帰りたがりの安藤くん
隣の席の安藤くんは、「帰りたがり屋」だ。
例えばお昼休憩、お弁当の卵焼きを頬張りながら、
「あー、帰りたい」
例えば授業中、ペンをくるくる回しながらぽつりと、
「…帰りてえ」
登校したばかりでも、行事の途中でもお構いなしに、その「帰りたい病」は発動するらしい。帰り道に、今帰ってるだろ、と笑われることもしばしば。
――帰りたい、と呟く安藤くんのその顔が、どうしようもなく寂しげに、今にも消えてしまいそうに見えるのは、たぶんわたしの気の所為だ。
佐倉、と呼ばれた時、それが誰の名前なのかわからなくなった。安藤くんの声は不思議だ。現実感がない。
「なにか、あった?」
放課後の誰も居ない教室に、静かに響く安藤くんの声。
「…ううん、なんでもないの」
ただ。そう続けようとしたあとに、言葉に悩んで黙り込む。
ただ、なんだか、
「…帰りたい」
一瞬、自分が言ったのだと思った。それほどまでに、帰りたい、ということばは、今の心境にぴたりと嵌った。
帰りたい。ここではないどこかへ。
「わたしも。帰りたい」
安藤くんは少しの間ぽかんとした顔でわたしを見つめ、くしゃっと笑った。
「佐倉も、おれと同じなんだな」
その顔はやっぱり寂しげで、消えてしまいそうで。わたしはそっと安藤くんの手を握った。
珍しく安藤くんが休んだその日、プリントを届ける役を買って出たのは、自分でも不思議だった。
ドアを開けた安藤くんは、少し驚いた顔をしたあと、上がったら、と笑った。
綺麗に片付けられた安藤くんの家の中は、なんだか少し冷たくて、異世界に迷い込んでもう帰れないような、そんな錯覚を起こす。
生活感のない部屋の真ん中で、安藤くんは帰りたいなぁ、と小さくこぼした。
この間とは打って変わって清々しげな安藤くんは、まるで。
「…安藤くん」
「うん?」
「まだ、帰りたいの?」
「そうだね」
「もう、帰るの?」
「そう、だね」
「どこに帰るの?」
「少なくとも、ここではないかな」
少し間を置いて投げられた。「一緒に、帰る?」
言葉に詰まり、目頭が熱くなる。
なんで。
掠れた声で言うと、安藤くんは少し困った顔をして、ごめんね、と呟いた。
堰を切ったように涙が溢れた。前が見えない。見えない。帰れない。
安藤くんの掌が、わたしの髪を撫でるのを感じた。
「…じゃあ、そろそろ帰るね」
何でもないような声と一緒に、安藤くんの足が、宙に浮いた。
帰りたがりの安藤くん
あったかいところがいいよ