男か女か
数メートル先には噴水が寒々と水しぶきを上げている。春先というの今にも雨か雪でも降りそうな雲の垂れこめた空である。都心の公園に座って、小暮は不機嫌になっていた。それは陰気な気候のせいではない。あの言葉が甦ったのだ。あの侮辱的な言葉が。
『小暮さんって、得体が知れないわ。髪が長くて、女みたいだし』
同じ課の女子社員から間接的に知らされ、彼はひそかに怒った。それを口にしたのは庶務課の中谷菊子という中年だ。あれから三日が過ぎた。その間ずっと囚われていて、妄想で暴力を奮ったりした。これから友達と映画を観に行くところだが、ここでもまた同じ思いに引き込まれていた。
彼は貿易会社に入社して半年しか経っていない。同僚達にうまく溶け込めずに浮いていた。そんなところが誤解を与えているのだろう。きっと中谷の見方は社員達の認識を代表しているのかもしれなかった。どうあろうとも、許し難いことだった。憎いことに社内では評価の高い女だ。知的で、機知に富んだ聡明な人柄だとか、女手一つで子供を育てているとか言われている。小暮も敬意の念を払っていたが、一挙に変わってしまった。彼女の体制順応的な教養が胡散臭く見えた。無論このままでは腹の虫が収まるわけはない――。
鬱々としていると、足音がして人が近くに来た。今気がついたが、ベンチのかたわらに自転車が立てかけてある。ジョギングか何かしてきたのだろう。持ち主がベンチの端に腰を下ろしたとき、彼は何気なく横顔を見た。それから妙なことにこだわりだした。男か女か外観から容易に識別できないのだ。視野の隅でとらえた限りでは、髪は何型なのか男女どちらとも取れる。色白で眉は濃く、切れ長の目をしている。服装はフードのついた水色のウインドブレーカーにジーパン姿。残念ながら胸のふくらみは見えない。男のようであり、女のようでもある。一体、どっちなんだろう。好奇心をかき立てられたけれども、こうしているだけでは確かめる手立てはない。話しかけるわけにもいかなかった。間もなく、思いがけない機会が訪れた。彼また彼女の所に子供達のサッカーボールが飛んできたのだ。小暮はとっさに声をかけた。
「危ないですよ」
「大丈夫です」
女の声だった。彼女はボールを受け止めると、すばやく投げ返した。その手慣れた動作は板についていた。
「お上手ですね」
「ええ、これくらいは……」
笑顔を浮かべた。未知の女性に親しみを感じ、つい尋ねた。
「何か運動をしているのですか」
「ええ、山歩きをしています」
「ぼくは登らないけど、テレビで観るのは好きです」
「私は山が大好きなの」
話してみると明るくて気さくで、見知らぬ彼に少しも警戒しなかった。中谷のように変な人間扱いにするようなことはない。
「あなたは学生でしょう」
「ぼくは二部の大学にいっています。昼間勤めて」
「私は体育大学なの」
「ぼくは文学部だけど」
「小説家を目指していらっしゃるの」
「まあ、そんなところです」
図星をさされた。本を手にしていたからだろう。
「私、ヒマラヤ山脈トレッキングするのが夢なの」
「面白そうだね。ぼくは書くことが生き甲斐です」
「小説家って、恰好いいわね」
「でも、昔ほどじゃない」
彼は最近読んだ大江建三郎の『さようなら、私の本よ』の中のフレーズを話した。小説家は文化英雄ではない。今はアニメーションの監督とか、ポピュラー音楽の作り手とか、IT産業の企業家に移ったと。彼女は頷きながら聞いていた。
「小学生の頃は、小説家が一番偉いと思っていたけどね」
「今は文化が衰退しているのよ」
「ますますだね。でもぼくは書くよ」
「あなたは、いい意味で異端者に見えるわね」
「かもしれない。人からそういう目で見られているから」
そんな話をしていたら待ち合わせの時間が来た。友人が映画館の前で待っている。また会ってほしいと言ったら、連絡先と名前を教えてくれた。伊東由香といい、いい印象を抱いて別れた。
三ヵ月間が過ぎた。由香とは三度ほどデートして親しくなった。その日も会うことになっている。暖かい陽気だった。会社の帰りで、いつもの停留所で待っていると、どういうわけか、中谷菊子がこちらにやってくる。彼女の姿を見たとたん、(ふーん、得体が知れなくて、女みたいだって)と対抗的な気持ちになった。長い髪をバッサリ切ってイメージを刷新したから、男らしくなったろう。中谷は毎日、中央線を利用しているが、今日は違うようだ。同じバスに乗り合わせたくないものだと思っていると、小走りに駆けてきた。バスが停まった。中谷を尻目に最後尾の座席に座った。敵をまいたつもりだが、彼女はすぐ後から来て、
「ここに座ってもいいかしらん」
断った。彼女はよそよそしい小暮を気にして、修復したがっているのかもしれなかった。何が原因で気分を害しているのか、知らないだろう。彼もいつか決着をつけたいと考えている。
「私、M町でお買物をするの」
彼は特に答える言葉も浮かばなかった。黙っていると、
「小倉さんはデートでしょう」聞いた。
「さあね」
「恋人いるでしょう」
「そりゃ恋人くらいいますよ」
「ほら、やっぱりね」
「こう見えても、ぼくもれっきとした男子だから」
「若い人って、いいなあ」
彼女は小暮のことなど無関心なくせに、理解ありげな顔つきをした。芝居がかかっているので煩わしかった。話したくもなかった。沈黙しがちになると、中谷があることに関心を持ち出した。途中から乗った乗客に男装の女がいて、同じ最後尾の反対の窓際に座った。そして、もっぱらそのほうに注意を向けた。短い髪を七三に分け、渋い焦げ茶のスーツにネクタイをしている。上品な年増で、崩れたところがなくて、独特の気品が漂っていた。水商売をしている人かもしれない。
菊子は最初はそっと見ていたが、少し身を乗り出すようになった。少々露骨ではないかと他人事ながら気になった。その様子には無意識の蔑みが感じられた。止めさせようとして軽く咳払いをした。
バスがM町の一つか二つ手前に近づく頃、男装は降りる支度をした。立ち上がると菊子のほうに静かに近寄ってきた。小倉はわけもなく胸が高鳴った。何か起こりそうな気がした。男装は正面から怜悧な視線を向けて、
「あなた、ジロジロ見るのはエチケットに反しますよ。謹んでくださいな」
リンとした声を放った。近くの乗客が何事かと二人を見た。菊子は赤くなって顔を伏せた。小暮もいたたまれず、視線をそらした。すぐに男装は立ち去った。撫で肩の華奢な後ろ姿に目をやり、何と人間的な繊細な体つきをしているのだろう――と感動さえ覚えた。
やがてM町で降りた。中谷菊子は我に返ったように、
「私、あの人の言うような失礼な振る舞いをしたのかしら」小暮に聞いた。
「彼女の言う通りです」
「もし、そうだったら、いけないことをしたのね」
「そのようです」
「ちょっと見ただけよ」
「かなり見ていたけど」
「そうかなあ」
「ぼくの場合も……」
今となっては、前のことを言う必要はなくなった。中谷菊子は罰のように恥をかいた。自分のことは忘れてもいい。二人はバス停の前で右と左に別れた。地下鉄M町前には由香が待っていた。やあ、と手をあげた。
「きみの髪、だいぶ延びたね。初対面のときは男か女か分からなかったよ」からかった。
「ショートカットのときは、間違える人もいたわ」
「でも、今は誰が見ても女だよ」
「それなら嬉しいけど」
二人は手をつないで歩き出した。
男か女か