ミラージュファイト・リングリング

ミラージュファイト・リングリング

 学園サスペンス、ミラージュファイト、全3部中の2部です。

第一章~カニ社会における、名誉と地位の確立だとか

♪「リカちゃん軍団のテーマソング」by Raptorz
(作詞・歌:橘綾/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲:真樹卓磨(B))

 変身完了5秒前!
 遂に目覚めるスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

 邪悪な奴らが降りて来る
 僕らの街が狙われる
 みんなの希望が 消えて行く
 黒い叫びが耳を打ち
 破壊の闇が現れた(無へ帰るのだ)

 スーパーヒーローなんていないというが
 ここにいるから安心しろよ

 実は俺たちスーパーヒーロー!
 悪と戦うスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

 閃け!(ハーモナイズ!)
 超絶テレキャスター!
 響け!(オーバードライブ!)
 完全レスポール!
 轟け!(ディストーション!)
 最強ストラトキャスター!

 スーパーヒーローなんていないというが
 ここにいるから安心しろよ

 彼らが来るならもう大丈夫
 世界の平和は彼らが守る
 全ての人らの平和を守る

 変身完了5秒前!
 遂に目覚めるスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

「リカイエローが俺だというのはナイショだから
 そこんところ ヨロシクベイビー!」

(――第十回、私立桜桃学園文化祭ライブより)


 六月中旬、梅雨。
 私立桜桃おうとう学園高等部1‐Cの教室後方での昼食の際、速河久作はやかわ きゅうさくの親友、須賀恭介すが きょうすけは「社会とは、自分を含めて三人以上の血縁者以外の集団である」と定義して「社会とは一つの生物だ」と断言した。
 すなわち、速河久作と、当人の須賀恭介、そして須賀と小学生からの仲であり、今では久作の親友でもある方城護ほうじょう まもるの三人は、友達仲間でありクラスメイトであり、同時に、一つの生物でもある、というのが須賀の主張であり、結論だ。
「生命とは何か?」という問いに明確な答えを出せない現代科学において、それは未だに哲学者や詩人の手の内にあり、生命を有すると言われている生物もまた、発明家やマッドサイエンティストの手の内にある……という、やたらと難しい前置きをしてから、橘絢たちばな あやは、カニクリーム・コロッケを半分に割って口にパクリ、「肉体は魂の器に過ぎない」というニーチェの言葉を持ち出した。
 ならばそのカニクリーム・コロッケは、日本海か太平洋かどこだか知らないが、そこの海にいたカニの魂の抜け殻であり、それにクリームの衣を乗せて綺麗に揚げられ、橘絢の小さな弁当箱を彩り、持ち主であるアヤを満面の笑みにさせているということだろう。つまりは、魂の器に過ぎないカニクリーム・コロッケでアヤは大喜びしており、ならばアヤを笑顔にさせたカニの魂の存在意義とは何なのか? という命題が久作の頭に浮かび、また、カニの社会において、クリームコロッケにされるということはどういうことなのか、という問いも浮かぶ。
「いい質問だ、速河。どこかの海の殖産会社傘下にあるカニ社会において、アヤくんの昼食や夕食のランキングに特別な意味があると仮定すると、そこで半分に割かれているカニは、相当の名誉を得ていると言えるだろう。たとえ、もはやカニかどうかすら解からない状態であろうと、彼だか彼女だかは、おそらく所属していたカニ社会において、料理の味にうるさいアヤくんを喜ばせることができた、という大変な快挙を成し遂げた、いわば英雄であり、カニ史上に名を残すに違いない」
 そうだそうだ、とアヤはうなずきつつ、その栄誉あるカニクリーム・コロッケを飲み込んで、隣に座る加嶋玲子かしま れいこに同意を求めて水筒からお茶を注ぎ、ずるずると音を立ててすすった。
「アヤちゃんのカニがスゴいカニさんなら、私のこのオニオンサラダもスゴい人かもしれないね?」
「いや、なんつーのかな? カニもなんだけどよ、サラダって人か? オニオンってのは、タマネギだよな?」
 加嶋玲子がフォークで持ち上げたオニオンサラダを、方城護が不思議そうな顔でみつめて、もっともな質問を久作と、その前方に座る橋井利佳子はしい りかこに向けた。久作の頭の中では、手足の生えたタマネギがレイコのフォークを握って、アヤの弁当箱から出てきた名誉あるカニに対して、なにかしら抗議のようなことをしていた。
「……あのね、須賀くんとアヤの考えてることは、まあ解からなくはないんだけど、さすがにもう頭が付いていかないから、話題を戻さない? ねえ、久作くん?」
 橋井利佳子が、心底疲れたと、その長い黒髪をかきあげるしぐさで訴え、久作は我に返った。
「そうだね。アヤちゃんの弁当の全部が、プラトンだかソクラテスだかの題材に見えてきた。自分が何を考えてるのか、もう解からないや。つまり、僕の日常っていうのはこんな感じに、結構忙しいんだよ。えーと……」
 久作がその尖った目で一人の女性のおでこの辺りを捉える。その視線に気付いたのか、バシャッ! とフラッシュの音がして、デジタルカメラが光った。
「桜桃学園広報部の、奈々岡ななおか鈴すずです。あ、あんまりカメラ意識しないで下さい。自然体じゃないと臨場感が出ないんです」
 バシャッ! 再びシャッターが切られる。カメラに興味のない久作は、その一眼レフと呼ぶのか、レンズ部分が突き出したカメラから放たれるフラッシュに顔を背ける。カメラの知識は全くないが、それにしてもフラッシュの音は、とても現代的とは思えない。奈々岡と名乗った女性の持つ一眼レフは、十九世紀頃の、あの、ボンと爆発する白熱球を連想させる。
「いや、えっと、奈々岡さん? 意識するなって言われても、僕はカメラっていうのがどうも苦手で――」
 ババババッ! 奈々岡の一眼レフが連写モードに切り替わったらしく、久作の表情がコマ送りのようになり、デジタルメモリーに次々と保存されていく。
「ねぇ、奈々岡さんだったわよね? 久作くん、困ってるじゃあないの。そのカメラ、止めて――」
 ババババッ! 久作を代弁するように立ち上がったリカがコマ送りになる。
「ちょっと! 話くらい聞きなさいよ!」
 1‐Cのクラス委員、という肩書きは関係ないが、温厚で冷静、クラスを問わずの女性陣に「リカコさん」もしくは「リカちゃん」と呼ばれ慕われる橋井利佳子が、軽く怒鳴った。冷静といえば須賀恭介の代名詞なのだが、対外的には須賀に匹敵する冷静さを持つとされている(実は違うのだが)リカを、ものの数秒で怒鳴らせる。奈々岡鈴という女性とその手にある一眼レフは、なかなかのコンビのようだ。久作は少し感心した。
「ちゃんと聞いてますよ、リカコさん。うわ、さすがはミス桜桃の二冠、もうベテランモデルみたいですね? あ、視線こっちに下さーい」
 バシャッ! なおも抗議するリカの険しい表情が、デジタルメモリーに保存される。滅多なことでは怒らないリカなので、その一枚は案外、貴重かもしれない。一眼レフのピントが自分から離れた隙に、久作はそんなどうでもいいことを考えていた。
「だーかーら! あたしたちってば、スゲー忙しいんだってば! 生命倫理に関する考察とか、カニ社会における名誉と地位の確立だとか、学生としてやるべきことが山積みで、毎日毎日こうやって頭つき合わせてディスカッションをしてんの!」
 冷静なリカに対して、殆ど直情的ともいえるアヤが、イライラを通り越した大声を奈々岡の頭にぶつけると、バシャッ! とフラッシュがたかれた。
「あららー? アヤちゃんって何だか小さくて元気な小学生みたいなイメージがあったのだけど、ファインダー越しで見ると、かなりイケてるのね? その金髪も全然イヤミに見えないし、派手っぽいメイクも実際はクールに仕上がってて、こちらもさすが、ミス桜桃ってところかしら? でも、金髪を二つに束ねてるから、やっぱり何だか子供っぽいわね」
「初対面でアヤちゃんて呼ぶなー! んで、褒めたりけなしたりで、誰が小学生かー! 子供っぽいって、ウッセー! この髪型はカニ社会のステータスシンボルなんだよ!」
 弁当を投げ出して奈々岡に飛び掛ろうとしたアヤを、方城が後ろから羽交い絞めにした。もし方城がそうしていなければ、奈々岡はアヤ自慢の中国拳法で秒殺されていただろう。
 何といってもアヤは、流行の3D格闘ゲーム「ミラージュファイト」のキャラクターの一人、中国拳法の達人エディ・アレックス使いで、学園内外で完全無敵なのだから。「エディ・アレックス使いのアヤ」というだけで桜桃学園近郊で通じる、それくらいに強くて有名……まあ、実際に何かの技が使えるかどうかは別だが、少なくともアヤの、その言動からは想像できないほど卓越した頭脳を持ってすれば、案外、中国拳法の奥義の一つや二つくらい、出てきても不思議ではない。
「その、カニ社会? 何だか難しい話をしていたみたいだけれど、それはともかく、アナタが方城くんよね? ……大きくて二枚目! それでいてバスケ部のエースって、アナタ、男子が欲しい要素を全部集めたような人ね? モテるでしょう?」
 バババッ! 方城の鋭い顔付きが明滅する。しかし方城は、久作やリカとは違って、そのフラッシュを特に嫌がっている様子はない。
 さすがは一年にして桜桃学園高等部バスケ部のエース。「桜桃のスコアリングマシーン」ともなれば、対外試合、地区予選だとかインターハイ予選だとかがその舞台であり、カメラのフラッシュなど慣れっこなのだろう。学生バスケット雑誌に方城の記事が写真付きで掲載されることは珍しくもなく、方城は何というのか、場慣れしているのだ。
「ああ、俺が方城だよ、えーと、奈々岡さんだっけ? 俺がモテるかとか、そーいう話だったらいくらでもしてやるからさ、速河とかリカにカメラ向けるの、ちょっと止めてくれよ。何だか知らねーけど、アンタ、話を聞きたいとか言ってたろ? 俺は慣れてるけどさ、みんなはそーやってフラッシュまみれの中で話すなんての、慣れてないんだよ、解かるだろ? アンタもカメラマンならさ?」
「ふーん、さすがはエース、ディフェンスも完璧ってところかしら? まあ、確かにあなたの言うとおりかもね。一通り撮り終えたから……」
 膝を突いていた奈々岡はゆっくりと立ち上がり、片手でスカートを整え、ようやくカメラから顔を離した。脇においてあった四角いカバンの上に一眼レフを丁寧に置き、ハーフフレームのメガネの中央を中指で、くい、と上げる。
「撮影はまた後でいいとして、まず、「アンタ」じゃあなくて、奈々岡ななおか鈴すずよ、方城護くん?」
「スズ?」
 方城に対して発した科白に、久作は思わず反応した。しまった、と思ったが、時、既に遅し。
「速河久作くん、よね? そう、スズっていうのが私の名前。珍しい? 古風? 変わってる? 十六年近く言われ続けてるからどーでもいいのだけれど、キュウサクっていう名前も随分と古風だと、私は思うけど?」
「いや、あの、そういう意味じゃあなくて……」
「いいの、言ったでしょう、もう慣れてるから、久作くん」
「ちょっと!」
 ステレオで声が上がった。リカとアヤが同時に、左右から発したのだ。
「リンリンのスズちゃん! 初対面で久作とか呼ぶのは、あたし反対だぞ! 馴れ馴れしい!」
「……以下同文」
 アヤが全て言い切ったので、リカは一言だけで引っ込んだ。
「同学年なんだからいいじゃいの。それでね、久作くん――」
 さすがはカメラマン、いや、ライターだったか。奈々岡鈴はリカとアヤの抗議を適当にあしらい、自分のペースを全く崩さない。いつの間にか椅子を手繰り寄せて座ってさえいる、久作の真正面に。

 奈々岡鈴。
 私立桜桃学園広報部に所属と名乗った同学年の女性は、1‐Aに在籍しているらしく、昼食が始まって五分ほどした頃に突然、久作たちの前に現れた。
 ハーフフレームのメガネが知的な印象を与えるが、顔立ちは同じく知的なリカよりも、どちらかといえば愛嬌溢れるレイコに近いかもしれない。すっと通った鼻筋の上、大きな瞳は濃紺で、まるで彼女が持つ一眼レフのようだったが、常に少し眠そうに半分閉じていて、その上にハーフフレームが重なるので、整った顔立ちなのだが瞳に存在感がない。ハーフフレームがまるで両目の代わりのようにアピールしている。まあメガネというのは本来そういった役目の道具なのだが、奈々岡鈴の場合、そのオレンジの、下半分だけのフレームのメガネが、まるで身体の一部のように見えた
 リカが腰まである黒いロングヘア、アヤが二つに束ねた金髪、レイコが耳を少し覆う淡いブラウンのショートボブなのに対して、奈々岡鈴はそのどれでもなかった。染めるでもない髪の後ろ半分をぐっと一つに束ねて垂らし、残り半分は顔の前にカーテンのような格好である。
 プロファイラーが仮に奈々岡鈴と対したとすると、彼女の心理を読み取るのはなかなかに困難かもしれない。
 瞳を、まぶた、ハーフフレーム、前髪と何重にもカヴァーされており、しかもその最前部にあの大きな一眼レフが重なれば、もう奈々岡の表情は読み取れないだろう。
 身長はリカとアヤの中間ほど、つまり、レイコと同じくらいだ。そして、体型もレイコにかなり似ていた。桜桃学園女子のブレザーは元々スカートが短くデザインされているのだが、そこから、綺麗なラインがスニーカまで伸びている。レイコのそれは中等部陸上でシェイプされたものだが、奈々岡も何かしら運動でもやっていたのかもしれない。もしくは、広報部というのは想像よりも肉体労働なのか。
 久作が、かなり無遠慮に自分たちのところに割り込んできた奈々岡鈴に気を許したのは、彼女の左手に、やたらとゴツいミリタリーウォッチが付いていたからだった。
 Gショック風のデザインだが見たことがなく、明らかに軍用モデルの廉価版だった。色こそハーフフレームと同じオレンジだが、耐圧、耐ショック、硬質ガラスに視認性と、腕時計にあるべき機能だけを集約した、そんな腕時計は、久作の趣味と見事に一致した。
 趣味といっても、久作にはコレクター気質のようなものはない。ただし、ある何か、例えば腕時計などに「機能美」を強く求める嗜好が久作にはあり、女性には到底似つかわしくない軍用の腕時計は、奈々岡鈴のトータルファッションを崩してはいたが、久作の気分をほぐすには十分だった。
 ミリタリーデザインの腕時計を女性が付けることはそれほど珍しくもないだろうが、ある女性を容姿だけで判断するときに、髪型だとか胸の大きさだとかではなく、腕時計から見てみると、奈々岡鈴という女性はまるで機能美の塊のような印象を久作に与えた。
 足元の履き古したスニーカや、あの一眼レフ。ハーフフレームや髪型まで含めて、奈々岡鈴は広報部の作業に必要なものだけを集約しており、当然、腕時計は日時や曜日を持ち主に正確に伝えるツールであり、そこに彼女はファッション性ではなく、精度や耐ショック性能、頑丈さといった機能を求めた。
 全て久作の洞察による想像だが、そういった人物だからこそ、アヤのアサルトライフルトーク(マシンガントークよりも殺傷能力が高い、アヤのハイスピードな会話)を器用にかわせたのだろう。
 初対面でアヤのアサルトライフルをかわせる人物が、まさか桜桃学園の同学年にいるとは思わなかった。この点も、久作が奈々岡鈴に対して、ぼんやりと興味を示した部分でもあった。
 が、しかし……。

「――だから、そのカニ社会における優位性と、社会生物の定義っていうのは、私には全くチンプンカンプンで、ついでにどうでもいいことなのよ」
「リンリンにゃどうでもよくても、あたしと須賀恭介と久作とリカちゃんと……つまり! あたしらリカちゃん軍団にゃ、とーっても重要な話なの!」
 久作と須賀恭介、方城護。そして、橋井利佳子、橘絢、加嶋玲子、通称「リカちゃん軍団」の三人が昼食を始めて、アヤがミラージュファイト2の話、つまり雑談をしているところに突然フラッシュがたかれた。
 皆がリアクションを取るより先にフラッシュの後ろから奈々岡鈴が現れ「取材に来ました!」と言った直後、須賀がそれまでのゲーム話を押しのけて、いきなり意味不明な会話を始め、アヤがそれに難解な相槌を打ち、会話に全く付いていけなくなった。それが一種の「ジャミング(妨害)」だと気付くのにかなりの時間がかかった。
 つまり須賀は、この奈々岡鈴という女性が、自分にとってどうにも邪魔な存在だと気付き、会話によるジャミングを行ったのだ。
 途中から聞いただけでは全く意味が解からない何やら難しい会話は、実際は、須賀以外の人物には全く無意味な言葉の羅列であり、会話の当事者である久作でさえ、意味が解からなかった。ここに初対面である奈々岡鈴が入ってくるのは不可能であり、須賀のジャミングは見事に成功した。
 それと同時に須賀は、アヤと連携してジャミング電波を強くした。我々はこのように忙しく、アナタに関わっている暇はない、と。
 それは同時に、昼休みにいきなりフラッシュを向けられた須賀からの、皮肉たっぷりの反撃であり、アヤが、カニ社会がどうのこうのと言っているが、実はそんな話には誰も興味はないのだ。
 いかにも須賀らしい、久作は素直に感心した。
 須賀によるジャミングのお陰で、奈々岡鈴のインタビュー(と本人が言っていた)は一ミリも進まず、初対面からかなりの時間が経過している今でも、まだカニだ何だと意味不明な会話が続いている。そしてジャミング電波を放った当人、須賀恭介はというと、のんびりと昼食を取り、アヤと奈々岡鈴の、全く中身のない抗論をBGMに、方城やレイコと別の雑談をしている。
 完全に投げっぱなし、興味の対象以外は全て舞台のセットやエキストラだという、須賀のシンプルな思考パターンである。

「なあ速河。この『岩石と鉱物の写真図鑑』に、ああ、先週、近所の書店で偶然見つけて、気まぐれで買っただけだが、これにバースストーン、いわゆる誕生石が掲載されていてな。俺はそういうものには興味がなかったんだが――」
「私の取材は桜桃新聞の製作の一環で、今回の記事はとてもとても重要なの。桜桃学園史に残るくらいに」
「へー、須賀くんて、鉱石博士さんだったのね。私は九月生まれなのよー。誕生石ってナニナニ?」
「カニ社会史は差別と偏見で溢れかえってて、それをみんなは無視している! こんな人権、いや、カニ権を無視した状態が放置されてもいいと、リンリンは言うのかー!」
「誕生石って? 石に誕生日でもあんのか? 年輪とかみたいな?」
「だからね、アヤちゃん。私だってその、カニ権? それも重要なのかもしれないって思うけれど、今はカニよりも久作くんのことを記事にしたいの」
「年輪? 方城、お前はそうだから軽薄に見られるんだ。まあ誕生石を暗記しておけとは言わんが、そういうものがある、くらいの知識は入れておいたほうがいいぞ。星座や血液型と同じくで、女性はこういったことを気にするらしいからな、だろう? レイコくん?」
「速河久作はまだ迫害されてないから後回しでいいの! カニ社会はいまや崩壊の危機に瀕してる、とーってもピンチな状態で、報道関連の人間だって言うんなら、世界平和のためにカニ権を徹底取材すべきだろー! ジャーナリズムは死んだのかー!」
「ねねねー、私の誕生石はドレドレ?」
「ジャーナリズムが死んでいないからこそ、こうして私がここにいるんじゃないの。私は広報部の一員で、ライター兼カメラマン、れっきとした報道人間よ? その、カニ権というのは今日始めて聞いたから、そこは何というのか勉強不足だったと素直に認めるけれど」
「レイコくんは九月、えー、サファイアとアイオライトか。ほぅ、サファイアはモース硬度が9もあるそうだ。ダイヤモンドの次の硬度とは、なかなかにレイコくんらしいな。もう一つのアイオライトというのは、別名ウォーターサファイア。色などがサファイアに似ているが高価な取り引きがないらしいから、それほど希少ではないのだろうな」
「勉強不足だって気付いたなら、今すぐカニ社会史と現状を徹底取材して、桜桃新聞の一面から十三面まで全部使って、その問題点と改善法、未来のカニ社会のあるべき姿と現時点で取り組むべき課題をきっちりと学園全体に報じろ!」
「ねぇ」
「それは、まあそれほどカニ社会とカニ権? それが深刻かつ報道に値するのなら、いずれはするけれど」
「須賀、俺の誕生石って何だ?」
「いずれいずれってのがマスコミの悪いところなの! 報じるべき時に報じる! 時間は常に流れてるんだよ!」
「お前の誕生石など知るか。どれ……アンケライト、これでいいだろ? モース硬度3だ、お前にはこれで十分だ」
「……ねえってば!」
 リカが大声をあげて、ようやく全員の会話が止まった。いや、そもそも会話になっていたか怪しいのだが、とにかく助かった。
 須賀とレイコと方城、そしてアヤと奈々岡鈴の丁度中間に座っていた久作は、二ヶ国語放送のような状態で、二つの会話を同時進行に聞いていて、何が何だか解からなくなっていたのだ。
「ん? どーした、リカちゃん? 昼休みはまだ終わってないぞぅ?」
「リカくんは何月生まれだったかな?」
「久作くんもだけれど、リカコさんも私の取材対象なの、良かったら少し話を……」
 アヤ、須賀、そして奈々岡鈴が順番にリカに言い……リカがキレた。
「この……カニミソ軍団! レイコ、方城くん、久作くん、図書室にでも行きましょう! こんな騒がしいんじゃ、疲れてたまらない!」
 リカは返事を待たず、久作を椅子から強引に引き上げ、方城の腕を取り、教室後方のドアに向かった。
「サファイアな私、出発ー!」
 その後をレイコが跳ねるように追い、ドアが閉まると、1‐Cは静かになった。つまり、それまではとんでもなく騒がしかった。
「……あー! ほら見ろ! リンリンのお陰であたし、カニミソ扱いじゃねーか!」
 アヤが、状況を遅ればせで理解して、飛び跳ねる。二つにした金色の髪がふわふわと揺れ、どうしてくれるんだ! と奈々岡に抗議していた。
「私のせいなの? 私は取材に来て、その取材すらロクにできなかったのよ? 怒らせたのは、アナタ! そう、須賀恭介くん、アナタがアンケライトだとか何だとか言ってたからでしょうに!」
 ハーフフレームに指をやり、奈々岡は須賀を前髪越しににらみつけた。
「きみがどう思ったのかは知らんが、俺は俺が喋りたいことを喋っていた、ただそれだけだ。責任転嫁されても構わない。何故なら俺には何も責任がないからな。リカくんの怒りの原因は、きみなんじゃないか? えーと、マスコミくん?」
「奈々岡鈴よ! こんな変わった名前、どうして覚えられないのよ! アナタ、学年成績一位でしょう?」
「はん! 自分で自分の名前を変わったものと宣言する人物を、俺は始めて見たよ。ナナオカ・スズくん、確かに珍しい氏名だ。そう、名前もだが、姓もかなり特殊だ。覚えておこう。もしかすると民俗学か何かの役に立つかもしれんからな、奈々岡くん」
「こんなの、リンリンでいい!」
 アヤが須賀の後ろに下がって、頭をひょいと出し……あかんべー。
「こんなの? アナタこそ、カニミソで十分よ!」
 バシャッ! いつの間にか奈々岡の手にあった一眼レフが、アヤのあかんべーを捉えた。これが貴重な一枚かどうかは、はなはだ疑問ではあるが……。

第二章~無敵の魔女……露草を形容するとしたら、案外こういった感じかもしれない

「はっはっは! リンの奴、今度は速河に目ぇつけたんかいな? 自称ジャーナリストいうんも、案外ダテやないんやな?」
「どこがジャーナリストですか! あれじゃ単なるパパラッチよ!」
 リカが大声で返すと、ぷかぷかと浮かぶ紫のわっか、煙草の煙がゆるりと方向を変えた。
 先の、奈々岡鈴とのやり取り、というのか怒鳴りあいをリカから聞いた露草葵つゆくさ あおいは、再びからからと笑った。特に面白い話でもないと思うのだが、露草の笑いのツボなど、そもそも久作は知らない。
 知らないといえば、図書室に向かっていたはずの自分たちが、どうして露草葵の保健室にいるのか、である。
「速河は、桜桃新聞のリンの記事、読んだことあるんか? リンはあんな奴やけどな、文才いうんか、記事はなかなかやで?」
 露草がリン――奈々岡鈴のことらしい――彼女の広報部での仕事振りを簡単に説明し、ふぅーと煙草の煙を天井に向ける。リカがどうして図書室ではなく、ここ保健室に来たのか、少し考えると答えは単純だった。ここに露草葵というスクールカウンセラーにして保健体育の教員がいるからだ。
 保健室の主、露出の激しいファッションを白衣で隠し、メタルフレームを上下させる露草葵。二十六歳の彼女とリカや久作たちはかなり親しい。当然、アヤや須賀、方城も同じくである。そして、どうやら奈々岡鈴とも親しいらしい。
 自分も含めて、と久作は自身にきっちりと言い聞かせて、この保健室は「変わった生徒の溜まり場」になっているようだと思った。そうさせているのは他でもない、保健室の主、露草葵の人徳だろう。
 露草は教師としては相当に変わった人物である。
 容姿に関してはほぼ完璧。妖しく深い瞳は鋭く、それでいて優しい。
 紺色のストレートの髪の一部が常にシルバーのメタルフレームにかかっており、妖しさを倍増させている。白衣の下は決まって真っ白の半そでシルクシャツと黒いマイクロスカート。どうしても視線がいってしまう胸と、同じくの脚線美。ピンヒールまで伸びるラインと、シャツのボタン四つを外しているそこのどちらに惹かれるかと問われて、どちらかに絞れる男性がいるとはとても思えない。
 久作は、メタルフレームか、それと同じ色合いのシンプルな十字架ネックレス、あるいは、常に口にある煙草、このどれかに視線を絞るようにしていた。そうでもしないと、露草の無言の魔力により、会話すらままならなくなるからだ。
 これで露草の頭脳が平均的な教師のそれであればバランスは取れていたかもしれないが、スクールカウンセラーで医師免許と臨床心理士の資格を持つものだから、同じ世代の女性教師は常に自分と露草を比べられているような錯覚に陥る……ことはない。露草がその博識ぶりを発揮することはほぼ皆無で、どちらかというとその逆の、気さくで開け放したような言動で教師、生徒を問わずに接しているからである。
 年配教師からは、ずぼらだとか手抜きだとか、ふしだらだとか言われているが、そういった評価も、露草葵が持つ棘のようなものを隠し、同世代教師の良き雑談相手として慕われていた。
 それらを露草が意図的にやっているかどうかは定かではないが、同じ態度を生徒にも向け、そして前述した容姿の完璧さが加わると、保健体育の教員にして保健室の主、露草葵は、私立桜桃学園という中高一貫のマンモス学園において、ほぼ無敵であった。
 ここまで完璧でありながら、更に露草は、通勤に古いイタリアンカフェレーサー「ラベルダ750SFC」を使い、トリコロールカラーのフルフェイスと革ジャケット、グローブを、保健室の片隅の骨格標本、名前をフレディ・スペンサーくんという彼に(男性らしい)着せていた。
 バイクにかなり興味のある久作は、露草葵を見るたびに、眩暈めまいで倒れそうになっていた。いや、実際に保健室のベッドに倒れていた。リカと露草がなにやら言い合っているが、久作の耳にはラベルダのエキゾーストが響いているので聞き取れない。
 久作にとって露草葵は、憧れを通り越して尊敬の対象となっている。自分なりに高等部一年にしてはなかなかの頭脳だと思っているのだが、露草葵のそれは久作のかなり先に位置しており、例えそれが年齢からくるものだとしても、同じ年齢になったとき、露草の領域まで自分がたどり着けるかと問われると、正直、返答できない。
 アヤや須賀恭介ならばそれは可能かもしれないが、あの二人は特殊すぎて全く参考にならない。
 二人とも気まぐれで、今でこそ学年成績の一位二位と並んでいるが、別のことに興味を持った途端、テストなどやっつけで適当に片付けると容易に想像できる。須賀ならば、日本史の解答欄にびっしりとラテン語を並べて教師をからかう、そんなことすらやりそうだった。
 つまり、と、久作は保健室のベッドに仰向けになったまま、声に出した。
「つまり、僕なんてごくごく平凡な、高等部一年生その一に過ぎないんだ。何か特殊な学問に精通しているわけでもなし。まあ、バイクには少し詳しいつもりだけど、それでも、マニアとかのレベルじゃあない。本当にありきたりな人間だよ。なあ、方城?」
 どこかにいるであろう方城に問う。非凡なバスケセンスを持つ方城。久作にとって方城もまた、露草に負けないほど特殊な人間である。
「え? 何? お前が平凡って? 何の冗談だよ、ソレ」
 桜桃のスコアリングマシーン、パワーフォワードでエースの方城は、久作の問いに否定的だった。
「久作くんは、かくとーかで、正義の味方なのねー」
 レイコの柔らかい声が聞こえた。イントネーションが妙だったので一瞬、何を言っているのか解からなかった。
「かくとーか? ああ、格闘家か。いや、だから僕はそういうんじゃないよ。ただ知ってる、知識だけで、方城みたいに日々トレーニングってわけでもない」
「それやのに、空手部主将を秒殺するんやから、しかもめっちゃマイナーな古流八極拳こりゅう はっきょくけんで。速河はやっぱ格闘家やろ? そないやからリンは速河に興味持って、記事にするとか言い出したんやないか?」
 露草が器用に会話に入ってきた。
「リン?」
「久作くんの記憶からはもう消えかかってるのね? 奈々岡鈴さん、パパラッチよ」
 リカからの助け舟で久作の脳裏に、あの一眼レフが蘇った。速河久作の最大最強の武器「桁外れの集中力」は、日常では殆ど役に立たず、どちらかというとコミュニケーションの弊害となっている。一つのことを考え出すと止まらないのだ。
「あの、リンさん? 彼女、インタビューとか言ってたよね? 僕とリカさんにって。それってやっぱり、先月のミス桜桃に関することなんだろうね。あれは何というのか、事件みたいなもので、警察も動いたし、今更掘り返すのはどうかと思うんだけど」
 久作は五月のあの騒動、ミス桜桃学園をぼんやりと思い返していた。
 リカ、アヤ、レイコが桜桃学園のミスコンテストで同列一位となり、それを裏で操っていた運動部連中と教師の一人の画策を、方城、須賀、そして久作が阻止し、以降半月ほど学園が大騒ぎとなった。
 それが報道に至らなかったのは、桜桃学園のマスコミ対策が厳重だったからだが、しかし教師一人が警察に連行されたという事実は、私立学園である桜桃にとって、汚名以外の何でもない。
 やんわりと緘口令かんこうれいのようなものが敷かれたが、いかんせん関係者が多すぎたので騒ぎが収まるまでに半月を要した。いや、たった半月で収まった、といっていいだろう。その事件に関わった教員が眼前の露草葵であったことが、おそらくそれを可能にしたのだろう。露草が事件当事者の一人で唯一の教員であり、彼女の言葉がそのまま事件の概要になり、そこで露草が、久作たちに負担がかからず、かつ事件を短期間で収束させるように情報操作をしたと考えるのが妥当だ。実際は数十人いたのだが、それを数人だったと露草が言えばそれが事実として認識され、それだけで事件の規模は、対外的には小さなものになる。
 露草の思惑と桜桃学園上層部のそれが合致し、全国報道になっても全く不思議ではないミス桜桃事件は、外部マスコミに漏れることなく、たったの半月で生徒の記憶からも消えつつあり、現在に至るのだ。
「ぼーっとするのは、かくとーかの精神集中、でしょー?」
 レイコの声に久作は驚き、またか! と舌打ちした。考え込む癖、これだけはどうにも治らない。
「いいんじゃねーか? 速河なりのコンセントレーションだろ、それ? 俺は試合前とかにコートを見ながらイメージトレーニングするんだけどさ、そうやって集中力高めとくと、試合で身体が自由自在に動くんだ。自分でも不思議なくらいにな」
「あー、わかるわかる! 私も二百を走るとき、そんなことやってたかも! ラストスパートで加速するんだよ、それで!」
 バスケ部の方城と、元陸上部のレイコの、運動部同士だからこその会話。久作は、そんなものかな? と思いつつ、そこで始めてレイコが二百メートル走選手だったことを知った。といっても、レイコは短距離と長距離の両方をこなすので、種目はもう一つ二つにまたがっていたのだろうが。
「でも、久作くん?」
 リカが何か質問しようとして、言葉を選んでいる。リカの部活動の経歴は知らない。
 茶道と華道と言われても驚かないが、それが弓道やフェンシングだとしても、まあ驚かないだろう。本の虫、理詰めで知的なハードボイルド探偵、須賀恭介が、実は中等部一年まで剣道部に所属しており、腕前が全国レベルだったという前例があるので、リカが実はボクシング部のハードパンチャーでしたと言ったとしても……いや、さすがにそれだと驚くだろうか。
「奈々岡さんが今になってミス桜桃を記事にするつもりだとして、それに何か意味があると思う? 彼女、言ってたでしょ? 「桜桃学園史に残る」だとか。私、どう考えてもあの事件は汚点にしかならいと思うんだけど、広報部というのは、そういうことやるのかしら?」
 リカの疑問はもっともだ。
 久作やリカ。いや、久作と須賀と方城に、リカ、アヤ、レイコの「リカちゃん軍団」の三人。全員の名前が学園中に知れ渡っているのは、ミス桜桃という事件で久作がそうなるように「戦術」を組んだからであり、仕方がない。しかしその知名度は良い意味で広まるように戦術に組み込まれていたので、実害は全くない。まあ、アヤが「また告られたー!」と久作に文句を言うことは何度かあったが、実害ではないだろう。単にアヤが方城や須賀以外の男子生徒を邪険に扱っている節があるからで、ここはもうアヤ個人の問題だ。
 そんなアヤと意味のない抗論をしていた、あの奈々岡鈴。彼女は、リカの言うとおりの言動を取っていた。
 奈々岡鈴がどういう人物なのか、何を考えているのかは、現時点では不明だ、当然だが。しかし、広報部のジャーナリストとしてインタビューに来たというのであれば、久作たちとの接点はミス桜桃事件しかない。しかも、単なる野次馬根性で掘り返すのではなく、桜桃新聞の記事にすると言っていた。そして、リカの繰り返しだが、桜桃学園史に残るとも。だが、こちらも繰り返しだが、あれは事件で汚点であり、学園にしてみれば校内新聞に掲載されることも、ましてや学園史に残すことも避けたいに違いない。
 そして、奈々岡が広報部の人間で自身をジャーナリストと呼称しているのならば、こういったことは周知のはずだ。
 いや、そうでもないか? アヤが抗論の途中に挟んだ「ジャーナリズムは死んだのか!」……これはカニ社会に関してだったが(カニ社会とは何なのかは全く解からない)。奈々岡鈴がジャーナリズムでも何でもなく、単なる野次馬レベルでミス桜桃を記事にしようとしている。同じ高等部一年だ、その程度だという可能性は大きい。
「つまり、あの奈々岡さんというのは、単に何か大きな記事を扱いたいと思って、そこであのミス桜桃を選んだと」
 久作の独り言。思考から溢れた言葉が自動的に口から出ているだけである。
「そらまー、リンを見ればそないに思うやろな、フツーは」
 露草が煙草を細い指に挟んで、紫のわっかをぷかりと一つ。
 それにしても、と、久作は思った。露草葵ほどの人物になると、ヘヴィースモーカーであることも、魅力の一つに見えてしまう。事務椅子にあるカラフルなマグカップの中身はコーヒー。糖分ゼロのブラック。露草のそばに置けば、量販店のマグカップですら歴史ある高価な骨董品に見える。
 ある人物の魅力は、一定量を超えると周囲に溢れ出し、その周囲にあるものにすら魅力を与えるのだろうか。もしくは、女性というのは元来、そういったオーラのようなものを身にまとう、男性とは違う生き物だということか。仮に露草が、今はおっている白衣ナシで桜桃学園の廊下を適当に闊歩すれば、それだけで全ての授業が止まるかもしれない、全員の視線を釘付けにして。
 無敵の魔女……露草を形容するとしたら、案外こういった感じかもしれない。久作の視線を捉える眼光には、明らかに非現実的な力が宿っている。
「速河? 何や? ウチの顔にご飯粒でもついとるか? ホレ、これ、桜桃新聞。ここんところにリンの記事が載っとるやろ?」
「リン、奈々岡さんの記事? 久作くん、どんな感じ? どうせゴシップなんでしょう?」
「っつーかさ、なんで速河は固まってるんだ? まだコンセントレーション中か?」
「かくとーかは、常に闘いに備えてアチョー!」
 ダメだ。ミス桜桃事件の時は事態が事態だったので保健室と露草葵の能力に助けられたが、特別何もない状態だと、どうしても露草に意識がいってしまう。
「この辺りも、僕が単なる高等部一年の男子生徒その一だっていう証拠なんだろうな……。で、頭のスイッチを切り替えて、これが桜桃新聞? 中等部の時にもあったような気がするけど、どうだろう?」
「速河は新聞読まないのか? 意外だな。お前のことだからこういうのはキッチリとチェックしてるもんだと思ってたけど」
 方城が、久作の学力、つまりテストの点数だが、それを思い浮かべてか、不思議だと言った。
「読まないよ。何ていうのかな、一方的な情報の押し付けっていうのに信頼を置いていないというか、そんな理由」
「何それ? 変なの。じゃあ久作くんはテレビも見ないの?」
 リカが、さほど重要ではないという声色で尋ねた。
「テレビは見ないね。特に報道関連は絶対に見ない。方城と知り合ってからスポーツ関連の番組は観るようになったけど、それ以外は全く。テレビ見るならまだ新聞を読み漁ってるほうがマシだと思う。理由は、えーと、須賀がいれば簡単に説明してくれるんだろうけど、スポンサード意向の情報操作の危険性? ……って、意味不明だね。この話は須賀と合流してからにしよう」
 続けると話が脱線しそうだったので、久作は言葉を切って、露草から渡された桜桃新聞に目をやった。
「スポンサード意向の情報操作? うん、全然意味が解からないわね」
 リカの頷いて新聞を見る。桜桃新聞は、一見するとコンビニなどに置いてある有名新聞のようだった。レイアウトだとかフォントだとかがきっちりと構成されており、とても学生が作ったものだとは思えなかった。ガリ版時代からやっています、といった雰囲気でデジタル処理された紙面は、「私は新聞です」と高らかに宣言しているようだった。
 奈々岡鈴の記事は、その一面らしい。記事の末尾に「奈々岡」とある、間違いない。幾つかの写真と、一面を飾る、なかなかに長い記事。読むのには少々時間がかかりそうだったが、内容がどういったものなのかは、その見出しで解かった。

「男子学生自殺の裏に、指導と称した体罰の影。教育倫理を問われる学園の本音と建前」

 久作の両目はその見出しで止まり、肝心の記事に進めなかった。
 桜桃新聞、これを作成しているのは広報部らしいが、何だ? この陰惨な見出しは? 久作の思考回路が切り替わる。
 煙草片手の露草が言う通りならば、この記事はあの一眼レフの女性、ハーフフレームの奈々岡鈴のものであり、つまり、彼女か、彼女を筆頭としたチームが追っていた事件だということだろう。
 リカの言うように彼女が単なるパパラッチで、記事もゴシップの類だとしても、この見出しとは全く繋がらない。ゴシップ記事の見出しにしては、リアルで、そして過激に過ぎる。皮肉屋の須賀でも、冗談でここまではやらない。この記事の見出しは洒落や冗談で書くべき文章ではなく、しかし、真相はともかくとして、奈々岡にとっては真実だったのだろう。
 そして、仮にこの記事見出しが真実か、それに近いものだとすると、広報部は、いや、奈々岡鈴は、正真正銘のジャーナリストであり、同時に、相当に危険な取材をしているように見える。
 久作たちが巻き込まれたミス桜桃も大した事件だったが、この見出しから始まる記事は、明らかにミス桜桃を超えていた。
 ミス桜桃事件では数十人と久作、方城、須賀が対峙したが、それでも怪我人だけで済んだ。事件の規模こそ大きいが一番のインパクトは教師一人が逮捕されたことで、それ以外の部分は当事者でなければ雑談のネタにしても、まあ許せる範囲だ。
 それに比べて、奈々岡の記事見出し。

「自殺」
「体罰」

 学生というモラトリアム状態において決して起きてはならないことが二つ並んだ見出しは、「学園の建前と本音」と続いている。
 正直なところ、久作はその記事を読むことをためらっていた。係わり合いを持つことがとても危険だと、本能が訴えているのだ。それでも久作が記事を読もうと決めたのは、奈々岡鈴と生で喋ったからか、露草が「リン」と親しげに呼んだからか、あるいは奈々岡の腕に軍用時計がついていたからか……要するに、事件とは無関係であっても、奈々岡鈴とは薄いながら関わったからだろう。
 読もうと決めたのと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 久作は桜桃新聞バックナンバーを露草から借りて、リカを先頭に1‐Cへと戻るべく、保健室を後にした。
 廊下でリカとレイコが何か喋っていたが、内容は聞き取れなかった。久作の頭で奈々岡が書いたという記事見出しがゆっくりと回り、同時に、止めておけともう一人の久作が冷静な声で説得していたからである。

第三章~棺桶を踏み台に、彼は学年成績を高く踏み上げていった

「男子学生自殺の裏に、指導と称した体罰の影。教育倫理を問われる学園の本音と建前」

 ――中等部三年のTさんの遺体の発見状況から、警察は自殺だとすぐに断定した。中等部二階にある音楽室の入り口で首を吊ったTさんのブレザーから遺書とおぼしきものが発見されたからである。自殺案件なので司法解剖に回されることはなかったが、Tさんの身体に暴行の形跡があったと聞いた遺族は、学園に対して、いじめや体罰はなかったのかと追求したが、学園側はそのような事実はないと返答した。
 学園の対応にTさんの遺族は、いじめ、もしくは体罰の可能性があると警察に捜査続行を訴え、それに警察が応じたことはあまり前例のない事だった。しかしながら、暴行の形跡と遺書との関連性を軸に捜査をするにしても、案件が自殺であることには変わりなく、結局、捜査は形式的なもので打ち切られた。唯一、遺族の無念に警察が応えた点があるとするなら、遺書と暴行痕跡が科捜研に回され、遺書がTさん自身の筆跡であることと、暴行の痕跡が大人か、大人と同じ体格を持つ人間によるものだという事実、この二点だろう。
 Tさんの自殺は法的手順にのっとって処理されたが、残された遺族にとっては法的手順などはどうでもよく、Tさんの自殺の原因が遺書に記述された以上の何かであった可能性、この点こそ、遺族と、何よりTさんの無念だといえよう。
 遺書の文面は伏せられたままだが、暴力の痕跡から、いじめ、もしくは体罰があったと想像するのは容易く、それが科捜研の鑑定から大人によるものだという点から、遺族は、学園教師による体罰があり、それを学園が隠蔽しているとして強く学園上層部に迫った。
 しかしながら学園の対応は、そのような事実は一切ない、と変わらず、学園内部で調査委員会のようなものが設置されることもなかった。これに対して遺族が更なる捜査をと地方裁判所に申し出るが、証拠不十分として却下された。
 このような事例は昔から全国各地で頻繁に発生している。
 学校という閉鎖された一つの社会において、生徒と教師との関係性が重要視される昨今。改善された点は少なからずあるとはいえ、根幹の部分は古い体質のままだと言っていいだろう。学校社会における未成熟な生徒と、それを統率・牽引する役目を持つ教師。その関係にあってはならない歪みが生じた際、Tさんのような事例が発生する。
 繰り返してはならないこの体質を覆す方法を、現代教育は未だ獲得していない。そして、これこそ教育倫理においてもっとも重要視すべきことだと、教育関係者は自覚すべきであろう。
(奈々岡)

「なあ、須賀。速河が完全に固まっちまってる。どうする?」
 夕刻、1‐Cの後方。険しい顔で新聞を読む男子生徒の彫刻が置かれていた。久作である。方城と須賀が久作の後ろからその手にある新聞、奈々岡鈴の記事を読もうとするが、久作の頭が邪魔でよく見えない。
「俺が思うに……速河、お前が気になっているのはこの記事内容もそうだが、その日付なんじゃあないか?」
「そうだ」
 彫刻と化した久作が短く応えた。
「日付って、これは去年の新聞だろ? つまり一年前、とっくの昔の話だ」
 方城が桜桃新聞の上端、日付部分を指差して言う。久作の机から少し離れた位置で、アヤとレイコがキャーキャーと叫んでいた。
「とっくの昔、まあ、部外者ならそう思うだろうが、速河はそうは思っていない。リカくんはどう思う?」
 久作の前に座って新聞の別面を読んでいたリカは、うーんと唸った。
「何というのか、凄く複雑よ? 方城くんのいう、とっくの昔って、私たちが中等部三年の頃でしょう? そして、そのTさんという人も中等部三年。つまり、同級生ということよね?」
 須賀が立ち上がり腕を組んで窓を見る。外は既に薄暗い。
「そう。だから速河は、この、奈々岡といったか? 彼女の書いた記事を他人事だと切り捨てられないでいるんだろう。俺はこの桜桃新聞というのは殆ど読んだことはないが、事件については記事内容程度なら知っている。それを同級生である速河が知らなかったということ、こちらも速河を困らせている要因なのだろう」
 ぴくりと久作が動き、ゆっくりと新聞が机に置かれた。
「そう、須賀の言うとおりだ。僕はこんな事件は知らない。僕が中等部時代に周囲に関心がなかったからだとしても、明らかにおかしい。確かに僕は相当に無関心な人間だったけど、同級生の自殺を他人事と割り切れるほど大人じゃあない」
「それで、久作くんは、つまり……どうしたいの?」
 真正面のリカがゆっくりと尋ねる。何やらリカの表情に陰りがあるが、それが窓の外の日射量によるものかどうかは解からない。
「どうって言われても、どうもこうもないよ。奈々岡さんの記事どおりなら、事件はもう終わってる。どう思おうと僕は部外者だ、何を言う権利もない」
「そこまで解かっていながら、お前はこの記事から目が離せない」
 須賀が久作の言葉を促した。
「そうなんだ。同級生、イニシャルになってるけど、もしかすると僕はこの人と面識があったかもしれない。その彼が自殺をして、遺書もある。でも、暴行の痕跡もある。科捜研の鑑定結果でそれをやった人間を絞り込むことはそれほど難しくないはずなのに、この彼は何かしらの理由で自殺した、と終止符が打たれている。須賀、どう思う?」
 普段の久作は、どちらかといえば軽薄な印象を与える。アルカイックスマイル、意図的に笑顔でいるので、なかなかの美男子が今日もご機嫌だ、といった感じだろう。それが女子に受けているとアヤが言っていた。そんな久作がいざ本気で何かを考え出すと、その印象は全く違うものになる。レイコの言っていた格闘家、これがもっともふさわしい形容だろう。
 須賀は、そんな久作とは対照的だった。常に何かしら考え込んでいるような顔をしており――実際、考え事をしているのだが――須賀の表情をにこやかに崩すことは、親しくない人間にはかなり困難だろう。久作は須賀を「ハードボイルド探偵」と内心で勝手に形容しているのだが、あながち間違いでもない。
「一年前の事件、同級生の自殺に暴行の形跡があり、捜査は終わった。これをどう思うかという質問はナンセンスだ。俺はどうも思わない。仮にその彼が俺のクラスメイトだったとしても、それは過去の話だ。死者をないがしろにするつもりは一切ないが、それでもやはり俺は生者を重要視する」
 バシャッ! 一瞬、教室が明るくなった。アヤとレイコの騒ぎが止まり、リカと久作は真横を向いた。教室後方の入り口に人影があった。
「須賀恭介くん、アナタは同じ科白を遺族の前でも言えるの?」
 奈々岡鈴が一眼レフを構えて、ゆっくりと久作たちに迫ってくる。
「奈々岡鈴くん、だったね? それは論点がズレている。きみが扱った自殺記事と、俺の人生観は関連はあるが直結はしない。無論、同じ科白を遺族の前で言うなんて真似はありえない、説明不要だろう?」
 須賀の意見は正しい。須賀が先の科白を遺族の前で言うなどという真似は絶対にありえない。須賀ほど言動に慎重な男はおらず、口が滑るといったこともまずない。
「言っていることは解かるわ。アタナがそうやって、ある人の人生を過去のものにしてしまう人間だってことも、よーく解かるわ」
 奈々岡のハーフフレームが鈍く光っている。前髪のせいで表情は読み取れないが、須賀をにらみつけていることだけは解かった。
「きみの言うことは正しい。俺はそういう人間だ。しかし、きみの言葉に明らかな敵意がある、ここが解からない。俺の人生観や哲学がきみに迷惑をかけたとは、現時点では思えないからだ」
「遺族という言葉の意味は知っているでしょう? もしかするとこの単語には、アナタなりの別解釈があるのかしら? 例のカニ社会だとかみたいに?」
 久作には、奈々岡の言葉の意味が解からなかった。いや、正確に言うと、言葉に乗せた感情が読み取れなかった。奈々岡は表情と同じに、言葉にも何重ものフィルターをかけているように思えた。
「単語の定義など人それぞれだが、きみの質問はつまり、自分が新聞の彼の遺族だと、そう聞こえるが、どうだろう?」
 えっ? とリカが小さくつぶやく。久作の表情も知らず険しくなる。
「厳密には違うのだけれど、おおむね正解といったところね。つまり、アナタは遺族の前では決して口にしないといった科白を、ついさっき、言葉に出したということ。これについてはどう思うのかしら?」
 奈々岡が一歩踏み出すと、須賀と殆ど密着するようになった。奈々岡の濃紺の瞳が上向きになり、身長差を無視して須賀を貫いている。須賀は十秒ほど思案してから、普段と同じ調子で喋る。
「きみがノックも挨拶もなしにこのクラスに入ってきた、という点を差し引けば、俺に若干の軽率さがあったのかもしれん。ここは強く言っておくが、ただそれだけ、だ。俺の意見は全く変わらん。それをきみがどう思うかは、それほど興味はない」
「ねぇ、ちょっと、須賀くん。それは少し言いすぎなんじゃない?」
 須賀と奈々岡との間のただならぬ様子に痺れを切らしたリカが、か細く割り込む。須賀はリカをチラリと見ただけで、視線を奈々岡のハーフフレームに戻した。一方の奈々岡は、しばらくリカを見て、何か言おうとしたが止め、再び須賀をにらみ上げた。
「須賀恭介くん」
 奈々岡がゆっくりと切り出した。
「久作くんもだけれど、アナタの評判は聞いていたわ。教員にも一目置かれるかなりの切れ者で、二枚目。常に沈着冷静で的確なアドヴァイスを出し、成績はおそらく卒業までずっと一位だろうと、ほぼ完璧な人ね。それでいて死者を冒涜し遺族をないがしろにする哲学を持つとなると、二枚目にミステリアスな要素も含まれて、女性には大人気なのでしょうね?」
「ちょっと待てよ! アンタ!」
 奈々岡の口から、まるで芝居の科白のようにスラスラと言葉が出てくる。しかし、さすがにこれには方城が黙っていなかった。方城は小学生からずっと須賀の親友であり、奈々岡の芝居じみた科白は、その親友をメッタ打ちにしている。ややこしい会話が苦手とはいえ、方城にだってそれくらいのことはすぐに解かる。
「さっきから、何なんだよ! そりゃ、須賀には冷たいところはあるよ。でもな、アンタの事情は知らないけど、フツーそこまで言うか? 第一、殆ど初対面でアンタは須賀のことなんて、全然知らねーだろ? 広報部だかジャーナリストだか何だか知らねーけど、そーいう無礼はOKなのかよ、新聞作りってのは?」
「アンタじゃなくて、奈々岡鈴。何度も言わせないで、方城護くん。確かに私は須賀恭介くんのことは伝聞でしか知らないわよ。そんな私の態度が無礼なのは、その伝聞での須賀恭介くんが私をそういう態度にさせたから。配慮の欠片もない言葉でね。ジャーナリスト志望としては須賀恭介くんの冷徹さ、いえ、冷静さかしら? ぜひともお手本にしたいところね。人の死を過去のものとしてアルバムに丁寧に収めて綺麗サッパリ忘れて感情を消す。客観性を求めるときにこれはとても重要なことだから」
 方城が続けて何か言おうとしているが、言葉が出ないようだった。リカも同じくで、しかし両者とも、未だに奈々岡による須賀への攻撃が終わっていないことは察知していた。当人である須賀は、奈々岡の長科白を聞いて、腕を胸の前で組み、二つほど頷いて、やはり普段と同じ調子で返した。
「さすがはジャーナリストだ、初対面から二度目で俺がどういった人間なのかを正確に把握している。速河が何やら新聞の記事、きみの書いたものに関心を示し、速河自慢の頭脳でこいつなりにあれこれと整頓していた。俺は意見を求められ、繰り返すが、死者よりも生者を重視すべきだと、遺族だと言うきみの前で言った。そして、こちらも繰り返しだが、俺の言葉にきみがどう思うかなど、俺には全く興味はない。俺の主張や哲学を曲げろと言うのならその努力はしてみてもいいが、どうやらそうではないらしいから、俺ときみとの会話はこれで終わりだ。最初にインタビューだとか言っていたが、俺に関してはこれで十分足りるだろう、新聞記事を書く程度にならな」
「そうね。須賀恭介くんの特集を組めそうよ。噂の沈着冷静さは自殺者の遺族の前においても変わらず。棺桶を踏み台に彼は学年成績を高く踏み上げていった。こんな見出しはどうかしら?」
「見事だ。ジャーナリストというよりも詩人だ。ぜひとも俺の特集記事を組んで欲しいものだな。写真はもうたっぷりとあるだろう? 他人の昼食時間を無視してご自慢のカメラを連写していたからな。その、最低限の礼儀作法も知らない機械のメモリーのどこかに俺の顔も入っているから、遠慮なく使ってくれたまえ」
 水と油、奈々岡と須賀はまさしくそれだった。
 桜桃学園の生徒として他人事とは言い切れない奈々岡の一年前の記事に、久作はどう接すればいいのか悩んでいたが、須賀は接しないという立場を取り、それは遺族かもしれないという奈々岡が出現しても全く揺らがない。それを軽蔑する奈々岡の言葉は、リカや方城が抗議しても取り下げられる気配はなく、こちらも全く揺るがない。話題が、同級生の過去の自殺という陰惨なものであるにも関わらず、両者はその持論や哲学を一切曲げる気配がない。
 須賀恭介と奈々岡鈴が、そろって怒っているということにかなり遅れて気付いた久作は、聞こえないように舌打ちした。
「あのさ! リンさん!」
 保健室で露草が彼女をそう呼んでいた。久作の欠点の一つ、人の名前を覚えるのが苦手ということは、実害はないが、コミュニケーションを妙なものにすることがあった。
「リンさんって……久作くんと私、ナナオカ・スズってそんなに親しかったかしら? 私をそう呼ぶのはごくごく親しい、古くからの友人だけなのに、私の勘違いかしら?」
 本来は須賀に向けられるであろう棘があちこちにあったが、久作は気付かないフリをして続ける。
「まあ名前はほら、伝わればいいだろう? リンさんも僕を久作と呼んでたから、何となく親しいような気がしたんだよ、たぶん」
 とっさの切り替えしだったのだが、奈々岡は、ふぅん、とだけ返した。どうやら彼女の感情を刺激することはなかったらしい。
「須賀はさ、何ていうのか、ちょっと難しい奴なんだよ。でも、全然悪い奴じゃあない、僕が保障する。リンさんだって須賀の悪い評判なんて聞いたことはないよね? 会話とか言葉とかに須賀はこだわりがあるんだよ。それがまあ、誤解を生むことは多々あるんだけど、あくまで誤解だからケンカするほどのことでもないんだ。そもそも、この話題で喋っていたのは僕が始めたことで、須賀とは殆ど無関係なんだよ」
 最後に、ねえ? とリカに同意を求めて、久作はまくし立てた。奈々岡がそれを吟味して口を開くより先に、須賀が一言。
「速河、無理に俺をいい人にしなくてもいい。誰が何と言おうと俺は俺だ」
「須賀! 今は黙ってろ! 速河、続き、ヨロシク」
 方城が須賀を強引に止め、久作にアイコンタクトを送る。
「速河久作くん。アナタはアナタで評判どおりの人なのね? こんな冷徹偏屈人間なんてほったらかしにしておけばいいのに」
「その通りだ、放置してくれて構わない。ジャーナリストが盲目なのは今に始まったことでもないしな」
「だから今は黙れって!」
 奈々岡の視線が須賀のそれと衝突する。ほぼ密着して一方は見上げ、もう一方は見下し。これで腕を絡ませていれば、さぞかしドラマチックなシーンだろうが、会話内容に至っては民族紛争の如くである。
「ほ、ほら! こういう難しい感じが、須賀の、えーと、須賀らしさみたいなものなんだ。こんな奴、他にいないだろう? こういう変わった会話センスが須賀の……魅力、そう! 魅力なんだよ!」
 方城のディフェンスをかわしてくる須賀なので、殆ど力技だった。どうして自分が須賀をここまでかばう必要があるのか、と一瞬だけ考えたが、須賀本人に全く譲る気配がないので仕方がない。奈々岡鈴の会話力は方城ではとてもではないが歯が立たない。かといってここでリカを巻き込むのも違う。まさかここでアヤを出すわけにはいかない。またカニ権だの何だの意味不明なアサルトライフルが炸裂して、事態が深刻化するだけだ。そんなアヤが未だに遠くでレイコと鼻歌で小躍りしているのは、幸いだった。
「それでリンさん! えーと、僕の評判って? 見ての通りの地味な奴だよ、僕は。誰かの話のネタになるほどの逸話もなければ、陰口を叩かれるほど他人と接しているでもない、どこにでもいる高等部一年男子。新聞記事ともたぶん無関係な、退屈な暇人だよ」
 須賀が余計なことを言わないように素早くだったので言葉を選ぶ暇がなく、久作は自分がとてもつまらない人間だと自分で強く主張しているような格好になっていた。まあその程度でこの険悪なムードが消えるのならお安い、とも思っていたのだが。
「久作くんはどこかの誰かさんと違って、凄く謙虚なのね。アナタの評判は良い意味で不思議よ?」
「不思議?」
「そう。成績は冷徹無愛想人間に続いてて、運動はエースさんの次くらい。ミス桜桃の三人ととても仲が良くて、一時は、あちらの加嶋玲子さんと付き合ってるなんていう噂も聞いたけれど、実際のところは不明。軽いだとか、いつも呆けているだとかも耳にしてて、軽くて呆けてる男子を女子連中がどうして騒いでいるのか不思議だったのだけれど、実物を見れば納得ね。でも、何だか三枚目にも見える、ここが不思議なところで、でも、おおよその察しはつくわよ?」
 久作はほっと胸をなでおろした。自分の噂の内容はどうでもいいとして、ようやく奈々岡の矛先が須賀から離れた。須賀もおとなしくしている。久作の心中に遅ればせで気付いたからか、あるいは単に飽きたからか。
「公言はされていないけれど、久作くん、アナタが空手部主将の三年生をやっつけた、それもものの数秒で、そういうソースがある。広報部の情報網もあながち捨てたものではないのよ。空手部主将といえば、ここ桜桃学園では最強の男子生徒といっても過言じゃあないわね。他に格闘関連の部活動があるけれど、取材するほどの成果をあげているのは空手部くらいのもの。まあ、実績はそれほどでもないのだけれど、それにしても主将には違いない。そんな人を数秒でやっつけるなんて真似を、軽くて呆けているだけの人間、アナタのことよ? そんな人間に出来るわけがない。でも幾つかのソースはそういったことがあったと明言している。つまりそれは事実であり、速河久作という人物は、どうやら三枚目を意図的に演じている節がある、と。まだここまで、とても記事にはならないから裏付けを取りたかったっていうのが、私の目的の一つ」
 矛先を無理矢理自分に向けさせた久作だったが、奈々岡鈴の目的とやらは、何やら久作を洗いざらい暴露しようとしている感があり、しかし久作には特別隠しておくような過去などなく、妙な違和感を覚えた。空手部だとか格闘技だとかという部分はどちらかというと隠しておきたい。そもそも久作は格闘家ではなく、単に、ある種の格闘技を我流で扱えるというだけで、その道に進むつもりなど微塵もないからである。また、そういったことを吹聴してまわった挙句にどうでもいいことに巻き込まれるのも断じて避けたい。久作が三枚目を演じているのは……つまり奈々岡の指摘したとおりなのだが、それは単純に、自分を取り巻く日常を退屈で平凡な位置でキープしておきたいから、それだけの理由からだった。退屈がイヤになれば、その時になって何か楽しいことを始めればよく、そのタイミングは自分でコントロールしたい、単純な理由である。
「私のもう一つの目的は――」
 現時点では平凡で退屈な一年男子である久作は、特に興味もなかったのだが、何だろう? と大袈裟にゼスチャーしてみせる。
「――そんな久作くんの力を借りたいと思ったから。当然、私が知っている通りの人物ならば、という前提でね」
 ……あれ? 何だ? 話が突然、妙な方向に飛んだ。
「はぁ? 何だそりゃ? アンタ、ええと、スズって言ったっけ? リン? どっちでもいいけど、速河にインタビューとか言ってなかったか?」
「うん、私もそう聞いたわよ。だから奈々岡さんはカメラを持って、久作くんをパシパシと撮影してたんじゃないの? 桜桃新聞の記事を書くために」
 奈々岡の科白が意外だったのは方城とリカも同じだったらしい。言われた奈々岡が、少しだけ照れたようなしぐさを見せた。初対面からこちら、ずっと怒鳴りあいや冷ややかな抗論だったので、その柔らかいしぐさは、久作をどきりとさせた。女性版・須賀恭介、そんな奈々岡の女性らしい部分が垣間見えたからである。
「インタビューはするわよ。記事は、まあ書くつもりだけれど、実際に仕上がるかどうかは自分でも見当が付かないの。というのも、そのどちらもが久作くん次第だから」
 久作と目が合うと、奈々岡はあからさまに照れて、ハーフフレームを忙しく上下させた。どうして奈々岡が照れているのかは知らないが、そういう態度はつられるもので、久作も何やら妙な違和感にムズムズしてしまう。先ほどまでの流暢な会話はどこにいったのか、奈々岡はぎくしゃくしだして意味もなく一眼レフをいじったりしている。そうすると久作もまた、視線のやり場に困り、オレンジの軍用時計だとかハーフフレームだとかに忙しく泳がせる。
「頼みごとをしに来た人間だとはとても思えん登場の仕方だったな。さすがは一流ジャーナリストだ」
「アナタに言われたくない! この独裁者!」
 何とも奇妙な間合いを、須賀が一言でぐしゃぐしゃにした。
 久作たちの遥か遠くでアヤとレイコが互いの手を取り合い、くるくると回っていた。創作ダンスだか何か知らないが、あちらは相当に平和なようであった。

第四章~奈々岡はどうやら剣の達人らしく、ライフル弾をキンと弾き返した

「朝という奴は、昨日の絞り粕かすだ」
 そう言ったのは須賀恭介だっただろうか。

 市街地と、山腹の桜桃学園を繋ぐ通称「心臓破りの坂」を含む久作の通学経路にはダートコースはないのだが、梅雨空の下で愛車、ホンダXL50Sという古い原付オフロードバイクを走らせていると、アスファルト路面の連続は少々物足りなかった。
 法定速度など端はなから無視しているので、軽くフットペダルを踏むだけでリアタイアがロックし、フロント舵だけで数メートルを滑る。それでダートコースのような気分で遊んでいた。梅雨に入ってからの登下校でずっとそんなことをしていたが、それでも普段どおりの時間に桜桃学園駐輪場に到着する。公道はサーキットでもダートコースでもなく、信号がある。久作がXLをフルスロットルで走らせようが、ドリフトっぽく遊ぼうが、時計は全く縮まらないのだ。
 上下の雨合羽を校舎入り口でバタバタと振って雨粒を落とし、適当にたたんでフルフェイスに押し込み、ぬれて重くなったリングブーツで1‐Cにたどり着くと、普段どおり、リカと方城がいた。他にもクラスメイトが数名。始業までは軽く三十分以上ある。方城は寝息を立てており、リカはクラス委員の雑務でバタバタと走り回っている。綺麗な黒髪には天使の輪が輝いており、本人と同じく忙しそうに左右に揺れている、こちらも普段と全く一緒だった。
 窓際から二列目の最後尾、久作は自分の居場所に収まると、ぬれたフルフェイスをタオルで拭いつつ、しかし意識は全く別を向いていた。視線は窓の外だが、梅雨空を眺めているのではなく、単に視線をそこに収めているだけである。
 いつもと同じのアルカイックスマイルは普段より若干曇っていたが、久作と親しくない人間であれば、それはきちんと笑顔に見えるだろう。やんわりとした笑顔で窓の外をぼーっと眺めるその姿は、奈々岡の指摘どおり、久作を暇そうで呆けている軽い人間に見せるだろう。
「おはよう、久作くん。朝は毎日早いって聞いていたからかなりの早起きをしたのだけれど、まさかこんなに早いとは思ってなかったわ。ふぅ」
 おはよう、から続く言葉が普段のリカのものだと思っていたので、久作は目の前で椅子に座って、あくびを噛み殺している奈々岡鈴の姿に、微塵もリアクションが取れなかった。
「凄く眠くてまだ頭が回らないわ。それで、昨日のお願い、考えてくれたかしら?」
「お願い? ああ、えーと、どうだろう」
 フルフェイスを足元に置き、久作は奈々岡のオレンジのハーフフレームを見る。よほど眠いのか、瞳は殆ど閉じていた。何やら肩を左右に振っている、ストレッチだろう。
「はい解かりました、なんて快諾されるとは最初から思っていなかったけれど、少なくとも迷ってはくれていたみたいね?」
 奈々岡が上体を大きく後ろにそらすと腹が露出し、久作は慌てて視線を天井に飛ばした。何だかなー、久作は本題とは別のことで困惑した。

 どうにも久作の周辺女性は、自分や男子生徒などの視線を意に介していない。皆が相当のルックスやプロポーションを持ち、しかし男子生徒をカボチャかタマネギか、そんな風にしか見ていない、そんな気がした。アヤ、レイコ、そして、この奈々岡鈴。言うまでもなく、保健室の露草葵も含まれる。男子を男性として見ているのは、唯一リカだけだ。
 そんなだから「リカちゃん軍団」だろうか、とも思う。もしも「アヤちゃん軍団」なんてものがあったら、たまったものではない。リカのリーダー気質だかお姉さん気質だかがなければ、三人組はとんでもなく迷惑で、そして騒がしい集団だっただろう。

「本当にぼーっとするのね? まるで私なんて最初から存在していないみたい」
 奈々岡の声には小さな棘があった。が、その声色には、鋭いながら得たいの知れない魅力もあった。特別低いでもなく、ハスキーでもないが……冷たさ、そう、須賀に似た冷たさがあるのだ。ひんやりとして鋭い、鉄をも切り裂く日本刀。なるほど、だからこそ、アヤのアサルトライフルを弾き返し、須賀と鍔迫り合いができたのか。久作は奈々岡の声や言葉、科白の正体にようやく気付いた。
「業物わざものだよ、うん。方城が真っ二つにされるのも当然だ。須賀が、あいつも業物を自在に扱うから均衡が保てていた、そういうことか」
「……驚いた。私、本当にここにいないみたいね? 無視されたり、わずらわしいだとか言われるのは取材で慣れているけれど、存在そのものを否定されるなんて真似は始めて。私の存在意義レゾンデートルってどこにあるのかしら?」
「おはよう、奈々岡さん。久作くんはいつもこんなよ? 無視してるんじゃあなくて、自分の世界に入ってるだけだから、心配しなくてもいいわよ」
 そう、リカの言うとおり。別に無視しているのではなく……違う!
「違う! いや、リカさんの言うとおりで、僕には、考え事をする癖があるんだよ。治さなきゃとはずっと思ってるんだけど、どうにも無理らしくて、気に障ったのなら素直に謝るよ」
「おはよう、久作くん」
「え? ああ! リカさん、おはよう! そうか、挨拶すらしていなかったんだ。ゴメン」
 リカがくすくす笑って「慣れてるから」と残して教壇に向かった。
「アナタって物凄く変わったコミュニケーション手法で人と接してるのね? テレ・パス? リカコさんとは電波か何かで会話しているみたい」
「かもしれない。もっとも、こっちが一方的に発してるだけで、受信してくれる人は少ないけどね」
「面白い人」
 奈々岡が机に肘を突き、顔をぐいと寄せ、くくくと笑った。オレンジのハーフフレームの奥に、濃紺の深い瞳。大きなそれが言葉と同じ迫力を持って久作の尖った両目を捉えている。まばたきが、あの一眼レフのシャッターのように感じられた。
「おはよー! って! そこ! リンリン! お前がなんで久作に急接近してんだー!」
 教室を響かせるアヤの声に、久作は自分の顔と奈々岡の顔が相当に近くなっていることに気付き、慌てて目一杯のけぞった。椅子の足が浮いて、そのまま背中が床に激突する。
「ぐっ! お、おはよう、アヤちゃん……」
「おはよう、アヤちゃん」
 倒れた久作を不思議そうに見つつ、奈々岡はごくごく自然体でアヤに挨拶を返し、ハーフフレームを上下させた。
「おはよー、じゃなくて! なんでリンリンがここにいるかー!」
「取材」
 アサルトライフルVS日本刀。奈々岡はどうやら剣の達人らしく、ライフル弾をキンと弾き返した。これには素直に感心した。
「取材でキスするなんてのは、腐敗したジャーナリズムそのものだ! 久作の弱点を知りつつそこから介入しようなんて、癒着だ! 真実はまたもや闇の中! メディアの黒歴史を繰り返すリンリンはあたしの敵だ! エディ様のフルコンボ、準備!」
 ばっ、とアヤが両腕を広げて腰を床すれすれまでに落とす。八卦はっけの奥義、「鳳凰ほうおうの構え」。この構えから様々な技が繰り出されるのだ。言うまでもなく、ゲームの話だが。
「メディア腐敗は別にして、キスって何よ? 私はそんなことしていないわよ? ……まだね」
 奈々岡はゆっくりと椅子から立ち上がる。業物の日本刀が抜刀される。円月殺法、刃がギラリと弧を描く。
「まだってことはつまり! そーいうことか! このアヤ様に断りもなくとは、喰らえリンリン! 鳳凰連腿ほうおうれんたいからの扇おうぎ蹴り!」
 バババッ! 業物の刃が輝き、三角形の残像がアヤを切り裂く。
 何に驚いたかといえば、アヤが本当に扇蹴りを出したことと、それを奈々岡がかわしつつ一眼レフのシャッターを切ったことだ。アヤの、足元を払う回し蹴り。これが3D格闘ゲーム、ミラージュファイト中では扇{おうぎ}蹴りと命名されているのだが、対する奈々岡。言葉もだが、どうやら手元の一眼レフも業物らしく、フラッシュで視界を奪われたアヤが扇蹴りの不発の勢いで床にころげた。
 ああ、またか、と久作は自分に呆れた。
「アヤちゃん! リンさん! ストップストップ! とりあえず落ち着こう! 何がどうなってそうなってるのか知らないけど、とにかくタイムだ!」
 背中の鈍痛をこらえつつ、久作はアヤと奈々岡に大声で訴えた。
「冷静になろう! ね? じっくりと話し合えば誤解は解ける! 平和的にいこう!」
「良い提案ね。アヤちゃんがキスがどうとか言っていたから、久作くんからそれを頂いたら、そうしてもいいわよ?」
「リンリン! よーし! だったら平和的に一撃で終わらせやる! 安心しろ、痛みは一瞬だ! 意識ふっ飛ばしてやっから、じっとしてろ!」
 ……はい? さて、どうしてでしょう? 久作の思考が止まる。二人の攻防が激しすぎて追いつけない。
「エディ・アレックス、必殺――」
 ゴン、と鈍い音がして、アヤが沈黙した。
「アヤ! うるせー! 俺は眠いんだよ! んで、アンタもうるせー! 寝起きの俺は不機嫌なんだ。止めないってんなら蹴るぞ!」
「方城! た、助かった……」
 頭をバリバリとかきながら、物凄い形相の方城がアヤの後ろで仁王立ちしている。完全に臨戦態勢の眼光は、奈々岡のハーフフレームに突き刺さっていた。
「うー……うわ! マヂでイタイイタイ! 方城護! 手加減ってもんを知らんのかー!」
「アナタに蹴られたら間違いなく病院行きね。解かったわ、キスは諦めるわ」
 方城のげんこつがよほど効いたのか、アヤがぐすぐす泣きながら久作にすがってくる。
「速河久作、イタイですよ? マヂで」
「そりゃそうだ」
 床から椅子に戻った久作は、当たり前だとうなずいて、方城に「サンキュー」とアイコンタクト。方城は、うむと返すと、自分の机に戻っていった。どうせならいてくれればいいのに、と思いつつ久作は、寝起きで不機嫌な方城を見送った。
「1‐Cっていつもこんなに賑やかなの? 何だかちょっと羨ましいわね」
 久作と、その横で何故か正座しているアヤの前に座りなおし、奈々岡は、ふう、と小さな溜息をこぼした。
「リンさんは1‐Aだったよね? その様子だとそっちはあまり華やかじゃあないって聞こえるけど?」
「いえ、そうでもなくて、きちんとムードメーカーみたいな人とか、お笑い担当みたいな人とか、フツーにいるわよ。ただ、こちらがあんまり賑やかだったから、いいなって」
 はい、とアヤが床から挙手した。奈々岡が不思議そうに「どうぞ?」と返す。
「リンリンのクラスは楽しくないのか?」
「楽しくないとまでは言わないけれど、何ていうのか、率先して仕切ってる人が男女にいて、フツーを演じてるみたいな変な空気なのよね……ところで、どうしてアヤちゃんは正座してるの? 冷たいでしょうに?」
「方城護に殴られたから、あたしは反省中」
 ぷっ、と奈々岡が吹き出した。久作は、なるほど、と納得した。方城が女性に、ましてやアヤに手を出すなどということはまずあり得ない。それでも脳天を目一杯殴られたアヤは、それが方城からの正当な抗議だと素直に納得して、ついでに自分なりに反省していると、そういうことらしい。
「可愛らしいというのか、アヤちゃんも相当に変な子ね? 方城くん、男子にいきなり殴られて、それを素直に反省だなんて、私のクラスじゃあ絶対にあり得ないわ。でも、いいわよね、そういうの。変わってるけど、とっても自然で」
「自然だとはとても思えないけど、まあ、友達同士だから、こういうのもアリかなって。少なくとも悪い雰囲気じゃあないしね」
「それなのよ!」
 久作の言葉に、奈々岡はちょっとだけ声を強めにした。
「これは想像だけれど、久作くんのその寛容さ? 懐の深さみたいなものが、きっとここをそういった雰囲気にしているんじゃあないかしら? ウチのクラスの男子がやってるような、あからさまなリーダーシップみたいなものじゃあなくて」
「想像だよ、そんなの。僕はどちらかといえば受け身の聞き役って感じで、誰かをどうとか、そういうつもりは全然ないよ?」
「だから軽くて呆けた三枚目? なるほど、解かったわ」
 ぱん、と手を打って奈々岡は、うんうんと一人で納得した様子だった。
「反省タイム終わり、冷たいから座る。ほいで、リンリンは何が解かったのさ?」
「久作くんの正体」
 短く言い放つ。奈々岡には言葉を簡潔にする能力があり、アヤとは正反対だった。
「正体って、実は速河久作は速河久作じゃなくて、全然別の誰かだったとか? そうだ! 速河久作はビリー・ヴァイを超えるカラミティ・ジェーンな八極拳士だ! つまり速河久作、お前は何者かー!」
 バババン! アサルトライフル炸裂。ちなみにビリー・ヴァイとカラミティ・ジェーンというのは、両方ともミラージュファイトのキャラクターの一人で、実在しない筈だ。何者かと問われるのはこれで何度目だか忘れたが、久作は奈々岡の言葉を待つことにした。
「久作くんは何だか素性の知れない三枚目なのに、どういうわけか、みんなから絶大の信頼を得ている。つまり、いざと言うときに頼れるということを、アヤちゃんだとか方城くんだとかが知っていて、その雰囲気みたいなものが直接関係のないクラスメイトにも伝わっていると、どお? アヤちゃん?」
「頼れるもなにも、速河久作ははっきり言って無敵だし。達人の領域だからオーラ出てて、達人オーラに気付かない鈍感な奴はこのクラスにはいないんじゃない?」
「そう。そして、それが伝聞で広がると、女子連中が騒ぎ出す。言動は三枚目だけどルックスは見ての通りだから、直接会話をしなければ久作くんの本当の姿なんて解からないでしょうけど、それでも騒ぐには十分すぎる容姿と成績。極めつけに、周囲には常に桜桃バスケ部エースの方城くんや、あの……見た目だけの冷徹人間がいて、アヤちゃん、リカコさん、レイコさんのミス桜桃集団。騒ぐなというほうが無理ね」
 久作が二人の会話を殆ど聞いていないのは、話題が自分のことだからだった。自分のことは自分で把握しているし、周囲からどう見られるかなど興味はない。別に自分を宇宙人だと噂されても構わない。実際に自分を正確に把握しているかというと怪しいものだが、久作には何というのか、自分に対する自覚のようなものが欠落していた。これは中等部時代の名残りでもある。それが良いか悪いかは、人それぞれだろう。
「私が久作くんにお願いをしたのも、そういった情報に動かされたからかもしれないわね」
「キスのお願いならダメー! まず、あたしが許さん! でもってレーコが許さん! たぶんリカちゃんも許さん!」
「そっちじゃあなくて、昨日の、あの桜桃新聞の記事のことよ。それにしても、本題に入るだけでこんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。久作くん、きちんと覚えてるかしら?」
 忘れた、と言いたかったが、そういうわけにはいかない。
「……Tさんを自殺に追い込んだ犯人探し、覚えてる」
「そう」
 ごく短く返す奈々岡が逆に不気味でもあった。
「何それ? いや! 聞かない! スッゲー危ない匂いがする! リンリン! ジャーナリズムは生死をかけたバトルだ! 止めたほうがいいって、絶対!」
「そうよ、生死をかけてる。これは冗談でも何でもなくね。ジャーナリストだからというのもあるけれど、私がTさんの遺族で――」
「あーー! あーー! 聞こえない聞こえない!」
 アヤが両耳を塞いで大声を上げた。久作が奈々岡のお願い、犯人探しに協力できないでいるのはつまり、用件がアヤの言うとおりだからである。奈々岡の言い分は解かる。事情に詳しくなくてもその気持ちも解かる。しかし、なのだ。
「リンさん。僕で協力できることなら何でもする、暇人だからね。でも、きみの記事が真相に近いのだとすると、アヤちゃんと同意見だ。僕がどうこうでなくて、リンさんも深く関わらないほうがいい。部外者だから気持ちは解からないけど、それとは無関係で、事件そのものが探るにはあまりに危険すぎる。どうしても、というなら、プロフェッショナルに依頼するべきだと思う。素人の、しかも学生が首を入れるべきじゃあない、それほどの事件だと僕は思う。言いたいこと、解かるよね?」
 ゆっくりと、慎重に、言葉を連ねた。奈々岡の表情は前髪にはばまれて読み取れない。返答のない空白が一分近く続いた。アヤとの激闘はどこへやらの重苦しい空気で、久作は窒息しそうになる。
「おはよう、諸君。どうして皆、おはようを言う時に、あんなに遠い昨日のことを一つ残らず憶えているのだ、とは誰の言葉だったか。おや? てっきりリカくんかと思っていたのだが、桜桃学園広報部のトップジャーナストがご来席とは、これは失礼。重要な取材の邪魔をしてしまったかな?」
 しわくちゃの桜桃ブレザー、普段通り文庫本を片手の須賀が欠伸半分で寄って来た。
「……理屈や理性では割り切れない感情って、解かる? 久作くん、アヤちゃん、ありがとう。話を聞いてくれただけでも十分よ」
 すっと立ち上がり、奈々岡は歩き出し、須賀の真横で止まった。
「意見はぶつかったけれど、須賀くん、あなたの言うことも正しい、それくらいは私にだって解かる。それでもね……まあいいわ。レイコさんやリカコさんにもヨロシクと伝えておいてね、それじゃあ……」
 業物の日本刀ではなく、ナマクラ刀でそう言うと、奈々岡は再び歩き出した。
「スズくん? 方城にはヨロシクと伝えなくてもいいのか?」
「……そうね、伝えておいて。騒がしてごめんなさい、とも」
「それだけかい? 何か重要なことをきみは忘れてないか?」
 須賀がやたらと軽い調子で言ったので、久作はぎくりとした。ここで須賀の業物の刀が振り下ろされるのは、あまりに残酷過ぎる。久作は思わず身を乗り出した。
「須賀!」
「犯人と思しき人物、もしくはそれに繋がる証言を得たとして、毎回毎回きみの教室や広報部に足を運ぶのは効率が悪いだろう? 既に誰かと済ませているのかもしれんが、俺はきみの携帯電話の番号もメールアドレスも知らない。情報中継は誰の役目に決まったんだ?」
 うつむいていた奈々岡が驚いて顔を上げ、隣の須賀を見上げた。声の調子と同じに、笑顔だった。気難しいハードボイルド探偵。決して笑顔など見せず、精々にやりと口元を上げる程度の須賀が、まるでアヤのような笑顔を奈々岡に向けていた。
「須賀くん? ……アナタ、何?」
「そろそろチャイムだ。アドレス交換は昼休みにでも、だな。おっと、そちらの都合を聞いていなかったな。まあ、俺たちは大抵ここにいるから、暇になったら顔を出してくれ。それで十分に間に合うだろう?」
 言い終わると同時に須賀は、教室入り口に向かい、左足を後ろに深々と頭を下げ、右手をゆるりと横に振った。レディに対する礼節、エスコートするようなしぐさに奈々岡はぎこちなく歩き出し、再び須賀をみつめる、無言のまま。しばらくして教室を出た。
 入れ違いでレイコが教室に、文字通り飛び込んできた。
「セーフ! アウト? チャイムまだだよね? セーフ! 危ない危ない。ランブレが溝にはまって、ホラ、ずぶぬれー……あれ? アヤちゃん、あー、って何? 久作くんはコンセントレーション中? 今日、テストあったかな?」
「レイコくん、俺の記憶では今日はテストはないはずだ、安心していい」
 さて、どうしたものか、と久作は思ったが、もうどうしたもこうしたもない。須賀の科白が仮に全て冗談だったとしても、その分だけ事態が動き出したことには違いない。須賀の心変わりは後で聞くとして、果たしてリカが納得するのか、気がかりであった。
 一限目開始を知らせるチャイムが鳴り、世界史担当、伊達だてという大柄の男性教師が現れ、しかし久作の視線は窓の外を向いたままだった。

第五章~前を向いて生きていくことを、我々はお薦めします

 世界史と古文を終えた昼休み。当たり前のように久作の机の周りに全員が集まり、机を寄せて弁当を広げる。
 リカちゃん軍団の三人は毎日弁当を持参していたが、久作は、惣菜パンだったりコンビニ弁当だったり、日によって違っていた。食事に関してかなり無頓着なので、そういったものを炭酸飲料で流し込むこともあった。久作ほどではないが、須賀も食事にはあまり関心がないようで、なかなかの見栄えの弁当の中身など見ず、箸で適当につまんで口に放り込むという動作を繰り返すだけだった。
「須賀、その唐揚げ、一つくれないか? 今日は手抜きされたみたいでさ」
「肉でも野菜でも、勝手に取れ。アヤくん、水筒の中身はお茶かい? 何でもいいんだが、分けてくれないかな?」
「だったらあたしもチキン一つゲッツ!」
 アヤから差し出された水筒のフタ兼コップを口に当て、そこで須賀は止まった。
「須賀くん? アヤ、またジュースでも入れてきたの?」
 リカが口に手をやってアヤに迫る。リカの弁当は小さく、しかしなかなかに華やかだった。
「いんや、お茶だよ? 緑茶。安物なんだけど、これがなかなか美味しくてね。たまたまスーパーで見かけた特売だったんだけど、お茶の味って値段で決まるかと思ってたからビックリよ? なあ、須賀恭介?」
 須賀が動き出し、アヤが美味いというお茶を音もなくすすって、「ああ」とだけ返した。何やら考え事をしているらしい。お茶の味などその脳に伝わっていないに違いない。
「パンパカパーン! パパパ、パンプキーン! アヤちゃーん! ホラ、かぼちゃソースのカニクリーム・コロッケ! スゴく偉い人ー!」
 レイコが嬉しそうに、フォークに突き刺したカニクリーム・コロッケをアヤに見せた。
「おー、レーコ! そいつはかなり地位が高そうだな? 実際どうなのか、あたしが確認してやるよ」
「とか言って、レイコ、アヤに取られる前に食べちゃいなさい」
 そんな調子で唐揚げだとかカニクリーム・コロッケだとか、パリパリのウインナーだとかが弁当箱を行き来した。まるで食料輸出入みたいだ、久作は惣菜パンだったと思う何かを飲み込み、炭酸飲料で流し込んだ。
「速河は相変わらずのジャンクだな。栄養バランスもへったくれもありゃしない」
 方城が呆れた調子で久作を眺めていた。バスケ部の、それもエースともなれば体調管理だとかで食事メニューにも注意するのだろうが、当面そういったことに縁のなさそうな久作は、そのまま炭酸飲料を飲み干した。
「いいんだよ、僕の場合は適当で。第一、そういうことを考えてたらキリがないし」
「食事は大切よ? 久作くん」
 リカがまるで諭すように言う。
「栄養バランスだとかそういう話を抜きにしても、食事って一種の娯楽なんだから。美味しいものを食べれば、それだけで幸せな気分になれるし、別に高級なものじゃなくても味わえばそれなりだし。そういう部分がスッポリと抜けてるのは、何だか勿体無いわよ?」
「僕はこうして、みんなでワイワイやってれば、パンだろうと弁当だろうと、それだけで楽しいけど?」
「人はパンのみで生きるにあらず、主観の相違だな」
 アヤから借りている水筒のフタを高らかに持ち上げ、須賀が言った。唐揚げを口に方城が返す。
「須賀、話を難しくするのは止めてくれよ」
「難しくもない。食料さえあれば生きていけるというわけではない、という格言は、食事が娯楽にまで昇華されるかどうかは個人次第だと、それだけの話だ」
「あたしは美味しけりゃ安物でもいいぞぅ」
 アヤのお茶を飲み干した須賀が、にやりと口元をあげた。
「そうか。アヤくんをデートに誘おうと思っていたが、随分と安上がりなディナーで済みそうだな、助かった」
「……それは違ーう! 実はあたしは食通で、今時期だと三ツ星レストラン的デリゾイゾのDTMコース以外は胃が受け付けないの! ジャンクフードなんて論外だ!」
「食事でいいように操られるアヤ……まるっきり単細胞だな、こいつは」
 方城が笑いをこらえて言い、リカがうなずく。ちなみにデリゾイゾとは市街地アーケードにあるパスタ専門店で、DTMはそこのデリシャス・トマト・ミックス・スパゲティのことだ。
「お食事中に失礼。ノックしたのだけれど返事がなかったから入らせてもらったわ。これ、よかったらみんなで食べて」
 とても丁寧に、奈々岡鈴が現れた。何やら小さな箱が差し出されている。受け取ったのは、須賀だった。
「やあ、スズくん! ノックに気付かなかったのは大変失礼した。差し入れとは、気を使わせてすまんね、ありがたく受け取ろう。それにしても随分と早いが、もう昼食は済ませたのかい?」
 須賀が立ち上がり、椅子を一つ持ち出して久作の隣に置き、それに座るように促した。何だか須賀はとても嬉しそうだった。
「差し入れ? 中身はなんだ! リンリン!」
「プチトマト」
「DTM!」
「デリシャストマトマン大好きー!」
 アヤが須賀の手にあった箱を奪い、レイコが鮮やかなプチトマトを素早く口に入れる。ファーストコンタクトは見事なほどの失敗に終わった奈々岡鈴と面々だが、四度目の今では、すっかり打ち解けているようだった。といっても、奈々岡は何かしら工作したでもなく、プチトマト一箱を持ってきただけなのだが、アヤとレイコにはそれで十分らしい。奈々岡が須賀に言われるまま、久作の隣に座った。
「お昼は今からなの。話が、急ぎのがあったから、食べながらで悪いのだけれど」
 奈々岡はもう一つ箱を持ち出し、そこからドーナツを取り出して、手で割った欠片を口にした。
「ジャーナリストは常に時間との戦いだ。食事マナーなど気にしていたら取材もままならんだろう。俺はリカくんほどマナーにうるさくないから気にしなくてもいい。ピアノマンの時野雄一ときの ゆういち氏も大目に見てくれるさ」
 ごほっ! 奈々岡が大きな咳でうずくまった。久作は慌てて奈々岡の背中をとんとんと叩き、アヤの水筒をひったくると、フタに緑茶を注いで、咳き込む奈々岡に渡した。
「奈々岡さん! 大丈夫?」
「……ええ、ありがとう、リカコさん」
 リカがハンカチを差し出したが奈々岡はそれを断り、自分のハンカチで口を拭った。久作から渡された緑茶をぐいと飲み、深呼吸を一つ、どうにか落ち着いたようだった。
「須賀恭介くん、アナタって一体何者なの? 私、今朝から授業そっちのけで冷静に考えてたの、久作くんとアヤちゃんの助言をね。それで、やっぱり初対面の他人を巻き込むのはダメだと結論を出して、それを伝えようとここに来たのだけれど……」
 久作と須賀。方城とリカ。そしてアヤとレイコ。奈々岡鈴の記事や依頼に関してそれぞれ情報量が違い、奈々岡と本題で深く接しているのは手伝いをと依頼された久作と、それに反対姿勢だった須賀だけだといってもいい。まだそういう状態だからこそ奈々岡は、お願いを取り下げようと決めたのだろう。しかし、須賀だ。
「俺は見ての通りの、どこにでもいる高等部一年その一で、ついでに知っての通りの冷徹人間だ、スズくん。きみが速河への依頼……扱うものが事件だから依頼と呼ぶのが最適だろう、それを取り下げるという選択はとても良いものだ。とても良いのだが、何故だか俺と速河はそれだと困るんだ、なあ? 速河?」
 僕が困る? 久作は思案しようとしたが止めて、発声でそれをした。
「えーと、困る? ……そうだね。須賀はどうだが知らないけど、少なくとも僕はそうだ。理由は二つ、まず」
 言葉を切り、久作はリカを見た。
「ん? 私がどうかしたの?」
 弁当の最後の一口をもぐもぐとやっていたリカが少し驚いて、弁当箱をチェック柄の布でくるんで、カバンにいれた。
「食事の席での話題にはどうかと思っただけだよ。で、続きだけど、理由の一つは、リンさんの記事内容が同級生だった人だってこと」
「あーー! あーー! 危険な匂い察知! レーコ! エマージェンシー! 聞いたらダメだ!」
 アヤが両耳を塞いで立ち上がり、その場でくるくると回る。二つに束ねた金髪が新体操のリボンのように輪を描く。
「アヤ? 何?」
 リカが問うが当然アヤには聞こえていない。リカはくるくる回るアヤを強引に椅子に落とした。
「何だか知らないけど、別に話くらい聞いてもいいじゃないの?」
「いや、アヤちゃんの言うとおりなんだ、リカさん」
 アヤを両手でがっしりとつかんでいるリカが――両手の自由を奪っているのだ――どうして? と視線を返す。
「同級生だった人の自殺、教師らしき人物からの暴行の形跡、そして学園側による隠蔽。こんな危ない話に率先して首を入れるなんて無謀すぎる。僕らは警察でも探偵でもないのに、記事が真相に近いなら相手は間違いなく複数で、ついでに手馴れてる。危険で、同時に勝負にすらならない」
 リカが固まった。アヤが「ほらみろ!」と抗議しているが、それがリカに届いているかは怪しい。
「久作くんの言うとおりよ、だから――」
 奈々岡がドーナツを手にしたまま継ごうとしたが、久作がそれを制した。言葉を継いだのは、須賀だった。
「もう一つの理由というのは、いかにも速河らしいもので、俺にはそれはない。依頼の取り下げに応じる理由なら一つで足りるだろうに」
「あのさ、俺、この会話に入ってもいいのか?」
 方城が、難しい、何とも言えない表情で須賀に尋ねる。須賀がうなずいたが、方城は言葉に悩んでいるようだった。
「えーと、アンタ、じゃねーや、リン? スズ? どっちかに統一しておいてくれよ、速河。俺は新聞とかジャーナリズムってのか? そーいう話は解かんねーんだけど、リンは、その、速河が依頼? それに手を貸してくれなくても一年前の事件を追っかけるんだろ?」
「そうなるわね。正確には私と広報部なのだけれど、広報部でもこの件に積極的な人間はいないから、たぶん私一人でしょうね」
「その……遺族、だからか?」
「遺族のようなもの、詳しい話は現時点ではしないけれど、迷惑をかけるからね? 私はかなり個人的な事情であの事件を追ってるの。久作くんの言うもう一つの理由というのは、もしかするとそれを止めなさいということかしら?」
「余計なお世話だと思われるかもしれないけど、その通りだよ。で、リンさんはたぶん僕の助言を聞いてはくれても、やっぱり動く。ジャーナリストである以上に遺族のようなものだから、理性ではわかっていても感情がそれを許さない」
 方城は、事件と奈々岡に関してはほぼ久作と同じ情報を持っていたが、残念ながら久作ほどの分析能力を持っていない。しかし、野生の勘だかバスケットスキルだかで、久作と同じ結論には達していた。
「リン、解かってるのなら止めろ。こんな俺でもリンがかなり危ねーって解かるんだ、実際は俺の想像なんか超えたほど危ねーぞ、それって。だろ? 速河?」
「それも解かるわ。後半戦、残り時間四十秒。八十対七十七、三点差で負けていて、チームメイトの全員が体力の限界という状態。この試合に負ければ地区予選敗退が決定。さあ、方城護くん、どうする? アナタの体力も当然限界を超えている」
 突然、奈々岡の描いたコート風景に、方城が止まる。久作も想像してみた。
 残り時間はたったの四十秒だが、三点差ならばワンプレイ、いや、ツープレイは可能かもしれない。
 スリーポイントを狙いたいところだが、おそらく精度は低いだろう。それでもシューティングガードに打たせる。リング下に方城がいるからだ。リバウンドを取り、まず二点返して相手ボール。残り時間は三十秒。相手ボールがコートに入るが、二つ目のパスを方城がスティールして、そのまま切り込む。
 レイアップの前にディフェンスが二枚。しかし方城の滞空時間はまるでそこに浮いているようで、ディフェンスが落ち、ゴール。リバウンドと単独ドライヴの四点でホイッスル。一点差で試合を引っくり返し、方城チームが勝利した。
 方城だからこその勝利。方城以外では相当に難しい。奈々岡が誰でもない、久作に依頼を持ち込んだ。これに何か意味があるだろうか? 考えるが何も浮かばない。
「そうだな、三点差で体力ゼロでも、残り四十秒もあれば……気合で勝てる! どうせ体力がないんなら、身動き取れなくなるまで走る。そうすりゃ勝てるさ」
「地区予選よ? 次の試合はどうするの? アナタ、ボロボロじゃないの。次はもう試合にならないわよ?」
「次? んなこと考えてたら全力出せないさ。次のことは次に考える、目の前の試合に集中。でなきゃ勝てる試合も落としちまう」
「……その通りよ、解かったでしょう?」
 方城が、あっ! と声を上げ、久作とアヤを見た。最後は気合、というのがいかにも方城らしい。そして、方城に負けないほどの気合が奈々岡にはある。つまりはそういうことだ。
「リンリン、言いたいことは解かるけどさー、それって一種の誘導尋問じゃねーの?」
「そう? 私はあるシチュエーションを設定してみただけよ? そしてただ、どうする? と尋ねただけ」
 全く大した業物の持ち主だ、久作は内心で奈々岡の会話センスに拍手を送った。
「速河、そして方城もだが、その点に関しては諦めるんだな。スズくんはスズくんなりの信念と決意を持って行動している。部外者がそれに異を唱えたとしても、スズくんのそれは変わらんさ。しかし、と俺は言う。時野雄一氏がそれを良しとするか、ここをスズくんはもう一度冷静に考えるべきだ、とな」
 奈々岡が勢いよく立ち上がり、須賀を呆然と眺める。方城に向けていた知的さが崩れており、両手でドーナツを持つ姿が滑稽にも見えた。
「それよ! 須賀恭介くん! アナタ、どうしてその名前を?」
 須賀は少し面倒そうに欠伸を一つ、大したことでもないと手を振った。
「驚くほどでもないだろう? ローカル新聞の一枠になった事件だ。少し情報網を散歩すれば名前などすぐに出てくる」
「……いいえ、違うわね」
 久作はどうにも二人の会話に付いていけてなかった。須賀は既に、奈々岡と出合ってまだ一日で彼女の扱った事件の深部に近付いているように見えた。須賀と久作は確か、同じ程度の情報しか持っていなかったはずなのに、である。
「名前は解かるとして、アナタ、ピアノマンと言ったわよね? 報道情報が漏洩していたとしても、時野くんがピアニストだったなんてことは、関係者でも知らないレベルのことよ? 桜桃学園の情報管理はほぼ完璧で、私と会って数日、いえ、まだ一日だったかしら? それでそこまで知っているなんてあり得ない!」
「言っただろう? 散歩をしたと。情報管理などという――」
 ピンポーン、玄関チャイムが鳴った。
 何だ? 久作は辺りを見回す。ピンポーン。ここは高等部一年の教室であり、当然呼び鈴などない。
「……あ、メールだ。音消すの忘れてたー、ごめんねー」
 レイコがぺこりと頭を下げ、ケータイを開いた。昼休みなのでケータイが音を立てても別段迷惑ではないが、それにしてもどうして呼び鈴なのか、久作はレイコの真っ赤なケータイを見つつ、悩んだ。
「うん? 何だろコレ? 変なの。リンちゃん宛てのメールだよ? なんか難しいこと書いてて、あれ? 私の住所が乗ってる? 私宛? 間違いの間違いメール?」
「レイコ、何? 今は奈々岡さんと須賀くんが――」
 チリリリリン。電話が鳴った。
「やだ、私もマナーモードにしてなかった、ごめんなさ……何これ? 迷惑メール? 違うわね。奈々岡さん宛てのようで、何? 私の住所?」
 メール着信に呼び鈴や黒電話の音を設定するのはどうかと思うのだが、まあ趣味は人それぞれ……。
「レーコ! リカちゃん! 貸して!」
 突然叫んだアヤが、二人のケータイをもぎ取った。
「ひゃー!」
「ちょっと! アヤ!」
「シャラップ!」
 文句を言おうとしたリカにアヤがびしりと言い放つ。奈々岡が「どうしたの?」と尋ねるが、こちらは無視。二つのケータイ画面から目を離さない。
「……須賀恭介! お前はパソコン、あんまり得意じゃないだろう?」
「基準がアヤくんだと言うのなら、俺は初心者だな。ダブルクリックの意味が解かる、その程度だ」
「ピアノマン情報は、アングラ掲示板からだろ? でもって、桜桃学園裏サイトにも入ったな?」
 アヤの言葉には、かなり鋭利な棘があった。
「さすがはアヤくん。しかし前言撤回で、俺はパソコンやネットに関しては素人以上ではある。セキュリティに関しても――」
「シャラーップ!」
 アヤが大声を上げて、二つのケータイ画面を須賀と奈々岡に向けて言った。
「ブラックメールって知ってるか? 知らないだろ? 殆ど都市伝説みたいなもんだから知らなくてもいいけど、これがそのブラックメールだ!」

『奈々岡鈴さま
 友達は多ければ良いというものではありません。辛い過去よりも、前を向いて生きていくことを我々はお薦めします。――親切なアドバイザー
 〒***** **********』

「何だこれは? スズくん宛てのメールが、レイコくんやリカくんのケータイに? イタズラにしては――」
「イタズラじゃねー! ブラックメールだ! 須賀恭介! 失態だ! ヤバいぞー!」
 久作と方城も文面を読んだが、特に感想は出ない。内容がないからだ。自身をアドバイザーと称していて、まあそのような文章だとも読めるが、末尾にレイコとリカの住所が掲載されているのが解からない。宛先が奈々岡だからだ。
 須賀が、時野雄一……誰だか知らないがその彼がピアノマンだという情報をネットから拾ってきたらしい。しかし、桜桃学園裏サイトというのは初耳だ。どこかの学校にそういうものがあると久作も聞いたことはあったので珍しくもないが、アヤが、どうしてそこに須賀がアクセスしたのかを知ったのか、そしてブラックメール……全くお手上げである。
「アヤちゃん、私もインターネットだとかにはあまり詳しくないの。良ければ説明してくれないかしら?」
 奈々岡が久作を代弁した。しかしアヤは、待った! と手で制して、教室後方に走った。後方には生徒用ロッカーが備え付けられている、全学年共通である。自分のロッカーからアヤは、カバンを一つ持ってきた。
「まずはレーコとリカちゃんのブラックメールをこっちに貰う」
「いいよー、んじゃ、転送する――」
「ダメダメ!」
 アヤはレイコの手から再びケータイを取り上げた。アヤがにらむと、リカは自分のケータイをアヤに差し出した。
「えーと、レーコのはこれでいいけど、リカちゃんは会社違うから変換ケーブルで、あった! よしよし。まずはレーコのと、あたしのスクランブルケータイをケーブル接続と……」
 アヤは、普段手にしている黄色で派手なスライドケータイを久作の机に置き、もう一つのケータイを持ち出して、レイコの真っ赤なケータイとそれをカバンから出したケーブルで繋いだ。
 アヤのもう一つのケータイはブラックで、キーボードがスライドで出てくるタイプのものだった。しかし、久作が店頭で見たことのあるものとはかなり違う。まず、かなり大きくて分厚い。キーボードが二枚収納されており、それを左右に展開させると小さなパソコンのようになる。少々窮屈だがパソコンのキーボードと同じ感覚でタッチタイプできるかもしれない。側部に様々な形のスロットがあり、各種データメモリ媒体にも対応しているようだった。
「アヤちゃん、そっちのケータイ、凄いね?」
「速河久作、解かる? さすがだなー。こっちのはね、スクランブルケータイ。文字通りで緊急用のハイパースペック&カスタマイズケータイ。よし、転送終了。次はリカちゃんの、変換ケーブルで、ほいっと。スクランブルケータイはあたしの自慢の品その一で、ついでに必殺技その一なの。そのうち見せびらかそうと思ってたんだけど、まさかマヂでコイツの出番がくるとは思ってなかった。備えあればって奴? うーんと、そろそろ……」
 バババババン! 銃声がして、久作の机の上にあったアヤの普段の黄色いケータイが震えた。着信が銃声とは、これを趣味と呼ぶのはどうにも無理があった。
「久作、開いてみて、たぶんブラックメールだ」
「え? 触ってもいいのかな? その、人のケータイって、何だか抵抗があって……」
「そっちはいいの。重要メールとかアドレス関連は全部バックアップ取ってるから」
 言われて久作はアヤの黄色い、小さなケータイをスライドさせた。メール着信、開くと、レイコとリカのケータイにあったものと全く同じ文面と、最後にアヤの住所。
「同じだよ、アヤちゃん」
 アヤは指をパチンと鳴らし、リカにケータイを返すと、自分の黄色いスライドケータイと、スクランブルケータイとやらをケーブル接続した。
「方城護、このケーブルをLANジャックに繋げ。そこの柱んとこにあるから」
 方城に青いケーブルを渡し指示を出すと、アヤはカバンからノートパソコンを持ち出した。起動画面は久作の自宅のパソコンと同じくウインドウズだったが、画面の細部はかなり違った。
「よし、ブラックメールの吸い出し、完了と。こっからがアヤちゃんの腕の見せ所……って待て待て!」
 見たこともないブラウザでネットに接続したアヤが、キーボードから手を離す。
「どうしたの、アヤちゃん? 僕はその桜桃裏サイトっていうの、興味あるんだけど?」
 その場にいた全員が、久作に同意、うんうんとうなずく。
「あぶねー! ノリでそのまま突っ走るところだったよ! 速河久作、須賀恭介、それとリンリン」
 言われた三人は頑固な教師と接するように、アヤを眺める。
「トキノだかピノキオだか知らないけど、その事件の時はあたしは桜桃にいなかったから……リンリン、あたしは高等部からの編入なのだ、だから完全に他人事なの。自殺だか他殺だか知らないけど教師の体罰があって、まだ未解決。リンリンがジャーナリズムでそれを追ってるのか個人的な事情でかは別で、敵は三人の動きをもう捉えてて、先制攻撃がいきなり強烈なブラックメール。ここまではいい?」
 三人がうなずく。
「よろしい、続き。今ならまだ止められる。事件追うのを止めれば、ブラックメールを無視ってもOK」
「アヤちゃん? 私は久作くんへのお願いは取り下げようと、そう思ってたのだけど……」
 奈々岡が恐る恐る言うのに対し、アヤは「シャー!」と猫の威嚇。
「ブラックメールはリンリンじゃなくて、あたしらリカちゃん軍団に届いたの! リンリンのケータイ、着信ないっしょ?」
「ええ、ないわ」
「これがどんだけ強烈な警告か、須賀恭介、解かるか?」
 須賀が険しい表情で腕を組み、自分の顎をつかむ。
「俺の迂闊な行動で皆に迷惑をかけてしまい――」
「いや、そこんところは多分違うと思う。あたしがもしリンリンの話聞いてホンキだしたら、まずは桜桃裏サイトにアクセスすっから。単純にPC環境の差ってだけ。須賀恭介、リンリン。アカウント、いくつ持ってる?」
 奈々岡と須賀が顔をあわせて、殆ど同時に返した。
「一つだが? 家族とも共用していないからな」
「アカウントって、メールアドレスだったかしら? 一つよ?」
 その返答にアヤは「アウチ!」と自身のおでこを叩いた。
「速河久作?」
「オフィシャルとプライベート、あと海外をうろつく用で、合計三つだね」
「三つ?」
 奈々岡と須賀が同時に声を上げた。アヤの隣、方城がリカに「アカウントって何だ?」と質問していた。
「まあ、速河久作のが最低限レベルだな。ちなみにあたしは六つ。最低限の三つにコンピ研用オフィシャル&プライベートと、このアヤちゃんスペシャルノート専用。こいつにはあたしの機密がギッシリと納まってんの。まあそれはいいや。速河久作が言ってたけど、敵はプロかプロレベルだぞ? そいつらが止めろって警告してきてる……リンリン、まだやるっていうんなら、気合とか事情とかじゃなくて、まずは装備だ。そこんところ、どうすんのさ?」
 奈々岡が止まっていた。悩んでいるというより、困惑している。事態が飲み込めていない、そんな様子だった。
「アヤくん。相手がプロレベルだという根拠は?」
「ブラックメール」
 須賀に一言で返して、アヤは黙った。率先して沈黙するアヤを始めて見た。つまり、アヤにとってかなりの状況だということだろう。
「良ければ、それが何なのか教えて欲しい。俺はブラックメールという単語すら聞いたことがない」
「ホントのところは、ハッカーとかクラッカーに対する警告メールね。CIAとかNSAとかのサーバにハッキングをかけて遊んでる連中の誰かが、多重プロテクト破って機密に近寄ったら、即効でそいつんところにメールが届くの。そのハッカーの本名から住所、銀行口座番号、社会保障番号とかが書かれてて、一言「それ以上近付くな」って。それでハッカーはそれ以上は何もしない。相手に社会保障番号まで握られててハッキング続けるバカはいないからね。レーコとリカちゃんのケータイに届いたブラックメール。経路はたぶん、須賀恭介のPCアカウントからケータイ。ケータイのアドレス帳からレーコとリカちゃん、てな具合なんじゃないかな? つまり須賀恭介はハッキングされたってこと。ああ、あたしのケータイにも届いてたっけ? まあ、あっちはオフィシャルケータイだし全部バックアップあって、スクランブルケータイあるからどーでもいいんだけどね。だいたい解かった?」
 須賀がうなずき、隣の奈々岡が卒倒しそうになっていた。久作もまた、眩暈を覚えていた。
 ケータイ宛てにブラックメールというのも凄いが、それに完全に対応しているアヤ、こちらが凄い。ケータイを二台持ち、ロッカーからは変換ケーブルとノートパソコン。コンピュータ研究部とそれと自宅とでアカウントを六つ。相手、アヤは敵と言っていたが、そちらがプロレベルならば、アヤもまた同じくだ。
「私は既に相当の迷惑をかけていて、事件は追うべきではない……結論は出てるのね」
 久作の隣の椅子に座った奈々岡の手には、まだ食べかけのドーナツが握られていた。言葉に感情は乗っていない。須賀は沈黙している。
「なあ、方城?」
 久作は、蚊帳の外にいた方城に声をかける。
「今の状況をバスケに例えると、どんな感じだろう?」
「はぁ? 俺にお前らの会話内容が解かるとかホンキで思ってねーだろ? 俺はパソコンは苦手なんだよ」
「だからこそだ。外側にいる方城からはどう見える?」
 勘弁してくれ、と方城は頭を振って、たどたどしく言葉を発する。
「とりあえずピンチだってのは解かる。で、チームとしての力量が違いすぎる。相手がインターハイ常連で、こっちが一回戦敗退組ってところか? ブラックメールってのが強烈なカットインだとしたら、それやったフォワードは超一流だな。そんな奴がいるチームだ、ガードもセンターも相当なもんだろう。当然、チーム機能、連携もバッチリ阿吽の呼吸って奴だ。リンがもしスモールフォワードだとして、こいつはダブルチーム組まれてて身動きとれない。ボールを持ったはいいが、超一流の二枚ディフェンスだ、ボールキープだけで精一杯。須賀にパス出したらスティールされて、そっからブラックメールのカットインって感じか?」
「そんなところだろうね。リカさんがもしチームのヘッドコーチなら、どうする?」
 えっ? とリカ。自分に話を振られるとは想像していなかったようだ。
「私がコーチ? えーと、奈々岡さんからのパスは須賀くんには通らないのよね? だったら、アヤ? アヤにパスを出す。というか、アヤがボールを持ってれば、久作くんにも須賀くんにもボールが出せるんじゃないかしら? 相手が一流? だったらそうね、こちらも一流、方城くんを投入。アヤ、久作くん、方城くんの連携なら、どうにかなるんじゃないかしら? コーチってこういう感じなの?」
「ちなみに方城。最初から負けると解かっている試合を、お前はどうする?」
「負けるかどうかなんて、やってみなけりゃ解からん! チームのみんなが俺をエースだって信頼してくれてるなら、それに応えてガンガンに点を取る、それがスコアラーの仕事だ。そしてエースってのは、チームを勝利に導くもんだ! って、言わなくても知ってるだろう?」
「それでアヤちゃん……」
 アヤが立ち上がり、金髪ツインテールをぶんぶんと振った。
「誘導尋問だー! 速河久作! ブラックメールのヤバさを知ってて言ってるだろ? ここであたしが、負ける試合があったっていいって言ったら、ブーイングの嵐じゃんか! ホントにヤバいのに、これだから格闘家はイヤなんだよ! テメーの命をなんだと思ってるんだって話だよ、なあ? レーコ?」
 列席しているが話を聞いていたか不明なレイコなので、場を和ませる相槌でも出るかと思ったが、かなり違った。
「アヤちゃん! このブラックメールはね、リカちゃん軍団に対する挑戦状なのだ! 私とリカちゃんとアヤちゃんに挑戦状! うー、アチョー!」
 レイコの拳がビシッと空を切り、アヤががっくりとうなだれた。
「ああー、ダメだー。絶対ヤバいのにー、感情に流されちゃダメって時もあるのにー」
 アヤは差し入れのプチトマトを三つ口にほおばって、もごもごと顎を動かしつつ、スクランブルケータイの文面を読み返していた。
「……あの、つまり、どうなったのかしら?」
 奈々岡が心底不思議そうな顔で、アヤと久作を交互に見る。それに応えたのは須賀だった。
「俺を含めたこの面子で、挑戦状を叩きつけられて逃げる人間は一人としていない、そういうことだな、速河?」
「攻撃は最大の防御っていうのは、案外正論かもしれない、そう思っただけだよ」
 昼休みの終わりのチャイムが、まるでアヤの泣き声のように聞こえた。

第六章~ボギーワンはクイーンの涙に弱い、繰り返す

 1‐Cの三限目、数学の授業風景は、かなり奇妙なものだった。
 年配の仲迫なかさこ教師、彼の生徒間でのよろしくない評判は、この一ヶ月で一転、なかなかのものになっていた。
 先月の幾つかの授業で仲迫教師は、須賀とアヤからの凄まじい攻撃を受けて一度、木っ端微塵に爆散した。年功序列、生徒は単なる子供といった認識を覆された仲迫は以降、授業をやたらと難しくすることを止め、きちんと教科書どおりに進めるようになり、時折、生徒を褒めることさえあった。まだ慣れていないようでリカからはとてもぎこちなく見えるが、それでも以前の傲慢と粘着質が嘘のような気軽さを示す中迫は、本人の努力の分だけ好印象を与えた。
 奇妙なのはそんな仲迫ではなく、リカの右耳にあるイヤホンから聞こえる会話、こちらだった。
「こちらHQ。ボキーワン、状況を知らせ」
「ボキーワンよりHQ。AKVウィザードまであとフタマル。天候は最悪、状況はクリア、どうぞ」
「HQ了解。回線はこのまま、警戒を厳に。交信終わり」
 リカは、眼前のホワイトボードと、明るく振舞う仲迫を見て、ふうと大きな溜息を一つ、ロングヘアをかきあげた。アヤの言うように、深く関わるのは止めておいたほうがいいとリカも思った。理由はあのブラックメール。
 アヤの説明どおりなら、危険どころではないからだ。それでもリカが強く反対できないのは、同じくブラックメールである。自分のケータイアドレスと住所が顔も知らない他人に知られている、これほど不快で不気味なことはない。自分も既にとても危険なのだろうとも解かる。だから今なら止めてもいいというアヤの意見に賛成したいところだが、久作と須賀は完全に逆の姿勢だった。
 それが、もっとも危険な立場にある奈々岡を思ってのことだとは解かる。アヤはまあ一人で大丈夫だとして、自分とレイコも現時点では大丈夫かもしれない。アヤや久作、須賀に方城がいるからだ。それはつまり、奈々岡一人では危険であるという意味でもあり、既に知らない仲ではない彼女をそのままにしてはおけない。無理矢理考えを脱線させても、リカの結論は久作と須賀のそれと同じだった。だから、リカの耳にはイヤホンがあり、そこから奇妙な会話が聞こえているのだ。
「ボギーツーより全員。二問目が全く解からん。敵がこっちを見てる、ヘルプ」
「ボギースリーよりボキーツー。お前は撃墜されてしまえ」
「HQより各員へ。真面目にやれ。これはカンニングの装備じゃねーの、交信終わり」
 窓寄り最前列に座るリカは、教室入り口近くの方城をにらんだ。こんなことがバレたら、態度を一新した仲迫先生だって怒る、と。リカは胸元のピンマイクに、はあと溜息を吐く。アヤのカバンから出てきた「間に合わせの装備」は、ケータイを使って全員を繋いでいた。頭痛だか腹痛だかと言って教室から姿を消した久作とも繋がっている。リカは最前部、仲迫教師のそばなので積極的に会話には入れないが、ぶつぶつとつぶやく程度でピンマイクは声を拾うらしく、ホワイトボードを向いたままでも会話ができた。
「こちら、えーと、ナントカ。HQ、ここまでやる必要があるのか凄く疑問」
「ナントカ? コールサインはグレイハウンドだ、忘れんな、オーバー」
「はいはい、こちらグレイハウンド。大袈裟すぎて逆にバカバカしく思えてきました。全員に授業を真面目に受けることを提案します」
 最後にリカの溜息が入った。と、リカの耳にあるイヤホンが怒鳴った。
「こちらボギーワン、状況をアップデート! クイーンを発見! 更にクイーン周囲に識別不明機が二つ、いや三つ! 接触まで十秒!」
「なにー!」
 アヤが大声を上げて立ち上がったので、教室がざわついた。
「うん? どうした橘? 解からないことがあれば遠慮なく質問していいぞ?」
 仲迫教師がホワイトボードから振り返り、あまり似合わない笑顔でアヤに尋ねた。アヤはホワイトボードに並ぶ公式の一つを指差し、それがどうとか適当なことを言って座った。
「こちらグレイハウンド! 大丈夫なの?」
「ボギーワンよりグレイハウンド、識別不明機は交信に応えず。クイーンに危険があると判断、識別不明機を敵機に設定」
「こちらボキースリー、支援が必要か? 敵の装備が解かるか?」
「装備は木刀、支援の必要はない。HQ、交戦許可を求む」
 リカ、須賀、そして方城が、教室中央のアヤを見る。中迫からは、先ほどのアヤの絶叫の余韻のように見えたであろう。
「HQよりボギーワン。交戦は許可できない。繰り返す、交戦は許可できない。クイーンの安全が最優先。ウィザードへ退避せよ」
「何!」
 ボギースリーこと須賀が通信と教室を震わせた。
「……ボギーワン、了解。努力してみる」
「グッドラック、交信終わり」
「終わっていいのか? えー、こちらボギーツー」
 方城への返事はなく、交信は一旦終わった。

 1‐Cから歩いて二分ほどの廊下に久作と奈々岡。その周囲に三人。久作はそのどの顔にも見覚えはない。
「久作くん! こんなところで何を? 今は授業中よ?」
 奈々岡は冷静を装っていたが、語気が荒い。
「その質問はそこの三人にだよ。奈々岡さんがどうしてこんなところにいるのかはいいとして、だんまりを決め込んだ三人――」
 すっと上段に構えられた木刀が、予想以上の速度で振り下ろされる。奈々岡の肩の辺りを狙っている。奈々岡の前に素早く滑った久作は、木刀を右肘で横に払った。ゴン! と鈍い音が廊下に響く。
「問答無用でいきなり木刀。当たり所が悪ければ病院だと解かっててやってる。ちなみにリンさん、この連中に見覚えは?」
「け、剣道部。名前は……ごめんなさい、覚えていないわ」
 もう一人が奈々岡に木刀を振った。横一文字のそれを久作は飛んで左鉤手かぎてで打ち払う。狙いはあくまで奈々岡だけらしい。先に久作が防いだい上段が、再び奈々岡に振り下ろされる。
「さあ、どうする? 速河久作!」
 アクセル全開、久作の思考が一瞬でフルスロットル、法定速度を超えた。
 木刀の先端がゆっくりと奈々岡に迫る。XLの速度では間に合わない。航空支配戦闘機、F‐22・ラプターのエンジン点火。マッハ1.58の超音速巡航スーパークルーズ……木刀が止まった。これが速河久作の最大最強の武器、「桁外れの集中力」である。音速を超える思考で、世界が止まるのだ。奈々岡を狙った木刀は、それが剣道部のものといっても止まっているのでどうにでもなる。
 解からないのは、アヤが交戦を許可しなかったことだ。
 HQヘッドクウォーター、最高司令部にアヤを置いたのは、当然アヤがもっとも情報戦に優れているからである。まだ桜桃新聞の奈々岡の記事さえ読んでいないだろうアヤを指揮系統のトップに置いたのも、情報戦能力がゆえである。自覚はあるが、久作は、奈々岡に対してかなり感情的になっている。
 危険だと知りつつ手を貸したいというのが、同情の類であることはいうまでもない。感情と理性を瞬時にスイッチする自信は久作にはあったし、須賀もそれは出来るだろう。しかし、全貌が見えない段階だからこそ万全で挑むべきで、完璧に感情を排してブラックメールの危険性や、それから想定される状況を推測できるアヤに、指揮系統をまかせたのだ。
 久作からの通信で、久作がクイーンこと奈々岡鈴と三限目の教室の外で遭遇したことと、そこに剣道部らしき三人が現れたことを知ったアヤ。取り囲む三人の腕前がどれほどかは知らないが、三人ならばどうにかなる、それをアヤが知らないはずはない。しかし交戦するなと言い、AKV(航空機運搬艦)ウィザード、保健室の露草葵のところに急げと言った。
 奈々岡を保健室の露草に預けるのはいいとして、しかし交戦は許可できない……つまり、倒すなと、そういうことだ。

 ……まずはここまで。久作は向かって左上、奈々岡に迫る木刀を、発勁{はっけい}の拳で粉々に砕いた。
 バン! と盛大な音が廊下に響き、バラバラの木片が散らばる。久作は通常思考に戻った。
「何? 久作くん! 木刀が折れた、いえ、粉々に? 何者なのアナタ?」
 そうか、と久作は思った。単なる力技のパンチならば、普通、木刀は折れるのか、と。気を練った勁けいを打ち込んだので通常とは違う力の伝わり方のしたのかもしれない。
 木刀でもカーボン素材のものがあったはずだが、それだとどうなるか。さすがに粉々にはならないだろう。先ほどバラバラにした木刀の材質は知らないが、同じく素性を知らない剣道部らしき三人には、ほどほどの威嚇にはなっただろう。
「剣道部が相手なら、僕じゃなくて須賀だな。少なくとも今の僕に戦闘の意思はない。警告は一度きりだ、引け!」
 木刀をバラバラにされた一人が久作をにらんでいる。警告に従うとは思っていなかったのだが、三人は目で合図をしてから廊下を駆け出し、階段を上がって消えた。
「ボギーワンよりHQ。敵機をロスト。こちらの損害はゼロ、クイーンは健在。これよりウィザードへ向かう。なお、敵は剣道部とのこと、オーバー」
「……ねえ、久作くん? さっきからだけど、何を独りでぶつぶつと言ってるの? クイーンだとか敵機だとか」
「ああ、これ? IFDL、イン・フライト・データ・リンク。編隊と司令部にリアルタイム相互通信。戦況情報を共有することで臨機応変に戦術が組みかえられる。ラプターが無敵な理由の一つさ」
 久作はヘッドセットを指差して説明した。リカや須賀、方城はイヤホンとピンマイクだったが、アヤの手持ちに人数分がなかったので、久作とアヤはヘッドセットを装備していた。
 自動車の運転中などに使われるもので、アヤは授業のカムフラージュのために、ヘッドセットに黄色いリボンをつけ、カチューシャか何かに見えるようにしていた。久作のヘッドセットはケータイに接続されており、1‐Cの全員のケータイはずっと通話状態なのだ。
「こちらHQ、状況終了。バッテリー温存のために通常回線に切り替え。ボギーワン、ウィザードによろしく、オーバー」
 ぷつっと音がして通話が切れた。
「イン・フライト? 凄いわね? いえ、アヤちゃんが言っていたわね。それくらいの装備ナシじゃあ話にもならないって」
「そうだね。間に合わせでデータリンクを構築だなんて、アヤちゃんじゃなきゃ無理だよ。ところでリンさん。授業中にこんなところで何を?」
 久作が保健室に向かって歩いていたので、奈々岡もそれに続いた。保健室までは一分ほどだった。ノックを数度、中から返事があったので、久作と奈々岡は保健室に入った。迎えたのは露草葵のさかさまの顔、久作は少し驚いた。
「なんや? リンと速河かいな」
 煙草をくわえたまま、事務椅子で目一杯のけぞっているのだ。
「けったいな組み合わせやな? クラス違うかったやろ? 言っとくけど、ここはデート場所やないで? そういうんは図書室とか情報室とか、そーいうとこでやりや?」
「でも、図書室にはベッドがありませんよ? 先生?」
 ……ん? 何だ? 奈々岡の科白に、久作は首をかしげる。
「リン、そういうんはゼータクいうんやで? 第一、ここ使われたら、ウチの居場所あらへん」
「職員室には喫煙コーナーはないんですか?」
 何となく久作は質問してみた。
「あるで? せやけど、そないな話ちゃうやろ? んで、いちおう聞いとくけど、具合悪いとかやったら先に言いや?」
 かちり、と音がした。露草の煙草の先端がオレンジに光る。奈々岡がベッドに座ったので、つられるように久作も座った。
「具合が悪くなりそうです。久作くんに助けられましたけど、ついさっき、そこの廊下で剣道部らしき三人組に襲われました」
 紫のわっかが三つ、ゆらゆらと漂う。
「剣道部が三人? 難儀な話やなー、それは。それで、速河はその三人をぶっ倒したんか?」
「いえ、久作くんは一人の木刀をバラバラの粉々にして一喝。それで相手は逃げました」
「木刀を粉々? 相変わらず仙人みたいなやっちゃなー……リン!」
 いきなり奈々岡がベッドに倒れたので、露草は大声で事務椅子を蹴り飛ばした。奈々岡をベッドにきちんと寝かせた露草は首筋に手を当て、脈を取る。ベッドの端に座る久作には状況が飲み込めない。
「過度のストレスやな。そらまー、木刀の三人に囲まれたらこないなるわ。リン、アンタは気ぃ張りすぎや。前にも言うたやろ? リラックスや、リラックス」
「死んでしまったら、リラックスも何もありません。私は……」
 奈々岡の言葉はそこで止まり、しばらく待っても続きは出なかった。オレンジのハーフフレームが枕の横に置かれ、奈々岡は両腕で顔を覆った。
「速河。リンはな、何ていうんか、不器用な奴やねん」
 露草が言ったが、意味が解からなかった。奈々岡ほど器用な人間はいないだろうに、そう思ったからだ。業物の会話しかり、一眼レフしかり、新聞記事しかり。須賀と同等に会話が出来て、事件はともかく文章力もある。つまり、相当の頭脳の持ち主だ。出会って二日目だとはとても思えないほど皆と親しくできる。少なくとも学園生活で不自由はないだろう。
「解からんやろな、速河でも。リンは感情のコントロールが達者なんや。んで、達者すぎるから、ほれ、今もこんなや。怖かったら泣いて叫べて言うても、頭ん中で処理しようとする。感情を外に吐き出す、いうんが出来んのや。他人に迷惑かけるとか何やとかあれこれ理屈並べてな。気丈夫いうんは案外モロいもんで、そこんとこをウチは心配してるんやけど、リンは強情やからな」
「冷静でなければダメなんです! 死んでしまったら何もできないんです!」
 顔を隠した奈々岡が叫んだ。
「冷静言うといて、理性と感情がごっちゃになっとるやないか。どないするかなー?」
 うーむと唸る露草の視線はしばらく保健室を漂い、久作に止まった。
「単純いうんか安直いうんか、まあええわ。速河、ちょいと右に移動せい、そそ、そこでええわ。リン、速河の胸におでこ付けてみ?」
 露草の言うまま、久作は移動して、奈々岡はうつむいたままベッドから起き上がり、久作の胸に頭頂部を当てた。
「リン? 速河に礼したか? アンタはさっき、剣道部に囲まれたんやろ? 木刀の三人組からアンタを守れる男子が、桜桃の知り合いに何人おる? 昔のボーイフレンドも大切やろうけど、速河に礼するんが先や、違うか?」
「露草先生、僕は別にお礼をされるほどでもないですよ?」
「……ありがとう」
 頭を胸に付けたまま、奈々岡が小さく言った。
「いいよ別に。偶然通りかかった、運が良かったってだけさ」
「リンのクラスにも腕っ節のいいのがおるやろうけど、相手が剣道部で木刀で三人やったら、悲惨な状態で病院直行やで? 速河やから、かすり傷の一つもないんや」
 のんびりした調子で露草は言った。まあそうだろうと久作はうなずいた。須賀や方城ならともかく、三対一でしかも有段者の木刀。確実に入院だろう。
「私……ごめんなさい! 久作くん! 私はまた!」
 後は言葉にならなかった。久作に抱きついた奈々岡が大声で泣き叫び、久作を締め上げたからだ。
 涙がばたばたと久作の太股に落ち、外と同じく梅雨の如くであった。三限目終了を知らせるチャイムは奈々岡の泣き声でかき消され、上手く聞き取れない。

 露草が「リンは不器用だ」と言っていた。感情コントロールが達者だとも。

 常に冷静であれ、というのは奈々岡のジャーナリズムの一つかもしれない。自分は、と久作は考える。多分、冷静なほうだと思う。感情コントロールに関しても自信はある。というより、その二つは久作の武器でもある。しかし、とてつもなく悲しいことがあったとして、自分は奈々岡のように上手に泣けるだろうか? 正直、解からなかった。そういった経験がないからだ。
 剣道部の木刀は久作にはどうでもいい程度のものだったが、奈々岡にとっては違う。授業中の廊下で白昼堂々と襲撃する。された側にしてみればとんでもない話だ。露草が、自分だからこそ対応できたと言っている、その通りだろう。
 須賀や方城でも対応できただろうが、つまりは、久作、須賀、方城くらいでなければ対応できなかったと、そうなる。あの場面で奈々岡が一人だったとしたら、仮に保健室にいるにしても、救急車を待つ状態に違いない。奈々岡の涙は止まらない。当たり前だ。それでも露草に言われるまで冷静でいた。いや、冷静さを強引にキープしていた。
 奈々岡は確かに不器用だ。相当に危険な状態に晒された直後にあれだけ冷静に、イン・フライト・データ・リンクの話。普通ならできるはずがない。背中に回された奈々岡の腕に力が入る。大声で泣いている。おそらく奈々岡はそういった姿を誰かに見せたくないのだろうが、露草はそうしろと言った。露草がスクールカウンセラーで臨床心理士、精神に関するスペシャリストだから奈々岡は泣いている、泣けているのだ。
 襲撃された恐怖とは別のものも含まれているのだろう。自身で書いた新聞記事だとかで。
 不器用な奈々岡に対して久作が出来ることといえば、その肩にそっと手を置く、それくらいだ。アヤが名づけた「速河流八極拳」。しかしその奥義には、奈々岡の涙を止める技など一つもない。「桁外れの集中力」と「速河流八極拳」を取り去ると、久作にはアルカイックスマイルくらいしか残らない。何か気の聞いた、奈々岡を和らげる科白でも、と思案したが、不要だと追い払った。
「こうやって大声で泣くことで解決することも、世の中にはあるのかもしれない。だったら目一杯泣けばいい、単純な話だ」
「そういうことや。速河は鈍感やと思うとったけど、女心いうんを少しは勉強したみたいやな?」
 無意識で口に出た言葉に、露草が妙な相槌を打った。そんなものか? 久作は露草の言葉を反すうしてみるが、特にこれという結論は出なかった。ブレザーのポケット、ケータイを通話状態にして、ヘッドセットを装着した。
「ボギーワンより各機。クイーンと共に、無事、ウィザードに着艦。ボギーワンはクイーンの涙に弱い、繰り返す、ボギーワンはクイーンの涙に弱い、オーバー」
 データリンクに乗せる情報かどうかはともかくとして、状況を共有するのがそもそもこの装備の役目である。
「ボギースリー、了解。クイーンはまかせる」
「ボギーツー、同じくだ! 交戦許可を求める!」
「プラウラー! コンセントレーションでアチョー!」
「グレイハウンド、ボギースリーに同意。ボギーツーは却下、プラウラーは無視。焦りは禁物よ?」
 通信をコールサインにしているのは、盗聴の恐れがあるというアヤの提案からだった。コールサイン設定は久作によるもので、それぞれが戦闘航空機のものである。レイコのプラウラー(うろつくもの)は大型の電子戦用戦闘機、リカのグレイハウンドは大型貨物輸送機。しばらくの間があり、司令部から通信が入った。
「こちらHQ、状況をアップデート。以降、コールサインをホークアイ(鷹の目)に変更。クイーンのソースを全て真実だと仮定した場合に想定される敵の正体を、ボギースリーと検討……終了。敵影補足、ワン・ツーのコンビネーション。ボギーワンはそのままスクランブル待機。合流はヒトロクマルマル、ポイントE2M。ただし、現時点では交戦は許可できない、繰り返す、交戦は許可できない」
 今は、三限目の終わり、休憩時間だが、アヤと須賀が何かをつかんだらしい。すぐに教室に戻りたいところだが、奈々岡の涙は止まっていない。第一、スクランブル待機だと命じられている。何もせずで十六時まで保健室というのはさすがにタイムロスだろう。ならばここでやれること、ここでしか出来ないことをやればいい。そう、ここにはウィザード、無敵の航空母艦、露草葵がいる。
「露草先生、ワン・ツーのコンビネーションというと、何を連想します?」
「なんやソレ? ボクシングかいな? 速河は八極拳やろう?」
 奈々岡の記事には「暴行の形跡」とあり「体罰はなかった」ともあった。科捜研の鑑定結果が「大人か、大人と同じ体格の人物」と絞っている。全てを正しいと仮定すれば、状況は単純だ。つまり、体罰はなかった。
 暴行の痕跡が運動部部活動によるものだとすれば、それはあっても不思議ではない。単なる打身などではないことは、暴行の痕跡という警察の見解からの推測で、ならばそれは意図的なものということだ。意図的な暴力痕が生じる部活動といえば、格闘関連となり、刺し傷などではないらしいから、素手によるもの、剣道部やフェンシング部は除外できる。柔道ではあからさまな打撃痕はまずないだろう。空手部はあり得るが桜桃学園の空手部はフルコンタクトではない。残るのはボクシング部。空手部とボクシング部に絞れば、「暴行の痕跡」と「体罰はなかった」は両立できる。
 しかしだ。そこから自殺には遠すぎる。須賀がピアノマンとも言っていた。そして、ブラックメールと剣道部による襲撃……。
「ダメか。全部が推測なのに、そもそも情報が少なすぎる。解かっていることといえば、剣道部らしき三人の襲撃、これだけだ。顔を隠すでもなくそんな真似をする、尋常じゃあない。素性がバレてもいいということか? いや、待てよ。あの三人が三限目の途中にここに通じる廊下でリンさんを襲う、奇妙どころじゃあない。そんなことはリンさんを監視でもしてなければ、いや、リンさんのクラスメイトなら……。もう一つあった。あのブラックメールには確か「我々」とあった。ブラフ(脅し)かもしれないけど、少なくとも単独でないことは間違いない。……参ったな、考えると規模がどんどん大きくなる」
 久作は再びデータリンク、ケータイを通話状態にした。
「こちらボギーワン。クイーン周囲にスパイがいる可能性。T撃墜と先の襲撃が繋がらない」
「ホークアイよりボギーワン。焦るな、ラプター三番機をE型装備に改修した。もうクイーンの基地に向けて発進してる。Bメールからこの通信は傍受されていると想定、厳重注意だ、オーバー」
 通信が切れた。
 ラプター三番機というのは、須賀だ。E型はエレクトロニクス型、つまり電子戦用の何かの装備をアヤが与えたのだろう。それで須賀は奈々岡のクラスに聞き込みか何かにいったらしい。そもそも情報が少ない、ここは須賀とアヤに任せるのが得策だろう。というより、今の久作には何も出来ない。奈々岡から目を離すわけにはいかず、迂闊に動けない。
 ブォン! エキゾーストが鳴り響いた。いや、ここは保健室で外は雨。聞き覚えのあるエキゾーストではあるが……。
「おっと、メールかいな。そういえば今日明日辺りに飲みに行くいう約束してたな、って何やコレ? リン、アンタにメール……ちゃうな。前向きに生きろて、余計なお世話やっちゅーに。ウチにはウチの生き方いうんがあるいうねん。何がアドバイザーや。アドヴァイスいうんはもっと的確で具体的な……速河? どないした?」
「もうイヤ!」
 奈々岡が久作に抱きついたまま叫んだ。両手の力の入り方が、奈々岡の怯えをあらわしている。
 ブラックメール。それが露草のケータイに届いた。宛先は、奈々岡鈴。須賀とアヤに任せて待つと決めたが、どうやら相手は待ってくれないようである。迂闊に動けないが、じっとしたままでこれだけ包囲されている。こちらはまだ、一年前の事件の全貌どころか、相手が何者なのかすら解かっていない。このままではとても奈々岡の精神がもたない。久作はデータリンクを繋いだ。
「ボギーワンよりホークアイ。ウィザードにBメール、繰り返す、ウィザードにBメール。指示を」
 三十秒ほどの沈黙。
「こちらホークアイ、状況をアップデート。ウィザードは浮沈艦だ、問題ない。プラウラーを増援に回す。プラウラーの護衛はボギーツー。以降、ボギーワンはウィザードの指揮下に入られたし、オーバー」
 通信終了。
 露草の指揮下? 完全な部外者の露草の下にいろというのは、つまり、じっとしていろということだろうか。久作は保健室の小さなロッカーを漁っている露草を見る。何かを探しているようだった。
「ったく、シャレはたいがいにせー、いうねん。あー、モシモシ? アヤか? おー、そうや。ウチんところにアンタが前にいうとったブラックメール、きたで? ……ああ? そっちの三人にもかいな。コレ、どこまでがシャレやねん。ん? 速河とリンを? まー、そやな。加嶋と方城? ……それは別にええけど、ウチ、今晩は飲み会あるんや。パパーっと終わらせるで? ええな? んじゃ、さいならー」
 事務机に置かれたコバルトブルーの小さなケータイを突付いている露草の手には、黒くて分厚いケータイが握られていた。そう、アヤの持っていたあの、スクランブルケータイである。データリンクでアヤは言った、「ウィザードは浮沈艦だ」と。
 四限目開始を知らせるチャイムが鳴る。相手、敵の全容は未知数だが、冷静に考えると、こちらの戦力もまた、相手には未知数かもしれない。後手ではあるが、負けているかというと、どうやらそうでもないらしかった。

第七章~あたしに情報戦で勝とうなんて、百年早いっつーの

「プラウラーな私、着陸ー!」
 レイコが方城と共に保健室に入ってきたので、奈々岡は久作から飛びのいた。泣きはらした目が真っ赤で腫れぼったい。
「リン、俺とかは気にすんな。状況はなんとなく知ってる。別に変な誤解とかしねーよ」
 方城が淡々と言うが奈々岡はハーフフレームをかけて、首を振った。方城の言葉に否定らしいが、どの部分にかは解からない。
「えーと、これ。アヤからだ。速河と露草先生にって言ってたぞ?」
 方城が黒いカバンを久作に差し出した。中身は、ケータイよりも一回り大きい無線機が二台。他にDVDディスクが一枚とメモが一枚。そして、麦藁帽子と奈々岡の一眼レフ。ディスクとメモは露草宛てだと付箋に書いてあった。それらを露草に渡したところで、ザッと雑音が聞こえた。無線機の一台からだ。
「あー、あー、速河久作ー、聞こえてる? アヤちゃんだ。あ、返事はいらねーよ。三分後に葵ちゃんとコンビネーションアタックかけるから、全員配置につけ。時計合わせるぞ? 四分十八秒、十九、二十……」
 久作は慌てて自分のデジタル時計を見るが、誤差はなかった。
「時計いいな? リカちゃんと須賀恭介はもう配置についてる。レーコと方城護はさっきいったとおりに。作戦開始の合図はリカちゃんから出るから、一分後にデータリンクONだ。オーバー」
 ザッと音がして無線機は沈黙した。言うまでもなく、久作にはアヤの意図はサッパリだった。
「速河、あとリン。ケータイを交換だ。リンはレイコと、速河は俺とだ。よし、レイコ、準備いいか?」
「あいよー! 準備オッケイ!」
「待ってくれ方城! 僕は?」
 方城は露草を顎で指し、レイコと共に保健室から出て行った。露草はというと、事務机にある一世代前のパソコンに向かっている。久作は方城のケータイにヘッドセットを繋ごうとして、方城のケータイの付箋メッセージに気付いた。そこには「マイクは消音ミュート」と書かれてあった。
 ヘッドセットを頭に装着、マイク部分にあるボタンでミュートにしたが、全く状況が飲み込めない。レイコのケータイから伸びるイヤホンを耳にした奈々岡も同じで、黙ったまま久作を見詰めていた。奈々岡の手にある真っ赤なケータイにピンマイクはなく、こちらもミュート環境らしい。
「よし、準備完了や。アヤ、いつでもいいでー?」
 露草は例のスクランブルケータイを肩と耳で挟んで、PCモニターをにらんでいた。久作と奈々岡はベッドから立ち上がり、露草の後ろに立つ。ダダン! 久作のヘッドセットが鳴った。バスケットボールが床を打つ音だ。
「野中先生。昼食のトマトが傷んでいたみたいで、速河くん、方城くん、須賀くんに加嶋と橘はそろって保健室です」
 野中というのは日本史担当の女性教師である。声の主はリカ。
「嘘! ごめんなさい。まさか痛んでいたなんて――」
 奈々岡が言いかけたが久作が素早く制した。
「ホークアイより各機。状況開始。ボギーツーは2‐A、ボギースリーは1‐A、プラウラーは職員室前にてそれぞれ待機。今から二分後に敵司令部にサイバーアタックをかける、オーバー」
 直後、露草のコバルトブルーのケータイが鳴った。露草はそれを奈々岡に放り、うなずく。奈々岡がケータイを開いた。
「もしもし……アヤちゃん? ……ええ、一年前に自殺したTさんというのは私の知り合いだけれど……そう、遺書の文面を知っているのは警察関連を除けば遺族と私くらいで……」
「プラウラー、状況知らせ」
「え? ……解かったわ。……そう、時野雄一くんという名前。中等部三年の一時期だけ顧問の先生に誘われてボクシング部にいたのだけれど、ミュージシャン、ピアニストの道に進むと本人は言ってすぐに辞めたの……アヤちゃん? 切れた?」
 久作の無線機から「変化なーし!」と声がした。レイコだ。
「よっしゃ、時間や。教師専用IDで桜桃データバンクにアクセス、教員履歴一覧。そっからハッキングマクロ展開。アヤ? そっちに転送するで? えー、当時の担任は、今は高等部1‐Aの担任、英語Ⅰの渡瀬センセ。剣道部の顧問は相沢センセ、化学担当や。ほー、凄いな。相沢センセは大学選手権で全国二位やって? 世界史の伊達センセがボクシング部顧問。ほほー、プロライセンス持ってたみたいやな。ボクサー崩れの教師いうんも珍しいなー。渡瀬センセは英検一級、これはこれで凄いっちゃ凄いんかな。空手部顧問の屋久センセはなーんも実績ないわ、お飾りかいな?」
「ホークアイより各機。渡瀬、相沢、伊達、屋久、マーク」
「ボギーツー、了解だ」
 久作と奈々岡の耳に方城の声が届いた。
「こちらボギースリー。相沢は現在1‐A。伊達は2‐A。状況変わらず」
 ピンポーン、ケータイが鳴った。奈々岡のケータイにメール着信、アヤからだ。内容は……。
「ホークアイよりプラウラー。職員室に侵入せよ。ターゲットは相沢と伊達、渡瀬の机。ピッキングツールの使い方は説明したとおり。日記の類があればそれを確保せよ。 ――ホークアイ」
 何! 覗き込んだ久作は思わず声を上げた。コールサイン・プラウラーはレイコだ。アヤがレイコに、職員室に忍び込めといっている。護衛もなしでそんな真似は危険すぎる。久作はヘッドセットに怒鳴ろうとして、それがミュート設定だったことを思い出し、無線機に向けた。
「ボギーワンよりホークアイ! 危険だ! 作戦中止を提案!」
 データリンク再開、ヘッドセットからアヤの声が聞こえる。
「こちらホークアイ、提案は却下。プラウラー、作戦続行」
 ダダン! とケータイが鳴って通信が切れる。メール着信だ。
「奈々岡鈴さま。知らないことが幸せだということもあります。 ――親切なアドバイザー」
 ブラックメールだ! 久作が大声を上げるより先に再びケータイが鳴る、データリンクである。
「こちらグレイハウンド、Bメール着信。繰り返す、Bメール着信」
「ホークアイより各機、状況をアップデート。ボギーツー、スリー、警戒せよ」
「ほー、伊達センセはヘヴィー級か。実績は大したことないな。まあ、ボクシングいうんは対戦カードで勝負決まるところあるから、いくら黄金の右いうても、ラッキーパンチでKOされることもあるか。それでも、ライセンス取得まで全試合一ラウンドKOやから、実力はあるんやろ。くじ運なかったんやろな。実力いうたら、時野いうんもなかなかやな。こっちも黄金の右の持ち主や。それやのにピアノいうんは、頭脳派格闘家いうところか? ま、ホンマにやりたいことをやるんが一番やな。トレーナーとしては悔し涙やろうけど、イヤイヤでやっても強うはなれんからな。ん? 伊達センセと相沢センセは同じ大学の先輩後輩かいな? 知らんかったなー」
 ピンポーン、呼び鈴は奈々岡の手にある、レイコのケータイからだ。ブラックメール、文面はグレイハウンド、リカと同じだ。奈々岡の顔がさっと青ざめる。久作が奈々岡の肩に手をやろうとすると、ダダン! メール着信。
「ピアノマンは黄金の右の持ち主で、トレーナーにとってはダイヤモンドの原石。手放せば大損だ。 ――ホークアイ」
 ホークアイ・アヤが露草の科白を繰り返している。
「ホークアイよりボギーツー、スリー、状況知らせ」
「こちらボギーツー。変化なしだ」
「ボギースリー、変わらず……いや、待て。所属不明機を補足。数、三。ボギーツー、後ろだ。接触までおよそ一分。狙いはおそらくクイーンだ」
「ホークアイよりボギーツー、スリー。状況をアップデート。オールウェポンズフリー、オールウェポンズフリー。ボギースリーはプランBに変更、特殊兵装の使用を許可する。迅速に対応せよ、繰り返す、迅速に対応せよ」
 データリンクで会話を聞いている奈々岡だが、状況は全く見えていないらしい。それは久作も同じだった。解かるのは、アヤが方城と須賀に交戦許可を出したこと、それだけだ。
 三人の敵がクイーン・奈々岡に迫っていると言っているが、それに方城と須賀で応じろとアヤは言っている。つまり、相手の狙いは奈々岡だが、場所はここではない。二人以外で今、襲撃される恐れがあるのは、リカとレイコ、そしてアヤ。しかしリカは1‐Cで授業中。アヤの所在は不明だが、相手に察知される場所にはいないだろう。残すは、職員室に忍び込んでいるレイコだ。方城は確か2‐Aの前で、須賀は1‐A。職員室は特別棟一階の隅にあり、二人からは全力疾走でも一分はかかる。久作のいる一階保健室からでも同じくだ。相手が久作の対峙した剣道部三人だとすると、無人であろう職員室のレイコは……。
「ダメだ! 間に合わない! レイコさん逃げろ!」
 久作はミュートを解除してヘッドセットに怒鳴った。が、すぐに気付く。
「しまった! あっちはリンさんのケータイか! リンクしてない!」
 久作は焦燥感から保健室を飛び出そうとしたが、次の通信で止まった。
「っしゃあ! ボギーツー、一機撃墜! 秒殺してやったぜ!」
「こちらボギースリー、敵機撃墜、残存一。どうする?」
「ホークアイよりボギーツー、スリー、状況をアップデート。追撃の必要なし、繰り返す、追撃の必要なし。ボギーツーはプラウラーの護衛に、ボギースリーはプランBを続行せよ、オーバー」
 終わった? 何だ? 全く状況は解からないが、方城と須賀があの剣道部三人のうち二人を倒し、レイコは無事らしい。しかし、だ。
「久作くん! あの! 全然解からないのだけれど、みんな、大丈夫なの?」
「プラウラーな私、再び着陸ー!」
 突然、保健室にレイコが入ってきて、久作は飛び上がりそうになった。妙な格好をしているが、怪我などのダメージはないようだ。
「何だ? レイコさん? 無事?」
 レイコは笑顔でVサイン。普段どおり、変わらずであった。変わっているのは、屋内なのに麦藁帽子をかぶっていることと、首から一眼レフを下げていること、くらいである。
「あの、加嶋さん? それって私のカメラ? いえ、別にいいのだけれど……」
 久作と同じく混乱しているようで、奈々岡の言葉は続かなかった。
「アヤー、速河がワケワカランいう顔しとるで? えー、ああ。速河、加嶋はアクディブ・デコイやって言うとるで?」
「デコイ……おとり?」
 ザッと無線機が音を立てた。
「ホークアイよりボギーワン。あたしに情報戦で勝とうなんて百年早いっつーの。ま、レーコの居場所に気付いたのと、ブラックメールと襲撃のレスポンスはなかなかのもんだけど、方城護と須賀恭介でダブルガードしてるとは思ってなかっただろうな、ひひひ! 剣道部だか何だか知らねーけど、真正面から勝負してあの二人に勝てるかってな。んで、レスポンスのよさで相手の規模と装備がかなり解かったし、それで向こうは手の内晒した、狙い通りになー。情報は量じゃなくて質だってことねん。クイーンによろしく、オーバー」
 久作は唖然としていた。無理矢理、無線機に耳を当てていた奈々岡も同じくである。
「あの、久作くん……アヤちゃんって、何者なの? いえ、アナタたちって何?」
「何だろうね? とりあえずアヤちゃんが凄いってことは聞いての通りで、方城と須賀も同じく、かな? レイコさんはどこにいたの?」
 奈々岡の一眼レフを構えてカメラマンごっこをやっているレイコ。ファインダーが久作に向けられた。
「私は校舎入り口のところをお散歩ー」
 バシャッ! フラッシュが久作を捉えた。知らずでシャッターを切ったレイコが慌てた。
「入り口って、つまり、あの会話は全部嘘だったってこと?」
 奈々岡が驚いていた。久作も似たようなものだった。
「レイコさんがデコイで、会話は……ジャミングか! 物凄い電子戦、いや、心理戦か? とにかく凄いな。こっちの手札は二枚か三枚なのに、相手は丸裸じゃないか。剣道部は捨て駒だとして、会話を盗聴できる設備とそれを扱える人物。レイコさんの居場所は……監視カメラ? 麦藁帽子で一眼レフなら、体型が似ているレイコさんは監視カメラにはリンさんだと見える。会話ではレイコさんは職員室にいることになってて、でも実際は校舎入り口。盗聴だけならレイコさんが襲われることはないから間違いない。ブラックメールで警告してきたのは、会話の内容が相手にとって不利だということか。データリンクとは別でメールでのやり取りもあった。メールでしか伝わらない情報は……」
 久作は方城のケータイを開いた。

「ホークアイよりプラウラー。職員室に侵入せよ。ターゲットは相沢と伊達の机。ピッキングツールの使い方は説明したとおり。日記の類があればそれを確保せよ。 ――ホークアイ」
「奈々岡鈴さま。知らないことが幸せだということもあります。 ――親切なアドバイザー」
「ピアノマンは黄金の右の持ち主で、トレーナーにとってはダイヤモンドの原石。手放せば大損だ。 ――ホークアイ」

 この直後に襲撃。メールが傍受されていたとしても、相手は露草がハッキングしていたことを知らない。アヤからの指示でヘッドセットをミュートにして、同じく奈々岡のケータイもミュート環境だったからだ。
 しかもアヤと露草はスクランブルケータイで会話しており、久作は無線機。無線機の一台はレイコの手にあり、アヤにも同じ装備。これらによる会話は傍受できないだろう。にも関わらず、これだけの情報をつかんでいる……と相手には見える。更に久作と奈々岡のケータイは、方城とレイコのものと交換されている。
 つまり、GPS追尾でケータイ通信だけを追えば、アヤと通信していたのは、久作と奈々岡だと見える。
 保健室にいる奈々岡が、アヤのメールに応えて職員室に入る。同じく保健室の久作は2‐Aの前。しかし実際は、方城が2‐Aの前、レイコが職員室……ではない。会話ではその配置で何やらアヤの作戦が展開しているように聞こえるが、レイコは校舎入り口で、方城と須賀はその付近で待機でもしていたのだろう。ケータイとメールを傍受している相手にしてみれば、ターゲットは職員室か、2‐Aの前か、1‐Aの前。しかし、そのどこにも誰もいない。
「それでもあの短時間でレイコさんを捉えられた。たぶん相手は奈々岡さんだと思ってたんだろうけどね。盗聴にメール傍受に監視カメラ、学園の防犯セキュリティを完全に牛耳った状態で、それでも奈々岡さんの居場所を突き止められず、デコイのレイコさんを狙った三人は方城と須賀に撃墜された。アヤちゃんの徹底的なジャミング、完璧な電子戦だ」
 久作は大きな溜息を一つ、アヤの頭脳に感服した。仮に露草がハッキングで得た情報が的外れだとしても、監視カメラでレイコを追える人間を探せばそれで話は終わりだ。相手は実働部隊を含めて相当の装備を所有しているようだが、アヤはその全てを逆手にとった戦術を展開した。
「アナタの動きは完全に把握しています」というブラックメールと襲撃は、「私はメールとケータイ通信を傍受しています」という意味であり、ついでに「監視カメラで捉えてます」ともなる。奈々岡を厳重に監視して包囲を縮める相手からの警告はしかし、アヤにとっては全くの無意味どころか、手の内と、自分の素性を晒す結果となった。
 電子戦、ここに極まれり、久作は心からの拍手をアヤに送った。
「ボギースリーよりホークアイ。プランBにて先の残存機と遭遇、特殊兵装にて撃墜。予定通り敵レーダー施設を占拠、指示を」
「こちらホークアイ、状況をアップデート。アンノウンの処遇はウィザードに一任。ボギースリー、プランCを開封承認、オーバー」
「ボギースリー、了解。プランC開封」
 アヤによるプランBとやらで、須賀がいきなり敵拠点の一つを抑えた。久作が驚くのと同時に四限目終了を知らせるチャイムが響く。時刻は十六時。ヒトロクマルマル、合流時間だ。合流地点はポイントE2M。高等部校舎の東イースト、二階の音楽室ミュージックルームである。

第八章~レクイエムといきたいところだけど、僕はスローなのが苦手なんだ

 久作と奈々岡とレイコは、保健室の外で待機していた方城と合流し、二階の音楽室に向かっていたのだが、途中に通信が二つ入ったので、廊下で止まった。
 一つは奈々岡のケータイに宛てられた、アヤのメール。
 もう一方は、久作のケータイ。通常通信で、番号表示は知らないものだった。
「速河です、どちらさまで?」
「電話でははじめましてだな。伊達だてだ。世界史の教師、といえばわかるかな? もしくは、ボクシング部の顧問。きみたちの勝ちだ。かなり誤解があるようだから、ゆっくりと話がしたい。どこに行けばいい?」
 無線機が鳴った。
「ホークアイよりボギーワン。状況は変わらず、オーバー」
「伊達先生、音楽室でいかがでしょうか? 僕以外にも何人か同席することになりますけど」
「構わんよ。音楽室だな、すぐに行く。では、後ほど」
 ケータイが沈黙した。
「速河、黒幕はボクシング部顧問の伊達って奴か?」
 データリンクで会話を聞いていた方城が尋ねると、奈々岡が驚いて久作を見た。
「黒幕という表現はどうだろう。リンさん。アヤちゃんからのメール、読ませてもらえるかな?」
「え? ええ、当然」
 奈々岡は自分のケータイを久作に渡した。

『僕にボクシングの素質があるといわれて、とても嬉しいのですが、大好きなピアノとボクシングを掛け持ちすることは出来ません。本当にすいません。お世話になりました。時野雄一 ――ホークアイ』

 久作はそのメールを方城のケータイに転送した。ピアノマン・時野雄一、奈々岡鈴のかつてのボーイフレンドの最後の言葉。これを胸にピアノマンは、中等部音楽室で首を吊った。奈々岡の表情は冷静だった。文面はおそらく暗記しているだろう。久作はケータイを奈々岡に返し、音楽室へ歩いた。二階、高等部二年のクラスが並ぶフロアにある音楽室に先客はなく、久作、方城、奈々岡、レイコは順に防音扉をくぐった。
「リンさん。時野さん、彼はピアノとボクシングを両立することはできなかったのかな?」
 言いつつ久作は、音楽室の片隅に置いてある自分のギターケースから、青いストラトキャスタータイプのエレキギターを持ち出した。
「たぶん無理ね。彼は一つのことに集中する、方城くんのようなタイプだったから。第一、ピアニストにとって指は命よ? それを傷めるボクシングと両立なんて、誰にもできなと思うのだけれど――」
 ズギャーン!
 突然の轟音に奈々岡は飛び上がった。久作の指にあるハードピックが頭上に掲げられている。
「鎮魂歌レクイエムといきたいところだけど、僕はスローなのが苦手なんだ」
 ピックアップ・セレクターをフロントにして、小さなアンプは最大ヴォリューム。激しいリズムラインが音楽室を震わせた。ベースを思わせる重低音のハイスピードなロックンロールはしかし、どこか悲しくも聞こえる。奈々岡のかつてのボーイフレンドに向けたそれは、同時に久作の感情の爆発でもあった。保健室での奈々岡の号泣と同じ匂いがするそれは、六弦がはじけ飛んで切れても続き、二弦がはじけたところで止まった。あっという間に削れたピックを久作は、窓に向けて力一杯投げつけた。
 久作のただならぬ様子に方城が声をかけようとしたが、防音扉が開いたので、方城は椅子に腰を落とした。音楽室入り口にスーツ姿の男性が立っている。
「伊達だ。見ての通り丸腰で、一人だ。入ってもいいか?」
「どうぞ」
 世界史の伊達教師が音もなく音楽室を歩き、指揮者台そばの椅子に腰掛け、久作、奈々岡、方城、レイコと真向かいになった。元ヘヴィー級プロボクサーだと聞いていなければ、プロレスラーだとも見える伊達は、ネクタイを外して浅い溜息をついた。
「どこから話そうか。……まず、メールと剣道部の連中。あれは俺が相沢に頼んだものだ。相沢の剣道部の一人にパソコンの類に達者なやつがいてな――」
「ホークアイより各機、状況をアップデート。プラウラー、敵に接近。ボギーワンはチャンネル2をオープン。データリンクは継続、オーバー」
「――奈々岡を監視して、警告するようにと、俺が頼んだ。一年前の時野の自殺。あれを奈々岡は教師の、俺か誰かの体罰が原因だと思っているようだが、そうじゃない。警察は暴力がどうとか言っていたが、あれはスパーリングによるものだ。勿論、ヘッドギアとマウスピースを着けて、レフェリーもいてゴングもある、ボクシング部の通常練習の一つだ。警察にも説明したし、時野の遺族にもこれはきちんと伝えている。いや、伝わらなかったから体罰だと思われているのか。ボクシング部の連中の身体はアザだらけだ、当然だがな。これを体罰や、いじめだと言われたら、ボクシングはこの世から消えてなくなる」
「私を監視していたのは、思い込みの暴走でありもしない体罰を作り上げて、世間を、いえ、学園を騒がせるから、ですか?」
 奈々岡の言葉には普段の理性があった。
「そうだな。俺が直接、奈々岡にきちんと説明していればよかった。相沢に頼んだりするから話がややこしくなった。相沢に監視や警告をと頼んだのは、そうすれば奈々岡が諦めてくれると思ったからなんだが、剣道部が盗聴だとか直接手を下すだとか、そこまでやるとは思っていなかった。相沢にはきつく言い聞かせておく。もっとも、剣道部の連中はそこの方城に返り討ちにあったから、連中はもう相沢の言うとおりには動かないだろう」
「時野くんが自殺した動機――」
「ホークアイよりボギーワン。クイーンを止めろ」
 久作は奈々岡の肩を叩いた。
「時野さん、彼が自殺するほど追い詰められていた、ここに何か心当たりはありますか?」
「正直、解からん。もしかすると俺がボクシングを続けるように熱心だったから、それがあいつを悩ませたのかもしれん。そういう意味では俺が犯人だな。だが、あいつの素質は本物だったんだ。お遊び感覚程度のシャドウだったが、中等部三年であれほどの逸材は十年に一人だと確信したよ。ピアノをやりたいと言っていて、俺はそちらの世界のことは詳しくないが、あまりにも勿体無い。素質、才能なんてものはどれだけサンドバックを殴っても身に付かない。それをあいつは持っていた。ピアノと掛け持ちでもいいと俺は言ったんだが、それは出来ないと断られたよ。どちらも中途半端になってしまうとな。そんな話の数日後だったか、あいつは死んだ。俺の誘いを考えてくれて、ピアノと掛け持ちできないかと悩んだのか、他に理由があるのか今でも解からんが、死ぬくらいなら俺のところに来て欲しかった」
 方城とレイコの顔は暗かったが、奈々岡の比ではない。淡々と説明している伊達教師の表情も暗く険しかった。重い沈黙が音楽室を支配している。
「ボギースリーよりホークアイ。Tの現在位置を知らせ」
 須賀がどこからか言ったが、久作には意味が解からなかった。T、時野氏の現在位置は、当然、墓地だろう。須賀がそれを知らないはずもなく……。
「こちらホークアイ。Tの現在位置はリングの下、オーバー」
 死んだ人間はリングに立つことはできない。そういう意味では確かに時野氏はリングの下にいる、ともいえる。久作の思考が加速する。須賀は何を知りたがってるんだ? 伊達との会話を聞いているであろう須賀。時野氏の現在位置は、墓地。自殺現場は中等部音楽室。当時の担任、名前は渡瀬といったか。現在は1‐Aの担任で科目は英語Ⅰ。……待てよ。
「時野さんはボクシング部を退部したんですよね? それがいつだったか、覚えてますか?」
「自殺する数日前、三日前だったかな?」
「ホークアイより各機、状況をアップデート。接見は終了。ボギーワン、敵を解放せよ。ボギースリーを除く各機はポイントE2Mにてグレイハウンドを待て……うわっ!」
 何だ? アヤの悲鳴に久作はぎくりとした。声が出なかったのは幸いだが、何事かがアヤに起きた。と、左耳から声が聞こえた。チャンネル2、無線機からイヤホンが伸び、ヘッドセットの下につけられているのだ。
「速河久作! 聞こえてるな? コンピ研が襲撃された! 電源回路に直接スタンガンだ! 異常高電圧回避装置サージバスターなかったらOSから全部、オシャカになるところだ、あぶねー! 想定被害金額は二百万。請求先は当然、目の前、オーバー」
 伊達の告白で事態は収束に向かっているようだったが、実際はこれだ。相沢と剣道部が暴走している……違う。
「話はだいたい解かりました。ところで、相沢先生のお陰でぼくらはケータイだとかパソコンだとかを買い換えなければならなくなったんですが、請求書は伊達先生宛てでいいでしょうか?」
「そうか、そうだな。全て俺の責任だ、俺が負担するよ」
「では、数日中に三百万円の請求書がそちらに届くと思いますので――」
「さ、三百万! ちょっと待て! 速河! その……負担はするが、金額が大きくないか?」
 伊達教師の表情がこわばっているが、久作は変わらず澄ましたままだった。
「ケータイが八台にパソコンが十六台。ケータイ一台が二万円、パソコンが二十万円として、合計で三百二十万円。二十万オーバーですが、まあ安い店を探せばどうにかなります。相沢先生と分割で百五十万にすればどうです? 部活の経費で、いや、それは無理ですね。メール傍受やケータイ盗聴は犯罪ですから、教師による犯罪被害にあった機器の弁償なんて学園が許可するはずがない。どちらが負担するにせよ、とりあえず請求書は、桜桃学園高等部世界史担当・伊達さまとしておきますから、後はローンでも何でも、そちらで自由に処理して下さい。僕からの話は以上です。もうお引取りになっても結構です」
「いや! しかし! 速河の言うとおりなんだが、百五十万なんてポンとは出ない! 勿論、どうにか工面するよう努力するが……」
「努力して下さい。実行犯は相沢先生みたいですから、そちらに全額負担をお願いするという手もあります。ああ、そうだ。ついでなので、相沢先生にこれ以上は止めておけと釘を刺しておいたほうがいいですよ。そうしないと被害金額が倍の六百万になりますから」
 ギャーン! 久作のストラトが叫び、伊達が飛び上がった。久作が再び「もういいですよ」と言うと、伊達は口をパクパクさせながら音楽室から姿を消した。入れ違いでリカが現れた。
「さっきの、世界史の伊達先生よね? 会話は聞いていたけど、あれで決着ということ? 最後がお金の話というのは何だか後味が悪いけど、もう奈々岡さんが危ない目には合わないと思えば、あれでいいのかしら」
 リカが黒いバッグを机に置いて、うーんと唸った。久作はストラトのヴォリュームを絞って、適当に弦を弾いていた。
「リカさん。僕が新聞を読まない理由、覚えてる?」
 レイコの隣に座ったリカが、きょとんとしていた。
「えーと、確か、一方的な情報の押し付けに信頼を置いていない……だったかしら?」
「そう。で、リンさん。今、どう思ってる?」
 レイコと並んで座っている奈々岡が、じっと久作をみつめる。
「どうと言われても、伊達先生と相沢先生が私を止めようとした理由は理解できるわ。私の思い込みが事件を大袈裟にして、余計な騒ぎになるのを止めさせようとした。方法は過激で危険だけれど、あちらもそれだけ必死だったということかしら? ボクシング部で体罰はなく、それどころか伊達先生は時野くんを大事に思ってくれていた。……何と言うのか、少し楽になったわ」
 久作はこくこくとうなずいてから、再びリカを見た。
「ちなみにリカさん。僕がテレビを見ない理由は?」
「何だか難しいことを言っていたわよね? えっと、スポンサード意向の情報操作の危険性、とか何とか」
「方城?」
 とてつもなく難しい顔をしていた方城が、唸り声を返した。
「ケータイにアヤちゃんからのメールがあるはずだ。読んでくれ。それ、何だと思う?」
 言われた方城はケータイを開き、ざっと目を通して一言。
「何って、退部届けだろ?」
「え!」
 方城の一言に、奈々岡が声を上げて飛び上がった。方城のケータイをもぎ取り、文面を確認している。
「違う! これは時野くんの遺書よ?」
「はあ? だって、ここにほら「お世話になりました」ってあるじゃねーか」
「そうだけど! 自殺した時野くんのブレザーにはこれと全く同じ文面の遺書があったの! 遺書じゃなければ何だっていうのよ!」
 奈々岡は立ち上がって方城に怒鳴っていた。怒鳴られている方城は「意味不明」といった表情だ。リカと、その隣のレイコは遺書の文面を読んでいないので、方城以上に意味不明、呆けている。と、ヘッドセットから声が聞こえた、データリンクだ。
「こちらボギースリー。敵司令部に到着。途中で敵機二機に遭遇、排除した。これより敵施設を破壊する」
「ホークアイよりボギースリー、状況をアップデート。プランC、E型装備の使用を許可、指示したとおりに使用せよ。敵オペレータはウィザードに連行、アンノウンと共に処遇を一任、オーバー」
「ボギースリー、了解。二分で終わらせる」
 須賀とアヤの辞書には「手加減」という文字はない。露草にもない。まあ、そんなものは不要だろう。久作はストラトをギターケースに戻した。
「これでチェックメイトだ。変な悪あがきをしないでくれるといいんだけど」
 ねえ? とリカに言ったが、リカの顔は「ハテナ?」といった様子だった。久作はケータイを通話状態にした。
「伊達先生ですか? 速河です。先ほどの件でお話があります。今、どちらに? ああ、ボクシング部ですか。では今からそちらに向かいます」

第九章~ホークアイから指示が出てる、オールウェポンズフリーだ

 ボクシング部の部室は、高等部校舎の西、体育館の隣の運動部部室群の一角にあり、二階音楽室からは歩いて五分ほどだった。
 方城のバスケ部の部室もこの辺りにあるのだが、久作が足を運ぶのはこれが始めてだった。部室に入ると、そこは想像よりも静かだった。久作の腕にあるデジタル時計はまだ十六時三十六分、部活動の時間帯だったが、人影は三つだけだった。
 一人は顧問の伊達教師。残り二人はボクシング部部員らしいが、面識はない。二人ともサンドバッグを叩いていた。重い打撃音と雨音が部室に響いている。
「もっと血生臭いとこだと思ってたのだけど、案外と綺麗なのね?」
 リカが辺りを見回して言った。と、伊達教師と目が合ったのか、一礼した。部員二人のそばにいた伊達が久作たちの立つ部室入り口に歩いてきた。
「ああ、速河。思ったより早かったな。で? 話というのは? 請求書の話だったらもう少し待ってくれ」
「そちらではありません。ちょっと、サンドバッグを叩かせてもらってもいいですか?」
「はあ? 速河? こんなときに何だ?」
 方城が間の抜けた声を上げた。
「うん? まあ、それは構わんが……」
 困惑している伊達に「どうも」と言うと、久作はサンドバッグが吊られた方に向かい、そこにいた二人に一礼、空いているサンドバックを適当にパシパシと叩いてみた。
「こんなに固いのか、イメージとは随分と違うなー」
 ふっと息を吐き、久作はサンドバッグに向けて左手に構え、一拍置いてから右拳を素早く放った。
 バン! と大袈裟な音がしたが、サンドバッグは軽く揺れる程度、殆ど動かなかった。
「伊達先生、どうでしょう? 僕にボクシングの素質はありますかね?」
 バン! バン! 久作は二度、打った。
「え? そうだな、筋は悪くない……というより、かなりいい。それよりも速河。素人が素手でサンドバッグを叩くと拳が痛むから、そろそろ止めたほうがいいぞ?」
「時野さんの階級は何だったんです?」
「時野? あいつはウェルター級だったが?」
「ウェルター級というと、あそこの方城くらいでしたかね?」
 伊達が、まだ入り口そばに立っている方城を見て、うなずいた。
「そうだ。方城、あの体格に身長なら、ウェルターかミドル、その辺りだな」
「方城がミドル級で、僕はフライ級かライトフライ級辺りで、時野さんはウェルター級。伊達先生はヘヴィー級……。もし僕と方城が戦ったら、どっちが勝ちますかね?」
 方城が「はあ?」と再び間の抜けた声で言った。
「速河、確かにお前の筋はいいが、フライ級とミドル級、そもそも階級が違う。当然、方城の勝ちだ」
「僕と時野さんでも、同じくですかね?」
 伊達は当然だ、とうなずいた。
「階級差もあるが、素質が違う。同じ階級だったとしても、時野には勝てないだろう。言っただろ? それほどの逸材だったと」
 久作はデジタル時計を見た。十六時四十分……頃合だ。
 突然、部室入り口扉が勢いよく開き、男性が入ってきた。どうやら部室の扉を蹴飛ばしたらしかった。
「おい! 伊達! さっきの金額……速河、久作? お前たちがどうしてここにいる? まあ、丁度いい。出来るだけ穏便にと思っていたんだが、全員、ここで始末するぞ」
 スポーツウェア姿の男性が化学の相沢教師だと一目で解かった。手に木刀が握られていたからだ。
 相沢は伊達よりも一回り小さかったが、それでも久作や方城との体格差は雲泥だった。身長こそ方城には及ばないが、むき出しの両腕は固く鍛えられており、視線だけでこちらを威圧している。
 方城がリカ、レイコ、そして奈々岡を背後に回らせ対峙し、そこに木刀と鋭い眼光が向けられている。
「相沢……しかし」
「剣道部の連中を動かすのにいくらかかったと思ってるんだ! その上、三百万だと? 冗談じゃない!」
「やめてください!」
 そう叫んだのは、奈々岡だった。
「私、もう時野くんの事件を追うのを止めますから! 口外もしませんから! 久作くんたちを巻き込むのはやめてください!」
 前に出ようとする奈々岡を方城が必死に押さえていたが、遂には腕を振り払って相沢に近付いた。
「お金はどうでもいいです! これ以上、誰かが死んだりするのはイヤです! だから――」
 パン! と大きな音、相沢が奈々岡の頬を平手打ちした音だ。方城が怒鳴りながら奈々岡を引きずり戻した。久作の視線が相沢に飛んで突き刺さる。
「なんだ速河? 何か言いたそうだな? 今のうちに聞いておいてやる」
「今のうち? これだけの人数を全て口封じできると思ってるんですか?」
 久作の思考が、止まった。
「ふん。知らないほうが幸せなこともある、前向きに生きろ。警告したのにお前たちは従わなかった」
「親切なアドバイザー? 言っていることはもっともですが、行動が伴っていない」
 感情が揺れている、冷静になれ。
「最初の襲撃。あれが単なる脅しだったらこうなってはいなかった。木刀がリンさんに振り下ろされていなければ、ブラックメールなんて無視してもよかった」
「リンさん? ……奈々岡のことか? 少し入院するくらいの警告でなければ、奈々岡は止めんさ。報道部だか何だか知らんが、こいつはしつこいからな」
 まだ揺れる、理性の器から感情が零れ落ちそうだ。
「伊達先生から伝わっていると思いますが、被害を倍にしたくなければ、引き返しておとなしくするのが懸命ですよ」
「誰かが通報したらしく、警備会社の連中がやってきた。そこから俺に繋がるまでに、余計な奴は潰しておかなければならん」
「そう。つまりそちらは形勢が圧倒的に不利なんですよ、既に。こちらにはまだ増援もある」
「増援? くくく。それはもしかして、須賀恭介と橘絢のことか? 残念だったな。あちらには剣道部の大将、副将、中堅を送ってある。結果は、二人がここにいない、そういうことだ」
 奈々岡が小さく悲鳴をあげた。
「久作くん! 須賀くんとアヤちゃんが! 私のせいで!」
 オレンジのハーフフレームから涙が溢れている。

 朝、奈々岡が久作を「面白い人」と言った。

 ケータイでも無線でもなく、脳から発する電波でリカと会話をしている久作が面白いと。久作は試しに、電波を発してみた。
「相沢、だったよな? アンタ。もしアヤにかすり傷一つでもあったら、まず俺がテメーを潰す! 財布の前にテメーの命を心配しとけ!」
 方城に伝わった。
「奈々岡さん。須賀くんやアヤはフツーじゃないの、心配しなくても大丈夫。一流には一流、剣道部には剣道部で対応ってね」
 リカにも伝わった。
「久作くんは、かくとーかで、正義の味方! スーパーコンセントレーションでアチョー!」
 レイコは、まあ伝わっているか。
「はっ! 何だか知らんが、速河と奈々岡、まずはお前らから口封じだな」
 相沢教師の木刀が久作にびしりと向く。と同時に扉が勢いよく開いた。
「こちらホークアイ! 状況をーアップデェェト! 全機臨戦態勢でオールウェポンズフリーだ!」
 二つに束ねた金髪が相沢の前を素早く流れ、久作の背後に回った。
「アヤちゃん! 無事なの?」
「当たり前だぞ、リンリン。指揮官機が撃墜なんて、そんなショボい戦略組まねーって、あたしは。自分に護衛機つけずにウロウロする指揮官機なんてありえねー」
 なあ? とアヤは久作に向けてから続けた。
「化学の相沢! 傭兵雇うならもっと人選しろ! 量じゃなくて質なんだよ、情報も人材もな!」
 アヤに指差された相沢が、倍で怒鳴り返した。
「質? 剣道部の、大将と副将と中堅だぞ!」
「ボギースリー、到着。ほう、あれで大将だったのか。名乗らなかったので気付かなかった。まあ、名乗る暇もなかったんだがな」
「須賀、くん?」
 方城に腕を掴れた奈々岡が、涙の合間から絞るように尋ねる。相変わらずしわくちゃの桜桃ブレザーの須賀がこちらも普段通りの口調で返す。
「もしあなたが時間より早く着いたなら、あなたは心配性である。もし遅れてきたら挑発家だ。時間通りに来れば強迫観念の持ち主で、もし来なかったら知恵遅れということになる……アンリ・ジャンソンの言葉だ。スズくん、遅れてすまない。E型装備での警視庁サイバーテロ課への自律ハッキングループプログラムのセッティングにアヤくんの護衛と、学園内をどたばたとして……む? 頬が腫れているぞ? 貴様の仕業か?」
 須賀が、手にした木刀……いや、日本刀を相沢に向けた。
「す、須賀恭介か! お前、あの三人を一人で倒したのか?」
 相沢が素早く木刀を須賀に向ける。二人の距離は須賀の歩幅で五歩ほど。
「速河、話はもう終わったのか? 終わったのならこいつらをさっさと倒すぞ。でなければ俺が露草先生に怒鳴られてしまう。何でも今晩は用事があるらしい」
 露草の用事。そういえば飲み会があるだとか言っていたな。久作は思い出して、伊達を見た。
「話は、まあ終わったかな。伊達先生が時野さんを殺害して、そこの相沢先生と一緒に首吊り自殺に偽装した。これが真相だよ」
 久作の科白を聞いた奈々岡が方城の背後で崩れ落ちそうになるのを、リカとレイコがかろうじて支えていた。伊達が目を丸くして枯れた声で返す。
「何? あれは自殺で――」
「奈々岡さんは時野さんが自殺した動機を探していたけど、そんなものはない。ないものを探すなんて不可能で、人は動機もなしに自殺なんてしない。自殺でなければ、状況からして他殺だ」
「だが! 時野は遺書を!」
「退部届けでしょう? 誰が言ったか、疑うことは理解の第一歩でもある、と。書類の上下左右、どこかにある「退部届け」という部分と日付を切り取ってしまえば遺書とも読める、首吊りであの文面ならね。筆跡鑑定から警察もそう判断したんでしょう。あくまで想像ですが、最後のスパーリングだとか言って時野さんをリングに上げて殺害。それを自殺に偽装した。ここ、ボクシング部から中等部二階の音楽室までわざわざ運んで、吊り下げた。そちらの相沢先生と一緒にでしょうが、残酷で、悪趣味極まりない」
 思考の揺らぎが収まりつつあった。オールクリアまであと僅か。伊達教師は沈黙し、それを木刀を構えた相沢教師が次ぐ。
「速河久作? 須賀恭介に劣らずの成績で賢いらしいが、それはお前の推測、いや、妄想じゃあないのか?」
「目の前の状況と手元にある情報を多角的に分析した上での推察、プロファイリングというあれですよ。退部届けが遺体にあった、これだけで充分ですが、ハッキングにメール傍受に盗聴。更に学園のセキュリティシステムまで乗っ取って、果ては剣道部員で襲撃。奈々岡さんは必死の警告だと言っていたけど、それにしてはやりすぎだ。そこまでして隠す、時野さんの死因がスパーリング中の事故だとはとても思えない。プロライセンスを持っていたヘヴィー級と、素質だけで素人のウェルター級。ヘッドギアもグローブもなしなら一撃で即死だ。プロライセンスを取得したのに実績を残せなかった伊達先生が、時野さんの才能をねたみ、憎しむ。動機はどうあれ、殺すことはない」
 ゆれていた思考の地平線が、弧を描いて止まった。
「警察や探偵じゃああるまいし、犯罪がどうとか、そういうのは正直、僕にはどうでもいい。ミュージシャンの道だってボクサーに負けないくらい大変なものだ。成功するのはほんの一握り。それにチャレンジしようという時野さんにあれこれいう権利は誰にもない。当然、あなたにもだ。僕はそれに対して怒ってるんだ。成功するか失敗するかなんて考えるのは時間の無駄だ。才能だの資質だの、そんなことはどうだっていい。本当にやりたいことを、やりたいだけ、目一杯やる。それでいい」
 久作は一歩踏み出し、伊達と真向かいになった。左足を前にしてかかとを浮かし、両拳を顎の高さで構える。
「過去を穿り返すとどういう目に合うのか、伊達! 全員潰すぞ!」
 須賀と対峙している相沢が怒鳴ると、伊達が大きくうなずいた。
「一年の速河久作、だったな?」
 棒立ちのまま伊達教師が言った。先ほどまでと違って声色が黒い。
「さっきのサンドバッグといい、そのファイティングポーズといい、只者ではない。噂で少し聞いたことはあるが、お前は格闘家か?」
「その質問には飽き飽きする。僕は格闘家じゃあない。どこにでもいる平凡な……」
 久作の視線が、方城の後ろにいるレイコとぶつかった。
「正義の味方!」
「そんなところだ。須賀、話は終わった。ホークアイから指示が出てる、オールウェポンズフリーだ」
「了解だ、ボギーワン。相沢、可愛い部員の下に送ってやるから感謝しろ。近所の病院だ」
 ガン! 相沢の木刀と須賀の日本刀の鞘さやが激突した。
「須賀恭介! 俺の初太刀をさばく生徒など剣道部にもいない! どうして中等部で辞めた! 一年で全国四位、それで満足したか!」
 相沢は木刀を引き、小手の軌道で須賀の腰を狙うが、須賀の鞘がそれを受け弾いた。下を向いた須賀の鞘がすくい上げられ相沢の顎を狙うが、木刀で阻まれる。
「ブランクがあってこの鋭さ! 部員が倒されるのも当然か! 何故続けない! そんな模造刀を振り回してチャンバラごっこが楽しいか!」
「何ともやかましい奴だな。俺がなにをしようと俺の勝手だろうが。辞めた理由は単純だ。アヤくん?」
「リカちゃん! 預けてたカバン、それ! 須賀恭介!」
 アヤが、リカの持つ黒いカバンから持ち出したそれを須賀に投げ、須賀が器用に受け取った。
「ボギースリーの特殊兵装、これが理由だ」
 相沢の木刀の先端が中段でぴたりと止まり、目が見開かれた。表情は驚いているようにも、困っているようにも見える。
「……二刀流?」
「二天一流、「五輪書ごりんのしょ」の宮本武蔵だ。お前が剣道部顧問なら知っているだろう、高校生以下で二刀流は禁止だとな」
 二つの日本刀を構えた須賀が、当たり前だという風に吐き捨てた。
「速河、どうした? かかってこないのか?」
 久作越しに相沢と須賀を見ている伊達が、低く潰した声を発する。構えていないが、強烈な威圧感が吹き出ている。
「受けてやるから殴ってみせろ、と? 素人のライトフライ級と、元プロのヘヴィー級なら、まあそうでしょうね。とりあえず右ストレートを出してみます。リンさん?」
 奈々岡がぴくりと跳ねた。奈々岡はかつてのボーイフレンドが自殺ではなく他殺だったこと、その犯人が目の前にいること、とにかく全てが信じられないという状態で、うつろだった。混乱しているのか、感情が処理能力を超えているのか、呆然である。リカから一眼レフを渡されたことに気付くのにしばらくかかった。一眼レフはリカの持つカバンから出てきた、奈々岡自身のものである。
「リンさん!」
 再び久作が言うと、どうにかハーフフレームが久作を向いた。リカが優しく肩を叩いて、奈々岡に一言。
「ジャーナリスト、なんでしょ?」
 奈々岡は首から下げられた一眼レフに視線を落とし、間を置いてから「あっ!」と小さく叫び、構えた。ファインダーに、ファイティングポーズの久作と、二刀の須賀があった。
「八十対七十七、三点差で負けてる。残り時間四十秒で体力ゼロ。俺は気合で引っくり返すけど、リンならどうすんだよ?」
 方城は二人のボクシング部員を警戒しているが、仕掛けてくる様子はない。
 バシャッ! バシャッ! 二度のフラッシュが久作と、須賀を捉えた。久作はリカに「ありがとう」と電波を送り、全体重を右腕に乗せ、伊達の頬に叩き付けた。が、伊達は少し揺れた程度だった。
「……速河。さっきはいい筋だといったが、違った。お前は時野と同じ素質がある。フォームから何から、ほぼ完璧だ。こういう状況でなければ、俺はお前をボクシング部に誘うだろう」
「なにー!」
 叫んだのは、方城の後ろに回っていたアヤだった。
「速河久作の一撃でビクともしないって、ありえねー!」
 二つに束ねた金髪がぴょんぴょんと跳ねている。久作は、当然だ、と電波を送った。体重差と筋力差。どれだけ完璧なストレートを打ったところで、目の前の伊達は倒せない。先ほどの右ストレートは、久作から時野氏へのレクイエムなのだ。
 ボクシングスタイルでは勝負にならないことなど、最初から解かっている。それでも、どうしても、この一撃だけは放っておきたかった。
 ダメージは全くないが、伊達の歪んだ顔は奈々岡の一眼レフに収まった。自分に出来ることはここまでだ。久作はファイティングポーズを解き、伊達をにらんだ。
「素質と言われて喜べないのは、最悪な前例があるからです。あなたの言葉は真実かもしれないが、それを判断するのは聞いている僕だ」
「それで、どうする? 俺はお前を殺すだろう。その後、方城とその後ろの連中がどうなるか、解かるだろう?」
「方城があなたを倒す」
「速河! 期待を裏切るようで悪いが、俺はそいつに勝てる自信がねえ! 俺はどうなってもいいが、アヤとかリンだ!」
 久作の平坦な思考の上を、方城の言葉が滑っていった。
「伊達先生……僕はもう満足しました。時野さんはスパーリング中の事故死で、自殺偽装はその隠ぺい工作、これでいいです」
「おいおい! 何だ速河! いきなりどうしちまったんだ? 事故死って、そいつはお前を殺すって言ってて、それってもう自供だろう? 完璧に犯人じゃねーか!」
「だったら自首すればいい。言っただろう? 僕は警察でも、探偵でも、ない」
 久作はゆっくりと口に出し、それを自分で噛み締める。伊達の顔をわずかに歪めた右ストレートは奈々岡の一眼レフに収まった。久作が時野氏に対して出きることはそれで全てだった。今更だが、須賀の言った通りだ。
 音楽室でストラトをかきむしって、ここでレクイエムの右ストレートを放った久作には、廊下ですれ違ったかもしれない、教室で喋ったかもしれない、今は亡き同級生に対して出来ることはもう何も思い浮かばなかった。

 ガガン! 激しい打撃音に方城は、須賀と相沢を見た。奈々岡のファインダーもそれを追う。相沢の木刀と、須賀の左の日本刀が激突していた。右が風を切り相沢の脇腹を捉えた。ドン! と派手な音がして、相沢がよろめいた。
「須賀恭介! 二刀は飾りじゃない!」
「当たり前だ。誰が冗談で二天一流などやるものか。貴様の打ち込みは大したものだが、太刀筋に魂がない。スズくんを襲わせるような剣道など、俺の敵ではない」
 言い終わった直後、須賀の左が相沢の木刀を打ち落とし、右先端が頭頂部を打った。鈍い打撃音で相沢の意識は消え、その場に崩れ落ちた。
「やった! 須賀くん!」
 リカが笑顔になったが、振り向いた須賀の表情は険しかった。久作への言葉も、どこか険しい。
「速河、お前の口癖だったな、「僕は格闘家じゃあない」と。そこで満足して止まる、そういった結論に達する、それもいいだろう。剣道をかじった、武道家の端くれの俺には理解できないがな」
 須賀の言葉もまた、方城のそれと同じく久作の思考の上をひらひらと飛んでいった。久作の両目は伊達を向いているが、見てはいなかった。伊達をすり抜けた先、もっと奥の、それこそ時野雄一の背中を探しているかのようで、焦点が定まっていない。
 一転した久作の様子にもっとも驚いたのは、奈々岡だった。事態の二転三転で感情が完全にパンクしているが、かすかに残った理性で、豹変した久作にファインダーを向けてシャッターを押すことができた、が。
「奈々岡ぁ!」
 辺りを震わす怒声の直後、左フックが奈々岡を襲った。久作の目の前にいたはずの伊達が、後方、奈々岡たちの前にいた。飛んで奈々岡の前に割り込んだ方城の胸元を、伊達の左フック、巨大な拳がえぐり、数ミリ、へこませた。派手な音をたてて方城が墜落する。
「ゲフッ! 何だそのクソ重たいパンチは! また、あばらがイっちまったぞ! 殺す気かよ!」
 咳き込み、激痛を抑えつつ、方城は奈々岡をリカたちに向けて突き飛ばした。荒い呼吸に異音が混じっている。床から体を起こし両膝をついて見上げた先に、伊達の柔らかい笑顔があった。音楽室での接見以来、始めてみる表情に方城は舌打ちした。
「ああ、そうか! マジでヤるってんだな? よーし! やってやろうじゃねーか! 桜桃バスケ部のスコアリングマシーンをナメんな! 最大MAXドライヴのスピンムーブ! 喰らっえ!」
 全身のバネを伸縮させた方城の、渾身の回転ローキックが伊達の太股を捉えた。が、伊達は微動だにしなかった。
「えーー! 方城護の必殺スピンムーブが効いてないって? ありえねー!」
 レイコの背中に飛び乗って肩車状態のアヤが、信じられない、と叫ぶ。リカは呆然とし、突き飛ばされて安全圏にいた奈々岡もまた同じくだった。
「木人かテメーは! ふざけるのもいい加減にしやがっ!」
 次、伊達のフックは方城には見えなかった。肝臓レバーを強打されて、全身から力が抜け、両膝を突いてからしばらくして激痛が走り、そして、倒れた。
「ふっ、怯えてすくみ上がった自称格闘家に、球遊びのスポーツマンか。こんな奴らに翻弄されていた自分を情けなく思うな」
「ぎゃー! 方城護が死んだー!」
 レイコに肩車のアヤが、リカと奈々岡に向けて叫ぶ。奈々岡が卒倒しそうになり、同じくのリカがかろうじて支えたが、すぐに揃って床に座り込んだ。
「レーコ! 方城護の仇討ちだ! 当たって砕けろの鳳凰の構え! 二段ヴァージョン!」
「アッチョーー!」
「待てコラ! ゴホッ! 勝手に殺す、なぁー!」
 アヤの号令で走り出そうとしていたレイコの細い足首を、方城が間一髪で捕まえた。
「速河! お前のことはそれなりに知ってるつもりだ! この程度で速河がビビるかよ! お前は「敵」とじゃなきゃ戦えない、そうだろ? こいつが犯罪者か悪人かなんて俺にだって解かんねーよ。でもな!」
 レイコの足首をがっしと握り、方城は立ち上がろうとするが、浮いた膝がすぐに落ちる。
「足にキてやがる! 見えてるか? 速河! 俺でこうだ! パンチがたったの二つだ! もう一発喰らったら、次はアヤとレイコで、リカにリンだ! スコアラーの俺はな、相討ち玉砕覚悟なんて博打みてーな一発勝負はガラじゃねーんだ! そんなもんは勝負でも試合でもねぇ! っつーか! この野郎はどっから見ても敵だろうが! 何でもいいからさっさと気付け!」
 方城の怒声に、久作の思考は爆発した。

 ……敵?
 世界史の教師である伊達。元プロボクサーが? 何だ? だいたい、どうして方城が倒れてる? おかしい。事件は解決したはずだ。犯人は伊達、そして倒れている相沢。犯人? 事件? 待て、どこからそんな話になった?
 奈々岡が時野雄一というピアノマンの自殺を独自に追っていて、その試合の助っ人としてリカが方城を投入、違う! 助っ人は僕だ! だったら方城が倒れているのは尚更おかしい。試合には勝利した、奈々岡の希望通りに。それなのに、どうして奈々岡はまた泣いている? どうしてアヤは絶叫している?
 ピアノマンはこれでは満足しないのか? 何が希望だ! 時野雄一!
「速河、迷うなよ。スズくんにも言ったが、何をしても死者は蘇らず、また、喜びも悲しみもしない。俺の剣は活殺、人を生かすためのものだ。ここに相沢が倒れているのは、時野氏のためではない。スズくんやリカくん、皆のためだ。速河……お前は誰だ?」
「コンセトレィション!」
 須賀の最後の一言、「お前は誰だ?」が久作の思考を強引に加速させ、突然の加速Gのブレをレイコの科白が修正した。

 僕は誰だ? 名前は、速河久作。
 ホンダXL50Sという古いオフロードバイクを愛車にして、いつか保健室の露草葵のカフェレーサー・ラベルダ750SFCくらいの強烈に魅力のあるバイクに乗りたいと思っている、高等部1‐Cの男子生徒だ。成績はまあ良い。アヤや奈々岡によると、見た目や評判もそう悪くはないらしい。
 実は少しだけ格闘技が使えるが、これはあくまで緊急時のもの。
 例えば、リカ、アヤ、レイコの「リカちゃん軍団」や、方城や須賀が危険に晒されたりしたときにだけ、少し使う程度。つまり、危険でなければ全く誰の目にも触れられない、あってもなくてもいいようなもの。
 伊達がスーツの上着を脱いで、シャツの腕をまくりあげている。鋭い目がにらんでいる。誰を? 僕、速河久作をだ。何故だ? 自分が時野氏の殺害に気付いたからか?
 ヘヴィー級のファイティングポーズは、それだけで迫力がある。相手は元プロボクサー、当然か。伊達がファイティングポーズなのは、僕が時野氏殺害の全容を、犯人である伊達に告げたからだ。そうすれば相手がこちらに牙をむくとわかっていて告げたのは、伊達と相沢と剣道部員による電子戦と襲撃が、奈々岡の精神を追い詰めたからだ。まずはそのお返しをしたかったから、三百万の請求書なんていう話もした。勿論、ピアノマン・時野氏の無念もある。伊達が跳ねるように左右に揺れている。そのフットワークから、低い左フックが出た。

 とんでもない速さだ!
 アクセル全開フルスロットル! 全く間に合わない! ラプター、超音速巡航スーパークルーズ! マッハ1.58! まだダメだ! アフターバーナー点火! マッハ1.7、ラプターの最大速度! ブレているが左フックの軌道が解かった。狙いはこちらの脇腹だ。着弾まで、0.2秒。重心を落とし、右足を前に。左フックは素手だ。まずは防御。気を練り、右肘の化勁かけいで左フックを左側に打ち流す。
 バン! 久作は通常思考に戻った。

「何! 何だ! ガードするでもなく、俺のフックが……どうなった?」
「ったく、やっとこで全開か、遅せーよ! 痛ってぇ!」
「よっしゃ! 速河久作ホンキモード! リンリン! 写真撮ったか?」
 レイコに肩車のアヤが奈々岡の頭をバンバンと叩いて跳ね、方城が激痛のなかでニヤリと笑む。
「い、いちおうシャッターは切ったけれど、撮れたかどうかは解からないわ。だって……速過ぎるもの!」
 奈々岡は唖然としていたが、アヤは「当然だ!」と何故か自慢げだった。
「速河流八極拳は無敵なんだよ、なー、レーコ?」
「アチョチョチョー!」
 レイコの拳が素早く数発、突き出された。
「八極拳? そんな得たいの知れないものに!」
 伊達の再度のファイティングポーズに、久作は構えない。速河流八極拳に構えはないのだ。次はもっと強烈なのが来る。
 アクセル全開から、いきなりアフターバーナー点火。一秒で思考がマッハ1.7に達する。伊達は左ジャブを出したが、これは次の右ストレートのためのけん制だ。けん制だが、速過ぎる! 素手の拳の先端がブレてよく見えない。
 次が右ストレートなら……考える暇がない。
 重心を右足にかけて右肘の化勁でジャブをすくい上げる。コンビネーションの右ストレートが飛んでくるが、軌道は、変わっていない! 顔面を狙っている。ならば、左掌の化勁で真横に打ち払う。とんでもなく重たく、軌道は五センチほどしか変わらないが、首を傾ければかわせる。
 ブンと風を切る音がして、再び通常思考。伊達は一旦離れた。

「やれやれ、スロースターターかと思えば毎回そんなだな、速河は。お前の定石破りのSFっぷりには慣れていたつもりだが、相手がボクシングなら、せめてブロックでもしてやるのが情けだというものを。元プロボクサーに残っていたガラスのプライドが砕ける音が聞こえるぞ?」
 意識のない剣道部相沢の横に立つ須賀が、含み笑いでつぶやいている。
「……そんなバカな話があるか! 俺の右ストレートを、かわした?」
 当たり前だ。あんなものを喰らったら一発で即死だ、かわすに決まってる。スーパークルーズ!
 伊達はヘヴィー級の元プロボクサーで、年齢は露草よりはかなり上に見える。三十代半ばといったところだろうか。パンチは左も右も速くて重い。化勁でも受け流すのが精一杯だ。

 そういえば、誰かがボクサーは目が命といっていた。
 伊達の拳がブレて見えないということは、動体視力が追いついていないということだ。右ストレートは軌道は読めたが、拳は見えなかった。肌色の塊が顔の真横を通り過ぎた、ただそれだけだ。音速の動体視力でも追いつけない。
「さあ、どうする? 速河久作?」
 自分で自分に問う。音速で追いつけないなら……加速だ!

 今は六月、梅雨の真っ只中だが、雲の上は快晴。そこをラプターは飛び回る。
 伊達の右ストレートはラプターでも捉えるのが難しい。空の遥か上は宇宙。ジェットインテークを閉じてロケットブースター点火、加速して成層圏を突破、加速Gと伊達が迫る。

 強烈な左ジャブだが、超加速思考ならそのジャブはくっきりと見える。
 丸太のような腕の先にごつごつとした拳。伊達の顎の下にある右の拳も同じくで、左ジャブが引くのを待っている。左ジャブが引く反動であの重たい右ストレートが突き出てくる。ワン・ツーの単純なコンビネーションだ、かわしてもいいし、受け流してもいい。
 が、あの右ストレートは時野という同級生ピアノマンの命を奪ったものだ。おそらく左も。
 ワン・ツーのコンビネーションでピアノマンは脳挫傷か何かで死んだのかもしれない。司法解剖に回されていないので死因は首吊りによる窒息死となっているが、頭をあの凶器が打ったのは間違いない。内臓破裂ならうっ血があり、科捜研がそこから他殺という結論を出すだろう。テンプルを狙えば顎が外れ、顔面なら鼻の骨が折れ、どちらも外傷・他殺と繋がる。ならば、ワン・ツーの拳は側頭部を狙ったのだろう。
 ワン、今、迫っている左で頭を横に向かせて、そこにツー、右ストレート……殆ど曲芸だ。凶器による曲芸。
 目が命というが、まずはその拳を砕かせてもらう。

 指揮官機ホークアイからの命令を復唱。「オールウェポンズフリー」、要するに「手加減ナシ」だ。

 左ジャブがやっと来た。右足を前に、左足を後ろから回して、気を練っ
た左肘の発勁はっけいを左ジャブの中指に突き刺す。背中を向けている状態だ。右ストレートの軌道は解かっているからかわしてもいいが、あれは絶対に破壊しておかなければならない。
 突き刺した左肘を軸に身体をもう半回転。伊達の右側、向こうからは左に位置した。右ストレートは……妙な位置にある。いちおう出しました、というような中途半端な位置だ。
 強く握られていたはずの左拳は歪んで砕けている、こちらにもう用事はない。右拳とは距離がある、どうする? こういうのはどうだろう。
 まず邪魔な左ジャブの残骸をくぐり、右足を大きく一歩踏み出し、床に打ち付ける。伊達の真正面、密着するような位置だ。ここから目の前にある凶器の右拳に向かって右肘の発勁!
 手応えあり。親指が折れて、他の指の骨も全部砕いた。伊達の顔が歪んでいる。そういえば、あの顔にまともな一撃を入れていない。レクイエムの右だけだ。この位置からなら、左肩だ。重心を下げて左足を床に打ちつけ、方城へのお返し、最大級の発勁の左肩を顔面に、放つ!
 背中越しに伊達が吹き飛ぶのが見えた。八極の大爆発は伊達の頭を胴体からもぎ取らんばかりに炸裂、鼻だった部分と上顎が陥没して、赤黒い血と歯と骨の欠片が吹き出した。

 バシャッ! シャッター音がして、久作は通常思考に戻った。
 超加速思考が長かったので、頭が朦朧としている。
 伊達の二つの拳は砕いたはずだ。顔面にも大きな一撃を入れた。もう危険ではないだろう、そこまでしか解からない。奈々岡が何か言っているが上手く聞き取れない。ありがとう? そんな感じの言葉だ。アヤとレイコが抱き合っている。喜んでいるらしい。方城も何か言っている。ガッツポーズで、凄いだとか。まあ、かなり頑張った。
 リカと須賀も笑顔だ。先月の事件以降の公認カップル、その隣に露草の姿があった。
 いつからいたのか知らないが、ややこしい事後処理は露草先生にお任せ、いつものパターンだ。露草は呆れていた。そして、少し怒ってもいた。そうか、今夜は飲み会があるといっていたが、制服の警察官が数人入ってきている。飲み会はキャンセルだ、申し訳ない。
 とにかく頭が回らない。いや、ぐるぐる回っている? どっちだろう。
 冷静ではあるし、感情が乱れているということもない。ただ、今は保健室のベッドで眠らせて欲しい、それだけだ。あと、身体に負担がかかったようなので、肩を貸して欲しい。
 そんなことを言ってみたら、奈々岡とアヤが両脇から頭を出した。アヤちゃんでは小さいと言ったら、怒られて、レイコが顔を出した。奈々岡とレイコの体型は殆ど一緒なのでバランスがいい。疲れているので、体重の半分を両脇に預けた。二人とも、何だかとても柔らかい。
 ダメだ、意識が飛びそうだ。秘密兵器の超高速思考は諸刃の剣、使い捨てのロケットブースター、そんなものだ。

 ……もう保健室だ。歩いていたつもりだが、どうやら途中で意識が飛んだらしい。
 どうでもいい、今はベッドだ。
 リングブーツを脱ぎ捨て、上着を脱いで横になる。身体が楽だった。眠りに付くまではほんの数秒。誰かに何かを言いたかったような気がしたけど、思い出せない。
 そして、おやすみ……。

第十章~勇敢な永遠の絆にラッキーが重なった、そんなところかな?

 ぱっと開いた視界には見慣れた天井があった。何度も世話になっている保健室だ。
 時刻は、久作は腕のデジタル時計を見た。
 六時十二分。
 外は雨だが、明け方のわずかな光が小さな窓から室内をぼんやりと照らしている。窓の前の小さな事務机に、数本のビール缶と、山盛りの灰皿、メタルフレームと、露草葵。白衣は脱ぎ捨てられており、白い半そでシャツとマイクロスカートから艶かしい手足が覗いていた。事務椅子に背を預けたまま、今にも崩れ落ちそうな姿勢で眠っている。
 保健室で飲み会を開いたのか、型破りにもほどがある。呆れつつ久作は上体を起こした。たっぷりと休息を取ったので、身体は軽かった。
 カーテンの向こう、もう一つのベッドに気配があった。そっと覗くと、ピンク色のブレザー姿の奈々岡鈴の姿があった。小さな寝息で胸が上下している、熟睡中らしい。
 その枕元に、オレンジのハーフフレームと同じくオレンジの軍用時計、そして一眼レフが見えた。奈々岡のベッドの横にパイプ椅子があり、そこに何枚かの写真と、ルーズリーフのノートが数枚、置かれている。
 久作はゆっくりとベッドから床に立ち、リングブーツを履いてパイプ椅子にある写真を手にして、ノートを見下ろした。文面がプライベートな日記の類でないことを確認し、そちらも手にした。ノートはどうやら、書きかけの記事らしかった。
 いくつかの文章があったが、どれも大きなバツ印で却下されている。

「暴かれた真実。教師による生徒殺害に学園が騒然」
「リングの上の悲劇。一年の時を経て晴らされた生徒の無念」
「事件解決の裏に、活躍する六人の影。学園の平和は守られた」

 記事見出しはどれも奈々岡らしくない、安直なものだった。続く記事も似たようなものだ。夜にでも書いたのだろうが、出来事を時系列で並べているだけで、まとまりがない。
「おはよう」
 低い声は奈々岡だった。顔を隠すようにして保健室の小さな洗面台に向かい、「少し待ってね」と言ってから、顔を洗って歯磨きを始めた。久作は大きく欠伸を一つ、ベッドに座って写真を眺めて待った。
 ぐぅ、と露草がいびきを一つ、首がかくりと揺れるが、起きる様子はなかった。
「お待たせ。酷い文章でしょう? とても掲載できるレベルじゃあないわ。頭が混乱してるのか、いい言葉が浮かばなくてね」
 ハーフフレームに手をやったまま、奈々岡はテレくさそうに言い、久作の隣に座った。久作は笑顔で応え、奈々岡の言葉を待った。下ろした髪を無造作にかき上げ、奈々岡は少し思案してから露草の方を見て、微笑んだ。
「言葉が浮かばないといえば、今もそう。ありがとう、それくらいしか浮かばないわ。本当は一言では言い表せないのに、出るのはその一言くらい。まだ頭が回っていないみたいね」
「色々とありすぎたから混乱してるんだよ。ありがとう、は、そこの露草先生とかアヤちゃんにでいいよ。僕は僕がやりたいようにやっただけさ」
 きっかけはどうあれ、久作は誰に命じられるわけでもなく、本人の意思で行動した。ここは間違いない。奈々岡が小さく溜息を付いた。
「謙虚というのか、変わっているというのか、とにかく不思議ね? アナタたちって。方城くんもアヤちゃんもリカさんも、みんな似たようなことを言っていたわ。そう、変わっていると言えば、須賀くんが、時野くんの誕生月を久作くんに伝えるようにと。四月よ」
「四月……ダイヤモンドとクウォーツだ。何となくそうじゃないかなと思っていたんだけど」
「ダイヤモンド? 何の話?」
 久作は立ち上がり、ボクシングのファイティングポーズからゆっくりと右手を出した。
「誕生石。モース硬度十、時野さんは本物のダイヤモンドの原石だったんだね。僕は五月、エメラルドとジェイド。硬度八だから時野さんには勝てないや。ちなみにリンさんは何月生まれ?」
 奈々岡が不思議そうな顔をして「三月だけど?」と応えた。
「三月は、アクアマリン。モース硬度七と二分の一。石言葉は「勇敢」、まさしくリンさんって感じだね。ダイヤモンドの石言葉は確か「永遠の絆・純潔」……凄いや」
「詳しいのね? ちなみに、エメラルドの石言葉って?」
「須賀がそんな本を持っていたから覚えてただけだよ。エメラルドは「幸運・新たな始まり」。勇敢な永遠の絆にラッキーが重なった、そんなところかな?」
 もう一度ゆっくりと拳を出してから、久作は奈々岡の隣に腰掛けた。
「リンさん。その腕時計、ちょっと見せてもらってもいいかな?」
 久作が言うと、奈々岡は腕にあったオレンジのミリタリーウォッチを外し、「どうぞ」と差し出した。
「ずっと気になってたんだけど、やっぱり。ネイビーシールズ・バーゼルモデルだ」
「似合わないでしょう? でもいいの。それ、時野くんからの誕生日プレゼントだから」
「史上最強のアメリカ海軍特殊部隊シールで、勇敢。似合ってるし、いい趣味だよ。時野さんと僕は気が合いそうだ」
 自分の腕にあるデジタル時計を見つつ、久作はつぶやいた。久作のデジタル時計はいつだったか気まぐれで買った安物で、ネイビーシールズと比べるとかなり見劣りした。
「空軍仕様のデジタル時計を探してネットをうろついたんだけど、なくってね。アナログ時計にしようか迷ったんだけど、結局こんな感じ。今度、アヤちゃんに探してもらおうかな? そうだ。アヤちゃんと言えば、今回のことを記事にするならこの写真がいいんじゃないかな?」
 数枚あった写真から一枚を抜き出し、オレンジのネイビーシールズと一緒に奈々岡に渡した。
「今回勝てたのは、間違いなくアヤちゃんのお陰だからね。僕や方城がどんなに頑張っても、アヤちゃんの電子戦がなければ負けてた、断言できる」
 渡された写真を見た奈々岡は、ぷっと吹き出して、くすくすと笑った。
 写真からはみ出た二つの金髪。半径二百五十メートル、高度三千メートルをカヴァーし、六百五十個もの目標を識別・追尾する鷹の目こと電子戦機ホークアイ、アヤが「あかんべー」と小さな舌を出していた。奈々岡は笑いが止まらないらしく、肩を大きく揺らして腹を抱えている。
 久作もつられて笑いつつ、保健室の小さな窓に向けてつぶやいた。
「ボギーワンより各機。マルロクサンマル、状況終了。平凡で退屈な、新たな日常の始まりだ」


♪「スニーカーズ」by Raptorz
(作詞:速河久作/歌:橘綾/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲:真樹卓磨(B))

 退屈な日常なんて言葉があるが
 日常を退屈にしてるのは
 自分自身なのさ

 三歩も歩けば刺激だらけの世界
 その刺激に気付かないのは
 自分自身なのさ

 つまらない日々だとかくだらない世界だとか
 ありがちな理屈をこねる時間があったら
 お気に入りのスニーカーを履いて外に出よう

 見渡す周りがみんな
 退屈な日常を過ごしていると
 気付けばそれで一歩前進

 後はやりたいことを
 やりたいようにやればいい
 たったそれだけのこと

 簡単なことを難しくしているのは
 首から上の重たい頭
 刺激的な日常をくだらなくしているのは
 首から上の重たい頭

 だったらそれが動き出す前に
 お気に入りのスニーカーでダッシュだGO!

(――第十回、私立桜桃学園文化祭ライブより)


『ミラージュファイト・リングリング』――おわり

スピンオフ~スーパーヒーロー入門講座・初級編

 ――飛鳥弥生 著(by Yayoi-Asuka)

※この物語はフィクションです(This story is fiction)
※ミラージュファイトシリーズ・スピンオフ

「アヤちゃん、僕、とうとう変身できるようになったんだ」

『地球が静止する日』っていうSF小説があるけど(映画にもなったかな?)、その時のあたしはまさしくそんなだったね。
 超新星爆発の子供みたいな満面の笑みの速河久作はやかわ きゅうさくは、クラスメイトの中ではインテリの部類で、あたしの好みとは違うけど見栄えもまあいいほう。たまーに高等部一年らしい子供っぽい振る舞いをすることはあるけど、とりあえずリアクションを。
「……リアリィ?」
 正直なところ「エクスキューズ・ミー?」って出そうになったよ。

 ああ、自己紹介してなかった。
 あたしは橘綾{たちばな あや}。
 速河久作と同じ私立桜桃学園高等部の一年で、十五歳。アメリカ生まれのアメリカ育ちで国籍もアメリカ。アリゾナ州立大学を卒業して(インテリだぜ、へへん)、日本に来たのが今年の春だけど、両親は日本人だから当然見た目は日本人だし(金髪は染めてるだけ)、日本語も普通に使えるけど、思わず英語が出る事もある。さっきみたいに強烈に奇天烈な発言を聞いたりしたらね?

 速河久作の云う変身が実は「返信」で、メールのことか、とも思ったけど、こいつはあたし並にパソコンとかネットの知識があるから、今更そういうこともないだろうけど、じゃあフランツ・カフカの変身かというと、んな訳ない。カフカ的変身ってどんなだよ。
 速河久作の夢、というか願望は「変身ヒーローになりたい」で、子供向けの特撮とかアメコミヒーローのファン、の上のマニアで、歴代ヒーローの変身ポーズを覚えてるとか、シリーズに登場するミラクルマシーンのスペックを言えるとか、まあかなりの重症。でも、高校一年生なんてそんなもんよ、日本に限らずで。
 市販されてる子供向けの変身グッズを購入したり英語版のアメコミ誌を収集したりは、ファンとかマニアならやるだろうから特殊でもない。そこからコスプレしたり自作映画を作ったりする大学生なんかもいるけど、まだその段階には至ってないし、こいつは、なりきりとかごっこ、じゃあなく、文字通りの本気で変身ヒーローってのに憧れてるから、真似事には興味ないみたいなのよ。

 で、最初の科白。
 夏休みに入って二週目の土曜日。商店街の喫茶店で待ち合わせて、ちょこっと遅れてあたしが現れた途端、速河久作は云ったのよ。笑顔プラス、ガッツポーズ、しかも両手のダブルガッツ。なんでこいつが夏休みでも桜桃ブレザーなのかを突っ込むより先に云われたもんだから、思わずフリーズしちゃったの。
「ああ、リアルだよ」
 何が? ああ、あたし、リアリィ? 本当に? って返事したんだっけ? んで、リアルだそうな、へー。うわ、溜息出そうになった。
 速河久作が実際にヒーローでもまあいいんだけど、変身ヒーローとなるとちょっとね。日本ではさ、ヒーローって変身するらしいけど、アメリカとかのヒーローって基本的に変身しないのよ。
 富豪がその資金と偏った情熱で作った羽根付き防弾スーツとか、持ってる能力とは無関係なコスプレとか、民間人なのに仮面付けて拳銃を持ったりとか、素性を隠すための全身タイツとか、変身した後の姿そのものに能力があるってパターンは日本発なんだよね。
 アメリカだとアニメーションの代わりにカートゥーンムービーってのがあるけど、だからか子供向けの実写って教育とバラエティ以外では少なくて、ヒーローも子供向けと大人向けで全く違うの。
 ここが日本の凄いところで、一見して子供向けなのに大人が夢中になる、みたいな凝った作品が多いらしくて、そろそろ大人な、同級生の速河久作みたいな奴が熱心になっちゃうんだね。
 いや、そういう一般論はいいとして、変身できます、そう云ったよな? リアルで。
「アヤちゃん、ひょっとして疑ってる?」
 あたしってば、じーっと顔を眺めながらあれこれ考えて、まるで速河久作みたく固まってたな。こいつ、考え事をすると止まらないっていう悪い癖があるんだけど、それみたいになってるじゃん。
 さあ? と首を傾げちゃったけど、どれに対してさあ? なのか自分でもよくわかんない。えっと、アイスティーを一口。
 速河久作がヒーローなのはまあいいとして、変身ってのはつまり、衣装を着るとかペイントするとかじゃあなく、姿が変わって、ついでに馬鹿力とか何か追加能力があるってこと? 衣装なら変身とは云わず着替えだし、まさか桜桃ブレザーのまま空を飛ぶってこともないだろうし、やっぱり、日本っぽいヒーロー型の変身ってことだよなー。こう、構えてピカッと光って、アラビックリ、みたいな。
 じゃあ変身してみてよ、って云ってもたぶんだけど、今は駄目とか実は秘密だとか、何か変身できない理由がありそうだし、こいつが変身しようがしまいが、ぶっちゃけ、心の底からどうでもいい。人間、大事なのは中身って云うでしょ? いや、何か違うな。
「そういう力が必要になったらいつでも呼んでよ」
 うんうん、って頷いちゃったけど、そういうって、どういう? まだそちらのスペック知らないんだけど? 強盗レベルでいいのか、災害規模でも対応してくれんのか、その辺はどうなってんだろ。
 911、じゃない、110と119みたく違いが解らないと呼ぶも何もないんだけど、何でもアリってことかな? ヒーローってくらいだからそうなんだろうね。しかも変身て。
 ああ、もしかして110なシチュエーションと119なシチュエーションで変身バリエーションがあるとか? そりゃ便利だわ。とりあえず速河久作を呼べば、こいつが変身とやらで全部に対応してくれるってことか? ジュース飲みたいけど十円足りない、とかでもいいのかな?
「それはいいとして、今度の海水浴の場所と日程だけどね――」
 ……あれ? その話題、終わり? うそーん!
 夏休みに入ったらみんなでツーリングを兼ねた海水浴に行こう、ってリカちゃんとかと云いあってて、みんなの日程を聞いてスケジュールを組んだりするのが上手な速河久作が段取りしてくれるってことになってて、女子代表があたし。リカちゃんとレーコとあたしと、リンリンとアオイちゃんの予定を速河久作に伝えてて、あっちは須賀恭介と方城護と本人。
 リンリンはクラス違いでアオイちゃんは先生で、それ以外はクラスメイト。みんなバイクを持ってて、あたしはまだ誕生日じゃないから通学路以外では運転できないんで、アオイちゃんにタンデム。アオイちゃんは大型バイクで他は原付なんだけど、ん? ネットから拾ってきたらしき写真のプリントアウト? おー、穴場っぽい良さそうな砂浜じゃん。
 アオイちゃんに車の運転をお願いしてレンタカーでバーベキュー、なんて案もあったけど、速河久作とアオイちゃんがツーリングにしたがったから日帰りの海水浴。なんだけど、変身ヒーローは? ねえねえ。
 海で溺れそうになったら助けてくれるの? ってそりゃライフセイバーだ。いちいち変身する必要ないし、衣装が水吸ったらそっちが溺れそうだし、水陸両用なのか?
 速河久作が注文してくれたアイスティーのお代わりをストローでずずーっと、旨いんだよね、ここの紅茶は。日程も場所もそれでOKだし、ルートとガスチャージポイント、天候予測まで網羅してるんならこっちから意見はないけど、変身は? いや、海水浴とは全く関係ないから聞くタイミングでもないのか?
 つまりアレか? 変身がどうこうはこの会話の枕言葉か季節柄の挨拶みたいなもんってこと? ハロー、アイム・チェンジヒーロー、ないない! 海水浴に必要なスキルだから女子代表のあたしに報告しとくとか? ヒレでも生えてくるんだろうか。

「じゃあ、これで決まりってことで、みんなにメールしとくよ」
 ……あれ? 速河久作が消えた? ああ、もうバイクのところにいるや。そういやあいつ、注文してなかったっけ。うん? ワンコイン? アイスティー、おごりってこと? サンキュー、さすがはヒーロー、じゃなくって!
 えーと、そういう時に呼んで、って今が正にそういう時なんだけど、コールしてもいいのかな? 悩み事の張本人がそれをどうやって解決するのか知らないけど、やめとこ。
 うーん、日本で海水浴は初めてだから楽しみで、メンバーに変身ヒーローがいるけど、まあいいか。悪さしようってんじゃない、逆なんだからいいんだよな? うん、そういうことにしとこう。
 てか、これってリカちゃんとかに云ってもいいの? 口止めされてないけど、マナー的には云いふらすのはNGだよね。つか、誰も信じないか。
 根本的な問題は、どう変身するのかより、どのタイミングで呼べばいいのかが解らんってこと。
 定番っぽくピンチになったら勝手に登場するみたいなシステム? ったく、日本のヒーローってのはややこしいんだよ。みんな、そういうのは暗黙の了解なのかな?
 言葉は完璧なのに、文化風習ってのは難しいね。
 あ、アイスティーなくなった。えっと、お代わり……って、ここで呼んだら、もう一杯おごってくれるのかな? 変身いらねーじゃん!

『スーパーヒーロー入門講座・初級編』――おわり

スピンオフ~デストラクション

 ――飛鳥弥生 著(by Yayoi-Asuka)

※この物語はフィクションです(This story is fiction)
※四〇〇字詰原稿換算枚数、十七枚 { }はフリガナ
※ミラージュファイトシリーズ・スピンオフ


「秀才くんはいつも、のんびり平和そうな笑顔。悩みがなさそうでいいわねー」
 午前の授業が終わった直後、速河久作{はやかわきゅうさく}の机に向かってきた橋井利佳子{はしいりかこ}は、溜息を交えつつ、こぼした。
「リカさん、それって嫌味じゃないよね?」
「ふふ、嫌味よ。もー、イライラすることばっかりでテンション下がりっぱなしなのよ」
 リカはロングヘアの頭頂部をぐしゃぐしゃとやり、また一つ、溜息を吐いた。
「ストレスがたまってるんだね、大変そうだ」
「人事{ひとごと}みたいに言うのね。友達への思いやりに欠けるわよ? それって」
 久作は笑いながら「違う違う」と手を振った。
「誰だって悩みの一つや二つはあるもんだよ。それがストレスになってイライラして、イライラする自分にイライラしてまたストレスを溜める、悪循環だね」
「だったら?」
 リカはぐっと顔を寄せて久作をにらみつけた。
「リカさん、近いよ……ストレスを発散させればいい、それだけさ」
「それだけ、って、それが出来ないからこうして愚痴ってるんじゃないの。もっと的確なアドヴァイスは出ないの? 秀才くん?」
「秀才くんはやめてよ、馬鹿にされてるみたいだ。えっと、ストレス発散の方法なんて人それぞれだけど、僕は……」
 そこで久作は言葉を一旦止めた。これがアドヴァイスになるかな? と思ったので。
「僕は、何? 飛びきりだから教えたくない、なんて言わないでしょうね?」
「まさか、言わないよ。僕の場合は、路上でギターをガシガシと弾きまくる」
「そういえば久作くんって、ギター弾けるんだったわよね? でも、路上って、弾き語りっていうやつかしら? 度胸あるのね?」
 久作は再び違うと手を振った。
「僕のギターは我流で、あんなの、弾けてるうちに入らないよ。それに声に自信がなくて歌ってないから弾き語りでもないよ。ただ、弾き語り連中がいるところに紛れ込んで、エレギをギャンギャンかきむしってるだけだよ」
「エレギ?」
「ああ、ごめん。エレクトリックギター。ちなみに弾き語りの人たちはアコギ、アコースティックギターだよ。弾き語りの場所って電源が取れないから、持ち込んでるのはアンプとスピーカを内臓したショートスケールのタイプだけど、トレモロユニットもアームもあるし、ディストーションモードもあるし音もそこそこな、立派なストラトだよ。あ、いや、レスポールのカスタムって呼ぶのかな? レスポールにロックアームが付いてるタイプなんかがレスポールカスタムで、見た目はレスポールなんだけど、アームが付いてて、でもロックアームじゃないトレモロユニットだから、ストラトカスタムなのかな? まあ、レスポールとストラトの中間みたいな、いかにもオモチャって感じの奴だよ」
「久作くん? 毎度だけれど、バイクとかギターのことになると、普段は無口なのに途端に饒舌になるのね。私、ギターのことはサッパリで、今だって久作くんが何言ってるのかサッパリなんだけど? そういう話はラプターズの加納{かのう}先輩だとか真樹{まき}先輩とでもやってよ。で、その、えーと……」
 リカが首をかしげた。加納と真樹というのは、久作たちの1つ上の学生ロックバンドのメンバーで、リカも面識がある。
「路上で、ヴォーカルなしでエレギ? ギターを、弾き語りの人がいるところでギャンギャンって、苦情こないの? 他の弾き語りの人から」
「そりゃもう、たっぷりと。「弾き語りはヴォーカルありきだ」とか「ここでエレギを使うのは邪道だからアコギにしろ」とか「ロクに弾けないのに来るんじゃない」とか、もう滅多打ちだよ」
「弾き語りのルールがあるのね?」
「ルール? 公共の路上で勝手に楽器を演奏するのに、ルールなんてないよ!」
 久作はぷっと吹き出した。
「騒音苦情はまああり得るけど、通行人はそもそも弾き語りなんて耳にしてないから、さっき言ったようなルールだか何だかは「誰かが勝手に作った不文律、暗黙の了解」みたいなもので、守るに越したことはないけど強制されるようなもんじゃない。第一、音楽は自由の象徴だ。それに対して不文律だなんて、タチの悪いジョークみたいなものだよ」
 笑顔は崩さず、久作は「なんてこったい?」とアメリカ人のようにゼスチャーしてみせた。
「それで、私にもギターを弾けって? 無理よ? 私、楽器なんて触ったこともないんだから」
「だったらヴォーカルをやればいい。あ、一人でカラオケボックスなんてのは駄目だよ? 誰かの視線があってこそのストレス解消だから」
「……つまり、路上で弾き語りの人に混じって、アカペラで歌えってこと? そんな度胸ないわよ、私」
「大丈夫だよ。通行人はリカさんのことなんて風景としてしか見てないし、歌だって喧騒その一さ。なんだったら僕の歌詞、貸そうか? 出来はイマイチなんだけど、ストレス発散には持って来いの歌詞だよ」
 言うと久作は、リュックのルーズリーフを開いて、リカに見せた。
「どれどれ? 秀才くんの作詞家としての能力は? ……久作くん! あなた、革命家だとかテロリストじゃあないわよね?」
 リカの科白に久作は再び吹き出した。
「はは、安心していいよ。僕は平凡な学生その一だよ。それはね、前にカチンとくることがあって、その時に勢いだけで書いたものだよ。こんなフレーズにリズムを乗せられたらいいな、なんて思ってね。何だったら放課後にでも路上にいって、それをアカペラで歌ってみる? バッキング(伴奏)くらいなら入れられるかも知れないしさ」
「いきなり? リハーサルは?」
 リカが驚いて声色をあげた。それに対して久作が吹き出した、三度目だ。
「ストレス発散のための路上パフォーマンスに、いちいちリハーサルなんてしてたら、それこそストレスだよ。まあ気が向いたら声をかけてよ。ギターは一本、常にロッカーにあるから、いつでもお気軽にどうぞ」
「まあ、その……考えておくわ。アドヴァイス、ありがとう。何故だか少し楽になったわ」
 またね、と手を振って、リカは女子グループに合流し、昼食に入った。久作も男友達と一緒に弁当を広げ、なんともなしに自分の歌詞を読みかえしていた。
 リズムラインは浮かぶが、それにテクニックが伴わないことは承知しているので、この曲は完成することなく、いずれ忘れてしまうだろうな、と再確認した。

「Death Traction{デス・トラクション}」
(作詞:速河久作)

 解りもしないものを不要だと叫び続ける偽善者と
 なければ死ぬほど困ると叫ぶ俺
 もうどうにでもなれとブチ切れて
 握ったギターで全てを叩き壊す

 暴れまだす破壊衝動
 おさまらない破壊衝動
 何もかもをぶち壊す
 金でも命でもくれてやる
 自身を滅ぼす破壊衝動
 世界を滅ぼす破壊衝動

 そんなに金が欲しいのなら
 俺を殺してバラバラにして
 臓器を売ってテレビでも見てるがいいさ

 下らぬ情報操作に左右され
 洗脳されたと気付かぬ愚民ども
 金、金、金、とやかましい
 支配されたと気付かぬ愚民ども

 そんな社会のシステムを
 全てぶち壊したくなる破壊衝動
 国ごと滅ぼす破壊衝動
 自身を滅ぼす破壊衝動

 楽しく明るく元気よく
 ゆっくりまったりゆらゆらと
 肩の力を抜いてのんびり過ごしたいだけの
 俺を支配しようとするシステムと
 徹底的に戦って
 死んで散るならそれで本望

※Death Tractionデス・トラクションは速河久作の造語
 DEAETRUCTION(デストラクション~破壊)をDeath(デス~死)とTraction(トラクション~牽引力)に分けて「滅ぼす、皆殺しにする、そのような力を持つ」といった意訳をつけています


『デストラクション』――おわり

スピンオフ~パッシブボイス

 ――飛鳥弥生 著(by Yayoi-Asuka)

※この物語はフィクションです(This story is fiction)
※四〇〇字詰原稿換算枚数、十一枚 { }はフリガナ
※ミラージュファイトシリーズ・スピンオフ
※パッシブ=受動的、受身


 家が他に比べて裕福で、親が大きな企業の社長だったり姉がそこの重役だったりすると「お嬢様」なんて呼ばれることがあるけど、私はこれがあまり好きではなかった。
 中学生くらいの頃、いや、小学生時代からだったか、家を出入りする大人にそう呼ばれて、ついでに学校でもそう呼ばれて、挙句には教師連中まで同じようだったが、好きではないが違和感もなかった。
 他の子の家が自宅よりも小さくて出入りする人も少ないと知ったのは中学生になってからで、それまでは家には車寄せや噴水があるものだと何の疑いもなく信じていたし、入ったことのない部屋が沢山あることにも違和感はなかった。
 中学生、二年の夏頃に、友達の一人が「お金持ちの」という枕詞をつけてお嬢様という言葉を発したのは単なる雑談だったと思う。合わせて「お金持ちのお嬢様」、これにはさすがに抵抗があった。
 気になって辞書を引いた私は随分と幼かったけど、お嬢様というのはまずお金持ちの家の娘だし、お金持ちの家の娘の何割かはお嬢様と呼ばれているらしいので、日本語としておかしい、そう感じた。貧しいお嬢様なんてのがいるとしたら、ついでにカボチャの馬車やらガラスの靴も出てくるんだろうけど、当時はそれが嫌味、妬みだとは気付かなかった。
 高校生になって卒業までの三年間、私はお嬢様で通っていた。もしくは、お壌。
 さすがに高校生にもなればそれが嫌味なのだと分るが、だからどうという話でもない。実際私の家はみんなより裕福だし、メイドさんなんかも出入りするのでお嬢様という表現に間違いはない。幾つか習い事もしていたし、制服以外の服もそんなイメージのものが多かった。みんなが云う習い事が学習塾なのに対して私はピアノ、ヴァイオリンと茶道で、塾の代わりに家庭教師がいたけど、ここはみんなとそう変わらないと思っても、やっぱりお嬢様は違う、そんな風に云われた。
 呼ばれ方に不満はあっても家や家族には不満はなかった。他より裕福なのは両親と姉がそれだけ努力しているからだと理解していたし、努力は報われて然りだとも思っていたから、不満どころか尊敬している、今も。そんな家族に対して自分が何もせずにお嬢様と呼ばれていると気付いたのは、それから随分と後の大学生になってからだった。
 大学生になって最初の休日、私は服を買いにいった。
 メイドさんが用意してくれる服にも不満はなかった。どれも可愛らしくてシンプルだった。それでももっと地味な、そう無意識にショウウインドウを眺めた。モノトーンで、フリルなんか付いていない、ひたすらに地味なブラウスとジーンズと、ヒールやパンプスではなくスニーカ。それらを身につけると別人になったような気分だったけど、帰宅すると「お嬢様」と迎えられた。
 メイドさんや執事さんが普通はいないと知ったのは高校生活の終盤だったと思う。大学生にもなれば自分が社会的にどういう位置なのかは分る。周囲と比べて違うと思う部分がつまり、私をお嬢様にしているのだろうと。アルバイトはしなかった。両親が他と違うにしても頑張って仕事をして、そこから小遣いなりを工面してくれていることを尊重したい、そんな気分だったと思う。同じ理屈で、私は身分を偽ったり偽名を使ったりしなかった。
 大学生になってしばらくして、サークル勧誘などが一段落した頃、見知らぬ男性が私をお嬢様、そう呼んだ。その言葉に二つの意味があることを理解していた私は、どちらの意味なのかを吟味していた。
 ゴン、と物凄い音がして、私をお嬢様と呼んだ男性がひっくり返り、あれこれ考えていた私は驚いた。
「アンタは大学にもなって、マナーっちゅうもんを知らんのか? 今のお嬢様、はイヤミやろ。横で聞いてても分るわ。こん人がお嬢様やったらウチはお姫様や。そないなアンタはお殿様か? 名前聞いて敬称つけてご挨拶、日本人のつもりやったら、こんくらい出来るようになっとけや」
 ひっくり返った男性は罵声を浴びつつ退散して、残ったのは京都訛りの関西弁の、色っぽい女性だった。見た限り年はそう違わないので学生だろうが、頭をバリバリかきむしったり煙草を咥えて大きな欠伸をしたりで、お世辞にも品が良いとは云えなかった。
「アンタもやー、ちょこっとくらい言い返せーや」
 退屈そうにそう云われて、それが自分に向けられた言葉だと気付くのにしばらくかかった。
「あー、アンタは失礼やったな、名前知らんから堪忍してや」
 男性に続いて女性も消えて、もうしばらくして我に返った私は向けられた言葉を反芻しつつ車に歩いた。駐車場には迎えの車が待機している。中学生になってからずっとで、それを運転するのも同じ男性。執事という肩書きの、両親より年上の無口な男性が待っていた。
「お嬢様? 顔色が悪く見えますが?」
 聞き慣れた声と科白だが、私は思わず見入った。この「お嬢様」はどいういう意味だろうか、と。考えるまでもないが思わず考えてしまった。そしてこう続けた。
「ねえ、月詠さん? お嬢様って、やめない?」
 他に幾らか足したい言葉はあったが、長い付き合いの月詠さんにはそれで足りる、半ば確信していた。
「では、真実{まなみ}さま、でいかがでしょうか?」
 月詠六郎{つきよみ・ろくろう}、執事という肩書きであれこれ世話をしてくれる無口な紳士の提案に私は頷き、車の後ろではなく助手席に座った。
 両親と姉以外にマナミと呼ばれるのは初めてだが、違和感はなかった。自分の名前なのだから当然だけど、そこで気付いた。私は「お嬢様」という名前ではない、と。真実、しんじつ、と書いてマナミと読むこれも、両親が付けてくれた大事なもので引け目を感じることはないのだと、あの関西弁の女性が教えてくれた。
「天海真実{あまみ・まなみ}です、先日はどうも」
「アマミマナミ? 何や回文みたいで舌噛みそうやん、ええけど。マナミちゃんな? ウチはアオイ、露草葵や。好きに呼んでええわ。専攻違うかったな? ウチは心理学科でこれでもお医者さん志望やねん」
 葵から、ちゃん、が消えるまでに三日とかからなかったが、ともかく、遅ればせで天海真実の人生が始まったような気がした。大袈裟に聞こえるだろうけど、正直そんな気分だった。
 少し驚いたのは、月詠さんに宣言して以降、家のみんなが私を真実、もしくは真実さまと呼ぶようになったこと。きっと月詠さんの仕業だろうけど、こっちも新鮮だった。みんなに少し近付いた、そんな気がした。
「真実さま、何か良いことでもありましたか?」
 迎えの車のハンドルを握った月詠さんが尋ねたが、別に、そう濁した。だがどうやら笑顔だったようで、くすり、と笑われた。思い出と呼べそうな記憶の全て、隣か後ろに常にいる月詠さんは、呼び方が変わっても何一つ変わらずだった。きっと葵と対面しても同じだろうし、葵のほうも似たようなものだろう。
 呼び方一つで変わることもあれば、どれだけ時間をかけても変わらないものもある。こんな単純なことに、大学生になるまで気付かなかった。きっと、と思う。悪い意味で私をお嬢様と呼んだ人にもそれなりの事情というのか、感情があったのだろう。同じ人間だ、それがちょっとした悪意になることだって、たまにはある。
 それでも変わらないと自信を持って云える、ここが大事なんだろうな、ふとそう思った。

「パッシブボイス」(作詞:飛鳥弥生)

 1ヶ月を3日に感じる人がいて
 1週間を3ヶ月に感じる人がいる
 2人に発するタイムラグ

 イライラと疲れることが多いけど
 難しく思わずに納得すること
 自分の今日はそこにある

 いちいち反応してたらキリないし
 肝心なのは受け身のタイミング
 ゆるく 楽しく ハッピーに
 自分の明日はそこにある

 大海原の片隅で
 ひっそり始まるティータイム
 肝心なのは受け身のタイミング

 ねずみとクジラのティータイム
 お互い受け身のパッシブボイス
 何が出るかはお楽しみ

『パッシブボイス』――おわり

 - Mirage Fight & Spin Off CAST -

- "Ooto private school" 1-C Students "Rika-chan Corps" -

 Rikako Hashii Ride Honda JOY Class officer Miss school two consecutive
 Aya Tachibana Ride Suzuki RG50 Gamma Miss school
 Leiko Kashima Ride INNOCENTI Lambretta48(48MOPED) Miss school

 Kyusaku Hayakawa Ride Honda XL50S "Shining Brave" Over Concentration & Electric guitar
 Mamoru Hojo Ride Suzuki Hopper "the scoring machines"
 Kyousuke Suga Ride Suzuki mini-Tan "Hard-boiled detective"

- 1-A Students -

 Suzu Nanaoka Ride Honda Hamming The news photographer & Writer & LUMINOX Navy Seals & NIKON Single-lens reflex
 Yuichi Tokino

- 1-C Students -

 Jun Sakuma Ride Honda APE50 Baseball & soccer & Karate
 Hiroshi Nagayama Ride Yamaha Axis 50
 Haruna Sasagawa Ride Suzuki Verde Our Sakuma's Idol

- "Ooto private school" Rock band "Raptorz" -

 Yusuke Kanou(2-A) Lead guitar & side vocals Ride Kawasaki AR50
 Takuma Maki(2-A) Bass Ride Yamaha Passol
 Shouji Oomiti(2-C) Drums and backing vocals Ride Suzuki Mode GT
 Aya Tachibana(1-C) Lead Vocals
 Kyusaku Hayakawa(1-C) Lyrics

- Other students -

 Michiko Fukaya(3-A) Miss school last year Ride Vespa S50
 Yutaka Nitta(3-A) karate captain Ride Yamaha Jog ZR
 Naoki Kawano(3-E) Football captain Ride Suzuki Let's 5G

 Inoue(2-B) Baseball Bench
 Fujiwara(2-B) Baseball bench
 Motoki(2-D) Football Regular

- "Ooto private school" Teachers & Other -

 Manami Amami "Ooto private school" ace management consultant Ride Acura ZDX
 Aoi Tuyukusa Clinical School counselor Ride LAVERDA 750SFC
 Rokurou Tsukiyomi Manami's Butler Ride Citroen Berurango

 Aoi Tuyukusa(age:26) Clinical School counselor & Psychologist & Insurance teacher Ride LAVERDA 750SFC
 Freddie Spencer(skeletal men) Aoi's "fast" wear

 Zenji Kanayama(age:52) School head teacher Ride Mercedes-Benz 125 E250CGI Buruefishe! Ed

 Hideyoshi Nakasako(age:45) Mathematics teacher Ride NISSAN Latio 15M FOUR4WD
 Shizuko Nonaka(age:40) Japanese history teacher Ride TOYOTA Arion 1.5 A15
 Tetsuya Watase(age:35) EnglishⅠ teacher Ride Lamborghini Jota
 Toshiaki Yaku(age:28) Modern language teacher karate portion adviser Ride Bentley Continental Flying Spur Speed
 Saburou Sakaki(age:36) Chemistry Teacher Kendo advisory agency Ride Ferrari Daytona 365GTB-4

and
 Date
 Aizawa

ミラージュファイト・リングリング

 ミラージュファイトシリーズは一般執筆系サイトにある「これをやってはいけません」ということを、あえてやってみてる作品郡です。

ミラージュファイト・リングリング

梅雨、私立桜桃学園高等部。1-Cの速河久作は広報部の奈々岡鈴{ななおか・すず}の取材を受けていた。久作の友達、バスケ部の方城と頭脳派の須賀、そして、リカ、アヤ、レイコの「リカちゃん軍団」も同じく。 だが奈々岡の目的は取材ではなく、過去にあった事件の取材協力であった。 ※ライトノベル設定です。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章~カニ社会における、名誉と地位の確立だとか
  2. 第二章~無敵の魔女……露草を形容するとしたら、案外こういった感じかもしれない
  3. 第三章~棺桶を踏み台に、彼は学年成績を高く踏み上げていった
  4. 第四章~奈々岡はどうやら剣の達人らしく、ライフル弾をキンと弾き返した
  5. 第五章~前を向いて生きていくことを、我々はお薦めします
  6. 第六章~ボギーワンはクイーンの涙に弱い、繰り返す
  7. 第七章~あたしに情報戦で勝とうなんて、百年早いっつーの
  8. 第八章~レクイエムといきたいところだけど、僕はスローなのが苦手なんだ
  9. 第九章~ホークアイから指示が出てる、オールウェポンズフリーだ
  10. 第十章~勇敢な永遠の絆にラッキーが重なった、そんなところかな?
  11. スピンオフ~スーパーヒーロー入門講座・初級編
  12. スピンオフ~デストラクション
  13. スピンオフ~パッシブボイス