ダイバージェンス
現代人の誰の心にも潜む、狂気という名の闇……。
その男は骨の髄まで疲れ果てていた。
工場からの岐路でビールを買って安アパートに辿り着き、すぐさまシャワーで油の匂いを流し、同じく途中で調達した弁当を口に放り込みつつほろ酔いで板のようなベッドに横になり、どうでもいいテレビ番組を眺める。
休息を求める体とゆがんだ思考の只中で、男はそのしみのようにこびりついた疲労を毎日毎日、数年間感じていた。
特別睡眠が少ないわけでもなく、工場での作業も体力的には問題ない。趣味と呼べるものはなく、内容の割に多い報酬は膨大な煙草とスロットと別れて顔も忘れた元女房に吸われているが、それでも生活に支障はない。
自分はごく普通の健全な人間だと疑わないし実際そうなのだろうが、この得体の知れない疲労感は、健全という言葉とは縁遠い、そう毎日感じる。
仕事が終わり岐路に着くと、例の疲労が日課の如く徐々に湧いてくる。
その日、岐路を一本外れたのはただの気まぐれだった。数年間、機械の如く同じ道を歩いていたので、世界に道はこれだけだなのだと、或いはこれだけで充分なのだという男にとって、その道は異世界への入り口に等しかった。
コンビニエンスストアを迂回する形になったその道には……何もなかった。
元の道と同じ灰色のくたびれた建物が並ぶ、区別するのが困難なほど同じ景色だった。そのことが男に何を与えたのか当人にも解からなかったが、意思に反して両足は濁った景色をずんずんと流していった。
10分かそこらして辿り着いたのは、いつものコンビニエンスストアの手前の色あせた看板の付いた電柱だった。
その電柱をみた瞬間、男の疲労は頂点に達し、意識にガリガリとノイズが走るのを音として実感した。
コンビニエンスストアに入り、知った顔の若い店員を見て、すぐ手元のマガジンラックを握り、振り上げてその顔を横殴りにする。
無防備だった店員がレジに激突し奇声をあげた。男は店員に背を向けて棚を睨みつけ、磨り減った革靴でそれを蹴飛ばし、残骸を踏みつけた。ずかずかと歩き冷蔵庫の前で一瞬考え、一番大きな瓶を取り出す。酒の入ったそれはよく冷えていた。
振り返り再びレジカウンターに向かうと、若い店員がふるふると立ち上がろうとしていた。大きく振りかぶった瓶が弧を描きその頭を殴りつける。思ったよりも丈夫だったのか瓶は割れず、代わりに店員の頭が割れ、黒い血を撒き散らしながら店員は再び床に倒れた。
一旦瓶を置き、カウンターを乗り越えて再び握ったそれで、倒れている店員をめった打ちにする。
一撃ごとに男は例の疲労が和らいでいくのを感じていた。数年来の付き合いだった忌々しい疲労が綺麗さっぱり晴れたころ、目の前の店員は赤黒い塊となっていた。
晴れ晴れした気分で暮れた岐路につき、安アパートに戻った男は、コンビニエンスストアの店員を打ちのめした冷えた日本酒をぐいと喉に流し、しばらく待って酔いが訪れると同時に横になり、初めて安眠を得たのだった。
何かと引き換えに……。
――おわり
ダイバージェンス
前書き部分は、某自費出版会社からの書評の引用で、自分ではホラーテイストのSFを書いたつもりでしたが、読み返すとSF的要素は皆無でした。なのでジャンルはホラーにしましたが、読んで解る通り、だからどうした? ということもありません。
彼がその後どうなったか、を想像するのもまた、楽しいかな、とは悪趣味でしょうが、そんなお話です。