は時として、詰め込んだ知識を一切捨て去ってから取り組むしか手がないほどに厄介な問題に直面する。今がその時だということさ、勇」
芝居掛かった声色で久作は勇と露草に交互に視線を向けてから、眉間を寄せて目を閉じた。
驚いたのは勇だった。
照れもあり、人前で自分を「勇」と名前で呼ぶことをあれほど嫌っていた久作が、今確かにそう呼んだ。議題をいっとき棚上げにして、勇は耳を真っ赤に染め上げて、そのことに一人浸った。
「ほむらで僕らが撮影した黒点の一つは丁度、成長期にあった。これは間違い無いが、別段取りたてて騒ぐことでもない。日常的といえばこれほどのことはない。きょうび小学生でもそれくらいは知っているからね。さて、そのちょうど二十四時間後に撮影されたこの写真の意味するところは……」
久作は、突然流暢になった語調にたじろぐ露草をちらりと見て、自身の撮影したほむらの映像に向けぱちんと指を鳴らし、勇に軽く流し目を向けた。しかし、勇の頬が赤らんでいることには全く気付かなかったようだ。
「……直径三十万キロの黒点だって? ……よろしい、それが現実というものなのさ。そうですね、露草さん?」
不敵、そんな視線に露草はこくりと一つ頷いた。
久作は事務椅子に掛け「そろそろ具体的な話題にしませんか?」と上目遣いで云った。
「これで終わりだというのなら、わざわざパルナソスくんだりから僕らを呼び付けたりはしないでしょう」
咳払いを一つ。
「だからとて、僕らに何が出来るでもないですがね。それに、或いは取りたてて騒ぎ立てるような事柄でもないのかもしれない」
険しかった表情がふっと和み、
「当然、天文学的には大いに騒ぐべきですが」
と付け加えた。
いっとき、沈黙が薄暗い部屋を渡る。そして、押し黙った露草が口を開こうとした時だった。
三人の左手に据えられたパソコンのスピーカが、電子合成された女性の声で「緊急連絡! 緊急連絡!」と二度続けて金切り声を上げた。
仰け反るようにして露草は後ろを振り返り、ビニールスリッパで力いっぱいリノリウム床を蹴り事務椅子を走らせる。がらがらとキャスターが音を立て、露草はすぐさま黄色と黒の縞模様で瞬くモニターの前に躍り出た。
「どうしたんです?」
半ば叫ぶように久作は云い、後を追って飛び跳ねる。少し遅れて勇も二人に取り付いた。取り出したインカムを定位置にセットし、露草は左手でキーをめまぐるしく叩き「解りませんが」と喘いだ。
「この回線が使われたことなんて、テスト以外では一度も無い筈です!」
二十二桁のパスコードを素早く入力し、露草は双方向回線を開いた。
ちかちかと点滅する画像の一部が反転し、どこかのオンライン中継らしい角のある荒い画像が現れる。通信速度を優先しているようで、人物の上半身が出来損ないのアニメーションの如くかたかたと動いている。表情までは読み取れないが、服装は明らかに公的研究機関のそれだった。
モニターに横顔を向けた白衣姿の女性の後ろでは、画質の為、カビみたいにしか見えない人々が右往左往している。勇は知らず久作のウィンドブレーカーを掴んでいた。
「露草です!」
怒鳴るように云い、モニターの向こうの女性がかたかたと振り返った。
「良かった! 間に合った!」
相手がカメラの淵を掴んだのか、画像が大きく揺れた。
「ちょっと待って……」
露草が素早くキーを叩きパソコンにコマンドを送り、荒かった画像がみるみる細かくなり、ついにテレビ中継並の画質になった。
「相模さがみさん? 何が――」
「データを送るわ! すぐに解析してちょうだい!」
黒髪の、相模と呼ばれた白衣の女性はモニターに掌を向け露草を制し、手元の装置を操作している。
息を殺していた勇は、モニター中央の相模の顔の下に『JAXAジャクサ』と表示があるのを見て取った。独立行政法人・宇宙航空研究開発機構、通称JAXAのどこかの研究施設とこの部屋の間にホットラインがあるらしい。
「久作、あれ……」
勇は耳元で囁き、久作は小さく「ああ」とだけ応える。
「露草君、あなたの予測は的中したのよ!」
手元を見ながら相模が叫ぶ。
「ええ……『侵攻』が始まったわ」
それを聞いた露草は、振り上げた右の拳を事務椅子に叩き付けた。
「そんな! 速すぎる! 計測値は――」
しかし、またしても相模が遮った。
「確認されたのは一つ。九州南部へ降下し、そのまま北上。九州北部から本州南部、中規模以上の観測装置のある施設を洩らさず壊滅させてなお進行中、恐らくここも時間の問題だわ。こんなことって……」
相模は顔とモニターの間で両手を握り締め、うなだれた。
「他の国は?」
送られてくるデータを操作しながら、露草はインカムを空いた手で握る。眉の脇を一筋の汗が伝い、キーボードにぽたりと落ちた。相模は顔を下げたまま左右に振り、
「日本を縦断したら、そのまま向かうのでしょうね、きっと」
と辛うじて聞こえる程度で云った。
「その頃には、確かめる手段なんてとっくに失っているけれど」
「ちょっと! 何が起きているんです!」
痺れを切らした久作がついに怒鳴った。隣の勇がたじろぐ。
「露草さん!」
事務椅子の背もたれを鷲掴みにして、噛み付かんばかりの勢い、露草は気押されて息を呑む。
「誰?」
と相模がモニター越しに久作を見詰めた。
「ほむら天文台の速河です。状況を!」
露草のインカムを引っ手繰り、久作はモニター上部に設置されたカメラ目掛けて指を突き付けた。
「ほむら? ……あなたが例の第一発見者?」
と相模。
事務椅子の縁を握り、久作は「僕は何も発見しちゃあいませんよ」と云ってから、これ見よがしに鼻を鳴らし、いまいましげに手を振り下ろした。
横から露草が「詳しい事情はこれからなんです」と合いの手を入れる。
モニター向こうの相模は、大きく息を吸い込み、そして音を立てて吐き出した。
「露草君の予測した『侵攻』を、あなたの観測結果が裏付けて、〈いざなぎ〉が実証した、そんなところよ。我々も漸く重い腰を上げたのだけど……どちらにしても遅すぎたようね。数時間前、種子島からスクランブル発進した空自のソニック編隊、一機たりとも帰って来なかったわ。といっても、基地の方が先に壊滅したらしく、どの道帰るところなんてなかったようだけど。状況? 状況は最悪、この上ないくらいにね」
ぽーんと場違いに軽快な音がして、データ受信完了を告げる。
鋭い眼光をカメラとモニター交互に浴びせ、久作は低く「スクランブル? 何に?」と呟き、眼球を滑らせて露草を捉えた。相模はそれには応えず、無言で露草にその役目を押し付ける。
両のこめかみを人差し指と親指で挟み、露草はひとしきり唸ってから「敵です」と云い、それを継ぐように相模が、
「我々は〈オブジェ〉と命名しました」
とスピーカを震わせた。
「敵?」と勇。
「オブジェ……」と久作。
「送ったのはソレの降下直後、種子島基地へ飛来した際のオブジェ・ゼロワンのデータよ。役に立つのかどうか、後は露草君、そしてほむらの人、あなた方次第よ」
「相模さんは?」
露草の声は僅かに震えている。
「つくばは放棄・撤退が決定したの。彼らがここを目標から外すとは考えられない……敵の戦略は明確だわ。まず――」
灰色の小さなノイズが画面に走った。
「――我々地球から人工衛星という「目」を奪い、次いで地上に林立する「耳」を潰す。それから――」
「ほむらは?」
唐突に勇がそう割り込んだ。
「パルナソスのほむら天文台はどうなるんですか?」
久作を半ば押しのけ、勇がモニターに詰め寄った。久作がカメラを指差し、勇は視線をモニターからカメラに移した。
相模は「全てを把握している訳ではないから……」と前置きして、
「未だ健在だとしても、いずれ狙われるとみて間違い無いでしょう」
と多少哀れみのこもった口調で、突然割り込んできた勇に向けて云い、「お気持ちは察します」と付け加えた。
と、またもや画像に派手なノイズが走り、相模の顔が大きく歪んだ。スピーカががりがりと耳障りな音を立てる。蒼白となった勇を声も無く見詰めていた露草は振り返る。
「相模さん?」
画面の、周囲をぐるりと見回している相模の右側から、別の男性が割り込んできた。
「博士! 撤退だ!」
と吐き棄て、そのまま後ろに走り去りながら「リニアに急げ! 時間が無い!」と叫ぶ。
再度ノイズが、一際激しい画像の乱れが上から下へと流れる。ざわざわした騒音が、今度は途切れること無く鳴り出した。背後では悲鳴らしきものと、ガラスの割れる音が微かに聞き取れた。それらの意味するところ、相模の方は只ならぬ状況に足を踏み入れつつあるようだった。
「もう来たの? 速すぎる!」
席を立った相模は駆け出そうとしてすぐに立ち止まり「これまでか……」、上半身を捻って画面一杯に顔を近付け、そして――
「後は頼んだわよ……スペースガード! ――」
ぶつん、とそっけない音を立て、通信が切れた。
露草、久作、勇の三人は、息をするのも忘れモニター中央の、枠で囲まれた領域の白黒ノイズの嵐をいつまでも睨み付けていた。
海岸線に沿う幹線道路を、露草の運転するライトバンが疾走する。
先の相模とのやり取りとは裏腹に、猛速度で去って行く辺りの様子は、閑散とした日常のそれだった。ガードレール越しに一望できる、時折しぶきを上げる荒れ狂う波だけが、三人の焦燥と同じく慌ただしかった。
「千歳の第二航空団に話を通しています。シューティングスター二機がすぐに離陸出来るよう、準備が整っている筈です」
ハンドルを握り締めたまま露草は、助手席の久作と、ミラーを介し後部座席の勇を見て云った。
「しかし、久作さん……」
露草を手で制し、久作は眼鏡を押し上げた。
「状況を最も把握しているのは恐らく軍人達でしょう。機動力といえば彼らにかなうものは無い。だが、彼らにはそれを理解する為の情報が決定的に不足している。そして、その情報を持っているのは……」
一旦区切り、ちらりと窓の外を見る。
「つくば観測所がああなった以上、間違いなく我々だけだ」
大きなカーブに差し掛かる。
猛速度ながら慎重な運転で露草は「ええ」と振り絞る。傾く重心に身を任せつつ、久作は続ける。
「とはいえ、僕らにしたって充分だとは云い難い。それでも、あのオブジェ、ゼロワンと呼ばれるものが地球圏外から飛来した、恐らく太陽方向から来た何かだということを突き止めている。戦略を練る上でこの差は決して小さくはない」
「事前に予測さえしていた?」
勇が顔を覗かせて云った。
「ああ、そうだ。それこそが最重要要素かもしれない」
ミラーに頷く。
「混乱の直中であろう軍に情報を流すのは確かに馬鹿げている。無論、いずれはそうする必要があるが、どうせなら……」
「有益な形で、という訳ですね?」
露草が継ぎ、久作が「そう」と力強く返す。
「僕と勇が出来る限り情報を集め、露草さんに送ります。解析と対抗手段の検討を、やっつけ仕事でも構いません。それが完了し次第、軍隊なり政治家なりに情報を提供して下さい。勿論、僕らからのリポートを逐次流してもらっても構いませんが、恐らく彼らはそれを有効には使えないでしょうから、露草さんの見解を忘れずに添えてあげて下さい」
久作は銀縁眼鏡を取り、目頭を数度しごいた。
目的地に近付き、露草はライトバンの速度を落とし「何が起きているのかさえ解りませんが……」と、目を閉じたままの久作を向き「くれぐれも」と口を開いた。
射し込んだ日差しを左手で遮り、シートに後頭部を押し付けた久作は「ええ」とだけ応えると、再び目を閉じた。
航空自衛隊第二航空団の駐屯地、千歳基地から二機のSS-VTOL、垂直離発着機〈シューティングスター〉が爆音を撒き散らして飛び立った。
露草はそれを室蘭工科大学へ取って返したライトバンのフロントウィンドを通して見詰め、
「我々に何が出来るのか……か」
と誰にとも無く呟いた。
見渡す限りの快晴がいやに無気味に思えた。
「運転手さん! 首都方面へ向かってくれたまえ」
めちゃくちゃに重たいヘルメットが何度も視界を遮り、久作はうんざりしていた。
「運転手? はは、違いない。あいよ、お客さん!」
方城ほうじょう一尉は後部座席の久作に親指を立ててみせる。
シューティングスターの、旅客ジェットとは比較にならない加速衝撃に全身がみしみしと音を立てている。キャノピー越しの視界は全て雲海で、左舷前方に勇の搭乗している同型機体が微かに見て取れた。両翼の先が白い筋を曳いている。
「勇? 空自ご自慢のSSの乗り心地はどうだい?」
機体が傾き、久作はヘルメットを側壁にぶつけた。僅かなノイズの後、勇からの返信があり「最低よ――」悲鳴が続いた。
「へい、旦那。事情を何か知らないかい?」
方城一尉がおどけた調子でスピーカから呼びかけた。
「特務待機の次はスクランブル発進ときた。何が始まる?」
「そりゃあ、あんたのお仕事さ、決まってるだろう?」
ごわごわしたフライトスーツに身をよじりながら、久作も負けじとおどけた調子で応える。
「戦争だよ、それも飛び切り手強い、ね」
「ほお! そりゃ凄い! 敵はどいつだ? メリケンかい? それともイワンの野郎どもか?」
露草とのデータ送信の為、本部との無線が一時封鎖されているのをいいことに、方城一尉は云いたい放題だった。久作はひゅうと口を鳴らしてから、
「驚くなかれ、宇宙人さ。武器はあるかい?」
「そいつは凄げぇや! ってことは――」
気流に飛び込んだのか機体が上下に大きく揺れた。
「――対人兵器か? それとも空対地なのかい?」
久作は苦労して両手を左右にかざして、
「さあね。どっちも準備しときなよ」
大きく笑った。
雲海の切れ目から群青色の太平洋がちらりと覗き、久作はしばしその光景に見惚れた。
いつも地上から空を見上げることに終始している久作は、眼下に広がる広大な海に、幼い子供のように釘付けになっていた。そして勇も恐らくそうであろうと、かすかな笑みを浮かべる。
「久作!」
突然ヘルメットが大声を上げ、久作は思わず仰け反った。
「勇? どうした?」
「見えた! あれ!」
「旦那、正面だ」
方城一尉の科白が重なり、久作は固定ベルト一杯に体を乗り出してキャノピーにヘルメットをなすりつけ、そして目をむいた。
「おいおい、冗談だろ?」
と方城一尉。
「あれがそうか? なんて……」
足元から小さなジュラルミンケースを取り出し、膝に置いてから慎重に開く。
「勇、走査開始だ。カメラを向けろ」
「もうやってるわ」
取り出した装置を肩に担ぎ、久作はマイクに向けて、
「可能な限り接近を。ただし、離脱の判断はお任せします」
押し殺した声色で云い、観測を開始した。
幾筋もの黒煙が大地と空を繋いでいる。茨城県つくば宇宙センター。研究施設が立ち並んでいた筈のそこは、今では一望できる範囲全てが瓦礫の山だった。
開通したばかりのリニア軌道は見事に分断され、大きくえぐれた大地に小さな火も幾つか見える。
黒々とした廃屋群と霞ケ浦のちょうど中間あたりに、久作は素早く小型観測装置を向けた。緑色に輝く数列の並ぶファインダー内で拡大された景色、そこには、黒煙の隙間から射し込む日差しでぎらぎらと輝く、水銀色の巨大な物体が映し出されていた。
「あれが……ゼロワン、オブジェ?」
勇の喘ぎが聞こえた。
周囲に散ばる倒壊した建造物や、所々分断された曲がりくねったアスファルト道路と比較した目測で、高さ二十メートル以上、全長は百メートルをゆうに越えている。
方城一尉が荒い息遣いで「でかい!」と叫んだ。
銀塊の表面は幾つかの部分に分かれており、まるでプレートテクトニクス図案のようである。
大きく張り出した二つの突起状部分に節のような個所があり、それら全てが鈍い銀色を放っていた。そして、小山ほどもあるそれは二機の戦闘機が見守る中、剥き出しの大地をささくれ立たせながらじわじわと移動していた。
「あれが、う……動くのか?」
久作の喉は急激な渇きにより張りついていた。
河原で見付けた石が、何かの動物に見えることがある。
久作は眼下で蠢く銀塊に、そんなやり方を当てはめてみた。微かに上下している虚空に翳された突起、幾つかに分かれたぎらつく表面。歪んだ楕円形状の本体を、前方と後方に分けてから改めて全体を眺めると……。
「……虫?」
嫌悪感が背筋を駆けた。
視界が暗転し平衡感覚が狂い、すんでのところで観測装置を取り落としそうになった。
久作は不意に装置から目を背け、急激に臓腑を襲った吐き気をどうにかやり過ごした。
そこに重なったのは地上で目にする甲殻昆虫、まさしくそれだった。フライトスーツに落ちるキャノピーの影が胸から顔へと動いてきた。機体が旋回しているらしく傾き始めた太陽が右に左に動いている。
「組成は金属、チタンに酷似するも地上に近似種は無し。表層部分から微弱な熱と電波を確認」
勇の声が聞こえ、久作は我に返った。
「露草さん、どうですか?」
滲んだ脂汗を拭い、久作は通信回線を露草に向け開く。雑音の合間から「ええ、届いてます」露草のしわがれた声が聞こえた。
「未知の要因が多すぎて解析にまでとても手が回りません。暫くは情報収集に徹した方が良さそうです」
「でしょうね。続けます」
再び観測装置を担ぎ、久作はファインダーを覗く。と、勇からの通信が入った。
「ねえ、久作。あれが露草さんや相模さんのいう……オブジェなのかしら?」
「らしいね」
返した声が他人のもののように感じられた。
「じゃあ、あれが……種子島からここまで移動、したの?」
ノイズの為か、勇の声が震えて聞こえた。久作はごくりと唾を飲んでから「らしいね」と同じ調子で応える。
脳裏に、眼下の銀塊がその表面を分け開き、羽ばたき飛び立つ光景が浮かんだ。仮想の羽音が両耳を貫き、久作は舌を鳴らして眉をひそめる。
「熱は、大気圏突入時のなごりかしら?」と勇。
すぐには応えず、久作は自身の考えを云うべきかどうか悩んだ。
可能性というのなら、確かに有り得なくはない。
しかし、あの蠢く銀塊がある種の生物なのではないのか、とはやはり早計に過ぎる気がした。
そんな形態をしているから、などという説明を勇が聞きいれるとも思えなかったし、何より、単なる思い付きの域を脱していない。フライトスーツが喉を圧迫しているような錯覚にとらわれ、久作は襟元を掴み左右に振った。
「内部は融解しているのかもしれない。移動して見えるのは……地磁気の影響? ふぅ、それじゃあ、こじつけにすらなっていないわね。そもそも金属なのかどうかも定かではないのだし……。内部を見通せれば良いのだけど、この設備じゃあ無理ね……」
再びファインダーを向け、勇の声に耳を傾けたまま久作はぼんやりと考え事をしていた。
露草や相模博士の云っていた『侵攻』とは、これのことなのだろうか?
だとしたら、あれは……何だ?
あの虫の如き金属塊は、どう見ても移動している。これまでに得た乏しい情報によれば、あれは太陽方向から飛来し地上に落下して後、数百キロを移動している。そんな隕石が……いや、凝り固まった概念にしがみつくのを止めようと云ったのは自分だ。
あれが隕石なものか。だが、だとしたら、やはり……。
「旦那!」
方城一尉が久作の思考に割って入った。
「お出ましだ!」
キャノピーに指を突き立て、彼方を横切る数個の影を指し示した。
カナードと前部を向いた鉤型かぎがたリアダイン翼と巨大なソリッド・インテーク、この距離からでも独特の機体形状が見て取れる。空自の主力戦闘機、ソニック編隊だ。
「小松の第六が上がったらしい、攻撃するみたいだぜ。一時撤退、いいね?」
云うが速いかシューティングスターは真横に傾き、久作の体を加速が横殴りに貫いた。
観測装置を抱え「見える位置で頼みます!」とどうにか云い、「あいよ!」機体が翻り、左手の空が舞い上がって大地が躍り出た。
加速に逆らい、久作が顔を起こすのと同時に、視界一杯に閃光が瞬いた。
「ひゃっほう!」
方城一尉の奇声がコックピットに響き、次いで炸裂音が機体と久作の鼓膜を揺さぶった。
機体はしばらくきりもみしてから元の位置につく。視界の焼き付きが収まり最初に飛び込んだのは、煙柱を避けるように散開するソニックの底部だった。編隊の一機が久作達のシューティングスターの上をすり抜け、キャノピーがびりびりと震える。
「だっしゃぁあ!」
方城一尉が又もや意味不明に叫び、ヘルメットのスピーカから勇の悲鳴が続く。
「何なのよぉ! 突然に!」
ファインダーから顔を外し久作は、蠢く銀塊……ゼロワンと呼称されたオブジェの位置していた爆撃地点に目を凝らした。気流に巻かれた黒煙が大きくよじれ、ゆっくりと流されて行く。その周囲、それぞれに反転したソニックが、再び編隊を組み直そうと戻ってくる。
「……やったのか?」
久作は知らず拳を握り締めていた。
詳しくは知らないが、素人目に見ても先の爆発の威力は只ならぬものだった。オブジェが如何に巨大といえども、あれでは残骸すら残るかどうか。欠片の一つでもサンプルとして回収できれば御の字だが、軍隊を出し抜くには露草に頼るしかないだろう。
肺の奥に溜まっていた呼気を安堵と共に吐き出した久作だったが、不意に、脳裏に記憶の断片が、僅か前の会話がよぎった。
――種子島からスクランブル発進した空自のソニック編隊、一機たりとも帰って来なかったわ――
久作の耳を内側から震わせたのは、つくば観測所の相模博士の声だった。
「……そうなのか?」
顎に指を当て呟く。
「勇、これまでのデータを露草さんに――」
横顔を二度目の閃光が照らし、久作は目を細めた。そして、再び云い掛けた久作がキャノピーの外に見たものは――
「久作!」
「旦那!」
「そ……そんな!」
一点に集結したソニック編隊をなぎ払う、一条の光線だった。
「やべぇ!」
熱風と衝撃波がシューティングスター側面を猛速度で殴り、盛大にあおられた機体は紙屑の如く翻ひるがえった。
天地が一瞬ごとに入れ替わり、久作はコックピット内でミキサーにかけられ、首といわず肩といわずめりめりと軋んだ。開いている筈の瞳に映る全てが暗転し、鼓膜の傍で硬質な風が怒鳴り散らしている。
「てやんでぇい! トップガンをなめんなよ!」
方城一尉が怒声を上げ操縦桿を両手で引っ手繰り、機体の旋回を力ずくでねじ伏せた。久作は口を半開きにしてぜいぜいと喘ぎ、硬く結んだ瞼を無理矢理こじ開ける。霞のかかる視界でヘルメットのずれを直し、
「……勇……無事か?」
息も絶え絶えに囁いた。
攪拌かくはんされた雑音がスピーカから止めど無く溢れ、耳鳴りと重なって久作を襲う。
「勇!」
ざっ、とノイズが弾ける。
「……三途の川が、手招きしてる……」
方城一尉が右舷上方を指差す。どうやら勇の機体も健在のようだった。体がシートに押し付けられ、機体が急上昇した。かなり降下していたらしい。
「どうなった?」
漸く我に返った久作は観測装置を担ぎ直して、真上に位置する地上を見上げた。
滞空する黒煙から、同じく黒いソニックの残骸が撒き散らされ、細切れの舗装道路と倒壊した研究施設に次々と突き刺さる。
首を捻り上げる旋回衝撃に反発し視線を右に流すと、そこには未だオブジェがあったのだが、形状が一変していた。
表層にぽつぽつと見える放射状に広がったススは空自の爆撃によるものらしいが、それを受けた個所は本体から殻状に分かれて大きく開き、その下には表層とは質感も色も異なる部分が覗いていた。
一見して、傷一つない。
見た目の変化はつまり、爆撃によるダメージではないらしい。
陽光を遮り巨大な影を落とす殻状部分の裏側から、ナイフに似た形状のガラス質部分が僅かに突き出している。不透明な枠組みで区切られたそれは巨大で、かつ、見て判る程に振動している。
久作の乗るシューティングスターはオブジェを軸に旋回しているらしかった。仮に前部とした部分に差し掛かると、久作は喉を低く鳴らした。
そこに見えたのは、ほむら天文台のドームほどもある細かなハニカム格子と、大きく張り出した湾曲する鋭い突起だった。本体下部からは、先刻には見られなかった別の突起が両脇に三つずつ、計六本突き出していた。
それらを目に焼き付け、久作は確信したのだった。
「くそっ! 間違い無い! 複眼、顎、触角……そしてあれが脚で、あっちは翅はねか!」
砂埃で霞むキャノピーに肘を打ちつけ、久作は怒鳴った。
「勇、確かにこれは『侵攻』だ!」
久作の膝を小さな影がかすめた。ソニックの生き残りが二機、オブジェに急降下を仕掛けようとして二機のシューティングスターの間を擦り抜けた。ソニックが見る見る小さくなって行く。
と、不気味に揺れていた触角部分がしなり、唐突にオブジェがその巨躯をもたげた。
大地を揺るがし大気を押しやり、最後部から伸びる第三脚で立ち上がると、対になった複眼の座る頭部を降下するソニック二機に緩慢に動かし、そして大顎をぎりぎりと開き始めた。
「あれは……まずい! 急速離脱!」
「やってまさぁ!」
ふわふわと舞っていた機体ががくんと揺れ、弾けるようにその場を脱するのと同時に、オブジェの大顎の間から先程の閃光が辺りに放たれた。
焼き切れる直前の電球のような激しい閃光は、球状から円錐状に徐々に収束しつつその輝度を高め、ついに一本の真っ白な光線となって二機のソニックを順番に貫いた。
光線の径はソニック戦闘機の三倍をゆうに超えており、鉤型リアダイン翼は一瞬だけ真っ黒な影をひき、次に盛大に爆はぜたのだった。
一部始終をかざした左手の指の隙間から見ていた久作は、眩暈を感じる頭を猛スピードで回転させ、しかしすぐにそれを諦めて、
「もういい! 撤退しよう!」
と、方城一尉と勇に云った。
「あいな。おい、二番機、聞こえたかい?」
勇の乗るシューティングスターと交信しつつ、方城一尉はスロットルを折らんばかりの勢いで引いた。
「第六、仇は取るぜ! ……また今度な」
翼をわさわさと軋らせ機体は飛び跳ね、翻った。
廃虚と黒煙と夕焼け空が次々とキャノピーを走り抜け、次に久作の眼前に躍り出たのは……視界を埋め尽くすオレンジ色の複眼だった。
久作は反射的に両手で顔を庇い、低くうめき――
「逃げてぇ!」
蒼白となった顔をキャノピーに押し付け、勇は裏返った悲鳴を上げた。放り出した観測装置ががちゃりと鈍い音を立てる。
垂直に切り立ったつくば観測所跡地の上空で、久作の乗るシューティングスターを、ガラス質の羽を広げて跳躍したオブジェが弾き飛ばし、機体は粉々になって四散した。一番大きな破片が遅れて爆発し、舞い上がったオブジェの体表を鈍く照らし出す。
「そんな……」
勇はキャノピーに爪を立て歯を食いしばる。SS二番機パイロットが何か云ったが、勇の耳には一切届いていなかった。
震えと涙で歪む色彩の強調された視界では、羽ばたく銀塊がそのまま上昇し、いっとき滞空してから想像を絶する速度で旋回をかける様子が横切った。虚空を叩く羽音らしきものが機体を派手に震わせ、木偶の坊となった勇は力無くシートに倒れ込んだ。
パイロットが言葉にならない悪態を吐いてノズルをオブジェに向け、スロットルに手を掛けた、その時だった。
勇はシューティングスターごと真っ白な光に包まれ、視覚が一切効かなくなった。空自のソニック編隊を一掃したあの光線を背後から浴びたのだ。
傾いた太陽が真っ赤に照らす空に、刃物を突き立てたように影が走った。
「久作――!」
固く結んだ左の瞼を慎重に開き、次いで右、しかしそこに映るのは閉じていた時と同じく輝く白一色だった。
吹き飛んだ五感が、指先と爪先、頭のてっぺんから徐々に戻り、勇はごわごわしたグローブとブーツ、重量の余り身長が縮むのではないかと思えるヘルメットを、感触として認識した。瞳の周囲に光以外の映像が微かに沸き上がり、次第に赤い空が映り込んできて、遅れて、蓋をした聴覚が覗き、かたかたという機械音が届いた。
「……い、生きて……る?」
五感がほぼ同時に満たされ、勇は汗まみれの体の重さを嫌というほど味わった。それでも、両の掌を見詰めてその実在を確かめると、深い深い溜め息を吐かずにはいられなかった。シート越しにパイロットの唸りが聞こえ、勇と同じく無事であることが分かった。
がくがくとしか動かない首で周囲を見渡し、そこがシューティングスターのコックピットであることを空ろな目で捉え、一拍の間の後、勇はバネ仕掛けのからくりの如く勢い良く跳ね起き、肘と膝を目一杯計器にぶつけて、
「どうなったのよ!」
張り裂けんばかりに叫んだ。
ベルトを半ば引き千切るように取り去り、キャノピー外の景色を見ようと座席で体を反転させ、そして、勇は見たのだった。
所々めくれ、半ば溶けたシューティングスターの外装の先、熱で僅かに湾曲した一枚の垂直尾翼に爪先立ちし、片方の腕を彼方で揺らめく銀塊――オブジェに向けて翳し、その一対の翼をふわりと羽ばたかせる……黄金色の騎士の姿を!
第二話前半~「銀河の光」
「第六、仇は取るぜ! ……また今度な」
方城一尉が何やら呟くのが聞こえた直後、フライトスーツを着た久作の体はシートにぎゅうぎゅうと押し付けられた。
千歳を飛び立ってからずっと、久作はこの〈シューティングスター〉というVTOL(垂直離発着)戦闘機に感心していた。
今では化石とさえ呼ばれるジェットエンジンでありながら、ヘリコプター並の旋回性能と、瞬時に最高速に達する機動性は、空自の主力戦闘機、JFⅡ〈ソニック〉とまではいわないものの、しかし大した物だった。
ふわふわと漂っていたかと思うと弾けるように飛び跳ね、そしてくるくると宙返りしてみせる。余りのめまぐるしさで、酔う暇もないほどである。
航空技術に詳しくはない久作でも、この機体がなかなかのじゃじゃ馬らしいことは解ったから、前部シートで久作のパイロットを務めてくれている方城一尉の腕もまた大した物なのだろうと半ば確信していた。
先刻、方城一尉は自らをトップガンと呼んでみせ、その自信もまた、久作には好意的に映った。
終始おどけてはいても、パイロットとしての誇りが方城一尉には確かにあるようだった。
何故今そのようなことを改めて思ったのか、久作には解らなかった。恐らく、と考える。
この方城という名の空自パイロットに対し、幾らか申し訳ないと思ったからだろう。
目の前で同胞であるソニック編隊が散ってゆき、しかし彼に課せられた任務はそれへの反撃を許さず、それどころか今のシューティングスターにはたかだか三十ミリの豆鉄砲二門のみで、ミサイルの一本すら装備されていなかった。
空自のパイロットは飛行機を操るだけが任務ではなく、だからこそ彼らはセスナや旅客機ではなく、戦闘機を駆るのだ。彼らはただのパイロットではない、空飛ぶ兵隊なのだ。
自分は方城一尉の成すべきことを邪魔したのではないか、そんな罪悪感が久作の胸に生まれた。
日本スペースガード協会の後ろだてがあったにしても、所詮自分は単なる天文台職員であり、そんな自分が方城の本来の任務を翻弄してしまったのではないだろうか、と。そしてその僅かだった感情は、砂埃で霞むキャノピー右手に湾曲したオレンジ色の壁が迫った瞬間、久作の胸をあっという間に占拠したのだった。
一瞬だけ衝撃を感じた。
意識が消え入る直前、久作は勇の声を聞いた、気がしたのだった……。
ぬるま湯のような眠りからの目醒めは、夢の続きのように久作には感じられた。
寝付きの悪さは生まれつきであり、寝覚めの悪さもしかりである。
辺りを覆う空気が糊のようで、指を動かすのも億劫だった。溶けた鉛のような意識で最初に捉えたのは休憩室の白い天井だった。吸音素材が等間隔で並び、不愛想な蛍光燈がそこにしがみついている。見慣れた天井だ。
「……む、何時の間にか眠ったらしい」
長い欠伸あくびを噛み殺し体を起こす。狭い休憩室には久作と幾つかの事務椅子だけで、他の研究員は見当たらなかった。
ファーストライト(初受光)の最終スケジュールはどうだったかと思い当たり、錆付いた蝶番のように首を曲げ、時刻を確認しようと壁に目を向ける。簡易ベッドの頭の側の壁に掛けてある丸時計、二本の針は数字を指し示している、当然だ。しかし霞の掛かった久作の頭はその数字と時刻とを結び付けることはせず、だから久作はその数字を何の感情も抱かずにただ見詰めた。
休憩室は暖かかった。
いつも聞こえていた空調設備の静かな騒音が無く、暫くして久作は、一切の音が消えていることに気付いた。発声練習の如く声を出す、聞こえる。耳は正常らしく、やはり音の方が消えているようだった。芝居がかった仕草で掌を耳に当ててみるが、自らの呼吸音以外何も聞こえない。
「流石は最新鋭だな」
訳も無く微笑み、久作は傍らの上着に袖を通し、連絡通路へと続く扉のノブを握る。アルミ製のノブは生暖かかった。連絡通路のその先には観測室があり、そう意識すると手に思わず力が入る。
「要点観測望遠鏡〈ほむら〉、か。とうとうファーストライト、ちっぽけな僕に一体何を見せてくれるんだろう。宇宙の産声、星の記憶、未知の天体、物質の終着、……奇麗な星座か月の兎というのも悪くない。ついでに学会に貢献でもするかな?」
軽金属の軋む音、ノブがゆっくり回り灰色のドアが久作の動作に合わせ緩慢に開いて行く。
「……あ、れ?」
ドア枠をくぐった先の連絡通路は、暗闇だった。
夜だったのか、久作は照明を消したまま何処かに雲隠れした研究員に悪態を吐く。
連絡通路は気密保持の為でもあるので、久作は後ろ手でドアを閉じた。途端に暗さが増し、窓一つ無い連絡通路は目を閉じているのと同じになる。右手をかざし壁を探す。到着したばかりだがしかし歩きなれた通路だ、見えようが見えまいが不自由はない。ひらひらさせる手はしかし空を掴むばかりで、あの冷たい金属の感触は無かった。
ふん、と鼻を鳴らし久作は数歩を横に歩く。
と、声が聞こえた。
聞きなれない、柔らかな微笑みが。見えないと知りつつ辺りをうかがう。
再びの声、耳元のようにも、また頭上のようにも聞こえるその声は「こんにちは」、そう云った。
「こんばんは、ですね」
久作はその声に誘われるように天を仰ぐ。連絡通路の天井は真っ暗闇、ではなかった。何かが見える、それは……。
「……オリオン?」
久作は呟き、頭上に広がる星空を見詰めた。暗闇に目が慣れてきたのか、星空は徐々に明るさを増していった。
「ああ、お久しぶり、かしら?」
くすくすと笑う。
次第に星の瞬きの数が暗闇を超え、久作の頭上は白や青、赤や黄色の輝きで満たされていった。その明るさは眩しいほどで、まるで宇宙空間から直接、眺めているようだった。体が星の光で照らし出されている。
満天の星空にすっかり見惚れた久作は、その光景をまぶたに焼き付けようとゆっくりと首を回し、一回りしてから足元を見た。そしてそこに一際美しく輝く星を見つけ、思わず溜め息を零す。
暗黒の宇宙にひっそりと浮かぶ星、静かな藍と漂う白。遥か恒星に照らし出される小さな青い星。手を伸ばせば届きそうな距離に、その見慣れた星はあった。
「そうか、ここから見るとこんなに奇麗なんだ。知っているつもりだったけど、でも僕は何も知らなかったらしい」
「本当、奇麗ね――」
女性、いや、幼い女の子だろうか? 蝶の羽ばたきを思わせる優しい声だ。
「――あなたの星は」
そう、と久作は頷く。
「あなたの星、奇麗な星。でも、その美しさは脆さの証。儚さは美しさなのね。薄い氷のような脆弱さ、触れただけで砕け散ってしまうのでしょう?」
そうなのだろう、と久作は思う。
「だから……」
「だから?」
足元を見詰めていた瞳を声の方、頭上に向ける。星、銀河、宇宙、あらゆる輝き。それを見詰める久作の眼差しは一変して鋭い。
「だから誰かが守らなければいけない。その美しさを守らなければならない」
「そう。でも、誰が?」
と女の子の声。刺はなく、あくまで柔らかい。仲の良い妹、そんな温かさを感じさせる声だった。
「誰が? ……誰、だろう」
オリオンの中央、澄んだ青のトラペジウムを見詰め久作は呟く、誰だろう。オリオンの傍で小さな星が瞬いた。
小さな、それでいてくっきりとした黄色い星はゆっくりと輝きを増し、脇のトラペジウムよりも強く光を放った。その一筋の光は永遠の距離、底無しの暗黒を突き抜け、一直線に久作に注がれた。迷うこと無くただ一直線に。
久作は閉じた瞼を通して暖かいオレンジ色の光を感じる。
草木の息吹く春の日差し、命の輝き、生命の炎、オレンジ色の……瞳。光に抱かれ眠るようだった久作は、その脳裏に刻まれた記憶により弾けるように両目を見開き、叫んだ。
「オブジェ! 勇!」
前触れも予告も無く、景色が変わった。
視界は暗闇から一転、青空とまばらな白い雲。白く波立つ海と立ち上る黒煙が眼下に広がる。
そこは茨城県つくば宇宙センターの上空だった。
しかし久作は、自分の体の実在を一切感じられなかった。
まるで目玉だけが勝手に動き回りそのまま空高くに飛び上がったか、或いは精神と呼ばれるものが体をすり抜けた幽霊のようだった。人間的とはとても呼べない視点からは瓦礫と化した宇宙センターが一望でき、その上空には巨大な銀塊、オブジェが舞っている。
オブジェの大きさにより埃くらいにしか見えない黒い影、それが空自のシューティングスターだった。
一つはオブジェから距離を取って浮かび、もう一つは今正にオブジェに衝突するところだった。遥か高みから見下ろす久作は、オブジェに近い方が自らの乗り込んだ機体だと知り、漸く今の状況を振り返る。
数十倍のオブジェにより弾き飛ばされ、次の瞬間には爆砕する運命にある久作のシューティングスターはしかし、そのまま凍り付いている。シューティングスターだけではない。オブジェも、勇の搭乗した機体も、黒煙も、雲も、海も、大気も、何もかもが凍り付いている。まるで……。
「時間が、止まっている、のか?」
ごくりと唾つばを飲み込み、久作は振り絞る。
「あなたの星は今――」
再び声が聞こえた。
「――砕け散らんとしているようですね。あなたがオブジェと呼ぶものにより」
悲壮感も緊張感も無い声色だったが、訴えかける何かを感じた。
「生まれては消え、消えては生まれる。誕生と消滅の繰り返し、それはここでの秩序であり摂理であるともいえます。でも……」
言葉を切り、沈黙により久作に次を促す。
「……でも、誰かが守らなければならない?」
くすくすと微笑みが聞こえた。
「ええ、その通り。消滅は秩序ではあっても、しかし誕生の目的ではありません。いずれは訪れる単なる状態、消滅という状態。真理ではない、そうでしょう?」
相手が自分を見ていることを確信して、久作は力強く頷く。
「ある存在の価値は為し得た結果ではなく、如何いかに存在したか、過程にこそあるのだと、いずれは消え行く私は信じています。だから……」
「……だから?」
辺りの景色が陽炎のように揺らぎ始めた。空や海の色が徐々に薄らぎ、灰色から黒へと変わって行く。
「だから、力を貸しましょう、久作さん。私からのせめてものお礼です、遠慮なさらずに」
「どうして僕の名前を? 礼? あなたは……」
色と形が混ざり合い、久作は自らが落ちて行くのを感じた。真下にはシューティングスター、自身の体が待ち受けている。
「人間は素晴らしい力を持っていますね。この宇宙において二つと無い力。私はあなたのそんな力により存在を与えられた。漂う塵の塊だった私に、物質でしかなかった私に実在を与えてくれた、そのお礼です」
「……僕が、与えた? 何を?」
くすくすと笑い声が響き、それは次第に小さくなっていった。
緩やかに流れる景色の果て、シューティングスターのコックピットと共に、凍り付いた速河久作の体が見えた。
声を追って空を仰ぐと、そこには星空が広がっていた。
眼下は夕刻、しかし頭上は既に暗く、ゆっくりと降下する久作に再び暖かい光が降り注いだ。
オリオン座中央のトラペジウムよりも明るい、一つの黄色い星から放たれた一条の光。
輝く帯の中で久作は、その黄色い星を見詰め、漸く記憶の欠片を呼び起こしたのだった。
「オリオンの脇……僕の見付けた星、僕が「名付けた」小銀河? 君は、NGC999999999+、ハイナイン・プラスなのか!」
輝きは爆はぜ、時は流れ始める――
RRペガサスMk260ジェットエンジンを日没に向けた、シューティングスター二番機。
丘陵に沈みかけた夕日が放射状に広がり、勇の目を眩ませている。キャノピー越しに射し込んだ陽光がコックピットを紅く染め上げ、その顔は返り血を浴びたかのようだった。
勇はシートに正座して後ろを向き、太陽を両断して屹立する垂直尾翼を睨み付け、呆然としていた。
超高熱により歪んだ一枚尾翼は、機体識別のペイントが判別できないほどの煤で真っ黒になっている。
その先端、僅か数センチ幅に〝何か〟が……立っていたのだ。
それは人のようにも見えたが、その光景に対し、勇の持ち得る全ての知識はただの一つも解答を示してくれなかった。
奇妙だとか不思議だとか、そんな言葉では到底役に立たない。
〈オブジェ〉と呼称したあの物体を前に、シューティングスターは最大速度で離脱を掛けたのだ。どんなに少なく見積もっても機体は音速以上で飛んでいる。そんな機体の尾翼に、いや、尾翼でなくても、人が立っている?
しかも、背中から生えたふかふかで柔らかそうな翼を、まるで真空中であるかのように、はためかせているではないか!
騙し絵のような光景だったから、背中に翼が生えていることなど、どうということはなかった。
そよそよと揺れていた白い翼が奇麗に折り畳まれ、その姿形が見えた。
頭のてっぺんから爪先までを黄金色の甲冑が覆っている。甲冑、そう、まさに甲冑だった。
中世のものとは違うようだが、それでも関節毎に継ぎ目を持つ金属質の体表と、そこに刻まれた幾何学的な紋様は、勇には甲冑に思え、騎士に見えたのだった。
人の筋肉をなぞるように緩やかに湾曲しつつ、肩や爪先などの端部はところどころ鋭く突き出た、密度の高そうな金属的質感を持つ甲冑。
それでいて全身を精密機械のような秩序が支配しており、いうなれば空想世界の未来技術により誕生したハイテク騎士。形容矛盾のようでもあるが、勇の目にはそう映ったのだった。二枚の白い翼はさながらマントである。
幻覚、勇の脳裏に都合の良い単語がよぎったが、そうではないことは他ならぬ勇自身がはっきりと解った。
その黄金色の騎士は、先のオブジェに比べればまだまだ常識の範囲だった。ゼロワンと呼称されているあの奇怪な銀塊に比べれば、受け入れにさほどの抵抗はない。
瞬間の思考、或いは引き伸ばされた時間でそこまで辿り着いた勇は「あ!」と声を上げた。オブジェ、あれは一体どうなったのだ?
掠かすれた記憶を手繰るように勇は眉間に皺を寄せる。ソニック編隊が尽く爆砕し、離脱しようとした久作の機体をオブジェが弾き飛ばし――奥歯を噛み締める――勇のシューティングスターにあの光線が浴びせられ……。
掴んだシートに深い皺が刻まれ、ぎゅうと音を立てた。
シューティングスターの爛れた背中と垂直尾翼、その上に爪先立ちした黄金色の騎士、それら全ての向こう側に片側を夕日の赤で照らされた銀塊、オブジェが翅を震わせて見え隠れしている。
機体が少しだけ傾き、オブジェの全貌が見て取れた直後、真っ白な光十字が出現し、勇は反射的に両手で顔を覆った。
あの光線だ!
しかしながら完全には目を閉じなかったので、勇はその驚愕する光景を目の当たりにしたのだった。
赤かった空が一瞬で白へと塗り変わり、身じろぎ一つしなかった黄金色の騎士が……動いた。
それまで、だらりと下げていた右手を左肩の辺りに振り上げ、僅かな間を置いて腕を真横に振り払った。
同時にシューティングスターを激しい振動が襲い、プラズマ放電にも似た青白い瞬き、遅れてスパーク音がキャノピーに叩き付けられる。真っ白な筋が勇の視界を横切り、一直線に左舷眼下に向かい、墨のように黒々とした海洋を深々とえぐり取った。
白い飛沫が舞い上がり、吹き出した水蒸気が海に蓋をする。大きく窪んだ着弾部分に向け巨大な波が押し寄せ、ビルほどもある水柱が立ち上がった。
「……まさか!」
勇は叫び、放り出していた観測装置を大急ぎで担ぎ上げ、ヘルメットからインカムを引っ張り出し、パイロット目掛けて怒鳴る。
「ねぇ、見たでしょ?」
「どこをよ!」
シューティングスター二番機パイロットの須賀すが二尉もまた怒鳴るように聞き返した。
須賀二尉の睨むレーダー表示、スロットルを一杯に引いているのにオブジェとの相対距離は一向に縮まらない。焦燥の直中である彼女を無視して勇は続ける。
「信じられない! オブジェの熱線を弾き返したわ! それも……片手で!」
興奮そのまま、勇はファインダーを右目に押し付けた。
緑色の明滅表示に囲まれ拡大された黄金色の騎士は真横に翳した腕をゆっくりと下げ、海流を無視した波紋の広がる海の方に、刃物のような顎を向け様子を窺っている。
勇の鼓動はぐんぐん加速していった。
こちらも依然不明なオブジェについては取り敢えず棚上げにし、黄金色の騎士について考える。
あれは一体誰……いや、何だろう?
幻覚の次に勇が想定したのは、ある種の軍事テクノロジーだった。
戦闘用のロボットか或いは装甲服の類……無理がある。軍事に通じている訳ではなかったが、しかしこれだけはハッキリしていた。
現代のあらゆるテクノロジーを総動員しても、あんなものは作り出せる訳が無い。ソニック戦闘機という新合金の塊を一瞬で蒸発させる得体の知れない光線を弾くなど。あの光線にたとえ一秒でも耐える素材など、恐らくあと数世紀は出現しないだろう。
傍目に見ても先の光景は異様だった。
何というか、そう、物理法則を全く無視している、そんな気味悪さである。
「――勇さん!」
いきなり耳元で呼ばれ、勇は文字通り飛び上がった。
「勇さん! 無事なんですか?」
「露草さん?」
声はヘルメットに仕込まれたスピーカからで、観測装置と連動しているので漸く回線が復活したのだった。
「久作さんからの連絡が突然途絶えたのですが、一体何が……」
勇は観測装置の端末を操作し、耳障りな空電をカットして露草に声を向ける。
「事態はもはや、予測不能だとしか云えません」
露草の言葉をわざと無視した。
「何と云うか……人知を超えた、そんな状況です。観測を再開しますからモニターして下さい」
「……何が起こっているんですか?」
露草の声はノイズと不安でくぐもっている。
「何が起こっているんでしょうか……」
おうむ返しにした勇はファインダーで目を凝らした。
「ちぃっ! どんどん近付いてくるじゃないのよ! 振り切れない!」
須賀二尉が叫び、勇は観測装置を黄金色の騎士からオブジェに移し、うめいた。
ズームアップされた頭部と思しき部分が余りに生々しく蠢き、勇の嫌悪を逆なでしたのだ。
隕石だという先入観と実体に余りにもギャップがあった。それは何処から見ても奇怪な生物でしかなく、にもかかわらず生物らしからぬスケールが恐怖すら生む。
「だったら、これでどうだぁ!」
須賀二尉の絶叫。
不意に機体が大きく傾き、勇はシートに鼻っ柱をしたたか打ち付けた。
機体が垂直になり観測装置がキャノピーと衝突して派手な音を立てる。不意をつく加速に身動きの取れなくなった勇は両目を硬く閉じてシートの縁にしがみついた。警報ブザーがコックピットに響き、程なくシューティングスターは雲海から浮上した。眼下には黒い海と街明かり、頭上に満天の星空が覆い被さっている。
「もう幾らも飛べないんだから、これでどうにか――」
須賀二尉の言葉を遮るように再び警報が響き、眼前の雲海が音も無く裂け、オブジェが巨体を顕わにした。高速で震えるガラス質の翅はねが雲をかき混ぜる。
「……ふ、ふざけんなぁあ!」
二本の大顎に向けてシューティングスターの三十ミリ機関砲が吠えた。突然の射撃音に勇は悲鳴を上げる。
真っ赤な弾丸が夜気を裂き、シューティングスターとオブジェを鋼鉄の破線で繋ぐ。三十ミリの弾丸はしかし猛速度で迫るオブジェの体表で次々に弾け消え、暗闇で鈍く光る銀塊が須賀二尉の視界一杯に広がった。
「わっ!」須賀二尉。
「あ!」後ろを向いたままの勇。
声を上げた二人を耳障りな羽音が襲い、鼓膜を破る激突音。
須賀二尉は訓練により強化された動体視力により、それを捉えることが出来た。
僅か十数メートルにまで迫っていたオブジェが、上空より飛来した光弾により撃ち落とされたその瞬間を。猛速度で直進していたオブジェが突然直角に近い角度で落ち、すぐ上をシューティングスターが音速で通過したのだ。コンマ五秒遅ければ確実に衝突していた、それくらいのタイミングだった。
「何だ!」
操縦桿を引き機体を大きく旋回させながら、須賀二尉は夜空と眼下を交互に見る。黒い海に向けきりもみするオブジェ、そして頭上には……。
「……と、鳥?」
星座の瞬く夜空に白々とした翼が翻っている。距離感がはっきりしない。
「やっぱり!」
と後部座席の勇が叫んだ。
「彼が助けてくれたのよ!」
「……彼?」
須賀二尉はうめいて目を凝らした。
「ほら!」
勇はキャノピーに指を突きつけた。
「あの黄金色の騎士よ!」
第二話後半~「銀河の光」
人がその生涯で体験できる様々な現象、その限界は果たして何処までだろうか。
例えば広さ。建造物も山脈も無い広大な平原は地平線を彼方に望み、そこには地球という惑星の丸さを実感させる景色が視界の右から左を横たわる。
高さ。最高峰はもはや人の住む世界とはいえず、酸素濃度も気圧も、生態系すら一変する神々の座。
深さ。怪物や宇宙人と呼ばれるものを探すのに最も適したその世界は、恵みの光の一切を寄せ付けず、あらゆる実体を闇に溶かし込んでは緩やかに流れる。
熱さ、冷たさ、明るさ、暗さ……。
そうやって考えてみると、人とは随分と狭い領域にその身を置いていることが解るものだ。
文明はその僅か一瞬の歴史過程において、あらゆる全てが永遠に退屈で変化の乏しいものだと嘆き、またそれとは逆に、ようやく築き上げた尊い平穏だと慈しみ安堵することもある。
だが、そのどれもが文字通り奇蹟に近いバランスで成り立っていることを知らなければならず、叶うのであれば、それを実感しなければならない。
舞い散る木の葉の軌跡に等しい、混沌としたバランスによって成り立つ現実。
それを理解した時、人は、自らが間違いなく人であることを知り、漸くにして別のものを語ることを許されるのであろう。
今、久作が体感しているものは、彼がそれまでの短い経験で培った価値観を尽く打ち砕くに充分であった。
久作は、人が決して到達し得ない〝速さ〟をその身を持って経験し、だからこそ、それまでの旅客ジェットや高速鉄道が大した技術であったのだと確認できたのだった。沈んだ太陽からのかすかな可視光は、街や海の様子を申し訳程度にしか照らさない。
だが、その消え入りそうな光と同じ速さで進むことで、久作の両目に映る光景、即ち、照り返しによる可視光はスペクトルの領域を大きく右に左にずらし、赤や青の強さを増したのだった。
久作の体が到達したのは正しく光の速さであり、彼は人でありながら、同時に一筋の光でもあった。
夢の続きは突然に訪れた。
オブジェの圧倒的質量によりひしゃげたシューティングスターの胴体から射出シートで放り出された十分の一秒後、久作の体を包んだ黄色い光は、エネルギー波であったその居場所を物質世界へと移し、光り輝く黄金色の鎧となって彼を時間の呪縛から解き放ったのだった。
宇宙の秩序から切り離された意識が、その身を惑星引力から同じく切り離すに充分な一対の翼を羽ばたかせると、久作の体は紅い夕日に翻った。
空中で静止した金属片の直中ただなかに方城一尉を見付け、彼の体が崩れないようにそっと抱え眼下の地上へと降ろすと、頭上で火球がきらめいた。のろまだった時の流れは、今や黄金色の騎士となった久作の意思により再び人間的なものとなり、直後、無数の破片が降り注いだ。
気を失っている方城の傍らで片膝を突いた久作は、改めてその鎧を見、そして夢の中の声を思い返した。
「守る力……これが?」
全身を覆う金属は、まるで皮膚のように感じられ、しかしその重さは一切感じられなかった。
表面の全てに対して感覚が行き渡っており、大気の温度も汐の香りも燻る煙も洩らさず捉えられ、生身であった頃が盲目だとすら思えた。
そして、その体は久作がこれまでに感じることが出来なかった様々をその意識に伝えていた。
それは地球の自転であり公転であり、太陽系の移動であり銀河系の速度であり、膨張する宇宙であり、そして、うねるような時間の流れであった。
ごうごうと押し寄せ決して塞き止めることの出来ない時が、重さを持った風のように耳元を吹き抜けて行く。
あらゆる全ては常に動き、休むこと無く変化し、圧倒的な速さの時の流れにおいて、消滅と誕生を永遠に繰り返すのだ。黄金色に輝くその体は、無情ともいえる時を実感として捉えることが出来る、研ぎ澄まされた瞳だった。
だが久作は、自分は神になった訳でも悪魔になった訳でもないことを、既に知っていた。
彼女は、彼方の天体〈ハイナイン・プラス〉は力を貸してくれたのだ。
それは正義でも悪でもなく、秩序でも混沌でもなく、そして創造でも破壊でもない、純粋な力そのものだった。
ハイナイン・プラスはそれを、守る為の力として久作に委ねたのだ。
だからこそ……。
「ありがとう……僕は守ってみせるよ。勇を、みんなを……そして、この地球を!」
久作は、銀河の光、ハイナイン・プラスとなって、再び空高くへと飛び立った。
空腹を訴える燃料計に舌打ちし、須賀二尉は着陸を勇に告げた。
「そんな! 最後まで見届けないと――」
「こっちが最後なんだよ、降りるから掴まって!」
云うが早いか機体は翻り、雲海に飛び込んだ。勇は大急ぎで観測装置を庇い、ついでに体も庇った。
機体がみしみしと悲鳴を上げて舞い、数秒後には雲海を抜けた。勇は途中、オブジェを求めて海をざっと探ったが、観測装置に映るのは落下跡である泡の塊ばかりだった。
無気味に広がる黒い海原を渡り、手近の海岸上空に息も絶え絶えで辿り着いたシューティングスターは、ぎくしゃくしながらも久方ぶりに地上に降り立った。
車輪が一つも出なかったので、それは着陸というよりは墜落に近かった。キャノピーが弾け飛び、コックピットから這い出した勇は急いで観測装置を海に向けた。
膝が震えるので立ってはいられず、すぐに腰を落とす。震えは足から徐々に登り、手と観測装置にまで伝わった。
「……沈んだ、のかしら?」
ピントを合わせる駆動音が手を伝わり、耳元をじーじーとくすぐる。
肉眼では黒にしか見えない様子、増幅された光をデジタル処理した視界では緑色の波がゆるゆると打ち寄せては消えて行くばかりで、それを見る限りでは先の壮絶な空中戦は夢か幻かと思えた。
だから、その緑色の波が大きく盛り上がり、ファインダー一杯にオブジェの大顎が映し出された時も、勇はそれがまるでテレビ番組か何か作り物めいたものに感じられたのだった。電子装置により加工されていることもその一因であったのかもしれない。
ともかく、背後で須賀二尉の疲弊した悲鳴が聞こえ、漸く勇はその様子に驚くことが出来た。
望遠映像を足元に転がし自らの両目でオブジェを捉えた勇は、その映像にまだズームアップが掛かっていることを一瞬不思議に思った。先に覗いた観測装置は大した倍率ではなく、眼前の光景、オブジェが間近だと気付くのにたっぷり一拍かけ、勇は下ろした腰を更に落として目を剥いた。距離は二百メートルもない。
見開かれた両目は色を失い、ぱくぱくと動く顎は悲鳴もうめきも発さず、
「何してんの! 逃げんのよ!」
須賀二尉の絶叫が消えそうな勇の意識を補った。脇をたくし上げられつつ、須賀二尉を見上げる。ヘルメットはとうに脱ぎ捨てられていた。
艶のある長い黒髪は闇夜に溶け、その下の細い顔が歪み、
「立ちなさい!」
再度彼女は叫んだ。力ずくで体を持ち上げられ、勇は再び海の方を振り返り、そして……オブジェの複眼と目が合った。
「ひっ!」
掠れた悲鳴が洩れ、勇は須賀二尉の腕にしがみついた。
と、海上から耳障りな音が響き、数十メートル上空にまでしぶきを上げ、オブジェがその巨大な翅と、大顎を開いた。
真っ暗な波の上で朧に光るオレンジ色の複眼に射すくめられた勇は、それが彼女に向けられた威嚇であることを直感した。
オブジェは、彼(彼女?)にとって埃ほどの大きさと存在感しかない勇に向け、狂暴なまでの敵意を顕わにしたのだ。その不可解で、また理不尽ともいえるオブジェの行動を、しかし勇はある一点においては理解した、殆ど瞬間的に。
「早くしなさい!」
須賀二尉に引きずられながら勇は囁く。その両目は海岸を向き、オブジェから一瞬も離れない。
「ほ……本能? 生存、闘争の……生物同士の本能、とでも?」
ここにきて勇は、あのオブジェというものの一端を垣間見た気がしたのだった。
その、憎悪とも呼べる矛先は勇にではなく、彼女を含む人類そのものと、その人類の住み暮らす地球に向けられたものだと感じ、それは既に起こった事実のある部分を確かに証明してもいた。しかし勇は、だからどうだというのだ、とも思った。
つまり、実験用のマウスに「君はこれから切り裂かれるのだよ」と知らせたところで、マウスは感謝もしなければ非難もしない、そういうことだろう。圧倒的に押し付けられる理屈には、意味も意義も不要なのだ。単にそうだという事実のみが存在する。
唐突に辺りが真昼の如き明るさとなり、二人はその眩しさで視界を塞がれた。
漂着したがらくたや木の実が砂浜に影を引き、ごう、と灼熱の大気が押し寄せる。
「ちくしょおぉ!」
須賀二尉が張り裂けんばかりに叫び、錆びた冷静さを取り戻した勇はそれに対し、まったくだと思った。
叩き付けた衝撃音は鼓膜ではなく全身を揺さぶり、だからその音が内側からなのか外側からなのかすら判断出来なかった。
直後に、勢い余って頬を削ぎ落とした平手打ち、そんな音がした。
おでこを砂に埋め光の直中に身を置いた勇は、すぐに襲うであろう熱に備え全身を強張らせる。
暫くして視覚が回復し、熱も痛みも感じなかった勇は、だからこそ既に天国か地獄なのだろうと思ったのだった。声を掛けられ、成る程これが天使か、いや、悪魔か? などと耳を澄ませる。
「……大丈夫か?」
須賀二尉の上に折り重なっていた勇は、須賀二尉ではない、そして勿論、勇のものでもないその声を聞き、砂から顔を上げて振り返った。
そこは天国でも地獄でもなく、星の瞬く夜の海岸であった。ついでに彼女に掛けられた声の主は天使でも悪魔でもなく、だがしかし勇を驚かせるものではあった。
先の轟音とは不釣り合いなほど柔らかな小波の囁きが辺りに満ちている。満天の夜空からは美しい星星が零れそうであった。
オブジェ、背筋を凍らせる憎悪は、立ちはだかる影により隠されていた。
「心配ない……後は任せろ」
その影は確かにそう云った。
シンセサイザーを思わせる不思議な響きを含んだ、それでも温かさを感じさせる、言葉だった。
ふわりと白い翼が舞い、尖った影はゆっくりと勇を向き、ほんの僅かだが首を傾げるような仕草をした。立ち込めていた雲が途切れ、弱い月光がその影を淡く照らした。
「あ! あなた!」
忘れる筈も無い。それはシューティングスターから見た、あの黄金色の騎士だった。
勇は、その日何度目なのかもう数えることも諦めた驚きに、疲れすら感じていた。目を剥き口をぽかんと開け、鳥肌を立たせ、わなわなと震える、それらは勇の意思とは無関係に行われた。
ざっと砂を刻み、黄金色の騎士は波打ち際に向けて進む。腰の抜けた勇は這うように地面を掻き毟り、二度三度と羽ばたく背中に向けて「あなたは?」と繰り返した。
勇の問い掛けに騎士はぴたりと止まり、再び振り返り、体と同じく黄金色に輝く菱形の瞳で勇を見詰めた。電光表示のようなその両目に勇は生物に似た、もっといえば、人にも似た意思をはっきりと感じた。
僅かな間を置き、集積回路の呟きを思わせるその声は、静かな鋭さを持ってこう云った。
「俺は、プラス。……ハイナイン・プラス」
夜気を巻き上げ、黄金色の騎士――ハイナイン・プラスは、ざわめく海原へと飛び去る。
「ハイナイン……プラス」
反芻するように呟く勇は、海上からの閃光と衝撃波で我に返った。
凝らした目、オブジェの巨大なシルエットの周囲を、長い軌跡を引く光がきりきりと舞い踊っている。
気絶した須賀二尉の傍らに放り出された観測装置を引っ手繰り、勇はファインダーを向けた。
落雷を思わせる大小様々な光がほとばしり、鉄琴を金槌で力一杯打ち付けたような打撃音が届く。オブジェの熱線が海を割り雲を焼き、その度に観測装置に緑色の焼き付きが起こった。ハイナイン・プラスの挙動はその余りの速度により全く捉えられず、焦点を据えたオブジェの前後左右上下を飛び交う光の筋であった。
光がオブジェに衝突するたびに目も眩む閃光が瞬き、遅れて金属音が響き渡る。右目をファインダーに押し付けた勇は声も無くその闘いを記録し続けた。
十数度目の衝撃波が海岸に到達した直後、数列の並ぶ光景の左上にハイナイン・プラスを捉えた。
空中で静止したハイナイン・プラス目掛けて白い熱線が発せられ、しかしそれは弾かれ、焼き付きと残光を残し夜空に消える。まるで逆回しにした流れ星のようだった。
優雅さをも備えた白い翼が、闇夜にあってくっきりと浮かび上がっている。勇は最大望遠でその姿を拡大し、ハイナイン・プラスが右腕を高々と上げるさまを見た。
月に向かって翳された拳、そこに小さな光がふわふわと集まってくる。
青白い光の粒子は後から後から現れてはゆっくりと漂い、吸い寄せられるように拳にとまって行く。十秒かそこらでその拳は青く輝く光球となり、その明るさは頭上に浮かぶ月をかき消すほどとなった。
勇はごくりと唾を飲み込み、身を乗り出した。
オブジェが翅を震わせ離水し、同時にハイナイン・プラスがその輝く拳を突き出す。
ガラス質のオブジェの羽音は海岸にまで響いた。勇は知らず観測装置のグリップを握り締め、奥歯をぎりぎりと噛み締める。僅かな両者の睨み合い、隠れていた月が再びその姿を現わし、オブジェはチキンレースさながらの猛突進を掛けた。
シューティングスターの加速をも上回るオブジェがハイナイン・プラスに迫る。一瞬後、青と黄色の混じった一条の光と化したハイナイン・プラスが、オブジェのその巨体を貫通、大顎部分から最後尾を一本の光が串刺しにしたのだった。
体表と光の破片を僅かに散らしたオブジェがぐらりと姿勢を崩し、勢いに任せそのまま海へと落下する。盛大なしぶきを上げ巨躯は暗い海原へと消え、後には城壁のような水柱が築かれた。
無数の焼き付きと残響はいつしか消え、呼応するように暗雲が散り散りになり、地上と海上を青く照らし出した。黒い水面が波の動きとは別に上下し、高さを増した波が幾つも海岸に迫り、棒立ちになった勇の足元を湿らせる。
「……終わった?」
全身を強張らせたまま石像と化していた勇は、かすれた呟きを重い溜め息と共に洩らし、ファインダーから顔を引き剥がす。極度の緊張がみるみる緩み、勇は疲れきった頭をがっくりとうなだれた。
直後、輝く波が勇を揺さぶった。
その閃光はそれまでで最も強く、超新星爆発を思わせる激しさで、摩耗した勇の意識を白々と照らし出した。黒かった海がえぐれ、盛り上がり、破裂した。水と光の粒子が四散し、それらは木っ端微塵に爆砕したオブジェの銀片と共に遥か成層圏を突き抜け、黒い宇宙空間に放り出された。
それが、地球と人類を有史以来初めて襲った脅威との、ひとまずの幕だった。
その身に宿した膨大なエネルギーを残らず爆発へと変えた銀塊――オブジェ・ゼロワンの消滅。
にもかかわらず地球と人類は、海水と大気以外に大した被害を受けず、だが、同じく無事であった勇はそれに関してはさほど驚かなかった。
何故なら勇は、眩んだ目ながら黄金色の騎士――ハイナイン・プラスと名乗る彼が、その超高密度エネルギー波に立ちはだかり、歪め、誘い、虚空へと放出するさまをはっきりと目撃したからである。
ついでに、ハイナイン・プラスが去り際にちらりと彼女を振り返る様子もまた、潤んだ目でしっかりと捉えたのだった……。
「――陸自の救難ヘリがそちらへ向かいました。ともかく、無事で何よりです」
露草のまくし立てるような言葉に勇は弱々しく頷き、無線だと思い出して生返事を返す。
人知を超えた戦闘の直後の海岸は、千年も前からそうであったように静かだった。砂地で膝を抱えた勇は、意識を失いつつも寝息を立てる須賀二尉の黒髪を軽く撫でていた。
寄せる波の音は心地良く、僅かに肌寒い風と共に勇のささくれた感情を優しく包んでいた。何もかもが突然に突きつけられ、そしてそれらが唐突に消えると、勇は孤独を思い知らされた。
「こんな奇麗な花嫁を残して……久作の、ばか」
涙は出ず、悲しみも悔しさもなかったが、勇は広い宇宙でただ一人になったかのような、激しい孤独に襲われていた。
絶望がそれでも救いだと思えるような、身も凍るような孤独だった。このままではぺしゃんこに押しつぶされる、勇は残った力を総動員して、無言の星空めがけて怒鳴り付ける。まるで孤独を振り払うように。
「……ばか、久作の、ばかぁー!」
「おいおい、そりゃあ、あんまりだって……」
驚きの余り首が千切れそうな勢いで振り返った勇は、文字通り飛び上がった。
勇の着ているものと同じフライトスーツに身を包んだ二人。一人は気絶しているらしくもう一方に肩を抱えられ、木偶のごときである。街明かりと月の光がシルエットをなぞり、よたよたと歩く二人が幻でも幽霊でもないことを親切に教えてくれた。
「……久作、なの?」
それが精一杯だった。
顎がかたかたと震え、視界が涙で歪み、
「ああ、無事、生還だよ」
と空いた左手を挙げるシルエットがぐにゃりとひしゃげた。先の叫びですっかり消え去ったはずの勇の力は、暖かく微笑む久作めがけて駆け寄り、その体をきつく抱きしめる程度には残っていたようである。
「……ば、ばかぁー!」
勇は握り締めた拳を久作の胸板に何度も打ち付け、それは陸自の救難ヘリが到着するまで続けられた……。
後に「ファースト・ガード」と呼ばれるその戦闘において、〈日本スペースガード協会〉改め〈日本スペースガード事業団〉の室蘭支部は、創立初期メンバーの全員を獲得したのだった。
自称腕利きの元航空自衛隊員の方城と須賀、二人のパイロット。
ほむら天文台の技術者を兼任することを条件に同事業団への協力を申し出た二人、加納勇と速河久作。
四人を束ねる役目は、旧協会の室蘭出張所代表だった露草が務めることとなった。
規模も装備も人員も、何もかもが圧倒的に不足し、それでも彼らは広い世界で最初の、そして暫くはただ一つの「地球を守る」組織であった。
その漠然とした理念は内外で様々な嘲笑と反感を産んだが、誰一人、露草すら知らない「六番目のメンバー」の秘める力は、〈日本スペースガード事業団〉を〈日本スペースガード事業団〉足らしめるに充分であった。
光の速さで現れて、光の如く戦う戦士。
その名は〈ハイナイン・プラス〉。
速河久作に降臨した〈光速勇者〉は、いついかなる時でも我々の窮地に駆け付け、そして力強くこう云うのだ。
「心配ない、後は任せろ」
第三章~毎週木曜日、将来の夢
「あらあら、真っ暗じゃないの。目、悪くなるわよ」
布地のトートバッグを胸元に抱え、息を切らした真理恵が階段脇の調光スイッチを叩くと、釣り下げられた白熱球が黄色く灯り、黄昏の居間は再び生気を取り戻した。
午後五時、太陽は完全に落ち、窓の外は深夜と見まごうほどに暗い。
シンク横の小さな作業テーブルに晩餐の主役達を並べながら、真理恵はソファに座る、彼女に背を向けた孝彰と彌子を肩越しにちらりと窺う。
「ミコちゃん、ご飯食べてく?」
テレビモニターの放つちかちかする輝きの為、ゆっくりと振り替える彌子が8ミリフィルム映像のように見えた。
「お肉がね、特売だったのよ。今夜は焼き肉――」
云いかけた真理恵の口が半開きのまま止まった。
「……ミコ、ちゃん?」
真理恵を振り返った彌子の顔は、涙と鼻水とでぐじゃぐじゃだった。べそをかいたその表情がしゃっくりにより派手に上下している。
唖然とした真理恵は僅かに震える手をソファの彌子におずおずと翳す。舌が凍り付き声は出ない。と、狼狽する真理恵を焦点の定まらない目で見詰めていた彌子が口を開いた。
「ふぇ? やぎにぐ?」
途端に高笑いが響いた。
彌子の隣で俯いていた孝彰が腹をよじってソファに倒れ込み、足をばたつかせた。
「タク! 何なの? 何が……」
真理恵は床に転げ落ちた孝彰に半ば怒鳴り付けるように云い、傍らに滑り込んだ。
乱れた呼吸がどうにか落ち着いた頃、孝彰は目尻に彌子とは違う意味の涙を浮かべながら説明した。
「ミコったらさぁ、〝感激して〟泣き出すんだもん! 可笑しくて可笑しくて――」
語尾は又もや笑いに取って代わり、真理恵は目を丸くして彌子を眺めた。瞼を腫らし顎を鷲掴みにした彌子は、鳴咽を挟みながら、
「だってさ、あんなにも……熱いもんだから……」
真理恵は極度の眩暈により、とうとう突っ伏してしまった。
「今時の国内特撮がこんなに凝った作りになってるなんて! ちっくしょー! 感情移入バリバリで……うぐっ!」
真理恵の控えめな勧めと孝彰の粘りに応え、外せない野暮用を二時間ほどずらすことに成功した彌子は、木卓の三分の一を占める電熱プレートと、その上で徐々に御馳走へと姿を変える特売牛肉を、プレートにも負けないほどの熱い視線で見詰めている。
立ち昇る白い煙が、開け放たれた網戸へとゆるゆると流れる。
佐原邸の主である孝一は毎度毎度の出張の為、八人掛けの木卓は真理恵、孝彰、そして彌子、三人の貸し切りだった。
程良く焼けた肉を返しながら真理恵は、その挙動に食い入られている彌子に、
「孝一さんがね、よろしく云っといてくれって」
油のはぜる音越しに云った。
「え? ああ、うん……ねぇ……」
「まだよ」
行動を制された彌子は下唇をとがらせて「生でもいいんだけどな」と真理恵には聞こえない様に洩らす。彌子の隣に座る孝彰の表情は、先刻からずっと綻んでいた。
それは彌子の、目の前での言動に対するものであると同時に、彼の和んだ心情の表われでもあった。
ここ半年、佐原邸の食卓は、孝彰と真理恵の二人きりであることが多かった。
激務をこなす孝一はそれなりの埋め合わせを充分すぎるほどしていたので、孝彰が父親に対して不満を抱くことはなかったし、真理恵もまたそれを理解していた。
しかし、父親の努力やそれを補う母親の気遣いに幼いながら感謝していても、食卓が二人っきりであることは変わらず、孝彰の欠片ほどの寂しさは日々、僅かずつではあるが増していた。間近に控えた高校受験への漠然とした脅えがまた、それを助長していたのかもしれない。
神和彌子の突然の来訪は孝彰にとって、そうした様々を木っ端微塵に砕くほどの力があったのだ。
彼女の掴み所の無い奇妙さ、ガラス細工のような行動原理、間の抜けた理屈。数年振りの今もそれらは変わらず、それどころか更に磨きが掛かっていた。
彌子と最後に会った日、「またな」と彌子が云いに来た日、孝彰は彼女が自分より年上なのだと改めて知って驚いたのだが、数年後の今、孝彰は彌子と自分の年齢差が縮んだような錯覚にとらわれた。
遊び以外での知人やさまざまな種類の教師との出会いは、孝彰を年月の分だけ成長させ、彼はそれを自覚していた。
それなのに彌子ときたら、あの時と全く変わっていない、まるで子供のままなのだ。
真理恵のお許しが出て、一心に牛肉を口に運ぶ彌子。
あともう数年もしたら、自分は彌子を追い越してしまうのではないだろうか、孝彰はそんなことをぼんやりと考えながら、細めた目でもぐもぐとやっている彌子を眺めていた。
「ミコが中学の時って」
食事と談笑を終え、真理恵が流しに立ってから、孝彰はそう切り出した。
「ふむ」
「何になりたかった?」
満腹の幸福感により目元の垂れ下がった彌子は首を僅かに傾げる。
「何って、つまり?」
孝彰は流しの真理恵をちらりと覗き、鼻の頭をいじった。
「将来とか、そういうの」
口元に笑みを、眉間に皺を寄せ彌子は、顎を引き「さあね、忘れたよ」と囁くように云い、それを聞いた孝彰は何度も小さく頷いた。
真理恵の鼻歌と水のはねる音がソファの二人の間に漂う沈黙を渡る。
孝彰の視線はウーファーに座る兎と音を消したテレビモニターを行ったり来たりしてから膝の上に戻り、暫くしてまた兎を追った。微かに届く真理恵の歌声はどうやら『どんぐりころころ』らしかった。
「勉強、好きだった?」
俯いたままだったので、その声は随分と弱々しく聞こえた。彌子は孝彰が顔を向けるまで待ってから、
「好きなのもあったし、嫌いなのもあったよ」
と云って目を細めて微笑んだ。
つられて表情を和らげた孝彰に彌子は「タクの必殺技はなんだ?」と軍人のような横暴さを真似て云い、首を傾げて言葉を促した。孝彰は一瞬たじろいだが、質問の主旨を掴んだので、
「地理。でも僕より上は沢山いるんだ」
と返し、ほんの少し間を置いてから「得意科目、何もないんだ」ともらし、力無く笑う。
不意に彌子は、両腕を上げ万歳をしてソファに荒々しく仰け反り、盛大に伸びをした。間延びした呻き声を上げ首や肩を揉み解すと、油の撥ねた胸元で腕を組み「そっか」と木卓に向けて囁く。
「んで? 何にするつもりなの? 賢いおねいさんに聞かせてみな」
垣間見た、白熱灯を映し出す見開かれた黒い瞳に、孝彰は思わず息を呑んだ。
その瞬間、彌子の両目がこの上なく神秘的に見えたのだった。だがそのまた一瞬後には、やはり元の、大きめで愛敬のある、それでもごく当たり前の瞳に戻っていた。
溜め息を無理矢理押し殺した孝彰は、垂らした前髪を無意識にかき上げ「何って?」と、僅かに裏返った声で云った。
一つ笑みを浮かべ彌子が云いかけた時、真理恵が、
「ミコちゃん、お時間はいいのかしら?」
と良く通る声で流しから呼びかけた。
虚を衝かれた彌子はビデオデッキのデジタル表示を素早く読み、ごくりとつばを飲み込んでから「いかぁん!」と怒鳴った。
風切る勢いですっくと立ち上がり、
「今日のところはこの辺で失礼するぜ!」
「あらあら、そおなの? また、いらっしゃいな」
顔だけ突き出した真理恵が心底残念そうに云った。
彌子は突き立てた親指を真理恵に翳し、ソファで呆けている孝彰に投げキッスを放ってから「アディオス!」と云い残して、狭い階段へと身を翻した。
どたどたと足音が響き、すぐさま静かになり、またどたどたと鳴り、今消えたばかりの彌子が再び階段室から顔をぴょこりと出した。
「御馳走様でした、またヨロシク!」
どたどた、がちゃり、ばたん。
余りの騒々しさに孝彰と真理恵は顔を見合わせ、そして吹き出したのだった。
第四章~親の心、子知らず この心、親知らず
白地のカーテンを小さく揺らめかせる冷たい風が頬に心地良かった。
うっすらと雲を纏う半月が道路向かいの公園に並ぶ街灯の上に浮び、小さな羽虫がぶんぶんと唸りを上げている。
父親から譲り受けたダークブラウンの重役風机に肘を突いて固まった孝彰は、太い赤マジックでマルペケの書かれたカレンダーを尖った視線で睨み付けていた。
顎の下に置いた、二時間前から放り出されたままの参考書をちらりと見て、孝彰は小さな欠伸を噛み殺した。
三色刷りのそっけない酒屋のカレンダー。
平野にずらりと居並ぶペケ印軍は、マル陣営まであと七マスに迫り、戦場を漂う一触即発の緊張が孝彰を苛立たせていた。
三日前、気分転換を兼ねた散歩の果てに立ち寄った近所のコンビニエンスストアで、胴長で色白のクラスメイトに久しぶりに会った。
歩道の植え込みに腰掛け、スナック菓子を齧りつつ彼は云った。
「なんて馬鹿馬鹿しいんだろうって思うけどさ、でも、やるしかないんだよな。将来の為だってみんな云うけど、将来何になりたいかなんてまだ解る訳ないってのに。でもさ、やっぱりやるしかない……なんて酷い話なんだ? ホント」
ぼりぼり、ばりばり。
「最近さ、夢に出てくるんだ、親とか先生とかが。みんな凄い顔して俺を追いかけてくるんだ。逃げて逃げて、とうとう崖っぷちに追いつめられて……そこでいつも目が醒めるんだ。汗びっしょりでさ。俺、逃げ出しちゃうかもなぁ。タクだってそうだろ?」
放物線を描き屑篭の淵で跳ねた、けばけばのビニール包装を見詰め、同じ苦境を味わう者の言葉には、他には無い真実味がある、孝彰はおぼろげながらそう思った。足りない部分、語られていない部分を自分の側で補うことができ、それこそが連帯感と呼ばれるものかもしれない。
逆を云えば、大人達の科白をその意味以下にしか捉えられないのは、やはりどこか他人事めいたものを感じるからだろう。
誰も彼も昔話でも語るみたいな遠い目で、孝彰にとっての今、この瞬間を切り取ろうとするのだ。だから平気で、
「今は辛くても、将来の為には我慢しなさい」
などと云えるのだろう。
明るい将来? それは結構だが、じゃあ今のこの辛さは一体どうしたらいい?
当然誰もそんな難解な問いに対する答えなど持ち合わせていなかった……現時点では。
結局、胴長で色白のクラスメイトは逃げ出すことを諦めたらしく、孝彰と別れて塾へと向かったのだった。
頬を膨らませ息を吐き出し、孝彰は椅子をくるりと半回転させ立ち上がり、そのままベッドにダイビングした。
と、こつこつと扉を叩く音が聞こえレバーハンドルが静かに下り、パジャマ姿の真理恵がおずおずと顔を覗かせた。
トマトのような鮮やかな赤のパジャマと、猫の頭を象ったぬいぐるみスリッパ。黒猫の顔は少しだけ内股方向に歪んで、笑っているようにも困っているようにも見える。
「調子、どお? ジュースでも持ってくる?」
風呂上がりなのか、下ろした髪が艶やかに光っている。真理恵にしては普段に比べ随分と遅い入浴だった。
「いや、いいよ」
天井を見上げたまま孝彰は首を振り、そっと体を起こした。
「そう?」
唇の端を上げ微笑んだ真理恵は、開けた時とおなじくゆっくりと扉を戻す。
居間の白熱灯が細い筋となって消える直前、孝彰は「ねぇ」と声を掛けベッドの端に足を下ろし、扉に、真理恵に向き直った。消え掛けた明かりが戻り、
「どうかした?」
真理恵が今度は、両の目だけを覗かせて云った。
「あんまり云わないね、勉強しなさい、って。どうして?」
「……やっぱり、云った方がいいのかしら?」
目尻に皺を寄せた真理恵は表情を大袈裟に崩し、舌をちらりと覗かせた。
「友達とかはいつも云われてるみたいだから、何でだろうって思って」
つられて孝彰も笑顔を浮かべたが、それは取って付けたようで真理恵ほど自然ではなく、それに気付いて、照れ臭そうにこめかみを掻き鼻をすすった。
首を小さく傾げ、孝彰は答えを暗に促す。
真理恵は「うーん」と低く唸ってから、もう少しだけ扉を開き上半身を覗かせた。
「応援はしてるのよ。でもね、何て云うか、やっぱりタクのことだから、かなぁ」
二匹の黒猫は部屋に二歩進み、扉脇にある漫画と文庫本と参考書の並んだ本棚に体をもたせ掛ける。
本棚の比率は三・二・一といったところで、秒読みのようである。ただ、孝彰の名誉の為に補足しておくと、参考書の大半は机やその傍らにあり、それらを加えるとその比率は、もう少しくらいは変わる。
「でも、そう云えば私が――」
真理恵は自分のことをいつも「私」と云っていた。
「――私がタクくらいの頃、受験生の頃はね、いっつも勉強勉強ってうるさかったわね。だからかしら? とっても嫌だったから。……何も教えてあげられないけど、でもやっぱり応援くらいはするわよ?」
くすっと笑みを洩らし、しかし視線は一直線に孝彰の目に向かい、捉えて離さなかった。
その答えは孝彰にとって難解だった。
納得したようなしていないような、自分でも良く解らなかったが二度三度頷き「うん」と返した。
「じゃあ、頑張ってね」
最後に今迄とは質の異なる笑みを残し、真理恵は居間へと戻った。暫くして扉の隙間を照らす明かりが消え、真理恵が一階の寝室に降りる足音が微かに聞き取れた。
再びベッドに仰向けになり、時間にして数分のそのやり取りを、孝彰は三倍ほどの手間を掛けて反芻した。
放物線を描くスナック菓子の梱包が脳裏をかすめ、胴長で色白のクラスメイトの科白が反響する。
ぴっ、とデジタル時計が鳴り、日付が変わったことを知らせた。孝彰は頭をぶんぶんと振ってから勢いを付けて起き上がり、そのまま床に足を慎重に降ろして立ち上がった。
大きな深呼吸と伸び。
「うん!」
胸の前で両手に拳を作り、孝彰はカレンダーを一目見てから椅子に掛け、彼を嘲笑う参考書に立ち向かうべくシャープペンシルを握った。こちらを窺う軍勢を、孝彰は不敵な笑みで睨み返す、攻撃開始。
シャープペンシルは剣よりは弱くとも、孝彰にとっては唯一の武器である。
その孤独な闘いは、明るい将来の為ではなく、今、この瞬間の彼にとっての独立戦争なのだった。
孝彰はそれから数年後に気付くことになる。
真理恵や父親の孝一は、彼を自らの息子である前に、個人として、一人の人格として最大限に尊重していたのだと。
しかし、幼い今の孝彰に理解を求めるのは酷かもしれない。
親としての責任や真心と照らし合わせてみて、それが誉められたことかどうかはケース・バイ・ケースだが、少なくとも彼ら親子にとっては正しかったことを、同じく数年後の、幼さや未熟さを幾らか乗り越えた孝彰が証明してみせた。
その晩の真理恵に僅かながら落ち度があるとするなら、彼女は孝彰が求めていたものを見落とした、そのことだろう。
何が解らないのか、それすら解らない幼い彼がその時求めていたのは、もっと明確な、形のある道標だったのだ。
何故そうするのか、しなければならないのかをもっと優しく示して欲しかったが、それすら自覚できない孝彰からその問い掛けは出ず、しかし漠然とした不安や恐れだけは感じることが出来る。
その、全てを押しつぶす程の垂れ込める暗闇を脱するには、シャープペンシルは余りに非力だった。
憂鬱を払うには援軍による暖かい応援以外に、ちょっとした助けが必要となる。そう、ほんの小さな光が……。
第五章~応援してるぜ!
鼓動が耳を打ち鳴らす。息が切れ、足の感覚はとっくの昔に麻痺し、ただ同じ動作をひたすら繰り返していた。
右左右左右左……走って走って、そしてまた走る。
頭髪の根元から際限無く汗が流れ落ち、目といわず口といわずその味を噛み締めていた。
ここは何処だろう?
見たことも無い風景が延々と続く。
足元は湿った地面。所々に下草が生え、未舗装路の両脇はくすんだ色の巨木が等間隔に並んでいる。生い茂った木々はまるで壁のようにそびえ、道の外側の様子を隔てている。
土くれのその道は一直線に地平線へと伸び、端は霞んで見えない。
急げ!
本能がまくし立てる。
そう、急がなければ、追いつかれてしまう。追いつかれたが最後……。
気を抜いた為か、ぬかるみに足を取られ、そのまま前進しようとする上半身だけがフライングし、派手な音を立てて地面に倒れ込んだ。泥水が盛大に跳ね散る。受け身も取れずに右肩をまともに打ち付けたが、その痛みは恐怖により瞬間に吹き飛んだ。
まずい!
大地を掻き毟るようにして這いずり、少しでも先へ進もうと、少しでも遠ざかろうと爪を突き立てる。体が鉛のように重かった。
「おい、待てよ……なんで逃げるんだ?」
その声は、頭上から浴びせられた。
先回りされた!
頭髪が逆立ち、食い縛った歯がかたかたと鳴り出した。ざっと土をめくり、くすんだスニーカの爪先が視界に飛び込んできた。硬直した筋肉がみしみしと音を立て、顎が少しずつ上がる。意思に反し首がもたげられ、その人物を捉えようとする……極限に達した恐怖がそうさせるのだ。
ばりばり、ぼりぼり。
胴長で色白のクラスメイトだ。スナック菓子を頬張り、
「自分だけ逃げようだなんて」
灰色の瞳がぎらりと光る。
「でも無駄さ。逃げ切れる訳がないのさ、ほら、見てみな」
平たい顎をしゃくって後ろを示す。
「残念だったな」
乾いた高笑いが響き渡り、それが消え入らぬうちに別の、複数の足音が迫り、そしてやんだ。
ぎしぎしと振り返ると、そこには――
「――タクぅ、電話よ」
どかどかと扉が震え、真理恵のくぐもった呼び掛けが届いた。
カーテンの隙間から顔に強い日差しが当たり、頬が生暖かかった。
重たい瞼を開け、孝彰の目に飛び込んできたのは、こうこうと照らされる参考書の背表紙だった。汗だくの体を起こそうとして、腰と肩に激しい痛みを感じた。机についたまま寝入ったらしい。痛まぬように慎重に首をもたげると、ぽきりと関節が鳴った。
「タク、寝てるの?」
再びどかどか。
「今……起きた」
喉がかさかさで声は低く掠れていた。夢の余韻、残留する感覚、恐怖、それらが舌の上でねっとりとした感触を生む。
「電話? 誰?」
漸く立ち上がり、全身をゆっくりと揉み解す。扉が開き真理恵が顔を突き出した。既に薄い化粧を済ませており、あちらはすっかり活動時間に入っているようだった。
「ミコちゃんよ、はい」
そう云って真理恵が電話の子機を振ってみせた。
足を引きずるようにして戸口に向かい、真理恵から子機を受け取って、天窓から注ぐ直射光で明るすぎる居間へと進んだ。
眩しさに目頭が僅かに痛んだ。
テーブルを大きく迂回し、亀の歩みでソファに辿り着き、崩れ落ちるように座り込んでから保留ボタンを押し、耳を押しつける。
「もしもし――」
「コッケコッコォォ!」
子機がいきなりそう叫び、孝彰は反射的に受話器を耳から遠ざけた。
「……お目醒めかい? タク」
「ミコ? ……うん、おはよう」
テレビ横の置き時計をちらりと見る。十時五分。
「ねぇタク、今日、ちょこっと外出できないか?」
彌子の弾んだ声が虚ろな意識に容赦無くこだまする。
「あたしさぁ、明日帰るからさ、その前に――」
「え! そうなの?」
「ええ、そうなの。んでさ、その前にランチでも御馳走してやろうじゃあないかという、心優しきこのあたし。うむ、立派立派! さあ誉めろ、やれ誉めろ、そら来い!」
ごきりと肩を鳴らし、孝彰は受話器を右耳に置き換えた。
「やった! 何食べるの? ハンバーガーじゃ、やだよ」
子機から、ほほほ、と間抜けな笑いが起こる。
「働くお姉さんをなめてもらちゃあ、こまるぜ?」
真理恵が寄ってきてテーブルにフルーツジュースを置き、にこりと微笑んで再び台所へ消える。
「フランス料理? イタリア料理? キャビア? フォアグラ?」
孝彰は思いついた高級料理を次々と列挙してみせた。ふいに沈黙が訪れる。
「……タク、知ってるか? 日本にある外国料理店には輸入規制があって、政治家と歌手以外は入れないんだ。それにキャビアは十八歳未満は食べちゃあいけないって法律が去年出来て、そんでもってフォアグラはね、日本人が食べると痙攣を起こして泡吹いて死んじゃうって、もっぱらの噂だぜ」
「そ、そうなの?」
「いや、嘘だけど……」
そして、孝彰と受話器向こうの彌子は同時に大笑いしたのだった。
たっぷり一分後、笑いの収まった彌子が息も絶え絶えといった様子で、
「スパゲティでどお? 喫茶店みたくじゃあない、そこそこいける店知ってるから」
と提案した。
「うん、何処に何時?」
口にしたフルーツジュースはきんきんに冷えており、額の裏がみしりと痛んだ。
「その店、駅前だから、ロータリー前に十一時半。どお? 出れるかい?」
「うん解った、それじゃあ……」
「おう、それじゃあな」
彌子が受話器を置くのを待ち、孝彰は電話を切った。先程の大笑いのなごりを頬に浮かべ、孝彰はグラスの残りを一気に呷った。
少し時間があるが身支度を先に済ませておこうと自室へ向かう。台所に据え付けた作業テーブルに座る真理恵が「キャビアって?」と、読みかけの雑誌から目を離さずに云う。
大人びた顔つきで微笑んだ孝彰は「十八歳になったら食べさせてよ」と云ってから居間を出た。
一間間口の押し入れに渡されたパイプハンガー。そこに吊るされた数少なのシャツやコートは、どれも余りぱっとしないように思えた。
背伸びしたクラスメイト達に比べて流行や着飾ることに興味の薄い孝彰は、その時ばかりはそれをちょっとだけ悔やんだ。
今の高揚した気分は清潔で落ち着いた、それでいて品のある、そんな服装を求めていたが、孝彰の目に映るどれもこれも安手のファッション雑誌を飾る張りぼてにしか見えなかった。とはいえそれらを選んだのは孝彰自身に他ならないのだが。
ぱっと閃き、孝彰は部屋を出た。
半ば駆け出し台所の真理恵に取り付き、
「ねぇ、あのシャツどこだっけ? ほら、灰色のあれ」
早口でそうまくし立てた。
「灰色? ああ、孝一さんが誕生日に買ってくれたやつ?」
「うん。どこに入れたの?」
雑誌を閉じ、真理恵は上目遣いで思案してから、
「えっと、確かクリーニングに出して……タクの部屋にないんだったら多分、孝一さんのスーツと一緒に――」
「父さんの部屋だね? ありがとう!」
真理恵が云い終わるころには孝彰は姿を消していた。
「……デート、かしら?」
玄関から一直線に続く薄暗い廊下の突き当たり、納戸の向かいにある孝一の部屋は彼の書斎と仕事場を兼ねており、孝彰は数えるほどしか足を踏み入れたことが無かった。
別に立ち入り禁止ではないのだが、その重々しい雰囲気は孝彰にとって余り居心地の良いものではなく、辞書でもなんでも遠慮せず使いなさいという孝一の言葉にも関わらず、自然に足が遠のいていたのだった。
そっとレバーに手を掛け、慎重に扉を開ける。鍵はもともと付いていない。出張により主不在の書斎兼仕事場は、閉ざされた雨戸により真っ暗だった。
廊下の明かりを頼りに壁のスイッチを探り当て照明を灯すと、居間や孝彰の部屋とは違う白々とした蛍光燈がちかちかと瞬いて、書斎を人工色に浮き立たせた。日射量こそ違うが、窓や扉の位置、広さも間取りも自分の部屋と全く同じ筈なのに、書斎はまるで別世界のように見えた。
壁に沿ってずらりと並んだ背の高い木製本棚、両手を広げて余りある巨大な机と肘掛けの付いた黒皮椅子、仕事で使う半畳ほどもある製図台と用途不明の様々な文具類、仕事兼趣味用の小さなパソコンとその脇の様々な周辺機器。
整然としたそれらを引き締める、扉向かいの壁に掛かった額入りの複製絵画は、美術の教科書で見たことのあるものだった。孝彰は暫しその光景に見入っていた。
いつも唇の端を緩め、ひょうひょうとしている父親の別の面がそこに覗いた気がしたのだった。
書斎に入るのは初めてではない。だが、以前はそんなことを思いもしなかった。
本棚の半分には仕事以外のものも混じった専門書と様々な種類の辞典が分類毎に整列し、残りの部分はハードカバー小説と文庫本が詰まっている。書斎の印象はその本棚によるところが大きかった。
本棚は部屋の顔である、以前そうテレビが云っていた。孝彰はその陳腐な科白を実感したのだった。
はっとして、目的を思い出した孝彰は書斎にずんずんと分け入り、自分の部屋と同じくパイプハンガーの渡された押し入れに近付き、重い折れ戸をこじ開けた。かすかに防虫剤の匂いのするそこには孝一のスーツとワイシャツがずらりと並んでいた。紺、黒、灰色といった寒色系のスーツがまるで眠っているようだ。
先刻、孝彰が無い知識をもって描いた、落ち着いて品のある服がそこにあった。パイプハンガーの端に普段着の、幾らか鮮やかなシャツが数枚下がっており、孝彰の目当てのものはそこにあった。
他のものに比べて丈も袖も短いグレーのコットンシャツ、孝彰の服だ。緊張した面持ちでシャツをハンガーごと手にし、折れ戸を閉じ、もう一度書斎を見渡してから、孝彰はそこを後にした。
階段を昇り部屋に向かう途中で、作業テーブルの真理恵が「あったの?」と声を掛けたので、孝彰はシャツを掲げて頷いた。
ハンガーを放り、ベッドの上に皺が出来ない様に丁寧にシャツを広げる。
隙間だらけの押し入れから黒染めのジーンズと、シャツと同じような色の靴下を取り出し、それらをベッドの上のシャツと並べ、服を着たまま寝そべった透明人間を作ってみた。
孝彰は腕を組み、仰向け姿勢の透明人間を上から順に眺め「まあいいか」とへの字に曲げた口で呟く。
ちらりと見た壁掛け時計の針は十時四十分を示していた。まだ随分と時間がある。暫し悩み、孝彰は再び部屋を出た。
「他にも何か探し物?」
何やらどたばたとしている孝彰に真理恵が尋ねると、孝彰は振り返った肩越しに「シャワー浴びてくる」と云ってから、ぱたぱたと駆け下りて行った。その様子に真理恵は、ほう、と目をぱちくりさせる。
「あらあら、そんなにはしゃいじゃあ、ねぇ……」
浴室を出て髪を乾かし、ぱりっとした灰色のシャツに袖を通すと、既に十一時を回っていた。
駅前ロータリーまでは歩いて十分といったところ。自転車なら五分だが徒歩の方が動き易いに違いない。少し早いが遅れるよりは良いと判断し、孝彰は台所で雑誌に夢中の真理恵に、これから出掛ける、昼はいらないと云いに行った。
「あんまり遅くなっちゃ駄目よ?」
孝彰を見送ろうと、真理恵も作業テーブルから立つ。
黒のスポーツバッグを引っ手繰り、階段を降り、薄暗い廊下を抜け玄関に辿り着いてから、孝彰は「あ!」と思わず声を上げた。靴のことをすっかり失念していたのだ。
靴箱には白いロゴマークの縫い付けられた濃紺スニーカが一足、それだけだった。遅れて降りてきた真理恵は、振り返る孝彰の悲壮な顔付きに驚き「何? 忘れ物?」と丸い目で尋ねた。孝彰はスニーカと真理恵の顔を交互に見詰め「靴が……」とだけ洩らすと、がっくりとうなだれた。
同じくスニーカをちらりと見て、真理恵は「ははぁ、成る程」と聞こえない様に囁いた。
どうにか色味を統一した服装に対し、その濃紺のスニーカ、特に白いロゴマークは確かにちぐはぐだった。
孝彰の意を察した真理恵は上目遣いで思案し、すぐに掌を拳でぽんと叩いた。孝彰の心配そうな視線を背中に浴びながら、真理恵は靴箱をがさがさと漁り、奥から埃を被った箱を取り出した。ふっと息を吹きかけ埃を払い、箱から一足の革靴を取り出して、
「これ、どうかしら?」
と掲げてみせる。
それは、くたびれて所々白くひび割れた黒のウィングチップだった。
「……父さんのじゃ大きいよ」
「これは大丈夫よ。ほら、履いてみて」
真理恵はそう云って革靴を玄関タイルの上に奇麗に並べた。右の靴紐を解き孝彰はおずおずと足を入れ、そして呟いた。
「……ぴったりだ」
振り向く表情は喜び以前に、驚きで満たされていた。その目が「どうして?」と訴える。えくぼを作った真理恵は屈んで目の高さを孝彰に合わせる。
「それね、孝一さんがタクくらいの頃にご両親から買ってもらったものなんだって」
下がった目尻に小さな皺が寄る。
「卒業祝い、あれ? 入学祝いだったかしら? 流石に今じゃ小さくて履けないけど、それでも大切なものだからって、ずっと持ってたのよ。ちょっと汚れてるけど磨けばすぐにぴかぴかになるわよ。いくらか大きかったり小さかったりするかと思ったけど、良かったわね。さ、磨いてあげるから脱いで」
「いいの?」
「あら、自分で磨く?」
「じゃなくてさ、大切なんじゃないの? これ」
瞬きを数回、孝彰は足を抜いた革靴を見る。真理恵はふふふと洩らしてから「タクなら、ね」と優しく云い、ウインクをしてみせた。
ブラシで埃を払い、ミンクオイルと真っ黒な靴墨で丁寧に磨かれた革靴は、真理恵の云った通りぴかぴかになった。
柔らかな革は二十数年分の含蓄と風合いを醸しており、孝彰にはその革靴が山深くに篭る仙人のように見えたのだった。翼飾りは細めた目といったところか。革靴に両足を入れ紐を緩めに結び、孝彰は立ち上がってから「どう?」と照れ臭そうに云った。
両手を腰に当てた真理恵は「ばっちり、決まってるわよ」と一つ頷いた。
「行ってきます!」
スポーツバッグを肩に下げ、弾んだ声を残し、孝彰は駆け出していった。
「頑張ってねぇ」
がちゃりと両開き扉が閉まった。ポーチを抜けた孝彰は、僅かに聞き取れた真理恵の科白に、しばらく首を捻っていた。
慣れないこともあり最初はむず痒かった革靴も、角を折れ駅前ロータリーが見えた頃には足にすっかり馴染んでいた。
道すがら何度も立ち止まり、浮かせた革靴をしげしげと眺めていたので、既に定刻二分前だった。
タクシーが一台だけ止まっている駅前の裏手。
皆、大きな店舗ビルの立ち並ぶ駅の反対側へ向かうので、ロータリー側はいつも通り閑散としていた。取り残された風に錆びれたアーケードの人通りもやはりまばらで、ちらほら見えるのは老人と親子連ればかりだった。
そんな辺りを見廻し、行き付けの小さな文具店前の煉瓦の植え込みに、腰掛ける彌子を見付けた。孝彰は小走りで駆け出し、
「ミコ!」
呼びかけた。五歩まで迫ったところで彌子が手にした文庫本から顔を上げた。
「ちゃお」
閉じたピースマークを眉に当て敬礼をする。
「うん」
孝彰は腰高に手を挙げそれに応えた。
今日の彌子の装いは、真っ黒なロゴがプリントされた鮮やかなオレンジ色のフードパーカー。淡いベージュの、膝丈のショートパンツで、足元はごつごつしたバスケットシューズといったものだった。
プリントロゴ(『HTS』とあるが、意味は分からない)と同じく黒いベースボールキャップを目深に被り、こちらには『NASA』と赤い刺繍で綴られている。ボーイッシュというよりは子供っぽく、全く女性らしくないところがいかにも彌子らしい、そんな印象は今に始まったことではない。
「おり? なんか今日のタクってば……」
植え込みから立ち上がり尻を叩いてから、彌子は孝彰の頭のてっぺんから爪先までを眺める。出掛ける間際のどたばたを思い返し、孝彰はどきどきしながら彌子の次の言葉を待った。ぱりぱりの灰色シャツの袖をそっと窺う。
彌子は眉を上下に動かし腕を組み、一呼吸置いてから、
「……カッコイイじゃん」
ぽつりとそう云った。
彌子らしいひねりや肩すかしを想定していた孝彰は、その余りにストレートな表現に頬を真っ赤に火照らせ、目を泳がせてしまった。あの、と云ったきり言葉が詰まる。
フードパーカーのポケットに文庫本と両手を突っ込んだ彌子は、一歩前に出て笑顔を作り「良く似合ってるよ、悪くない」と、とどめを刺した。もう、ただひたすら指先をもじもじさせる孝彰であった。
「さ! お腹と背中が融着しちゃう前に、ランチとしゃれこもうじゃないか、ナイスガイ」
孝彰の灰色の肩をぽんと叩き、彌子はアーケード方向に向け歩き出す。
「うん」
声が裏返り、頬の赤さが更に増した。
彌子の後に続きアーケードにひしめく古めかしい店々を通り過ぎる。
アーケードのちょうど中ほどに狭い階段があり、それを昇ったところにそのスパゲティ店はあった。
六脚ほどのカウンターと四人掛けのテーブル席が三組、狭い店内にはそれで精一杯だった。孝彰の知るどの店と比べても、その店内は昼だというのに随分と薄暗かった。
カウンターとテーブルにそれぞれ、スポット照明の暖かいオレンジ色が燈っている。
レジスターの所に立つ、つんと取り澄ました男性店員に「予約しといた神和です」と彌子が押し殺した声色で云うと、後ろで髪を結んだその若い店員は「承っております。ご案内いたします」とやはり押し殺した声で応え、レジスターの前に滑るように歩き出て、そのまま一番奥のテーブル席へと二人を先導した。
孝彰は定まらない視線を巡らせつつ、おぼつかない足取りで男性店員と彌子の後に続く。
右手と右足が同時に出そうになる。
二人の椅子を引いて、絶妙のタイミングでまた戻し、店員はメニューを置いていった。
割肌の石貼り壁の店内に他の客はなく、微かなBGMがふわふわと漂っている。バイオリンやらチェロ、クラシックとだけどうにか解る。
一言でいえば、その店は上品だった。
店の雰囲気に対する孝彰のぎこちなさは、午前中に孝一の書斎で味わったものと似ていた。きょろきょろと目だけを動かし辺りを窺う孝彰に、彌子がトーンを落とした声を掛ける。
「あたしはミートスパゲティ、最近食べた覚えが無くてね。タクは何にする?」
「え? うん、えっと……」
云われて始めてメニューに目を落とすが、そこには余り聞きなれない種類の、恐らくスパゲティであろう品々が並んでいた。解ったのは彌子の云ったミートスパゲティと、ドリンクと括られた部分の半分、それくらいだった。他はゲームに出てくる呪文かなにかにしか見えない。
「ここはね――」
壁際に据えられた古めかしいステレオセットを眺めながら、
「――カルボナーラがいけるぜ。無難に過ぎる気もするけど、半熟卵と生クリームが苦手じゃなかったら、お勧めだな」
彌子が独り言のように呟く。
「美味しいよ、どお?」
「うん。それにする」
孝彰の表情に重い木製扉をくぐってからまとわり付いていた陰りが漸く晴れた。レジスター側に背を向けた彌子が左手を肩の高さに挙げると、先程の店員が音も無く擦り寄ってきた。
「あたしはミートスパゲティで、こちらはカルボナーラね」
「はい。お飲み物はいかがなさいますか?」
「そうさねぇ……ペプシでいいや。タク?」
「僕もそれがいい」
「じゃあペプシコーラを二つ。構わないからすぐに持ってきてくれます?」
「かしこまりました」
店員は煙の如く消え去った。それから暫く、二人共なんとなく口をつぐみ、壁に並ぶ赤茶の古地図やら真鍮製のランプなどをゆっくりと眺めていた。
孝彰の目が壁をちょうど一巡した頃、円筒グラスに入ったペプシコーラが銀の盆に乗ってやって来た。
「お腹が膨れちゃうからさ、ちょこっとだけだぜ」
グラスを翳し悪戯っぽく微笑む。透き通った氷が二つ浮いたごく普通のペプシは、しかし普通より少しだけ美味しい気がした。
「ま、甘めの食前酒ってとこだな」
目を細め彌子は、一人可笑しそうに表情を崩す。
「そのシャツ、タクが選んだの?」
グラスを孝彰の胸元辺りに向け、彌子が尋ねる。
「ううん、父さん。誕生日に買ってくれたんだけど、着るのは今日が初めて」
「いや、そうじゃなくてさ」
笑顔は崩さず彌子は続ける。
「今日それを選んだのは?」
「ああ、勿論僕だけど、何で?」
彌子は、ふうん、と小さく唸り、グラスを一口啜る。
「ん? ま、いいや……お、来たぜ」
曖昧な笑みを浮かべて彌子は話題を唐突に終え、入れ違いに料理が二皿運ばれる。
「いただきまぁす」
店員が消えるや否や、彌子はすぐさまそう云って皿を胸元に寄せた。
スプーンとフォークを器用に操りくるくると巻き、ミートスパゲティを次々と口にする。スプーンとフォークを使うスパゲティの食べ方を、以前、真理恵が教えてくれたことがあったが、孝彰はとうとうそれを身に付けずじまいだった。彌子が口をもがもがさせながら、
「結構器用だろ? あたしって。タクもやってみな」
こくりと一つ頷き、彌子を真似てみる。だが、フォークを幾ら回してもスパゲティはするすると抜けて行くばかりだった。
「ちょっとしたコツがあんのさ。ホントは門外不出の秘伝なんだけど、タクにだったら特別に伝授してもいいぜ。どお?」
「うん、教えて」
「ふむ、良かろう……心して聞けい。持ち方はこう――」
両手を少しだけ掲げる。
「まず、いきなり神髄なんだけどね、フォークでスパゲティを一口分すくうんだ。その時にこうやって、サラダとかをすくうみたいにスプーンも使って両方から挟むと上手くいくんだよ。最初は一口よりも少な目にしておくといいかな、食べ易いから。すくわずにスプーンに載せるとさ、上手く巻き取れないし、巻き付いてくる量が分からなくって、でっかくて口に入らないってことになるの」
手元で実演する。
「次にすくったスパゲティをスプーンに乗っけて、あとはひたすら巻くべし巻くべし」
くるくるとフォークを回し、一口大のスパゲティをぱくり。
「んむんむ……ろおら(どうだ)?」
孝彰は心底感心して大きく頷き、早速やってみる。
スパゲティをスプーンとフォークですくい、その束をスプーンに乗せる。ぎこちないながらくるくると巻くと、
「あ、本当だ。ちゃんと巻ける」
やっとの一口目、苦労の甲斐もあってその味は一際美味しかった。
彌子の云うように確かにちょっとしたコツだが、それにより随分と食べ易かった。と、彌子はぴんと人差し指を立て「裏技があと二つあるから、それもついでに教えたげよう」背を反らせる。口を頬張らせたまま孝彰はうんうんと頷いた。
「巻く時に使ったスプーンをね、こうやってフォークと一緒に口元まで添えておくと、滴るスープを気にしなくていい。もう一つ、肘を肩幅くらいに縮めて猫背で食べるんだ。そうするとね……」
体を縮める。
「……それっぽく見える」
「それっぽく……って何?」
きょとんとした孝彰。何の事だが良く解らなかった。
「別の店でね、そこのシェフがカウンターでスパゲティを食べてたんだ。店は空いてたからきっとお昼ご飯だったんだろうね。そのシェフがさ、こうやって小さくなって食べてたの。それがかっこ良かったのよ」
へえ、と孝彰は何となく感心してみせたが、流石に実感は出来ずにいた。それでも以後はそうやって食べてみた。
それから暫くは、二人とも無言で食事を続けた。彌子には程々、孝彰には少し多めのスパゲティは二人の胃へと瞬く間に消えて行く。一足早く食事を終えた彌子が、かちゃりと小さな音を立てスプーンとフォークを置き、汗をかいたグラスに半分ほど残ったペプシをちびちびと啜る。
遅れて食事を終えた孝彰は紙ナプキンで丁寧に口元を拭い、ベルトを緩めてから笑顔で「美味しいね」と云った。彌子はグラスをゆっくりとテーブルに戻し、その位置を入念に確かめるようにペプシを数度揺らした。
「だろ? 穴場だからあんまり教えて回っちゃあ駄目だぜ」
口元に人差し指を翳してから、再びペプシを呷る。白い喉が別の生き物のように上下する様子が、グラスの下から僅かに覗いた。
孝彰はのんびりしたBGMに意外な心地良さを感じていた。
そのまま寝入ってしまうほどゆったりとした旋律。いつも聞いている種類の音とは何もかもが違っており、それを楽しんだり理解する域には到底及ばないのだが、柔らかく包む絞られた音量の管楽器は冷たい夜風や日なたの温かさのような優しさに満ち、その感情を孝彰は確かに捉えていた。
ふと思い付き、孝彰は彌子に云った。
「ミコはこういうの聴いてるの?」
肘を突いて顎を乗せ、変色した古地図を眺めていた彌子は目だけを動かす。
「うん? ああ、クラシック? どうだろう……」
姿勢を直し孝彰に向き直る。
「……そう云えば良く聞いてるな。あたし、流行り病には縁が無いから、だからかな?」
「ベートーベンとか?」
「ん? 聴くけどね、作曲家とか曲名とかは詳しくはないんだ」
「僕、授業以外でちゃんと聴くの、今日が始めてかな。ちょっと眠たいけど、たまにだったらいいかもって思ったよ」
彌子は、にっと歯を剥いて親指と人差し指でその細い顎をそっと掴み、ほう、と鼻を鳴らした。
「ま、当然といえば当然さ。なにせ作曲でも演奏でも、そこいらで流れてる音とは桁違いに手間を掛けてるからね。それにさ、長い長い時間、多くの人に聴き続けられたっていう品質保証書が付いてるんだから、これが良くない訳が無い」
ゆっくりと噛み砕くように彌子は云う。孝彰は「ミコ、音楽の先生みたいだよ。でも……そっか」と呟き、先程とは違う角度で耳を傾け、返るやまびこでも聞くように手を耳に翳す。
彌子は「でもねぇ」と孝彰の手製集音器目掛けて云い、ふんふんと鼻をひくつかせる。
おや? というような呆けた表情で、孝彰は手を汗だくのグラスの傍に下ろした。
「クラシックも良いけどね……今、あたしの中での一番人気は……」
云うや否や、いきなり彌子は、左肘を後ろに引き、右拳をぶんと唸らせ自身の左肩に当てた。少し俯き、鋭い上目遣いの後、
「ハイナイン!」
孝彰の表情がぱっと弾け、彌子と同じく胸に右腕を当て、視線でタイミングを見計らう。一杯に開いた右手を勢い良く突き出し、
「プラァス!」
同時に叫び、二人共からからと大声で笑った。
「今週の、見た?」
「あたりきよぉ! さんざん燃えさせてもらったぜ!」
彌子は江戸っ子よろしく大袈裟に鼻をすする。孝彰も気持ち、身を乗り出す。
「今回の敵も凄かったけど、僕、スライファーがかっこ良かったよ」
「おう、あの宇宙用戦闘機だな? そうそう、あれは良かった。地球をバックにあんだけ飛び回られちゃあ、もうお手上げ。新しいパイロット、ほら、空軍の、えっと……」
天井を見上げる彌子。ああ、と孝彰が声を上げる。
「乾いぬいと鳳おおとり?」
「それそれ! 鳳三佐だ! 乾准尉も良いけど、鳳、彼女は渋い! まだ若いけど渋い!」
彌子はペプシのストローを二本指で挟み、煙草に見立てて咥える。ぷはぁ、と口を鳴らし低い声色で、
「野暮はよしなよ。地球の空は、鳥とパイロットのものなのさ……」
劇中での科白を真似た。
「んもぅ! 惚れちゃう!」
口の前で両手を組み、くねくねと上半身を揺らす。それを見て孝彰は、はは、と笑って水浸しのグラスを脇にどける。
「スライファーの武器が凄かったね。なんとかミサイル。ほら、ばーんっていう」
「反量子ミサイルだな? あの無茶っぷり設定のVFXは、すかっとしたな。なんかこう、月が揺れてたもんな」
「うんうん! びっくりした」
「しかし何といっても!」
彌子と孝彰は目一杯硬く握った拳を顔の前でぷるぷると震わせ、一語一語区切るように、
「プ、ラ、ズ、マ……」
血管の浮いた拳を半ば飛び跳ねるように真上に突き上げ、
「ガトリィング!」
と合唱した。
「新必殺技、やっと出たね!」
「ああ! 出た出た! オープニングに名前だけ出ててさ、気になって気になってしょうがなかったんだけど、凄すぎるぜ、ありゃあ。オブジェが蒸発しちゃったもんな」
「人工衛星まで一緒に」
目尻に皺を走らせ孝彰は笑う。彌子の方は終始笑いっぱなしで目尻の涙が零れそうだった。
「いやー、ほんと、いいもの教えてもらったぜ。あたし、テレビって基本観ないからチェックしてなかったんだよ。タクに感謝だな」
満面の笑みのまま彌子は、親指を突き立てて口の端も釣り上げる。
「木曜五時は是が非でも家にいなきゃならんね、大変だ」
「ああ……僕」
不意に孝彰の笑顔が薄らいだ。唐突に豹変したその態度に、彌子は目をぱちくりさせる。
「何? どした?」
「来週、入試があるから、ビデオで見なきゃ……」
残っていた笑みを使い果たし、孝彰の表情は硬く強張ってしまった。つられるように真顔に戻った彌子は「そっか」と、ぽつりと呟き、溶けた氷で薄められたペプシの残りを一気に呷った。
他愛ないテレビ番組の話題はいつしか現実のものへと移り、その口火を切ったのは他でもない孝彰自身だった。
「僕、勉強はそんなに嫌いじゃないんだ。楽しくはないけど、友達みたいに逃げたいとかは思ったことないんだ。でも、先生は将来の為に絶対に役に立つって云うけど、それはよく解んないんだ。友達も云ってたけど、将来のこと、想像もつかないんだ。受験勉強はしてるし、頑張れば合格するかもしれないけど、でも……」
考えを喋っているのではなく、喋りながら考えている、そんな風だった。
「でも、よく解んないんだ」
その重々しい口調は、眼前の彌子を介し自身に向けられた自問自答である。彌子はじっと耳を澄まし、一言一言を吟味するように時たま目を閉じる。
そういえば、と孝彰は今度は彌子に向けて口を開いた。
「この前の「何にする」って、どういうこと? ほら、家で焼き肉食べた日に云ってた」
「ん? ああ、あれ」
彌子は口元を緩める。
「タクはさ、まだ決めてなかっただろ。だから」
「将来をってこと?」
「惜しいけど、ちと違う……微妙にね」
孝彰の表情は疑問で満ちていた。
「目指すものを何にするのか。つまり、これから何をするのか、そういう意味だよ」
その口調は孝彰の知る誰かに似ていた。誰だろう? その答えを見付けるより先に彌子が続ける。
「魔法のランプでも福の神でもなんでもいいけど、たった一つだけ、なんでも願いが叶うとしたら……タクなら何をお願いする?」
そよそよと降り注ぐような話し方。声そのものが似ているのではなく、その雰囲気が彌子以外の既に知っている誰かとそっくりなのだ。ともかく、話題が唐突に変わった、そう孝彰は思い、強張った表情を少し崩した。
「何でも?」
「そ、何でも」
彌子は力強く頷く。
孝彰は躊躇をほぐすかの如く舌で唇を何度か湿らせ「……笑わない?」と眉間を寄せて囁き、再び彌子が頷く。
「小学校の時からだけど、僕……宇宙船に乗って宇宙に行きたいんだ。スライファーみたいな宇宙船で――」
ぱん、と大きな音が響き、驚き呆ける孝彰。彌子が目の前で手を打ったのだ。
「何だ、ちゃんとあるんじゃないか」
「……え?」
たっぷりと間を置いて孝彰はそれだけ云った。
彌子は眉を大袈裟に上下させ目を細めてから「将来の夢さ」と通る声で云い放つ。
「何の為に勉強してるのか、どうして高校に入るのか解らなかったんだろ? それはね、スライファーみたいな宇宙船で宇宙に行く為さ。タクは将来、宇宙に行く為に勉強してるんだよ、解ったかい?」
表情は毎度の如くで綻んでいるが、からかっているようには見えず、それが余計に孝彰を混乱させた。
「だって、スライファーは例えばで、でもそっちは将来の夢だよ? 大人になって何になるかだよ? そんなの変さ」
発せられた言葉は冷ややかな笑いを含んでいた。だが彌子は態度を微塵も変えずに、
「変? どうして?」
と優しく云う。
「だって……」
「だって?」
詰まる言葉に孝彰自身が驚き、それでも云い続けようとする。
「だってミコ、宇宙に……スライファーだよ?」
「おう、スライファーさ。いいじゃん」
視線がうろうろとさ迷うのが自分でも良く解った。
「ハイナインはテレビなのに、それが高校に入る理由なんて変だよ。将来の夢なんて変だよ」
「タク? 宇宙はテレビの中だけじゃないぜ? 頭の上、ロケットに乗れば誰でも行ける所にあるし、タクが大人の頃にはスライファーが出来てるかもしれないじゃん」
頭上の薄暗い天井を指差す。
「違うよミコ!」
知らず語尾が荒くなり、汗が僅かに額に滲んでいた。
「誰でもじゃなくて、行けるのは――」
顎を突き出す。
「――宇宙飛行士だけ、だ……よ……」
言葉じりが徐々にしぼみ、孝彰は口を半開きにしたまま息を止めた。一呼吸置き、彌子は、
「だったら宇宙飛行士になればいいじゃん」
と、テレビのチャンネルを変えるような気楽さで云った。
「宇宙飛行士なんてそんな……」
弱々しく囁く。
「無理? まさか! 宇宙飛行士はテレビじゃないよ。タクと同じ人間だ」
両手をテーブルに突いて身を乗り出していた孝彰は、何度も瞬きしながら椅子に落ち、溜め息のような声で、
「……うん。テレビじゃない」
と洩らした。
彌子は取り澄ました店員を掲げた左手で呼び寄せ、ペプシのお代わりを二人分注文した。
丸い銀の盆に載るペプシをしずしずと運ぶ店員の様子は、繁栄の極みにある国の王様へ貢ぎ物でも献上するような厳粛さだった。
目を見張る財宝の数々……病を癒す極楽鳥の羽根、未来を予言する樫の杖、黄金で鋳った全身鎧、空駆ける硝子色の敷物……。孝彰の前にペプシのグラスが置かれるのを見計らって、彌子は「騒がしくてすいません」とその男性店員に声を掛けた。
彼は「他のお客様がいらしたら少しだけ遠慮して下さい。それまでは存分にどうぞ」と低い声で応え、ほんの一瞬だけ口の端を上げてから、やんわりと踵を返しレジスターへと帰って行った。
一口、喉を潤す彌子に対し孝彰は、複雑な心境をその表情に浮かべ、貢ぎ物を品定めする王のごとく、じっとグラスを睨み付ける。
或いは眼前に置かれたペプシにより、新たな公理を今正に産みださんとする、物理学者の閃きの直前の苦悩のように。黙ったままだが、中を渦巻く荒波が皺や瞬きにより時折表面に現れては、認識のせめぎあいを言葉よりも雄弁に語っていた。
じっと嵐が過ぎ去るのを待つ彌子がグラスを殆ど飲み干してから、孝彰は漸く口を開いた。
「何でだろう。絶対おかしいって思ったのに……全然おかしくない。テレビだけど、でもテレビじゃないし……」
ずっと俯いたままだった孝彰は顔を上げた。
「ミコ、教えて。どうして?」
ごりごりと氷を齧っていた彌子は、それを一際激しく噛み砕いてからこっくりと頷く。
「未来にはね、二種類あるんだ。選ばなくてもやって来る未来と、選ばなきゃ来ない未来。例えば……タクが高校生になって大学生になって、それから会社に入って結婚して、んでもって子供が出来て家を建てて、遂には年を取ってお爺さんになって、そして最後に死ぬ。こっちが何も選ばなくても向こうからやって来る未来。確かに些細なことは選んでるよ。どの学校にするかとか、どの人と結婚しようか、なんてね。それに途中で色々あるよ、きっと。楽しいことも苦しいことも、不思議なことも恐いこともね。誰かが持ってくるのかもしれないし、道端に落ちていてそれを拾うのかもしれないけど、でもね、やっぱり何一つ選んじゃいない、全部向こうからやって来るんだ。
で、もう一つ、選ばなきゃ来ない未来。タクがスライファーに乗って宇宙に行こうと思う。宇宙飛行士になってもいいし、科学者になってスライファーを作ってもいいけど、こっちはね、タクがそうしたいと思って、いろいろ準備をしなきゃ絶対に向こうからはやって来ないんだ。だってそうだろ? ある日突然、昔の友達がタクに「なあタク、俺の会社に入らないか?」とは云っても、「ねえあなた、宇宙飛行士になってくれませんか?」なんて誰も云いやしないよ。タクがさ、なりたいものとして宇宙飛行士を選ばなきゃ、タクは絶対に宇宙飛行士にはなれないんだ。道端に結婚相手は落ちてるけど、どこを探してもスライファーは落っこちちゃいないしね」
ふう、と溜め息を吐き、彌子はグラスを呷った。半ば睨み付けるようだった孝彰も、ごくりと喉を鳴らし冷たいペプシを一気に飲み干し、再び彌子の両目をじっと見詰め言葉を促した。
オレンジ色のフードパーカーの襟元を二度三度しごき、彌子は咳払いを一つした。
「夢は? って聞かれた時と、将来の夢は? って聞かれた時はね、殆どみんな答えが変わるんだ。何故だか解るかい?」
孝彰は首を振る。
「夢は? って時の答えはね、思うだけで叶えようとしない、想像するだけのもの。将来の、って付くと叶えられそうなものをみんな云うんだ。夢を叶えようとしないのはね、夢ってのはとっても大切で、もしそれが叶わなかった時に辛いからなんだって。それもまあ解るんだけど、でもさ、あたしはこう考えてる。夢ってのはそれが叶うかどうかはあんまし重要じゃないんだ。夢は、それを持つことそのものに意味と価値があるんじゃないかな、って。叶えようっていろいろ頑張るだろ? 勉強したりあれこれ。そうやってる時が一番大事なんだよ。もう少し、あとちょっとで夢が叶いそうって時がさ、一番楽しいんじゃないかな」
グラスの底、角が丸まった氷をストローでからからと回し、彌子は、どお? と首を傾げた。照明をきらきらと跳ね返す氷を目で追っていた孝彰は、ゆっくりと姿勢を戻し「うん」と頷いた。
「ねえミコ。僕、宇宙に行く為に受験勉強してたの?」
「はは、多分そうじゃないの? でもそれはタクが決めることさ。タクのことはさ、あたしよりもタクの方が詳しいよ、きっと」
ぎい、と木の軋む音が聞こえ、孝彰は入り口の方に目を向けた。レジスターの中からあの店員が滑り出て、柔和な面持ちの初老の夫婦を衝立て向こうのテーブルに案内していた。
「さて」
彌子が伸びをしながら云った。
「腹も膨れたし、そろそろ撤退しよっか?」
上半身を捻り右手で背もたれを掴む。と、孝彰が「もう一つだけ」と彌子の動きを制した。捻った上半身を椅子の上で更に後ろに曲げ、腰骨がぼきぼきとくぐもった音を立てた。
「まだ食べんの?」
「そっちじゃなくて。もし夢が無かったらどうしたらいいの? 僕にはあるみたいだけど、友達にいるんだ。俺は夢なんてないって友達が。それにもし、僕が今の夢に飽きたりしたら?」
彌子は椅子の上で肩をぐるぐる回し首を左右に折る。柔軟体操でも始めるつもりらしい。
「そんなの簡単」
仰け反り、気管が圧迫されているのかひしゃげた声だった。
「夢を見付けたい、って夢を持てばいいのさ」
アーケードをくぐり、再び駅前ロータリーに出て花時計を見ると、十四時過ぎだった。
まばらな雲の間から強い日差しが照り付け、午前中は閑散としていた辺りにちらほらと人通りが出来ていた。それでも駅向こうの商業区に比べればゴーストタウンにも等しいのだが。ロータリーに一台のタクシーが停車していたが、それが午前中のものかどうかまでは解らなかった。
「身支度やら野暮用やらがあるから、あたしはもう帰るよ」
煉瓦積みの植え込みでバランスを取りながら、孝彰のつむじ目掛けて彌子が云う。
「うん。今度はいつ頃会える?」
孝彰は日差しを手で遮って、ふらふらと揺れる彌子を仰ぎ見る。
「どうかな。来年? それくらいか、もっと先か、もしかしたら……」
ぴょんと跳ね、スニーカをぎゅうと鳴らして着地。両手を左右に伸ばし胸を張って「うっし、十点!」と得意そうに云った。
ロータリーからのんびりと歩き、住宅街の入り口、佐原邸へ続くY字の分かれ道に差し掛かった。低いブロック塀の続く右側の一方通行が佐原邸で、彌子の実家は左の細い方だった。
孝彰は右手を胸元に挙げ「御馳走様。それじゃ……」と云い、喉の奥に続く言葉がありそうだったので暫く待ってみたが、結局何も出てこなかった。フードパーカーのポケットから右手を抜き出した彌子は、その腕をそのまま孝彰に向けて突き出し、不敵、そんな笑みを浮かべた。
「ああ、またな」
僅かな躊躇をその言葉の透明さが消し去り、孝彰は差し出された白い右手をそっと握った。彌子が力を込めて孝彰の汗ばんだ手を握り返し、
「不合格だったら電話してきな。幾らでも慰めてやるぜ?」
と云って鼻を鳴らした。
「うん。でも、頑張るよ」
そう云って握る手を強める。二人共、一分近くそのまま動かなかった。
孝彰の脳裏では、スパゲティ店での彌子の言葉が、からからという氷の音と共に反響していた。握られていた手が緩んだ。彌子は再びフードパーカーを何やらごそごそと探ってから、
「ほれ、餞別だよ」
と、しおりの挟まったままの文庫本を放り投げ、孝彰がおたおたしている隙に歩き出した。
「ありがとう、じゃあね」
背中に向けて孝彰が云い、彌子は振り返らずに後ろ手で右手を挙げた。小さな溜め息をその場に残し、孝彰は一方通行へ体を向ける。
自宅への一方通行を二歩進み、孝彰は不意に目頭が熱くなるのを感じ驚いた。
もやもやとしたものが晴れ、喜ぶべきなのにどうしてだろうか? 立ち止まり、瞼を押さえる。
もう難しいことは何も悩まなくてもいい。彌子の言葉が真実かどうかはともかく、永らくの疑問に対する答えの一つとして納得は出来た。後は試験を頑張ればいいだけな筈、どうして……泣くんだ? 嬉しさの余り? 違う、これはきっと……。
「タクぅ!」
その間延びした声に孝彰は弾けるように振り返り、とうとう堪えていた涙が零れた。
一方通行の入り口にオレンジ色に輝く彌子の姿があった。五歩くらいしか離れていない。彌子からでも情けない顔が見えるだろうが、気にしなかった。
「何?」
声がうわずっている。彌子は両手をポケットに入れたまま顎を上げ、すぅと深呼吸をしてから、憚ること無く鼻をすする孝彰に目掛けて、叫んだ。
「応援してるぜ!」
第六章~初陣、いざ行かん戦地へ
月明かりの元に舞い下りた精霊達は、夜通し続く踊りと宴に夢中になって、しばしば自分達の世界へ帰り遅れる。
朝、澄み切った手付かずの空気の心地良さは、そんな精霊達の残り香だというが、朝にはからきし弱い孝彰には何の事やらさっぱり解らなかった。
目覚し時計と真理恵のお陰で学校に遅刻したことこそなかったが、特に用事のない休日などに、完全朝型の真理恵に引きずられるように起こされても、実際に頭が働き出すのにそれから更に一時間はかかった。
しかしその日の孝彰は鶏の如き真理恵よりも、そして前日の夜にセットしておいた目覚し時計よりも早くに目醒めた。
精霊達のなごりとやらこそ見掛けなかったが、開け放った窓からそよぐ冷え切った大気は、孝彰の高ぶりを幾らかは押さえてくれた。
午前六時、佐原邸。
外は朝日で照らされつつある。たっぷりの睡眠時間からの覚醒は電子回路の如き正確さで執り行われ、すぐさま回転を始める研ぎ澄まされた意識。
孝彰は、彼の人生において幾度と無く続くであろう困難の第一歩を、およそ考え得る最高のコンディションで迎えたのだった。いよいよ、入学試験当日である。
クリーニング屋のビニールに包まれた折り目のついたシャツと、塵一つ無い制服が扉の横に吊ってある。
ベッドから体を起こした孝彰は、それをちらりと見やってから勉強机に腰掛けた。参考書の類は既に本棚にしまってあるので、孝一から譲り受けた机の大きさを久しぶりに実感できた。
学校のものの三倍はゆうにある。孝彰はつるつるしたダークブラウンの天板をひと撫でし、これまでの半年間を思い返し「良く頑張ったよ」と机に、そして何より自分に対して声を掛けた。今日こそその集大成を示すべき時なのだが、それでも一言誉めてあげたい気分だった。
そっと扉を開け、足音を立てないよう慎重に階段を降り洗面へ入る。冷たい水で顔を洗うと、冷静さが更に増した気がした。
孝彰は鏡に映る自分と向き合い、その顔を暫く眺める。良く知った自分の顔はしかし、昨日のものとは違うように見えた。目の辺りにそれまでには無かった鋭さが見え隠れしている、気がする。自分を睨み付け、微笑み掛け、満足した孝彰は居間へ踵を返す。
階段を昇りきったところで大欠伸おおあくびを噛み殺そうと必死の真理恵が見えた。真っ赤なパジャマが天窓からの光でぎらぎらと眩しく、両足の黒猫も眩しそうに目を細めている。
「あら、もう起きてたの? 随分と早いのね」
真理恵の片目はまだ開ききっていなかった。
「うん。昨日は早く寝たから」
「朝ご飯、すぐに用意するから着替えてらっしゃい」
再び欠伸を堪こらえ、真理恵は台所へ向かい、背丈を越える冷蔵庫の中身を順に眺める。
うん、と返した孝彰は部屋に戻りパジャマを脱ぎ捨て、壁に掛かった制服をゆっくりと、慎重にまとった。
小さな姿見に映る黒い制服、冴えない学生服は今日に限って随分と頼もしく感じた。まるでその黒に孝彰の知識や努力が染み込んでいるように思えたのだ。これを着ている限りは何の心配も無い、どうしてかそう思えたのだった。
居間のテーブルにはきんきんに冷えたフルーツジュースとバターを塗ったトースト、そして真理恵がいた。いつもの午前中だと、朝食をとらない真理恵は台所横の作業テーブルに雑誌共々しがみついているので、その光景は孝彰にとって随分と奇妙に見えた。
「いただきます」
ソファに腰掛けフルーツジュースを一口、トーストを齧る。額だか頭のてっぺんだかに、ゆったりとソファに腰掛けた真理恵からの視線を感じた。
「……何?」
口をもぐもぐさせながら孝彰はそう聞いてみた。柔らかな表情のままの真理恵は首をかすかに傾け「何って?」と云い、相変わらず孝彰を眺める。
「ううん、何でもない」
真理恵が漸く口を開いたのは、孝彰が朝食をすっかり終えた頃だった。
「家を出るの、七時よね?」
真理恵は背後を振り返り、テレビ横のデジタル時計を見る。孝彰は口の周りについた食べかすを拭い「うん」と頷いて、フルーツジュースの残りをちびちびと喉に流し込んでいる。
「試験は九時から。会場まで一時間半くらいだけど少し早めの方がいいって先生が云ってたから。余裕を持って行きなさい、って」
真理恵の肩越しに時計を見る。出発まではまだ三十分あった。
「切符と受験票、ちゃんと鞄に入れてる?」
相変わらず表情は優しい。温和で、ご近所さんからは天然などと云われているらしい真理恵がその笑顔を崩すことは滅多にない。それにしても、母親の別の表情を見た覚えが全くない、孝彰はふとそう思った。きっと悪いことではないのだろう、と付け加えてもみる。
「うん。昨日の夜に入れて、さっきも見たよ」
当然だといった調子で孝彰は答え、ソファに仰け反って伸びをした。天窓から覗いた空には小さな雲がちらほらとだけで、受験日和かどうかはともかく快晴だった。
「鉛筆と消しゴムは?」
喉仏に真理恵の声が注ぐ。
「はは、鉛筆じゃなくてシャーペンだよ。うん、シャーペン三本に消しゴムは二つ。定規もコンパスも鞄に入れたよ。そんなの使わないけど」
孝彰は天窓にそう説明した。
「じゃあ……」
と云い掛けて真理恵はぴたりと止まり、孝彰の視線は辺りをふらふらと散歩してから、そんな真理恵に辿り着いた。
朝日の注ぐ優しい母親の顔。だがその瞬間、孝彰はそこに何かを見たのだった。
いつもと何ら変わらぬ真理恵の柔らかい表情。しかしそこに今迄は読み取れなかった何かを、確かに見付けた。孝彰はそのことに心底驚いたが、果たして自分が何を見付けたのか、それを正確に言葉にすることは出来なかった。ただ、今迄は気付かなかった何かに自分は気付いたらしい、それだけが解った。
まるで、テレビ映画でスパイの使っていた特殊ゴーグルを付けたような気分だった。
何も無いように見える連邦銀行の無愛想な廊下は、特殊ゴーグルを通して見ると警備用のレーザーが張り巡らされているのだ。知らずに進めばブザーが鳴り扉は閉ざされ、あっという間に御用である。
特殊ゴーグルを通して見る真理恵の様子は、いつもとは明らかに違っていた。表情や仕草は変わらないから、どこが、とはっきりと示せないのだが、強いて云うなら雰囲気だろうか。
警備用レーザーを見付けたスパイは様々な小道具を使ってそれに対処する。孝彰もまたそうしなければならないと感じた。だが幾ら考えても具体的方策は何も浮かばず、仕方なく孝彰は野生の勘とでもいうべきものに全てを委ねて口を開いたのだった。
「僕ね、宇宙飛行士になるんだ。だから高校に入ったら宇宙飛行士の勉強をするんだ。いいよね?」
長めの間があった。
孝彰の発した言葉がふわふわと漂ってから真理恵の耳に届く。空気が粘度を増したような、そんな一拍があった。
真理恵は唐突に立ち上がり「ちょっと……」と云い残し台所の冷蔵庫に半ば駆け出して取り付き、扉を開けて頭を突っ込むようにして中身を探りだした。
孝彰はすっかり呆けてしまった。
小さくはない照れを押し切って云ったのに、それは真理恵の用事に相殺されて空中分解してしまったようだった。だが孝彰はそれを大したことではない、と何の苦も無く受け入れ、自分が随分と冷静になったと感心したのだった。
子供っぽくても無茶でも良いじゃあないか、そう云い切れる自信を得ていたのだ。
当然それはあの日、神和彌子から授かったものである。真理恵には賛成して応援して欲しかったが、そう焦ることもないだろうと腰を据えられるようにもなっていた。
そんなこんなをひとしきり考えてから孝彰は「ジュース、お代わりね」と未だ冷蔵庫をがさがさとやっている真理恵に向けて云い、再び天窓を見上げた。
孝彰の肩幅ほどの小さな天窓では、相変わらずゆっくりと流れる雲の欠片が見え隠れしていた。僅かに覗く太陽は強く、天窓を通して居間を斜めに染め上げている。真っ青な空を声も無く眺めていた孝彰は、ふっと鼻を鳴らして微笑んだ。何故そうしたのか理由などさっぱり解らなかったが、その笑みはごく自然に湧いて出たのだった。
フルーツジュースのプラスチックボトルを抱えた真理恵がソファに戻る。再び満たされたグラスを持ち上げてすぐ、
「どうしたの?」
孝彰は思わず裏返った声を上げた。
向かいのソファに座った真理恵の顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていたのだ。真理恵は答えようとするが鳴咽がそれを遮って上手く行かず、タオル地のハンカチで何度も何度も顔を拭う。
「ああ、晩御飯のお魚を探してたんだけどね、なかなか見付からなくって――」
ちん、と洟はなをかむ。
「――目と鼻が冷たい空気に当たり過ぎてね、こんなになっちゃったの」
ほら、と赤く腫れ上がった目と鼻を指差して大袈裟に笑った。つられて孝彰も笑い、それが収まってから、
「そろそろ出掛けた方がいいかな?」
デジタル時計は六時五十分の表示。同じくそれを見た真理恵が「そうね」と立ち上がる。真理恵は相変わらず鼻をぐずぐずとやっていた。
「三時半に終わるから五時頃には帰れると思うよ」
傍らにいつものスポーツバッグを置き、孝彰は玄関框に腰掛ける。
「ねぇタク、晩御飯、何がいい?」
と真理恵。孝彰は、
「あれ? 魚じゃあないの?」
スニーカを履きながら云った。
「え? ……ああ、そうね。でも、孝一さん、今日の夕方に帰ってくることだし、せっかくだからちょっとだけ贅沢しちゃいましょ。タクの好きなものにしてあげるわよ。ね、何にする?」
孝彰はうーんと首を傾げてから「じゃあ……焼き肉!」と快活に云い放った。真理恵は「また?」と驚き、しかしすぐに「解ったわ。今夜は焼き肉ね」と孝彰の肩をぽんと叩いた。
スポーツバッグを肩に掛けた孝彰は、スニーカの履き心地を確認するように二度三度と足踏みしてから「じゃあ、行ってきます」と胸を張った。
真理恵は大きく、力強く頷き、
「頑張りなさい、宇宙飛行士さん!」
神和彌子よろしく、びしっと音のするような見事な敬礼をしてみせた。孝彰は踵を打ち鳴らして両足を揃え、同じく敬礼し、
「ラジャ!」
と云い、二人共からからと笑った。
孝彰は真理恵と二匹の黒猫スリッパに見送られて家を出た。扉が閉まる直前に電話の呼び出し音と、それに、はいはいと答える真理恵の声が僅かに聞き取れた。
第七章~君の勇気、僕の勇気
相も変わらず閑散とした駅前ロータリー。
早朝ということもあり辺りには人っ子一人いなかった。客となるべき人がいないのだから、当然タクシーもなりを潜めている。
自転車を駅前のプレハブ駐輪場に預け、孝彰は横断歩道を渡りアーケードの向かいにある平屋の駅舎に向かった。
ロータリーの中央に威風堂々と佇む、所々枯れた花時計は七時の少し前を指していたが、そのくたびれ具合には時計という精密な印象は薄く、孝彰は駅舎の壁に掛かる、どこからか寄贈された丸時計で時刻を再確認せずにはいられなかった。
鉄骨平屋の駅舎は最近改装されたばかりなのでぱっと見は奇麗だったが、歴史ともいえるほどの時間はペンキなどではごまかしきれなかったようだ。コンクリート床は渋味とも呼べそうな不思議な色をしており、そこを歩いたであろう無数の人々のくすんだ足跡が刻み込まれている。
天井から吊るされた発車時刻の電光表示を確認してから孝彰は、駅舎の改札横に並べられた広告入りの黄色いベンチに腰掛け、膝の上に黒いスポーツバッグを載せた。
スポーツバッグの右ポケットからナイロン製のウォレットを取り出し、そこから緑色の切符を二枚抜いて印刷された文字と電光表示を見比べる。
二番線、七時十五分発エクスライナー、まだ時間があるので車両は到着していない。
このエクスライナーという特急電車には以前、家族旅行の時に乗ったことがあった。
スカイブルーにペイントされた車両は近未来的な流線形デザインで、特に子供に人気があり、孝彰のお気に入りでもある。古びた車両の居並ぶこの駅にエクスライナーが滑り込むさまは、何度見ても息を呑む思いであった。そこには、いかだと原子力潜水艦ほどの開きがあるのだ。
孝彰の街から試験会場である近郊の市街地までの特急券と自由席乗車券は、真理恵が先週末に準備してくれたものだった。到着は八時三十五分となっていて、これはちょっとした旅行だな、と孝彰は切符を眺めて改めて思う。試験会場は下車して徒歩で五分程度だ。
そもそも孝彰の志望高校は、自転車で四十分程度の通学圏内に位置していた。
その高校は市街地の方にある工科大学、今回の試験会場への進学校だった。近年急増した受験者をその高校が、さばき切れなくなり、そんなこんなで遂に二年前から会場を近郊の工科大学へと移したのだった。
しかしこれはその高校に入学し、そのまま工科大学へと進む数多くのものにとっては、大した違和感ではなく、むしろ当然とさえ思われている節があった。
残念ながら佐原一家はそれほど先を見据えた選択をした訳ではなかったので、試験会場が大した遠方の工科大学だと知った時には少なからず驚いたものだ。誰より、孝彰自信が。
鉄骨天井に取り付けてある拡声器型のスピーカから、七時を示すくぐもった時報が聞こえた。
孝彰は切符を仕舞いベンチから腰を浮かし改札越しにホームを見たが、エクスライナーらしき車両はまだ来ていなかった。気になって再び電光表示を見ると、ちゃんと到着時刻が記されていた。
エクスライナーは七時十二分到着となっている。少し早いがホームに向かおうと、孝彰は黒いスポーツバッグを担いだ。余裕を持って行動しろと担任も云っていたことだし。
孝彰はいささか緊張した面持ちで改札目掛けて歩き出し、しかしすぐに「あっ」と声を上げて立ち止まった。重要な事をすっかり失念していたのだ。
今日は木曜日。
木曜日といえば『ハイナイン・プラス』の日である。放送時刻の午後五時には恐らく僅かに間に合わないからタイマー録画をしなければならないのに、それを忘れてしまったことに気付いたのだった。
孝彰は手近に古びた公衆電話を見付け、テレホンカードをねじ込むと忙しくダイヤルした。オーディオに限らず機械にはからきし弱い真理恵だが、どうにかビデオデッキのタイマー録画を頼まなければならない。
ぷるぷるというコール音を聞きながら孝彰は、どういった手順でそれを説明しようか懸命に考える。三回目のコールの途中で回線が繋がった。
「……佐原です」
受話器からのその声に、孝彰は思わず息を止めてしまった。
それは確かに真理恵には違いないのだが、しかし同時にとても真理恵だとは思えないほど低く押し殺したものだった。ぞっとした、というのが正直な感想だ。つい十五分前に聞いた真理恵の声がたとえ電話回線を通しているとはいえ、こうも変わるものなのか? 殆ど別人じゃあないか。
「あの……孝彰、だけど……」
間違い電話の可能性を捨て切れなかったので孝彰はおずおずと名乗る。一瞬の沈黙を置き、受話器から悲鳴にも近い真理恵の声が響いた。
「タク! タクなの? 何て! ……良かった」
震える声、泣いているらしい。でも、どうして?
「あの……母さん?」
受話器を強く握り、耳にめり込ませる。徐々に鼓動が増して行くのがはっきりと解った。
「タク、あのね……。とっても大事な日だって解るから、云わない方がいいかも知れないけど……でもやっぱり伝えておいた方がいいと思うの。だから……」
真理恵は酷く混乱しているようで、孝彰は「何?」と返すのが精一杯だった。派手な鳴咽をやり過ごし、真理恵は振り絞るように云った。
「……孝一さん、事故で病院に運ばれたって、さっき電話があったの」
孝彰は後頭部を力いっぱい殴られたようなショックを受け、その手から受話器が抜け落ちそうになった。家を出る時のあの電話だ。
「事故って……?」
「私は……そう、今から病院に行ってくるわ。今日中に戻れるかどうか解らないから、家に帰ったら病院に電話してちょうだい。病院の住所と電話番号は書き置きしておくから――」
「僕も行くよ!」
孝彰は受話器目掛けて怒鳴り付けた。訪れた暫しの沈黙は、孝彰には一時間くらいに感じられた。
「ねえタク……私、解らないのよ。孝一さんがどんな容体かも知らないから、タクにどう云ったらいいのか」
泣き声の間に言葉を挟むようだった。
「試験を頑張って欲しけど、もし孝一さんが……」
真理恵の言葉が切れ、孝彰の思考は音を立てるほどに駆け巡った。
今、この瞬間に自分がとるべき行動とは一体何なのか? どうするのが最も正しいのか、どれならば後で悔やまずに済むのか。そして、今の自分には果たして一体何が……出来るのか。
そこまで考えた時、唐突に冷静さが戻った。頭に上った血がさっと引き、孝彰は小さく深呼吸してから受話器を握り直す。エクスライナーの到着を知らせるアナウンスが駅舎全体に静かに響いたが、無視した。
「母さん、今から帰るよ。僕も一緒に病院に行く。そうしたい……いい?」
発した声の落ち着きぶりに孝彰自身が驚いた。
「……ええ、解ったわ。タク……ありがとうね……ごめんね」
かちゃりと音を立て受話器を置く。孝彰は公衆電話の前に立ったまま両目を閉じ、深い呼吸のもとで少しだけ考えた。
どうだろう? これで良かったのか……。やがてゆっくりと目を開き、そして――
「いいに決まってるよ!」
全力で駆け出したのだった。
七時十五分、特急エクスライナーと入れ違いで孝彰の自転車が駅を出た。
自宅前には黒塗りのタクシーが停車しており、その傍らに真理恵がいた。
息を切らした孝彰は自転車を玄関脇に放り込むとすぐに、真理恵にならってタクシーに飛び込んだ。
真理恵がぼそぼそと行き先を告げ、若い運転手の操るタクシーはするすると発進した。全力疾走してきた孝彰は、喘ぐような息遣いの横目で真理恵を窺う。
ベージュのスカートに臙脂色のブラウス、その上にダークグレイのダッフルコートを羽織っている。普段の薄い化粧は当然無く、その表情は蒼白の一言だった。しきりにまばたきを繰り返し、たっぷりとした唇は僅かに開いたまま何事かを呟いている。普段のあの笑顔は欠片も見当たらない。
すぐに住宅街を抜けたタクシーは、幹線道路に出てそのまま南下して行った。それはつい先程まで孝彰が向かおうとしていたのとちょうど正反対で、駅前ロータリーはどんどん遠ざかって行く。
車窓から覗く反対側、市街地方向の車線はいつもの如く物凄い渋滞だった。数メートル進んでは止まり、をひたすら繰り返している。これが午前中ずっと続くのだ。孝彰はこちら側が空いていることを心底ありがたいと思った。
車の流れは順調で、タクシーは二十分ほどで目的地の病院に辿りついたが、孝彰と真理恵はとうとう一言も言葉を交わさなかった。
そこは救急患者を受け入れる総合病院だった。
幹線道路から道一つ入った所にあり、広々とした車寄せと生い茂った緑を持つ静かな病院は、それでもやはり少しだけ気味が悪かった。静けさは不吉さをも同時に与えるのだ。
正面入り口から建物に入った二人はロビーに面した受付に赴く。
真理恵が受付のガラス小窓に顔を寄せ囁くように二言三言発すると、すぐに真っ白な女性看護師が一人、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら駆けてきた。二人はそのナースに連れられて広々としたエレベータに乗り、三階の小さな病室に案内された。
スライドドアをくぐり病室に入ると、医師らしき痩躯の男と看護師が三人いて、二人に気付いた面々が両脇に退くと、硬そうなシーツに包れて眠っている父親、孝一の姿があった。
「孝一さん!」
両手を口に当てた真理恵が駆け寄る。が、孝彰は入り口から一歩も動かなかった。いや、動けなかった。
孝一の傍に膝を突いた真理恵は、両目一杯に涙を浮かべ医師を仰ぎ見る。病室が異様な雰囲気で満たされ、孝彰は息をするのも忘れる思いだった。
「大丈夫ですよ」
痩躯の医師はそう云ってから小さく頷いた。それを聞いた真理恵はへなへなとその場に座り込み、まるで空気の抜けて行く風船のように孝彰には見えた。
崩れ落ちるように腰を落とした真理恵をナースが助け起こし、小さな丸椅子をあてがってから「御気分が優れない様なら……」と声を掛けた。真理恵は首を振って申し出を断り、かすかな寝息を立てる孝一を見詰めた。
頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、口には呼吸器、左手には点滴が繋がっている。が、胸の辺りが僅かに上下し、孝一の健在を暗に示していた。
医師は膝を落として真理恵を向き、
「意識が戻るまでもう少し掛かりますが、命に別状はありません」
と柔らかな口調で云った。真理恵は止めど無く溢れる涙を拭うこともせず、こくこくと頷いていた。
暫くして、真理恵が落ち着きを取り戻した頃、医師は状況と容体を掻い摘んで説明した。
それによると、孝一は今朝、今手がけている店舗物件の建設現場で、落下してきた鉄骨材の直撃を受けたらしかった。それが頭部だったこともあり、運び込まれた時はかなり危険な状態だったそうだ。
すぐに病院に運ばれたことが幸いした、と医師は包み隠さず語った。先の、命に別状はない、という説明は半分は正しく、半分は状況を見た上での彼なりの判断だったようだ。
一通り説明が終わり、二人を残し医師とナースは病室を出た。混乱と疲労でくたくたになった真理恵は孝彰を傍に呼び寄せ、頭を軽く撫でた。
「もう大丈夫だから、タクはお家に帰ってなさい。あとは私がするから、ね?」
その声色には既に生気が戻りつつあった。孝一の寝顔と真理恵を交互に見て、孝彰は小さく頷いた。
安堵した真理恵の様子に、孝彰は駅の公衆電話で自分がどんな判断をしたのか、そして、その判断に基づいた孝彰の役目はどうやら無事に終わったらしいことに気付いた。
そう、孝彰は何としてでも真理恵を助けたかったのだ。
子供の自分に何が出来るでもないが、それでも必死に真理恵を支えようとしたのだった。ただ横にいただけでどれほど役に立ったのかは孝彰には解らなかったが、ともかく、乗り切ったようだ。
孝彰は病室を出てエレベータに乗り、一階のロビーに向かった。
受付のナースが会釈をしたのでぎこちなく返すと、小窓の上に掛けてある時計が八時五分を示しているのが目に入った。今頃、エクスライナーはどの辺りだろう、そう考えると腹の辺りにずしりとくるものがあった。
自身の取った行動が間違いだとは思わなかったが、しかし、捨て去ったものがどれほどなのか、それもまた実感するしかなかった。真理恵が電話口で云った「ごめんね」という科白が頭を過ぎる。あの言葉の本当の重みを、孝彰は今になって痛感したのだ。
表の車寄せに出ると、先程は不気味と感じた緑が幾らかすがすがしく見えた。或いは励ましてくれているようにも。
孝彰は必死に考えた。
自分は決して間違っていないし、誰も悪くない。何もかも上手く行ったんだ、そう自分を納得させようとした。孝一は無事で真理恵が安心したのなら良いし、受験はやり直しがきくじゃあないか……。
だがその甲斐空しく、遂にそれは悔し涙となって零れた。
いっそ誰かが悪ければ楽だったのだろう、誰かに責任を押し付けられれば気が晴れただろう。孝彰はそんな誰かをとうとう見付けられず、結果、自分を嘲あざけることしかできなかった。
車寄せの脇にある数段の階段に腰掛け、がっくりとうなだれることしかできなかった。
渦巻く感情の果てで孝彰は、ふと思った。
こんな時にもしも……。
小鳥の囀りに混じって、ずっと遠くに何かが聞こえた。どうやら幹線道路を走る車の音らしい。どうともなく聞いていた地鳴りのようなそれは徐々に大きくなり……遂に!
「うわっ!」
突然全身を襲った爆音に、孝彰は思わず両耳を塞いで飛び上がった。音というよりもそれは衝撃波に近かった。
鼓膜はいうに及ばず、胸板のあたりまでも巨大な足で蹴られたようで、体が大袈裟に仰け反った。
孝彰の目の前、車寄せに巨大なバイクが猛速度で横滑りしてきたのだ。
数メートルを滑ったタイヤがアスファルト舗装に真っ黒な筋を刻み、白い煙がもくもくと立ち昇る。無骨な機械の塊といった風情のその黒いネイキッドバイクは一際大きな咆哮を上げると、唐突に静まった。
何が何やらさっぱり解らない孝彰はぽかんと口を開けたまま、その巨大なバイクを見詰めた。
ここは静かな病院であり、喧しい限りのそのネイキッドバイクは場違いどころの騒ぎではなかった。
しかし次の瞬間、孝彰は今度こそ目玉が飛び出るほど驚いた。
バイクと同じ色のツナギをまとったヘルメットのライダーは、孝彰に向け別のメットを放り投げると、右手で自身のフルフェイスのシールドを跳ね上げ、そしてこう云ったのだ。
「タク! まだ間に合うぜ! 早く乗れ!」
――神和彌子だった。
第八章~だからあいつはやって来た
こんな時にもしも……。
変身完了5秒前!
遂に目覚める正義の瞳!
黄金騎士 ハイナイン・プラス!
光速勇者 ハイナイン・プラス!
邪悪な奴らが降りて来る
僕らの街が狙われる
黒い叫びが耳を打ち
破壊の闇が現れた(無へ帰るのだ)
くすむ青空 割れる大地 濁る海原
誰もが諦め膝を突き
地球の嘆きが
こだまする
だから! だから!
だからあいつはやって来た!
次元の果てから飛んできた!
光の速さで 駆けつけた!
「スーパーヒーローなんていないというが
ここにいるから安心しろよ!
実はこの俺 スーパーヒーロー!
悪と戦う スーパーヒーロー!」
唸れ!(たぁっ!)
超絶! プラズマ・ガトリング!
響け!(そりゃぁ!)
完全! ブライト・ナックル!
閃け!(うおぉーー!)
最強! ディメンジョン・フィニッシュ!
変身完了5秒前!
遂に目覚める正義の瞳!
黄金騎士 ハイナイン・プラス!
光速勇者 ハイナイン・プラス!
彼が来るならもう大丈夫
地球の平和は彼が守る
全ての人らの希望を守る
正義の 正義の 正義の雄叫び
光速勇者ハイナイン(ハイナイン)
プラス!
「ミコ! どうしてミコが?」
両手でヘルメットを抱えた孝彰は、黒いネイキッドバイクにまたがる彌子を見て飛び上がった。
傍に寄ろうとするが膝ががくがくと震えて思い通りに動かない。彌子は顎をしゃくってバックシートを指し示し、アクセルを盛大に吹かした。
「タク! まだ終わっちゃあいないぜ! 光の速さで送り届けてやるから、しっかり掴まってろ!」
孝彰は慌ててヘルメットを被り、スポーツバッグを背中に担ぎ、彌子の細い腰に両手を当てる。
バックシートの孝彰を確認した彌子は二本指でシールドを叩き下ろし、直後、黒いネイキッドバイクは病院の外壁に咆哮を叩き付け、弾丸の如く発射したのだった。
余りの加速衝撃で首が引き千切られそうだった。
視界の隅に映るのは様々な色の筋でしかなく、景色を眺めるゆとりなど一切無かった。吹き付ける風が学生服の裾をばたばたと震わせ、強めの日差しによる温かさは一瞬で消し飛んだ。
エンジンの振動が体に直接響き渡り、聴覚は完全に麻痺している。
何が起きたのか、何が起ころうとしているのか見当もつかず、孝彰の頭は殆ど真っ白に近かった。五感の全てが頼りなく、ただ一つ、両手を通して伝わる彌子の体温だけが現実世界との接点となっていた。
フルフェイスから覗いた両目と発せられた声は、確かに神和彌子に違いないのだが、しかしどう考えても彼女な筈がないのだ。分かれて数日なので既に街にいない筈だし、再び会える機会は遠いとも云っていたし……朦朧もうろうとした意識で孝彰はあれこれと考えたが、それらもすぐに騒音にかき消されてしまい、後はひたすらしがみつくしかなかった。
内臓を攪拌するエンジン音とごうごうという風鳴りに混じり、彌子の鼓動が微かに感じられた。
どれくらいの時間が経過しただろう。一瞬のようでもあり一年のようでもある。
体が大きく揺れたかと思うと前後方向だった加速が突然真横に変わり、孝彰は振り落とされないよう必死で彌子の腰を締め上げた。体ががくんと揺れ、けたたましかったエンジン音が残響を残してぷっつりと途切れた。
歯を食いしばって目を硬く閉じていた孝彰は、バイクが止まったことに暫く気付かなかった。腰に回した腕をぽんぽんと叩かれ、孝彰はやっと両目を開き反射的に左右を振りかぶる。そしてそこに見えた光景に唖然としたのだった。
右手に佇んでいるのは赤茶けた煉瓦壁の工科大学……孝彰の試験会場だった。
よろよろとバイクを降りヘルメットを脱いで、孝彰は声も無く立ち尽くした。尖塔の頂き付近のブロンズ色の古めかしい時計は……九時五分。
「タク……」
背後から、さらさらとした声が聞こえ、孝彰はゆっくりと振り返る。
先刻とは打って変わって静かに寝入った大型バイクにまたがる、黒いツナギの人物。フルフェイスを小脇に抱えた彼女は、やはり彌子だった。
大きな瞳を幾らか細め、汗で張りついた前髪をグローブで無造作にかき上げている。孝彰は何かを喋ろうとしたが口がぱくぱくと動くだけで、言葉が喉に生まれてこない。
孝彰の様子を見て彌子は唇の端を歪め、にこりと微笑み、そよ風を思わせる調子で云った。
「あたしに出来るのはここまでだ。これから先は……タク次第だぜ?」
言葉を諦めた孝彰は口を固く結び、鋭い眼光を持って小さく、しかし厳格に頷いた。
背後を振り返って煉瓦壁を睨み付け、一歩踏み出し、再び振り返る。
微笑んだままの彌子が、右手親指を突き立てて孝彰に力強く向けた。
立ち止まった孝彰もまた右手の親指を突き立て、腕をぴんと伸ばしてゆっくりと彌子に向け、微かに口の端を上げた。
それはいつか、彌子がやってみせたような、「不敵の笑み」であった。
校内の薄暗い階段を慎重に昇る。
しんと静まり返った廊下に出ると、遠くで彌子の駆るネイキッドバイクの雄叫びが聞こえた。
ずしりと響くそのエキゾースト音は、まるで空に目掛けて撃ち鳴らされる号砲のようだった……。
第二話ED~鋼(はがね)の心
♪『鋼の心』by Raptorz
(TV「光速勇者ハイナイン・プラス」エンディングテーマ1)
(作詞:真樹卓磨/歌:橘綾/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲:真樹卓磨(B))
いつかどこかで出会った二人
言葉も顔も違うけど
君がもし 楽しいのなら
僕もきっと 楽しいだろう
君がもし 悲しいのなら
僕もきっと 悲しいだろう
宇宙そらの外れの小さな街で
静かに渡る淡い歌声
僕がまだ小さな頃
君はどんな歌を口ずさんでいたの
いつかどこかで出会ったなら
君の声を聞かせて欲しい
君の歌を聴かせて欲しい
いつかどこかで出会った二人
言葉も顔も違うけど
君がもし 寂しいのなら
僕が行くよ 今すぐにでも
君がもし くじけそうなら
僕が行くよ 今すぐにでも……
「光速勇者ハイナイン・プラス」次回予告
太陽表面の亜空間ゲートから次々と出現する未知の生命体・オブジェ。その六番目は人の姿だった。
オブジェを探知した露草率いるスペースガードJAのファイターズが、スクランブル発進する。
同刻、スペースガードUNが総力を挙げて建造した巨大宇宙戦艦バランタインが、遂に月基地・ルナリングを出航した。
正体不明のハイナイン・プラスに頼ることなく地球圏防衛を担う攻撃型巡洋艦はしかし、新たなオブジェに対して無力であった。
苦戦するバランタインに続き、ハイナイン・プラスに変身して人型のオブジェと対峙した速河久作だったが、自らを「マイナス」と名乗る白銀の騎士は、久作に、スペースガードに、そして人類全体に対して、完全抹殺を宣言したのだった。
ルナリングを背に、黄金の騎士と白銀の騎士が、その刃を交える。
――次回「対になるもの、マイナス」
『光速勇者ハイナイン・プラス』……おわり
- Starring -
Takaaki Sawara(age:15) third grade junior high school Ride Mazda Porter Cab
Marie Sawara(age:30) Ride granny's bike
Koichi Sawara(age35) Marie's husband shops designer Ride Maserati Quattroporte
Miko Kannagi(age:23) architect Ride Ducati Streetfighter 1099 & TVR Griffiths 500(second generation)
- HOMURA & Japan Spaceguard Agency "JSGA" -
Kyusaku Hayakawa(age:25) JSDF & HOMURA staff Ride Honda XL50S Honda BAJA250 "Shining Brave"
Yuu Kanou(age:24) JSDF & HOMURA staff Ride Honda Jorukabu & DODGE CHALLENGER SE COUPE
Norinaga Nagayama(age:60) HOMURA & JSDF staff Ride FORD SUPER DUTY
Kenta Tuyukusa(age:28) MIT Assistant Ph. Aoi husband JSGA Representative Ride FORD Pinto
Kyoko Sagami(age:32) Ph. Tsukuba Institute the authority of quantum mechanics Ride Aston Martin V8 Vantage Volante
Mamoru Hojo(age:25) JSDF & JSGA pilots Ride VTOL fighter Shooting Star Ride Suzuki Hopper & Dodge Durango SLT
Kaoruko Suga(age:30) JSDF & JSGA pilots Ride VTOL fighter Shooting Star Ride Maserati Spyder last type
Geniti Inui(age:38) JSDF & JSGA pilots Ride JFⅡ Sonic fighter Ride Jaguar XJ40 Sovereign
Ranco Ootori(age:33) JSDF & JSGA pilots Ride JFⅡ Sonic fighter Ride Fiat Panda model first A-segment
- JSDF -
Ryo Wakita(age:45) JSDF Lieutenant Ride GMC Conversion Bandyura Challenger
Yasuo Nizuka(age:35) JSDF sergeant Ride Daihatsu YRV
- "Ooto private school" 1-C & 2-A & 2-C "Raptorz" rock band -
Yusuke Kanou(2-A) Lead guitar & side vocals Ride Kawasaki AR50
Takuma Maki(2-A) Bass & Lead Vocals Ride Yamaha Passol
Shouji Oomiti(2-C) Drums and backing vocals Ride Suzuki Mode GT
Aya Tachibana(1-C) Lyrics & Lead Vocals
- Other People -
HOMURA staff
JSDS staff
JSDS Audience
Ph. Tsukuba staff
Chief clerk
Son
Manager
Housewives
Classmate
Kouhei Tsuji "Cherry beans" Master Ride Citroen BX
Gray nurse
Doctor Be Together
- Shining Brave High Nine Plus -
THE END
「光速勇者ハイナイン・プラス」次回予告
太陽表面の亜空間ゲートから次々と出現する未知の生命体・オブジェ。その六番目は人の姿だった。
オブジェを探知した露草率いるスペースガードJAのファイターズが、スクランブル発進する。
同刻、スペースガードUNが総力を挙げて建造した巨大宇宙戦艦バランタインが、遂に月基地・ルナリングを出航した。
正体不明のハイナイン・プラスに頼ることなく地球圏防衛を担う攻撃型巡洋艦はしかし、新たなオブジェに対して無力であった。
苦戦するバランタインに続き、ハイナイン・プラスに変身して人型のオブジェと対峙した速河久作だったが、自らを「マイナス」と名乗る白銀の騎士は、久作に、スペースガードに、そして人類全体に対して、完全抹殺を宣言したのだった。
ルナリングを背に、黄金の騎士と白銀の騎士が、その刃を交える。
――次回「対になるもの、マイナス」
『光速勇者ハイナイン・プラス』……おわり
光速勇者ハイナイン・プラス