ヘビとカエル

「あの、怒らないんですか?」
 恐る恐る聞いてみた。いざ、口から声を出すと、それはむしろ声と言うか唇の振動から漏れる風音のようだ。そこまで恐れていないのに、自分が思う以上に、体が震えていたのかもしれない。むしろ硬直していたのかもしれない。まるで、小動物が肉食動物と対面したかのように。小さな虫が、人間に睨まれた時のように。そうでなければ、きっと彼はここぞとばかりにたまった鬱憤を私にぶつけたはずだ。彼はいつだって、静かだが皮肉交じりで執念深い罵倒を私に浴びせてきたのだから。
「怒られたいの?」
 彼は失笑した。いつものように、私を見下すように、―彼は私より20cmほど高いので、見下すのは当たり前だが―私の目に視線を落とした。
「いえ、」
彼のその皮肉を含んだ表情は、いつものことながら。だけど、彼の放った視線はいつもと違って……少し優しさが含まれているような気がして、動揺した。繋げる言葉を見失ってしまった。何も答えない私に苛立ちを感じたのか、彼は少し不機嫌そうな顔をした。
「あの…指示通りにしなかったこと」
 なにか、言葉を繋げなくては。そう焦った結果出てきた言葉は、いかにも直接的過ぎて、さっき言うのをためらった言葉であった。無理に沈黙を埋めようとすると、本当にろくな言葉が出てこない。一気に自分がとてつもなく惨めに感じた。こんなことなら初めから彼の指示通りにすればよかった。本来、学芸員見習い一年目の私にとって主査学芸員の指示は絶対だ。たとえ職場自体があまり上下関係にこだわらないとしても、それは社会の常識だ。ああ、いつまでたっても学生気分が抜けない私は。いや、学生でも先輩の言うことくらい聞くのが当然だ。私は何か?「先生、トイレ」のように主語と述語すら使えない小学生か! いや、今の小学生は侮れない。少なくとも私よりしっかりしているだろう。
 はぁ。彼は小さくため息をついた。あえて相手にも分かるようにオーバーにため息をつかないだけ、彼は私以上に大人なのだろう。まぁそれは実際そうなのだけど。
「人間は、思い通りに動かせないものだな」
彼は私の目も見ずにそう言い残し、その場を去っていった。
 全く、変わっている。
 私は彼が苦手だ。それは、彼とはじめて話したときから。いや、もっと前。おそらくこの職場に来てはじめて彼を一目見たときからだ。私が何かするたびに決まって彼は文句をつけてくる。私が動くこと自体が彼の癪に障るのだろうか。それでいて、あえてどうしたらいいのか聞きにいくと決まって言われる「自分で考えろ。君は学生か」というような皮肉。鼻にかけたような失笑。惨めなものを見るかの鋭く厳しい視線。その視線を浴びた私はまるで蛇ににらまれた蛙。そして、一生懸命に話す時に限って私のことを一切見ない。一瞥すらくれない。
 要するに、おそらく彼は私が嫌いなのだ。 
 そしてそれこそが私が彼を苦手とする一番の要因。
 小さくため息をつきながら、真正面にある金色の額縁に入れられた絵画に目をやる。暗い色彩で描かれた爬虫類の絵。中でも真ん中に描かれている、緑と茶色の絵の具を分量などお構いなしに混ぜて出来たような色をした蛙。本当に気持ち悪い。既にお亡くなりになられた外国人画家の黒歴史と呼ばれる、いわば失敗作らしいが、何もこんな不気味な絵画を展示することはないのに。
彼にとって私はこの絵のような蛙なのでしょう。ゲオゲオ鳴く、地面に這いつくばっては一度転倒すると自分では起き上がれないような無様な生き物なのでしょう。彼が私にとって蛇であるように。鋭くて陰湿で粘着質で……そう、蛙にはとうてい敵わない生き物。
 彼と話すたび、顔を合わせるたびに彼が与えてくれる嫌悪感と劣等感は私の中で積もり積もって、彼への苦手意識として姿を変えていった。そしてその苦手意識は彼への嫌悪感に変わっていくはずだった。おそらく今日当たりに。しかし残念ながら、私は今日、彼を嫌うことはなかった。
私は自分の感性に従って、作品を配置したいと考えた。それはやはり芸術に興味を持ち、多少なりにでも学んできた人間としての欲望からだった。しかし、果たしてそれだけからだろうか。いつもの気の弱い私ならそれだけの理由で上司の指示を無視して、自分の感性のみに従った行動をとっただろうか。おそらく、今回の事は私なりの彼への反抗というのもあったのだろう。というかむしろそれが大きい。いつも彼の言葉や態度にすぐに動じてしまう私は、些細な反抗という形で少しでも彼を動じさせたかったのだ。
彼は何か動じたのだろうか。何を考えているのか全く読めない。私の反抗に気づいた時の彼の態度は、私が想像しているものではなかった。彼は、私の想像通りにならなかった。
「人間は、思い通りに動かせないものだ」
不意に今日彼が残していった言葉が浮かんだ。全く。全くそのとおりです。それはあなたが私に示した態度、その全てが絶対的な証拠なのです。彼を動じさせたい。そう思ってしたことが、かえって私の心に波紋を広げてしまう結果になってしまった。後悔すら生まれた。



 

 手首の間接が鳴った。日頃、如何に腕力や握力を使っていないのだろうかという事が浮き彫りになるかのような音だ。美術館の会員の住所録が印刷された紙を切っていくという単純作業だけで、私の腕は疲れてしまったようだ。ハサミを置く。いくら普段筋力を使わないとしても、私は俗に言う「お箸より重いものなど持ったことのない」お嬢様ではなくごく一般人なわけで、ハサミを三十分使うだけでのこの疲労感は異常だ。それもこのはさみが無駄に重くて、いかにも台所とかに設置されていそうな大きいサイズだからだ。いったい誰が買い揃えてきたのか。これくらいの簡単な作業にしか使わないのに、お道具箱に入っていそうな小さいハサミでいいと思うが、何故か館内のオフィスにあるハサミはこんなものばかりだ。
「うーん、そろそろ四時かぁ」
向かい側の席の上司が、キリが着いたのかパソコンから顔を上げて壁の時計を見やる。いかにもオフィスらしいデザインで無難な形の、CASIOの電池要らずの有能な壁時計だ。
「あ、お茶でも入れましょうか」
「じゃあ、お願いしようかな」
上司は大げさに瞬きしながら人懐こそうな笑顔を私に向けた。
現代この部屋にいるのは七人。これ以上人数が増えないうちに早くお茶を入れてしまおう、と些かセコイ考えが浮かび、部屋を出た廊下のつき当たりにある全員分のコップが置かれている棚が置かれた一角へ急ぐ。
ここの人たちは全体的に洋茶より日本茶を好む。だから置かれているお茶葉の殆どが紅茶ではなく緑茶だ。しかしその緑茶がスーパーマーケットなどで売られている物ではなく、わざわざ京都の有名な御茶屋さんからネット注文したものであることには、流石、小奇麗なことで。と、少し職場らしさを感じさせる。
十人十色。まさに言葉通りのコップたちに手をやる。ここに来て半年以上経てば、あまり記憶力のよろしくない私にもどれが誰のコップか見当がつくようになっていた。
「あ!!」
あまりの落胆に声を発してしまった。四つ目のコップをお盆に乗せたところで、彼が部屋に入っていくのが見えた。大丈夫、彼には気づかれていない。だけど―。
うわぁ…。
最悪。もうひとつお茶を用意しなくてはならなくなった。いや、それだけならいい。いくら面倒臭がり屋の私もそこまでケチではない。問題はそのもうひとつが彼のお茶ということだ。
私が彼に些細なれ反抗した日から五日が経っていた。あの日から私と彼の間には何の変化もなかった。今まで通り…いや、少し変化があった。いつにも増して、お互いがお互いを遠ざけるかのように言葉を交わす機会が減った。なので、彼に叱責されることも皮肉を言われることも殆どなかった。しかし、あれから特に何もなかったこととストレスの要因が減ったことでほっとしている自分の中に、どこかすっきりしない何かが残るようになった。
そんな心境だ。なるべく彼と接する機会を作りたくない。前以上に。しかし、そんなわがままで彼の分のお茶だけを持っていかないほうが、より気まずい。
私は、目の前の棚に鎮座された灰色の高級湯飲みに手を伸ばした。


 もうすぐ今週も終わる。あの日から、もう五日が経つ。五日なんてあっという間だ。そしてまた月曜が来る。その無限ループに一瞬絶望がよぎった。人間は出口の分からない迷路をひたすら歩いている。だからこそ得体の知れない不安に悩まされ、取り留めのない毎日に怠惰する。お手洗いから出てきた私は、廊下のつき当たりにある一角を見やった。つい三時間程前私はあそこでお茶を入れていた。そして、そのお茶を運んだ。もちろん彼の分も。お茶を彼の元へ運んでいったときの会話は「どうぞ、お茶です」「あぁ、どうも」で終了した。なんと素っ気ないこと極まりない。だがその素っ気ない見た目とは裏腹に、私の心臓は激しいリズムを刻んでいた。擬音語で言い表すなら、ドキドキドキではなくどくんどくんどくん。ロマンチックの欠片もない音だ。
部屋に戻ってきた私は、はぁ、と小さなため息を吐きながらデスクの上の時計に目をやる。午後八時過ぎ。気づけばこんな時間、残っている社員はほとんどいなかった。少し離れた、家具屋で売られているときの姿のままのように何にも飾られていない机を見る。彼も帰ったようだ。私の知らない間に。私も帰ろうか。と、机の上に散乱した書類やらに手を伸ばす。
あれ、
私のペン建ての隣に見覚えのない黄色い小さなメモ用紙が、こじんまり、それでもなおかつ色のせいか目立って置かれていた。
黄色のメモを裏返す。そしてそこには、「明日 十二時 シーザーズ・パレス」と急いだように殴り書きされていた。しかし、文字は英語の筆記態のように少し傾き、神経質そうなシャープな字で、殴り書きと言うには綺麗だった。私はこの洒落た文字が彼のものであるとすぐに悟った。実際に彼の書く字を見たことがあったのか無かったのかは思い出せないが、この文字、どこかいい香りのするメモ用紙、そしてこの行為。このいちいち癪に障るかのような洒落た断片をつなぎ合わせると真っ先に彼が浮かんだ。私は素早くメモをしまい、書類を片付け、職場である美術館を後にした。何故か誰にも会いたくない、早く帰りたい! という思いから私は駅に急いだ。このとき確かなのは、私は自分でも驚くほどに平常心だったということだ。


 夜は早く眠れた。しかし朝は早くに目が醒めてしまった。一度目が醒めてしまったらもう眠れないのは私の悪い癖。眠れないのに布団の中にいても勿体無いだけ。そう思い、布団から抜け出て、顔を洗いにいった。鏡の中の私の顔をのぞく。まだ赤抜けきれていないどこか幼さを感じる素顔。口の中の不快感から、歯を磨く。ぱっと壁時計に目をやると、六時半だった。平日だってこんなに早く起きたことは無い。駅まで徒歩十分、電車に乗れば二番目の駅、そこから職場まで徒歩5分。さすが国家建造物だけあって、駅からはすぐだ。彼が指定したシーザーズ・パレスもその駅の近くにある海鮮系イタリアンレストランで、家からそこまで行くのに、職場までの所有時間とほぼ変わらないだろう。しかも約束は十二時。後五時間はある。
トースト、簡単なサラダ、ヨーグルトにオレンジジュース。いつもより優雅で贅沢な朝食をとりながら、朝のワイドショーを見る。男子高校生が同級生の生徒を刃物で刺殺したらしい。相撲は相変わらず外国勢が強い。ちょっと名の知れたモデルが某会社の若手社長との交際発覚。ニュースに対してこれと言った感想の浮かばない自分に、私も一応大人になったのだろうかと感じる。でも今日はいつもより何も感じないのだ。まるで、心が「今日はどんなことにも動じないぞ!」と決めたようだ。正確には昨日の夜、あのメモを見た瞬間から。そう考えるとこの妙な落ち着きは納得がいく。本当はすごく緊張しているのかもしれない。だからこそ無意識に「動じない」ようにしている自分がいる。時計に目をやる、八時半。有能な洗濯機は「モウオワリマシタヨー」と言うかのようにうるさく鳴いている。あと二時間くらい何してようか。今日は昼まで寝て、部屋の掃除をするつもりだった。だけど部屋の掃除をこの二時間に充てようとは思わない。私は急に彼を恨んだ。何故休日に彼のために時間をとらなければいけないのか。何故よりによって苦手な人間と二人でランチを取らなければいけないのか。何故十二時までこんな気持ちで待たなければいけないのか。




 腕時計に目をやる。十一時五十五分。いい時間。
私はシーザーズ・パレスの前に来た。彼はまだ来ていないようだ。
ふと、勤めだして一週間くらい経った日、私はいつもの電車に乗り遅れ遅刻して彼に皮肉交じりに叱責されたことを思い出した。大丈夫、今日は遅刻していない。
しかし、十二時十分になっても彼は現れない。時間管理に厳しそうなのに珍しいなぁ、と呑気に考えていると、もしかして先に店に入っているのではないかと言う発想が頭をよぎった。


いた。
店の中に。彼は既にテーブルに座っている。
「すいません。店の前で待っていたんですが、中にいるとは気づきませんでした」
彼は、あぁ、と無表情ながらにも納得したかのようだった。
「荷物や上着はその籠の中にでも」彼は視線を足元に送る。そこにはバスケットが2つあって、ひとつは彼のものであろういかにも19世紀ロンドンと言う感じの薄いロングコートが折り目正しく入れられていた。あ、はいと言いながら私も白いトレンチコートと鞄をバスケットに入れる。私のコートは折りたたんだのにそのまま放り投げたみたいにぐしゃぐしゃだ。
店員さんが来て、彼は手際よく何かを注文している。と、視線を投げかけられ慌ててメニューの中からぱっと目に入ったきのことハムのクリームパスタを注文した。後から思えば、海鮮系レストランなのに何故きのことハム。なんだか損した気分だ。
「あの、ここよく来られるんですか?」
「いや、そんなに」
会話が途切れた。彼は何故私をここへ呼んだのか。全く意味が分からない。本当に今すぐにでも帰りたくなってくる。
「君はたしか芸大出身だったね」彼の薄い唇からそよ風みたいに静かな音が漏れた。
「はい。京都の短大ですけど」
「京都はいい街だ。たくさん文化財があるし」
彼の言ういいとは文化財がたくさんあって芸術的にいいという意味なのだろうか。
「僕も京都の大学に通っていたから」
あぁ、そうなんだ…。あれ、なんだか違和感がある。彼は自分のことをプライベートでは僕というのか。なんだか似合わない。そう思うと面白くなって緊張が緩んできた。ん?なら職場では何と呼んでいたっけ。
「大学って芸大ですか?」
何とかして会話を繋げなくては。彼の無難な会話の断片を拾ってつなげる。もはや質問の答えなどどうだっていい。きっと明日になれば忘れている。
「いや、普通の私大だ」
彼の言う、普通の私大というのは、芸大ではない4年生の私立大学ということだろうか。さっきから、彼の言葉は抽象的すぎる。相手が彼以外なら何とも思わないのだが、逆にもし私が「普通の私大」なんて言葉を使ったら「君の表現は抽象的過ぎる。浮かれた学生ならともかく君は社会人だぞ。もっと具体的に説明しろ」とか彼なら如何にも言いそうではないか。
「じゃあ、芸術系の学科だったんですね」
「学部は教育系だけど、専攻は美術系だった。まぁ大体は君の言うとおりだね」
 成る程、そうして彼は学芸員の資格を取り今に至るということか。それにしても「系」
なんていう言葉も曖昧で彼らしくないなぁ。
「おまたせしました」立ち振る舞いがホテルマンのように洗練された店員が食事を運んできた。店員は慣れた手つきでお皿をテーブルに置き、「ごゆっくりどうぞ」と去っていった。彼はもう食べ始めている。なんだか食べるのに必死で子供みたいだ。
視線がぶつからない、そういう時にしか彼のことを凝視出来ない。すっとした鼻筋、細い眉毛、切れ長の目、いつも神経質で冷たい印象を与える整った顔立ち。だけどそんな顔立ちもなぜか今日は別人のようで、今日の顔はプライベート使用というか、休日使用と言えるものだった。どこか隙がある。
「どうした?」彼が目を丸くして、私にその団栗のような目で視線を投げかけた。団栗のような目なんて表現、普段の彼には絶対にあわないんだけどなぁ。
「あ、すいません。猫舌なので」とっさに嘘をつく。
すると急に、さっきからずっと目前に食事があると言うのにフォークも手にせず向かいの男性に見とれていた呆れた女の愚行がとても恥ずかしくなって顔が熱くなった。
パスタの味なんて全然分からなかった。ただ硬くもなく粉状でも液状でもない物体を噛んでいると言う感覚しかなかった。味が全然分からないのに「美味しいです」なんて言って、本当に自分も都合のいい生き物だ。
彼が苦手だ。彼の視線はもっと苦手だ。彼の視線を浴びると私は石になってしまうのだ。だからこそパスタの味も感じられない。何か会話を考えなければいけないのに頭も回ってくれない。舌も脳も石化だ。
ふと、彼がもうランチを食べ終わっていることに気づいた。まだ食べ終わっていない、しかも半分もパスタが残っている私の皿を見ると、なんだか申し訳なくなる。
「す、すいません。食べるの遅くて」
「いや、いいよ。君は食べるのもゆっくりなんだな」
やはりこの人は、清清しいほどに本当のことを言う。その正しさが彼を遠ざけたくなる原因のひとつなのだろう。要するに私は自分を甘やかしてほしいのかもしれない。それが正しいか正しくないかに関わらず、だ。
「コーヒ-一つ」彼は耳元くらいまで手を上げて店員に注文した。
食べるのが遅い私を彼なりに気遣ってくれたのだろうか。少し驚いた。彼でも私を気遣ってくれることがあるのか。もしかしたら単に珈琲を飲みたかっただけなのかもしれない。彼の気遣いなんて私の勝手な妄想なのかもしれない。だけど何だか少し嬉しかった。



 シーザーズ・パレスを出た時には、午後三時を回っていた。結局パスタを食べ終わった後、空気を読まず、ずうずうしくもパフェを注文した私に呆れながらも彼は珈琲を注文して食後のデザートタイムに付き合ってくれた。私もこんなときにパフェを頼むなんて自分でもよくやるなぁと辟易する。それは、なぜか、やはり嬉しかったからだ。私の食べるスピードに合わせて彼が珈琲を注文してくれたことが。そしてそれが調子に乗ってパフェを頼んで食事時間を延長してしまう結果に繋がった。なぜだろう、それでもきっと彼は私の食べる遅さに苛立ちながらも待ってくれるという期待が私の中に燻っていたのだ。
そこから、ただただ目的地も目的と言う意味自体もなく無言で歩いた。少し前を歩く彼は細いが、羽織っているコートが平均的な成人男性の肩幅を形成し、丁度いい体格を作っていた。当たり前だが歩幅は私より彼の方が大きい。だけどあまり離されずに歩けているこの距離が、どうか意図的であるようにと少しだけ願う。
「あ、美術館」
「職業病だな。この辺を歩いていたらやっぱりここに着いてしまう」彼はため息混じりに苦笑った。
清潔感のある灰色の整った建物。改めて自分の職場の外観を見ると、なんだか彼のようだな、と言う感想を持った。
「休日にまで職場は見たくないです」
彼は少し黙ったが、「そうだな」と笑った。きれいな歯が少しだけ覗く。しばらく美術館を眺めていたら、何故自分は今日彼に呼ばれたのだろうかということを思い出した。彼に会う前はそれを尋ねないつもりだった。別に理由に執着が無かった。ただ休日にまで彼と会わなければいけないという事実に、早く終われ早く終われと言う感情が自分の中でかなりのウエイトを占めていたからだ。理由を聞きたい、だけどなぜか理由など何でもいいのかもしれない。つまり結局今も理由に対する執着心が無いのだ。しかしそれは、さっきとはまた別の、むしろ真逆のそれだった。斜め後ろから彼を見る。まだ温かさの残る秋風に漆黒の髪がかすかに揺れている。そしてそのたびに見える耳の白肌色が少し愛しい。
二人はまた少しずつ歩き始めた。行く当ても無くただ職場付近をぶらぶらした。美術館の裏側にある中学校の前を通ると、休日にもかかわらずジャージ姿の学生達が部活に励んでいた。ただやはり平日よりも雰囲気が柔らかかった。中学を曲がって裏地に入ると、昭和をイメージさせるかのような茶色い民家たちが並んでいた。太った斑猫がブロック塀の上で欠伸をしている。なんだか時間が止まったような錯覚に陥りそうになる。週のほとんど通っている職場付近にこんなに癒される場所があるとは思わなかった。斬新でいて、どこか懐かしい。向かいから歩いてくるおばあさんに会釈され、軽く頭を下げた。彼もまたミリ単位で頭を動かした。私と彼の間に会話は無かった。しかし嫌な沈黙ではなかった。この空間の穏やかさのせいだろうか、この沈黙の中には妙な安心感が存在する。たった今このときだけは本当に言葉なんて要らなかった。




 気づけば、裏地を抜け大通りに沿って駅の近くまで来ていた。日が暮れ始めている。いったい何時間歩いていたのだろう。そして何時間会話が無かったのだろうと考えると程々に呆れるが、後悔も反省も感じないのは不思議だ。
「前に君が考えた配置」
彼は開口一番、呪文のように唱えた。
「え?」いきなりすぎて間抜けな音を返す。
「一週間前の、ポーターの動物画展の配置だ」
ポーター? 呑気な私の脳は、バーコードリーダーのように一瞬でそれを具現化できず、しばしフリーズ。
と、あの間抜けな蛙の絵が頭を過ぎった。
あぁ、そうだ。見当がついた。思い出すだけで口の中に苦さが広がっていくようだ。彼の指示通りではなく自分の独断と偏見で勝手に作品を並べてしまったというあの出来事。彼と私のよろしくない思い出の中でも特にワースト3に入るであろう。
「あの時は本当に申し訳ありませんでした。社会人として相応しくない行動をしたと思っています。本当すいませんでした」
我武者羅に謝った。これこそまさに平謝りと言うのだろう。体が妙に熱くなる。
「いや」彼は少し驚いていたようだった。というか私の哀れなほどの謝りぶりに引いているのか。
「よかった。あの配置は」彼は微かな声で続ける。
「素晴らしい、と絶賛されるほどではない。けど、少なくとも僕が考えていたものよりは悪くない、いや、よかった」
熱くなっていた私の体が急に正常な熱を取り戻した。褒めた。褒められた。彼が私を褒めるなんて普通なら信じられない事だ。それもあんな社会人として最悪の愚考を、彼への反抗心が一番含まれていた行為を、まさかこんな形で褒められるとは思ってはいなくて。
「君は僕に対して好意的ではない、むしろ君に嫌われているのだと思う」
「えっ!?」また体が異常な熱を持つ。つま先から頭のてっぺんまで一気に熱がこみ上げ、頬からつま先まで一気に血の気が引いていくようだ。弁解の言葉を捜す。けど見当たらない。必死に探すけど本当に私の頭は動かなくて役に立たない。
私のパニック状態が伝わったのか、彼は微笑して助け舟のように次の言葉を繋いだ。
「自分でも仕方ないと思っている。呆れるよな。君に対しての対応は、ほかの人よりもきついものがあったから」
冬を予感させる涼しさを含んだ秋風に頭が冷やされたのか、少し冷静になってきた。それと同時に彼の小さな口から出される発言がますます信じられなくて困惑する。
「いえ」
そんなことないです。と言う言葉が続かなかった。やはり私は心にもないことを外になんて出せない。
「僕は少しそういう癖があって…癖だとか弁解にならないな」
彼は自虐的に笑って見せた。そんな笑顔ですらこの人はどこか美しい。
「だから決して君のことが憎いからとかそういうことではなくて」
彼は二の句を探している。なかなか言葉が出てこないようだ。彼は諦めたのか黙り込んでしまった。中途半端なんてこの人らしくない。
これが、彼が今日私を呼び出した理由なのだろうか。きっとそうなのかもしれない。だけど実際のところ彼自身も理由なんて分かっていないのかもしれない。私にはそんな気がする。だけど理由なんてもうどうでもいいのだ。私にも彼にも。
今日私は、いつもの彼らしくない彼をたくさん見た。それは遅刻したことにも嫌味を言わなかったり、無難な話題を振ってきたり、おばあさんに会釈をしたり、私を褒めたり、自虐的に笑ったり、言葉を中途半端にとめたり、多様多彩だ。彼は私が思っていた以上に律儀で不器用なのかもしれない。と言うか、私が彼に対して抱いていた神経質で冷淡で粘着質と言う印象の正体が、これだったと言うほうが相応しい。表面上は冷たく、時によって体温を変えながらも中には暖かい血を通わせた変温動物のよう。
「あの、大丈夫です。私、全然気にしてないし、何より叱られて当然だと思っていますから」
部下としての平然を装った。笑顔を作った。すると彼も口角を少し上げた。いつにもない穏やかさを秘めた彼の目はどこか寂しげな光が宿っているようだった。
「そろそろ日も暮れる。今日はせっかくの休日をつぶしてしまって申し訳ない」
「では、また」彼はその場を去ろうとした。気づけば私たちは駅の前にいた。二人の果てしない散歩の終着点は駅だったのか。
「あ、はい。では失礼します」
 今日、彼は彼の中にあったものを全て出してくれたのだろうか。そうでないとして、今日彼が言った全てに私は答えることができなかった。私は今日の彼に対して、どうしてそれに見合った自分を出せなかったのだろう。
 本当は初めから気づいていたのではないか、例え彼が冷酷な蛇だとしても、今日のように彼の本質に触れることがなくても、彼が苦手だとしても、私は彼を嫌うことができなかった。蛙だから、私は。ならば何故、同じ変温動物なら彼の体温変化に合わせて変化できるくらいの事が出来なかったのだろう。何から何まで劣等な蛙だ。
 彼の後姿を見送る。キレイな夕日がビルの隙間に揺らいだ。
 どうして言えなかったのだろう。
 貴方の事が嫌いなんかではないです、と。

ヘビとカエル

ただ最後の場面が書きたかった。
それだけで書こうと思いいたった小説です。


二年ほど前に書いて、某サイトに投稿したものを、少してリメイクしました。
初めて人に発信したものなので思い入れがあります。



クールにみえて不器用な「彼」を書くのが楽しかった。
それだけでなにより。



あ。
一応、続編のようなものがあります。
今度は「彼」目線で、「二十年目の満月」というおはなしです。
べつに続編がなくても成立するのですが、気が向かれたらそちらもぜひ、読んでいただけると幸いです。

ヘビとカエル

「私」は「彼」が苦手だ。 傲慢で冷酷で、ヘビのように冷たい生き物。 彼の前での私はまさに、蛇ににらまれた蛙。 だけどなぜ私は彼を嫌いにはなれないのだろう。 不器用でちょっと変わった、恋愛小説です。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-02-11

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