ミラージュファイト・ゼロ

ミラージュファイト・ゼロ

 ライトノベルレーベルに向けて、はじめて書いてみたお話です。当初は自費出版も考えていましたが公募に向けて修正・調整しました。
 それから年月を置いて推敲を重ね、いちおうは読めるようになったものの、終盤はかなり強引です。
 ジャンルは学園アクション・サスペンス、といった感じですが、かなりマニアックな用語を多用しております。目次だけでも眺めてもらえれば幸いです。
 主役である速河久作{はやかわ・きゅうさく}の最初の物語で(時系列では)、面白いかはともかく、続くシリーズ2つと、久作が変身ヒーローになる特撮モノ、の前に位置する、個人的には記念的、シンボル的な作品です。
 前述はどれもUP済みですので、よろしければ表題と目次だけでもご覧下さい。
 表題は「リングリング」「ノワール」「ハイナイン・プラス」です。

ミラージュファイト・ゼロ

『ミラージュファイト・ゼロ』
-MIRAGE FIGHT ZERO-

 ――飛鳥弥生 著(by Yayoi-Asuka)

※この物語はフィクションです(This story is fiction)
※四〇〇字詰原稿換算枚数、四百十二枚 { }はフリガナ

『目次』

・第一章~ランブレッタ48
・第二章~チェックメイト
・第三章~オールラウンダー
・第四章~ミラージュファイト
・第五章~ウルトラコンボ
・第六章~エマージェンシー
・第七章~カウンターアタック
・第八章~シミュレートA
・第九章~スターティンググリッド
・第十章~ゲットアップ
・第十一章~スーパークルーズ
・第十二章~コ・パイロット
・第十三章~ハウリング
・第十四章~ダブルチーム
・第十五章~カラミティ・ジェーン
・第十六章~ハイナイン・プラス
・第十七章~ホンダXL50S


『第一章~ランブレッタ48』

♪「リカちゃん軍団のテーマソング」by Raptorz
(作詞・歌:橘綾/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲:真樹卓磨(B))

 変身完了5秒前!
 遂に目覚めるスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

 邪悪な奴らが降りて来る
 僕らの街が狙われる
 みんなの希望が 消えて行く
 黒い叫びが耳を打ち
 破壊の闇が現れた(無へ帰るのだ)

 スーパーヒーローなんていないというが
 ここにいるから安心しろよ

 実は俺たちスーパーヒーロー!
 悪と戦うスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

 閃け!(ハーモナイズ!)
 超絶テレキャスター!
 響け!(オーバードライブ!)
 完全レスポール!
 轟け!(ディストーション!)
 最強ストラトキャスター!

 スーパーヒーローなんていないというが
 ここにいるから安心しろよ

 彼らが来るならもう大丈夫
 世界の平和は彼らが守る
 全ての人らの平和を守る

 変身完了5秒前!
 遂に目覚めるスーパーヒーロー!
 私立戦隊リカちゃん軍団!
 赤 青 黄色のリカちゃん軍団!

「リカイエローが俺だというのはナイショだから
 そこんところ ヨロシクベイビー!」

(――第十回、私立桜桃学園文化祭ライブ初日より)

 パン、と派手な音がして視界が揺れた。
 ただのビンタなのに首から上がもぎとれそうで、遅れて口内に鉄の味がする。大きな掌の男はこちらを見てケタケタと笑うが、意図が全く解らない。
 もう数名がぐるりと取り囲み、こちらもニタニタと笑うだけ。自分と同じ学園のブレザー姿もいればスウェット姿もいるし、女性も二人ほどいる。
 まだ十七時過ぎだが裏路地だからか視界はやや暗く、先ほどのビンタで目がチカチカもする。鼓動が激しくなり、気色の悪い汗で背中はびっしょりで、逃げ出そうにも足元がおぼつかない。
 と、左足に激痛が走った。膝の下辺りを何かで殴られたらしく、派手にこけて、左足全体が痺れる。野球のバットを持ったジャージ姿の男がそれを構えて、こちらを見下ろしていた。痛みは足から腰、背中、頭まで伝わって、思わず咳き込んだ。骨が折れたようで涙がにじむ。こんな強烈な痛みは生まれて始めてだった。
 金を出せ、だとかの科白は一切なく、ただ囲まれているこの状況がまず理解出来ないが、頬と足の痛みで頭が上手く回らないし、逃げ出せそうもない。
 そして――

 ――私立桜桃{おうとう}学園高等部に加嶋玲子{かしま・れいこ}があがってきたとき、既に彼女は男子学生の話題の中心にいた。
 いや、中等部時代を含めれば男子に限らず、中等・高等部女子、そして両教師、果ては近隣の高等学校にまで彼女の名前は知れ渡っていた。「彼女にしたい女子ベスト3」だとか「ミス桜桃学園」だとか、そういった話になると必ず、高等部三年生の深谷美知子{ふかやみちこ}と加嶋玲子の一騎打ち状態であった。加嶋玲子本人が知らないうちに「玲子ファン倶楽部」が出来ていたり、その集団と深谷美知子のファン倶楽部とで些細ないざこざが発生したり……まだ四月の後半だというのに、およそ勉学とは無縁なところで桜桃学園高等部は盛り上がっていた。
 高等部の一員となってすぐ、四月後半の時点でそれらとは無縁な位置にいた、一年の速河久作{はやかわ・きゅうさく}が始めて彼女、加嶋玲子と出会ったのは、若干さかのぼること四月中旬の登校中であった。
 学生の都合を一切無視した、恐ろしいほどの高台にある桜桃学園。殆どの者は通学にスクータを利用していた。無論、免許を持たない中等部学生はその心臓破りの坂道を私バスか、徒歩か自転車で三年間も登らされることになるのだが、ようやくにしてその呪縛から開放された久作は、すっかりくたびれた自転車から、乗れる日を待ちわび丁寧にメインテナンスをしていた旧式の原付バイク、ホンダXL50Sというオフロードに遂に乗り換え、吐きそうになりつつペダルを漕ぐ中等部の連中を横目に、通学という短い時間ながらバイクライフをエンジョイしていた。

 心臓破りの坂の五合目付近だったか、真っ赤な自転車と桜色のブレザーの女性が立ち往生しているのを見かけたとき、久作がホンダXL50Sを止めたのは、その桜色のブレザーに対してではなく、真っ赤な自転車に目がいったからである。五メートルほど離れた場所にXLを止め、フルフェイスをミラーにかけ、その真っ赤な自転車に向けて、てくてくと歩きつつ「どうしたんです?」と声をかけていたが、実際はどうしたかなど一切気にしていなかった。
 久作は、真っ赤な自転車……に見えるペダル付きの原動機付き自転車、ランブレッタ48に向けて声をかけていたのだ。ジェットヘルメットを足元に置いて、その真っ赤なランブレッタ48を中心にくるくると歩いている女性は、速河久作の問いかけに何かしら応えたが、肝心の久作にその科白は全く届いていなかった。
「驚いたな。まさか桜桃学園でランブレッタを見れるなんて。ベスパは何台か見たけど、ビンテージ物のランブレッタ48に乗ってる人間なんて、市街地でも見たことがない。それがこんなところに……」
 そんなことをぶつぶつと五分ほど。ランブレッタ48の細部を眺めつつ速河久作は心底、感心していた。
「あのぅ?」
「ランブレッタって確か、ペダルでエンジンがかかるんでしたよね? タンク容量は3リットルも無かったと思うんですけど、桜桃までのこの上り坂は、かなりきついでしょう?」
 桜色のブレザーの下、短いスカートの端を握る加嶋玲子に、久作はまくしたてるように尋ねた。好奇心で少し笑みの浮かぶ速河久作と、頭に「?」マークの浮かんでいる加嶋玲子。一分ほどして加嶋玲子が応えた。
「あのー、このスクータ、ランブレ? 急に動かなくなっちゃって……」
 会話として成立しているか微妙であったが、そこで久作が我に返ったのは加嶋にとって幸いであった。
「ああ! そうか。えーと、すいません。あんまり珍しいスクータだったものでベラベラと。止まっちゃったんですか?」
 ここで始めて久作は、真っ赤なランブレッタ48の持ち主、加嶋玲子の顔を見た。それまではずっとランブレッタの顔を見ていた、いうまでもなく。
 桜桃学園高等部一年生、加嶋玲子{かしまれいこ}。
「彼女にしたい女子ベスト3」「ミス桜桃学園」「加嶋玲子ファン倶楽部」、男女と教師が騒ぎ立てる彼女の容姿は、久作にランブレッタ48と同じくらいの印象を与えた。
 耳が少し隠れる程度の髪の毛のあちこちがゆるりと跳ねている、癖っ毛だろうか。とても柔らかそうな栗色をしていた。顎が少しとがった顔全体は小さく、しかし瞳は顔のバランスに比べて大きい。髪の毛と同じ色の瞳は端がすこし下を向き、鋭い眉毛もまた、下を向いている。まつげが棘のように出ているが、マスカラなどを使っている様子はない、天然なのだろう。顎と同じく小さくとがった鼻と、その下に、ブレザーの桜色と同じのふっくらとした唇があった。背丈は百六十五センチほどだろうか。すらりと伸びた足の先は、ブーツやローファーではなくローカットのスニーカだった。
 顔からあえてスニーカに目をやったのは無意識であった。全体に痩躯{そうく}な印象でありながら、自己主張をしているような胸を真正面からみる度胸が、久作にはなかったのだ。ランブレッタ48と加嶋玲子を交互に見る……ようにして、速河久作は加嶋玲子の噂、例の「彼女にしたい~」云々を思い出し、なるほどと納得した。久作は今のところ女性にはそれほど興味がなかったが、それでも加嶋玲子の容姿は、そんな久作のむなぐらを掴むインパクトがあった。
 ごく単純に「可愛い」と内心で表現しないのは、久作の若干ひねくれた、そして冷めた性格ゆえだが、結局のところ「可愛い」。久作風にいうなら、ビンテージスクータであるランブレッタ48を、桜桃学園の心臓破りの通学路で見かけるほど奇跡的な存在、といったところか。
「あのぅ? わかりますか?」
 加嶋玲子の問いかけに、久作は若干戸惑った。正直言って可愛い、本気でそう言いかけた自分に驚いた。当然、加嶋のその問いはランブレッタに関してである。
「ああ! えーと、ちょっと待って」
 必死に冷静さを取り戻そうと努力し、ランブレッタ48にしがみついた。クラッチレバーをくいくいと握ったり、ペダルをくるくる回しつつ、速河久作は思う。ランブレッタ48と、この女性という組み合わせは、反則だろうと。五十年以上昔のビンテージスクータと、ミス桜桃学園、動揺するなというほうが無理である。しかし、今はとにかくランブレッタに集中、そう自身に言い聞かせ、いくらか冷静さを取り戻すと、立ち往生の原因が単なるガス欠だと判明した。
「ガソリンがなくなってますよ、これ。ランブレッタのタンク容量は――」
「なんだ! ガス欠なの?」
 かぶせるようにレイコがいい、その声に久作は驚いた。そのルックスでこのハスキーボイス。そしてランブレッタ48……反則技のオンパレードに久作は立ちくらみを感じた。
「ここから桜桃まで押していって、始業までに間に合うのかな?」
 立ち往生の原因が解かり、次の課題に頭を悩ませるレイコ。そのしぐさを真正面から見る度胸はもう久作にはなかった。どうせこちらも反則なのだろうと解かり切っていたからである。
「僕のバイク、あそこにあるあれですけど、リザーブを1リットルほど積んであるんで、あげますよ。それだけあれば桜桃の駐輪場までは余裕ですよ、ランブレッタでも」
 半ば逃げるように自身のバイク、ホンダXL50Sへと駆け出し、オイル缶を握って再び戻り、それをレイコに渡した。
「え? 借りちゃっていいんですか?」
「借りるというか、あげますよ、ガスの1リットルくらい」
 早口でいい、くるりと転身しようとした久作の腕を玲子ががっしと握り、久作は思わず倒れそうになった。
「いいんですか? ありがとうございます!」
 久作の腕を握ったまま、レイコは柔らかな髪の毛が浮く勢いでお辞儀をする。礼節もきちんとしている、もう駄目だ、これ以上この子と喋っているとまともにバイクを運転できなくなる、そんな予感がした。握られた手がゆっくりとほどけるのを待ち、久作はデジタル腕時計を見つつ、
「そろそろ出発したほうが……」
 かろうじて言った。その科白にレイコも自分の腕時計、ランブレッタと同じく真っ赤で小さな腕時計を見て、あっ! と声をあげた。
「そうですね! ほんとにありがとうございます! すいません、何だか巻き添えみたくなっちゃって」
「別に、まあ、えー、行きましょう」
 それだけ返すと久作はXL50Sに向かい、フルフェイスをかぶり、加嶋玲子がランブレッタ48にリザーブをチャージしてエンジンが掛かるまでを見届けて、自身のキックペダルを蹴り付けた。玲子の、いや、ランブレッタの横にXLを寄せ、フルフェイスのバイザーを上下させて合図を送ると、ランブレッタがとことこと走り出した。
 それで一安心した久作は、XLのアクセルを全開にしてすぐさま追い抜き、減速して再び振り返り、手を上げて挨拶をして、そのまま走り去った、まるでランブレッタ48から逃げるように……。


『第二章~チェックメイト』

 近郊でも随一の進学校である私立桜桃学園。古今東西、学生を悩ませるものはテストの点数と相場が決まっている。
 速河久作{はやかわ・きゅうさく}がその苦悩とは無縁な位置にいるのは、彼の頭脳が同世代より少し、いや、かなり上の水準にあるからで、ゆえに久作は中等部の時と比べて格段に難しくなった授業を、半ば楽しんでいる節があった。知的好奇心、速河久作にはそれがあり、愛車であるホンダXL50Sでのライディングと同じくらいに、始まったばかりの、他を悩ませる学生生活を満喫していた。
 高等部で最初にできた友人の、方城護{ほうじょう・まもる}と須賀恭介{すが・きょうすけ}は、久作のテストの数字を見るたびに溜息と愚痴をこぼしていた。
「俺はさ、バスケが出来ればいいんだよ。桜桃ならインターハイも狙える、そう思ったからここにいるんだけど、数学にはフェイクもダブルクラッチも通じないんだよ」
 方城護{ほうじょう・まもる}が言う。
 彼は桜桃学園高等部、バスケットボール部所属の、ごく簡単にいえばエースである。中等部時代からパワーフォワードとして活躍しており、その図抜けたバスケセンスから「桜桃のスコアリングマシン」と呼ばれ、桜桃学園を問わずで、女子憧れの男子その一であった。百九十センチほどある身長と、頭身を無視したような長い足。切れ長の目と低い声、そしてバスケットでのスキル、要するに二枚目の代表のような人間である。
「だから方城、お前はスポーツ推薦進学を狙えばいいんだ。速河も毎回そういってるだろ?」
 そう割り込んだのは、須賀恭介{すが・きょうすけ}だった。
「スポーツ万能、容姿端麗。それだけで大抵のことは何とでもなるんだ、世の中ってのは、なあ速河?」
 手にしたミステリ小説に視線を落としたまま、須賀恭介は言った。須賀は丁度、方城の対極のようなタイプであった。
 趣味は読書。しかし読書といってもそのジャンルと量は半端ではなかった。文学部だかミステリ研究会だかに所属しているらしいが、須賀恭介にとってそれは腰掛け程度で、速河久作や方城護との雑談の時でさえ、小説の類を離すことはない。スコアリングマシン方城より少し低い身長で――といっても他の連中よりは遥かに上だが――バスケで鍛え上げられた方城とは真逆で痩せているものの、風貌がハードボイルド探偵小説の主人公のような、高等部一年生とは思えない大人びた印象を与えるので、同級生は勿論、教師にも一目置かれている。
 方城と須賀は中等部からの親友で、速河久作とは桜桃学園の高等部で知り合った。久作が誰かから聞いた噂だと、方城と須賀にもファン倶楽部のようなものが密かにあるらしい。当人がそれをどう思っているのかはまだ聞いたことはないが、生で二人を見ればそれも納得できる。
「ああ、そうだね。方城はバスケをやってればいいんだよ。テストなんて百ピースパズルみたいなものだから、適当にやってりゃ、どうにでもなる」
「速河、いいことを言う! そう! テストなんてパズルだ! あんなもので知性を測るなんて到底不可能さ!」
 須賀が、やおら声をあげる。
「お前らはそのパズル? それを解けて、成績も学年ベストテンに入ってるから、簡単なようにいう。っつーか、お前らには高校生っぽい悩みみたいなのがないだろ? 普通はな、勉強できなきゃ落ち込んだりはするんだぜ、俺みたいにな」
「俺はベストテンには入ってないぞ?」
 須賀が割り込むが、方城が素早く切り返す。
「お前は単に成績に興味がないだけだろ? だいたいテストだとかを本気でやってないだろうに?」
「つまらないパズルに熱中する暇があったら、好きな本を読む。普通だろ?」
「だから、それが普通じゃねーっつーの! いや、それがお前だってことは昔からよーく知ってるけどな」
 これだけ対照的な二人が永らく親友でいられるのは、対照的だからこそなのだろう、そう久作は思った。そしてこうも思った。
「僕もベストテンには入ってない」
「あのな、速河。学年十二位ってのは、限りなくベストテンに近いって意味なんだぜ?」
「くっ! そのユーモアセンス、いいよ、お前ら」
 方城は呆れ、須賀は笑う。
 速河久作は中等部時代、あまり友人を作らなかった。理由はごくごく単純、退屈だったからである。友人と呼べそうな同級生の話題にどうやっても興味が沸かず、話を合わせることが面倒になり、一人を好むようになるまでそれほどかからなかった。そんな久作が暇つぶしで喋る相手は、数人の教師だった。中等部の退屈な授業とは違い、半プライベートでの教師の話は久作の退屈を満足させ、結果、中等部時代の友人は教師という、なんとも奇妙な構図になっていた。
 久作が高等部にあがって半月ほどした頃。体育の授業でバスケットボールがあり、方城護{ほうじょう・まもる}の華麗なノールックパスを見た久作は、飛び上がりそうなほど驚いた。何事も受け身、というスタンスの久作が方城に声をかけたのは、いうまでもなく、そのノールックパスの鮮やかさゆえである。
「え? ああ、えーと、速河だっけ? 同じクラスだったよな?」
 低く、しかし親しげな声で方城は返した。
「さっきのパス? えーと、ああ、あのバックパスか。あれはさ、俺の腕じゃなくてパスを受けた、えーと、名前知らないけど、あいつの腕前だよ。こっちは前にスペースできてたから、相手を寄せてボールを出した、ただそれだけだ。バスケの基本攻撃パターンだよ、あんなの」
 ハーフタイムで息を切らせつつ、方城は軽く言った。後半戦、方城が相手コートを縦横無尽に走り、飛び回り、ダブルスコアになった頃、試合は終わった。別クラスの同級生チームが今にも倒れそうなほどにげっそりとしていた。その試合、いや、授業が終わり、方城と何事かを喋っているうちに、気が付けば仲良くなっていた。久作は特別スポーツが得意ということはなかったが、大抵のことはほどほどに出来るので、バスケットボールに限らず、色々な話題で語ることができ、一方の方城はバスケを筆頭にスポーツ万能なので、話が綺麗に噛み合った。
 その授業の翌日に方城護が「俺の友達に変人がいるんだ」といって連れて来たのが、須賀恭介{すが・きょうすけ}であった。
「須賀恭介、よろしく」
 ぶっきらぼうに、吐き捨てるように須賀はいい、それが挨拶だと気付くのに時間がかかった。方城は確か「友達」と言っていたが、お世辞にも友達がいるようには見えなかった。が、代わりに須賀が手にしていた「ボビー・フィッシャー著 チェス入門」というハードカバー、こちらには友達がいそうだった。
「速河久作です。須賀くん、チェスやるの?」
「くん、はいらない。須賀でいい。チェスはまあ、やるかな? 腕前は大したことないけれどね」
「須賀く……良かったら勝負しない? 僕、いちおうチェスやれるんだよ」
 須賀の眉毛がぴくりと動いた。
「速河だったか? おま……君! チェスが出来る人間なのか? 何だ、それを早くいってくれ! おい方城! こういう肝心なことは最初にいっておいてくれ!」
「は?」
 それまでダルそうにしていた須賀だったが、何かのスイッチが入ったかのように機敏になり、どたばたと走り回ってから、小さなチェスセットを久作の机に広げた。
「本格的なルールは省いて、簡略版でやろう。先行はどちらでもいいぜ。さあ、速河久作、勝負だ!」
 方城が弁当を広げて隣に座り、久作と須賀も昼食を取りつつ、勝負が始まり、そしてあっという間に終わった。

「チェックメイト」
 同じ科白を昼食の間に三度聞き、久作は完敗した。
「何だ? もう終わりか?」
 方城が口をもぐもぐとさせつつ、退屈そうに言い、久作は、放心状態であった。
「速河だったか? いいセンスだとは思うけれど、それじゃあアマチュアだ」
 確かそんなことを須賀に言われたはずである。久作は、須賀とチェスをすると言い出したとき、内心では勝つつもりでいた。それも当然のように。ところが、須賀の戦略はまるでスーパーコンピュータでも相手にしているかのようで、こちらの手をことごとく潰された上にキングをどんどん裸にされ、または、気付くと隙間からナイトやビショップにチェックされている、ということの連続で、全く勝負にならなかった。
「須賀くん……強いね。まるでプロだよ」
 さすがに初対面で「くん」は外せなかったが、それはともかくとして、須賀恭介のチェスの腕に久作は心底、感心した。
「はは、俺がプロなら、本物のプロはコンピュータさ。俺のは我流だ」
「な? 変人だろ、こいつ」
 方城が割って入って、須賀を一言で解説した。
「誰が変人だ。だったら速河も変人ってことになるぞ? 俺とまともに勝負できる奴なんて、この学園にいやしない」
 変人かどうか、まともな勝負だったかはともかく、確かに桜桃学園で須賀恭介にチェスで勝てる相手など、教師を含めていないと断言できる。実際に勝負したからこそ、それが解かる。
 方城護のノールックパス、須賀恭介のチェックメイト、速河久作の知的好奇心。この三つが綺麗に重なり、三人はその日のうちに友達グループになっていた。そして、である。
 ホンダXL50Sという旧式オフロードバイクで通学している、速河久作。私立桜桃学園高等部一年生。学年成績ベスト十二位の彼。
 身長は丁度、須賀恭介と同じ程度の百八十センチ強。適当に分けただけの髪には独特の癖があり、方城護のそれを更に鋭くした目付きを隠すように前髪がたれている。鼻筋は高く、口元はほぼ閉じたままだが、それが開くと、口調こそ軽いものの、声色は出来の悪い生徒を説き伏せる教師を思わせる。須賀恭介よりいくらかマシな筋肉の付いた体型に、長い四肢。
 ……つまり、方城護や須賀恭介と同じく、速河久作もまた、外見で欠点と呼べそうな要素がほぼないのだ。このような高等部一年生男子が三人集まり、雑談グループとなっていれば、同じクラスの女性陣がほおっておく道理はない。
 四月現在のいくつかの女性グループにとって、男性グループの中で、速河久作、方城護、須賀恭介の三人グループは「注目の的」となっていた。久作のクラスにあの真っ赤なランブレッタ48の女性がいたことには、リザーブ一リットルを渡した日から気付いていたが、あえて意識しないように勤めていた。
 ランブレッタ48の女性、名前は、加嶋玲子{かしまれいこ}。ホンダXL50Sの速河久作らと同じ授業を受けている彼女は、数人の女性グループの一員となっており、そのグループはクラスを問わずで、桜桃学園高等部男性陣の「注目の的」となっていた。


『第三章~オールラウンダー』

 桜桃学園高等部、1‐C。Cという何とも不名誉なランクは、クラスを表す単なる記号である。愛車、ホンダXL50Sを飛ばして、かなり早い時間に1‐Cに入る久作であったが、必ず先着が数名いた。方城護と、腰まである真っ黒なロングヘアをゆらゆらとさせている女性。ロングヘアの女性は、クラス委員長という面倒な役割を押し付けられていたはずで、名前は……覚えていない。
 久作には「人の名前を覚えるのが苦手」という欠点があり、かなり親しい人間であっても、顔と名前が一致しないことが多々あった。日常生活でそれが弊害になることなどほとんどないのだが、高等部にあがってすぐという時期にこの欠点は、若干の弊害となっていた。
 毎日、久作よりも早くに教室に入り自分の机でいびきをかいている方城を無理矢理起こして、そのロングヘアの委員長が、橋井利佳子{はしい・りかこ}という名前だといちおう聞いたのだが、その名前が久作の脳にインプットされることはなく、結局、ロングヘアの委員長、という安直な着地をした。委員長とは何度か会話をしたことがあった。
「おはよう」
「おはよう」
 単なる挨拶? いや、立派な会話である。久作が早くに教室に入るのは、早朝、まだ交通量の少ない時間帯にXLを飛ばしたいから、という、いささか不順な動機からなのだが、方城は違っていた。彼は高等部になってもまだ、通学にマウンテンバイクを使用しており、あの心臓破りの坂と毎日毎日格闘していた。それが方城の早朝トレーニングの一環であることは説明するまでもないだろう。ヘトヘトになった方城が始業までずっと眠っているのもまた、当然といったところか。
 ロングヘアの委員長が早朝から教室にいるのは、おそらく委員長という肩書きゆえだろう。巨大なホワイトボードを丹念に磨いたり、一輪挿しの水を替えたり、ナントカ係という表のネームプレートとにらめっこをしたり、なかなかに忙しいようであった。時たま駆け出し、ぴたりと歩を止めて思案し、今度はゆっくりと歩き出す、そんなことをするたびに、真っ黒なロングヘアが当人と同じく忙しそうに動いていた。あくまで他人事と割り切った上で、久作はロングヘアの委員長というクラスメイトの仕事っぷりに小さな拍手を送っていた、あくまで他人事として。
 その日の一限目の英語Ⅱは自習だった。ホワイトボードに「教科書の○ページから○ページまでを云々」とメッセージが書かれてあったが、それに従う者が半数いたかどうか、怪しいものである。左から二列目の最後尾に席を置く久作は、英語Ⅱと書かれた冊子を閉じて窓の外の雲を眺めていた。からりと晴れた空に薄く漂う浪雲{なみぐも}。
「キャッツ・アイ、だったかな?」
 誰にともなくつぶやく。しばらくして、方城と須賀が来た。自習となった教室では既に男女グループがそれぞれの陣地を作り、わいわいと賑わっていた。当然、自習でも勉学でもない。
「速河は確か、英語得意だったよな?」
 俺は苦手だ、そう断言してから方城が言う。
「読み書きはある程度、でもヒヤリングが全く駄目だから、英会話なんかは無理だね」
「ネイティブな環境、これが英語に限らずある言語を習得するのに最低限必要な要素だ。こんな印刷物――」
 須賀が英語Ⅱ教科書を振り回して続ける。
「――こんなもので英語がマスターできるなら、言語学者の仕事はさぞ楽だろうな」
「中等部で三年も授業を受ければ、誰だって読み書きくらいは簡単さ。喋るほうは須賀のいう通り――」
「どおぉぉーーん!」
 突然、久作の机の上に巨大な物体が落下してきた。文字通り突然だったので、久作は勿論、方城も須賀も目を点にしていた。
「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」
「レイコ、会話が滅茶苦茶。意味通じないって、それじゃあ」
「スクータってクリームソーダで動くか? いやいや動かねーってば、ははは!」
 久作は慌てて窓の外を見た。落雷と雹と竜巻が舞い踊る、そんな気がしたからで、しかし先ほどの浪雲は健在だった。
「はい、がぶがぶクリームソーダ!」
 ゆっくりと視線を上げると、そこに良く知る顔があった。大きく、端が少し下がった栗色の瞳と小さくとがった鼻、桜色で、がぶがぶと連呼する唇。
「か、加嶋玲子……さん?」
「おっと! いきなりフルネームと来たかぁ! 何だレーコ、あんたやっぱ有名人じゃん?」
 加嶋玲子の横から現れた女性が、やたらとでかい声で言った。
 金髪を二つに束ね、真っ黒なアイラインが引かれた目付きは猫を連想させる。桜色のブレザーがカスタマイズされていて、原型から遥か遠い位置にあった。小柄だが、ネックレスやブレスレット、腕時計や靴などがやたらと派手なので、実際の体格よりも大きく見えた。短い、というよりバッサリと切り落としたようなスカートから覗く、体格とはアンバランスな脚線美が、視線を捕らえて離さない。名前は、確か……。
「アヤ! あぐらは止めなさいよ、みっともない」
 そう、橘絢{たちばな・あや}。クラス名簿だかを見たときに何やら珍しい名前があったので、久作の記憶に残っていた。橘絢、漢字二文字で表記されたそのシンプルな名前は、何というのか、面白かった。そして、橘絢と加嶋玲子を制しているのは、ロングヘアの委員長だった。
「何だ? 委員長、お前らは何集団だ?」
 三人を見つつ記憶を辿っていた久作。それより早く現実に戻った方城が委員長に言った。
「何集団って? 私とレイコとアヤ? 別に何ってことはないわよ?」
「あたしらはリカちゃん軍団だぜー! 勝負すっか?」
「がぶがぶー!! ランブレパーンチ!」
 久作は、自分の脳処理の限界を感じた。浪雲、キャッツ・アイがゆっくりと移動している。
「……速河、方城、すまんがこの状況を俺にも理解できるように説明してくれ」
 数分ほど経ったか、須賀がごく当たり前のことを訴えた。
「君は確かクラス委員の橋井、さんだったね? で、両脇の二人は?」
「両脇っておい! あたし雑魚扱いかよっ! 須賀恭介!」
 橘絢が叫び、須賀が驚いた。
「お前、何で俺の名前を知ってるんだ?」
「橘絢! ターチーバーナー、アヤ! お前とかいうなよ、須賀恭介!」
 二つにした金色の髪をぶんぶんと振り回し、橘絢が須賀に喰いつく。美麗な脚から蹴りでも出てきそうな勢いである。
「タチバナ? おい速河、そんな奴、このクラスにいたか?」
「須賀! それはマズい――」
 方城が割り込むより早く、ごん、と鈍い音がした。橘絢のげんこつが須賀の脳天を直撃、見事なジャストミートだった。踵{かかと}落としでなくて良かったな、そんなことを久作は思っていた。

 自習となった教室の後方、久作の机の周りは他のグループに比べ、かなり賑やかだった。
「もう三週間近くもなるのに、三人ともクラスメイトの名前すら覚えてないの?」
 委員長がゆるりとロングヘアをかきあげ、言った。
「俺は大体知ってるぜ、委員長。例えば、えー、あそこの、ほら、キザっぽい二枚目風な奴。佐久間だろ? その横にいる、女子にちょっかい出してるのは永山、だったか?」
「方城、お前にそんな洞察力があるとは知らなかった。驚きだな」
 須賀が関心しつつ、佐久間とかいう男子のほうを見てつぶやく。久作も同じくだった。
「へー、方城護は友達百人欲しい奴なんだな?」
 橘絢が茶化すようにいったが、方城はあまり気にせずに返す。
「そーいうんじゃねーよ。桜桃バスケ部の一年にガードがいなくてな、いや、いるんだが腕前がちょっとな。そんなでチームメイトを探す癖みたいなのがあるんだよ」
「ふーん。それで、方城君の見立てだと、佐久間君はその、ガード? それに当てはまるの? 彼って確かスポーツ関係はかなりのものじゃなかった?」
 委員長、リカちゃんが尋ねる。
「そういや思い出した。速河、いつだったかバスケの授業で俺のバックパスを受けた奴、あれが佐久間だ。間違いない」
 久作は、方城と出会ったきっかけになった、あのノールックパスを脳裏に描いた。
「ということは――」
 久作と委員長の声が重なった。
「リカちゃーん、佐久間準{さくま・じゅん}ってサッカー部と野球部、掛け持ちしてんじゃなかったけ?」
 橘絢が少し退屈そうに言う。
「容姿端麗、スポーツ万能。佐久間? あいつも世の中を上手く渡っていける人種ってことか」
 須賀が吐き捨てるようにいった。表情が何やら険しい。
「ということは、佐久間君は合格ってことに――」
「駄目だな」
 方城がきっぱりと言い放った。
「佐久間準、あいつはガードっていうタイプじゃない。スモールフォワード……いや、バスケには向かないタイプだ」
「そうだな。あの佐久間とかいう奴はバットでも振ってるのが似合う奴だ。球拾いでもいいがな」
 方城と須賀が、クラスメイトである佐久間準を、ごく簡単に、それでいてバッサリと解説した。しかし、委員長と橘絢は、それにどうにも納得できていないようであった。
「それって偏見じゃないの? 佐久間君はバレーボールも凄く上手だったし、アヤが言ったけど、サッカーと野球も上手で、そんな人がバスケだと駄目なの?」
「だからだよ。何でもこなす奴ってのはつまり、典型的なオールラウンダーなんだよ」
「オールラウンダー? 新種の猿かいそりゃ?」
 橘絢が本気と冗談の中間のような科白をかぶせる。
「そりゃお前、オラウータンだろ? オールラウンダー、何でもやれる奴、佐久間準みたいな奴だよ」
「オール、何でもできるならバスケも出来るでしょうに?」
 当然の質問は委員長からだった。
「橋井利佳子さん、だったかな? 何でもやれる奴ってのは要するに、秀でた部分がないって意味だ。方城のパスを受けてそのままリングに叩き込めるだろうよ、佐久間とかってあいつは。でもそれはプロ選手での話だ。方城は桜桃学園高等部一年生、要するに学生のバスケットチームの一人で、方城のチームはアマチュアなんだ。そこにオールラウンダーがいれば重宝するだろうが、チームの事情は知らないが、方城のバスケスタイルには、そんな奴はいらないんだよ」
 ゆっくりと丁寧に、須賀が説明した。こんな風に喋る須賀を見るのは久しぶりであった。
「まあ、そういうことだ。そもそもあいつはバスケ部じゃないしな」
「……方城君って、何ていうのか、物凄くストイックなのね?」
 何度目か、ロングヘアをかきあげ、橋井利佳子は方城をじっくりと眺め、つぶやいた。橋井利佳子の瞳には、深く澄んだ泉を思わせる吸い込まれそうな魅力があり、それが方城の鋭い目付きを捉えている。
 ロングヘアの委員長こと橋井利佳子。
 方城や須賀とのやりとりを聞いていた久作が、彼女の容姿をじっくりと見たのはそのときが始めてだった。腰丈まである、柔らかく黒いロングヘア。身長は女性にしてはかなりあり、ハイヒールでも履けば百七十センチに届くかもしれない。小柄な橘絢とは対照的なモデル体型で、顔立ちはクール。須賀に似た印象がある。なるほど、これが俗に言う「美人」か、そう久作は気付いた。
「ストイックって?」
 バスケットボールと佐久間準の話題で出来上がっていた方城の、とても良いイメージが、一言で崩れ去った。あまりの落差だったので久作は思わず吹き出した。
「ストイック、禁欲的ってこと。方城のバスケに対する考え方ががっちりしていて、一切ブレない、そんな感じだよ」
 英語が苦手な方城にも解かるように、自分なりに意訳してみた。
「つまり! 方城護はストイックなバスケバカってことだな! はははは!」
 橘絢が大声で笑い、つられて橋井利佳子も微笑む。見ると、須賀もにやにやしていた。
「てめー! 橘! バカは余計だ!」
 方城が反撃を試みるが、無駄な抵抗であった。説明した当人の久作も笑い、しかし目の前に置かれた「がぶがぶクリームソーダ 1,5リットル」に視線が行くと、笑みがぴたりと止まった。橋井利佳子と橘絢のインパクトのお陰で、加嶋玲子の存在を完全に忘れていた。バスケットボールに興味がなければ、先のやりとりは加嶋玲子にとってとても退屈で、どこかに消えていても不思議ではなかった。が、彼女はいた。橋井利佳子の横に座り、そして、久作を眺めていた。その表情からは、退屈だとかいう感情は見えず、逆ににこにことしていた。ひょっとしてバスケに興味があるのだろうか? ふと久作は思ったが、そうではなかった。
「ねー、リカちゃん、アヤちゃん、がぶがぶー」
 何の暗号だろうか? 久作には加嶋玲子の科白の意味が解からなかった。
「アウチ! リカちゃん駄目じゃん! 作戦台無しだー!」
「あ! ごめん、レイコ、アヤ。どうしよう、えーっと」
 三人が何やら密談を始め、しばらくして久作の机の上のペットボトルと共に立ち去った……と思ったらすぐに現れ、
「どおぉぉーーん! がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」
 方城が椅子から転げ落ち、須賀は机に突っ伏し、久作は放心した。


『第四章~ミラージュファイト』

 翌朝、始業前。久作が教室に入ると、当然のように橋井利佳子{はしい・りかこ}と方城護がいた。
「速河くん、おはよう。今日も早いのね」
「え? ああ、おはよう。委員……橋井さんも毎日早いね」
 背負ったリュックを肩にかけ、フルフェイスを片手にゆっくりと机に向かう久作に歩調を合わせるようにして、橋井利佳子がうなずいた。
「クラス委員なんて片手間でって思ってたんだけれど、いざやってみると、何だか色々とあってね」
「それで早起きして?」
 自身の机にたどり着いた久作は、リュックを椅子にかけ、フルフェイスを足元に置いた。と、橋井利佳子が前の席の椅子をたぐり寄せて座った。
「まさか! 早起きは昔から。好きなのよ、明け方っていう時間帯が。こう、風景だとか雰囲気がね」
 橋井利佳子の視線は窓の外を向いていた。良くわかる、久作は思った。XL50Sでのライディング云々もあるが、朝独特の、おろしたての一日の始まりという感覚は、下らないあれこれを全て洗い流してくれるような気分にさせる。
「橋井さんって――」
「リカコ、リカちゃん、どっちでもいいけど、折角お友達になったんだから、それでどお?」
 唐突な申し出に久作は慌てた。これまでは誰かの名前などに特別興味などなかった。しかし、相手が橋井利佳子となると話は変わる。全く意識していなかったのだが、先日の自習時間でのやり取りで、橋井利佳子は久作の友達になっていた、らしい。
「リカちゃんって、あの人形の?」
「小学生の時からずーっとそれ。面白いでしょう?」
 くすくすと笑う橋井に対し、久作は戸惑う。友人を作ることを嫌い、一人を好んで長かった久作にとって、誰かの名前というものは単なる記号でしかなかった、中等部時代までは。方城や須賀と出会い、それが少しほぐれ、そこに橋井からの提案という連携攻撃。
「リカちゃんはちょっと抵抗があるから、リカさん、これでどおかな?」
「いいわよ、決まりね。橋井利佳子、改め、リカさん、よろしくね、速河くん」
 椅子から立ち上がり、にこりと微笑み、橋井利佳子……リカさんは立ち去った。きっと雑務の続きなのだろう。
「……リカさん? 何だ?」
 足元のフルフェイスにリングブーツが当たる。思考に若干の濁りを感じつつ、久作は窓の外に目をやり、呆ける。始業まではまだ時間があった。方城は久作と対角線に位置し、ぐっすりと眠っている。何か考え事でもとリュックをあさっていると、廊下の辺りから声が聞こえ、教室のドアが開くとその音量は倍になった。
「違う違う! ガードしてたら間に合わないんだってば! マイケル・ジョー使いは大抵、ファイヤークラッシュからのコンボで来るから、技の出だしを潰さないと倒せないの!」
「出だしを潰すなんて簡単にいうけどさ、そんな暇ねーって、普通」
「だから負けっぱなしなんだよ、あんた。持ちキャラ変えないとダメだな、もー」
 何の話だかさっぱり解からなかったが、声の主が橘絢{たちばな・あや}だとはすぐに判明した。相手の男子は、佐久間準{さくま・じゅん}だった。
 数日前であれば気にならなかったかもしれないが、橘絢と佐久間準という組み合わせに、久作は何やら違和感を覚えた。脳のどこかに魚の骨が刺さったような、気色の悪い感覚が消えない。
「速河久作! あんた誰使いよ?」
 唐突に、橘絢が教室の入り口から机までワープしてきて、何事かを尋ねてきた。
「誰? 何? ちょっと待って、話が全く――」
「ミラージュファイト! ひょっとして……やんないの!」
 橘絢が心底驚いて飛び上がっていた。
 ミラージュファイト? どこかで聞いたような、記憶を辿り、すぐに見つけた。
「何だ、ゲームの話か。ミラージュってあの格闘の――」
「やってんじゃん! で? 誰使いなのよ? 速河久作は?」
「え? あ、えーと、何ていったかな? 合気道と空手を合わせたような――」
「ビリー・ヴァイ? 速河久作はヴァイ使いなのか! 何てマニアックな奴! でもイカす!」
「ストップ! タイム! ちょっと待って!」
 必死の形相で久作は叫び、手を橘絢に向けて広げた。何だこの会話速度は? いや、そもそも会話になっているかどうかすら怪しい。マシンガントークという言葉があるが、橘絢の言葉は正にそれだった。いや、殺傷能力からすれば、アサルトライフルトークとでも呼ぶべきか? 返答する隙が全くなく、思考が追いつかない。椅子にかけてあったリュックからジュースを取り出し、思いっきり喉に叩き込み、更に深い深呼吸を数度。それでどうにか落ち着いた。
「ちょっと待ったぞー」
「うん……オーケイ、生き返った」
 実際、生き返ったような心地だった。
「でさ、ヴァイ使いの速河久作は、マイケル・ジョーのファイヤークラッシュからのコンボを、どうさばくのさ?」
「ヴァイ使い? いや、僕はミラージュは少しやる程度で……」
 驚いたことに、橘絢は久作の科白を完全に無視した。その意味するところはというと……。
「ああ、解かったよ。ヴァイ使いの僕は、飛んできたファイヤークラッシュを返すよ、合気道ベースだから当然ね。そしてそのまま関節技のオンパレードでバキバキにして、そこで一旦待ちに入る。相手がまた仕掛けてきたところを返してから、溜めハイキックに繋いでK.O. こんなところだよ」
 一瞬の間。険しかった橘絢の表情が曇りから晴天へと変わる。
「だよな! そうだよ! ヴァイ使いならそれがフツーだよな? あたしはエディ・アレックス使いだけど、マイケル・ジョー相手なら殆ど似たような戦法とるよ! ほら、佐久間準、これが本物のミラージュファイトだ! お前は修行が足りんぞ!」
 飛び跳ねるように、いや、実際に飛び跳ねていたのだが、橘絢は半ば叫びつつ、佐久間準を一喝した。どっと疲れが出て、椅子からずり落ちそうになりつつ、佐久間準をちらりと見た。その表情は嫌悪感の塊のようだった。橘絢が久作の前の席の椅子に腰掛ける。デ・ジャ・ヴュ? いや違う。数分前だったか、そこに橋井利佳子、リカさんが座った、ただそれだけだ。橘絢は最初はゆっくりと、しかしすぐにマシンガン、いや、アサルトライフルトークを始めた。それらをごく簡単に要約すると、彼女はゲーマーで、かなりの腕前を持っていて、そして、プログラミング言語やパソコン関連に精通している、こんなところだろうか。
「ミラージュのさ、関節技エフェクトのところ。あそこだけ別のグラフィックエンジンで動いててさ、それ専用に独自ライブラリを開発したんだって! どんだけマニアックなんだあの開発スタッフは、って話だよな? はははは!」
 一緒になって笑うが、理解は言っていることの半分程度である。
「あれ? アヤと速河くん? これはまた妙な組み合わせね?」
「リカさん? ああ、えっと――」
「うそーん!」
 橋井利佳子が雑務を済ませて久作と橘絢のところに来て、何故か橘絢が叫んだ。
「リカちゃんと速河久作って付き合ってんの? それ早く言ってよねー!」
「今朝はやけに騒がしいな。何だ? 橋井と橘? 速河、この奇怪な組み合わせは?」
 いつの間にか登校していた須賀が現れ、久作の代弁をした。須賀の出現に久作は安堵した。こうった状況でこそ、ハードボイルド探偵が活躍するものだ。
「須賀恭介! あのなー、リカちゃんと速河久作って彼氏彼女らしいぞ?」
「ほう、そうなのか。まあお似合いなんじゃあないか? インテリ同士で」
 一瞬でも須賀に期待した自分に落胆する久作。
「あのさ、私って速河くんと付き合ってるってことになってるの?」
「違うのか? 橘はそうだと言ってるぞ?」
 言ってる? 確かにそんなことを言っていたような気がするが、そういった設定にはまるで記憶がない。自分の記憶が正しければ、今朝、橋井利佳子と挨拶をした際、友達になったから呼び方を変えようといわれ、少し雑談をした、このような流れだった、と信じたい。
「橘さん、あと須賀。ゆっくり聞いてくれ。僕はリカさんとは付き合っていない、はずだ。ねえ、リカさん?」
 ぷっと吹き出してから橋井利佳子が応える。
「ええ、速河くんの言うとおり、私は速河くんとは付き合ってない、はずよ?」
「でもリカちゃんて呼んだじゃん!」
「どうして二人そろって疑問系なのかは知らんが、橘の意見を聞かせてもらいたいな?」
 どこまで本気なのか定かではないが、いちおうそれらしく振舞う須賀と、うながされる橘絢。
「リカちゃんは橋井利佳子さんで、クラスの男子全員、橋井さんて呼んでて、なのに、速河久作はリカちゃんて呼んで、だから付き合ってるじゃん!」
 何が「だから」なのかさっぱり解からない。委員長、橋井利佳子を男子が「橋井さん」と呼んでいる? そういう名前なのだから当然だろう。しかし、そこから「だから」に繋がる橘絢の文脈についていけない。
「なるほどな、見事な論理的帰結だ。速河と橋井委員長は付き合っている、橘の見解が結論とイコールだ」
 確信した、須賀は完全に遊んでいると。何が論理的帰結だ。遊ぶにしてもそこまでやるか? 須賀が全く頼りにならないと解かった以上、後は自分でやるしかない。
「橘さん」
「ほい?」
「橋井さんと僕は友達なんだけど、友達がリカさんって呼ぶと、どうなるのかな?」
 橋井がくすくすと笑い、須賀もにやにやしている。肝心の橘絢はというと、急に黙り込んだ。何やら必死に考え込んでいるらしい。
「リカちゃんが橋井さんで、速河久作が友達で、リカちゃん? えーと、どうなんだ?」
 疑問らしきものを振られた須賀は、難事件を抱える探偵のような顔付きで黙る。
「そんなの、友達に決まってるじゃないの……」
 橋井利佳子が、溜息交じりで言った。
「アヤはさ、橘さんからアヤちゃんに呼び方が代わったら、その相手と付き合うの?」
「へ? 何で?」
 今度は須賀が吹き出した。他人事だというのをいいことに、須賀はこの何やらややこしい状況を心底楽しんでいるようである。
「私は今朝、昨日かしら? 速河くんと友達になったから、呼び方を堅苦しいのじゃなくて、リカコかリカに代えないって言った、それだけよ?」
「……えーと、そいじゃ何? リカちゃんと速河久作は付き合ってないってこと?」
「そうなんじゃないの? ねえ、速河くん?」
 力一杯うなづいた。またしばらく間が空き、橘絢が大声をあげる。
「そーいう肝心なことはさ、最初にいってよね!」
 感情を持っていく方向が全く違う。というより、論点からして間違っている。しかし、どうにか橘絢に状況を把握させることは出来たようで、この難事件は解決に向かった。無論、須賀探偵の出番など一切なく。
 始業チャイム、そして授業がいくつか。久作の頭にはそのどれも入っていなかった。ただただ窓の外を見つめ、溜息を付きつつ「世界人類が平和でありますように」と願った。窓の向こうには、もつれ雲が漂っていた。平和かどうかは知らないが、とりあえず晴天ではあった。
 何度目かのチャイムの後の昼食時間、教室後方の久作の空間に、どっと人が押し寄せた。須賀、方城、橋井、橘、加嶋。全員を無視して惣菜パンをほおばる久作。視線を、もつれ雲から決して離さない。各自が昼食を持参し、椅子だとか机だとかを寄せていたが、とりあえずそれも無視した。口火を切ったのは、案の定、橘絢だった。
「レーコ! 聞いて驚けよ! 実はリカちゃんとヴァイ使いの速河久作は付き合ってないんだ!」
「うん? アヤちゃん、よくわかんないんだけど?」
 小さなコロッケを口にして、加嶋玲子が当然のように応える。おーい、このクラスに翻訳家はいないか? 久作は聞こえないようにつぶやく。
「あれ? 委員長と速河ってそうなのか?」
 早々に昼食を済ませ、スポーツドリンクを飲み終えた方城が不思議そうな顔で尋ねる。相手は久作と橋井利佳子であったが、久作は面倒臭そうに手を振り、知らないとアピールする。
「リカちゃん、速河くんと付き合ってるんだ、へー」
「違う違う! レーコ。付き合ってるとみせかけて、実は付き合ってないんだよ!」
「あのさ、話が全く見えないのは俺の頭が悪いからか?」
 方城が久作の肩をぽんと軽く叩いたので、窓の外の晴天を諦め、方城と顔を合わせた。頭の上に「?」マークがずらりと並んでいる、当然だろう。
「彼女、橘さんが喋ると話が凄くややこしくなるんだけど、僕は橋井さん、今はリカさんと呼んでるけど、彼女とは付き合っていない。呼び方が変わったのは、今朝、彼女と友達になったからで、それ以上の意味は何もない」
 久作がどうして声色を変えて力説しているのかは解からなかったが、とりあえず意味は通じたらしく、方城は「へえ」とだけ返した。
「リカちゃんが橋井さんじゃなくてリカちゃんになってるのに、速河くんとは付き合ってないって、面白いねー?」
 またそこか!
 加嶋玲子の言葉に、思わず久作は叫びそうになった。橋井さんからリカさんに呼称が変わった、ただそれだけでどうしてここまで話がややこしくなるのか、さっぱり解からない。と、須賀が橘に何やら耳打ちしていた。須賀恭介と橘絢、この二人が組むととんでもないことが起きる、今朝のように。嫌な予感は見事に的中。世界は残念ながら平和ではないらしい。
「差別! さべーつ! 速河久作! ヴァイ使いのくせに男女差別とは、情けないぞー!」
「……はい?」
 ミラージュファイトのビリー・ヴァイならば、この意味不明な攻撃も見事にさばいて見せたかもしれない。いっそのこと合気道よろしく、実際にそうしてやろうかと一瞬だけ思った。橘絢のこめかみに、ヴァイの空手仕込みのハイキックを入れれば、あるいは彼女の目が覚めるかもしれない。
「リカちゃんはリカちゃんなのに、あたしは橘さんでレーコは加嶋さん! あたしらはリカちゃん軍団のザコ扱いか?」
「橘の意見はもっともだ。橋井にだけ親しくし、両名をないがしろにしている。速河、そういうのを差別と呼ぶんだ」
 須賀の顔面にベアナックルでもぶち込んでやろうかと思った。加嶋玲子は状況が今一つ飲み込めていないようで、きょとんとしていた。
「方城! 質問がある!」
 久作は、その場で唯一まともそうに見えた方城にすがった。
「状況は解かっただろう? で、僕はどうしたらいい? お前のバスケセンスだけが頼りだ!」
 方城はふむ、とうなずき、各人を眺め、首を何度かかしげて、言った。
「この、リカちゃん軍団? こいつら全員を下の名前で呼べばいいんじゃないのか?」
「……方城! お前はやっぱりバスケの天才だ! 鋭いドライヴで切り込んで、リングに叩きつけるような強烈ダンク!」
 絶賛される方城だったが、そもそもなぜ褒められているのかが解からない。しかし、褒められて嫌な人間などいない。よく解からないながら、方城は若干照れていた。
「委員長、橋井利佳子さん!」
「は、はい?」
 久作は立ち上がっていた。
「あなたは今から、いや、今朝からだけど、リカさんに決定! そして橘さん!」
「あん?」
 まだ弁当をちまちまといじっていた橘絢の箸が止まる。
「エディ・アレックス使いの橘さんは、アヤさん!」
 問答無用に続ける。
「加嶋玲子さんは……」
 一瞬言葉に詰まる。勢いで喋っていた久作だったが、加嶋玲子と目を合わせた途端、ランブレッタ48で立ち往生していた光景が蘇った。が、ここで止まっては話にならない。
「加嶋玲子さんは、レイコさんです! 以上! 文句は一切受け付けません!」
 どうにか言い切り、久作は椅子にどさりと落ちた。リカちゃん軍団の三人、橋井利佳子、橘絢、そして加嶋玲子が、何やらいいあっていたが、久作の耳には届かなかった。
「速河、お前には演説癖があるのか?」
 須賀がそんなことを言ったような気がするが、こちらも素通りしていった。一分ほど経過しただろうか、加嶋玲子が、続けて橘絢、橋井利佳子が言った。
「リカちゃんとアヤちゃんで、私がレイコ?」
「レーコとアヤちゃん! リーダーはリカちゃんで、リカちゃん軍団だー!」
「アヤとレイコはそれでいいけど、リカちゃん軍団っての、やめない? 小学生じゃあないんだからさ」
 方城と須賀が同時に吹き出した。そして須賀が、今度はまともな様子でいいだした。
「俺、須賀恭介と、こいつ、方城護。で、速河久作。俺たちは何軍団にするんだ? 速河?」
「それより、あのさ。俺らも下の名前で呼ばれるのか? 護とか、恭介とか?」
 須賀に続けて方城が喋っていたが、久作は思考を停止させ、世界平和を願っていた。もう、どうにでもなれ、知るかそんなこと……もつれ雲にぼやく久作だった。


『第五章~ウルトラコンボ』

 その日、部活や倶楽部に所属していない久作は、授業の全てが終わっても駐輪場へは向かわず、体育館へと歩いていた。単なる思い付きだったのだが、方城のバスケの練習を見物しようと思ったからである。
 のんびりとした歩調で体育館までの距離を詰めていると、誰かが声をかけてきた。放課後、どこにも所属していない久作が誰かに呼び止められることなど予想していなかったので、声の主を探すのにしばらくかかった。視線を四方に散らし、体育館方向の通路の柱にもたれかかる人物を見つけた。久作よりも若干上背のある男子。もう二歩ほど進み、それが佐久間準だと解かり、久作は少し驚いた。佐久間は確か、野球部とサッカー部を掛け持ちしている、忙しい人間だったと記憶していたからである。
「速河」
 佐久間が繰り返した。その声色に何かしら妙なものを感じたが、あまり意識せず、佐久間と、体育館との距離を縮める。体育館の開け放たれた入り口からボールの跳ねる音がかすかに聞こえた。
「佐久間?」
「呼び捨てか……まあいい」
 呼び捨てにしたのは単にクラスメイトだからという理由で、それ以上の意図はなかったが、そこに佐久間は何かしら思うところがあったようだ。
「速河、確かお前、帰宅部だったよな? どうしてこんなところにいる?」
 佐久間準の科白には、久作の意識に引っかかるものがあった。帰宅部などという部活は存在しない。どうしてここにいるのか問われる筋合いなどない。佐久間のそれは何気ない一言だったが、久作の思考を震わせた。
「どうしてって、別に。ただ、バスケ部の見学でもしようと思っただけさ。君こそどうしてこんなところにいるんだ? 部活で忙しいんだろう?」
 あえて声色を軽くした。佐久間の返答、態度が何かを予感させたからである。
「部活は、まあ忙しいが、それはいい。ちょっとお前と話がしたくてな」
 やはりである。話がしたい? 部活に所属しない久作と放課後に会話をしようと思えば、場所がここである理由は一切ない。明らかに不自然だ。話だけなら始業前でも休み時間でも、いくらでもある。放課後の体育館へと続く通路、これほど会話に不釣合いな場所はない。久作の思考がぐんぐんと加速する。
「話? 何かな?」
 あくまで軽く返すが、久作は既に臨戦態勢に入っていた。佐久間が柱から体を浮かし、埃をはたくようなしぐさをした後、体育館へと続く通路の中央にゆっくりと移動し、久作を若干見下ろすような姿勢で立ちふさがった。両手はポケットに入っている。
「速河、お前、運動関係はなかなか出来るほうだろうに、どうして部活に入らない?」
「プライベートで色々と忙しいんだよ」
 本題ではない、すぐに解かる。あくまでけん制だ。佐久間準は「久作の正体」を探ろうとしているのだ。そのためのけん制だが、それにしては陳腐な科白だった。
「プライベート? 例えば……橋井だとか加嶋だとかか?」
 やはりそう来たか。前日だったか、方城が言っていた。
「リカちゃん軍団ってさ、あの、ほら、ミス桜桃学園、あれのベストスリーなんじゃねーか?」
 同じ日にアヤ、橘絢がこうも言っていた。
「速河久作軍団! あんたら、女子の間じゃチョー有名なんだぜ? 知ってた?」
 二人の何気ない科白に、その意図とは違う反応を示したのは、久作と須賀恭介だった。違う反応とはつまり、今のような状況のことである。
「速河、リカちゃん軍団と仲良くするのは構わないが、少し注意しておいたほうがいい。彼女らは目立つ。そして残念ながら俺たちも目立っているらしい。下らん連中が山ほどいる、学年を問わずにな。神経質になることはないだろうが、それでも注意が必要だろう」
 須賀恭介の忠告は、久作が思っていたことを簡潔に表現しており、そして今、目の前に、佐久間準というクラスメイトが立っている。
「どうした速河? そこでだんまりってことは、図星か?」
「何? 図星? リカさんやレイコさんは関係ないよ。話ってのはそれかい? だったら終わりにしよう。僕と彼女たちは無関係だ」
 再び歩き出そうとした久作に、佐久間が……怒鳴りつけた。
「何が無関係だ! 速河! いや、お前だけじゃない。方城と須賀だったか? お前ら、そんなに目立ちたいのか!」
 佐久間準の激怒とは裏腹に、久作は冷めていた。須賀の言ったように、こういう連中がいる、当然そんなことは知っていた。佐久間準がもう少し違う態度であれば、久作の反応も違っていたかもしれないが、佐久間のそれがあまりに典型的だったので、冷めてしまったのだ。下らない、こんな下らないやりとりに何の意味がある? そして佐久間準は久作の思考から消えた。
「目立ってるかどうかなんて知らないし、正直、どうでもいい。体育館に用事があるんだ、じゃあ」
 佐久間と、通路の柱の中間めがけてそんなことを言い、久作は歩き出した。
「速河ぁ!」
「おーい、速河久作ー」
 二つの声が同時に聞こえ、右足のすね辺りに激痛が走った。佐久間の右足が久作のすねを捉え、振り抜かれていた。二つ目の声が、アヤちゃんこと橘絢のものだと気付くのに、数秒かかった。佐久間の放った、サッカーで鍛え上げられた右足を、かろうじて後ろに逃がせたのは幸いであったが、重心がブレて、姿勢を立て直すのに少しかかった。
「速河久作? さ、佐久間準! あんたら、何やってんの!」
 アヤが叫ぶようにして駆けてくる。彼女は確か、コンピュータ研究部だとかいうところに所属していたはずで、それは体育館前通路とはかなり離れた位置にある。そこのアヤがここにいるということは――。
「何だ速河! お前、スポーツ万能なんじゃなかったか? 俺は軽く足を振っただけだぞ!」
 スポーツ万能は方城であり、自分のことではない。いや、それはどうでもいい。アヤだ! この場面に第三者がいることは特に問題ではないが、それが彼女となると話は全く違う。リカちゃん軍団を、この下らない佐久間とかいう男の都合に巻き込むのは、絶対に避けなければならない。ならばどうする? アヤを連れて逃げるか? 体育館にでも飛び込めば教師の一人や二人はいるかもしれない。そうすれば彼女は――。
 佐久間の左足が、久作の腰の辺りに目掛けて飛んでくる。こちらの都合はお構いなしだ。腰を落として重心を下げ、佐久間の左足、くるぶし辺りに右肘を入れ、上に大きく叩き上げ、右回転に体をくねらせ再び佐久間と対峙した。
「……ウソ! ビリー・ヴァイの受け流し? ……さ、佐久間準! お前、暴力反対だ! センセー呼ぶぞー!」
 アヤが叫んでいる。これは非常にまずい。一緒に逃げるどころか、完全に巻き添えにしてしまっている。
「アヤちゃん! 体育館に入れ! 急いで!」
 考える時間はなかった。体育館に教師はいなくとも、方城がいる。仮に佐久間準がその矛先をアヤに向けたとしても、方城ならばどうにかなる。今はこれしか思いつかない。
「何でよー! 速河久作! あんたはどーすんのよ!」
 僕がどうするかなんてことはどうでもいい。今、肝心なのは、佐久間とアヤとを物理的に切り離すことだ。それには体育館にいる方城に――。
「やかましいぞ! 橘! なんだお前! ミラージュファイトの続きでもやろうってのか!」
 最悪だ。アヤが、3D格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、エディ・アレックスのように立ち回れるのであれば問題はないが、そんなことは絶対に無理だ。相手は佐久間準、スポーツ万能のオールラウンダー。片や、コンピュータ研所属のゲーマーの女の子。完全にキレている佐久間がアヤに手を出せば、骨の一本や二本では納まらないかもしれない。どうする! 考えろ! 思考をフルスロットルさせろ! そのための脳みそだろう!
「何ぃ! マイケル・ジョーのファイヤークラッシュでボコられるお前なんかに、このアヤちゃんが負けるかー!」
 ……ちょっと待て。何だ? 今、誰が、何と言った? マイケル・ジョー? ファイヤークラッシュ? 久作の思考が唐突に乱れる。声の主は、橘絢、アヤだ、間違いない。問題はその科白だ。
「お前なんかに、このアヤちゃんが負けるか」? 冷静になれ、久作は自身の脳髄に怒鳴りつける。
 ミラージュファイト、そんな名前の3D格闘ゲームがある。なかなかの評判で、プレイしていない学生はほぼいない。僕こと速河久作もその一人で、ビリー・ヴァイというキャラクターで遊んだことがある。腕前はまあまあだろうか。橘絢、アヤは、そのゲームのキャクターの一人、中国拳法の達人であるエディ・アレックスを自在に操り、近所ではほぼ負け知らず。佐久間準、あいつもミラージュファイトをやっていて、誰だかしらないがキャラクターを使っていて、マイケル・ジョーというテコンドー格闘家に苦戦しており、そのキャラクターの必殺技の一つであるファイヤークラッシュで連敗している。
 ……いくらか冷静さが戻った。
 数秒だったか、深い思考の中にいた久作が現実世界に戻ったとき、アヤが体育館通路に辿り着いていた。冷静さを取り戻した久作はその構図を見て、度肝を抜かれる思いだった。スポーツの類では他を圧倒する佐久間準と、リカちゃん軍団の一人、小柄で派手なアヤ。この二人の距離は、三メートルとない。危険どころの騒ぎではない! 体育館まで二十メートルはゆうにある。今からアヤを抱えて走って、佐久間から逃れられる保障は殆どない。
「さあ、どうする? 速河久作!」
 声に出した。高等部一年生になってまだ一ヶ月と満たないが、いきなりの窮地{きゅうち}だ。これを乗り切る手段は……。
「お前なんか! アレックス仕込みの八卦掌{はっけしょう}でベコベコにしてやるー!」
「橘! お前、頭おかしいだろ? 何がアレックスだ! やってみろよ!」
 もう考える時間はない。
「アヤちゃん! 下がって!」
 アヤに向けて叫び、続ける。
「おい! 佐久間準! 相手が違うだろう! 僕が気に入らないんだろう! 女の子相手に何をしようっていうんだ? 来いよ!」
 ふう、と息を吐き、全身の力を一旦抜く。再び重心を落とし、かかとを浮かし、左手に構える。格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、ビリー・ヴァイと同じ構えである。
「ああ? 速河? お前、俺とやろうってのか!」
「そんなつもりは微塵{みじん}も無かった。でも状況が変わった、仕方が無い」
 完全に冷静さが戻った。最初に蹴られた右足の痛みも、もうない。アヤが何事かを叫んでいたが、聞こえなかった。
「速河! お前さ……死ねよ!」
 佐久間準の右ストレートが久作の顔面に向けて放たれる。野球部掛け持ちだったか、それをまともに喰らえばおそらく鼻の骨が折れ、そのまま気絶するだろう。久作はその右ストレートに対して、左すり足で前に出て、上体をかがめる。
 右ストレートを左肘で打ち上げ、同時に右足を大きく前に、佐久間準の両足のすぐ手前に踏み込む。右構えに変わる。踏み込んだ力を右肘に伝え、佐久間のみぞおちに撃ち込み、そのまま右手掌底{しょうてい}で顎を撃ち抜き、続けて左足を後ろからくるりと一回転させ、その勢いのまま、右掌底で浮いた頭のこめかみに左肘を叩きつけた。
 時間にして十秒ほどだっただろうか。久作の全身から汗が吹き出る。大きく深呼吸をすると、肘などに鈍痛がした。
「死ね」と叫んだ佐久間準は……久作の三歩ほど前方に倒れていた。一瞬、ヤバいと思ったが、佐久間の指がぴくりと動いたので安堵した。冷静さは健在だが、体力の消耗が半端ではなかった。たったあれだけの動きをするのに、これだけの体力がいる。日頃の運動不足のお陰だ。方城を見習わねばならない。とか何とか、あれこれと考えていると、声が聞こえた。橘絢、アヤだった。
 そうか! とそこで始めて久作は本題に気付く。運動不足だとか何だとか、そういう話ではなかった。キレた佐久間準と、リカちゃん軍団の一人、アヤをどうするか、その結果がこれだった。久作は吹き出しそうになり、結局、声を出して笑った。
「あははは! そうだよ、何を勘違いしてるんだ僕は? 佐久間が、まあ、あいつはいいか。アヤちゃん?」
 通路の外、柱の向こうに橘絢を見付けた。
「大丈夫? 怪我とかないかい?」
「……へ? ない、んじゃないかな? いやいやいや! そーじゃなくって!」
 アヤが大声を上げ、久作は驚いた。まだ何かあるのか? そう思ったからである。
「速河久作! あんた……ビリー・ヴァイか?」
「ビリー・ヴァイ? いや、速河久作だけど?」
 アヤの大声の原因は知らないが、とりあえず窮地は脱したようであった。体育館からボールの跳ねる音が聞こえ、久作は本来の目的を思い出した。
「ああ、そうだ。アヤちゃん。方城のバスケ、一緒に見物でも――」
「さっきのアレ! ヴァイの必殺コンボまんまじゃん!」
「いや、あの、だから、僕は速河――」
「速河久作スゲー! マヂでリアル・ヴァイじゃん! 佐久間準、あいつ、ぶっ倒れたまま気絶してるし! 最初の右パンチ、返したよな? んで? ドン! ドン! のドーン! 左構えの受け流しから骸打ちで羅刹門・改! 真空三連激! チョーウルトラコンボ炸裂! オラウータン佐久間準なんか秒殺ってか!? 速河久作! ホンキのヴァイ使い? いやいや、使いとかじゃなくて、生ヴァイ! ダメだ、あたしじゃ絶対に勝てない!」
 アサルトライフルトーク、毎度ながら言っていることの半分程度しか理解できない。とりあえず解かったのは、アヤが興奮しているということ、ただ一点だけだった。
「あのさ、アヤちゃん? 体育館で方城の――」
「行く行く! どこでも行くぞ! 速河久作! ってか、リカちゃんとレーコにメールだ! たぶんまだ帰ってないから、体育館に集合! 須賀恭介のメアドは、あった! 全員召集だ!」
 アヤがケータイでぽちぽちとやるのを見届けて、やっと体育館に向けて歩き出すことが出来た。
「練習試合でもやってくれてれば、方城のスーパープレイが見れるかもしれないよ?」
「ふーん。でも、速河久作のウルトラコンボくらいスゲーの、それって?」
「ウルトラ……方城のバスケセンスは凄いよ。ダブルクラッチをやれる高校生なんて、たぶん方城くらいだよ。インターハイだとか全国だとそういう人もいるらしいけど、少なくとも桜桃学園の近辺にはいないね、間違いなく」
 体育館に到着した二人は、レイアップの練習をひたすらに繰り返す桜桃学園高等部バスケ部と合流した。二十人ほどの中から方城を発見し、手を振り、体育館の隅に座り込んで、二人はレイアップの繰り返しを眺めていた。しばらくしてアヤのケータイが鳴り、それから五分ほどして、リカ、レイコ、須賀敬介が体育館に姿を現した。
「橘……アヤ君。そこの通路に佐久間準が転がっていたが、あれがその、ウルトラコンボとかいう奴かい?」
 須賀がアヤに尋ねる。リカもレイコも須賀に習ってアヤを見つめる。アヤはというと、少し間を置いてから、叫んだ。
「速河久作のウルトラコンボ炸裂で佐久間準、秒殺! リアル・ヴァイなんだよ、速河久作ってば!」
 バスケ部のキャプテンらしき人物に「静かに」と言われ、アヤはトーンを下げたが、その後は例によって、アサルトライフルトークであった。
 方城のレイアップは三年生レギュラーとほぼ同等の華麗なフォームで、久作は、アヤのアサルトライフルの銃声を聞きつつ、方城のレイアップに釘付けになっていた。


『第六章~エマージェンシー』

 ホンダXL50Sで心臓破りの坂を越えた久作は、普段より二十分ほど早くに桜桃学園高等部の駐輪場に入った。前日の夜、須賀敬介から一通のメールが届いたからである。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
 須賀や方城とはずいぶん前にメールアドレスを交換していたが、須賀からメールが届いたのはそれが初めてだった。よほど重要なのだろう、そう思い、久作は筋肉痛と節々の痛みをこらえて早くに目覚め、XLを慎重に法定速度で走らせ、駐輪場に到着していた。昼食と飲み物、分厚いルーズリーフ、教科書が数冊入っただけのいつものリュックが、やけに重たく感じられた。フルフェイスをミラーにかけ、リュックを地面に置いて、久作はXLに寄りかかって深く深呼吸をする。それで疲労がいくらかマシになったような気がしたので、フルフェイスとリュックを持ち、1‐Cのある校舎に向けて歩き出そうとしたのだが、足は一歩動いただけで止まった。真っ赤なランブレッタ48が久作の視界に入ったのだ。ランブレッタ48、加嶋玲子も久作の存在に気付いたらしく、とことこと軽い音をたてて、ランブレッタと加嶋玲子が久作のそばにやってきた。ランブレッタをXLの隣に入れ、ジェットヘルをぽんと脱ぎ、桜色のブレザーとばさばさになった髪の毛を整える。
「おはよー、久作くん!」
 今日も空は晴れ渡っており、加嶋玲子の表情もまた、澄み切っていた。元気がありあまっているのか、挨拶の声にちょっとした迫力さえあった。
「おはよう、レイコさん」
 久作はというと、疲労が抜けていないので、声に力が入っていない。
「昨日の夜にね、須賀くんからメールが届いたの、ほら、これ」
 真っ赤なケータイ。その液晶画面に表示されている文面は、久作宛てのそれと同一のものだった。普段、メールなど一切使用しない須賀が、レイコにまで同じ文面を送っている。おそらく、リカやアヤにも、方城にも送信しているに違いない。重要な話。これは須賀の、毎度の洒落ではなさそうであった。
「久作くん?」
 レイコに言われて我に帰る。何かを考えだすと止まらない、久作の欠点の一つである。
「ああ、ごめん。須賀の奴、ひょっとしてもう教室にいるかもしれない。少し急ごうか?」
 リュックを肩にかけ、フルフェイスを握り、二歩ほど進んだところで、久作の右膝がいきなり落ちた。
「久作くん! どうしたの!」
 びっくりしたレイコが慌てて駆け寄る。自分でも何が起こったのか解からなかった。いきなり足から力が抜けた。倒れなかったのが不思議なほどである。
「大丈夫? もしかして、怪我とか? ほら、昨日の……」
 昨日? そうか、と久作はそこでようやく気付く。昨日の夕方、体育館通路での佐久間準とのやりとり。筋肉痛と疲労の原因はあれだった。かなり体に無理をさせて、その反動が今日になって出てきているのだ、当然といえば当然であるが。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだから。さあ、教室に――」
 驚いたことに、立ち上がって一歩目がまたいきなり落ちた。左膝が地面に激突し、フルフェイスがごろごろと転がった。
「久作くん! 全然大丈夫じゃないじゃない! やっぱりどこか怪我してるんじゃないの?」
 久作は冷静だったが、レイコのほうが少々パニックになっていた。ともかく、教室なり校舎なり、どこかに入らないと話にならない。が、久作の両足はどうにも言うことを聞かない様子である。
「ごめん、レイコさん。悪いんだけど、肩、貸してくれないかな?」
「え?」
「怪我はない、大丈夫。ただ、ちょっと疲れていて、きちんと歩けそうにないんだ」
 膝を突いてレイコを見上げ、その大きな瞳に向かって状況を伝える。青空をバックに、柔らかい髪の一部がちょこちょこと跳ねたレイコがこくりとうなずく。転がった久作のフルフェイスを重そうに持ち上げ、隣に腰掛けたレイコが、頭を久作の右脇にねじ込み、「よいしょー!」と声をあげた。いやいや。ちょっと肩を貸してくれればそれでどうにか歩ける。脇を抱えてもらわねばならないほどでは、あるか?
「うーーん! 重たいー!」
「レイコさん! 無理しなくていい! 少し手伝ってくれればどうにか――」
「がんばれ私ー! うーー!」
 レイコが久作の体を引きずり、それに合わせて足を出し、二人は徐々に進み始めた。普段ならば一分そこそこでたどり着ける校舎に五分以上かけてたどり着き、久作とレイコは、一旦、校舎入り口に座り込んだ。
「はふー」
 レイコは大きな溜息を空に向けてから、校舎入り口、階段上の硬質タイルの上で、足を広げて仰向けになった。
「……レイコさん、凄いね? あそこから、ここまで、かなりの距離があるのに」
「ぜはー」と再び溜息を付いたあと、レイコは首を久作に向けて傾け、にっこりと微笑む。
「陸上部! 私、中等部では陸上部だったんだよ? スタミナには自信あるのだー」
 レイコが陸上部とは初耳であった。中等部では、ということは現在は違うのだろうが、これでいくつか解かった。最初、加嶋玲子を見たときに、華奢{きゃしゃ}で小柄、細長い足、というような印象だったが、華奢で細長い足、ではなく、陸上部の、種目は知らないが、それで鍛えられシェイプされたものだったのだ。いつ会話をしても元気なのは、性格もあるのだろうが、そのスタミナがゆえなのかもしれない。今、隣で地面に転がっているのも、自身が桜色のブレザーではなく、スポーツウェアでも着ている感覚だからなのだろう。
 とはいえ、階段上という位置でそういう格好でいられると、誰かの視線がレイコの足だとかスカートだとかに行きそうで、本人がどう思っているかはともかく、あまりよろしくない。
「ありがとう、レイコさん。お陰でかなり回復したし、無事に校舎までたどり着けた、ところで」
 ここで言葉を切り、レイコが起き上がるのを待つ。しばらくかかったが、レイコは仰向けから上体を起こし、階段に座るような格好になってくれた。
「ところで? 何?」
「え?」
 レイコの姿勢にばかり気がいっていたので、肝心の会話を考えていなかった。
「えーと、ああ! そうだ! 教室に向かおう! 須賀だ」
「おはよう、レイコ、速河くん。どうしたの? 二人して早朝からこんなところに座り込んで?」
 リカ、橋井利佳子が階段下から上がってきて、不思議そうに二人を眺めていた。
「おはよー! リカちゃん!」
「お、おはよう……」
 対照的な挨拶に再び不思議そうな顔をしたリカ。しかしそれは大して気にしていないようで、鞄からケータイを取り出し、例の須賀の文面をこちらに向けた。
「これ、須賀くんからのメール。昨日の夜だったかしら? 須賀くんからメールなんて初めてなんだけど、よっぽど大事な話なのかしら?」
「それー! 私にも来たよ!」
 リカの表情は若干曇っていたが、レイコは明るく返す。
「須賀は、冗談や何かでそういうことをする奴じゃない。きっと大事な用件だろう。教室に向かおう」
 久作は立ち上がり、くるりと回転して校舎入り口に向かい、そしてよろめいた。
「速河くん? 何? どうしたの?」
 姿勢を立て直そうと足を出して、それがまた落ちる。リカが慌てて寄ってきた。
「久作くん、全然大丈夫じゃないじゃん! リカちゃん、久作くん、凄い疲れてるんだって」
「疲れてって、いきなり倒れそうになるほどなの? ひょっとして、昨日の――」
「怪我とかは一切ない、大丈夫。単なる過労だよ」
 リカが、昨日の佐久間との一件を持ち出そうとしたのでそれを制し、大丈夫と、膝をついたまま繰り返した。当然、全く説得力はないのだが。
「保健室、はまだ誰もいないし、ここでもうしばらく休んでいく? 歩けないんでしょう?」
「レイコさんに助けてもらって、休憩もそこそこした。机と椅子までたどり着ければ、後はどうにでもなると思う」
「リカちゃん左! 私が右ね?」
 レイコが何事か言い、それにリカがうなずくと、久作は、まるで粗大ゴミのような格好で二人に引きずられていった……。

「なんだそりゃ? 速河? お前、どうしたんだ?」
「リカ君にレイコ君、両手に華とは文字通りこのことだな。他の男子が見たら石でも投げつけられるぞ」
「ガビーン! 速河久作って、リカちゃんとレーコ、二人と付き合ってんの?」
 レイコとリカに助けられ、ようやく自分の椅子に到着した久作に、あれやこれやと言葉が降り注ぐ。
「電池切れの久作くん、重いよー?」
「だからアヤ、手を引っ張ったら、あなたはその相手と付き合うの?」
 久作は、方城の「どうしたんだ?」という科白にだけ応えた。
「運動不足がたたった。ちょっと運動しただけで全身筋肉痛で、まともに歩けやしない。昨日の方城の練習を見て、つくづく痛感したよ」
「昨日? 昨日は確か、基礎を延々とやってただけだぜ?」
 方城の、華麗なレイアップが脳裏をよぎる。
「ああいうことの積み重ねが、方城を方城にしているんだ。僕にはそういうものがない。だから、こんな、ていたらくってこと」
「こんなって、速河。確かお前、昨日は体育館に来る前に佐久間とトラブってたんだろ? アヤがそんなこといってたよな?」
「待て方城護! 今、お前、あたし呼び捨てにしやがったなー!」
 橘絢がぐいと前に出て、方城を下から睨みつける。鋭いアイラインがカッターナイフのようだ。
「いや、だって、お前、橘絢だろ? ……ほら、やっぱアヤじゃねーか? なあ?」
「アヤじゃなくて、アヤちゃんだ! リカちゃん軍団の雑魚扱いしてたら、アレックス・フルコンボで瞬殺すっぞ!」
「アレックス? なあ、委員長。俺、また何か間違ってるのか? アヤのいってることがさっぱり解かんねーよ」
 噛み付かん勢いのアヤを半ば強引に押しのけ、リカが溜息を一つ。
「もういっそのこと、アヤ様とでも呼んだら? それよりもね、方城くん。私、橋井利佳子。委員長なんて名前じゃないわよ?」
 どうやら、今朝の獲物は方城らしい。久作は方城の無事を小さく祈り、疲弊した体を椅子にあずける。
「アヤ様? 委員長? ちょっと待ってくれ! お前らリカちゃん軍団と俺って、まあまあ親しいよな? 友達? そんなかどうかはともかく、他の奴らよりは話が通じるよな?」
「うむ」とリカ、アヤがうなずく。
「で、こないだ速河が名前がどうだこうだって話してたじゃん? その時にお前ら、下の名前で呼べって、確かそう言ったよな? なあ、速河?」
 我関せず、小さくうなずき、視線は窓の外。
「それで、えーと、委員長が橋井利佳子、こいつが橘絢、あっちが加嶋玲子。委員長って呼び方は、そうか、すまん。リカコ? リカ? どっちかでいいのか?」
「速河くんと一緒で、リカでいいわよ。それより――」
「方城護! 今、あたしのこと「こいつ」って言っただろ! だーかーら! 雑魚じゃねーって!」
 アヤの左フックが方城の脇腹を捉えた。なかなかのスピードだ。体重を乗せていれば方城でもぐらついたかもしれない。
「! ゲフッ! ちょ! 待てって! いきなり殴るか普通?」
「アレックスの左、どうだ! 思い知ったか! 方城護! これがアヤちゃんの実力だ!」
 バスケットボールに全てを奉げている方城が、3D格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャラクター、エディ・アレックスを知るはずもなく、しかし、アヤちゃんの実力とやらは知らされたようだ。
「誰だよアレックスって? それよりさ、橘絢はアヤだろう? で、加嶋玲子はレイコ。委員長は、リカ。リカ、アヤ、レイコ、でリカちゃん軍団……ほら見ろ! 何も間違ってねーじゃねーか!」
 それまで、にやにやと傍観していた須賀が、ゆっくりと口を開いた。
「要するに、敬称が抜けている、ただそれだけだ、方城。そうだろ? アヤ君?」
「須賀恭介の言うとおり!」
 一瞬ぽかんとした方城。
「敬称? あの、さん、とか、様とか、殿とかってあれか?」
 アヤ「様」が大きくうなずいた。
「こいつを……だから殴ってくんなって! こいつを「アヤ様」って呼べってか? だったら、リカ様にレイコ様?」
「リカ様って……リカでもリカちゃんでも、何でもいいわよ、私は」
「私は、レイコ! レイコちゃん? どっちでもいいよー!」
 残る一人はというと……。
「アヤ様! アヤちゃん! アヤ殿でもいいぞ?」
「アヤちゃん? ……あのな、俺はそーいうの、ガラじゃねーんだよ。リカ、アヤ、レイコ、呼び捨てで失礼? すまんが俺はそういう奴なんだよ!」
 力説する瞳に涙でも浮いていそうだった。アヤのいうことももっともだが、方城にだって彼なりの都合というのか、そういったものがある。さて、どちらが折れるのやら。
「むーー!」
 アヤが考え込んでいる。彼女にとってこれは、なかなかの問題らしい。方城は左右どちらかからのパンチを警戒しつつ、アヤをじっと見つめている。
「よし! んじゃ、「エディ・アレックス使いのアヤ」これで許してやろう!」
 話があらぬ方向に飛び、久作はがくりとうなだれた。
「……何使い? 何の話だ?」
「エディ・アレックス! 中国拳法の達人で、チョー強い奴だよ! それ使いのアヤ!」
 どこから始まったのか定かではないが、「エディ・アレックス使いのアヤ」、これで話は一段落した。方城がふらふらになって、手近の椅子に座り込んだ。その気持ちは痛いほど解かる。経験者である久作は、窓の外を眺めつつ思った。
「須賀くーん! メール! メール!」
 アヤ「様」の件ですっかり忘れられていた本題。レイコが真っ赤なケータイをぶんぶん振り回しつつ言い、久作を含め、全員が我に帰る。須賀を除く各自がそれぞれのケータイを開いて、例のメールを再確認した。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
 須賀の表情が、若干険しくなった。ゆっくりと辺りを見回し、ふむとうなずき、ささやくように言った。
「かなり時間を労したが、全員が早くに来ていてくれたから、まだ他の連中は少ない、大丈夫だろう」
 やけに慎重な切り出し方だった。他の連中とは、つまり、クラスメイトのことか? まだ十人といない。名前は知らないが、二人組みが雑談している。他は、退屈そうに机に肘を付いているだけだ。
「これを見てくれ。廊下に貼り付けてあったものを拝借してきた」
 そういって須賀が持ち出したのは、一枚のポスターだった。A1サイズ、594メートルメートル×841メートルメートル、かなり大きい。業務用印刷機でプリントアウトしたのであろうそれは、ピンクやオレンジといった鮮やかなもので、ひときわ目立つ角の丸まった大きなフォントで、こう書かれてあった。

「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」

 久作の思考が濁る。須賀のメールと態度に対して、そのロゴは、明らかに不釣合いだったからだ。須賀のメールには確か「重要な話がある」とあったはずだ。それと「ミス桜桃学園」という単語が、噛み合わない。須賀の意図するところが掴めず、久作は思考の海へと潜った。
「ミス桜桃って、まだ四月の終わりなのに、これやるの?」
 最初に口を開いたのは、リカだった。口調も表情も険しく、どこか棘があった。
「何が「アイドルを探せ!」だ。馬鹿じゃねーのか? こいつら?」
 方城が繋ぎ、続けた。
「ミス桜桃って、あれだろ? 桜桃学園の中等部から高等部まで全部ひっくるめて、女子集めて、投票だかでどいつが一番美人かとか、そーいう奴だろ? 中等部の時にもあったよな? その時のマネージャー、女子のな、そいつがこれがどうこういってたから覚えてるよ。こーいうの、ミスコンとかって呼ぶんだっけ?」
 方城の丁寧な解説で久作は、このミス桜桃学園というものがどういったものなのかを把握し、そして、須賀の表情の理由にも気付いた。
「リカちゃーん? これって、あたしも入るの?」
 アヤが不思議そうな顔をして尋ねる。レイコも、ぽかんとしている。おそらく同じ質問をしたかったのだろう。
「入るというより、無理矢理入れさせられるってところかしら? ねえ、方城くん?」
「そうだな。確か、うん、思い出してきた。投票箱と集計用紙みたいなのが作られて、男子とか女子とかが用紙に、ミス桜桃候補を好きなように書き込んで、それをナントカ委員会みたいなのが数えて、そんな感じだったはずだ。リカもだけど、アヤもレイコも、当然、どっかの誰かのミス候補の一人ってことにされるよな?」
 中等部からずっとバスケ部で、学年を問わず色々な人物と接してきていた方城だからか、かなり詳しいようだ。しかし、詳しいわりにその表情はリカと同じく、険しい。
「えー? じゃあ何? あたしがどっかでミラージュやって昼寝してマンガ読んでて、気付いたらミス桜桃学園でした、なんてことがあんの?」
「ある」
 須賀がきっぱりと言い切った。アヤはその様子を頭に浮かべているのか、難しい表情で思案し、そして言った。
「そのミスってさ、賞金とかなんか、あんの?」
「賞金? 賞状とか、副賞のグッズとかー?」
 アヤとレイコが、未だに不思議そうな顔をして尋ねる。相手は、方城とリカだった。
「賞金? いや、これって確か生徒主催のやつだから、現金はないだろう? 賞状は、どうだろう、あるんじゃねーの?」
「副賞は、ミス桜桃学園っていう、名誉よ」
 アヤとレイコが沈黙した。リカが須賀よろしく吐き捨てるようにいった「名誉」という言葉に、二人共反応したようである。沈黙が一分ほど。アヤが、何故かおそるおそるといった口調で、方城に尋ねた。
「あのさ、方城護。このー、ミス桜桃学園? これにもし、あたしがなったら、どーなんの?」
「桜桃の男子全員にもてまくる。ついでに、アヤ様ファン倶楽部なんてのも出来るだろうな」
 当然だ、そんな風に方城は返した。
「アヤちゃんファン倶楽部ー?」
 レイコが少し明るく言ったが、アヤの表情がどんどん険しくなっていくことには気付いていないようだった。リカもまた同じくであり、方城は軽蔑の眼差しでA1ポスターを睨んでいる。それまでずっと沈黙していた須賀が、改めてそのポスターの、タイトルロゴを指差した。
「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」、そう表記されてある。
「昨晩のメール、重要な話というのは……これだ」
「……リカちゃん! これってメチャクチャじゃん! あたしの人権無視かい! 男子にもてるて、知らない奴にストーキングで追い掛け回されるってことじゃん! ファン倶楽部? キモいってば! なんだこれ? ミス桜桃学園? ミスってんのはテメーじゃんか!」
 アヤが飛び跳ねて叫んだ。一方のリカは、嫌悪感だか何だか、溜息をついていた。
「桜桃にはあるのよ、こーいうのが。アヤは高等部からの編入だから知らないでしょうけど、このミス桜桃って、中等部から高等部まで、つまり六年間、ずーっと付いて回るの。中等部と高等部の男子を合計したら何人になるのか知らないけれど、誰かがやってるこれって、文化祭の次くらいに大きな行事なのよ。ここ、桜桃学園ではね」
 と、須賀がその言葉を継いだ。
「この大規模行事は主催こそ生徒だが、影響力にかなりのものがある。中等部から高等部までという膨大な人間の中から選ばれた数名の女性、つまりミス桜桃だが、彼女らの容姿が相当水準以上になるのは必然で、もてるだとかいう次元ではなく、芸能界やモデル業界、そういったところに半ば直結している。これらに憧れる女性がいることはごく健全で、そういった女性に憧れる男性もまた健全ではある。しかしだ……」
 一旦言葉を切り、傍らの飲料水を軽く含み、須賀は続ける。
「芸能界やモデル業界に一切興味のない、健全な女性にしてみると、このミス桜桃学園という行事は、とても危険だ。本来、ミスコンテストと呼ばれる企画はオーディションへの立候補者から選ぶというシステムで、自薦他薦を問わない、といったコピーで主催される場合もあるが、ミス桜桃はアンケート用紙による他薦だけだ。アヤ君が言ったように、完全に人権を無視している。健全だかどうだかの男性によって無作為に選出され、強引に大衆の前に突き出され、あなたは今日からミス桜桃ですと言われ、全く興味の無い世界を見せられ、そして有象無象に囲まれる。そういった状況下で起こり得る事態は小さなものから大きなものまで、それこそ全てだ。ならばそれを監視し、管理運営する集団なりがあるのが当然だが、生徒主催のミス桜桃には集計と発表をする主催委員会以外に何もない。学園管理下での行事であれば、あるいはそういった危険要素を排除できるのかもしれないが、主催する生徒も参加する生徒も皆、「この学園の一番の美人は誰だろう?」といった程度の認識でしかなく、一種のお遊びだと完全に割り切っている。中等部でも高等部でも構わないが、学生がそういったことで遊ぶことは否定しないが、物事には必ず原因と結果、因果関係、そして周囲への影響というものがあり、これらを忘れて、お遊びで人権無視の行為を行うなんてことは、もはや犯罪だ」
 難しい単語が並んだが、須賀がゆっくりと、丁寧に噛み砕くように喋ったので、久作を始め、全員に須賀の言わんとすることが伝わった。そして、それを聞いた全員が、ネガな表情となり、誰かがごくりと生唾を飲む音が聞こえた。須賀が、あえてそのミス桜桃学園を、大袈裟に表現していることは久作には明らかだった。極端に表現することにより、その実体を解かりやすくする、という単純な手法である。しかし、いささかやり過ぎかもしれない、そう久作が思ったのは、リカちゃん軍団のアヤとレイコ、この二人が明らかにおびえた表情だったからだ。
 リカが須賀の説明に対して、半ば同意といった態度だったのは、おそらくリカがこのミス桜桃学園のことに詳しく、また、過去に何かしら関係があったからかもしれない。方城とのやりとりもある、おそらく何かあったのだろう。重要な話、確かに。これはかなりの話だ。
 だが、そこで久作は思った。これに対して、須賀恭介が何らかの対処法を考えていないはずはない、と。須賀は、危険だ、注意しろ、それだけで終わるほど浅い男ではない。先の長科白は、あくまで状況の説明であって、本題ではないだろう。肝心なのはそこだ。ミス桜桃学園の危うさは全員が理解した。その先だ。ならばどうするのか? 須賀はどのような戦略を描いているのか、肝心なのはそこだ。どっぷりと思考の底にいた久作が、浮上してくる。
「須賀、ミス桜桃学園。これに――」
 立ち上がろうとした久作だったが、唐突に両膝から力が抜け、教室のリノリウム床に激突した。
「速河?」「どうした!」「速河くん!」「久作くーん!」「速河久作? 何だ?」
 皆が口々に久作に尋ねる、当然、心配してくれて。久作は、かなり長い時間思考の中にいたので、自分の今日の体調のことをすっかり忘れていたのだ。椅子に座っていくらか回復するかと思っていたのだが、結果は見ての通りである。机に手をかけて立ち上がろうとするが、膝に力が入らない。誰かが手を貸してくれて、ようやく椅子に座れた。見るとそれは方城だった。
「ああ、方城、ありがとう。もう大丈夫だ」
「速河、どうしたんだ? 調子悪いのか? ……ああ! 昨日の佐久間か! お前、どんな無茶したんだよ! 運動不足とかそういうレベルじゃねーぞ、それ?」
 はっ、と声を上げたのはアヤだった。
「佐久間準秒殺の、ウルトラコンボ! 速河久作はあれで体力ゲージ使い果たしてんだよ!」
「ウルトラって、速河がこんなになるくらいの運動量って、どんなだよ! ってか、そんなことはいいから早く保健室に行け! このクラスの保健委員って……」
 方城はリカを見て、リカはレイコを見る。
「保健委員? 私! レイコちゃん!」
 レイコが挙手した。
「いや、大丈夫だ。それより須賀の話が――」
「速河、今は保健室が優先だ。安心しろ、それもここに入っている」
 須賀は自分の頭を指差した。
「レイコ? お前じゃ速河を保健室まで連れて行くのは無理だから、俺が運ぶ。その後の処置なんかは任せていいか?」
 方城は素早く言い、レイコはこくこくとうなずく。

 久作は自身に辟易していた。
 昨日の方城、今朝のレイコとリカ、そして今、方城とレイコ。周囲の人間に頼ってばかりだ。一人で立つことすら出来ない。なんて役立たずな人間だ、そんなことをぐるぐると考えつつ、方城に半ば抱えられるようにして保健室のベッドに横になった。始業チャイムが聞こえ、「後は任せたぞ」という方城の科白が聞こえ、無音の保健室のベッドで久作は放心状態だった。保健室の女性教師とレイコが何やら話していたが、内容までは聞き取れず、しばらくしてその女性教師は保健室から姿を消した。
 小さなベッドだったが、横になると随分と体が楽だった。力を抜いて、体躯をベッドに預ける。目を閉じると、それまで加速度的だった思考が徐々に緩やかになっていった。複雑に見えた状況がどんどん簡略化されてゆき、幾つかの単語、科白が浮かんだ。

「桜桃のスコアリングマシン」、華麗なノールックパスを出した方城護。
「はは、俺がプロなら、本物のプロはコンピュータさ。俺のは我流だ」、須賀敬介とのチェス。
 方城と須賀、この二人になら、かなりの難題であっても安心して預けられる。
「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル! ランブレのガソリンのお礼でーす!」
「レイコ、会話が滅茶苦茶。意味通じないって、それじゃあ」
「スクータってクリームソーダで動くか? いやいや動かねーってば、ははは!」

 リカちゃん軍団、可愛らしくて楽しい三人だ。喋っていて心地良い。
 そんな三人に対して、
「速河! お前さ……死ねよ!」
 昨日の夕方、体育館前の通路で佐久間準がそう怒鳴った。佐久間準という男のことは詳しくないが、リカちゃん軍団の傍には置けない。だからこそ、
「速河久作のウルトラコンボ炸裂で佐久間準、秒殺! リアル・ヴァイなんだよ、速河久作ってば!」、アヤだったか。体にかなりの無理をさせて、佐久間を追い払った。
「重要な話がある。明日は少し早く登校してくれ。――K.SUGA」
「こんなって、速河。確かお前、昨日は体育館に来る前に佐久間とトラブってたんだろ? アヤがそんなこといってよな?」
 佐久間のような人間が再び現れる可能性、それが、ミス桜桃学園という行事にはある。須賀の言うとおり。個人、数人レベルのトラブルならばどうにでもなるが、それで済むのか。何事かがまた起こったとき、対処できるか。一人でまともに歩くことさえできない自分が……。

「久作くん? 寝てるー?」
 不意に声をかけられ、久作はぎこちなく振り向いた。真っ赤なランブレッタ48、加嶋玲子が不安そうな顔でこちらを見ていた。
「がぶがぶクリームソーダ、1,5リットル」
 レイコには聞こえないように呟いた。しばらく考えたが、特に何も浮かばなかったので、今度は聞こえるように口にする。
「レイコさん、さっきの須賀の話だけど……」
「うん?」
「どう思う?」
 あまりに漠然とした問いかけだったが、思考の鈍った久作からはその程度の言葉しか出なかった。すこし間があり、レイコが小さく、明るく応える。
「須賀くんの話は難しいからよくわかんないけど、アヤちゃんが危ないって言ってて、リカちゃんもそうだったから……少し怖い、かな?」
「難しく考えるのは、須賀にでも任せよう」
 レイコと、そして自分に対して久作は言った。
「危ない目にあっても、その時は方城が助けてくれる、大丈夫。あいつのダンクを喰らえば、佐久間みたいな奴は一撃だ」
 レイコに向けられた、自身に対する言葉。それが現時点での答えだった。方城と須賀に任せる、そう考えてみると、ややこしいことがとてもシンプルになった。何事も一人でこなすべきだとは今でも思うが、そこに、臨機応変さを加えなければ、下らないことに巻き込まれて対処できなくなる。ノールックパスが出来ないのならば、それが出来る方城にボールを出せばいいし、大勢に囲まれたなら、須賀の戦略通りに動いてチェックメイトを狙えばいい。そしてもし、方城や須賀、リカさんやアヤちゃん、レイコさんに対して「死ね」と怒鳴る奴が現れたなら、合気道と空手の達人、ビリー・ヴァイのウルトラコンボで秒殺してやればいい。つまり……。
「今、僕がやるべきことは、ぐっすりと眠ることだ。体が動かないんじゃあ話にならない」
 最初はレイコに向けて喋っていたはずだが、気付けば単なる独り言だった。その独り言に、レイコが応える。
「うん! 寝よう! ぐーすか!」
 どん、と音を立てて、レイコが久作の横に倒れこんできた。小さなベッドが軋む。久作とレイコとの距離は、一センチあっただろうか。香水だかシャンプーだかの香りがした。心臓がばくばくとやかましいが、それも仕方が無いだろう。リカちゃん軍団の一人。真っ赤なランブレッタ48、かぶかぶクリームソーダ、そんな加嶋玲子が隣で横になっていて、動揺しない人間などいやしない。
 レイコと背中合わせで、保健室のベッドで横になりつつ半ば硬直していた久作だったが、疲労のせいか、心臓はすぐに静かになり、思考速度も鈍り、開いていたはずの目が暗くなり、眠った。レイコが久作より先に寝息を立てていることをかろうじて察知したが、それが何なのかを考える暇もなく、久作は深い眠りに入った……。


『第七章~カウンターアタック』

 桜桃学園高等部1‐C、速河久作と加嶋玲子の抜けたそこでは、ちょっとした騒動がいくつかあった。
 同時刻、1‐Cとはかなり離れた廊下に、かつかつと軽快な音が、リズムを刻むように響いていた。ピンヒールで刻まれるそれは、硬質タイルをのんびりと弾いていた。時折、両手を突っ込んだ白衣をはためかせ、鼻歌などをもらしつつ、その女性教師は、男子生徒全員を釘付けにする脚線を無造作に前後させながら、自分の仕事場にして城である、保健室に到着し、自宅に入るような感覚で入り口をくぐった。
「ふぁ……眠い。教頭の長話、アレはどうにかならへんのかなー?」
 見事なまでの大あくび。桜桃ブレザーと同じ色の唇が開かれ、あくびと愚痴が同時に出る。薄くグロスを引いているその唇は、女子生徒の着るブレザーの桜色を更につややかにしたようで、キラキラと輝いている。その唇に、一本の煙草が放り込まれた。かちり、と音がして、あくびなのか溜息なのか、その両方なのかと一緒に、白い煙がすっと吐き出された。黒、いや、紺色を思わせる、背中を覆う髪。その頭頂部を指で無造作にガシガシとやって、白いわっかをいくつか作り出しつつ、白衣の女性教師は事務椅子をぎしりと軋ませた。あくびの次は伸びだった。
「アカンな、眠気が全然とれへん。ふぁー、ちょいと昼寝でもせんと放課後まで持たんな、コレは」
 白衣を脱ぎ捨て立ち上がる。白衣のネームプレートに「露草{つゆくさ}」と記されてあった。白衣と同じ真っ白な半そでシャツは、上から四つ目までのボタンが外されており、胸元が完全に露出していた。シルバーのシンプルなネックレスが首から下がっているが、おそらく男性陣の誰一人として、そのネックレスに視線がいくことはないだろう。下は黒いミニスカート、ではなく、更に短いマイクロスカートだった。先端に同じく黒いピンヒールがあったが、太もも付け根からくるぶしまでの鮮やかなラインが、マイクロスカートやピンヒールの存在を忘れさせ、そこそこ高価なブランド品である両方は、やはり男性陣からは無視されるだろう。
 メタルフレームの細長い眼鏡を指先で軽く上下させ、事務椅子の横で軽いストレッチを始めた。
 露草葵{つゆくさ・あおい}、年齢は二十六歳。性別は言うまでもなく、女性。煙草でわっかを作る保健室の主、その保健教師兼スクールカウンセラーの名前は、桜桃学園中等部から高等部、教員にまで知れ渡っている。その評判はというと、「憧れの女性ベストワン」、とてもシンプルだった。
 しかしながら、教員の間では、露草に対する評価は真っ二つに分かれていた。露草と同世代か少し上の教員、男女問わずでの彼女の評判は、非常に良い。スクールカウンセラーで保健体育の教員でもある露草は、同世代の教員の相談役だとか愚痴を聞く係だとか雑談の相手だとか、そういったポジションにあった。保健体育の教師である露草が数学や英語の教員の相談に乗れるのは、話題が学科に関してではなく、それを受ける生徒に関してだからであった。
 一方、露草葵よりかなり上の世代の教員や、教頭という連中の彼女に対する評価は、「不真面目」「ずぼら」「手抜き」「ふしだら」「無礼」その他あれやこれや。露草がそれらを殆ど気にしていないのは、それら全てが「図星」だからである。彼女の性格は、上の世代の教員連中が言う、まさにそれであり、反論の余地などないのだ。ゆえに露草は、時折聞かされる教頭だか年配の教員だかの小言を聞き、流していた。小言の間に必ずといっていいほど、露草の服装のことが出るのだが――内容は「多感な男子生徒の前で云々」――生徒でもないのに服装にまで文句を言われると、さすがの露草もいくらか反撃を試みることがあった。
「ウチは、私は単に蒸し暑いからこういう格好してるだけで、多感な生徒? そんなの知りませんて」
 正論が通じないのはどこの世界でも共通であり、軽い反撃を年配の理屈で潰されることを何度か繰り返した露草は、半ば諦めつつ、しかし閃いた。保健体育と理科・科学教師の特権、白衣をその身にまとったのだ。この作戦は見事に的中し、露草に対する年配の屁理屈は激減した。こういった経緯を経て、露草葵という保健室の住人が完成した。無論、保健室の外では、という意味であるが。
 軽いストレッチを終えた露草は、昼寝、まだ午前中だが、それをするために、二つあるベッドの一つのカーテンを引き、そこで止まった。
「なんや? 先客がおるやん。あー、そういや朝に1‐Cの男子がなんか言うとったな、あれか」
 メタルフレームを再び指で上下させる。どうやら癖らしい。
「しっかしまぁ、えーと、速河久作と加嶋玲子、やったかな? 二人してがっちりと抱き合って、ここはウチの部屋や、っちゅーに」
 そこが彼女の部屋かどうかは別として、露草はカーテンをゆっくりと閉じ、もう一つのベッドに向かい、ピンヒールを無造作に投げ捨ててから横になった。
「青春ど真ん中やな、ふぁっ、ま、ええわ。寝よ」
 メタルフレームを外し、手近のパイプ椅子の上に置いて、露草は昼寝に入った。二限目開始のチャイムが聞こえたが、速河久作、加嶋玲子、そして露草葵はそれには気付かず、寝息を立てていた。保健室の小さな窓、その外は今日も晴天であり、世界はどうだか知らないが、保健室はとても平和だった。

 平和な保健室に対して、1‐Cの一限と二限は、対極的であった。ことの発端は、方城とレイコが久作を保健室に運んでから後、一限目、数学だった。
 ミス桜桃学園の話が先にあったので、リカ、アヤ、方城、そして須賀は、その授業は上の空だった。それぞれがそれぞれなりにあれこれと、真面目に考え事をしていたのだが、その態度は、仲迫{なかさこ}という名の年配数学教師の勘にさわったらしい。仲迫教員は、年功序列だとか、そういった化石のような人間で、自分より年下の人間を見下している節があった。そこが桜桃学園という学校で、周囲が若い学生だらけだという当然のことにさえ、不快感を示している。何故、その仲迫という男性が教師などをやっているのか、そもそもそこが謎なのだが、残念ながら彼は数学の教師であり、その相手は桜桃学園高等部の生徒、子供であった。
 数学の仲迫教員の生徒間での評判は、すこぶる悪い、当たり前である。それでいて科目が生徒を苦しめる数学なので、評判の悪さは更に増す。中迫の、生徒を見下した態度と、それに対する生徒の評判、組み合わせでこれほど最悪なものはないだろう。そして、高等部1‐Cに話を絞ると、仲迫の標的は……。
「この公式を、そうだな、須賀、解いてみろ」
 そうだな、と仲迫は迷ったようなことを言ったが、最初から標的は須賀恭介と決まっていた。そして、教室が騒然となった。というのも、巨大なホワイトボードにずらずらと書かれた公式、図形などが、強烈に難解なものだったからである。高等部一年になってすぐ、まだ四月が終わるかどうかというこの時期には、およそ似つかわしくない、というより、ありえないレベルだった。数学が苦手な方城にしてみれば、ホワイトボードのそれは、まさしく暗号の塊であり、それを須賀恭介に解けと言い放った仲迫という数学教師に、リカは心底呆れた。
「参ったな、そんな難しい問題を俺なんかが解けるわけがないですよ、中迫先生」
 仲迫が、はん、と鼻を鳴らして喋ろうとしたが、それを無視して須賀は続けた。
「方城? フリースロー二本とスリーポイントが三本決まると、何点だ?」
 教室の中央から、入り口そばの方城に声が届く。距離があるので少し大きめの声だった。
「何? えー、フリースロー二本で二点。スリー三本で九点だから、そりゃ合計で十一点だ。何の話だ?」
 方城の問いには答えず、須賀は、仲迫の額を睨みつけて、口元をにやりとさせ、言った。
「十一です」
 十一、その数字に教室の生徒は誰一人として反応しなかった。が、一人だけそれに応えた。
「……せ、正解だ。な、なんだ、須賀。お前はその、なかなかに優秀じゃないか。テストでも、その、何だ、もう少しいい点を出せ」
 巨大なホワイトボードと、そこの難解な公式を背にした数学教師、仲迫は酷く狼狽していた。そこで一限目終了のチャイムが鳴り、仲迫は1‐Cから、須賀恭介から逃げるようにそそくさと立ち去った。チャイムが鳴り止まないうちに、教室中央に人だかりが出来た。須賀の机を、クラスメイトが取り囲んでいるのだ。
「おい、須賀! さっきの、何だあれ? スリーが三本って……」
「須賀くん! す、凄い!」
 方城とリカの言葉が重なる。二人より距離を置いたクラスメイトも似たようなことを言っていた。
「仲迫撃退だよね!?」だとか「須賀、すげーぜ! ざまあみろだな!」だとか。とりあえず、賞賛の類であるようだ。
「なあ、須賀恭介。さっきの公式ってさ、去年の大学入試の問題だろー?」
 アヤが、当然、という風に言った。
「さすがはアヤ君、その通りだ。あれは去年の、工科大学の入試問題の丸写しだ」
「え! じゃあ、須賀くんは、その入試問題をあの短時間で解いたってこと?」
 リカが呆然としている。方城もしかり。
「解いた? あんなもの、四則演算{しそくえんざん}ができれば誰にだって解かる、単純な問題、下らんパズルだ」
「方城護! 四則演算ってわかるか? わかってねーだろ? +、-、×、÷、この四つだぞ?」
 方城が呆けている、無理もない。
「そんな! それじゃあ小学生の算数じゃないの! さっきのは数学の、それも大学入試レベルの問題よ?」
 リカが驚いて声を上げたが、須賀はそれを小さく制する。
「算数と数学に本質的な違いなんてない。無論、受験算数と純粋数学は全く違うものだと言っていいが、高等部一年でも大学入試でもどちらでもいいが、ユークリッド幾何学だとか一般相対性理論だとかが登場するのは、そんなものの遥か先の話だ。仲迫といったか? あの数学教師が得意げに書きなぐった問題、あんなものは少し方程式を組みさえすれば、自動的に答えがでる、ごく単純なものだ。そうだろう、アヤ君?」
「須賀恭介の言うとおりだ。数学ってのは、本質的な概念なり定理なりを得て、いかに体系的に構築することがが重要で、数学的対照を記述するのに適した概念や空間を定義したり、数学的事象をうまく表現したり定理を得たりすることが主な仕事で――」
「ちょっと待てぇ!」
 アヤの言葉を、方城が叫んで止めた。
「須賀! アヤ! 日本語で喋ってくれ! 何を言ってるのか、さっぱり解からんぞ?」
「いやいや、方城護。日本語だってば。ねー、リカちゃん?」
 リカはぶんぶんと首を横に振った。
「日本語じゃあないわよ! アヤ、須賀くん。あなたたちって……何者?」
「リカ君、俺はごくごく普通の高等部一年生男子、須賀恭介だ。それ以外の何者でもない」
「あたしは、ご存知、エディ・アレックス使いのアヤちゃんだぞ? スーパー強いぜ!」
 リカ、続けて方城が椅子に落ちる。
「須賀、お前が数学が得意だってことはよーくわかった。いや! だから受験算数とかナントカ幾何学とか、そーいう話はもういいって! アレックス使いのアヤ? お前がスーパー強いのもわかった。わかったから、日本語で喋ろう。いやだから! 話聞けよ! 空間の定義とかそーいうんじゃなくって、日本語! 俺でもわかる内容って意味だよ!」
「方城くんに同意! 激しく同意! 高等部一年生になってまだ一ヶ月も経っていない、そんな私でもわかるような内容、それが私たちのいう日本語なの!」
 リカと方城は、それぞれ力説したが、それがアヤと須賀に届いたかどうかは定かではない。
「何だか知らんが趣旨は理解した。努力してみよう」
「りょーかーい!」
 両名から返事があった。どうやら伝わっていたらしい。リカと方城が安堵の溜息を同時に吐いた。
 それから十分ほど経過しただろうか。二限目開始のチャイムと同時に、仲迫よりかなり若い男性教員が姿を現した。英語Ⅱ担当の、脇田{わきた}という教師である。保健室の主、露草葵{つゆくさ・あおい}と同年代か、少し上、その辺りだ。
 この、脇田という教員の生徒間での評判は、微妙であった。まだ若く、容姿もほどほど。スポーツ関連の生徒に比べれば若干背が低いものの、その印象はそう悪くない。唯一の、そして致命的な要因は、その性格にあった。
 簡単にいえば、脇田という教員は、典型的なナルシストなのだ。
 授業の合間に、学生時代に世界各地を歩き回っただとか、住むのならマンハッタンよりもロスが快適だとか、カリフォルニアの空気は最高だったとか、そういった彼なりの自慢話をし出すのだ。英語に疎く、海外や旅行ということに興味を示す女子が1‐Cにもかなりいて、その女子と脇田との、授業とは全く無関係な雑談で終わることさえ、何度かあった。
 こういった接点を持ち、教師が生徒と仲良くなることは良いことではある。ただし、物事には限度というものがあり、それを過ぎている脇田の授業内容は、主に男子生徒にとって芳しくなかった。当然、それが英語Ⅱ教師、脇田という男の評判と直結する。
 女子と喋る云々は関係ないのだが、英語が苦手な方城にしてみれば、脇田という教師は天敵のようなもので、二限目、英語Ⅱが始まって五分もすると、方城は教科書に隠れるようにしつつ、ただただ時間が過ぎるのを待つのみだった。
 リカこと橋井利佳子は、英語に関してはそこそこだったので、授業自体には特に何も思うところはなかったのだが、脇田という男性教師のナルシストぶり、女子生徒とのお喋りには、心底ウンザリしていた。若干、潔癖の気があるリカにしてみれば、授業中に女子生徒に自慢話をするなどということは、およそ考えられないことだったからだ。授業なのだから教科書にしたがって何かを教えなさい、それが教師の仕事でしょう、英語Ⅱ脇田を見るたびにリカはそう思っていた。
「……じゃあ、この文章を、委員長の橋井さん? 訳して――」
「わかりません!」
 脇田の柔らかい口調に、リカが鋭く返した。およそリカらしくないその言動に、アヤが驚いていた。クラス委員である橋井利佳子のことをほどほどに知っているクラスメイトも同じで、教室がざわついた。
「おや? 橋井さん? どうしたんだ? 君は確か、英語の点数はかなり良かったはずじゃあないか? この英文を訳すくらい、ああ、なるほど!」
 脇田が芝居がかった様子で自分の頭に軽く手を当てる。
「そうかそうか、こういう書き方だとイギリス訛りになるのか。堅苦しい表現だから、難しく見えたんだね?」
 はははと笑い、脇田はホワイトボードの英文を少し書き直している。須賀敬介の右後ろに位置するアヤが、シャープペンシルで須賀の腕をつんつん、合図を送る。
「なあ、須賀恭介。あれのどこがイギリス訛りなんだ? ごくフツーのアメリカンだろう?」
 須賀は、さあ? とゼスチャーして見せた。須賀にとってこの授業はどうでもいいらしい。
 脇田が英文を書き換え、再びリカに「これでどうだろう?」と言ったのだが――。
「わかりません!」
 クラス全員が驚いた。脇田の科白をかき消すように、リカが鋭く同じ言葉を返したからである。リカの英語能力と学力はクラスの殆どが知っていた。ホワイトボードに書かれた英文はほんの二行、彼女にそれがわからないはずがない。英語Ⅱ教師、脇田の表情が若干曇る。対処に困っているのだ。しばらく考えた脇田は、「じゃあ」といって、教室入り口近くを見た。
「方城くん、これを訳してみてくれないかな?」
 教科書を盾にしていた方城の背中が跳ねる。リカのそれと同様に、方城の英語関係の学力もクラスメイトに知れ渡っていて、ホワイトボードに書かれた英文は、いきなりそのハードルを上げた。そもそもホワイトボードすら見ていなかった方城が、ぎこちなく立ち上がり、教科書を机に落としてその英文を見て、呆けた。

「While I am lying on the grass. Thy twofold shout I hear」

 ホワイトボードに並ぶ英文。それは、最初に脇田が書いたもの、ではなかった。リカの「わかりません!」の後に、脇田によって新たに書き加えられたものだった。それが、方城を硬直させている。
「なるほど、そう来るか……」
 須賀が険しくつぶやいた。
「えーと、アイ・アム……オン・ザ・グラス? グラスってコップの? えっと……」
 方城が必死に、ホワイトボードの英文と格闘し、かろうじてわかる単語を拾っている。と、脇田が笑った。
「はは! 方城くんは確か、バスケットボール部だったよね? かなりの腕前だと先生の間でも話題だよ。ゆくゆくは世界に飛び立つんじゃあないかって。バスケットは六人だったかな? チームプレイでコミュニケーションが取れなければ、いくら君の腕が凄くても、試合には勝てないんじゃないかい? 英語は世界共通言語だよ。バスケットボールで世界を目指すのなら、この程度は理解できなきゃあ駄目だよ」
 その「演説」は、方城を通して、1‐Cの主に女子連中に向けられたものだった。数人がなるほど、とうなずいている。しかし、苦手な英語と、人生を奉げているといっても過言ではないバスケを結びつけ、そして否定された方城は、頭が真っ白になっていた。棒立ちになり、口を少し開いたまま、ピクリともしない。須賀の眉間に皴{しわ}が入り、アヤが椅子から勢いよく立ち上がった。
「みどりなす草のうえに横たわって、二重のさけび声をわたしは聞く」
 誰かが言った。しかし須賀ではない。アヤでもない。須賀が視線を巡らせると、橋井利佳子、リカが立ち上がっていた。
「緑なす草の上に横たわって、二重の叫び声を私は聞く」
 リカが繰り返す。そして、脇田がリアクションを取るより先に続ける。
「ワーズワースの詩の一部ですよね? それ。私の英語の教科書にはワーズワースの詩は一編も掲載されていなんですけど、これってミスプリントなんですか?」
 英語Ⅱの教科書を持ち上げ、二度ほど振って、リカはそれを机に叩き付けた。ばしん! と大きな音がして、クラスメイト数名が体をびくりとさせる。クラス委員、リカに視線が集まる。視線だとかクラスメイトの反応だとかを一切無視して、リカは自分の席から離れ、脇田のいる教壇、その先のホワイトボードに向かった。
「先生、わからない英文があるんですけど、訳してもらえませんか? 私、英語は苦手なんです」
 早口でそういうと、手近の黒ペンを握り、リカが素早くホワイトボードに何やら書き出した。

「The path of the righteous man is beset on all sides with the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men.
Blessed is he who in the name of charity and good will shepherds the weak through the valley of darkness.
for he is truly his brother's keeper and the finder of lost children.
And I will strike down upon those with great vengeance and with furious anger those who attempt to poison and destroy my brothers.
And you will know that my name is the lord when I lay my vengeance upon thee.」

 黒い英文がずらりと並んだ。先のワーズワースの詩の一部とは全く違う、物凄い長文だ。ホワイトボードの半分ほどを占領している。書き終えたリカは、方城をちらりと見てから、脇田を睨み付けた。
「脇田先生、ロスで暮らしていたことがあったんですよね? こんなことも何度か言われたこと、あるんじゃあないですか? 私、英語はてんで苦手で、この英文をきちんと訳せないんです。意味、教えてもらえますか?」
 脇田が、リカと、リカによって書かれた長文を交互に見て、ぽかんとしている。言葉が出るまでに一分ほどかかった。
「……え? あ、ああ、ロスには数ヶ月……。こういったことを言われた覚えは……ちょ、ちょっとない、かな?」
「こういったこと? あの、これってどういう意味なんです? 英語って世界共通言語なんですよね? これが理解できないと私、日本から一歩も出られないですけど?」
「い、いや、これだけ書ければ充分に海外で――」
「コミュニケーションが取れないと試合には勝てない、でしたっけ? ですよね? 方城くんも困ってますし、私も困ります。ざっとでいいんで訳して下さい」
 須賀がにやりと微笑み、後方のアヤに言った。
「素晴らしい、リカ君のウルトラコンボだ。あの攻撃に対応できる奴が、桜桃学園にいるかい? アヤ君?」
 アヤが須賀と同じく、にやにやしながら応える。
「いるわけねーじゃん! あたしと須賀恭介、あと速河久作くらいじゃねーの? ひひひ!」
 リカの言葉が止まり、脇田は制止したまま。クラスが少しざわついてるが、脇田はそれには全く気付いていない。その額に汗が浮かんでいる。
「そ、そ、そうだね! コミュニケーションが取れないと、その、困るよね? えーと、あー、正確に……そう! 正確に訳さないと橋井さんは困るだろ! そうだろ! ちょっと長い文章だし、難しい表現も少しあるから、放課後、いや、数日後にきちんと訳して渡すよ! えーと……」
 英語Ⅱ教師、脇田は自分の手帳に、ホワイトボードの長文を必死の形相で書き写し始めた。かなり時間をようしてそれを終えた頃、二限目終了のチャムが鳴り響いた。脇田が大きな溜息を付いた。
「じゃ、じゃあこの続きはまた。ああ、もうすぐテストがあるから、その、忘れないように!」
 そんなことを言いつつ、脇田教師は1‐Cの入り口に走り、そして消えた。脇田が消え、チャイムの音に気付いたリカは、小さくうなずくと、自分の席ではなく、方城の机に向かった。須賀とアヤも駆け寄る。
「方城くん? 授業、終わったわよ? 座ったら?」
 リカが、優しくつぶやき、方城は、ああ! と声を上げてから座った、というより、落ちた。アヤがリカに飛んで抱きついた。
「ナイスコンボ! リカちゃーん! 脇田にフルコンボ炸裂ー!」
「え? 何?」
「リカ君、見事だ。ワーズワースに対してあの切り替えし、ああいうのを必殺技とか呼ぶんだろうな。なあ、方城?」
「……何? 必殺? ワーズ? フルコンボ?」
 方城は状況を理解できていないらしい、当たり前だが。方城は記憶を辿る。苦手な英語の授業が始まり、リカが何やら険しく喋り、脇田が自分を指名した。そこで脇田はバスケをするのならば英語は、と続けて――。
「さっきの奴、脇田とかいったか? 何だよあの教師! 何で俺がバスケやるのに英語が出てくるんだよ!」
 ようやく、方城に感情が戻った。
「世界がどうとか言ってたよな? っつかー、バスケは五人だよ! コミュニケーションが取れないと試合に勝てない? 当たり前じゃねーか! バスケってのはそういうもんなんだよ! 言われなくても知ってるよ、そんなこと! だからバスケ部は全員練習してんじゃねーか! ワーズナントカなんて、キャプテンからもマネージャーからも、誰からも聞いたことねーぞ? NBAの選手か誰かなのか?」
 何故かリカに向けて怒鳴っていた。
「ウィリアム・ワーズワース、昔のイギリスの詩人で、バスケットボールとは全く関係のない人よ」
 怒鳴られているリカは、くすりと笑って簡単に解説した。
「補足するならば――」
 須賀が続ける。
「脇田という英語教師の言っていたことも、方城、お前とは全くの無関係だ」
「……無関係? あいつ、脇田? バスケに英語がどうこうって――」
「それはだな、一種のカウンターだ、あいつなりのな」
 須賀の説明は方城にはピンとこなかった。須賀が説明を足す。
「簡単な話だ。まず、脇田という英語教師はリカ君に、そのご自慢の英語力を披露しようとした。しかしながらリカ君はそれに応じず、何というのか、そう、防御に徹した」
 うん、と方城がうなずく。
「リカ君の防御が完璧だったので、あの教師はプライドだかを損なわれた気分になり、それを晴らそうと、あえて英語が苦手な方城、お前を狙った。文面をワーズワースの詩に変えたのは、そうだな、奴が自分の知識を披露したかったからだろう。抜粋だが、方城に限らずあの英文を正確に訳すには、そこそこの英語力が必要だ。それを解かった上で、あの英語教師は方城にそれを向けた」
 状況が読めてきた方城が、リカとアヤ、そして須賀の顔を順番に見る。
「ここまでだったら話は単純だが、脇田という英語教師はそこで、バスケの話題を持ち出した。当然、お前がバスケ部のエースだと知った上でな。得意なバスケと苦手な英語を組み合わせた、卑怯極まりない攻撃だ。方城が立ち尽くすのは当たり前だ。おそらく他の奴でも同じだろう。そういった脇田と方城を見たリカ君は……アヤ君?」
 急に振られたアヤは一瞬止まったが、すぐに飛び跳ねた。
「リカちゃんのウルトラコンボ炸裂! 英語教師の脇田、秒殺!」
「そういうことだ」
 どういうことだ? 方城、そしてリカが尋ねる。途中まで話についていっていたリカだが、アヤの科白、つまり結論のところが見えなかった。方城も同じくである。
「……心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐の行いによって行く手を阻まれる。
 慈悲と善意の名において、弱き者を暗黒の谷から導く者は幸いである。
 なんとなれば、彼は真に同胞の保護者であり、迷い子の救済者であるから。
 我が兄弟を毒し滅ぼさんとする者に、我、怒りの罰をもて大いなる復仇を彼らに為さん。
 我、仇を彼らに復す時に、彼らは我こそ主なるを知るべし……」
 須賀がゆっくりと言い、ホワイトボードを指差した。
「ざっとだが、こんなところかな? リカ君?」
「……須賀くん! あれ、解かったの?」
「俺もいちおう、中等部で三年間、英語の授業を受けているんだ。大体の意味は解かるさ。まあ、細部はかなり間違っているかもしれんが――」
「間違ってる? 完璧じゃないの! 驚いた!」
 リカがホワイトボードと須賀の顔を交互に見る。
「驚いたのは俺だよ。能力はともかくとして、いち英語教師に対して、あれだけの挑発的文章を叩き付ける、リカ君は博打打ちかい?」
 一瞬止まり、言われたリカは、頬を火照らせた。
「あ! あれはその! ちょっと気分がイラついたというのか、何というのか……」
「あれー? リカちゃん、照れてるー? くくく! そんだけ方城護を守りたかったって、素直に言えよ、このー!」
 抱きついたままのアヤの科白にリカは顔を真っ赤にして、視線をホワイトボードの英文と方城の顔に素早く左右させた。まさしく図星だったようで、およそリカらしくなく動揺している。
「俺を守る? リカが? あのさ、また話についていけなくなってきてる気がするんだが――」
「そういう意味じゃないのよ! ただ! 脇田先生が方城くんのバスケットボールを土足で踏みつけたみたいで、それで!」
「それであの英語教師を秒殺してやったと、そういうことだ、方城。リカ君に感謝しろ。まだ礼の一つも出ていないぞ?」
 大体把握した、つまり細部は把握していない方城だったが、須賀とアヤの説明で、自分がリカに助けられたらしいと気付いた。
「えっと……いまいちよくわかんねーんだけど、リカ、ありがとな」
「いいのよ! 私が勝手に、自分の都合というのか気分というのか、それでやっただけだから!」
 軽く頭を下げる方城に対して、リカは慌てふためいていた。リカが次にどう言葉を発すればいいのか迷っているうちに、チャイムが鳴った。昼休み、昼食時間だと告げるそれが、リカの頭の中で響いていた。
「ランチターイム! 今日のおべんとは何が入ってるっかなー!」
 アヤが駆け出し、須賀が「もうそんな時間か」とつぶやきつつ自分の机に向かい、リカもくるりと反転した。状況が未だに飲み込めていない方城は、呆けたままゆっくりと弁当を持ち出しつつ、少し考える。
「よくわかんないんだが、リカ、ありがとうな?」
 礼をしておけと言われた方城がもう一度言い、反転したリカが飛び跳ねそうになった。

「ほーひへや……そういえば、速河久作、大丈夫かー?」
 口にミートボールをほおばったまま、アヤが言った。
「レイコが一緒だし、保健室なんだから大丈夫でしょう?」
 方城が、ああ! と声を出した。今朝の久作の様子を思い出したようである。
「昼食を済ませたら、保健室? どこだか知らんが、そこに向かおう。速河と話もあるしな」
「須賀くん、保健室の場所知らないの?」
 リカが少し驚いて言う。
「用事のない場所の位置までは、さすがに頭に入っていない。俺が保健室にいる姿なんて、想像できやしない」
「転んで怪我でもしたら、須賀くんでも保健室に行くでしょうに。まあ、そこに行くんだから、しっかりとその頭に入れておきなさいよ?」
 リカが久しぶりに委員長らしく言った。
「保健室っていや、確か、高等部の保健の先生って、凄い美人らしいな? チームの奴がそんなこといってたよ」
「葵{あおい}ちゃんはスゲー美人さんだぞ! でもって、スゲーエロエロだぜー? いひひ!」
 須賀は、アヤの情報網に感心したが、保健教師の姿までは思い描けなかった。まあ、かなりの容姿なのだろう、そんな程度だった。一同は昼食を済ませ、数学と英語Ⅱの授業のことや、両教師のことなどを喋りつつ廊下を歩き、「保健室」と書かれた場所に到着した。
「失礼しま――」
「葵ちゃーん! おじゃましまーす! ……ってををををいい!」
 リカとアヤが先にその狭い保健室に入り、アヤが絶叫した。保健室奥のベッドに仰向けになって、頭が床に当たりそうな格好になっている露草葵。両手がだらしなく床に落ちて、胸元がはだけている。手前のベッドでは、速河久作と加嶋玲子ががっちりと抱き合ったまま、小さな寝息を立てていた。
「な、なんだこりゃ?」
「……頭痛がしてきた。速河とレイコ君からの、強烈なカウンターアタックだ」
 つぶやく二人と、放心する二人。保健室の小さな窓の外は今日も晴天。飛行機雲が薄く筋を引いている。


『第八章~シミュレートA』

 空冷4ストロークのシリンダーヘッドカバーが大声で唸っている。法定速度を完全に無視したホンダXL50Sを、国産スクータが取り囲んでいた。どうにか振り切ろうと更にアクセルを開けるが、距離は逆に縮まる。黒いフルフェイスの一人が「死ね」と叫びつつ、鉄パイプを振り上げた。
「さあ、どうする! 速河久作!」
 自分に向けて怒鳴り、久作は鋭い視線を放った。が、眼光の先に鉄パイプはなく、スクータ軍団もいなかった。
「あ、あれ?」
 間の抜けた声を出して、辺りを見回す。そこは荒廃した市街地、ではなかった。何やら狭苦しい部屋に、よく知った顔が並んでいる。
「……方城? 須賀?」
 身を乗り出そうとしたが、体が動かなかった。右腕も腰もピクリともしない。かろうじて、左手と頭だけが自由だった。
「速河、とりあえず目を覚ましてくれ。でないと話が一ミリも進まない」
「お前さあ、それって、はっきりいって、物凄い羨ましい状態なんじゃねーか?」
 須賀、方城が言った。深呼吸を一つ、持ち前の冷静さが戻った。改めて周囲を見渡す。ここは、保健室か。体力を消耗していたのでここに運び込まれ、眠った。そう、今朝、歩くことさえできない状態だったから、ここに方城に運ばれたのだ。早朝、駐輪場から校舎まで、レイコに運ばれた。校舎から教室までは、レイコとリカに引きづられた。そして、保健委員のレイコと一緒に保健室に預けられ、眠り――。
「夢、か?」
「夢? そうだな、まるで夢みたいな状態だよ、それは」
 呆れるように方城が応える。
「状態? 随分と眠ったはずなんだけど、体がまだ動かないみたい……で!」
 久作の語尾が叫びに変わった。右腕に黒いロングヘアの女性がしがみついている、がっしりと。視線を落とすと、少しはねた栗色の髪があった。タックルされたような格好で腰を掴まれている。背中に柔らかく、それでいて強い感触があった。こちらは胸元辺りに両腕を回して、栗色の髪と同じく、背後からタックルされているような状態だ。なるほど、どうりで体が動かないわけだ。状況が解かり冷静さが戻る……ことはなかった。
「リ、リカさん? レイコさん! 後ろは! アヤちゃんだろ? そうだろ! 須賀! 何だこれ?」
「それはこちらの科白だ、速河。お前のプライベートに首を入れるような趣味は俺にはないが、それでも状況の説明が欲しい」
「これっていったな! 速河久作! うりゃー! 背面サバ折りだー!」
 須賀と、アヤであろう声が重なる。背後から回された腕に力が入り、あの柔らかい感触が増す。
「ほーんと、失礼な話よ。レイコ? そろそろ起きなさいってば」
 右腕は、リカだ。しかし、科白と行動が伴っていない。どうして彼女が右腕にしがみついている? レイコ?
「リカちゃん? ふぁーい。んー、起きたー、かなー?」
 あくびと生返事でレイコが返答するが、両足に全体重を乗せて腰をがっちりと握ったままなので、体が自由にならない。とりあえず危険ではなさそうだが、いや、危険だろうか? 解からない。
「あのさ、あっちのあれ、名前知らねーけど先生か? あれもどうにかしたほうがいいんじゃねーか? さすがにあのままってのはマズいだろ?」
 方城が、保健室の、久作の座る隣のベッドを指差す。誰かが倒れていた。女性か? 気絶しているのか? しかし、方城の口調にそういった雰囲気はない。
「確かに、とりあえずあちらにも目覚めてもらいたい、方城、任せる」
 須賀が面倒そうに言った。
「あ、あのさ、リカさん? レイコさん? 後ろは、アヤちゃん? その、身動きが取れない、放してもらえないかな?」
 ぎくしゃくと久作は訴えたが、返答はというと。
「ダメね、まだ許してあげない」
「速河久作ー! とどめだぁー! うりゃー!」
「ふぁぁーー」
 見事に却下された。
「許すって? 何? 僕はたぶん何もしてない! 須賀! そうだろ?」
 パイプ椅子に腰掛け、浅い溜息を漏らしている須賀に助けを求めた。
「何をしたかしていないか、そんなことは知らん。そういったことは当事者に聞くのが筋だ、速河」
「おい、こっち、起きたみたいだぞ?」
 須賀と方城がほぼ同時に言った直後、ごん、と鈍い音がした。
「あいたっ! なんや? ウチの安眠を妨げるとは、ふぁっ……」
 少し低めの女性の声が聞こえた。語尾から察するに、どうやらあちらも寝覚めのようである。見ると、やたらと露出の激しい女性が床に落ちていた。
「メガネ、どこや? あんた、よう見えへんけど、そこの男子。ウチのメガネ、知らんか?」
 問われているのは方城らしい。方城がそのメガネとやらを探して辺りを見回し、見つけ、その女性に手渡す。ようやく視界の戻ったその人物は、再び大きなあくびを一つ、ゆっくりと床から立ち上がり、二歩ほど進んでから、そこ、保健室を見渡した。
「なんや? アンタら、ウチの部屋で何やってんねん?」
 ……部屋? 確かここは保健室ではなかったか? また久作の思考が乱れる。その女性、おそらく教師であろうその女性は若干憤慨{ふんがい}したような口調だった。もしかすると、寝ぼけて何かをやらかしてしまったのか?
「露草先生、私たちは今、速河くんをこらしめてるんです」
「葵ちゃん! 速河久作が抜け駆けのエロエロだ!」
「ふぁーー、おはよーございまーす」
 リカちゃん軍団が、その、露草とかいう女性教師に説明、らしき言葉をかける。当然、久作にはさっぱり意味不明なのだが。ふらふらしつつ事務椅子にたどり着いた露草が、何度目かの大あくびをして、紺色の髪を軽くほぐし、口に煙草をくわえた。大きな伸びをしつつ、天井に向けて白い煙を吹き上げ、それでどうやら目覚めたようだった。そして、言う。
「そらアカンな。アヤ、橋井、えーと加嶋か、……とどめさせ!」
 はい? と、右腕がひねられ、背後から背骨を逆方向にそらされ、みぞおち辺りに頭突きが入った。
「お、おい! 待ってくれー!」
 久作の悲鳴が狭い保健室に響き渡った。
「す、すげーな、リカちゃん軍団。速河、大丈夫なのか?」
「あのまま死んでも本望だろう、知らんがな」
 方城と須賀の声が聞こえた、ような気がした。からからと笑い声がした。露草とかいう女性教師のものだろう。保健室? 柔道か何かの道場の間違いじゃないのか? かろうじて残った思考で、久作はそう思った。

「さて……」
 いつの間にか保健室奥のベッドに腰掛けた須賀が、全員に聞こえるように言った。
「いくつか重要な話がある。リカ君、速河を許せとは言わんが、そいつに今の状況に至った経緯を説明してやってくれ」
 久作の右腕に抱きついたリカが「そうね」と言い、ひねりあげられた腕から痛みが少し和らいだ。
「今日の一限と二限、数学と英語Ⅱだったんだけれど、大変だったのよ? 数学の仲迫先生、ほら、あの人。何したと思う?」
 仲迫、確かそんな名前の教師がいた、かすかではあるが記憶にある。何かとは、手でも出したのだろうか。
「大学入試の問題! それも工科大学レベルの。それを、須賀くんに解けっていったのよ!」
「工科大学の入試問題? そんなもの、須賀なら簡単だろう?」
 当たり前のように久作は返した。須賀の頭脳ならば、その程度は問題にすらならない、そう思ったからである。
「速河くんも同じように言うの? あのね! 私たちはまだ高等部一年になったばかりなのよ! そんな問題、解けるわけがないじゃない!」
「え? ああ、そうか。でも、そのナントカっていう数学教師はそうしたんだろ?」
 復唱するように言った。リカの説明が正しいのなら、間違いは一切ないはずだ。
「普通は解けないような難しい公式! 須賀くんだから解けたの! 私や他のクラスメイトだったら絶対に無理なのよ! そういうことを仲迫先生はやったの!」
 口調が荒い、若干興奮しているようだ。工科大学入試レベルの問題を、須賀に向けた?
「仲迫先生? その人って、何がしたかったんだ?」
「須賀くんが気に入らなかったのよ! ずっと! だから物凄く難しい問題で、須賀くんをやっつけたかったの!」
 なるほど。そういうことか。仲迫なる教師がどのような人物かは知らないが、教師にしてみれば、須賀のような生徒はかなりの厄介者だ。実際はできることをあえてやらず、テストだとか成績だとかに無頓着。にも関わらず、いかにも出来そうな雰囲気や言動。仲迫という教師に限らず、須賀は厄介者であり変人だ。どう接すればいいのか、まずそこから解からないだろう。
「よーく解かったよ。ちなみに、須賀はその難問だとかは、当然解いたんだろ?」
「難問でも何でもない。十秒かそこらで解ける、簡単な、小学生レベルのものだ」
「仲迫先生? その人が難しい問題を出して、須賀が答えた。リカさん、別に大したことじゃあないんじゃないの?」
 久作は思ったことをそのまま言った。どれほどの難問だったかは知らないが、とにかくそれは解かれ、事態は収束した、そう思ったからである。しかし、リカの反応は少し違った。
「それは! たまたま、いえ、たぶんわざとでしょうけど、須賀くんだったから! もし私だったら、泣き出してても全然不思議じゃあないのよ!」
「まあ、そんなことが一限目の数学であったんだ。俺がどうとか、それはいい。次に進もう、リカ君」
 興奮したリカをなだめるように、須賀が柔らかく、静かに言った。
「二限目はねー、英語Ⅱだ! センセーはあの脇田! ベラベラうるせーあいつ!」
 背後のアヤが切り出した。
「脇田先生? まあいいや、またそこで難問でも?」
「こちらは少々、事情が複雑でな。まず――」
「脇田先生、方城くんにワーズワースを翻訳しろって、そういったのよ!」
 リカが半ば強引に入ってきた。リカの様子が明らかにおかしい。
「ワーズワースって、あの詩人の? 英語Ⅱで何でワーズワースが出てくるんだ? 変じゃないか。ワーズワースと英語Ⅱ? 何だ?」
 背後のアヤが彼女なりに説明した。
「ベラベラ脇田がさ、リカちゃんに無視られて、それに頭きて、方城護にワーズワースを翻訳しろって、そーいったんだよ」
 リカが無視して、だから方城? そこにワーズワース? 何だか妙な話だ。
「方城は英語、あんまり得意じゃないよな? 方城って、その脇田とかいう教師に恨まれるようなことでもしたのか?」
「英語は世界共通言語だから、バスケットをするならワーズワースくらいは翻訳しろ……」
 リカが静かに言った。何だ? 久作は声に出した。
「何だそれ? そこでどうしてバスケの話が出る? 世界共通言語? だったらワーズワースが出てくるのは妙だろう? ワーズワースは確か、イギリスの詩人だろう? 翻訳本は山ほど出てるけど、英語の授業とは関係ないじゃないか?」
「だから! リカちゃんのチョーウルトラコンボ炸裂で、脇田秒殺! なあ、須賀恭介?」
「リカ君が脇田に叩き付けたのは、この文章だ」
 アヤの振りに、須賀がノートの一枚を差し出した。びっしりと英文が記されてあった。久作はそれを素早く読む。
「心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐の行いによって……これを、脇田? 英語教師にリカさんが?」
 強烈な文面に、久作は驚いた。
「リカさん、これは、何というのか、少しやり過ぎじゃあないかい?」
「わ、私だって、怒ったり泣いたりすることはあるわよ! 脇田先生が方城くんのバスケをバカにしたようだったから、頭にきて、思わずカッとなって、その……そういうことなの!」
「まあ、つまり――」
 リカの戸惑いを継ぐように、須賀が喋る。
「こういったことがあったんだ。速河、お前がここで眠っている最中にな。お前と話しておきたことがいくつかあったし、皆にも伝えておきたいことがあったから、こうして全員がここにいるわけだが、肝心のお前は、ぐっすりと眠っていた……」
「レーコとラブラブでなー!」
 アヤの一言で、事態がかなり読めた。
「だいたいのことは把握した、と思う。でも、リカさんとアヤちゃんが僕を羽交い絞めにしている、そこが――」
「こっちが大騒ぎだったのに! 速河くんはレイコと抱き合って! べ、別にレイコと速河くんが付き合っててもいいんだけど、でも! そういうのを見せられたら、こ、困るじゃないの!」
 リカが説明していたが、要点がつかめない。
「リカさん! 呼び方が変わっただけで付き合ってるってことにはならないよね? で、手を引っ張ってもらっても、それも付き合ってるとかにはならない。保健室のベッドで寝て、その、レイコさんと、そういうつもりは全くなかったんだけど、抱き合ってても、それは付き合ってるとかそういうことには――」
「ならないって? 速河くん、だったら、どういう風にしたら、ある男女が付き合ってるように見えるようになるの?」
「どういう? って、それは、その……」
 久作の思考がぴたりと止まった。何も浮かんでこない。完全にエンストしている。
「こんな風にされて――」
 未だに久作の右腕を捉えたままのリカの両腕に力が入る。二の腕に柔らかな感触が押し付けられる。
「――僕たち、友達だよねって? そんな話、聞いたことないわよ!」
「くらえ! 友達潰しのエディ・ハグハグー!」
 背中のアヤが叫び、ぎゅうと久作を締め上げる。膝の上のレイコが何も仕掛けてこなかったのが唯一の救いだった。
「お前はただ眠っていただけでのつもりで、しかしリカ君とアヤ君の逆鱗に触れた、まあ、そんなところだ、速河」
 須賀が、かなり強引に結論を出した。話を進めたかったのだろう。仕切りカーテンを開いて、奥のベッドに腰掛けた。同じベッドの端、久作に近い位置で横になる方城。その隣の入り口側ベッドに、久作と、リカちゃん軍団全員がいる。須賀がそこに座ったのは、全員に向けて喋れる位置だからだろう。
「さて、今朝の話に戻るんだが、例の、ミス桜桃学園、あれだがな。と、その前に……」
 ゆっくりと語りだした須賀だったが、すぐに途中で言葉を切り、久作たちとは別の方向に視線をやった。二つのベッドから三歩ほどの位置に事務椅子と小さな机があり、白いわっかがぷかぷかと浮かんでいた。白衣をまとった、露草とかいう女性教師だ。須賀の視線に気付いたらしく、煙草を小さな灰皿に置き、首をぽきりと鳴らした。
「なんや? 須賀? ウチがどないかしたか?」
 小さなあくびと大きな伸び。事務椅子がぎしりと唸る。
「露草、先生でしたか? これからの話は俺たち生徒にはかなり重要な話なんですけど、できればまだ、教師……先生方の耳には入れたくないんです。無理にとはいいませんが――」
「ははは! 1‐Cの須賀恭介やったな? なんや知らんけど、それは大丈夫や」
 須賀の押し殺した口調とは正反対に、露草は大声で笑って言った。
「ウチは貝殻のような、かったい口してるで? 何の話するんか知らんけど、スクールカウンセラーとか保健教師には守秘義務ゆうんがあるんや。ていうかな、そもそもウチの話なんて、センセのだーれもまともに聞かへん!」
 半ば笑うように、大声で露草は言った。スクールカウンセラーや保健教師に守秘義務があるにしても、だから誰も話を聞かないとは、どうやらこの露草という女性教師は少々、いや、かなり変わった類の人種らしい。そもそも、保健室で煙草を吸っている時点でおかしいのだが。方城から後で聞いたのだが、胸元をはだけさせベッドで寝ていたり、保健室を自分の部屋だと言ったり、なにもかも型破りである。
 須賀が、その露草――確かアヤが「葵{あおい}ちゃん」と呼んでいたので、露草葵{つゆくさ・あおい}という名前なのだろう――この教師は懸念要因でないと判断したらしく、再び喋りだした。
「ありがとうございます、露草先生。では、本題のミス桜桃学園だ。少しおさらいになるが、ミス桜桃学園という行事の危険性は、まず、立候補からの選抜ではなく他薦ノミネートであること。次に生徒主催なので管理者がいないという点だ。最後が、ミスだとかに全く興味のない女性が、下らん連中に囲まれて、何かしら事故なりが発生する可能性が極めて大きい、ということだ」
 久作の右腕が強く握られる。リカが須賀の説明に反応したらしい。
「昨晩、全員にメールを送ってから今朝までに、俺なりにその対処法を幾つか考えてみたんだが……」
 ここだ、久作は思った。ようやく本題に入った。須賀のメール、ミス桜桃学園に対する須賀の見解は既に聞いた。肝心なのはここから先だ。
「三パターンほど戦略を練ってみた。まあ、どれも机上の空論、あくまでシミュレーションで、現実的かどうかは怪しいものなんだが、あまりに不確定要素が多いので、その辺りは勘弁してくれ。仮に、シミュレートAとでも呼ぶか。三つのうちで一番、現実味のありそうなもの……」
 そこで言葉を切り、須賀は深く深呼吸をした。全員の息が止まっている。
「シミュレートAは……ミス桜桃学園潰しだ」
 背後から回された手が久作の胸元を締め上げた、アヤだ。何だ? その単語の発する危険な匂いは? 久作の鋭い視線に気付いたのか、須賀が続ける。
「シミュレートAはごくシンプルだ。具体的に言うと、まず、ミス桜桃の実行委員なりを探し出す。そして、俺がミス桜桃という行事には反対だと攻め立て、そこで事件を起こす。事件、相手が手を出してくれれば御の字だ。暴力沙汰にでもなれば、学園は大騒ぎとなり、ミス桜桃なんていうお遊びをやるどころではなくなる。当然、学園の教員連中も動き出す。事件をどう処理するのか、それで学園上層部は大慌てとなり、結果、ミス桜桃学園は綺麗さっぱり消えてなくなる……」
 結論部分、ミス桜桃学園が消えてなくなる、ここには何ら反論はない。それがもっとも良いからだ。しかし――。
「す、須賀くん! そんなの滅茶苦茶じゃないの!」
 リカが叫び、右腕が解放された。急いでローファーを履いたリカが、須賀に迫る。
「暴力沙汰? それでミス桜桃が消えるって? 須賀くんはどうするのよ!」
 そうだ。結論は確かに正しいが、方法が無茶だ。久作は須賀を意識して睨み付けた。
「だからだ。このシミュレートAの場合、仮に実現したとしたらだが、下らん迷惑をこうむるのは俺だけで済む。方城にも速河にも全く影響が出ない。ちょっとした騒動を起こした俺一人が、停学だとか退学だとか、その程度で済む。シンプルでいて効果的で、しかも被害は最小限で――」
「下らん迷惑? 俺だけで済む? 須賀くん! あなた、自分を何だと思ってるの!」
 どしりと音がした。須賀の目の前、ベッドにリカが座り込んだのだ。
「須賀くんが停学してミス桜桃が消えてなくなる? 肝心のあなたが消えてなくなってるじゃないの!」
「いや、リカ君、さっきも言ったが、俺一人の動きだけで、ミス桜桃学園という大規模行事が消えるのなら、これほど合理的な作戦はないと……リカ君?」
 須賀の言葉が止まった。須賀の前、ベッドに上がったリカの肩が、小さく、ゆっくりと揺れている。
「……リカ君が暴力の類に反対なのはよく解かる、俺も同じくだからだ。しかし、だからといって泣くことはない。暴力沙汰といっても、俺は別に木刀や何かで殴りこむつもりなど微塵もない。単に軽いもみ合いにでもなれば、高等部生徒ならばそれで立派な暴力沙汰だ、その程度だ。さっきは退学といったが、そこまでの処罰にはならないだろう。停学、二週間ほどの休養をもらえたと思えば――」
 ばん! と大きな音がした。リカが、須賀の太股辺りを平手打ちをしたのだ。
「須賀くんは凄く頭がいいから、仲迫先生のあの問題も簡単に解ける……」
 背中しか見えないが、リカが泣いているのは明らかだった。
「今度のミス桜桃が危ないって、それも解かってて、だからナントカAって言って、ミス桜桃を台無しにしようとしてて……だから停学? どういう方程式なのよ! 私は須賀くんみたいに頭よくないけど、それが間違ってるって解かるわよ!」
 リカの平手打ちの音が数度、その叫びと共に保健室に響き渡る。
「最初に言ったが、これはあくまで机上の空論で、現時的かどうかは――」
「違うんじゃねーか? 須賀?」
 押し殺した声、ベッドに横になったままの方城だった。その科白は天井と、須賀に向けられている
「1‐Cって確か、三十五人くらいだったよな? AからEまでクラスがあって、高等部が一年から三年。でもって中等部。合計すると何人だ?」
「それは、千五十人だが、方城、何の話だ? 今は――」
「千五十人対一人? お前はアヤの言ってた、ナントカっていう拳法の達人だったのか?」
 ゆっくりと方城が起き上がり、続ける。
「とりあえず目の前を見ろよ、誰がいる? きちんと見えるか? 須賀?」
 言葉尻に若干の棘があった。言われた須賀は、真正面でうつむいてる、泣いているリカを見る。が、すぐに方城に視線を戻す。
「リカ君だ、言われなくとも解かって――」
「ほら見ろ! 全然解かってねーよ、お前!」
 須賀の科白を方城が強くかき消した。
「頭いいくせに、肝心なことが見えてない。昔からだが、須賀、お前の悪い癖だ。そこにいるのはリカ君じゃなくて、泣いてるリカちゃんだ。何で泣いてるのか、それも全く解かってねーだろ? お前が滅茶苦茶なことを言ってるからだよ。何がシミュレートAだ、毎度の冗談にしちゃ、やり過ぎだ。千五十人だったか? その前にやることがあるんじゃねーのか? 目の前の一人にさ」
 須賀に向けて、まるで説き伏せるように方城が言った。須賀がおよそ彼らしくなく、呆けている。方城とリカに視線を交互させ、しかし言葉が出ない。
「先週だったか、とりあえずのポジション決めのためにチーム内対抗の練習試合があったんだ。一年のレギュラー候補と、二年と三年の合同チームとな」
 無言の須賀を無視して、方城は続けた。
「一年の今のレギュラー陣は、まあそこそこなんだが、相手が二年三年の合同だからな、こてんぱんだ。その試合の時にな、ちょっとがんばり過ぎて、左足がつったんだ。俺が交代で抜けると一年チームは全く歯が立たなくなる、オフェンスが弱いんだよ、今の一年メンバーは。ガンガンに点を取られてる時間帯でディフェンスに回ったら、もう試合になんねー。だから俺は、交代せずに、つったままの足でコートに残った。
 自分じゃ隠してたつもりだったが、バレバレだったみたいでな、キャプテンにもマネージャーにも交代しろって言われたよ。単なる練習試合だ、別に交代してもいい、少しだけそう思ったんだが、残りの四人と交代メンバーの一人、全員一年だけど、こいつらはどうなる? みんなレギュラーになりたがってる、当たり前だ。バスケやってて、ベンチ要員でいいなんて思ってる奴は一人だっていねーよ。点では負けてても、いいプレイを見せりゃ、一年でレギュラー入りすることだって出来る。
 バスケ部にとっちゃそれは単なる練習だが、なりたての一年にしてみりゃ、インターハイレベルに大事な試合だ。別に自慢したいんじゃねーが、そんな試合で俺が五分でも抜けたらどうなるか、一年全員がわかってた。だから、一年四人が俺のとこにきて「立ってるだけでいいから、もう少しだけ頼む」そんなことを言われた。そこまで言われて、足がつったなんて知るか!
 全開のドライヴで切り込んで、キラーパスのオンパレードだ。山ほどフェイクを入れてやって、シューティングガードにボール回して、連続スリー。二・三年チームのパスを全部スティールしてやって、ポイントガードに渡した。
 そしたらだ、センターとそのポイントガードの二人が、アリウープを決めた! 二年も三年も、キャプテンもマネージャーも、全員度肝を抜かれたみてーになって大騒ぎだ! ……あれ? 俺、何、喋ってんだ?」
 方城の熱弁は唐突に終わった。全員が聞き入っていたのだが、そうだと方城が気付くのに少し時間がかかった。須賀の表情にいつもの知性が戻り、リカがくすりと笑い、アヤがベッドから飛んだ。背後からの羽交い絞めが解けたので、久作は大きく伸びをして、こわばった関節をほぐす。どすん、と音がした。アヤが方城のマウントポジションを取っていた。
「ストイックなバスケバカの方城護! お前、カッコイイぞ!」
 そこで何故、右ストレートが方城に向けられたのかは定かではないが、ギリギリでそれをかわした方城が、何事かをアヤに怒鳴っていた。
「方城くん、凄いのねー?」
 未だ膝の上に寝転んだままのレイコが下からささやく。体に自由が戻った久作は、そっとレイコの肩に手をやり、ゆっくりと、慎重にレイコを膝の上から隣に運んだ。
「須賀!」
 少し大き目に、久作は言った。
「今、大事な用件は、リカさんだ、違うかい?」
 リカが振り向いてうなずき、言われた須賀は、一瞬考える。
「そうか……そうだな。リカ君、さっきのシミュレートA、あの話は忘れてくれ。どうやら俺は寝ぼけていたらしい。机上の空論だ、全く現実味のない――」
 言いかけた須賀に、リカが素早く抱きついた。
「そう! 須賀くん! それが正解!」
「リ、リカ君? ちょっと待ってくれ! その、何だ、俺はこういったことは苦手で……」
「あらそう? 須賀くんの弱点、発見ね? 相対性理論だとかで、どうにかしてみたら?」
 からかい口調、ようやく普段のリカに戻ったようだ。
「くらえー! エディ・エルボー!」
「ゴフッ! お、お前! 今の、マジで入ったぞ! 中国拳法にエルボーあんのかよ!」
 両手を天井に向けて、久作は大きく伸びをした。小さなあくびを一つ、思った。これでいいんだと。気付くと、保健室の主、露草葵教員と目が合った。メタルフレームの奥に、ゾッとするほど鋭い、魔女か何かを連想させる目があったが、敵意や不快感などは感じ取れない。横長のメタルフレームをその細い指で上下させ、くわえた煙草を灰皿にごしごしと押し付け、こちらもあくびを一つ。白衣からやたらと艶かしい足が突き出ている。
「1‐C、速河久作やったっけ? あんたと、須賀恭介と、えーと、方城護か。なんやよーわからんけど……気に入ったわ!」
 ははは、と大声で露草は笑い、足を組み替え、再び煙草をくわえた。チャイムの音が聞こえた。どうやら昼休みは終わったらしい。三限目が何なのかは覚えていないが、今は授業などどうでもいい、久作は思った。
 どこにともなく視線をめぐらせていた久作と、保健室隅の骨格標本の目が合った。いや、骨格標本に目はないのだが。その、彼だか彼女だかは、分厚い皮のレプリカジャケットを羽織っていた。トリコロールカラーの胸元に小さく「fast」とある。
「あの、露草、先生? 先生は桜桃までNS500で通ってるんですか?」
「んん? いや、ウチはラベルダやけど? おー、そいつな、ガイコツのフレディ・スペンサー君いうねん、よろしゅーな!」
 久作は眩暈{めまい}を感じて、ベッドに倒れた。誰かが久作に声をかけたようだったが、久作は「ありえない」と繰り返すだけだった。


『第九章~スターティンググリッド』

「おーい、生徒諸君。チャイム鳴っとるでー。お仕事の時間や、って今日は土曜日やんか」
 煙草をくわえたままの露草が、かろうじて教師らしく言った。
「世界史に用事はない。俺はここでもうしばらく休むことにするから、みんなは教室に戻ってくれ」
 須賀がダルそうに、しかし優しく言う。
「僕ももう少し休憩するよ。フレディ君と話がしたいし、まだ体が本調子じゃないから」
「だったら俺も――」
「アカンアカン。アンタら、全員で授業サボる気やろ? 別にかまへんけど……いやいや、いちおうウチもセンセやからな、かまへんことはない。六人も同時にサボられたら、また教頭に文句言われんのはウチなんやで?」
 渋る方城をハエでも追い払うようにして、彼を筆頭に、リカ、アヤ、レイコは保健室から追い出された。保健室に静寂が戻る。
「速河、仕切り直しだ。客観性や第三者意見は重要だが、基礎理論の部分は少人数のほうがいい、持論だがな。まず、そうだな……露草先生」
「なんや? ウチかいな? 速河と違うんかい?」
「先生です。今度のミス桜桃学園という行事、率直なところ、どう思われますか?」
 須賀の科白に久作は慌てて上体を起こした。思えば、肝心な話が殆ど進んでいない。
「ミス桜桃て、あのミス桜桃か?」
「そのミス桜桃です」
 露草はのんびりと喋っているが、須賀は素早く返す。
「どう思う言われてもなー。ウチは生徒ちゃう、センセや。ミス桜桃は生徒のお祭りやから、あー、そういえば須賀恭介。アンタ、なんや物騒なこと言うとったな? 暴力沙汰やとか停学やとか、ミス桜桃潰しやとか……」
 相変わらずのんびりの口調だが、どこか光るものを久作は感じた。この露草という教師は、保健体育の教員としては型破りではあるが、どこか他の教師とは違うものがある、そんな気がした。そもそも見た目から、他の教師とは全くの別次元なのだが、久作が感じたのはその容姿ではなく、言葉、科白だ。
「アンタがなんや物騒なこと言うて、橋井が泣いて、ミス桜桃いうんは危ないて……うーん、生徒主催やから管理者がおらんで、ミス桜桃に興味ない女子やらがそれにされたら、まー、危ないっちゃ危ないか」
 煙草の先が落ちそうになったので、一旦そこで言葉を切り、灰皿にそれを押し付け、マグカップのコーヒーか何かを二口ほど飲み、露草はメタルフレームを上下させる。
「去年、いや一昨年やったかな? 橋井が、ミス桜桃の準ミスになったんは?」
 久作と須賀が同時に声を上げた。
「リカさんが、準ミス? ミス桜桃学園の?」
「一昨年というと、中等部二年か! 方城の奴、また肝心なことを言い忘れていやがる!」
 保健室で目覚めてからのちょっとした騒ぎ。リカの態度が普段とかなり違っていた原因が解かった。おそらく須賀も同様だろう。もう少し時間を戻して、今朝、須賀がミス桜桃学園の話を切り出した辺りからずっと、リカの様子が奇妙だったが、全て繋がった。
「露草先生、リカ君……橋井さんのプライバシーを損なわない程度で、一昨年のミス桜桃のことを教えてもらえませんか?」
 慎重に、押し殺して、須賀は露草に尋ねる。須賀の頭脳が高回転する音が聞こえたような気がした。
「あれはなー、ちょいと盛り上がりすぎやったな。生徒主催やからウチらセンセは直接あれこれ言われへんのやけど、この保健室はウチの城やから、橋井を隠すのには最適やったし、それでどうにかなったけどな」
「保健室に隠す? リカさんを?」
 久作が小さく叫んだ。須賀は、ちっ! と吐き捨て、潰した声で説明を促す。
「トラブルがあったんですね? リカ君に。露草先生がここに彼女をかくまうほどのことが」
 かちり、と音がした。露草が何本目かの煙草をくわえている。口元と天井がゆっくりと繋がる。
「……あったな。準いうても、殆どミス桜桃や。橋井はべっぴんやから男子にもてとったみたいや。せやけど、橋井はそーいうんは嫌いみたいで、裏方いうんか、地味にしとったらしいわ。ここは後から聞いた話やけどな? そないな橋井が、ミス桜桃にエントリーされて、ほいほいという間に準ミスや。中等部でミス桜桃のベスト3に入ったんは橋井が何年かぶりやったらしくて、一位のミス桜桃そっちのけで大騒ぎになっとったわ。
 んで、大騒ぎが大騒ぎを呼んで、いつやったか、橋井は足に真っ青なアザつくって、ウチんところに来た。あれは野球部のバットかなんかやろうな。骨いってなかったのが不思議なくらいなアザや。足の骨までいっとったら、ここの設備やときちんとした手当てできんからな。橋井、泣いとったわ、当たり前やけど。ミス桜桃から一週間後くらいに、そんときの一位のミスとガラの悪い男子連中にかこまれて、足にでっかいアザ。肘やらに擦過傷{さっかしょう}、擦り傷な? 頭にも小さいのがあったな。
 体のほうは名医のウチが手当てしたから完璧やけど、心の傷いうんは、絆創膏では塞がらん。体を手当てしながら、後はずーっとカウンセリングや。ああ、うち、臨床心理士の資格も持ってんねん。橋井がタフやったから、精神的にな? やったから半年でどうにか回復したんやけど、その辺の普通の女子やったら、そのまま不登校、引きこもり、対人恐怖症、そのほかのオンパレードや。須賀恭介が心配してるんは、まあ、そーいうことやろ?」
 久作は唖然としていた。頭がぐるぐると回り、思考が全く整頓されない。保健室で眠りに入って、その後、リカちゃん軍団に羽交い絞めにされていた辺りで、久作は、須賀が少々過敏に、神経質になっているような気がしていた。注意するに越したことはないが、百手先まで読むほどでもないだろうと。
 しかし現実は、露草葵のそれだった。若干、須賀につられて神経質になっていた久作は、それをほぐしていて、須賀にもそうしろと言ったのだが、ゆるぎない現実は、それを良しとはしなかった。
「速河……」
 声が聞こえた。須賀だろう。
「俺はな、神経質で間の抜けた人間だ。些細なことを大袈裟にして、自分で掘った落とし穴に落ちる、そういう人間だ。そして、方城に言われるまで、リカ君がどうして泣いているのかさえ気付かないほど、無神経な人間でもある。こんな頭の悪い俺が、今、その鈍い頭で何を考えているか、解かるか?」
 頭を須賀に向けようとしたが、鉛のように重たく、その動作はゆっくりだった。どうにか須賀の顔に目がいった。その表情は、ハードボイルド探偵小説の主人公のようであり、そして、険しかった。
「何を考えているか、解かるか? ……解かる、いや、解かるというよりも、たぶん全く同じことを考えていると思う」
 自分に向けての科白だった。露草に目を向けると、こちらの表情もまた、険しかった。メタルフレームが上下する。白いわっかがぷかぷかと浮かんでいるが、気休めにもならない。事務椅子の向こうに小さな窓があり、青空が広がっていたが、久作の視界はモノトーンだった。久作は思考の海に潜る。
 須賀からのメール、ミス桜桃学園、リカちゃん軍団。リカの涙声と、須賀の太股を打つ音。何かを告げるチャイム、
 足のつった方城とそのチームメイト、全員が高等部一年。露草葵の話と橋井利佳子、そしてミス桜桃学園という行事。
 そういった言葉を並べると、何かが浮かんできた。久作は保健室の壁に鋭い視線を放つ。
「四月二十五日 土曜日 十四時三十四分」
 デジタル表示で数字が並んでいた。途端に思考が加速する。
「須賀! ミス桜桃学園は、いつ始まる!?」
 須賀に向けて強く怒鳴った。何故怒鳴ったのかは久作自身にもわからないが、それを特に気にしている様子もなく須賀はゆっくりと応える。
「来週月曜日に、方城の言っていた集計用紙が配られる、そうポスターに書いてあった。五月七日木曜日、つまりゴールデンウィーク明けから集計作業が始まり、その二日後、五月九日土曜日の午後に、ミス桜桃学園が決まる」
 週明け月曜日、つまり二十七日に集計用紙が配られ、一週間置いて、四連休。集計に十日の間があり、十一日後にミス桜桃学園候補の選抜が始まる。集計日を含めた三日後に、ミス桜桃学園決定。
 十日間と三日間、フルスロットルの久作の思考が減速した。
「十プラス三は?」
「何? 速河? いうまでもなく十三だが――」
「そうだ須賀! 十三だ! それが答えだ!」
 須賀は全く久作についていけていない。露草も同じらしく、不思議そうに、怒鳴る久作を眺めている。その気配に気付き、久作は思考を法定速度まで落とした。
「タイムスケジュールだよ、須賀。ミス桜桃が始まるまでの、つまりこちらが作戦なりで動ける時間だ」
 ぱん! と音がした。須賀が自分の膝を叩いた音だ。そして、須賀の表情に感情が戻った。いつもの、冷静沈着なハードボイルド探偵だ。
「タイム……なるほど、そうか。肝心なのはそこだったか。全く、またしても俺らしくない」
「あんたら、さっきから何の話してるんや? ウチにはサッパリやで?」
 スクールカウンセラーの露草葵。保健体育の教師にして、保健室の主。医師免許と臨床心理士の資格を持ち、メタルフレームと白衣をまとった、型破りな謎の美女。この人物を逃すのは惜しい。
「露草先生、協力してもらいます!」
「へ? なんや? 何の話や?」
 それには応えず、久作はにこりと微笑むだけだった。保健室の隅に静かに立つ骨格標本、トリコロールジャケットを羽織ったフレディ・スペンサー君と目を合わせる。
「全十三周のミス桜桃GP、厄介なコースだが、もうスターティンググリッドで、フラッグが振られるのは月曜日。たったの十三周だ、とにかくアグレッシブなライディングで攻めるしかない。マジョリティ対マイノリティのデッドヒート、この勝負は、絶対に負けるわけにはいかないんだ。解かるだろう、フレディ君?」
 骨格標本、フレディ・スペンサー君が無言でうなずいた。


『第十章~ゲットアップ』

 四月二十五日土曜日、十五時三十三分。
 久作と須賀が1‐Cの教室に戻る際、入り口付近で担任とすれ違った。丁度、ホームルームが終了したらしい。クラスメイトの殆どが帰り支度を始めていたが、久作が自分の机につくと、方城とリカちゃん軍団が集まった。当然、須賀もいる。
「速河くん、大丈夫?」
 久作の目の前に座ったリカが、不安そうな表情で言った。久作は、朝一番から昼休みを間に今、十五時過ぎまでずっと保健室にいた。その問いかけは当然である。体のほうは幸い回復していたが、首から上、脳みそが若干疲弊している。露草葵の話とリカの不安そうな顔が重なる。無意識に須賀を見ると、須賀はかすかな笑みでこくりとうなずいた。
「大丈夫だよリカさん。今日は丸一日、保健室だったからね。もう一人で歩ける」
 笑顔ではきはきと、久作は応えた。それが意図的なものだと気付いたのは、須賀、ただ一人である。
「須賀? お前も大丈夫なんだろうな? 保健室に今までずっとこもってたってことは、お前も調子悪いんじゃねーか?」
 リカの安堵の笑顔の横から方城が言った。保健室での露草葵とのやり取りを知らない方城からの、当然の質問だ。
「俺か? 大丈夫も何も、俺は今朝からずっと……ああ、少し頭痛がしてな、下らんことに頭を使いすぎて持病の偏頭痛が出たんだ。アスピリンを出してもらって、速河と一緒に横になっていたから、もう大丈夫だ」
 リカがくすりと微笑んだ。偏頭痛とアスピリンという組み合わせが、いかにも須賀らしい、そう思ったのだろう。
「須賀くんは頭を使いすぎなのよ。体調管理、方城くんを見習いなさい」
 笑顔のまま、リカが柔らかく指摘した。
「ねー、アヤちゃーん。アスピリンて、何?」
「それはな、レーコ、昔ながらの果汁三%の炭酸ジュースだ! 糖分がスゲーあるから頭痛に効くんだぜ!」
 方城が「ふーん」と納得し、久作はがくりとうなだれ、須賀は卒倒しそうになっていた。
「アヤ! 滅茶苦茶なことレイコに吹き込まないで! まあ、それはいいとして――」
 さすがに良くないだろうと久作は思ったが、口には出さなかった。
「――速河くんと須賀くん、きちんと家まで帰れる? バイクの運転、大丈夫なの?」
 久作と須賀は視線を合わせる。体調のほうは全く問題ない。問題があるとすれば、頭、脳みそのほうだ。二人の視線がそうだと言い合い、揃ってリカに向けられた。久作の、おそらく須賀も同じくだろうが、脳裏に保健室の主、メタルフレームの露草の顔と科白が再び浮かんだ。
「あー! 須賀恭介!」
 唐突にアヤが叫んだ。
「今、リカちゃんの足をエロエロ目線で見ただろ! あたしの目はごまかせんぞー!」
「何? アヤ君? 俺は……エロエロ?」
 須賀は露草の言っていた「でっかいアザ」を無意識に探したのだろう。しかし、そうだと解かるのは久作と、その場にいない露草のみで、ゆえにアヤと、アヤの背後にとっさに隠れたリカにそれを説明するのは至難の業である。まさかここで、リカの過去を暴露するわけにはいかない。というより、久作と須賀が彼女の過去を知っているということ、それ自体、まだ伏せておくべきだろう。ゆえに、須賀はこう出る。
「いや、すまない。リカ君の足があまりに魅力的だったもので、つい、見とれてしまった。失礼」
「須賀、お前は委員、じゃなかった、リカに、その、何だ、あれか?」
 当然そうなるだろう、久作は須賀を見て、苦笑いをする。須賀は、やれやれ、とゼスチャーで返してきた。
「方城くん! あ、あの! 須賀くん! えっと、私は、その……」
「あー! リカちゃん照れまくってやんのー! ははは!」
「やんのー!」
 須賀が「これが最善の選択だろう?」と視線で合図を送ってきた。久作と須賀にとって、相当に深刻な問題であるミス桜桃学園という行事。頭から離れることは一瞬もない。しかし、それで神経をすり減らしてしまっては、この「勝負」には絶対に勝てない。だからこそ、こういった、一種の息抜きが必要だ。久作は「それでいい」と相槌を返す。
「ありゃー? ひょっとして速河久作、須賀恭介とリカちゃんにやきもちボーボーかぁ?」
 バババン! アサルトライフルの銃声が聞こえた。
「え? ああ、そう、そんな感じだよ」
 須賀がぎょっとして久作を睨み付けたのを感じたが、「すまん」と手で合図を送っただけで、続ける。リカが久作とアヤを睨んでいるが、こちらはとりあえず気付かないフリをして、久作の本題に入る。
「今は、十五時四十五分か。もし都合がよければでいいんだけど、みんな、ちょっと付き合ってくれないかな? 何というのか、ストレスを発散しておきたいんだ」
「別に用事はないけど、ストレス発散って?」
「あたしも用事ねーよぅ。コンピ研は無視っていいからなー」
「はーい!」
 リカ、アヤ、そしてレイコ。
「今日は土曜日か。昨日と同じで基礎練だけだから、多少遅れても俺はいいぜ?」
「放課後の学園に用事なんてない。何をするのかは知らんが、付き合えというのなら構わんが」
 全員から了解が出て、久作を筆頭とした集団はいくつかの階段を昇り、辿り着いたのは「音楽室」と書かれた部屋の前だった。

「ストレス発散って、カラオケでもすんのか?」
 方城が小さく言った。なぜ、小さくかというと……。
「ん? 何だお前ら? 吹奏楽部なら今日は休みだぞ? ……って、あれ? お前、確か一年の方城じゃねーか? バスケ部期待のエースが練習サボってたら、先輩に怒鳴られやしねーか?」
 音楽室にいた数人の一人、二年だか三年だかの茶色の髪の男性が、久作と方城を見て、不思議そうに言う。
「は、速河くん? 何をするのか知らないけど、ここはちょっと……」
 リカが方城と同じく、小声で言った。久作は二人に小さく微笑むと、音楽室の入り口をくぐった。
「こんにちは、1‐Cの速河です。あれ? 先輩のそのギター、アイバニーズのハーマン・リーモデルじゃあないですか?」
 視線が素早く、傍らに無造作に置かれたブレザーに行く。小さなピンバッジが、この茶髪の男子が二年だと言っていた。
「去年の文化祭、先輩たちは、ドラゴンフォースのカヴァーでしたっけ?」
 久作の言葉が止まると、茶髪の二年男子が、若干険しかった表情を一気に崩した。
「……ああ! 速河とか言ったっけ? お前、詳しいな! 俺の、ああ、スマン、2‐Aの加納だ、加納勇介{かのう・ゆうすけ}だ。よろしくな」
 加納と名乗った二年男子が右手を差し出し、久作はそれを軽く握る。
「これな、そう、TVF・ハーマン・リーモデル、俺の宝物の一つだよ。ローンが残ってるからまだ俺のじゃないかな? まあいいや。値段に見合うだけの音が出るぜ……といっても、俺の技術が全く追いついてないんだけど、なあ? ははは!」
 加納勇介は大きく笑いながら、傍らの、おそらくバンドメンバーであろう男子の肩を叩いた。
「ドラゴンフォースをカヴァーしたのは、こいつが、ドラゴンフォースが好きだからって、単純な理由だ。ああ、こいつはベースの真樹だ、真樹卓磨{まき・たくま}。俺と同じで2‐Aで、ついでに俺たち「ラプターズ」のリーダーだ」
 肩を叩かれた男子、真樹卓磨がセルフレームのメガネをいじっている。
「真樹だ、まあ、何だ、速河だったかな? よろしく」
「それで速河、何か用事でも――」
 突然、ドン! と大きな音がして、音楽室にいた全員が驚いた。
「加納! 俺を無視するな!」
 再びドン! バスドラムが響く。
「ああスマン! あっちの大柄の奴は、大道庄司{おおみち・しょうじ}、2‐Dでラプターズのドラムだ、見ての通りな。大道、これでいいだろ? この速河ってのが話があるらしいんだ、続けるぞ?」
 シャン! ハイハットが鳴る。どうやら了解ということらしい。
「スマンな、騒がしくして。俺、加納と、こいつ、真樹、そしてあっちの大道の三人でラプターズだ。ドラゴンフォースを文化祭でカヴァーしたのは、これはもう言ったっけ? まあいいか、真樹がたまたま去年、それをやりたいっていったからで、ラプターズのメインはオリジナルだ、なあ真樹?」
 ベース担当で、「ラプターズ」というバンドのリーダー、二年の真樹卓磨が、こくりとうなずく。
「たまには変わった楽曲もやりたい、ただそう思っただけだ。俺は加納ほど、こだわりはないが、まあ、オリジナルでやりたいという点は一緒だな。それはいいとして、そもそも何だ? 一年の速河だったかな? 何か用事があったんだろう?」
「それだそれ! 速河、どうしたんだ? お前、吹奏楽部じゃないよな?」
 真樹がゆっくりと喋り、加納が目の前の久作を見る。
「ええ、あの、初対面でこういうのは失礼だと思うんですけど、先輩たちの楽器を少し貸して欲しいんです。ストレス発散で少し弾かせてもらいたい、そんな感じです」
 背後から「はあ?」と聞こえた。方城だろう。二年の加納勇介と、同じクラスだという真樹卓磨が不思議そうな顔をして少し喋り、加納が切り出した。
「ストレス発散でギターか! そりゃいい! 速河だったよな? いいぜ、勿論! さすがにこれは貸せないが、別のギターが何本かある。好きな奴を選んでいいぜ! 真樹! お前もベース出せよ。ベースは、方城か?」
 加納勇介に言われた方城がぶんぶんと首を振る。
「ベースは、彼、須賀です。僕と同じ1‐Cの須賀恭介です。方城はドラムです」
「何? 速河? 待て! 俺はベースなんて弾けないぞ!」
「おいおいおい! 俺はバスケ部でドラムなんて見たこともねーって!」
 須賀と方城が久作に駆け寄り、怒鳴った。それまでは相手が高学年なので、距離をとっていたらしい。そして、未だに距離をとっているリカちゃん軍団に久作は顔を向けた。
「リードヴォーカルは、リカさん。アヤちゃんとレイコさんはサイドヴォーカル、ザコとかそういう意味じゃあないよ?」
 手招きするが、リカは状況が読めないらしく、微動だにしない。が、アヤはレイコの手を引っ張って、寄って来た。
「サイドヴォーカルって、やっぱザコじゃん! なあ? レーコ?」
「うん? よくわかんないけど、私はそれでいーよ!」
 アヤとレイコのやり取りに、加納勇介が大声で笑った。
「あははは! いやいや、サイドヴォーカルがザコってことはないだろう? なあ? 真樹?」
「サイドヴォーカルありきの楽曲は山ほどある。ザコどころか、準主役だよ、君。確か、橘君だったかな?」
 真樹卓磨の科白にアヤが飛び上がる。
「あれー! なんであたしの名前知ってるんだ、ですか? ナントカ先輩?」
「真樹だ、真樹卓磨。まあ覚えなくてもいいが、ナントカ先輩はさすがに。せめて真樹先輩くらいにして欲しいな。名前を知っているのは、君、橘君が俺と加納のクラスで、ナントカというゲームの話をしていて、そこで名前が出たから、それだけだよ」
「えー! ってことは真樹? 真樹先輩も、そっちの、えーと、加納先輩? 二人もミラージュやるってことですよね? 誰使いなんです――」
「アヤちゃん! ごめん、その話は後回しでいいかな?」
 アサルトライフルの弾幕に転がり込み、久作は素早くセイフティロックをかけ、そのトリガーを強引に止めた。
「まあ、そういうわけで、先輩たちの楽器と、ここ、音楽室を少し借りたいんですけど、どうですかね?」
 久作が申し訳なさそうに、加納勇介と真樹卓磨に訴える。
「速河、いいぜ! ほら、そこにいくつかケースがあるだろう? 好きなのを選んで、好きなように遊んでいいぜ。アンプはあそこだ。真樹、お前も早くベース出せよ! 大道! 聞こえてるだろ! 方城と変わってやれ!」
 加納が素早く指示を出し、真樹が一本のベースを持ち出して、それを須賀に渡した。
「あ、ありがとうございます……いや! そうじゃあなくて、速河! 俺はベースは弾けないんだ! そもそもどう持ったらいいのか、それすら知らん!」
「まあ、そう大声を出すなよ、えっと、須賀恭介といったかな? 弾けるとかどうかはともかく、とりあえず構えてみろよ。ほら、このストラップを、少し短いな、これくらいか。よし、こんなところだろう。速河、ベーシストが完成したぞ?」
 真っ黒なエレクトリックベースを、須賀が首からぶら下げていた。両腕はだらりと下がったままだった。
「真樹先輩でしたか? 俺はベースなんて触ったこともないんです! 傷でも付けたら――」
「ああ、それは安物の中古だ、気にするな。ネックが折れても別に構わんよ」
 須賀の、らしくない動揺を、真樹卓磨は軽く流した。久作はそれを見て、うむ、とうなずき、四つほどあるギターケースから、一番安そうなギターを持ち出して、細部をチェックする。
「加納先輩、このストラト、貸してもらっていいですかね?」
 ぽい、とピックが久作にほおられた。
「そんなジャンクでいいのか? もう少しマシなのがあったと思うが……ほら、これとか」
 加納が別のギターを出して言った。久作の手にした青いエレクトリックギターと見た目は殆ど同じだった。
「いえ、これでいいです。初対面の先輩のフェンダーを傷付けるのは、さすがにまずいですから」
 加納の申し出を丁重に断り、久作は、青いストラトキャスタータイプのエレクトリックギターを首から下げ、長めのシールド(配線)を握り、ギターアンプとストラトを接続した。
「マーシャルの十五ワットか。これならフルボリュームでも大丈夫だ」
 ぶつぶつと言いつつ、マーシャル・アンプのつまみをいじる。VOLUME、GAINとBASSを最大値までひねり、青いストラトの六本の弦を掌で軽く押さえたまま、アンプの電源を入れる。ぶーん、と小さな唸りが聞こえた。加納から渡されたドロップ型のハードピックを軽く握り、一呼吸置いて、六弦から一弦までを一気に弾いた。
 ズギャーーン!
 物凄い爆音が音楽室と、そこにいた全員を震わせた。その波動に須賀がよろめき、アヤとレイコが飛び上がり、リカが駆けてくる。駆け寄ったリカが何か言おうとしたが、それは久作のストラトの轟音でかき消された。久作は左手付け根を突き出すようにして構え、単調なコード進行を開始した。単調ではあるが、十六ビートの爆音なので、単なるコード進行には聴こえない。
「よし、こんなものかな?」
 轟音が消え、久作は小さくつぶやいた。
「須賀、方城、こんな感じで。リカさん、えーと、そうか、歌詞カードがないと。加納先輩、何か簡単な――」
「速河! お前! ロックンロールだぜ! なあ真樹!?」
「いい感じだな! 加納! 次は正統派ロックでいこう!」
 加納勇介と真樹卓磨が、大声で言い合っている。どうやらギター音で耳の感覚が麻痺しているようだ。
「加納先輩、簡単な曲で歌詞カードがある――」
「ああ! ちょっと待て! そういうノリの奴な! えーと、これでどうだ? 譜面は確か、あった! これだ! どうだ、速河?」
 CDアルバムと、開かれた分厚いギター譜面が渡された。
「VAN HALEN{ヴァン・ヘイレン}の「GET UP」……ああ、これはいいですね! リカさん! はい、これが歌詞カード」
 目の前で呆けているリカに、久作は「VAN HALEN/GET UP」と書かれた歌詞カードを渡した。渡されたリカは依然呆けたまま、その英語の歌詞カードをゆるりと見る。久作は加納から借りたCDを傍にあったプレイヤーにセットし、CDプレイヤーとギターアンプをピンジャックシールドで繋ぎ、その「GET UP」という曲を流した。十五Wとは思えないほどの大音量で、そのハイスピードのロックは音楽室を駆け抜ける。
 リカは、リピート再生される大音量の「GET UP」を聴きつつ、その歌詞カードを必死に追っていた。
「まあ! だいたいこんな雰囲気! どう? リカさん!?」
 リカに大声で怒鳴り、アヤ、レイコ、須賀、そして方城にも言った。
「ど! どうもこうもないわよ! こんなスピードで歌えるわけないじゃないの!」
 怒っているのではなく、単に耳が麻痺しているだけである。
「歌詞? 英文はどうにか発音できそうだけど! とにかく早すぎて全然追いつかないわよ!」
 と、加納勇介が笑顔でリカを手招きして、同じく大声で言った。
「名前知らないけど、彼女! これがロックだ! 歌詞だとか発音だとか、そんなのはどうでもいい! ノリでいいんだよノリで!」
「そう! 加納先輩の言うとおり! 僕だってこんな難しい曲は弾けやしない! でもいいんだよ! 適当で! それっぽくなってればいい! 須賀! 方城! 弾けるとか弾けないとか、そんなのもどうでもいい! 楽器を壊さないようにだけして、後は全部適当でいい!」
 久作が笑顔で怒鳴る。徐々に耳の感覚が戻ってきた。加納勇介、真樹卓磨、大道庄司がそれぞれ、リカ、須賀、方城に、とりあえずの基本姿勢だけを教えていた。
「この曲のサビはここ、簡単だろ? 他の部分は、まあそれっぽく聴こえるように怒鳴ればいい。ロックだから早く聴こえるが、歌詞カードを見ればわかるように、同じフレーズの繰り返しが殆どだしな。速河? 「GET UP」ならスリーヴォーカルってのはどおだ? 彼女たち三人で」
 加納勇介がアヤとレイコを見て提案した。
「なるほど、そうですね、それがいい。えーと」
 久作はリュックからルーズリーフを取り出し、歌詞カードを素早く書き写し、アヤとレイコに渡した。
「そんなに難しい単語はないけど、リカさんが言ってたようにかなり早いから、解かるところだけを適当に歌って、カラオケとかそんな感覚でいいよ。じゃあ……」
 チューニングをしつつ喋っていた久作が、CDプレイヤーの再生ボタンを押した。イントロに、ディストーションの効いたスローなギターソロが十秒ほどあり、再び音楽室が震えた。十五Wのマーシャル・アンプが咆哮をあげる。久作の指がフレットを飛ばして弦をすべり、ハードピックが素早く上下する。バスドラムがドカドカとリズムを刻み、リカちゃん軍団が英語だか何だかを叫び、須賀のベースヘッドが上下する。ギターソロパートにアヤの絶叫が割り込み、ライドシンバルが鳴る。
「ゲラァァァーーップ!!」
 音楽室の全員が叫んで、しばらくして笑い声がこだました。久作の頭に詰まったあれやこれやが全て吹き飛び、視界と思考がクリアになった。他にやっておくべきことがいくつかあったような気がしたが、今はこれが最良だろう。「GET UP」の歌詞カードを読みつつ、久作は若干興奮した頭で確信した。


『第十一章~スーパークルーズ』

「加納先輩、真樹先輩、大道先輩、ありがとうございました。お陰で頭がスッキリしました」
 脱ぎ捨ててあったブレザーを着て、久作は、加納勇介、真樹卓磨、そしてドラムセットの向こうにいる大道庄司にそれぞれ軽く一礼した。ブレザーのポケットから取り出したデジタルの腕時計を腕につけつつ目をやると、十六時四十四分と表示されていた。
「いや、礼なんていらねーよ、速河。俺らも目一杯楽しんだ。っつーか、お前、かなりの腕だな? パワーコードメインで「GET UP」をカヴァー、アレンジだか何だか知らねーけど、真樹がいつもいってる音楽理論とかいう奴か? 速河は、須賀だったか? あいつと方城と彼女らでバンドやってんのか?」
「1‐Cの須賀恭介だったよな? ベースは今日が始めてらしいが、あの曲であれだけリズムキープが出来るのなら、お前は立派なベーシストだよ。あっちの、方城といったか? 彼も同じくだ。バスケにもリズムみたいなものがあるんだろうな。半年もやれば、大道を追い抜けるだろうよ」
 加納勇介と真樹卓磨が、久作と須賀、方城を見つつ言う。須賀と方城はどう応えたらいいのか迷っているらしく、はあ、とうなずくだけだった。すぐ後ろにいるアヤは、レイコと一緒に踊っていた。鼻歌は先の「GET UP」だった。
「以前、少しだけギターをやっていたんです、我流ですけど。バンドとかそういうのとは無縁ですよ。楽譜もまともに読めませんし」
 身支度を済ませた久作が、青紫色のエレキギター、アイバニーズのTVF・ハーマン・リーモデルを抱えた加納勇介に笑顔で言った。それから十分ほど、加納と真樹、そして大道庄司とギターだとかバンドだとかの話をして、久作が「今日はありがとうございました」と締めくくり、音楽室を出た。
「また来いよ! 速河! 今度は俺たちの腕前を披露してやっからなー!」
 加納の声に振り返り、笑顔で一礼して、久作を筆頭にした全員が廊下に出た。
「もうすぐ十七時か、もう少しだけ動けそうだな。一旦、別行動を取ろうか、方城、あのさ――」
「速河ぁー!」
「おい速河!」
 方城と須賀が同時に言い、久作を睨みつけている。
「速河くん! ちょっと!」
 それにリカの声が重なる。
「ストレス発散がしたいって、あなた、そう言ってたわよね? そこでどうして二年生のいる音楽室なわけ?」
 声色が棘だらけだ。方城と須賀の無言の訴えも同じくであった。
「何? えっと、最初に言わなかったっけ? ちょっとストレスを発散したかったって。僕もだけど、みんなも少しそうしておいたほうがいいと思ったから、だから加納先輩たちの楽器を借りて大声で怒鳴り散らした。かなりのストレス発散になったんだけど、リカさんや須賀は違うのかい? ほら、アヤちゃんとレイコさんは……」
 廊下の五歩ほど先で小躍りしているアヤとレイコが「ゲラーップ!」と大声をあげていた。
「そりゃあ、まあ、バスドラムっていうのか? あれをドカドカ踏んで鳴らして、棒でナントカってのをバンバン叩いて、いい運動にもなったしストレス発散にもなったかな?」
 方城がうんうんとうなずいている。その様子に先ほどの棘はもうなかった。須賀が、ふう、と小さな溜息をついた。
「真樹先輩は壊してもいいといっていたが、まさかそういうわけにもいかん。俺がどれだけ必死だったか、どうせ見ていなかったんだろう、速河は?」
「その真樹先輩は須賀を褒めていたじゃないか? もし壊したら、謝って弁償すればいいさ。真樹先輩は、加納先輩と大道先輩もだけど、自分の楽器を傷付けられたくらいで怒るような人じゃあないよ。それはそれとして、ストレス発散にはなっただろう? ねえ、リカさん?」
 須賀の返事を聞かずにリカに声をかけた。
「え? あ、ええ。その、歌詞だとかは滅茶苦茶だったけれど、速河くんのギターの凄い大きな音で、アヤとレイコと一緒に大声で騒いだから……うん、ストレス発散になった! アヤとレイコは、見ての通りね」
 リカが、ぷっ、と吹き出した。前方で、アヤとレイコが、未だに歌いながら踊っていた。久作は左腕のデジタル時計を見てから、方城を向く。
「もうすぐ十七時だ、方城はそろそろバスケ部に行ったほうがいいんじゃないかな?」
「げっ! もうそんな時間か? まだ何か用事があるんだろう? 俺、抜けてもいいのか?」
 久作は数秒、思案してから、方城の肩を軽く握り、廊下の隅に引っ張った。リカとの距離をあけたのだ。久作は小声で方城に耳打ちする。
「方城、例のミス桜桃学園。あれの現時点での情報、噂をそれとなくバスケチームの人たちに聞いておいてくれないかな?」
 方城の目が光る。
「……そうか、解かった。連絡はメールでいいのか? 速河、それって急ぎなんだろう?」
「他には内緒だけど、急ぎだ。ケータイとパソコン、両方に送信してもらえると助かる」
 それにうなずき、リカと須賀の傍に戻った方城は、久作をちらりと見てから、普段の様子に戻った。
「俺はバスケ部に戻るよ。音楽室、楽しかったな、じゃあな!」
 軽い駆け足で方城が立ち去った。次は、と、久作は須賀を見た。
「須賀、こんな時間で悪いんだけど、ちょっと頼みたいことがある」
 リカが、前方のアヤとレイコに向かったので、普段どおりの声色だった。
「いや、この時間だからいいのか。運動部関連の連中に聞き込みをやって欲しいんだ」
「聞き込み? 何だ? 速河?」
「ミス桜桃学園の、今日、土曜日十七時現在での評判と、そこで上がっている名前、それが知りたい」
 殆どの情報を共有している須賀には、それで全て通じた。須賀が一瞬、何かを考えていた。
「うむ、ついでにミス桜桃学園の実行委員のメンバーも割り出しておこう。どのみちそいつらと関わることになるからな。優先順位からするとこちらのほうが上のような気もするが、まあ、同時進行だ。情報がまとまり次第、メールか何かで連絡する」
 久作に向けて口元をにやりとさせ、リカちゃん軍団に挨拶をして、須賀は消えた。
「準備はこれで完璧だ。さて、肝心の僕は、どうするかな?」
 数秒の思案、前方のリカちゃん軍団が視界に入った。時間も時間だ、彼女らはとりあえず帰宅させるのがいいだろう。久作は笑い合っている三人に近付いて、「そろそろ帰ろうか?」と持ちかけた。言われた三人がそれぞれ自身の腕時計を見ている。久作も自分のデジタル時計を見た。十六時五十六分。
「もうこんな時間だったのね。アヤ、レイコ、そろそろ帰る?」
「そだねー、って、あたし! コンピ研無視ってるし! まあいいやー!」
「ふぁーっ、うん、帰ろう帰ろうー。久作くんはー?」
 レイコが問う。久作には、まだもう少しやっておきたことがあった。今日、四月二十五日土曜日、十七時前の時点だからこそ出来ることが。
「僕は少し散歩でもしてから帰る、みんなは先に帰っていいよ」
 リカが「散歩?」と不思議そうに言い、しばらく三人でわいわいとやっていたが、全員が駐輪場に向かった。
「それじゃあ、お先に」
「んじゃな、速河久作! アディオース!」
「ばいばーい、また明日。明日は日曜日? また明後日ー!」
 桜桃学園高等部二階、二年生のクラスと音楽室があるフロアに、久作は一人で立っていた。窓の外からかすかに声が聞こえるが、それ以外はほぼ無音の静寂。久しぶりに一人になった気がした。また、久しぶりに自分らしくなった気もした。その余韻をしばし味わい、久作は転身して音楽室に戻った。

「あれ? 速河? どうした? 忘れ物か?」
 2‐Aの加納勇介が不思議そうに尋ねる。ハーマン・リーモデルのエレキギターはケースに仕舞われているらしく、音楽雑誌らしきものを手にしていた。
「ええ、ちょっと忘れ物が……」
 久作はゆっくりとラプターズに向かって歩きつつ、思考を回転させる。歩調と思考がシンクロしたかのように慎重になっている。ラプターズの三人以外に誰もいないことを確認する。
「加納先輩、真樹先輩、大道先輩、少し聞きたいことがあるんですけど」
 じっくりと科白を吟味する。次の単語を出すかどうか、相当に悩んだが、一種の賭けのような気持ちでそれを口に出した。
「加納先輩、今度のミス桜桃学園、どう思いますか?」
 知らず険しくなっていたらしい久作の表情を読み取ったのか、半笑いだった加納勇介の表情が変わる。
「ミス桜桃? あのミス桜桃か? どう思うって……どうだろうな。あくまで俺個人の意見でいいのか?」
「はい」
 素早く返す。口に出してしまった以上、後は待つしかない。
「俺は、あのミス桜桃ってのは、あんまり好きじゃないな。ま、誰が桜桃で一番美人なのかってのは気になるよ、正直」
 音楽雑誌が机に置かれた。
「単なる生徒のお祭りで、それで学園が盛り上がるってのはいいんだけどな、フェミニズムっていうのか? どっかの女子を無理矢理引っ張ってくるみたいなノリは、俺は嫌いだな。何ていうのか、悪ノリに過ぎる、そんな気がする」
 加納の言葉に真樹が続ける。
「そうだな、あれは完全に悪ノリだ。やたらと規模がでかくて、毎年、何かしらの問題が起きる。しかも、その問題の殆どは教師の耳に入らない。悪ノリで陰湿、タチが悪いことこの上ない。誰が一番の美人かなんてのは個人の好みの問題だ。そこで多数決が出てくるのがそもそもおかしい。といっても、これは俺個人の見解で、桜桃学園は多数イコール正義の民主主義の学園だ」
 カカン、と音がした。ドラムの大道庄司がスティックで机を叩いた音だ。それが加納と真樹に同意だ、という意味だと気付くのにしばらくかかった。
「下らん連中が山ほどいる、学年を問わずに……」
「ん? どうした? 速河?」
 久作は、いつだったか、須賀が言った言葉を口にしていた。
「ああ! すいません! えっと、そういう意味じゃないんです!」
「いや、その通りだ、速河」
 慌てる久作をなだめるように、加納勇介が言った。
「真樹がいったように、大勢が正しいってのが正論で、その大勢の殆どは下らん連中だ、教師も含めてな。だから、ってこともないんだが、俺、俺らはロックバンドやってんだ」
「何だ加納、その強引な理屈は? ……とは言っても、大筋では同じくなんだがな。ロックの真髄は反社会だ。そこに加納がこだわる気持ちはよく解かる。そこに固執{こしつ}することもないだろうが、芯ががっちりしてなけりゃ、そこいらの音楽サークルと同じだ。そう見られてもいいが、誰が何と言おうが、ここだけは絶対に譲れん」
 加納勇介と真樹卓磨が、断言した。下らない連中が学年を問わずで山ほどいる、確かに。しかし、そうではない人間もいる、いや、いた、目の前に二人も。カツンと音がした。二人ではない、三人だった。久作は、改めてラプターズの三人を見た。ギターの加納勇介、ベースでリーダーの真樹卓磨、ドラムの大道庄司、全員二年だ。ラプターズは、他の連中とは違う。バンド、音楽で繋がっているからなのか、考え方がきっちりと揃っている。それも飛び切りハイレベルで。久作の両腕に知らず力が入る。
「ありがとうございます。時間をとらせてすいませんでした。失礼しま――」
「で? 本題は何だ? 速河?」
 力強い味方を得たような気分で頭を下げようとした久作に、加納勇介が言葉をかぶせた。
「俺や真樹の、大道もそうだが、ミス桜桃に関する個人的な意見はさっきの通りだ。それで、速河はそんな俺たちラプターズに何を相談しに来たんだ?」
 軽い口調に、真樹卓磨がこくりとうなずく。
「さっきのスリーヴォーカルの彼女たち。1‐Cの速河、ミス桜桃がどうこうというのは、橘君ら彼女たちと関係があるんだろう?」
 セルフレームに指をやり、真樹卓磨がゆっくりと言った。この、ラプターズというロックバンドのリーダー。2‐Aの真樹卓磨という人物は、どことなく須賀恭介に近いものがあった。加納との短いやりとりで出てきた「多数イコール正義の民主主義の学園」といった科白。須賀にベースを持たせれば、いや、実際に持ったのだが、そうして一年ほど経過すれば、須賀はこの真樹卓磨というベーシストになるのではないか、そう久作は思った。リードギター、2‐A加納勇介は、ラプターズというバンドの実質的なリーダーだ。茶色に染めた髪や軽い口調とは裏腹に、独自の音楽理論を持っており、その、真樹の言葉を借りるなら、偏った音楽理論で物事全てを判断しているようである。髪の色や、シャツの裾{すそ}をだらしなく出しているのも、彼の音楽理論からだろう。
「速河、安心しろ。俺や真樹、大道は誰かにチクったりはしない。お前がそうしろと言うのなら、さっきの方城だとかにも何も言わない。当然、橘だったか? 彼女たちにもだ」
「加納先輩?」
「悩み事があるんだろ? 俺たちはラプターズで、同時にお前の先輩だ。まあ、大したことは言えんが、何だ、グチくらい聞いてやる器量はあるつもりだぜ? なあ? 真樹、大道?」
 真樹がセルフレームに手をやったままこくりとうなずき、いつのまにか傍に座った大道も大きく同意する。神経質になるな、プライバシーを守れ、慎重にしろ、そんな単語がいくつか頭に浮かんだが、久作はそれらを追い払った。残った単語は「大丈夫だ」この一言だった。小さく溜息をつき、久作は口を開いた。
「今度のミス桜桃学園に、リカさん、ああ、橋井利佳子さん、クラスメイトです、彼女や橘さん、加嶋さんを巻き込みたくないんです。かなりのトラブルが過去にあったと聞いて、自分なりに対応策を練っている最中なんですけど、これぞ、という得策がなかなか出てこなくて、悩んでいる、そう、悩んでいるのはそこです」
 加納と真樹に向けて喋っていたのだが、そこで久作は、自分が悩んでいることに始めて気付いた。いくつか考えていた戦略には、これならば、という決定打がなかったのだ。
「橋井利佳子と加嶋? で、ミス桜桃、うーん、どこかで聞いたような気がするんだが……」
 加納が頭をひねっていると、真樹が助け舟を出した。
「加納、橋井利佳子というのは、一昨年のミス桜桃学園の準ミスだ。加嶋玲子は、今回、いや、今年のミス桜桃学園の最有力候補だ」
 ああ! と加納が手を打つ。
「そうだ! それだ! 橋井というのはリードヴォーカルをやっていた、あのロングヘアの彼女だろ? どっかで見たような気がしていたんだが、準ミスだったか! 一昨年ってことは、俺たちラプターズがミス桜桃で始めてバックバンドをやった年か! 加嶋玲子ってのは、名前しか知らないが、橘だっけ? 金髪じゃないほうの、ショートボブの彼女か? あれが噂の加嶋玲子か」
 加納が記憶を巡らせ、うんうんとうなずいている。真樹が、その記憶を丁寧に掘り起こす。
「速河、過去のトラブルというのは、準ミスの、橋井? その彼女の件だろう? 断片だが、俺もその話は聞いたことがある。野球部と空手部の数名が彼女を強襲したとか、確かそんな内容だったと思うが」
 久作は心底驚いた。リカの準ミス、こちらが知れ渡っているのは当然だろう。真樹卓磨というベーシストがそれに関するトラブルを知っているのは、ラプターズがその年にバックバンドをやったからだろうか。野球部と空手部と言っている。空手部まで出てくるのか。露草葵が大きなアザと擦り傷で済んだといっていたが、よくそれで収まったものだ。
 そして、レイコ、加嶋玲子。彼女の「噂」、こちらも問題だ。加納の「あれが噂の加嶋玲子か」という科白が、レイコの立場を表している。さらに、アヤちゃんこと橘絢、彼女の名前も、ミラージュファイトという格闘ゲームを媒体に、レイコと同じくらいに知れ渡っていた。
「おい、おい! 速河! どうした? 大丈夫か?」
 加納勇介らしき声が聞こえた。大丈夫か? 大丈夫どころか、最悪の構図だ。久作はゆっくりと頭を上げ、力のない目で加納と真樹を見た。最悪だが、ともかく状況が読めた。音楽室に戻ったのは大正解だった。まだ土曜日だ。時間は、十七時四十三分。
「十七時四十三分……もう十八時前? 加納先輩、すいません! こんな遅くまで下らない話に付き合わせてしまって!」
「遅くまでって、いや、時間はどうでもいい。っていうか、下らない話じゃないだろ、それって? なあ? 真樹?」
「ミス桜桃学園に、橋井利佳子、加嶋玲子、そして、橘だったな? この三名の女性陣。速河、お前が何を心配しているのかは解かる。下らんどころか、これほど深刻な話はない。まずは……」
 そう言うと真樹卓磨は、ポケットからケータイを取り出した。
「お前が良ければだが、アドレスを交換しておこう。加納、大道、お前らもだ。速河、どうだ?」
 真樹に言われ、うなずき、久作は自分のケータイを取り出して、それぞれにパーソナルデータを送り、三人のそれを受信した。
「それで速河、お前はどうするつもりなんだ?」
 ケータイをズボンのポケットにしまった加納が、久作に尋ねる。が、返答が浮かばない。フルスロットルの思考と口が自動的に言葉を発する。
「アヤちゃんたちがミス桜桃に選ばれなければこれが一番最善なんですけど、下手をすると、今回のミス桜桃のベストスリーが、リカさん、アヤちゃん、レイコさん、なんてこともあり得る。他のクラス、学年でもいいですけど、そこにミス桜桃のベストテンをぎっしりと埋める人がいれば、何も心配することはないんですけど……そうか!」
 久作、そして須賀の懸念は、リカちゃん軍団がミス桜桃学園に選出されて、ベストスリーに入るかも、という前提のものだった。桜桃学園の女性陣にリカちゃん軍団以上の人材がいれば、そもそも悩む必要すらない。
「単純な話だった。リカちゃん軍団がミス桜桃になるかもって思ってたから心配してただけで、そうなる可能性なんてそもそもない――」
「あるぞ? 速河?」
 一人で延々と喋っていた久作に、加納が割り込んだ。
「俺の知ってる範囲だけど、リカちゃん軍団? 彼女ら三人は殆ど別格だ。決勝戦のシード枠状態だ。アヤちゃんってのは、橘、あの小さくて元気な子だろ? ミラージュで滅茶苦茶強い。それでいてあのルックス、性格もいいんだろう? 準ミスだった橋井に、噂の加嶋玲子、そして橘……今回のミス桜桃はこの三人の独壇場だ。ミス桜桃を狙ってる女子連中にしてみりゃ、完全に敵扱いだ。空手部と野球部が総動員で取り囲んでも全く不思議じゃないくらいにな」
「空手部と野球部が総動員? 何人くらいなんでしょうか?」
 高回転の思考のまま、口が勝手に動いた。
「え? 確か、野球部は三十人くらいかな? 桜桃の空手部は弱小らしいが、それでも二十人くらいはいたと思うが?」
 野球部三十人に空手部二十人、合計で五十人。それがリカちゃん軍団を取り囲んでいる。体育館方向に一転突破をかけてこじ開け、そこから三人を逃がし、方城と須賀に任せるか? いや、それは駄目だ。バスケ部で暴力沙汰など論外だ。加納の声がした。高回転の思考が若干鈍る。
「おい速河! 大丈夫か? さっきから顔色が悪いぞ? いきなり黙ったりで」
「え? ああ、すいませ。その、考え事をする癖みたいなものがあって……」
「ちなみに、その考え事ってのは、野球部三十人と空手部二十人、対、速河一人、そんな図式だろう?」
 真樹がセルフレームを上下させる。真樹卓磨の言葉に久作は驚いた。この真樹という人物には、テレパシーだとかそういう能力でもあるのだろうか、と。
「何をそんなに驚く? これまでの話とお前の質問、これを組み合わせればすぐに解かるさ」
「五十対一で勝負しようってか? おいおい、速河! いくらなんでもそりゃ無茶だろう? 喧嘩なんてレベルじゃねーぞ、それ」
 真樹、加納に言われて、久作は一拍置いてうなずいた。
「そう、ですよね。ちょっと、焦ってるというか、そんな感じみたいです」
「まあ、それは無理もないな。だがな、速河。焦っちまったらおしまいだぜ? どんだけ練習しててもガチガチでステージに上がったら、全部パーだ」
「しかしだ。もうすぐミス桜桃が始まって、あのチャーミングな三人組、ナントカ軍団がそれに巻き込まれるというのは……酷な言い方だが、紛れも無い事実だ。だからこそ速河は悩んで焦って、今、俺たちの目の前にいる。加納先輩よ、かわいい後輩に的確なアドバイスを出せ、それが先輩の務めってもんだろう?」
 淡々と真樹が言う。話を振られた加納は、真樹と久作の顔を交互に見て、うーん、と唸る。
「そりゃあそうなんだが、何だ、話のスケールが大きすぎてなー。桜桃学園全部と数人だろう? ……っていうかさ、こういう頭脳労働は真樹の仕事だろうに? お前ならどうするんだよ? リーダー?」
「リーダーはお前が勝手に押し付けただけだろうが。まあそれはいいとして、ミス桜桃学園、桜桃学園全体とナントカ軍団か。そもそも勝負にすらならんが、そうも言ってられんらしい。そうだな……とびきりの美人を十人くらい編入させるか? いや、これは冗談だ」
 ラプターズのリーダー、真樹卓磨が久作に向けて素早く手を振った。そしてしばらくの沈黙。唐突に、沈黙をやぶる音がした。音楽室は無音のままだが、久作の頭でエキゾーストが響いたのだ。
「美人を、編……入? ラプターズ……ラプター、ラプター! そうか! F‐22だ!」
 立ち上がった勢いで椅子が転げる。加納、真樹、大道は止まっているが、久作の視線は音楽室の窓の外、夕焼けの遥か彼方に向けられていた。
「徹底的なステルス性能、スーパークルーズにSTOLの3S! ファーストルック・ファーストショット・ファーストキルだ!」
「お、おい、速河?」
「目視は出来るのに相手のレーダーには映らない! アグレッサー部隊と三百回の模擬戦闘出撃をやって、一度もミサイルの射程内に捉えられない! 凄い! 無敵じゃあないか!」
 久作が、加納たちには意味不明な言葉を連ねる。久作は自分の言葉を自分の思考に叩きつけ、視線の先、紅い大空を飛び回っていた。
「加納先輩! ラプターズは凄いですよ! ラプターの三機編隊に勝てる相手なんて世界中のどこにもいやしない! 三人は無敵です! そして僕だ! 僕と方城と須賀、三人のラプター編隊! 千五十人? 何機だって問題ない! 何百回こようが、ミサイルの射程内に入らないんだから、敵にすらならない! そう! 僕はラプターだ! 方城と須賀もラプターだ! 山ほどの武装を搭載した、世界最強の戦闘機だ!」
 久作の大声は、それまで無音だった音楽室に延々と響き渡り、ぴたりと止まった。唖然としている加納らに満面の笑みで振り返り、久作は、加納、真樹、大道の「ラプターズ」を順番に見た。無敵と呼ばれたどの顔もこわばったままである。
「戦術はこれで完璧だ! 戦略は須賀に任せよう! 方城も何か情報をつかむだろう! イン・フライト・データリンク全開だ! 加納先輩、ありがとうございました!」
 一礼した久作は、全く状況が理解できていないラプターズの面々を残して、全速力で駆け出して音楽室を後にした。窓の外にかすかに残る夕焼け、久作はマッハ1.58の「スーパークルーズ=超音速巡航」で飛び抜けていった。


『第十二章~コ・パイロット』

 四月二十六日日曜日、午前九時過ぎ。
 久作は冷蔵庫にあった野菜ジュースをごくごくと飲みつつ、ケータイを片手にパソコンの電源を入れて、方城と須賀から昨晩送られてきたメールを読み返していた。
「ミス桜桃はバスケ部でも話題になってた。キャプテン以外の三年は、練習の合間にミス桜桃の話をしてた。今回のミス桜桃はレイコ。でもリカとヤアもミス候補だっていってた。――方城護」
「現時点ではリカ君、アヤ君、レイコ君がミス桜桃のベストスリーだ。野球部とサッカー部ではミス桜桃の話で盛り上がっている様子だった。そのミス桜桃学園の実行委員は五人。井上、河野、新田、藤原、元木という名前らしい。そして、英語教師の脇田がからんでいる節がある。――K.SUGA」
 昨日夕方、音楽室でラプターズの加納勇介と真樹卓磨から聞いた話を合わせて、状況が理解できた。須賀のメール、ミス桜桃学園実行委員の構成に英語教師が入ってたが、かろうじて予想の範囲内だった。ただし、生徒主催の行事に英語教師がいるというのは、きっちりと頭にいれておいたほうがいいだろう。そこから予想外の事態が想定できるからである。思考をなるべくシンプルにするために、久作は重要な単語をいくつかならべた。
 ミス桜桃学園に対して、リカのトラブル、レイコとアヤの噂、まずはこの三つ。
 生徒主催で悪ノリに過ぎる、トラブルが絶えない、それが教師の耳に入ることはない、これはラプターズからの情報だ。
 こちらの目的は「リカちゃん軍団をそういったトラブルに巻き込まない」、この一点だけである。
 ただし、相手がミス桜桃学園全体、教師を含めれば千二百人ほどになるかもしれない。それに対してこちらは、自分と方城と須賀のたった三人。真正面から勝負して勝てる見込みは0%だ、断言できる。久作は本棚から一冊の雑誌を取り出した。表紙に戦闘機「F‐22」の真正面の写真が掲載された、軍事・航空機関連の雑誌だ。
 多用途戦術戦闘機にして航空支配戦闘機、通称「ラプター」F‐22は3S、「ステルス性、スーパークルーズ(超音速巡航)、STOL(短距離離着陸)」を実現させた、久作が知る範囲内では世界最強の戦闘機である。手にした雑誌のラプターを見て、久作はにやりと口元を上げてパソコンのキーボードを叩く。

『速河久作 戦術プラン バグラチオン作戦(仮)』
・速河久作~F‐22、ボギーワン+レイコさん
・方城護~F‐22、ボギーツー+アヤちゃん
・須賀恭介~F‐22、ボギースリー+リカさん
・ミス桜桃学園の制空権を奪取し、敵機甲部隊に対して威嚇
・機甲部隊の進軍が著しい場合は、各個撃破
・事態が収束しないようであれば、拠点に絨毯爆撃
※意味不明だと思うけど、詳しくは月曜日にでも説明する

 各自のケータイアドレスに対して、その謎の文章を送信し、久作はベッドに横になった。数分後、方城からメールが届いた。ケータイを開こうとすると、また着信音。止まったかと思うとすぐに着信、間髪入れずに再度着信。ケータイがやかましく鳴る。方城、リカ、アヤ、レイコの順番だった。須賀から返信がないのは、あの短文で意味が通じたからだろう、と思ったが、須賀からもメールが届いた。それぞれから届いたメールには「意味が解からない!」と書いてあったが、久作は気にせずケータイを閉じた。「詳しくは月曜日に」と書いたからだ。
 静まったケータイに「焦るなよ」と声をかけ、久作はトーストをかじり、野菜ジュースで流し込んだ。準備と頭脳労働はこれで終わりだ、久作はそう確信した。
「ラプター編隊を甘くみるなよ、ミス桜桃学園実行委員会……」

 明けて月曜日、四月二十七日。
 普段より十五分ほど遅くにホンダXL50Sのキックペダルを蹴り、桜桃学園へと続く例の心臓破りの坂をゆっくりと登り、既にかなり埋まった駐輪場の、そこだけ空いている定位置にXLを入れる。左手のデジタル時計を見ると、八時四十二分、朝のホームルームまで十五分ほどしかなかった。
 リュックを肩にかけ、フルフェイスを片手に、久作はのんびりと高等部校舎に向けて歩いた。空を見上げると、今日も晴れ渡っていた。偏西風、ジェット雲が放射状に並んでいる。ジェット雲の隙間にスーパークルーズで駆け抜けるラプターの姿を描くと、ジェット雲の一部に穴が開いた。世界最強の第五世代戦闘機、F‐22、通称「ラプター」が背面を久作に向ける。六角形のデルタ翼が太陽を背に黒いシルエットとなっていた。
「おはよう! みんな! 今日もいい天気だね!」
 教室に入り、久作を追って走ってきていたリカたちに、笑顔で挨拶をする。
「お、おはよう……じゃなくって! 昨日のメール、あれって、何? 全然意味がわからない――」
「速河久作ー! おは。F‐22って飛行機だよな? ネットで検索したら出てきた。でもさー、敵機甲部隊って何よ?」
「おはよー! 久作くん! 今日もいい天気だねー!」
 アヤとレイコが続ける。方城と須賀が目に入った。
「速河、昨日のメール、あれ、何だ? なんのことかサッパリだよ。ボギーワンって?」
「F‐22が飛行機? そうなのか? それで制空権を奪取して、敵機甲部隊を各個撃破だったか? ゲームか何かの話か?」
 方城と須賀が真面目で、それでいて不思議そうな顔をして久作を見ている。リカ、アヤも同じくで、唯一、レイコだけがにこにこと微笑んでいた。
「ゲーム? いや、リアル、現実の話だよ。もうすぐホームルームだ、続きは後で」
 久作が言い終わるのとほぼ同時に教室の扉が開き、担任が入ってきた。月末にテストがある、とかそういったことを告げ、他にも何か言って、十分でホームルームは終了した。
「晴れてるのはいいけど、先週くらいからずっと晴れっぱなしじゃなかったっけ? 少しくらい湿り気がないとね? ……解かってる、本題に入る」
 レイコを除く全員の視線が突き刺さっていたので、久作は世間話を中止した。
「手短に要点だけを言うよ? 今日から十三日間、ミス桜桃学園が終わるまでの僕なりの戦術だ。須賀、戦略じゃあない、戦術だ。今日、ミス桜桃学園を決める集計用紙が配られるらしいから、このバグラチオン作戦、ネーミングは適当だよ、この作戦は既に始まってる。先手を取れたのは方城や須賀の情報のお陰だ。他からもかなりの情報が入ったから、こちらの準備はほぼ完璧だ」
 方城と須賀が、頭をひねる。自分たちのメールが何かの役に立ったらしいことは解かったが、まだ全体がつかめない。
「今日は、数学と日本史、午後は体育か。先制攻撃は須賀だな。須賀、あとリカさんとアヤちゃんもだけど、数学の例の仲迫とかいう先生と君らの勝負だ。バグラチオン作戦の火蓋は君らが切る、当然、僕もだけど。方城とレイコさんも目一杯頑張ってくれ。二人が数学が苦手なのは知ってるけど、須賀と僕でフォローする」
「あの、速河くん? ちょっと……」
 リカが不思議そうに言った。頭の上に「?」マークがくるくる回っている。
「結局のところ、私は何をどうすればいいの?」
「数学の授業で、出された問題を全部、完璧に解く。ついでだから仲迫とかいう先生もやっつけよう」
 久作が笑顔できっぱりと言い放った。
「問題を全部、完璧に解く? で、仲迫先生をやっつける?」
「……なるほどな。了解だ、ボギーワン」
「なんだか知らないけど、乗ったー! 仲迫の技をキャンセルして、硬直したとこにフルコンボだぁー!」
 リカは驚いていたが、須賀は趣旨を理解したらしく、にやりと口元をゆがめた。アヤは、見ての通りだ。方城と、そもそも話を聞いているのかどうか怪しいレイコは、それぞれ唸ったり歌ったりしていたが、始業チャイムと同時に数学の仲迫教師が教室に入ってきたので、全員が自分の机に向かった。

 一限目の数学が始まって十分で、久作はこの仲迫という教師がどういった人物なのか解かった。ホワイトボードに並ぶ数式は、半分は高等部一年生に向けた、教科書に沿ったそれで、しかし残りの半分が二年か三年レベルのものだったからだ。
「じゃあ、この問題を、速河、解いて――」
「2x‐2です」
 中等部じゃああるまいし、こんなものに付き合ってる時間は勿体無い。久作は座ったまま素早く言って、ホワイトボードの難解なほうの公式を眺めた。仲迫が呆けていたようだが、それも無視した。咳払いが聞こえた、仲迫教師だろう。何か言っていたが、久作はそれも無視した。しばらく高等部一年の数学らしい授業が続き、途中でいきなり流れが変わった。難解な公式が、須賀に向けられたのだ。その公式は、理数系大学の入試レベルのものだった。これがリカのいっていた「須賀潰し」か、と久作は教室中央の須賀に視線をやった。
「この問題を、そうだな、須賀、解いてみろ。お前は数学が得意らしいから、簡単だろう?」
 ねばねばした口調で数学の仲迫教師は言った。五秒で教室が騒然となる。その公式を解ける人間など、高等部三年の成績ベスト五連中くらいだろう。解けはしないが、そうだとクラス全員が解かる。
「先日も言いましたが、俺は数学は苦手ですよ、仲迫先生。ちなみに解答は、x3乗‐3x=18ですけど」
 ロックオンから一瞬の迷いもなく引かれたトリガー、須賀のサイドワインダーが中迫教師の額に命中した。十秒かそこらの須賀の科白で、仲迫教師は撃墜され、きりもみしつつ地面に自由落下していった。やれやれ、と久作は思った。須賀、あいつは手加減というものを知らないらしい。これではリカやアヤの出番がないじゃないか。微笑んだまま久作は、仲迫教師が姿勢を立て直すのを少しだけ祈った。その願いが通じたのかどうか、中迫教師は何事かを須賀に言い、別の、同じくハイレベルな問題を指差した。
「じゃあ、こ、この問題を、そうだな――」
「はいはーい! γ=30°、m=6n‐4のときに最大値2、でーす!」
 指名されていないアヤが勢いよく立ち上がり、大きく叫んだ。五秒ほどだっただろうか。
 アヤのウェポンベイから発射されたのは、短距離空対空ミサイル「サイドワインダー」ではなく、アクティブレーダーホーミング搭載の発展型中距離空対空ミサイル「アムラーム」、簡単にいうと、F‐22・ラプターの主兵装で、とんでもなく強力なミサイルである。
 須賀といいアヤといい、手加減というものを全く知らない。サイドワインダーとアムラームを二発喰らって無事な相手などいない。久作は、今度は本気で、数学の仲迫という教師の無事を祈った。その後の仲迫がどうだったかは見ていない。授業は聞いていたが思考は別に向いており、教室も静かだったので、何事もなかったのだろう。一限目終了のチャイムが鳴り、煙を吹いて爆散した中迫教師が、教室からへろへろと立ち去った。あれで職員室まで辿り着けるのかどうだか。途中の廊下で残骸になっていても全く不思議ではない。
 久作の机にリカちゃん軍団と方城、須賀が来て、その周りをクラスメイトが取り囲んでいる。
「須賀! またまたナイスだぜー!」
「橘、お前、スゲー! 仲迫、秒殺だよ!」
 そんな言葉があちこちで上がっている。騒がしいことが苦手な久作だったが、先の須賀とアヤを見れば、それも当然だろう。小さく溜息をついて、窓の外をちらりと見た。早朝のジェット雲がまだかすかに残っていた。
「速河、あんなものでいいのか? もう少し過激なほうが、速河の戦術には効果的だったか?」
「だったかー? 速河久作ー!」
 ……つまり、久作は、須賀とアヤを見て口に出した。
「つまり須賀とアヤちゃんは、手加減したのかい? あれで?」
 リカが、久作の問いに、うんうんとうなずく。
「それはそうだろう。バグラチオン作戦とやらの全体を知らない状態だ、手加減しないと、内容は知らんが作戦が台無しになるかもしれん」
「あたしは手加減しなかった! 仲迫ムカつくから、エディ・コンボ炸裂だー!」
 久作は、戦術に少し修正を加えた。須賀とアヤの底なしのポテンシャルと性格、これを入れていなかった。微調整をしたが、戦術自体は土曜日夕方に描いたそれと同様だったので、このままでいいな、と再確認する。
「須賀、アヤちゃん。まあ、あんな感じでいいよ。出来ればリカさんや方城の出番も作って欲しかったんだけど、時間はまだあるから、どうにかなるかな?」
「出番? どうにかなるって、次の日本史でもあんな風にやるの? 日本史の野中先生はとってもいい人よ?」
「野中先生、ああ、あの、おっとりとした女性か。さすがにさっきの数学みたいにするのはちょっとね……」
 久作はしばらく思案し、リカに提案した。
「リカさん、僕はその野中先生がどういう人なのか詳しくないから、どんな感じの人なのか解かるように、そんな風に授業で振舞ってくれない?」
「振舞うって?」
「えーと、ちょっとだけ難しい質問をしてみるとか、そんな程度かな? 勿論、さっきの須賀やアヤちゃんみたいなのは駄目だけど」
 リカがうーんと唸り、十秒ほどして「まあ、やってみるわ」と返したところで、二限目開始のチャイムが鳴った。
 ゆっくりと扉が開き、野中という日本史担当の女性教師が現れた。四十歳ほどだろうか、少しぽっちゃりとした体型で、薄く化粧をしている。
「はーい、じゃあ、授業を始めます。えーと1‐Cはどこまでだったかしら?」
 手にした日本史の教科書をぺらぺらとめくり、野中教師は、あらあら、とのんびりと言った。
「相沢忠洋による岩宿遺跡の発見までですよ、野中先生」
 教室最前列のリカが小声で野中という教師に言った。
「あらそう? 橋井さん、ありがとうね。じゃあ、授業を始めますね。えっと、相沢忠洋さんは昭和二十一年、群馬県笠懸村岩宿の丘の赤土の中から石片を発見したの。それは長さ三センチの――」
 のんびりと朗読するような野中教師の声、久作は小さく伸びをした。この人は敵じゃあない、そう判断して、窓の外のジェット雲のかけらを眺めた。
 生徒に対して質問することは殆どなく、教科書に書かれた文章を丁寧に噛み砕いてホワイトボードに要点を書く、そんな調子で授業は進んだ。教室入り口付近の方城が頭を揺らしている。どうやら眠気と戦っているらしい。日本史、野中教師の口調はまるで催眠術師のようで、方城以外にも数人が睡魔と格闘しており、何人かは既にその催眠術により眠っていた。

 長い長い二限目、日本史が終わり、昼休み、昼食の時間になると、久作の机にリカを筆頭に全員が集まった。
「――それで速河、その戦術というのは具体的にはどういった内容なんだ?」
 昼食を素早く終わらせた須賀が切り出した。
「ほう、ほれ……それそれ。なあ、速河久作、一限目の数学とその戦術? それって何か関係あるんだろう?」
「勿論あるよ、そして、もうかなりの成果が出てる、須賀とアヤちゃんのお陰でね」
「あたひ? あたひはなにもひてないへど?」
「アヤ! 食べながら喋るの、やめなさいってば! だらしない!」
「はーひふーへほー! あはは!」
 レイコが小さなウインナーをぱくりと口に入れて、笑った。その様子をリカが再び注意する。
「僕の戦術はごく簡単だ……待った、あれは?」
 ジュースを手にした久作の言葉が止まった。視線は教壇に向けられている。全員がそれに従う。
「こんにちは、ミス桜桃学園実行委員、2‐Bの井上です!」
 井上と名乗った男の両脇にそれぞれ二名ずつ、男子がいた。久作の握ったペットボトルが、べこりと音を立てる。
「もう廊下のポスターで告知していますが、今年最初のミス桜桃学園が今日から開催されます! 詳しい日程は新しいポスターに書いてありますが、これから配る用紙に、この人こそミス桜桃! という方を記入して、校舎入り口前に設置した投票箱にいれて下さい! ゴールデンウィーク明けにそれを我々実行委員会が集計し、委員会で検討を加えて、その週の土曜日に……」
 井上という男子はそこで一旦言葉を止め、次に声のトーンを上げて言った。
「土曜日に、今年最初のミス桜桃学園が決定します! アイドルを探すのは皆さんです!」
 井上が言い終わると、残りの四人が、ハガキサイズの投票用紙の束を抱えて、昼食中のクラスメイトに配って回った。教室にいない人数分を教壇に置くと、A1ポスターを持ち出して、教室の壁に貼り付けた。
「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」
 大きなフォントで印刷された例のロゴに、オレンジやピンクで彩られたポスター。花びらが舞い、ポスター下部に日程が記されてある。先日、須賀が持ち出したものと少しデザインが違っており、実行委員とやらの名前もあった。

・日程~四月二十七(月)ミス桜桃学園開催、投票開始。五月七日(木)委員会にて集計。五月九日(土)本年度ミス桜桃学園決定
・ミス桜桃学園実行委員~井上(2‐B)、藤原(2‐B)、元木(2‐D)、河野(3‐E)、新田(3‐A)

 ミス桜桃学園実行委員とやらの面々が教室から消えて――おそらく次の教室に向かったのだろう――久作は、2‐Bの井上の言葉を反芻{はんすう}した。視線は教室入り口のすぐ脇、丁度、方城の机の辺りに貼られたポスターを凝視したまま、ぴくりとも動かない。
「アイドルを探すのは皆さんです!」
 久作は手にしたペットボトルの中身を喉に流し込み、大きく深呼吸した。
 乱れるな、速河久作! お前はラプターだ! 世界最強の戦闘機だ! 自分で自分の脳みそに怒鳴る。一分かそこらで思考の揺らぎが収まった。まだゆらゆらと揺れているが、許容範囲だった。と、誰かから用紙が渡された。相手はリカだった。渡されたのは、ミス桜桃学園の集計用紙だ。
「……速河くん、その……大丈夫?」
「え? 何? リカさん? 大丈夫って?」
 方城が久作に寄り、軽く肩を叩いた。
「俺なんかが言わなくても解かってるだろうけど、冷静さを失ったら、勝てる試合も逃がしちまう、だろ?」
 方城が、まるでチームメイトにでも接するように言った。いや、チームメイトと言ってもいいだろう。久作は、須賀やリカ、アヤ、レイコを見て思った。自分を含めてこの六人は一つのチームだと。そして相手はいうまでもなく、ミス桜桃学園という行事。千二百人強 対 六人。
 無茶だといったのは、ラプターズのギタリスト、加納勇介先輩だったか? TVF・ハーマン・リーモデルのストラトキャスターが浮かんだ。隣にベーシストの真樹卓磨、背後のドラムセットに大道庄司の顔が見えた。思考を現実のそれに戻すと、リカ、アヤ、レイコ、方城、須賀の顔が見えた。全員が久作を見つめている。それぞれの手にハガキサイズの用紙があった。ミス桜桃学園の集計用紙。
「そうだ、方城の言うとおりで、僕はラプターだ。方城と須賀もラプターだ」
 知らず立ち上がっていた久作は椅子に座り、集計用紙にボールペンを当て、素早く十個の枠を埋めた。
 大塚楠緒子、与謝野晶子、永瀬清子、高群逸枝、伊藤野枝、金子みすゞ、石垣りん、茨木のり子、矢川澄子、中島みゆき。
 久作の用紙を見たリカと須賀が、同時に吹き出した。
「はは! 確かに、これはミス桜桃だ! なあ、リカ君!」
「あはは! そうね! 誰が一位でも不思議じゃないわ!」
 方城とレイコはその用紙を不思議そうに見ていた。アヤも、くくく、と腹を抱えている。
「あのさ、与謝野晶子って、教科書に載ってなかったっけ? 中島みゆきって、歌手だろ?」
「まあ、全員、そこそこの有名人だよ。どのクラスかは知らないけどね」
 ぷっ! と久作自身も吹き出した。
「よし、俺もこのラインナップでいこう。リカ君?」
「そうね。アヤ、レイコ、方城くん。ほら、速河くんのこれ、写して」
 しばらくの雑談で、今年のミス桜桃は、金子みすゞに決定した。ちなみに準ミスは石垣りん、須賀の推薦だ。
「どこまで話したかな? ああ、そう、僕の戦術の説明か」
 笑いが収まり、ついでに思考のざわつきも消え、久作は普段どおりの口調で言った。
「今日を含めて十三日間、みんなに演技してもらいたいんだ。具体的には、まず、リカさんと須賀」
「演技?」
「私? 何?」
「二人は付き合ってるんだ」
「何?」
 リカと須賀が同時に声を上げたが、構わず久作は続ける。
「方城とアヤちゃん、二人も付き合ってる」
「俺? アヤとか? いや、付き合ってねーぞ?」
「あたしと方城護ー? こいつミラージュやんねーし、たぶんやっても弱いぞー?」
「そして僕は……」
 集計用紙に必死で名前を書き写している加嶋玲子を見る。
「僕はレイコさんと付き合ってるんだ」
「んー? 何? 久作くん?」
 リカが飛び跳ねた。須賀と方城も飛び上がりそうになっていた。
「え! 速河くんとレイコって、やっぱりそうだったの?」
「対照的だが逆にお似合いかもしれん……いや! そういう話じゃあないだろう! 速河! 俺はリカ君とは付き合っていない!」
「なんだ須賀、リカさんじゃあ不満だってのかい?」
 リカに目をやると、それに気付いたリカが真っ赤になった。
「不満などない! いや! そ、そういう意味じゃあなくてだ!」
「私は! 不満はないけど! そうよ! そういう意味じゃあないのよ!」
「方城?」
 目が点になっている方城に声をかける。
「え? 何? 何だっけ? ああ、俺とこいつが付き合ってるって――ゴフッ!」
「こいつとかいうな! 方城護! アヤ様だ! エディ・アレックス使いのアヤ様だ!」
 アヤの膝が方城のみぞおちを捉えていた。綺麗に決まったらしく、方城がよろめいた。
「リカさんと須賀、アヤちゃんと方城、僕とレイコさん、この三人はそれぞれと付き合ってる。そういう「設定」だよ」
 話を聞いているのかどうか怪しいレイコはひとまず置いて、久作は続ける。
「最初に言っただろう? 今日を含めて十三日間の演技だって。十三日間、つまり、ミス桜桃学園が終わるまでだ。あくまで演技でいいんだけど、とにかく他人から付き合ってるように見える程度には頑張って欲しい。そして、肝心なのはここからだ」
 リカと須賀、アヤと方城が自然と並んだ。レイコは久作の隣に座って、残った弁当箱と格闘している。
「リカさんとアヤちゃんに何かあったら、須賀と方城の二人がそれを全部、完璧に対処するんだ。ちょっとした冷やかしだとか、そういう些細なことも含めて全部だ。まずこれが絶対条件。次に、そういったことがあったら、ケータイメールなりで即座に全員にそれを連絡する。どんな下らないことでも全部だ。この二つを、十三日間、徹底して欲しい。これが僕の戦術、バグラチオン作戦だ」
 しばらく間があった。
「あのさ、速河。そのバクナントカ作戦で、俺とアヤが付き合ってる演技? それやって、それが、ミス桜桃学園と関係あるのか?」
「あるよ、勿論。そもそも、そのための戦術だからね」
「……なるほどな。概要と趣旨、そしてお前の戦術も何となく解かった。確かに、戦術としてはかなりいい」
「あの! その、私にはその戦術? それが何なのかサッパリなんだけど、ああ、演技? それと連絡、それはいいんだけど……」
 リカの言葉尻が詰まる。まだ戦術の全貌を明らかにしていないのだから当然だろうと久作は思ったが、そうではなかった。
「アヤと方城くん、レイコと速河くん、そして私と、須賀くん? この組み合わせには意味があるの?」
「組み合わせの意味は、まああるかな? 不満ならそれは変えてもいいんだけど、リカさんは須賀が嫌いだったの?」
「そうじゃないの! あ、ごめん、怒鳴ったりして。嫌いとかは全然ないわよ、ただ、その、ちょっと気になったから」
「あたしは方城護より速河久作のほうがいいなー。だってこいつ、ミラージュやんねーし、バスケばっかやってるしー」
 アヤがちょっと不服そうに申し出た。
「こいつっていっただろ今! バスケ部の俺がバスケやってんのは当たり前じゃねーか!」
「うーん、そうだね。アヤちゃんの言いたいことも解かるんだけど、アヤちゃん、ダブルクラッチっていう技、知ってる?」
 久作が悩んだ、フリをしてアヤに言った。
「ダブルクラッチ? 誰の技よそれ?」
「スピンムーブ、フェイダウェイ、フェイク、ドライヴ、エアウォーク、そのほか色々。誰の技かって? 方城のだよ」
「ええーーーっ!!」
 アヤが二つの金髪を揺らし、飛び跳ねて叫んだ。瞳がキラキラと輝いている。
「そしてね、アヤちゃん。アヤちゃんがエディ・アレックスで対戦しても、絶対に方城には勝てない」
「速河、そりゃあ当たり前だろ? っつーか対戦にすら――」
「方城護! お前! 実は何者だぁー!? このアヤちゃんが勝てないって、ウルトラ強いじゃんかー!」
 久作が今回の戦術を練る際、それぞれの組み合わせで一番悩んでいたのは、実はアヤだった。佐久間準との一件をリアルタイムで見ていて、かなりの頭脳と情報網を持つ彼女。与える情報を制限しても、アヤならばそこからこちらの真意だとか目的だとかを、すぐに割り出すだろうと思ったからだ。
 対して方城を選んだのは、彼がアヤとはほぼ正反対だからだった。バスケ部所属で人脈は広いといっても、あくまでバスケ部やスポーツ関連に限定されている。桜桃バスケ部エースなので名は知れ渡っているが、ミラージュファイトなどのゲームをしないので、他の生徒との接点は意外に少ない。問題は、両者がそれに応じるか、この一点のみだったのだが、どうにか大丈夫らしい。
 ちなみに、リカと須賀という組み合わせは、先日の数学と英語Ⅱの話を聞いて、リカが書いた英文を読んだからだった。久作の戦術で、それぞれの担当教師と対等以上に渡り合える、この二人は最強だった。自分と須賀と方城で編隊を組むなら、一番機は間違いなく須賀だろう。その両翼に、自分と方城。それぞれに専属のコ・パイロット(副操縦士)がいて、IFDLをフル活用、つまり、戦況情報をリアルタイムで交換し連携して行動すれば、相手が巨大なミス桜桃学園という行事であっても、十分に戦える。即興の仮想戦術だが、十三日間という短期間ならば、これで足りるだろう、そう久作は確信していた。
「久作くーん? ぼーっとしてる?」
 レイコの顔が真正面にあり、久作は驚いた。どうやらまた考え込んでいたらしい。それにしても、彼女、加嶋玲子は、何というのか、どういった人物なのか解からないことだらけだ。ミス桜桃学園の有力候補。そしてランブレッタ48、中等部で陸上部だった。この三つしか知らない。学力はクラスでも学年でも真ん中辺りで、できるのかできないのか、それすら判断できない。
 性格は、のんびりとしているようで、時に活発なこともあり、やはりつかめない。容姿や性格に欠点らしきものは微塵もないのだが、何とも把握しづらい。そもそも、リカやアヤと行動を共にしていることすら、不思議でもある。だからこそ、レイコは自分と組むのが得策だろうという判断だった。彼女がよほど突飛な行動を取らない限りトラブルなど起きないだろうし、仮に何か起こっても、相手が少人数ならばどうにでも対処できるだろうから。
「しまった、またか。えっと、レイコさん? 話、聞いてくれてたかな?」
 久作は思考を浮上させ、レイコに尋ねた。
「えーと、うん! リカちゃんと須賀くんが付き合ってて、アヤちゃんと方城くんも付き合ってて、私と久作くんも付き合ってる! 何かあったらケータイ、メール? それで連絡する! あってる?」
「そう、その通り。ミス桜桃学園が終わるまでの十三日間、悪いけど僕らに付き合って欲しい。そうすればどうにかなる、と思う。あくまで戦術、頭の中で考えただけだけどね」
「速河。方城がこの戦術を把握していないようだが、それは構わんのか?」
 須賀が方城を見つつ、そっと入ってきた。
「まあ、構わない。いや、かえってその方がいいかも、方城の性格からすると」
 アヤとつかみ合っている方城を見て、久作は軽く返す。と同時に、十三時を告げるチャイムが鳴った。昼休みの終わり、そして三限目の始まり。と同時に、久作の戦術、バグラチオン作戦本格開始の号令でもある。
「じゃあ、みんな、頼むよ!」


『第十三章~ハウリング』

 祝日とゴールデンウェイークを挟んだ十一日後の五月七日木曜日。ミス桜桃学園投票の締切りの日、桜桃学園の中等部と高等部では、そのミス桜桃と、1‐Cの三組のカップルの話題で埋め尽くされていた。
 一昨年の準ミス、クラス委員を務める橋井利佳子と、頭脳明晰・沈着冷静で寡黙{かもく}な二枚目、須賀恭介。
 ミラージュファイトで負け知らずのゲーマー・橘絢と、桜桃バスケ部のエースにしてスコアリングマシン、PFの方城護。
 今回のミス桜桃最有力候補と言われる噂の加嶋玲子と、素性の知れない美男子、速河久作。
 昼休み、高等部校舎入り口前の廊下に設置された投票箱に人だかりが出来ていたが、話題の半分はミス桜桃ではなく、そのミス桜桃にふさわしい男子は誰か、先の三人ではないのか、という内容だった。それらは当然、教師連中の耳にも入っており、若い教員が教頭などの目を盗んで、そのお祭り騒ぎを楽しんでいた。
 昼休みの終わり頃、ミス桜桃学園実行委員会の面々が投票箱を回収しに行った際、「ミス桜桃ではなく、桜桃ベストカップルにすべきだ」という多数の意見をぶつけられて、実行委員は「次回までに検討します!」と慌てふためいていた。
 四月二十七日月曜日の十三時以降、久作たちが取った行動は、ごく単純なものだった。数学、英語、世界史、古文、日本史、理科、科学、音楽、体育……授業と呼べる全てのもので、それぞれが得意な分野で活躍し、朝、昼、夕方、授業の合間、ずっとペアで行動していた、ただそれだけだった。
 数学では須賀とアヤ、世界史と英語ではリカと須賀、理科と科学ではアヤ、日本史と古文ではレイコ、体育では方城とレイコがその才能・能力をフルに発揮して、他を圧倒し、全てのテストのハイスコアを連続で塗り替え、五月頭の学年成績のベストワンは須賀、続いてアヤ、次にリカが並んだ。ほぼ全てをこなす久作もまた同じくであり、学年成績はリカの次の四位。四位といっても限りなく一位に近いものだった。四人の順位こそ違うが、総合成績では十点の誤差範囲内であり、実質、四人が学年成績のベストワンという状態である。高等部一年のクラスのある校舎の廊下に学年成績順位が張り出され、紛れもない数字が一年全員と、それらを担当する教師を驚かせた。
 体育の授業での方城の活躍は、凄まじいものであった。
 バレーボールでは強烈なレシーバー&アタッカー、サッカーでは華麗なドリブルからのロングシュートにスーパーセーブ、野球では剛速球の四番ピッチャーで完全試合、卓球ではナックルサーブにエンドレスのラリー、百メートル走と四百メートル走では陸上部員を無視して全て一位、バスケットは言うまでもない。体育の授業が終わるたびに方城は、各スポーツ部からの熱烈なヘッドハンティングを受け、女子のスポーツ部はこぞってレイコを誘っていた。方城ほどではないが、久作もそれなりに活躍を見せていたので、色々なスポーツ部から勧誘を受けていた。
 五月二日土曜日の時点で、久作、方城、須賀、リカ、アヤ、レイコに宛てたラブレターが山ほど届いていた。
 下足箱のない桜桃学園なので、それらは友達の友達からの手渡しでそれぞれの手元に届けられたのだが、あまりの量だったので開封する暇すらなく、丁寧な封筒の裏に書かれた差出人を確認するのがやっとだった。どうにか時間を見付けて何通か開封すると、どこそこに何時に来てくれ、とあったが、全てが前日や前々日の日付だったので、行こうにも行けなかった。
 さすがにそれは無礼だろうとリカが言ったので、須賀がどうにか間に合いそうな封筒を見付け、体育館裏にいた二年だか三年だかの女性と話をしたらしいが、「俺は今、リカ君と付き合っているんです」の一言でそれは終わった。同じくリカも、時間の合間に二階へと続く階段そばで別クラスの同級生と会ったが、「今は須賀くんと」の一言で相手の、クラスも知らない男子は立ち去っていった。
 久作の戦術は、当人を含む全員にかなりの無理を強いられていたので、休憩に、あの露草葵の部屋、保健室を利用した。
「またアンタらかいな? ここはウチの部屋やて。まー、なんや知らんけど、外が騒がしいみたいやから、休んでいき。ほれ、須賀、アスピリンや。方城は点滴でも打つか?」
 白いわっかと共に、コーヒーが差し出され、一同は文字通り一服した。点滴は方城が怯えて辞退し、須賀はアスピリンをコーヒーで流し込んでいた。
 同じ日、五月二日土曜日の夕方頃、久作は、ラプターズの面々と一度会った。
「よお、速河。久しぶり、でもないかな? 一週間ぶりくらいか? そっちが噂の加嶋玲子さんか? 凄い美人じゃないか。ああ、すまん、茶化すつもりじゃないんだ。っていうか、速河、お前と、方城と須賀、二年でも話題になってるぜ。それぞれが美人連れて歩いてるだとか、授業で先生をこてんぱんにしただとか。何だか知らんが、そっちは忙しいみたいだな? ヒマになったらまた一緒にやろうぜ!」

 四連休のゴールデンウィーク明け、五月七日木曜日、十七時四十三分。
 ミス桜桃学園投票箱が持ち去られた廊下に、久作を筆頭に全員が集まっていた。四月二十七日月曜日の午後から始まった久作の戦術、バグラチオン作戦は終盤に差し掛かっていた。
「ミス桜桃学園開催! アイドルを探せ!」

 オレンジやピンクで彩られたポスターに、大きなフォントで印刷された例のロゴ。
「みんな、お疲れ様。もう一息だ。明日と明後日は少しペースダウンして、九日土曜日に備えよう。僕の予想だと、土曜日の午後には体力と集中力が必要になると思う」
 笑顔の久作の声には疲労が混じっていた。
「今日、明日、明後日の午前中でどうにか回復しておかないと、肝心なところが台無しになる。方城、悪いけどこの間はバスケ部の練習も控え目にしておいてくれないかな?」
 大きな溜息が方城の口から出た。
「言われなくったって、そのつもりだよ。もうヘトヘトだ。全く、体調管理も何もあったもんじゃあない。まるでインターハイ予選だよ、なあ? アヤ?」
 廊下にぺたりと座り込んでいるアヤが、ゆっくりと顔を上げる。
「あたし、もー無理っぽい。体力ゲージ1ミリしか残ってねーってば」
「疲れはしたが、久しぶりに頭を使ったからか、俺は逆に心地いい。無論、体力は殆ど残っていないが」
 普段通り、とまではいかないが、須賀はかろうじて元気だった。
 隣の、公認カップル、彼女であるリカが、ふう、と小さくもらす。
「何の作戦だったか忘れちゃったけど、学年成績を見て驚いたわよ。私って出来る子なのね?」
「リカちゃんは出来る子ー! 私は出来ない子?」
 桜桃学園高等部、女子陸上百メートルと二百メートル、そして四十二キロフルマラソンのレコードを書き換えたレイコが言った。声色に疲労は感じられない。フルマラソンを走りきる、そのスタミナからだろうか。
「レイコ、学年二十位は出来る子よ? アヤも凄いけど、あなたも凄いじゃないの」
 リカが、レイコの頭をぽんぽんと叩いた。
「みんな凄いんだよ。さあ、もう帰ろう。とにかく今は休息が第一だ。明日以降、もし具合が悪くなったら迷わず露草先生のいる保健室だ。僕もだけど、みんなも注意しておいてくれよ」
 そう言うと、久作は廊下に置いてあったフルフェイスを持ち上げた。アヤが方城に引っ張り上げられ、全員で駐輪場へ、ゆっくりと向かった。十七時五十九分、夕焼けで出来た六つの影が、紅く地面に伸びていた。

 五月八日金曜日と翌九日の午前中は、驚くほど平穏に過ぎた。
 周囲は相変わらずミス桜桃だとか何だとかでやかましいのだが、それらが久作たちに向けられることはなく、また、久作たちも行動を穏便にしていたので、のんびりと過ぎていった。それぞれの体調もどうやら回復したようで、戦術を開始する前の、普段どおりのそれになっていた。金曜日の授業内容は全く覚えていない。体と共に頭も休めておこうと、ずっと窓の外を見ていたからだ。
 九日土曜日の午前中、窓の外には巨大な積雲があった。凝視するが殆ど動いていない。上空は無風なのだろう。巨大な積雲と相変わらずの晴れた空。二限目の授業が野中教師のスローな日本史だったこともあり、久作の頭は完全にクリアになっていた。体調も万全、これ以上ないくらいのベストコンディションである。昼休みを告げるチャイムと同時に、方城やリカさんをはじめ、全員が久作の机に集まった。
「今日の午後、あとちょっとで始まるのね、ミス桜桃……」
 表情は笑顔だが、リカの口調には若干の不安が感じ取れた。久作は笑顔でこくりとうなずき、再び積雲を見た。
「大丈夫、問題ない」
 断言して、須賀と方城を見る。
「速河がそう言うんなら、そうだろうよ?」
「ほぼ完璧な戦術だ。速河と同意見だ」
 リカが三人の顔を順番に見つめて、うん、とうなずいた。アヤのアサルトライフルトークを聞きつつ、久作らは昼食をとった。話題は、ミラージュファイトの2が家庭用ゲーム機で発売されるだとか、その際にキャラクターが増えるだとか、そういった内容だった。他愛のない雑談、それを打ち消すように、教室の天井に埋め込まれたスピーカが喋りだした。
「えー、ごほん。ミス桜桃学園実行委員の井上です。昼休みが終わったら、皆さん、体育館に集合してください。十三時三十分から、遂にミス桜桃学園が決定します! 繰り返し――」
 さて、久作はつぶやいた。
 デジタル時計は十二時四十五分と表示されていた。まだ時間はあったが、皆さん、つまり桜桃学園の中等部と高等部、そして教員の殆どが体育館に集まる。行列にもまれて体力を消耗するのは避けたい。
「早いけど、行こうか、体育館に」
 残った弁当を口に入れ、ジュースで流し込み、久作は立ち上がった。アヤとレイコがまだ昼食を終えていなかったが、こちらもさっさと片付けてくれて、五分ほどしてから全員で体育館に向かった。久作の歩調は軽かった。完璧とまでは言わないが、即興で練った戦術が思った以上の成果をあげて現在に至るので、気分も楽だった。不安要素はいくつかあったが、どれも許容範囲だった。臨機応変に対応すればどうにかなるだろう。
 教室を出て体育館に続く廊下に差し掛かった辺りで、行列に遭遇した。どうやら、皆、似たようなことを考えていたらしく、既にかなりの人数が、体育館へ入ろうとじりじりと進んでいた。それに合わせつつどうにか体育館に入ると、既に満員だった。

 私立桜桃学園の体育館は、スポーツ競技の公式戦の舞台の一つでもあるので、かなりの収容能力と設備があるのだが、中等部を含めた千二百人強の人数は、その許容範囲ギリギリだった。コート面には高等部生徒と教師、階段状の観覧席は中等部の生徒が占領してるようだ。
 六百個近くのパイプ椅子がずらりとならび、その八割には既に高等部生徒が座っている。体育館の中央辺りに並んだ空席があったので、久作らはそれに腰掛けた。
「改めまして! ミス桜桃学園実行委員会の井上です!」
 壇上の井上という男が、やたらとハウリングの激しいマイクで叫んでいた。久作のデジタル時計は十三時十三分とある。まだ定刻ではないのに、その井上という男はミス桜桃の進行を開始した。時間も守れないのか? 久作は少しイラついた。
「今回で十周年となる、伝統あるミス桜桃学園! 皆さんからの熱烈な投票にまずは感謝いたします! そして! それらを集計し、実行委員で検討し、皆さんが待ち望んだミス桜桃が、決まりましたー!」
 拍手でも求めたのだろうか。そこで演説は一旦区切られた。井上という男に応えてか、体育館の前列からほどほどの拍手の音がした。壇上の井上がカーテン横を見て手招きをしていた。しばらくすると、楽器を抱えた三人組が現れた。遠めだったが、それがラプターズ、加納勇介、真樹卓磨、大道庄司だとすぐに気付いた。
 ドラムが、マーチなのかワルツなのか、適当なリズムを刻み、ベースは単調なリズムを繰り返すだけ、ドラムやベースと同じく、適当にギターがガシャガシャと鳴っている。当然、ハーマン・リーモデルではなく、以前久作が借りたストラトキャスターよりもかなりくたびれたものらしい。チューニングも適当らしく、音が外れている。ラプターズのそれが、ミス桜桃学園のミス決定の瞬間に添えられた音楽、BGMだと気付くのに、かなりの時間がかかった。もうしばらくして、ラプターズの演奏がアメリカ国家の「星条旗(The Star-Spangled Banner)」に変わり、ようやく壇上の井上がマイクに向かって喋りだした。
「BGMは、ご存知、二年生のバンド、ラプターズです!」
 どうやら井上という男には、ラプターズ加納の皮肉は通じていないようだった。
「さてさて、気になる今年最初のミス桜桃学園はー……」
 また溜める。余りにも馬鹿馬鹿しいので立ち去ろうかと久作は一瞬だけ思ったが、さすがにそうもいかない。
「本年度、記念すべき十周年のミス桜桃学園は……一年の橋井利佳子さんです!」
 久作の表情があからさまに濁った。が、壇上の井上が続けた。
「そして! 同じくミス桜桃に輝いたのは、同じ一年の橘絢さん!」
 何? リカさんとアヤちゃん? 久作の思考が曇る。
「さらに! 同じ一年の加嶋玲子さん! この三人が、今回のミス桜桃学園です! ミス桜桃は通常、一人なのですが、投票数がほぼ同一であったので、驚くべきことですが、三人全員が今回の一位、ミス桜桃学園なのです!」
 体育館全体がざわめいた。リカとアヤとレイコが、三人がミス桜桃? 久作は、自身の描いていた戦術に舌打ちした。かなりのことは想定してあったつもりだが、さすがに三人がミス桜桃という結果は予想していなかった。
「それでは! 橋井利佳子さん! 橘絢さん! 加嶋玲子さん! 壇上におあがりください!」
 その場にいないかもしれない三人を、井上は呼んだ。幸いその場にいたリカ、アヤ、レイコがゆっくりと席を立ち、ゆらゆらと壇上にあがった。何が起こったのか理解していない様子だ、無理もない。聞かされた久作とて、未だに状況が飲み込めていないのだから。
「では、こちらにお並びください! こちらが橋井利佳子さんと――」
 リカを手招きしている。
「橘絢さん、そして加嶋玲子さん、三人が今回のミス桜桃学園です!」
 体育館のどよめきが、歓声に変わる。
「それでは、こちらをどうぞ!」
 そういった井上は、どこかの量販店に置いてありそうな安い作りの王冠を三つ、リカとアヤとレイコにかぶせた。それから、賞状か何かをそれぞれに手渡し、再びマイクを握り、ハウリングだらけで叫ぶ。
「まさかの三人のミス桜桃学園! 十周年にこれほど素晴らしいことが起こるとは、我々実行委員会も想像しておりませんでした! 検討の際、順位をという意見もあったのですが、ご覧の通り、三人は素晴らしい美貌を持っていらっしゃる! 皆さんもでしょうが、我々実行委員会に、彼女たちに順位をつけることなど出来ません! 三人のミス桜桃学園は、これから学園のアイドルとなるでしょう! そして、彼女たちがテレビや雑誌の向こうに行ってしまうことも当然でしょう! 憧れの三人のミス桜桃には、付き合っている男性がいるそうなので、皆さんは彼女たち三人を憧れの眼差しで見ることしかできません! が! いずれ全国に、いや、世界に羽ばたくであろう彼女たちは――」
 久作はうつむいたまま、こめかみを強く押さえていた。何だ? この意味不明なハウリングは? 何が言いたいのかさっぱり解からない。久作は「須賀、何か変化があったらIFDLで頼む。僕は外の空気を吸いたい」、須賀にそう告げ、返事を待たずにパイプ椅子から立ち上がり、体育館出口に向かった。
「了解だ、ボギーワン」
 須賀の声がかすかに聞こえた。
 体育館へと繋がる通路に出た久作は、そばの柱に背を預け、思考の底に潜る。リカとアヤとレイコが、三人同時にミス桜桃学園に選ばれた。これは……いいことだ。そもそもの戦術がそうだったから、いいというより、一番効果的で最大の成果かもしれない。一人では三人をカヴァーできないからこそ、方城と須賀に二人を任せたのだから、この結果は頭で描いていた戦術のもっとも理想的な姿だ。
 リカたちが全員、ミス桜桃になったということは、下らない連中やそれらの言動が一点に集中するということだ。十三日間、それぞれが半ば独自で行動していたが、意味不明な相手が一点集中となれば、こちらも三機編隊が組める。そして、相手が五百人だろうが千人だろうが、こちらは世界最強の航空支配戦闘機、F‐22・ラプターの編隊だ。
 ……混濁{こんだく}した思考が徐々に静まる。持ち前の冷静さが戻りつつあった。ミス桜桃の結果は出て、リカとアヤとレイコがそれに選ばれた、これが紛れも無い事実だ。井上とかいう男のハウリングで思考を乱されていたのかもしれない。三人がミス桜桃学園となり、こちらは健在。ロックオンすらされていない。
「何だ、状況は変わっていないじゃないか」
 久作は声に出した。言葉にして自分に言い聞かせているのだ。
「僕と方城と須賀はラプターで、桜桃学園の制空権は完全に掌握{しょうあく}している。ミス桜桃という歩兵部隊が進軍していたが、こちらは空だ。ラプターの戦闘力は十三日間で見せ付けた。もう威嚇射撃の必要すらない。ラプターに高射砲を向けたらどうなるのか、そんなことは誰にだって解かる。サイドワインダーとアムラームで木っ端微塵だ。相手に航空戦力があったとしても、全く問題ない。どんなエースパイロットだって、僕のラプターを捉えるのは無理だ。ステルス戦闘機でレーダーに映らないんだから、ドッグファイトにすらならない。背後を取って、ウェポンベイを開けば、それで相手は逃げ出す。ミサイルどころか機関砲の一発も必要ない……つまり」
 久作は体育館の天井の向こうで止まっている積雲を見た。すこし形が変わっていた。
「つまり、勝負はもう終わった? そう、終わったんだ!」
 右拳に力が入る。久作は小さくガッツポーズをした。
「まあ、余韻みたいなことはあるあろうけど、そういうのは方城や須賀に任せよう。僕は、そうだな、保健室にでも行って、一休みするかな?」
 デジタル時計を見ると、既に十四時を過ぎていた。まだ体育館が騒がしいようだが、久作はちらりと見ただけで、体育館に背を向けて、露草葵の部屋、保健室へとゆっくり歩いた。
 保健室は無人だった。保健体育の露草葵も、おそらくミス桜桃学園のメインイベントに列席しているのであろう。主のいない保健室で、久作はケータイで文章を入力し、それを送信した。
「リカさん、アヤちゃん、レイコさん、おめでとう。いろいろと複雑に思ってるかもしれないけど、今は素直に喜んでいいよ。ほかのみんなも、三人を祝福してやってあげて。――速河」、十四時十四分。
 ケータイのアドレスに登録された、桜桃学園関係者全てに対して、久作はそのメールを送信した。ベッドに腰掛け、事務机から拝借した飲みかけのコーヒーを口に入れ、ごくりと飲み干す。糖分ゼロ、ブラックだったので少しむせた。
「フレディ君……」
 久作は、保健室で無言で立つ骨格標本、トリコロールジャケットを羽織ったフレディ・スペンサー君に声をかけた。
「思いつきと即興で練った戦術だったんだけど、結果は見ての通り、大成功だ。全十三週のミス桜桃GPのファイナルラップだ。あと半周でチェッカーフラッグ、優勝は目前だよ」
 ぴくりともしないフレディ・スペンサー君が、こくりとうなずいて笑顔で久作を見た。
「そう、あと半周、五百メートルもない。後続は完全に引き離している。僕のバイクはホンダXL50S。SはスーパークルーズのS、そう、XLは四十九ccなのにスーパークルーズができるんだ。アフターバーナーなしでマッハ1.58の超音速巡航、これについてこれる奴はいやしない。残り半周なんてコンマ数秒だ……」
 久作はベッドに倒れこんだ。

「……河、速河! おきんかい!」
 大声が耳の傍で鳴り、久作は頭を上げて素早く周囲を見渡した。何だ! 何が起きた? ここは……。
「ここは、保健室? あれ?」
「やっとお目覚めやなー?」
 目の前、五センチ先に物凄い美人の顔があった。シルバーで細長いメタルフレームの奥に、大きくて鋭い目と薄いアイライン。すっと通った鼻筋の下に、きらきらと桜色に輝く唇。紺色の髪の毛がまっすぐに伸び、いくつかの束がメタルフレームをおおっている。
「露草葵、先生?」
「おう、速河、ウチのフルネーム、覚えとってくれたんか。そや、露草葵。あおい、言うんは草冠ので、ブルーよりもっと和風で、「源氏物語」五十四帖第九帖の、あの、あおいや。ええ名前やろ?」
 確かに、露草葵とその名前の人物のイメージはおおよそ一致する。性格や言動がもう少し、しとやかなほうが……。
「しまった! 眠っていたのか! 時間は、十七時〇五分……三時間! データリンクは?」
 久作は慌ててケータイを取り出して開く。二通のメールが届いていた。一通はリカからで、着信は十六時三十二分。もう一通は、2‐Aの加納勇介から、着信は十六時五十六分。
「あれこれとどたばただったけど、どうにか終わりました。みんな疲れたっていってるから、帰りましょう? 駐輪場でみんなと待ってるから、早く来てください。――橋井利佳子」
 三十分も待たせてしまっているのか、急いだほうがいいな、そう思いつつ久作は、加納からのメールを開いた。

「真樹と大道からの情報だ、役に立つと思う。
・ミス桜桃学園実行委員会
・井上~2‐B~野球部ベンチ
・藤原~2‐B~野球部ベンチ
・元木~2‐D~サッカー部レギュラー、ミス桜桃副実行委員長、ラプターズ大道と同じクラス
・河野~3‐E~サッカー部キャプテン、ミス桜桃実行委員長、橋井利佳子襲撃実行犯1
・新田~3‐A~空手部主将、橋井利佳子襲撃実行犯2
 ――加納」

 加納勇介からのメールは、久作を絶句させた。
「橋井利佳子襲撃実行犯」、この単語が脳みそに突き刺さった。冷静になれと自分に言い聞かせつつ、加納に「ありがとうございます」と返信し、ベッドから立ち上がり、リングブーツを履いた。もう十七時、いや、まだ十七時だと頭の中で繰り返す。三時間というタイムラグは頭と体を休息させるには十分だった。データリンク、メールがまだ二通で着信履歴もないので、何事も起きていない。露草葵とフレディ君に挨拶をして、久作は保健室から飛び出した、駐輪場に向かって。保健室から駐輪場までは全速力で一分ほどだった。途中、もう一度、加納からのメールを見て、それを頭にインプットする。


『第十四章~ダブルチーム』

 露草葵の部屋、保健室から一分、大きな駐輪場が見えた。学園入り口のすぐ隣に、アルミ屋根がずらりとならんでいる。そこに四人の姿が見えた。一番背の高いシルエットは須賀だった。一番小さいのはアヤ。残り二人がリカとレイコ。方城らしき姿はなかった、バスケ部の練習だろうか。
「ごめん、待たせ……て」
 リカたちに向けて言いかけた久作だったが、言葉尻が消えた。リカたちの前、十メートルほど先に人だかりが見えたからだ。歩調と呼吸を緩め、久作はリカたちに近付きつつ、前方の人数を数えた。二十九、三十、三十一、三十二……三十七人。その中の男性七人が集団の先頭に立ち、学園入り口とリカさんや須賀の前にずらりと並んでいた。保健室から学園入り口まで全速力だったので、リカの隣に辿り着いた久作の息は荒かった。
「速河く――」
「速河ぁ! 待ちくたびれたぞ!」
 どこかで聞いた声だ。リカとアヤをそっと割って、三人の先頭に立っていた須賀と並んだ。
「大丈夫か、速河?」
 須賀が慎重に言った。視線は前方の群集に向けられたままだ。
「僕は問題ない。それより、これは?」
「つい五分ほど前、お前を待っていた俺たちに、この集団が声をかけてきて、こうなった。まだ会話らしい会話はないので先方の意図は知らんが、おおよその察しはつく」
「何だ? 須賀ぁ! 作戦会議でもやってんのか!? ナイトのお二人さんよ!」
「佐久間? 佐久間準か?」
 人の名前を覚えるのが苦手で、顔と名前が一致しないことが多々ある久作だったが、佐久間準の顔と、その荒々しい口調はぴたりと一致した。
「佐久間準、何か用事かい? 僕らはもう帰るところで――」
「帰れると思ってんのか!」
 久作の軽い口調の科白は、佐久間の怒鳴り声でかき消された。
「まあ待て。速河久作、1‐Cだったか? お前と隣の須賀、そして方城といったか、お前らは目立ちすぎだ」
 佐久間を制した男が、ゆっくりと言う。
「ミス桜桃学園は生徒全員が楽しみにしている行事だ。それを、お前らと、後ろの三人は滅茶苦茶にしてくれた」
 後ろの三人とは、リカ、アヤ、レイコのことだ。
「ミス桜桃はな、誰が一番美人か、それを決めるものだ。三人が並んで一位なんてのは、論外なんだよ」
 誰が一番の美人かなんてものは好みの問題だ、そう言ったのはラプターズのベース、真樹卓磨だっただろうか。
「実行委員会としての体裁もあるから、今回は三人全員がミス桜桃ということにしたんだが、そこまではいいとして、速河、須賀、そして方城、お前らは何だ? 三人と付き合ってるらしいが、それだと困るんだよ、こっちは」
 冷淡な口調が続く。こいつが河野だ、久作は確信した。3‐Eでサッカー部キャプテン、そして……リカさん襲撃の実行犯の一人。瞬間的に血液が泡立ちそうになった。まだだ、冷静に、久作は再び自分に言う。
「リカさんたちがミス桜桃になるのは良くて、でも僕らが付き合っていると困るというのは、どういうことですか? サッカー部キャプテンの河野先輩」
「ほう、俺を知っていたか、大した奴だ。佐久間が言っていただろう? 目立ちすぎだって。ミス桜桃は学園のアイドルなんだよ。そこにお前みたいなのがいると、アイドルに憧れる生徒が近づけない。お前らがガッチリとガードしているからな」
 話の意図がつかめない。この河野という男は、結局、何がいいたいんだ?
「速河、代われ。ラチがあかん。河野、先輩でしたか? ミス桜桃が生徒のお祭り行事で、学園のアイドルを決めるものだというのは解かりました。しかし、それと俺や速河が誰かと付き合っているという点に、何か問題がありますかね?」
「誰か、なら問題はないさ。しかしな、須賀といったか? お前らが付き合っているのは桜桃学園のアイドルだ。どこの誰だか知らんお前らのような奴らがそのアイドルと付き合うってのは、不釣合いなんだよ。不釣合いで、そして、俺たちには邪魔なんだよ」
「速河、そういうことらしい」
 須賀が言ったが、久作はまだ意図がつかめていない。それに気付いてか、須賀は言った。
「学園のアイドルの相手にふさわしいのは、自分たちだと、そういうことですか? サッカー部キャプテンの河野さん」
「高等部一年の学年成績ベストワンか、須賀。お前は話が解かる奴らしいな? それでだ、話の解かる須賀、提案だ。お前と隣の速河、そして方城とかいう奴、三人揃ってしばらく病院で眠っていろ」
 河野が軽く手を上げると、それが合図だったらしく、他の連中が少し散って、久作と須賀に近付いた。手に何かを握っている者もいる。
「はは、河野キャプテン、その提案はさすがにのめませんよ。俺は病院というのが嫌いでしてね。エタノール臭だけで逃げ出したくなるくらいなんですよ。河野キャプテンは病院が好きらしいみたいですから、そちらが全員、病院に行ったらどうです? 俺からの提案です」
 サッカー部キャプテン、河野が、くくく、と笑った。
「須賀恭介だったな? 面白い奴だ。その提案というのは、つまり俺たちに対する宣戦布告ってことか?」
「少し違いますね。宣戦布告をしたのはそちらで、俺のは、最後通告ですよ?」
「キャプテン!」
 誰かが大声で言った。元木? サッカー部レギュラー、2‐Dの元木というのがその声の主だろうか。河野より少し小柄だが、須賀よりも一回り大きく見える。河野と須賀の身長が同じ程度、百八十センチ強。元木であろう男がそれより十センチほど低い。
 身長は須賀のほうが上だが、体格に明らかに差があった。サッカー部は真面目に練習しているらしいが、肝心のキャプテンは先の通りで、桜桃サッカー部は弱小らしい。
「河野キャプテン!」
「……話はこんなところだ。佐久間、お前はあの速河とかいう奴だったな? 好きにしろ。元木! 井上! 藤原! 永山! 須賀恭介とミス桜桃だ!」
 須賀と、ミス桜桃? そこでどうして、リカたちの名前が出る! 三人が須賀に向かい、二人がすぐ後ろのリカ、アヤ、レイコに向かってくる。
「リカさん! レイコさん!」
「速河! 他人の心配してる場合か?」
 全速力で佐久間が久作に突進してくる。右腕が大きく振りかぶられていた。久作は背後と前方に素早く目を走らせ、全身に力を入れる。
 ドコン! と物凄い音がして、佐久間が頭を後ろにそらせ、一拍おいて、倒れた。久作と倒れた佐久間とは二メートルほど距離がある。久作はまだ構えてすらいない。何がどうした?
「あのさ、俺ってさぁー」
 場違いな軽い口調、聞き覚えのある声だ。
「アヤのいってた、ザコ扱い? それっぽくねーか? 授業でもテストでも全然目立ってねーしさぁ」
 久作は素早く声の主を見る。紅くなりかけた夕日の逆光のため、顔や服装はシルエットになっていて見えない。
「まあ、体育とかでは、それなりに頑張ったつもりなんだけどな、やっぱ学生はテストでいい点取らなきゃダメだよな?」
「方城?」
「方城護ー!!」
 久作の声は、背後のアヤの悲鳴に近い叫びで消えた。
「すまん、速河。バスケ部でミーティングがあったんで、少し遅れた、悪い」
 二歩ほど移動して、顔が見えた。方城だった。
「て、てめぇ……方城!」
 地面に這{は}いつくばった佐久間が、搾り出すように言い、方城を睨みつけている。既に全身埃まみれである。
「お前は、えーと、佐久間準だったっけ? いつだったか、速河にボコボコにされて気絶して、そのまま病院だったっけ?」
 方城が笑顔で佐久間を指差して、そして、くく、と笑った。
「誰がボコられたって!? あんな不意打ち! あんなで俺が気絶するか!」
 頭をふらふらさせて、佐久間が立ち上がった。顔が真っ赤になって、鼻血が流れていた。
「へー、立てるのか、タフな奴だなぁ。ああ、バッシュか。これがクッションになったんだな?」
 佐久間が久作に突進してきたところに、方城の右ハイキックがカウンターで顔面を捉えた、先ほどの凄い音はそれだったのか。久作の全身から力が抜けた。
「方城護ー!!」
 再びアヤが叫んだ。
「あいよー! 俺って何かザコっぽいんだけど、アヤ! 俺もなかなかカッコイイってところ、見せてやるよ!」
「おお! 行けー! スピンムーブ!」
「いや、だからそれは違うって! ……佐久間! お前の相手は俺だ。でもって、永山だったかな? お前もだ。あと、名前知らねーけどそっちの奴、あんたもだ」
 あんた、と呼ばれたのは2‐Bの藤原、野球部のベンチウォーマーだった。完全にキレた佐久間が何か叫んでいるが、もはや言葉になっていなかった。
 再び強烈な右ストレートが方城の顔面に向けて放たれたが、方城は上体をそらしてそれを交わし「スピンムーブ!」と叫んでから体を地面すれすれまでに下げ、地面を這う右ローキックを佐久間の右ふくらはぎに叩き付けた。佐久間が激痛で叫びバランスを崩す。方城は姿勢はそのままで地面でくるりと右回転して、バッシュの底を佐久間の右脇腹に入れた。佐久間が左に流れるのを待たずに方城は地面を蹴って飛び、「エアドライヴ!」、佐久間の隣にいた1‐C永山の胸元に両膝を突き刺した。
 五秒、それくらいだっただろうか。
「いけね、ダブルクラッチ、忘れてた。っつーか、さっきのスピンムーブじゃねーし、エアドライヴって何だよって話だ? まあ、いいか。アヤー! こんなんでどーだ?」
 気絶した佐久間と永山をバッシュの先でつつき、方城は、いつの間にか久作の隣に移動していたアヤに言った。
「……す、スゲー! 方城護! イカすー! 速河久作並のウルトラコンボじゃんか!」
 アヤの瞳がキラキラと輝いている。二つに束ねた金色の髪を揺らして、その場でぴょんぴょんと跳ねている。
「方城……方城! ダメだ! お前はバスケ部のエースで! 手を出したりしたら――」
「速河、俺、手は出してねーぜ。足出しただけだ」
 確かに、方城は手を出していない。蹴りを数発と膝を一撃、全て足だ。いや! そういう問題じゃあない。
「そうじゃないよ方城! 手でも足でも頭でも同じだ! 暴力沙汰になったらバスケ部は休部か廃部に――」
「あのさ、速河。俺は成績悪いんで、先のこととかまでは考えられねーんだ。目の前のことに集中、それしかできねー。それでもいちおう考えてな、バスケ部のキャプテンに退部届を預けてきた。ああ、言っとくけど、預けただけだからな? 俺はバスケやめるつもりは一切ない。ただ、バスケ部に迷惑かけるかもって思ったから、キャプテンに事情を話して、退部届を渡したんだ。最悪はそーなるかもしんねーけど、まあ、その時はその時でまた考えるさ」
 どうしてだろうか、久作は目頭が熱くなった。何事も自分一人でこなすべきだ、他人に下らない迷惑をかけない、ずっとそういうスタンスだった久作に対し、方城は、彼の命といってもいいバスケを賭けて、この場にいる。ミス桜桃への戦術、臨機応変に対応、ラプター編隊、そんなことを考えつつも、やはりどこかで自分一人でと考えていた久作の二歩ほど先に、方城が立っている、彼の命であるバスケを賭けた方城が。頼るだとかそういった言葉は浮かばなかった。ただ、嬉しい、それだけだった。
「方城!」
「ん? 何だ速河?」
 久作は方城を見詰めて、両手を強く握り締める。
「任せる! 自分の判断で動いてくれ!」
 一瞬の間。
「了解、ボギー1。さぁて、ザコその1と2は片付いた。あんたの番だ。二年? 名前知らねーけど、あんただよ」
 藤原、2‐Bで野球部のベンチウォーマーの「あんた」は気絶している佐久間と永山、そして方城を見た。十五センチ近く身長差があるので、藤原は方城を見上げていた。
「ふ、ふ、藤原だ!」
「え? ああ、あんたの名前? 別に名乗らなくてもいいって。どーせザコその3なんだろ? あー、何か俺の相手って全員ザコばっかしだな。なあ、アヤ? ザコ相手ってことは、俺ってやっぱザコなのかー?」
「いいぞ! 方城護! ザコ相手でもフルコンボ炸裂だぁー!」
 アヤがファイティングポーズから左右を繰り出している。
「誰がザコだ! おい! お前ら!」
 二年藤原の掛け声で、十五人ほどが方城に向けて走り出す。
「いいねー、規格外オールコートの超ゾーンプレスってか? 野球部だかサッカー部だかのザコ軍団、バスケのスピードについて来れるか? ……桜桃のスコアリングマシン、エースの俺、方城護をナメんなよ! でもって、いきなり全開ハイスピードドライヴ!!」
 上着を脱ぎ捨てた方城が、バッシュで地面をえぐり、集団に向けて鋭く駆け出した。
「やれやれ」
 と、隣で方城の様子を見ていた須賀が溜息をついた。
「速河。おいしいところを全部、方城に持っていかれたぞ、どうする?」
 須賀は、方城の雄叫び、技名だろうそれを聞きつつ半笑いで言った。
「俺たちは窮地{きゅうち}だったはずなんだが、すっかり状況が変わった。多勢にどうするか対応を考えていたんだが、方城がいきなり十五人近くも持っていった。残りはたったの十五人だ。これでは単なる小競り合いだ」
 そんなことを言いつつ、須賀は何やら周囲に目をやっていた。
「何か適当な……おっと、適当どころかそのものがあるじゃあないか。さて、速河、俺も十五人ほど貰うぞ?」
 須賀はそう言ってから二歩、前に出て、別集団の先頭の人物を半分閉じた目で睨んだ。
「サッカー部の河野さんでしたか? それと隣は、同じくサッカー部の元木さん。井上さんは、なるほど、見ての通りの野球部か。二つ三つ言いたいことがあるんだが、まずは、井上さん? その金属バットで俺を打ちのめしてみて下さい」
「須賀!」
「須賀くん!」
 久作と、背後のリカから悲鳴が響いた。須賀はその悲鳴に振り返り、まあまあ、とゼスチャーして、再び井上を向く。
「どうしました? 聞こえませんでしたか? ああ、こちらがまだ構えていないからですか。では……」
 そう言うと、須賀は、どこからか拾ったらしい棒を握り、その先端を井上に向けた。
「かなりくたびれているが、これでも立派なバンブーブレードだ。井上さん、俺は構えた……全く、耳が聞こえないのか?」
 井上は金属バットを右手で握り、しかし仕掛けてくる様子はない。
「下らんことに時間を浪費するのは大嫌いだ……井上! かかってこい! 野球部の補欠!」
 須賀が吼えた。そんな須賀を見るのは初めてである。久作だけではない、リカもアヤもレイコも、みんなだ。
「須賀に火が入った!」
 群集の中で駆け回っている方城が大声で言った。須賀と長い付き合いの方城は、須賀がどういう人物なのか、把握しているようだ。
「須賀! 俺は! 補欠だと? このバットが見え――」
「ごたくはいらんから、かかってこい! 何度も言わせるな! 補欠!」
 二年の井上が叫んで、その金属バットを須賀の頭に向けてフルスイングした。死ぬ! 久作は血の気が引く音を聞いた。が、その音とは別に、パン! パン! と二度、音がした。フルスイングの金属バットは須賀の頭の上を通過し、井上は、倒れた。何が起きたのか解からない。
「やはり補欠か。相手に後頭部を向ける馬鹿がいるとは、驚きを超えて呆れる。方城ではないが、こちらもザコか」
 須賀が何やら言っている。須賀が握っているのは、くたびれた竹刀{しない}だった。
「何と言うのか、俺もリカ君の前で少しはいい格好がしたい。付き合っている、ということになっている、というのもあるが、まあそれは置いておき、女性にいいところを見せようとするのは、まあ健全だろう? 速河?」
「え? 何? あ、ああ、そうだね。そうだけど、その……」
 笑顔の須賀は、久作と、背後のリカを見た。
「須賀くん? いいところって、喧嘩はダメよ! 危ないことはダメ!」
「危ないことは駄目、確かにそうだ。しかしリカ君。さきほどの、井上だったか? 奴のバットは危なかったかい?」
 リカは倒れている井上を見た。ピクリともしない。金属バットがごろごろと転がって、止まった。
「危ない……えっと、え? 須賀くんも棒を持ってて、井上? その人は倒れてて、何?」
 リカがしどろもどろで誰かに質問している。その相手が久作なのか、レイコなのか、須賀なのかは、当人にも解かっていないようだ。
「詳細は後ほどということで……サッカー部のキャプテン、河野さん。おさらいをしておきましょう」
 井上と須賀を交互に見ていた河野が、体をぴくりとさせた。
「俺たちは帰宅しようとした。そこにそちらの面々、方城のお陰で数人は既に寝ているが、それが学園入り口を塞ぎ、ミス桜桃に関して何やら言った。それがそちらの宣戦布告で、俺は、最後通告をした。またこうやって喋っているということは、律儀にも二度も最後通告をしているということだが、ついでだ、これも繰り返しておこう。俺は病院が嫌いで、そこにはあなたがたが行くべきだ。脳に障害があるらしいから、ついでにMRI精密検査を受けるといい。言語障害でも早期発見ならば治る可能性はある」
 須賀の科白にサッカー部キャプテン、3‐E河野の表情が変わった。倒れている井上の横の金属バットを手にして、冷たい笑顔で睨んでいる。氷の視線が須賀の眉間に突き刺さる。
「脳に障害……須賀、それはつまり、俺を挑発していると、そういうことだな?」
 目付きが変わった。冷静にキレる、そういった状態だ。サッカー部キャプテン河野と須賀の身長はほぼ同じの百八十センチ強。いや、河野のほうが若干上だろうか。体格は雲泥の差。そして、河野の手には金属バットが握られている。リカが久作の手を握った。危ないどころではない。河野が金属バットをバッターのように横に構える。と、須賀が構えを下げて、逆に声色を上げて河野に言った。
「ああ、一つ言い忘れていました。脳障害があるようなので理解できるかどうか解かりませんが、俺は剣道を少しかじってました。腕前はたいしたことはありません、殆ど素人ですけれどね」
 須賀のバンブーブレード、竹刀がゆっくりと河野に向けられる。対する河野は、須賀の言葉に若干困惑している。殆ど素人という須賀の竹刀は、二年の井上、野球部補欠をあっさりと気絶させた。河野は冷静に須賀の力量を測ろうとするのだが、須賀の科白がそれを邪魔する。
「金属バット、破壊力はあるでしょうが、サッカー部のあなたがそれを使いこなせるのか、気になりますね。横に構えて相手の攻撃をさばけますか? さて、雑談はこのくらいだろう。下らん時間はもういい……河野、あと元木だったか? いつでもこいよ」
 しかし河野は動かない、サッカー部レギュラーの元木も同じく。野球部の井上は倒れたまま。須賀の竹刀の先端がそれぞれをゆっくりと指す。ふう、と溜息を漏らした須賀は、構えたまま言う。
「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ? 日本語が理解できないのか? 同じことを何度も言わせるな! 下らん時間に付き合うほど俺は暇じゃあない!」
 左足で地面を蹴った須賀が、サッカー部レギュラーの元木と距離を詰めるのに一秒。胴に竹刀が一撃で0.五秒、頭頂部に一撃で0.五秒。二秒で元木は倒れた。元木が構えていたかどうかは定かではない。須賀と須賀の竹刀の動きが早過ぎて、結果しか解からない。どさりと仰向けになった元木を見て、河野は呆然と立ち尽くしていた。
「リカ君、どうかな? 俺もなかなかのものだろう?」
 あの速度の動きをリカが追えるはずがない。久作の手を握ったまま、リカは、須賀とその科白と、倒れている元木を交互に見る。
「……え? 何? 須賀くん? えっと」
「す、須賀恭介スゲー! チョーチョーマッハコンボ?」
 アヤが簡単に解説した。
「河野、お前はサッカー部だろう? 蹴りのほうがいいんじゃあないのか? それとも、そのポケットに入っているナイフでも使うか?」
 文字通り秒殺された元木を見ていた河野が、須賀を睨んだ。そして、ポケットからナイフを出した。
「1‐Cの須賀恭介、お前は死にたいらしいな……」
 バタフライナイフが河野の手の上で器用に踊っている。リカが無言の悲鳴をあげた。須賀が手にしているのは竹刀。腕前は見ての通り、かなりのものだか、相手が刃物を持ち出すと……そこで久作の思考は止まった。須賀がそれを継いだのだ。
「アーミーナイフでも出てくるのかと思っていたが、まさかそんなオモチャだとは、話にならん。まあ、お前がそれでいいと言うのなら構わんが。いつでもいいぞ、来いよ、河野キャプテン」
「須賀……死ね!」
「そんなつもりは毛頭ない」
 一直線に突き出されたバタフライナイフは、須賀の竹刀でいとも簡単に弾かれ、植え込みに消えた。ナイフを弾き飛ばした竹刀は素早く方向を変え、河野の即頭部を打った。かなりの衝撃だったらしく、河野が悲鳴を上げてよろけた。
「キャプテン!」と河野の背後から声が聞こえた。すると、即頭部に手をやったままの河野に、あの冷たい笑顔がすぐに戻った。
「……須賀恭介、剣道というのは一騎打ちが基本だよな? 俺はサッカー部のキャプテンで、サッカーはチームプレイだ。ここで俺が仲間と一緒に貴様を囲んでも、卑怯ではないだろう? たまたまお前が剣道で俺がサッカーだった、単なる競技の違いで、ルール上は全く問題ない、違うか?」
 河野が手で合図を送ると、イレブン、ではなく十五人近くが須賀の目の前に広がった。くたびれた竹刀を中段に構える須賀と、その集団。久作の手をずっと握ったままのリカの手に力が入る。リカの訴えに応えて久作は一歩前に出た。が、須賀がそれを制した。
「速河、気持ちはありがたいが、最初に十五人ほど貰うといっただろう? リカ君の前で、俺もなかなかに格好がいい、というところを見せたい、ともな」
 言い終わらないうちに五人が須賀に殴りかかってきた。が、五秒で全員が倒れた。須賀の竹刀の残像だけがかろうじて見えた。立ち位置は数歩の範囲内で、周囲に五人が気絶して転がっている。久作とリカは目を点にして止まったままだった。一人、アヤだけが大騒ぎしていた。
「またまたまたの秒殺コンボー! 須賀恭介って何者だー!? 方城護! こいつ何者だ?」
「スティール! えー? 何? 須賀が何って? あいつは、フェイダウェイ! あいつは剣道やってたんだよ、ってザコ! ウゼーぞコラ! ダンク!」
 方城が技名らしきものを叫ぶたびに、誰かが倒れ、群集は既に数人にまでなっていた。方城はこの状況下で、喧嘩ではなく、バスケットボールをやっているらしく、アヤの声にもしっかりと応えるだけの集中力をキープしていた。
「いやだから! 剣道やってたのは見たらわかんの! 何でマッハコンボなのよ?」
「何でって、須賀は小学校から中等部一年まで剣道やってて、確か、中等部一年の冬の全国大会で三位だか四位だかになったからじゃねーの? スピンムーブ! あ、この技、結構使えるな」
 大声での方城からの解説に久作は納得し、リカも少し安堵したらしい。その解説に一番驚いたのは、サッカー部の河野だった。須賀が、やれやれ、といった風な溜息を一つ、竹刀を握りなおした。どうやら須賀は、自分の過去をあまり人に知られたくなかったらしい。その一端を方城とアヤによって暴露された須賀は、ならば仕方がないという表情で、河野を睨んだ。
「サッカー部キャプテン、三年の河野。人に向かって「死ね」などと言うのは最低だ。そもそもお前は、既に二度ほど死んでいるんだ。俺が手にしているのは竹刀だが、これが日本刀だったらどうなる? バタフライナイフと貴様の腕は一緒に植え込みの中だ。そこで大量出血によるショック死。頭に入れた一撃が鉄パイプならば頭蓋骨骨折で死亡。そして……」
 須賀がその竹刀を上段に構える。河野は、先の五人の様子、一瞬だったがそれを見て、完全に戦意を喪失していた。小さく悲鳴を上げ、やめてくれと必死にゼスチャーしている。その河野の頭頂部を、須賀の竹刀が一閃。大きく弾ける音は、河野の意識が飛んだ音だった。それを見た残りの軍勢は、八方に散って逃げ出していた。
「全く、下らん。何が一騎打ちだ。剣道が剣術であり、合戦を前提としたものだというのは常識だろうに。しかしまあ、リカ君、どうだろう? 格好のいいところを少しは見せられたかな?」
 河野が倒れ、須賀は竹刀を下ろして振り返り、小さな笑顔で尋ねた。
「格好のいい……ところ?」
 須賀が危険ではなくなったことは解かったが、リカは戸惑っていた。
「えと、ええ、格好いいけど、その、何?」
「ったくー。藤原とかいうの、野球部? こいつ。ザコ軍団で一番強そうだったから後回しにしてたのに、軽く蹴っただけで倒れやがった。いちおう必殺技っぽいのを考えてたのに、使うヒマもねーでやんの。だからザコ相手はイヤなんだよ」
 リカの言葉を消すように、方城が溜息交じりで寄ってきた。方城のかなり後ろに藤原とかいう男子が仰向けで倒れていた。少し離れた場所で佐久間準を筆頭に三十人ほどがうめき声をあげている。須賀の前では、井上、元木、そしてサッカー部キャプテンの河野とその仲間が、それぞれ倒れている。逃げ出した連中と合わせると三十七人近くになるだろうか。
 佐久間、永山。藤原、井上、元木、河野……。久作はそれぞれを見て、何かがおかしいと感じた。


『第十五章~カラミティ・ジェーン』

「いやーだ! 何ー! 痛いー!」
 久作の背後から女性の悲鳴が聞こえた、レイコだ!
 しまった! 前方ばかりに注意がいっていて、後ろががら空きだ! 久作はリカとアヤを強引に押しのけ、高等部校舎を向いた。ちらりとデジタル時計を見ると、表示は十七時三十二分とあった。
 すぐ後ろにいたはずのレイコは、紅く照らされた校舎入り口前の階段の辺り、久作たちより二十メートルほど離れていた。そして、そのレイコの横に男性がいた。

「O BLITHE New-comer! I have heard,I hear thee and rejoice.
O Cuckoo! shall I call the Bird,Or but a wandering Voice?
While I am lying on the grass Thy twofold shout I hear,
From hill to hill it seems to pass,At once far off, and near.
Though babbling only to the Vale,Of sunshine and of flowers,
Thou bringest unto me a tale Of visionary hours.
Thrice welcome, darling of the Spring! Even yet thou art to me
No bird, but an invisible thing,A voice, a mystery」

 レイコの横にいた男性が、歌うように言った。どこかで聞いたフレーズだ。久作はレイコとの距離を縮めつつ、隣の男性を凝視した。
「君は確か、1‐Cの速河久作くん、だったかな?」
 軽い口調だった。レイコの左腕をがっしりとつかんでいる。
「月末の学力テストではかなりの点数だったよね? 最初の成績からいきなり学年四位とは、見事なものだよ」
 見覚えのある顔と、言葉遣い。
「コールリッジもいいが、僕はワーズワースの、この詩が大好きなんだよ。素晴らしい詩だと思わないかい、速河くん? おや? 速河くんは英語は苦手かい?」
 返事はせずに、距離を詰めつつ言葉を待つ。

「おお、陽気な訪問者よ! 確かに汝だ! 汝の歌を聞き、私は喜びに満たされる!
 おお、郭公よ! 汝が鳥であろうはずはない! 彷徨える聖なる声ではないのか?
 緑なす草の上に横たわって 二重の叫び声を私は聞く
 丘から丘へとその歌は通り過ぎる ひとたびは遠く、ひとたびは近く
 ただ谷間へとあどけなくも呼びかけるが 太陽の光に満ち、花々の香りに満ち
 汝は私に、かの秘密の物語を語る 地上を離れた想像の時をもたらす
 みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ! 私にとって、汝はまさに 鳥ではなく、不可視の存在である その霊妙な声は神秘の精髄である!」

 レイコの左腕をつかんだまま、男性はまた歌うように言った。夕焼けだろうか、全体がかすかに赤い。
「「カッコウに寄す」、いい詩だ……僕の気持ちを代弁しているようだよ」
「あなたとは会話をしたことはありませんが、何故だかよく知っていますよ……先生」
 久作は静かに言った。遠くでエキゾーストが聞こえた。脳内ではない、どこか遠くだ。
「IFDL、作動」
「うん? 何かな?」
「イン・フライト・データリンク、照合……脇田哲平{わきた・てっぺい}、二十八歳。私立桜桃学園高等部、英語Ⅱ教師」
 凝視したまま、久作は淡々と喋る。
「あははは! おお、陽気な訪問者よ! 何だ、僕のことを随分と詳しいみたいじゃあないか? 速河くん?」
「二年前、リカさんを襲わせた理由、まずはそれが聞きたい」
 思考が一瞬でフルスロットルとなり、脳が悲鳴を上げている。もうしばらく我慢しろ、そう自分に言い聞かせる。
「ひとたびは遠く、ひとたびは近く! リカさん? ああ、橋井くんか! 何、大した理由じゃあないよ。ちょっと夜に遊ぼうかと何度か誘って、それを全て断られたから、ただそれだけだよ?」
 当然だ、といった調子で、英語Ⅱ教師、脇田哲平は言った。久作の思考速度が限界域に達するまで、残り十秒あるだろうか。
「ただ、それだけ……今回の、ミス桜桃で、リカさんとアヤちゃんとレイコさんを選んだのは?」
「みたび歓迎の言葉を、春の寵児よ! 三人ともとても魅力的だからね、迷ったんだ。迷って迷って、じゃあ三人にしようと、自然な判断だろう?」
「……レイコさん、彼女が隣にいますね?」
 遠くのエキゾーストが少し大きく聞こえた。
「迷ったんだけど、あえて順番をつけるとすると、加嶋玲子くん、この子が一番の好みなんだ。私にとって、汝はまさに鳥ではなく、不可視の存在である!」
 思考をねじ伏せて淡々と言う久作に対し、脇田哲平は歌うように喋る。よし、とつぶやくと、久作の思考はぴたりと止まった。大きく深呼吸し、脇田哲平とレイコに向けて歩を進める。脇田が右手に何かを握っていたが、無視して歩く。視線は、レイコを握っている脇田の左手に固定されたままだった。
 残り五歩、四歩。
「速河くん。君が何かの格闘技が使えるということは佐久間くんから聞いているよ」
 三歩、二歩。
「だから、これを使わせてもらうよ!」
 久作の右肩に激しい打撃痛が走ったが、それも完璧に無視した。最後の一歩、左足を地面にゆっくりと置き、久作は脇田の左手をつかんだ。
「久作くん!」
「速河くん? あぁぁっ!」
 脇田が悲鳴をあげた。関節の稼動域を無視してひねり上げられた脇田の左手が、レイコを放した。解放されたレイコが久作に抱きついた。涙声で「ありがとう」と言っていたが、その科白もそっと横に置いた。
「レイコさん、向こうに方城と須賀がいる、走って」
 言われたレイコは素早くうなずくと、持ち前の俊足でリカやアヤがいる方向に駆け出した。左手をさすりつつ、脇田哲平が笑った。
「あはは! そういえば、加嶋くんと君は付き合っているんだったかな? ナイト様の登場と、そういうわけか?」
「ナイト? 違うぞ脇田哲平。僕はラプターだ」
 久作は、未だに笑みを絶やさない脇田に、押し殺した声で言った。
「ラプター? 鳥? 速河くんは鳥だったのか、ははは! 小鳥が何かをさえずっている! あはは! ……はぁっ!」
 脇田の右手が振りかぶられ、棒のようなものが久作の額をかすめた。
「避けたねぇ、速河くん。佐久間くんの言っていたことは本当らしい。君は格闘家か?」
「僕は格闘家じゃあない。それよりも、英語の授業に特殊警棒が必要か?」
 久作は、笑顔の脇田と、その右手に握られた特殊警棒を交互に見た。
「まあね。ほら、最近は物騒だろう? それに、生徒の中には教師に暴力を振るう不届き者もいる、君のようなね。これはあくまで護身用だよ」
「僕は何もしていない、まだ」
「まだ? つまり、これからやると、そういう意味かい? 何とも物騒な話だねぇ」
 特殊警棒がぎらりと光った。そして、久作の目も鈍く輝く。しかし、思考はローギアのままだった。
「一つ質問がある」
「何かな?」
「リカさんが訳せといった英文、それが聞きたい」
「おっとっと、何かと思えば英語の授業かい。あれは、あった、これだな、えーと」
 脇田はスーツの胸ポケットから小さな手帳を出して、それを読み上げた。
「公正な男性の経路は四方で、利己的不正行為と不吉な男性の圧制で悩まされます。
 祝福されているのは、慈善活動と好意の名にかけて、暗黒の谷を通る弱さを見張る彼です。
 彼が本当に彼の兄弟の保護者と迷子の救済者であるので。
 そして、私はかなりの復讐があるそれらと、激怒をもって私の兄弟を毒殺して滅ぼすのを試みる人を、打ち倒すつもりです。
 そして、あなたは、私があなたに復讐を横たえるとき、私の名前が支配者であることを知るでしょう」
 ははは、と脇田は笑った。
「訳したはいいが、内容がさっぱりだよ。橋井くんはどこからあの英文を持ってきたのかな?」
 久作の思考がゆっくりとその速度をあげていく。
「何だその直訳は、脇田哲平。お前は中等部一年から英語をやり直せ。いや、訳しておいてその意味が理解できないのなら、小学生からだな。まずは国語の授業をきちんと受けて、日本語を理解しろ。そして、航空支配戦闘機のラプターがシーカーを点滅させている間に、目の前から消えろ。それで許してやる」
「小学生? 許す? あはは! 速河くん、君は面白い奴だ! この警棒が――」
「棒きれでサイドワインダーを防げるのか? 無理だろう? いいから消えろ」
 依然、押し殺した声で、久作は脇田に怒鳴った。この脇田という男の言動は、自分を酷く乱す。とにかく邪魔だ、久作は乱れそうになる思考をとどめるのに必死だった。
「いい提案だね。ところで、さっきから気になっていたんだが、君は僕を呼び捨てにしているね? タメ口でもある。生徒が先生にそういう口の聞き方をするのは、良くないなー。少し説教が必要だ、そうだろう? なあ……速河!」
 脇田の右手の特殊警棒が振り上げられるのと同時に、爆音が響いた。
 リカたちと久作の間に、オレンジ色の物体が猛烈な速度で滑り込んできた。十メートルほど地面を削ったそれは、停止しても低く唸っていた。三十秒ほどして、全員が見詰めているそれから音が消えた。その物体の上に女性の姿が見えた。かなりの身長だ。百七十センチはあるだろうか。
「ぷっはー、ああ、しんど。えーと、何や知らんけど、殆ど終わってるんか? 気になったから飛ばしてきたんやけど、ん? 脇田センセか? 何でアタンがここにおるねん? そらおかしいやろ?」
「ラベルダ750SFC? fast! 露草先生?」
 鮮やかなオレンジ色のカフェレーサーバイク「ラベルダ750SFC」と、「fast」の刺繍が入ったトリコロールジャケットを羽織った露草葵がそこにいた。
「おお、速河。何や妙なメールが届いたから、気になって駅前からここまで飛ばしてきたでー。ミス桜桃は終わったんやろ? やのに何でここにあれこれおるねん。しかも脇田センセまで」
 トリコロールジャケットを脱いだ露草がケータイを取り出して、久作が送信したメールを見ている。

「リカさん、アヤちゃん、レイコさん、おめでとう。いろいろと複雑に思ってるかもしれないけど、今は素直に喜んでいいよ。ほかのみんなも、三人を祝福してやってあげて。――速河」、十四時十四分

 久作の腕のデジタル時計の表示は十七時五十三分。あのメールを送信してから、三時間三十九分。確かそのメールを送信した直後に露草葵と会っていて、十四時過ぎに露草にも届いているはずだ。露草にとって、久作のメールは特に不思議な内容でもなく、着信タイミングも同じくだ。しかし、目の前にオレンジ色に輝くラベルダ750SFCに乗った露草は、いる。
「露草先生? あの、気になって、というのは?」
「んん? ああ、何や、ミス桜桃を喜べて書いといて、その前に「今は」てあるやろ? 今はてのはつまり、その後は喜ぶないう意味やんか。ウチは用事があったからミス桜桃の後は市街地をウロウロしてたんやけど、ずーっとそれが気になっててな、まあとりあえず様子でも見ようか思うて、愛しのラベルダちゃんを飛ばしてきたんや。ラベルダ、ええやろ? 羨ましいやろ? 速河?」
 久作はこれで何度目かは解からないが、驚いた。露草のラベルダは羨ましいが、そうではなく、それに乗る露草の頭脳と機動力だ。何気なく入力したメールの短文の、たった一言でそこまで予想が立てられ、そして明日でも明後日でもなく、今、この瞬間に目の前にいるという事実。それらに他を一切寄せ付けない美貌と、独特の性格。無敵、久作の頭にその単語が浮かんだ。
「露草先生、あなたは無敵の保健教師だ! 凄い! ラプターの四機目だ!」
 距離があり、そして若干興奮していたので久作は露草葵に向けて叫んだ。
「おやおや? 誰かと思えば、露草先生じゃあありませんか? どうかしましたか? こんな時間に?」
 すっかり存在を忘れていた脇田が、露草に発した。そういえば、こんな奴がいたか。露草はラベルダから降り、トリコロールジャケットとフルフェイスをそれに預け、久作と脇田に寄ってきた。細いジーンズに傷だらけの黒いミドルブーツ。上は普段と同じ、半そでのシャツだった。胸元のシルバーネックレスが揺れている。久作と脇田の目の前に来た露草は、メタルフレームを指で上げ下げして、二人を交互に見る、ゆっくりと。視線が振り上げられたままで止まった特殊警棒にいった。
「はーん。だいたい解かったわ。何や妙な噂があったけど、アレ、ホンマやったんやな。なあ、脇田センセ?」
「はは、噂? 何でしょうかそれは? 露草先生?」
 露草がメタルフレームに手をやって、脇田を睨んだ。
「脇田センセがミス桜桃を利用して、女子に手ぇ出しとる、そーいう噂や。知らんのかいな? 他のセンセはみんな知っとるで? 本人が知らんいうことは、噂しとったセンセたちもそうやと思うて耳に入れてなかった、いうことやな。んで、その噂はホンマで、橋井やら加嶋やらに手ぇ出そうとして、あっちの……」
 露草は軽く振り返り、リカや方城のいる方向を見た。
「あっちの生徒使こうて速河たちを追い払おうとして、でもそれは失敗したと、そないなところか? 脇田センセ、アンタがそれ持ってるゆーことは、つまり、そーいうことやろ?」
 だいたい解かった、と露草は言っていたが、完璧であった。洞察力と分析能力、その頭脳は須賀に匹敵するか、あるいは超えているかもしれない。露草の言葉に脇田はしばらく呆けていたが、次に出たのは……高笑いだった。
「あはははは! 露草先生、その通りですよ! 方城くんと須賀くん、そしてこの速河くんが、僕の授業の邪魔をして困っているんですよ! 先生からも叱ってやって下さい!」
 何だこの男は? 久作は、笑いが止まらないらしい脇田を見て、背筋に悪寒を感じた。この状況で、どうしてそんな科白が出る? 桜桃学園のスクールカウンセラー、保健体育教師でもある露草葵の出現により、脇田の卑劣な陰謀は白日の元に晒{さら}された。もう、桜桃学園に脇田のいる場所はない。いや、教師という肩書きもなくなり、代わりに犯罪者という肩書きが付くだろう。にも関わらず、この男は笑っている。
「速河! アカンわ。こいつ、完全にイってもうてる。薬でもやっとるかも知らん。ケーサツ呼んで――」
 露草が突然左に飛んだ。いや、飛んだのではない、飛ばされたのだ。脇田が特殊警棒で露草を殴りつけたのだ。完全な不意打ちだったので久作はそれに気付けなかった。
「露草先生! ……脇田ぁ!」
 久作は露草と脇田の間に立ち、特殊警棒と脇田の顔を睨み付けた。
「ははは! 速河くんは露草先生ともお付き合いがあるのかね? 羨ましいねぇ。彼女は桜桃学園で一番だ。生徒で一番の加嶋くんと教師で一番の露草先生、二人を独り占めとは、さすがは二枚目の格闘家だ。是非とも手ほどきを願いたいねー」
「あいたた……何や? えらい強烈な、いたたた! アカンわ、骨いっとるわ、これ」
 久作の横で露草が唸っていた。意識があったのは幸いだが、かなりの重症らしい。とにかくこの脇田という男を止めないことには話にならない。
「脇田! お前は全力で……潰す!」
 左に構え、大きく深呼吸を一つ。まずは冷静に。と、脇田が割り込んだ。
「速河くん? そうしたい気持ちはよーく解かるんだがね、君の相手は別だ。新田くん、出番だよ」
 脇田が叫んだ方向は、リカたちのいる場所だ。
「速河! そいつはヤバい! マジでヤバいぞ!」
 方城の声がした。須賀の肩を借りて、かろうじて立っている。方城と須賀、リカ、アヤ、レイコがこちらに向かって来た。
「速河久作! 方城護のエアウォークがあのデカブツに撃墜されたぁー!」
 方城の腕にしがみついたアヤが、泣きながら叫んでいた。須賀が竹刀を構えたまま、久作に擦り寄る。
「新田、下の名前は知らんが、3‐Aの奴は空手部主将だ。桜桃空手部は弱小だと聞いていたんだが、あいつはどうやら別格らしい。リカ君とアヤ君、レイコ君を守るだけで手一杯だった。方城が挑んだんだが、一撃で終わった」
 須賀は息を切らしていた。
 IFDL、データリンク。ラプターズ、加納勇介からのメール。

「真樹と大道からの情報だ、役に立つと思う。
・ミス桜桃学園実行委員会
・井上~2‐B~野球部ベンチ
・藤原~2‐B~野球部ベンチ
・元木~2‐D~サッカー部レギュラー、ミス桜桃副実行委員長、ラプターズ大道と同じクラス
・河野~3‐E~サッカー部キャプテン、ミス桜桃実行委員長、橋井利佳子襲撃実行犯1
・新田~3‐A~空手部主将、橋井利佳子襲撃実行犯2
 ――加納」

 新田、3‐A、空手部主将。そして、リカさん襲撃実行犯の2。その単語に対して、久作の思考は恐ろしいほど平静だった。これほど冷静だったことが過去にあっただろうか、と思うほど、頭がクリアになっている。
「3‐Aの新田先輩。リカさんを襲ったのはあなたですね?」
 巨漢、百九十センチをゆうに超える上背と、全身を覆う筋肉。スポーツウェアの上からでもそれが解かる。
「一年の速河というのはお前だな? 佐久間を倒したという。佐久間はあれでなかなかの奴なんだが、それを倒したとなると、お前もかなりの奴か。柔道か空手でもやっているのか?」
 威圧する声色。あの方城を一撃で仕留めたという、この新田。どうやら本物らしい。
「柔道は授業で少し。空手の経験はありません」
 丁寧な口調で返し、意識を無へと集中させる。更に思考をクリアにする必要がある。全身の力を抜き、目を閉じる。
「ほう、ならばボクシングか何かか? いや、そういえばゲームがどうとか話をしていた奴がいたな。合気道か」
 空手部主将、三年の新田がゆっくりと久作に迫る。距離は、あと二メートル。
「空手でも柔道でも何でもいいですが、格闘技はそもそも精神を鍛えるものでしょう? 新田先輩、河野だとかと組んで、あそこの脇田と行動を共にするのは、空手道とはかけ離れていませんか?」
 完全に力が抜けた。思考も真っ白だ。言葉は自動的に出ているだけで、目は未だ閉じたまま。完全に無防備である。
「空手道か、まあそうだな。精神鍛錬は必要だ。だが、技術が伴わなければ格闘技とは呼べんだろう。どちらを先に鍛えるか、俺は技術、技を選んだ。河野や脇田先生と一緒にいる理由は、さっき脇田先生が言ったのと同じだ。息抜きは必要だ」
「息抜き? 息抜きでリカさんを襲って、脇田たちとミス桜桃を裏で操って、今度は三人を襲おうと? 大した空手道ですね」
 澄んだ意識、晴れ渡る思考、一点の曇りもない久作の頭には、何も浮かんでいない。
「さっきの男、方城とかいったか? あいつもなかなかのようだが、バスケットボールは単なるスポーツだ。格闘技じゃあない。だから拳の一撃で終わった。そこの、竹刀を構えている、須賀だったか? あいつはかなりの腕前らしいがブランクがあるのか、体力がないようだ。竹刀を振り回したところで、一分と持たんだろうよ。で、残ったのはお前、速河だ。どうする? 逃げるか? それも格闘技ではありだろう?」
「逃げる? そうですね、相手は空手部主将の三年、全員で走って逃げるのが一番でしょう。でもね、駄目なんですよ。なぜかというと、僕は昔、合気道を少しかじったことがあるからです。格闘技の何たるかを学びました」
「やはり合気道か。護身術のそれで、空手に挑もうと?」
「それも違います。合気道はあくまでかじった程度です。基礎だけですから柔道とさほど変わりありません。合気道を少しだけやった後に別の格闘技をやりました。新田先輩、何だか解かりますか?」
 久作の目が開いた。ここでようやく新田という男の顔を見た。色々と特徴があるが、空手部主将、とだけ表現すればそれで足りる。
「合気道を少しで、柔道でもなく空手でもボクシングでもないか、シュート、プロレス、ジークンドー、ムエタイ――」
「全部外れです。僕は……アヤちゃん!」
 唐突に呼ばれたアヤが驚いて飛び跳ねた。リカやレイコも同じくで、方城と須賀は目を丸くしている。英語教師の脇田と空手部主将の新田という、たった二人の男の出現で、再び窮地に立たされた面々、方城と須賀は体力を使い果たしている。唯一残っているのは久作だけなのだが、肝心の久作は、こう続ける。
「アヤちゃん! 格闘技で一番強いのって、何かな?」
「……へ? 何? 速河久作? えと、うん? うーんと、ビリー・ヴァイは合気道と空手で、エディ・アレックスは八卦掌{はっけしょう}と劈掛拳{ひかけん}ベースの各種中国拳法で、マイケル・ジョーはテコンドーで、どいつも使いこなせばチョー強いし……」
「アヤ? アンタ、ウチの持ちキャラ無視かいな? 速河、格闘技でめっちゃ強いのはな、ウチの持ちキャラ、カラミティ・ジェーンの八極拳{はっきょくけん}や。柔術もバーリトゥードも通用せーへんで?」
 地面に座り込んで右腕をさすっている露草が、アヤと久作に向けて言った。アヤが、なるほど、と手を叩く。
「カラミティ・ジェーン! そうそれだ速河久作! 溜め技がメインだけど、あいつの一撃、ハンパなくデカいから手強いんだよ! あ、でも、あたしは葵ちゃんのカラミティ・ジェーンに勝てるけどねー……って何の話だよ!」
 久作は呼吸を整え、腰に少しだけ力をいれた。
「アヤちゃん、露草先生、ありがとう。よし、本題に戻ろう」
 久作と、アヤと露草のやり取りを険しい目付きに睨んでいた新田が、久作にその視線を戻す。
「聞いての通りです。僕は八極拳使いです。さあ、どうします? 空手部主将の新田先輩。逃げますか? それもありですよ?」
 久作の言葉を聞き、新田は一瞬の間を置いてから、腹を抱えて土間声で笑った。
「ははは! お前はバカか? ゲームと現実の区別も付かん奴が、八極拳? 中国拳法か何かの一種か何か知らんが、ゲームの話で今それになったという、お前、速河だったな。それで俺が驚くか? 頭は大丈夫か?」
 新田はまるで、足元の蟻にでも言うように尋ねるのだが、対する久作は、同じく笑う。
「あはは! 八極拳を知らない格闘家がいるなんて! まあいいです。ごくごく簡単に言えば、僕はあなたの百倍強い。何せ八極拳ですから。空手と八極拳では勝負にすらならない。新田先輩、逃げたほうがいいですよ?」
「ふは! 速河、見え見えとは言え大したハッタリだな! 俺の百倍強いか、それは凄いな! 逃げ出したくなったよ! ははは!」
 眼光はそのままで、新田は再び大声で笑う。もはや久作など眼中にない、そんな笑いである。
「逃げ出したいが、是非ともその八極拳とやらと手合わせしたいなぁ! 勝負にすらならないほど強いか! ははは!」
「逃げない、と、そういう意味ですね? 相手が空手部主将じゃあ手加減できない。最悪、死んでも責任は取れませんよ?」
 笑顔のまま、久作は新田の眼光を軽く弾き返す。
「死ぬ? それはまた凄いな!」
「それでもいいと? だったら、ここにいる全員、露草先生を含めた全員が、先輩の意見に同意した、証人だということで。これなら新田先輩が死んでも僕には責任はない」
 アヤが悲鳴をあげた。リカとレイコは声すら出ない。方城と須賀は完全に凍り付いている。ただ一人、露草葵だけが何やら意味ありげな眼差しを、メタルフレームの下で光らせていた。
「速河、それは、お前が死んでも俺に責任がないという意味だぞ?」
「無論、そうですね。まあ、そんなつもりは欠片もありませんけど。最後に、もう一度だけ言っておきます。新田先輩、八極拳使いの僕、速河久作から、あなたは逃げたほうがいい。でないと死ぬかもしれない」
 新田が構えた。
「解かったよ、速河久作。八極拳だか何だか知らんが、口ではお前の勝ちだ……さあ、かかってこい!」
 構えた新田が叫んだが、久作は動かない。
「どうした? 構えないのか?」
「構え? 八極拳には基本的に構えなんてありません。それでもこうやって立っている、この姿勢がまあ構えみたいなものです。新田先輩、僕はあなたに八極拳を伝授するつもりでここにいるんじゃあない。もう勝負は始まってます。早くかかってきてください。時間が勿体無い。自慢の空手は実はハッタリでしたか?」
「な? は、速河ぁ!」
 蟻のごとき久作が、突然アヤや露草とゲームの話を始めて、それで空手部主将の自分と勝負して必ず勝てて、しかも死ぬかもしれないと言う。新田はキレる、当然ながら。空手道だとか格闘技だとか、そういう以前の問題だ。
「あら? カラミティに構えあるで? なあ、アヤ? 今度のミラージュ2で何か変わるんかいな?」
「うんうん……うん? もしかして速河久作、八極拳知らねーんじゃねーの! ヤバいヤバい! 葵ちゃん! 久作が死ぬかも! あたしのせい? ヤバいー! 誰か止めれーー!」
「須賀! 俺が行くからアヤとかを頼む! 速河が言ってただろ? 逃げるのもいいって。その時間を稼ぐ! 速河! こんな下らねーことで死んだらシャレになんねー! くそっ! 肋骨やられてるのか? っつーか、肋骨が何だってんだ! 少し待ってろ! 桜桃バスケ部エースの底力、ナメんなよ!」
「お前がそういう奴だということは知っているが、この状況下でその選択は得策じゃあない。卑怯かもしれんが、俺も出る。どうせ勝負は一瞬だ、リカ君たちは、あの脇田という教師に注意しつつ、いつでも逃げられるように心構えをしておいてくれ」
 リカの返事を待たず、ほぼ同時に、方城と須賀が駆け出した。新田の咆哮が高等部校舎に跳ね返り、全員の耳を揺さぶる。


『第十六章~ハイナイン・プラス』

 カラミティ・ジェーン。3D格闘ゲーム、ミラージュファイトの女性キャラクターの一人で、八極拳使い。保健室の主、スクールカウンセラー・露草葵の持ちキャラで、桜桃学園で唯一、アヤのエディ・アレックスと対等に戦える相手である。
 その八極拳使い、カラミティ・ジェーンとなった久作は、意識を集中。激昂した空手部主将三年の新田を眼前に、思考をフルスロットルから更にスーパークルーズ(超音速巡航)へ。マッハ1.58、音速を超えた久作の世界がスローモーションになる。
 新田の、胸元を狙った正拳突きがゆっくりと迫る。届くまでまだ0.二秒はある。久作は両足を並行に、二歩半の間隔で開き、爪先は正面を向いたまま。腰を少し落としている。「気を練る」ということをやったことのない久作は、コンマ二秒で試しにそれをしてみた。これが出来なければ八極拳は成立しない。……そう、久作は八極拳を「知っている」のだ。
 こうだろうか、と自分の知識を総動員し、試しに、向かってくる正拳突きに左手掌を当ててみた。左足も同時に前に出る。正拳突きを上からゆっくりと叩き落とす。世界の速度が通常に戻り……。
 パン! 空気が弾けた。スーパークルーズの久作は気付いていないのだが、決死の覚悟で飛び出した方城と須賀の足が止まっていた。二人共、まだ二歩しか足を踏み出していない。新田の右手から放たれた正拳突きは、久作の左足の向こうの地面に向いて、空を切る。左手にしびれはなかった。どうやら気を練れたらしい。気を練れた、つまり、「勁{けい}」が使えるようになった。
 アヤと露草葵の助言と、新田の放った右正拳突きのお陰で、速河久作の「架空の八極拳」は、元々持つ知識から「音速で」現実のものとなった。先ほどの、右正拳突きを打ち払ったのは、勁の防御技である「化勁{かけい}」といったところだろう。合気道と柔道の経験と、元々ある身体能力。これらと膨大な知識、そして、速河久作の最大の武器である「桁外れの集中力」が組み合わさり、いきなり「速河流八極拳」が誕生したのだった。
 渾身、一撃必殺の右正拳突きを軽く叩き落された新田は、困惑していた。
 空手部主将で、バスケ部エースの方城を一撃で仕留めた彼は、たった一発の右正拳突きにより、唐突に、久作の敵ではなくなってしまったのだ。しかし新田は、そもそも何をされたのかすら理解しておらず、久作もまた「速河流八極拳」が誕生したことに気付かなかったので、新田から蹴りが放たれる。新田の、全体重を乗せた高い左回し蹴り。インパクトの瞬間に上体を軸足と一直線にするよう回転し、上から足を蹴り落とすそれは、方城でも気絶するであろう。顔面に決まれば鼻の骨は折れ、最悪、死に至る、それほどの回し蹴りだ。その強烈な左回し蹴りは、インパクトのコンマ一秒前に久作の右鉤手{かぎて}で打ち上げられた。
 バン! と鈍い音が響き、新田が姿勢を崩す。顔面を狙った高い左回し蹴りをさらに上に向けられた新田が、軸足を滑らせて倒れる。こちらも化勁、防御だった。久作の右手に痛みはない。素早く立ち上がり、再び右に構えた新田が何か叫んでいたが、スーパークルーズ(超音速巡航)の久作の耳にそれは届かなかった。リカ、アヤが悲鳴をあげているので、「殺す」だとかそういう言葉なのだろう。しかし久作には、自分の呼吸音と、普段より少し早い鼓動、この二つしか聞こえていない。
「次で決める」
 無意識にそんな科白が出た。新田が上段か中段か下段か、選択肢はたったの三つだった。それが拳だろうが足だろうが肘だろうが肩だろうが、速河流八極拳にはもう関係ない。上中下、そのどれなのかが解かればそれでよかった。新田は、高い右回し蹴りを出した。こめかみ、いや、顔面を狙っているらしい。顔面を狙う攻撃、それに久作の思考は一旦停止した。
 記憶を辿ると、あの佐久間準の顔が浮かんだ。いつだったか、体育館への通路で「死ね」と叫んだ佐久間準が、自慢の右ストレートを久作の顔面に向けた。顔面を狙った上段右回し蹴りと佐久間の右ストレートが重なった。
 思考再開、コンマ一秒でスーパークルーズに到達。更に、ステルス性能を無視してアフタバーナー全開、マッハ1.7を超える。久作の世界が再びスローモーションとなり、ラプターは更に音速から光速へと加速、成層圏を突破。光の赤方偏移現象により、夕日が青くなる。

 亜光速思考、宇宙の彼方に無数の星がきらめく。
 その一つ。オリオンの脇、久作の銀河の中の二十万光年先にある小銀河、NGC999999999+、通称「ハイナイン・プラス」が鮮やかに輝いている。
 久作が空想上の宇宙旅行をするときに、いつも目印にしている小銀河ハイナン・プラス。それにより自分の位置を確認し、状況を把握。新田の蹴りがまだ伸びきっていない段階で、久作は始めて構えた。

 左構え。格闘ゲーム、ミラージュファイトのキャクター、合気道と空手の達人ビリー・ヴァイと同じその左構えは、速河流八極拳の唯一の構えでもあった。
 新田の上段右回し蹴りに対して姿勢を低くして、くるぶしを狙って左拳を下から打ち上げる、化勁だ。と、同時に右足を大きく前に踏み込み、右構えにかわる。大地の震動をそのまま右肘に伝え、みぞおちに向けて、勁の攻撃技「発勁{はっけい}」を放つ。
 新田のみぞおちがへこむより先に右掌を上に見えた新田の顎に打ち付ける、こちらも発勁。踏み込んだ右足を軸にして左足を背後から地面すれすれで滑らせ、左肘を高く上げ、右掌の発勁でゆがんだ顎のさらに上の左こめかみに、発勁の左肘を突き刺す。左肘をそのまま流してもう一度左回転して右構えとなり、同時に右足を大地に打ちつけ、久作がその時点で持つ最大の発勁である右肩を、新田の胸元に叩き込んだ。
 久作の認識で十二秒、そのくらいだっただろうか。現実世界で何秒なのかは解からない。久作は大きく息を吐き出し、吸った。目を閉じ、上を向き、しばらくして、小銀河ハイナイン・プラスを探してまぶた開くと、小さな雲が見えた。夕日で紅いそれは、ゆっくりと移動している。もう一度深呼吸をすると、全身から汗がにじみ出た。が、疲労は思ったほどではなかった。掌や肘にも痛みは全くなく、かすかに何かしらの感触だけがあった。
 瞬間的にかなりの運動をしたはずの体が、普段と殆ど変わらず軽かった。佐久間準と戦ったときには、翌日、歩けないほどに消耗したが、今はその予兆の欠片もない。見よう見まねで力に任せただけの合気道もどきと、勁を自在に操る速河流八極拳は雲泥の差だった。思い出したように前方を見ると、空手部主将、3‐Aの新田がそこに転がっていた。
 単なる打撃ではなく、気を練った最大級の発勁を、みぞおち、顎、こめかみ、胸元に喰らった新田は、ぴくりともしない。発勁の大爆発を十二秒に四回も浴びた空手部主将の新田は、その爆風で吹き飛ばされ意識は完全に粉々である、動けるはずもない。
 ふと気付くと、何やら騒ぐ気配があった。方城と須賀によって打ちのめされた連中が意識を取り戻して、新田をぐるりと囲んでいた。そういえばこんな連中もいたかな、久作は特に何とも思わずその様子を眺めていた。新田はどうやら生きているらしい。最初に全員の前で「死んでもいい」と宣言していたので、久作は新田がどうなったかは全く意識していなかった。誰かが駆け寄ってきて何かを言ったが、聞き取れなかった。

 思考がまだ亜光速だった。アフターバーナーを止めてゆっくりと減速し、スーパークルーズからフルスロットル。そこからアクセルを徐々に閉じて、三十秒ほどして、ようやく久作の思考は通常のそれに戻った。五感が蘇り、にじんだ汗に風が当たって心地良い。
「速河! お前! やったのか? あのデカブツを? マジかよ、おいおい!」
 方城だった。横腹を押さえつつ、満面の笑みで片手のガッツポーズをした。
「お前が凄いのは知っていたつもりだったが、まさかそこまでとはな。未知数にもほどがある、もう完全にSFの世界だ」
 竹刀を下ろした須賀が、方城と同じく笑顔で言った。
「速河くん! あの……何ていうのか、あ、ありがとう!」
 リカが涙を浮かべていた。須賀の後ろから飛び出して、久作の両手を強く握る。その手に涙がぽたぽたと落ちてくる。
「速河久作ー! ハイパーウルトラ秒殺コンボ! カラミティどころの騒ぎじゃねーぞぅ! いったいお前は何者だー!」
 アヤが二つの金髪を揺らし、方城の横で飛び跳ねて叫んでいる。どん、と腰の辺りにぶつかってきたのは、レイコだった。ぐっと久作の腰を握り、大きな栗色の瞳で空を見上げている。
「久作くん! すごいありがとー!」
 満面の笑みで半分暗号のようなことを大声で怒鳴った。つられて空を見上げる。先ほどの紅い雲がかなり移動していた。腕のデジタル時計を見ると、十八時00分と表示されていた。十七時五十三分にラベルダ750SFCが滑り込んできて、相手が脇田から新田に代わり、舌戦{ぜっせん}と実戦。とても長い七分間だったが、それは終わった。
「新田ぁ! 何を寝ているんだ! 速河を! あいつをさっさと打ちのめせ!」
 誰かが叫んでいた。脇田だ。脇田が、気絶している新田を特殊警棒で叩いていた。
「河野! 元木! お前らもだ! あそこの速河久作を全員で袋叩きにしろ!」
 絶叫しつつ特殊警棒を振り回す脇田。完全に錯乱{さくらん}している。久作は第二ラウンドに一瞬警戒したが、結局、その言葉に従う者は一人もいなかった。
「何だ、あの脇田とかいう男は? まだ速河に手を出す馬鹿がどこにいる?」
 須賀が呆れた声で言った。と、新田を打ちのめしていた脇田哲平がいきなり声色を変えた。
「ちっ……どいつもこいつも邪魔ばかりで役立たずだな。邪魔といえば、1‐C、速河久作、お前だよ。お前が一番邪魔なんだよな? 僕の切り札だった新田を倒す生徒が、この平和ボケした桜桃学園にいるなんて、誰が想像できる? とんでもなく邪魔な奴だよ、お前は。たかが高等部一年の一人が教師に逆らうとどうなるのか、教えてあげようじゃないか……」
 ワーズワースを歌うでもなく、新田よろしく威圧するでもなく、かといって錯乱しているようでもない。ただ一つ解かるのは、危険だということ、これだけだった。強烈に危険な匂いがする。
 警戒を、と思った直後に、ドン! と大きな音がして、突然、目の前が真っ白になった。久作は勿論、その場にいる全員が視界を失った。
「うおっ! なんだこりゃ! 前が見えねーぞ!」
 方城が叫んでいるが、声の方向は真っ白だった。
「速河! リカ君! 大丈夫か? これは……閃光手榴弾か! 英語教師がこんなものを、違法どころの騒ぎではないぞ!」
「方城? 須賀? 僕は大丈夫だ! 大丈夫だけどフラッシュ・グレネード? 目をやられて状況が解からない! 露草先生?」
 目を閉じて開いてを繰り返し両手を漂わせるが、何もない。危機感と焦燥感が頭を埋め尽くす。視界を失うことがこれほど危ういと知らなかった久作は、完全に混乱していた。
「ウチなら平気や! それより脇田センセや! フラッシュ・グレネードいうんは確か、殺傷能力はなかったはずやけど、それ使ういうことは――」
「はい、そうですよ、露草先生。先生は先ほど、僕が薬をやっているだとか、色々と酷いことを言ってくれましたね。まあ、正解だから構いません……けどねっ!」
 ゴン! 打撃音と露草の悲鳴が聞こえた。脇田の特殊警棒が露草を打った音に違いない。
「あなたには言いたいことが山ほどあるんですが、まずは僕の本来の目的、こちらが先だ。あなたは後回しにしましょう」
「何? 痛い痛いー! 見えないー!」
「レイコさん!」
 久作の鼓動がドス黒い血液を体中に送り込む。自慢の冷静さが全く戻らない。全身から汗が流れ、しかし視界は白一色のまま。頭のネジの飛んだ英語教師など空手部新田に比べればどうということはない、はずなのに、頭は混乱したままで、一歩も足を踏み出せず、手は空を切るばかり。
「皆さんは事態をご理解していないようなので、僕が解説してあげましょう」
「いやーだー! 痛い! 放してー!」
「レイコ? 脇田先生! レイコに何やってるのよ!」
 リカの叫びが左側から聞こえた。リカは無事で、方城と須賀もどうにか。露草が小さく唸っている、かなり酷い状態らしい。
「ははは! 速河久作くん。君のお陰で僕は、この平和ボケした桜桃学園にい辛くなった。だから別のところに行くことにするよ。手土産に加嶋くんを頂いてね」
「何? レイコさんを放せ!」
 久作は力一杯叫んだ。皆を心配するのはとりあえず後回しで、今はレイコだ。
「脇田哲平! 今でさえお前は犯罪者だ! 逮捕されればどうなるか!」
「賢い賢い速河くんの言う通りさ。だがね、僕は一昨年に気付いたんだよ。犯罪というのは検挙されなければ犯罪ではない、とね。言っている意味が解るかい? 橋井くん、彼女の件で僕には何も起きなかった。逮捕どころか聴取もされなかったのさ」
 見えない脇田が笑いを含みつつ、どこかから言う。どう聞いても屁理屈だが、実際の一部は脇田の言う通りではある。二年前のリカに対する襲撃。脇田が企てたらしいそれは公の事件にはならず、単に学園の噂の一つに収まっている。リカか露草がそうなるように仕向けたのかもしれないが、しかしだ。
「今回は違う! 目撃者の数から被害者の数までまるで違う! その上レイコさん? 逃げおおせると思ってるのか!」
 手探りで辺りを伺いつつ、久作は脇田に叫ぶ。まだ視界は真っ白だ。最初の位置とは違う方向からレイコの悲鳴と脇田の冷笑が聞こえる。
「どうだろうね? いざとなれば海外にでも飛べばいいし、ギリギリまで加嶋くんと楽しく過ごすというのもいいし……こういうのはどうだろう?」
 くくく、と脇田の笑いが響く。
「いっそのこと、逮捕されるのを前提に、この加嶋くんで目一杯遊んで遊んで、遊び倒すというのは、どうかな?」
 レイコの小さな悲鳴が重なる。普通ではない、久作は改めて気付く。この、今は白く消える脇田哲平という男は既に普通ではない。生徒を使ってリカを襲撃させたりミス桜桃を裏で操ったりという時点でかなりだが、現場に姿を見せて警棒を振り回し、自白めいた科白を吐いたかと思えば閃光手榴弾。しかもそれで逃げるでもなく、露草を襲ってレイコを拉致し、果ては逮捕されることを解った上で……狂気。そう、狂気だ。
 犯罪者のそれとは質が違う。犯罪者になりうる者はたいていは罪に、警察に怯えて暮らす。しかし脇田は知る範囲の犯罪者のそれを越えている。錯乱でないことは口調と言い分、納得など到底出来ないがそれでも筋の通った論法が示している。先刻、須賀の一撃で倒れたサッカー部河田のものに似た、あの数倍の冷たさを秘めた狂気だ。
 ゴン! 再び鈍い音がした。おそらく、いや、間違いなく脇田が露草を打ったに違いない。既にかなりのダメージの露草からは呻き声がかろうじて聞こえるだけだった。
「ふはは! 露草先生はとっても色っぽい悲鳴を挙げるんだね? いやー、しかし。人を殴るというのは一種の娯楽だね? 何とも形容しがたい、清々しい気分だよ。新田くんを吹き飛ばした速河くんのあれも、遊びなんだろう? ははは!」
 ダメだ! 久作は奥歯を噛み締める。
 脇田哲平、英語教師であった男はもう、常人の届かぬ位置に辿り着いている。誰しもが持つどうともない欲求や願望。それらが次第に大きくなり、遂に理性で制御できなくなり、各種犯罪が発生するのだろう。再犯もあるが殆どは更正し社会復帰する。だが、犯罪と呼ばれる状況から先、決して見てはならない領域というものが人間にはある。見たが最後、自然と足を踏み入れ、そして二度と戻れない禁断の領域に、この脇田哲平は踏み込んでいる。それは或いは二年前のリカに対する脇田かもしれないが、どちらにせよ既に説得だの裁判だのが通じる次元ではない。人であって人でない、人の姿をした人に良く似た違う生き物には、一切の常識は通用しない。そんな脇田をあえて常識に照らして表現するなら……。
「サイコ、パス?」
「そうだ! 加嶋くんで色々と試してみたいことがあったんだが、殴るというのは今の今まで思いつかなかったよ。きっとワーズワースのように素敵な唄を聞かせてくれるに違いない。だろう? ナイトの速河久作くん?」
「脇田、哲平。お前は……」
 返す言葉が続かない。脇田が単に暴走しているのなら話は簡単だが、そうではない。サイコパス、精神病質、もしくは人格障害。己の欲望に異常に執着し、良心の尺度が他者と極端に異なる、社会が内包する潜在的な捕食者。見て聞いた限りだが、脇田哲平はサイコパスなのだろう。
 今回のミス桜桃に際して、仮に脇田教師が最初から噛んでいたとすれば、久作達の展開したバクラチオン作戦は全くの無意味だったのだろう。リカ、アヤ、レイコの誰がミスに選ばれていても脇田は同じように動いただろうし、リカちゃん軍団ではない女子が選ばれていても結果は似たようなものに違いない。
 久作の描いた戦術は、見えない膨大な相手に対する牽制であり、それによって相手側の動きを封じるのがそもそもの目的で、その相手を直接どうこうするものではなかった。裏で画策する誰かを燻り出すものでもなく、裏なら裏でじっとしていろ、そういう戦術だったのだ。そして久作は、裏側の相手が表に出てきた場合のことを想定していなかった。
 放課後にリカちゃん軍団を集団が囲い、方城と須賀が活躍し、久作も新田という空手部主将と対峙したが、脇田哲平が出てくることを含めて全てが想定外だった。久作の戦術のその後はしかし、方城と須賀のフォローと露草の登場でどうにか幕に見えたのだが、想定外の更に上で脇田は、笑っている。つまりは、結局のところ自分は、脇田哲平という今は見えない男の掌の上で踊っていた道化の一人だったのか……。
 高まる焦燥感と自身に対する怒り。まただ、また僕は何も出来ない。歩くことも出来なければ、助けを求めている人に近寄ることさえ出来ない。焦燥感が無力感と重なり、怒りで涙が出そうになる。
 と、アヤが涙声で怒鳴った。
「The path of the righteous man is beset on all sides with the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men!」
 リカが、まだ英語教師であった頃の脇田に訳せと言った例の英文だった。両手を効かない視界に翳{かざ}していた久作は、アヤの声を聞き、突然ぴたりと止まった。そして頭の中でアヤの科白を訳してリフレインすると、脇田に対するどす黒い負の感情が、ゆっくりとだが全て消えた。
 そして残ったのは、たった一つの疑問のみ。唐突に静まった脳みそを無視して、久作の口は自動的に言葉を発した。
「その通りだよ、アヤちゃん。さあ、どうする、速河久作? ……こうするんだよ!」
 完全停止からアクセル全開で一気にレブリミット。視界は未だに白いが、更に加速、スーパークルーズ。アフターバーナー点火、マッハ1.7に到達。ここまで0.0一秒。
「レイコさん! 何でもいいから叫んで!」
 スーパークルーズから更に加速、亜光速思考のハイナイン・プラスまで、もう0.0一秒。目印の小銀河は……。
「がぶがぶクリームソーダ!」
 レイコの絶叫に亜光速の久作が振り向く。先のアヤ、リカ、方城、須賀の声。脇田哲平の科白と、露草を打つ音、そして自分の呼吸音……「脳内地図」が瞬時に描かれた。
「そっちか! 脇田!」
「かぶかぶ――」
 眼を閉じたまま地面を蹴り、「がぶがぶ」へ全速力で飛ぶ。地面に向けた蹴り足は大爆発の発勁だった。
「――クリーム」
 0.五秒で到達し、左手を伸ばす。「クリーム」の柔らかい感触が手に伝わる。レイコの頬だかのそれを支点に、右足を大きく前に踏み込み地面にめり込ませ、姿勢を低く、右構えに重心を落とす。
「――ソーダ!」
 その瞬間、亜光速思考が限界を突破した。光速の壁を超えるそれは、あらゆる物理法則を無視して銀河を一閃。超重力さえ無視して宇宙を駆け抜ける、ただ一筋の純粋な光そのものであった。
「そうだ! 脇田哲平! ロック・オン!」
 左手でレイコの首を軽く手繰り寄せて、かばうような姿勢をとりつつ、踏み込んだ勢いのまま、右肩から渾身最大級の、空手部新田に向けたものの倍以上の発勁が放たれた。久作の右肩は脇田哲平の左胸元を完璧に捉えた。ドン! と衝撃音が響く。周囲の空気が弾けるそれは、大切な「がぶがぶクリームソーダ」を奪おうとした脇田の意識が、光の矢によって爆散する音だった。
 脇田の気配が彼方に飛び去り、左手にレイコの感触だけが残った。久作は荒れた呼吸を整えつつ、見えない脇田に言う。
「脇田、お前はレイコさんっていう高性能ジェット機を連れていたから撃墜されたんだ。ジェットエンジンの排熱パターンさえ解かれば、ステルス機をレーダー捕捉することだって可能なんだ」
 脇田哲平から解放され左手にあったクリームの感触が、どん、と久作の胸元に来た。
「がぶがぶ、クリームソーダ!」
「レイコさん、まだ見えないけど、もう大丈夫、泣かなくてもいい。僕は、速河久作は、いつだって光の速さで敵をやっつける、何も心配はないんだ」
 久作は、真っ白なレイコをぐっと抱きしめた。いつだったか、保健室のベッドでの感触と同じ、クリームのように柔らかいそれが、小さく「がぶがぶ」と繰り返していた。小さな温もりはきっと、小銀河ハイナイン・プラスの輝きのそれだろう。久作はそうだと確信した。


『第十七章~ホンダXL50S』

 脇田のフラッシュ・グレネードから数分。ようやく全員の視界が元に戻った。
「くぅ、まだ目がチカチカするぜ。って速河にレイコ? あれ? 脇田のヤローは?」
「脇田があそこで、レイコ君は無事に速河の手の中。何が起きたかは解からんが、未知数でSFな速河のことだ。何かとんでもないことでもやったのだろう?」
「レイコ! 速河くん! 大丈夫なのね? 良かった!」
「だから速河久作! ハグってるお前は何者なんだぁー! 何技を使ったらそーなんのよ?」
 久作とレイコを追って、地面に座り込んだ露草の周りに全員が集まる。視界ゼロの際、露草葵は頭部にも特殊警棒を受けたらしく、額に細く血が流れていた。真っ白なシャツの襟元が真っ赤に染まっている。露草は額からの血をグローブでごしごしと拭い、しばらく鈍痛と戦ってから立ち上がり、十歩ほど先の脇田哲平に向かった。特殊警棒と、砕けたサングラスが転がっている。脇田は植え込みのレンガを背中で砕いて、体の半分を土に埋めていた。
「何や知らんけど、どえらいことになっとるなー。脇田センセ、埋もれとるやんか。速河か? 目ぇ見えへんで、よーここまでやれるな。アンタは仙人かいな? まーそんでな、気絶中の脇田センセ。ウチの頭やら肩やらはまあええとして、いや、よくないんやけどな、それよりこの右手、どうしてくれんねん? ラベルダちゃんの運転できんやないか。歩いて帰れいうんか?」
 ゴン! と鈍い音がして、植え込みから生えた脇田の頭部が揺れた。ジャケットと同じくトリコロールのフルフェイスが、フルスイングされた音だった。
「これは、没収や。英語の授業にはいらんやろ?」
 露草は、抜け殻となった脇田の手から落ちた特殊警棒を取り上げると、それを縮めてジーンズの後ろポケットに差し入れた。トリコロールのフルフェイスをリカに手渡した露草は、右腕をさすりながら、黒いミドルブーツで力一杯、脇田の、植え込み土からかろうじて見える横腹を蹴り付けた。ズン! と物凄い音がした。その音が、露草の怒り具合を示している。
「脇田センセ、意識ないやろうけど聞きや? 画家とバイク乗りの腕を傷付けたら、天罰下るんやで? そこの連中。サッカー部の河野やったか? アンタらもよー聞いとけや? ケンカすんのはええけどな、よくないんか? まあええわ。相手の力量を測るいうんは猫でも出来るんやで? サッカーでも空手でもテストでも何でも一緒や。負ける思うたら素直に謝って逃げる、せやないと――」
 露草は、空手部主将の新田と英語教師の脇田哲平を指差した。
「――あないな風になる。あの空手部の新田やったか? あの男子が百人いてもな、速河久作には勝たれへん。言うとったやろ? 速河はあいつの百倍強いて。まだ高等部やのに、死にたいんかいな、あいつは。ああ、いっとくけどな、アンタらは保健室出入り禁止や。ウチの部屋は神聖は場所やから、真面目な人間しか入れへん。怪我したら救急車でも呼びや? ウチはなーんもせーへんで? あとなー。ここで起こったことは全部、金山教頭センセに伝えるから、覚悟しときや? 教頭はエグいでー?」
 言い終わると、露草はからからと笑った。
 サッカー部キャプテンの河田が「二人を運べ! 逃げるぞ!」と指示を出していた。重たい二人を六人がかりで持ち上げ、立ち去ろうとしたところに、須賀が声をかけた。
「サッカー部キャプテン、3‐E河野。貴様は脳障害の上に礼儀知らずらしいな。速河に対して謝罪の一つも出ないのか? そうしないと、速河は貴様を追って走ってくるぞ? 逆上した速河が貴様をどうするか、その新田と脇田を見て想像しろ」
 須賀に言われた河野が、青ざめた表情でこちらを向く。冷や汗だか脂汗だかが浮いていた。河野はサッカー部ご自慢の俊足で久作の目の前にくると、膝をついて額を地面にぶつけた。
「は、は、速河、くん? その、スマン! 申し訳ない! もう二度とこんなことはしないと天に誓う! 許してくれ! な? 速河くん!」
「こんなことっていうのは……」
 ぐいと横からリカさんが割り込んだ。
「二年前みたいなこと? 許せって? それは無理よ。二度としないと誓っても、現に二度もやってるじゃないの。須賀くん、それ貸して」
 リカさんは須賀の竹刀を取り上げ、握った。

「The path of the righteous man is beset on all sides with the iniquities of the selfish and the tyranny of evil men.
Blessed is he who in the name of charity and good will shepherds the weak through the valley of darkness.
for he is truly his brother's keeper and the finder of lost children.
And I will strike down upon those with great vengeance and with furious anger those who attempt to poison and destroy my brothers.
And you will know that my name is the lord when I lay my vengeance upon thee.」

 パン! と大きな音がして、河野が悲鳴をあげた。左頬辺りをバンブーブレード、竹刀が叩いた音だ。
「リカ君、持ち手が逆だ。右手が上だ、そう、それでいい。三年、貴様の脳みそではリカ君の言葉を理解できないだろう? リカ君。日本語で伝えてやれ」
「全く、三年といったら大学入試の年でしょうに。まあいいわ」
 リカさんは竹刀を大きく右に振りかぶった。
「心正しき者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐の行いによって行く手を阻まれる。
 慈悲と善意の名において、弱き者を暗黒の谷から導く者は幸いである。
 なんとなれば、彼は真に同胞の保護者であり、迷い子の救済者であるから。
 我が兄弟を毒し滅ぼさんとする者に、我、怒りの罰をもて大いなる復仇を彼らに為さん。
 我、仇を彼らに復す時に、彼らは我こそ主なるを知るべし。
 ……どうせ、この意味も解からないんでしょう? 要するに、こういう意味よ!」
 バン! と再び大きな音がして、河野の頭がぐらりと揺れた。かろうじて意識は残っているようだ。
「河野先輩でしたっけ? もし、私やアヤ、レイコ、方城くんに須賀くん、速河くんと露草先生に何かあったら、次にこの竹刀を握るのは須賀くんよ? 意味、解かるわよね?」
 河野がぼろぼろと泣いている。両頬は青アザでふくらみ、表情が読み取れない。
「わ、解かった! 君たちには一切近付かない! だからもう許してくれ! 頼む!」
「俺としてはとどめを刺してやりたいところだが、まあ、病院が大好きな河野先輩のお願いだ。リカ君。寛大になってやれ。速河? いいか?」
 尋ねられた久作を、河野が凝視している。久作が、うーん、と思案するフリをすると、河野が泣きながら震え出した。
「リカさんの件は許せない、絶対に。でも、もう夕方だ、いいよ……今日はね。さっさと消えてくれ」
 河野が飛び上がり、新田と脇田を抱えた集団と合流して、学園入り口に立ち去っていった。
「なんだあいつら? ここから歩いて帰るつもりなのか?」
 方城が呆れて言った。
「知らん。それぞれ運動部だ。マラソンで基礎体力でもつけるつもりなんだろうよ」
 ぷっ! とリカが吹き出し、すぐに大声で笑った。それにつられて、露草を含む全員が腹を抱えて笑う。久作は腹がよじれそうになっていた。結局、空手部・新田の攻撃は一度も受けなかったが、脇田哲平の特殊警棒やフラッシュグレネードも含めて、おそらくこれほどのダメージではないだろう。
「何やようわからんけど、これにて一件落着か?」
 笑いが収まった露草が、メタルフレームを上下させつつ久作に尋ねた。
「そうですね。露草先生のお陰で、綺麗に終わりました。もう何もしなくても、周りが勝手に処理してくれますよ。ありがとうございました」
 久作は深々と礼をした。
「速河、頭あげい。礼はいらんわ。ウチはただ来て、見て、喋っただけやて。んで、速河は大丈夫みたいやけど、方城と須賀は保健室やな。そのお供もおるし、ま、全員保健室に集合や、ったたた!」
「露草先生? 頭と右腕、重症でしょう? 先に先生が病院にいったほうが――」
「ウチは名医や言うたやろ? 頭はまあ冷やして、腕は骨いっとるけど、これくらいはレントゲンなしでも自分でどないかなるわ。ほな、いくでー」
「いくでー!」
 レイコが大声で復唱し、全員揃って保健室に向かった。が、久作は三歩ほど進んだところで足を止めた。
「露草先生、ラベルダ! 放置したままはまずいですよ」
「あ! そや! ウチのラベルダちゃん! えーと、速河、これ、キーや。駐輪場に移動させといてな。ほな、いくでー」
「久作くん、がぶがぶいくでー!」
 再びレイコが大声で言って、笑った。
 欠片だけの雲、紅い青空の下。鮮やかなオレンジ色のカフェレーサー、ラベルダ750SFCは、そこにあるだけで強烈な存在感をかもしだしている。
 露草から渡されたキーを慎重に刺し、シートに腰掛けようとしのだが、上げかけた右足はゆっくりと地面に戻った。何と言うのか、ここで自分がラベルダに乗るのは間違っている、そんな気がしたからだ。根拠などない、ただ、そう感じただけである。久作は改めてラベルダの横に立ち、ステアリングを握り、そのまま教員用の駐輪場まで押していった。ごく普通に走らせれば一分で到着しただろうが、十分ほどかかった。駐輪スペースにラベルダを入れ、二歩ほど下がって、真横からラベルダを見た。ラベルダ750SFC、バイクという名の芸術品。高名な画家の作品を観たことは何度かあったが、ラベルダはそれらの遥か上空にいた。そんなことを考えて、久作は転身した。
 自分のバイク、ホンダXL50Sの型式はラベルダと殆ど一緒だった。かなり入念にメインテナンスをしたが、あちこちにサビや傷があり、知らない人が見ればただの小さなオフロード原付でしかない。しかし年式もあり、ほどほどにマニアックなバイクで、そしてお気に入りである。
「久作くーん! ほな、いくでー!」
 夕焼けで紅い高等部校舎入り口で、レイコが両手を大きく振っていた。駐輪場から入り口までをゆっくりと歩き、レイコの笑顔を眺めつつ久作はバイク以外のことを考えていた。
 渾身で吹き飛ばした高等部の英語教師、脇田哲平。授業は二回ほどだが今回の、リカの件を含めると二年に渡る、或いはもっとかもしれない脇田の行動、これをどう捉えるのか、判断に悩んでいた。脇田の下で動いていた連中は簡単だ。小銭か何かで操られていたのだろう。しかし、脇田が最後に見せた狂気は、サイコパスという言葉が一番だが、それが学校という身近な空間に存在したという紛れもない事実は、にわかには信じがたい。それはつまり、同じようなことが今後、学校でないにしろ身近で発生しうるという意味でもあり……。
「まあ、いいか」
 明るく能天気なレイコを真似てみた。口に出すと予想以上に頭がスッキリした。足取りも軽く、久作は校舎入り口をくぐった。

 ――私立桜桃学園高等部、1-Cの一員になったばかりの速河久作。
 自由と平和と平凡を愛する、自称どこにでもいる退屈な高校生はしかし、今回の事件を発端に、方城護と須賀恭介と、橋井利佳子、橘綾、加嶋玲子の通称「リカちゃん軍団」、そしてスクールカウンセラー・露草葵と共に、幾つか、退屈とは少々遠い体験をすることになる。
 だがその話は、またいずれ。


♪「のんびり急げ」by Raptorz
(作詞・歌:真樹卓磨/作曲:加納勇介(G) 大道庄司(D)/編曲:真樹卓磨(B))

 タバコ一本吸う間に
 数億の命が左右する
 秒単位で動いている世界の中では
 のんびり過ごすのも楽じゃない

 のんびり まったり ゆったりと
 いうのは簡単で やるとなったら結構大変だけど
 誰かと一緒にやれば どうにかなるさ

 なにもかにもを見てみぬフリをすれば叶う平穏を
 それで本当にいいのかと疑問に思うともう駄目だ
 冷徹非常や無知を決め込んで
 知らない解らない関係ないといえる
 そんな図太い神経がなければ
 とてもじゃないが無理

 のんびり過ごすその意味を
 考えることは悪くない
 自分 友達 知人 赤の他人
 のんびり過ごそうとしているのは誰?

 赤の他人の のんびりを考える
 妙なことだが悪くはない
 どこかの誰かがのんびり過ごせる
 そんな時間を作ってあげる自分は忙しいけれど
 誰かが自分ののんびりを作ってくれるかもしれない

 のんびり まったり ゆったりと
 いうのは簡単で やるとなったら結構大変だけど
 誰かと一緒にやれば どうにかなるさ……

(――第十回、私立桜桃学園文化祭ライブより)


『ミラージュファイト・ゼロ』――完


- MIRAGE FIGHT ZERO CAST -

- "Ooto private school" 1-C Students "Rika-chan Corps" -

 Rikako Hashii Ride Honda JOY Class officer Miss school two consecutive
 Aya Tachibana Ride Suzuki RG50 Gamma Miss school
 Leiko Kashima Ride INNOCENTI Lambretta48(48MOPED) Miss school

 Kyusaku Hayakawa Ride Honda XL50S "Shining Brave" Over Concentration & Electric guitar
 Mamoru Hojo Ride Suzuki Hopper "the scoring machines"
 Kyousuke Suga Ride Suzuki mini-Tan "Hard-boiled detective"

- "Ooto private school" Rock band "Raptorz" -

 Yusuke Kanou(2-A) Lead guitar & side vocals Ride Kawasaki AR50
 Takuma Maki(2-A) Bass & Lead Vocals Ride Yamaha Passol
 Shouji Oomiti(2-C) Drums and backing vocals Ride Suzuki Mode GT
 Aya Tachibana(1-C) Lyrics Miss school Ride Suzuki RG50 Gamma

- 1-A Students -

 Suzu Nanaoka Ride Honda Hamming The news photographer & Writer & LUMINOX Navy Seals & NIKON Single-lens reflex
 Yuichi Tokino

- 1-C Students -

 Jun Sakuma Ride Honda APE50 Baseball & soccer & Karate
 Hiroshi Nagayama Ride Yamaha Axis 50
 Haruna Sasagawa Ride Suzuki Verde Our Sakuma's Idol

- Other students -

 Naoki Kawano(3-E) Football captain Ride Suzuki Let's 5G
 Yutaka Nitta(3-A) karate captain Ride Yamaha Jog ZR
 Michiko Fukaya(3-A) Miss school last year Ride Vespa S50

 Inoue(2-B) Baseball Bench
 Fujiwara(2-B) Baseball bench
 Motoki(2-D) Football Regular

- "Ooto private school" Teachers & Other -

 Aoi Tuyukusa(age:26) Clinical School counselor & Psychologist & Insurance teacher Ride LAVERDA 750SFC
 Freddie Spencer(skeletal men) Aoi's "fast" wear

 Zenji Kanayama(age:52) School head teacher Ride Mercedes-Benz 125 E250CGI Buruefishe! Ed

 Hideyoshi Nakasako(age:45) Mathematics teacher Ride NISSAN Latio 15M FOUR4WD
 Shizuko Nonaka(age:40) Japanese history teacher Ride TOYOTA Arion 1.5 A15
 Tetsuya Watase(age:35) EnglishⅠ teacher Ride Lamborghini Jota
 Toshiaki Yaku(age:28) Modern language teacher karate portion adviser Ride Bentley Continental Flying Spur Speed
 Saburou Sakaki(age:36) Chemistry Teacher Kendo advisory agency Ride Ferrari Daytona 365GTB-4

 Teppei Wakita(age:28) EnglishⅡ teacher


- a General manager & Special Effects Director -
 Yayoi-Asuka

- Music -
 Ranmaru(by Ghost-Write)
 Raptorz

- Director -
 AI

- scenario -
 Yayoi-Asuka
 AI

- Assistant Editor -
 Ranmaru(by Ghost-Write)

- prop -
 Misaki-Hatova
 Editor-P
(by Ghost-Write)

and ALL

- MIRAGE FIGHT ZERO -
 THE END

ミラージュファイト・ゼロ

 さて、これを送る公募先が見当たらず、当面はオンラインで発表という形です。
 ちなみに有名なラノベレーベルではかすりもせず、これの続編「リングリング」と題した学園サスペンスは、一次審査通過の常連でしたが、今はどの公募にも出していません。
 二次に進めない理由が解っていて、その修正よりも新作を書き下ろすのに時間を割いているからです。

 ちなみに「MFリングリング」のほうが読み心地が良いだろう、ということもあり、こちらの表題は「MFゼロ」にしましたが、最初は「ミラージュファイト」という表題でした。
 蛇足ですが「MF=ミラージュファイト」とは劇中登場の格闘ゲームのタイトルで、造語です。

 マニアックなバイクや戦闘機をはじめとする専門用語の多用は冒頭に書きましたが、登場人物も多く、かつ、皆が主役級というのは、全て意図的です。
 通常、主役級は3人まで、専門用語は使わないほうがいい、とどこかのサイトに「正しい小説の書き方」として書いてあって、それに懐疑的だったのであえてキャストを増やしてみました。
 それらを書き分ける練習も兼ねてですが、お陰で随分と長い、それでいて進展しないお話になってしまいました。

 人物紹介に文字数を割いたお陰で続編はスムーズに書け、また、同じく続編は、前作ありきならば、面白い、と言っていただけましたので、捨石、は言葉が悪いですが、フラグとしては機能しています。
 そんなこんなな事情を後書きに書いておけば、後の修正がスムーズだろう、という、実は個人的なメモだったりします。

 目次ごとにページを分ける作業時間がないので、とりあえず読める今のフォームでご容赦下さい。
 失礼いたしました。

ミラージュファイト・ゼロ

中等部時代は人間嫌いで通していた速河久作は、四月、私立桜桃学園高等部の一年になって早々、バスケ部エースの方城、頭脳派の須賀という友達と出会い、語らっていた。そこに「リカちゃん軍団」ことクラスメイト女子のリカ、アヤ、レイコが加わり、六人は騒がしいながら平凡な学生生活を謳歌していた。 そんな折、ミス桜桃学園というイベントが開催されると須賀が切り出した。それは、学園の女子で誰が一番の美人なのかを投票で決めるという、いかにも学生めいたイベントである。 だが、須賀はこれが当事者には危険なものだと説明した……。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-29

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