モドリ
5月18日、僕とゆかは教会で結婚式を挙げた。
僕は26歳、ゆかは24歳だった。
披露宴では50名くらいの出席者が、僕達の門出を祝ってくれた。
ゆかは、両親に向けて手紙を読んだ。
僕は、皆の前で「ゆかを必ず幸せにする」と誓った。
幸せだった。
僕達の前途を遮るものなど、何一つないと思った。
僕が膵臓癌だと診断されたのは、それから22日後のことだった。
*
背中の痛みが気になって受診をすると、何度かに分けて様々な検査を受け、ある日の夕方、医大病院の医師から僕の携帯電話に電話がかかってきた。
40歳前後の男性医師は、神妙な声色で言う。「大事なお話があるので、ご家族と一緒に来院してください」と。
背中の痛みがあったことも、検査を受ける為、病院に通っていることも、誰にも話していない。
ゆかにも、両親にも。
僕は明くる日、一人で病院に行って、一人で医師の言う『大事な話』を聞いた。
話は簡単だった。
要するに、半年後には僕はこの世にいない。
僕は会計を済ませ、ふらふらと歩いて駐車場に向かう。
とにかく車で自宅へ帰ろうと思った。
道路は空いていた。上の空で運転していた。ふと、直線でスピードメーターを見ると、100キロを超えていた。
1時間程で自宅付近まで戻って来た。
近くのスーパーマーケットに立ち寄る。
ビール、日本酒、スナック菓子などで、籠がいっぱいになった。
1年ぶりに煙草も買った。
マンションに帰り、買ってきた物を片っ端から飲み食いする。
棚の奥から灰皿を引っ張り出してきて、家の中で煙草を吸う。
500mlの缶ビールを2、3本飲み終わる頃には、すっかり酩酊していた。
僕はソファに倒れ込み、ぐるぐる回る意識の中でゆかのことを考えた。
――僕はゆかを幸せにできない。
日に日に死に近づいていく僕を看病し、半年後には未亡人になる。
ゆかの人生はいったいどうなる?
僕と結婚したが為に、若く美しい彼女の人生が台無しになってしまう。
こうなることがわかっていたなら、結婚などしなかった。
結婚していなければ、ゆかが不幸になることもなかったはずだ。
結婚する前に戻れたら……。
僕の意識は何かに吸いこまれるように遠のいていった。
僕は夢を見た。
夢の中で、僕はバットを振り回していた。
家の中にある、あらゆる物をそれで破壊していく。
僕は鬼のような形相をしていた。
ゆかは、台所の隅でうずくまって泣いていた。
現実世界の僕の意識が夢の世界に割り込んで、『ゆかにだけは絶対に危害を加えるな!』と叫んだ。
すると、夢は逃げるように去って行った。
そして僕は目を覚ました。
Tシャツの襟元が汗でぐっしょり濡れていて冷たい。
カーテンの隙間から陽が射しこんでいた。朝の陽射しだ。
ベッドから体を起こすと、頭痛がした。二日酔いだろう。
ぼやけた視界がだんだんと鮮明になっていく。同じように頭脳もゆっくりと回転を始める。
そしてようやく僕が今いるこの部屋が、昨日いたあの部屋ではないことに気付く。
……いったい、何故ここにいる?
僕は、部屋の様子を慎重に確認する。
カーテン、壁掛け時計、テレビ、座卓。
書棚は空で、部屋の隅には組み立てられた段ボール箱がいくつか積まれている。
――ここは、結婚前に僕が独り暮らしをしていたアパートだ。
僕はベッドを出る。
ドアの郵便受けから新聞を引き抜いて見る。
テレビをつけて朝のニュース番組に合わせる。
ベッドの枕元に置いてあった携帯電話の日付を確認し、今日が5月10日に間違いないことがわかった。
引っ越しの準備を進めていた時期なので、段ボール箱が積まれているのだ。
ここが夢の中だと証明できるものは何一つ見当たらなかった。
紛れもなく現実の世界だ。
願いは叶えられた。
僕はゆかと結婚する8日前に戻って来ることを許された。
ゆかに別れを告げなければならない。
迷いはなかった。その為に過去に戻ったのだから。
今日は5月10日の土曜日……。僕は『1度目の今日』のことを思い出した。
念の為、座卓に置いてあったスケジュール帳を掴んで開く。
5月10日のスケジュール欄に「10:00式場」と書いてあった。
今日は結婚式場との最終打ち合わせの日だった。
あの日ゆかは9時頃に僕のアパートに来て、一緒に車で出かけた。
僕は慌てて壁掛け時計を見た。それとほぼ同時に、インターホンが鳴った。
8時55分だった。
僕は玄関のドアを開ける。
僕がゆかの姿を捉えると同時に、ゆかが中に駆け入って、僕に抱き着いた。
駆けた勢いがあったので、僕は後ろに倒れそうになるのをよろけながら堪えた。
ゆかは両腕で苦しいほど僕を締め付けた。肩が震えている。
――泣いている?
『1度目の5月10日』に、こんな出来事はなかった。
ゆかは「おはよう」と言って、微笑んでいたはずだ。
僕は「どうしたの? 何かあった?」と訊いた。
すると、ゆかは両腕を解いて、僕を突き放すようにして少し離れた。
次の瞬間、ゆかの掌が僕の左の頬を打った。
僕は驚きのあまり呆然とする。
ゆかは、ぽろぽろと涙を流しながら叫んだ。
「永瀬君! 私を見くびらないで! あなたと死別したからといって、私は不幸に飲み込まれたりはしないわ!」
死別? どういうことだろう?
僕は、絡まった時の流れを整理してみる。
背中の痛みに耐えきれず受診したのが、結婚して8日後の5月26日。
癌だと診断されたのが、それから14日後の6月9日。
今日は5月10日。
僕はまだ医師の診察すら受けていない。
つまり、僕自身も知らないはずの病気を、ゆかが知ることは不可能だ。
僕のように、未来を知るものでない限り……
僕は、とにかくゆかを部屋に招き入れてから尋ねる。
「僕と死別するということ?」
ゆかは涙を拭おうともせず、鼻水を啜って、こくりと首を縦に振った。
「何故、そう断言できるの? ほら、僕は元気だよ」
と、僕は両手を広げて見せる。
するとゆかが呟くように言う。
「嘘」
そう言ったゆかの瞳は、まるで何もかもを見透かしているような迷いのない輝きを放っていた。
ゆかは言う。
「あなたは今日ここで、私に別れ話をするの。『他に好きな人ができたから分かれてくれ』って言うのよ」
確かに僕は別れの理由に『他に好きな人ができたからだ』と告げるつもりだった。
ゆかの言う通りだ。
僕は恐る恐る訊く。「『今日の出来事』をまるで『過去の出来事』のように話すんだね」
ゆかは黙り込む。
しばしの沈黙の後、ゆかが口を開く。
「とても不思議なことが私の身に起こったの。……私、未来から過去に戻って来たみたい」
僕はただ黙って続きを待った。
するとゆかは「驚かないのね。こんな突拍子もないことを言っているのに……」と訝しげな表情をした。
「驚かないよ。僕は誰にも病気のことは言っていない。だから5月10日の今日この日に、ゆかがそのことを 知っているはずがないんだ。――未来を知るものでない限りね」
ゆかは、また涙を溜めていた。
僕は訊く。
「今日、僕たちは別れた。そして数か月後に僕は死んだ。そうだね?」
彼女は、苦しそうに頷いた。
その拍子に涙が幾粒もこぼれた。
「僕の病気のことは、僕の死後に母から聞いたんだね」と僕は確認する。
ゆかは「うん」と言って頷く。
そしてゆかは続ける。
「私、あなたに対して腹が立った。猛烈に、あなたを叩いてやりたかった。だから、別れを告げられたあの日、5月10日に戻してほしいと祈りながら眠ったの。そしたら……目が覚めたら……」
ゆかが心配そうに僕を見上げる。
僕は言う。「願った通り、今日に戻っていたんだね」
ゆかは安心したように微かに笑った。
未来は3度も繰り返されたことになる。
1度目の未来では、二人は結婚する。そして結婚後に僕の癌が見つかる。
2度目の未来では、二人は別れた。これは、1度目の未来から戻った僕の仕業だ。ゆかは僕の死後に僕の病気のことを知る。
そして今、僕がいるのは3度目の未来。これは、ゆかが2度目の未来から戻ったことによって存在する世界だ。
僕は、ゆかが与えてくれたこの世界を、この現実を、愛おしく思った。
僕はティッシュペーパーを2枚抜き取って、ゆかに差し出す。
ゆかはそれを受け取り、涙や鼻水を拭う。
僕は壁掛け時計に目をやってから言う。
「そろそろ行こうか。式場に」
モドリ