ブリンスミード・ストリート
いつ書いたのかな・・・。
たぶん、学生の頃でしょう。暇な方は読んであげてくださいな(笑)
二十世紀初頭の作家、スティーヴ・ウェインは、彼が生まれ育ったオーストラリア北部を拠点にいくつもの地を廻りながら、訪れた地を舞台に多くのロード・ストーリーを執筆した旅行作家である。
彼は多くのロード・ストーリーを執筆した割には生涯オーストラリアから出ることはなかったが、彼の愛した大陸は、生涯をかけるに値する壮大さを誇った。広がる大地と海の深い蒼。それらは見る者全てを圧倒する。
彼は自身の著書に、自分が生まれ育った街、ケアンズをよく登場させた。世界最大のサンゴ礁、グレートバリアリーフと最古の熱帯雨林、キュランダに囲まれた美しい街だ。青く広がる海を横目に何を見て、何を思い過ごしたのだろう。彼は今でもその地に眠っている。
彼は決してその名を知られた作家ではなかった。一時期は数冊の著書が翻訳され海外でも売られてはいたものの、晩年は初版で終わることも多く、そのままあまり知られることなく生涯を閉じた。
しかし、彼の悩みは伸び悩む売上よりも、四十代前半から始まった強烈な偏頭痛と幻覚だったのではないだろうか。彼の日記には、スキー板を担いだターザンに四六時中追い回される苦しみが、淡々と描かれていたという。その精神的苦痛を周囲に訴えたが、結局誰も理解を示してくれず、六十八歳の夏、肝不全によって帰らぬ人となった。
全ての人が去ったあとでも、彼に寄りそい続けた妻のニコルは、その死に顔を、とても落ち着いたいい顔だったと語ったという。きっと、彼はターザンから逃げ切ることができたのだろう。
私は手に持ったビールの空き缶を軽く振った。中に入ったゴミが遠慮がちにかさかさと小さな音を立てる。中を満たしていたビールは、もう一時間以上も前に飲みほしてしまっていたが、私は近くにあるゴミ箱に捨てられずにいた。立ち上がって捨てに行くのが面倒ということもあるが、空き缶の中で頼りない音を立てるゴミと、今の自分を重ね合わせてしまい、妙な親近感を持ってしまったのだ。
正直に白状すると、不覚にも二言三言話しかけてみたいりもした。断っておくが、他愛のない挨拶のようなものだ。もちろん返事など返ってくるはずもないのだが、私は自分で空き缶を振ってカサカサという些細な相槌を作りだし、満足していた。
先月、長年勤めていた会社から突然リストラを言い渡された私は、その事実を受け入れらず、また妻に打ち明けることも出来ずにいた。文字通り、抜け殻のようになってしまったのだ。なぜ自分がリストラの対象になったのかも考えず、私はただどうやって毎日をやり過ごすか、それだけを考えて過ごした。
朝、背広を着ていつもと同じ時間に家を出る。電車に乗って街まで出ると、もうどうすればいいのか分からない。仕方なくカフェに入りコーヒーを飲み、漫画喫茶に入って時間をつぶす。長くて暗い一日の繰り返しだった。
そんな生活を二週間ほど続けたある日、たまたま立ち寄った古本屋で昔の漫画を読み、そこに登場するキャラクターの、眼は前進する為に前についているんだというセリフに感動した私は、第一歩として妻にリストラの事実を打ち明けた。
私がささやかながらありったけの勇気を振り絞って真実を打ち明けた時、彼女は驚きや失望、軽蔑といったあらゆる負の感情を一緒くたにしたような表情で、私をまじまじと眺めた。動揺を隠そうともしなかったが、しかし何を言うでもなくそのまま寝室に入ってしまった。
私は体中の穴という穴からエネルギーが抜けで行くのをひしひしと感じ、その夜は妻とは違う部屋で寝ることにした。とてもじゃないが、同じ部屋で寝る気にはなれなかったのだ。
昼ごろ、起きてリビングルームに行くと、妻は置き手紙一枚と私の数少ない私物、持ち運べない家具類を残して、夏休みということもあり、中学一年になる娘と一緒に実家に帰ってしまっていた。全然気づかなかったのかと言われれば、面目ないとしか言いようがないが、しかし朝方に物音がしたという記憶もないのだ。
その手際の良さに、私は落ち込むよりも感心してしまった。笑うほかなかったと言ってしまってもいいかもしれない。普段はテレビのリモコンを取ることすら面倒くさがっていたのだが、ここ一番のエネルギーの解放は、稀にみる迅速さであった。
ひょっとして薄々気づいていたのだろうか。しかし、あの驚きような本物としか思えなかった。きっと妻は、私が長年気付かなかった判断力と行動力をコロコロ太った体に秘めていたのだろう。やる時はやるのだな、と思ったが、出来ればやらないでいただきたかった。
そうして一人になった私は、何度かけても電話にでない妻の代わりに、昔娘に買ってやった豚のぬいぐるみを相手に話をした。
どうせ今更仕事なんか見つからない。
生きていてもいいことなんか何もない。
後ろ向きで前かがみな言葉しか出てこなかったが、話していると少し落ち着くような気がした。思いを吐き出すことができれば、相手は何でもよかったのだろう。
どうでもいい話かもしれないが、この豚のぬいぐるみは私の私物とみなされて置いて行かれたのだろうか。・・・・・・。まあ、いい。
いつしか私は、小さい頃よく父親とキャッチボールをしていた土手に腰かけてビールを飲む習慣が出来た。私の父は、菩薩様の優しさをもってしても「悪い」としか言いようのない運動神経の持ち主だったが、「日本の親子はキャッチボール」という、どこかキャッチフレーズのような固定観念のもと、半ば強迫観念に駆られて私とキャッチボールをしていたように思う。そのせいか、私は野球観戦は好きなのだが、いまだにキャッチボールはあまり好きではない。あの日の父親の形相が脳裏にちらつくからだ。娘が生まれた時は、キャッチボールはしなくてもいいと、少し安心したものだ。
勿論昼間は新しい職を見つけるために職安に通ったり、就職情報誌を読んでは従業員を募集している会社に電話したりしているのだが、私の年齢で目立った資格もないと、仕事を見つけるのは困難を極めた。
「三十歳での転職。やっぱり怖かったですよ(笑)」
就職情報誌の表紙で白い歯を見せびらかす男が、ただひたすら疎ましかった。
昼間現実に打ちのめされた私は、夕方こうしてビールに救いを求めるのだ。
人生の転機が訪れたのは、私が一通り打ちのめされ、近所のおばさんのひそひそ話のレパートリーを尽きた頃だった。
元来、趣味といえば野球中継の観戦くらいで、家族に去られてからは食費以外にほとんど金を使わなくなった私は、大きな無駄遣いさえしなければこの先十分やって行くだけの蓄えがあったこともあり、正社員としての雇用は諦め、近所の古本屋でアルバイトを始めた。妻に真実を打ち明けるきっかけを与えてくれた古本屋だ。
いわゆるフリーターである。収入こそかつての三分の一程度に減ってしまったが、妻と娘に去られた無趣味の中年男が独身貴族をたしなむには、十分な額だった。
幸運、と言っていいものなのかどうかは迷うところなのだが、私が勤める古本屋には、私とよく似た境遇の笠縫源三郎という、戦国武将のように粋な名前を持つ、私と同じくらいの歳の男性がおり、彼の影響もあってか私は世間体というものをあまり気にしなくなっていた。
笠縫氏は以前、大手かつらメーカーに勤めていたらしい。ところが一年ほど前にその会社の社長が急逝し、二代目である息子が後を継ぐことになったのだが、この二代目は家業を嫌い、笠縫氏曰く「何を血迷ったのか、急に色気づきやがって」多角経営に乗り出し、「かつらの毛先ほどもない脳味噌をボンクラなりにフル活用してみた」のだが、彼の経営はすぐに暗礁に乗り上げ、あげく「頭どころかケツの毛まで引っこ抜かれて」会社はスピード倒産してしまったらしい。笠縫氏は「ケツの毛は俺たちの専門じゃねえわな」と言ってからからと笑った。迷いのない、いい笑顔だった。
彼も私と同様独り身で、この先食べていくには困らないだけの貯蓄があったことから、さほど迷うことなくフリーターに転身したらしい。今ではこのきままな生活が気に入っているという。
共にフリーターで独身の中年。付け加えるなら中肉中背。二人はすぐに意気投合した。何でも豪快に笑い飛ばす笠縫氏と、どちらかといえば思慮深く物静かな私とでは性格は正反対なのだが、それがかえってよかったのだろう。ひと月も経つ頃にはかなり仲良しになり、互いの家を行き来するまでの仲になっていた。
彼は、本人には決して言えないが、その野武士のような風貌に似合わずワインをたしなみ、酔うと決まって薀蓄を語りだす。しかし、彼にかかるとほとんどのワインはロシア皇帝かイギリス女王陛下が愛した高級ワインに姿を変えてしまう。スーパーで買った一二〇〇円のワインが、実はタイタニック号に積まれていた伝説のワインだったこともある。
彼は休みの前日には必ず私の家にやって来てソファに腰をおろし、ワイン片手に意気揚々と語りだす。
「なあ、シゲちゃん。俺、最近思うんだよ」
彼は話の内容や時系列に関係なく、いつもこう切り出す。
「人生って何が起こるか分かんねえもんだな。でもよ、何が起きてもそう悪くない。そうだろう?結局、幸せってのは起きたことをどう腹に収めるか、それに限るんじゃねえかな。そりゃこの歳で会社が潰れた職失ったじゃ、世間様は同情するし、自分のことじゃなかったら俺だって同情するさ。でもよ、今のこの暮らしは全然悪くねえ。確かにフリーターって身分を不安に思う時もある。でもいい暮らしだよ。だからさ、俺はこれから起こること、全部楽しもうって決めたんだ。だから、ささ、乾杯だ!」
そして笠縫氏は赤くなった顔一面に笑顔を張り付けながら、更にワインを傾け、大きないびきをたてるのだった。
家にいてもすることがないと、いつでも喜んで出勤してくる私たち二人は店長に大いに気に入られ、あらゆる仕事を任されるようになっていた。その日任された書庫整理も普段なら正社員の仕事である。と言っても、この仕事は単純極まりなく、ミスをすることの方がよっぽど難しい。故に私たちはこの仕事中はいつも雑談に花を咲かせている。
笠縫氏は映画好きで、それは一週間見ないと禁断症状を起こすくらいの中毒らしい。これも本人には決して言えないが、顔に似合わずラブ・ロマンスが好きなようで、最近のお気に入りはオードリー・へプバーンだという。随分と昔の女優だし、お気に入りというには偉大すぎるような気がしたが、笠縫氏は「本当の名優には時代なんか関係ない」と主張し、その後は決まって「スクリーンの妖精ってのは、永遠なんだよなあ」と、遠い目をして夢見心地に言い、ため息をつくのだった。
彼は本当に多くの映画を知っていて、その映画の裏話をよく知っていた。なぜその俳優が起用され、代わりに誰が降板したのか。どの台詞がアドリブで、どのシーンが偶然によって撮影されたのか。どの俳優がミュージカルの弁護士役のオファーを断って後悔しているのか。
笠縫氏は映画のことになると、本当に楽しそうに話をする。そんな彼を見ていると、こっちも楽しくなってくるのだから、笠縫氏も得なお人である。
私がスティーヴ・ウェインの小説と再会したのも、書庫整理の仕事中だった。私と笠縫氏はワゴンセールに出す為の、少々傷んだり古かったりする本を選んでいたのだが、その中に彼の小説が含まれていたのだ。
「ある坂道の夏」という名のその短編集は、私が高校生の頃に読んだ本で、スティーヴ・ウェインの初期の作品なのだが、それを読んだ時のことは今でも鮮明に覚えている。
表題作である「ある坂道の夏」は、スティーヴ・ウェインがケアンズでの体験を基に書いたロード・ストーリーで、広大な海を横目に自由な旅を続ける主人公に、高校生だった私はすっかり魅了されてしまったのだ。いつか自分もこの小説の主人公のような旅をしてみたいと思っていたのだが、旅どころかサイクリングさえろくにしないままこの歳になってしまった。私は早速自分で選んだセール品を買い取り、家に帰った。
その次の日は休みだったので、私は朝からゆっくり読もうと、高校生だったあの頃の興奮を再び味わおうと、仕事が終わると同時にスーパーマーケットに出向き、普段はあまり買わないような、多少値の張るチーズとワインを購入した。そして帰宅すると押入れの中から当時よく聞いたレコードを引っ張り出した。ウィリー・ネルソンが一九七八年に発表した名盤、「スターダスト」だ。もう何年も忘れていた小さな幸福感だった。
翌日、十時頃に目を覚ました私は、昨日用意しておいたレコードをかけワインの封を切り、ソファに腰掛け「ある坂道の夏」のページをめくった。
これほどゆっくりとして落ち着いた時間を過ごすのはいつ以来だろうか。思えば、社会に出た頃から、ずっとせかせか生きてきたように思う。
読み進めていくうち、私の中で何かが弾けるのを感じた。それは驚くべき体験だった。どこか深い洞窟の奥で、一滴の水が地面に触れるような、そんな静けさで始まったかと思うと、その感覚は次第に大きくなり、若者の特権とでも呼ぶような特殊な興奮が、私の血管の中で赤血球を押しのけ高速で走り回った。そして読み終わる頃になるとその興奮は、狂気にも似たエネルギーの爆発となり、私の全神経を隅々まで所狭しと駆け巡った。足りなかった人生の一ピースが、やけにたくさん見つかった気がした。高校生の時よりも興奮していた。
次の日、私は早速笠縫氏にその出来事を話してみた。出来事といっても、中年男が一人、部屋に籠って脳内麻薬を過剰に分泌させたというだけの話だったのだが、私にとっては大きなことだ。
笠縫氏は映画好きだ。この手の話が好きに違いない。話してみと、彼は私の予想以上に食い付きが良かった。私の旅に対する憧れも願望にも、彼は独自の解釈で共感してくれたようだ。彼が先週、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが出ているロード・ムービーを見ていたことも大きな要素になったようだ。
もし旅をするなら――。
行くあてなんかなくてもいい。例えばの話だが、晴れた海辺をオープンカーで颯爽と走り、全身に風を受けることができたなら、どれほど気持ちいいだろう。流れる時間と別れ風と一つになり、最高級のジョニー・ウォーカー・ブルーラベルをボトルごとラッパ飲みする。そして何でもいいから大声で喚き散らすのだ。今まで使ったことがないような汚い言葉も躊躇なく使ってみる。そして世の中の全てを、大声で笑い飛ばすのだ。
それ以来、私たち二人は書庫整理の時間を、もっぱら妄想をふくらますことに当てることになった。退屈だった書庫整理の時間が、楽しくて仕方のない時間になった。
いつものように、仕事が終わった後私の家でワインを飲んでいる時だった。一カ月以上経っているこの日もまだ旅の妄想で盛り上がっていた。
「なあ、シゲちゃん。俺、最近思うんだよ」
「なんだい」
「俺たちゃもう歳だ。じじいと呼ばれるにはまだちと早いが、中年時代の出口もそろそろ見えてきた」
「まあ、そうだねえ」
「そこで、なんだよ。俺はずっと考えてたんだ。俺たちには何のしがらみもねえ。未来と言えるほどの後先だって残ってねえし、この先見たい孫の顔だってありゃしねえ」
孫の顔に関しては、私には少なからず可能性が残っていると思うのだが、まあ、いい。
「これと言った支出もねえから金はある。アルバイトだからそれなりに時間も取れる。どうだい、シゲちゃん。俺の言いたいこと、分かってくれるだろ?」
もちろん分かる。
「全部やろうとは思っちゃいねえよ。映画みたいにいきゃあしないもの分かってるさ。それにそんな体力が残ってるわけでもねえ。だからさ、これだってのを一つ、どうだい」
今までの膨大な量の妄想が、頭の中でぐるぐると渦巻く。京都で舞妓さんの帯をくるくる取ってお代官様、万里の長城で世界最長ボーリング、バッキンガム宮殿の衛兵とにらめっこ。まったくもって現実的ではない。舞妓さんの件に関してはやろうと思えば出来なくもないかもしれないが、二人の中年男性が終盤に向かう人生の節目を定め、大きな決断をもってして行うことかといえば、やはり現実的ではない。
悩む私の思考を押しのけ、一つの感情がふつふつとわき上がって来た。
興奮だ。
私の表情を読み取ったのか、笠縫氏はにんまりと笑い、私の目の前にグラスを差し出した。
「どうだい、シゲちゃん。明日死ぬと分かっても、それを笑い飛ばせるほどでっかい旅を、やろうじゃねえか」
ワイングラスがぶつかりあい、歓喜の音をたてた。
清々しい空気だ。空は晴れ渡り、全てを受け入れるような青い海と世界を彩る白い雲、二つの色のコントラストが美しい。海はどこまでも穏やかだ。私はその偉大さを再確認し、ただただ圧倒されるだけだった。
傍らには中古のオープンカー。その後部席にはジョニー・ウォーカー・ブルーラベル、大量の酒のツマミ、太平洋沿岸の地図に酔い止めの薬。私の横には腰に手を当て仁王立ちになり、顔には妙に不敵な笑みを張り付けている笠縫氏が、ひたすら海を眺めていて立っている。
去年の暮れ、私たち二人はアルバイト先の店長に頼み、長期休暇を貰った。忙しい時期を外すことと旅のお土産を買うことを条件に、普段から働き通しだということと、まだまだ先の話だということもあり、意外と簡単に話はついた。ひょっとして自分たちは実は必要とされていないのではと、疑いたくなるほどだ。リストラ経験者の私はそういうことには敏感なのだ。
二人で話し合った結果、結局夏の太平洋沿岸をオープンカーで旅をすることに落ち着いた。笠縫氏は京都での乱痴気騒ぎを主張したが、「ショーシャンクの空に」のラストシーンを見せることで決着を見た。ボートが欲しいなどと言いださなければいいが。
笠縫氏は血沸き肉踊る冒険も期待していたようだが、現実問題としてそれはかなり難しかった。長い間運動らしい運動をしていなかった私たちの体力の限界点は、出発点のすぐ側にあるのだ。
そして今、私はここにいる。
海から顔を出すいくつかの岩が、まるで私たちを歓迎しているようだ。吹く風が私たちを包み込み、私の心は目の前に広がる海のように穏やかで満ち足りていた。
「ゲンちゃん、思い切ってやってみてよかったなあ、旅。まだ一日目だけど、なんだかさっそく目標達成したような気分だもんな」
「何言ってんだシゲちゃん、まだ始まってもいねえよ」
先日見た映画のセリフをマネしながら、笠縫氏は大きく伸びをする。
この後はこの海を横目に、ひたすら南下する予定だ。南に行って何があるかは分からないが、それこそが今回の旅の醍醐味だ。何も分からない。 だから前に進むのだ。
目的はあるが目的地はない。この旅の先で私たちを待っているものは分からないが、何かと出会うのは間違いない。そんな気がする。そしてその何かを見つけた時、そこが目的地になる。
中年よ、大志を抱け。
「よし、シゲちゃん。そろそろ出発しようか」
笠縫氏がサングラスをかけて不敵に笑う。
私はもう一度広い海を眺めた。旅の出発点であり、第二の人生の出発点でもある。その名に相応しい、どこまでも壮大な空と海の青が広がっていた。
私が車の方に目をやると、笠縫氏は助手席に座って早速ジョニー・ウォーカーの封を切っている。
唖然とする私の先を行くように、笠縫氏が口を開いた。
「大丈夫だよシゲちゃん。明日はずっと俺が運転するから」
そう言ってラッパ飲みをする。ブルーラベルは思いのほかきつかったらしく、笠縫氏は眉間に深い皺を作り、喉元から絞り出すように息を吐き出す。
「・・・・・・うめえ」
腹の底から無理にひねり出すような声だ。私たちは大声で笑いながら、車の速度を上げていく。
遮るものがない太陽の光が眩しい。潮の香りを含んだ風が頬を叩く。笠縫氏の頭頂に少しだけ残された毛は、まるで台風の中で揺れる一房のオアシスのようだ。何もかもが新鮮で、今この瞬間が楽しくて仕方がない。変わることのない景色の中で、私たちの人生だけが変わって行くようだった。数か月前、人生に打ちのめされていた男はもうどこにもいなかった。
会社をリストラされた。妻と娘に去られた。それがどうした。笠縫氏の言う通り、人生何が起きてもそう悪くない。リストラされたから、妻と娘に去られたから、今ここでこうしていられるのだ。何が起こっても、それは考え方一つでどうとでもなるのだ。
旅の初心者である私たちは陽が高いうちに宿を探すことにした。宿泊場所を確保した方が落ち着いて旅ができるからだ。木造建築二階建て、昔ながらの民宿希望。おばさんが若い娘と二人で細々とやっているような民宿があれば、それがロマンというものである。
幸いここは観光地、民宿はたくさんある。飛び込みでも十分に宿を確保できるだろう。私たちは空いていそうな民宿の前に車を止め、中に入っていった。
「すいません。今日、部屋空いていますか?二人なんですけど」
受付と思しきご老人に尋ねると、間の抜けた声で「ほえ?」と返された。どうやらご老人は眠っていたらしい。夢見心地の眼で見上げている。
「今夜、泊まれる部屋ありますかね?」
するとようやく目が覚めたらしい。
「おお、宿泊ね、泊まるのね。ここにね。はい、空いてますよ。いつだって空いてます」
目をごしごし擦りながら声を絞り出した。そして「ほえーっ」と、魂を吸い込むような深呼吸をした。
「あれ、お客さん、見ない顔だねえ。どちらから?」
常連客ばかりなのだろうか。まるで田舎の床屋ではないか。目の前に座っているご老人に一握の不安を抱きながらも、自分たちの出身地を教えた。
「ほお、いい所だねえ。西南戦争の頃あたりかな、行ったことあるよ」
そう言いながら、宿泊名簿に何やら書き込んでいる。
「はい、二階の奥の部屋ね」
そう言って手渡された鍵はいかにも漫画に出てくる鍵といった風貌で、私たちを一層不安にさせた。
六畳ほどの部屋だったが、私たちはろくに部屋も見ずに荷物だけ置くと、さっさと部屋を後にした。早く旅を続けたかったのだ。夏の家族旅行にきた少年の心境である。
「とりあえず、美味い晩飯食おう。なんかこのあたりはいい魚が食えそうだ」
「そうだねえ。とりあえず何か探そう」
笠縫氏は大丈夫だと言い張り運転しようとしたが、どう見ても酒の入っている顔だ。今日は最後まで私が運転した方がよさそうだ。
「シゲちゃん、市場行こう、市場」
笠縫氏の眺める先には巨大看板があり、その看板には四十二キロ先にあるという市場の様子と、セクシーで挑発的なハマチの表情が大きく写しだされていた。
私は今まで海鮮市場というものに行ったことがなかった。初めての市場は驚くほど活気に溢れ、商品まで生き生きしているように見えた。私が働いていた会社とは大違いだ。こんなに活気溢れる場所が同じ国にあるなど、想像したこともなかった。
笠縫氏は意気揚々と買い物をしている。どの店でも嬉しそうな声をあげ、値切りながら店の主人たちと話している。
「シゲちゃん、あそこの店で今買った魚調理してくれるみたいなんだよ」
両手に抱えたたくさんの魚を掲げてみせる。
「へえ、そんなサービスもあるんだ。そりゃいいねえ」
「だろう?行こう行こう」
いかにもその筋の人といった感じの、パンチパーマのおばさんが一人で経営するその店は、こざっぱりとした小さな空間だった。包丁を持って客と話す姿はまるで何かのけじめを強要しているようだ。それでもこの市場で買い物した人は皆ここで食事を楽しむらしく、おばさんは忙しそうだった。
私たちは早速今買ったばかりのアジとマグロの切り身をおばさんに渡し、唐揚げにしてもらった。マグロの唐揚げなど初めて食べるのだが、特製のタレにつけ、暑さを我慢しながら食べるそのから揚げは、口の中でとろけるように美味かった。
その夜、初めての旅に興奮し通しだった私たちは、部屋に帰りようやく自分たちの体が疲れはてていることに気がつき、布団さえろくにひかないまま、それこそ泥のようにとっぷりと眠った。
私たちは順調に南下を続けていた。毎日交代で運転し、交代で助手席に座って酔っ払った。風に吹かれながら、穏やかに揺れる海を眺める。空に浮かぶカモメに声をかけ、優しい波の声を聴く。
人生をやり直しているわけではない。忘れ物を取りに来たのだ。形などなく、だからこそ色褪せたりせずにずっと持ち主を待っている忘れ物、人生の一かけらを。
山間の道を抜けたところにひっそりと建っていたその民宿は、昔ながらの日本家屋を改築したもので、大きな筆文字の看板が風流だ。遠くに滝の音が聞こえ、木漏れ日を浴びるその家屋は、さながら映画のワンシーンのようだった。ここに泊まることは、相談するまでもなかった。
「すいません」
扉を開けながら声をかける。今どき珍しい土間が私の心を鷲掴みにする。
「はいはーい」
奥から出てきたのは三十くらいと思われる女性だった。肩までの髪が清楚な感じだ。
「今晩、部屋は空いてますかね」
私が聞くと、その女性は「少々お待ち下さいね」と言い、奥に向かって「お母さん、お客さん」と声をかけた。
「すいません。私、ここで働いているわけではないので、店のことはよく分からないんですよ」
首をかしげて微笑む姿は昭和の懐かしさを湛えており、私は意味もなく小津安二郎を思い出した。
やがて姿を現したお母さんに案内され、私と笠縫氏は二階の部屋に通された。道路に面したその部屋からは遠くの景色がよく見える。山間から覗く太平洋が白い雲をまとい、その中をカモメたちが舞っていた。
「シゲちゃん、やったなあ。日当たり良好眺めよし。昔ながらの日本家屋に若い娘つき。ははは」
「なんだいゲンちゃん、鼻の下伸ばして」
「変な意味じゃねえよ。親子でやってるっていうのがいいんじゃねえか」
「本当かい?」
「・・・・・・それが健全な男の子、ってもんだろうよ」
おそらく伸びきっているであろう私の鼻の下を眺めながら、笠縫氏は声を絞り出すように唸った。とりあえず、彼の意見には同感だ。私もまた、健全な男の子なのである。女性に対する興味が失せては男ではない、というのは笠縫氏の意見だ。
断っておくが、老いらくの恋がしたい、というような考えは持っていない。ただ、綺麗な女の人を見ると楽しくなるのが男という生き物だろう。
日が暮れるまではまだ時間がある。民宿ロマンに想いを馳せる前に、もう少し辺りを探索しようということになった。部屋まで案内してくれたお母さんにおすすめの場所を聞き、車を走らせることにした。
お母さん情報によると、このすぐ近くに有名な滝があるということだった。曰く、その滝で取れる水は「マイナスイオンだかなんだか」を一杯含んでおり体によく、その水で作ったラーメンが人気なのだそうだ。「マイナスイオンだかなんだか」とラーメンのよく分からない繋がりが気になり、私たちは荷物を置いてすぐに出発することにした。
車に乗り込むと、笠縫氏が呟いた。
「俺ァよく分からねえんだけどさ、マイナスイオンて何だ?そんな栄養分みたいなもんだっけか?」
「本当はそういう、体にいいようなものじゃないんだけどね」
「ラーメンにしたら、ますます意味がなくならないか?」
そういうことは言いっこなしである。
その滝は確かに民宿のすぐ近くにあった。歩いて来ても十分やそこらだったろう。そういえば民宿の近くから滝の音が聞こえていた。景色を楽しむことも兼ねて、徒歩で来てもよかったかもしれない。
二十メートルほど上から、ごうごうと唸り声を上げて流れ落ちる滝はまるで生き物のようで、滝壺から舞いあがる水しぶきは、さながら呼吸のようだった。テレビでしか見たことのないような、豪快で美しい景色だ。私たちはその巨大な滝の前で立ち尽くした。
その滝から少し離れたところに、そのラーメン屋はあった。ぽつんと、まるでお供え物のように存在していた。私の想像に反し、夕暮れの街角でやっているような屋台で、その屋台にオプションとしてもれなくついてくるような、いかにも屋台の親父然とした初老の男性が腰に手を当てて立っている。客は一人いるだけだ。
「シゲちゃん、あれだ。マイナスイオン。でもなんか想像と違うなあ」
「ほんとだねえ。僕ももっと立派な店を想像していたよ。なんかこう昔話とかに出てくるような、窓から淡い光が漏れている日本家屋とかね」
「ほんとだよなあ。マイナスイオンも勝手に取ってんだろうなあ」
「そうだろうねえ」
「まあ、それはそれ。とにかく食ってみようじゃねえか」
席は全部で六つしかなく、そのうち一つはすでに埋まっている。眼鏡をかけた青年が熱そうにラーメンを食べていた。
「いらっしゃい」
ドスの効いた声と軽い物言いが、妙に親しみやすい。
「お、お客さん。さてはこの滝に魅せられてやってきたね。分かるんだよ、そういう客は。俺もこの商売長いからねえ」
そういう客しか来ないと思うのだが、彼はそんなことはお構いなしで喋り続ける。
「お客さん、目当てはこのスープだね?この滝の水で作られた秘伝のスープ。そうだろう、そうだろう。コイツで作ったラーメンは絶品だって、色んな所から人がやって来るんだ」
「じゃあ早速二つ。俺はとんこつ、シゲちゃんは?」
「そうだね。僕は味噌にしよ・・・」
「ちょいと待ちなって、お客さん」
屋台の親父がぐいと顔を近づける。
「確かに俺は見ての通り、この道一筋のラーメン屋だ。何でも作れるぜ。でもな、お客さん。この滝の水の美味さを引き出すには醤油と塩が最高ってもんよ。よし決まった!醤油一丁、塩一丁ね!」
満面の笑みを浮かべながらぽんと手を打った。
「おいおい、勝手に決めてもらっちゃ困るよ」
笠縫氏は、文句を言いながらもどこか楽しげだ。
「何言ってんだい、お客さん。横のお兄ちゃん見てみな。お兄ちゃんだってちゃーんと醤油ラーメンだ。ちゃんと分かってんだよ。な、お兄ちゃん?」
「いや、俺はとんこつラーメンが・・・」
「せい!」
箸を振り、青年の言葉を遮った。箸についていたスープが青年にかかり、小さく「あつっ」と呟くのが聞こえた。しかし、屋台の親父はそんなこともお構いなしに続ける。マイペースな人だ。
「悪いことは言わねえ。醤油と塩にしなって。ほら、空を見上げてみな」
そう言って空に指をかざし見上げている。私たちも見上げてみた。横では青年もつられて上を向いている。滝の音の中を泳ぐ陽の光が水しぶきをうけ、木漏れ日が優しく降り注いでいる。まるで映画で見るような、綺麗な風景だ。
「な?」
顔をぐいと近づける。笠縫氏の頭上に浮かぶ「?」マークが見えるようだ。
「お天道様も、醤油と塩がいいとおっしゃっておるのだ」
そう言って渋い顔で腕組みをしている。笠縫氏も根負けしたらしく、がははと笑った。
「分かったよ。じゃあ醤油一丁、塩一丁だ。シゲちゃんもそれでいいだろう?」
私が何か言う前に親父が叫んだ。
「了解!」
そして笠縫氏と顔を合わせ、二人でがははと豪快に笑った。青年が不思議そうに私たちを見ていた。
笠縫氏も気分が乗って来たのか、親父がラーメンを作っている間、横の青年に話しかけていた。
「よお、お兄ちゃん。お兄ちゃんも旅行かい?」
「ええ、一人旅なんスけどね。前の宿でこの滝の話を聞いて・・・」
「この滝と、ラーメン屋、だろう?!」
親父の大声が彼の声を遮る。
「この滝とラーメン屋の話を聞いて、それで寄ってみたんス」
「お、お兄ちゃんも旅かい。俺たちもなんだよ」
「いいスねえ。俺もいつまでもこういうエネルギー持ってたいッス」
「俺たちもお兄ちゃんくらいの歳でやっときゃよかったよ。やっぱ体力はあるにこしたことないからな。俺たちなんかよ、毎日宿に帰ったらもうクタクタだよ」
笠縫氏は嬉しそうな笑みを見せながら、皺に眉間を作った。
「いやあ、それでもかっこいいスよ。失礼ですけど、そういうお歳になってからこういうことやるのって、やっぱ俺くらいの年齢でやるより勇気いると思いますし」
笠縫氏はますます嬉しそうだ。
「まあ、人生色々だからよ。お兄ちゃんは何で一人旅なんかやってんだい?」
「いや、あんまりかっこいい理由じゃないんスけど」
そう言って恥ずかしそうに視線を下に落とした。
「言っちまえ言っちまえ。安心しろ青年。俺たちが、はい、お待ち。醤油と塩ね。熱いうちに食べないとね。滝の水は、絶品、だからね。もちろん、俺が作ったからなんだけどよ。で、俺たちがちゃんと受け止めてやるから、さあこの胸に飛び込んでおいで」
いつの間にかラーメンを作り終わっていた親父が、机に肘をつけながら青年の前に陣取っている。驚く青年と私を横目に、親父はにやりと笑いながら続ける。
「何もじもじしてんだ。人生の先輩が三人もいてんだ。これも何かの縁と思って言っちまいなって」
「いや、別にもじもじしてるわけじゃないスけど、いきなりこられたらびっくりしますよ」
「驚きと喜びは人生の着火剤だ」
親父はいまいち意味の分からないことを、しゃあしゃあと言う。
「ホント、たいした理由じゃないスよ。大学も辞めちゃって仕事も見つからないし、ここらで人生見つめ直すのもいいんじゃないかと思って」
「それで引きとめる女の腕を振り払って出てきたってかい。泣かせるねえ」
「いや、彼女はいないッスけど」
すると親父は、「なんでぇ」と呟き、仕込みを始めた。
私たちはラーメンをすすりながら青年の話耳を傾けた。湯気を立てるラーメンは滝のおかげなのか親父の腕なのか、確かに美味い気がした。しかし、一番美味いのはチャーシューだ。
青年は地元の大学を二年で中退すると、正社員登録制度のある製菓会社でアルバイトを始めた。元来の性格もあり、彼は先輩社員たちとも仲良くなり、このまま正社員になれると思っていた矢先、会社が倒産してしまったらしい。寝耳に水だったと彼は言う。彼はショックを受けたがまだ二十二歳だということもあり、一度旅に出て人生を見つめ直そうと思ったのだそうだ。
「大変だなお兄ちゃん。しかしまだ若い」
仕込みが終了したのか、いつの間にか親父が戻って来ていた。
「人生には色々あるもんだ。辛いこと楽しいこと。嬉しいこと幸せなこと、そして辛いこと。人生いろいろだけどよ、同じ国に生まれりゃ人生の壁の高さは似たり寄ったりだ。そのうち良くなるさ。でもな、誰かも歌ってたじゃねえか。高い壁の方が昇った時、気持ちいいもんなってよ。人生いろいろ、壁の高さもいろいろだ。楽な人生もありゃ辛い人生もあり、低い壁もありゃ高い壁もある。お兄ちゃん、壁から世界を見降ろして、笑おうじゃねえかい」
がははと笑い、「トイレ」と言って屋台を出て行ってしまった。
理解しにくい個所も多々あったが、親父なりに彼を励ましたのだろう。青年は何かを考え込むようにラーメンのスープを眺めていた。
「はい、留守番ありがとさん」
親父が戻って来た時には、三人とも何かを考えるように無言でスープを眺めており、親父は大層面喰っていた。
「なんだこりゃ。おい、こんな雰囲気じゃ、俺も何か考え事した方がいいのかい?」
「うん、そうしなって。親父さんも眺めるスープはあるだろう?」
「おう、スープはこの中の誰よりも持ってらあ」
そう言って仕込んだスープの鍋を覗きこんだが、ちょいと首をひねったかと思うとすぐに止めてしまった。スープはあっても悩みはないのだろう。
帰りしな、「まいどねー」と手を振る親父に、どうしてここでラーメン屋をやっているのか尋ねてみた。親父はうーんと首をひねり、渋い声で答えた。
「運命、だな」
私たちが笑うと、親父もにかっと笑った。
「人生そんなもんだ。要は信じてりゃいいんだ。信じてりゃ運命は裏切らねえ。男にはな、人生かけて信じなきゃいけねえもんがあるんだ。それが女とてめえの運命だ」
青年は先を一切決めない旅をしているようで、今夜泊まる所も未定のようだった。じゃあ俺たちと同じ所に来いよという笠縫氏の後を、嬉しそうについてきた。
民宿には当然のように空き部屋があった。聞けば、今日は私たち以外に客はいないのだそうだ。青年はそのまま部屋に案内してもらった。
彼の部屋は私たちの部屋の隣で、お母さん曰くこの二つの部屋を含む、隣あう三つの部屋からの景色が最も綺麗なのだそうだ。私と笠縫氏が感動した山間から覗く太平洋は、その三つの部屋以外からだと山に隠れてしまうのだという。海に面する部屋はその三つだけなのだからそれは当然なのだが、そういった気遣いは嬉しかった。
私と笠縫氏は部屋に戻ると、すぐに一階の風呂場へと向かった。タイル作りのその風呂は小さな銭湯といった感じで、地下水を汲んで薪で沸かしている。そう言われると急に疲れが取れるのだから人間の体というものは不思議なものだ。
「ゲンちゃん、やっぱり薪はいいなあ」
「ほんと、薪は違うなあ」
二人とも差など分からないクセにいい加減なものである。試しに笠縫氏にガスと薪の違いを聞いてみた。
「地下水汲んで薪で沸かすと、熱くてもちくちくしねえから、変なのぼせ方しねえんだよ」
と、したり顔だ。これも映画で聞いたセリフだ。
私たちは三十分以上もかけてゆっくりと湯につかり、旅の疲れを癒すと、風呂場の横にある食堂へと足を運んだ。すでに青年もいて、ちょこんと座っている。
「早いねえ。先に風呂に入ればいいのに。気持ちよかったよ」
私が言うと、青年は困った顔を作り、
「だってなかなか出てくれないんですもん」
と文句を言った。
「人のせいにすんじゃねえ」
笠縫氏は笑いながら青年の背中をばしばしと叩く。
そうこうしていると、あの綺麗な女の人が部屋にやって来た。
「すいませんね。今日はお客さんもいないもんだから、私もここでご飯を頂きますね」
三人はほとんど同時に「どうぞ!」と、元気な声で言った。三人とも、健全な男の子だということだ。彼女は私たちのそんな様子を見て可笑しそうに笑っている。
笠縫氏は青年に顔を近づけて言った。
「俺は思うんだけどよ、やっぱこういう飯は風呂入ってさっぱりしてからの方がうめえんだよな。な、そうだろシゲちゃん?」
「うん。汗も全部流してから落ちついて食べる料理は格別だよ」
私は同意する。
「いや、でも、もうすぐ料理も出てくると思いますし」
「湯気立てながら飲むビールなんか、そりゃもう最高だ」
「それに、ここの風呂は地下水を薪で沸かしているから、いくら熱くてもチクチクしないし、変なのぼせ方もしないんだよ」
「ありゃあ都会じゃちょっと拝めえぜ。それをお兄ちゃん、もったいないことするねえ」
「僕だったら考えられないねえ。それに、さっきラーメン食べたばっかりじゃ、そんなに空腹じゃないんじゃないかい?」
「いや、時間は結構経って・・・」
「人生の先輩の言うことは、素直に聞くもんだぜ」
思えば私もずいぶん大胆になったものだ。しかし、あのお湯に浸かってからのビールを味わえば、この青年もきっと私たちに感謝するに違いない。そう思うと、罪悪感は湧いてこなかった。
「お元気ですね」
彼女がにこにこと笑いながら話しかけてくる。
「そりゃあもう、旅なんて生まれて初めてなもんで、なんかこう随分と若返った気がしますよ」
襖が空き、お母さんがビールを運んできた。娘を見て、あらまあ、という顔をしたが、そのまま廊下へと消えて行ってしまった。笠縫氏は青年の為に用意されたグラスを彼女に渡し、ビールを注ぐ。笠縫氏は彼女に注いでもらったビールを一気に飲み干し、くわーっと雁のような声を出した。雁が本当にその様に鳴くのかは知らないが、私のイメージではそう鳴く。
彼女は亜希子さんといって、普段は東京で物流の仕事をしているらしい。時折休みをとって戻って来るとのことだ。
「お二人はまたどうして旅を?」
興味津津な様子で尋ねる亜希子さんに、笠縫氏は精一杯ハードボイルドな顔を作り、ビールを口に運びながら答える。
「時代の流れ、というやつですかね」
そこに青年が頭から湯気を立てながら部屋に入って来た。
「お、早かったじゃねえか。もっと浸かってこい」
「いやあ、十分堪能しました。いいお湯でした」
「ちゃんと肩まで浸かったか?」
青年は亜希子さんからビール瓶とグラスを貰うとひょこひょこと頭を動かしながらお礼を言い、私の横に腰を下ろした。すると、それを待っていたかのように晩御飯が運ばれてきた。
うどんと天ぷらの盛り合わせだ。近くの港で上がったという魚の天ぷらは、ふっくらと華を咲かせており、美味しそうなきつね色をしていて、なんとも美味しそうだ。うどんの出汁は自家製で、湯気と香りが鼻腔を刺激する。同じく自家製のキュウリの浅漬けは、これはちょっといただけなかった。
青年に乾杯の音頭をとらせ、みんなでグラスを持ちあげた。
「乾杯!」
グラスの中でビールが揺れ、白い泡を立てた。
「で、お兄ちゃん、この後どうするんだい?行くあてとか、あんのかい?」
笠縫氏が赤くなり始めた顔を青年に向けた。
「行くあては特にないんスけど、俺写真とかビデオ撮るのが好きだから、行く先々で撮って、それパソコンに取り込んでホームページに載せたりDVD作ったりしたいッスね。そういうの得意なんスよ」
「へえ、パソコン得意なんだ」
亜希子さんが感心したように言うと、青年は少し頬を赤らめた。
「ええ、高校の頃から趣味でプログラミングとかもやってるし、結構いける方だと自負してます。それと」
「それと?」
三人の声が重なった。
「見てみたい景色があるんスよ」
「どんな?」
「いやね、若いのによくいるじゃないスか。若いって言っても俺と同じくらいなんスけど、でかい事やってやるって息巻いてるの。でかい事って何だって聞いてみても答えらんないし、俺は今までそういうやつら馬鹿にしてたけど、今でも正直ちょっとは馬鹿だと思ってますけど、旅してたら馬鹿の仲間入りしていいかなって思う時があるんスよね」
そう言って注がれたビールを飲み干した。
「でも、有名になるとか金持ちになるとかそんなんじゃなくて、なんかこう、小さな事でもいいんス。小さくてでかいって何だそりゃですけど、あるじゃないスか。他人にはどうでもいいけど、自分には凄いでかくて、目に見えるもんじゃないけど、でも何かがガラッと変わって。うちの親父が言ってたんスけど、そういうの、自分にとって大切なものが見えるような風景があるらしいんスよ。それは人によって違うんスけど、でも絶対どこかにあるって。仕事もないし、無茶できるうちにそういうのやろうと思って」
「見かけによらず、すげえなお兄ちゃん」
「見かけによらずって何スか」
「いやいや、見直したよ。俺たちも見習わないとなあ、シゲちゃん」
なんだろう。とても嫌な予感がした。
「よし、明日からの、三人での新たな旅に乾杯だ!」
上機嫌でグラスを持ちあげる笠縫氏の横で、青年が目を丸くしている。自分で自分の顔を見ることはできないが、きっと青年と同じような顔をしていたと思う。亜希子さんは相変わらずにこにこ笑っている。
笠縫氏はびっくりしている青年のグラスに無理やり自分のグラスを重ね合わせ、大声で叫んだ。
「かんぱーい!」
青年も勢いに負けてグラスを飲み干した。
かくして、旅の仲間は三人に増えたのであった。
この旅の目的は「何かを見つける」ことだった。ずっと不透明だった、その「何か」が、昨日少し見えたような気がした。もちろん、ただ「何か」だったものが「風景」となっただけで、不透明なことに変わりはない。だが、はっきりとした名詞で表現することで、私の頭の中で明確なビジョンに繋がることは確かだった。人生が変わる風景。それを探しに行くのだ。
天が門出を祝ってくれているようなその快晴は、まるでこの旅が神の御加護を受けているような気持ちにさせてくれた。地球の裏側まで陽の光が届きそうなほどに晴れ渡っている。神様、ありがとう。
私は昨日の酒が残る笠縫氏を叩き起こし、昨晩勢いで仲間になった隣部屋の青年を引っ張り出し、旅の支度を始めた。
昨晩、飲み進めるうちにだんだんやる気になってきた青年はすでに支度を終えていたが、彼を仲間に引っ張り込んだ張本人は酒が残っているようで、動きはひどく緩慢だった。笠縫氏を急かしながら青年と二人で笠縫氏の荷物を鞄に詰め込む。
「そういえば」
青年が何かを思い出したように口を開いた。
「前の旅館で聞いたんスけど、ここから二時間くらい南に下ったあたりにめちゃくちゃ綺麗な海が見える場所があるみたいですよ。プロのカメラマンもよく来るみたいで、結構有名みたいッス」
「そこ行くぞー」
笠縫氏が呻いた。私と青年は顔を見合わせて笑った。
亜希子さんとお母さんに見送られ、私たちは旅館を後にした。私たちは南へ進路を取る。まだ見ぬ大海原が私の中で広がり続けていた。
空には、車と並走するカモメたちが浮かんでいた。初めてみるその光景に、私の胸は大きくはねた。
「お兄ちゃんも飲むかい」
笠縫氏がジョニー・ウォーカーのボトルを青年に差し出した。
「ありがとうございます。でも遠慮しときます。酔ってちゃ海を堪能できないッスよ」
「ははは、そうだな。じゃ、緑茶にするか。冷えてるのがあるんだよ」
「あ、いただきます」
サングラスをしていても、晴れた日の太陽は屋根のない車には少し厳しい。冷えた緑茶はあっという間になくなってしまった。
やがて看板が見え、目的地が近付いてきたことを知らせた。その看板に従って右に曲がると、小さな駐車場に出た。観光客がたくさん訪れるとあって、さすがに整備されている。トイレや自動販売機も設置されていた。
「ここからちょっと歩くみたいッスね。そこの案内板に書いてありました」
青年が指さす先には案内板があり、その横に小さな立札があり、矢印が書いてある。どうやらその方向に進めということらしいが、その矢印の先は鬱蒼と生い茂る林だ。なるほど、秘境への道のりは険しいということか。
私たち一行は一列になり、青年を先頭に歩き出した。駐車場とは違いほとんど整備されていない小道は右へ左へ曲がりながら下って行く。
しばらく行くと光が差し、開けた場所へ出た。
海だ。
壮大な景色が目の前に広がり、私たちを包み込む。三人はゆっくりと前に歩み、横一列になって目の前の景色を眺めた。ここに来るまでに結構歩いたと思うが、疲れは感じなかった。疲れを忘れたと言ってもいい。私たちはただ、目の前に広がる海に心を奪われた。
果てなどないように、どこまでも広がるその壮大な海は、水平線の向こうで空と混ざり合い、そこから伸びるように広がる雄大な雲は白く大きい。海の青と空の青、そして雲の白はそれぞれ独立し、調和し、尊重しあうように互いの存在を際立たせている。
圧倒的な大きさがそこにはあった。
私たち三人はただただ無言でその風景にひれ伏していた。
「どうよ、お兄ちゃん」
笠縫氏が前を向いたまま青年に尋ねる。
「こんな景色、まだ日本にあったんスね」
青年も前を向いたまま答える。
「カメラマンが大勢来るってのも分かりますね。でも、こんな景色、ファインダー越しなんてもったいないや」
その時だ。
私は自分の中で何か電流のようなものが駆け巡るのを感じた。数か月前、スティーヴ・ウェインの「ある坂道の夏」を読んだ時に感じた感覚に似ているが、もっと鮮明で、もっと衝動的な何か。血液が全てアドレナリンに変わってしまったのではないかとも思えるほどの衝撃を受けた瞬間、走馬灯のように今までの思い出が私の頭の中を駆け巡った。
少年の頃、いつも一緒に蝉取りに熱中したタカシ。私が肥溜めに落ちた時は笑うだけでなかなか助けてくれなかったタカシ。小学校の頃、初めてバレンタイン・チョコなるものをくれた隣の席のユミちゃん。チョコはその後タカシに食べられてしまったが、一口だけかじった時のあのほろ苦さは今でも忘れない。
妻と初めて会ったのは裁判の傍聴席だった。傍聴マニアの友人に連れられて行ったのだが、千二百円を食い逃げしたのしないのという裁判など私には面白いはずもなく、なんとなく周囲を見回した時に目に入ったのが、私以上につまらなそうにしている女性だった。彼女もまた傍聴マニアの友人に連れてこられたのだという。押しの強い傍聴マニアを友人に持ってしまったことの悲哀を二人で嘆くうちに仲良くなった。
やがて交際が始まり、結婚を決意した時、真っ先にお祝いに駆けつけてくれたのは、もう何年も会っていなかったタカシだった。やはりタカシは大切な友人だと再認識した瞬間だった。
娘が生まれた十三年前の夏。彼女の産声ほど美しい音楽は聴いたことがなかった。曇り空のはずの空に浮かぶ星が、やけに眩しかった。
上司に呼び出されクビを宣告された日は、私の心情を映したかのような空模様だった。茫然と立ちすくむ私を、うっとうしいもので見るように眺め、「もう帰っていいよ」と言った上司のとげとげしい視線、追い払うように掌を振る冷たい態度。状況を受け入れることも跳ね返すことも出来ずに、ただ仰ぎ見た雲はどんよりとした灰色だった。
起きると荷物と家族が消えていたあの日。三人で積み重ねた十三年もの年月が脆くも崩れ去った家の中で、私を包み込んだ孤独は、いばらのように私の心に突き刺さった。
オープンカーに乗って風を切って走る私と笠縫氏は、自由の申し子だった。ジョニー・ウォーカーをラッパ飲みし、世界を謳歌する私たち二人を止められる者など存在しなかった。
これだ。この景色だ。この景色が私にとっての“風景”だ。私は確信した。そうだ、間違いない。
「ああ。凄い。こんな景色なかなか拝めないッスよ」
青年が感嘆の声を上げた。その通りだ。なかなか拝めない。ましてや体中を電流が駆け巡る景色など、そうあるものではない。
どれくらいの間そうしていただろう。私たち三人は夢見心地でその場に立ち尽くしていた。誰も何も喋らなかった。それは車に乗ってからも同じで、沈黙が私たちを包み込んでいたが、決して気まずい沈黙ではなく、むしろ爽やかな静けさで満たされていた。
「ゲンちゃん」
「ん?」
横で佇んでいた笠縫氏が私を見た。
「見つけたよ。あの景色を見て、僕は今何をすべきか、分かったような気がするんだ」
「本当かい?」
「マジっすか」
「うん」
迷いはなかった。自分がすべき事は何か、はっきりと見えた。
「僕はね、勇気がなかったんだよ。会社をクビになって家族に逃げられて、妻ともまともに話し合うことなく全てを諦めてしまった。仕事も、何故こうなったか考えることもなかった。自分の状況を見つめるのが怖かったんだろうね、殻に閉じこもってしまった。この旅もそうで、ひょっとしたら僕は、現実から逃げ出したかったのかもしれない」
二人はただじっと聞いている。
「でも、やってみて本当によかった。自分でも自分が変わった、今も変わっていくのがよく分かるんだよ。最初僕らは、何かを見つけるんだ、とか言ってたけど、本当に見つかったと思う」
笠縫氏が大きく頷いた。
「今ははっきりと分かるよ。何をすべきか、誰に会うべきか」
「そうだシゲちゃん。今からでも遅くねえよ。会いに行こう、今から」
「今から?」
「そうだよ。今からだよ。逃げてたんだろ?ずっと。だったら今気付いた時に取り戻しに行かなくちゃいけねえよ」
「でも、今まで結構走っているし、それにこれは僕だけの旅じゃないんだから・・・」
「なに、構やしねえよ。旅を始めて結構経つけど、寄り道ばっかりの旅路だ。移動距離で言やあ、ここからまっすぐぶっ飛ばせばそんなにかかりゃしないさ。それによ、決心した時に行っちまった方がいいんだよ」
「俺もついて行きますよ。せっかく仲間になったんスから」
後部座席から、青年が張りきった顔を覗かせた。
「悪いなあ」
「いいってことよ。な」
「ええ。出来ることがあったら、お手伝いしますよ」
目頭が熱くなった。これは私だけの問題なのに、二人はそんなことを全く気にせず私の為に、自分のことのように真剣になってくれているのだ。
「ありがとう」
私は深呼吸した。
「会社に、一発でかいのをお見舞いしてやらなくちゃ」
「はい?」
二人の裏がった声が重なった。
「でかいのって・・・、シゲちゃん、家族を、嫁さんと娘さんを、迎えに行くんじゃないのかい?」
「家族?何を言ってるんだい。逃げられちゃったもんはしょうがないさ。それより僕を捨てた会社をぎゃふんといわせないと気が済まないじゃないか」
「ダメっスよ・・・そりゃ」
青年が遠慮がちに呟く。
「何言ってるんだい。殻を破るには思いきったことやらなくちゃダメなんだよ。あの風景を見て、決心したんだ。ヤァヤァヤァ、これから一緒に殴りに行こうか、ってね」
そうだ。それが答えだ。
会社の経営が傾いたからと言って、今まで忠実に仕えてきた社員を突然きるなんてことが許されてなるものか。上が生き残る為に下を切る。日本人の美徳はどうした。
なぜ私はこの理不尽に黙っていたのだろう。なぜ黙って全てを受け入れてしまったのだろう。なぜこのような横暴を見逃していたのだろう。
「シゲちゃん、正気かい?」
もちろんだ。いたって正気である。ただ、多少興奮状態にあることは認めよう。アクセルが踏みこまれた車はエンジンを噴かせながら速度を上げて行く。
私の心は晴れやかだった。今まで考えることすら憚られてきたようなことを決心したのだ。まだ実行してはいないが、私にとっては大きな一歩だ。
青年は説得の方法を考えているのか後部座席で静かにしている。笠縫氏は何やら考え込んでいるようで時折うーん、という声を上げる。彼らは、決して私の決心に賛成しているわけではないし、なんとか説得しようとしているのだが、それは私のことを思ってのことだ。彼らの気持ちが嬉しかった。
夜通し車を走らせた。二人が座席にもたれかかって寝ている間も、睡魔が私を襲うことはなかった。二人が風邪をひくといけないので車の幌は閉じてあったが、小さく開けた窓からは夏の朝の涼しい風が入り込んできては私の体を撫でて行く。うっすらと明けだした空は、どこか懐かしい明るさだった。
私がようやく眠気を感じたのは昼頃だった。緩やかな坂道を登り切り、平原を眺めることが出来る丘までやって来た時のことだ。私たちはそこに車をとめ、休憩がてら座って景色を眺めている間に私は眠ってしまったのだ。
目が覚めたのは星も見え始めた頃で、私は助手席に乗っていた。運転している笠縫氏が言うには、私は自分で乗り込んだらしいのだが、まったく覚えていない。そう言うと、彼は「シゲちゃん、寝てない寝てないって言ってたじゃないか」と笑いだした。その時の様子が面白かったのか、後部座席の青年も肩をゆすって笑っている。
「シゲちゃん。もう一回、ゆっくり考えてみねえか」
笠縫氏が諭すように話しだしたのは夜になってからだった。最近続く快晴はこの夜も健在で、私と笠縫氏は夜景を眺めながら土手に腰をおろしていた。来る途中もここにこうして肩を並べていた土手だ。青年は後部座席で眠っている。
「ゲンちゃん、ここから見える景色も変わったなあ」
「何映画みたいなこと言ってんだよ、景色は変わってねえさ」
「いや、僕には変わったさ。この景色だけじゃない。全部変った」
笠縫氏は肩をすくめて大きく息を吐いた。
「すげえもんだな。あのお兄ちゃんの言った“風景”ってのは」
私たちは明かりもそう多くない夜景を、ただ黙って眺めていた。その明かりの中には様々な生活がある。ある人はテレビを見ているだろうし、またある人は子供をあやしているだろう。一つ一つの明かりの中に人生があり、歴史がある。そしてその明かりを丘の上から黙って眺めている私にも歴史があり、今その歴史に新たな一ページを加えようとしているのだ。
「シゲちゃん。俺はてっきりシゲちゃんが家族を迎えに行くんだと思ったよ。あの風景見て、今までの人生を振り返って、リストラや家族に逃げられちまった事も全部人生の一部だと受け止めて、その上で家族を迎えに行って全部やり直したいのかと思ったし、そうあって欲しい。なあシゲちゃん、今一番大切なことって、会社に一発でかいのかますことかなあ。違うんじゃねえか?」
「僕はね、今までストレスとか苦しさとか、そういうものを全部自分の中に収めて、それで解決したつもりになっていたんだ。でも、やっぱり限界はある。水を入れ続けても溢れないコップはないのと同じだよ。僕の心も一緒で、もうずっと前から溢れそうだったんだ。そんな時、僕は自分の妄想の中で復讐していたんだよ。嫌な上司や客に対してね」
「そんなんじゃ、何も解決しねえよ」
「そうなんだ。でも、それしか出来なかった。それ以上何かをするっていうのは、想像することすら怖かったんだ。あの風景を見た時、最初に家族のことが頭に浮かんだ。会いに行きたいと思った。でもね、何も変わっていない自分が会いに行っていいものか」
「変ったさ。会った頃に比べたら、顔つきも随分と違うぜ」
「ありがとう。でもね、何かひっかかるものがあるんだ。一番自分の変えないといけない部分。臆病な自分を消してからじゃないといけないような気がしたんだよ」
「・・・・・・」
「若い頃から妄想の中だけで抗ってきた自分を変えたいんだ。現実の世界で行動できる人間にね。だから、今会社に一発でかいのやらかすってのは大事なことだと思うんだ。そう思った途端、それしかなくなったんだよ」
笠縫氏はじっと夜景に視線を注いでいる。しかし、彼はきっと明かりを眺めていはいない。
「・・・・・。決心は、固えのかい?」
私はゆっくりと首を縦に振った。どんな言葉よりも、そうすることが一番説得力があると思った。笠縫氏は大きく伸びをして息を吐きだした。
「人生って面白いよなあ。ホント、何があるか分かりゃしねえ。今見てる街にもいろんな人生があってよ、いろんなこと考えてる。でも、まさか俺たちが丘の上で会社襲撃しようなんて考えてること、想像もしてねえだろうなあ、誰も」
静かな街だ。明かりは点いているが、道に車はそれほど通っていない。閑静なベッドタウンのようだ。明かりが、一つ、また一つと静かに消えていく。
「こうして見ると、小せえ明かりだな、家もよ。ガキの頃、近所の川にホタルがいたんだよ。そんなに多くはねえけど、おふくろに連れられてよく見に行ったもんだ。おふくろと一緒に川辺に座ってじーっと眺めるんだよ。すげえ綺麗なんだけどさ、しばらくするとぽつぽつ消えていくんだよ。こんな感じで、一つずつ。でもよ、それがまた綺麗なんだよな。消えて行く儚さに美しさを見いだせるってのは、日本人の感性なんだろうなあ。ホタルと街の明かりじゃ全然違うんだけどよ、なんか思いだしちまったよ」
一つずつ消えゆく街の灯とは対照的に、星が空で明るく輝いていた。
青年が奇妙な声をあげて目を覚ました。耳から空気が漏れたのかと思ったが、どうやら彼なりのあくびらしかった。後部座席で丸まって寝ていたせいか、腰を押さえながら何度も伸びをしている。
「よおお兄ちゃん、起きたてで申し訳ないんだがな、早速出発だ」
ういーという奇妙な音を発し、青年は親指を立てた。了解というサインらしい。
「ところでお兄ちゃんよ。お主、パソコンが得意と申しておったな?」
青年は頭の上にクエスチョンマークを浮かべながら、振り向いた笠縫氏の顔を見つめた。
「え、ええ。めちゃ得意ってわけじゃないスけど」
「俺はそっち方面からっきしなんだけどな、俺の知人の親戚が得意でよ、昔大学のパソコンに忍び込んだとかで騒ぎ起こしたらしいんだよ。それって素人でも簡単にできることなのか?」
「ええ。それほど難しいことじゃないッスよ。大学ってなんだかんだでガード甘いスからね。やろうと思えば割と簡単なんスよ。自慢できることじゃないけど、俺も昔やったことありますし」
「ほう・・・・・・」
「だいぶ昔スよ」
青年は言い訳をする少年のような顔で弁解した。
「今日び何でもパソコンで管理してんだろ?怖えよなあ、そういうの。会社とか大丈夫なのかなあ」
「民間は気を使ってますよ。だから難しいんじゃないかなあ、大学とかより」
「お兄ちゃん、しようと思ったことは?」
「ないッスよ」
「しようと思えば出来るのか?」
「まあ知識はあるんで、できるかもってレベルですけど」
私と笠縫氏は顔を見合わせた。
「彼、使えますな」
「ええ、使えますな」
青年の頭の上に浮かぶクエスチョンマークが大きくなった気がする。
「何なんスか?」
笠縫氏は体を大きくよじって青年の方を向いた。
「俺たち今からな、会社を襲撃するんだよ。で、兄ちゃんのその知識が必要ってわけさ」
クエスチョンマークがびっくりマークになると同時に、青年の目が大きく見開かれた。ついでかどうかは知らないが、口は可愛いおちょぼ口だ。
「じゃ、そういうことだから。ゲンちゃん、頼もしい仲間が増えたなあ」
「よかったよかった」
私と笠縫氏が顔を見合わせて喜んでいると、青年が言った。
「よくないっスよ。犯罪じゃないっスか」
ようやく状況を理解したようだ。とは言え、犯罪とはひどい言いぐさだ。
「だいたい、何で笠縫さんもそっち側いっちゃってんスか。止めないとダメッスよ」
「心意気ってやつさ」
青年は何か言おうとしたが、やがてシートに深く腰かけた。
「あんまり悪いことやっちゃダメですよ」
諦めたようだ。
「破壊工作とかしたいわけじゃないんだ。暴力的なことは僕だって望んでいないからね。ちょっとしたいたずらだよ」
「それでもハッキングは犯罪スよ」
「横文字とか分かんねえよ」
笠縫氏は、開き直ってそんなことをさらりと言った。
「ま、犯罪かそうじゃないかは置いておいて、とりあえず目的地に向かおうよ」
「おう。行きと違って目的地があるから運転自体は楽だな」
しっくりしない顔の青年がぼそりと「いやいやいや」と言っているのが聞こえた。それにしても、一昨日まで見ず知らずだった中年相手にここまで真剣になれるこの青年は、どこまでも気のいい男である。
日も傾き、私が勤めていた会社までもうすぐという頃、青年が口を開いた。
「で、どんなことするつもりなんスか」
「うん。会社に行ってね、上の人間に物申してやりたいんだ」
「それって、俺は必要ないんじゃないスか?」
「いやいや、いてもらわないと困る。あの会社は社員証がない限り、たとえ元社員でも入ることが出来ないからね。人ならともかく、コンピューターで認証しているから、顔見せて頼むよってわけにもいかないんだ。だから君にはその認証システムをなんとかしてもらいたい。それさえやってくれればあとは僕とシゲちゃんでなんとかするから」
「さすがにそれは無理ッスよ」
「そうなのかい?」
「ええ。素人がネットうろついていてどこかに侵入しちゃうことは確かにあるんスけど、それはまた違うシステムの話で、会社の認証システムなんてのは簡単に入り込めるもんじゃないですよ。それに」
「それに?」
笠縫氏が振り返る。
「やっぱ犯罪だし、俺は止めるべきだと思います」
見よ、このまっすぐな瞳を。時代が必要とする若者ではなかろうかとさえ思えてくる、まっすぐな瞳である。しかし、時すでに遅し。私たちの車は会社の前に停車した。太陽も沈みきり、柔らかい風が吹いている。私がドアを開けて車を降りると、二人も慌てて降りた。
「シゲさん・・・・・・」
青年が最後の説得を試みようとした、その時。
ピリリリリリ。
私の携帯電話が鳴り響いた。電話の画面を見ると、いくらかけても出ることのなかった妻からだった。一瞬世界が止まったかのように感じた。着信音が鳴り響く中、私は二人の顔をゆっくりと眺めた。二人とも、嬉しいような安心したような表情を浮かべて私に視線を送り返す。
「電話、出ねえのかい?」
笠縫氏が静かに呟いた。
「・・・・・・出るとも」
鳴りやむ気配のない携帯電話を持ったまま、私は少し離れた所に行き、通話ボタンを押した。ゆっくりと耳に当てる。
「もしもし?」
妻ではなく、娘の由紀だった。数か月間聞かなかった声は、母親と同じになっていた。
「どこにいるの?」
心配しているような様子はなく、まるで遊園地ではぐれた友達にでも聞くような言いぐさだった。そのことが少なからずショックだったが、私も極力平常心を装って話した。
「今、会社の前なんだよ」
「へ?会社?何で?」
何でと言われても、一発でかいのお見舞いしにきた、とは言えるはずもない。
「うん、忘れ物を、ね」
「今更?」
「うん、今更」
「あのね、母さんが話したいって」
私は思わず空を仰ぎ見た。しかし、都会の空では星が見えない。
「代わるね」
「うん、頼むよ」
数秒間の沈黙の後、長年聞いてきた妻の声が聞こえた。
「もしもし」
久しぶりに聞く妻の声は、奇妙な張りがあった。
「あのねー、私、商店街の福引でハワイ旅行を当てたのよ。いいでしょう」
電話を切ってやろうかと思った。
「それでね、どうかしら。この旅行を機にやり直すっていうの。そういうのって素敵じゃない?お父さんが良ければの話だけど」
星が見えない都会の空が、何本も立っている電柱の明りと共にじわりと歪んだような気がした。何か言おうとしたが、私の口からは微かな空気が漏れただけだった。
「あの時ね、お父さん、すぐに電話をくれるものだと思ったの。最初は電話があったんだけど、しばらくすると意地になっちゃったのね、全然かけてくれなくなった」
私はかけるべき言葉を探したが、どこを探しても見つからなかった。単語だけが心の奥深くに沈み込んでしまったように、言葉にならない感情が静かに私を包み込むようだった。
本当のことを言うと、アルバイト生活が始まってからは妻のことを忘れている時間も多かったが、そればかりは言えない。
「それで私も意地になって、悪循環ね。それで、取り返しがつかなくなる前に、私から折れようと思ったの。お父さんはリストラされちゃったけど、私はそれを支えようともしなかったし。夫婦なのにね」
「いや、素早い判断だったよ。感心した」
その後の会話は、夫婦だけの秘密だ。
電話を切った私は、二人の方を振り返った。二人とも、にっこりと笑っている。
「言ったろ?何が起こるか分からねえし、何が起こってもそう悪くないって」
私は何度か深く息をして、ようやく言葉を口にすることができた。
「この数カ月、あまりにも多くのことが起こりすぎたよ。失うことなんか想像したことのないものを失って、出来ると思ったことのないことをして、考えることも憚られたことを実行しようとして、二度と戻らないと思ったものが戻って来た。何がなんだか、本当に僕の人生なのかどうかも、分からなくなった」
「いい、人生じゃないスか。素敵です、そういうの」
青年は優しい笑顔で言った。
私たちは再び車に乗り込んだ。オープンカーの幌を全開にして、風を全身に浴びながら車を走らせた。どこまでも静かで、どこまでも穏やかな夜だった。
その後、青年はそのまま北に向かって出発した。進路は変わってしまったが、元々行先を決めない気ままな旅だ。このまま北海道に行ってみようということになったらしい。
笠縫氏は残りの休みをスティーヴ・ウェインの小説を読んで過ごすことにしたらしい。私は彼の為に座り心地のいいソファと「ある坂道の夏」をプレゼントした。彼らしくもなく遠慮して受け取ろうとしなかったが、これは私からの感謝の気持ちなのだということを理解してくれ、結局は照れながら受け取ってくれた。今日から一週間、俺は引きこもりだと宣言し、オープンカーに乗せたソファと共に自宅に帰って行った。
あの日、妻を実家に迎えに行った私は、夜遅くまで旅のことを家族に語って聞かせた。妻は話半分に聞いていたようだが、娘の由紀は、少しは父を見直したようで、目を輝かせながら聞いていた。置いていかれた豚のぬいぐるみも、少しは地位が向上したようだった。久しぶりの一家団欒は、旅の思い出の一部となりそうだ。
残りの休みの過ごし方はすでに決まっている。妻が福引で当てたハワイ旅行だ。すでに家族の絆は取り戻せたと思うが、この旅行でそれを強固なものにできればいい。そんな期待に胸を膨らませている。
三日後、私がスーツケースに荷物を詰めていると携帯電話が鳴った。笠縫氏からだった。
「よう」
「やあ」
「三日前に会ったばかりなのに、なんか随分久しぶりのような気がするな」
「そうだね。数週間の旅だったけど、もっと長かったような気がするし」
「色々と変わった、ってことだろうな」
それほど濃厚な時間だったのだ。
「ところでシゲちゃん、俺、最近思うんだけどよ」
「なんだい」
「最後の日に見た夜景、あれが忘れられなくてなあ。なんかこう、突き動かされるものがあったんだよな」
「それって・・・・・」
「そうかもしれねえ。あん時は気付かなかったけど、ひょっとしてあの夜景が俺にとっての風景だったのかもしれねえと思ってさ。いや、あれだけじゃねえ。シゲちゃんに貰った小説と合わさって、俺の中で一つの風景になったのかもしれねえ。で、色々考えちまったわけさ。今までの人生とか、これからの人生とか」
私はなんだか嬉しくなった。旅を途中で止めさせてしまったという罪悪感が少なからずあったからだ。もしあの夜景が彼にとっての風景なのだとしたら・・・・・・。
「それで、よし、俺も!ってなったんだよ。それでな」
微かな沈黙が流れた。彼の感じたものが分かるから、私の中にもささやかな高揚感が生まれた。だからこそ、彼の決心は、彼の口から聞きたかった。私はじっと耳をすませた。
「俺、今からあの二代目馬鹿社長にぎゃふんと言わせてやるのさ」
私は電話を切り、すぐさま外に飛び出した。
あの夜と同じ、柔らかい風が吹いていた。
ブリンスミード・ストリート
学生の頃はオーストラリアに住んでいて、その頃友達と車で旅をしたことがある。目的地はなく、行った先のバーやカフェのおっちゃんらに面白い場所がないか聞いて、そこを回る旅だったのでだけれど、その時のことをしがない中年惰性二人を主人公に書いてみた。
原稿用紙30枚くらいで物語をまとめる能力があればいいな、と思う今日この頃。つくづく、短編を得意とする作家さんたちは凄いと思った。