風船一つ、膨らまそう。

雪降る浜辺。ごお、と風の音は聞こえるが寒さは感じない。
気付くと、私は背広に安物のコートを羽織り、ここにいた。ああ、無事死ねたのか、と胸をなでおろす。

四十歳を越えてから、どうにも疲れやすくなった。将来に不安を感じ、妻との会話もなく、刺激のない日々が続いていた。
ビルから飛び降りようか、練炭を炊き込めたワゴン車を使おうか。ぼんやりと自殺方法について考える時間が増えていった。
人様になるべく迷惑をかけず、確実にあの世に行く方法は無いものか。
飛び降りた後、万一死にきれなかったら?そのビルを事故物件にするのは申し訳ない。ワゴン車の第一発見者にトラウマを与えるのもは心苦しい。
冬の海に入り、静かに逝くと決断するまでに、そう時間はかからなかった。

体が軽い。重みを感じない。少し体は透けているけれど、霊になっても足はついているらしい。風は強いが髪はなびかず、頬に冷たさを感じることはない。
これからどうしようか。そもそも何故私は成仏することなく浜辺にいるのか。
考えたところで始まらない。私は波打ち際を歩くことにした。白く小さな泡が生まれては消えていく。私もこの泡と同じ、世間から見たら儚い存在だったんだろうな。

夢中で泡を目で追いかけていると、小さな革靴が視界に入った。顔を上げると坊ちゃん刈りの少年が一人、ぽつんと立っている。ダッフルコートにすっぽりと身を包み、チェック柄のマフラーを巻いている。右手には何か赤いものを持っていた。
「おじさん、おじさん」
「……何だい?」
少年に声をかけられた。私のことが見えるらしい。
「おじさんは優しいね。ここに来る人は皆、僕のこと無視するんだ」
「ご両親はどうしたの?……あと、おじさん透けてない?大丈夫かな?」
実は気になっていた。私が自覚していないだけで、実は幽霊然としていないだろうか。
「一人だよ。パパは多分お仕事行ってる。ママは病院。……おじさんは別に透けてないけど……大丈夫だよ?」
そうかいそうかい、と私は一人ごちた。少年はいわゆる”視える”子供らしい。

彼は右手を差し出し、困ったように呟いた。
「おじさん、これ膨らませてくれない?」
手の中には、萎んだ小さな赤い風船が一つ。
「頑張ってみたけれど、僕じゃちっとも膨らまないんだ。全っ然ダメ」
「ごめんな。手伝ってあげたいけれど力になれそうもないんだ」
どうして?と尋ねる彼に、私はにっこりと左手を出した。ほら、と風船を渡すように促す。少年は私の掌に風船を載せる、が思った通りだ。赤いそれは、掌をすり抜け砂の上に音もなく落ちた。
「なんで?おじさんはマジシャンなの?」
私は少年に話してやった。私は既にこの世にいないこと、つまりは霊であること。風や寒さを感じない等、外界に対しての感覚がない。何かに触れたり、誰かを暖めたりすることはできないのだと。

「駄目なのかぁ…」
文字通り肩を落としうなだれる少年に、私は尋ねた。
「何でそんなに膨らませたいんだい?」
少年の話をまとめると、こういうことらしい。
彼の母親は、もう長いこと入院生活を送っている。ある日母親は海を見たいと言った。少年は図書館で写真集を借り、母親に見せた。彼女はとても喜んだ。
また別の日、母親は波の音を聞きたいと言い、少年はこの浜辺で録音した音を母親に聞かせてやった。彼女はまた喜び、少年を抱き締めてくれた。けれど病状は回復せず、母親は眠ることが多くなった。
そして今回、母親はおそらく最後となるわがままを言った。浜辺の空気を吸いたいと。少年は考えたあげく、風船を膨らませ、病室で割ることで、母親に浜辺を感じてもらうことを決めたのだ。

私と少年は、砂の上に腰を下ろした。もう一度膨らませるよう、少年に呼び掛ける。
少年は、大きく息を吸い込み風船に口を当てた。目を細め頬袋まで溜め込んだ息を入れるが、一向に膨らむ気配はない。
その様子から、私は一つの結論に達した。
少年は“視える”子供なのではなく、私と同じ霊なののではないか。
この雪の中寒さを感じない。少年に気付く者がこれまで一人もいないのは、不自然だ。
けれどそれなら、何故彼は実体のある風船を持てるのか。
何故他の霊は、少年を無視するのか。

「おじさん、もういいよ。僕と一緒にいなくても。一緒にいてくれるのは嬉しいけれど、どうにもならないんだもん。」
少年は砂を指でなぞりながら呟いた。ちょっと待て。何故砂に干渉できるんだ。少年の指は確かに砂をとらえ、地面には渦巻き模様ができている。
私も試してみるが、砂をとらえることはできず感覚もない。

彼はちょっと優秀な霊ではなかろうか。
私にも、何かないのだろうか。彼のような特殊能力が。
「そんなに難しい顔してどうしたの?」
少年がじっと私を見ている。彼の瞳には紛れもなく私が映っている。
「そういえば、皆君に気付かないと言ったね」
「言ったけど…だから何なんだよ!」
分からないけど、全くもって上手くいく保障はないけれど、ひょっとしたら風船を膨らませられるかもしれない。
私は少年に、ある可能性を告げた。

ーーー君は、物に干渉できる。風船を持ったり、砂に何か書いたり。けれど風船は膨らまない、だったね。

恐らくだが、君は二つの動作を一気には出来ないんだ。
砂に何か書くには、指を動かせばいい。けれど風船はまず手にもって、それから息を入れなくてはいけない。一気には膨らまないから、その都度風船の口を押さえる必要もあるね。

私が思うに、霊には一人一つずつ特殊な何かが与えられてるんじゃないだろうか。
私かい?私はきっと、他の霊を視る力だ。君は言ったね。私以外に声をかけた人はいないと。
君は知らないだろうけれど、この浜辺には、私達以外にも霊がいるんだよ。あそこにも、そっちにも。彼らも僕たちのことは見えていない。多分私が声をかけたら、認識できるんじゃないかな。

だからね。きっとこれから出会う彼らの中に、君と同じような力を持った人もいるはずだ。
そしていつか風船は膨らんで、君はお母さんに会いに行けるさ。

私もその日まで見守ろう。

そんなに泣くなよ。
私は、君の涙を拭ってやれないからね。
ほら。雪もやんできた。

風船一つ、膨らまそう。

風船一つ、膨らまそう。

風船を膨らませたい男の子と、霊となった私の話。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-12-28

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