嘘ものお月さま
マンションのベランダから見る月は、いつも街の灯りに紛れて幼い時の柚子にはどれが本物の月か分からない時があった。分からなくて泣きそうになるといつもあの一番大きいのが本物のお月さまやで、と香苗ちゃんが教えてくれた。もちろん小学六年生の今なら柚子はすぐに自分で本物の月を見つける事が出来る。
「柚子、香苗ちゃん来たからお父さん仕事行ってくるで」
部屋で宿題をしている柚子に父が声を掛ける。もうそんな時間なんや…と柚子は大きく伸びをした。香苗ちゃんは柚子の子守役だ。タクシーの運転手をしている父が夜勤の時に柚子に一人で留守番させるのが心配なので、父が雇っているお手伝いさん的な人で父がいない夜は一晩中柚子の家にいてくれる。
「香苗ちゃん今日の夜ごはん何?」
「今日は唐揚げやで」
「やった!お父さんも大好物やんな?」
そうやな、と何だが恥ずかしそうに父は言ってじゃあお願いしますと仕事に出掛ける。いってらっしゃい、と香苗ちゃんは嬉しそうに手を振る。それを見ながら二人の間にある柔らかくて暖かい空気を柚子は感じる。
香苗ちゃんは今年28歳。なかなかの器量良しで昼間は歯科衛生士として働きながら夜は柚子の家でお手伝いさんをしている。もうずっと前、柚子の母が交通事故で死んだ7年前から。父が仕事に行った後、二人で仲良く食事を作って一緒に食べて一緒にお風呂に入る。そんな生活が一週間のほとんどを占めていて柚子にとっては香苗ちゃんはお姉ちゃんの様な存在だ。だから歯ブラシや化粧品を家に置いておいても良いと思うのだけれど、香苗ちゃんは一切自分の持ち物を家に置く事をしなかった。持って帰るん面倒くさいから置いといたら?と言っても、お父さんの彼女が見たら勘違いするやろ、と香苗ちゃんは笑った。お父さんオジさんやし、もてへんから彼女なんかおらんで、と柚子が言っても香苗ちゃんが自分の持ち物を家に置いておく事は決してしなかった。それが何だが柚子は悲しかった。
「今日もお月さま綺麗やな」
唐揚げを食べて一緒にお風呂に入ってリビングで柚子の髪を乾かしながら、ベランダの月を見て香苗ちゃんが言う。
「私小さい時はお月さまと街の灯りが紛れてどれが本物か分からん時あってん」
「そうやったな。私が教えてあげてたね」
「うん。今は自分でどれが本物か分かるけどな、別にどれが本物でも良いんかな、って思う時があるねん」
「…自分が本物やと思うのが本物って事?」
そう、と柚子は頷く。柚子ちゃんは哲学的やな、と言って香苗ちゃんは笑った。
母が交通事故で死んだ時に幼い柚子に父は、お母さんは星になったんや、と言った。どの星?と空を見て聞く柚子に、どの星と言って良いか分からない父は、違う、星じゃなくて月になったんや。あの大きいお月さまになったんや。あそこから柚子を見守ってくれてるんや、と説明した。それから柚子はベランダから見える本物のお月さまをいつもいつも探し続けていた。
母が死んでしばらくして香苗ちゃんがやって来た。その時香苗ちゃんはまだ歯科衛生士の学校に通っていて、慣れない手つきでご飯を作って柚子のお世話をしてくれた。ごめんな、がその時の香苗ちゃんの口癖だった。香苗ちゃんのお父さんが柚子の母を轢き殺した犯人だったという事を柚子が知ったのは、香苗ちゃんの料理の腕前が大分上がった、母が死んでしまったもうずっと後の事だった。夜勤明けの居眠り運転による事故で香苗ちゃんのお父さんは柚子の母を殺してしまい、父子家庭だった自分自身もその事故で亡くなってしまった。
独りぼっちになった香苗ちゃんが父と二人ぼっちになった柚子の家にやって来た。それはとても素敵な事やんな、お母さん。お月さまを眺めながら柚子はそう思っていた。香苗ちゃんが家に歯ブラシ置いてもええよね?
「香苗ちゃん、私のお父さんの事好き?」
ベッドに潜り込みながら柚子は香苗ちゃんにそう尋ねる。
「何言うのん、柚子ちゃんのお父さんは柚子ちゃんのお父さんやし、それに…」
「お父さんは香苗ちゃんの事好きみたいやで」
「柚子ちゃん、それは無いわ。だって…」
「香苗ちゃんが居てくれて、ほんまに嬉しい。お父さんもそう思ってるで」
香苗ちゃんは戸惑っていた。罪の意識、贖罪として柚子の家に通ううちに本当の家族のような安心感を感じている自分にももうずっと前から戸惑っていた。
「香苗ちゃんは私とお父さんのお月さまやねん。嘘ものでも、お月さまやねんで。だから明日は歯ブラシ置いて帰ってな」
香苗ちゃんは返事をせずに、ありがとうとだけ呟やいた。柚子は明日の朝洗面所に並ぶ三本の歯ブラシを想像しながら、お父さんにピンクは香苗ちゃんのやから間違って使ったらあかんで、と言わなくちゃと思いながら香苗ちゃんと優しい眠りについた。
嘘ものお月さま