ニーナ!
元気ですか、ニーナ。
僕は相変わらずの毎日だよ。いつだって目を回していて、みっともないったら。
そういえば最近はずいぶん暑くなってきたけれど、君のところはどうだろうね。
いや、皮肉じゃないさ、君の夏嫌いは僕がいちばんによく知っているつもりだよ。
そうだ、夏といえば、君はお祭りの金魚すくいがたいそう好きだったろう、捕るのはあんまり得意じゃなかったようだけど、いや、怒らないでくれよ、ともかく、そう、金魚だよ。
飼っていた金魚を死なせてしまったんだよ。
つい昨日のことさ。
塩の大袋を出して、君も台所できっと使うだろう? そう、塩の袋だ、それを小分けにしようとしていたのさ。
食卓に出す塩なんて少しでいいからね。
それで何が起きたかって話だね、そう、袋の口を開けて、持ち上げたその瞬間さ、不幸なことに、うっかりそれをこぼしてしまったんだ!
金魚鉢の、まさにその中にだよ、結構な量が溶け込んでいったのさ。
塩のかたまりが、白いあの塩が、みるみる内に水と混じって、当然僕はパニックさ。
金魚も何が起きたかなんてまるでわかっちゃいない、赤い体をいそがしくひらひらさせて、溶けかけた塩をつついてるんだ。
それだけだったらまだよかったんだ。
僕がすぐに袋をおいて、なにか別の茶碗でも用意して、金魚を移しかえればすべて穏便に片づいたはずだったんだよ。
ところが、ところがだよ、ものごとってのはそううまくはいかないものさ。
そのあと何が起きたと思う?
ほんとうに情けないことだけど、僕は急に貧血を起こして、立っていられなくなってしまったのさ!
ふらふらの僕が薬を探して飲み終えて、ようやく金魚鉢のところへ戻った頃には、あいつらは腹を天井に向けて浮いてしまっていて、それきりさ。
むずかしいことがあるとね、ニーナ、僕は家を飛び出して、空き地で拾った椅子に腰掛けるんだ。
僕がその椅子に座れば、椅子はぐんぐん脚を伸ばして、気がついた頃には僕は高い高い空の中さ。
そこで僕は、自分の空っぽのあたまにこびりついた泥と苔と大量の灰汁をこそぎ落とす作業に没頭する。
地表よりもずうっと高いところから、人格を取っ払われたひとの群れが、蟻の一団みたいにぐちゃぐちゃ動いているのを見ていると、なんだか僕は世界と、ひとりっきりになったように気分になってね、いや、いや、勘違いしないでおくれよ、ニーナ、君が嫌いってわけじゃないのさ。ただ、そうやって、ここには世界と、僕だけだっていうことをしみじみ感じているとね……
まってくれ、ニーナ! なしだ、全部なしだよ! 忘れてくれ、到底無理な話なんだ!
塩をつつく金魚を見ながら、僕が何を思い出したかわかるかい?
……君だよ!
あの魚、そうさ、あの赤い魚は君だったんだ!
一体なんてことだろう、僕は気づいてしまったんだよ、本当にどうしようもないことなのに。
まいにち糞をひりだしながら、降ってくる餌を待つばかりさ、何千回、何万回の、おはようと、いただきますと、さようならを繰り返して!
闘魚と同じ水槽に入れられて、食べられるのを待つだけの一生だったならどれだけ楽だったか、
水はすっかり腐ってしまっているし、君は……
……いや、そんなことは大きな問題じゃないんだ、本当にたいへんなのは、そうだよ、その時のはなしさ。
あの時、僕は、貧弱な自分を放って金魚の処置を優先することを良しとしなかったのさ。自分の芯や意義を保とうとするくだらないプライドにぶら下がって、ニーナ、君を愛することは、……
昨日、僕はどうしても、そこについて考えるのをやめることができなかったんだよ!
……すまないね、ニーナ、僕は毎日こんな調子さ。
書き始めた頃は真昼だったのに、今じゃもう窓の外は夕暮れだ。
秋になる前にまたそっちに行けたらいいな。君の喜ぶおみやげも忘れないよ。
たくさんの金色の豊穣が君の畑に実りますよう。
それじゃあ、また。
ニーナ!
2012年 6月 むぎわら