喜雨

喜雨

 七月三十一日、午後八時。年下上司の森田室長は、秘書室の入り口にある、まるで学校の教室にあるような丸い黒の掛け時計を眺め、溜息をつきながら言った。
「小畑さん、上がっていいですよ。上手くいったようですし、もう、夜も遅くなりましたので」
「はい、分かりました。お疲れさまでした。そして、お世話になりました」
 私は立ち上がり、いちいちが大変細かい年下上司、森田室長へ頭を下げた。
 これにて秘書室から、総務部総務課へ明日、異動になる。三年間、長かった。

 私は八年前、中堅の酒類製造、販売メーカーへ採用となり、地方都市の現地採用の事務職員を経て、六年前、本社の総務課勤務になった。
 花形の営業や販売に配属はされなかったが、総務はコツコツ同じことをやり続けるのが得意な私には向いていたようだ。事実、仕事は楽しかった。ずっとずーっと総務でいい、そう思っていた。
 それが三年前、会社側は何を考えたのか、前触れもなく秘書室へ異動を命ぜられた。
 秘書、それは社長をはじめとする重役の皆様のスケジュール管理から、会食接待のセッティング、資料作成、得意先へのお中元、お歳暮手配、役員の皆様の使いっ走りまでこなす、究極の裏方………。つまり、いわゆるお偉い様の、お世話係を仰せつかった訳だ。
 地味女子の私は異動になった瞬間、同じく秘書室勤務のサバサバしたお姉様方に服装、化粧など駄目出しをくらいまくり、二年間の間半べそをかきながら、なけなしのお給料を使ってなんとか見られるわね、と言われる位までにはなった。
 重役の皆様の前へ出るプレッシャーと、興味の持てないお洒落への努力、刻々と変わるスケジュールの調整、色々なことはストレスになって、意外な所へ現れた。

「今日は、鼻血、大丈夫そうですね。良かったです」
 冷静沈着、臨機応変、大変気が利くと評判な年下上司、森田室長はニコ、と笑いながら言った。
「はい、大変ご迷惑をお掛けしておりました。申し訳ありませんでした」
 優しい声音を心掛け、頭を下げながら、もうそんな目には、合わないもんねーと心の中で毒づく。
 ここ一年に起きた、いきなり吹き出す鼻血のほぼ八割方は、ほとんどが目の前にいる彼の無茶振りのせいだ。あと、円形のハゲも二つ。きつく結い上げ纏めた髪の下に見つけた時には、目が点になった。
 そして諸悪の根源だと思われる、今、目の前にいる年下上司の顔が浮かんだものだ。
「糖質の多いものを小畑さんはお好みのようでしたから、鼻血は出やすかったと思います。吹き出物や、内臓脂肪の元となりやすいですから、これからも控えられた方が宜しいかと」
「ご忠告、感謝いたします。大変お世話になりました。それでは失礼致します」
 にーっこり笑った私は、話を切ろうと優しい口調でご挨拶をした。辛辣で、嫌味で、直ぐ痛い所を突いてくる年下上司に。
 なのに、見上げたその目線の先にいた年下上司は、目線を逸らし、頬を赤らめた。
「小畑さん」
「はい、何か御用でしょうか。森田室長」
「めし、行きませんか」
「めし、ですか?」
「まあ、送別会代りに、どうでしょう」
「お誘いありがとうございます、ですが送別会は一昨日、皆様から心暖まる会を設けて頂きました。何度も設けて頂くのは心苦しいので、どうかお気遣いなく」
 室長も、いただろう。そう思った言葉は飲み込む。
「………腹、減りませんか」
「さほど減ってはおりませんので、どうかお気遣いなく」
 そう笑顔で言った途端、お腹の虫はぐぅ、と大きな音で、鳴った………。なんという、バットタイミング!
「小畑さんは、身体の方が素直に状況を教えてくれるようですね」
 にーーーっこり笑った鬼畜、と評判の年下上司に、私は笑顔で応えながらも、そっと心の中で溜息と悪態を吐いた。


「小畑さん、北千住ですよね。私も北千住なので、そこで飲みませんか?」
「へっ、あ、そうでしたか。北千住にお住まいとは、存じませんでした」
「ええ、つい最近からですが、住んでいます」
「そうですか。じゃ、北千住ですね。分かりました」よりにもよって、同じ駅になったとは。
 エアコンが冷えすぎず、暑すぎないオフィスビルから自動ドアを開けて出ると、外は今日もムンムン、蒸し蒸しの熱帯夜だった。
 もう、どうにでもなれ。半ば投げやりな気持ちで、森田室長の後をついて歩く。歩幅は年下上司と私とでは、大層違うのだ。蒸し暑い空気の中、早歩きになると息苦しさを感じる。
「ああ、すみません小畑さん、私は緊張すると、大股になる癖がありまして。気をつけますね」
 随分前を歩いていたと気がついたらしく、すぐ振り返った年下上司は、すまなそうに声を掛けてきた。
「いえ、構いません。お気遣いなく」
 このまま置いて行ってくれても良かったんですよ。そう言いかけた言葉は飲み込む。

 明日は異動だ、というのにこんなに遅くなったのは、目の前を歩く二つ年下の上司のせいだ。
 これは極秘だが、ある評判のよい大手のワイナリーとの契約を前に、本日、社長と専務は赤坂の高級料亭にてワイナリーの代表者と会食の席を設けた。
 お互いをビジネスパートナーとして相応しいか、見極めるための会食の会場選びは慎重に事を進める必要があった。その点、料亭はそのようなお客に慣れているし、入り口からプライバシーが厳密に守られており、他のゲストと遭遇しないようにコントロールされている。
 契約発表をする前のデリケートな時期に、提携を結びたいと考えている相手との会食の場としては、うってつけだ。
 そんな大口の仕事の料亭選び、手土産の手配などを、この年下上司は、異動間際の私へ振ってきた。
 小畑さんを間際まで働かせるなんて、ほんとあのひと鬼畜すぎる……。
 一昨日の送別会にて、一緒に総務へ異動になるお姉様の菅井さんは、こっそりと囁いてきた。
 うちの会社は定期的に、総務から秘書室へ人事異動がある。菅井さんは四年、私は三年、それぞれ秘書室に勤務した。
 最近、他企業と秘書同士で会合、接待の会食などの打ち合わせをしていると感じることだが、どの企業でも個人秘書は置かず、人事異動してきた社員が秘書業務を担うことが多いようだ。

 うちの会社の秘書は、世間一般のイメージとは違い、会合、会食に同行することはなく、始まって一定時間は会社にて、トラブルなどの対応の為待機をしてはいるが、何事もないとその後は退社できる。休日も取引先の役員方が亡くなってのお葬式など、突発的なことがなければのんびり休みを取れる。
 それでも、秘書業務は隅々まで気を使い、神経を擦り減らし、守秘義務がっちりで愚痴もこぼせず、身なりにも気を使い、精神的に成長はするが、疲れることも多かった。
 そこへ来てこの細かく、口煩く、ひとの体調管理にまで、喜々として口を出してくる年下上司に、イラっとさせられることは多かった。
『小畑さん、そんなに鼻血が出るのは、もしかしたら、悪い病気へ掛かっているのかもしれませんよ。病院で診てもらってください。でないと、仕事はしてはいけません。有休差し上げますから、病院へ行って検査を受けて来てください』
 長々と年下上司に説教をされ、室長のせいだよ!と心の中で毒づきながらも、それを口には出せず、渋々、私は耳鼻科を受診した。
 結果、鼻の中の粘膜が荒れている箇所がある、それがストレスで鼻血が出やすくなっているのではという診断だった。やれ血液の病気じゃないか、大病だったら、と脅してきてうんざりだったのは、診断がつくと鳴りを潜めた。

「森田室長は、日比谷線ですか」
 日比谷線の地下道へ入ろうとしていた、年下上司へ話し掛けた。
「ええ、そうですが」
「私は千代田線なので、また後でお会いしましょう」
 にっこり笑うと、眉を潜めた年下上司は大股で三段を一気に上がって、私の前へ来た。
「道理で。私も今日は千代田線で帰ります。ご一緒させてください」
 何が道理で、だ。このクソ年下上司め。髪の毛を一本残らず抜いてやろうか。
 あわよくば、巻いてしまおうと思っていたのに、目論見は外れた。奴が先に改札を通ってから、言えばよかった。焦ると碌な事はない、ということだ。


 この年下上司は、一年前に親会社から出向して来た。少しずつ業績が悪化していた会社は、ビールの事業で差別化をはかるプレミアム商品の開発、販売は他社から遅れをとり、その対応も後手後手になってしまい、肝心のプレミアム商品の売り上げは伸びず、ついに赤字へ転落した。
 あっという間にグループの親会社から、テコ入れ策として営業部長と、森田室長が送りこまれてきた。
 先の会社でも若くても切れ者として評判だったらしい年下上司は、半分入れ替わった役員の皆様へ、どうやらアドバイスする立場というか、いわゆる役員教育係として来た、ようだ。ようだ、というのは傍から見ていると感じることだが、お偉方の機嫌を損ねず上手くアドバイスをし、良い方向へ行くように手綱を握っているように感じられるからだ。
 二年間、側でゴタゴタ、後手後手になって血流が止まっていたのを秘書として見ていたが、会社はこの一年間で少しは血の流れも良くなり健康になってきている。
 ビール部門の縮小は余儀無くされたが、売れ筋商品を守り、細々と作られていたエールビールを味の改良をして新たに売り出した所、大当たりし、その他にも大手ワイナリーとの提携、良いニュースは去年に比べると、格段に増えた。

「何を、考えているんですか?」
 八時台の千代田線綾瀬行きは、何時もよりも混んでいた。余り近寄りたくないのに、この年下上司から守られるようにして入口の端に立っていた。
「秘密、です」にっこり笑ってそういうと、目の前にいる年下上司は目を逸らした。言える訳ないじゃない、北千住に着いたらどうやって仮病を使うか、悩んでいるだなんて。
「小畑さんは、何故、翻弄するようなことを言うのか、分かりません」
「翻弄なんて、滅相もないです。そう感じさせてしまったのでしたら、申し訳なく思います」
 にこり、としてさも、申し訳なく思っている振りをすると、年下上司はぐっ、と息を詰まらせて蕩けた目でこちらを見てきた。社交辞令、なんだけれど、な。会社の中で人間関係を円滑にするための。
「そうやってまた俺を翻弄する」
 知らないよ、っていうか、敬語忘れているし。上司部下なんだから仕事仲間として接する、と念押ししてきたのはそっちでしょ。しらーっとした目線を送ると、ちょっと慌てた年下上司はコホン、と一つ咳払いをした。


「西口に、いいバルがあるんですが、そこでいいですか」
「いえ、焼き鳥屋でお願いします。オジ様方がお好きそうなお店に行きたいです」
 改札を出て西口を指さした年下上司へ、有無を言わせない口調できっぱりと言い切った。地下鉄の中で仮病のことを散々考えたのだが、この年下上司は調子が悪いと言ったら十中八九、心配だの、役に立ちたいだの言い募って付いてくるだろう。それを振り切ることを考えたら頭は痛くなった。
 それならば、騒がしい店へ行ってさっさと食事を終えて、帰った方がいい。
「小畑さん………焼き鳥、食べるんですか?」
「はい、食べますが、何か」
 驚いた、と言った表情で、年下上司はわたしを見ている。ああ、暑い、着ているブラウスは汗で張り付いてきている。
「いえ、好みは変わるものだな、とそう思っただけです。鶏肉、お好みではなかったような記憶がありますので」
「森田室長、お仕事の関係以外でのお食事のお誘いでしたら、お受けすることはできません」
 にっこり笑って言うと、年下上司はムッとした顔になった。何時も秘書室で見せている無表情は何処へ置いてきたのか、問いただしたい気分だ。さあ、どう出る?私は出来たら帰りたい。
「鶏肉は苦手と去年の私の歓迎会の時に、高倉さんと話をしていらっしゃいましたよ。歓迎会も一応仕事の内ですからね。そこで知り得た話をしてはいけませんか?」
「まあ、流石森田室長、記憶する能力に長けていらっしゃいますね」
「小畑さんのことでしたら、些細なことも忘れませんから」
 嫌味を執着で返されて背筋に悪寒が走る。隙を見せたら確実に喰われる。額に汗は浮かび、スカートのポケットからハンカチを取り出し、そっとそれを抑えた。
「小畑さん、高倉さんとは仲がよろしいようですが、高倉さんには社内に新しくお付き合いされた方がいらっしゃるようですよ。あまりお相手を刺激しないほうがよろしいかと」
「存じ上げております。そのような下種の勘繰りは止めてくださいね」
 ルミネの華やかなショウウィンドウの前で、何故この年下上司と揉めないといけないのか。奴が言いたいのはこうだ。
 高倉さん、彼女出来たってさ、だからあんまりちょっかい出すなよ。
 知ってるわ、そしてそんな気は更々ない。高倉くんは同期なので何かと話しやすいだけで、そんな鶏肉の話をしたのかすら、覚えていない。何でも嫉妬して、そんな関係だと疑うのは止めて欲しい。というか、彼氏じゃないんだから、嫉妬する立場でもないだろう。
「では行きましょうか、年配の方が好みそうな焼き鳥屋へ」
 汗一つ見せずにっこり笑った年下上司は私を促すと、蒸した夜の街へ歩き出した。


「豚串二本はタレで。それから、豚ホルモン、砂肝、ハツ、セセリ、あとやげん軟骨、一本ずつ塩で。後は梅とチーズのつくねを一本ずつ。それから、つぶわさ、枝豆、梅しそ冷奴、シーザーサラダ、あとねぎ飯でお願いします」
「小畑さん………」
「はい、何でしょう」
 バタン、とメニューを閉じて目の前にいる年下上司を見る。唖然、と顔に書いてあるが知ったことではない。オジ様が好きそうな、と言ったのに年下上司が連れて来たのは、こじゃれた内装の焼き鳥屋だった。
 ドリンク、アルコールはうちの会社の物を提供していますから、あそこにしましょう。
 調べもせずにすぐ、そんな情報が脳みそから出てくるところは、凄い。そこだけは、この年下上司を尊敬している。
「はい、串アラカルトに、小エビの生春巻き、カマンベールチーズ揚げ、豚串二本、タレで、豚ホルモン、砂肝、ハツ、セセリ、やげん軟骨、一本ずつ塩ですね。梅とチーズのつくねを一本ずつ、つぶわさ、枝豆、梅しそ冷奴、シーザーサラダ、ねぎ飯、以上でご注文間違いないですか?」
「はい、お願いします」
 生ビールを持って来てくれた、黒いタオルを頭に巻いた黒いTシャツの店員のお兄さんへ、にっこりと笑顔を返した。一瞬、驚いた顔をしたお兄さんは爽やかな笑顔を返してくれる。これよ、これこれ、この位の人との距離感が今の私には丁度いい。
「小畑さん」
 なのにこの年下上司ときたら、鋭い口調で名を呼ぶ。そうするのがまるで当たり前、かのように。
「何か」
 それ以上言ったらお通しで出た水茄子の糠漬けを鼻に詰めるぞ、こら。残酷な微笑みを浮かべて見せると、途端に年下上司はひるんだ。
 そうそう、それでいいの。あまりにもしつこいと嫌われますよ?
「もう、そろそろ許して下さいませんか、小畑さん」
「何が、ですか?森田室長はお仕事の上では、完璧です」
 にっこり笑うとこの年下上司はうう、と唸り声を上げた。仕事以外の話はしない、そう約束したでしょう。

 三ヶ月ほど前、急な用事があるから、と二ヶ月違い生まれの姉から実家へ呼び出しの電話があり、散々抵抗したにも関わらず、どうしてもと言われ渋々出向いた所、有無も言わされず成人式以来着たことはなかったお振袖を、古くから実家へ勤めてくれている星川さんが着付け、母とハイヤーに乗るとあっという間に日比谷にある老舗ホテルへ連れて行かれた。
 ティールームで、ニコニコしたこの年下上司が相手として待っていて、なんと正式な仲人まで入れたお見合いの席に来たのだ、と知った時の私の衝撃度は高かった。いや、高すぎた。
 何て回りくどく、七面倒くさいことを。そして、これはルール違反だろう。
 呆れて物も言えずただ唖然としていたら、トントン拍子に話は進みそうになり、度肝を抜かれている場合ではないと焦った私は長兄に泣きついた。
 あの個性的な家族の中で良心的な長兄は母と姉を叱ってくれ、話は何故か有耶無耶の内によくわからないことになり、私の頭には円形のハゲが二つ、出来た。
 私には甘い長兄はどうやら裏で手を回したらしく、本当は通例でいくと四年居る筈だった秘書室を今回の異動のタイミングに合わせ、三年で出ることとなった。

『というか、森田の弟はまだお前のことを諦めないのか。母さんも母さんだが、お前も、もっと早く言ってこいよ。お前の上司になっていたなんて、気がつかなかった。新聞の人事欄には販売に行くと書いてあったからな』
『申し訳ありません、ご面倒をお掛けしました』
『本当にな。コネを嫌がって一般試験を受けて、なんてことをやっているからこういう目に合うんだ。コネはコネでメリットもあるんだからな』
『はい、分かっています』
 長兄の家族団欒の場となった赤坂の高級料亭にて、呼び出された私は深く頭を下げたのだが、その後も懇々と説教を食らった。
『いっそのこと受け入れてしまったらどうだ。結婚相手としては不足ないだろう。女は好かれ、望まれて嫁ぐ方が幸せになれると思うぞ』
 そう言うと長兄は、静かに床の間の前に座り、先程女将に教わったばかりの一級品の季節に合わせた掛け軸の謂れを子ども達と、穏やかに会話をしているお義姉さんへ目を向けた。
 長兄は普通に社内恋愛で英語が堪能な、賢い女性と結婚した。異国の血が混じったお義姉さんとの結婚は、家族は祝福し、親戚には胡乱な者が入り込むなどと、といった感じで受け止められた。
『本物の醜いアヒルの子が、格式張った家へ入ったのなら、待っているのは相手が苦労することだけです』
『苦労を共に出来ないとは、そこまで森田の弟のことを好いてはいない、ということか』
『私は壊れた女です。心の底は日照りの畑のようにひび割れて、他人からの好意は注がれても全て染み込まないのです。ご存知でしょう?』
『お前達はどっちもどっちだ。森田の弟へ手を出したのはお前だろう。責任取って婿にしてしまえ』
 そう長兄は呆れたようにわたしへ言った。この年下上司へ手を出したこと。それは別に後悔していない。ただ再会してからのしつこさが誤算だっただけで。


「串各種とねぎ飯でーす」
「わあ、ありがとうございます」
 やはり黒いタオルで黒いTシャツの可愛いお姉さんが、机へそっと皿とお茶碗を置き、笑顔を見せた。私も笑顔を返す。
 早速タレの豚串から照りってりに香ばしく輝く、豚肉を箸で外しねぎ飯へ乗せた。そして少し混ぜ気味にすると、混ぜ合わされた三位一体のそれを大きく口を開けて、う、うーん、美味しい!
「小畑さん……」
 しゃきしゃきの青いねぎと、炭火の香りを纏ったタレに絡まった豚肉と、麦が少し混ぜられた白いご飯の組み合わせで口の中の味覚が一杯になったら、ラガーの生ビールの苦味でさっぱりさせる。この繰り返しに、悶絶するほどの幸せを感じる。目の前にいる年下上司のことは、最早無視だ。
「美味しい、ですか?」
 ふと見ると、羨ましそうな目で年下上司が向けている目線の先には私、ではなく小さめのお茶碗だった。へえ、ジャンクな物は食べない、神経質な一面の記憶しかないのに興味、あるのかしら。
「上げませんよ、ご自分で注文なさったらいいじゃないですか」串アラカルトに豚串タレもあるし、ねぎ飯だけなら直ぐ来ると思う。
「味見してから考えたいので、一口下さい」
「まあ、図々しいですね、これは私のねぎ飯ですから」
「小畑さーん」
 情けない声に、少し絆される自分が嫌だ。渋々小さめのお茶碗を差し出すと、年下上司は昔のように嬉しそうな、無邪気過ぎる笑顔を見せ、受け取った。
「あ、旨い」
「ちょっと、返してください。全部食べないで」
「いいじゃないですか、もう一口だけ下さい」
 大きな骨張った手の中へすっぽりと収まる小さな茶碗を取り戻したくて、掌を差し出すと年下上司は横目でちらり、とこちらを見て、いきなり勢いよく茶碗の中身を掻き込んだ。
 そのままリスのように頬を膨らませて、もぐもぐしている。
「一口じゃないでしょう!」
 そう怒るとごくりと全て飲み込んだ年下上司は、喜びを全身から表した。それはそれは言葉では言い表せない程の。


 私は高校生の頃、壊れていた。
 いや、今も壊れている。六歳の時、二つ下の弟と共に叔母の家へ引き取られた日のことを、未だに覚えている。そのまま私達は、叔母の家の子供になった。
 毎日抱き締めて、抱き締められていた温もりはその日以来薄れてしまい、物は与えられても本当に欲しいものは自己主張の強い兄姉の方へ行きがちになり、私達はただ、ひたすら大人しくしていた。
 本物の白鳥の群れへ放り込まれた醜い姉弟は、幼いながらも感じ取って暮らしていたように思う。ここは本当の居場所では、無いと。
 差別や区別はされなかった。むしろ新しい両親はそうしないで、何事も平等に育てようとしてくれているのは分かっていた。でも私達は、深く白鳥の群れへ馴染むことは無かった。
 欲しい、と叫べなかったものをいつしか私は男の子が与えてくれる、温もりから得るようになった。
 未成熟な硬さの残る胸をそっと押し付け、意味ありげな微笑みを浮かべて、手を引くだけで男の子達は、私の中へ避妊具を付けて入りこんでくることの代わりとして、一時の温もりをくれた。
 ひとの温もりは心地良くて、熱くて、そして虚しい。それでも良かった。それが良かった。一人と長く続くことはなく、私は別れると次を探す、を繰り返した。当然だ、欲しいのは温もりだけであって、こころでは無いのだから。
 そんな時に出会った年下上司は弟の友達で、仄暗い目をした男の子だった。
 雨の日に弟に会いにきて、濡れていたその子を部屋へ引っ張り込んだのは私だ。何も考えず、何時ものように、ただ微笑んで。
 制服の襟を引いて、扉の内側へ入れて、頬へ何度も口付ける。そして暖めてあげる、そう耳元で囁いた。縋り付くような目をして私を見た男の子は、ぎこちない口付けと優しい熱をくれた。
 彼の触れ方は繊細で、とても思慮深く、いつでも私の反応を確かめているようだった。悦びを身体へ落としたがり、お互いの視線を絡め合わせ、性急に腰を振るようなことはせず、隙間なく肌と肌を重なり合わせるのを、殊更好んだ。
 彼とは長く続いた。お互いが求めているものは一緒だったからかも知れない。彼は私の中に入り込んでくるより、ただ黙って抱き締めてくることは多かった。
 いつからか、ふざけ合い、はしゃいでくすぐり合い、お互いに悪戯を仕掛け、悪態をつき、笑って笑い転げて抱き合った。
 彼は弟へ会いにくる、という名目でよく家へやって来た。弟は咎めなかった。何故なら弟もまた、私と同じことをしていたからだ。温もりを求めて、私に会いに来たという名目の女の子と抱き合う。私はそれを咎めなかった。
 終わりは、彼が私に愛の言葉を囁きだしたことで訪れた。壊れた者同士だから一緒に居れた。そこを超える気は私には更々無かった。捻じ曲がったものを抱えて、相手を愛するなんて出来っこない。それは今もきっと同じだ。
 彼は私に執着を見せたが、程なくして私は地方の大学へ行く、という理由と、酷い別れの言葉で彼を無理矢理納得させた。
 弟はその二年後に海外の大学へ行って、それから日本には戻ってこない。もう、戻る気はない、とこの間静かに電話の向こうで呟いていた。弟は弟なりの人生を歩むのだろう。それを私はただ、受け入れるだけだ。


「ねぎ飯頼みましょうか」
「もう、結構です」
 早く食べてしまって、帰ろう。注文していたものを次々と咀嚼して、平らげていく。あっさりと断ると年下上司はいきなり呼び出しボタンを押した。
「はーい、ご注文お伺いします」
 さっきの可愛いお姉さんが、注文を受ける端末を片手にやって来た。
「ねぎ飯と生二つで」
 どうやらこの年下上司は帰さない気らしい。少し睨みつけるようにすると、更に年下上司は嬉しそうに笑った。サドだとばかり思っていたのだが、なんだかどうも、そうじゃ無いような気もして来た。
「はい、ねぎ飯と生二つですね。ありがとうございます」
 オーダー入ります、と厨房へ大きな声を上げながら、空になった食器を持ったお姉さんは行ってしまった。黙々とやげん軟骨を食べていると、また美味しいですか、と問われる。そうそう同じ手に引っかかるわけにはいかないのよ。知らん振りをして食べ終えた串を、串入れに差そうとするとそっ、とその手を取られた。
「セクハラは、困ります」
「小畑さん、そこは串入れではありません」
 ふ、と見ると私は箸立てに串を入れようとしていたようだ。ペースをかき乱されている気がする。この年下上司に。
 手を離そうとして引くけれどがっちりと掴まれて、串は反対の手で取り去られ、そっと右手を持ち上げられると手の甲へ、柔らかな口付けまで落とされた。
「セクハラっていうのは、こういうことですよ。小畑さん」
 何かを帯びた笑みを浮かべた年下上司は、もう一度、今度はちゅ、と音を立てて口づける。
「………やめて」
「そんな顔を見れるのなら、止めたくない」
 そう言うと彼は私の人差し指を口内へ躊躇いも無く入れた。ぞくりとするような舌の動きがゆびを包み込み、ゆっくりと舐められて、吸い取られ、熱い吐息と共に軽い音を立てて、離された。
 とろりとしたような、細まった目はずっと私を見ている。耐え切れなくなって、目を伏せた。


 地方の大学へ進学してからは、何故かそんなに渇望するほど温もりに飢えた感覚は薄れた。
 ただ、私はいつでも一人だった。誰かと友達になりたい気も起きなかったし、ただ講義へ出る以外は小さな自分だけの城へ閉じこもった。
 布団の中へ潜り込み、横になりながら本を読む。そのまま眠ってしまったり、食事を抜いたことを忘れて起き上がり、ふらりと倒れて頭を打ったりした日々は、芋虫が蛹になっているのによく似ていた。
 部屋は荒れ放題に荒れても、誰にも何も言われない。服装も適当で、髪はボサボサで、最低限の用事以外は外出せず、ただひたすら本を読んでいた。
 図書館と大学とコンビニ、そして誰もいない部屋がその当時のわたしの世界。
 卒業してからは、その街にある今の職場の醸造所の現地職員となり、実家へは帰らなかった。お給料の為なら、食べて行くためなら人とは、そこそこ穏やかにお付き合い出来た。
 何故か二年後、現地職員だったのに東京の本社へ転勤になった。戸惑ったけれど、決められたことには従い、しつこく実家からは戻るよう言われたが、会社が借り上げた北千住のアパートへ引っ越した。
 私の蛹は蝶ではなく、蛾になった。色味を纏わず、仕事を淡々と、それでも楽しくこなし、満員電車に揺られ、会社と家を往復する日々。
 地味に、穏やかに生きていた。三年前、秘書室へ異動になるまでは。この年下上司のことは忘れてしまっていた。一年前、上司となって現れるまでは。

「お疲れ様でした。それではお先に失礼します」
「怒ったんですか?」
 トイレへ行く、と言って居なくなった年下上司が帰って来る前に、お会計をして帰ってしまおうとしたら、レジの前に居た年下上司は会計を済ませた後だった。奢る、奢らないで押し問答をして、結局奢られる羽目になり、一緒に店を出ることになってしまった。
 外は更に蒸し暑さが増していて、まるで低温のサウナの中に居るような息苦しさを感じる。べったりと張り付くような空気の中、帰ってしまおうと挨拶をしてアーケードの商店街の歩道を歩き出したら、後ろから声が追いかけて来た。
「ついてこないでください」
「私の家もこちらですから」
 あっという間に大股で歩いて来た年下上司は、横に並んで歩き出した。人通りの少なくなったアーケードの商店街に並んでいる自転車が邪魔で、歩みを早められない。
「じゃあ、こちらから帰ります。お疲れ様でした」
 そう言って角を曲がり、アーケードの商店街から外れたのに、やっぱり横をぴったりとついてくる。
「夜道は危ないですから、送ります。家まで」
「結構です。森田室長が一番私の中では危ない人ですから」
 そこから足早に狭い道を歩いた。振り切りたくて、靴の踵は高い音で鳴り響く。
「やっぱり怒っているんじゃないか」
 近道をしようと思って、小さな丸い街灯とベンチと低木しかない、休憩スペースのような公園を横切ろうとした時ぐっ、と腕を引かれた。
「やめて、離して」
「離したくない」
 振りほどこうと大きく腕を振ったのに、がっちりと捕まえられた手は離れない。憎たらしいことに年下上司は不敵な微笑みを浮かべている。
「本当に、セクハラで、訴えます」
「そうしたら過去にあなたと俺がしていたことも明るみに出る。俺は一向に構わないが」
「卑怯者!」
「何とでも」
「何が目的なの、お見合いしたり、健康管理に口を出してきたり、上司部下だから昔のことは話さないって言ったのに過去をちらつかせて、何がしたいの!」
 そう叫ぶと、年下上司は嬉しそうに笑った。それはそれは幸せそうに、嗤った。目の前がクラクラする。暑くて、苦しくて、のぼせそう。
「あなただって、意味有り気な微笑みを浮かべたり、翻弄するようなことを言ってみたり、優しくしたと思ったら冷たくしてみたり、何がしたいんだ。俺をからかっているの?」
「そんなこと、していない……」それしか、答えられない。
「どうかな。遊ばれているようにしか、思えない。俺と遊びたいの?昔のように」
「違う!」
 叫んだ途端、素早い動きで眉間の下、鼻の根元をぐっ、と摘ままれた。掴まれていた腕を外されて、年下上司はポケットからハンカチを出すと、わたしの鼻の下にそっと当ててきた。
「興奮すると出るよな、昔から。ここ一年、見ていたら昔より頻繁過ぎて怖い位だった」
「ふぇ、や、だ」
「我慢して。ああ大量だな。酒を飲んでいるし、仕方がない」
 自分で、そう言いたいのに舌は、空回るばかりだ。鼻の奥から生暖かい、とろりとしたものが流れ出ている気配がする。年下上司の手を外そうと、腕を掴んだら鋭い目線で睨まれた。
「我慢して、って言ってるだろう。今くらい、言うことを聞いてくれないか」
 そう、強い口調で言われて仕方がなく、そっと掴んだ手を下ろした。そうしたら年下上司はふう、と優しい顔になる。
「よく、こうやって鼻血の手当て、したな。あなたは出した後よく泣いていたけれど、もう、泣かないの?」
「……泣かないわ」
「それは、何故」
 質問の意味は理解出来ない。何を問われているのかも、分からない。
「我慢しないで、泣いて、怒ればいい。もっと早く。なのに全て分かったような振りをする大人になって。見ていてイライラする」
「何が目的なの、こんなのおかしい。気が狂っている」
「過去はなかったことには出来ないんですよ。小畑さん」
 にっこりと笑われて、混乱した頭の中は更に混乱した。捕えられて離されないような錯覚に陥る。
「本当は分かっているんでしょう。俺に何を望まれているのかを。聡明で賢いと評判の小畑さんなら」
 ああ、止まってきた、と摘ままれていた指は離された。ハンカチも手にそっと持たされて、鼻から離して見るとハンカチには鮮血がべったりとこびりついている。発した声は、何かに怯えて、震えた。
「私は、誰も愛さない。これ迄も、これからも。だから無駄だと言ったでしょう。あの時」
「壊れているから、ってか。それならどうしてストレスで鼻血を出したり、円形ハゲになったりする?壊れているひとは、我慢して身体にそんなシグナルを出さない」
「何で、知っているの」
「髪の纏め方で誤魔化しているけれど、うっすら見えている。三箇所」
 三箇所、自分で確認出来ていたのは二箇所だけだった。思わず纏めた髪に手で触れた。
「壊れているなんて言って、ただ傷つくのが、失うのがあなたは怖いだけだったんだって、最近ようやく分かった。あの時は分からなかったけれど、今は分かる。壊れてなんかいない、あなたは」
 そう言うと、彼はにこ、と笑った。その言葉はひび割れた大地に優しく降る雨のようだ。そう思ってしまう。また雨が上がって、乾き切った世界へ戻るのは怖いのに。
「あなたと笑って楽しかった日々は、俺にとっては理想郷だった。それを再会して思い出した。ずっと忘れていたのに。上司部下だから仕事の話しかしない、と言ったことは直ぐに後悔したよ」
 ぽた、ぽたりと空から何かが、落ちてきた。
「あめ」
「本当だ、降ってきた」
 遠くで空が低い音を立てて、唸っているような一声が響いて、一気に雨が降り出した。アスファルトへ叩きつけられるように鳴り響く音は、徐々に大きくなっていく。
「か、帰らなきゃ、濡れて」
 ホッとした気持ちで一歩を横に踏み出そうとしたら、そっと腕を掴まれて、彼は屈んで頬に柔らかく口づけた。見返すと優しい目をした彼はもう一度、二度と頬に口付ける。
「何を」
 雨はブラウスをあっという間に濡らし、肌に張り付かせ、スカートの色を濃く変えていった。ぐっしょりと濡れた髪から雫は、まるで川のように鼻の脇を伝って顎から首筋へ流れて行く。
「暖めてあげるよ。ずっと」
 耳元でそう囁かれた。身体は震え出す。嬉しいのか、恐ろしいのかは分からない。でも、より大きな音を立てて、痛いくらいの雨は一気に降り出した。こころの中にも。
 ずぶ濡れになった、彼が微笑む。堪えきれず目を閉じると、真っ赤に染まったハンカチは取り払われ、吸うように唇は塞がれた。ゾクゾクするような舌遣いに、懐かしさとほんの少しの苦味を感じて、私は縋るような目で、彼を見た。



 天井にほど近い、大きな銀色の円形から、柔らかな霧のような暖かい雨が、降ってくる。
 仄暗い浴室の中は薄白くて、冷え切った身体を温める湿気が心地いいと感じてしまう。
 左を向けば役立たずになって、浴室の床に張り付いた全ての衣服が散乱している筈、なのに。
 その無残な状態を確認する術は、今の私には、無い。

 壁際に押しやられ座り込んだ躰を、雄に成って不敵なのに優しい笑みを浮かべた彼が覆い、首筋に粗い息を吐きかけながら、甘い痛みを落としていく。
 しっとりと濡れそぼった逞しい躰の、天辺からざらついた床へ向かって幾筋もの河が集まり、分かれまた集まるのを、吐息を落としながら見つめていた。
 帰して、そう呟いても帰さない、甘さを含む声音で彼が囁き、一際大きな刺激を胸元へ落とされた。

 情欲の痕を昔、彼は私の肌へ残したがり、何度も事あるごとに迫られた。
 でもそれを私は拒み続けた。時にやんわりと、時にふざけてやり返して。
 圧倒的な体躯の差になった今、彼に片手でやすやすと両手首を捉えられて、全身を確かめるように這い回る手を感じながら、あらゆる所へ鬱血した痕を残されていく。

 もう、拒まないで、何も

 鼻梁と鼻梁とをすり合わせるようにして呟いて、私の目を覗き込んできた彼の残酷で暖かい瞳の表情を、ぼんやりとした思考で受け止める。
 そっと閉じられていく、その瞳を惜しいと、そうこころの何処かでさらりと感じた刹那、唇は懐かしい柔らかさに塞がれた。
 目を閉じると、そこには闇が拡がる。暗がりに身体を開かれているような、そんな気持ち。
 さみしくはない、この浴室に降り注ぐ暖かい雨のような穏やかな闇は、ひび割れたこころの中へ入り込み、満たしていってくれている。

 もう、何処にもいけない。この腕の中に、囚われたから。

 ねっとりと絡み合う口付けのみに、意識は向いていた。舌下までも入り込んでくる侵入者の、予想外の動きにもてあそばれて息が、止まる。
 唇を塞がれて、呼吸を繰り返そうとする度に、細波(さざなみ) のような動きにこんなにも翻弄され、上手く湿った暖かい空気を体内に取り込めない。
 喉が甘い音を響かせて鳴らし、意識は何処か、遙か彼方へ飛んでいきそうになる。

 こころの何処かでは、分かっていた。彼にのみ悪態をつくのは、こうなるのが恐ろしくてそれでいて、甘えていたのだ、と。

 離された両手首を、だらりと濡れた床に落として、空いた腕で身体を引き寄せられた。ぴったりと隙間は無く掻き抱かれ、耳朶は幾度も甘噛みされて。しっとりとした皮膚と皮膚とが吸い付く心地よさは、忘れていた安堵の感覚を呼び覚ました。
 私を高みへと追いやっていこうと、感度が高まって濡れている箇所の膨らんだところを、私が一番感じてしまうところを彼は、覚えていた。正確なリズムを刻むその動きに、慣れ切った手つきにほう、と息を吐き続ける。
 暗がりは目を閉じる度にそこにあって、私を所有しつつ、あった。

 これからこの暗がりに囚われ続けて、何度も組み敷かれ、所有される。

 どんなことよりも甘美で染み入るような喜びは、彼のしなやかな手指の動きに乗せて、躰を駆け巡っていく感覚がした。高みに乗せられて、のけ反り跳ねる背中を追いすがるように腕で支えられた。
 そのまま腰を引き寄せられ、慣れた動きで彼は、私のなかへ入りこんできたのだ。

 きつい、な。でも、それが、嬉しい。

 そう言うと胸へ顔を埋めた彼は、いきなりそこを強く吸った。唇はわななき貫かれている躰の中心へ向けて、きゅうと力が入り震え出す。忘れていなかったのだと感じられる、私を彼方へ連れていこうとする手順を、彼は確実に実行していた。
 どこへ連れていってくれるの、どこへ。
 自ら彼の首筋へ腕を回して、緩やかな動きに小さなくぐもった声を残す。ふたりだけの柔らかな雨の中、段々と暗がりは動きを大胆に激しくして、私のなかへ躊躇いもせず、所有者としての印を吐き出した。



 雨の音は、もう聞こえない。その代わり洗濯機の軽やかなドラムの回る音が、微かに覚醒して間もない耳に響いた。
 薄闇に目を凝らして、高さのある柔らかな寝床から、そっと起き上がった。
 藺草(いぐさ) の匂いと、人工的に冷やされた匂い。薄い掛け布団から、彼の腕の中からゆっくりと抜け出して、畳の感触を足裏で感じ立ち上がった途端、腕首は大きな手に捕らわれた。
「何処へ、行くの」
 硬くてしっかりとした口調に、眠っていなかったのだと、そう知れた。
「どうして、そんなことを聞くの」
「質問したのは、俺だよ」
 その声音にそっと彼を見やると、薄闇の中でわたしを不安気に見上げる双眸は、妙に艶かしく輝いているように思える。その表情に、薄く微笑んで、答えた。
「お手洗いへ行くだけよ。すぐに戻ってくるわ」
「嘘だ」
「早く行かないと、もう、流れ出しているの」
 太腿の内側を、何度も交わした情事の残滓が伝って行くのを感じた。腹圧で留めているけれど、いつまでもという訳にはいかない。そして薄暗いとはいえ、裸身をいつまでも晒して居たくも無かった。
「円、俺がする」
「何を、」
 腕を引かれて、また柔らかな寝床へ躰は沈められた。ごふりと多量の彼の欲望にまみれた残滓が、体外へ出て行った気配がする。浴室から上げられた時に使われた、上質な沢山のバスタオルを彼は手繰り寄せて優しく太腿を拭いている感覚を、ため息と共に感じた。
「もう、帰らなければ。明日は仕事だから」
「朝、一緒に円の家へ行く。そして一緒に千代田線へ乗る」
「そこまでしないで。そんなに信用が無いの」
「無いよ」
 すっかり流れ出して静まっていた箇所を、いきなり彼は甘噛みしてきた。くぐもった唸り声と、背中が同時に跳ねた。そっと両手を伸ばしてその硬い髪を、ゆっくりと掻き回すように撫でた。
「もう、ギブアップ。これ以上は止めて」
「じゃあ、帰るなんて、口にしないでくれないか」
 凶暴な愛撫はピタリと止んだ。小さくわかった、と了承すると、ゆるゆると彼は隣へ戻って来て、そっと抱き付いてきた。
「もう、何処にも行かないで、ここへいて」
「ここへ?」
「そう」
 彼の母親は、彼がほんの小さな頃、突然目の前から消えた。行方は未だに知れず、また誰も消えた理由を知らない。
 沢山のひとに囲まれて、沢山の愛情を受け取った筈なのに、淋しさを感じているのはきっと自分がおかしいから。そう思い込んでいた少年は、私の温もりを殊更好んだ。

 私達は、似すぎていた。こころの中の狂気が。

 彼は愛を囁いて互いの関係を深めることで狂気を打ち消そうとして、私は互いが離れることで狂気を打ち消そうとした。強引に離れて感じたことは、思っていたよりも強く、半身を失ってしまったような喪失感があったことだ。でも、徐々に風化し、蛹になり、蛾に成るうちに忘れていった。

 仕事の時間は冷静な雰囲気を醸し出し、沈着な行動を取るこの男が、取るに足らない、役立たずな女を求め離れるのを拒むのは、端から見ていれば滑稽に映るだろう。顔を上げて、そっとその不安そうな顔を眺め、頬へ触れた。
「もう、何処へも行かないわ、敦士」
 そうやって微笑んだ。私が持っているものなど、ちっぽけな欠片みたいなものだけだ。でもそれを彼は求めているのだろう。それならば。
「何処まで俺を翻弄する気なんだ。酷い(ひと) だよ、あなたは」
「その代わり」
 そう言うと彼は息を飲んだ気がした。ささやかな代償を、私は望む。
「私を誰も居ないところへ、連れていって。ずっと」
 そうして柔らかな唇へ口付けた。背に回された二本の腕の力は強まった気がする。軽く触れ合っていた唇はその深度をいきなり増した。
「お望み通りに、ずっとね」
 それまでの不安気な表情は成りを潜め、酸欠で喘ぐ私を不敵な微笑みを浮かべた男は、嬉しそうに覗きこんできた。
「でも、今日は、もう、ギブアップ」
「もう?本当に何処までも翻弄するんだな、なんなんだよ」
 吐き捨てるように言うと、彼は私の一番くすくったがる箇所を容赦無く攻撃してきた。笑いながら躰をよじると、優しい笑みになった彼の、胸の中へ強く抱きしめられた。

喜雨

喜雨

蜘蛛の巣を広げている年下で上司のしつこい男と、心の中で悪態をついている年上で部下の、なおかつ男にとっては無自覚な小悪魔女の、王手寸前、水際での熱帯夜の攻防戦。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-12-26

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