アンコンディショナル・ライフ

アンコンディショナル・ライフ

『 どうか素敵な恋を 』

 いつもより少し遅い時間に、彼女の予約は入っていた。
 雑誌に載るような大きな店ではないけれど、それなりに常連客の多いうちの美容院は、店長と俺と女性スタッフが二人の、合わせて四人だけでやっている。一階に北欧雑貨を扱う店が入っている小さなビルの二階で、その雑貨店のほうに目が行くもんだから二階にうちの美容院が入っていることを知っている人は少ない。その一階の北欧雑貨を扱う店は、店長の奥さんの店で、うちの店内にも北欧雑貨が可愛らしく飾ってある。きっと女の子なら気に入るんじゃないかな。
 今日の俺のスケジュールをチェックした。篠田さまはいつも俺を指名してくれるお客さまで、月の初めに必ず予約を入れてくれる。腰近くまで伸びたきれいなロングヘアが魅力のお客さまだ。いつもはトリートメント等のケアと、毛先を揃えて、あとは自然にサイドに流れる前髪を整え治す、そんな感じ。今日はもう十二月も半ば、今月はもう一度いらっしゃってるし、年明けに向けてにしては早すぎる。どうしたんだろうと思いながら、彼女の来店を楽しみにしていた。何気に少し気になるお客さまだった。とても可愛らしくて、正直言うとちょっと彼女のことをいいな、と思っていた。
 いつもは昼過ぎに予約が入るのだけれど、今日は三時頃の予約だった。そして時間に正確な彼女はいつものように予約時間の五分前には来店した。
「珍しいですね、今月はもういらっしゃったのに」
 声をかけながら篠田さまにケープをかける。
「今日はどうされるんですか?カットってお聞きしてますけど」
「はい、肩まで切ってもらっていいですか?」
「え?切っちゃうんですか?ずっと長かったのに」
 そう言って俺は彼女の長い髪を手に取った。とてもきれいな黒髪で艶があって柔らかい。
「はい。肩に付くくらいの長さにしてもらっていいですか?」
「わかりました」
 勿体ないなと思いつつ、だけどお客さまのご要望なので。でも、どうしてずっと長かった髪を切ろうと思ったんだろう。イメチェン、にしても何かきっかけみたいのがあるはずだ。そんなことをつい考えてしまう。美容師の病気みたいな感じだ。来店する毎に新しいヘアスタイルに挑戦するお客さまも多いけれど、常に同じスタイルをキープされるお客さまも意外と多い。しかも篠田さまのこととなると、やけに気になった。
「わたし、短いの似合わないですかね?」
 ふいに篠田さまの方からそう聞いてきた。鏡越しに顔を見ると、じっと彼女はこちらを見ていた。実際、違うヘアスタイルも見てみたいと思ったことはある。ショートも似合うだろうな、とか。
「いや、似合うと思いますよ。髪の色はそのままにされます?」
 そう言うと、「あぁ・・・」といった風に自分の髪の先を指に絡ませながら篠田さまは考えこむように自分の姿を鏡で見ていた。
「すこーしだけ、明るい色にしたほうが可愛いと思います。短くなさるんなら」
 俺は笑顔で鏡越しの彼女にそう言った。
「じゃあ、そうしてみようかな」
「お時間大丈夫ですか?」
「はい、六時までにできれば大丈夫なので」
「もしかしてデートですか?」
 そう聞くと、彼女は照れくさそうに小さく頷いた。そっか。そうだよね。彼氏がいないはずがないよね。可愛いもん、篠田さん。少し残念な気持ちと。だったら精一杯可愛くしてさしあげなきゃって気持ちと。入り乱れてなんだか変なテンションで俺はカラーの準備を始めた。
 少しだけオレンジの入った暗めの茶色。ロングヘアの色が変わっただけで印象って変わるもんだ。少しだけ大人っぽくなった彼女にますます心を奪われそうだった。だけど、ね、アタックする前にすでにもうフラれてんだからさ。と心に言い聞かせてハサミを持った。
「じゃあ、切っていきますね」
 ハサミを入れる度にきれいなストレートの髪がゆっくりと床に落ちていく。店の窓から入ってくる光に反射してキラキラしていた。その様子を鏡越しに見ている篠田さまの表情もキラキラしていた。

--- すてきな恋をなさってください ---

 心でそう呟きながら髪を切った。自然と俺は笑顔になっていた。ただ髪を切る、それだけだけど。そうやって関わらせてもらったお客さまの生活の何かに影響してる。そう思うとね、お客さまの笑顔にとても癒されるんだ。
 最後に毛先を丸くブロウした。両手で髪の先をふわっと整えると、鏡越しにそれを見ていた篠田さまの笑顔もふわっと広がった気がした。
「すごく似合ってる。可愛いですよ」

『 彼氏と彼女の事情 』

「だからー、思ってたのと違う色になったのでやっぱりやり直してもらいたいんですけど!」
 店の見えないところにある小さな部屋、店員のちょっとした休憩に使っている部屋があって、昼食を取らせてもらっている時に大きな声が聞こえた。受付のとこからだ。
「すみません、一週間以内ならやり直させていただくのですが・・・、それに担当した者が本日休みでして」
一緒に働いているミナちゃんが一生懸命お客さまに謝っている声がしてくる。俺は食べていたサンドイッチを一旦テーブルのパックにしまい、店に顔を出した。
「どうか、しましたか?」
「この子じゃラチがあかない。この前の店員休みだって?どうにかして?この髪の色」
 明るめの茶色い髪をいじりながらその客は俺にそう言った。で、表情が止まった。
「サクじゃない?佐久田くんでしょ?」
「え?タマ?」
「そうそう。玉木里依!」
「おぉ!なんだよ、文句言ってたのタマだったのかよ」
「てか何?美容師やってんの?」
「まあね」
 そんな俺たちのやり取りを、最初に対応していたミナちゃんがぽーっと見ていた。
「あ、俺がやるからいいよ」
「でも、佐久田さん食事中じゃ」
「いい、いい、もうほとんど食ったから」
タマ、玉木里依は高校時代の同級生だった。よく一緒につるんでいたメンバーの一人だったけど、いつの間にかあんまり連絡取らなくなって、なんかそのまま消滅してった感じだった。とりあえず座ってもらって話を聞く。
「次のお客さんの予約まであんまり時間ないんだけど、タマはどうしたいの?髪」
「あぁ、カラーしてもらったのね、この間。茶色にって言ったけど思った以上に明るくて、でもこれくらいだったら大丈夫ですよって言われたからそのまま帰ったんだけど、・・・。彼氏にさ、ケバいって言われて」
「ケバい?それタマのメイクのせいなんじゃないの?」
「失礼だなぁ、化粧は前と変えてないもん。とにかくケバいから嫌だって文句言われてさ」
「文句って。で、髪色を変えたいってわけですか?」
「そう」
「でもねえ、一週間以内だったらもちろん無料で対応させていただきますけどねえ」
「何その店員口調。お金だったら払うよ。もうちょっと暗めの茶色にして」
 まあね。彼氏に言われた一言って効くんだろうな。しかも”ケバい”じゃね。
「いいけどさ、髪色変えても。タマはそれでいいの?」
「え?」
「髪色変えろって言われて、はいはいって言うこと聞くの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ていうかさ。この前カラーしに来た時さ。うちの店のもんが大丈夫だって言って、それでタマはどう思ったの?思ってたのと違ったの?それともいいかなと思った?」
「え?まあ、それほど嫌じゃなかったからそのまま帰ったんだけど」
「だったらさ。いいじゃんそれで」
「え?だってケバいって言われたんだよ?」
「でもそれでさー、言われたからはい髪色変えました、ってさ。それってなんか言いなりみたいで嫌じゃない?」
「言いなりってわけじゃないよ。やっぱり似合ってなかったのかって思ったから」
「そう?俺は似合うと思うけど。それくらい明るいほうが、タマの性格も明るいしさ、元気な感じでいいよ。すごく」
「え?何、じゃあどうしたらいいのよ、わたし」
「ひとつ提案なんだけど。もし、もしね?その色で気に入ってるんだったら、その色に合うヘアスタイルに変えない?」
「へ?」
「そのさ、昔で言うワンレンっていうの?それがケバく見えるんだよ」
「えぇ?」
 そう言ってタマは目の前の鏡をじっと見つめる。胸まである茶色い髪とほぼ同じ長さの前髪。少し左よりの横分けで、ただそれだけのストレートヘアだった。
「例えばね」
 俺はタマの後ろに立って髪にそっと触れた。なんとなくのニュアンスで、手で髪のカタチを作っていく。
「少し、これくらいの長さに切って、ちょっとパーマ当てて。ブロウしやすいようにさ。前髪も長めでいいから作って横に流して、と、こんな感じ」
「えー、めっちゃ可愛いじゃん」
「自分で可愛いって言うなよ」
「違うよ、髪型がだよ」
「あぁ、だろ?似合うと思うんだよね、タマこれくらいが」
「うそ。どうしよう。それでケバいって言われなくなるかな」
「それ言われたからってさ、自分が気に入ってるものとか好きでやってるものをいちいち変えるってのも、俺は好きじゃないけどね」
「え?なんで?だって好きな人には好きでいてもらいたいじゃん?」
「そんなことしたら調子乗るよ?言ったことなんでもやってくれるんだ。こう言ったらすぐ俺の思うように変わってくれるんだ、って」
「あ・・・いや、でも」
「それでさ、見た目とかで自分の趣味じゃなくなったからもう好きじゃないとか言われたとしたらさ、それほんもんじゃないよ。タマの本来の良いとこ見れてないってことでしょ?」
鏡越しに、そっとため息混じりにタマは笑った。
「相変わらず痛いとこ付くね、サクってやつは。ほんと嫌なやつ」
「嫌なやつでけっこう。さ、どうする?言いなりで髪色変えるか。自分に正直にヘアスタイル変えるか」
 タマはそれから少し、鏡をじっと見ていた。胸のあたりの髪の先端をそっと指でつまみながら。
「うん。切ってパーマ当てる」
「そうこなくっちゃ」
「あ、でも次の予約時間まであんま無いってさっき・・・」
「あぁ、同時進行でやるよ。パーマ液入れ終わったらあっちできるし」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「おっけー、任せなさい」
それから俺は、その後入っていた予約のお客さまと、タマの間を行ったり来たりしながら大忙しだった。ほんっと、高校の頃から変わらない、手のかかる友達だよ。
少し時間はかかったけど、予約のお客さま優先で動きつつ、タマのセットも終了した。
「うん、いい感じ。ありがとう、サク」
「いいえどういたしまして」
 帰ろうとするタマにミナちゃんも大きくお辞儀をする。
「あ、いくら?」
「いいよ。俺のおごり」
「え?だめだめ。文句も散々言っちゃったし。一週間経ってるし」
「いいよ。彼氏とうまくいくように。俺からのプレゼント」
「マジで?もう今度からここ通うから!」
「そのほうが嬉しいよ。また彼氏との話聞かせてよ」
「うん、ありがとう。あ、メアド変わってない?」
「あ、うん。そのまま」
「じゃあまた連絡する」
 タマは、元気に帰っていった。それから少しして届いたメールには、彼氏とうまくいってます、と書いてあった。

『 そして僕はキスをする 』

 うちは朝九時開店の美容室。一番の予約が入っている日は少し早く店を開ける。人によっては、予約してある時間より少し早めに店を訪れるお客さんもいるからだ。その日も少し早めに準備をして店を開けた。店の外のCloseの看板をOpenに置き直していると、声をかけられた。
「おはようございます」
「あれ。リナちゃん?今日予約入ってたっけ?」
 それは、うちの店にほど近い場所にある大学に通う常連客のリナちゃんだった。いわゆる原宿系ってやつ?ギャルっぽい、とかいうわけじゃないんだけどちょい派手目。金髪の俺が言うのもなんだけど、髪はトップがピンクベージュで毛先がモスグリーンのツートン。ちなみにツートンにしたいと行ってきたリナちゃんに俺が勧めたカラー。すっごい似合ってんの、それが。今日もそんなカラーの髪をくるくると巻いて耳の下あたりでツインテールにしてる。
「いえ、今日はちょっとお願いがあって」
「お願い?俺に?」
「はい、今少し時間ありますか?」
「まぁ…俺は朝一は予約入ってないから。場所変えたほうがいい?」
「いえ、ちょっとだけなので」
「じゃあ、あそこでも平気?」
 うちの店は二階にある。階段で上がってくるとドアまでの間に少し広いスペースがあって、端の方に小さなベンチとテーブルが置いてある。たまにそこでホッと休憩したりするんだけど。そこに二人で座った。
「あの。一度でいいんですけど」
「うん。なに?」
「デートしてもらえませんか?」
「は?なんで?」
「あの…」
 そこでリナちゃんは黙ってしまった。デートしてください、はいわかりました、ってするもんじゃないしね、デートってね。なんで?ってもう一度聞こうと思って、やめた。今日のリナちゃんはちょっといつもと違って、あまりに緊張している感じで。なので俺はそのまま言葉を待った。二分。三分。くらいかな。ちょっとわからないけど。
「地元に戻るんです、来月。卒業式終わったら」
「地元?どこ?」
「香川です」
「へえ。そうだったんだ?てっきりこっちの子かと思ってた」
「田舎ものっぽく見られるのが嫌で、方言も頑張って直したし」
「そっか。うん、気付かないほんとに」
「でね、たぶん地元に戻ったらもうこっちには滅多に来ることもないだろうと思って」
「そう。寂しくなるね、よく来てくれてたのに」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「で。なんでデート?」
「私そういうのしたことなくて」
「デート?」
「はい」
「でもデートってやっぱり好きな人とするもんじゃないの?」
「はい。だから、佐久田さんと」
「え?」
「だから佐久田さんなんです・・・けど。ダメですか?」
 こういう場合はどうすればいいのでしょう。リナちゃんはお客さまだし。でも、もしデートと言われなかったら、単に遊びに行きませんか?飲みに行きませんか?程度だったとしたら、たぶんOKしていたであろう相手ではあった。妹みたいな感じで、大好きな服の話とかよくしてくれて。次のヘアスタイルもいつも相談してくれてふたりで決めて。だけど今日のリナちゃんのお願いは、明らかに俺のことが好きだということが前提にある。
「忙しい、ですよね。やっぱり」
「うん、ちょっと、難しいかな」
「一時間だけとかでもいいです。三十分でも。佐久田さんがお店終わってからでも。何時になっても大丈夫です、だから、ダメですか?」
 一息おいて、俺は返事をした。
「わかった。じゃあ次の休みの日空けとくよ」
「ほんとですか?」
「卒業祝いも兼ねて、なんかうまいもんおごるよ」
 次の休み、リナちゃんのリクエストで八景島シーパラダイスに行くことになった。待ち合わせた場所まで車で迎えに行っただけで大騒ぎしていた。あの日お願いしに来た緊張はなんだったんだと思うくらい、ごく普通にお迎え来たーと大騒ぎし。八景島シーパラダイスでは俺が根を上げてしまうくらいあちこち連れ回された。いろんなスポットで一緒にスマホでツーショット写真撮って。アトラクションは苦手だって言うのにいろいろ一緒に乗せられるし。お昼は簡単にフードコートで済ませたので、夜はしっかり食べようと夕方から中華街まで移動することにした。その間の車でも助手席でリナちゃんとはいろんな話をした。くだらないことから、地元に戻ってからの真面目な話まで。まるで今日で最後みたいなくらい。なんだか切なくなるくらい。
 そのあとは山下公園をぶらぶらしながら。楽しかったね、なんて話をして。丸一日完全にリナちゃんペースで終わった。
「じゃあ、帰るか。そろそろ、ね」
「うん。今日はありがとうございました」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「じゃあ、成功だね。リナちゃんの初デート」
「はい。でも。最後にもう一つだけいいですか?」
「まだあるの?もう勘弁してよ」
「あの。キスしてもいいですか?」
「え?」
「いいですか?」
「え、ちょっと待って。キス?」
「はい」
「まさかそれも初めて、とかいうことないよね?」
「初めてです」
 俺は大きくため息をついた。
「あのね、リナちゃん。いくらあれでもさ、デートならまだしもキスはちょっと」
「やっぱり、彼女さんとかいるんですよね?」
「いや、いないけどさ」
「だったら問題ないじゃないですか」
「問題あるとかそういうことじゃなくて。それこそちゃんと、好きな人とするもんでしょ?キスって」
「だから。わたし佐久田さんのこと好き、です」
「んー、なんて言ったらいいかなあ」
「じゃあ聞きますけど。佐久田さんがもしこれからどこかへ旅立たなくては行けなくなって。好きな人がいたとします。最後にキスしたいと思いませんか?」
「いや、そう思うこともあるかもしれないけど。なんていうかさぁ、キスってもっと大切にして欲しいとか思うわけよ」
「大切に?」
「そう。女のコなんだし。初めてなんでしょ?だったら」
「だったらなんですか?すごく、大切です。佐久田さんとキスするってこと」
 リナちゃんは、見た目こそ派手で。どちらかっていうと世間に勘違いされやすい子だけど、とても純粋で真面目だ。それは前から知っていた。お店に来てくれて話すたびに感じていた。なのに、どうして俺はこんな期待させてしまうようなデートの約束をしてしまったんだろう。断っていれば確かに彼女の思いはそれで終わってしまうかもしれない。けど、こんな風に思わせずにすんだのに。ここでもし、キスをしてしまったら、またそれ以上に期待をさせてしまうかもしれない。だけど、キスせずにはいられなかった。彼女の頬を涙がつたったからだ。
 ゆっくり俺は、彼女の唇にキスをした。しっかりと唇の温度がわかるくらいに。だけど軽く。それから彼女の頬をつたう涙を手で拭った。
「キスってのは、男からするもんだよ。俺ん中ではね」
リナちゃんの頭をぽんぽんと撫でてやると、今度は大きく泣き出した。なんだかいろいろ、心に溜まってたものがあるんだきっと。俺のこともあるかもしれないけど、他にもいろいろ。今日一日無理に元気に振舞っていたんだなってのが痛いくらいわかったんだ。
「リナちゃんさ、地元帰っても元気でがんばれよ?」
 そう言うと泣きながらも「うん」と大きく頷く。
「いつでもさ、連絡ちょうだいよ。ね」
リナちゃんは何度も「うんうん」と頷く。
「キスしといてあれだけど。リナちゃんはほんとに妹みたいに大事だから。こんなこと言うと嫌かもしれないけど」
「ううん。嬉しい」
 帰る前に俺は思い切りリナちゃんを抱きしめた。

それから数日後、一回だけ最後にリナちゃんは店にやってきた。髪を黒く染め直した。いつもと違う、ごく平凡、な服装。
「だって、香川じゃあの格好目立っちゃうんだもん」
 鏡に映った黒髪をそっといじりながら笑う。。新しいリナちゃんだ。
「いいよ、見た目なんて。どんな格好してもどこにいてもリナちゃんはリナちゃんでしょ」
 そう言うと、リナちゃんは俺にピースして見せた。

『 Yell for 』

「佐久田さん、ちーっす」
 元気に店に入ってきたのは健斗だった。予約だけはきちんと入れるが、いつも時間に遅れて来るのは知ったところだ。前のお客さまが帰ったあと、俺はカウンターで健斗を待っていたところだった。
「久しぶりだな、元気だった?」
「もちろんっす」
奥で、別のお客さまのカットをしていた店長もこちらを見て笑っている。そのまた奥でカラーをしているお客さまと今入ってきた健斗と、ちょうど三名。平日の昼間の混み具合はいつもこんな感じ。そこそこ固定客もついてきた小さな美容室だ。
「めちゃくちゃ髪伸びてるじゃん。カットと、今日はカラーって?」
 健斗は長く伸びた髪を後ろでゴムで縛っていた。随分来ていない証拠だ。いつも短くしているのに珍しい。
「佐久田さんみたくしようと思って」
「俺?」
「はい。髪型も色も」
「え?健斗まだ高二だろ?今度三年か。あれ?学校サボりじゃないだろな?」
「違いますよ、春休みです」
「春休み?いや、部活は?めちゃくちゃ髪伸びてるし、あとカラーとか絶対ダメじゃん。あそこ監督が厳しいだろ?たしか。しかも俺の色って金髪だぜ?」
 こいつとの付き合いはもう七年近くになる。初めてうちに来た時は小学生だった。サッカークラブに入っていて、うまいと評判で。サッカーで有名な高校にも推薦で入った。なのでいつも短髪にしていて、体育会系のノリの元気なやつだ。
健斗をスタイリングチェアに座らせてケープをかけていると、健斗が言った。
「サッカー辞めるんです」
「は?なんで?」
「いろいろあって。レギュラーにも入れないし。もう無理なんすよ、俺」
 健斗の髪を縛っていたゴムをスっと外すと、俺は彼の髪を手で大きくほぐした。
「んー、でもさあ。この髪はさ、切れば短くなるし。色だって俺みたいな色にしても、また黒に戻そうと思えば戻せる。でもさ、サッカーは辞めてしまったらまた始めるのは大変だ。レギュラーに入れないなら練習したらいいだろ?もっと今以上にさ。それとも他に何かあんのか?」
「練習ならやりましたよ。どれだけやっても結果全然だめ。ゴールも練習で全然決められないし」
「そんなのすぐ解消されるって。誰でもスランプってあるだろ?特にスポーツやってる人にはさ」
「あー、でもいいんです。一年のやつにも抜かれたし」
 健斗の話を聞きながら俺は小さくため息をついてスツールに座った。健斗のちょうど真後ろに、首の少し上あたりが自分の目線になる高さで。
「とりあえず切るよ、髪。俺みたくすんの?」
「はい」
「で?一年のやつに抜かれたって?それさ、お前が現にそうだったじゃんか。一年でレギュラーで、選手権の県大会ベスト四まで行ってたじゃん。あれ仕事で試合見に行けないって言ったらテレビでやるからビデオ録画してでも見ろって、お前うるさいから俺録画して見たんだぜ?たぶんまだあるよ、DVDに焼いたと思うから」
「まじですか?」
「あの時さ、お前が一年でレギュラー入りして、そしたら同じように二年や三年でレギュラーから外れた人がいたはずだろ?その人たちはどうしてた?お前がレギュラー取ってそれで入れなかったから辞めますって辞めたか?」
「いや、そんな人はいなかったと思うけど」
「だろ?レギュラーに入るのは確かに大事だけど、続けなきゃ意味ないだろ」
 健斗の髪をスプレーで湿らせて、少しずつハサミを入れる。
「勿体無いよ、せっかく生まれ持ったいいもんあるのに」
「いいもん?」
「俺は怪我でやめちゃったからさ」
「え?佐久田さん、サッカーやってたんすか?」
「違うよ。俺は野球。怪我でできなくなって辞めた。もともと背も伸びなかったし細いし、体型的にも向いてはなかったんだよね。でもお前は、背もあるし体格もいいし、サッカーやるセンスあるじゃん。だから勿体無いよ」
 そう言うと健斗は何も言わなくなった。店に流れるBGMと、奥で喋ってる店長の声と、そして俺が動かすハサミの音。なんか、それなりにいろんな雑音がしてるのに静かに感じた。きっと健斗がゆっくり考えていたからだ。
健斗に言われてビデオに録った試合は、それは凄く見ごたえのある試合で。健斗は一ゴールだけど点を入れた。きれいに弧を描くシュートだった。小さい時から知ってる彼がとても大きく見えて、そして誇らしく思えた瞬間だった。それでDVDに残しておこうと思ったんだ。
「健斗さあ」
「はい」
「サッカー好きか?」
「・・・好き、っす」
「じゃあ。今すぐ辞めるって選択はやめとけ」
「え?」
「辞めるのはもっと先のタイミングでいいと思う。少し休んで。あ、でも体力はつけとけよ。走ったりとかだけでもいいから。それで落ち着いたらもう一回向き合ってみ?」
「向き合う?」
「あぁ。本当に辞めるのかどうか」
「はあ」
「でも好きで続けるっていうんなら・・・」
「・・・なんですか?」
「早くサッカーに戻れ。じゃないと後輩にすぐ抜かれてしまう。いやだろ?そんなの」
「いや、っすね」
 ある程度髪をカットすると、俺はスツールから立ち上がった。
「あとは細かく切ってカタチ整えるだけ。カラーは?どうする?」
「あー・・・。どうしよう」
「あの本田圭佑もさ、今は金髪だけど高校ん時は短髪で黒髪だっただろ?お前もプロになってから色入れろよ」
「え?プロですか?」
「何言ってんだよ、お前が前に言ったんでしょうが、俺に。高校卒業したらプロ入りするから、そしたらサインあげますって」
「言いましたっけ、そんなこと」
 そう言って健斗は笑った。
「ちゃんと監督に言われてることは守る。それがスポーツやるやつの基本。だろ?」
「まあ、そうっすけど。なんかもう、サッカー辞めるっていう選択無いような方向に話進んでますけど」
「え?辞めるの?」
「いや、そうは言ってないっす」
「でしょ?」
 俺は鏡越しに健斗にそう言うと、また髪にハサミを入れた。
「その代わりあれよ。プロになって髪の色変える時は、ぜったいに俺にやらせろよ?」
「わかりました、ぜったい、っていうかお願いします」

 その日健斗はカットだけで帰っていった。もちろん高校生最後の一年もサッカーをそのまま続けることになった。次に店に来た時にはまたサッカーの試合でのエピソード話に花が咲いた。とにかく自慢ばかりしてくる。自分がゴールを決めて勝った試合の話とか。でもそれでいいと思うんだ。そういう話をできるのが幸せで、カッコイイと思うから。これからも俺は健斗のファンだからさ。

『 いもうと 』

 その日家に帰ると、玄関先に妹がいた。
「え?どしたの?」
「おかえり。遅かったね」
「だって聞いてないから。連絡しろよ、そしたら早く帰ってきたのに」
 勤めてる美容院の店長とちょっと呑んで帰ってきた日だった。早く終わったから、逆に寄り道して帰ってきちゃった。そんな日に限っての、突然の妹の訪問だった。
「なんかあったの?こんな時間までずっと待ってるってさ」
 家に妹をあげると、急いで暖房器具をつけた。春先とはいえまだ夜は寒い。
「髪を切ってもらおうと思って」
「え?伸ばしてたんじゃないの?」
「うん。ちょっと、気分転換?」
「さては、フラれたか?」
 そう言うと妹は黙ってしまった。
「え?まさかの・・・図星?」

 妹は四つ年下だ。小さい頃から男女の兄妹にしてはうちは仲がいい。と自分でも思う。ずっと両親が共働きで、妹が小学校に上がると朝は俺がほぼ面倒を見てきた。俺たちよりも先に両親が仕事先に向けて家を出てしまうんだ。いつも寂しそうな妹を元気にさせてから鍵をしっかり閉めて家を出るのが俺の役目だった。機嫌を損ねないように、泣かれたりしたらもう終わりだ。家を出ることもできない。妹を置いて自分だけ行くわけにもいかない。一緒に家に残って、学校に来てませんと学校から親に連絡が入って怒られたこともあった。

 そんな俺が思いついたのが妹の髪を結うことだった。おしゃれが大好きな妹をおだてるように髪を可愛く結んでやって、「可愛い!」って言うのが一番機嫌よくするのに効果的だったんだ。お気に入りのくまのふわふわしたヘアゴムの日は、耳の上あたりにくまが見えるように二つにポニーにしたり、ピンクのリボンのついたヘアゴムの日は、トップで一つに、やっぱりリボンが見える位置で高く結ぶ。そしたら妹が喜ぶんだ。笑顔で学校に行ってくれる。それが嬉しくて気づいたら毎朝の日課になっていた。まぁそれも、妹が自分でいろいろできるようになってきた頃にはなくなったけど。
 実はというと、美容師になったのはそんな妹がきっかけだった。小学生の頃から野球しかやってこなかった俺が、高校生の頃に怪我をして半年ほど練習から離脱した。怪我が治って戻った頃には感は完全にズレていた。修正するにも時間がかかった。高校卒業後の進路を決める時、そのまま続けるのか違う道に進むのか散々考えた。大学へ進んでそのまま野球をするのが目標だったからだ。だけど遊び程度ならできるかもしれないけれど、選手として続けられるのかと思い悩んでいた時に妹に言われたんだ。
「お兄ちゃんは手先が器用だからそういう仕事探せば?専門学校とかに進めばいいじゃん。美容師さんとかかっこいいよね」
 かっこいいよね、という言葉もちょっと頭に残ったが、何よりも美容師という選択にちょっと驚いた。考えたこともなかった。だけど、妹の髪を結って、「可愛いよ」って妹に声をかけた時のあの喜んだ笑顔がふっと思い出されたんだ。あの時に感じる、喜んでもらえたっていう俺自身の喜びっていうのも、なんだか懐かしかった。そういうのを自分の生活の中の一つ、つまり仕事にするのもありかなって。それで俺は美容専門学校に進んだ。

 電気ポットで急いでお湯を沸かした。妹の好きなのはレモンティーだ。インスタントだけど、お湯を注ぐだけで出来る簡単なやつをいつも常備してある。カップにそれを準備しながら、ソファで項垂れてる妹に声をかける。
「結婚するとか、言ってたんじゃなかったっけ?」
「うーん。言ってた、けど、なくなった」
「そうなの?ほんとにフラれたの?」
 そう言うと妹はソファで横にしていた体を起こして拗ねた。
「もう。何度も言わないでよ。ほんとに・・・泣きそうなんだから、今も」
「ごめん、って」
 沸いたお湯をカップに注ぐと、ティースプーンで軽くかき混ぜる。それを妹に手渡した。
「はい」
「ありがと」
「そんで?髪切ることにしたの?気分転換て?」
「うん。だって、ウエディングドレス着る予定なくなったから、伸ばしてる意味ないじゃん」
「そっか?」
「だってもともとはローラみたいにしたかったんだもん、ヘアスタイル」
「ローラ?そんな面か?」
「うるさい!顔が違うのはいいの。ヘアスタイルを真似たいの」
「わかってるよ。同じにしたってローラになるわけないんだから、おまえがさ」

 自分の分のコーヒーも作ると、ソファの向かいに座った。妹の髪はとても長く伸びている。小さい頃から変わらない、癖のあまりないストレートの髪。結婚式でアップにして、ボリュームのある格好いいスタイルにしたいと言って伸ばしていて、その時はお兄ちゃんが結ってねって言ってた。
「もおさ。おとーさんとおかーさんに結婚するかも、って言ってなくてよかった。」
「え?言ってなかったの?おまえ」
「言ってないよ。ちゃんとプロポーズされたわけじゃなかったから、されてから言おうと思ってて」
「なんだよ。俺もうプロポーズされてんのかと思ってた。何?俺だけ?聞かされてたの」
「そうだよ」
「うわぁ、おふくろの前でいらねーこと言わなくてよかった。この前電話でちょっと話したから」
「そうなの?でも、もうなくなったからこれからも言わないでね」
「わかってるよ、馬鹿かお前」
 妹とはいつもこんな感じだ。だけど、さっき言ってたな、泣きそうだって。我慢してんだろうか。
「どーすんの?髪。ローラにすんの?」
「うん」
「うちだとカットしかできないよ。ローラはちょっとパーマっけあるかもだけど」
「うん、いい。自分で巻く」
「わかった」
 妹の髪を切るときは、キッチンでする。フローリングで、カーペットも何も敷いてない唯一の場所がそこだ。わざとそうしてる。年中いつでも、妹の髪を切るときはここで。妹は店には来ない。だからパーマもしたことないし、カラーも入れたことはない。ずっと黒髪。カットだけをうちでする。なんでだか知らないけど、それがいいんだってさ。

「なぁ」
「なに?」
 折りたたみの椅子を広げてキッチンの真ん中に置くと妹を座らせる。そして俺は常備してあるケープを妹にかけた。
「顔は違うけどさ、ローラのヘアスタイル似合うと思うよ、おまえ」
 妹は、急に振り返って俺の顔をじっと見た。
「なに?」
 急に振り向くからびっくりして妹にそう返すと、妹は何も言わずにニッコリと笑った。
「でしょう?似合うと思うんだ、私」
 調子のいい。それがうちの妹だ。たぶん、泣きそうなんだろうけど、今さ。

 子供の頃、俺が一生懸命機嫌取ろうと思って髪を結って、そしたら妹が作ってくれてたあの笑顔。もしかしたら、がんばってそうしてる俺に、妹も気を使って笑ってくれてたんじゃないかって、思ったことがある。今もちょっと、そう思った。
長く伸びた髪に少しずつハサミを入れる。

「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日泊まってってもいい?」
「なんだよ急に」
「だめ?」
「いいよ」

『 ダブルブッキング 』

 その日は小春日和、なんて言葉がぴったりな暖かな朝だった。愛用のクロスバイクで店の前に着くと二階部分に目をやる。ミナちゃんとユウちゃんがもう出勤してきていた。我が美容院の女子組だ。
「おはよう。ごめん、遅かった?俺」
 急いでクロスバイクをビル横の通路に停めると、階段を駆け上がる。鍵を取り出して店のドアを開けた。店の鍵は俺と店長しか持っていない。今日は店長が不在なので俺が鍵を開ける日なのだ。順に店内に入り、それぞれが開店準備を始める。毎日のこと。もう何年も続けてきた俺にとっては日常だ。今日は朝一番から予約が入っていたので皆早くに出勤してきたんだろう。そういう自分も早く来たつもりだったんだけど、ダメだな、気を付けよう。そんなことを思いながら九時前に店の外のCloseの看板をOpenに置き直した。
 数分後に朝一番のお客さまがやってきた。ユウちゃんが店に入ってすぐのお客さま用のソファでご要望を聞き、俺に伝える。カラーとカットということで、シャンプー台に移ってもらい髪を流してからスタイリングチェアに座ってもらうよう指示を出した。そして聞いていた髪色のカラーリング剤を準備しようとした時だった。店に別のお客さまが入ってきたのだ。
「お客さま、ご予約はされてますか?」
「はい、三波です」
「三波・・・さま。少々お待ちください」
受付にいたミナちゃんが予約表をチェックする。首をかしげながらパラパラ表をめくっては戻す。
「あの、失礼ですが何時からでご予約されてますでしょうか?」
「九時ですけど」
「今日ですか?」
「そうですよ、私ちゃんと電話した後スケジュール帳に書き込んだんだもの」
 そう言って三波さまは自分のスケジュール帳を開くとミナちゃんに見せた。
「どうかした?」
 気になって受付に行くと、俺はお客さまに「ソファでお待ちください」と声をかけて予約表を覗いた。
「ないんですよね、今日は今シャンプー台にいるお客さまが九時で、その次のお客さまが十一時ですもん」
 そう言いながらミナちゃんが予約表をこちらに見せた。で、気づいた。次の日の表部分の九時に名前があったのだ。ミナミさま、と。
「三波さま申し訳ありません、確認なのですが、予約は明日ではないですか?」
「いいえ。間違いなく今日です。十一時半から予定があって、その前にと思って予約したんだから間違いないです」
「そうですか。失礼いたしました。で、今日はどうされるご予定ですか?」
「ヘアセットを。いつもしてもらってるやつ」
「あぁ、・・・かしこまりました。では一度髪を流してからさせていただきますのでシャンプー台の方へどうぞ」
 ミナちゃんに髪を流すように指示を出す。
「大丈夫ですか?先のお客さまのカットありますよね?それに三波さまのいつものって和装用の髪結いですよね?」
「カラーの間になんとか済ますよ。いつも俺がやってるから大丈夫。ご案内して」

 今日は店長が不在だ。美容協会の会議に出席しているのだ。そうなると、店でヘアカットや特に三波さまのような特殊な髪結いが出来るのは今日は俺だけってことになる。
 うちはもともと店長と俺のふたりでこじんまりとやっていた。それがここ数年固定客が増えてきたのもあって二年前から求人を募集して二年前にミナちゃん、そして去年ユウちゃんが入ってきた。ふたりともアシスタントとしては立派に一人前だが、店長の意向でカットやスタイリングをまだ担当したことがないのだ。そろそろミナちゃんをスタイリストとして担当させてもいいかな、と話していたレベルで、さすがに店長がいない日に勝手にカットを任せるわけにもいかない。まぁどうにか対応できないこともないだろう。俺は先のお客さまのカラーリング剤を準備するとユウちゃんにそちらの対応を任せ、髪を流し終わった三波さまのヘアーセットの準備をした。
 なんとかふたりのお客さまの対応が済んだ昼前。一息つこうとした時だった。次のお客さまが来られた。実は今日はそこそこ予定表の間隔があくことなく詰まっている。そんな日に限ってそこでまた、ダブルブッキングが起こったのだ。
「なんで?今日の予約のお客さまと明日の予約のお客さまが同時に来られてる」
 ミナちゃんが不思議そうに予約表を見る。だけどお客さまは同時刻に何故か二名訪れるのだ。
「あ、これ。・・・私だ」
「え?」
 明日の予約を受けた手書きの文字が、ユウちゃんの筆跡なのだ。
「え?どうしよう、一日ずれて記入しちゃってたのかな?」
「うそ。まじで?」
 慌ててミナちゃんが予定表を持って俺のところに寄ってきた。カットしていたお客さまに声をかけて少し離れたところで話を聞いた。
「マジかよ。もしかして二日分全部ってことないよな?」
「わからないって言ってます。本当に明日で受けている人もいるかもしれないけど、どの予約の筆跡もユウちゃんのなんで、もしかしたら全部ダブルブッキングしてるかも」
「うっそ」
 予約表に目をやった。日付隣同士二日分。予約を受けた時点で簡単に希望は聞いてある。カラーだけとかならアシスタントのふたりだけでも対応もできるけれど、カットやセットは俺しかできない。それに、数名パーマ希望も入っている。矯正のストレートパーマだとより一層時間がかかるし完全に一人の手を取られるのだ。
「とりあえず全部ブッキングしてるつもりで心構えしておいて。もし本当に明日の予定できちんと受けていた人がいるとしたらラッキーだ、ぐらいのつもりで。ちょっと無理な指示を出すかも知れないけど今日は頑張って対応してくれる?」
「わかりました」
 申し訳なさそうに泣きそうになっているユウちゃんにも確認する。
「大丈夫。自信持ってお客さまには笑顔で接すること。その代わりほんと悪いけど、指示には迅速に動いて」
「わかりました・・・」

 こんな地獄みたいな日は初めてだ。いつもの倍動く。休憩なんてない。当たり前のように食事は取れず、かろうじての水分補給だけは取るようにふたりにも指示をした。小さな店内のあらゆる場所にお客さまがいるんだ。これは俺がひとりで対応するではなく、普段なら店長とふたりで対応するに値する数だった。それでもなんとか、時間に融通のつくお客さまに協力してもらいつつ二十一時過ぎに最後のお客さまをお見送りした。
「本当に申し訳ありませんでした」
 最後のお客さまが帰られたあと、ユウちゃんは大きく頭を下げてそう言った。
「すごいよ、ことごとく全部ブッキングだったね」
「本当に、本当に・・・私・・・」
 あぁ、泣いてるなってわかった。顔をあげないユウちゃんがそう言葉を詰まらせる。
「とりあえず片付けよう。掃除と、明日の準備。一応ね。明日の予約のお客さまは全員、今日来ちゃったから明日誰も来ないかもしれないけど」
 そう言ってユウちゃんの頭を軽くポンポンと撫でた。それから俺は五千円札をミナちゃんに手渡した。
「ビール買ってきてくれない。飲み過ぎるといけないから一人一缶ずつ、だから三本ね」
「ビールですか?」
「うん、あと何か食うもんと。通りのコンビニでいいよ」
 ミナちゃんが買いに行っている間に俺とユウちゃんで掃除と明日の準備を進めた。ふたり言葉を交わすことはなかった。あえてそうした。ミナちゃんが帰ってきて、片付けが済んで店の明かりを消すと、奥の休憩部屋に三人で集まった。
「まず、ユウちゃんに」
「はい」
「ミスはしっかりと反省して受け止めておくように。お客さまにも、ミナちゃんにも迷惑かけてるし」
「はい、申し訳ありませんでした」
「また同じようなミスを起こしたら困る。それはミナちゃんも、もちろん俺だって気をつけなきゃいけない」
 そう言うとミナちゃんも無言で大きく頷いた。
「正直、何やってんだよ!って思ったよ。ふざけんなよ!って。忙しいとか対応できないだろ、とか。そういう次元じゃなくてさ。確認とか基本のことだからさ、こういうミスは絶対に許されない」
「はい」
「でも」
 俺は大きく深呼吸をした。
「結果オーライってとこかな。ふたりともよく頑張ってくれたから。ユウちゃんも逃げ出さずに頑張ってくれたし。ミナちゃんもちょっとキレてたでしょ?」
「え?」
「バレてるよ。でもユウちゃんに当たることもなくちゃんと頑張ってくれたし」
「いやぁ、ごめんなさい。ちょっとイライラはしてました」
ミナちゃんがそう言うと、ユウちゃんは一層泣き出した。
「でもね、俺はいい経験できたんじゃないかな、って思ってる。今日はありがとう」
 ふたりがじっと俺の顔を見ていた。ミナちゃんはホッと落ち着いたような笑顔で。ユウちゃんは本当に悔しそうな泣き顔で。でもふたりともいい表情してるって思った。
「ということで。ビールあけて。乾杯しよう」
 ユウちゃんが急いでティッシュで涙を拭いた。ミナちゃんは買ってきたお惣菜のパックを開ける。そして三人で笑顔で乾杯をした。
 店長にはその日に電話で連絡を入れた。俺もそれなりに怒られたけど。だけど何より、明日きっと暇だなあって呆れられて。それで電話越しにふたりで大笑いした。

『 CHANGE 』

 ずいぶん懐かしい話を思い出した。学生気分が抜けて、仕事にも慣れてきて。ずっと付き合ってた彼女と別れて、そんな落ち込んでばかりいてもいられないと奮闘していた。なんだかガラッと自分の生活リズムが変わってきた頃だ。沖縄では梅雨入りしたとかテレビで言っていて、学生時代ずっと短くしていた髪が伸びてきた俺は、夏の前の湿度に少しふにゃっとした髪を気にしていた。そう、懐かしいな、そんな頃だ。

「ヘアスタイル変えたいのか」
「はい、どんなのがいいですかね?」
 まだ開店前の準備をしながら店長にそんな話をしていた。美容師として働き始めて半年も経っていない。まだアシスタントの仕事でさえ一人前ではないと今の自分ならしっかりとわかる、その頃の俺はとにかく何でも店の店長に相談していた。
「専門学校の時もずっと短髪だったんだろ?くそ真面目に高校の、なんだっけ、野球部?の監督の言いつけ守って短髪。うちで働くことになった時あまりに雰囲気が美容師っぽくなくて笑いそうだったけどな」
「別に監督の言いつけ守ってるわけではないですよ。ただ、セットするのとか、朝面倒だから短くしてただけです」
「美容師の言う台詞か?それ。他人のは仕事にしてるのに自分の面倒くさいって珍しいやつだな。まあ、確かにちょっと伸びたよな」
 店の看板をOpenにする前に、新しく届いたばかりヘアスタイルのサンプル誌を軽く手に取って見ていた。
「あ、柊羽」
「はい?」
「ヘアスタイル変えるんじゃなくて、そのままで色入れないか?」
「色ですか?」
「ずっと黒だろ?」
「はい」
「すごく明るい茶とか、そうだな、それよりもっと薄い色にしてみないか?」
「薄い。って、どんなですか?」
「いっそのこと色抜いて金髪、とか」
「金髪ですか?」
「なんかお前見た感じが真面目なんだよ。もっと派手でいいと思うんだよな。まだ若いんだし、それくらいのほうがいいよ。一気に明るい感じになると思うよ」
「マジですか?」
 正直、金髪かよ!と思った。けど。まだ数か月だけど、一緒に仕事してきてわかる。店長がお客さまにヘアスタイルや髪の色や、提案して失敗したことがあまり、ない。実際元より良いと思うことの方が多い。凄いなといつも思っていた。ただ、でもなあ、俺が金髪、って。無いよな、とその時は思った。
 就職したのと同時に一人暮らしをはじめたアパートに妹が遊びに来ると連絡があったのはちょうどその前の日のことで、妹にも聞いてみようと思っていた。進路を悩んでいた時に俺に美容師になるのはどうかと言ってくれたのが妹だった。その当時、その春に高校を卒業して女子大生になったばかりの妹だ。遊びに来る目的はわかってる。髪を切ってほしいか、メイクを教えてほしいか。その辺だろう。進路に迷ってた俺に美容師を勧めたのはそれが目的だったんじゃないかって、今になって思うよ、まあ、いいんだけどさ。

「金髪?お兄ちゃんが?ありえない」
「・・・だよな。そう言われると思ってました。はい、ありがとね」
そう簡単に返事を返すと俺は妹が差し入れてくれた食料を冷蔵庫にしまった。たぶんおふくろにでも頼まれたんだろう。
「でも。なし、とも言えないなあ」
「え?」
「イメチェンするにはいいんじゃない?それにちょっと見てみたいし、お兄ちゃんの金髪」
「マジかよ?」
「でもさー、おとーさんとおかーさんビックリすると思うよ?」
「わかってるよ。言うかよ。特におやじにはぶん殴られるよ」
「たしかに。おとーさんは、なんだその髪はー!とか言いそうだよね」
「だろ?どっちにしても家にはほとんど帰ることないし。ここにもお前しか来ないんだし。どんな風になっても問題はないでしょ?」
 誰かにスパッと変だと言われたら止めようと思っていたのに。妹はだんだん乗り気になってくる。もういいや、金髪で。そんな感じで決めたイメージチェンジだった。次の日店が終わるのを待って、店長に髪の色を抜いてもらった。
「ほんとに変じゃないですかね?」
 あまりに見慣れない鏡の中の自分に、少しずつ自信がなくなってくる。
「変どころか、すげえ美容師っぽいんだけど」
 俺の髪なのに、自分がまるでイメージチェンジしたみたいに店長のほうがテンション上がってる。
「いいよー。明日から客入るよー」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だよ」
 違うと思うんですけど。
 だけど明らかに次の日からお客さまの反応は違った。前から来ているお客さまは必ずこの俺の髪色に食いつく。似合わないと思っていた不安どころか、逆に良いと言ってくれる。今までほとんど話したことないお客さまにも名前を聞かれたりする。不思議だった。それにしても今までの俺のこの店での存在感ってそんなに無かったのか、とも思ったけどね。
 自信なんてのはある日突然生まれる。少し自分の中の、外見でもいいんだけど、とにかく何かが変わると気持ちも変わる。ただのアシスタントとして店長の後ろで言われたことをやっていただけの自分とは違って、もっと、なんだろこう、積極的に動いたり話しかけたりできるようになっていった。

 ただ、髪の色を変えただけなのに。
仕事が休みの平日の昼間、きっとこんな金髪の若い兄ちゃんが食料調達にコンビニあたりにふらふらと買出しに行く姿を見て、おばさんたちは仕事もしないでふらふらと、って思うんだろう。けどね。自分にほんの小さいものでもいいから自信が出てくると気持ち、強く街を歩ける。どんなに頼りなく見える若造かもしれないけど、ゴミの分別だってきちんとやってる、たまには食事だって自分で作ってる。こんな身なりでも仕事だってやってる。ちゃんと生きてるよってさ。

『 あの日の春 』

 また新しい春が始まるなあ。店までの大学通りを咲き始めの桜が彩り始める。春休みで実家に戻っていた大学生たちが故郷からちらほら戻ってきているんだろう。少し前まで人通りの少なかった脇道にも若い子たちが増えてきている。のんびり営業していたカフェや書店や、もちろんうちの店もそうだ、また客が増えてくる時期だ。
 まだのんびりモードのある日、急遽の当日予約で富田さまから電話が入った。その時々でお客さまがどのような要望でどう対応したのか、うちではお客さまのカードを一人ずつ作って保管管理するようにしている。待っている間にカードを探して見てみた。まだ一度しかご来店していない、もう一年以上も前だ。前回対応したのが俺だったので、今回も俺が対応することになった。
「前回と同じようにカットでよろしかったですか?」
「はい、お願いします。随分伸びちゃって」
 富田さんは60代後半のご婦人で、きれいにほぼ白髪になりつつある髪は、前回短めのショートにカットした。首筋をすっきり、でもトップは重めに長く残した女性らしいスタイルだ。それがすっかりボブを通り越して髪をまとめられるくらいの長さになっていた。
「随分伸びましたね」
「そう、もう伸ばしっぱなしでみっともないよね」
「いいえ。それでは髪を先に流しますのであちらへ」
 来店された富田さまをシャンプー台へご案内した。いつもはアシスタントの二人のどちらかにお願いするんだけど、今日は予約もそれほど入っていないし俺が自分で富田さまの髪を流した。それからスタイリングチェアに案内すると濡れた髪をゆっくりとタオルで包むようにして水分をとる。
「それではカットしていきますね」
 ハサミを入れるたびに白い髪が床に落ちていく。そしたら富田さまが俺に話しかけた。
「すっかり髪が白くなっちゃった」
「そうですね、でも髪がきれいだからこのままのほうがステキだと思いますよ」
「ありがとう。前に来た時もそう言ってくれたわよね」
「え。そうでした?」
「そうよ。まだ少し黒髪も残っていてまだらな感じだったのね。それで白髪染めもお願いしようかなと思っていたら、あなたが白髪がキレイですねって言ってくれて」
「そんなこと言いましたか?失礼なこと言いました、俺なんかが偉そうに」
「ううん。やっぱり髪が白くなるっておばあさんになってくみたいでイヤだったんだけど、なんかキレイって言われてね、自然のままでいるのもいいかなと思ったの、あの時ね」
「そう言ってもらえるとこちらも嬉しいです」
 ハサミを入れながら、時々富田さまの顔を鏡越しに見ながら返事をしていた俺は、富田さまがじっとこちらを笑顔で見ていたことに気づいて、なんだか緊張してきた。どうしてだろう、珍しい。緊張するなんて。俺の手先をじっと見られている感じがやけにストレートな視線だったのだ。
「主人がね、すごくイイって言ってくれたの」
「え?」
「あなたが切ってくれた髪型。前にしてもらったやつ」
「そうなんですか。それで今回も同じなんですか?」
「ええ。明日ね、主人の一周忌なの」
「え」
 俺は一瞬手を止めた。
「前に髪を切ってもらいに来て、それから少ししてかな。亡くなったの」
「そう・・・ですか。大変でしたね」
「ええ、なんかもう急で。うちは子供もいないから一人になってしまって。毎日がバタバタしてるのかぼーっとしてるのかわからない感じで一年過ぎちゃった」
そう言うと富田さまは懐かしむようににっこり笑った。俺はそんな富田さまになんて返していいか言葉に悩み、鏡越しに微笑んだ。そしてまた髪にハサミを入れる。
「明日一周忌の法事をするのに、恥ずかしいなって今朝鏡で自分の姿を見て思っちゃってね。髪が伸び放題でぼさぼさなんだもん。それで慌てて電話入れたの、今日空いててよかった」
「そうだったんですか。だったら前回よりもっとキレイにカットさせてもらわなきゃいけないですね、俺。じゃないとご主人に叱られる」
 それを聞いて富田さまはクスクス笑った。
「大丈夫よ。あなたのしてくれた髪型、ほんとにイイって気に入ってくれてたから」
「ほんとですか?大丈夫かな、精一杯がんばります」
「ありがとう」

 それから、富田さまが話すことはなかった。目の前に置いた雑誌を手に取りゆっくりとページをめくる。俺はただ、まだ残る緊張感を大切にハサミに込めて髪を切った。こんな感覚は本当に初めてだ。ひたすらハサミを動かす自分以外がスローモーションで動いているみたいな、変な緊張感。だけどとても清々しい感覚だった。自然と背筋が伸びてる感じ。そんな不思議なテンションが手先にまで伝わるみたいに、いつもより滑らかに髪に触れる。
 ブローを始める頃、富田さまは見ていた雑誌をチェアの前のカウンターに置いた。またじっとこちらを見ている。いや、俺をではなく、鏡の中の自分をだ。
「一年前に戻ったみたい」
「え?」
「あの時と同じ」
「はい、大丈夫ですか?これで」
「ええ。ありがとう」
 ブローブラシを髪にあて、ドライヤーを使ってゆっくりセットしていく。
「この髪みたいに、一年前にすべて戻ればいいのに」
 ふいに富田さまが言うので、俺はドライヤーを一瞬止めた。
「なんですか?」
「いいえ、なんでも」
 そう言われて、俺はまたドライヤーをONにした。じっと鏡の中の自分を見つめる富田さまは、きっと今一年前の自分と、ご主人を思い出していらっしゃるんだろう。

   一年前にすべて戻ればいいのに

「なんですか?」と聞き返したけれど、実は聞こえていた。富田さまが何か話したいなら聞こうと思った。話したくないなら、それでいい。俺はわざと聞こえてないふりをした。今、富田さまはあの日の春に戻っているのだから。

『 きらきら 』

 お客さまが来るなり笑ったのは、それが初めてだと思う。来店してきた常連客の朱莉の顔を見て俺は思いっきり笑った。四月に入って半月経つ頃だ。
「えー。なに?どしたの?佐久田さん」
 不思議そうに朱莉は俺の顔を覗き込むが、それがまた可笑しい。
「いや、どうもしない。どうぞ、シャンプー台へ」
 朱莉をシャンプー台へ案内し、シャンプーはアシスタントのユウちゃんに任せた。
 春休みの時期はやはり混み合う美容院だけど、春休みが終えても四月はやっぱり忙しい。ちょうど季節が変わるのに合わせて髪色を変えたり、ヘアースタイルを変える人が多いからだ。バタバタする中、よく知る常連のお客さまの予約が入ると楽しみなものだ。近況を聞きながら世間話をする。特にやっぱり、この若い世代っていうのは元気があって楽しい。
 シャンプーを終えた朱莉が頭にタオルを巻いた状態でスタイリングチェアに移動してくる。それを見てやっぱり、俺は笑いが堪えられずに手を口に当てながら他のお客さまの邪魔にならないようにクスクス笑った。
「もう。どうしたのー?」
 朱莉が問いかけてくるその表情がもう笑えて仕方ないのだ。
「朱莉って中三だっけ?」
「違うよ、四月から高一だよ」
「そっか。それでか」
チェアに座った朱莉にケープをかけながら鏡越しに俺は話しかけた。
「高校デビューか、そのメイクは」
「へ?」
「だって前までメイクなんてしてなかったでしょうが。正月以来久々に来たなと思ったら、なんだよそのガッツリメイク」
「え?」
 俺が可笑しくて笑っていたのは、数ヶ月ぶりに見た朱莉がすっかりメイクで別人みたいになっていたからだった。
「だってみんなしてるんだもん。楽しくってママに教えてもらった」
 はあ、そういうことか。朱莉の母親もうちの常連客だ。そしてやはり、ガッツリメイク。歳はいくつだっけ。俺よりちょっと上くらいだっけ。若い母親なんだけど、とにかく今でもギャルメイク真っ只中。きれいな人だから似合ってなくもないんだけど。
「それにしてもさ、そのつけま二枚重ねはないでしょ」
「え?だってママはいつもそうしてるよ」
「ママはいいんだよ、年齢的にまぁそれなりに。朱莉にはちょっと濃すぎるでしょ」
「えぇ~!可愛いじゃん」
 朱莉の髪の雫をさっとタオルで拭き取ると、俺はスツールに腰掛けた。
「ボブでいいんだよね?」
「うん。今日さ、このあとデートなんだ」
「デート?」
「うん。高校で同じクラスになった子に告られたの。すごくない?入学してまだ一週間だよ?」
「はいはい。朱莉はモテるからね~」
「だからめちゃくちゃ可愛くセットしてよね」
「わかりましたー、ご希望に添えるよう頑張ります。でもさ、そのメイク、ちょっとやり直さない?」
「えー。なんでよ。それにメイク道具持ってきてないもん」
「朱莉の歳ならさ、もうちょっとナチュラルなほうが可愛いよ」
「これだってナチュラルじゃん」
「バカ言え、めちゃくちゃ濃いぞ。いかにもメイクしてますって顔してるじゃん。デートならさ、メイクしてるけどしてない風なのが一番でしょ。俺ならガッツリはちょっと引くかな」
「えー。そんなこと言う?めっちゃ時間かかったのに、これ。それに佐久田さんに言われたくない、おじさんのくせにー」
「おじさんは余計だろ、せっかくアドバイスしてやったのに」
 そんな会話をしながら、俺はハサミを動かしていた。少しずつ切った髪が床に落ちて、朱莉のヘアスタイルがまとまっていく。そんな時、俺たちの後ろを通り過ぎようとしていた店長が口を挟んだ。
「朱莉、どうせならメイク、柊羽に教えてもらっとけよ」
「え?佐久田さんに?」
「柊羽のメイクの腕はスゲエぞ。雑誌のモデルのメイクもやったことあるんだからさ」
「店長、あれはちょっとした地方紙のやつ、勉強がてらやらせてもらっただけですから」
「でも本格的なやつだったじゃないか、その後もフリーペーパーのとか、やったじゃん」
俺と店長が話しているのを鏡越しに見ながら朱莉が俺をじっと見ていた。
「佐久田さんってメイクもするの?」
「そうだぞ、俺はスタイリング専門だけど、柊羽はヘアメークアーティストだからな」
「なんで店長が自慢げに言うんすか」
「えー。だったらママじゃなくて佐久田さんに教えてもらいにくればよかった」
「だろ?そのメイク、やり直してもらえよ」
「だってメイク道具持ってきてないもん」
「大丈夫、柊羽のメイクボックスはここにあるから」
「え?そうなの?」
 なんだか店長が俺よりもノリノリで話を進めていく。最終的に、髪のカットが終わると、スタイリングする前にメイクをし直すことになった。奥の、スタッフ用の洗面台でメイクを洗い流すと、見慣れた朱莉がスタイリングチェアに戻ってきた。
「そのほうが、安心するわ。朱莉らしくて」
「嫌だよー、スッピンじゃん」
「スッピンが嫌とか言う年齢かよ」
 メイクボックスをここで使うのは、成人式のヘアメイクの予約が入った時とか、特別何か、そうだな、結婚式に出席するお客さまのヘアメイクとかするぐらいで、普通に来店したお客さまのメイクは初めてだ。しかも高校一年の女の子なんてさ。カウンターにメイクボックスを広げると朱莉は物珍しそうにしていた。
「すごい。プロみたい。テレビとかでよく見るやつ。IKKOさんとかさ」
 そう言いながら、どんだけ~って手を動かして遊んでる。俺はその横で、メイク道具をセッティングした。薄く、下地を塗っていく。
「目、閉じて」
 ゆっくり目を閉じた朱莉の頬に薄らと下地を伸ばしていく。そしてこれまた薄くファンデーションを塗る。UV効果のあるものだ。若いといってもね、一応ね。そして軽く、アイシャドーをつけた。あまり目立たないように、中指を使って馴染ませていく。そこまでやって、朱莉の目を開けさせた。
「朱莉の付けてたつけまは袋に入れておいたから、持って帰りな。俺の持ってるやつを一セットやるよ。これな。二枚重ねなくても存在感のある、だけどあんまり主張してこないデザインのやつ。これが俺は一番好き」
 そう言うと、俺が指でつまんでいるそれをじっと朱莉は見た。
「なんかキレイ。高い?これ」
「まぁ、百均とかではないけど」
「ふーん」
 朱莉の目元にそれを乗せていく。そして最後に少しだけチークを塗った。
「これだけ?」
「これだけ」
「うそぉ。でもスッピンとは大違い」
「そ。なのにガッツリメイクでもない」
「うん。ほんとに。すごいね、佐久田さん。ほんとにメイクできるんだ!」
「あのね~、やらせといて言うか?それ」
 本当なら、この年齢ならメイクなんてしないほうがいいと思う。だけどメイクをしたくなる気持ちもわかる。ましてやデートの日なんて、可愛くありたいって思うんでしょうよ。
女子って大変だな。専門学校に通っていた頃にそう思った。ヘアメイクと別でメイクも勉強する男子は少なくて、必死になってメイクの勉強をしてる女子のみなさんを見てよく思ったもんだ。俺たちは勉強の時ぐらいしかメイクはしない。もちろん自分にはしない。だけど女子のみなさんは、毎日勉強とは別で、いや勉強も兼ねてかもしれないけど、毎日メイクしてきてたもんなあ。
「デート、それで楽しんでこいよ」
 そう言うと朱莉は笑顔で「うん」と頷いた。スタイリングが途中だった髪をブロウして、朱莉のデート用ヘアメイクは完了した。
やっぱり、こんな時の笑顔ってみんな可愛いもんです。キラキラしていて。魔法がかかったみたいで、俺は好きなんです。

『 忘れられない人 』

 一度、美容師を辞めようと思ったことがある。過去にそれは本当に一回だけ。
 専門学校を卒業してこの美容院nuovoで働くことになった。毎日が新しいことだらけで、新鮮だった。覚えることだって多い。店長と俺のふたりだけ。なので、まだアシスタントの身だけれどやることはたくさんあった。おかげで店長にはしっかりと仕込まれた。店舗の一階で雑貨店を営む店長の奥さん、尚子さんにもお世話になった。食事をご馳走になったり、まだ世間を知らない俺に、店長と尚子さんはいろんなことを教えてくれた。それが楽しい時期だった。残業とか全然苦にならない。むしろ覚えたいことが山のようにあった。仕事が終わってからも店長の自宅にお邪魔して仕事トークを朝まで続け、少し仮眠させてもらって出勤なんてことも多かった。もちろんそれがあって今の俺がある。貴重な時間をたくさんもらった。
 ちょうどその頃だ、ずっと付き合っていた彼女と上手くいかなくなったのは。専門学校の同級生の紹介で知り合った子だった。普通の大学生で、会うたびに好きになって、俺から告白した。専門学校を卒業する頃だったと思う。nuovoに就職先が決まったことを喜んでくれて、俺も彼女が一般企業に就職が決まったことを喜んだ。お互い学生生活を終えて新しい生活が始まる。何もかもが新鮮で、不安もあるけれど楽しみの方が大きかった。そして何より、俺には彼女がいる。それぞれ仕事をするようになって、忙しくなったって、たまに会えればそれで元気になれる。そう思っていた。
「また?昨日も居残りだったじゃん」
「うん、ごめん。ちょっと店長に教わっときたいことあって」
「なんか毎日シゴかれすぎじゃない?違うヘアサロン探したら?」
「なんでよ。俺はここだから楽しいし頑張れてる。ちょっとぐらい居残りでも苦じゃないし」
「柊羽は苦じゃないかもしれないけど、私には苦だよ」
「なんで?」
「もう三週間会ってないよ?遠距離恋愛してるわけじゃないんだよ?家だってすぐ近くなのに会ってないっておかしくない?こんなの付き合ってるって言わないよ」
「そんなこと言ったって、仕事なんだから仕方ないじゃん」
「なによ仕事って、倦怠期の夫婦喧嘩で旦那が言う言い訳みたい」
「はあ?なんだそれ」
「いいよもう。どうせ私の誕生日も覚えてないんでしょ?」
「え?」
「いいよ。友達にも誘われてたからそっちで遊んでくる。柊羽とふたりでお祝いしたかったから友達のは断ってたんだけど、柊羽今日も無理みたいだし」
「え?ちょっと待って。今日何日だっけ?」
「知らないよ。日付もわからない、彼女の誕生日も忘れるぐらい忙しいんでしょ?頑張ってください、美容師さん」
「え?ごめんって。待って、美桜」
 電話は、一方的に切れた。そして携帯画面の日付をじっと見る。
「やっぱり。今日じゃんかよ、誕生日」
 その後何度もかけ直したけれど、電話は繋がらなかった。留守番電話にさえならなかった。メッセージも残せないのかよ。メールで、ごめんねって、終わり次第逢いに行くからって、何度か送ったけれど返事はなかった。さすがに、実家暮らしの彼女の家のチャイムを十一時を過ぎた時刻に押す勇気はなかった。彼女の家族に迷惑かけてでも押せばよかったのかな、あの時チャイムを。それきり連絡がつかなくなった。共通の友達に連絡を入れてみるけど、いい返事は帰ってこない。
「ごめんね、連絡あったことは伝えておくけど、もう逢いたくないって言ってたよ。」
「そう、迷惑かけてごめんね。ありがとう」
 もっと、もっとさ。俺が器量のいいやつだったらよかったんだ。勝手に、いつも見守ってくれていて、俺がそこそこ一人前になるまで笑顔で待ってくれてるとかって、自分に都合のいいように考えてたんだ。彼女だって就職したばかりだし、忙しいだろうし、覚えることも職場での付き合いもあるだろうよ、ってね。本人の口からそう言われた訳でもないのに、そう思い込んでたんだ。
 すっかり忘れてたんだよ。学生の頃からそうだった、うん、そうだったよ。美桜はとても寂しがり屋だった。逢えるととても喜んで、電話での声より数倍楽しそうで、そんな彼女を見ているのが大好きだったんだ。
仕事を始めてから、お客さまの帰って行く時の喜んだ顔を見るのがとても嬉しくなっていた。だけどそれと同じくらい、待ち合わせ場所に現れた時に見せる、彼女のパッと明るくなる表情が好きだったのに。
その次の日は最悪なくらいミスをした。お客さまの聞こえないところで店長に散々怒られた。
「今日はもういい。帰れ」
「え。でも」
「俺一人の方がやりやすい」
 まだ真昼間だ。帰らずに掃除をしたり、出来ることをしようと居残っていたけれど、邪魔だと店長に無理やり追い出された。その日だ、仕事辞めようと思ったのは。頑張ってるつもりだったけど、頑張れてなんてなかったんだ。自分のことしか考えてなくて、周囲に迷惑をかけていただけだったんだ、と。

「どうした?柊羽」
「いや、なんでもないです」
 今日の予約表を見ていた。昼過ぎに予約が入っている名前だ。高月さま。美桜と同じ苗字。それでなんだか懐かしいようなせつないような気持ちになっていた。それだけで彼女のことを思い出すなんて、な。
もう何年になるだろう。あの後店が終わる頃に店長のもとを訪れて謝って、次の日からまた店に立った。美容師は向いてないんじゃないかって悩みながら毎日店に立った。他の仕事を探すべきか考えながら。だけど結局、彼女とはそのまま。連絡も取らないまま。向こうからも何もないし、俺からも連絡を入れる勇気がなかった。それで決めたんだ。仕事に逃げてるって言われてもいい、今自分に出来ることをしよう。あれもこれもって、俺には無理だ。彼女を諦めて仕事を選んだ。その夜は思い切りひとりで泣いたけどね。
昼過ぎに入っていた高月さまは、全くの別人だった。セレブっぽい婦人って感じだった。少しだけ、美桜かもしれないって期待した。だけど、違ったことにも一瞬ホッとした。成長してねーな、俺は。
「いらっしゃいませ、奥のシャンプー台へどうぞ」
 俺は笑顔で高月さまをご案内した。

『 スタート 』

 それはゴールデンウィークの連休に入る少し前だった。店長に話があると言われて、お客さまが帰られた後の店内でふたり居残っていた。
「柊羽さ、店長やる気ないか?」
「店長?え。店長、辞めるんすか?」
「なんでだよ、俺は辞めねーよ」
「え?どういうことですか?」
「来年の春、ちょうど一年弱先かな、新店舗オープンするんだ」
 店長から初めて聞かされた話だった。
「実はもう去年くらいから考えてて、店の場所も決まったんだ」
「何処ですか?」
「吉祥寺だ」
「え?めちゃくちゃ激戦区じゃないですか」
「俺は反対したんだよ、でも奥さんが決めてきちゃったんだから仕方ないじゃない?」
「尚子さんが?」
 店は、ここと同様。奥さんの経営する北欧雑貨の店とセットだということだった。ここは一階が雑貨店、二階が美容院になってる。
「カフェと併設ですか?」
「そうなんだよ。激戦区だからこそのアイデアだっつって、自信満々でさ」
「はあ、尚子さんが決めたならもう決まりっすね」
「だろ?」
 吉祥寺に出来るというnuovoの新店舗は、ドアこそ二箇所あるものの、中で一つに繋がっているカフェ雑貨店兼ヘアサロン、というもので。店長に見せられた図面には、大きく広い店内の真ん中をグリーンの観葉植物でなんとなく仕切られている。北欧雑貨を使ったカフェスペースがヘアサロン部分と逆の端にあり、そこで扱う食器等が中央部分にある雑貨スペースで買えるというものだ。
「まあ、斬新なんだけどな。ここの、店長にならないか?柊羽」
「俺がですか?」
「ああ、ゴールデンウィーク明けからミナちゃんにはスタイリングも任せていこうと思う。ミナちゃんにまだ話してないけど、一応ミナちゃんはこっちの、吉祥寺店に移ってもらおうと思ってる。ユウちゃんにも夏ぐらいからスタイリングに入ってもらう」
「二人ずつ分かれるってことですか」
「そうだ。でもそれじゃ多分人手不足だろうと思って、求人をかけてる。こっちとあっちと、一名ずつ」
「はあ。でも、俺が店長って想像つかないんですけど」
「何言ってんだよ。俺が柊羽を雇った時、今の柊羽ぐらいの年齢だったぞ?まあ、柊羽は固定客が多いから、ほんとなら本店に居てもらう方がいいんだろうと思うんだけど、でも新しく店長としてやるなら、一からの方がやりがいもあるだろ?こっちがいいっていうんなら俺が吉祥寺行ってもいいんだけどさ」
「いや、店長が本店にいるほうが、自然ですよね、普通」
 考えといてくれって言われても、考えても答えの出ない話だった。俺はずっと雇われでいいと思ってたし。まあ、店長って言っても自分の店じゃないから雇われに変わりはないけど、今の位置と全然違う。おまけにカフェも併設って、そっちの店の人との連携とかも必要になるだろう。どうしよう、めちゃくちゃ悩む。
 そういえば、店に立って髪を切ったりセットしたりしながら、お客さまと話をする。相手の話を聞いたり、よく知る人には意見を言ってみたり。そうやって八年もやってきたけど、俺にはそういう、相談出来る人って居ないな。大体は店長に相談することがやっぱり多いけど、今回ばかりはそういうわけにもいかない。野球やってた頃のメンバーとか、高校や専門学校でよくつるんでた奴らとか、どうしてんのかな。随分会ってない気がする。同窓会とかもあったけど、休みや時間が合わない。自分から連絡取らないってのも悪い癖。こんな時だけ連絡取るってのもどうなんだろうな。タマはあれ以来たまに連絡くれるけど。タマたちとのグループも、なんかいつも俺が問題見つけたら指摘して。みんなであー、ほんとだ、どーする?って悩んで。気付くと俺の意見で動いてることが多かったな。クラスとかでも控えめにしてるつもりだったけど、「サクはどう思う?」って意見を求められることが多くて。なんか昔から俺って、そういう役回りなんだよな。助けを求められるワリに、助けを求めたことが、ない。
 なんか、笑えてきた。
 すっかり冷めたコーヒーをテーブルに置いたまま、カーペットの上に寝転がって、いつも部屋に転がっている野球のボールをポーンと真上に投げる。落ちてくるそれは、俺の掌へと戻ってくる。みんなの名前とかメッセージがせせこましく詰まったボール。高校卒業の時に仲間内で書き合いっこした記念のボール。掌に収まったボールの、指の隙間から見えた文字。一瞬それが目に入ると、俺はそこから目が離せなかった。それは監督からの一言だった。

   進め 

「柊羽は、先を読むのが上手いからな。無駄だと思ったらさっさと止めてしまう。その分、自分の信じたものはどんどん吸収してくけどな。でもな、柊羽。この先きっと、それじゃ駄目な時がくる。その時は一度それ、挑戦してみろ。進むのが大事なこともある」
 監督の言葉が、鮮やかに蘇ってくる。俺は、返事など返ってくるはずのないボールに向かって問いかけた。
「これって、店長の話、受けてみろってことですか?監督」

 次の日、俺は店長に返事をした。
「店長の件ですけど、やらせてください」
「え?いいんだな?任せても。で、どっちにする。ここか、吉祥寺か」
「はい。吉祥寺で」

 それからは、時々吉祥寺に足を運んで、尚子さんが新しく始めるカフェと雑貨店の従業員とも打ち合わせしたりした。店自体のオープンは春だけど、それまでにやるべきことがたくさんあった。店のことも、今まで以上に覚えることが増える。店長との居残りも増えた。一緒に吉祥寺店に行くことになったミナちゃんもやる気満々で頼りになる。俺はほんとに恵まれてるよ。
 日が経つのなんてあっという間だった。気付くとオープンまであと数日にせまっていた。
「お前の固定客にはDM送っといたんだ」
「DMですか?」
「ああ、吉祥寺店に移動になるから、よかったら来てください、ってな」
「え。そんなの俺がやったのに」
「いいよ。新店舗の準備完全に任せきりだったから、それくらい手伝うよ」
「ありがとうございます。ますます、頑張らせてもらいます。で、店長にひとつお願いがあるんですけど」
「なんだよ」
「髪を黒くしてもらえませんか?」
「え?それ、柊羽のトレードマークだろ?金髪」
「まあ、気に入ってたんですけど、心機一転ってことで。ぜひ店長にやって欲しくて」
「わかった、任せろ」
 そして俺は吉祥寺店の店長になるべく、髪を黒くした。ミナちゃんと、新しく仲間入りした女の子と、三人でのスタートだ。カフェのメンバーと雑貨店のメンバーとを合わせると、本店よりは実は大所帯だったりする。

「では、これからオープンしたいと思います」
まだ新しい香りのする店内でみんなを集めて挨拶をすると、それぞれ店の両端にある二つのドアが開けられた。店の外のCloseの看板をOpenに置き直す。
「それでは一日頑張りましょう」

 新しい店舗がオープンする。どんなお店になるかは分からない。だけど全力で頑張ることを楽しむだけ。そう、進むんだ。

『 have confidence 』

「は?撮影ですか?」
「あぁ、柊羽のだ」
 店長から声がかかったのはちょっとしたお客さまの途切れた時間だった。インターネットでよく見かける、美容師がモデルの髪をカットし、セットしたもの、またそのセットの仕方を写真や動画でアップして紹介するようなページ。そこに、俺のスタイリングしたものを載せないか?というものだった。
「なんで店長じゃないんすか?」
「なんで、じゃないよ、俺もうおっさんだよ?若い柊羽の写真が載る方が宣伝になるだろ?店の」
「えぇ?店の宣伝目的?まさかの?」
「もちろんあれだ、柊羽の腕の見せどころだろ?ネットでこういうの検索されるパターン多いらしいぞ。女性がメインだろうけど、今回は男性向けのやつ。意外とメンズもこういうの気にして見てるんだって」
「そうなんですか?」
 カットモデルがひとり派遣されてくる、そして彼に、彼の髪質に合ったものを探る。それも、今っぽくないとダメだ。確かにやりがいはある、面白そうだとは思うけど。
「ほんとに需要あるんですか?こういうの」
 店長からぜひに、と言われて、まぁしぶしぶというか、途中からはせっかくやるならとノリ気でやった。たしか、nuovo吉祥寺店がオープンする二ヶ月くらい前のことだったと思う。忙しい時期だったけど、だからこそ手を抜いてると言われたくないからかなり真剣に取り組ませてもらった。

 それがネットに上がったのは撮影から数日後のことだった。
「見てください、佐久田さん、めちゃくちゃイケメンに写ってますよ」
 ミナちゃんがタブレットを持ってきて俺に見せた、この前撮影してもらったやつだ。カットモデルのフォトが大きく載り、カットからヘアセットまでの手順がフォトと共に掲載されている。そしてその最後に、俺のフォトが小さく載っていた。nuovoの名前も、そして二ヶ月後に吉祥寺店がオープンすることも宣伝として載せてくれていた。
「これでしょ、店長の狙いは。宣伝ねぇ」
「でも佐久田さん目当てで来る客もいるかもですよ?」
「目当てって、これメンズ向けページだからね。男に目当てで来られてもなあ」
 多少はこれも影響するもんだ。実はその後、ネットで見ました、と言って予約を入れてくる客が増えた。もちろん男性客だ。それはそれで嬉しい、どうしても女性客が多い店だったからさ。

 ある時だ、店の電話を受けてユウちゃんが不思議そうにしていた。
「少々お待ちください、佐久田に変わります」
 そう言って俺を電話の方へ呼んだ。カットしていたお客さまに声をかけて、俺は電話の方に行った。
「あんまり接客中は電話無理だって言ってんじゃん」
「いや、それがちょっと、相手が相手だったもので」
「へ?あ、もしもし、お電話代わりました、佐久田です」
「あ、お忙しいところ申し訳ない。わたくしある芸能事務所のものですが」
「芸能事務所?」
「あの、嵐ってご存知ですか?歌ったりテレビ出たりしてるんですが」
「え?あぁ…テレビで見ますね」
「ありがとうございます。その、メンバーの松本のマネージャーをしているものなのですが」
「は?あの、忙しいので悪戯ならご遠慮いただけますか?」
「いえ、そう思われるのも仕方ない。でも本当です。インターネットのページをたまたまうちの松本が拝見いたしまして。ドラマが終わったところでヘアスタイルをですね、次どうしようかと悩んでいる時に、そちらの、佐久田さんのされたヘアスタイルを見つけたらしくですね、できればヘアカットをお願いしたいと言っておりまして」
「は?」
「お忙しいのは重々承知です、できれば1度店舗を一定時間貸し切らせていただくか、それとも別でこちらで場所を用意しますので、そちらで対応していただければ嬉しいのですが、無理でしょうか?」
「あの、冗談やめてくださいね。ほんとに」
「いえ、冗談じゃないです。本人が言っておりまして」
「もし本当だとして、ですけど、店に来られるのは正直困ります」
「と、いいますと?」
「うちは近所のかたが多く来られる。大学が近いってこともあって、学生も多い。そんな有名人が来られるとちょっと、まずいですね」
「はあ、わかります。では、別のスタジオか何処かに出向いてもらうわけにいかないでしょうか?」
「そもそもなんで、俺のあのヘアスタイルなんでしょうか?」
「え?さぁ、でも気に入ったみたいです。随分いろいろ見て回って、これが一番好きだなって私に見せましてね、松本が。彼のイメージにも合うし、嵐としても自然と馴染む感じでいいと。そういうことでして。お願いできないですかね?」
 考えさせてくださいと、その日は電話を切った。お客さまの対応中だったし。嵐の松本?ありえないでしょ。たかが一回ネットのページに載ったぐらいで、声かかるか?普通。そんな俺の思いと反対に、店長、ミナちゃん、ユウちゃんは勝手に盛り上がる。
「どうします?当日、誰がアシスタント付きます?」
「ちょっと、俺行くって返事してないし」
「なに言ってんだよ柊羽、このままnuovoの常連になってくれるかもしれないんだぞ?嵐の松本潤だぞ?話題になるよ、これは。吉祥寺店も幸先いいかもしれないじゃないか」
「ほんっと勘弁してくださいよ」

 やっぱり、断ろうと思った。誰かの髪を切って、ヘアセットをして、それができるのが本当に楽しいし嬉しい。だけど、芸能人とかそういうのやるためになったわけじゃないし。俺はいつも来てくれるみんなの笑顔のほうが大事だ。店長には悪いけど。そう思って電話をかけた。聞いてあった事務所へ、だ。
「え?ダメなんですか?どうしても無理ですか?」
「すみません、今回は縁がなかったということで。指名してくださったのは嬉しかったんですが、本当に申し訳ありません」
「あ、じゃあちょっと待ってください。松本がそこにおりますので代わります」
「え?うそ?」
 そして少しして電話から別の声が聞こえてきた。
「あ、松本です、初めまして。今回は無理なお願いをしてしまってすみませんでした」
「え、あ、いやぁ」
「本当に、ダメですか?あのヘアスタイル気に入っちゃって。髪の色を今茶なんで黒に戻そうと思ってて、この重い感じだけどクールに見えるスタイリング気にっちゃったんですよね。それにプロフィール見させてもらったら同い年で、勝手に親近感湧いちゃって」
「あぁ、ありがとうございます」
「決して店には迷惑かけません。佐久田さんが時間取れる時に合わせて、必要なものも全部準備します、どうしても無理ですか?」
 本人のパワーってのは凄いな。あれだけ断ろうと思っていたのに、俺は簡単に「わかりました」と返事をしていた。
 店に来てもらうのはやっぱりパニックになるといけないので、松本さんが仕事で使うというフォトスタジオの方に行かせてもらった。こんな超有名人のカットをするのは初めてだ。緊張する、と思ったら、意外とそうでもなかった。松本さんが気さくに話しかけてくれるので、気付いたら友達みたいになっていた。野球をされてたってことで、途中から野球の話になり。東京ドームでコンサートできるなんていいですよね、うらやましい、なんて話をして。俺はあの、インターネットで載せたヘアセットを嵐の松本さんにした。やっぱり元がいいとかっこいい。本人も気に入ってくれた。
 だけど、もう終わり。また頼めますか?と言われたけれど、今は新店舗のことで忙しいし、たぶん無理ですかね、俺なんかがこういう仕事は、と返事をした。でもいつか、またやれたらいいなと思う。

 俺が嵐の松本さんの髪をカットしたってことは、本人と関係者の人たち?それと俺の店の人しか知らない。店長は思い切り店の名前出したいだろうけどね、あえてやめてほしいとお願いした。そういうので仕事取りたくないから。松本さんに声をかけてもらえたことで自信がついたことも本当だから、逆にその自信で仕事を進めていきたいんだ、これからもね。
 俺は、今、目の前にある新しいことをまず最優先する。

『 アンコンディショナル・ライフ 』

 数か月前に買ったばかりのクロスバイクに跨った。BianchiのCamaleonte、ブラックとエメラルドグリーンの配色が気に入ってすぐにこれを買おうと決めた。勤務し始めて一年になる美容院まで、毎朝これで街を走る。八時二十分、ってのが毎朝の家を出る時間。十分もあれば店には着く。開店時間の九時までに準備をする。そんな時間も入れての、俺のジャストタイムなんだ。職業、美容師。そう言えるにはまだ早いかもしれない、見習いにほど近い俺だけど。今朝は気持ちのいい青空だ。夏の初めの、梅雨が明けて間もない暑い日だった。
 恋と仕事は両立できない。不器用だ、と自分でも思った。半年ほど前に終わった恋は、子供じみたものだった。友達の延長みたいな感じで彼女のことを扱っていた。あとから反省した時にはもう遅くって、俺はますます自分の自信を無くしてた。仕事は逆に順調で、そろそろカットも始めてもらおうか、なんて店長に言われていた。大丈夫かって不安と、だけど早くやりたいって気持ちとでワクワクしていた。今日の気持ちのいい青空みたいに。社会人ってものにやっと慣れてきた、そんなころだ。そんなころの話をしよう。今から。

 クロスバイクを買った少し前、俺は髪を金髪にした。小学生のころから野球一色で、スポーツやってる手前ってのもあるけど、短髪にしかしたことのない俺が、だ。少し伸びてきた髪を切ろうと思った。したら店長が、色を変えてみたらどうだ?と言った。髪の色なんて変えたことなんかない。日本人の髪の色っちゃあ、黒だろ?美容師のくせに。いろんな人の髪色変えてるくせに。自分にはそんな感じ。無頓着だし、なんでも楽なものがいい。
そうなんだ、楽がいいんだ。

 萌恵に逢ったのはそんなころだ。ずっと店長が担当してたお客さまで、話したこともない。特に気にしたこともなかった。声をかけてきたのは、萌恵のほうからだった。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 ドアを開けて、お客さまが帰るのを見送ろうとした時だった。俺の横をすり抜けて店を出た萌恵が、出るのと同時に俺の腕を掴んだ。目があった。微笑むようなその目が、こっちに来てって言ってるみたいで、手を引っ張るようにしてドアの前のテラス部分に連れていかれた。店は二階にあって、テラスはたまに、お客さまが途切れた時なんかにゆっくり俺たちがくつろぐスペースだ。ドアを抑えていた俺の手は自然と離れ、静かに店のドアは閉まった。
「柊羽、くん。だっけ?」
「俺?ですか?」
「うん。いつも店長がそう呼んでる」
「ああ、はい。そうです」
「私は、坂口萌恵」
「はい、知ってます。いつも来ていただいてるんで」
「今夜、あいてる?」
「え?」
「デート、の誘いなんだけど。早く終われる?」
「ああ・・・。いやあの。俺はそういうのは」
 まだ彼女が俺の手を掴んだままだってのにふと気づいて、俺はそっとそれを避けた。
「付き合ってる子が、いるんだ?一途なんだね。残念」
「いや、いないですけど」
「だったら、ご飯だけでも」
いつ用意したんだか、可愛い花柄のメモ用紙に店の名前と携帯番号が書いてあった。
「そこに来てよ、渋谷だから。何時でもいいよ。あまり遅くなるなら電話して、それ私の携帯番号」
「でも俺行くって言ってないし」
「来てね。お店以外のところで逢いたい」
「どうして?」
「好きになっちゃったかも、しれない」

 読モ。最近流行りの読者モデルってやつ。萌恵はあるショップの店員をしながら読モをやってる。知ってる。彼女が載ってる雑誌はうちにも置いてあるもんよ。店がオープンしたころからの常連客で、読モになったころからその雑誌をうちの店にも置くようになった。
「好きになっちゃったかもとか、嘘でも勘弁してよ」
 正直、俺のタイプではない。ああやっていつも声かけてんだろ?って、そんな目で見てしまう。そんな類の人種だ。悪意はないんだろうけど。ただ、常連客だと思うと、今夜は行くべきなのかとも思う。店長にはさすがに、声はかけられないよな。店に戻ると、店長は別のお客さまの髪をご機嫌にセットしていた。ああ、面倒くせえ。なんでも楽がいい俺には、こういうのは面倒くさいんだよ。
 そんな日に限って九時過ぎには店をあがれた。
「いつもよりかなり早えし」
 店の横の路地に停めてあるクロスバイクのチェーンを外すと、俺はジーンズのポケットに押し込んだあのメモを取り出した。そしてスマートフォンを取り出してその番号にかけた。彼女はなかなか出なかった。切ろうかと思った頃に、繋がった。
「もしもし?誰?」
「佐久田です」
「さくた?」
「あ、nuovoの柊羽です」
「あ~、柊羽くん。お疲れさま。終わった?仕事」
「今あがりました。今から店行くんで。でもチャリだから、ちょっとかかるかも」
「自転車?まあ、いいけど。待ってるね」
 電話の向こうはざわついていた。店の中ではなさそうだけど、人は多そうだった。スマートフォンで店の場所を調べると、俺は大きくため息をついてクロスバイクに跨り夜の街を走り出した。
 賑やかな通りから少し入ったところにその店はあった。ちょっと高そうなフレンチのレストランだ。
「おしゃれ・・・じゃん」
 すごくラフな普段着、ブルーのTシャツ、デニムジーンズ、麻の白いシャツ。クロスバイクを店の前に停めながら、自分の服装で大丈夫なのかとちょっと不安になってきた。
「あ、柊羽くん!」
 店の中から声がした。見たらガラス張りのドアが開いて、萌恵が顔を覗かせた。
「すいません、遅くなって。バイクここに停めておいていいですかね?」
「あ、もうここは出るから」
「え?」
「パーティーだったの、編集部の。でももう私も出るし。柊羽くん来るまでの時間つぶしみたいな感じ?」
「そうなんですか?」
「うん、気にしないで」
そう言ってる彼女は確かにバッグもしっかり持っており、パーティーのわりにはラフな服装だった。
「飲みに行こ。こんな堅苦しいところじゃなくて」
「あ、はい」
 停めかけたクロスバイクにまた手をやる。
「ねえ、その敬語やめない?たぶんそんな歳変わらないし」
「そうなんですか?」
「私二十五。柊羽くんは?」
「二十四になったとこ、です」
「なったとこ、って誕生日だったの?」
「はい、先月ですけどね」
「ほら、また敬語。一つしか違わないじゃん。普通でいいよ」
「わかりました」
「名前も、萌恵でいいからね」
「あ、じゃあ、あの」
「ん?」
「俺もやめてもらっていいっすか?その、柊羽、くん。っての。くん付け」
「あーーー、了解。じゃあ、柊羽で」

 俺たちはそこから歩いて五分くらいの場所にある和食居酒屋に入った。萌恵の雰囲気からして、もっと洋風な店に行くんだろうと勝手に思っていたから変な感じだった。さっきの高そうなフレンチレストランみたいなさ。きれいな顔立ちの女性は、こんな店ではちょっと浮いてる。そういう金髪の俺も、たぶん浮いてた。まだ大学生、コンパっぽいやつらや女子会?そんな客が多い店。そんな客の中に俺たちは紛れ込んでいた。
「とりあえずビールにする?」
「いいですよ」
奥の方で、団体で来ている客がわあーーーっと湧いた。盛り上がってるそっちに視線を送っていると、萌恵が言った。
「柊羽って、なんで急に金髪にしたの?」
「え?いや、特に理由は。店長に勧められて」
「そうなんだ?」
「変、かな?」
「変じゃないよ。むしろ好き」
 向かい合ったテーブルの向こう側で頬杖を付きながら、笑顔で萌恵はそう言った。
「あの、さ」
「ん?」
「好きとかそういうのやめない?」
「え?どういう意味?」
「昼間、店で言ってたでしょ?」
「え?・・・ああ。好きになっちゃったかも、ってやつ?」
「そういうの、お互いよく知らないのに言うことじゃないかなって」
 そう言うと萌恵はくすくす笑った。
「やっぱ真面目」
 運ばれてきたジョッキのビールを一つ俺のほうに差し出すと、自分の分を手にした。
「乾杯」
 そう言われて慌ててジョッキを手にした。
「乾杯」
 グッと口に入れたビールは冷えてとても美味かった。
「柊羽ってさ」
 また頬杖を付いて、じっと俺を見ながら萌恵が言った。
「カッコいいのに自分をわざわざ消してるよね」
「は?」
 意味がわからない。きっとそんな顔をしてたんだろう、萌恵はまたくすくす笑った。
「ほら、気づいてないよね。すごくカッコいいの。なのにすっごい真面目で優等生な感じで。なんで美容師になんてなったんだろうって思ってたの。ずっと。」
「ずっと?」
「そうだよ。nuovoに初めて行った時にね、受付で目が合って、素敵な人だなって思った」
「俺?」
「うん。今こうやって一緒にいるとやっぱ普通だなって思うけど、店に居る時はすっごい大人に見えるんだよね」
「そう?」
「落ち着いてるもん。店長にたまに怒られたりしてるけど、でも焦ってドタバタやってることとかもないよね」
「あー。そういうのはないかも」
なんだろう。不思議と俺は、同じように頬杖を付いて、萌恵の話を真剣に聞いていた。俺のことをこんなに分析されるのが初めてだったからかもしれない。
「そしたら今日、急に金髪になってた」
 そう言われて、俺は目にかかる長めの前髪をそっと指でつまんだ。
「目が離せなくて、今日ずっと」
 指でつまんだ前髪から視線を萌恵に移すと、彼女もじっと俺を見つめていた。
「そっか。好きなんだ、って。思ったの。柊羽のこと」

 好きとかそういうの、面倒くさい。いや、単に逃げているだけかもしれない。萌恵は、苦手なタイプだから余計だ。けど、この時はそうは思わなかった。さっき俺に好きって言ったあと、もう萌恵はその話には一切触れなかった。俺がやめようと言ったからなのかはよくわからない。運ばれてくる料理をつまみながら酒を飲んで、その後はずっと仕事の話をした。職種は違うけれど、似たようなもんだ。同じ客商売をしてる。自然と頷けるような会話が続き、俺たちの酒は進んだ。萌恵は意外と酒には強くて、俺の方がやばいぐらいだった。お互い明日も仕事があるからと、終電までにはお開きにした。自転車気を付けて帰ってねって言うと、送ってくよって言う俺を遮って駅に向かう。大丈夫、この時間慣れてるから、って。違和感だらけだった。俺の先入観と違う彼女がその夜は俺を混乱させた。オトコに媚びまくってるような、しぐさや話し方や服装や、そういうオンナだと思っていた。確かにちょっと、俺とは部類が違うけれど。そう思うと笑えてくる。俺がやっぱ真面目なのかな。手を振りながら駅舎に向かう萌恵に、俺も手を振った。そして見えなくなると、俺はクロスバイクに跨って自宅に向かった。
 それから間もなくのことだ。初めてお金を取って人の髪を切った。店長から、その日の朝に急に言われたんだ。
「柊羽、カットシザーって毎日持ってきてるよな?」
「はい、あります。」
 カットシザー、美容師用のハサミのことだ。俺の場合、左利きだから。誰かのを借りるってことがなかなかできなくて、普段からほぼ持ち歩いてる。
「今日、高隅さまの予約入ってんだけど、子供もお願いしたいって言ってきて。そっち柊羽に頼むから」
「え?マジですか?」
「相手が子供だからって手ぇ抜いて失敗すんなよ」
「手なんか抜きませんよ」
「それより緊張し過ぎんなよ」
 ニヤニヤしながら店長がそう言った。くそお、店長楽しんでやがる。そうでなくても、俺にとっては初めての客だから。緊張、するに決まってんじゃん。夕方来店予定の高隅さまが来られるまで、アシスタントの仕事をしながら、内心気が気でなかった。

 高隅さまのお子さんは、まだ小さい子かと思っていたら小学六年生の男の子だった。すでに俺と変わらないくらい背が高くて、やたら悪ガキっぽい感じの元気なやつだった。
「今まで家でバリカンで短く刈ってたのね、それが急にかっこよくしたいとか言うから連れて来たんだけど」
 高隅さまは受け付けで子供の方を見ながらそう言った。たしかに。ちょっとヘアスタイルとか服装とか、早いやつなら気になり始める頃だ。
「担当はこちらの佐久田がさせていただきます、直接お子さんにお伺いしてさせてもらって大丈夫ですか?」
 高隅さまは以前から通っているので店長がそのまま担当する。なので子供の方は同時進行で俺が、ってことらしい。
「お願いします。ほら、ちゃんとこうしてほしいって自分で言うのよ」
 そしたら上目づかいで俺を見ていた子供が小さい声で言ったんだ。
「こいつ大丈夫なのかよ」
 え。まじか。子供にすでに見破られてんのかな、俺が緊張してること。俺が初めて客の髪を切ること。そしたら高隅さまはバシッと子供の背中を小突いた。
「何言ってんの!こら!そんな言葉使いしてると、コーチに言うからね」
「うわ!それだけはやめて!」
「じゃあちゃんとお願いしますって言いなさい」
 親子漫才みたいに、母親に怒られたその息子は、小さく頭をちょこんと下げて言った。
「お願いしまーす」
「語尾を伸ばさない!」
「お願いします!」
なんだ、この親子は・・・。でもそれがおかしくってさ、緊張がほぐれた感じがした。
「いいですよ、気になさらないでください。どうしてほしいか遠慮なく言ってよ、がんばるからさ」
 笑顔で返すと、息子は母親の前で小さくなっていた。高隅さまが髪を流しに行ってる間、俺は子供の方をスタイリングチェアに座らすと、名前を聞いた。
「名前、なんての?俺は佐久田柊羽って言う。よろしくな」
「高隅、健斗です」
「健斗か、いい名前だな」
「当たり前だろ!」
 ちょっと上から目線でそう言うと、思い出したように鏡越しに俺に頭を下げた。
「ごめんなさい。ありがとうございます」
やっぱりちょっと、面白いこいつ。
「お母さん怖いのか?健斗」
 母親が少し離れたところに居るので、わざと小声で彼にそう聞いてみた。
「何か悪いことしたりすると、サッカーのコーチに言うってすぐ脅すんだ」
「脅す?なんで?」
「コーチは、どんだけサッカーが上手くても、ちゃんと挨拶しなかったり、学校の宿題忘れたり、朝ちゃんと起きなかったり、とにかく決まり事を守らなかったらレギュラーから外すんだ」
「へえー。厳しいね」
「だからさ、何か俺が悪いことしそうになると、かーちゃんはコーチに言うってすぐ脅すんだ」
 そういうことか。
「大変だな、最近の小学生も」
「ほんとだよ」
 そう言う健斗がまた可愛い。子供みたいで、でも大人みたいで。
「なあ、サッカーって学校の部活?」
「違うよ。サッカークラブ」
「へえ。すごいんだな」
「俺、めちゃくちゃ上手いんだぜ!」
「そうなの?どこ?ポジション」
「フォワード」
「点取り屋、だな」
「そうだよ!」
「じゃあやっぱり好きな選手はフォワードの選手?」
「好きな選手?」
「憧れてる選手とかいんだろ?」
「そういうのはいないね」
「いないの?」
「俺は、ゆくゆくは憧れられる選手になるから。だから自分で誰かを憧れるとかってことはしないの」
「へえ。かっこいいじゃん」

 健斗との出会いはこんな感じだった。小学生の子供相手に、大人ぶった感じで接しようとしていたつもりが、気づいたら俺と健斗は友達みたいなペースで会話をしていた。彼のヘアスタイルのリクエストはとにかく短くってことで。でもトップと前髪はちょっと長めで残して、サイドの部分は刈り上げてくれってことで。言われたとおり作っていった。ハサミよりもバリカン使ってた時間の方が長かったけど、初めての俺のお客さまとしては満足だ。というか、彼であったことに感謝だ。何よりも、この、健斗と知り合えたことも最大の出来事なんだ。この後ずっと付き合っていく、歳の離れた友達みたいになるんだ。

 その後は、特別注文の難しいお客さまばかりでない限り、ほぼ毎日俺にも店長はカットをさせるようになった。やっぱりさ、やっと美容師になった!って感じがするんだ。楽しくてさ、注文通りにできてるかって不安は多々あるけど、それでもさ、少しでも希望に近づけるように細かく注文を聞いてヘアスタイルを形にしていく。楽しいだけでなくやはりそれは勉強にも繋がる。少し慣れてきた頃、店長が何を言わずとも、俺を指名で予約が少しずつ入るようになった。気分よく、クロスバイクを走らせて家に帰る。うちは古いアパートだけど住みやすいから気に入ってる。間取りがさ、いいんだ。部屋も二間あるし、キッチンも別である、若い夫婦向けらしいんだけど、そこに一人だと余裕で広い。クロスバイクも家の中に入れておけるし。だけどカットをさせてもらい始めてからは、店長の家に泊めてもらうことが多くて帰ってきたのも十日ぶりくらいになる。安い二人掛けソファに体を預けると、俺はここ半月ほどマナーモードにしっぱなしだったスマートフォンをやっと確認した。そして気が付いた。萌恵から毎日のように着信があったことに。
「まじか・・・」
 またやってしまった。なにかに夢中になったらそればかりになる、悪い癖。店長以外特に連絡を取る必要のある人がほとんどいない生活をしているので、つい放っておきがちになる。それで時々妹からも怒られたりするんだけど。
 萌恵とは一度、誘われて飲んだあの日以来逢ってもなかったし連絡も取っていなかった。タイミング的に客としてnuovoに彼女が来ることもなく、顔を合わせることもない。俺が完全に萌恵の存在を忘れている間、毎日着信があったなんて。そしてあの言葉が頭によみがえってきた。
「好きになっちゃったかも、しれない」
 さすがに悪いことしたかな、と感じ、俺は何か文句言われるのを覚悟でスマートフォンの発信ボタンを押した。耳にあてたスマートフォンからは呼び出し音だけが鳴り響いていた。毎日萌恵から着信が入っているのは確認した、でも実は今日はまだなのだ。俺のほうからかけ直した電話は、繋がることなくどれだけ待っても呼び出し音のままで。留守電にも変わらない。俺は諦めて電話を切った。少しホッとしていた。なんだかわからない罪悪感みたいなのがあって。連日入っていた着信に気づいてなかったことが原因なのは自分でもわかってはいるのだけれど、それ以上に、萌恵がどういう反応をするのかが怖かったのだ。

 一年ほど前、別れた彼女が居た。学生時代から、けっこう長く付き合った相手だった。学生の頃はいい、時間に自由はきくし、逢いたい時に合って、抱き合いたい時に抱き合って。お互い口に出して好きだと言わなくてもわかるくらい、触れ合えていた。だけど社会人になって、彼女は、仕事ばかりに必死でかまうことをしなかった俺に愛想をつかして去って行った。電話はかけてもかけても出てくれなかった。というか、着信拒否のアナウンスが流れた。メールだって届かない。共通の友人に声をかけてみたけれど、もうそっとしておいてやってよ、と言われた。それで初めて気づいたんだ。恋人という位置ってどうすればいいんだろう。付き合うってどういうことなんだろう。好きだけではだめなんだろうか。どうすれば彼女ってもんは満足してくれて、どうすれば彼氏ってもんは彼氏で居られるのか。わからないまま彼女とは別れた。そういう部分で俺はまだまだ子供で。恋と仕事をどちらもうまくやろうなんて無理だ。不器用だったんだ、って初めて気づいたんだ。
 萌恵は、別に付き合ってはいない。好きかと聞かれたら、たぶん別に好きではない。むしろ何も始まってはいない。たぶん。だけどもし、俺のことを好きだと言った彼女にとって何かが始まっていたのだとしたら、俺は萌恵に今どう思われているんだろう。手にしたスマートフォンをじっと見つめてそんなことを考えていた。なんだよ、結局いつもそうだ。俺は自分のことしか考えてない。誰かが去っていくのが怖いとか、そういうことしかさ。だから嫌なんだ。面倒くさいことは。
 その日は結局電話は鳴らなかった。数日間、ずっと続けて入っていた萌恵からの着信履歴が途絶えた。その後まったく着信が入らなくなった。用があるならかかってくるだろうと、俺からかけることも、ない。連絡は取ることはもうなかった。まるで萌恵と飲みに行ったあの日は夢だったんじゃないかって思うくらい、少しずつ萌恵を忘れていく。思い出そうにも、萌恵自身が店に来ることもそれ以降なかったし、なので忙しい日々の中で俺の中で彼女を気にする時間は無くなっていった。
 変わらない毎日。いつも通りクロスバイクで店に出勤する。時々髪を切らせてもらって、相変わらずアシスタントメインで。休みと言えば月曜と、それ以外でたまに店長が休みを入れてくれるくらいで。友人とは休みが合わないから、昼間はほぼ一人だった。正直休みの日の家の中は辛い。出来る限りエアコンは付けずに節約を、と思うけれど、暑さと湿気と、蝉の鳴き声で死にそうになる。
 ある日の休みの日、俺はクロスバイクで外に出た。ちょっと遠出でもして、走ってこようと思ったのだ。少しは風も心地よく感じられるだろう。うちから一番近い河原のコースをスマートフォンで探して向かった。深めにキャップをかぶって、日に焼けてもいいやとTシャツに膝までのパンツ、サンダルで出かけた。汗が次々と吹き出てくるけれど、意外と気持ちが良かった。
 学生時代を思いだす。野球をしていた頃はこんなの当たり前だった。運動してんだからさ、汗をかくのは当たり前、暑いのも当たり前。そっか、そんなことさえも面倒くさく感じるようになってしまっていたのか、俺は。川沿いに軽く作られた遊歩道みたいなところを、クロスバイクを降りて押して歩いた。ジョギングしている人や散歩している人や、こんな昼間の暑い時間だけどけっこうすれ違う。平日だってのに、けっこういるんだな。確かに暑いけれど、きれいに刈られた芝生の緑が鮮やかできれいで、歩道脇に植わっている木々の葉が揺れるのも心地いい。何処かにクロスバイクを止めてちょっと休もうか。いい場所がないかと探していたら、そんなところで声をかけられたのだ。
「佐久田さーーーん!!!」
 え?そこに居たのは健斗だった。サッカーのユニフォーム姿で、サッカーボールを手にした健斗だ。
「何してんの?」
「佐久田さんこそ何してんの?」
「俺は、ちょっと気晴らしだよ。休みだから。お前なんでいんだよ。学校は?」
「俺も休みだよ。夏休み!」
「夏休み?」
 そっか。学生ってのは夏休みがあったんだ。
「今から午後の練習なんだ」
「へえ」
「すぐそこのコートでやってるんだ」
 健斗がそう言って指を指した先には、そういえばコートらしきものが見える。サッカークラブに入ってるって言ってたんだっけ、そう言えば。
「あ、佐久田さん、見て行ってよ」
「え?」
 マジか。見てるだけって一番暑いパターンだ。運動って、暑いとはいえやってる本人は案外暑いと思わない。それよりも、例えば試合でベンチにしか入れなかったやつとか応援とか、とにかく見てるだけのほうが暑いんだよ。だけど、俺の返事は無視してTシャツの袖を掴まれた。まあいっか。どうせすることないんだし。俺は健斗に言われるがまま、サッカーのコートに一緒に向かった。
 キャップ越しの日差しが眩しかった。だけどそんなことお構いなしで子供たちは広いグラウンドを走り回っている。驚いたことに、健斗は小学生だけど中学生のチーム編成に入っていた。
「六月からこっちのチームに入れてもらったんだ!」
 自慢げにそう俺に言う。彼の偉そうな言動はこういうとこから来てるのか、納得できる。中学三年生相手に対等に動いている。サッカーはほとんどやったことないけれど、健斗の影響でか、ちょっと興味が出た。その日は、途中の休憩が入るあたりまで、じっくり練習を見てから帰った。
 この一年くらい、俺が誰かから影響を受けるとしたら店長と、店長の奥さんと、ぐらいだ。新しいことを覚えて、学んで。どうしても仕事に関係するから、他人と逢う時間もほとんど取って無かったし、影響を受ける相手がいない。だけど久しぶりに何か違うものを得た感じがする。なんだろう。過去に俺も学んでいたものだ。チームプレイ。今は店長とたった二人で毎日仕事してるけど、ある意味それもチームプレイだ。一人じゃないから。パスを出して、パスを受けて。それで成り立つ。自然とそれをやり得ていた高校生の頃が懐かしく感じた。今日、健斗たちの練習を見てそんなことを感じたんだ。ただ言われたことをするので精一杯だった自分を、そろそろ自分で動けるようにしていかなきゃならない。わかっているけどなかなか前に進めなかった俺の背中を押したのは、まだ小学生の子供だった。
 そうやって自分自身を変えようと勝手な奮闘をしていた。その日もいつも通りの時間に店に出勤した。
「柊羽、これ、新しく届いた雑誌、入れ替えといて」
「わかりました」
 店に置いている雑誌は契約している書店が発売日になると配達してくれる。今日も三冊届いた。前月号を店から下げて、最新号をお客さま用に準備する。入っていた封筒から三冊を取り出して、驚いた。
「え。これ・・・。萌恵?」
 今まで読モとして載っていた雑誌ではなく、普通の女性ファッション誌だ。その雑誌の表紙、三人写ったモデルの一人が、萌恵だった。
萌恵が表紙になっている雑誌を見ていると、店長が後ろから覗きこんだ。
「あ、萌恵か。あいつすげえな」
「え?」
「テレビで見たよ。なんかバラエティ番組に出てた」
「マジですか?」
「嫁さんがたまたま見てたやつに、なんか見たことある顔の人がいるなあと思って見てたら、名前が出てさ。びっくりしたよ」
「へえ」
 あらためて表紙をじっと見た。テレビか・・・。不思議だ。この間一緒に飯食った相手がテレビなんて。
「来週来るぞ」
「へ?」
「予約入ってる、萌恵。お前に頼もうと思ってたんだよ担当を」
「え?俺ですか?」
「ちょうどその時間萌恵だけなんだ、予約。他にわざと入れてなくて」
「なんで、ですか?」
「ちょっと用があって、嫁さんに付き合って店を空けなきゃいけない。その時間帯は予約入れないでおこうと思っててさ。そしたら萌恵から予約が入って。別の時間にって話をしたんだけどさ、どうしても仕事の合間で来れるのがその時間しかないって言って」
「忙しいんですね、なんか。」
「事務所と契約したらしい。芸能人ってやつだな、すっかり」
 そこまで言うと、店長は奥の部屋に入っていった。
「それで俺対応無理だから、柊羽頼むわー」
 奥の部屋から叫ぶように店長の声が聞こえてくる。
「わかりました」
 軽く返事をしながら、でも内心はイマイチ乗り気になれない。ふぅーっとため息をつくと、俺は雑誌をカウンターに並べて置いた。
「芸能人、ねえ」
 当日の予約リストは、午前中に数名と夕方からまた数名。間の昼間の時間帯は萌恵一人だった。店長は十三時から店を出た、言ってた用事ってやつだ。なんだか落ち着かない。萌恵を担当するのは初めてだし。何より、あのすれ違いの電話が何だったのかもわからないまま今日に至ってる。萌恵は俺が担当すること知ってんだろうか。誰もいないがらんとした店内に目をやって、俺はお客さまに待っていただくときに使うソファに座っていた。ゆっくり時間はあったから昼飯は食った。あんまり美味しく感じられなかったけど。なんかいろいろ引っかかってんだ、萌恵に関しては。
 そして時間通りに彼女は店にやってきた。マネージャーとか居んのかと思ったら一人だった。
「いらっしゃいませ」
 そう言うと、萌恵はバッグを持つ手にぎゅっと力を入れると、小さく会釈した。前に逢った時と変わらないじゃないか。店長が芸能人とか言うから、サングラスしたり変装して、やたらおしゃれな服装をして、みたいなのを想像してた。いたって萌恵は普通だった。
「お荷物、お預かりします」
「ありがとう」
 萌恵の手にしたバッグを受け取ると、俺は横手のラックにそれをしまった。それをただ、萌恵は見て待っていた。
「どうぞ、こちらへ」
 そしてスタイリングチェアへ案内する。普通の店員と客だ。自分にそう言い聞かせたりする。彼女を座らせると、ケープを取ろうと俺は後ろを向いた。
「元気そう、だね」
 そう言われて俺は、一瞬動きを止めてしまった。けどまた俺は、取ろうとしていたケープに手をかけて返事をした。
「元気ですよ。失礼します」
 ゆっくりと、ケープを彼女にかけた。
「今日はどうされますか?」
「店長、は?」
「ちょっと出てて。今日は俺が、担当させていただきます」
「え?店長じゃないの?」
「なんだよ、俺じゃ不満?」
「そうじゃないけど」
 萌恵の髪に触れて、ケープの内側に入り込んだ髪を背中にそっと抜き出す。そして俺は、彼女の髪の毛先を指で確かめた。
「痛んでるね」
「ヘアメイクさんにいっぱい巻かれちゃうから、コテで」
「そっか。大変だね。で、どうしましょうか?」
 無駄な話はしないでおこう、何故かそんな風に思っていた。
「痛んでる毛先だけ、揃えてもらっていい?あとは、前髪を作ろうと思って」
サイドで分けた萌恵の前髪をそっと手で触れた。顎のあたりまで伸びた前髪。その時、ちょっと頬に手が触れた。なんか触れてはいけない感じがして、俺は慌てて手を離すと声をかけた。
「OK。どんな感じ?厚め?でしょ」
「そう、正解!厚め。重い感じに作ってほしいの。なんでわかったの?」
 俺はクスッと笑った。
「似合うかなーと思って。では、シャンプー台の方へどうぞ」
 スタイリングチェアを降りて萌恵はシャンプー台の方へ移動した。
「じゃあ、倒しますね」
 シャンプーチェアがゆっくりと倒れていく。タオルを準備して萌恵の顔にあてようとした時、俺は萌恵に腕を掴まれた。
「どした?」
「こうやってると、キスでもされるみたい」
 確かに。そこそこお互いの顔の距離は近い。
「しないよ」
「なんで?」
「ここは俺の仕事場だから」
「仕事場じゃなかったら、するの?」
「あのねえ、萌恵」
 俺は軽くため息をついて彼女を見た。
「ごめん。あれからずっと、柊羽のことばっかり考えてて」
「あれ、から?」
「電話くれたでしょう?少し前に」
「ああ・・・」
 俺は、萌恵に何か言われる前に、と、一気に喋った。
「ずっと萌恵からの電話出れてなくて。あれほんとごめん。忙しい、って言い訳になるけど、俺やっと髪切らせてもらえるようになってさ、本当に店長んち泊まり込みとかもしょっちゅうで全然スマホ見れてなくって」
「そっか。そうだったんだ」
「気づいた時もう何日も萌恵から連絡入ってて、かけ直したんだけど・・・」
 そこで俺が言葉を詰まらすと、萌恵はじっと俺の顔を見て言葉を待っているようだった。
「萌恵、出なかったから。なんか、怒らせたかなと・・・」
「ううん。怒ってない」
「ほんと?ごめん、あの時は」
「むしろ、あの時悪いのは私のほうで」
「え?」
 萌恵は、シャンプーチェアに横になったまま話を続けた。
「出ようと思えば出れたの。でも、出たらいっぱい話したくなるし、逢いたくなっちゃうと思って。自分から毎日かけてたのに、かけてきてくれた電話には出ないなんて失礼だよね。ほんと何してるんだろう私って」
 萌恵は話している途中で、顔を両手で覆った。そして話す彼女の声が、少し途切れ途切れだった。
「いや、あのさ。でもずっと出なかったのは俺のほうだから」
 泣いてる。萌恵の話す声でなんとなくそう思った。
「萌恵ちょっとごめん、忘れ物。取ってくるから待っててくれる?」
そう声をかけて。俺はその場を離れたほうがいいと思った。顔をずっと覆ったままの萌恵の頭をポンポンって手で撫でて。
「ティッシュこれ」
 そう言って俺はティッシュのケースを萌恵の方に差し出した。何も言わずに萌恵はそれを受け取った。その時には俺はもう、萌恵から顔を背けてその場を去ろうとしていた。見てはいけない気がして。本当に泣いてるのかはよくわからなかったけど。見てはいけない、今の萌恵の表情を。好きになってしまいそうで、怖かったんだ。

 家に帰ると真っ暗だ。住んでるアパートの外にある街灯だけ。玄関を入ると家の中はシーンとしていて、一瞬ため息が出る。独り暮らしをはじめてから一年以上になるっていうのに。学生のころは実家暮らしで、でもうちは共働きだったから今となんら変わらない。誰も居ない家に俺が一番に帰ってくることだってあった。だけど違う。空気だろうか。俺一人しか住んでいないっていう空気。明らかに違うこの空間を、独りゆえの楽と感じるか不便と感じるかは人それぞれだけど。俺にとっては、まだそれさえも手探りな毎日だ。
 スマートフォンは家に帰る前に、店を出たところでチェックする。そんな習慣ができた。萌恵が店に来たあの日、アドレスを交換した。携帯番号しか知らなくて、電話だと出れないとすれ違うからと、いつでもチェックできるように交換した。
- 今日は撮影で千葉の海に来てるよ -
とか、写メ付きで送られてくる。萌恵からだ。それを見てちょっと心が和んだりする。別になんてない、ただそれだけのやりとりなんだけど。どちらもいつも時間差。完全にスマートフォンをいじれる時間にズレがあるんだ、お互い。それが、ある日いつもみたいに届いているメールに返信を打つと、すぐに返事が返ってきた。もしかして今、時間あるのかな。そう思ってまた返信すると、すぐに萌恵からの返事は帰ってきた。思い切って次はこう返信した。
- 今、電話できる? -
- 大丈夫だよ -
 夜の、十時過ぎだった、と思う。店から家までの帰り道で。俺はクロスバイクを停めて通りの少ない道路の脇で、萌恵の携帯番号を選んで発信ボタンを押した。
「もし・・・もし?」
 連絡は取ってはいたけれど、声を聴くのは萌恵がnuovoに来て以来だ。
「あ、俺。柊羽」
「うん、こんばんは」
「あぁ、こんばんは」
 ぎこちない・・・、相変わらず。自分から電話できるか聞いたくせに。
「どしたの?電話なんて」
「あー、なんか返信早いから、今時間あんのかなと思って」
「正解。今日は夕方で仕事終わって、今家なの。柊羽は?今あがり?」
「うん、そう。帰り道」
「そっか。お疲れさま」
「ありがと。萌恵も」
 だけど、電話って苦手なんだよ俺。何話していいかわかんないでしょう?相手の表情も見えないし。電話大丈夫って答えてくれてるけどさ、もしかしたら相手も今何か本当は用事があるのかもしれない。気を使われてるとかそういうのも目に見えない。そしたら、沈黙を破ったのはいつもの如く萌恵のほうだった。
「柊羽、今から暇?」
「なんで?」
「逢いたい、なと思って」
「は?」
「だめ?」
「いや・・・だめではないけど。唐突だね」
「柊羽の電話だって唐突だったじゃん」
「そうだけど」
 俺はクスッと笑った。
「だって逢いたいって思っちゃったんだもん」
「思っちゃった、って。あのさ、いつも思うんだけどさ」
「なに?」
「萌恵って、思ってること、思ったまんますぐ口に出しちゃうほう?」
「え?そう?」
「もしかして自覚ないの?」
「うそ。あるよ。だって、今日みたいにさ、例えば逢いたいなって思ったら、今言わないと」
「なんで?」
「言わなかったら逢えないじゃん」
「そりゃそうだけど」
「だって、今逢いたいんだよ?今逢いたかったら今言わなきゃ。言いそびれて後で言えなかったこととか後悔したくないんだ」
「そういうもん?それにしてもストレートだなっていつも思うからさ」
「イヤ?そういうの。嫌い?」
「嫌いとかじゃないよ。正直、ちょっと戸惑うけど」
「ふーん」
「なんだよ」
「なにも」
 答えながらすでに萌恵はクスクス笑っていた。
「いいよ。何処行けばいい?」
「どうしようかな。うち、来る?」
「え?萌恵んち?」
「夕食とかまだだったら、何か作るよ。大したもの出来ないけど」
 なんだかそんな会話の流れで、俺は萌恵の自宅に行くことになった。けっこう都会の真ん中の、そこそこいいマンション。萌恵の住んでるとこはそんな感じだった。自分の住んでるとこと階数がまず違う。高層マンションってやつじゃん、これ。お嬢さま、とかなのかな、萌恵って。セキュリティのしっかりしたエントランスで萌恵の部屋のチャイムを鳴らす。「はーい」って萌恵の声がして、ガラス張りの大きな自動ドアが開いた。言われていた階までエレベーターで上がると、その前で萌恵が待っていた。
「柊羽」
 笑顔で迎えてくれた萌恵は雰囲気が違う。俺が少し前にnuovoで切った前髪のせいだ。似合う、やっぱり。軽い会釈だけで挨拶をすると、「こっち」って言う萌恵について行った。その階の一番奥、門が付いてる部屋だ。
「なあ」
「ん?」
 声をかけると門を開けながら萌恵は振り向いた。
「萌恵って、金持ち?」
「へ?」
 驚いたように笑うと、すぐに返事をくれた。
「親がね。私は普通。いや、OLとかの同い年の子に比べたら普通より低いかもしれない」
「そうなんだ?」
 中に入って、俺はその門を閉めた。どう見ても独り暮らしのサイズではないんだけど。
「お邪魔します」
 玄関で小声で挨拶などしてみる。きれいに片づけられたそこに、俺は似つかわしくない感じの履きつぶしたサンダルを脱いだ。通されたリビングも超おしゃれだ。
「ドラマみたいだな、家ん中」
「ええ?そんなことないよ。前はここに家族で住んでたの」
「今は?」
「別のとこに一軒家を買って、親はそこに」
「へえ。セレブ」
「だから、今、誰もいないよ」
「え?」
「ふたりきりだよ」
 そんなこと言われたら、立ち尽くしたままソファにさえ座れない。L字の大きなソファにゆっくりと腰かけて、萌恵は俺を見上げていた。
「逢いたかった、柊羽」
 どうしてそんな表情するんだよ。見上げる萌恵と目が離せなくなる。
「柊羽は?どうして私に電話くれたの?」
 一瞬目をそらして、答えを探した。電話、したのは・・・。今時間あるのかな、と思って。思って・・・。
「声が聴きたくなった、とかだったら嬉しいのに」
 そう言われてまた、萌恵を見た。
「やっぱりストレートなんだな、萌恵は」
「そうだよ」
「じゃあ聞くけど、どうして俺を家に誘った?」
「逢いたかったから」
「それだけ?」
「ううん」
「どうして?」
 俺は掛けていたボディバッグを外すと、そのまま床に置いた。
「ねえ、どうしてそんなに俺を誘うの?萌恵」
 ソファに腰かけている萌恵に歩み寄ると、俺はぎりぎりまで顔を近づけた。
「この間の店のシャンプー台より、近いよ、顔」
「うん」
「それにここ、仕事場じゃないし」
「ほんとだ。だったら、いいんだよね、キスしても」
 言ったかと思うと、萌恵は俺の首に手を回して唇を俺の頬に当てた。俺はそのまま萌恵をソファに押し倒すと、思い切りキスをした。角度を変えて何度もキスをした。俺の指は自然と着ているシャツの下の萌恵の体をなぞっていた。ベビーフェイスのくせに、案外胸はデカイんだ。触れた瞬間に、俺の背中に回した萌恵の腕の力がビクンと反応して強くなった。OKのサインなんだろ、それ。キスをしたまま、俺はゆっくりと背中に手を回すと、ブラのホックを外した。萌恵の着ているシャツはすでにもう胸のあたりまで捲れていて、だけど彼女より先に俺は自分の着ていたTシャツを一気に脱いだ。唇で彼女の素肌に触れると小さく声をあげる。ダメだよ、それ。悪いけど、もう止められないよ?萌恵。もう一度、俺の唇は萌恵の唇を求めていた。単純にキスしたかった。深く深く絡む、キスってのは唇を当てるだけじゃ意味がない、とにかくなんでも、奥まで探りたいんだ。萌恵に恥じらわせる時間なんて与えるつもりはない。ゆっくり唇を離すと、萌恵を見た。わかるよ、伝わるよ、欲しいんでしょ?俺が。萌恵の耳たぶを小さく噛んで、俺はそのまま首筋を舐めた。少し邪魔な髪を指でそっと撫で上げながら。きれいなんだ、首筋が。あらわになった胸も、とてもきれいなんだ。柔らかくて大きくて、温かくて。なんでも唇で触れたくなる。そしたらまた、萌恵は小さく声をあげる。いいよ、我慢なんてしなくても。
「ねえ、萌恵。もっと声を聞かせてよ」
 耳元に唇を戻すと、俺はそう囁いた。指は自然と太ももの内側を添うように動いていた。捲れたままのスカートと、その内側に履いてるそれと、ねえ、どっちも取ってしまっていいかなあ?邪魔なもの、全部脱がしてしまっていいかなあ?萌恵が俺の髪をくしゃっと撫でた。
「柊羽」
「なに?」
「柊羽のこと、好き」
「うん、知ってる」
 短い単語みたいな会話。身体を合わせてる時に、長い会話なんていらない。だってわかるでしょ、その濡れ具合で十分。伝わるよ、好きだってこと。前に聞いたしさ。あなた俺のこと好きって言ったじゃない。そんな、無駄な自己会話を頭ン中でしながら、気づいてた。俺も好きだよ、萌恵のこと。目の前に裸の女がいるから抱いてんじゃないよ。ほんとは俺が欲しいんだ、萌恵のこと。中まで探ってもいいかなあ?もっといっぱい知ってもいいかなあ?あなたの心も身体も奥まで探っていいかな?少し体を起こすと、皮のソファがギュって音を立てる。
「好きじゃなくて、愛してるじゃないと抱けない」
 なんだろう、自然とわがままを言っていた。あなたの入り口までで止めた自分の指を俺は舐めた。
「ねえ、どうなの?萌恵」
 顔をゆっくりと近づけていくと、萌恵はそっと体を起こして俺を両手で抱き寄せた。
「愛してる、柊羽。抱いてよ」
 俺はゆっくりと微笑んだ。
「いいよ」
 そして俺の指はまた、あなたの身体を探るんだ。少し苦しそうにも見えるようなその表情と、さっきよりも大きくなったあなたの声とを知れば知るほどたまらない。
「可愛い、萌恵」
 今夜は最後までいこうよ。いっぱい感じようよ。ふたりで。いっぱい愛撫してあげるよ。ううん、したいんだよ。悪いけど優しくなんてできないよ。俺の身体が我慢できないから。今まで萌恵を愛した誰よりも、壊れるくらい愛してあげるから。

 空が白い。夏の終盤の朝早く、セミの鳴き声もほぼ落ち着いた頃。それでもまだ暑い残暑のじめっとした朝だ。日が昇り切る前の朝なのだ。だからなんとなく、青というよりは白い空だった。こんな時間にクロスバイクで走るのも悪くない。その朝は、萌恵の家からの帰り道だった。
 萌恵んちには何度か行った。仕事が終わってからの時間で、萌恵の予定のない日に。だけど帰宅がこんな時間になったのは初めてだった。いつもなら深夜にゆっくりと家に帰る。ところが昨夜はすっかり、寝てしまったのだ。萌恵も俺を起こすことなく、朝まで一緒に居てくれた。何度か髪を撫でられた記憶がある。あとは、あんまり覚えてない。「逢いたい」って何度も言うから、少し時間は遅かったけど仕事終わりで行った。酒が入っていたわけでもなくて、単に疲れていたんだろう。萌恵のほうは今日は朝から仕事だっていうのに。俺に気を使ってか静かに出かける準備を始めた萌恵の動きに、なんとなく目が覚めて、それでこんな時間に帰ることにしたんだ。何時までいてくれてもいいよって言われたけど、さすがにね。今日は月曜日で、俺は休みだから。だからって甘えるのも違うと頑固に思ってしまったわけで。クロスバイクを走らせている今に至る。
 自然と遠回りをして、川沿いの道を走らせていた。前に健斗と会って、それから何度か練習を見に来たあのグラウンドの傍だ。さすがにこんな時間、ランニングする数名とすれ違ったぐらい。と、気を抜いていた。
「佐久田さん!」
 え?声をかけるやつなんているのか?こんな時間に?そしてやはりこの場所で会うっていうと、健斗だった。
「何やってんだ?こんな時間に」
「練習だよ」
 たしかに、手にはサッカーボールを持っている。ユニフォームではないけれど、ジャージのハーフパンツにTシャツ姿だ。
「まだ四時過ぎ、だよな。今から練習?ひとりで?」
「そう、ひとりで」
「親に怒られたりしないの?」
「なんで?」
「時間ちょっと早すぎない?」
「別に。暗くなかったら怒られない」
 暗い、ことはないんだけどさ、明るいけど。でも、そっか、男って親からこういう扱いだったかもしれないな。妹はよく暗くなる前に帰って来なさいって言われてたけど、俺はいつも、暗くなったんだから帰って来なさいって。ニュアンスが違うんだよ。
「佐久田さんは?朝帰り?」
 何てこと言うんだ、この小学生は。
「ち・・・違うよ。飲んだ帰りだよ」
「なーんだ、違うのか」
 違う、ってことはないんだけど。正解なんだけど。言えるか、小学生相手に、バカ。
「じゃあ急ぐから行くね、学校の時間までには帰らなきゃ怒られるから」
「おう、がんばれよ」
 学校か。もう、夏休みも終わったんだな。気分のいい朝だった。走り去る健斗を見送りながら自然と笑みになる。強く日差しを保ちながらのぼりきる太陽を眩しげに見上げると、俺はまたクロスバイクを走らせた。
だけどどうして神様は、いい朝を迎えた日を、そのまま終わらせてくれないんだろうな。本人から連絡が入るよりも先に、俺はインターネットでそれを知った。夕食後、なんとなくネットの中を飛び回って、気になるものをクリックしては見ていた。いつものことで、別に何かを知りたいわけじゃないけれど気づいたらやってる。そこで見かけた名前だった。
 [坂口萌恵]って、萌恵だよな?クリックして先に進む。なんだろう?程度で開いたそれは何人くらいの人が見ただろう。それほどまだ、世の中で萌恵のことを知ってる人は少ないだろう。だけどネットの記事として存在するほど、ネタになる良くない内容だった。

 読者モデル出身のタレント坂口萌恵さんのファンによって撮影された映像がネット上にアップされ問題となった。映像はすでに削除されているが、それはマンションに入っていく姿や近所のコンビニで買い物をする姿などがしっかりと映っており、所属事務所からプライバシー権の侵害として訴えている。

 なんだよ、映像って。気になって電話をかけてみるけれど、萌恵は出なかった。もちろん映像はもう見れない。パソコンの画面をじっと見たまま俺は固まってしまった。ファン、ってなんだよ。萌恵のファンって。テレビとかあんまり見ないからよくわかってなかったけど、ファンがいるんだ?萌恵には。でも映像って、ダメなやつだろ。何を撮ったか知らないけど、そんだけ常に近くにいるってこと?ファンが?萌恵の近くに?しかもコンビニとかって、仕事と関係ない時間にってことは一人でいる時にってことだ。すごく不安になってきたんだ、考えれば考えるほど。今日は萌恵は朝から仕事ってくらいしか知らなくて、何時までとか何処で仕事なのかとか全く聞いてないけど。

 今何してるんだろう。
 今何処にいるんだろう。

 今日はなんだか一日が長いよ。パソコンの画面を開いたまま、俺はクロスバイクを手に取っていた。とにかく萌恵のマンションへ行こう、そう思った。今朝帰ってきた少し遠回りの道ではなく、一番最短距離で行ける道を走った。見慣れたマンションが見えてきて、急いで近づこうとしたけれど俺は急ブレーキをかけた。マンションの前に停められた車から萌恵が出てきたのだ。帰ってきた、とこ?マネージャーとかかな、あの車。萌恵は急ぐようにマンションの中へ入って行った。それを見送るようにしてから、車は走り去っていく。俺は、またゆっくりとクロスバイクをマンションの前まで走らせた。道路脇に停めると、マンションのエントランスに入る。萌恵の部屋の暗証番号は実はもう知ってる。チャイムを鳴らすではなく、俺は番号を入力し始めた。
「おい。お前か?」
 何か声がして振り向いた。俺より少し年上くらいの男が二人立っている。背の高いひょろっとしたやつと、俺と目線が同じくらいの小柄なやつと。入力していた番号を途中で手を止めたまま、俺は二人を見た。
「お前だろ、萌恵ちゃんの映像ネットにあげたやつ」
「は?」
「今帰ってきたのを見計らって来たんだろ?図星だろ?」
「なんのことだよ」
「今何やってたんだよ。マンションの住人装って中に入ろうって魂胆か?」
「は?違うよ」
「ここに住んでるって感じではないよなあ」
 二人の男は顔を見合わせると俺をじろじろと見る。たしかに、こんな高級マンションに住んでるような服装はしてないけどさ。
「逆にお前たちなんじゃねえの?犯人は」
完全に二人の方に向き合って俺はそう言った。
「は?なんだ、やっぱり萌恵ちゃんのファンなんじゃん、お前」
そう言ってちまちまと笑う。やたら癇に障った。
「ファンじゃねーよ」
「じゃあ何なんだよ」
 じゃあ、何かって。付き合ってんのかな、俺たち。恋人になるのかな、俺って萌恵の。
「とにかくなんだよ、その金髪、むかつんだよ。最近よくうろちょろしてるよなあ、このへん。萌恵ちゃんはお嬢様なんだ、お前みたいなバカっぽいやつ相手になんかしないんだよ」
 そう言いながら近づいてきたのは背の高いひょろってしてるほうのやつで。上から俺を見下ろしたかと思うと、俺の髪をぐっと掴んだ。
「何すんだよっ」
 髪を掴んだ腕を掴み返して、どうにかしようとしたけれどどうにもできない。体系は細いくせに、すげえ力があるんだ。一向に俺の髪から手を離そうとしないそいつに振り回されて、よろけた拍子に俺はマンションの壁に体をぶつけた。
「だっさ」
 むかつく声だけが聞こえてくる。身体を起こそうとするけれど、また髪を掴まれて左頬を殴られた。続けて脇腹のあたりを蹴られ、俺は腹を抱えるようにして横たわった。なんだこいつ、マジ強え。
「あんまくだらねえことしてると警察に言っちゃうよ。こいつが犯人ですよーって」
 どうにか目をそちらに向けると、小さいほうのやつが茶々を入れてくる。もしかして本当にやったのはこいつらじゃないのか?あきらかに萌恵のことを待ってただろ、このタイミングは。小さいほうのやつの足を掴もうと手を伸ばした時に、もうひとりのやつが俺の腕を蹴った。そして上から指先を踏んづけたのだ。
「っく・・・」
 一瞬、バカみたいに痛みが全身に走った。踏んづけたままその足を左右に揺さぶるようにそいつは動かした。まるで踏んづけた蟻を靴の裏ですりつぶすみたいに、だ。ますます痛みが走りまくる。
「う・・・」
 声が出なかった。出ないまま転がって、俺はまたマンションの壁にぶつかった。痛みが、やばいくらいに頭を混乱させて何も考えられなくなる。何か言いながらやつらは去って行った気がするけれど、そちらを向くことができなかった。どれくらいだろう、少しして誰かが俺に声をかけた。さっきのやつらと違う、女性だ。なんとなく見えたのは、たぶん少し年配の女性の姿だった。
「待ってね、救急車呼ぶから」
「え、あの、大丈・・・夫なんで」
 返事をしたつもりだったけれど、聞こえてはいないっぽかった。少し離れて、「もしもし?救急車を」と女性の声がした。いや、動けるから大丈夫だよ。頭ではそう思うけど実際には全く動けていない。そしてその後到着した救急車に、俺は運ばれる羽目になったのだ。

 病院には、けっこう長い時間居た。怪我の度合いが良くなく、事件性があると判断されたからだ。警察の人間が来て、いろいろと聞かれた。俺もあのマンションの住人ではないし、あの二人のことも全然知らないし。何も答えられるわけもなく、因縁をつけられた、程度のことしか言えなかった。あのマンションには知り合いがいて、会いに来ただけ。そう伝えて、俺は病院の少し人気の少なくなった暗い待合所で座っていた。
 診察時間がとっくに終わった病院はなんだか気味が悪い。時間外で訪れる患者が数名。照明も少し落とされ、ときどき救急車のサイレンが聞こえる。そしたらまた、看護婦が数名慌ただしく動く姿が遠くに見えるんだ。あ、また誰か、運ばれてきたのか。
「誰か連絡の取れる人いますか?一人では帰せないので」
「え?どうしてですか?子供じゃないんですよ?俺」
「一応ね、事件っていう扱いになったんで」
 病院なのに、警察官にそう言われて。親や妹に連絡するわけにもいかないと、店長に連絡を入れた。三十分くらいで店長と奥さんが病院にかけつけた。事件とか、怪我をしてるとか、簡単な説明しかできなかったので、かなり慌ててきたんだろうなっていうのが見て分かった。ふたりともラフな服装で、いかにも休日をのんびりしていた風だったからだ。
「すみません、店長も奥さんにも迷惑おかけして」
「大丈夫か?骨折したって?」
「大丈夫です、指だけなんで」
 そう言って俺は包帯で固められた左手を見せた。しかめっ面の店長と、心配そうに俺と店長とを交互に見る奥さん、なんだかますます申し訳なくなってくる。
「なんか・・・親に連絡取りづらくて、すみません、店長の名前出して」
「いいよ、そんなの。でもよかった。喧嘩か?」
「違いますよ、知らないやつに絡まれて」
 そんなやりとりをしていたら、さっきの警察官が戻って来た。
「マンションの防犯カメラに一部始終が映っていて、きみは完全に被害者ということになったから」
「防犯カメラ?あそこそんなのあるんですか?」
「都内でも有名な高級マンションだからね、あそこは」
 それを聞いて店長が俺の顔を覗き込むと、小さな声で俺に尋ねた。
「高級マンションなんかになんで居たんだ?」
「いや、ちょっと知り合いが住んでて」
「おまえに?高級マンションに住むような知り合い?」
「まぁ、ちょっと」
「なんだ、女か?」
「え?いや、まぁ、女の子ですけど」
 そしたら警察官がわざと咳き込む仕草をして声をかけた。
「じゃあ、もう帰っていいから。気を付けて」
「あ、はい。すいませんでした」
 その日は家に帰らなかった。店長の車で、そのまま店長の家に行った。とりあえず話を聞きたいから、来いと。まぁ、仕方がない。来慣れた、第二の我が家みたいな店長の家で、奥さんがアイスコーヒーを入れてくれた。
「え?萌恵?」
「はい、そうです」
「付き合ってんの?」
「いや、そういうわけではないんですけど、時々会ってて」
「ふーん、知らなかった」
 目の前のテーブルに置かれた二つのアイスコーヒーの、手前のグラスを手に取ると店長はグッと飲んだ。
「まぁ、細かいことは聞かないでおくよ。でも、当分あれだな、仕事は休みだな」
「え?どうしてですか?」
「骨折してるんならハサミは握れないだろ」
「あぁ・・・。でも他のこと、できますから」
「シャンプーも無理だろ?カラーも無理。あと、何するんだよ?」
「あの。電話出れるし、掃除もできます。髪乾かすとか、雑用ならなんでも」
「ほんっと雑用だな」
 店長は大きく笑った。
「お給料もらわなくてもいいです、家に居たくないんで、店に居させてもらえませんか?」
「そういうのは別にいいんだけどさ、少し休んだりしなくていいの?」
「はい、大丈夫です」
 そしたら店長の奥さんが横から口をはさんだ。
「うちに、また泊まればいいよ。いつも泊まってくあの倉庫みたいな部屋しかないけど。ご飯とか、うちでゆっくり食べればいいよ」
「でもそこまでしていただくわけには」
「おう、そうしろ」
 店長も添えるように俺に言った。
「うちでとうぶん寝泊りしろ。そしたら、雑用係として店に立たせてやる」
 店長がそう笑いながら言うので、甘えさせてもらうことにした。

 その日の深夜、普通に萌恵からメールが入った。今日の撮影で行った山間の川のきれいな写真だとかなんとかで。そこに写る萌恵はとても笑顔で。もしかしたら、インターネットに萌恵を映した映像がアップされてたなんて記事は嘘なんじゃないかとか、萌恵本人はそんなこと全く知りもせず、事務所だけが記事に関して動いているんじゃないかとか、思ってしまう。そうだったらいいのに。でも、どっちにしてもあぁやって記事になってたら、本人も目に、してるのか。いろいろ考えてしまう。
店長の家のいつも借りてる部屋。倉庫兼って感じなので、片付いてはいるが特に統一性のない棚に荷物がびっしりだ。四畳ほどのサイズ。俺が泊まるときはそこに、二つ折りの簡易ベッドを広げてくれる。店長の店で働くようになって、みっちり仕事を習うようになって、疲れて家に帰るだけの独り暮らしの俺を泊めてくれるようになった。その時にわざわざ準備してくれたベッドだ。ベッドの上で少し動くとギーって音が鳴る。けどそれが逆に安心する。俺は今ここに居るんだって感じられるから。電気の消えた部屋で、スマートフォンの光だけが眩しい。俺は萌恵に、返信した。
- ネットで記事見たよ。ファンの撮った映像のやつ。大丈夫?辛くなったりしてない? -
 そしたら少しして返事が来た。
- 大丈夫。そういうの気にしてたら仕事できないって、事務所の先輩からも言われたし。平気 -
- せめてあそこのマンションじゃなくて、実家に戻ったら? -
 気になっていた。俺が会ったあの二人組、他にもそういうやついるかもしれない。ベッドに寝転がるようにして、俺は萌恵の返信を待った。
- 心配してくれてんの? -
- 当たり前だろ? -
- お父さんみたい -
 は?俺は思わずベッドから体を起こした。お父さん?はぁぁ???そして俺が反応して返信しようと思ったら、それより先に、続けて萌恵から入った。
- それとも、違う意味で心配してくれてるの? -
 違う、意味ってどういうこと?萌恵にはめずらしく、聞き方が遠回しだった。言葉の意味を考えながら、俺は次なんて返せばいいのか。戸惑っていたら、スマートフォンの画面がゆっくり消えた。画面が自動ロックされる設定は一分にしてある。とっくにその一分が経ってしまっていたのだ。スマートフォンの光さえ消えてしまった暗い部屋で、そのあと少し、静かだった。萌恵はきっと今、答えを待ってる。
- 変なやつがうろちょろしてるのを見かけたから、とにかく気をつけろよ -
 俺は。ロック画面を外すと、萌恵にそう返した。萌恵の問いかけには結果的に、答えなかった。
- ありがとう。おやすみなさい -
 萌恵からのその返信で会話は終了した。また部屋が暗くなる。だせえ、俺。どうしても一歩が進めないんだ。一度も萌恵に、「好き」って言ったことはない。萌恵は何度も口にするのに。それでも萌恵は、好きかどうかは依然として聞いてはこない。そんな萌恵に俺は甘えている。もし言葉にしてしまったら・・・。それで何も変わらないだろうと思う。変わらないとわかってるのに言えないのは、自分のせいだ。萌恵を支えてやれる自信が俺にはなかった。彼女は強がるくせに本当は弱い。なんとなくわかる。いつも無理をして笑ってる。きっと子供の頃からそうなんだろうとなんとなく思う。周りに心配をかけるのを極端に嫌う。だったら無理をしてでも笑う、そんな感じだ。今の俺と萌恵の距離は、俺に何らかの負担をかけたくないっていうのが伝わるくらい、俺にその弱さの全てを見せてこない微妙な距離で。体の関係はあるけれど、心の中はまだそれ以上にお互い踏み込めていない。きっと俺が好きだと言ったことがないからだと感じてる。もし俺が好きだと言って、その距離が縮んだら、萌恵は少しは弱い部分を見せてくるんだろうか。それでも彼女は無理して笑う人かもしれない。そんなことを考えていると、好きなのに前に進めない自分の心に一層の制御をかけてしまうんだ。情けないんだよ。ひどいことをしてるんだよ。骨の折れた指がズキンと痛んだ。こんな風に、簡単に喧嘩にも負けて怪我までして。仕事もろくにできなくて。大好きな人を守る勇気もないんだ。きっと今辛いのは俺よりも萌恵のほうなのに、辛くなってくる。思えば思うほどに、涙が出てくる。泣きながら、声が出ないように堪えるたびに、ベッドの軋む音がする。どうしようもない俺を笑うみたいに。

 次の日は普通に店に出た。もちろん何もできないので、急遽、俺の担当する予定だったお客さまに連絡を入れて、可能な限り調整をお願いした。たまたま、なんだろうか。文句を言うお客さまは一人もいなかった。
「お前の日頃の対応がこういうとこに出るんだよ」
 店長はそう言った。たぶん褒められてる。そんなこと言われてもピンとこないけど、背筋が伸びる思いだった。店長の担当するお客さまが何名か俺の指を気遣ってくれたりして、話題にはなったりしたけどそれ以外で特に役に立つことはない。床に落ちた髪を掃除したり、カラーリング剤の準備をしたり、電話に出たり、それくらいしかできない。不便な左指が憎たらしかった。

 左利きだけど、右手もそこそこ実は使える。多少なら字も書けるし、実はゆっくりだけど箸も使える。高校生の頃の話なんだけれどね。野球部の練習中に怪我をした。三年にあがる、ちょうど春のセンバツ高校野球の地区予選が始まる頃のこと。
いつもに増して気合の入った練習で、俺たちは二チームに分かれて試合形式で練習をしていた。活躍すればもちろん地区予選でも最初から使ってもらえる。みんな練習というよりは本気の試合だった。その回、俺は先頭バッターでバッターボックスに入って、レフト前ヒットで塁に出た。一塁で次のバッターがいい球を打ってくれるのを期待して次に備える。その時俺たちのチームは一点差で負けていて、このまま俺がホームベースに帰れば同点、続けて点が入れば逆転となる。俺はそんなに足は速くない。なので盗塁はあまり得意ではない。それでか、俺たちのチーム監督を任されていたチームメイトが、次のバッターにバントのサインを送った。とにかく上手くバントがされれば俺は二塁に向けて走るのみだ。何度も一塁の俺を確認しながらピッチャーはボールを投げる。ボールが続き、四球目。いい球が来たタイミングでバッターは何故だかバントのポーズから大きくフォームを変えて思い切りバットをスイングしたのだ。
「え?そんなサインだったか?」
 慌てて俺は飛んでいくボールを目で追った。走っていいのか待ったほうがいいのか見極めるためだ。そして、このボールはヒットになる。そう確信したところで俺は二塁に向かって全力で走った。二塁のベースを蹴る寸前にまだ返ってこないと確信したボールの行方を目で追いながら、三塁に向かった。問題は次だ。三塁で止まるのか、それともホームベースを目指すのか。その時三塁のランナーコーチを担当していたチームメイトに目をやると大きく腕を回していた。俺は何気にボールの行方を気にしながら三塁ベースを蹴ってそのまま走った。思いのほかボールは早くホームベースに返ってくる。俺は全力で走りながら、スライディングでホームベースに飛び込んだ。けど、見事に俺はアウトを取られていた。ほんの少し、遅かった。三塁で止まっておくべきだったんだろうか。そんなことを考えながら、襲って来た激痛に気が付いた。スライディングした時にキャッチャーの足元に変な角度で滑り込んだのは自分でもわかっていたのだけれど、まさか左手の骨が折れるとは思っていなかった。気味が悪いくらい、普通は曲がらない方に曲がった腕を監督や他の先生に固定されながら病院に連れていかれた。そこから、約一か月半、左手の使えない生活が続いた。長くなったね、なんか話が。その時にね、右手での生活を強いられて、練習したんだよ、字と箸ぐらいはね。ギブスが外れてもリハビリが待っていてさ。普通の野球部の練習メニューには参加できないし、結局その後もなかなか感が戻らなくて、野球は辞めてしまった。
 それから少し不便だった。利き手が、ちょっと思い通りに動かない感があって。そして美容師になると決めた時に、カットシザーでお客さまに怪我でもさせては困ると、かなりの再リハビリをした。おかげで今はもう平気だけど。平気になったからこそ、ちょっとこの、また指を動かせない期間がもどかしい。ただ生活をするだけならいいんだよ、左指が一つ動かなくたって。けどさ、この仕事は、カットシザーが使えなかったら意味がないんだ。

 それから二日後、クロスバイクを取りに来てくださいと電話が入った。防犯登録してあったので連絡があって、行ってみたらそれはもう惨めな姿になっていた。一度トラックとでも正面衝突したんじゃないかって思えるくらいの歪みっぷりで、とても乗れるものではない。「処分もできますけど?」そう言われて、俺は大好きだったこのクロスバイクを処分することにした。連れて帰ることなく、処分申請をして帰って来た。
「自転車どうだった?」
「最悪な壊れようで、処分お願いしてきました」
 店長に断りを入れて外出させてもらったのに、そんな表情が顔に出ていたのだろうか。
「よかったじゃないか、お前は指だけで済んで。きっと代わりに戦ってくれたんだろ。その、お前をやった奴ら?そいつらに体を張ってくれたんだろ。感謝しとけよ、自転車に」
 笑いながらそう言うと、またお客さまのところに戻っていった。俺は、なんだかいたたまれなくなって、店長の目をそっと盗んで奥の休憩に使っている小さな部屋に逃げ込んだ。なんでだよ。なんで俺、泣いてるんだよ。涙が止まらなかったんだ。なんか、いろんなものをどんどん失っていくような感じがして。俺は目から流れ出てくるものをなんとか無かったことにしたくて、両手で顔を覆った。

 骨折をして四日目、俺は完全に一度精神的に落ちた。店長に頼んで店を休ませてもらった。あんなに無理を言って店に立たせてもらってたのに。
「いてもいなくても一緒だからいいよ。ゆっくり休んどけ」
 そんな風に、冗談っぽく言いながら店長は俺の背中を叩いた。奥さんも、昼間は仕事で家にいない。nuovoの店が入っているビルの一階が北欧雑貨を扱う雑貨店で、そこが奥さんの店なんだ。ふたりともいないのに家にいるのもどうかと思って、俺は一度自宅に戻ることにした。簡単な荷物や着替えしか持ってきていなかったし。怪我をしたあの日の夜に連絡を取った萌恵ともその後連絡は取れてなかったし。いろいろ考えたくて、家に戻った。
帰り道、近所の小学校で運動会の練習をしていた。
「あ・・・」
 体操服で、組み体操やってる健斗がいた。
「なんだ、こんな近所だったんだ」
 独り言みたいに呟いて、なんかクスッと笑って俺はまた家に向かって歩いた。みんな何かをがんばってんのになあ。目に入る、包帯が巻かれた指を見たくなくて、視線を外すように遠くを見つめながら歩いた。あの日の空はなんか忘れられないんだ。雲がひとつもなくて。邪魔するものなんて何もないくらい澄んだ青い色をしていて。それが俺の心の中と正反対だなって思ったんだ。交換してくれよ、って。今すぐ雨雲が広がって、雨になればいい。俺の代わりに泣いてよ、って。そしたら俺はこの青空みたいに笑えんじゃないの?って。それぐらいしてくれてもいいでしょうよ。そう思うほどに虚しくなって、また泣きたくなるんだ。そんな気持ちのせいだとかではなくてさ。帰り道で決めたことがひとつ、あった。もう、萌恵と逢うのはやめよう。そう俺は勝手にひとりで決めた。

 俺と萌恵とは四~五日連絡を取り合わないのも、たまにしか逢わないのも、いつものことだ。知り合って数ヶ月、お互い特に何も相手を干渉しない。自然と踏み込まない距離を取っていた。続けて連絡が入る時もあるけれど、特にない時はこれといって何もない。もう萌恵に逢うのをやめようと決めたあの日から、別に逢わない約束をしたわけでもないけれど、かれこれもう一週間ほど萌恵とは連絡さえ取っていなかった。特に連絡を入れてこない萌恵にまた俺は甘えていた。いい機会だから一度ちゃんと休め、そう言ってくれた店長にも甘えて、実は、仕事も休んだままだった。この一週間自宅に戻って、何か食べ物を買いに出るくらいしか家から出なかった。精神的に落ちてるってのに、わざわざ自分を追い込むみたいなことをするのは昔っからの癖だ。誰かといるほうが迷惑かけるような気がするんだ。
 そうやって、閉じこもっている日が続いてはいたけれど、どうしても病院には行かなきゃいけなかった。十日ほどしたら来いって言われてて、経過状況を見て今後の判断をするとかで。クロスバイクがあればすぐ行けるのに、足がないから電車に乗るしかなかった。
「あと二週間ほどしたらギブス取りましょう」
「二週間?そんなに?」
「あのね、指の骨折を甘く見ちゃいけない。腕なんかの骨より細い、こういう細かい部分の骨の方が複雑なんだよ。きちんと回復させるには、しっかりと固定しておかないと」
「仮に二週間でこれ取れたとして、たぶん、すぐには普通にはならないですよね?」
「当たり前だよ」
「どれくらい日を見ておいたらいいですか?」
「その時に状態を見てじゃないとはっきり言えないけど、そっちが利き手だったっけ?」
「はい」
「そこからまた二~三週間は見ておいたほうがいいかな、リハビリ期間。ちゃんと治すつもりあるんならね」
 なんだよ。二週間、プラス二~三週間って。その間仕事何もできないってのかよ。イライラしながら精算を済ませて、病院を出た。で、ふと思った。ここって、近くだな。萌恵のマンションから。
 お昼前、大通りからちょっとした住宅街の方へと、何気にぶらぶらと方向を確認しながら歩いて、萌恵のマンションまで来ていた。少し遠目に周囲を見てみるけれど、特に怪しそうな気配はなかった。また変なやついるんじゃないかってちょっと気になって、萌恵はあれから大丈夫なんだろうかって。逢わないとか決めておきながらこんなとこまで来てる自分に、笑い交じりのため息が出た。パーカのフードをかぶって、なんとなく周囲を気にしながらスマホを手に取った。萌恵の番号にかけてみる。したら、電話が繋がった。
「もしもし?」
「あ、俺」
「うん。久しぶり」
 萌恵の声はいつもと変わらない。
「どした?」
そう聞かれて、つい答えていた。
「今時間ある?話あるんだけど」
「うん、大丈夫。なに?」
「あ、マンションのとこまで来て、んだけど」
「そうなの?いいよ、あがって」
 普通の受け答えが返ってくる。いつもだったらそれでスッとマンションに入るのに、包帯で分厚くなった指が視界に入って我に返った。逢わないって決めてたのに何やってんだ、俺。
「あ、いやいいよ。電話で」
「なんで?来てんでしょ?下まで」
「あー、そう、なんだけど」
「外がいいなら降りるけど?」
「いい、いい。一応あんたさ、芸能人なんだから」
「嫌だなあ、やめてよ、芸能人とか言うの。普通じゃん、私。とりあえず待ってるよ?あがってきてね」
 半ば強制的に電話は切られ、俺は仕方なくマンションの入り口に歩いて行った。フードかぶってるほうが、怪しいか。そう思ってフードを脱いで、マンションのエントランスで暗証番号を入力して中に入った。
玄関のチャイムを鳴らすと、開いてるよって返事が返って来た。俺は大きく深呼吸をすると玄関を開けた。廊下の先から顔をひょっこり覗くように出してくる萌恵は笑顔だった。
「嬉しい、どしたの?突然」
 嬉しいと言われて、ちょっと緊張する自分がすごく嫌だった。
「あのさ、今日はここで」
「え?ここ、って?」
「玄関で」
「なんで?急いでんの?」
そう言いながら玄関に向かってくる萌恵を見て、俺は少し俯いた。
「話だけしたらすぐ、帰るから」
「何?なんの話?」
 ラフな服装で、でもメイクはちゃんとしてあって、あ、これから仕事なんだなってわかった。
「これから仕事?」
「うん、まだだけど」
「そっか」
 なんでだか自然と、怪我をしている指を見られたくなくてパーカのポケットに両手を突っ込んでいた。萌恵は玄関の電気を付けると、その後廊下の壁にもたれるようにして、それからゆっくりとこっちを見た。長い話をこれからするんだろう、そう察しているみたいに感じて、ますます顔が上げられなくなった。
「話って、良くない話?」
 少し小さな声で、萌恵が俺にそう聞いた。
「そう、かもしれない」
 こんなに居心地の悪い状況だってのに、玄関先の甘いフレグランスの香りがやたらと心地よかった。知らない間に慣れていたんだ、この香りに。目の前には、当たり前のように萌恵が居て。俺は顔を上げて唾を飲み込んだ。
「もう、逢うのやめようと思うんだ」
「どうして?」
「ごめん、ちょっといろいろあって」
「それは、聞かせてはもらえない事情なの?」
「あんまり、言いたくない、かな」
「そうなんだ?」
「ごめん、俺の勝手な問題だから」
 一度目を反らすと、またこちらを向いて萌恵は言った。
「誰か他に好きな人、いるの?」
「いないよ」
「即答するんだ?」
「当たり前だろ。そういうんじゃないから」
「だったらなんで逢わないの?いつまで、とかじゃなくて、ずっともう逢わないの?」
 そんな風に聞かれて、一瞬俺は止まった。なんで戸惑ってるのか自分でもわからないくらい、頭の中が飛んだ。そして、答えたらもうそれで終わりってことになるんだ、ってその時やっとわかった。俺の言葉ひとつで。ただ、萌恵がその後なんて言うのかだけが想像できないまま、俺は萌恵に返事をした。
「ずっと」
「・・・ちょっと、座ってもいいかな」
 俺が答えたあと、少ししてから萌恵がそう言って廊下にしゃがみこんだ。ショートパンツから出ている膝を指でなぞったりする。落ち着いてないのは目に見えてわかった。俺だって、興味もないのに下駄箱の上に置かれた派手な色合いのキーホルダーを見つめたりしていた。
「私ね、小さい頃からなんでも我慢して、欲しいものを欲しいって親にも言わない子供だったんだ」
 下を向いたまま、萌恵はそう口にした。
「ずっとなんでも我慢して。友達にも、なんだか自然に遠慮して。前の彼氏には特に、我儘も言えなかった」
 前の、彼氏・・・。
「そう、なの?」
「嘘みたいでしょ?でも、そういうの自分でもずっと嫌だって思ってて。次に好きな人ができたら、ぜったい、もう遠慮もしないし我慢もしない、思ったことちゃんと全部伝えるんだ、って決めてたんだよね」
 萌恵の薄いピンクの爪が、萌恵の膝の上を行ったり来たりする。話を聞きながら、じっとそれを見ていた。
「だから、言ったの。好きになったって、あの時」
「うちの店で?」
「覚えてくれてるんだ?」
「忘れるかよ」
「あれね、すごく頑張ったんだから。勇気ふりしぼって、緊張したけどそれよりも伝えるって気持ちを強く持とうって、頑張ったんだよ」
 萌恵の膝を行ったり来たりしていた指がふいに止まって、萌恵のその手は自分の口を覆うようにした。
「柊羽が初めてなんだから。思ってることちゃんと相手に伝えようって決めてから初めて好きになった人なんだから」
 萌恵の指の間から漏れてくる言葉は、穏やかだけど怒りにも取れた。
「だから。柊羽にもう逢わないって言われても私、後悔はひとつもないよ。好きって思う時は、思うたびに好きってちゃんと言ったし。伝えたし。逢いたい時は逢いたいって言ったから。私自身に後悔はないよ。ただ・・・」
 ただ?その続きを、俺は待った。
「理由を聞かせてもらえないのは、つらい」
 そう言われて、俺は笑うしかなかった。
「そりゃそうだよね」
 長くなりそうだ。理由を簡単に答えられる自信がない。応えるには時間がかかる。俺も何気なく、玄関先にしゃがみこんだ。目線が萌恵と同じになって、あらためて目が合う。
「自分には、今萌恵を受け止める器量がない。って、思う」
「器量?」
「自分のことも、さ、仕事とかいろいろ、できてないのに」
「私のことなんて別にいいよ。仕事頑張ってほしいし、今までみたいに時々でも連絡取ったり逢ったり、ご飯食べに行ったり、それだけでいいよ?私は」
 膝を強く抱え込みながら萌恵は力強くそう言った。
「だめなんだ。それじゃ」
「なんで?」
「いつもさ、好きって言ってくれて。ストレートなくらいさ、そこまで言う?ってくらい、思ったこと一々口にしてくれてさ。いい意味でよ?さっき言ってたみたいに、昔の自分より頑張ってくれてたのかもしれないけど。でもそれに俺全然答えられたことないでしょう?」
「全然って?」
「俺一度も萌恵に好きって言ったことないよ」
 目がじっと合ったままだった。萌恵の表情は止まってた。
「でも萌恵もさ、一度も俺に好き?って聞いたことないよね。そんでこれからも多分、聞かないよね」
 頭の中がゆっくりと整理されていく。
「そうやって結果的に萌恵はさ、我慢して遠慮して、俺の前では笑って、いないところで泣くんだろ?」
「・・・なんで?」
「なんとなく、気づいてた」
「うそ・・・」
「萌恵に我儘ひとつ言わせられない自分がさ、嫌なんだ、俺も。余裕全くないし、ここんとこずっとイライラしてるし」
 そうだ、これが理由だ。自分の中でもモヤモヤしていたわからない何かが、これだ。心臓がバクバクいってた。萌恵には知られたくなかった情けない自分が、追い打ちをかけるようにイライラさせる。この空気が耐えられなくなりそうで、でも逃げられなくて、そんな態度を悟ったのか、萌恵はちょっと笑顔を見せた。そして変なことを口にした。
「それは、イライラしてる理由は、柊羽に怪我をさせた原因が私だから?」
 え?俺は萌恵に聞き返した。
「怪我?」
「指を、怪我したんでしょう?」
「なんでそれ」
「ごめん、店長から聞いたの」
 マジか。パーカのポケットに突っ込んだ包帯だらけの指が、痛んだような気がした。
「仕事、できないんでしょう?今。だから逢わないとか言うの?」
「ちょっと待って。マジで知ってたの?怪我のこと?」
「うん」
「他には何か聞いた?」
 その問いに、萌恵は頷いた。
「何を?」
「襲われたって、私のファンに。これを教えてくれたのは、マネージャーだけど」
 なんだ、知ってたのか。俺は大きくため息をついた。
「ごめん、一昨日聞いたとこなの」
「どんな風に?」
「マネージャーに、マンションの外でファン同士の喧嘩があったって。二人組の男性と、一人の男性とで揉めてて、襲われた一人のほうの男性が怪我をして、二人組のほうは警察に連行されてるって。だから気を付けるようにって」
「・・・そう」
「なんか気になって。私のファン同士が喧嘩して怪我とか、嫌だなあと思って。どんな人?って聞いたら、怪我した人は金髪の小柄な人って聞いて。すごく嫌な予感がして」
 また、萌恵のピンクの爪が膝の上を行ったり来たりする。
「お店に、電話した」
「店?うちの?」
「うん。ごめん、柊羽に直接は聞けなくて。カットの予約入れたいって、柊羽を指名で電話したの」
「なんでカットの予約?」
「それはわざと。店長が電話に出て、柊羽は当面休むから受けられないって言われて。それで、やっぱり怪我したのは柊羽なんじゃないかって思った」
「なんだよ、それ」
「怪我そんなにひどいんですか?って聞いたの。わざと、店長に」
「は?」
「そしたら、なんだ知ってたの?って。骨やっちゃってるから当分は無理だろうね仕事に入るのは、って。そこまでは柊羽から聞いてないのか?って言われて」
 俯いたままで萌恵は一気に喋った。
「私もヤマかけて聞いてみただけだったから、まさかそんなひどいって知らなくて。怪我したとしか聞いてないって言って電話切ったの。だから、あの、店長は悪くなくて。私が勝手に、聞いたの、ごめんなさい」
それから萌恵は顔を一切上げなかった。こっちを見ようともしなかった。
「別にさ、もう逢わないって言ったのはそれのせいじゃないよ。ただ、きっかけにはなったかもしれないけど」
「ほら、やっぱり」
 やっと顔を上げて俺を見た萌恵は、泣きそうだった。でも泣いてはなかった。そして俺はパーカのポケットから手を出した。その、包帯で巻かれた俺の左手の指を萌恵が見たのはわかった。
「仕事全然できないんだよね。この指さ、治るのに一か月以上かかるって。さっき医者に言われたとこなんだけどさ」
「そんなに?」
「じゃあその間どうしようって。仕事なんて、アシスタントやってた時以下のことしかできない。風呂入るのだって一苦労。前にも骨折はやってるからさ、大変さはわかってんだけど。また違うんだよ。その頃と。こんな繊細な仕事やってたんだ、俺はって思い知らされた。軽くなんでも器用にできないからさ、俺。焦って、とにかくこれ治るまでどうしようって。考えても答えなんて出ないんだけど」
「でも、だったらその間にできること探せばいいじゃない」
「簡単に言うね」
「簡単に、って。でも今の仕事で出来ることに限りがあるんなら、他のことやるしかないじゃない。私にはわからない、けど」
「無責任だろ、それ」
「そんな!!だからもう逢わないって言う柊羽のほうが無責任だよ。悩んでる柊羽を何か助けることだってできるかもしれないじゃない。私だって、柊羽に甘えたいとかばかりじゃないよ?できることあるんなら、支えたいって思ってるんだよ?」
「だったら何をしてくれるっていうんだよ」
 俺はしゃがんでいた体制から廊下の床に手をついて、体を少し萌恵の方に近づけた。極端に顔が近くなる。
「なあ、心配してくれて?一緒に何かできること考える?そんでまた無理に笑って。俺に気をつかって?自分の言いたいこと言わなくなるんでしょうが。違う?そうやって我慢してるおまえを見てんのがさ、俺は一番つらいんだよ」
「それ、逃げてるだけじゃない」
「あぁ、逃げてるよ。だからもう逢わないんだよ」
「意味わかんない!」
 そう言って萌恵は、俺の胸元を掴んだ。
「なんだよ。言いたいことあるなら言えよ。もう我慢しないんだろ?」
萌恵は、掴んでいた俺の胸元のシャツから手を離すと、あらためて俺を見た。
「最低。くそ真面目で融通きかなくて、自分勝手でいくじなし」
 お互い視線は外さなかった。
「そんで?他には?」
 そん時の俺は、冷血で冷たい目をしてただろう。なのに萌恵は、俺の怪我をした手をそっと掴んだ。
「好き。柊羽のこと」
なんで?
「だから好きなの。それが柊羽なの。だから一緒に居たいって思ったの」
 萌恵の目から涙が流れだして、止まらなかった。急に出てきたそれは、止まることを知らないくらい頬を伝って、しゃがみこんだ廊下の板に雫となって落ちていく。俯いて、肩を小さく震わせながら包帯の俺の指を掌に優しく乗せたまま、なんども雫が落ちていく。肩より少し長い髪が顔を隠してしまって表情は見えなかった。
いつもだ。時々泣いてるのは知ってる。でも見たことがないんだ、萌恵の泣いている顔を。俺はそっと、もう一方の手で萌恵の髪をかき分けると、頬に手をやってそのまま顔を上げるようにチカラを入れた。覗きこんだ萌恵の顔は、ぐしゃぐしゃで。全然止まろうとしない涙が俺の手にも伝って来る。
「萌恵?」
 また俯こうとする萌恵の顔を無理やり上げさせると、俺は唇を重ねた。俺の唇にも伝って来る涙が少ししょっぱい。こんな味のキスをしたことなんてないよ。一度唇を離すと、萌恵はまた俯いた。
「萌恵?」
 声をかけても泣き止まない萌恵を廊下の壁に押し付けるようにして、斜めに覗き込むようにして俺はもう一度唇を重ねた。
 軽く、そして深く。絡みつく舌は、愛しさでいっぱいだった。すごく抱きたかった。萌恵の耳元から首筋へと唇を滑らすと、萌恵は俺の首に手を回した。そしてもう一度唇を重ねる。涙が俺の鼻も伝っていく。俺が泣いてんじゃないのに、俺が泣いてるみたいにさ。その時俺は怪我した指を壁にぶつけた。
「って!」
 唇を離すと、俺は右手で左手をかばった。自然と体も萌恵から離れた。それがまるで、これがタイムリミットだよって言ってるみたいで、萌恵から少し離れて俺は廊下に座り込んだ。
 何も言わずに俺を見ている萌恵と。じんと痛みが沁みる指を見ている俺と。ただひたすら、感情を抑えようと呼吸を整えた。このままだとまた、萌恵が欲しくなる。
「なあ、萌恵。次は幸せになりなよ」
「なんでそんなこと言うの?」
「萌恵なら誰からも愛されるよ。誰でも萌恵のこと好きになっちゃうよ」
「嫌だよ、柊羽じゃなきゃ」
 萌恵が、覗き込むようにして俺の傍に座りなおした。だけど俺は目を合わさなかった。
「もう、逢わないよ」
「なんで?」
「俺みたいな自分勝手な我儘なやつじゃなくて、優しい男見つけな。ね?」
「柊羽は?それで平気なの?」
 見下ろすように萌恵を見て。俺は答えた。
「平気じゃないよ。好きだったから」
「え?」
「萌恵のこと、大好きだからさ」
「なんで?」
「なんで?じゃないよ。好きだったよ、萌恵のこと」
「なんでよ。なんでもう逢わないって話してる時に言うかなあ。初めて聞いたのに、柊羽の口から好きって言葉。ひどいよ。聞いたその日が終わりなの?」
「終わり」
 小さくそう言って、俺は立ち上がった。
「柊羽?」
「ごめんね、仕事行く前にこんな話」
「ほんとに終わりなの?」
「がんばれよ、雑誌とか載ったら、ちゃんと見るから」
「柊羽?」
 振り返って俺は微笑んだ。
「あのさ。最初萌恵のこと嫌いだったんだ、俺」
「え?」
「苦手なタイプだと思ってた。けど違った。すっげえ好きになった。ありがと」
「ねえ、柊羽」
「ん?」
「お店に行くのも、ダメなの?私もう柊羽に髪を切ってももらえないの?」
「萌恵に任せるよ。萌恵はnuovoの開店当初からのお客さまだからさ」
「そんな他人行儀になるの?」
「いつもと一緒だよ。店では」
 答えになってるのかわからない俺のその返答に萌恵は頷くと、ゆっくりと立ち上がった。涙はもう出ていなかったけど、まだ頬は濡れている。それを自分の着ているシャツで拭った。
「それ、どうにかしろよ」
「それ?」
「ブルーのアイシャドウあんまり似合わない」
「え?」
「前髪切ってから印象変わったから、ピンクとベージュのグラデーションのほうがいいと思う。逆にチークはピンクじゃなくて、サーモンピンクくらいの柔らかいのがいい。リップはベージュでも淡いピンクでも、服によっては案外レッドでもいい。ちょっと変えてみ?」
 玄関脇に付け備えた大きな鏡を覗き込むようにして萌恵が自分の顔を見ていた。隣で俺もそこに映るようにして鏡を覗きこんだ。
「ひどい顔してるね。今、私」
「仕事行く前に一度温かいタオルで目のあたりだけ抑えるようにして。メイクし直す時はさっき言った色がいい。持ってないなら仕方ないけど」
「たぶん、ある」
「じゃあそうしなよ。萌恵はその方が似合うよ。可愛い、ぜったい」
 鏡越しに目があって。萌恵は複雑そうな表情をしていた。俺はそれを見つめるように笑うと、
「行くわ」
 そう声をかけた。萌恵はそれ以上何も言わなくて、俺を引き留めることもなくて、振り向くことをしなかった俺が部屋を出てドアを閉めるまで、見ていたのかも知らない。
「ごめん、萌恵」
 いくじのない俺は、ごめんの一言をドアを出るまで言えなかった。それも、彼女には聞こえないくらいの小さな声で。

 帰り道なんてものは覚えてない。気づいたら自宅の玄関のドアの鍵を開けていた。歩いて、駅まで行って、たぶん電車にでも乗ったんだろう。上手く差し込めない鍵にイラッとしながら、それでも気を落ち着けてゆっくりと回すとガチャリと錠が開く。入ってすぐの棚の上のトレイに鍵を置いた。いつもの場所、一連のそういう動きは何も考えてなくともできるもんだ。そしてそのまま、ソファにドカッと、寝転がるように俺の身体は傾れ落ちた。大きく息を吐く。両手で顔を覆うようにして、俺はしばらくそこに居た。
 今頃、何してんだろうか。仕事ちゃんと行ったんだろうか。あれからまた泣いてたんじゃないかな。それとも、また我慢して笑顔作ってんだろうか。考えるのは萌恵のことばかりで。嫌になった。
 そして、自分勝手な自分にまた苛立つんだ。泣かせたくて好きになったんじゃないのに。だから嫌いなんだ、面倒くさいことは。何かひとつしかできない俺が、まだ仕事さえ半人前にもなってない俺が、あれもこれもなんてやっぱり無理だったんだ。なんであの日、初めて萌恵に誘われたあの日、俺は彼女に逢いに行ったんだろう。苦手なタイプとか言って、最初っから興味が有ったんだろうか。答えなんてどっちでもいい。とにかくもう、暫くは誰かと恋をするのはやめようって思った。それは、面倒くさいってことを理由にしてはいるけれど、本当は萌恵のことが好きだからで。今は彼女以上に好きになれる人がすぐに現れるとも思えなかった。可愛いとか、きれいだな、とか、そう思える人なんて山のようにいるけど。自分のチカラで、俺の手で、守ってあげたいって思えるくらい好きな人ではない。俺にとってはそれが萌恵で、だけど、それまで待っててくれなんてことは言えるほど器用でもなく、そんな日が本当に来るかなんて保障はないんだ。それを言えるほど、俺は大人ではなかった。

 ギブスが取れるまでは出勤する日は減らされた。店長からそうしろって言われて決まった。週三くらいの出勤状況で、休んだからと言って別に家でのんびりしてるわけではない。あちこちの研修会に参加させられた。実技は何もできないけど、勉強はできるからってことで。正直、何もできないなりに毎日仕事はしたかったけど、この先のことを考えてそれも大事だと思った。そして何より、萌恵のことを忘れられる。俺が願ったのは、ちゃんと一人前の美容師になることだから。なんだか結局、俺はこの仕事を理由にこれまでに二人の女性に辛い思いをさせたことになる。だからこそただの理由で終わらせたくなくて、勉強するしかないんだ。
 次の日曜は休みだった。
「もしもし?」
 朝から電話をかけた。妹にだ。
「柚羽?」
「何?朝から」
「今日暇?」
「は?何時、今」
「七時半」
「七時半?早すぎない?休みだよ?今日」
「だから早く電話してんでしょうが。お前早めに連絡入れとかないとすぐ遊び行っちゃうからさ」
「なにそれ。今日は特に用はないけど?なに?」
「車出してよ」
「えぇ?自分で運転すればいいじゃん」
「ちょっと怪我してて。車取りに行くのもちょっと、行きづらいからさ、乗ってうちまで来てよ」
「なんでえ?あーあれか。金髪にしたの内緒のままなんだっけ」
 妹は寝起きの声で、面倒くさそうに返事をする。いつものことだから慣れっこだ。
「それもあるんだけどさ、頼むよ。買い物行きたくて、付き合ってくんない?」
「そういうの友達に頼めば?彼女とかいないの?」
「いないから柚羽さまにね、電話入れてんじゃないの」
「なに?報酬はなに?」
「報酬?ケチくせえなあ」
「そういうとこは兄に似たんです!」
「昼飯でいい?」
「しかたないな、わかった。デザートも付けてね」
「わかったよ」

 昼前に妹から着信が入った。電話には出ない。電話自体がまず二コールくらいで切れるんだ。妹はいつもそうだ、着いたよ、とかそういうやりとりを省略してコールだけ入れる。いつからだろうな、自然と俺たち兄妹にはそういうシステムができてる。家の鍵を閉めてアパートの下階を見下ろすと、白い車が見えた。親父の車だ。免許だけは家族全員持っていて、用があればいつも車は親父のを借りてる。普段はクロスバイクで十分だし、今は車を買う余裕もなければ駐車場を借りる余裕もない。アパートから出て路上の端に止まった車に向かう。車の助手席のドアを開けると、ちらっと妹がこちらを見た。
「せっかく今日は録り溜めてたドラマ見てゆっくりしようと思ってたのに、しっかりお昼よろしくね」
 一言目がこれだ。文句しか言わない。そのわりには、あまりこういうの断らずに頼まれてくれるところ助かるんだ。
「わかってるよ」
 助手席に乗り込んでドアを閉める。
「どこまで?」
 まるでタクシーの運転手みたいに妹はそう尋ねた。
「なんか業務的だなあ。南青山まで」
「何買うの?買い物って」
 車のエンジンをかけると、妹はゆっくりと車を出した。
「クロスバイク」
「え?この前買ったじゃん。水色みたいなやつ」
「エメラルドグリーンだよ」
 シートを少し倒して、俺はそこにぐっと深くもたれた。
「どうでもいいよ。また買うの?」
「いいでしょうが」
「勿体な、あんな高いやつ」
「仕方ないでしょう。処分になったの、あれ」
「なんで?」
「事故った」
「え?」
 そう言って妹が急にこっちを向くから、思わず俺は体を起こした。
「危ねえな、前見ろよ、ちゃんと」
「見てるよ。なに?事故ったって何?」
「別に何もないよ。バイクだけちょっと乗れないくらいぶっ潰れた」
「うそお。え?もしかして怪我してるとか言ってたのってそれで?」
 興味津々に聞いてくるから面倒くさくなってくる。
「はい、そうです。事故って怪我しました。この通り」
 そう言って俺は、運転してる妹の目の前にギブスと包帯でしっかりと固定されてる左手を見せた。
「まじで?それ言わなくていいの?」
「誰に」
「おとーさんとおかーさん」
「なんで一々怪我したくらいで連絡するよ?子供じゃあるまるいし」
「そっか」
「大丈夫、なの?その怪我」
「あぁ、骨折。全治二か月」
「そんなに?」
 また妹がこっちを向くから、慌てて右手で、前!前!って合図をする。妹はまた前を見て、そこからは何も言わずに少し走って次の赤信号で停止した。
「ひどい事故だったの?何かと接触したとか?」
「違うよ、詳しくは言えないけど」
「そう。大丈夫ならいいけど」
 そこからは妹は特に何も聞いてはこなかった。カーナビのハードディスクから流れてるRADWIMPSのメロディだけが耳に残った。俺がハードディスクに入れたのを気に入って妹も聞きだした。妹とふたりの時はこれが多い、な、そういえば。俺はずっと助手席の窓から東京の街の風景を見ていて、時々足でリズムを取ったりしていた。南青山のBianchiでは、前に乗っていたエメラルドグリーンのクロスバイクを一度買っていて、初めてその店に行った時も妹が一緒だった。ちょうど髪色を金髪にしたての頃で、しかもその髪色は両親には内緒でやったから家に立ち寄りづらくて、今日みたいに妹に車でうちに来てもらった。親父の車はそこそこ大きいやつで、シートをたためばクロスバイクを乗せることができる。いいのが見つかれば買って積んで帰ることもできる。出来れば早く新しいのを買って、仕事に差し支えのないようにしたかった。自宅から店までの距離が電車を使うと不便で、やっぱりたまに店長の家に泊まらせてもらったりしていた。あまり長く続くのもよくない。とにかく早く、自立したかったのかもしれない。この頃は。給料ギリギリの生活にはなるけれど、どうしても新しいクロスバイクが欲しかったんだ。いろんなことを一からまた始められる気がして。そんなことをぼーっと考えながら流れていく街の風景をガラス越しに眺めていた。
 Bianchiのショップでカタログやら試乗車やら見回ったあと、結局俺はまた、同じエメラルドグリーンのを選んだ。モデルが少し違うもので、前と同じ、ブラックとのツートン。
気持ち新たに、なんて思っていたのはなんだったんだろう。彼女のことが恋しいかのように、この色がどうしても恋しかった。
 パーツを少し組み替えて、作ってもらっている間に妹と食事に出た。青山通り沿いにあるパーキングに車を停めてとぼとぼ妹と少し歩いて店に入る。
「なんでさぁ、ラーメンかなあ」
「いいじゃん、上手いだろ?ここの。好きでしょ?」
「まあね、美味しいんだけどさ」
「ほら」
 俺がにやりと笑うと、口を尖らせながら妹はバツが悪そうに奥で調理する店員の後姿をのぞき込んだりして俺から視線をそらした。カウンターに並んで座っていた。俺は左利きだから、といつも左側に座るんだけど、今日にいたってはどっちでもよかった。使いづらい右手で不器用に麺をすすった。それに合わせてか、妹も食べるのがゆっくりだった。
「なんかおしゃれなお店とかあるじゃん?この辺だったらさぁ」
「そういうのは彼氏と行けよ」
「居ないもん」
「え?また別れたの?バイトで知り合ったって言ってたやつ」
「うるさいなあ。いつまでも彼女できないお兄ちゃんとは違うの」
「ふん」
 鼻をすすってまた俺はラーメンの器に視線を移した。たどたどしく麺を箸でつまんで食べる。
「ねえ、なんでわざわざさぁ、食べづらいラーメンにしたの?オムライスとか食べやすいのにすればよかったじゃん」
「いいでしょうが、食べたかったんだから」
 うるさいなぁって顔しながら妹のほうを見ると、妹はぷいっと視線をそらしてまた麺をすすった。
「デザートは今日はなし?」
「あ」
 そういや言われてた。
「わかったよ。今度ね」
「今度ぉ?」
「これ、手、治ったらさ、髪切らせてほしいから、そん時でいい?」
「えぇ?またぁ?」
「リハビリ終わっていきなりすぐに客の髪切るわけにいかないでしょうよ、まずは切らせてよ。だからあれよ?次のヘアスタイル考えといて」
「うそぉ」
「そしたらお礼にご馳走します。ほら、カット代かからないからいいでしょ?」
「それはそれ。ある意味実験台みたいなもんなんだからね?今度はちゃんとデザート付だからね」
「わかったって」
「じゃあ、イタリアンがいいなぁ。久しぶりに行きたいなぁ。あそこ前に連れてってくれたのいつだったかなぁ。美味しかったもんなぁ。オープンテラスもいいんだよなぁ」
 わざとらしい独り言で、麺を運ぶ手を止めて妹がそんなことを口にする。
「違う店の話、そんなわざとらしくすんなよ。しかもカウンター席で」
「ごめーん」
「大通りんとこの店だろ?わかったから、次の時な。ほんと好きだねぇ、あの店」
「お兄ちゃんが今まで連れてってくれたお店で一番おしゃれなんだもん。ぜったい約束だからね」
「はいはい」
 オンナってのは、怖い。
 いつもよりゆっくりとラーメンを食べて。Bianchiに戻ると、俺はまた、エメラルドグリーンのクロスバイクを手にした。
「すげぇ、かっこいい。ありがとうございました」
 前よりもっと好きなパーツを組み込んだ。値段予算オーバーだったけど、その分仕事頑張ればいい。店員に頭を下げて、バイクを自転車に積み込む。夕焼けがきれいに出ていた。妹の運転と、街の流れる景色と、RADWIMPSと、そしてそこにエメラルドグリーンのクロスバイクが加わった。久しぶりに気持ちがちょっと上向きだった。

 何かを忘れようと思うと、案外時間ってのはすぐに経つもんだ。俺の場合は、ひたすら一つのことを徹底するってことが多い。前に野球を辞めた時は、ひたすらゲームばっかやってたなあ。骨折した時に圧迫した神経の働きが悪くて、けっこう辛かったのを覚えてる。
 動きづらくなった左手の指がなかなかうまく動かせなくて、いつもなら簡単にクリアできる場面がなかなか攻略できないんだ。それはもう、必死になったね。出来るはずなんだよ、俺は、ここ何度もクリアしてんだからさ。自信の裏に、焦りがあった。このまま野球以外にも出来ないことは増やしたくないんだ。必死でゲームばっかやって、夢の中でもコントローラーを持ってる。普段滅多に夢なんて見ないのにさ、たまに見たらそんな夢で。だけどそうやって必死になってゲームをしている俺に家族は何も言わなくて。きっと優しさだったんだろうと思うんだけど。それでいつの間にか、それがリハビリ効果にでもなったんだろうか。そこそこ普通に、前みたいに器用に手を使えるようになった。それがなかったら、美容師になんてきっとなってないね。だからゲームには感謝だ。
 今回もそこそこ、ゲームは、やりこんだ。そう言えば最近新しいの何も買ってなかったなあって。ギブスが取れて、指を動かしていいって言われるようになってからは、時間があればゲームをしていた。今回もそれが効いたのかはわからないけれど、怪我をして二か月ちょっとでお客さまの髪を切った。もちろんその間にも店には行っていた。指が動かせなかった時でも、それなりに慣れてくるとできることが増えた。研修ばかりだった日々もすぐに終わり、店に立つ時間が増える。やっぱりさ、好きなんだ。こうやって誰かと話してるのが。普段ならどっちかっていうと、ちょっと人見知りな性格のはずなんだけど、仕事となると話は別だった。
「柊羽はさ、褒めるのが上手いんだよ」
 店長にはよくそう言われていて。自分ではあまりよくわかってはなかったけど。あまり褒めてる感覚は無くて、お客さまの髪に触れながら、ふと思ってることを口に出す。柔らかくてアレンジしやすい髪質ですね、とか。美容師っぽい話も多いけど。前に店長とこんな会話されてたじゃないですか?俺あの時ちょうどそれにハマってて、あれからどうなったのかなあって気になってて。なんて話をしてたらお客さまと盛り上がってた、なんてことも多い。
「なんだろな、お前、人の顔とか性格とか覚えるの得意なのかもな」
「そうですかね?でも俺、記憶力悪いっすよ」
「それはあれだろ?勉強とかだろ?頭悪いのとは話別だよ」
「店長それ何気にひどいですよ?言ってること」
「でも自分で今言ったじゃないか、記憶力悪いって」
 店長と笑いながらそんな話をして閉店準備をする。なんだかんだで俺の一日は終わっていく。

 忘れようとしていた彼女のことは、忘れたくてもすぐには無理だった。たまにテレビで見かけるし、店に届く雑誌にも載ってるし。もう髪を切ってもらえないの?と言ったくせに、あれから彼女は一度も店には来ない。来れるわけ、ないよね。お客さまだから、と言ったけれど、俺だって実際逢っても何話していいかわからないし。
 気づいたら、毎日暑い暑いと言っていた季節は過ぎ、みんなすっかり長袖になり、クロスバイク通勤の俺は電車通勤のやつらよりも厚手のジャケットを羽織る季節になった。今日も店は閉店時間。今日で終わりだったハロウィンの飾りつけを片付けていたら、店長が目の前に缶ビールを差し出した。視線を上げると、店長は笑顔で「お疲れ」と言った。ちょっと、珍しい。店でビールを差し出されたのは初めてだった。
「お疲れさまです」
 よく冷えた缶ビールを受け取ると、店長は自分の缶を開けた。
「早いな、明日から十一月だってさ」
「ですね」
 クッと一気にビールを飲むと、店長は大きくため息をついた。
「お前も飲めよ」
「あ、いただきます」
 店の中は好きだ。店長、というよりは店長の奥さんの趣味で飾られた雑貨があるからか、ちょっと北欧っぽくて。あくまで仕事場だけど、自分の部屋みたいに落ち着く。そんな店内を見回しながら、俺もビールを飲んだ。
「最近、来ないな」
「え?誰がですか?」
「萌恵」
 長く、声に出してない名前だ。なんか自然と、缶ビールを持つ手にチカラが入ってしまってるのが自分でもわかった。
「やっぱあれかな、売れてくると芸能人ってやつはご用達のいい店行くんだろな」
 笑いながらそう言って、店長は飲みかけの缶をカウンターに置くと、店にある雑誌を一冊手に取った。
「もう、別れたのか?」
 考えたくないこととか、思い出したくないことをふと思う時、人ってのは自分の呼吸を深く感じるもんなんだな。別に緊張してるわけでもないのに、大きく心臓が音を立てる。鎮めようとすると、挙動不審者みたいに変に体が重くなる。視点が定まらない。何を見ていればいいのかわからなくて、俺は自分の手の中の缶ビールを見つめた。
「はい。ちょっと前に」
「そっか。残念だったな」
「いや、別に・・・」
「お前さ、萌恵の担当になってから、いい感じだったからさ」
「いい感じ?」
 雑誌をペラペラと捲ると、店長はふと手を止めた。
「この、萌恵の表情もすごくよかったんだよな」
 俺はそっと、店長の開くページに目をやった。ちゃんとは見えないけど、たぶん萌恵の載ってるページだ。
「今はなんか、萌恵もあんまいい顔してねえな」
 そう言って笑うと、店長は雑誌を棚にしまった。
「なあ、柊羽」
「はい」
「たぶんいい関係だったんだろうな、お前と萌恵。まあよく知らないけども」
「え?」
「柊羽に担当任すようになってから、お前すっごいいい表情してたんだよ。仕事してても動きいいし。あぁ、なんかノッてんなあっていうかさ」
「そうですか?自分ではわからないですけど」
「そん時はわからなかったけど、萌恵と付き合ってたからだったんな、たぶん」
 俺は、恋愛は苦手だ。特に、仕事と両立させるのは最も苦手だ。だから不思議だった、店長の言葉が。萌恵と、逢ってたあの頃は、俺はそんなに違ったんだろうか。だからってもう、逢うことはない。彼女だって、店には来ない。もう、終わったからさ。

 寝る前の時間、ゲームのコントローラーを手にふと気づいたら、テレビ画面はgame overになっていた。点滅するcontinueの文字が面倒くさくなってくる。続きなんて、ないよ。もう、終わりだよ。冬がやってくる一人の部屋が今日ばかりはとても寒くて。画面に出たgame overの文字をそのままに、俺は洗面台に向かった。狭い洗面台で服を脱ぐと、そのままシャワーを浴びた。高い位置でシャワーを固定したまま、俺は動けなかった。もう二ケ月、経ってるんだよ?どうしてだよ。どうして今頃なんだよ。どうしてこんなに、涙が出てくんだよ。
 夏と違って、濡れたままの髪は簡単には乾いてくれない。ドライヤーのコンセントをさすと、スイッチをONにした。店で使い慣れたそれを、夏の間、自宅で使うことはまず無い。温風を髪に当てて、目の前の鏡を見た。前髪、伸びたなあ。温風に揺れる前髪を見ながら思い出すのは萌恵の指で。抱き合っている時、必ず萌恵が俺の前髪にそっと触れる。どんどん熱を帯びていく萌恵を感じるままに体を動かす俺の、動きに合わせて揺れる前髪を。背中に回した萌恵の指がそっと俺の首筋をつたって、その指は必ず前髪に辿り着いて触れるんだ。そしたら俺はいつも萌恵の胸に顔を埋めて、愛撫する。とても安心する。愛おしいって思う。抱いてるつもりが、いつも抱かれていたのはきっと、俺のほうだった。


「店長!」
 名前を呼ばれて我に返った。いろいろ思い出していたら、ぼーっとしていたみたいだった。俺が二十四歳の頃。そんな懐かしい思い出につい、時間を忘れていた。
「午後一のお客さまもうすぐ来られると思うんで」
 俺に声をかけたのはずっとアシスタントでついてくれているミナちゃんだ。
「うん、ありがと」
 今俺は、店長をしている。俺の店ではないけれど。この春、nuovoの吉祥寺店が新しくオープンして、そこを任された。自信のない日々を送っていたあの頃を思い出すと、不思議なくらいだ。何をするにも手いっぱいだった俺が、店長だなんて。ミナちゃんは前の店からこの店に俺と一緒に移動になって、あの頃の俺みたいに、担当のお客さまを持ち始めたところだ。だけど俺と違うのは、それはもう、頼りになる。本当に俺は、成長するのに時間のかかる人間だった。思うとつい、笑ってしまう。自分のことなのに、まるで他人のことのように。だってあの頃からもう六年?七年?まだまだ俺は子供みたいだ。
吉祥寺店は本店よりもかなり広い。ヘアサロンのすぐ隣に、カフェと、雑貨を扱うスペースを隣接しているからだ。観葉植物でヘアサロンとの間をなんとなく仕切ってある感じで、だけど一応入り口は二か所ある。ヘアサロンを予約したお客さまが早めに来られてお茶して待っていたりとかってこともよくある光景だ。ここに移動してきてもう半年弱に、なるのかな。ヘアサロンは俺を入れて三名、カフェと雑貨のスペースに店員が三名でやってる。俺以外はみんな女性で、いつか俺の下に男子が入らないもんかね、と思ったりしている。だけどもしそうなったとして、俺はあの頃の店長みたいに、まだガキの俺のことを見ていてくれたみたいに、できるかって考えるとやっぱり、ちょっと自信がない。一緒に働いてる女子のみなさんは、ミナちゃんを筆頭にうまく支え合ってくれているみたいで頼もしい。そんな環境の中で、現在の俺はいる。
 その日は常連客の予約が入っていた。
「ちーっす」
 相変わらず、予約時間より少し遅れて顔をだす。健斗だ。担当はもちろん、俺。前の店で初めて担当させてもらってからずーっと、俺がやってる。
「あのさ、佐久田さん。聞いてよ!」
「なんだよ、聞いてるよ」
 スタイリングチェアに座らせるとケープをかけながら返事をした。健斗のテンションがやたら高くって、これは何かいい話だろうと思った。長い付き合いだ、すぐにわかる。
「俺ね、佐久田さん」
「おう」
「プロになれそうなんだ」
「え?」
 思わず顔を上げて、鏡越しに健斗の顔を見た。
「オファーが来て、しかも三チームも」
「マジか?」
「嘘ついてどーすんですか。しかも俺選べるんです、三チームから」
「もう決めたの?」
「いや、まだです。一チームずつきちんと話させてもらって、練習風景とか見させてもらって、それから決めます」
「だよな?重要だもんな、そこ。大学はどうすんの?」
「行きますよ。そっちもちゃんと卒業する」
「すげえな、それ」
「もう嬉しくて。ぜったいどっちもやり遂げる」
「そっか。おめでとう」
 なんだか照れてしまって小声でのおめでとうになってしまったけど、実際俺のテンションも上がってた。ずっと見てきたんだ、健斗のサッカー生活は。
「佐久田さんの、おかげです」
「え?」
 健斗の髪にハサミを入れながら時々鏡越しに健斗を見る。健斗はずっと、俺の顔を見ていた。
「前にサッカー辞めるって言った時に、佐久田さんが引き止めてくれたから。あれがなかったら俺、辞めてました。プロになんてなるチャンスもらえてませんでした」
「そんなこと、あったっけ?」
「えぇ!?あんなに俺にやめとけって言ってくせに覚えてないんですか?俺にとっては大事な思い出なのに」
「そうだっけ?」
 そう言いながら、覚えていた。去年の春の話だ。高校三年になる去年の春休みに、健斗は俺にサッカーを辞めるって言った。だけど俺は辞めるなって言った。それはいつでもできるから。続けるのが大事なんだよ。好きなことなら尚更だ。そんなことを思い返しながらハサミを健斗の髪に入れていく。好きだから辞めなかったし逃げなかったんだ、俺もこの仕事から。
「それでさ、佐久田さん」
「ん?」
「今から予約入れときたいんだけど」
「予約?」
「どこかのチームと契約出来たとして、それから先の話なんだけど」
キラキラした笑顔の健斗に、俺は笑って頷いて見せた。
「レギュラーで試合に出れるチャンスが来たら、お願いがあるんだ」
「おう。どういう?」
「前に佐久田さんがやってたあの金髪のヘアスタイルにしてよ」
「は?」
「なんかこっちの店に来てから、佐久田さん短髪だし黒髪になっちゃったけど、俺佐久田さんのあの金髪のヘアスタイル好きだったんだ。前に真似したいって言ったことあったでしょ?」
「あぁ、あったかな」
「プロになってから金髪にしろって佐久田さんが言ったんだよ。学生のうちはやめとけって」
「そうだったっけ?」
「それで。試合に出れない間はこのまま。けど、レギュラーに入れたら。色、変えてよ。佐久田さん」
 ちょっと懐かしい話だった。前にそういう話をしたんだ、確かにさ。思い出して俺はクスッと笑った。
「それで、予約?」
「そう。今から予約。いいでしょ?」
「別にいいけど。そんな日が早く来たらいいな」
「当たり前だよ、過去最速でレギュラー取るよ!俺。だからいつでもスタンバイしといてよ、佐久田さん」
「任しとけ」
「いつか世界のチームでやれるようになれたらいいなって思って。がんばるからさ。それでも髪を切りにはここに来るから」
「マジで?」
「もうさ、小学六年の時から髪を切るのは佐久田さんしか無理なんだ」
「なんで?」
「願かけ」
「願かけ?なんだそれ」
「佐久田さんに髪を切ってもらった次の試合は必ずシュート決めれるんだ」
「なんだよ?知らないよ?そんなの」
「今初めて言ったもん」
 完全にハサミを持った俺の手は止まっていた。次のお客さまを案内しているミナちゃんも通りすがりにクスッと笑っていった。
「俺のサッカーと佐久田さんは切って離すことできないんだ。覚悟しといてよ」
「マジかよ」
 呆れるように健斗の髪をくしゃくしゃいじって、それからまたセットを始めた。照れくさかった。けど嬉しかった。そんな風に思ってくれるお客さまもいたのか、って。お客さまっていうか、友達っていうか、健斗は弟みたいな大事なやつなんだ。
健斗とそんな話をした日以降は冬の厳しさが増し、客足も滞るかと思っていたけれど、クリスマスに向けてなのか、年末ゆえの、なのか、忙しい日々だった。
「なんかすっごい寒波らしいですよね」
 ミナちゃんが今日のスケジュールをチェックしながらそう言った。
 ミナちゃんにも少しずつ固定客が増えて、オープンから半年弱、俺も従業員も新しい店にもだいぶん慣れた。半月ほど前から店にはクリスマスツリーが出されていた。雑貨&カフェのスペースも、クリスマスのオーナメントや雑貨を買いに来る客でそこそこ忙しい。どちらのスペースにも目をやらなきゃいけないこの仕事はなかなかにきつい。だからなのかよくわからないけれど、最近少しの空き時間なんかに、懐かしい出来事を思い出すことが多い。もう名前を呼ぶこともない彼女のこともさ。
 クリスマスってのは昔から苦手でさ。ましてや俺はキリスト教信者なわけでもないのにどうしてイエス・キリストの生まれた日を祝うんだ?なんて、ひねくれたことを中学生くらいの頃から思っていたような輩で。それでも子供の頃は、朝起きると枕元に置いてあるプレゼントに喜んだりしたこともある。専門学校に通ってた頃に付き合っていた彼女とはクリスマスを過ごしたこともあったけど、プレゼントとか選ぶのに散々困った。ネックレスとか指輪とか、そういう店にも入ったことないし。入る勇気なかったし。ふと店の中に流れるクリスマスソングを耳にしてそんなことを思った。平日だってのに、クリスマスの日は昼間っから混んでいて。みんなおしゃれしたいんだなって。いつもより詰め気味の予約リストに目をやると、ますます嫌になる。仕事が忙しいのはそれなりに良いことではるんだけどね。でもさ、俺はキリスト教信者じゃないからさ。他人の誕生日におしゃれしてどうすんだよ。
 なかなか休憩時間を取ることも食事を食べる時間も取れないまま時間が過ぎる。まぁいつものことなんだけどさ。忙しい日に食事を取れるなんて思ってない。気づけばいつも夜だ。陽が沈むのも早くなった。髪のセットが終わったお客さまも、着てきた温かそうなコートを身にまとって店を出ていく。あるお客さまを見送って店内に入って来た時に、ひと息つこうと思ったらミナちゃんたちがこそこそと話をしていた。
「おい、忙しいんだから喋ってないで動いてよ、ちゃんと」
「わかってますよ。それより店長、カフェですよ、カフェ」
「カフェ?」
 俺は何気なしにカフェスペースのほうに目をやった。五人座れるカウンターの二つと、三つあるテーブルの二つが埋まっている。カウンターはカップルだ。テーブル席の一つは女性二人で、カップを手に盛り上がっている。もう一つは女性が一人で座っていた。オーダーをしたところなのか、まだ何もテーブルにはなかった。
「坂口萌恵が来てるんです」
「え?」
 嘘だろ。なんでこんなところに萌恵が?だけどカフェスペースのスタッフも、ある席を見ながらこそこそと話している。一人で座っている女性客だ。俺からは後姿で顔が見えないんだ。長い髪の女性。薄手の柔らかいニットのワンピースを着ている。足元は、よく見えないや。ほっそりとした、背筋の伸びたその後姿。
「すごくないですか?店長。うちの店に芸能人来たのって初めてですよね」
 ミナちゃんは興奮気味に小声ではしゃいでいた。あ、そうか。ミナちゃんは萌恵がnuovoに来ていた頃のこととか知らないんだ。何をどうしていいのかわからずに困っていると、その女性客はカフェスペースを何気に見渡すと、サロンスペースのこちらに顔を向けた。萌恵だった。
 あれからもずっと、テレビでは時々見かけていた。それほどメディアには出なくなって、でももう彼女だって三十歳を超えた大人の女性で。ちょっとしたコメンテーターだったり、雑誌のコラムみたいなのだったり、仕事はしていた。もともと、頭がいいんだ、彼女は。いい大学出てるし。気にかけてないふりをして、やっぱり彼女のことはそれなりに気にはなっていた。その萌恵が、俺を見つけた。そして笑顔を向けた。
「え?店長、坂口萌恵、こっち見てますよ」
 ミナちゃんが焦って俺の背中を叩いたけれど、なんだか俺は落ち着いていた。ゆっくりと、萌恵のいるテーブルに歩み寄った。
「久しぶり、柊羽」
 そう声をかける萌恵と、そして微笑む俺を、スタッフたちはただ驚いて見ていた。何も言わずに俺は萌恵の向かいの席に座った。そうしたら萌恵は頬杖を付いた。懐かしい感じがする。お互い見た目はかなり変わったのに、この距離は変わらない。目の前にいるのは、まぎれもなくあの頃の萌恵だった。
「来ちゃった。招待状貰ってたから」
「招待状?」
 小さなバッグを開けると、萌恵は一枚のハガキを取り出した。
「DM?」
 それは、nuovo吉祥寺店がオープンする際に、店長が俺の固定客に送っていたハガキだった。
「今私あそこには住んでなくて。でも引き払ってはないから時々両親が足を運んだりしてるのね。そしたら届いてたらしいんだけど、私今年に入ってずっと海外にいて。この間初めて見たの、これ」
「そう」
 びっくりだった。まさか萌恵にも送っていたなんて。全て店長が準備をしてくれていたから、誰に送ったのかなんて知らなかった。
「店長になったんだよね、おめでとう」
「ありがとう」
「ねえ、柊羽」
「ん?」
「今すごく戸惑ってるでしょ。急に私が現れたから」
 また頬杖を付くと、意地悪っぽい表情で萌恵が言った。もう、そしたら俺はなんだか可笑しくなってきて、クスクスと笑うと萌恵も笑った。
「相変わらず、ストレートだな」
 そんな感じで話していたら、スタッフがホットティーを運んできた。
「お待たせしました」
 スタッフに軽く会釈すると、萌恵はカップが目の前に置かれるのをただ見ていた。雰囲気は変わらないのに、しぐさは随分大人の女性だった。
「結婚するんだろ、おめでとう」
「あぁ、うん。ありがとう」
 萌恵の婚約はメディアで知っていた。相手は海外で活躍しているIT企業の一般男性だ。知った時に思ったんだ、やっぱり萌恵には俺じゃない素敵な相手が待ってたんだ、と。
「ねえ、さっきの」
 そう言いながら萌恵は声を小さくして体を前に出すように俺に近づいた。
「これ運んできてくれた女の子って、柊羽の彼女?」
 そう言ってカップに添えた萌恵の手の、薬指にはきれいに光るダイヤの指輪があって。華奢なその指にぴったりで、なんだかちょっとせつなかったんだ。
「ねえ、違う?」
「え?」
 カフェスペースのカウンターのあたりに立ってこちらを向いている、一人のスタッフに目をやった。
「そうだよ」
「やっぱり。そんな気がした」
「なんで?」
「なんだかわかんないけど。感かなあ」
「怖えな、女の感って」
そう言うと萌恵はクスクス笑った。
「すっごい可愛い子。よかった、柊羽にも彼女がいて」
「まだ、付き合って浅いんだけどね」
「そうなんだ?」
 萌恵は俺の彼女に目をやると、笑顔でもう一度会釈した。彼女は照れるように小さく会釈すると、奥に引っ込んでしまった。
「どんな子?彼女」
「え?いいでしょうが、別にどんな子でも」
「ええ?知りたいじゃん。ねえ、性格とか、どんな?」
「どんなって。おっとり、してるかな」
「へえ、私と正反対」
「いや、似てるとこ、あるよ」
「そう?」
「うん。なんか、自分のことより相手のこと優先するとこ、とか。泣き虫なところとか」
「え?へえー、私ってそうかな?」
 萌恵はへらへら笑いながら紅茶を飲んだ。
「下手くそ」
「え?」
「図星だからって誤魔化すの下手過ぎ。それでも芸能人かよ」
「うるさいなぁ」
 そう言って俺を殴るふりをする。萌恵が変わってなくてよかった。元気そうでよかった。実は泣きそうだったけど、笑えてよかったよ、俺。
「せっかくDM貰ったから、これからはこのお店通いたいなって思ってるんだけど、いい?」
さっきまでと違って、そう聞く萌恵の表情はちょっと硬くって。あの頃別れたあと、店に行ってもいいのかと聞いたくせにどうして来なかったのか、そんな理由を聞く勇気もなくなってしまった。いや、そんなこと聞かなくていいや。
「もちろん、お待ちしております」
「ほんと?じゃあ、年明けにでも予約しちゃおうかな」
「ぜひ。ありがとね」
 萌恵の硬かった表情がしゅっと緩んだ。ほら、また、俺に気を遣ったろ、今。そういうとこも変わらない。懐かしくてちょっと笑えた。そしたらふと目に入った。サロンスペースでミナちゃんが必死に俺に手招きをしていた。そうだ、今日は忙しいんだった。
「ごめん、萌恵。ちょっと今日は忙しくて、俺はこれで」
「うん、ごめんね。忙しい時に来ちゃって」
「いいよ、また来て。楽しみにしてるから。予約入れといてよ」
「うん」
「じゃあ」
「あ、あの、柊羽」
 立ち上がって行こうとした俺を見上げるように萌恵が呼び止めた。
「ん?」
「私、夏にはお母さんになるんだ」
「え?」
「まだメディアには発表してないの。安定期に入ってからってことで身内しか知らないんだけど」
「え?」
 俺の視線はなんとなく萌恵のおなかのあたりを見ていた。妊娠、してるのか。
「柊羽には、伝えておきたくて」
「そう。おめでとう。祝い事だらけだな。体大事にして。じゃ、ごゆっくり」
 そう言って俺はにっこり笑うと、萌恵の肩にそっと手やり、そのままサロンスペースへ向かった。

 年が明けて少しして、萌恵は客として店に来た。今度はちゃんと、来てくれた。ってことはさ、俺は。萌恵にあの頃のことを許してもらえたって思っていいんだろうか。許してくれなんて言えないけれど。幸せになってほしいって願うくらいはいいだろうって思って生きてきたけど、これからは見守らせてもらっていいのかな。萌恵の新しい生活を。
 萌恵がクリスマスの日にカフェに来た後、古い友人だって話すとミナちゃんたちはかなり驚いていて、ちょっと俺の株が上がった感じだった。俺の今の彼女はカフェスペースでスタッフをしている。その彼女の玲以には、あの日仲良く話す萌恵とのことをかなり突っ込まれたけど、隠すことも嘘をつくことも何もない。前に付き合ってたって話をした。もちろん今はそれぞれ違う。お互いいろんなことがあって、俺にも、萌恵にも。今は玲以が俺の彼女だ。仕事と、恋と。それなりに両立できるようになった。いや、俺が勝手に思ってるだけで、周囲にはまだ迷惑かけてること山のようにあるんだろうけどさ。少しは変われたと思うんだ。守らなきゃいけないんだ、俺が守るべきものは。それが今の俺の、目の前にある生活のすべてだからさ。

アンコンディショナル・ライフ

重複掲載 : 魔法のiらんど

アンコンディショナル・ライフ

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 『 どうか素敵な恋を 』
  2. 『 彼氏と彼女の事情 』
  3. 『 そして僕はキスをする 』
  4. 『 Yell for 』
  5. 『 いもうと 』
  6. 『 ダブルブッキング 』
  7. 『 CHANGE 』
  8. 『 あの日の春 』
  9. 『 きらきら 』
  10. 『 忘れられない人 』
  11. 『 スタート 』
  12. 『 have confidence 』
  13. 『 アンコンディショナル・ライフ 』