西63 成華園経由 県庁駅前行き

「本日も北道バスをご利用いただき、ありがとうございます。このバスは西63番、成華園経由、県庁駅前行きです。ー」
 いつものアナウンスが、延々とバスの中へ流れている。
 西田口営業所が始発の、七時二十四分発のバスに乗って、私は毎日出勤している。
 国道を暫く進み、駅前通りに入って直進するこのバスのルートは、勤務している県庁の前にぴたり、と止まってくれる。乗車時間は長くて二十五分位かな。
 県内の出張所から、今年の春に県庁舎内に異動になった。
 県内の出張所は県庁所在地から遠くて引越しになったけど、県庁の女子寮は建て替えたばかりで人気があって入れなかった。
 仕方がなく一人暮らしになったんだけど、さすが県庁所在地。家賃は高くて地下鉄駅側なら借りられない。
 今の部屋は、地下鉄駅から徒歩十二分。でも国道に近く、すぐ北道バスの西田口営業所があり、そこから県庁舎行きのバスが出ている。
 それも、いっか、と思って今ではバス通勤をしている。前はお迎えに来てもらってたけれど。
「県庁駅前行き、発車します」
 無愛想で無機質なバスの運転手さんの声が、発車を告げている。
 ドアが閉まるという、注意のアナウンスが流れて、バスのドアはプシューと音を立てて閉まった。
 今日は、居ないといいなあ。自然に眉間に皺が寄った。どうして隣に来るんだろう。
 苦いような、胸のモヤモヤがじわり、と広がるのが分かる。
 私は今日、前の方の横向きに二席並んでいる席へ、座っている。隣にもう三席あるけれど体の不自由なひとや、妊婦さんのための専用席だから座れない。
 向かいに一人掛けの席は、四席あるが、今日はもう埋まっていた。
 西田口営業所から乗るお客さんはいつも十二~三人。少しだけタイミングが遅くなると、一人掛けは埋まってしまう。始発に乗れて、乗車時間もそれなりだから、出来ることなら座って行きたい。
 アンラッキーだぁ。空いていたら絶対に座るのに。小さく溜息が出ちゃった。
 バスは国道を走り、駅前通りに差し掛かった。晩秋の青い、青い空の下、朝の光は金色だ。

「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございます。ー」
 来た。今日もこの瞬間。いませんように、いませんように。心の中で手を合わせる。
 西田口三丁目は、この県庁所在地の高級住宅街の端の方で、西田口営業所の次のバス停。お洒落なマンションが並び、カフェやイタリアンのお店も点在している、人気のエリアだ。
 いつも最初の方に乗って来る、若い男性が私は苦手。ああいませんように。
 ああ、もう一本早いバスに乗れるよう、朝、家を出ようかな。スカートをぎゅっと握る。
 でも、もう一本早いと二十分は早くなるし、朝はギリギリまで寝ていたいよ。
 プシューと音が鳴って、バスのドアは開いた。自然に俯いちゃう。きませんように。
 ICパスをピッ、ピッとタッチする音が車内に響く。きませんように。
 ふわり、と微かなグリーンノートの香り、来ちゃった……今日も。
「おはよう」低い声が、響く。
 静かに、男性が隣の席へ腰掛ける気配。ああもう嫌だ。ベージュの鞄の中からiPodを探し出す。もう嫌。なんなの、毎日、まいにち!
 怒りがこみ上げてくるけれど、彼は何かしてくる訳ではない。ただ、私の隣に座ってくるだけ。でも、それも二ヶ月近く続いたら、流石に気味悪い。
 立っていても、座っていても隣にいる。ストーカーなの、って聞きたい。だけど、そうだったら怖い。でも、だからといって、後ろを付けられたりということはない。
 彼は一つ前の停留所で、バスを降りる。丁度、今年の春に出来た、ピカピカのオフィスビルの前で。オシャレな飲食店や、インテリアショップ、複数の科が集まった医院などが入ったオフィスビルは、中に入っている企業も、東京の一流企業の支店ばかり。
 私の勤める古ぼけた県庁舎とは、大違い。

 iPodで曲を聴きながら、ちらり、と左横を伺う。
 柔らかそうな、暖かそうな上質と一目で分かるスーツを、彼はいつも着ている。オシャレな手入れの行き届いた革靴、お高いブランドの通勤鞄。
 そんな人が、私に何の用なの。思わず溜息が漏れる。大きな左手の薬指に指輪はない。
 今日の収穫、終了。もう嫌だ、警察はこんなことで動いてはくれないね。
 ため息をつくと右手に広がる後部座席を、ぼんやりと見た。
 あと二つくらい停留所を過ぎると、バスはビジネスマンやOLで満員になる。
 よぼよぼのおばあちゃんとか、乗ってこないかなあ。喜んで席変わるのに。
「次は、太平洋生命ビル前、太平洋生命ビル前です。、次、止まりますー」
 無機質な女性の声に救われる。ああ今日も長かった。
 このバス停で、彼は降りて行く。はよ行けっ、視界から消えて。
 そう思っていても、彼は中々立ち上がらない。この辺はビジネス街だからか、降車する人は多い。彼は一番最後に立ち上がり、バスを静かに降りていった。
 ああくたびれた。どうして毎朝、毎朝こんなに疲れる目に合うの。毎朝緊張から解放された瞬間、疲れが身体から溶け出す。
 程なくして、終点の案内がされた。
 ここの県庁駅前バス停はいつも降りるの五人だけ。なんとなく毎朝、おじいさん、ビジネスマンのおじさん、私、おばさん、髪がクルクルしたお姉さんの順に並んで降りる。
 別に決まっていないのに。なんとなくそうなっている。
 バス停で降りた私は、黄色に色づいた銀杏の葉が風で舞っている道を、県庁舎へ向けて歩き出した。


「左手の薬指に、指輪はなかったです」
 冷凍食品ばかり詰めたお弁当を食べながら、同じ島の同僚達に言った。お昼は、いつも島でご飯を食べている。
「ないなら、やっぱり気があるよ」
 高橋さんが、割り箸で私の方を指す。お行儀悪いね。高橋さんは、私の七つ上で三十三歳。もう肩書きは主任だ。
 独身で、この島のお姉さん的存在。さっぱりとした気性が心地いい。
「でもさー、外してるって場合もあるだろー。不倫狙いならさ、あるだろ?」
 やっぱりプラスチックの箸を高橋さんに指しながら、同じく主任の平林さんが言う。
 平林さんは三十二歳で、既婚、三歳のお嬢さんと、生まれたばかりのお坊ちゃんがいる。
 もう、二人とも、行儀が悪すぎる。
「年はどの位なんだい」
 流石に主査の山中さんは塗り箸を振り回さない。愛妻弁当も美しいし。四十六歳の山中さんは、大学生と高校生のお子さんがいる。
「うーん、同じ年くらいかと」
 苦々しい声が自然に漏れた。ちらりとしか見たことはないけれど、多分同い年か、ちょっと年上か。あんまり見たくはない、ストーカーの顔なんて。
「じゃあ、不倫はないんじゃないかあね」
 山中さんが穏やかに言う。そんなものなの。独身だとしても、彼の行動は頂けない。
「わっかんないよー。金持ちは、捕まるの早そうだし」
 不倫押ししたい平林さんは、鼻息が荒い。楽しんでるな、これは。部外者は何とでも言えるもんね。
「帰りは会わないのね」
 はい、と答える。私の働く広報広聴課は、大まかに説明すると県庁の広報や県民の皆様の声を受け止める、そんな部署だ。忙しいけど、帰りは大抵十九時台のバスに間に合う。彼とは会ったことはない。
「じゃ、やっぱりあのビルの企業のどこかにお勤めねぇ。身なりもいいんだもん、いっそのこと、声掛けてみたら。良さそうだったら付き合っちゃえ」
 絶対高橋さんも、面白がっている。割り箸がぶん、ぶん、と振られた。お行儀っ。
「いえ、もう恋愛とか、お腹一杯です」
 苦々しい声がでて、島はしん、となった。あ、まずい。ちょっと引かせちゃったかな。
「何言っちゃってんの、まだまだ若いんだからっ、一緒に今度合コンいくよ」
 高橋さんはぐっ、と親指を立てた。
「そーですねー、ストーカー以外だったら、もう誰でもいいかも」
 笑って答えると、本当だなーその言葉忘れんなーと平林さんが言って、ちょっと場は和やかになった。


 今日は、十九時十六分のバスに間に合いそう。
 県庁舎を出ると、バス停に向かって足早になる。黄色い銀杏の葉は朝より少なくなっていた。
 掃除の方頑張ったんだなあ、なんてつらつら思いながらバス停の列に並ぶ。
 バスは、もうバス停の後ろの方でスタンバイしているけど、表示は回送になっている。早く乗りたいなあ、ちら、と運転手さんを見ると、バスの頭の表示が西六十三番、成華園経由、西田口営業所前行きに変わった。途端にバスのエンジンがブルン、と掛かった。良かった、早く座りたい。
 バスが静かにやって来て、列が動き出す。私も少しずつ進みながら、バスに乗り込んだ。
 後方の二人座席にひとり座って、はあ、とため息をついた。
 すっかり暗い時間だった。晩秋は日が暮れるのはとても早い。
 バスの中はもう電気がついている。明るい光は、あの日を思い出すからいやだな。

 私には夏まで彼氏がいた。出張所は職員が少なくて、新卒の私はあっという間に異動してきた一樹と仲良くなった。一樹は五歳上で県庁から来た。今思えば左遷臭い。
 田舎は交通の便が悪い。免許は取ったものの、田舎道に不慣れな私はあっという間に困った。
 その時に手を差し伸べてくれたのが、一樹だ。車で送り迎えをしてもらっている内に、いつの間にか彼氏彼女になっていた。出張所にいた時はそれで良かったが、私が県庁に異動になると途端に連絡は無くなった。夏に県庁に出張に来た一樹を出迎えると、「なんだよ、まだ彼女気取りなのか。お前とは相性最悪だったから、もう切りたいんだよ。俺、新しい子見つけたし」と県庁のロビーで言われた。
 私は出張所のキープだったんだ。分かった瞬間に一樹の股間を蹴り上げていた。
 目撃していた人にはパンツ見えてたよ、と言われたけれど。
 ショックで、遅くなった帰りのバスの中では泣けなかった。人は少なかったのに、ただ、ただ下を向いていたのを思い出す。あんなやつに初めてをやるんじゃなかった。それは強く思った。
 雨降りの蒸したバスの中、心が冷えていったのをはっきり覚えてる。
 なにかを振り切りたくて、長かった髪をバッサリ切って、ボブカットにして茶髪に染めた。
 あいつが好きだという髪型なんかにしたくなかった。

 バスの中の明るい光は、私の顔を硝子にそっくり明るく映し出す。
 目は大きいけれど、吊り目だからキツイ印象を他人に与えてしまう。
 怒っているの、とよく聞かれて笑顔を心がけるようにしたら、怖いとまで言われた。
 私は自分の顔がコンプレックスだ。男性には嫌煙され、女性には嫉妬の目で見られる。
 今の島はいい人ばかりで、そんなことは一切ないけど。
 そして、もう一つのコンプレックスも私を苦しめてる。
 だから、毎朝バスで隣に来る人の真意がさっぱり分からない。
 そんな感じはしなかったけど、やっぱりストーカーなのかな。


 それからもグリーンノートの香りのするストーカーは、私の隣にやってきた。
 本当に毎日。一人掛けの椅子に座れた日だって隣に立っていた。
 もう最近は空気になってきて、知らんぷりしていればなにもしてこないんだから、と無視を決め込んだ。一人掛けが途中で空いて席を移った時は深追いしてこなかった。
 離れられると、ほっとするけど、ほんの少しだけあの香りが無くなるのは惜しかった。
 そんなことを繰り返していたら、師走を迎えていた。
 今年は寒い日が多く、ケープじゃ寒くて、久しぶりにダウンを引っ張り出した。
 バスの中もモコモコした格好の人が増えて、隣の彼も上質でお洒落なコートを着ていた。
「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございますー」
 今日は久し振りに一人掛けに座れた。ほっとするけれど絶対、隣のつり革に立つ。空いてる席あるのに、なんて考えていたらドアが開くというアナウンスがあって、プシューと音を立ててドアが開く音がした。ちょっとキン、とする冷気がドアの方から流れて来る。
 ICカードを、ピッ、ピッと鳴らす音が続く。昨日の夕方からみぞれが降り続き、やがて雪に変わって道路は酷い状況だった。国道は道路が乾いていたけれど、駅前通りに入って、向かい側の歩道はまだ道が悪いのが窓越しに見える。
 ぼんやりと窓の外を見ていたら、いつもよりクリアなグリーンノートの香りがする。来たんだ、もう毎日ご苦労様。溜息しかでない。なにがしたいんだろ。
 バスは停留所から発車して、窓の外からはチャリチャリと高いチェーンが回っている音が続く。駅前通りの方が、道は悪いみたいだ。通りの向こうの女子高校生が見事に転んでいた。
 先の信号が赤になって、運転手さんがブレーキを踏み込む。その途端にバスの後ろが左右に大きくぶれ出した。きゃあっ、という悲鳴と立っている人たちがよろめく。
 とっさに身が縮こまる。バスは後ろの方が大きく滑るともっと大きな悲鳴が上がり、やがて止まった。
 気がついたら、左側から彼が覆い被さってきていた。私に触れないように、守るように。
 左側の頬にひとの暖かさを触れてないのに感じた。鎖骨の辺りがぎゅっとなる感覚。
「大丈夫?」
 小さくて聞き逃しそうになるような、低い優しい声が頭の上から降ってくる。
「は、い」
 彼から、顔を背けて言う。そう、という返事があって、暖かさは去っていった。
「大変失礼いたしました。お客様でお怪我をされた方はいらっしゃいませんか?」
 いつもの無愛想な言い方じゃない運転手さんのアナウンスで、車内はまた動きだした。

 その次の日から、私は早起きをして朝は地下鉄通勤に変えた。
 お弁当はなかなか作れなくなったけど、構わなかった。
 あの香りが傍にいたら、落ち着かなくなりそうで怖い。
 なければ、思い出さない。だから。

 そんな日々を、二週間位続けていた。


 師走の中頃、ありがたいことにボーナスが出た。
 女性職員は、制服があるわけではないので、日替わりで仕事に向いていそうな服を用意する必要があった。毎日同じではいけないし、被服費は意外にかかる。
 いつもはファストファッションブランドを使いながらなんとか回しているが、ボーナスが出た時には、良い物を買って安っぽく見せない為の努力が必要だ。
 冬物の先行セールの案内が来ていたので、土曜日に出掛けることにした。
 思っていたよりも安くなっていた、お目当てのバルーンスカートを手に入れることが出来て、私の心は浮き足立っていた。そうだ、行ってみようと思っていた、あのオフィスビルのインテリアショップに行って、そのまま西六十三番で帰ろうっと。
 彼は、土曜日の帰りのバスには現れないだろうし。うきうきした気持ちでインテリアショップに寄って、可愛いアロマキャンドルをひとつ買った。

 財布から、バスのミニ時刻表をだす。
 次は、十七時三十六分発。今から待っていればすぐにやってくる時間。

 初めて太平洋生命ビル前から、バスに乗るなぁ、なんて思っていたら道の向こうから西田口営業所前行きがやってきた。
 ドアが開くという注意のアナウンスが流れ、プシューと音を立ててドアが開いた。
 ショップの紙袋をガサガサさせながら、ICカードを、ピッ、と鳴らす。
 お客さんは流石に少ない。スーツを着ているおじさまと、おばあちゃん、若いライトグリーンのアウトドアジャケットを着た男性だけだ。
 一番後ろの、窓側の席に座った。本当はここの場所がバスの中で一番好き。
 右側に窓のある席に座って、日の暮れた後の街をショップの紙袋を抱えながら見ていた。
 今日の晩御飯何にしようかなぁ、簡単に冷蔵庫の中にあるもので済ませちゃお。
 静かに、誰かが近づいてくる気配。左側を見たらライトグリーンのアウトドアジャケットのひとが、どさりと大きなバックパックを床に置いて、隣の席に座った。
 グリーンノートの香り。
 心臓が跳ねた。なんで、なんでこんなところに!
 動揺は隠せない、ぎこちなく右側の窓のを見ると、もう明るい照明をつけられた車内は鏡のように彼を映しだす。こちらを見ている。ピントの甘い鏡は、彼の顔を不鮮明に見せていた。
 顔を伏せる。なんで、今日会っちゃったの。ため息が漏れる。
 息を殺す様にして、俯いて早くこの時が過ぎればいいと耐えるようにした。
 彼は、何がしたいんだろう。私の隣に座り続けて、優しくした。
 好かれたいのかな。逆効果だと思うけど。早く家に帰りたい、帰りたいな。
 地下鉄にすればよかった。もう一回ため息が漏れる。
 もう乗客は二人だけ。誰もいない。

「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございます。ー」
 やっと、やっとだ。長かった。これで、彼がチャイムを押して降りてくれたらさよなら。



 押さない、なんで?!

「西田口三丁目、いらっしゃいませんか、通過します」運転手さんのアナウンス。
 思わす彼の顔を見た。爽やかそうな顔が、さみしげに私を見ている。
 焦げ茶色に金色を混ぜたような、ハチミツ色の瞳に目が離せなくなった。
 綺麗な、ビー玉のような目の中が見えない静かな、瞳。

「やっと、こっち見た」静かな低い呟きが、耳に残った。


 バスは終点の西田口営業所前に着いた。彼が、バックパックを持ち上げて、バスを降りようとする気配がする。降りたくないよう、降りたくない!
 心がザラザラする嫌な感覚がする。ついにストーカーが接触してきたし。
 でも、逆に言えば隣に来るのやめて、って言ういい機会なのかも。
 でも、自惚れているかな、ううん、毎日毎日席が変わっているのに隣の席にいるって異常じゃない。私の頭の中は感情的で纏まりのない事ばかり考えてる。
「行かないの?」
 怪訝な顔で彼がバックパックを背負ったまま、こちらを振り返って立っていた。
「行きます」
 誰のせいだと思ってるのよ。もう眉間のシワはぜっっったい深い自信があるよ。なんで会話してんの、ストーカーと。あり得ないあり得ないから。
 私が立ち上がると、彼は静かに出口に向かって歩き出した。ちら、と途中でこちらを伺って。見なくていいからっ。仕方無く出口に向かう。
「ありがとうございました」
 バスのステップを降りながら彼が運転手さんに言う。
 私も会釈すると、いつもの運転手さんは珍しく笑顔で、お気をつけて、と言ってくれた。
 いつもは機械みたいに無機質なのに。あああ、降りたくない。
 上目遣いに見上げて、彼は私が降りてくるのを待っている。
 降りきってみると、意外に彼は背が高かった。私より頭一つ上だ。三歩位進んだ所で、後ろのバスのドアが閉じられて、バスは回送に変わり、向かいの営業所に向けて発車していった。
 停留所は、リフォーム会社の前の道幅の狭い、街灯がほのかな灯りだけの場所にあった。
「ストーカーさん、何か御用ですか?」
 もうこうなったら、先手必勝だ。この目つきの悪さを最大限利用してやる。心の中は攻撃的な気持ちで一杯だ。
 彼はちょっとだけ驚いた表情になった後、静かに言った。
「ストーカーでは、無いつもりだけれど」
「じゃあ、何、いつも隣にいるのは何でなの。毎日毎日不快なんだけれど!」
「ああ、ごめん」
 さらり、とかわされる。まるで何事もないかのように。
「もう隣に来ないで!」
 叫ぶように、声が出た。彼は寂しげに微笑む。
「君は、何を恐れてるの?」
 意味が分からない、なんであなたにそんなこと言われなきゃならないの。
 彼から目を離すことは出来ず、絶句した。あなた、赤の他人でしょ、構わないでよ。言いたいのに言えない。
「県庁にパスポートの更新をしに行ったら、君がロビーで彼氏を蹴り倒してた。その前まで彼氏が君に言っていた言葉は酷いものだったから、やっちまえ、と思っていたから見事だったよ。それで興味を持ったんだ。バスの中で見かけて、何日かして髪型がダサいのからとっても良くなってて、振り切ったんだなって思った。挨拶から始めたいなと思って、隣に座ってみたんだけど、全然こっち見ないし」
 ストーカー扱いとはね、と彼は続けた。
「まあ、百歩譲ってストーカーでもいいけれど、挨拶くらいはしたかったよ」
 そういえば、彼は挨拶をしてきていた。無視していたのは私だ。
「まあ、最近は意地みたいになってきてたけれど、話をしてみたいと思ったんだ。
 別に世間話でよかったんだけれど、そこから関係を広げられたら楽しいかなと思ってた」
 何か、なにも言えなくなった。興味を持って話をしたい。そのシンプルさが。
「ふ、不倫狙いとかなの?」
 素直じゃないのは分かっている。ついに合わせ続けるのが辛くなって、目を伏せた。
「上條聡、二十八歳、東京都出身。戸籍はまっさらだよ。ついで言えば彼女もいない」
 彼はスラスラと身の上を語った。あのピカピカのオフィスビルの中にある、大手の石油総合会社に勤務していて、春に支店が開設されると同時に東京から赴任したこと、海外勤務経験があること、趣味は山登りで、遅い夏休みを消化で冬山に登って今日帰ってきたこと。
 家は、西田口三丁目停留所の近くの家具付きのマンション、会社が借り上げてくれたけど、無駄にデザイナーズマンションで戸惑ってること。家族はご両親と、お姉さんがいること、本当に淀みなく、彼は語った。
「他に知りたいことは?」
 ハチミツ色の静かな目がまっすぐ私を見ている。
 返事は出来なかった。素直でシンプルな彼の話をただ聞いていたい。そう思った。
「君は?」
 私、何で、ああそうか、興味持たれてるんだっけ。
 でも、何も言えない。固まったきり。沈黙が怖いなんて。
「俺は、君のことが好きなんだ」
 多分ね、シンプルに彼が話を繋げて、私の目が見開かれるのが分かる。頭の後ろが、カチカチに固まって震えてる。それがわかる。
「でも、迷惑だったんだよね。もう隣に行かないし、声も掛けない。バスも時間をずらすから、安心して。」
 もう話はないよ、と言って彼は黙った。
 そして、向こうを向くと一度もこちらを見ないで静かに去っていった。


 国道を、ヘッドライトをつけて走り去って行く車の音が、ずっと側で鳴っていた。

 

 それから、本当に彼はバスの中に現れなくなった。
 一本早いバスにもいなかった。もう一本遅らせると朝部署の鍵を開ける係りの私は、同僚を廊下で待たせてしまうことになる。それはできない。
 彼がいなくなって、殆ど私の隣は空席になった。
 たまに誰かが座るけど、何故か空席になる。隣がいなくて清々する筈、だったのに。
 なのに、心は重かった。なんでなんだろう、知ってるけど、知りたくない。


「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございます。ー」
 彼を待つ日が来るなんて思っていなかった。ピッ、ピッとICカードをタッチさせながら乗ってくる人を見る。何人か乗ってくるけれど、今日も彼はいない。はあ、とため息が漏れる。
 ごめんなさい、と言いたかったな。
 ストーカー扱いしたことも、挨拶しなかったことも、シンプルに話したいと感じてくれていたのに、無視したことも。
 どこにいる誰なのか分かってる、なのに、会いに行く勇気は出なかった。
 あの夜、遠ざかっていくライトグリーンのアウトドアジャケットに、濃紺のバックパックが目に焼き付いていた。

 今日は御用納めだ。午前中は普通に業務だけれど、午後は例年大掃除になる。
 みんな年末年始の休みに浮き足立つし、半日年休を取りたいという希望の人も増える。それならば、掃除しちゃえ、ということみたい。
 私は元日だけ、県庁所在地から少し離れた実家に帰ろうかなと思っていた。
 家族経営のスーパーをしている実家には兄弟も多く来ていて、私以外はみんな結婚している。
 うるさくて賑やかなので、一人位いなくたって構わないだろうし。
 なんなら、一月の三連休に行った方がまだ話が出来る。母に言ったら、いつでもいいわ、来る時は連絡ちょうだいと軽く言われた。まあ、親元を離れたらそんなもんだよ。
「ねー今日、これ終わったら、飲みに行かない?」
 高橋さんが戸棚の中の書類を確認して整理しながら言う。この後の予定はないから、行こっかな。
「おっいいねえ。こんだけ働いたら飲みたくなっちゃうね!」
 おっさん臭い仕草で、平林さんが言う。いいんですか、家族は、と聞いたら明日から奥さんの実家に行って気詰まりになるから、気持ちを発散しておきたいらしい。
「いいねえ、いいねえ」山中さんまで乗り気。珍しいなぁ、あんまり行きたがらないのに。
「私も大丈夫でーす」両手を上げると、何故か三人は私をじーっと見た。
 な、なに、若く見せすぎかな。雑巾掛け頑張れ、ってこと?


 高橋さん推しのイタリアンと、平林さん推しの創作和食で揉めて、結局県庁舎の近くの居酒屋になった。無難に何でもあるし。小さい掘り炬燵が真ん中にある、個室に通された。
 取り敢えずのビールから始まって、適当に料理を頼む。カクテル飲んじゃおっかな、なんてメニュー見ながら思ってたら、高橋さんがスマホを振り回しながら口を開いた。
「ねぇ、そういえばストーカーは、どうなったの?」
「あぁ、もう乗ってこないですよ、多分違う時間帯に乗ってるんじゃないかと」
 私は笑顔で答える。事実だし。
「なんか、パッタリと話し、なくなったからさーどうしたんだろって思ってたよ」
 平林さんは、焼き鳥の串を小さく振りながら言う。
「なんかあったんじゃないのかい?」
 山中さんまで、こちらに身を乗り出してきた。
 なんなの、なんなの。四角いテーブルの三方向から逃されないような、熱い視線を感じる。
 もしかして、今日の飲み会はその為なの?三人の真剣な表情から、開催された理由にやっと気づいた。遅いよね。

 仕方なく一部始終を話すと、三人はため息をついた。
「やっぱり気があったんじゃないっ、そんな上玉が近づいてくるなんて、滅多にないんだから、やっぱ、話掛けたらよかったんじゃないっ」
 高橋さんは、ビールを飲みながらため息をついた。
「でも、東京の人なんて、気後れします。転勤で居なくなっちゃうし」
 甘い桃のカクテルを飲みながら、肩を竦める。
「そんなの、付き合ってみて、ちゃんとした奴だったら、付いて行ったっていいんじゃん」
 平林さんはまだ焼き鳥の串を小さく振っていた。
「でも、海外転勤とかもあるって言ってたし、英語喋れないし、そんなスキルないし」
「肝心なのは、英語より、お互い支えあえるかだあね、出来そうにないのかい、そいつ」
 山中さんが乗り出してくる。なんでそんなに、いい食いつきなんだろ。
 でも、と続けようとしたら、でもじゃないっ、と三人に怒られた。

「そんで、アルピニストのことは、どう思ってるの?」
 早速高橋さんは、彼にあだ名を付けている。どう、って。
「不快な気持ちにさせて、謝りたいな、って思います、けど」
 本心だし、会えないけど。
「それだけかいっ、ないのか、もっとこう沸き立つような何かがさっ」
 平林さんは絶対酔ってきている。両手を握り拳にして、ダーーーー!と叫んだ。
「沸き立つ、ですか」
 怪訝な顔で平林さんを見る。
「要は、好きか嫌いか、だあね。」
 いいこと言った、って高橋さんと平林さんが、山中さんを褒める。好きか、嫌いか。思った瞬間に頬が熱く、熱くなって行く感覚がした。
 どうしても見られたくなくて、俯く。なんなの今日は。みんなおかしいよ、絶対。
「その顔で、アルピニストのこと見つめてやりなさいよ、きっとイチ、コロッだよー」
「やめてください、もう会えないし」
「なんだなんだ、呼び出してやるか。うちの娘欲しいなら、おれをたーおしてからいけー」
「平林さん、酔ってますよね」
「会いに、行きなよ。来て欲しかったんだあよ」
 山中さんっ、いいこと言った、って二人が叫ぶ。
「会いに来て欲しい、って」ぼんやりと山中さんを見る。
「だってさーもう、会わないと思うなら、そんなに自分のこと、べらべら喋んないよ」
「そうだそうだっ、そいつは気を引きたいだっけだーあ、ズルい男はゆるさーん」
「押してダメなら、引いてみろ、だあね。分かり易い、若いっていいねぇ」
 山中さん、おっさん臭いっ、って二人は突っ込んでる。

 そう、なのかな。そんなこと、思っていいのかな。でも。

「でも、私、顔怖いし、性格悪いし」
 ダーーーー!と三人は唸った。

「好きになったらねぇっ、顔とか、性格とか、全部よく見えるの、分かるっ?」
「猫目で、勝気なとこがよかったんだろーお、好みだよっ、好み。アホなのか?」
「それ全部思ってること、その男にぶちまけてしまいなさいよっ、わかったかあい!」
 山中さん、神っ、って二人は崇めた。

 散々お説教された私は、三人を上目遣いに見やって、肩を竦めた。


 飲み会は、早く行けーと追い出されるように、お金も払わせて貰えず、外に出された。
 そんなこと、言ったって、今日はどこも御用納めだし、いないでしょ。
 冷静に突っ込めなかった自分が恨めしい。
 結局、二十二時半に出る、最終バスに乗ることにした。地下鉄は遅くなると帰り道が怖いし。

 二十二時三十六分発の最終バスは、人が少なかった。私は後ろの二人掛けに座る。
 今日、御用納めだし、帰ったひとも多いだろう。
「本日も北道バスをご利用いただき、ありがとうございます。このバスは西63番、成華園経由、西田口営業所前行きです。ー」
 いつもの、グルグルと同じアナウンスを聞きながら、ため息が出た。
 全部、彼にぶちまけろって言った、山中さんの言葉が頭に響く。
 ぶちまけるって、あんなこと言えない。恥ずかしいし、何よりそんな女なんだって思われる。私のもう一つのコンプレックス。こんなこと誰にも言えないよ。でも、
「西田口営業所前行き、発車します」
 運転手さんの無愛想なアナウンスの声が、響いた。
 バスはドアが閉まる、というアナウンスがあって、プシューと音を立てて閉じた。
 バスが走り出す気配。街灯の灯りが、後ろへ流れていく。
「次は、太平洋生命ビル前、太平洋生命ビル前、ご利用ありがとうございます。ー」
 ぼんやりしていたら、すぐ次の停留所だった。バスの扉が開く。
 何気無く入り口を見る、見る癖がついていた。
 ICカードをタッチして、久し振りに見るコート姿の彼が無表情で乗ってきて、私に気づくと目を見開いた。
 ああ、会えた。
 彼は、すぐに目を逸らすと、一人掛けの席へ行ってしまった。後ろ姿しか見えない。
 どうしよう、きっと今が帰りなんだ。謝らないと、ごめんなさいって。
 でも、動けない。今行かなきゃ、行かなきゃいけないのに。
 身体は固まったまま、なかなか動き出せない。バスはどんどん進んでいく。
 柄にもなく、マゴマゴしている。
 分かってるのに、動けない。拒否されたら、どうしよう。弱気なんてらしくない。
「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございます。ー」
 もう?弾かれたように顔を上げた。
 彼がチャイムを鳴らした。もう乗客は二人だけだった。
「西田口三丁目、到着いたしました。ご利用ありがとうございました。ー」
 バスの扉が開いて、彼は立ち上がった。振り返らない。
 小さく、ありがとうございましたって声の後、こちらを少しだけ振り返ろうとして止めて、彼は降りていった。
「待ってくださいっ、降ります!」
 急いで立ち上がり、鞄とマフラーをつかんだ。バスの通路はエンジンの振動でブルブル揺れて、その中を急ぎ足で進んだ。
 運転手さんに、会釈する。がんばって、小さく後ろから声をかけられた。

「待って!」
 もう、ずっと前を進んでいた彼の後ろ姿に、叫ぶように呼びかけて。
 ピタッと止まった彼に向かって小走りで向かう。靴の音が夜の街に響く。
「なに?」
 振り返った彼は、不思議な顔をしていた。びっくりしたような、期待しているような、諦めたような、そんな色々な感情が、街灯のオレンジの光で浮かびあがるよう。
 バスが走り去るエンジンの音が、後ろから響くーーがんばって、そう言われた気がした。
「あの、この間は、ごめんなさいっ、私、あの、気持ちとか分からなくって、その、」
 何を言いたいのか纏まってなくて、言葉は空回った。頬が赤くなっていくのが、分かる。
「ごめんなさいって、いいたくって、その、あのっ」
「君のこと、教えて」
 遮るように彼に言われて、心臓の音が更に煩くなった。
「お、大石、綾乃です。と、年は二十六歳で、け、県庁に勤務して、ます」
「うん」彼が相槌を打つ。
「出身は、ここで、ごっ、五人兄妹の、三番目、です」
「多いね」少しずつ彼は、優しい顔になってきた。
「ええと、何だっけ、」動揺して目が泳ぐ。途端に彼は吹き出した。
「いいよ、少しずつ知っていきたいから」優しい笑顔で、見られてる。

「大石綾乃さん、付き合ってもらえませんか?」

「私、顔怖いし」ぽろりと口から出た言葉。
「今、とっても可愛いと思う」
「せ、性格悪いし」
「別に、気にならない」胸の底が、ぎゅっとする感覚。
「わたし、不感症だからっ、だから無理!」
 叫んでた。きっと幻滅してる。私のコンプレックス。なんて女なんだって、そう思われてる。
「それは、アレ?」
 ぼそりと呟くような声の思わず見上げると、彼が片手で鼻と口を抑えて、顔を真っ赤にして立っていた。
「あ、あれ」
「元彼ってひとり?」
「う、うん」
 上目遣いに彼を見ると、がっつりと肩を両手で掴まれた。
「しよう」
「え?」
「今から」
「は?」
「だから、しよう、して」街灯の下、ハチミツ色の瞳は真剣だった。

「うちに来て、しよう」
「ええっ?」
「やだ?」
「えええええっ?」
「いや?」いや、って、いやって、なに、なんだ?

「いやじゃない?」気づいたら、頷いていた。

 あっという間に手を引かれて、街路樹が揺れている夜の道を、彼のマンションまで進んだ。お洒落なエントランスで素早くオートロックを解除したら、エレベーターがタイミングよく開いた。がっちり手を繋がれたままエレベーターに乗り込んで、彼が基盤にある鍵穴にキーを差し込んだ。動き出したエレベーターに唖然としていたら、五階に着いて、彼は家のドアを開けた。

 あ、グリーンノートの香り。玄関で、彼の香りがした。

 風呂に入ってて、コンビニ行くから!とバスルームでぽぽぽいとタオルやら、歯ブラシ、Tシャツなんかを押し付けられるように持たされて、唖然としている間に彼は行ってしまった。
 なにが、おこったんだろう。おふろ、はいる。はいるの?
 よくわからないまま、ピアスや髪留めを外して、シャワーを浴びた。
 え、なんでそうなるんだろう。でも嫌じゃないから浴びたんだよね。
 回らない頭で考えるけど、なんでか混乱していて、考えられなかった。
 なんで、するの。不感症って言ったのに、感じられないんだよ?
 私は元彼とのセックスで、いつも触られて痛くて、挿れられても感じない。でもそれは隠してた。感じてないんじゃ、って言われたら喘ぐようにしていた。それなのに、なんで?
 お風呂から上がると、彼もコンビニから帰って来て、ぐいぐい押されてベットルームに入れられた。お洒落な間接照明がある部屋。ベットはホテルのみたい。でも、あまり物が置いてない部屋。
 黒の掛け布団と、下のボックスシーツがグレーなベットの上にそっと乗る。
 なんだか、展開が急すぎて、よくわからない。貸してもらったシャツはぶかぶかで、膝丈になった。
 するのっ?やっぱり、だめじゃないの!途端に慌てる気持ちになる。
 ど、どうしようっ、帰るって、帰るって言わなきゃ!
 慌てていたら、ベットルームの扉が開いた。後ろで。
「可愛い」
 振り返る間もなく、後ろから抱きしめられて耳元で囁かれた。甘い、低い声。
 お臍の下がぎゅうっとする。心臓が痛い。怖い、体が震えだした。どうしよう、感じられないのに。背中が暖かい心地よさと、心臓が早鐘のように打っているのしか分からない。
「やさしくするから、していい?」
 なんで聞くの?そんなことを思っていたら、頬に後ろからキスされた。みるみる頬が熱くなっていく。グリーンノートの香りが心地よくて、包まれているみたい。
「やさしくするから、そばにいて」
 耳元で囁かれて、そのままちゅっ、と耳にキスされる。
 ひぁっ、と声が出た。何、今の。心臓が、痛い。するり、とベットにそのまま、ゆっくりと倒されて。
「感じてるよ。緊張しなくて、いいから」
 向かい合った、ハチミツ色の目は、燃えているように揺らめいて、私を見ている。凄く近くで。
 気がついたら、全部をあばかれるような、噛みつかれるようなキスをされていた。くぐもった、それでいて甘い声が喉の奥から漏れる。自然に。
 体は隙間なく合わされて、彼の男の硬い身体を感じて、頭は腕に守られるように囲まれて、その彼の素肌の背中に縋り付いた。魂を持って行かれそう。とろり、と身体の真ん中が蕩ける感覚に目が開いた。凄く甘い声が、出て。
 彼が目を伏せて、色気を纏いながら、キスしてる。そんな顔にきゅう、きゅうとお臍の下が収縮する感覚が、襲う。何、何なの、これは何?
 愛されてる、って感じられる。優しくされてるって、感じてる。
 こころが何かで、満たされるような。じんわりと暖かい。これは何?

 怖いのに、不安なのに、じんわりと満たされる。
 胸が、痛いくらい鳴っている。でも、辛くない。

 彼は、丁寧に丁寧にまるで宝物を一つずつ開けていくように、私に触れた。
 大丈夫、感じられるから、緊張しないで。何度も、何度も耳元で囁いて。
 触れられると、すぐに声が漏れ始めて、頭はふわふわとして、ジンジンと熱を持って苦しい、そんな身体を感じるのは初めて。
 声が出て行くのが恥ずかしくて、仕方ない。はしたない、不感症って言ったのに、こんなに嬌声を上げ続けて。
 そっと伺うと私の胸に顔を埋めながらも、目を細めてこちらを見ている彼のハチミツ色の目に囚われる。その色気が凄くて、顔を、逸らした。荒い息使いになって、身体は震え出す。
「あ、あかり、けしてぇ、っ」
 切れ切れになった言葉が、恥ずかしい。ねだるような言い方になったのに気がついて、消え入りたいと思ってしまう。
「見たいから、消さない」
 耳元で囁かれて、胸の先端から甘い痺れが走り、ひゃ、と声が漏れる。そのまま弄ばれて、また囁かれた。
「感じてるところを、見たいから」
 そのまま耳を喰まれ、声は甘く甘く出て、自然に足と足をすり合わせていた。
 ゆっくりと滑るように彼の手は、内腿を撫で上げていく。そのまま進めてしまったら。期待を一瞬思い浮かべ、それを否定した瞬間に甘苦しい快楽に身体は襲われた。
 一定のリズムに翻弄されて苦しいような続けてほしいような、よくわからない感情に襲われて、胸が苦しい。
 身体がせりあがる強い感覚に襲われて、怖くて、彼にすがりつく。体は震えてるのに、甘ったるく心は、嬉しい何かで満たされていく。
「大丈夫、感じてるよ」
 甘い甘い囁きに、荒い息使いでしか答えられない。目の奥がとろりとする感覚がする。体はどこもじんじん痺れて、このまま眠ってしまいそう。
 唇に優しいキスを感じた。優しい破裂音を鳴らして、何度も何度も。
「俺が、記憶を上書き保存するから」耳元に色気を帯びた、低い声が流れ込む。

「だから、不感症なんて思うなよ」
 抱きかかえられてぎゅう、と腕の中に包み込まれた。

 涙が、零れる。優しい、優しい感情に触れて、嗚咽が漏れた。
 胸の中にある何かが溶かされて、暖かくて、涙が止まらない。
「可愛いよ、離したくない」
 頬を伝う涙を掬うように舐め取られて、体は震えた。
 私、そんなに優しくしてもらえる人間じゃ、ないのに。
「わ、たし、そん、なことして、もらえる、にんげん、じゃ、ないの」
 嗚咽の間で、切れ切れに声が出た。
「じゃ、俺だって、そうだよ」
 その言葉に彼のことをそっと見ると、困ったような目で、微笑んでいた。
「ストーカーと思われても仕方ないことして、ずるい手を使ってでも、綾乃のこころが欲しかったんだよ。不感症って聞いて、感じさせたくてこんな風に抱いて、今は綾乃の中に入りたくって仕方ない。自分勝手だって、分かっている。でも、離したくないな」いい人間じゃないよ。彼は続けた。
 私の目は、大きく見開かれるのが、分かる。

「綾乃は、何を恐れてるの」

「わたし、こわい、裏切れたら、次も、って。だから」涙は止まらない。
「俺は甘やかして、大切にする。泣くことも出来なくは、させないから」
「え?」
「ずっと、見てたから」隣でね、と彼は微笑んで続けた。
「笑った顔が見たいなって、思ってたんだ。笑った顔、見たことないから笑わせたい。だから、裏切らない。甘やかして、優しくして、笑わせたい。だから、恋人になって」
 なんて、素直でシンプルなんだろう。優しいハチミツ色の目にもう囚われたんだ、私は。甘い色の、甘くて蕩けそうな色の。
「うん、なり、たい」
 なって、優しくしたい。暖かく、大切にしてもらった気持ちを返したい。
「綾乃」おでこに柔らかくキスをされた。
「し、て?」愛して、愛されたいな。

 緩やかな触れ方、なのに強い情熱を受け取り続けた。気持ちいいって、こういうこと。与えられるだけじゃなくて、返したいのに。
「挿れて、いい?」
 少しだけ離れていた彼に頭を撫でられながら、覗き込まれて問われる。綺麗な情欲に染まった瞳で。何かを返したくて、頷いた。私を求めてくれて、ありがとう。そんな気持ちで。
 彼がこじ開けるように入って来て、その存在感に息を飲んだ。震えが止まらない。荒い息を吐きながら、彼は私の身体を包み込んだ。
 痛い?と心配する声が硬い胸から響く。小さく頭を横に振るとそこからは、知らない感覚と快楽に翻弄され続けた。
 彼に身体を委ねたらぐずぐずに蕩けきってしまって、何度もきつく目をつぶった。気が付いたら自分から何もかもを差し出すように、しなやかな彼にねだるようにしがみついていた。優しい仕草なのに徐々に大胆な、全てをさらっていこうとする律動を幾度も繰り返されて、はしたない声を上げて高みに登り、啄むような口づけの休息をぼんやりとした歓喜の中、受け取った。
 私でも、触れられて悦びを感じられる。彼はそれを与えてくれるひと。覗き込んで来た柔らかなはちみつ色に微笑んだ。無意識に。そこからは何もかもが切れ切れにしか、覚えていない。ただ最後まで、彼を感じて喜びの中、抱きついていた。
 

 翌朝、私は起き上がれなかった。彼は、綾乃は可愛いなぁと、よく分からないことを言いながら、ベットの中でサンドイッチやフルーツを私の口に入れて食べさせてくれた。
 甘やかす、ってこういうことなの?ちょっと恥ずかしいんだけど。
 それから、私は彼の部屋で「上書き保存」を続けられた。
 年末年始の、九連休の間、ずっと。
 彼は、穏やかで、丁寧で、一つの物を大事に使う人だと知った。
 お洒落だよね、と聞くと、仕事柄、仕方がなくねと彼は笑った。沢山の人と会うから、気を抜けなくて大変らしい。
 実家に帰らなくていいの、と聞いたら、休み中は海釣りにでも行こうかなと思ってたけど、やめたよ、と言われ、いいの釣れたしね、と笑って抱き上げられてベットへ逆戻りさせられた。
 不感症なんて、思う暇もない。恥ずかしくなる位、沢山の甘い言葉を囁かれて、濃密過ぎる行為に何度かギブアップしたけれど、ハチミツ色の目とグリーンノートの香りにまた引き戻されて、仕事に戻れるのか、何度も心配になった。やっと自分の部屋に戻れたのは、仕事の前日の夕方だった。


「次は、西田口三丁目、西田口三丁目、ご利用ありがとうございます。ー」
 今日から御用始め。いつもの七時二十四分発の県庁駅前行き。
 バスはドアが開くという、注意のアナウンスが流れて、プシューとドアが開いた。
 ICカードを、ピッ、と鳴らして彼は、バスに乗ってくる。
 私を見てふわり、と笑った。私も嬉しくて笑みがでる。
「おはよう」
「おはよーあの、そっちにピアス、忘れてない?」
「ああ、花のやつでしょ、あったよ」
 そう言いながら、彼は隣へ静かに座った。
「ああ、良かった。失くしたかと」
 そう言って顔を上げたら、バスのお客さんは皆こっちを向いていた。なんでなの。何事もなかったように、またみんな顔を戻したけど。
 彼を見ると、ポンポンと頭を撫ぜられた。なんなの?
 それでも穏やかに話をしているとあっという間に、バスは彼の降りる停留所へ着いた。
「夜、電話するから」
 そう言って降りて行く彼へ手を振る。ありがとうございました、そう言ってこちらを見て笑うと彼はバスを降りて行った。
 程なくして、終点のアナウンス、わたしが立ち上がると凄い勢いでクルクルの髪のお姉さんは降りて行った。あれっ、一番最後だったんじゃあ、と思っていたら、おじいさんと、サラリーマンのおじさまと、おばさんにそれぞれ、うんうん、と頷かれ、笑顔で見られ、「よかったわね」と言われた。まさか、もしかして、頬が赤くなる。ずっと見守られていたの?
 三人はなんだか嬉しそうに降りていった。は、恥ずかしいっ。
 運転手さんに、ありがとうございました、と挨拶して、バスを降りた。
 ああ、恥ずかしい。明日からどんな顔してあのバスに乗ればいいの。地下鉄にしよっかなあ。
 でも、彼に、聡に朝、会えなくなるのは、嫌かも。私は肩を竦めた。
 首元が寒いから、マフラーを巻く。あ、グリーンノートの香り。私は深く吸い込むと目を閉じて、また開いた。
 よし、仕事、仕事。一月の三連休は、聡が言い出して一緒に私の実家へ行く。恥ずかしいけれど。挨拶したいからって言われて断れなかった。それまで仕事、頑張ろう。

 バス停で降りた私は、青空の下寒風が吹き荒ぶ道を、県庁舎に向かって歩き出した。

sweet・surprise

『ごめん、今日から土曜日まで東京へ出張になりました。急遽なんだ。今空港に居ます。夜、電話します』
 お昼ご飯を終えて、同僚たちもそれぞれ昼寝したりコンビニに行ったりしている中、女性誌のバレンタイン特集をうんうん唸りながら眺めていた私は、聡からのメールに思わずガッツポーズが出た。良かった、ううん良くは無いのかもしれないけれど良かった。一日考える期日が伸びる。最悪金曜日の夜にデパートに寄ってもいい。

 付き合い始めて一ヶ月足らずでやって来るバレンタインは、私にとってプレッシャーだ。恋人として一緒にいる期間は短く、まだお互いをやっと知り始めて、でも大体の聡の持ち物は知っている。殆どがお高いブランドの物で、ご両親にプレゼントされたり厳選して聡が選んだという、少数精鋭、みたいな持ち物の中に、私が気軽にプレゼントをあげる事なんて出来るかなぁ……。その辺が悩み所だ。
 こんなことだったら、プレゼント貯金しておけば良かった。ううん、貯金はある。毎月財形に最大限貯められる額をお給料から引いて貰っているからあるけれど、あれはあんまり手を付けたくない。それに高い物を貰って聡が喜ぶとは限らない。
 この間、欲しいものはある、って聞いたら『綾乃にリボンを結んでくれたらそれでいいよ』とにっこり笑われて言われた。それはどういう意味なのかなぁ。私にリボンを結んでどうするんだろう。えっ、と聞き返したら、ニコニコして抱き締められて、頬ずりされてそれっきりになってしまった。
 ひとまず了解したというメールを聡に送る。期日が伸びたという安堵感であっさりしたメールになった。


 今日はNO残業デーの水曜日、巻き巻きで仕事を終えて何時もより早めに県庁を出た。少し歩いて、この辺り最大のターミナル駅を目指す。プレゼントはまだ決まらない。
 自分よりセンスがいいひとに何かプレゼントするのは、こんなに悩むものなんだなぁ。無難なところでは、ネクタイとかハンカチとか、普段使いなら部屋着とか。でも、それってありきたりだよね。
 グリーンノートのあの香りが定番になってる聡に、香りのあるものは贈りにくい。
 いっそのこと日経新聞一ヶ月分にしちゃおうか、いや、あのひとタブレットで購読して見ていた。
 ああ、もう八方塞がりだよう。ロフトで大っきいリボン買っちゃおうかなあ。
 まあ、そういう訳にはいかないから、ターミナル駅にあるショッピングゾーンを精力的に回る。
 見て回っているうちに、新しい春服をチェックしていたりして……ハッ、と我に返る。
 いけないいけない、バレンタインデーのプレゼントを見て回っていたんだった。脱線してどうする。
 春物のカーディガンをラックに戻す。ああ、もう混乱してきた………。
 もう今日は駄目かも、なんて思っていたらメガネ屋さんの前でパソコンメガネの看板が目に入った。
 おお、いいじゃない。店内に入ってパソコンメガネを手に取る。固めに毛糸を編んでメガネケースを作って一緒にあげたらいいかも。それ位ならすぐ出来るしね。
 聡がコンタクトレンズをしていたり、メガネをしているところは見たことがない。だから度無しでいいね。
 どれにしようか、聡の顔を思い出す。だす……あれ、えと、うーん………。
 爽やかそうな感じで、にこにこしてて、目は焦げ茶で、アレ、目鼻立ちってどうだっけ。
 そこ重要じゃない、おぼろげには覚えている。いるよ、でも印象しか出てこないよ。毎朝会ってるじゃない。会ってるのに思い出せないって、どうなんだろう。
 どうしよう。携帯で写真とか撮っておけば良かったかも……。頭を抱えていたら、携帯が着信を知らせた。聡からだ。
「はい」お店の外に急いで出て、人の少ないところへ移動する。
『綾乃、外にいるの、掛け直す?』聡の後ろは静かだ。まだ本社にいるのかな。
「ううん、大丈夫。何かあったの」
『いや、電話するってメールしたから。急に出張でごめん。週末余り時間ないな』
「ううん、大丈夫、仕事なら仕方ないよね。わたしは全然大丈夫」だって期日が一日伸びたしね。
 聡は黙っている。ど、どうしたのかな………。そうだ。
「あのね、わたし聡の写メが欲しいなぁ。パシャって撮って送ってくれると嬉しいんだけど」
『どうしたの、いきなり』電話の向こうの聡は、びっくりした声だ。うっ、本当のことは言えないよ。
「え、あ、その、あの、えーと、ええとっ」上手い言い訳が出てこないよ。
『いいよ、分かった。送るから、切るよ。家に着いたらメールして、折り返すから」
 聡の声は何だか甘ったるくなった気がする。耳元にその声が残ってちょっとだけドキリとする。
 じゃあ、あとでと言葉を交わして電話を切った後、少ししてメールを着信した。添付された写真を開くと、スーツ姿で胸にIDカードを下げた聡はにこ、と笑っていた。そうそう、こんな顔っ………て、よく見たら意外に整った顔だなぁ。写真になると印象が違う。何て言うか、爽やか、ではないね。
 ありがとう、とメールを送って、メガネ屋さんに戻りウンウン唸って写メを見ながら、結局チタンフレームのパソコンメガネに決めた。
 手芸用品のお店にも寄って、手触りのいいシルクの入った固いグレーの糸を選んだ。裏地はメガネの柄のとぼけたような端切れを探しだして。これで、金曜の夜にガトーショコラを作って土曜に聡が帰ってきたら渡しに行けばいい。一日遅れるけれど、まあいいよね。浮かれた私は喜んでうちに帰り、メガネケースを編むのに夢中でメールを忘れ、電話を心配そうにしてきた聡にちょっと呆れられた。



 金曜日、やっぱり巻き巻きで仕事をやって、高橋さんと平林さんに冷やかされつつ退勤して家に帰り、ご飯は適当に済ませてガトーショコラの材料を冷蔵庫から取り出した。三角巾とか面倒だから、前髪は纏めてゴムで縛る。なんだかちょんちょこりん、って感じの前髪だけど、誰も見て居ないからいいの。後ろもざっくり纏めてゴムで縛った。
 チョコレートを湯煎して、溶かす。聡は甘いものをそんなに食べないみたいだから、ビターな感じで。量も少なめに二個作る予定だ。
 よく、一番下の妹とお菓子を作って二人の兄と弟に片っ端から食べられたなあ。懐かしい。目分量で作って失敗したり、焼き過ぎて焦げたりと色々とやった。これも上手く出来るといいけれど。オーブンに入れて、お風呂のお湯を入れて、後片付けをして焼きあがったいい匂いのガトーショコラの、粗熱とっている頃に玄関のチャイムは鳴った。
 こんな時間に誰、もう十一時を過ぎている。もう一度チャイムは鳴らされて、そーっと忍び足で玄関のドアのドアスコープを覗く。そこにはいるはずのない人が、スマホを片手に立っていて、急いでドアを開ける。
「聡っ、どうしたの、帰りは明日じゃあ」ドアを開けていきなり叫んだ私に聡は、はあ、とため息をついた。
「綾乃、危ないよ。相手を確認しないでドアを開けたら」
「う、うん。でも一応、ドアスコープで見たんだけど………」
「それでも、ね。何があるか分からないんだよ。ちゃんと声でも確認して。あと携帯にも出てくれると嬉しい」
「えっ、気が付かなかった。ごめんなさい、ここじゃ寒いし、上がって。あまり綺麗にしていないけれどね」
 ふっ、と聡は笑っておじゃまします、と入って来た。大きい紙袋を持って。
「いつ帰ってきたの」聡へ座布団を勧めながら私も隣に座る。
「さっきだよ。仕事早く終わらせて最終便にギリギリ間に合ったから帰ってこれた」
 そう言って聡はにこ、と笑った。そうなんだ、何でそんなにギリギリなのに帰ってきたのかな………。
「おかえりなさい、聡」私は笑う。それでも会えたことは嬉しいなぁ。
「ただいま」そう言って引き寄せられて深いキスをされた。明るい部屋の中で恥ずかしい。でも嬉しくて。
「これ、お土産。ちょっと多くなった」そう言って聡は大きい紙袋から大きい箱から小さい箱まで、みるみるうちに私の腕の中に積み上げていった。
「ち、ちょっと待ってぇ、何でこんなにあるの」
 持ちきれなくて一番上の箱は顎で抑える羽目になった。ぐらぐらするよ、こんなに食べきれないよ。
「いや、綾乃が好きなものって何だろうって考えていたら、つい買いすぎた………」
 珍しく聡は歯切れが悪い。良く良く見たら、甘い物としょっぱい物、和風と洋風様々なお菓子の箱が腕の中にあった。そうだったんだ。同じようなことを思っていたんだ。それを全部買ってくるなんてやり過ぎだけど。
「あ、りがとーうれ、しい」顎で抑えながら、積み上がったお土産をそっとテーブルに置く。
 食べきれないから、職場で配らなきゃな………。そんなことを思っていたら、聡は大きな紙袋の中から黒い箱に銀字が入った白いリボンのかかった箱を差し出してきた。
「何、これ」
「バレンタインだから、俺から」聡はにこ、と笑った。えええっ、バレンタインだから、って言ったよね。
「何でぇ、どうしてっ、私にくれるの」
「ああ、日本だとチョコの日だけど、ヨーロッパやアメリカでは恋人の日だから。お互いにプレゼントを贈りあうんだ。プレゼントしたいと思って綾乃をイメージして作って貰った」ちょっと待てっ、作って貰ったって何……。
 聡は小さい頃に海外にいたことがある、という話を聞いたことはある。だからそういう文化が身近なんだろうね。でもね、戸惑わない訳じゃないんだよね……。
「私、ガトーショコラ作っちゃった、よ」ちょっとだけ目を逸らして言うと、聡はニコニコして言った。
「それで綾乃の部屋は甘い匂いがするんだ。明日頂くよ。ありがとう」あれ、意外と喜んでる。
「それに大したプレゼントも用意してないし………」
「綾乃にリボンがついていたらそれがいいけれど、どんなものでも嬉しいよ?」
 そう、なのかな、立ち上がってラッピングしておいたプレゼントを聡に渡す。代わりに黒い箱を受け取った。
 意外に重い。何が入っているの。不思議そうな顔をしていた私に聡は、開けて、と促した。
 リボンを解いて箱を開けて、濃淡が美しいピンクの花々が箱一杯に敷き詰められるように入っているのが目に入ってきた。
「これって………」
「スウィート・サプライズって名前なんだ。綾乃みたいでしょ。それよりこれ、パソコンメガネだよね。職場で使っているひとも多くて、気になっていたんだ。ケースもつけてくれてるし、ありがとう」
「あ、うん、ケースは作ってみたんだけど……それよりこれ」わたしは箱を見た。
「作ったって、編んだって事?凄いよ、凝ってる。大切にするから」
「えっ、あ、うん、………それより、これ」
「綾乃の可愛いイメージで、作って貰った」聡はにこ、と笑った。
「ええっ、これ、私っ」恥ずかしくて甘くて、頬に熱が集まって行く。
「そう、可愛いくて、瑞々しくて、そんなイメージを伝えたらそうなったよ」聡はニコニコしている。
「ありがとう」聡は早速メガネをしていた。良かった、どうだろうと思っていたけれど似合っている。
「メガネは選ぶの難しかったんじゃない?」
「えっ、あ、そうなの、聡の顔を思い出せなくてね。電話くれた時に丁度メガネ屋さんにいたから、写メお願いしちゃったの。そのおかげで選ぶことが出来たんだよね。あのときはありがとう」えへ、と私は笑った。
「そう、だったんだ」そう言うと聡はメガネをケースに仕舞うと、何故か箱に掛かっていた白いリボンを前髪に結んだ。
 しまった、ちょんちょこりんのこと忘れていた。そんなことを思っていたら、抱き上げられて慌てている私に聡はにっこり笑ってこう言った。
「顔を忘れないようにしなくちゃ、ね」

 その後寝室のベットの上で、聡に視線をずっと合わせるように脅迫……じゃなかった促されて、色々次の日ぐったりすることをされ続けたのだった………。ちょんちょこりんのままで。

 
 

彼がアウトドア系だったら、どうなる、こうなる。

「キャンプとか興味ある?」
 いつもの土曜の午後、聡の家でまったりしていたら、いきなりそんな話を切り出された。
「き、キャンプ、ね」
 田舎育ちの私は小さい頃から、両親の仕事が忙しいこともあってか兄弟で夏休みになると、自治体が主催するキャンプにポイって入れられた。それも結構長い間。
 虫とか、川下りとか好きじゃなかった私は、あんまりいい思い出がない。
 なによりテントが苦手で、狭い空間で他人と過ごすのも苦痛だし。
「目が泳いでるよ」
 ちょっと寂しそうに聡は言う。うっ、見られてる。じいっと見られて、仕方がなく私は白状することにした。
「あのね、小学生の時長い間、キャンプに入れられてたから、もう一生分キャンプはしたのね。だからもういいかなぁ」
 そう、と聡は言うとタブレットを持ってきて、ソファーにいる私の隣に座った。
「最近は、キャンプも、とても面白いんだ」
 ほら、と言って、タブレットの画面を操作している。
「これは、ダッチオーブンって言って、色々な料理が作れるんだ。パンとか、ローストチキンとか、パエリアなんかも作れるよ」
 ほら、と見せられたタブレットには、色々なレシピが載っていて、うん、どれも美味しそう。
 ええっ、ピザまで焼けるの。昔は飯盒にカレーが定番だったのに。ほぇーとタブレットを見入っている私に、聡は嬉しそうだ。
 進化しているんだねぇ。で、でもお高いっ、何、このダッチオーブンのお値段。こんなの買えないよっ。
「う、うん、でもね、これ、買ったら高いんじゃあ」
「大丈夫、持ってるから。地下のトランクルームにあるよ」

 あるんだ………ダッチオーブン。

 私が引いてるのを見て聡は、またタブレットを操作し始めた。

「あと、これはバーベキューグリルって言って、これで肉焼くと美味いんだよ。あとは、こんなバーナーでコーヒーを沸かしてみたりして」
 へえ、グリルには蓋もついていて、えっ、バームクーヘンまで焼いちゃうの。今の道具って凄すぎる。やっぱりほぇーと見入ってしまう。
「こんなの、二人で作れたら楽しいと思わない」
 聡はニコニコして、う、うんと私は頷く。頷くけど、もしかして。
「まさか、これも」タブレットを指差すと
「うん、トランクルームにあるよ」にっこり笑顔で、聡は私を見た。

 ある、のね………二つとも。

「でも、後片付けが大変そうだよね、キャンプって」
「二人でやれば、すぐ終わると思うよ」すかさず言われちゃった!
「そ、そうかなぁ、お手入れしたり、乾かしたり、色々やらないと、ねぇ」
「大丈夫、慣れているから。綾乃と話しながらやれば楽しくてすぐ終わるよ」
 うっ、そういうこと言ってるんじゃないのにっ。

 ニコニコしている聡を見て、嫌な予感しかしなくなってきた。

「ああ、でもね、私、寝袋が昔から苦手で、中々寝付けなくって」えへっ、と私は笑う。
 なんだかちょっとずつ、ちょっとずつ、後ろ向きに進んでいる道が細くなって行っているのは、気のせいなのかな………。
「心配しなくてもいいよ。今はエアーマットって良いものもあってね。ほら、空気で膨らませるベットなんだよ」
 聡はまたもやタブレットを操作して、私に空気で膨らんだベットを見せてくれた。
 え、あ、そんなものまであるの。しかも大きいのまで。空気だから、床の冷たさが伝わりません、だって。
 あ、でももしかして、もしかすると、見せたってことは。
「持ってるから心配しないで」

 なんでもあるのね………お金持ちめ。

「ね、道具も進化してるし、揃えてあるから行ってみない」
「え、あ、私、どうもテントの中で、他人と寝るのが苦手だったし、キャンプ向いてないんじゃないかなぁ」えへへ、と私は笑った、けれど。

 言った途端、聡のドSスイッチがパチン、と入ったような気が、した。

「綾乃、俺達は他人なの?」
 耳元で囁かれて、ひぁん、って高い声がでた。し、心臓に悪いよ、言い返したいのに頬が赤くなっていくだけ。
「そうじゃ、ないけど」
 ちょっと目を反らせちゃった。ま、負けるな私っ。ここで負けたら、大変なことになるんだから。
「綾乃は可愛いなぁ」
 そう言って聡は目を細めた。いつも思うけど、聡の感覚はちょっとおかしい。
 聡はするり、と立ち上がるとよいしょ、と言いながら、私をまるで子どもにするように抱っこして、ニッコリ笑ってこちらを見上げてくる。
「他人って思うということは、まだまだ足りなかったんだね」
 教えてあげるよ、たっぷりと。ニコニコしながら聡は続けて言った。
 えっ、あ、と戸惑ってる私を尻目に、聡はベットルームの方へニコニコしながら抱っこして行く。

 まずい、非常にまずい。背中へ汗が、伝う。

「さ、聡っ、ひ、日帰りなら、ねっ」
「綾乃、やっぱり他人だと、思ってるね」
 がちゃりとベットルームへのドアを開けられた。まずいまずい、まだ三時だもん、このままじゃ、気がついたら朝、ってなっちゃう!
 いつもはそうじゃないけれど、ドSスイッチが入った聡は、翌朝起き上がれない位、喘がせて攻め立てる。
 身体が言うこと効かなくなってるのに、更にその上へ、上へ軽く意識を飛ばすまで追い立てられて。それが、ドSスイッチ入った時、何度も繰り返される。普段だってそこそこ濃い目なのに。
 うう、あんなの今からされたら、死んじゃうんじゃないっ、今日こそ。
 こんな時間からハチミツ漬けになるのは、勘弁してっ。
「いっ、行くから、ねっ、行くよ、ねっ」
 ベットに降ろされて、素早く乗られた。目が、ハチミツ色の目が嬉しそうに笑ってるよう。
「どこに行くの?」
 首筋に音を立ててキスされた。ひぁ、と声が漏れる。
「きゃんぷぅ」
 変な声が出ちゃうよ、もうっ。もう素早くシフォンブラウスのボタンは、外されている。早すぎるよう。
「ついでにちょっとだけ、トレッキングもしてみよっか」
「と、トレッキングって何ぃ」
 ちくん、ちくとした痛みが、鎖骨に広がっていく。
「散策路なんかを歩いてみるんだよ。楽しいよ?」
 ニコッと笑いかけられるけど、もういっぱいいっぱいっ。
「や、やるからぁ、ねっ?」
 ちょっと押しやるようにしたら、聡は何か考えて、ニッコリ笑うとこう言った。
「じゃ、出掛けようか」
「へっ?」


 なんで、ここにいるの。私。
 聡は私に鞄を持つ暇も与えないで、手を繋ぐと地下の駐車場からお洒落なSUVに乗せて、あっという間に登山ウェアや、グッズを中心に取り扱ってる街中のショップに連れてきた。
「お客様が着用されていらっしゃるジャケットは、世界最高水準の防水性と、湿気を逃してくれる機能と、畳むと本当にコンパクトになる手軽さが大人気の商品なんですよー」
 は、はぁと返事も曖昧だけれども。ちろり、と聡を見ると、うんうん頷いていた。
 ニコニコした聡と店員のお姉さんが、あっという間に私をトータルコーディネイトして、よくTVで見るいわゆる山ガールな格好に仕上げた。
 濃いピンクのジャケットに、中は黒の長袖に薄いパープルの半袖を重ね着。
 グレーの巻きスカートにラズベリー色のタイツで、帽子もラブリーでかわいいけど、かわいいけどっ。

 軽くてあったかいけど、なんで私着せられてるの。

「やっぱり、夏山をトレッキングとはいえ、ジャケットはないとね」聡は、満足そうに呟く。
「えっ、夏山?」
「そうですねぇ、お靴もお出ししますか」
「お願いします」
 聡が応えて唖然としている間に、靴のサイズを確認してお姉さんは行ってしまった。
「さ、聡っ、ちょっと、夏山って何」
「トレッキングするって、言ったよね」
「散策路を散策するって言ったよ」その辺は自信あるよ、聞いたもん。
「凄く低い山だから、大丈夫だよ」
 そういう問題じゃなぁい、強めに言って上目遣いに睨みつけると、聡は首を竦めた。
「キャンプは結構、軽装でくる人も多いけれどね、意外と寒いしちゃんとした服装しないと体調崩したら仕事にも影響が出るよ。トレッキングだってするなら、ちゃんとしたアイテムがあったほうがいい。きちんとした物は高いかもしれないけれど、大事に使えば高くない。
 誘ったんだから、ちゃんと準備してあげたいんだよ。分かる?」
 な、なんだかズルい。納得させられた。いつもいつも丸め込まれてる気がする。ちょっと面白くなくて、見上げながら頬が自然に膨らんだ。
 聡は吹き出して、人差し指で私の頬をつつき出した。や、やめてよ。身を引くけれど、聡は更に嬉しそうに、感触を楽しむように触れた。
 靴も山道を歩くなら必要だから、と軽くて頑丈な赤い紐がかわいいトレッキングシューズを選ばれた。
 もうぐったりだよう。あれも、これもと持たされてリュックに、替えのTシャツに、果ては下着まで提案されて、つ、疲れた。

 フィッティングルームで、一つずつ全部脱いでほっ、とした。
 やっぱり行くのね、キャンプ。しかも登山付き。楽しめるのかなぁ。
 はぁ、とため息が漏れる。ん、ちょっと待って。
 一つずつの商品のタグを見て、暗算していく。子どもの頃そろばんやってたから得意だし。全部暗算し終わって私の顔色は、絶対青くなった。
「さとしっ」
 フィッティングルームから、顔だけ出して呼ぶと何かのパンフレットを見ていた聡は、気がつくとニコッと笑ってこちらに来た。
「こ、これっ、全部は高すぎるよ。いくらなんでも、ダメッ、絶対っ」
「いいんだよ。別に高くないし、似合っていた」
「ダメッ、絶対」
 私が言うと聡はするり、とフィッティングルームに入ってきて、恥ずかしくてカーテンを巻きつけた私に目もくれず、一纏めにしておいた商品をそっくり持つと、ニッコリ笑って出て行った。
 まずい、本当にまずい。急いで着替える。
 ストッキングなんか履くんじゃなかった。焦るともたつくナンバーワンじゃないっ。
 スカートのジッパーを上げて、シフォンブラウスのボタンを急いで止めて、フィッティングルームのカーテンを開けてレジを見ると、聡はクレジットカードを決済し終わっていた。ああっ、もう。

 帰りの車の中で、私の頬は膨らみっ放しだった。信号待ち毎に、聡は頬をつついてくるけれど。
「とっても可愛いかったし、似合っていたよ」
「もうそんな言葉に騙されないんだから、ぜったいっ」
「一緒に行けるのは、嬉しいな」
「ニコニコしながら言わないでよっ、もう振り回して、いつもじゃないっ」
「綾乃と一緒に行きたかったんだ。ずっと」
「知らないっ、一人で行ったらいいじゃないっ」
「たまに、頭の中ぐちゃぐちゃになることがあって、難しい仕事がそうさせてるんだろうけれど、一人で森に入るとリセットされるんだ。でも、綾乃と付き合ってからは二人がいいんだよ。一緒に居たいんだよね」

 運転席を見ると、聡は前を見ながらニコッと笑った。

 本当に、ズルい。なんで納得させられてるの。

 信号待ちでまた聡は、私の頬を突っついた。

***

「それで、アルピニストとキャンプは、明日から行くの?」
「はい、もう、まんまとあの人のペースになってます」うんざりと私は、高橋さんへ言った。
「えーいいじゃんか。サロイ岳、高校で登ったけど良かったぞー」
「その後、その後がキャンプなんですよ。もうヤダ」平林さん、ニヤニヤしながら楽しんでいるし。
「いいじゃないかあね。楽しんで来なさいよ。これからもずっと連れて行く気、満々なんだねぇ。金まで使って、順調に囲い込んでいるんじゃあないかい」
『え!』
 三人の声は重なりあう。山中さん、恐ろしいこと言ったような……。

 今日は金曜日。お昼の時間帯には県庁のロビーにて、毎月恒例の県産品のPRイベントがあり、地域のおばちゃま方特製の炊き込みご飯おにぎりを、皆で買ってきて島で食べている。
 これが、なかなか美味しくて毎月すぐ売り切れるんだけれど、今月は先月お願いして予約しておいた。
 おばちゃま方は快く受けてくださって、おまけまでしてくださって、嬉しい限りだ。

「い、一泊だけにしたの、キャンプ」高橋さんは、話を変えるように言った。
「は、はい。あの人は月曜日、仕事なんで」
「でも、大石さん月曜、年休取っていなかったっけ」平林さん、なんで知ってるの。
「多分、慣れないことして疲れちゃう気がしたんです。仕事ひと段落したので、取らせていただきました。もし何かありましたら、よろしくお願いします」
 ぺこりと同僚に頭を下げる。いくら認められている休暇とはいえ、休みにするのは気が引ける。
「大丈夫だあよ。仲良く行ってらっしゃいよ。きっと彼も月曜、年休取るねぇ。二泊三日になったって、大丈夫なようにねぇ」
『え!』山中さん、恐ろしいよっ。

「ま、まあ、まあね、多分ダイジョウブヨ」高橋さん、なんで片言?
「そ、そう、そうだ、ダイジョウブダー」平林さん、つられたね?
「囲い込んでいる蜘蛛の糸、頑丈そうだしねぇ」山中さん、怖いよう!

 私たちはひいいぃーと言いながら、美味しかった筈のおにぎりを口に詰め込んだ。


 退勤時間も結構過ぎて、そろそろ帰ろうかなと準備していたら、携帯にメールが来た。
『ごめん、仕事で遅くなります。夕食は先に食べてください。明治屋の白いマシュマロが欲しいんだけれど、ジュピターで買っておいて貰えないかな?』聡から、珍しい。
 あまり頼み事もしてこないし、甘いものをそんなに食べない聡がマシュマロなんて。
 聡の家の近くにある、輸入食品店は九時閉店だから、それまでには帰れないんだね。
『一袋でいいの、何に使うの?』って返したら、
『一袋でいいです。明日の楽しみにしていて。十二時は過ぎない予定です』って返ってきた。
 そんなに忙しいのに、明日は朝、確か六時起きで二時間掛けてキャンプ場へ行く………。
 行く、のね。やっぱり。なんだかもう気が重い。

 ね、熱とか今から出ないかな。ちょっとだけ。

 でも、絶対にフルーツとか抱えてやって来て、甲斐甲斐しく看病しそう。聡は。
 そして、仮病だった日には……ううっ、考えたくなぁい。
 百面相をしていたら山中さんは「大石さん、愛は受け止めた方がいいんだあよ」って、ニヤリと笑って通り過ぎていった。
 怖いっ、怖すぎる。何となく感じるんだけれど、山中さんと聡は同類なんじゃないかな………穏やかで、優しくって、いつも笑顔で、物を大切に使う。でもちょっぴり愛は重め。ううん、かなり、重め。
 わぁ、おんなじだあ。道理で初めて会った時、お互いニコニコとしながらも黒いオーラが出てた訳だよね。休みの日に、街中で偶然会ったのだけれど、物凄い緊張感だったし。
 次の日、大石さん、大物釣り上げたあねぇ、って言われたけど、山中さんだって充分大物だと思うよ!


 この辺の初夏の夜は、爽やかな風が吹いていて、とても心地いい。なのに、まあまあ重い気持ちで帰りのバスに乗る。
「本日も北道バスをご利用いただき、ありがとうございます。このバスは西63番、成華園経由、西田口営業所前行きです。ー」
 何時ものアナウンスがぐるぐる回っていて、もうソラで言えちゃうくらい。
 一度、うちに帰って着替えてご飯を食べてから、バスで聡の家に行こうかな。
 最近は金曜の帰りにそのまま一つ手前の停留所で降りて、聡の家に行ってご飯を作ってそこから日曜の夜までいたけれど、今晩は明日から居ないからご飯は何処かに食べにでも行こう、って言っていた。
 でもなくなったのなら、一度戻ってジーンズとか動きやすい格好になろうと思う。

「西田口営業所前行き、発車します」
 何時もの無愛想な運転手さんのアナウンスで、バスの扉はプシューと閉じた。
 明るいバスの車内は、やっぱりガラスに私のキツイ印象の顔を映し出すけれど、最近はあまり気にならなくなってきた。
 それどころか、「優しい感じになったね」とか「柔らかい顔になってる」とか言われるようになった。
 その辺はやっぱり聡のおかげなんだと思う。何時も可愛い、可愛いって言われて、そんなことはないの、って言っても、全然聞いて貰えていないけれど。
 大切にされてるって分かっている。私は気持ちを聡に返せているのかな。貰うばっかりじゃ駄目だよね。愛情表現が豊かな方じゃないからその辺は不安だな。
 だからこそ、キャンプを頑張りたい、って気持ちはあるんだけれど、なかなか心はついて行かない。楽しめなかったら、どうしよう。
 やっぱり世界が違うひとなんじゃ、って思うこともある。住んでいるところだって違うし、財力だって桁違いだよね。この間買ってもらったキャンプに着ていく服や靴の総計なんて、私の一ヶ月の生活費位だった。

 それなのにっ、楽しい顔出来なかったら。ううっ、プレッシャーだよう。

 ブンブンと首を振っていたら、勢い余ってバスの窓にゴン、とぶつかって頭を抱えた。


 終点の西田口営業所前で降りて、家までの道のりを歩く。
 国道から小道に入った所にある、私の1DKの部屋に聡が来ることはあまりない。
 ベットは狭いし、なんとなく手持ち不沙汰そうになる聡を見ていたら、いつの間にか聡の家で過ごすことが当たり前になった。
「ただいまー」
 誰も居ないけれど、帰ってきたらなんとなく言っちゃう。
 お風呂も入って行っちゃおう。時間がないから、簡単にシャワーで。携帯とお財布を通勤用の鞄から出して、テーブルに置いた。
 薄手のプリーツスカートを脱いで陰干し。洗濯は、うん、割り切って乾燥コースまでかけて行こう。
 聡からは何度か一緒に暮らそう、って言われている。でも私はそれを断っている。
 上手く言えないけれど、まだその時じゃないって思う。
 毎朝、バスの中で会えて、毎日仕事をして、金曜の夜に聡の家に行く。そのサイクルは、今の私には丁度良かった。
 贅沢過ぎるって思うけれど、実際誰にも言えないけれど、あの優しさに溺れて何も出来なくなったらどうしようって思う。甘過ぎるハチミツ漬けみたいになって、聡に縋って、ずっと失うかもって怯えて。
 そうじゃなくて、ちゃんと一緒に前を見て歩いて行けるってそうならなきゃ、暮らせない。
 そう、なれるかな。ため息が出る。そうなれたらいいけれど。

 頭にタオルを巻きつつ、狭いキッチンで冷凍ご飯をチン、する。
 乾燥出汁をお湯で溶いて、瓶詰めのシャケに野沢菜でお茶漬け。
 お行儀が悪いけれど、ここで食べちゃおう。小さな椅子に座って最近お気に入りの地味ご飯を平らげる。
 もう時間がないから急がないと。
 ハンドバックに携帯とお財布とお化粧道具をぽぽいと放りこんで、うっかり忘れそうになった茶碗を洗って、家を出た。

 バスを降りて、ちょっと急ぎ足で、閉店間際の輸入食品店へ入る。
 お目当てのマシュマロは、沢山の種類があって悩むけれどきっと白い、って言っていたからバニラだよね。
 お会計しつつ、やっぱり何に使うのか気になる。明日のお楽しみって、言ってたけれど。
 ビニール袋に入ったマシュマロをぶら下げつつ、聡のマンションのエントランスで合鍵を使ってセキュリティを解除する。
 途端に自動ドアが開いて、奥にあるエレベーターの扉も開いた。なんとかならないのかな、この高級システム。無駄だと思うんだ。何時ものコンシェルジュさんに会釈したら、笑顔で会釈を返して下さった。
 こういうのにいつまで経っても慣れない自分がいる。エレベーターに乗ってため息が出た。
 聡の家のドアを開けると、微かに彼の香りがする。いつものグリーンノートの匂い。
 玄関の明かりをつけたら、廊下にどっさり荷物が積んであった。
 見たくないのに目に入るよ………靴を脱いで行き過ぎようとしたけれど、やっぱり立ち止まった。
 こ、高級炭って何なの。宅急便の宛名シールが貼ってある……ネットで買ったのね……。
 その隣には赤い円柱の謎の物体。袋に書かれた字を見て、なんだかくらっ、とした。
 ぐ、ぐらんど、オフトンダブルって書いてあるっ、ダブルって、ダブルってダブルだよね。まさか、寝袋苦手って言ったからなの。いくらなの、これ。そしてダブル。絶対あの後買ったよね、気持ち、入りすぎだよね。胃、胃が痛い……。
 私はその場にうずくまった。期待が重いよっ。

 絶対無駄遣い、と思いつつ、ここまできたら、もうどうでもいいや、ってなんだか投げやりな気持ちにもなり。ソファーでグダグダして、次々に沸いてくるもやもやをクッションにぶつけていたら、いつの間にか眠ってしまった。


「ーーーの、綾乃、風邪引くよ。ベットに行こう」
 仕事帰りらしい聡は、スーツのまま、私の頭を撫でていた。
「ん、あ、……おかえり……」
 寝ぼけていて、よく分かっていない。今何時……。ぼんやりしてたら、よいしょ、って言いながら抱き上げられた。
「あ、歩けるから、降ろして」
「まあ、いいから、ね。今日は遅くなっちゃってごめん」
 お構い無しに聡は寝室のドアを開けた。寝ぼけながらだいじょうぶーって言うと聡はちょっと笑ってる。
「珍しいね、ジーンズなんて」私をベットに降ろしながら、聡は言う。
「うん、一度家に戻ったから」
「時間、あった?」
 なんで乗ってくるのかな。髪に顔を埋めるようにして、何か確かめてるけれど。
「あ、あったよ、マシュマロも買ったよ、ひゃ」
 首筋を舐められたっ。ちくり、と痛んで何だか嫌な予感しかしない。
「ちょ、ちょっと待ってっ、聡、明日朝早いんだよ。私、絶対寝不足で山登れないからぁ」私は必死で叫んだ。
「一週間振りなのに」
 覗きこんでくるハチミツの瞳は何だか不満そうだけど、ダメなものはダメっ。
「毎日、朝会うでしょ」
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて、じゃなぁいっ」
 ちょっと睨みつけると、聡はふうっ、と笑った。
「ま、いっか。月曜日休み取ったから」今、今なんて言ったの。
「え……」
「休み、取ったよ。今日の残業はそのためにしてきたんだ」山中さんっ、ビンゴです。ビンゴ過ぎて怖いです!
「い、一泊二日で、お願いしますっ」ちょっと押しやるようにして、身体を離す。
「何を言っているの。綾乃がキャンプ苦手なのは知っているよ。今回は、一泊でね」
 にっこりと笑った聡は、頭を撫でて私の上から降りた。そして、風呂入ってくるー先寝てて、と部屋を出て行った。

 やっぱり、なんだか胃が痛いよぅ。置いてある部屋着を着て、歯磨きしてガクガクブルブルしながら布団に潜りこんだ。も、寝ちゃおう。明日になればなんとかなる、筈だよ、多分。

 でもやっぱり眠れなくて、もぞもぞしていたら、聡が後ろから包み込むように抱き締めてきた。
「眠れない?」
「………うん、ちょっと」
「嫌だった、キャンプ」ちょっとさみしい声だけど、でも。
「あのね、キャンプ楽しめるか、プレッシャーなの。沢山、色々な物、買ってもらって、でも楽しめなかったら、って思っちゃう」
 素直な言葉を吐き出しても、きっと受け入れて貰えるって、そう思えるから私は気持ちを話せる。
 そうやって、甘やかされている。そう思う。
「………そっか、そうだよな。いいんだよ。楽しめなかったら、それはそれで」
「でも」
「そんなの気にしなくっていいよ。気軽な気持ちで行っていいから」
「で、でも」
「楽しくなるように色々考えているし、綾乃を辛くさせないためのまあ、物は揃えたんだ。でもそれを負担に思わなくっていいから。ね」

 なんか納得できるような、出来ないような。

 頬を突つかれて、チラリと聡を見ると笑っていた。

「今日は、お預けだな」すっごい残念そうだけれど、何でなのっ。
「明日、登るんだよね、行くんだよね」
「綾乃が可愛いのが、いけないんだ」
 なんでか顎で、私の頭をぐりぐりしてくるけれどっ。
「や、やめてよう」
 怒るとあはは、と笑い声が頭の上で響いた。
「明日早いし、寝ようか」
 そう言って聡は腕を伸ばして灯りを消すと、いつも通り、私を抱えこんで眠りについた。

***

「あ、ここ左だ」
 聡は左を示している。私は海沿いの国道で、左折のレーンに入りウィンカーを出して、車を信号待ちで止めた。
 久しぶりに運転したけれど、この車運転しやすい。
 朝、早起きした私達は、いつの間にか用意してあった食材をクーラーボックスに詰めて、玄関の廊下と、地下のトランクルームから荷物を車のトランクに積んで、二時間かけてキャンプ場の近くまでやって来た。
 この辺に親戚も住んでいて良く知っているからと、私は途中で運転の交代を申し出て、聡は渋ったけれど、何とか説得して無理矢理運転席に座った。
「綾乃、肩こらないの、肩上がってる」
 道路地図片手に、助手席の心配そうな聡は聞いてくる。ナビもあるけれど、田舎に行くと役に立たないこともある。
「久しぶりだし、ちょっと緊張してるのかも」
 こんな高そうな車、ぶつけたら絶対ん十万は修理代かかるよ、緊張するから。
「別に良かったのに、運転しなくても」
 ちょっとため息まじりに、言われちゃったっ。
「いいの、負担はせめて半分こにしないと」
 キャンプ、楽しめなかったら、聡に悪いし。せめて、これ位しないと。オソロシイヨ。
「気にしなくていい、って言ったのに気にしてるのか。無理したらそれだけで疲れるよ」
「大丈夫っ」
「大丈夫じゃないよ。信号青」
 わぁ、見逃していたっ。私は車を左折させると、両側に新緑の森がずっと続く県道を進んだ。

「着いた‥‥‥‥」
 サロイ岳のキャンプ場の駐車場について、なんだかほっ、とした。
 聡はもう降りて、後ろのトランクのドアを開けて、何かをしている。
 ああ、着いちゃった。キャンプ場。一泊二日だよ、一泊二日。
 新緑が瑞々しすぎて、キラキラしていて目に眩しいよう。
 聡の家からはこの間買ってもらった山ガールな格好で来た。真新しくてあんまり私に馴染んでない服着て、登山して、キャンプかぁ。
 熱とか、で、出ないかな、これから。出ないよね。物凄く元気だもん‥‥‥。
「綾乃、行くよー」
 いつまでも運転席でうだうだしていたら、後ろのトランクから声を掛けられた。うう、気分はドナドナされる子牛だよ。
 仕方がないから、しぶしぶ運転席のドアを開けて外に出て、聡のいる後ろのトランクに回った。
「はい、リュック。水一本と軽食が入ってるから。重たい時は言って。俺が持つから」
「わ、分かった」
 聡はもうリュックを背負っている。スカイブルーの薄手のジャケットも着こなしているし。アウトドア系の格好、良くお似合いですねぇ。嫌味だよ。
「帽子は忘れないで被って。あと虫除けスプレーして」
「は、はい」
 渡された虫除けスプレーは、レモングラスの香りがする。これってアロマなの?
「貴重品は、リュックの底にちゃんといれて。ポケットは落としやすいから」
「う、うん」‥‥‥‥‥‥‥‥‥。
「トイレは今のうちに行って。多分上に行ったら無いから。それから」
「おかあさんなのっ、ねえ、おかあさんなの」もう突っ込んじゃうよ。
「大事なこと言ってるんだよ。ちゃんと聞いて」めっ、って怒られた。
「はい‥‥‥」
 面白くなくて上目遣いに見やったら、聡は笑いながらばふっ、とラブリーな帽子を私に被せた。被れるよう、それ位。

 駐車場からちょっと歩いて、サロイ岳登山口と書かれた看板から土の道に入った。
「八百十メートルだから、まあ二時間半ちょっと位で、登って降りてこられるよ」
「そう」
 それしか言いようがないよ。やさぐれた私は生返事をした。
「ここにしか咲いてない高山植物もあるらしいよ」
「知ってるよー地元だもん」
 県の花だし。県庁職員だから、一応知っておりますよ。
「天気が良くて、気持ちがいいね」
「そーですねー」
 ドナドナ中だけどね。天気だけは、恵まれたよね。
 ちょっと歩くと無人の入山届けを書く小屋があって、聡が記帳してくれた。
 そこからまた、なだらかな土の坂道を歩いて行く。
 鳥の鳴き声と、ひんやりした緑の森匂い。始まっちゃったなぁ……登山。
「あ、あそこにヒヨドリ」木の上でまったりしてる鳥は、間違いないね。
「良く分かるね」
 聡はびっくりしてるけれど、なんでかな。
「うーん、小学生から、キャンプに入れられていたからじゃない」
「そんなことまで、教わったんだ」
「だって毎年、二週間も入れられていたんだよ。大抵のことは遣り尽くしてもまだ暇なの。だから鳥探したり、虫とりとかね、色々やらされて、ね」
 はぁとため息が漏れた。歩きながら、聡の横顔を見る。
「二週間は長いね」
 聡は笑っている。あれっ、なんだろう、ちょっと違和感。
「そうでしょ、長すぎたの。だからかキャンプが苦手になってて」
「はは、それでか。それは仕方がないね」
 いつもと全然違う、穏やかな感じがする。ううん、いつもも穏やかだけど、何だろう。気負いみたいなものを感じない。
 すとん、と素直な顔っていうか、上手く言えないけれど。
「何か、付いてる」
 じいっ、と見ていたら困ったように言われた。
「うーん、付いてはいないけれど、感じが違って見えるの」
「感じ、ああ、そっか、森に居るからかな。
 無理したり、ストレスに感じることが森の中ではないんだ。普段はずっと仕事以外の時間も、頭の中で色々考え続けているけれど、ここではそういう一切が止まるんだ」
「そう」
 無理、しているんだなぁ、そうだよね。
 聡は土曜、日曜は休みを取れてるけれど、平日はやっぱり忙しいのか帰りはいつも遅いみたいだし。
 私が寝る直前にメールが来て、『今帰りました』っていう文面にいつもため息が出る。
 たまに休日、接待ゴルフもしているし、私も毎週末いるから一人でのんびりする時間ってないのかも。
 それでも東京の本社に居る時より仕事は楽だよ、って聡は言っていたことはある。
 そう考えると私の仕事は年間通して一定だから、本当に恵まれているんだよね。
「聡、週末私は居ない方が、休めるんじゃない」
 見上げると、聡は慌てたようにこっちを見た。
「なに、いきなり」
「だって、のんびりする時間ないよね。私、邪魔しているよね。仕事が忙しいの分かっているから遠慮しないでね」
 いつも週末だって、パソコンに向かって何かしらしているし。言わないけれど仕事なんじゃないかな。
 私を構ってる時間を、こころ落ち着く時間に当てたらいいんじゃないかと思う。
「やっぱり、まだまだ足りてないんだな」
 何が……、あれ、怒ってる。珍しい。
「足りてないって」
「言ったよね、綾乃と2人がいいって。和める綾乃が週末だけでも居てくれてるから、仕事頑張れるんだけれどな。毎日居ればもっといい」
「ええっ、和めるの、私で」
「和んでるよ。じゃなかったら、付き合ってない。なんでそんなこと言うかな」
「そ、それは知らなかったなぁ」ちらり、と聡を見上げる。
 面白くない、っていうような、聡の横顔におかしくなって吹き出したら、すぐにこっち向いて頬をぎゅう、と抓まれた。痛いよう。

 五合目の小屋までは、新緑が眩しい穏やかな森だった。
「お腹は、空いた?」
 ちょっとしたベンチに座って一休み。
「うーん空いているような、空いていないような、よく分からないなぁ」
 朝食は車の中でおにぎり食べたから、持つとは思うんだけど。
「今、おやつにしようか」
 リュックを開けさせてーと聡は私の背中のリュックをがさがさ探ってる。
 他にも休んでる登山者もいて、五合目の小屋の前は賑やかだ。
「はい、少しだけでもいいから食べて。低い山でも、やっぱり登ると疲れるからね。こまめにおやつを食べておいた方が疲れないから」
 そう言いながら小さいスニッカーズや、ショートブレットのミニサイズを渡された。
 更にステンレスの水筒を自分のリュックから出してきて、小さいカップで冷たい紅茶も渡された。
 出来すぎでしょ、いつの間に用意したんだろう。今朝、私より早起きしてたけどその時なのかなぁ。
 料理も出来るし、私より女子力高いんじゃないのかな‥‥‥この人。
「何、絶対また良くないこと、考えているよね」
 私の怪訝な視線に気が付いた聡は、ちょっと怒ったように言った。本当にこんなに感情が出るなんて、珍しいなぁ。
「えー、あ、いつこんな準備したのかな、って思って」
「別にうちにあったおやつを入れて、ペットボトルの冷やしてた紅茶をこれに入れてきただけ、だけどね」
「そ、そうなの」
 紅茶を一口飲む。その一手間を惜しまないから凄いね。
 納得してない様子の聡は、ため息つきながら言う。
「やりたくってやっているんだから、綾乃は気にしないで楽しんでくれたらいいんだけれどな」
「そう、でも聡は忙しいんだから、言ってくれたら準備したのに」
「いいんだよ、やりたいんだから」

 この会話は何時もながら結構堂々巡りだよね。私もそっとため息をつく。

 そういうところで甘えるばかりじゃなくって、ちゃんと役に立ちたいんだけどなぁ。
 聡はなんでもやっちゃうけど、少しだけでも負担を軽くしたい。
 甘やかされてばかりだと、本当何も出来ないひとになりそうで嫌なんだけどなぁ。
 甘やかされることを当たり前にはしたくないんだけれど、自己主張し過ぎてるかな。

 ちらり、と聡を見ると、同じように見てくる聡と目が合った。
 もしかして、もしかすると、同じようなこと考えてる?よくわからないけど、そんな気がする。
 ちょっとだけ笑うと、聡も柔らかく微笑んで。

 まあ、いいや。何がいいのか分からないけれど、今揉めてもいいことは無いし。

「これ、半分こしよ」二つ入っていたショートブレットの片方を差し出すと、
「ああ、ありがとう」聡は受け取ってくれた。


 休憩を終えて、五合目の小屋の前から登りだすと、急に視界が拡がって岩場だらけの道になった。
 遮るものがないから、結構日差しが眩しい。
 暑いわけじゃないけれど、寒いわけでもなく、空は真っ青で凄く綺麗。
「綾乃、後ろ見てごらん」
 七合目を過ぎた頃、聡が振り返って私の後ろの方を眺めて言った。
「わぁ‥‥‥」
 眼下に緑の森と、その奥に初夏の日差しにキラキラ輝いた青い海が広がっている。
 海岸線に沿うようにして、さっき通ってきた国道がずっと遠くまで続いていて。
 水平線が少しだけなだらかな半円で、やっぱり地球って丸いんだ。そんなことを思う。
「本当、いい天気だな」聡は穏やかな顔で、青い空を仰ぐ。
 そんな顔見たことないなぁ。初めて見る初夏の日差しを浴びて、柔らかい表情に私も嬉しくなる。
 森の中にいるから、ここにいるから、見られたのかもしれないね。そう思うと、来て良かったって、そう思える。
「なに、にこにこして」
「んーなんでもないよ」
「楽しんでいるならいいけれどね」ちょっと、こちらを探るような目線。
「うーん、嬉しい、かな」
 私が笑うと、聡はびっくりした顔になった。
「嬉しいの?」
「うん、だって聡すっごい、いい顔してるから」

 がしっ、と両肩掴まれた。ぐぐぐっ、と顔が近づいてくるけれど、嫌な予感しかしない。嫌な予感しか。

「ちょ、ちょっと待ってぇ、ここ外だからぁ。絶対ダメッ」両手で聡の体を押しやる。
「なんで?」
「なんで、じゃなぁい、山登るんでしょ、今まだ七合目でしょっ」
 公衆の面前で、何を晒そうとするんじゃい。ほら、年配のご夫婦が笑いながら横を通り過ぎて行っているし。
「関係ない」
「関係なくなぁい、今はダメッ、絶対ダメッ」
「じゃ、後から、ならいいんだ」掴んでいる両手の力は、ふっと抜けた。
「へっ」
「今はこれで、勘弁しといたげる」
 素早く頬にちゅ、ってされた。ちょっと悪戯っ子みたいな顔してっ。
「~~~~っ、さとしっ!」
 さかさか早足で逃げてった。あはは、って笑いながら。絶対私の顔が赤い自信あるよ。

「つ、ついた‥‥‥」
 登り出してから、一時間半程で頂上へ着いた。頂上はちょっとした小屋と、その周りにシートを広げられるような休憩スペースがある。
 なんだか途中で無駄なエネルギー使ったよね‥‥‥つ、疲れたよぅ。
「お疲れ様、よく頑張ったね」
 肩をトントンされたけれど、嬉しくないなぁ。また下りが待っていて、更にキャンプ、だもんね。それが問題だよう。
 でも、山頂から見る風景はやっぱり清々しい。ずっと遠くまで山脈が続いていて、新緑は目に優しいし。
 さっき見た森の緑と、青い海はずっと遠くになったけれど、心地いいなぁ。
 軽く、深呼吸する。
 来て、登上へ着くと結構楽しかった。聡のいい表情も見られたし。その後は問題だけれどね。
「お昼にしようか」
 聡は屈んで、リュックの中を探している。
「えっ、降りてから食べるんじゃあないの」
 すっごい小さい折りたたみ椅子が、リュックから出て来た。一体どこに入っていたの。
「持ってきたよ。簡単に作るから、待ってて」
「えええーっ、どうして言ってくれないの。さっきもだけれど、女子力高すぎじゃない」私は焦って歩み寄り、聡の側に屈んだ。
「女子力?」
「なんでそんなに、甲斐甲斐しいの」
「普通だよ」聡はとても怪訝そうな顔をしている。
「普通じゃないよっ、絶対普通じゃない」
「綾乃、その普通は、誰が基準なのかな」
 すうっ、と聡を纏う空気は、冷たくなった、気がした。
「えっ」
「誰か、と比べて普通じゃないんだよね。きっと。違うかな」
 目が、ハチミツ色の目が、据わってる。
「え、あ、そ、そんなこと考えていなかったかも‥‥‥」
「そうなのかな。意識してないだけで、綾乃の中にはこういうことをしないのが普通な男がいるんだ」
「ええっ」
 お、怒ってるよね、これは。そして、何かを誤解しているよう。
「ここが家なら、抱っこしていったのに」なにを、どこに。今恐ろしいこと、横向きながらさりげなく呟いたよね。
「もうそろそろ、こっちが普通に慣れるようにね」
 にこーーっと笑われたけれども、絶対これ怒ってるっ。コワイ、コワイヨ、ダレカタスケテ。
「ハイ‥‥‥」
「まあ、じゃ、手伝って」
「ハイ‥‥‥」
 上目遣いに聡を見ると、リュックからベーグルとちいさなナイフをはい、って渡された。
「横半分に切ってくれるかな。ベーグルサンドにするから」
「ハイ‥‥‥」
「適当でいいから」
「キレマシタ」
「何で片言?」
「ワカリマセン」
「嫌?こんなことする奴は」
 ちらり、と聡を見るとちょっと不安そうな顔。
「‥‥‥そうじゃなくって、もうちょっとなんていうか、準備とかも一緒にしたかったなぁって。
 お楽しみで出てくるのに慣れるんじゃなくって、こう、お昼なに食べる、って一緒に話しながら用意したりね。そうしたいなぁって、いつも思っているの………。
 でも聡は仕事忙しいから、そんな暇はないだろうしって思うとね、せめて準備位、手伝いたいなぁって思うんだよね‥‥‥」
 絶対しどろもどろで何を言ってるのか分かっては貰えないかもしれないけど。でも。
「そっか、そうだよな。怒ってごめん」そうやって、気持ちを受け止めて貰えてる。だから話せる。
「綾乃の喜ぶ顔が見たいな、っていつも思ってるから、つい色んなことしてあげたくなるんだ。
 別にないがしろにしている訳じゃない。これからは相談するから。でもたまにはサプライズもさせて」

「うん、わかった」そうか、そうだよね。そんなことを思ってたんだ。

「じゃ、これ、中身」
 渡された保冷剤付きのタッパーの中は、ハムとかクリームチーズとかきゅうりとか入ってる。
 やっぱり女子力、聡の方があるよ。なんだか負けた気分なのは、言わないことにした。

***

 揉めたお昼ご飯の準備に何かを削られて、ちょっと疲れた私は聡が持ってきた小さな椅子に座ってベーグルサンドを持ったまま、ぼんやり景色を見ていた。
 なんだか疲れたよぅ………もうおうちに帰りたい。
 でもそんなことを言ったら、確実に家に帰ってえらい目に合う確率は百パーセントだよ……。
 聡も月曜日休みだしね。休み取らなくても良かったのになぁ………。
 性格悪い自分が、やさぐれてうだうだしている。食欲は全く湧いてこないよ。
「疲れた?」
 聡はこちらを伺うように、微笑み掛けてくる。
「うん、ちょっと」
「温泉に行こうか。降りた後で時間も早めだけれどね」
 聡は、前を向きながら私に言った。
「温泉?」
 なんですと、温泉っ。ぐりん、と聡を見ると、ふっ、と吹き出された。
「嬉しそうだね」
「この間出来た所でしょ、いいの?」
 オートキャンプ場から国道方面に県道を下って行くと、先月建物を建て直したばかりの温泉施設がある。
「俺も行きたいと思っていたから。いいよ」
 聡は面白そうな顔で、私を見ていた。
「これ、すぐ食べるから、待ってて」
 いきなりベーグルサンドを食べ出した私を見て、聡はくっ、くっとお腹を抱えて笑ってる。すみませんねぇ、単純で。


「綾乃は温泉、好きだったんだ。知らなかったよ」
 五合目を過ぎて、新緑が眩しい下り道でも私の足は軽やかだった。 聡の前を、少しだけ急ぎ足で山を降りる。
「うーん、ちょっとだけ違う。日帰り温泉が好きなの」
「日帰り温泉か」
「うん。小さな頃、親戚の家に長期休みになったら兄弟で遊びに来てて、小父さんにあちこちの日帰り温泉に連れて行ってもらったんだよね。
 温泉入って、中にある食事処でご飯食べて、アイス食べて、ゲームコーナーでゲームして、もう楽しいことのフルコース。楽しかったなぁ、あれ」
「へぇ」
「ここの下にある温泉にも、来たことあるよ」
「綾乃?」
「建物老朽化で建て直したって聞いてて、行きたかったんだよね」
「綾乃!」
「露天風呂も、新しく出来たって知ってもう」
「綾乃っ!」ぐっ、と肩を掴まれた。
「何?」振り返ると、聡は珍しく息が上がっている。
「そんなペースで下山したら、明日は確実に筋肉痛だから。もう少しゆっくり降りて」
「あれっ、早かったかなぁ」
 そんなに早く歩いていた自覚は、ないよ。
「競歩じゃないんだから。楽しみなのは分かるから、ね」めっ、って怒られた。
「……ハイ」
「はい、手を繋いで」聡は、手を差し出してきた。
「ええっ、ここで?」
 なんだか気恥ずかしいよ。そんな登山者いないし。ちょっと面白くなくて、聡を見上げた。
「競歩にならないように繋ぐんだ。分かる?」
 冷めたハチミツ色の目は多分、呆れているよね……。
「……ハイ」
 面白くないけれど手を繋ぐと聡はちょっとだけ笑って、綾乃は仕方がないなあ、と言った。私の手をがっちりと握って放さない。結構痛いなぁ。
「あ、あのね、もう少しだけ優しく握って欲しいなぁ」私はえへ、と笑う。
「駄目だよ。さっき何度か先に行くから、声を掛けてたけれど、一緒に並んでも歩くのが早いから追いつけないんだ。大人しく繋がれてて」
 うっ、そうだったんだ。つい温泉が楽しみ過ぎて、全然聞いていなかったよ……でも手は、握られる力が強すぎて痛い。
「逃げたりしないから」
「逃げるつもりだったの?」
「……いえ、そんなことはありません、よ」ちょっと早く山を降りたいだけです、よ。
「じゃ、大人しくしていて」
 ため息をついて言われて、すぐに手の力は弱まった。

「露天風呂が三種類出来て、内湯も立派になったってこの間パンフレット見た時に書いてあったよ。凄く綺麗になってて、海も見えるって書いてあってね、パンフレットの写真、綺麗だったなぁ」
 聡とゆっくり手を繋いで歩きながら、私は聡に新しくなった大浴場の説明をする。
 先月、県の広報誌を作る時に見た、温泉のパンフレットはとても素敵だった。
 ここの下のオートキャンプ場にも一応小さいお風呂はあって、そっちに行くとばかり思っていたから、とってもうれしい。
「……貸切も、あるらしいよ」
「ええっ、行くなら大きいお風呂に入りたいなぁ。やっぱり、そう思わない?」
 あの三種類の露天風呂は、外せないよね。あと内風呂も。
「………ソウデスネ」
「なんで片言なの?」
 聡の方を見ると、何故か苦笑いしていた。
「さあ、綾乃のが移ったんだよ、きっと」
 何となく機嫌が悪いような気がするけれど、気のせい?

 駐車場まで降りてきて、簡単にリュックの中身を片付けると、聡は車を出した。
 国道の近くまで県道を下って行くと、右手に温泉の文字の看板。
 そこの道を入って行くとデザインが素敵な建物が現れた。

「わー新しくなってる……」
 駐車場で建物を見上げた。本当にピカピカだ。
「昔はどんな建物だったの」
 聡は後ろのトランクを開けて、お風呂道具を入れたバックを渡してくれる。
「昔の温泉ホテル、って感じのコンクリートの建物だったよ。中も岩風呂とかなの」
「面影は無いんだ」
 バタン、と音を立てて聡は後ろのトランクを閉める。
「全部建て替えだから、もう面影らしいものはね」
「あれ、あやのでねぇか!」
 その時、大きなダミ声で遠くから誰かに話し掛けられた。誰っ。

「あれっ、小父さん。お久しぶりです!」
 振り返るとお風呂道具をがちゃがちゃいわせて、ついでに残ってる水滴をポタポタさせて、母の兄に当たる恒三伯父がこちらへやってきた。わぁ、ここで親戚に会っちゃったよ。
「あやの、何しに来た、温泉かぁ、噂の彼氏とデートか。いやーいいなぁ!」
 どうやら母から色々、聡の事は聞いているみたいだね……母は猫かぶりな聡を気に入っている。絶対、親戚中に母は言って回っているに違いない。
 ニヤリと笑っている恒三おじさんは、背が高くて仕事柄か、がっちりと体格がいい。
 六十歳を過ぎたのに、いつもパワフルだ。小さい頃、よく兄弟と従兄弟、皆で競っておじさんの身体にぶら下がったり、よじ登ったりそのまま布団に投げられたりした。楽しかったなぁ。性格は色々濃いけれどね。
「おじさん、おばさんは、元気?」
「あー、今朝は会ったぞー?」
 おじさんは何時もながらとぼけてるなぁ。一緒に住んでるんだもん、会うでしょ。仲良しの癖に、そんな軽口ばかりいつも言っている。
「私は今サロイ岳を、彼と一緒に今降りてきたの。今日はそこでキャンプなの」
「東京から来たっていう彼氏だろ、いやー綾乃のおじです。はじめまして」
「はじめまして、上條と申します」
 聡は丁寧に挨拶した。見ると、何時ものニコニコに戻っている。
「いやーあんた、ドーベルマンみたいだねぇ」
 出たっ、おじさんの先制攻撃。まずいっ、まずいよう。
「お、おじさんっ」
「ドーベルマン、ですか」
 ニコニコした聡は、なんだか黒オーラが出始めちゃったし。
「似てるよーそっくりだ」
 ニヤリと恒三おじさんは笑った。ああ、何だか嫌な予感しかしないよ。
 何でおじさんはこうも好戦的なの、海の男だから?
 でも優しい海の男も、沢山知っているけれどね。おじさんだけだね、きっと!
「おじさん、温泉新しくなったんだねぇ」
 えへ、と笑って話を誤魔化してみることにした。
「あ、ああ、温泉な、良くなってるぞー。露天風呂がいい。あれはサイコーだぁ」
「そうなんだ、露天に釜風呂も出来たって聞いたよ」
「ああ、あれ入りながら海をみるのがサイコーだなぁ」
 よしよし、おじさんは温泉の方に気持ちが行ってるねっ。このまま何とか乗り切って、あとは隣にいる黒いオーラの人だけだね……。
「それじゃ、私たちも入ってくるねっ、じゃあ」
「ちょっと待て、写真撮らせろ」
 さりげなく行こうとしたら、やっぱり止められたっ。おじさんはスマホをふるふる振っている。
「写真は駄目」ノーですよっ、NO!
「彼氏のだけでいいぞ?」
「駄目っ、親戚中に添付してメールするでしょう」油断も隙も無いっ。
「あー恭一兄んとこと、憲二兄んとこと、ばーちゃんだべ、あと」
「それだけ送ったら、親戚中に送ったのと一緒でしょーーーっ」
 何をいっているんだ。そんなことしたらねずみ算式に、写真を持ってる人が増えるし。
「いいですよ」ニコニコした聡がGO!を出しちゃったっ。何を言っておるんじゃい、何を!
「さとしっ、駄目っ、絶対!」慌てて止めるよ、冗談じゃない。
「ほれ、彼氏もいいって言ってるし」
「そういう問題じゃなーーいっ」ぜぇはぁと喉が鳴るよ、こんなに絶叫したら。
「別に、構わないよ」
「親戚中に、果てはご近所さんにまで、写真が行き渡るんだよ」
「いいよ」
 おいっ、ちょっと待てェ、絶対何か良くないこと考えているよねっ。
「彼氏の方が分かってるネェ」
 褒めるなっ、いや、ちょっと待て、落ち着け私。冷静になれ。

「……分かった、その代わり、赤坂の頂戴」
「おめぇ、大きく出たなぁ。赤坂は駄目だ。築地でいいだろう」
「赤坂で」
 ここは大きく出なきゃ、精神的に削られるんだもん。クッションがないとやってられないよ。それを聡に食べさせて、黒いオーラを消さなきゃなぁ……。
「何の、話?」
 聡は訝しげだ。まあそうだよね。
「聡、雲丹、好き?」
「ウニ、雲丹って、あの海にいる奴?」
「そう、おじさん雲丹の養殖の会社もやってるの。写真の対価でおごってもらおう、おじさん、赤坂っ」
「………銀座だな」
 恒三おじさんはニヤリと笑った。もう一歩だよう。
「あーかーさーかー!」
「銀座」
「赤坂で!」
 訳が分からないといった聡は、今ちょっと放っておいてよし。大事なところだよ!
「銀座行きも、いいやつだぞー」ううう、敵は強い……。
「……私も一緒に写るからっ」
「赤坂だなぁ」
 おじさんはニヤリ、とした。うう、ま、負けた気分………っ。

 おじさんはスマホで私たちが並んだ写真を撮った後、ホクホク顏で従兄弟に雲丹をキャンプ場へ届けさせると約束し、また風呂道具をがちゃがちゃ言わせて軽トラで去って行った……。

「綾乃、赤坂って何」
 建物に向かって歩いていると、訝しげな聡に聞かれた。
「ああ、あのね、おじさんの会社の雲丹は、東京や大阪の高級料亭とか、老舗寿司屋さんとかに、ほとんどが行っちゃうの。ブランドはついていないけれど、知る人ぞ知る高級雲丹なんだよねー
 今、一番いい雲丹は赤坂の料亭に行っているから、それをねだってみたの」
「えっ、写メの対価って言ってたよね?」
 聡を見上げると、びっくり顔だけれど。

「そうだよー、これから親戚で集まった時に、散々からかわれるんだもん、良いの出して貰わなかったら割りに合わないよ」
 はぁとため息が出た。本当に割に合わない。
「写真一枚で、か」
 聡は、納得いっていないみたいだけど。
「雲丹の養殖してたら、雲丹なんてもう食べ放題なの。毎日雲丹、雲丹は見慣れるし飽きるんだよね。だからおじさんのところでは、高級雲丹はそんなに価値がないの。だから、いいの。
 それより、この辺に住んでいる従兄弟はもう刺激なくて、死にそう、って言ってたから、写真見たらきっと雲丹持って聡を見に来ると思うよ。五人位」
 雲丹云々が無くても、来るね。間違いなく。
「五人っ?」
 温泉のエントランスに、自動ドアを開けて入った。わぁ、内装に木を沢山使っていて、カッコイイ感じになっている
「そうだよー、都会から来た私の彼氏、なんてもうねぇ。来るよ。この辺に住んでいる従姉妹たちが」
「そう、なん、だ」
 聡は何かを考えている様子だけれど、もしかしてそんな可能性は考えていなかった、のかな。
 その時私の携帯へ、メールを着信した。開いてみたら従姉妹の雪菜からで、とーってもテンションの高い、すぐ行くっ、文面に私は苦笑いして、聡へほらね、と携帯を見せた。

 聡と入り口で別れて、女性の大浴場にある脱衣室で、何かが引っかかっていた。
 何だろう、何かを間違えたような。お風呂に関することだったような気がするよ……。
 うーん、これからの展開が、不利になるような気がしてならないんだよね……。
 まあ、いいか、三種類の露天風呂っ。気持ちを切り替えた私は、お風呂を思う存分楽しんだ。

 お風呂から上がると、聡は半袖のTシャツになっていて畳敷きの休憩所で待っていた。
「お待たせ、そっちはどんなお風呂だったの?」
「ああ、本当に釜風呂あったね。面白かったよ」
 なんだか、ご機嫌斜めだよね……笑っているけれど。半年付き合って来て、やっと分かってきたけれどね。……ちょっと探ってみようかな。
「聡は雲丹、嫌い?」
 隣に座ると、聡は水のペットボトルを渡して来た。
「何で、好きだよ」
 にこ、と笑っているけれど、何かがあるね。
「従姉妹に会うの、嫌?」
「嫌だったら、写真は拒否していたから」まあ、そうだよね。
 じゃあ、この機嫌の悪さは何ですかね。あまり溜まるとえらい目に遭うから、出来れば回避の方向で行きたいな………。
「貸切風呂も良かったよね」
 ソレダーーーッ。そうだ、そんなこと言っていた。でも大浴場を選択したのは私だ。貸切が良かったんだね………ちらりと聡を見ると、にっこり笑っていた。コワイ。
「次にキャンプに行った時の、お楽しみだな」
 ニコニコしながら、次のキャンプを畳み掛けてくるけれど。
「次、ねぇ。………聡、貸切行く?」回避ッ、回避の方向で!
「満室だって、今」本当だっ、館内放送で言っているよ。
「次のキャンプは、県外に出るのもいいね」
 ね、と言われて、やっぱり私は何かを削られた………そしてまんまと次のキャンプ地は決められた。

***

「よし、完成」
 ペグをちいさな木槌で地面に打ち込んだ聡は、私を見上げてにっこりした。
 広々とした芝生のテントサイトは、結構お客さんがいて、あちこちでテントを組み立てている。聡は点在する炊事場や、トイレ、ビジターセンターの何処にでも、まあまあ程よく近くにテントとターフを張った。
「………完成、ねぇ」
 ああ出来ちゃったよ、テント。今日はここでやっぱり寝るのね。しかもダブルだもんね。寝袋苦手って言ったら廊下に買って置いてあった、オフトンダブルの実力は、いかほどのものか知らないけれど。安眠とか出来ない気がするよ。
 性格悪い自分は、やさぐれてうだうだしている。県外キャンプも畳み掛けられるように決められたし。大体こんなにお金つぎ込んで、次は無いなんて有りえないのに。気がつかない私って、間抜けじゃないかな。聡のいいように事は進んでいて、なんていうか面白くない。
「綾乃、ちょっとお腹空いた?」
 聡はぽんぽんと私の頭を撫でる。身長差があるから、聡が撫でると何だか庇護されている子みたいな気分になる。って言うか、別にお腹空いていないし。ご機嫌取ろうとしてるよね。その手には乗らないよ。
「別に、空いてない」
 そう言ったのに、甘いイチゴ味のキャンディーを、口にねじ込むように入れられた。
「美味い?」
 もご、もごと口を動かす。……確かにキャンディーの甘さは意外に身体に染みる。ちらり、と見上げると聡はふわっ、と笑った。
「低山でも、登山して温泉も入っているから、疲れているんだよ。従兄弟の人が来るまで横になっていたらいい。今、用意するから」
「いいよ、やることまだあるよね」
「後はのんびりするだけだよ。火おこしだってもう少し後でいいからね。夕飯は肉ちょっと焼いて、スープとデザート位だから、すぐ出来るよ」
「で、でも」
 そう言った私には目もくれず、聡はテントに入ると何やら広げ始めた。手伝うって、そう言ったのに綾乃はそこっ、とキャンプ用の椅子をビシッ、とゆび指されて、面白くない私は、飴を舐めつつ椅子に座って空に浮かんでいる雲を眺めた。

 キャンプ、つまらない訳じゃない。小さいころだってそれなりに楽しかった思い出もあるんだけれどね。問題はこれだよう。小さな羽音でわたしの血を吸いに寄って来るやつ。目の前をジグザグに飛んでいたから、掌を合わせて仕留めようとする。けれど捕まえられないんだよね、なかなか。私ってトロいのかな………。いつもこんなことやっている隙に刺されている気がするよ。

「何やってるの、ダンス?」
 テントから出てきた聡は、私を見て、吹き出しながら言った。
「そんなわけないでしょーっ、蚊がいるの」
 ああ、と聡は言うとリュックの中から、懐かしい渦巻きの蚊取りを入れる丸い缶を取り出した。何でも入っているのね……四次元リュック、ではないよね……。
「色々試したけれど、やっぱりこれには敵わないんだよな。テントに入る?」
 蚊取りの缶を開けて聡は懐かしい渦巻きを取り出すと、マッチで火を付けた。そして蚊取りの缶を閉じると、私を手招きしている。
「少し休んで。久しぶりのことは疲れるよ。一時間位したら起こすから、ね?」
 促されてテントの中に入ったら、そこにはどどーんと薄手のエアーマットの上に赤い掛け布団が掛かっていた…………。横目で冷たい視線を聡に送っているのに、何でニコニコしながら蚊取り持って入口にいるのかな。突っ込んでいいのかな。何で一緒なの、って。
 でも、余計なツッコミ入れて、返り討ちにあうのは、体力消耗するんだよね………。ま、いい。ここはスルーで。何の反応もせずエアーマットの上に座ったら、何故か聡もトレッキングシューズを脱いで、テントのファスナーを閉めた。イヤナヨカンシカシナイヨッ、イヤナヨカンシカ!

「お、おやすみっ」
 急いでお布団の中に入り込んで、頭まで潜り込んだ。………寝心地とってもいいねコレ。そんなことを思った瞬間、何かがのし掛かってきた。何かって、聡しかいないけれど!
「お、重いからやめてぇ」必死な声しか出ないよ、もうっ。
「綾乃、寝心地はどう?」
 お布団の端を捲られて、ニコニコした聡と目が合った。
「重い」
「それだけ?」
 不満そうだけれども、そっちがその気なら、こっちにも考えがあるよっ。
「聡、これって、いつ買ったの?」
「…………早いけれど、火おこししてこようかな」
 目を逸らした聡は、身体を起こしかけた。頭の回転が本当に早いよね。状況が不利になったら引くのも早いし。
「ちょっと待ったぁ、おいくら万円なのっ?」
 ガシッ、と逃げた腕を掴む。その辺はっきりさせていかないと、あの山ガール一式買って貰った後、家に帰ってからもう私に関するものは買わなくていいと、しつこく念押したよね。
「まあ、それなりに、ね」
 目が合わないってことは、相当後ろ暗いんだね。このお金持ちめ。
「それなりじゃないでしょ、ぜったい!」
「綾乃はゆっくり寝て、おやすみ」
 腕をするっ、と抜いてニコニコした聡は、テントを出て行った。逃げたな。ぜったいこれ高かったんだ。後でお値段調べてみるっ。

 ムカムカしながらも横になっていたら、いつの間にか眠っていた。気がついたら外は、何だか騒がしい。
「で、綾乃とは何処で知り合ったの?」
 どっかで聞いたような声……。もしかして、文子おばさん?
「通勤のバスの中で、毎日乗り合わせて、そこからですよ」
「ええっ、マジで。やっぱあたしも都会にでよっかな………で、どっちから声かけたの?」こっちは雪菜だ!
「こっちから挨拶はしていたんですけど、中々振り向いて貰えなくて」
 ちょっと待ったぁぁ!それはストーカーだったからでしょーっ。物は言いようとはこのことだよ。ガバッ、と起き上がると急いでお布団から出た。
「よく振り向かせたわねぇ、それで?」
「諦めようと思って振られるの覚悟で告白したんです。そうしたら後日、綾乃が追いかけてきてくれて」
「ちょーーーっと待ったぁ、何を暴露してるのっ」勢い良くテントのファスナーを開けたらば、そこには、ひい、ふう、みい、よ…………十一人いる!
 文子おばさんと従姉妹の雪菜、咲、公孝兄ちゃんのお嫁さんの美加子さんは、聡を取り囲んでいて、公孝兄ちゃんは、わらわらいる四人の子どもたちとフリスビーをして遊んでいて、おじさんは牡蠣の下処理を、何故かしていた……。って全員じゃん!
「綾乃ーこの辺に来るなら、声掛けなさいよー」
 文子おばさんは私を見ると、呆れたように言った。
「イヤイヤ待って、何で全員?」
「憲二おじさんも来たい、って言っていたんだけれどねぇ。漁協の集まりで今居ないのよねー」
「イヤイヤそういうこと、聞いてない。なんで恒三おじさんちの一家がここに居るの」
 トレッキングシューズを履きながら、聞いた。
「浜の婆ちゃんはデイサービスだしねぇ。きっと帰ってきたら悔しがるよー」
 どうしてこう話は、噛み合わないの。
「おはよう綾乃。よく眠れた?」
 女性陣に囲まれて聡は、ニコニコして火おこしの真っ最中だった。
「何を暴露しているのっ、何を」
「いけなかったかな」しれっと何を言っているんじゃい。
「いけなくないよー。で、追いかけて来た綾乃は、なんて言ったの?」
「文子おばさんっ」私が叫ぶと綾乃、うるさいっ、と輪を追い出された………。うう、四対一とは、卑怯なり……。

「おじさーん、どうして一家で来てるのー」
 何故か牡蠣を捌いて、ごりごり掻いているおじさんを睨む。
「おお、綾乃。金光さんとこから、牡蠣も交換で貰って来たぞー。焼いて食え!」
 ここにも話の通じない人が、ひとり……。
「公孝兄ちゃんに届けさせるっていってたじゃない。なーんーでー?」
 おじさんの傍にしゃがみ込んで、睨みながら聞く。
「ああ、あー綾乃が彼氏に溺愛されてっぞ、って言ったらなぁ、みんな見たいって言い出してな。公孝んちの車、八人乗りだから二台出すことになったんだわ」
「溺愛っ?」何を言ってるんじゃい、何をっ。
「されってっべ?」
「何を根拠に………」
 そう言いかけたらおじさんは、牡蠣を捌いていたヘラを自分の首筋に向けて、ツンツンした。怪訝な顔を返したら、おじさんはニヤニヤしてこう言った。
「キスマーク、ついてっぞ?」
「あぁああっ?」ばふっ、と首筋を抑える。
「何だぁ、気がついていなかったのかい。おめぇ呑気だな。まあ、あのドーベルマンなら気付かれず、それ位やりそうだなあ」がはは、とおじさんは笑っている。
「ちょ、ちょっとやだっ」
 ちょっとどころじゃなく嫌だ。あいつ何をしているんじゃい、まさかっ、いつも首筋にチクチクされていたアレなの。でも鎖骨とかにもされていたのに、そこは別に跡はいつも残っていない。いつの間に。
「真っ赤になっちゃって、初々しいなあ。兄弟で綾乃は、一番ニブチンだったもんな」
 キシシシと笑いながらおじさんは、牡蠣の下処理をまた始めた。
「ううぅっ、聡め!」
「ドーベルマンだから、仕方があるめぇ」
「ドーベルマン、ドーベルマンって言うけれど、そんなに犬に似てる?」
 ちょっぴり嫌味も込めて言うと、おじさんはきょとん、とした後、穏やかに言った。
「親父が、俺らが小さい頃飼ってたんだがな。親父だけに忠実で静かで賢いんだな。でも愛されたがりでなぁ。賢いから分かりにくいんだがな。何時でも親父の傍に居たわ。今だってずっとお前から、目を離さねぇもんな」
 振り返ると横目でこちらをちらり、と伺っている聡と目が合った。本当だ。

「おめえ、昔から一人遊びが好きな奴だからな。でも少しは愛情注いで構ってやれ。首のやつは不安だ、っていう無言のサインなのかもしれんぞ。あまり責めてやるな」
「………年の功だよね。おじさん」
 足りていない所を、ビシッと指摘されたような気がする。
「今更だろ、ほれ、出来た。焼いて食わしてやれっ。美味いぞ!」
 キシシシとおじさんは笑うと、発泡スチロールの箱を私に持たせた。


 ここまで来たから、みんなで隣町まで買い物に行くからー、と言って賑やかな集団は去って行った。
「いいけれど、凄い量だね」
 雲丹に牡蠣、さざえまで発泡スチロールの中は、山盛りだった。この他にも持って来た食材もあるしね……。
「うーん私達が食べる分を残して、ご近所さんに配ろうよ。県外から来たひとがいたら、県産品のPRにもなるし」
「まぁそれしかないね、綾乃はどの位食べる?」
 軍手をはめた聡は、大きめのボウルを抱えてる。
「うーん雲丹と牡蠣一つずつでいいよ」
「それだけ?」
「うん。美味しい物って、食べ続けられないんだよね。私だけかもしれないけれどね」
「……そんなものなのか。うーん難しいね」珍しく聡は、唸ってる。
「二つ位ずつ残しておいたら、どうかな。生雲丹もあるしね」
 おじさんは、赤坂行きの雲丹は柵にして、焼き雲丹にする分はイガイガ付きで置いていった。そっちも食べてしまわないといけないから、聡が食べ切れそうな量を提案してみる。
「そうするか。しかし生きがいいね」
 牡蠣を一つ持ち上げて、聡はしげしげと眺めてる。
「食べてみたら、今焼いて」
 私が笑いながら言うと、聡は意外そうな顔をした。
「夕飯まで待てって言うと思ってたよ。焼いてみる?」
「火おこしも出来てるなら、食べてみようよ。それがキャンプの醍醐味じゃない?」
「……そうだな、ちょっと早いけれど夕飯作りながら食べるか」嬉しそうに聡は笑った。

 発泡スチロールの箱を聡に持ってもらって、周りでテントを張っている家族連れやカップル、グループで来ている人達に配った。
 ついでに県産品の感想を書き込むコーナーがある、県のホームページの案内を載せた名刺も配ってみた。
 みなさん笑顔で受け取って貰えて、御礼にと逆にワインやお菓子なんかを頂いたりして。
「名刺持ち歩いてるなんて、知らなかったよ」
 網の上の雲丹やさざえなんかを、聡は火ばさみで様子を見ながら回している。
「いつ、県の広報紙に載せられるかもしれない出来事に出会うか分からないから、常に多めに持っているの」
「そういうことか」
「それが仕事ですから。あ、もう食べ頃じゃない?」
 おじさんが持って来てくれた小袋醤油を、焼き雲丹に少し垂らした。香ばしい、いい匂い!
 キャンプ用のお皿に、焼けた雲丹を聡は乗せた。
「いただきます」
 どうぞー、と言うと聡は、フォークでイガイガから覗くオレンジ色の身を躊躇わず掬った。そして一口食べて目を見開いた。
「これ、何?」
「雲丹だよ」
「雲丹っ?」
 もう一口掬って食べると、その表情は口元からじわじわと緩んでいっている。
「どう、美味しい?」
「……何だか色々なことがどうでも良くなるね。旨すぎて」
 自然体で笑っているよ。良かった。何時もと全然違う笑顔に、私も嬉しくなる。
「まだまだ沢山あるから、食べて」
「いや、うん食べ続けられないって言った意味も分かった」
「そう……え、もう?」まだ沢山あるのに。
「食べるけれどね、成る程濃いね。これは凄いな」
 聡は笑いながら、感心している。何だか緩やかな感じになって、ワインも開けて聡が持って来た下ごしらえ済みの食材も焼きつつ、のんびりと夕ご飯は終わった。

***

「はい、ちょっと酔い覚まししようか」
 ステンレスのマグカップに入ったアメリカンコーヒーを、そっと聡は差し出してきた。
「ありがとう」
 パチリ、パチ、と音を立てる焚き火の小さな炎をすっかり暗くなった空の下、二人で黙って見ていた。ゆっくりコーヒーを私に渡すと、聡はキャンプ用の椅子に座って、コーヒーを一口飲んだ。

 バーベキューも出来る四角い焚き火台へ、時々乾いた小枝を入れる以外、聡は黙って焚き火を見ていた。何もしない。いつも何処でも小まめに動いて何かしらしているのに、ちょっと猫背気味に前屈みになって、たまに瞬きをする以外、動かない。

 無理したり、ストレスに感じることが森の中ではないんだ。普段はずっと仕事以外の時間でも頭の中で色々考え続けているけれど、ここではそういう一切が止まるんだ。

 そう言っていたことを、思い出す。

 きっと話しかけたりしないほうがいいと、そんな様子を見ていて思った。二人だけれど一人になれる時間が今、ここでは必要なんだよね、きっと。何となく分かる気がする。

 日々を忙しく、目まぐるしく過ごしていれば、自分がすり減ってくることもあるのかもしれない。いつも忙しくてそれなのにどんなことにも手を抜きたがらないから、見ていて心配することもしょっちゅうだけれど、こうやってリセットする時間をちゃんと持っているなら大丈夫なんだろう。そんなことを思う。

「蚊取り線香、煙たくない?」

「大丈夫、刺されるよりましだから」私が笑うと聡も笑った。

 おめえ、昔から一人遊びが好きな奴だからな。でも少しは愛情注いで構ってやれ。首のやつは不安だ、っていう無言のサインなのかもしれんぞ、あまり責めてやるな。

 おじさんの言った言葉も焚き火を見ながら思い出す。

 そうなのかもしれない。愛情は分かりにくいって、思われてるのかもしれない。聡はシンプルに想いを行動に現してくれるから分かりやすくて、まあ分かりやす過ぎて、いつの間にか防戦一方になっているけれど、聡からすると、嫌われているのかと思われる行動をとっているのかも。

 でも私も擦り寄って行ったら目も当てられない位の、イチャついた彼氏彼女になりそうで、それはそれで、どうなんだろう。そういうのは、振り切ってみるべきなのかな。家の中なら、まあいいのかもしれない。ちょっと恐ろしいけれど。

「綾乃、さっきからぐるぐるしてて面白いな」
 はっ、と我に返ると、聡は私を、悪戯っ子のような顔で見ていた。

「ぐ、グルグルって、してた?」ちょっとバツが悪くて、目を逸らす。

「してたよ。綾乃は何か思い悩むと、フクロウみたいに首が動くんだ。こうやって」聡は、私の物真似をしてみせた。
「え、あ、そんな恥ずかしいことしてるの?」
「してる。まだまだ綾乃のサインは色々あるけれど、聞きたい?」
「い、いいっ。恥ずかしいし!」
 まだまだあるって、そんなこと沢山しているの?聡は、あはは、と笑った。

「分かりやすくて、見ていて飽きないな。 何を悩んでいたの?」
 頬は熱いのに、そう聞かれて更に熱く熱くなった。
「聡のこと、かな」
 恥ずかしくて目は合わせられなかった。何時もなら何でもない、って突っぱねる自分がいる。でも、少しだけ素直になって、言ってみてもいいのかもしれない。
「首のこと?」
 そう言われて、思わずさっきトイレで苦労して確認したキスマークを、掌で隠した。耳の後ろ、髪に隠れていて分かりにくかったけれど、薄いピンク色のが本当にあった。おじさん、よく見つけたよね。そして聡は本当に勘がいいね。こうやって堂々と言ってのける、その豪胆さは何処から来るんだろ。やっぱりこのひとドSかも……。
「どうして付けた、って聞かないの」
「じゃあ、どうして付けたの」バチリ、と大きく炎が鳴った。

「沢山ありすぎて、一言じゃ言えないな。でも強いて言えば好きだから」
 どうしてこのひとは、こういう爆弾みたいなものを落とすんだろう。悪戯っ子みたいに笑った聡の顔を見られない。

「あれ、怒らないな。何時もならムキーって怒っているのに」
「どう反応していいか、わからないだけなの」
「勢いもないし、疲れた?」
「昼寝したから、大丈夫」
「綾乃のおじさんに、何か言われた?」

 聡を見ると、少しだけ微笑んでこちらを伺っているのが、焚き火のゆらゆらとしたオレンジ色に照らし出されていた。さっき、おじさんと一緒にいて、振り返った時と同じ顔。

「もっと愛情を注いで構え、って。そうされるのは不安だって言う、無言のサインじゃないかって」
「そうか」
「愛情表現苦手、とか言ってる場合じゃないなぁ、ってそう思って」


「俺は綾乃のおばさんから、釘刺されたけれどね」
 その声に惹かれて見ると、聡は前屈みになって頬杖をつきながら、焚き火をじっと見ていた。
「なんて、ごめん、失礼なこと言わなかった?」
「いや、その通りだったから別に構わない。そう言いたくて来たんだな、って分かったから」
「なんて、言って行ったの」
「あまり栄養多く与えなくても、綾乃は元気でいるから心配するな、って」
「え?」
「構い過ぎると途端に弱るから、少し放っておいても大丈夫だから、だってさ」
「おーばーさんめー」
「家族みんなで仲が良くて、お互いを支えあっていて、ここぞ、と言う時にはみんなでやってくるんだな。綾乃のところの家族は、そんな感じでいいな」

 キャンプ用の椅子と蚊取り線香を持って、聡の隣へ移動して座る。
 なんだか顔を合わせているよりも、横に並んでいた方がいいような気がした。
 本心をあまり見せない聡が、今洩らした、『本音』
 今、見逃さない方がいいような気がして。でもしつこく探るようなことは、したくはない。

 私に本音の話をしたい、ってそう思える立場になれなければ、一緒にこれから歩いて行くことにはならない。
 強引過ぎるほどのスキンシップで、何かを吐き出そうとしているのは、分かっている。
 でも、そうじゃなくて辛い時には、辛いって言ってもらえる方がいい。
 そう、なれるかな。そう、なりたいな。

「うちもそうだけれど、兄弟の数が多くって、何時も大騒ぎだけれど、そんな感じが好き?」
「まあ、賑やかなのはいいね。そういうのは好きだよ」
「そうなんだ」
「そういう家族に憧れるよ。賑やかで、お互いを思いやる」
「それが聡の理想?」
「綾乃のおじさんのところは、きっと家族それぞれにちゃんと役割があって、阿吽の呼吸でそれをしているんだ、って見ていて思った。信頼関係がなければ、出来ないことだ、ってね」
「そう、かな。おじさんが、がははって笑っていて、おばさんがおじさんの耳たぶつねり上げてるイメージしかないけれど」
「綾乃のうちも、そんな感じだよな」
「えっ、あ、そうかも。似てるよ」

 ぱちり、ぱちりとたまに鳴る焚き火を見ながら、話していた。何時もより少しだけ本音が染み出た話をしてくれる聡と。

「マシュマロ、焼くか」
 聡は椅子の側に置いてあったバックから、私が買って来たマシュマロを取り出した。あと塩味のする、丸いクラッカーも。
「マシュマロを焼くの、焦げないの?」
 ステンレスの串に幾つかマシュマロを刺すと、聡は立ち上がって私を手招きした。
「焦げないようにクルクル回して。すぐ焦げるから」
 近づくと笑いながら、聡は私にマシュマロが刺さった串を渡した。

 火にかざすとマシュマロはたちまち茶色に色を変えて、慌てて回した。少し回したところで聡は頂戴、と手を伸ばしてきて、慣れた手つきでクラッカーにマシュマロをサンドすると、それを私の掌に載せた。

「あ、あっつい、でも、美味しい」
 半分溶けて香ばしい焦げ目のマシュマロは、とろりとした甘さで優しい味。聡も一口食べてから、もうすっかり暗い木立を見ながら言った。
「これ、死んだ父親が何時も庭でバーベキューした後に、必ず作ってくれて姉と競って食べてた。懐かしいよ」
「お父さん、って」
「ああ、言ってなかったっけ。本当の父親は事故で亡くなっているんだ。今の父は母が日本に帰って来てから再就職した職場で出会った人で、とってもいい人だけれど」
「そう、なんだ」
「綾乃にも食べさせたかったんだ。冬にも暖炉で焼いたりしたな。焦げ目だけ剥がしてまた焼いて、ひとつのマシュマロでどれだけ焦げ目を作れるか実験したりしてた」少しだけ黙って、もう一度マシュマロを串に刺した聡は、また火にかざすとそれを回し始めた。
「教えてくれて、ありがとう」
 それしか言えなかった。でも知ることが出来て良かった。そうも思った。きっと今日はもうこれ以上は話さないような気がする。なんとなくだけれど。
「もうひとつ食べる?」
 はい、と差し出してきたマシュマロサンドを受け取った。口に中に入れるとほろ苦い味がする。
「美味しいね、これ」私が笑うと、聡も笑った。

「今日はいい天気だったから、星が綺麗だな」
 また椅子に並んで座って焚き火をぼんやり眺めていたら、聡は何気なく空を仰いだ。
「そうだね、天の河も、春と夏の大三角もくっきり出ているし」
「えっ、そんなのも知ってるの?」聡はびっくりした顔をしている。
「うーんキャンプで教わったよ。みんなでね、こういう芝生に寝転んで星座盤持たされて、あれはこと座のベガで~とか懐中電灯で空を照らして教えてもらったんだけれど、川下りとか昼間やってるから皆、寝ちゃうの」あはは、と聡は笑う。
「どれがこと座のベガ?」いつの間にか、手を繋いでいた。
「あれ、ベガは織姫様で、あっちに光っているのが、わし座のアルタイルで彦星様」
「天の河に阻まれてるんだ。年に一度しか会えないんだっけ」
「そう。離れ離れなの」
「春の大三角は?」
「あれが乙女座のスピカだった筈。あとは、うーんと、なんだっけ」
「いや、それだけ知っていれば充分だよ。今度は星座盤を買って持ってこようか」
「うん」
 乙女座のスピカは、青白い明るい輝きで綺麗だった。こうやって、焚火しながら星空を眺めてとりとめのないことと、ほんの少しの大切なことを話せるのは、贅沢な時間なんだって、本当にそう思えた。
 聡が強引にでも連れてこようとした理由。それがよく分かったような気がする。

 聡が火の始末をして、交代で洗面スペースに行って、テントに戻ると聡はいなかった。
 まあ、いっか。そんなことを思ってテントを開けると、一足先に戻っていたらしい聡は、もうあの赤い布団に入って、自分の腕を枕にして眠っていた。
 待ち受けていたのに、眠気に勝てなかった、って感じの様子に、ちょっと顔がにやけてしまう。
 今日は朝早かったしね。疲れたよね。昨日は残業しているし、今朝は私より早起きして大半運転して。疲れたよね。
 明かりを消して、同じ布団に入って聡の顔を眺めた。テントの中は月明かりがあるせいか、ぼんやりと明るくて。そういえば寝顔ってあまり見たことがない。何時も私の方が寝つきが良くて先に寝てしまうから。朝は聡の方が起きるの早いし。
 意外に顔小さいなぁ、とかまつげ長いなぁ、とか規則正しい寝息を繰り返す聡を見ながら思う。
 柔らかい栗色の髪をそっと撫ぜると、ちょっとだけ唇がむにむに動いて面白い。
 寝顔、見れたなぁ。今日は聡の見たことがない顔を、沢山見たような気がする。また家に帰ったら、ずっとニコニコした顔に戻ってしまうのかな。それは何だか惜しいなぁ。

 信念が強くて、本心を見せないひとが、少しだけ素直になれる場所。

 私がそう、なれたらいい。まだまだだけれど。

 そんなことを思いながら、聡の髪を撫でているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

***

 目が覚めたらテントの中はもう明るかった。いつも通り聡は隣にいない。置いていかれたような、ちょっとした淋しさを繰り返し味わっている。
 少しだけ寒さを感じて、ジャケットをもそもそと着て、そっとテントを開けた。昨日の夜はそれなりに暖かかったけれど、やっぱり早朝は寒い。テントの外は、霧がかかっていた。

「おはよう、良く眠れた?」
 聡はキャンプ用の椅子に座って、マグカップを持ってにこ、と笑いながら私に聞く。
「おはよ、大丈夫だったよ 。よく眠れたと思う」
「コーヒー飲む?」
「うん、ありがとう」
 もう火は起こしていたらしく、小さなポットは焚火台の上に置かれていた。聡はそこから、ステンレスのマグカップにコーヒーを注いで、そっと差し出してきた。

 もう一度お礼を言って、コーヒーを受け取り、空いていた椅子に座った。

「今日は早目に帰ろうか、後片付けもあるしね」
 マグカップに口をつけながら、聡は呟く。
「早目、って。いいの?」
 聡の顔を見ると、視線は遠い、遥かに遠い所を見ていた。
「いいんだ、あまり長く居ると、離れたくなくなる」
 静かに、吐き出すように言われたその言葉に、心は掻き毟られるような気持ちになる。逃したくはなくて、でも、私はこんな時に上手く気持ちを、表現出来ない。
「そ、う」
「朝飯は残り物を片付けようか、食べてしまわないとね」
 そう言った聡の顔は、もうすでに何時もの、ニコニコした顔だった。

 霧が晴れたから、テントを外して広げて干す。使った道具を聡は丁寧に拭いて、元入れてあった場所へ、正確に戻していく。
「今のうちに手入れしておくと、帰ってから楽だしね。片付けやっちゃおう」
「もうちょっと、いてもいいよ。聡、ここにいた方が、楽しそうだった」
 カトラリーを拭きながら言うと、ニコッと笑った聡は、首を横に振った。
「あんなに嫌がっていたのに、楽しかった。キャンプ」
「うん、思っていたより」
「そうか、それならいいんだ。また来よう」
 もう気持ちは、切り替わってしまったのかな。もっと怒ったり、悪戯っ子のような顔を、見たかったなぁ。どうしたらいいんだろう。
 欲、みたいなものが、出てきた気がする。もっと、もう少し、本当の聡の顔を見たい。

「今日は、何処かに食べに出る?」
「簡単なもので良かったら、作るよ、私」
 あっという間に荷物を積んで、聡のマンションまで帰ってきてしまった。地下の駐車場から入ることの出来る、トランクルームに車を横付けして、荷物をそのまま二人で仕舞っていく。
「いいよ、日帰りの天然温泉に行ってみよう。さっき調べたら、食事も出来るみたいだから、そこで済ませてあとはのんびりしよう」そう言って聡は笑った。
「えっ、いいの?」
「日帰り温泉、好きでしょ」
「うん、好き。嬉しいっ」そう言うと聡は、少しだけ笑った。

 夕方の日帰り温泉は、それなりにお客さんがいるものの、空いていた。
 露天風呂に入りながら、考える。

 おめえ、昔から一人遊びが好きな奴だからな。でも少しは愛情注いで構ってやれ。首のやつは不安だ、っていう無言のサインなのかもしれんぞ、あまり責めてやるな。

 思いつくことは、なんていうか、稚拙な方法だけれど。でも、もう、愛情表現が苦手、何て言っている場合じゃない。足りないと思われているのなら、出来る限りのことは、したい。


「疲れたね、さすがに」
 家へ戻ると、そう言いながら、聡は静かにソファーへ座った。どうしよう。したことの無いことをするのは、こんなにも胸が痛いことだったかな。どう、思われるのか、分からない。
 でも、愛情が分かりにくいと、思われているとしたら。聡はあのピンク色の印で、訴え掛けてきていた。それなら、出来るだけ、思いつくだけのことでも、してみたい。
「お、じゃま、しますっ」
 聡の膝の隙間に、横向きに入り込んで、腕の中にすっぽりと収まる形になった。
「どうしたの、綾乃」
 見上げるとビックリした表情で、聡は私を見ている。その視線に、頬は、赤く、熱く、なる。
「ちょっとだけ、甘えて、みたの」
 やっぱり、恥ずかしさが先に立つ。それでも、身をそっと、聡の胸へ埋めた。
「…………綾乃」抱き締める腕の力は、強まった。
「聡のこと、すきって、思ってる、から」顔から火が出そう。恥ずかしくて。
 そっと聡の顔を伺うと、何時もよりずっと、ずっと優しい顔と、ハチミツ色のとろり、と蕩けた目は、私を見つめていた。
 するりと、聡から綺麗な発言の言葉が聞こえた。そのまま上を向くように促されて、優しくて啄ばむようなキスが降りてくる。とっても、愛しているよ。そう言われたんだって、キスをしながら理解して、更に顔は熱く、赤くなった。
 ごく、ごくたまに、聡は独り言で英語を話す。でも、こんなに、自然に、語り掛けられたのは、初めて。
 聡は私の頭に頬を寄せて、そっと片手で頭を撫で続けている。その優しい仕草に、胸が高鳴る。何時も、ベットの上で、組み敷かれている時よりも、ずっと、ずっと、甘い。
「だい、すき」
 子どものような、拙い、そんな甘え方しか、思いつかない。もっと、都会的で、素敵な女性だったら。スマートに、出来るのかもしれない。でも、田舎育ちの、愛情表現下手の、私の、精一杯。
 聡はすりすりと、頬を私の頭に摺り寄せ、また柔らかな声で囁いた。その言葉の意味は、大まかにしか分からない。でも、優しい、優しい声音に身体は、繋がり受け入れるところは、潤んで蕩けだした。
 こんなに早く、その感覚が来るなんて。胸は疼いて、摺り寄せ続ける聡を見上げて、なんとか頬に口付ける。
「綾乃、可愛くて、食べちゃいたい」
 ふっ、と聡は笑うと、深い、優しいキスが降ってきた。ぞくぞくするような、柔らかな舌を絡ませた、そんなキスに応えたくて、私も舌を絡ませて。ぎこちない舌に、滑らかに動く舌が絡めとっていく。
 身体から抜けるように、甘い、意味の無い声は、聡へ向け、出て行く。
 すき、すきなの。
 言葉にして伝え出したら、そのことで、胸は一杯になった。聡が、すき。
「抱きたいな。ベットへ行って、いい?」
 唇を離されて、鼻と鼻を摺り寄せて、煌めくハチミツ色の目の主に、そう問われた。
 そんな言葉にも、胸はきゅう、と締め付けられて。小さく何度も頷いた。

 抱き上げられて、仄かな灯りがともる、部屋のベットに降ろされて。何時もなら、すぐに組み敷かれてしまう。でも今日は。
 少し身を起こして、聡のシャツのボタンに、手を掛けた。ぎこちない私からのキスに、少し戸惑った聡は、それでも手慣れた手つきで、私の素肌に触れてきた。舌を絡ませながら、脱がせあって。何も身に纏わなくなるまで。
「聡、そのままで、いて」
 そう言うと顔を、もう硬く立ち上がった、それに近づける。
「あやのっ、つ!」
 躊躇う気持ちはある。でも、気持ち良くしたい。そっと掬うように触れると、舌を這わせた。
「……っつ、やめて、あやのっ」
 知っている知識を、懸命に思い出す。たどたどしくて、あまり気持ち良くは無いかも。聡はぎこちなく、私の頭に触れる。上目遣いに見ると、聡は息を止めた。
 反応がいい所を繰り返し、繰り返し、慣れない手つきで触れる。口の中に入れて、いっぱいいっぱいになって、それでも舌を這わせた。
「も、いい、いい、から」
 でも、止めたくない。し続けている内に、緩むように、聡と繋がりたがっている所は、潤んでいく。触れているのは、私なのに。

「あやのっ、も、いい、やめ、」
 頭をぎこちなく触れる、聡の手の力は、ぐっ、と強まった。
 でも、それでも、気持ち良く、したい。
「……っつ!」
 いきなり、何度かぐっ、と口の中に押し込まれ、驚く暇も無く、吐き出された。
「ーーーー!」
「綾乃っ、吐き出せ!」
 にがい、にがいけど。聡は腰を引いて、両手をお椀のように差し出してきた。でも、でも。
「に、が」
「飲んだのっ?」
 素早く水を渡されて、飲むように促された。口の中が、洗い流され、ふぅ、とため息をつくと、あっという間に両腕を掴まれ、ベットへ身体は沈められた。

「誰に、教わった」

 怒っている聡の声と、真剣なハチミツ色の目。捉えられて、離れない。

「え、あ、あの」

「誰に教わったんだ!」

 怒っているその声に、身体は震え出した。嫌だったんだ。どうしよう、間違えたの?涙が盛り上がる気配がして、それでも小さな声で、答えた。
「……あんあん」
「…………え?」
「だっ、だから、あんあん」
 聡の頬はさっ、と朱色に変わって、目線は横向きに逸らされて。
「初めて……だった。もしかして」
「う、ん」
「………ごめん、誤解、した。……って、言うか、嫉妬した」
「え?」
「上手かったから、もしかして、と思った」
「もしかして、って」
「そういうこと、元カレとしてたのか、とか」
 聡は、目が合わない。嫉妬、嫉妬って。
「私、聡だから、したの。気持ちよく、なって、欲しくって」語尾は震えた。
「ごめん、本当に、ごめんな」
 ぎゅう、と抱き締められて、そっとおでこに口付けを落とされた。

 聡はずっと、私を黙って抱き締めていた。何時もは素肌を見せてしまったら、そこから何度も、何度も苦しい程に触れて、高められて、長いとき、快楽で塗りつぶす。なのに、そっと抱き締められて、たまにキスを落とされて、触れ合う肌と肌は心地いい。
「甘えられるのは、嬉しいよ。でも、アレは、しなくていい」
「どう、して、嫌だった?」
「………破壊力、抜群だから、心臓が壊れる」
 それって、良かったのか、悪かったのか、わからない。見上げるとちょっと拗ねたような表情の聡は、私の視線に気がついて、すぐに顎でぐりぐりしてきた。
「いたた、いたい、痛いよ、聡」
「どうしてこんなに、可愛いんだろうな。どうして?」
「……聡だけだよ。そんなこと言うの」
「誰かが言ってきたら、即、追い払うけれどね」
 そう言うと尚も、顎で頭をぐりぐりしてくる。もう、やめてよう、って言うと嬉しそうに頬ずりされた。
「綾乃に、触れて、いい?」
 もう、触れているのに、そう思うけれど、そう言う意味じゃないって、甘い声から、分かる。
「聡、だいすき」
 そう言うと、柔らかな唇は私の耳に、始まりの音を響かせた。

 今日の、触れ方は違う。ゆるゆると、優しさは染み込むように触れられる指先から、感じられて嬉しい。
 私も聡の広い背中を、ゆっくりと撫でる。髪も、首筋も。
 緩やかに一度登りつめただけで、聡は中に入り込んできた。抱き起こされて、ぴったりと抱き締められて、滑らかに舌を絡ませた。
 満足感と、安心感が、何時もより強く感じられて、嬉しくて、満たされて。
 奥の奥だけを、ゆるゆると突かれて、小刻みに、弾けるように、声は出ていく。
「さとし、す、きっ」
「………なんて、かわいいこと、言うんだ、殺す気っ」
 切迫詰まったような声の後、ぐん、と突き上げられて、必死に背中へ縋り付く。
 甘くて蕩けそうな感覚は、繋がってしびれるような動きと重なって、ふわふわとした幸福感に、変わっていく。どうしよう、気持ち良くて、おかしくなりそう。
 抱き締められたまま、身体はベットに沈められ、何時もより早く、聡は動きを早めた。胸の中で、とろけるような快楽を、味わい続けて。

 より一層大きな嬌声を上げビクビクと身体は震えて、止まらない。全身が敏感になって、なにもかもが気持ち良くて、繋がっているところは、聡を強く締め付ける感覚が、強くて。
「っ、あやのっ」
 聡は、ぐうっ、と腰を深く突き上げて、きた。でも、感覚は、止まらない。
「あん、あ、ああっ!」
「あやの、大丈夫か、あやの」
「ん、あっ、ああっ」
 急ぐように、聡が私の中から、出て行く。ビクビクと震える身体を、ぎゅう、と抱き締められた。
「ん、んんっ、は、あっ!」
「あやの、可愛い」
 そう囁かれた言葉に、身体はもう一度、大きく震えて、繋がっていた所は、聡を求めてぎゅう、と収縮した。


 次の日、朝の目覚めは何時もよりスッキリだった。身体は軽くて、聡より早く目が覚めた。
「お、はよ」
「おはよー朝ごはん、出来てるよー」
 振り返ると、髪の毛がくしゃくしゃで、ちょっとよれっ、としたTシャツの寝起きの姿。初めて見たよ。
「朝、早いな。まだ六時半、なのに」
 寝起きで頭は回っていないみたい。でも、身体は普通に動くようで、キッチンにいる私にすり寄って来た。
「何時も朝ごはん、作って貰ってるから、早く起きた日は頑張らなきゃ、ね」
 聡を見上げて笑うと、途端にその顔は無表情になった。
「………ええ、つまんないな」
「え、あ、な、なんでぇ?」
「こう、弱ってる綾乃を、ベットに入れておいて、口に入れてやるのが楽しいのに。俺の楽しみ、奪う気?やっぱり何時ものようにしなければ、駄目だな」
「ええっ、や、やだっ、昨日の方が、いいっ」
 そう叫ぶと、聡は悪戯っ子のように、笑った。
「昨日、良かったんだ。そっか、ああいうのが、好き?」
 横向きのまま抱き締められて、囁かれた。頬が、熱くなる。小さく頷くと、聡は頭の上にそっと優しいキスを落とした。

たからさがし

 八月に入ってすぐに私の誕生日が来た。
 もう二十七歳になるのでそんなに嬉しいっていうこともなく、淡々としていたら聡が「綾乃の誕生日には、ご飯を食べにいこうか」と誘ってくれたので、たまたま誕生日は金曜日だったこともあり、県庁駅前で待ち合わせてイタリアンに行くことになった。

 仕事が終わって待ち合わせの駅前には、ピンクの濃淡の組み合わせで作られた可愛らしいダリアの花束を持った聡が待っていて、ニッコリと笑って誕生日おめでとう、と渡された。
 頭から湯気が出るんじゃないか、と思う位恥ずかしかったけれど、イタリアンは美味しかったし、サプライズで花束を貰って嬉しかったのもあって、沢山会話は弾んだ。
 バスに乗って、そのまま一緒に聡の家へ行って、ああ楽しかった、リビングでそう思っていたら聡はこんなことを言い出した。

「綾乃、宝探ししてみない」
「宝探し?」宝探しって、宝探し?
「そう、ルールは簡単だよ。渡された紙に書いてある場所へ行って、次の紙を見つける。それをどんどん繰り返して最後に宝を見つける。どう」聡はニコニコしているけれど。
「うーん、明日じゃ、ダメかなぁ」正直もうお風呂に入って、まったりしたいよ。
「今日だからこそ意味があるんだ。はい、これ」有無を言わさずカードを渡されちゃった……。
 うーん、面倒だけど………。聡をちらり、と見るとニコニコしながらも何かの圧力をヒシヒシと感じるよ……。うう、何なの。

 仕方がなくカードを見るとそこには丁寧な文字で、こう書いてあった。

 ・・
 ほんだなにあるのは本、では靴箱にあるものは?

 はぁ、こういうこと。上目遣いで見上げると、聡はうんうん頷いている。
「少し考えたら分かることしか書いていないから、安心して行ってきて」
 ええっ、やっぱり行くの。じーっと見ていたら聡は最上級にオソロシイ笑顔を繰り出して来た。オソロシイ、オソロシイデス!
「……はい」負けた私は渋々動きだした。

 ひとつ目のカードを読んで、玄関へやって来た。うーんやってきたはおかしいかも。まあ行った。幾ら彼氏でもその人の家の靴箱は開けたくないなぁ、そう思っていたら、私のお出掛け用のヒール高めの靴の上にカードが置いてあった。なんだ、よかった。でもいつの間に。そっとカードを拾う。

 ・
 ももいろの麒麟が見ています。

 そうカードには書かれていた。ももいろの麒麟……ああ、洗面所に置いてある小さなピンクのキリンのこと。
 聡の上司の小さなお嬢さんから外国のお土産で頂いたらしいキリンは、他のよく分からないけど素敵な置物と共に、洗面所の小さなスペースに並べられていた。
 キリン、キリン、そう思いながら、洗面所のドアを開ける。
 お目当てのキリンは……いたけれど、カードはない。
「あれぇ」
 キリンって書いてあったのに。もう一度カードを見返すと見ています、が目に入ってきた。ああ、そういうこと。横向きのキリンの向いている視線をたどると、小さな白い封筒が置かれていた。

 ・
 のり巻きを作ります。綾乃が作る海苔巻きは美味しい。

 海苔巻き………ああ!
 そうだ、一時期私は海苔巻きにはまっていて、巻き簀も買って色々巻いていた。海苔巻きは具を変えるだけで様々な味を楽しめるから好き。聡にもこの家に巻き簀を持ち込んで何度か作ったっけ。
 美味しい、なんて嬉しいな。ちよっと顔がにやける、単純だよね、私。
 リビングに入ってちらり、と見るとソファーに座った聡と目が合った。
 そのままキッチンへ行って、システムキッチンの細長い引き出しを開ける。
 巻き簀に封筒が包まれていて、開けるとカードと小さなキャンディーが入っていた。

 ・
 はっぱの緑が眩しい。(ちょっと甘いものでも食べて)

 何の気遣いなんだろう。面白いなぁ。外国製のキャンディーはイチゴ味で、包み紙を開けて口に入れる。甘い甘い味が口の中に拡がって。
 さて、はっぱ……はっぱ、うーん、リビングにある観葉植物かな。それともキッチンのカウンターにあるミニサボテン、かな。
 とりあえず、リビングにある観葉植物のところへ行って色々な方向から見てみるけれど。何もないなぁ。うーん。
「ヒント、欲しい?」聡はソファーでニコニコしている。
「ううん、自分で考える」
 こういうのは自分で考えないと。はっぱ、はっぱ……その時私の頭の中に何かひらめいたものが降りてきた。そういえば。
 トイレへ行ってドアを開けて灯りをつける。丁度座ったら見える真正面にある小さな写真は、額に入れられて飾られている。
 日の光を浴びてキラキラ輝く葉の写真。そこには壁と額の間に挟まれるようにして、カードが刺さっていた。

 ・
 ひろいけれど、シングルでも2人で居れば関係なし。

 これは、ベットだよね。聡の家のベットはまあ広いけどね。ぎゅうと抱えられて眠っているから、まあそうなのかも……たまに金縛りと間違えて飛び起きるけどね。
 聡は私を抱き枕か何かだと思ってるんじゃないのかな……。
 寝室のドアを開けると、ふかふかの枕の上にカードは置いてあった。

 ・
 だりあの花を見てご覧。

「えええっ」ここへ来てこれなの、ダリアって、ダリアって、今日貰った花束?
 凝りすぎだよね、やり過ぎだよね、リビングに戻って聡を見ると、ニコニコした聡はこう言った。
「花束も、あげたかったんだよ」こころを読まれている……
 まあいい、リビングのコーヒーテーブルに置いていた花束を持ち上げて探ると、もっと小さいカードが茎の間に入っていた。

 ・
 りびんぐにいるひとに声を掛けてみよう。(遠慮しないで!)

 ……遠慮、したいな。ちらり、と聡を見ると、ニコニコしながらうんうん頷いている。
 これは、声を掛けろって事だよね。何だか、何が待っているのか分からなくて、怖い。
 でもあんまり待たせると、それもちょっとねぇ。
「あ、の、聡?」
 恐る恐る声を掛けると、聡は立ち上がってこちらへ来た。そして私に両手を拳にして差し出してきた。
「綾乃が探している宝は、このどちらかの手に入っているけれど、さあ、どちらを選ぶ」
「ええっ、ここへ来てそれなの」今までの家の中グルグルは何だったのっ、ねえ!
「どっちにする?」聡はニコニコしているけれど。

「じ、じゃあ、右?」
「本当にそれでいいの?」
「えっ、じ、じゃ、左?」
「答えはカードの中にあるよ。ひとつ目から順に並べてみて」
 えっ、どういうこと。私はコーヒーテーブルにカードを順に並べた。

「各文章の頭の文字に打たれた点を、繋げて読んでみて?」聡が促す。

 ・・
 ほんだなにあるのは本、では靴箱にあるものは?
 ももいろの麒麟が見ています。
 のり巻きを作ります。綾乃が作る海苔巻きは美味しい。
 はっぱの緑が眩しい。(ちょっと甘いものでも食べて)
 ひろいけれど、シングルでも2人で居れば関係なし。
 だりあの花を見てご覧。
 りびんぐにいるひとに声を掛けてみよう。(遠慮しないで!)

「凝りすぎだよ!」
「普通だよ」えええっ、納得は出来ない。でもここで普通じゃないなんて言ったらいつかの二の舞だよね。その辺は学習したよ……
「では、どっち?」聡はふわりと笑った。

「左、でお願いします」開かれた左手には、シンプルなのによく見たら凝ったデザインのシルバーリングが載っていた。キラキラした石が埋めこまれていて。
「誕生日、おめでとう」
 聡は私の手を取ると左手の薬指にするりとシルバーリングを入れて。
「よかった、ピッタリだった」指を見て満足そうだけれども。

「綾乃、どうしたの?」聡は私の顔を覗きこんでくるけれど、ビックリしすぎて声は出ない。

「あ、えっ、何で、指輪?」
「ああ、プロポーズする時にはもっと立派なのをあげるから、今はこれでね」
「え、ええっ、そ、そういうことじゃなぁい。花束も貰ったし、イタリアンもご馳走になったし、お祝いしてもらったよ。充分だよ!」
「今さりげなくプロポーズのことはスルーしたよね」
 ううっ、聡はちょっとご機嫌斜めになった。ううん、かなりご機嫌斜めに、なった。
「え、あ、うう、あ?」
 動揺して目が泳ぐ。そんなの急過ぎる。まだこころの準備ってものがあるでしょーっ言いたいけど、言いたいけど!
 聡は吹きだして、私の頭を撫ぜた。
「分かっているから、今はこれで」
 聡は笑っている。ちょっと自信なさげな、こちらを伺うような笑顔。

「……ありがとう」
 嬉しくないか、と言われたら嬉しい。でもちょっと期待が重いよ!
 これ、どう見ても高いよね。お金、私にかけ過ぎだよね。そしてどうして私の指のサイズを知ってるの。教えたことないよ。そして私こんなことされても、聡の誕生日にサプライズなんて出来ないよ。
 よし、待って、落ち着け私、一つ一つ解決していかなきゃ。

「あの、ちょっと指輪外して見てみてもいいかなぁ、じっくり見てみたくて」えへ、と私は笑う。
「……無くすといけないから、ちゃんとはめておいて」拒否っ、拒否なの?
「あの、裏見たいだけなんだよね……」
 少しだけ面白くなさそうな顔をして、聡はどうぞ、と言ってくれた。

 指輪の裏には、あの、宝飾店での前で朝食を食べちゃうブランドの刻印が押してあって、八、の数字がそのすぐ傍にあった。め、目眩がするよ、これ、絶対高いよ。期待が重いよ。

「あのう、どうして指のサイズ分かったの?」恐る恐る聞いてみる。
「ああ、寝ている間に測ったよ、合っていたよね?」………流石、元ストーカー。やることが怖い。
「あ、ってはいるんだ、けどねぇ」
「綾乃は買ってあげるって店に連れて行っても、断固拒否しそうだったからね。嫌だった?」
「私、聡に素敵なサプライズとか出来ないんだけど……」
「ああ、それは気にしないで。やりたかっただけだから」………ソウデスカ。

 目を逸らした私にちょっと白けたような聡は言った。
「じゃ、こっちもあげる。偽物だけど」右手を差し出してきて、掌に乗せてきたのはキラキラの折り紙で折られた指輪だった。
「可愛いっ、私、こっちがいい!」本物を聡の掌に乗せて、折り紙の指輪を受け取ってはめた。
「こっちがいいって」流石に聡はびっくりしている。私ははめた折り紙の指輪を聡へ示した。

「それは、プロポーズの時に下さい」えへ、と私が笑うと、聡は首を竦めた。

或る日の午後

 何時ものまったりとした土曜日の午後、聡の家で私はソファーに座って女性誌を眺めていた。
 聡は、というと眼鏡を掛け難しい顔をして、パソコンと睨めっこ中だ。今週はどうやら仕事を持ち帰って来ているらしく、頻繁に寝室へスマホを持って居なくなる。微かに聞こえてくる発音は日本語じゃないから、海外とやり取りしているようだ。

 忙しいなら、帰った方がいいかなあ、と聞いたら最上級に恐ろしい笑顔を見せた聡は、一言だけ、絶対うちに居て、と言うと何処かへ居なくなった。
 十五分後に帰ってきたと思ったら、何時も読んでいるのとは違うテイストの女性誌が三冊と、タピオカ入りのミルクティーと、オレンジピールとクランベリーのチョコレートが入ったコンビニの袋を押し付けられた。

 そこまでして、帰って欲しくないの……居て、の一言で良かったのにって思ったけれど、ニコニコしながら頷いているのを見て、ありがとう、これ読んで待っているねと、笑顔を向けてみると、聡はホッとしたようにパソコンの前へ戻って行った。
 いいんだけれど、いいんだけれど、今の十五分を仕事に当てたら、もっと早く終わったんじゃないのかな………いいんだけれど。
 まあ、いいんだ。そういう細かいことを言い出すと、必ず言い合いになってしまって、私は聡からこてんぱんにやり込められる羽目になる。
 綾乃が居た方が仕事ははかどるから、とかそんなことも言い、理詰めと甘ったるい言葉で攻められ、最後にはいつも、もういいよと試合放棄だ。すると甘々になった聡に寝室へ攫われて行くのが大体、お約束になっていた。
 最近は受け入れた方が早い、と余りに高額じゃない物なら有難く頂いて、たまにある高額な物のプレゼントには、ちくちくと言いながらお金の大切さを説いている。ちくちくには後ろめたい聡も弱いらしく、面白くなさそうな顔をしているけれど、そこは譲れないよ。

「聡、コーヒー淹れよっか?」
「んーまあ、今はいいよ。ありがとう」

 あまりに眉間の皺が深いので、気晴らしにならないかな、と提案してみた。でも聡はパソコンから目を離さない。じゃ、ま、いっかーと読んでいた女性誌へ視線を戻した。
 ペラペラとページをめくっていると、『あなたの彼はどっち、草食系男子と肉食系男子の意外な見分け方☆』なんていう心理テストへ行き当たった。読んでいると、草食系、肉食系のみならず簡単なドS、ドM診断もあった。
 ちらっ、と聡を盗み見る。うん、草食系では決してないね。聡は穏やかだけれど、絶対肉食系だよ。草食系はストーカー行為なんてしないもん。
 でも、Sか、Mか、と言われたら、うーんどうだろう。ドSっぽいけれど、こうやって細やかに気を使うのはM?よく分からない。
 簡単なスキンシップで判断出来るらしいので、聡の仕事が終わったらちょっと試してみようっと。
 そう思った私は女性誌のそのページを飛ばして、ずらりとお化粧品が並ぶページをじっくりと読み始めた。


「はあ、やっと終わった。疲れた」
「お疲れさまーコーヒー、いる?」
「うん、じゃ、貰うよ。ありがとう」
 スマホを片手にうんざりした顔をして寝室から出てきた聡は、そんなことを話しながらソファーへ座った。
 入れ替わりにコーヒーを淹れるためにキッチンへ立つ。お湯を沸かしてコーヒープレスとマグカップを温めてから、コーヒーの粉をプレスに二人分入れた。お湯をゆっくり注ぐと、いい香りが立ち上る。
 この間、二人でショッピングセンターへ買い物に行った時に、コーヒーショップの前でこのコーヒープレスで淹れたコーヒーの試飲をやっていて、試しに飲んでみたらあまりの美味しさに聡と目を合わせた。
 同じコーヒー豆をペーパーフィルターで淹れたものと飲み比べもやっていて、全く異なる風味にまたびっくりして、お店のお姉さんは好みがあるので一概には言えませんが、と前置きした上ですっきりとコーヒー本来の味を味わいたいのでしたらこちらはお勧めですよ、と教えてくれた。
 買っていい、買っていいかな、と目線を送ってきた聡に、首をぶんぶん縦に振ったのは初めてのことで、それ以来聡の家でコーヒーを味わうのが楽しみになった。

「はい、どうぞ。熱いよ」
「……ありがとう、はー、なんとかなって良かった」
 マグカップを受け取った聡は、ほっとした顔を見せると、コーヒーを嬉しそうに一口飲んだ。
「もうお仕事はないの」
「うん、もうないな。待たせてごめん、つまらなかったよな」
「雑誌読んでいたから、大丈夫だよ。買ったことのない雑誌ばかりだったから、新鮮だったしね、ありがとう」
「そっか、それならいいんだ」
 そう言うと聡は満足そうに笑った。
「コーヒー、美味しいねぇ」
「豆を変えると、全く違った香りと味わいだもんな。ここまで違うと面白いよ」
「これまでって、コロンビアと、モカと、えーと」
「スペシャルブレンドじゃないかな。綾乃はどれが美味かった?」
「モカかなあ、聡は?」
「モカとスペシャルブレンド、どっちもよかったな、職場にも淹れて持って行きたいけれど、酸化するからね。難しいな」
「淹れたては格別に美味しいもんね」
 そう言って私が笑うと、聡も柔らかい雰囲気で笑った。最近こうやってほんわかとした感じになることは、多くなってきていると思う。そういうのは嬉しいなって、ずっと続けばいいな、って感じる。
「ひとまず今のチャリティープロジェクトの山場は超えたから、週末はもう潰れることはないよ」
「あ、仕事じゃなくてチャリティーだったんだ。道理で」
「まあね、仕事の案件だったら持ち出し禁止だから、家で仕事は無理だしね」
 そうか、そうだよね。よくよく考えたら仕事は職場で、が原則だもんね。
 聡は半分仕事のようなチャリティーを、国内外に住んでいる友人達と組んでやっている。会社も公認で、今はこれから冬を迎える難民に暖かい環境を整えるためには、どうしたらいいか考えていたようだ。
 お金を出すのも勿論チャリティーだけれど、その人が持っている能力をチャリティーに生かす、ということも寄付行為なのだと聡を通じて初めて知った。
 東京で生まれて違う国で育って、物の見方を聡は広く持っている。俺に出来ることしか、やってないけれどね、と聡は笑うけれど、私じゃ何も出来ないだろうって思う。

「綾乃が一人で過ごすのが苦じゃない性格で、助かるよ。でも、忙しくても帰るっていうのは無しで、ね」
「う、ん。仕事なのかな、って思っていたんだよね……」
「そういう気は使わなくていいから、一緒に暮らしていたら、そう思うこともないのにな」
 眼鏡の奥にある聡のハチミツ色の瞳は、拗ねたような不満げな表情だ。聡からのちくちくはいつもコレ。
「うーん、結婚もしていないのに、一緒に暮らすとかは、ちょっと、ねぇ」
「もういいんじゃないかな。お互いを充分知っていると思う。綾乃が居てくれたら、仕事頑張れるんだけれど」
「うーん………」
「まあ、もう少し、待つけれど、さ」
 そう言って聡は引いた。暗に結婚、どう思っている、と意思確認をされることは多くなった。そしてタイムリミットがある、ということも匂わされている。でもそんなに結婚はすんなりと決められること、なのかな。指輪の受け取りをやんわりと断った誕生日から、結婚に関するプレッシャーをひしひしと感じる。

「前向きに検討中、じゃ駄目かなあ」
「綾乃、来て」
 えへ、と笑った私に眼鏡を外して、テーブルに置いた聡は両腕を広げた。うう、イヤナヨカンシカシナイ、イヤナヨカンシカ。
 それでもそっと近づくと、足の間を広げた聡は、ぽんぽんとその空いた隙間のソファーの座面を叩いた。横向きに入り込むと、背中に当たる左膝を立ち膝にして、その両腕に包み込まれた。
 聡は黙っている。怒っているのかな、それとも。表情が見えなくて不安になる。私の髪に埋めるようにしているその呼吸は、深いように思う。

 聡のことは、夫婦になったならとても良いパートナーになってくれる、そうは思っている。
 でも私は、聡について行くことになってしまったら、今の全てを手放さなければいけなくなる。
 仕事のやりがいと、きつさと、その代わりに頂いているお給料と。マイペースに過ごしている生活と。何より生まれ育ったこの地を離れることになる。
 県庁職員の採用試験を受けたのは、生まれ育ったこの地が大好きで、ここに住むひとたちの一助に少しでもなれたら、という気持ちから。
 そんな気持ちを軽々しく放り出せず、でも聡とは一緒に居たいなあとも思っている。
 仕事は春先にある知事選挙の結果次第で、庁舎内の組織は大きく変わることになるかもしれない。
 そうなったら、全く違った仕事になるかもしれないし、忙しくなってしまう可能性だってある。
 働いている以上、中途半端な形で辞めたくはない。そんな自分の想いは、随分前に聡には伝えていた。その後から一緒に暮らしたい、って言われるようになって。
 聡の次の転勤先は東京で、その後は海外だと決まっているらしい。なるようにしかならないのは分かっている。でも不安の方が、大きい。

「聡、あのね、ちゃんと、考えているから、ただ」
「ただ?」
 覗きこんできた無表情の聡に、たじたじになる。うう、こういう威圧感は困るよう。やっぱりドSじゃない。そういえば、簡単に出来るドSチェック、やってみようと思ってたんだっけ。
「ここが、好きだから、離れる覚悟が、なかなか持てなくて」
 目を逸らさず聡へ伝えた。大事なこと、ちゃんと伝えたいこと、受け止めて貰っているから、気持ちを素直に話せる。
「分かっているよ。わかっている」
 そう静かに聡は言うと、私の両足も自分の内腿の中に入れてしまって、抱えるように、すっぽりと包み込むように抱き締めて来た。私達以外は誰もこの部屋にはいないのに、誰の目からも隠すように私の身体は小さく折りたたまれていた。
 このままずっとここに居ることになってしまったなら、どうしよう。そんな想像に囚われる。
「ずっとは待てない。追い込んでいるって分かっている。でも、綾乃はここで結婚式したいよね。それだったら決められる時間は短いよ」
 甘ったるい優しい声で、そう話す聡の言葉に納得できて、こころは揺らぐ。どうしよう、受け入れてしまった方がいいの。でもそれって流されているだけの気もする。
 ちゃんと、ちゃんと考えなきゃ。そう思っているのにどうしたらいいのか分からなくて、オロオロ狼狽えている気分。
「もう少しだけ、考えさせて、お願い」
 上目遣いに聡を見上げると、その目線の先にいる表情は明らかに面白くない、といった様子で、罪悪感に苛まれる。気まずい沈黙が、苦しい。
 いきなり聡はぎゅうと私を抱き締めると、頭の上に顎を乗せて、そのままグリグリし始めた。
「いっ、痛いよう、やめてよう」
「綾乃が見上げてくる顔に俺が弱いの、知っててやってるんでしょ。お仕置きだよ」
「そんなの知らないよう。いっ、痛いっ」
 やっぱりドSだよ、絶対ドSだよ。Mのひとがお仕置きなんて考えにならないもん。チェックするまでもないよ、ドS決定だよ!
「そんな潤んだ目で見上げられたら、弱いんだよ。絶対わざとでしょ」
「いた、いた、痛いっ。聡の方が背が高いんだから、見上げることになっちゃうの!」
「どうだか」
「どうだか、じゃなぁい!」
 そう私が叫ぶと、ぐっ、と顔は仰け反るように仰向けにされた。にこ、と笑い掛けられて、ゆっくりと顔は近づいてくる。反射的に、左手が聡の頬に伸びた。
「なにふんの」
 頬を摘ままれた聡は、冷たい目線でじっくり見て来て、低い声を出した。
「おっ、怒っているのっ」
 本当はドSチェックにあった相手を軽く抓ってその反応を見る、っていうのを反射的にやってしまったんだけれど、この反応は、この反応は!ぞわりと悪寒がして身体中の鳥肌がざっ、と立った気がした。
「綾乃は、可愛いなあ」
 あ、押した。絶対ドSスイッチ押した。最近ずっと穏やかで無かったから忘れかけていたけれど、そうだった。やっぱりドSだった。ちらっ、と時計を見ると、まだ三時半だ。一気に冷や汗が背中を伝い、目に涙がじわじわと盛り上がる。そんな私の顔を見て、にこーっとしていた聡は、ちょっと曇り顏になって、仕方なさそうに言った。
「だから、その顔に弱いんだって、抱っこして行こうと思ったのに、出来ないよ」
「優しいのが、いい」
「……最近、分かっててやってるよね。綾乃は」
 むぎゅーと頬を摘まれて伸ばされた。私はそんなにきつく抓っていないのに、聡はコレ、絶対倍返ししてる。あの雑誌によると、Sは抓られても目を逸らさず、非難の言葉を上げるらしい。更にやり返してくるのはドS、なんだとか。当てはまってるよ、当てはまり過ぎだよ。
「私をいじめて楽しいの?」
「いじめてないよ、むしろ苛められているのは俺だよ」
 そうかなあ、ため息と共に言った聡の言葉に、全然納得はできないけれど。
 見上げるとおでことおでこをそっ、と合わせるように聡は覗きこんできた。
「もう少し、待つから。今は仲直り、しよう」
 その言葉に頬は柔らかく緩む。瞼や頬に柔らかに触れられて、やがてやって来た濃い口付けにやっぱりこころは揺れた。

経由

「綾乃、成華園ってどんな所か、知っている?」
 夏の暑さもすっかり過ぎて、朝晩が涼しくなったある日の土曜日の午後、久しぶりに外でランチをした帰り道に、手を繋いだまま聡は私を見下ろしながら尋ねた。
「西63番のバスにある、成華園経由っていうあの成華園、だよね」
「そう、気になっていたんだよ。でもここから先のバス停には、そんな名前の停留所はないしね」
 そう言いながら顔を真っ直ぐ前に向けた聡は、直線でどこ迄でも続きそうな駅前通りを見つめた。
 つられて私も目の前の真っ直ぐな道を見つめる。秋色に高くなりつつある空の下、爽やかになった風に揺れる街路樹が続いている駅前通りの二車線は、何時もより空いているように思える。穏やかな昼下がりだった。
「そう言われたら、そうだよね。成華園って、何だろう」
 そんなことを考えたことは、無かった。毎日同じ繰り返しで聞いている、バス内の音声案内で諳んじることが出来るくらいのその言葉の意味を、存在を、どんなものなのかなんて思いもしなかった。
 聡は、たまにこうやって色々なことをひっくり返す。大きい、小さいはあるけれど、言われてみたら、それはどうしてなんだろう、と考えさせられる。
 そんなバランス感覚にも似た柔らかさは、何処から出てくるのかなあ。考え込んでいるような横顔をゆっくりと見上げた。
「探しに行ってみない、散歩しながら」
「えっ、探しに行くの」
「そう、濃い目のフレンチで腹一杯だから、腹ごなししながら」
「うん、いいよ」
 まあ、これから聡の家へ戻っても、ソファーの上でまったりする位だし、爽やかないい天気だもん。ここから大した距離でもないだろうし。
 了承すると聡は、こちらを見て滑らかな発音で、let's goと笑いながら呟いた。

「まずは検索してみよう。でないと無闇に彷徨うことになる」
 道端で繋いでいた手を離すと、聡はポケットからスマホを取り出した。一画面にすぐ出てきたシンプルな検索エンジンを、寄り添いながら眺める。
 地名と成華園、で検索してみると、あっさりと謎は解けた。
「庭園、なんだ。小さいけれど」
「別名に夢想庵庭園、ってあるね。お茶室があるって書いてあるよ」
「入場無料の公園なんだ。知っていた?」
「ううん、初めて知ったよ」
 成華園の住所はここから二つ目の停留所を少し過ぎた辺りの、すぐ左手にあるようだ。それ位なら、少し長い散歩になる程度だね。すぐ側にいる聡の顔を見ると、同じタイミングで笑顔になっているその視線とかち合った。
「散歩しながら、のんびり行こう」
「うん」
 頷いた私に、聡は左手を差し出して来た。そっとその手を取ると、同じ歩幅で歩き出す。
 近頃ふとした時に思うのだけれど、こちらに気付かせない位のエスコートがこのひとは上手だと、最近になってようやく感じるようになった。一緒に居るとお店の扉を、私は開けたことがない。それから手を繋ぐことで、さりげなく車道側を歩いている。以前は気にも掛けていなかったこと。でも私はこのひとを良く見つめるようになった。

「そういえば、洗面所のお土産、増えていたんだね。課長さんのお嬢さんは、今回何処に行ってきたの」
「シンガポール、だったかな。学校の友達が親御さんの転勤でそっちに行って、夏休みを利用して会ってきたらしいよ」
「そうなんだ。あれって、魚、なの」
「いや、あれでマーライオンらしいよ。座っているけれどね」
 そう言って聡は微笑んだ。私には小さな可愛らしい恋敵がいる。会ったことはないけれど中々積極的な恋敵は、お小遣いで旅先から聡へお土産を運んできてくれているようだ。
 それらは聡の家の洗面所の細い棚の上に、整然と並べられている。銀色の小さなエッフェル塔、ミニサイズのマトリョーシカ、桃色の麒麟、ダイアモンドヘッドに雪が降るスノードーム。そして木製のお座りしているマーライオンが増えた。
「お嬢さんは聡のこと、大好きなんだねぇ」
「話しやすいらしいけれど、それはどうだろうね」
「でも、毎回お土産をくれて、聡のこと忘れていないよ」
「……んーもしかして、ヤキモチ?」
「……うん、そうかも」
 笑って答えると、聡はとても嬉しそうな顔になる。本当はそんなことを、少しも思ってはいない。でも、そう言うと聡はとても喜んでいるから。
「綾乃に好かれていれば、それがいいよ」
 そう言って聡は歩きながら覗き込んでくる。返事はせずに笑って見上げると、その先にある表情は少しだけ曇った。

「聡、この奥にパン屋さんって書いてある」
 停留所を一つ過ぎて、それでも幅の広い歩道を手を繋いで歩いていると、小さなイーゼル型の看板が通りに出ている。ビルとビルとの間には細い路地があって、奥には手入れされた古民家が見えた。
「本当だ、低温長時間発酵のパンなんだ。フィグとかくるみとか、綾乃が好きそうなハード系が多いよ」
 看板にぶら下がっていたメニューを開いた聡は、私の方へ示す。二人でメニューを覗きこんだ。バスで毎日通勤しているのに、ここにパン屋さんがあるなんてまるで気がつかなかった。
「美味しそう、買って帰って明日の朝御飯にどうかなあ」
「いいね、じゃあ、帰りに寄ろう」
「……そうだね、じゃあ、帰りに」
 見上げた先にいるその表情は冴えなくて、何かを失敗したのかな、と思う。
「綾乃」
「何」
「どうした、疲れたの」
「ううん、元気だよ。どうして」
「そうかな、最近元気がないよ。何か悩み事なのか」
 知っているのに、あえて聞いてきているのかな。答えの中々出ないこと、なのに少しずつ追い詰められている。ただ一方の答えに向けて。段々縛られて行っている、ような。
「大丈夫、だから。そんなに心配しないで」
 優しく、限りなく優しさを心掛けて言ったつもりだった。でも、目の前のひとの表情は、更に曇った。
 なにかを、間違えた?
 どうしよう、どうしよう。
「季節の変わり目で、少しだけ身体がついていっていないのかも」
「……そうか、最近朝晩は寒いしな。うちに来たら、寒く感じることはある?」
「うちのアパートよりも暖かいから、大丈夫だよ。建物もしっかりしているしね」
 そう言うと聡は少しだけ笑った。何かを含んだ、笑い。
「綾乃が風邪を引いたら、心配で堪らなくなるよ。暖かい家にいたら、安心できるんだけれどな」
 優しくて、甘くて、誘われるような声でそう言われて、身体は強張った。ああ、やっぱり。
 なんて答えたらいいのか、分からない。何か、答えなきゃ、何か。
「……心配性、だね」
「そうかな、当たり前だよ」
 何かを分かっていて聡は、私の逃げ道を作っている。でもすっかり掌の上に乗せられている。
「心配、したいんだ」
 そう言って、聡は笑う。小さく頷いて返事は、しなかった。

 無言のまま手を引かれて歩くと、どんどん不安ばかりが増して行く。どうして受け入れられないんだろう。結婚、そのことを匂わされてこころでは、きっといい夫に、父親になってくれるひと、そう思っている、なのに身体はカチカチに固まって、避けるような答えが口から出て行く。
 逆らいたいの、まさか、そんな。
 でも。
 歩き続けて低めのヒールの靴は、軋んできたようにも思える。歩く度に。身体の中に。


「ああ、ここから入るんだ。この林はバスの中からも見えるよね」
「うん、見たこと、ある」
 駅前通りから細い道に入ると、暗い木立に囲まれた石畳の道が現れた。ひんやりとした空気を感じて、思わず繋いでいた手を握りしめた。
「この道、滑りそうだ。気をつけて」
 うん、と頷くと聡は繋いでいた手を離して、腕を組めるよう差し出して来た。困って見上げると、ニコと優しい微笑みを向けられる。
「捕まって、危ないから」
「……大丈夫、一人で歩けるよ」
「転んだら、危ないよ」
「大丈夫」
 そう言い切って石畳の道を進んだ。後ろを振り返る勇気は出ないまま。

 立派な瓦屋根に、真白な障子が美しくも古めかしい建物は、誰も居ないようだった。鴉が何処かで惚けた声で繰り返し、鳴いている。散策路の石畳は縁側の横を抜け、水音を響かせている日本庭園まで続いていた。
「日本の庭、だね。小さいけれど」
「うん、綺麗」
 緑が美しく、手入れが行き届いている庭園の奥には石灯籠が置かれていて、池と更に奥に東屋が眺められた。暗い木立は、枝葉をそよがせもせずに、ただそこに佇んでいた。
「静かだな。ここに居たら寂しくなる」
 そうポツリと呟いた聡を見上げた。
「森は好きなのに、こういう所は駄目なの?」
「森は意外と賑やかだよ、何て言うか、違う感じがする」
 そう言って聡は黙った。もっとそんな話が聞きたい、そう思うのに踏み込むといつも柔らかく話は逸らされた。まるで、自分の弱い所は見せないと、決めているかのようにいつも笑っているけれど、ごくたまにふっ、と出てくるものを私は捕まえたくて躍起になった。でも、捕まえようとすると、それは消えてしまう。
「違う感じ」
「うん、上手く言葉には出来ない」
「そうなの、でも、知りたい、な」
「行こうか、綾乃」やっぱり、消えてしまう。笑っているだろう聡を見上げることは出来ない。

「緩やかに下りだから、はい」
「大丈夫」
「綾乃、言うことを聞いて」
 また差し出された腕を、ほんの少し掴んだ。渋々と、何だかつまらなく思いながら。
「この石畳、結構濡れているからもう少しつかまって。綾乃が転ぶと危ないから」
 そう促されて、かっ、と燃えるような良くない感情から、キツい口調は私の中から出ていく。
「私、ちゃんと歩けるよ。歩ける」
「……どうして、怒っているんだ」
「怒ってなんて、いない。そんなに気を使わないで」
「心配なんだ。怪我したら危ないよ」
「いい、一人で歩ける」
「綾乃」はあ、と溜息の気配を振り切って、歩き出す。八つ当たりみたいになってしまって、いけないと思っていながらも止まらない。
 悲しい気持ちを抱えながら弾むように石畳の道を歩く。どうして悲しいのか、全く分からないままで、それでも歩みを止められない。困らせたい訳じゃない、なのに。
 何も出来ないひとのような扱いを受けているから、なのかとも思ったけれど、そうじゃない。聡は私を気遣ってくれているということは、痛い位に伝わってきていた。なのに。
 歩きながら、何故、何故と自問自答を繰り返して、気を取られていたのが、いけなかった。
「綾乃っ!」
 視界が斜めになって身体が宙に浮いた感覚の後、半身は石畳に叩きつけられた。鈍い痛みと微かな湿り気を感じて、それでも身を起こした。
「怪我は」
「少し、痛いけれど、だいじょう………あ、っ」
 駆け寄って来た聡と目を合わせられず、うつむいたら右足のヒールは根元から綺麗に取れて、転がっているのが見えた。それを聡は拾い上げる。
「捕まって。立ち上がれる?」
 支えられるように立ち上がると、素早く聡は私を縦に抱き上げた。視界が高くなって、震える手を聡の肩に置いて、降ろして、と呟くといきなり歩き出した。ただ無言で。
「お、降ろしてぇ、私、歩けるから」
「………しなくてもいい怪我をした綾乃の言うことは、聞けない」
「やだ、嫌、歩ける」
「大人しくしろ!」初めて唸るように低い声で怒鳴られて、身体はびくりと震えて固まった。聡はずんずん進んでいく。成華園を出て細い道を進み、信号が変わるのを待って反対車線に出ると私を抱き上げたまま、走ってくるタクシーを止めた。
「この先の西田口三丁目のバス停の辺りまで、お願いします」
 先に有無も言わされず乗せられて、ドアが閉まると重い空気の中、タクシーは動き出した。

 マンションの前でタクシーを降りると、また縦抱っこにされてそうして、靴を脱ぐ暇もなくベットに放り出された。
「やっ、やあ、っ」
 ぎしり、と聡の体重でベットが鳴る。
「足、見せて」
 ハチミツ色の仄暗い目、怖い。靴は傍へ取り払われて、伝線したストッキングの上から探るように触れられた。
「痛む?」ふるふると横に頭を振ると、大きな掌は内腿を滑るように撫であげた。
 それは合図だった。苦しい位の快楽を落とされ、気を遣るまで離されないという、宣言。
 脚を覆っていた柔らかなストッキングが破れる音を聞きながら、あの古民家の店に行けなかったことを、ただぼんやりと思った。

細切れな日々

 その言葉を聞いた時、ついにこの時が来てしまったことを私はただ受け止めるしか、なかった。
「返事を」
 右手の甲に当たった柔らかい唇は、暖かい息をかけながら決断を促す。左手に持った真紅の薔薇のブーケはひんやりと冷たい。
 ハチミツ色の瞳がわたしを見上げている。ビー玉のような、綺麗ないろ。
「綾乃」
 返事をしない私に、何かを含んだ低く甘い声は響く。
 どうしたらいいのか、ずっと、ずっと考えていたのに、結局答えは出ずここ迄来てしまった。聡が待っていてくれたのは、分かっている。離れたくない。それなのに。
「教えて」
 もう、時間切れ。
「は、い」
 小さく緊張した声は出た。大きな右手が私の頰を包み込む。
「いいんだよね、良かった。答えてくれないから、緊張したよ」
 小さく頷くと、聡は立ち上がってそっと私をその両腕の中に隠した。
「ずっと一緒にいよう、綾乃」
 その言葉に私は目を閉じた。


「綾乃、正直に答えなさいよ」
 あっという間に聡は私の両親への挨拶をする日取りを決めて、今日、兄妹や甥っ子、姪っ子がごちゃごちゃと客間に集まる中、結婚を決めたことを報告した。父はこれで綾乃も片付いた、やれやれと憎まれ口を叩き、聡を気に入っている母は、何故か浮かない顔をした。それはその後の夕食になってからも続き、何かを言いたげにしていた母は、譲ろうと思っていた訪問着を見て、という口実で次兄に目線を送ると、私を二階へと促してきた。
「何かなあ、怖いよ、顔が」
 畳の上へ広げられた鮮やかな藍色の訪問着を眺めながら、そっと笑った。
「結婚、嫌なんじゃないの」
 スーパーの責任ある仕事と家庭の主婦と、五人もいる子どもの育児に忙しかった母は、何事も時短コースがお得意で、言葉をオブラートに包む、なんてことはしない。ずばっと本音で聞いてくる。
「どうして、そう思うの」
「果歩の時と丸っきり違うから。あの子が旦那連れて挨拶に来た時は、もうそれはそれは幸せそうに光輝いていたけど、あんたはそうじゃない」
「幸せ、だよ」
「綾乃」
「お母さん、聡のこと気に入っていたじゃない。『爽やかでいいところに勤めていて、綾乃を大切にしてくれる』って、方々に言ってたの、知ってるんだよ」
 そう言うと母は少しだけ黙った。
「あんたは一番手間の掛からない子だったけれどね、もう少し手を掛けなけりゃいけなかったわね。一番大事な時に幸せそうに出来ないなんて」
 溜息と共に言われた言葉に、私が返事を出来ない番になった。
「聡さんは条件はいいわ。でも、それだけじゃ、結婚は駄目。付き合っている時は良くても、一緒に生きていくのならそんな顔しかさせられない相手の所には、やりたくないね」
 年齢よりも皺の深い目は、憐れむようにして私を見ていた。バブル崩壊に始まって大型ショッピングモールの進出や、世の中のデフレ加速、何度か実家が経営するスーパーは、閉店の危機に見舞われた。その度に父と母は古くから勤勉に働いてくれている従業員と知恵と力を出し合って、何とか乗り越えてきた。
 真夜中の食卓で、何時も父と母は口論をしていた。事業の拡大を望みたがる父と、堅実な道を進みたがる母。今は一番上の兄が経営の一部を継ぎ、恒三おじさんの所からの産直やお惣菜コーナーの充実などで経営は軌道に乗っているけれども、何時、どこから足元を掬われるか分からない生活を家族は送ってきた。
「あんなに結婚相手には自営業は駄目、サラリーマンにしなさいって言ってたのに、じゃあ、誰ならいいの」
「そういう事じゃない。話をすり替えないで」
「私、幸せだよ。大切にして貰ってるって分かってる。きっといい夫になってくれるって、思ってる」
 そう告げると母は、長い長い溜息をついた。
「付き合い始めの頃は、聡さんが思い通りにしようとしてもあんたは怒ってたでしょう。そうやってバランスを取っているんだとばかり思っていたのに、一体どうしたの」
「そう、だった、っけ」
「あんたは強引な人に弱いから聡さんは好みなんだろうけれど、何かされても引かないで自分の嫌なことは主張出来ていた。だから安心して見ていたのに」
 そう言われて、母が手放しで聡のことを受け入れていたのではない、と知った。色々なひとと世間話がてら聡のことを褒めていたようだから、ずっとお気に入りなんだとばかり思っていた。
「ちょっとだけ、マリッジブルー、なのかも」
「ちょっとだけじゃないでしょ。あんたのはマリッジブルーなんかじゃない」
「じゃあ、何」
「それは、分からないけれども」
 何だか頭が痛くなって来た。もう変えられないことを、母は一体どうしたいんだろう。
「とにかく、もう一回本当にいいのか考えなさい。聡さんならすぐ色々進めていってしまうでしょ。その前に結婚を決めても笑顔になれない訳を考えなさいよ」
 母にとっては、娘のことも所詮他人事だ。それじゃないと仕事、主婦、母業はこなせないんだろう。それだけは分かっている。返事はせずに、目を閉じた。


「着物、譲って貰うの」
 聡の家に帰りついて、寝る用意を全てして、ベットに入ったところで聡は抱きしめながら一番聞かれたくなかったことを、問いて来た。
「今日は、見ただけ」
「何か、あった?」
「何か、って、何で」
「落ち込んだ顔をしているから、心配なんだ」
「……何時ものお小言だよ。ちゃんとしなさい、人の迷惑にならないようにって、そんな話」
「そうか」
 そう言うとより一層強く抱きしめられた。聡がそう言ったことを信じてはいないのは、何と無く伝わってきた。でも、言えない。
「顔を、見せて」
 あまい、あまい声で囁かれて耳を塞ぎたくなる。それでも顔を上げると唇は弧を描くように上がっているのが見えた。ひとつ、ふたつ、額に口づけが落とされる。ぎゅうと目を閉じると、シーツの上を身体ごと引き上げられて、荒い息をひとつ落とした後、捻り込むようなキスをされた。

 また、今夜も。

 悪寒で、肩甲骨が震える。嵐のような快楽に襲われるのを、覚悟して、そしてつまらなく思った。でも拒否は、出来ない。


「結婚、そうかい。決めたんだあね。課長との面談の時に報告するのでいいのかい」
「はい、よろしくお願いします」
「ひとまずは結婚の報告だけ、なのかい?」
 県知事選挙の投票を控え、その直後にある人事異動に向けての個人と課長による最後の聞き取り調査を前に、直属の上司、山中さんによる取り纏めの席で報告をした。選挙の結果で知事が変わり、その政策によっては今迄やってきたことと全く間逆の事業に取り組んでいくこの仕事は、個々人がどんな仕事を熱意を持ってやっていきたいかを持っていないと、途端に行き詰まりを感じるようになる。
 山中さんは、どういう人生設計を考えているのか聞いている。でも、答えられない。
「彼と、話し合っていないのかあい?転勤あるんだよねぇ、別居生活選ぶひともそれなりにはいるけれどねぇ」
「……いえ、来年度、末で退職になると、思います」
「彼は来年度、転勤しないんだ」
「残り一年こちらにいて結婚式はここでして、それで………」
 言葉に詰まって、そこから声は出なくなった。鋭い視線で山中さんは私を見ている。大事な話をしているというのに、情けない。
「大石さん、何か悩んでいる事あるかい」
「あ、はい。SSTbラジオの県庁広報番組のことなんですが」
「そうじゃなくて、彼の事で」
 また、言葉に詰まる。やっとの事で、ありません、そう小さな声で呟いた。狭くて古い会議室に沈黙は落ちた。コンクリートがひび割れていて、それを埋めるようにして直してある柱が目に入る。稲妻のように、木の根のように見える。
「……選挙終わったら飲みにいかなけりゃならないねぇ。今は落ち着かないしねぇ」
「大丈夫です、本当に。何だかこう、マリッジブルーなんだと思います。私事なのに、申し訳ありません」
「わたしゃそう言って悩んでいる事を抱え込んで、鬱になってしまった仲間を大勢見てきたよ。職場の仲間でなくてもいい、友達でもいいから大石さんは誰かに自分の気持ち聞いて貰った方がいいんじゃあないかい。勿論私だって相談に乗るよ。ウチに来てかみさんに聞いて貰うのでもいい。もし私達に言いにくいのなら、同じ女性同志で高橋さんに声掛けてみたらどうだい」
 眉間に皺の寄った山中さんの目線を外して、そうですねと答えた。何度かお会いしたことのある山中さんの奥様は、とても芯の強い優しさを滲ませた素敵な方だ。聡と山中さんが初対面の時も上手く二人の黒いオーラを納めていた。山中さんが言ってくれたことは、とても嬉しいのに自分でどうにかしなければ、と焦ってしまい、結局無言になってしまった。


 週末は式場や会場を決める為、あちこち下見して回った。
「綾乃は、どこが良かった?」
「……無難に駅前のタワーホテルで、でどうかなぁ。皆、集まりやすいし、東京から来て貰うにしても便利だと思うから」
「綾乃は、何処がいいと思ったの」
「………だから」
「ゲストの事ばかりで、綾乃のやりたいことは?それを教えて」
 ない、なんて言えない。でも聡はそれじゃ許してくれないのかも。言い訳を話すべきか、話を逸らすかどっちにしようか迷う。どちらが正解なんだろう。
「私達お互いの上司も出席するし、聡のご両親もお姉さんのご家族も、聡の方のゲストは皆東京から来るのに、飛行機に乗って更に異動、とか疲れちゃうでしょ。現実的に考えて会場を決めて、その後にやりたいことを考えるのがいいかなぁ、って思って」
 すらすらと言い訳を述べた。私は笑えているんだろうか。はちみつ色の瞳が細まるのを、つまらない気持ちで見つめた。
「そうか、そうだよな。綾乃は凄いな、ちゃんと考えてる」
 にっこり笑った聡へ、微笑み返す。聡の家の広いソファーに浅く腰掛けて、隣で深く寛ぐように座ったひとから、見つめられ続けて目を逸らした。
「挨拶の時にお義兄さんから綾乃は、はとこのお姉さんの結婚式の時に湖もある森の教会に行って、ここで自分もしたいって感激していたって聞いたんだ。でも、いいんだね」
「……結婚って、現実だから。理想ばかりじゃ、駄目だよ」
 そうだ、夢物語じゃあない。現実になる。聡と一緒にここを離れて行くことが。
「……来週、見に行こう。森の教会」
「………分かった」
「もう、一緒に暮らそう。仕事もして結婚式の用意もして、疲れているんじゃないかな。綾乃が働いている間は家事も分担してやっていこう。ここで一緒に暮らそう」
 不安そうな顔をした聡へ、返事は詰まった。難しい、難解な、そして困難な。
「……選挙、終わってからでもいいかなあ。異動とか、色々あって落ち着かないから」
「選挙、いつ」
「再来週だよ、投票一緒に行こうね」
 話を逸らすように、次の知事選の候補者について語った。元副知事のおじさまと、元国会議員の美人すぎるお姉さまの新人同士による一騎打ちになった今回の選挙後は、どちらにしろ内部組織が大幅に変わるだろうと言われている。暗に忙しくなることを匂わせて、それを聡は黙って聞いていた。


「ついに綾乃も結婚するんだ。へー髪型どうする?伸ばしてアップにするのも可愛いよ」
「……まだどこで式挙げるかも、ドレスも決まっていないから」
「は?それでもイメージとかあるよね、こうなりたい、っていうの。見てみないとイメージしにくいか。そうだよ、ちょっと待ってて」
 そう言うと、希は腰に付けているシザーケースにヘアクリップを仕舞うと、仕切られたブースから姿を消した。複雑に幾つか仕切られたブースの、真ん中に天井から下がっているシャンデリアを見上げる。希が主に使っているブースは、パリのアパルトマンの最上階に住んでいる女の子の部屋、というのがコンセプトらしい。真ん中に大きくて可愛らしい白の鏡台があり、キュートなアンティークの置物たちが飾り棚の上に並べられている。いつも少しずつ置物は変わっていて、その趣味の良さに感心する。
「お待たー、えーと、あ、これこれ。見てみて」
「あ、この本見たよ」
「買ったんだ」
「彼が、ね」
 苦笑いをして渡されたブライダルヘアブックから目線を上げると、鏡越しにひゅーうと妙な声を出した希と目が合った。
「上條サン、綾乃のことアイシテルもんね。何時も惚気て行くもんだから、兄貴、ヘッドマッサージの頃にはめっちゃ上條サンのこと揉んで揉んで揉みまくって、禿げろって念送ってるの感じるんだよここにいても」
「やだ、毛根殺さないでください」
「まあっ、やってることはも、み、ほ、ぐ、す、ですから。念じゃ禿げないですぅー」
 鏡越しにお互い笑った。希は高校時代の同級生で卒業後専門学校に通い、修行を経て同じく美容師のお兄さん二人と街中にサロンを構えている。元カレに県庁のロビーで暴言を吐かれた時、悔し涙に暮れて彼女の元に駆け込んで、大胆に切ってイメチェンしたい、と叫んだら、アタシそーゆーの燃える。任せて、と上気した顔で今の髪型に変えてくれた。高校時代はクラスの中でもお洒落女子の代表、みたいな気だるい感じでずっと窓の外を見ていたのに、今は話好きで明るくなった。あの頃の事を持ち出すと希はいつも、勘違いしてた暗黒時代の話は止めて、と柄に可愛い女の子の姿が描かれたチークブラシでくすぐって来る。
「結婚式いつー?」
「秋かな。仕事忙しい?」
「いやいや、空けますよ。呼んでくれるなら」
「わあ、良かった。是非」そう言うと希は鏡越しでニッコリ笑った。
「で、どんなのがいいのー?可愛らしい感じにするのなら今のボブがしっくり来るし、大人っぽいのがいいなら伸ばして行った方がいいね」
「………よく、分かんないんだよ。あれもこれもって目移りするし」
「まあ、そっか。ドレスも実際見て着て決めるしね。じゃあ、どっちに転んでもいいように今日は毛先カットカラーでいいかな」
「うん、それで」
 本当はなんでもいい。結局聡の思い通りになるのだから。でもそれは言えない。


 板張りの階段を希と登って見送られ、澄んだ藍色の夜空の下、手を振って別れた。スプリングコートだけで大丈夫だと思っていたのに、春先の夜は冷え込んでいる。大きな地元新聞社の前を通り、地下鉄駅へ早足で進んだ。染め直した髪からは微かにケミカルな匂いと甘いヘアケアウォーターの香りが入り混じっている気がして、眉を寄せた。
 切り揃えた後なのに、頭は重い。何時もより長さがあるから、それだから。
 髪は結べるだろう。けれど、首筋に残された跡を出すことは出来ない。
 さらさらと丁寧にブローされた髪は、滑らかに動く。ふっ、と鋭く吐き出すような溜息が出た。

 その時、後ろからあの香りがする。ソラの上の庭園の緑なのだと教えられ、記憶に刻み付けられたあの。
 身体を滑る熱い大きなてのひらを、甘くて鷲掴むようなこえも、水分を沢山含ませたひふも、そして私の中へ突き刺すような快楽を与える、あの。
 どろっ、とお腹の底が緩んだ。だらしなく。

「綾乃」

 細切れな、日々だ。果てしなく続いていくのかも、しれない。

風船

 春先に行われた県知事選挙は大接戦の末、美人すぎると言われた白川郁元衆議院議員が秋元忠雄元副知事に僅差で勝利した。

「秘書課、ですか」
「そうだ、新知事直々のご指名だとのことだ。総務畑ではないし、何より結婚退職が今年度で決まっているから、と部長はかなり戦ったらしいんだが………どうする、蹴ることも出来るが」
「何故、私なのでしょうか」
 薄暗い会議室で内示の前の日に行われる事前の打診の席で、課長は六月一日付けの異動を示唆してきた。順番に異動対象者が会議室に呼ばれ、最後の最後に次、大石さんと手招きされた瞬間、信じられないといった顔で山中さんは立ち上がった。課長はそんな様子をちらりと見ただけで、更に手招きした。
「大石さん、学生時代に総務省主催のなんちゃらって賞、受賞してるよね。それを担当してたのがバリキャリ時代の白川知事だそうだ。地方創生の突拍子もない、それでいて面白い内容に刺激されたと仰っていたそうだ。そして、そういう人材が側に欲しいとも言われた」
 私の通っていた高校では、一年間を掛けて自分の好きなものに関して徹底的に調べあげ、それをレポートにする、という単元があった。好きこそものの上手なれ、そこから進路を決める生徒も多くいて希は各国の美容事情とヘアデザインの歴史について、私は美味しいのに安価で買い叩かれてしまう農産物や海産物をどうやったら高く消費者に買って貰えるか、がテーマだった。面白いから、これ、応募してみたらいい、と言われ、書類を書かされて、すっかり忘れていた頃受賞を知らされ、不運にも受賞式は修学旅行の真っ最中で東京の自由時間の日だった。一人だけ、あまり話したことのない校長先生と霞ヶ関へぶーたれて行った事は覚えている。しかしもう十年以上も前の話で、取って付けたかのような理由に思えた。
「こんな言い方はしたくはないが、白川知事は女性の側近を積極的に育てたいようだ。結構な割合で各課女性職員が目立つ形で引き抜かれているんだ。部長は高橋主任を押したんだが、君を指名してきた。この意味、分かるか」
「………退職を撤回せよ、とのことですか」
「そこまでは言っていないが、実質引き留めにはなるだろうな。撤回したならば一度秘書課に入れて、そこから財政に回ることになるだろう。県庁の中枢に放り込んでしごいて、上にどんどん上げて行く腹だろう。高橋主任にはその覚悟があるように思うから、私も部長の意見には賛成していた。ただ、大石さんだって高橋主任に負けない位の情熱を県政に傾けてくれているのは知っている。さあ、どうする」
 課長と目が合う。まさかこの場で返事を促すとは思わなかった。それだけで思惑は知れた。
「本当は即決をさせたくないんだが、一晩は考える猶予をあげられないんだ。大石さんが断った時点で異動対象者は高橋主任になる。内々示をせずに内示はしたくない」
「………一時間、年休を頂けませんか。婚約者と話がしたいです」
 時計は十一時四十五分を指していた。
「一時間で足りるのか」
「今から、でお願いします。年休簿には後ほど記載します」
「よしわかった、ちゃんと話し合ってこい」
「はい」
 課長はポケットをまさぐると、マネークリップから五千円札を抜き去り、広げると机の上に小気味良い音を立てて置いた。
「そのまま行け。携帯は持ってるだろ、高橋に気付かれないように」
「課長」
「大石さんがこの異動を受けても受け入れなくても、高橋には気持ちよく仕事してもらいたい。もちろん大石さんにも。美味いもん喰って二人で話し合って来いよ」
 初めてそこで課長は笑った。そっと五千円札を受け取ると、ありがとうございます、そう言いながら頭を下げた。

「仕事中にごめんなさい、今電話しても大丈夫?」
『大丈夫だよ。どうした、珍しいね』
「さっき課長に呼ばれて、内々示が出たの。新知事の秘書課へ異動を打診された」
 女子更衣室からケープを取って古ぼけた県庁の玄関を出た所で、スマホを取り出した。バス停をやり過ごし、聡のいる瀟洒なビルへ向けて早足になる。
『それは、受けたのか?』
「いいえ、一旦保留してもらっているの。年休も一時間だけもらって、今そっちに向かっているところ。お昼何処かで会えない」
『一階にテラスがあるカフェがある、分かる?県庁から来たら右側にあるんだ』
「うん、お花屋さんの隣だよね」
『今、俺も向かうから。切るよ』
 返事をした瞬間、通話は途絶えた。一停留所分を歩き切り、信号機が青に変わるまで待っている間も、高鳴る胸の鼓動は止まない。何処かのビルから美しいからくり時計が十二時を告げる音が街中に響いて、どっとスーツ姿や制服の人々が通りに出て来た。
 出ようとする人の波に逆らい、自動ドアをくぐり抜けて吹き抜けの広いエントランスへ出ると、カフェへ向かう。聡はすでに軽食とコーヒーを机に乗せて、一番端の席で待っていた。
「綾乃はそこで戦っていく覚悟があるの?」
 全ての話を終えると、聡は真顔でそう訊ねた。
「高橋さんを押しのけて、上に上がって、財政を握って、なりふり構わず出来る?」
「やってみなければ!」
「分からないかもしれない。でも、目立つ形で引き抜かれて、今まで優しくしてくれていた同僚だって敵に回るかもしれない。そのriskは分かっているのかな」
 聡は反対なんだ。分かっていた。分かっていたのに、もしかしたらと思っていた。理解してもらえるかもしれないって。返事は声にならない。
「誰も分かってもらえなくても突き進んでいく信念と、周りを巻き込んでいくパワーがないと、この日本では潰されるよ。綾乃に無いとは言ってない。でも覚悟はないよね?」
 下を向いて、親指の爪を人差し指で引っ掻いた。鈍く高い音を立てて、何度も何度も。
「それに、俺は綾乃と離れたくない。楽しいことを一緒にして、ほっとできる家庭が欲しい。子どもだってもし産まれたら側で成長を見守りたい。俺が望むのは簡単なことだよ」
 沢山のことを言われて、ただ項垂れた。私は何をしに来たのか分からなくなるほど、聡は次々に問題点と感じたんだろう事を話していく。望まれているのは、聡に縋ってずっとお家の中で笑っているお嫁さん。ならなきゃ、いけない。
「異動、断る」
「話してくれて、良かった。分かってくれてありがとう」
 食べよう、と促されて小さく頷いた。大きいキッシュは切り分けられ一口サイズになってフォークまで添えられ、私の前へやってきた。食べなきゃいけない。
 口に入れて、咀嚼して、飲み込むを繰り返した。美味しいね、なんて言いながら胸元は色んなモノがつっかえていた。
「もう、お腹一杯、ごめんなさい、私戻るね」
「有給とったなら」
「決めたなら、早く上司に報告したいの。ごめんなさい、もう行くね」
 歪んだ笑顔を向けた。取り繕うことが難しい。急いで席を立って、じゃあ、また明日と手を振った。振り返らず、お隣にこの春出来た同じような低層階が店舗のオフィスビルに入ると、アウトドアショップの隣にあるトイレに駆け込んだ。胃の中が空っぽになるまで、えずいて戻して、そのまま泣いた。


 会議室で待っていた課長へ異動の辞退と五千円札を戻すと、いいから取っておけ、と受け取ってはもらえなかった。放心状態で自分のデスクへ戻り、呼び出しされた高橋さんの背中を見送った。
 キラキラした瞳で戻ってきた高橋さんを横目に、黙々と仕事をした。呼び出されてもお互い内示が出るまでは尋ねない、喋らないが庁舎内の暗黙のルールだった。内々示が出ても明日の内示までは確定ではないから。
 黙々と仕事はこなしたつもりでも、夕方には身体がふらついた。幸いにも締め切りが迫っている仕事は無いので早目に帰りのバスへ乗った。
 ずっと上手く丸め込まれて、気持ちを誘導されていたのを感じていたのに、聡を失いたくなくて無意識に誤魔化していた事を、思い知る。
 今日、本当にやりたいことが目の前に広がったのに、一歩を踏み出せなかった。
 異動をしないと選んだのは自分なのに、あの腕を振り解けないことを悲しく思うなんて。
 白い蛍光灯が照らす車内から、行先に低く落ちる不気味な赤黒い夕焼けを眺めた。嵐が来るのかな、そうぼんやりと感じた。
 どうして結婚したいんだろう。結婚、したいの?
 いい夫になってくれるから?
 幸せになれるから?

 大切な事を、いつの間にか落としてきている。


 お風呂から上がると風が強くなってきた音を感じて、ひんやりと湿気を含んだ外気を吸い込んでから雨戸を閉めた。スマホが着信を知らせて、画面に出た名前を見てそのまま放置した後、音量を消音にした。
 髪を拭いて、ドライヤーで乾かしながらテレビ情報誌をめくった。若い男の子達のアイドルグループが楽しそうに座談会なるものを紙面上で繰り広げていて、興味は無いのに文字を追った。
 部屋の隅にどんどん増えていく結婚情報誌を、今日は目にしたくなかった。少し休みたい、ほんの束の間逃避して、元気を取り戻してからなら今日の事も冷静に考えられそうだ。
 玄関のチャイムは鳴る。短く三度、立て続けに響いたその音色で誰が来たのか分かった。
「はい」
「俺」
「おれおれ詐欺なら間に合ってます」
 玄関先で冷たく言うと、あやちゃん、にーちゃんだ、がくにーちゃんだってと騒ぐ声がする。仕方なくドアを開けると、次兄の岳がおっす、と言いながら片手を挙げた。
「さっき浜に寄ったら、ばーちゃんがタラ持って行ってやれってくれた。タラ喰って美人になれとよ」
「ありがとう。ばーちゃん元気?」
「ま、年だからね。でもさ、調子のいい時は拾い昆布に行ってるってよ。若いモンには負けられないんだと。あやちゃんは、元気じゃねーな」
「にいちゃん、上がって」
 部屋へ吹き込んで来た夜風に湯冷めしそうで、扉を大きく開けた。ニッ、と笑った兄は革靴を脱いだ。中小のスーパーが加盟しているグループで商品バイヤーをしている岳兄は、ここを拠点に北海道、東北を幅広く年中回っている。兄弟の中では私を除き一番最後に結婚した。
「伽奈さん元気なの」
「んー相変わらずよ。つーかあやちゃん、顔合わせん時会っただろ」
「まあ、そうだけども。あ、お料理の写メありがとうございました、感激しましたって伝えて」
 料理研究家の義姉は、あの兄弟が大勢集まった私と聡の挨拶の日に母と一番上の兄嫁と共にお祝い膳を作ってくれた。この先に予定している両家の顔合わせの時も任せて、とこの間、その時の為のご馳走案を写真メールしてくれた。仕事がお互いに忙しいようなのに、優しい義姉は何かと気遣いをくれる。兄が何処に惹かれたのかがよく分かった。
「あやちゃん、義弟(仮)と上手く行ってないのか」
「なにそのかっこ仮って」
「まだ義弟じゃないもんね。俺、あいつと並ぶと足の長さがバレるからヤダ」
「にいちゃんは元から短足だから比べなくてもバレてる」
「男は足の長さじゃねーよ」
「短いにいちゃんが言っても、負け惜しみでしょ」
「なんだよ、にいちゃんはあやちゃんを泣かせたり、無理矢理異動断らせたりしないぞ」
 傾けていた急須を止めて、そのままテーブルへ置いた。続くだろう兄の言葉を待って、その日に焼けた顔を見つめた。
「内々示、出たんだろ。あれ、恒三おじさんの差し金だ」
「どういうこと」
「今回の選挙、漁協と浜は白川陣営推しだったんだよ。白川さん一次産業への大口投資を打ち出してたからな。恒三おじさんが後援会幹部でさ、あやちゃんのことさりげなく押し出してたの見てたんだ。白川さんはお前のこと覚えてた。県庁の女性幹部育成もしたい、って話も聞いたからな。もしかして、とは思ってたんだ」
「………凄い勘だね、にいちゃん」
 兄は白川知事が緩やかに県庁内部の改革も進めたい意向なのを知っていた。その上で恒三伯父さんが何故、私を押し出したか。きっと母から色々話を聞いたんだろう。そんなことを兄は匂わせた。
「で、義弟(仮)は本性見せたのか」
「本性、って。人を押しのけても内示受けて、新部署で戦って行く強さはあるのか、って聞かれたよ。痛いとこ突かれたと思った」
「うわー、俺、そういう奴ムカつくわ。ほっとけよって思っちまうね。言われたのそれだけ?」
「………あとは、離れたくない、って」
「まあ、それが最初に来なけりゃならんさ。それ言って無かったら、義弟(仮)、ぶん殴ってたわ」
 項垂れていると、兄が湯呑みに手を伸ばして、お茶を啜る音が聞こえた。
「あやちゃんは、一番兄弟で割りに合わない目に遭ってるから、にいちゃんは結婚位は幸せになって欲しいと思ってるんだわ。あいつが悪いとは言わん。でも、あやちゃんが望まないのにがんじがらめに縛ろうとする男は、俺は好かん」
「果歩の方が、割りに合わない気がするけれど」
「果歩はいいんだよ。あいつもう手伝いと勉強したくないって散々言って、銀行行ったんだからよ。旦那もそこで捕まえて来て、あいつ人生早くても幸せそーだろ。あやちゃんは学費も大して出して貰えず仕舞いでさ、始兄ちゃんが援助するっておかしいだろ」
「あの時危機的状況だったんだから、仕方ないよ」
 大学生になる頃、近所に巨大なショッピングモールが出来た余波は、実家が経営する平凡なスーパーだった店を直撃した。パートさんも少なくなってしまい、兄弟総出でいつも手伝いをしていた。大学生活は学校とスーパーの往復で、確かに遊ぶ暇など無かったけれど、それはここにいる岳兄も同じだ。
「俺も始にいちゃんも、享ですらサボってたまに遊んでたのに、あやちゃんは女だからってだけで手伝いの他に家の事もさせられてた。我慢、我慢で今迄来てまたあいつに我慢すんのは良くない。あいつを掌で転がせるならいいさ、でも出来ないんだろ」
「にいちゃん、もう決まったことなの。変えられないの」
「あやちゃんヤバいわ。そう信じ込んでるならヤバい」
 日に焼けた真剣な顔をぼんやりと見つめた。何がヤバいんだろう。沈黙が落ちて、長い余韻を響かせて玄関のチャイムは鳴った。
「誰だ、こんな夜に」
 玄関の扉の方を見やった岳兄へ返事をすることは出来ない。きっとスマホは鳴りっぱなしだったんだろう。一定の間隔でチャイムは鳴った。岳兄が腰を浮かせ掛けたのを見て、立ち上がった。
「はい」
「綾乃、開けて」
「今日は、もう休みたいから、また明日」
「開けて」
 切羽詰まったような声に渋々扉を開けた。風と一緒に眉間に皺を寄せた聡が狭い玄関へ入ってくる。
「………誰か、いるの?」
 聡の目線は岳兄の革靴から、真っ直ぐに私を射るように捉えた。非難するような色に、ぶるりと背筋は震えた。
「俺だよ、俺。なんつー目で見てるんだよ。あやちゃんを疑ってるのか?」
「岳さん、いえ、綾乃さんへ何度も電話したんですけれど、出てくれなくて、心配だったので」
 後ろから岳兄の声がして、聡の表情は一気に柔らかくなった。
「俺と話していたから気づかなかったのかも知れないんだ。勘弁してやってくれ、な?」
「そうでしたか。岳さんは何時頃いらしたんですか」
「あー、結構いるよな。ばーちゃんの拾い昆布の武勇伝話してたら、あ、もうこんな時間か。時間経つの早いよな、あやちゃん」
「う、うん、そうだね」
「綾乃、話したいことがあるんだ」
 いろいろ察した兄のわざとらしい助け舟に同意した所で、聡はいきなりそう割って入って来た。有無は言わせない、そういった感じがする。
「明日、じゃ、駄目かなあ」
「昼間、感情に任せて綾乃を責めた気がするんだ。その事を謝りたくて来たんだ。岳さん、二人で話をさせて貰えませんか」
「謝罪に来た割に、何であやちゃんは怯えてるんだよ。おいおい義弟(仮)よ。明日気持ちが落ち着いたら、って言ってるだろ」
「何ですか……かっこ仮って」
「異動の事も聞いたけどさ、口出しはしたくないがお互いに対等な状態で話が出来なければ、夫婦としてやっていけない。鏡見てみろよ。謝りに来た割に、鬼神のような顔してるっぜ」
 ツッコミを無視した岳兄は、靴箱の上に壁掛けてあるシンプルな鏡を指指した。聡はそのまま横を向く。
「あやちゃんはどうする?」
「どうする?」
「二人で話すか、それとも立ち会い人がいた方がいいか。俺と義弟(仮)両方とも退場っていうのもあるよ」
 選択肢を与えられて、急にまごついた。選んでいいの、私が、選ぶ。
 岳兄は、そんなひとだったんだっけと思った。どうしたい、どうしよう、決めるの?私が。
「岳さん」
「綾乃、決めろ、お前が決めろ」
「聡と、話したい」
 二人で、そう言うと岳兄は大きな掌で私の頭を撫でた。
「俺たち兄弟、ずっと助け合って生きてきた。一番割に合わない目に遭ったのはあやちゃんだから、幸せにしてやって欲しい。頼めるか?」
「……はい」
 聡の返事を聞いて、岳兄はタラ喰えよ、と言って帰って行った。
「綾乃」
 直ぐに私の身体は聡に抱きすくめられた。ぎゅうと、まるで無くしていた宝物を見つけ出したかのように。
「離れたくなかった。ずっと一緒に居たいから、離れたくなかったんだ」
 耳元で囁かれる言葉で、私は大切なことに気づく。
「綾乃、もう一緒に暮らそう。選挙も終わった。もう、何もないよ」
 私達、何かがおかしい。対等?そうじゃない。
「土曜はドレスを選びに行って、その後簡単に引っ越しをしよう。それからずっとうちにいて」
 私の選択肢は、どうして聡が決めているんだろう。


「で、もうアルピニストと一緒に暮らしているの」
 高橋さんの問いに笑いながら頭を振った。
「母が猛反対なんです。「入籍してからにして下さい」ってわざわざあの人の所へ電話して、渋々了承して貰っていました」
「婚約してるし、いいんじゃないとは思うけどさーお母さん世代だとそうはいかないか。あー、そういや、うちもそうだったわ。田舎だとそういうの、未だに世間体とか厳しいもんな」
 平林さんは割り箸の真ん中辺りをつまみ、振っている。だるそうに頬杖つきながら。
 山中さんは会話を聞きながら、ずっと黙っている。内示が出た次の週の水曜に、滅多に飲み会を提案しない山中さんが金曜は奢るから旨い肉食べに行こう、と誘ってきた。色めき立つ私達を山中さんは昔ながらの焼肉屋さんへ連れてきて、古いのに清潔な満員の店内で、お勧めの赤身肉を余りの美味しさに悶絶しながら、無言で次々に焼き、もりもり食べた。年齢が上になってくるとカルビは胃もたれしてくるらしい。確かに私も、最近では余り食べない。
「結婚って、色々大変なんですね。当事者になってみてよく分かりました」
「大変っちゃ、大変だぞーもうさー、うちは奥さんのやりたいこと多すぎて、披露宴の中身、詰め込み過ぎになりそうになってさ、削れ、って言っても聞かないしさー結局大喧嘩」
 小気味いい音を立てて、箸は小皿に置かれた。次々に平林さんは結婚式で大変だったことを、うんざりとした口調で話す。相槌を打ちながら、そっと高橋さんを見た。
『課長に聞いたよ。全部。大石さんは、私にチャンスをくれたんだと思った。私、頑張るから』
 結局課長は高橋さんへ、全てを話したらしい。内示が出て部署に戻って来た高橋さんは、その日の夜、奢るから美味しい台湾料理食べに行こう、と誘ってくれた。
 見た目よりもとろみのある麺線の味に和んで、魯肉飯をガッツリかきこんで食べて、炒空心菜は美味しい、美容にいい、と叫びながら、緑の瓶ビールをぐびぐび飲んだ。
 いい具合に酔っ払って、ポツリと呟くように話した高橋さんの言葉に、柄にもなく号泣して、やっぱりこのひとの方が選ばれてしかるべきだったんだ、と思った。
 新しく来る子の指導役になるのは、大石さんなんだからね、それだって大事な役目だから、頼んだよと肩を叩かれたのまでは覚えている。でも、そこからは記憶は途切れ途切れで、気がついたら聡の家のベッドにいた。冷たい目線で見下ろされ、身体は震えて、午後からのドレスのフィッティングは大人しくしていた。
「大石さんは彼と揉めることは、ないのかあい?」
 ふ、と気づくとそれまで喋らなかった山中さんは、真剣な顔をして問いかけてきた。
「揉めないですね」
「え、揉めないの?凄いね。彼氏はこだわり多そうに見えたけど、大石さんはあっさりしているタイプ?」
 週明けに高橋さんは、何度も私のスマホに連絡をしてきていた聡に、台湾料理屋さんの前で偶然出会い、ちゃっかり私も送って貰っちゃって、ありがとね、と声を掛けてきてくれて、そこで金曜の夜の顛末は全て知れた。
「………迷って悩んで優柔不断になるのなら、こだわりの強いひとに決めて貰った方がいいかなあ、って思ってます」
「そうなの、それでいいの。自分の好きなドレスとか、着たくないの」
 高橋さんの突っ込みに俯いた。ドレスは何着着てもどれも同じに思えた。シンプルなのも豪華なのも、どれもただの白にしか見えない。
「この間も衣装合わせしたんです。でもどれを着てもしっくりこなくて、結局、決めて貰いました。あのひとも喜んでいるし、いいかなぁ、って」
 口角を上げて微笑み、明るい声で話した。三人は、ため息をつく。あれ、何かおかしなことを言ったのかな。
「大石さん、結婚に積極的じゃあ、ないよね。何だか他人事みたい」
 割り箸を持ち上げた高橋さんはこちらを見ながら、小皿の中に残っている焼肉のたれを円を描くように混ぜ始めた。
「そう見えますか?うーん、頑張らなきゃ、とは思ってます」
「頑張るもんじゃーないだろ、結婚は」
「………でも、頑張らなきゃ、いけないんです」
「何を頑張るんだあい?」
 平林さんの突っ込みにムキになって言い返すと、山中さんの平坦な声に詰まった。答えを三人とも待っている。視線に顔を伏せた。
「結婚したら、お家の中のこともちゃんとして、海外赴任に向けて英会話もして、で………」
 思いつくことを上げてみる、でも、言葉に詰まる。また、沈黙。
「アルピニストがこないだ迎えに来てくれた時、大石さん気の毒な位、アルピニストに謝ってたけどいつもあんな感じなの」
 高橋さんの言葉に顔を上げた。心配そうな表情を誰もが浮かべていて、居た堪れない。
「あの日、飲み過ぎて記憶が無いんです。でも私が悪かったんで、多分、謝ったんだと」
「そんな感じじゃあなかったよ。もう平謝りだったもん。アルピニストも笑っているけど目は笑ってないしさ」
「大石さん、彼氏怖い?」
 平林さんの問いかけに、瞬間ぶるりと身体は震えた。取り繕いたいのに、言葉が出ない。知られてしまった、それだけ思った。
「それは、あまりよろしくない状況だと、思うよ。大石さんは彼氏の一挙手一投足を怖れている。違うかあい?」
「………最近、気持ちがすれ違っている気はするんです。しっくりかみ合わなくて、あのひとはとにかく結婚を急いでいるっていうか、そんな気がして、そのスピードについていけなくて、押し込められそうな気分になるんです。私達、温度差があるんです」
「それは原因が何か、思い当たるのかあい」
「そこまでは、まだ、です」
「それ、ようく考えたらいいねぇ。そこがはっきりするまでは、わたしゃ大石さんの退職届は受け取れないよ」
 きっぱりと山中さんは言い切った。そんな権限はないのに、私のことを心配して言ってくれているのは伝わった。だからこそ情けない。涙が溢れ出しそうになるのを、必死で堪えた。

 高橋さんの代わりに五月一日付けの異動でやって来たのは、大学卒業したてのまだ緊張感が漂う女の子だった。私にとって初めての後輩、植田さんは午前中に入庁式に臨み、ランチは歓迎の意味を込めて山中さんが島全員に出前のお蕎麦を取ってくださった。
 時折、山中さんは心配そうな目線を送ってくる。その度に原因を考える。でも、もやもやとして、はっきりとしないものを見つめようとするのは、骨が折れた。
 ただ一つ言えることは、大切な事は聡の意のままに、決められていくということ。
 反論すると、沢山の理路整然とした言葉が返ってきて、ねじ伏せられるような気持ちになる。
 話したいことは、耳を傾けてもらっていると、思っていた。でも、本当に?

 連休初日の羽田空港は混雑していた。初日は東京の行きたい所へ案内すると聡は言い、ラウンジに置いてあった東京の最新のスポットを紹介するパンフレットを渡されて、機内で眺めた。
 沢山有りすぎて、逆に選べないよ、と笑うと、じゃあ、表参道でも行ってみようかと提案されて、頷いた。そこからはずっと窓の外を見ていた。飛行機が着陸しようと旋回する度、目の前に広がる建物群がどこまでも続く、巨大な東京を、ただ、黙って。
 その内ここに住むことになって、そして他の国にも行くことになって。
 想像が出来なかった。こんなコンクリートだらけの場所で、どうやって生きていくのか。
「あのね、やっぱり上野に行きたい」
 荷物は宿泊先へ直に配送してくれるサービスを聡は使った。手荷物が無い人々の流れに乗って到着ロビーへ出ると、見上げてそう小さな声で願い出た。
「パンダが見たいの?」
「何だか、息苦しくて、東京」
 パンフレットの中で唯一、緑の木々の小さな写真が上野公園だと教えてくれたことを聡へ、つっかえながら説明した。
「………そっか、もしかして緊張している?」
「そう、かもしれない」
「緊張しなくてもいいよ。顔を見せるだけだから」
「緊張、そう」
 何を言ったらいいのか分からなくなって、視線を下にした。右手を取られて歩き出す。会話をすることは最近めっきり減ってしまい、私は下を向くことが増えた。
 初めて乗った浜松町行きのモノレールは混雑していて、ドアの窓から見える河川では水上スキーを楽しむひとの姿が見えた。その全て、色が薄い。乾いていて、色味が無くて、空気も薄い。
 東京は、好きになれそうもない。

 上野公園を散策して、聡が勧めてくれた博物館や美術館を巡り、ホテルには早めに入って、高層階から暮れてゆく景色を眺めた。
「なにを見ているの」
「………ずっと遠くまで街は続いているんだなぁ、って、それだけ」
 呟くように話すと聡は後ろから抱き締めてきた。頬ずりするように、髪へキスを落とす。真四角に整えられた、沢山のクッションの乗ったベッドへ誘われて、そのまま身を横たえた。
「つまらない?」
 のしかかってきた聡に尋ねられ、ぼんやりと目線を合わせた。少しだけ笑って、そんなことないよとだけ返した。きっと信じてはいないだろう。
「いつもならこんな高そうな所、泊まれないっ、って怒っているのに、元気無い」
「………気後れはするけれど、そういうのにも」慣れなきゃ、そう言おうとして黙り、取り繕うように聡へ抱きついた。抱き締め返されて、その大きな身体の重みを味わう。
 包み込まれるように抱き締めて貰えるこのひとときだけが、安心して息を吸える。抱えられたまま身体は反転した。聡の胸に力を抜いて頭を乗せ、目を閉じる。
「そんなに物分かりが良くならないで、もっと自分の意思を出していい」
 身体中の力は抜けた。もう、眠ってしまおう。そうすれば明日になる。怒りも湧かないし、どうせ何を言ってもこのひとの思い通りになるのなら。
 諦めてしまうと、何もかもうまくいく、だから。
「綾乃?」
 遠くで名前を呼ばれて、睫毛を拭う指先の感触を感じて、急激な眠りに落ちた。夢は見ないのに、浅く淀むような目覚めと眠りを繰り返す。ふと気づくとホテルの部屋の中は淡いヘッドライトが点けられていて、聡は隣でうつ伏せになりながらタブレットの画面を見ていた。
「あさ?」
「いや、十一時過ぎだよ。お腹は空いている?」
「ううん、そんなに」
「何か食べたいものは?」
「ありがと、でも、減っていなくて」
「色々食べられそうなものをデリに行って買ってあるから、食べよう」
 私の返事も聞かず、聡はサイドテーブルを引き寄せて紙袋から、可愛らしい手まり寿司や、飴色に煮込まれたふろふき大根、菜の花和えや、大粒の苺を取り出した。どれも私が好きなものばかり、それなのに食べたい気持ちは起きなかった。
「最近痩せて来たから、少し食べよう。忙しくて疲れているのは分かる、でも食べないと元気は出ないよ」
 ほんの少しずつ運ばれてくる食べ物を受け入れた。つめたくて飲み込むのが苦しい。
「もう、食べられない」
「もう?」
「ごめんなさい」
 呆れたような聡の視線に耐えられず、顔を伏せた。小さなお寿司とおかずも二、三口しか食べられなくて、そう言われてしまうのは分かっていたのに。
「綾乃」
 怖い。甘くて何かを含んだこの声が怖い。肩は強張って怖れているのに、溶かされ続けた記憶がとろりとした潤みを持たせて、受け入れる準備を勝手に始めた。
 もう、何もかもがおかしいのに、離れられなくて離れたくなくて、決壊したように涙が溢れ出した。
「どうして泣いてるの」
 よかった、困ったような聡の表情にホッとした。怖くない、もう、怖くない。
「わ、わかんな、で、も、最近、不安定、で」
「……マリッジブルーなのかな。それとも明日が不安?」
「わ、かんない」
 しゃくりをあげるように話すと、聡は後ろから包み込むように抱き締めて来た。その温もりは安心出来た。
「そっか、あまり両親や姉のこと、綾乃には話していないからいきなり会うのも勇気がいるよね。父はいいひとだよ。血の繋がりは無いけれど、ちゃんと向き合ってくれる父親だと思っている。沢山の大切なことを教わったし、彼を尊敬しているよ。姉は、しっかり者で俺より勉強出来て明るくて、小さい頃は敵わない存在だった。職場で上司と恋に落ちて、結婚して今は二児の母になった。姉の旦那さんは働き盛りの勢いのあるひとで、甥っ子達は元気で可愛いよ。母は」
 そこまで淀みなくスラスラと話した聡は、いきなり言葉を止めた。
「母は、そうだなwitchだ。あのひとには気をつけて」
 重く冷えた声は、怖い。取り繕うように聡は頭を撫で出した。
「髪、生乾きだったんだ。寝癖ついているよ」
「………へん?」
「小さな女の子みたいだ。泣き顔で、可愛い」
 顔を上げると無数のキスが落ちてくる。向きを変えられて、味わうように口付けられた。
「苺の味がする」
 唇を離さず、聡は呟く。
「あまい」
 不安から愛情を感じると、許されている気になって安堵する。どちらもこのひとが与えているのに、良かったと思ってしまう。
 それは、あまりよろしくない状況だと、思うよ。大石さんは彼氏の一挙手一投足を怖れている。違うかあい?
 でも、離れられないの、離れたくない。

 タクシーが停まったのは、渋谷の駅からほど近い所だった。どの駅からも遠くて不便だから、と言われたけれど、殆ど乗っていない。
「これが、実家。あっちは井の頭通り。逆にあるのが母校だね」
 コンクリート打ちっ放しの二階建てを見上げた後、聡は左右を向いた。どちらを向いても細い路地の二、三百メートル先に車が何台も行き交う通りとお店らしき建物が見えた。
「緊張しなくていい。普通にして顔を上げて。気に入られようとしなくていいから。笑って」
「聡、着いたのか。やあ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ」
 無理矢理笑顔を作った瞬間、声を掛けられてつい飛び上がるように驚いてしまった。慌てて挨拶をすると、体格の良い白髪まじりのひとはにっこりと笑った。
「聡の父です。綾乃さん、いやあ可愛いなあ。お前上手いことやったね」
「可愛いは厳禁にして、あと、見ないで」
「見ないで、ってまた無茶振りだなあ」
 ははは、と聡のお父さんはおおらかに笑った。そしてお茶目なウィンクをすると優しく言った。
「独占欲が強いから、聡は大変でしょう。無茶な要求をして来たら直ぐに逃げておいで」
「はい」
「はい、ってことは綾乃さん、苦労しているんだなあ」
 言われた言葉に身体は固まった。隣にいる聡の雰囲気が冷えているのを感じて、思わず下を向いた。
「中に入ろう、お母さんも待っているよ」
 聡のお父さんは先導するように細い私道を案内してくれた。路地からは玄関が見えない造りになっている。新人の郵便配達員は、必ず迷うんだよ、と聡のお父さんは笑った。
「実和子さん、来たよ」
 正面に大きな白磁の波打つような形をした花瓶にピンクと白のグラデーションが美しい薔薇が飾られた玄関で、聡のお父さんは靴を脱ぎながら、家の中へ向かって話し掛けた。
 二階へ向かって吹き抜けになっているその側面は大きなガラス窓が天井まで伸びていて、木立が外で揺れていた。古い御宅なのに、造りはとてもモダンだ。
 居間へ入ると、エプロンをしてワンピースの白髪の小さな女性が、聡のお父さんへ段ボール箱を渡していた。綺麗な白髪、まっしろ、そう思っていたらそのひとは真っ直ぐに私を見つめた。
「まあ、真っ白」
 平坦な声で言われて、そのまま聡のお母さんは近づいて来た。一瞬、自分の考えていたことが漏れ出たのか、と慌てたけれど、すぐに皮肉がこもったような早口で聡は私の前へ出た。その内容は早過ぎてヒアリング出来ない。二言、三言何かを聡のお母さんが返しても、冷たい口調は止まなかった。
「私と、この子の姉と、この子の三人で暮らしていた時分は、会話は英語だったものだから、そうね、あなたを放っておく形になりましたね」
 聡を無視して私に話しかけてくれた言葉は、不思議だった。どこか他人事なのに、思いやられていると感じられて、背筋がしゃんと伸びるような。このひとが聡のお母さん。
「初めまして、大石綾乃と申します」
「実和子と呼んで。お義母さんは嫌よ」
「実和子さん、あの、よろしくお願いします」
「綾乃さんは、真っ白ね」
 それだけ言うと実和子さんは身を翻して居間を出て行った。短い溜息を聡が吐く。惹きつけられる魅力のあるひとだった、それが第一印象だ。
「結婚式は結局、どっちにしたの」
「………まあ、綾乃のお祖母様も曽祖母様も出席されるから、やっぱり交通の便利な所になった」
「ほら、言ったじゃない、そうなるって。上條のおじいちゃまも出席するんだから移動の負担も考えてよ。ねえ、綾乃さん、夢見がちな弟で困るでしょう」
 急に聡のお姉さんにそう振られて、言葉に詰まった。
「学生時代に、従姉妹が結婚式を挙げた場所に私が憧れていたのを、兄が、覚えていて、勧めてくれたらしいです。それで、あの、気を使ってくれて……」
 私達の後に到着したお姉さんの一家は、賑やかだった。聡の甥っ子達は素晴らしい挨拶をすると、すぐに回廊の中庭へ出て行った。片隅にある蓋付の砂場で、楽しげに遊んでいる。頻繁に訪れては遊んでいるよう。
「憧れる、なんて素敵な式場なのね。綾乃さんはそこじゃなくて良かったの」
「はい、決めたところは打ち合わせにも行きやすくて、良かった事の方が大きいです」
「そう、差し出がましいことを言ってしまって、ごめんなさいね。そういえば先日綾乃さんのご両親が送って下さった魚の詰め合わせ、どれも美味しかったわ。パンフレットを拝見したらお店で手作りなのね」
「はい、一番上の兄が大学で地域学を専攻して、そこで学んだ代々沿岸地域で作り続けられていた保存方法に一工夫して販売しています」
「まあ、そうなの。綾乃さんのご実家でしか味わえないご馳走ね。主人もあの子達も、お魚は苦手で食べたがらないのに美味しい美味しいって、あっという間に食べてしまって、ねえ」
「だって身がふっくらしていて、とても美味しかったんだよ。今度お会いした時には、綾乃さんのご両親に御礼しなければ」
 笑いながら見つめ合って話している御夫婦の仲の良い雰囲気に、嬉しくなった。お姉さんも旦那さんも、聡のお父さんも私が会話の中にいられるように、と沢山の話題を振ってくれていた。その中で聡と実和子さんはじっ、と私のことを黙って見つめていた。


 夕食を近所にある家族行きつけのレストランでどうだい、と聡のお父さんに声を掛けられて、微笑み承諾した。聡はずっと面白くなさそうにしている。何度ももうホテルに戻りたいと言っていたけれど、折角東京まで出てきてもらって、もてなしもせずにいるなんて、とお父さんとお姉さんから責められて、機嫌を損ねていた。
 ううん、ずっと、この家に来てから機嫌は悪い。早々と帰って、またあの腕の中へ閉じ込められてしまうのなら。夜は、短いほうが、いい。
「いらっしゃいませ、ようこそお越し下さいました」
 真っ白なシャツを着たマダムは、古い木の扉を開けると優しい微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「こんばんは、今夜は新しい家族をお披露目したくてね」
「真っ白な子よ。今日は暖かいものがあるといいのだけれど」
 聡のお父さんに続いて、実和子さんはマダムへ意味深なことを話した。まあ、と目を丸くしてええ、勿論ですともと請け負ったマダムは、私達を広くて奥まった席へ促した。
「もう、長いことご家族でいらっしゃって、かれこれ、二十年近くお付き合いさせて頂いているんですよ」
 簡単な自己紹介を交わすと心地のいい、良く通る声でマダムは家族の思い出を交えながら、どんな料理を出しているのか教えてくれた。お姉さんが大学受験で緊張し過ぎたときに優しい気持ちになれたリゾットや、聡が海外に転勤になる時に特別に作ったというジビエ。産まれて初めての外食で、聡の甥っ子達が一口含んで余りの美味しさに、もっともっととねだったという黄金色のコンソメスープ。メニューは一切渡されなかった。なのに話を聞いていくうちに、一通りとても美味しいご馳走を食べた気持ちになっていた。
「今日はたっぷりのお野菜をいれたスープが上出来だとシェフが胸を張っていました。いかがでしょう」
 にこにことしたマダムに、いつの間にか頬は緩んで、それでもどうしたらいいのか分からず実和子さんを見ると、ここのスープはとても美味しいのよ、召し上がったら?と促され、頷いた。
 そこからは魔法のように料理のコースが組み上がっていった。男性陣は頬肉の赤ワイン煮込みを中心に、子ども達と女性は黒鯛のポワレを。ほんの少しだけワインも飲みましょう、と促され、おすすめのものを頂いた。
「おじいちゃま、どうしてケヤキの木を切っちゃったんだよ。ブランコを付けてくれる約束でしょう」
「そうだった。でも、あの木はもう中が朽ちていたからね。さくらの方じゃ、いけないかい」
「さくらの木は毛虫が出るから、嫌です」
 話すことに困るかと思いきや、聡の甥っ子の祥一郎くんのしっかりとした可愛らしいお喋りにその場は和んだ。弟の新次郎くんは、はしゃぎ過ぎて私達がプレゼントした新幹線の玩具を握り締め、お父さんの腕の中で舟を漕いでいる。
「玩具のブランコではいけないの」
「長い紐じゃないとぐんぐん漕げないから、嫌だ。玩具のブランコなんて子どもだましだよ」
 実和子さんの淡々とした言葉に、不機嫌な祥一郎くんは唇を尖らせた。まあ、困ったわねと、ちっとも困った様子のない実和子さんは笑う。
「祥一郎、もう止めなさい。それ以上おじいちゃまとおばあちゃまを困らせてはいけませんよ」
「お姉さんは毛虫、好き?」
 聡のお姉さんに叱られたのに、お構いなく祥一郎くんは隣にいる私へ質問を投げかけてきた。
「私は、田舎育ちで兄弟も多くて、兄によくプレゼントだよって騙されて手の平に乗せられていたから、平気だよ」
「乗せられたの?」
「そう、こうやって、ポケットから『あやちゃん、いいものやる』って」
 短い裾のジャケットの小さなポケットに手を入れて、しっとりした小さな手を取った。握らせるようにその手の平へ小さなイチゴの飴を渡すと、祥一郎くんの目は輝いた。
「くれるの?」
「それしかなかったけれど、イチゴ飴は好き?」
「好き!ありがとう、あやちゃん」
 嬉しそうに笑った祥一郎くんは、大切そうにベストのポケットへしまった。そのタイミングでマダムは爽やかな緑色をしたガラスの器を持ち、現れた。
「そら豆の冷たいスープです。ほんの少しずつですけれど、食事をこれから召し上がって頂く前の、映画の予告編のようなもの、ですね。新ちゃんにはこれをどうぞ」
「まあ、綺麗な色ね」
「そら豆は今時期が一番美味しい季節ですもの。ぷりっぷりの新鮮なそら豆を使っているんですよ」
 マダムは最初に私の前へ器を置くと、さりげなく料理の説明をしてくれた。初めて来た私が戸惑わないように、美味しく食べられるように、そんな配慮は柔らかな空気に乗せられて伝わってくる。
 柔らかな光に包み込まれるような天井と、年季を感じさせるのにとても清潔な店内は、賑やかなのに静かだった。満席に近く、どの席も穏やかな会話がされているのに、適度な静けさ。
 頂こうか、と聡のお父さんが促し、まあるいスープスプーンを爽やかな緑色の中へ沈めた。口に含むと冷たい口当たりの後、そら豆の滋味が中へ広がっていった。丁寧に裏漉しされて、それでも細かい口当たりのそら豆のスープはするりと喉の奥へ流れていく。驚きで、目を見開いた。
 美味しい、よりもっともっと上の言葉を探して、見つけられなくて、それでも笑みは自然に溢れた。
「今日のアミューズは、絶品ね」
「ありがとうございます。シェフも喜びます」
 実和子さんの満足そうな言葉に、マダムは前菜を出しながらにっこり微笑んだ。いちじくと濃いプロシュートの生ハムや、ひらめのカルパッチョなどが少しずつ乗ったお皿も夢中になって食べた。お行儀が悪いかも、と不安になって顔を上げると、誰もがにこにことして、嬉しそうにしていた。それだけで私も嬉しくなる。でも、隣を見ることは出来ない。
「さあ、暖かいスープですよ。あっつあつのうちに召し上がって下さいね」
 小さなスープ皿が目の前に置かれて、すぐに立ち上った湯気は、優しくて美味しそうな匂い。さあ、さあ食べて、と促されて大きめのスープスプーンを取った。ごろり、と大きめなホタテが現れて、トマトとオリーブオイルの匂いが食欲をそそる。やっと食事にありつけたひとのように行儀悪く、ふう、ふうと冷まして、ほおばるように食べて、悶絶した。
「よかったわ。やっと血色が良くなったわね」
 白ワインを飲み、実和子さんは嬉しそうに微笑んだ。真っ白だったもの、あなた、そう続けられて思わず頬に手を当て、気がついた。私、笑っている。
「とっても、とっても、美味しかったです」
 メインとして出て来た黒鯛のポワレは量が少なめで食べきれる量だったし、ほんの少し雲丹の乗ったリゾットはお腹を優しく満たしてくれた。さっぱりとしたソルベまで、楽しい、嬉しい食事だった。
「また、いらしてくださいね。お待ちしていますよ」
 マダムは賑やかに席を立った私達を外まで見送ってくれた。慌てたように、それでも人の良さそうな笑顔で追いかけてきてくれたシェフにも、それぞれがお礼を言った。とっても美味しかったです。楽しい時間でした。ありがとう、と。
「お二人の結婚式が楽しくて嬉しい時間になりますよう、祈っています。ご結婚、おめでとうございます」
 シェフのお祝いの言葉にほこほこと暖まった心で、聡を見上げた。少しだけ読めないハチミツ色の目線を向けられて、シェフへ向き直った聡は、いつものニコニコ顔でありがとうございます、と丁寧に答えた。

 帰りのタクシーの中で私は饒舌だった。マダムの人柄とお店の素晴らしいと感じた所を述べて、ご家族の優しさに感謝した。聡はニコニコしながら、タクシーを降りてホテルの部屋の前まで語り続けた私に相槌を打っていた。
「緊張したけれど、歓迎して下さって嬉しかった」
「うん」
「お会い出来て、良かった。何だかホッとした気分」
「そう」
 部屋の扉は大きな音を立て後ろで閉まった。振り返るとそこには、にっこりと、惹きつけられずにはいられない笑みを浮かべた聡がいた。
 全身の血が一瞬で冷えた。吐き気がする。胸焼けみたいな。
「綾乃、おいで」
 一歩踏み出した聡から、思わず一歩下がった。どうしよう、何を間違えたの。
「どうして震えているの、怖くないよ」
「怖く、ない」
 鸚鵡返しをして、そうやって思い込もうとした。怖くない、怖くはない。
「あのひとが好き?」
「あのひと、って」
「wicth」
 綺麗な発音。ああ、でも、何故、どうして。
「笑わせたいのに、綾乃はどうして泣くの」
 大きな手はなぞるように頰に触れた。上を向かされて睫毛を唇で丁寧に掬われる。ちゅ、と音を鳴らして皮膚に柔らかく触れ、ブラウスのボタンを開けられていく。
「脱がせて」
 唇に触れる前に優しい命令を出されて、激しい口付けを受けながら震える手を動かした。薄い水色のツイルストライプのシャツのボタンは、上手く外れない。手探りで何とか探し出した。
 薄目を開けると、私を捉えて食らいつくそうとしているハチミツ色の獰猛な眼があった。ああ、今夜も。絶望的な快楽が、来る。身体は心とは裏腹に受け入れる準備を始める。ふるり、と下胸が解放された感触がして、上に着ていたものは全て一気に取り払われた。長い腕がばさりと音を立て、鏡台の前のチェアへ服を掛ける音がした。
 容赦なく抓り上げられるように両胸の先をいじくられ、鼻から声は抜け出た。執拗に吸われ続けて来たことで、得られるようになった快楽を期待と怖れで待つ。すぐに与えられる日もあれば、気狂いになりそうなほど焦らし、求めさせてやっとの時もある。
「手が止まっているよ」
 酸欠になりそうなキスに気を取られて、お留守になっていた手をまた動かす。スカートのジッパーは降ろされて、落とされて。やっとボタンを外し終わると、聡はジャージーなソフトジャケット毎、シャツも脱いだ。屈んでベルトを外す。手は震えて、時間ばかり掛かる。脱がせて目の前に現れるそそり立つ凶器に触れようとして阻まれた。
 天井を見つめていた。柔らかいホテルのベッドが、何度も軋む。最後の一枚を取り去る時、何時だって聡は満足気な笑みを浮かべる。たまに言葉で見たままを言う。
「溢れでて来たよ。とろとろしてる」
 見られているそこが甘い声に反応して、小刻みに痙攣した。大きく追いやるように足を開かれてすぐに強い刺激を感じた。舐め取られる音に合わせるように、声が出る。すすられるように繰り返し一定のリズムを聡は刻む。最初は感度が驚く程悪くて、今日は感じないで終わるんじゃあ、と思う。でも、熱を持つようになって舐められているところのことしか考えられなくなって、細い悲鳴を上げて達しても、後頭部が痺れてがくがくと腰が揺れても、解放されない。
 ああ、また、今夜も。
 何度目か分からない程達して、口の中がからからに乾いて、このまま干からびてしまうのもいいと思う頃、口移しで冷たい水が舌先から流れ込んでくる。素直に、むしろ積極的に吸い付くと聡が全身で喜んでいるのを感じる。
「あんなに可愛い笑顔を、久しぶりに見た気がするよ」
 四つん這いにされて、でも身体は持ち上げてはいられずにひしゃげた。身体を持ち上げられて、二本の逞しい腕で後ろから抱きしめて支えられる。
「何かくすぶっているの。聞いても答えてくれないけれど」
 これから私の中で暴れ回る凶器を背中に感じて、ぶるりと震えた。耳元で囁かれる声に、声無き声が溢れる。怖い、怖くない?
「笑わせたいよ、でも俺は間違っているんだよね」
 間違って、ああ、そうかも、そうなのかな。
「いっそのこと、壊しちゃおうか」
 長い指は後ろの穴を縦に行き来し始めた。出ない声を励まして、いや、と掠れた声で呟いた。
「ここ」
 指先は埋まって、有り得ない位に背中がしなった。殆ど動いていない頭の中は恐怖で満たされた。怖い、怖い、こわい。
「入るかな」
 指を引き抜かれてぐ、と硬い先が当てがわれた。嫌だ、こわい、怖い!
「ご、めん、なさっ、ゆる、して」
 涙がシーツに音を立てて落ちる。乾いていたと思っていたのに、まだ、出るんだ。何処かで冷静な自分がそう思っている。
「何に対して謝っているの。許されないことをしようとしているのは、俺だよ」
 ミリミリとこじ開けられそうになる感覚に混乱して、力を振り絞るように叫んだ。助けて、お願い。
「こわ、怖いの!」
 奇声を上げてから自分の腕が奇妙な動きをして、真っ黒な闇を感じた。もう、一緒にいられないかもしれない。これ以上、何を受け入れるべきなの。
「綾乃」
 気がついたら正面から抱きしめられていた。その温もりに安堵する。良かった、怖くない。もう、怖くない。
 宥めるようなキスをされていた。やっと息を吸えるような。解放されて気が緩むような。薄いゴムが弾け取られるような音を聞いて、プラスチックの包装を歯を使って切り裂く気配に、心の中は時を止める。
「入れるよ、ここに」
 何時だってこの瞬間、このひとを大好きで大嫌いになる。ゾクゾクするような愉悦を孕んだハチミツ色。私を組み敷き、支配することを隠そうともせずに喜んでいる。その表情を美しいと感じてしまう。
 綺麗だな。嬉しくなって、笑う。本当に触れられて喜ぶ。隠さない、彼の残酷な表情を私は、愛していて憎い。
 小さいのに叫ぶような嬌声が漏れ出た。繋がり合ったところがジンジンと熱を持つ。
「ごめん」
 ゆっくりとした満ち引きに、熱くて濃い快感が身体に溜まっていく。あっという間に一度達して、抱きつきながら聡を締め付けた。
「でも、止められないんだ」
 知ってる、知ってるよ。泣きそうな、小さな男の子みたいな言い分。
「愛してるんだ」
 ああ、やっぱり、離れられないかも。こんなにも狂っているのに。

 横たわっていると、腰はベッドに吸い付いて剥がれないような、妙な感覚を覚える。いつも通り、でも、ゆっくりとなら起き上がれるようになった。
 抱っこしてあげる、と言われても大丈夫、と断ってバスルームに籠る。バスタブでシャワーを打たせ湯のように浴びながら、柔軟をすると身体は軽くなってきた。
「開けていい?」
 浴室の扉の向こう側から呼びかけられて、たっぷりと時間を使って拒否した。
「水分、摂った方がいいよ。ずっとここにいると喉も乾くだろう」
 水ならたっぷりとここにある、でもそんなことを言っても、聡には通じない。答えず、上半身を捻っていると浴室の扉は開いた。
「嫌、って言った」
「………声が小さ過ぎて、聞こえないよ」
「い、や」
「怒っているの」
「閉めて」
「そんなに可愛く拒否しないで、やってあげる」
「し、め、て」
 御構い無しにシャワーの栓は閉じられた。バスタブの淵を拭いて腰掛けた聡は、大きな両手で私の肩を揉みみながら胸が反るようにした。ストレッチをしてくれているのはありがたい、でも話しをしたくない。
「東京で行きたいところ、ある?」
 首を横に振って、伸びるようにストレッチをしてくれる手を感じた。聡は私を壊し、そして修復する。ずっと、一生、こうなのかな。
 仕事を辞めて、結婚して、ここに付いてきて、いつ昨晩のように滅茶滅茶にされるか分からず怯えながら暮らす。捨てられるんじゃないかと心配しながら話し、聡へ従う。
 それって、幸せ?
 こうやって修復されている時に、愛されていると感じていた気持ちを今日は持てなかった。昨晩のあのお店で起こった、嬉しい気持ちを聡のご家族と共有した時のような、あの感触が本物の愛情なんだと思ってしまった。
 聡にもそういうところはある。でも、知ってしまった。このひとは、私を閉じ込めてしまいたいのだと。
 誰かに会うのが怖い。どの瞬間に機嫌を損ねるのかが分からない。それなら部屋に閉じこもってしまえば平和になるのかと思いきや、聡の顔は浮かない。どうすればいいのか。
「午後から、出られる?」
「………聡が、決めて」
 連れて行かれても、置いて行かれても、どちらも傷つくような気がした。
「体調は?」
「痛い」
「どこ?」
「いろいろ」
「無理させて、ごめん」
「どうして?」
 ぴたりと動きは止まって、両手で二の腕を握り締められた。
「私は昨日、とても嬉しかった。お料理も美味しくて、お話も聞けて、なのに、どうして」
「泣かないで。笑っている顔が見たいんだ」
「聡が、泣かせている」
「俺は頼りにならない?」
 泣き顔をゆっくりと向けた。何を言っているんだろう、このひと。意味は分からない。
「プロポーズした頃から、綾乃は笑わなくなった。ずっとだ。俺はずっと綾乃に聞き続けている質問がある。でも、どうしたのか、って問いかけても諦めるようなネガティヴな答えしか返ってこなくて、辛い」
 笑えばいいんだ。そうか、そうすればいい。でも、それでいいの?
「結婚して、新しい環境になることが不安?」
 少しだけ頷いた。涙は拭われて、頰に軽いキスを受けた。
「家のことは綾乃に一任しないよ。俺も仕事は忙しくなると思う、でも休みの日は今迄のように一緒に料理したり、後片付けだって一緒にやったら楽しいよね。空いている時間は習い事してみるのもいいんじゃないかな。興味のあることを今から見つけておくのもいいしね」
「………うん、そうだね」
 無理矢理笑顔を作って、その言葉に答えた。次々に出される提案に微笑んで頷くと、ほっとしたような顔を聡は見せる。上がっておいで、と促されて素直にバスタブから出た。ふわふわのバスタオルで丁寧に身体を拭いてくれる聡は、もうご機嫌だった。
 ずっと笑い続けていなければ。
 私の中で、聡の機嫌を損ねないための項目に、もう一つ追加されただけのこと。

 五月晴れの昼下がりの初めて訪れた御苑前は、目の前を過ぎていく人通りがとても多くて、それだけで大型連休の最中なのだと思い知った。テラスのあるカフェから緑の木々を時折眺めた。
 聡の友達を紹介されて、彼等のそれぞれが似ている服装と、首から上に並ぶ個性溢れる表情に、なんというか、納得をした。
 エキゾチックな顔立ちの人と、クールな目元の和な顔立ちの人、そしてお日様のように輝いた笑顔で無邪気な感じの人。いい大人になっている四人の男性がじゃれ合うように、口からは難しい専門用語を交わしながら話しているのを、口を挟まず、にこにこして見守っていた。私、居なくてもいいんじゃ、ないかな。そんなことをほんのり思った頃、エキゾチックな顔立ちのアレクサンドルさんは話を振って来てくれた。
「あやのサンはこのハラグロのドコが好きですか」
「ハラグロ、ですか?」
「そう、ハラグロ、こいつ、ハラグロ」
「アレクは日本語が分からないんだよ。何かと間違えているよね」
「こんなクロい笑い方スル男は止めて、僕はどうでしょう。僕、優しいヨ」
 私の左手を取りかけたアレクサンドルさんの手を、反対側から素早く伸びた聡の手が制す。二人が揉めているにも関わらずクールな目元の渡瀬さんは淡々とした言葉で尋ねてきた。
「身勝手な聡のどこが良かったんですか」
「み、身勝手、でしょうか」
「半端なくイカれて壊れているのはこいつだけれど、聡は静かに物事を押し通すから昔から厄介でね、でも、一応常識は身に付けているから話は通じる。そう思うことはありませんか」
「イカれてるのは認めるけど、壊れてはいない」
 渡瀬さんに揶揄された無邪気に笑う廣田さんは、母校に残り活躍する化学者のポープで異端児だと紹介された。四人は大学時代の山岳部の仲間で、アレクサンドルさんは紛争の続く国から難民として親戚を頼りに一度アメリカに渡り、その後日本へやって来たという。渡瀬さんは経済産業省のキャリア、三人とも山の魅力は聡が教えてくれた、と言った。
「お待たせしました」
 若くて背の高いお兄さんが目の前によく焼けたチーズスフレと紅茶のポットを置いて、ティーコゼーを掛けた。ここが行きつけだというアレクサンドルさんの猛プッシュで決めた一品だった。
「ここのスフレは美味しいですヨ、はい、あやのサン、アーンしてください」
「止めて、アレク」
「オオ、コワ」
 フォークを奪い取った聡は、そのままスフレをアレクサンドルさんの口に突っ込んだ。渡瀬さんはギャルソンさんにフォークの替えを素早く頼んでいて、廣田さんはマイペースにエスプレッソを飲んでいた。
 四人揃うと大人なのに、落ち着きがない。騒がしくつるむ男子中学生みたい。もう、帰りたいな。
「で、そろそろ聡のどこが良くて結婚するのか、教えてくんない」
 ソーサーへデミタスカップを戻した廣田さんに、無邪気な笑顔と冷たい口調で聴かれた。
「どうして、知りたいんですか」
「だって君、最初からつまらなさそうだ。聡と目も合わせない」
 図星を突かれて、笑顔は消えた。このひとも聡と同じ。ううん、きっとここにいるひと、みんなそう。
「その質問は、とても答えるのが難しいです。ただ、離れてしまうのは、嫌だから」
「綾乃は生まれも育ちもあっちで、まだ、東京の空気に尻込みしているんだ。環境が変わる時は誰だって緊張するよ。それに加えて彼女からしたら初めて会う粗野な男達がちょっかい出してきて、告白を強要したら嫌だと思う、だから止めて」
 聡は長々と私のことに関して説明を続けた。段々いたたまれなくなって、下を向いていた。紅茶とチーズスフレは、結局一口も食べることはなく、席を離れた。

 東京から戻って来て自分の小さなアパートのポストには、いつもより多めに郵便物とポスティングされたチラシが入っていた。荷物を片付けた後、一つずつ選り分けた。先行セールの案内や退職したひとからの挨拶状に混じって、美しい藤の花の柄が入った封筒があった。差し出し人は『上條実和子』流れるような美しい文字の宛名には確かに私の名前が記されていた。
「なんだろう………ちょっと、こわい」
 すぐに封を切るのは躊躇われて、後片付けを急いでした。気になって仕方がないのに、ワンクッション置いてから読まないと落ち着かない、そう思って。
 ほうじ茶を飲みながら封を切った手紙には、季節の挨拶に始まりあの夜はとても楽しかったこと、私のリラックスした様子にご家族が喜び、聡の冷たいような雰囲気が気になり、手紙をしたためたことが書かれていた。
『聡に、アメリカに居た頃の話を綾乃さんに伝えているのかを尋ねたとき、その必要はないとはっきり言いましたが、あの子は何も知らせてはいないのでしょうか』
 その一文にどきりとした。外国に居たことは、ほんの少しだけ話してくれたことはある。後は実のお父さんが亡くなっていること。聡のお父さんは外国のひとなのかな、と感じてはいた。でも話の流れで聞いてみようとすると、必ずと言っていい程、『俺は日本人だよ』と返された。そして教えてはもらえなかった。
 顔立ちは実和子さんにそっくりなのに、聡の色味は薄い。お姉さんはより薄くて、瞳の色は綺麗な若葉と琥珀が混ざりあった色だった。
 手紙には、私が知らないでいて、望むのであれば話す準備があること、私達の関係を心配していることが書かれていた。実和子さんは仕事があり、中々東京を離れられないので、可能ならば飛行機のチケットを送りたい、とも。もし、忙しいようであれば、文通でも構わない、とも書かれていた。
 少しだけ迷って、便箋と封筒を取り出した。平日は植田さんの仕事を見守らなければならないし、休日は結婚式関連の打ち合わせがある。何より毎日バスの中で会っているのに、平日一日だけでも乗ってこなければ聡は訝しむだろう。休日は、私を抱えて離さないから無理だ。
 自分に自由は意外と無いことに気づいて、それでも実家に居た時よりましだ、と思い直した。近々出る予定の狭いアパートの整理もする。やることはある。
 何より、実和子さんと向き合うことは、聡よりも難しいような気がした。

 実和子さんの手紙はすっきりと纏まった文章で、あまり感情は読み取れなかった。ただ、淡々と起こった出来事を綴り、どう思うのかはこちらに任せるような伝え方だった。
 聡の本当のお父さんと出会い、ご両親に結婚を反対され駆け落ちのように一緒になって聡が産まれた頃、一家は生活の拠点をアメリカへ移した。物事を突きつめていき、実験することが大好きな少年は子煩悩な父親が大好きだった。小さな頃から郊外の森を探検したり、長期の休みにはキャンピングカーであちこち、巡って自然の中で過ごすことを楽しんだ。
 穏やかな生活は、ある日終わりを告げる。
 同じような家々が立ち並ぶ住宅地に住んでいた一家は、引越しを考えていた。二ブロック先の同じ印象を持つ家に、素行の良くない男が引越してきたからだった。何度か家を間違えられて家族は迷惑を被っていた。
 その日、実和子さんは聡のお姉さんを連れて外出していた。帰り着いた家の前には沢山の捜査車両と、規制線が張られていて、実和子さんは最愛の夫が酷い状態で蜂の巣になっている遺体と対面した。
 聡も家の中に居たはずだ、と警察官へ訴え、捜索したが出てこない。絶望的かもしれない、と警察官が説明し、実和子さんは自らも家の中を探した。そして。
 お姉さんの部屋の、大きく開け放たれたクロゼットの中の死角になる隙間で、息を殺すようにして小さくなっていた聡を発見した。

 裁判と訴訟にはならなかった。多額の賠償金で和解が素早く成された。実和子さんは言葉を濁すような、ここだけははっきりしない書き方をした。そして、家族の安全と気持ちが不安定になってしまった聡を守るため、日本へ移住を決めた。でも、実和子さんの実家は一つ、条件をつけた。
 子ども達のアメリカ国籍を放棄し、これからは日本人として生きていく。それを受け入れ決めたのは実和子さんで、子ども達は与り知らないことだった。そのことを彼女は今でも悔いている。
 子ども達は日本になかなか馴染めなかった。特に聡は何度もケンカをして、相手を言葉の暴力でねじ伏せて友達との関係を拗らせ、実和子さんは度々担任の先生から呼び出しを受けた。
 上司である実和子さんの今の旦那さんは、度々元、男の子としてのアドバイスをくれたそうだ。社内のレクで会った時にお姉さんと聡と目一杯遊んでくれて、不満を聞き出してくれた。帰国子女だった旦那さんは何度も実和子さんと子ども達の力になってくれた。そして。
 聡は今のお父さんと暮らし始めてから、一緒にまた森の中へ入るようになった。二人で、時にはお姉さんも一緒に山々を巡り、その頃から気持ちも落ち着いて、でもどこか醒めた目でこの日本を生きていた。
 一度だけ聡は気持ちを爆発させるようにこの国が嫌いだ、と大きな声で訴えた。本当の自分の名前を返して欲しい、永遠に失われた本当の名前を、と。
 子ども達は生まれた時にファーストネームを日本国籍では付けておらず、アメリカ国籍のみで名付けられた名前は、国籍を失った時に、また失った。
 命があって、大切な家族がいて、生活に支障がない。それなのに、生きているだけでHappyなのに。
 そんな考え方を明るく話したアレクサンドルさんと大学で出会い、また聡は変わった。私達は、出逢ったひとたちにとても恵まれた。そして人生を共に歩みたいと綾乃さんを紹介してくれて嬉しかった。でも。
 お嫁さんになるひとのあまりの生気の無さに、息子に怯えた様子に心を痛めている。関係が柔らかなものになれるといい。しかしもし辛いのならば考え直すのでも一向に構わない。
 季節の変わり目に何通も交わした手紙は、何時だって聡と私の幸せを願った言葉で締めくくられていた。


「要らない。ゲストへは俺たちの馴れ初めからだけでいいよ。それで充分だ」
「そうかな、でも、小さい頃の写真があった方が」
「それなら、スライド自体要らないよ」
「私は、披露宴に招待されたなら新郎新婦のことは知りたい、けど、駄目かなぁ」
 休みを取った今日の打ち合わせで担当のおっとりとしたウェディングプランナーさんは、お色直しの最中に二人の生い立ちや馴れ初めを紹介するスライドがあるとより、場の流れが引き締まりますよ、と提案してくれた。
 交わし続けた手紙で聡の生い立ちは知った。でも私は知る毎に聡が話してくれたなら、どんなにか良かっただろうと思ってしまった。話しやすいように話題を振ったり、託つけて聞き出そうとする度にそんなことを知ってどうするの、過去は過去、これからどうするのかが大切だよね、と取り付く島もない。
「要らない」
 ばっさりと切り捨てるような言葉に俯いて、そしてすっかり暗くなった道に浮かぶ街灯を助手席から目で追った。きっと機嫌はとても悪いだろう。聡の家へ向かっている車を降りて、そのままあの狭いアパートへ帰ってしまいたくなる。
「どうして、要らないの」
「子どもの頃の写真を見てどうする。特に俺の父は再婚だから、赤ん坊の頃の写真を見ても複雑だと思うよ」
 もっともらしく聞こえる言い訳を聡はした。私が配慮の出来ない、考えの足りないひとになったような気持ちになる。話し合っても無駄に思える。
「分かった、もういいよ。スライドは無しでいいよ」
 聡は黙った。重苦しくて冷たい空気に耐える。一緒に居てもちっとも楽しくなくて、本当にこのまま結婚してもいいのか、そんなことを考えてしまう。
「母に何か言われた?」
 平坦な、冷たい声で問われて返事は咄嗟には出来なかった。きっと肯定になってしまっただろう。
「あのひとの言うことは信じないで。気持ちを弄ぶことばかり言う人だから」
「嫌いなの?」
「何とも思っていないよ。ただ、たまに無性に行動が目につくことがある」
 静かにそう呟いた聡の横顔を見た。運転するために前を見て、険しいその表情の奥にある本音を知りたいのに。きっと聞いたら消えてしまう。
「で、あのひとは、何を言ったの」
「………私達のこと、心配してた。上手くいっていないんじゃあないの、って」
「確かに最近、しっくり来ないよね。でも、ちゃんと話し合えばいいことばかりだから」
「本当に、本当にそう思っているの!私達話し合いなんか出来てない。出来てないもの」
 瞬間苛立ちは身を焦がすように立ち上って、涙は溢れた。規則正しいハザードの音がして、シートベルトを外されて、抱き寄せられた。
「話して、不安に思っていること、全部」
 どれから話したらいいのか分からない。細やかな向こう側の見えない蜘蛛の糸の中に閉じ込められてしまった気分だった。本当に譲れないことを私は見失って見つけられないでいる。
「どんなに話したくても、私の考えは否定された気持ちになることばかり。もう帰りたい、お家に帰りたい」
「綾乃、落ち着いて」
 長い舌は荒々しく私の唇へねじ込むように入り込んで来た。ぎゅう、と抱きしめられて、それだけで愛されている錯覚を起こす。車内に小さな水音とハザードの不協和音と、ほんの少しの絶望が生まれる。


 自分の内側から、一際獣じみた意味の無い声は押し出されるように出て行った。
 私より厚くて硬い胸に左頬は、水分を含んで張り付くようにしている。
 何よりも力強く早い心臓の鼓動を、荒い息を繰り返し吐きながら、聞く。
 聡の長い腕と、大きな、それでいて繊細な動きをする手の中へ、すっぽりと私の身体は納められていた。
 まるで、大切な宝物を手放したくはない、と言わんばかりに。

「綾乃」
 左頬を張り付かせたまま、硬い身体から小さな声が響く。名を呼ぶ、極上に甘い声は私の身体をぶるり、と震えさせた。

 こわい

 そんな気持ちを浮かべてはいけないと、そう思っていたのに。

 頬ずりするような動きが頭の上で感じられて、身を固くした。どっちなの、まだ、まだなの。
 身体はもうクタクタで、思考は停止寸前。さっきまで激しい動きでかき乱されて、グズグズに緩んで、そして聡をきつく締め付けたところは、最早感覚が無い位に熱い。
 終わったの、それとも。

「綾乃、可愛い」

 また、また甘い声。こわい。目を閉じた。

 ちゅ、ちゅと軽やかなリップ音がゆっくりと降ってきて、そのまま身体は座らせるように起こされた。
「腕を、回して」
 身体を支えてくれていた聡の腕の力は、徐々に解れていった。腕は持ち上げることが出来ず、ゆるいゼリーのようにベットへ向けて、私の身体は崩れ落ちていく。

「もう、溶けたのか」
 嬉しそうに嗤う甘い声がまた、苦しい位の快楽へ登りつめていく合図だった。終わって、なかった。再び始まった律動に凶悪な快感が繋がりあっているところから、流れ込んできた。
 耳を甘噛みされて、膨れた乳首は捏ねくり回されて、もう一方の手は繋がっている形に微かに膨らんだ下腹部を撫でられて。
 一気にやってきた絶頂感に、息は止まり、聡をきつく締め付ける感覚がした。
 小さな低い呻き声が、遠くに聞こえる。締め上げているのに、その中を聡は動きを早めた。
 もう、ダメ、全身がわなないて、快感に全て支配されて、一際大きく押し込まれたのだけを強く感じて、そのまま意識は失われて、しまった。


 目が覚めたら、身体はふわふわしていた。ふわふわ、ふわふわって、何。
 喉はからからで、頭が重い。そして何より腰も、重い。
 声を出したい。でも出せない。少しだけ身じろぎすると、ヒヤリとしたもので頬が拭われた。
「ああ、起きた。調子は、どう?」
 調子、そう思った瞬間に得体の知れない気持ちの悪さが、身体の中を包み込む。
「み、ず」飲みたい、までは言えなかった。ベットのスプリングが揺れる感覚がして、顔をしかめた。
 皮膚の表面が、熱く乾いている気がした。苦しい。なにか、飲みたい。
 期待するけれど、部屋の中は静まり返っている。何処かでポコポコと水が沸騰する音がして、微かに純度の高いラベンダーの匂いが、する。

「お待たせ、吐き気はない?」
 枕元が体重で沈む気配がして、ひんやり冷たい手はおでこに当てられた。
 小さく頷いたその動きで、気持ちの悪さは増幅される。口元に軽くストローが当てられて、そっと口を開けると、その隙間にねじ込むように入れられた。
 ゆっくりと吸うとそれは、暖かくも冷たくもないほうじ茶だった。梅干しの味がする。いやに嚥下する音が大きく響いている気がして、恥ずかしい。
「もっと、欲しい?」
 全て飲み切ってストローを離すと、雫は口の端からゆるやかに流れていく。それを冷たい指で掬われた。
「いら、な、い」腫れぼったくなっていた舌の動きは、発語を不自由にしている。少しだけ目を開けると、見下げている聡の顔は心配そうだった。
「食欲はある?」
 小さく頭を振ると後頭部がチリチリと痛んだ。
「熱、あるな。さっき測ったら九度超えていたよ。保険証って持ち歩いている?」
「おさいふ」
「掛かりつけの医者とか、いる?」
「いかない」
 そう言うと、聡は苦い顔になった。そっと頬に指先が触れる。冷たい。
「車出すから、今の内に行ってこよう。薬をもらった方がいい」
「ねむり、たい」
「綾乃、少しだけ、頑張ろう」
「おうち、かえる」
 そう言うと聡は黙った。指先の動きも、止まる。
「そんなに頼り甲斐、ないかな。調子が悪い時くらい、頼って欲しい。明日は休みだからこそ、今ならまだ土曜診療しているから、診察を受けておいたほうがいいよ。ね?」
 その言葉に私は目を閉じた。
 昨夜大泣きした後、少しだけ身体はだるかった。あっという間にバスルームの浴槽へ連れて行かれて、気乗りしないと伝えたのにどんどん快楽を与えられて、その波に流されてしまったのは私だ。
 濡れたままの髪でベットの上でも過ごしたから、多分風邪なのだと思う。
 寝ていれば治る。暖かくして、じっとして、熱が下がるのを待てばいい。
 治癒まで長くなったら聡に迷惑を掛けてしまうし、ほっと出来る家へ帰ってお布団を被りたい。ここは私の家じゃないから。
 そんなことが浮かんでは消えたけれど、一言も口には出来なかった。聡は私を支えて起こすと、何故か慣れた手つきで部屋着から服へ着替えさせてしまった。

 ふわふわした足取りで駐車場まで手を引かれ降りて、車の後部座席に横になって、走り出した車の揺れに眉間に皺が寄った。
「おうち、かえる」
 信号待ちで止まっただろう時に、言葉はやっと出た。聡が振り返った気配がする。
「綾乃、病院へ行こう、ね」
 優しくて、甘い声。帰りたい、おうちに。少しだけ涙が、出た。

 風邪と夏の疲れと、ストレスが一辺に来たせいでしょう、そう診察してくれた知的な眼鏡の女医さんは言った。良く眠って、消化に良いものを食べて、ぐったりしている時は入浴しないこと。そんな注意事項を遠い出来事のように聞いた。
 ご主人にも先生のお話を伝えましょうか、ふらついている私の様子に、年配の看護師さんが慌てて支えながら、聞いてくる。
 ゴシュジン、ああ、そうなのかも。だって、支配されている。何もかも。
 でもじゃあ、聡も今は大石さん。そんな下らない思いつきに意趣返しをしたような、妙な気持ち。
 返事は出来なかった。看護師さんは待合室で待っていた聡へご主人、を連呼して、詳しく私の病状と注意事項を伝えてくれているのを、ゴシュジンへ寄りかかって聞いていた。

 薬局へ寄って、聡の家へ辿りついた時には、意識は虚ろだった。妙に機嫌の良い聡は、手際良く新しい部屋着へ着替えさせてくれた。そしてベットへ横たわらせて。
「暑い、寒い、どっち」
「さむ、い」
 背筋からゾクゾクした悪寒がやってくる。すぐに薄手のブランケットと、軽い毛布と、ふかふかの羽根布団は優しく掛けられた。
「ほうじ茶、飲む?」
「おうち、かえる」
「綾乃、俺は頼りにならない?」
 そのひんやりとした声に、別の悪寒が全身を走った。
「ごめん、なさい」
「もっと頼って欲しい。そんなに他人行儀にならないでくれないか。……家族にだったら、こんなことを綾乃は言い出さないよね」
「ごめん、なさい」
「……少し、眠った方がいい。何か欲しいものは」
 本当は、何も欲しくはなかった。でも、それは許されない、きっと。
「りんご」
「りんごね。分かった」
 ほっとしたような声を聞いて、身体の力を抜いた。帰りたい、でも帰れない。
 うつらうつらとして、意識は揺蕩う。眠りに入りそうになって、はっ、と頭が冴えて、そんなことを繰り返した。
 その間、私を撫でさする手は止むことは、無かった。


 目をまた覚ますと、寝室には誰も居なかった。レースカーテンだけが引かれた窓越しに、真っ青な空と濃いオレンジ色のひかりが感じられる。夕方。
 あつい。おでこに生ぬるい何かが乗せられていて、ゆっくりそれを掴むと汗にまみれた頬を拭いた。
 身体が軋むような痛みを感じながら、起き上がる。ふらつきながらもベットから足を下ろすと、すべすべのフローリングは足の裏へ冷えた心地よさを与えてくれた。
 そっと寝室の扉を開けると誰も、居ない。淋しさと安堵と依存と冷めたこころを、一気に感じる。

 私は、おかしいのかな。完璧な看病と繭の中を与えられて、そこから抜け出したい、なんて。

 でも、逃げ出すのならば、いま。

 玄関の扉が開く音がして、ため息をついた。迷っている暇は、無かったというのに。
「綾乃、起きていたんだ。汗、かいたんじゃない?顔色がさっきよりいいから」
 ガサガサと買い物袋を鳴らしながら、聡はリビングへ現れた。嬉しそうな顔で。
「着替え、要ると思って買ってきたよ。あとりんごも。食べる?」
「……うん、ありがとう」
「良かった、今切るから。それともすりおろす方がいい?」
「切る、で」
「分かった。これ、着替えね」
 白くて大きなナイロンの袋を持たされて、寝室へ逆戻り。

 真新しい、それでいて無駄にレースがついていて糊の匂いのするナイトウェアを着て、汗を吸った重たい部屋着を持ち上げたら、寝室の扉は開いた。
「りんご食べて、薬飲もう。そしてまた眠ったら、もっと良くなるから」
 シーツと部屋着はあっという間に洗濯機へ運ばれていって、りんごは口へ運ばれる。
 ひんやりとした、とても甘い果実は上等なもの。
「病気の時は、美味しいのを食べて、元気を出さないといけないよ。ね」
 私の様子から、言い訳のようにバツの悪そうな聡は話す。鼻詰まりのような声で、美味しいと呟くとほっとしているよう。
 白い、舌触りの滑らかな欠片は、二つ食べるのがやっと、だった。
「やっぱり、一緒に暮らそう。一緒に居たら具合悪くなった時に帰る、だなんて綾乃は言わなくて済む。一緒にこれから暮らそう」
 横たわり、布団を掛けた聡は枕元へ腰掛けて、そう言った。汗でべとついているだろう髪を撫でながら。
「ここに居たらいい。ずっとここに」
 ゾクゾクとした悪寒は背筋を駆け抜けていく。繭の中、ずっとこの先も。
 そんなのは、いやだ。
「出来ない」
「綾乃」
「聡は、私を縛りつけて、どうしたいの」
「あやの」
「出来ない」
 歯がカチカチと鳴りだした。身体は震えている。怖い、こわい。
 あのハチミツ色の目が、色々な感情が入り混じった、仄暗い目が、怖い。
「俺は何かを間違えた?」
「なにか」って、なに。
「綾乃の気に障るようなことをしたんだよね。何か」
 そうして聡は微笑んだ。その仄暗い目を、隠そうともしないで。
「離れたいの」
「そうじゃ、ない。そうじゃないの、あのね、聞いて、私」
 そう言いかけて止めた。それは閃きにも似た、気づきだった。追い詰められて、追い詰められて、道は細くなって、無くなって、後ろの壁に背中はぴったりと張り付いているのに。
 追い詰めた男は、恐ろしさしか感じられなかった男は、こんなにも。
「綾乃は何をしても、心が全部解け切らない。どうして醒めていくんだろう」
 呟きのように、言った聡の言葉に、涙が出た。どうして、どうして。そう思っているのは、私だけじゃなかった。
「泣かないで、綾乃」
 溢れ出した涙は、優しい手つきで拭われる。この人は、淋しくて、それを出せなくて、自分を受け止めてくれる誰かが欲しくて、怖がりだったのに。今、気がついた。
 拒否をされたくなくて、大きな身体で、怖がっているひと。

 世界がひっくり返るのは、こんなに容易いこと、だったのかな。

「何が、欲しいの」
「全て」
 余りにも早い即答だった。すべて。それを聡は望んでいる。
「全て、欲しいの」
「うん、全て」
 初めて見る、少年のような表情に、目を見張った。素直な言葉を差し出すようにして、聡は話した。
「こころもからだも生活も、子どもも、未来も全ての綾乃が欲しい。なにもかも」
「じゃあ、あげる。その代わり、引き換えて欲しいことがあるの」
「なに」
「ひとつは、まだ言えない。そして、もう一つは、あなたのことを教えて、私に」
「………知っているよね」
「いいえ、知らない。上辺しか、私は知っていない。それを、知りたい」
 大きな身体をした少年は、私の前で初めて動揺を見せた。穏やかに微笑んだ姿からは想像もつかないほどの、大きな衝撃を受けた顔。
「上辺」
「私の全てを望むなら、私は本当の聡が欲しい」
 熱は上がってきたような気がする。熱い。
 私はこれから、このひとへ向き合えるのか、そう思うと身体はぶるり、と震えた。窮鼠猫を噛む、そんな言葉は今、ここに当てはまっている。
「本当の聡が欲しい」
 そう告げた言葉に、大きな身体をした少年は、顔を歪ませた。
「………まず、身体を治そう。話はそれからでも遅くないよ」
「今、今がいい。もう逃げない。やっと分かったから」
「分かった、って」
「ずっともやもやして、悲しくて苦しかったこと」
 余裕を取り戻そうとする聡を強く見つめた。どうして気づかなかったんだろう。こんなに追い詰められてから、身体が悲鳴を上げてから見えるなんて。
「私はどうして仕事をやめなければいけないの」
 一瞬で眉間に皺が寄った顔を逸らさず見つめ続けた。
「いつの間にか私が仕事を辞めて、聡の転勤についていくことになっていた。反論しようとしたら沢山一緒になることの利点を挙げられて、根負けするまで説得された」
「それは」
「私はいつだって反論したかった。でもスキンシップで封じられてその度悲しくなった。そのうちに諦めた。言う通りにしていたら、聡はご機嫌になるから、だから」
 乾いた頰を涙は染み込むように落ちていった。胸は大きく上下した。触れようとした大きな手は躊躇って、また降ろされた。
「仕事のこと、ちゃんと話し合いたかった。対等に、話し合いたかった」
 瞬きはゆっくりと一つ、された。その表情から、完全な亀裂が入ったことが察せられた。元々薄氷の上へ私達は立っていた。後は氷温の中へ水没するだけ。
「………思いもしなかった。そう綾乃は考えていたんだね」
 呟くようにして言われた。思いもしなかった、本当に?本当にそうなの。それなら私は頑張って何があっても聡へ訴えてみたら、何かは変わったの。
「違う、今、やっと、気がついたの」
 熱い、どろりと流れた涙を久しぶりに自分の手で拭き去った。
「それから私は、聡の本当のお父さんのことも知らなかった。小さな頃の話も。知りたかった、そして苦しんでいることがあるなら、一緒に分け合いたかった」
「あの人に何を言われた?」
「あの人、だなんて、本当のお母さんでしょう」
「………過去は話したくない。もう終わったことで変わらないことだし、同情もされたくない。分け合うなんて、そんなこと綾乃にされたら惨めな気持ちになる」
 がん、と頭を打たれた気がした。私が出来ることはないと拒否された。そう思った。きっと取り縋っても宥めてもこのひとは話さない。
「正直、これ以上なんて言っていいのか、どんな答えが正しいのか、それが出て来ないんだ。衝撃が大きくて整理するので背一杯だ。でもこれだけは分かる。身体は治そう」
 顔を上げて真っ直ぐに私を見つめてくるその瞳の色は、美しく澄んでいた。

 それからひとが変わったように淡々と聡は看病をした。うちに帰る、と訴えた時だけ、病人を放り出せないよ、それは言うことを聞けない、と言うのみで、私が頼む以外のことは何もされなかった。
 熱が下がった日曜日の夕方、聡は車で家まで送ってくれた。うちの近所のパーキングに駐車すると、聡は前を見ながら言った。
「綾乃から言われたこと、色々考えた。結婚したら俺について来てくれると思ったから、プロポーズを受けてくれたんだ、って思っていた。ここに残る選択は俺の中では無いんだ。ここではやりたいことをするのに圧倒的に不利だから。そもそもここには他の人の代理で来ていたから、本来なら今年の春に本社へ戻って欲しいとは言われていた。でももう一年伸ばしたのは綾乃の為だった。ここで生まれ育って、沢山の家族がいて、きっとみんなの前で花嫁姿を綾乃は見せたいだろうと思ったから」
 ゆっくり淡々と聡は話した。それを前を向いて聞いた。
「一度、全てストップしよう。綾乃が仕事を辞めたくないというなら、どうするのか考えてみる。離れてもやっていけるのか、綾乃も何を選ぶのか、選択をして欲しい。ただ」
 不自然に切られた言葉に、その横顔を見た。
「離れてしまったら、きっと俺たちは別れると思う。俺は耐えられないだろうから」
 別れるという言葉をどんな気持ちで聡は使ったんだろう。そうなってしまってもいいと思っているとしたら、とてもショックは大きい。でも、そう言わせてしまうことをしたのかもしれない。
 私は狡いよ。別れたくないと言って欲しがり、仕事も手放したくないと言い張った。そして聡も狡い。別れを匂わせて、それでも私の為にここに今は居ると言った。
「考えて、みる」
 長い沈黙の末にやっと出た言葉はそれだけだった。空気はより重苦しくなる。もう、私達、ダメかもしれないな。合わないのかもしれない。
「期限は、そうだな、設けたくはないけれど、お盆あたりまででどうだろう。俺はそれまで朝、バスにも乗らないから、安心して。どうなるにしろ、綾乃の結論がそれまでにでなければ、もし、結婚したとしても同じことの繰り返しになる。正直、尋ねても答えて貰えなかったのは、苦しかった」
「私のせい、なんだよね」
「………いや、違う。ああ、でも、そうか。そう捉えるよね」
「もう、分かった、送ってくれてありがとう。お盆までには連絡します」
 悲しい気持ちで車のドアを開けた。瞬間、右手首は勢い良く捕らえられた、でも、身体は不自然に大きく震える。怖い。そんな気持ちが伝わったのか、聡はそっと手首を離した。
「じゃあ」
 ドアを閉める時、聡の顔を見ることは出来なかった。振り返らず、アパートまでの道を歩いた。角を曲がって、入り口へ滑り込むように入って内階段を登り、鍵を開けて家の中へ入ってそこから立ち尽くした。
 もう、駄目なのかもしれない。そうだ、前も最後はこんな感じだった。すれ違って、信じ合えなくて、お互いを傷つけた。私、同じことを繰り返している。少しはましになったかと思っていたけれど、駄目なところは変わらない。


 次の日から宣言通り聡は通勤のバスへ乗っては来なかった。一人掛けの座席に座りながら考えるのは私はどうしたいのか、だった。
 仕事を辞めて聡と一緒に生きていくことは、お家で待ち続けて子どもを産んで、びくびくして過ごすことしか思いつかない。お互いに支えあって、きちんと夫婦としての役割を果たし合える関係を私は望んでいたけれど、聡はそうじゃないのは良く分かった。
 あの腕の中にいる時の焦燥と、諦めが入り混じる気持ちをずっと持ち続けていけるのか。
 訴えてお互いが変わっていけるならいい、でもその希望が持てない。
 なのに、離れたくない。
 ぐちゃぐちゃに入り混じった感情が、ため息ばかりを吐かせた。
 それでも仕事になると気持ちは切り替えられる。植田さんへ仕事を振って、見守り、指導する役割があるから。でも、それも上手くいっているとは言い難くなってきた。
「もう少し、効率アップしてやってみよ?過去の書類も参考にして、ね」
「でも、大石さん。この文章変なんです。文脈が滅茶苦茶ですし、直したいです」
「まあ、そうなんだけど、公務員独自の言い回しとか、暗黙のルールとか色々あるの。まずはそういうのを作りながら覚えてみよ、ね?」
 植田さんはだんまりになった。はい、ともいいえ、とも言わずにパソコンのキーボードを叩き始める。何か溜め込んでいるようだけれど、それは彼女の口からは出なかった。
「大石さん、ちょっと」
 平林さんが部署の入り口から手招きしていて、寄っていくと植田さん大丈夫か?と声を掛けられた。
「文学部出身で趣味で文章書いているらしいんで、文書独特の言い回しが目につくようです」
「そっこで蹴躓くようなら、苦しいよな。でももっと割り切ってスピードアップ出来なけりゃ、こっちもキツくなってくるからさ。いや、もうキツいわ。大石さん、こっちにも指導役少し分けてくんない?」
 平林さんはこれから割振ろうとしている植田さんの仕事の六割程を、今進めてくれている。焦れてきているのが良く分かった。
「いいんですか?平林さん忙しいんじゃあ」
「急がば回れ、って言うだろー今、ちゃんと基礎を伝えた方が後々、彼女もこっちも楽になるって」
「いえ、悪い気がします」
「そこで『やだ、平林さん頼もしいわぁ、好きよ』なーんて言ってくれりゃ男は喜んでホイホイ役に立つんだからさ、甘えておきゃいいのに大石さんも頑固だなー」
「えー………」
「言わんのかい!」
 平林さんを白い目で見ると茶化して返された。笑うと満足そうな顔をされて、じゃあ、お言葉に甘えます、と言うと平林さんはほっとした。ふと思う。好きよ、って言ったら聡は、喜んだのかな。

「やっぱ秘書課半端ない。すんごい仕事キッツイ。カタコトシカデナイ」
「な、こんなおばちゃんでも新天地で新しい仕事になったら、愚痴ってグダグダになる訳よ。植田さんなら尚更な訳。だからおじちゃんに不安に思っていること言いなはれや」
「だっれがおばちゃんじゃー!そんなこと平林如きに言える訳ないじゃんねぇー何、平林は口説こうとしてんの?嫁に言いつけるよ」
「ばっかこの、俺と嫁はラブラブですぅー」
「末長く仲良くしろよ、平林!」
 ああ、切実にツッコミ役の山中さんが居てほしいと思う。でも今日は奥様と結婚記念日のディナーなのだそうだ。朝からそわそわして、私と植田さんにこれから頼んでいた花束を取りに行くと、はにかみながら告白して退勤していった。その後、平林さんが飲みに行こうと私達を誘い、渋る植田さんをまあまあと丸め込んで、県庁のロビーを三人で歩いていたら丁度、退勤しようとしていた高橋さんにばったり出会い、飲み行くの、私も行きたい!と目を輝かせたので合流した。
「なんかさー今迄のルールが全く通用しないとこなのサ、秘書課って。臨機応変に自分で対応しろ、って言われたかと思うと、慣例に則ってやれ、とかさー何様だっちゅーねん」
「統括誰よ」
「………榊原主査」
「高橋、何か恨み買うようなことしたんじゃないんかい?榊原主査って総務から秘書課に行った温厚なあの人だろ」
 その言葉に高橋さんはしばし黙って、いきなりテンションを上げた。
「いやー新人はお互いたいへんだよねぇ、植田ちゃん」
「えっ、は、はいっ。……はいって言っちゃった」
「はいって言ったな。よし植田、吐け、腹ン中でモヤモヤしてることぜぇんぶ吐け」
 二人の酔っ払いに絡まれて、植田さんは明らかに躊躇っていた。言おうか言わまいか、でも、素直になることで思いは相手にも届くから。
「植田さんの抱えている気持ちは、きっとここにいる誰もが経験してきたものだと思うよ。そして乗り越えて、折り合いをつけてきたことだからもし相談したいなあ、と思っているなら言っちゃうのもいいと思うよ。無理矢理は聞かないから、安心して」
「大石さんがお姉さんぶってるぅ」
「それに、この人達べろべろに酔ってるから、多分明日には聞いたこと忘れてるよ」
 ぶうぶう文句を言い始めた高橋さんと平林さんを無視して、植田さんへ笑いかけてみる。真面目そうな彼女は辿々しく文書のことを割り切れないで、また仕事を中々覚えられないことに落ち込んでいると告白した。
「何ヶ月かしか働いていませんが、向いていないのかも、と思っています」
「うーん、そっか、よし、お姉さんがまともに喋っちゃうぞ」
 高橋さんは何故そういった文書を作るのか、てにをはと呼ばれる助詞を駆使して大切なモノをもぎ取るためだと力説した。そして議会でそれは論じられて、可決か否決され、通ると形になる。
「例えばある地域で苺農家が増えてきたとする。将来性がある美味しい苺なのに市場では無名であまり評価はされない。選別も個々人でやっているから時間が掛かるし、量を流通させられない。選別場があって、精密な糖度計があったらいいな、と農家は思うよね。それを県が支援してあげられたら、胸を張って美味しい甘い苺です、って市場へ出て行って高値で取引してもらえる可能性が大幅に増える。それを議会へ上げるのは私達の仕事。その時にいかにして相手を納得させて、その予算を回してもらうか、文書には今迄悪戦苦闘した先輩方の知恵があるんだよね。そこんところ大石さん、説明はした?」
「………いえ、していません。すみません」
「平林も同罪だから、いや、平林の方が罪重いから。次から理由も教えるといいよ。まー、こんな話、仕事中にするもんでもないしね。飲みで語る方がしっくりくるよ。どう、納得した?植田ちゃん」
 高橋さんの言葉に植田さんはかっくかく頭を縦に振って、ほっとしたような顔を見せ、ありがとうございます、と言った。平林さんはその間たぬき寝入りをしていて、すぐに気づいた高橋さんからグーパンチを受けていた。
 地下鉄の終電ギリギリまで仕事論を女子三人で交わし、本格寝をした平林さんを叩き起こして、別路線に乗る高橋さん達と駅で別れた。ヒールの音を鳴らし階段を降りながら思うのは、私は何時でも説明不足なのだと思い知ったことだった。
 どうしてそう思ったのか、聡は聞こうとしてくれていた気はする。なのに口にせずにいた。もし、話していたらどうなっていただろう。受け止めて貰えたのかな。
 そう思いを巡らせながらも、私は答えを知っていた。理由をうまく表現出来ずしどろもどろになっても、真っ直ぐに私を見つめていたハチミツ色の瞳。
 異動のことは否定されてとても悲しかった、でも、一緒にいたいってことが譲れない部分だったのかも知れない。いえ、きっとそう。
 一人になると、後悔と畏怖と反省と悲観がごちゃ混ぜになって、どうしたらいいのか途方に暮れる。こんな状態ではいけないことだけは、分かっている。
「大石さん、今、帰りかあい?」
 ふ、と気付くと、終電間際の混雑したホームの乗車列に並んでいた私の真後ろに、大きな紙袋を下げた山中さんとにこにこした奥様がいた。慌てて頭を下げると、四人で飲み会をしていたことを話した。
「金曜の夜に大石さんが飲み会出席だなんて珍しいねぇ。何か彼とあったのかあい」
「まあ、はい、そうなんですガ」
 上手く言えずに言葉を濁すと、奥様はするりと話題を変えて下さった。
「大石さんはどの駅で降りるのかしら」
 最寄り駅を上げると私のアパートの位置を確認した山中さんは、駅からタクシーを使いなさいと眉間に皺を寄せて強めの口調で言った。
「いえ、十分位で着きますし、大丈夫ですよ」
「その十分で何かあったらどうするの。自衛しなさいよ」
「タクシー代もったいないですし」
「そこをケチってどうするんだあい。身の安全の為の生きる金でしょうが。千円あげるから乗りなさいよ」
「でも、その」
「大石さん、主人は若くて綺麗なお嬢さんの身に何かあったら後悔するから、おじさん的な発想で心配しているんじゃないかしら。お小遣いあげて満足したいだけなのよ、ね、貰ってあげて」
 お茶目にウィンクした奥様を山中さんは睨む。ハラハラしているとホームに車両が滑り込んできた。何とか三人、並んで座る。
「あなた、お小遣い差し上げてね」
「全く、この人には敵わないよう。はい、大石さん、お小遣い」
「ありがとうございます」
 奥様越しに小さく折り畳まれた千円札がやって来た。こんなに仏頂面な山中さんを初めて見た。それなのに奥様は平然とまるで手のひらの中で山中さんを転がしているようなことを言う。
「一々、そうやって暴露するのはやめてくれないかい」
「まあ、大石さん見て。このおじさん、恥ずかしがっているわ」
 うふふ、と笑った奥様に私も笑った。お茶目で機転の利く素敵な奥様がいて、山中さんが羨ましい。

 日々働くうちに聡に会わないことを寂しいと思う瞬間は増えた。背の高い栗色の髪の男性の後ろ姿を見ると、胸は高鳴り身体は一瞬震えた。恐れているのに依存性が高い毒花を失って、お腹の底がじくじくと痛んだ。このままじゃ、良くないのに。
「打ち合わせ、やっと終わりましたね。緊張しました」
「来年からは植田さんがするんだよ。流れは分かった?」
 太平洋生命ビルの向かいに出来たこれまた高層のオフィスビルの五階にある、地元で大人気の女性誌編集部へ依頼した首都圏の女性向けフリーペーパーを季刊で製作するための打ち合わせは、午前中いっぱい掛かってそこで一緒にランチを誘われ、楽しく雑談した後県庁へ戻るためエスカレーターを降りていた。
「ざっくばらんな感じでびっくりしました。企画力、というか、発想力が凄いなと思いました」
「そーだねー、まさか、地方のイケメン漁師さんやイケメン農家さん紹介まで載せたいです、って来るとは思わなかった」
「需要、あるんですかね」
「うーん、上半身脱いでもらいます!とかね。どうだろねー自然な写りの上腕二頭筋止まりになるかも」
 担当になってくれた東京の大手出版社からの転職組な田仲さんは、県内の各地を余すとこなく取材する内にガタイのいい第一次産業イケメン男子の魅力に嵌ったらしい。潤いのない都会の女子は絶対喰いつきます!と写真を見せてくれながら、ここの筋肉が、ここが!と力説してくれた。
「一日で筋肉の名称、沢山覚えました」
「三角筋とかね」
 笑いながら一階へ降りて、目線の先に背の高い、栗色の髪を見つけた。
「大石さん?」
 小さなポニーテールの、小学生位の女の子と手を繋いでいる。はしゃぐように顔を上げて話しかける女の子へ優しい笑顔で目を合わせているその姿を見て、焼け爛れるような気持ち。
「ううん、何でもないの」
 きっとあの子が課長さんのお嬢さんなんだろう。それは分かっているのに、あんなに優しい笑顔、ずっと見たことはなかった。
「何か私、しましたか」
 不安そうな顔を植田さんがしてる。あなたのせいじゃ、ないのにね。
「実は、彼氏の浮気現場、見ちゃった。今」
 茶化して言うと植田さんはきょろきょろして、大石さん、こっち、とエスカレーターの影に促してきた。
「どれですか、どの人ですか」
「え、あ、ええと、ね、やっぱ、違ったかも」
「いいですから教えてください」
 数十メートル離れている二人を小声で教えると、植田さんは至極真面目な顔で浮気してますね、と頷いた。
「え、何でぇ。あれ、浮気認定してくれるの」
「彼女が浮気していると思ったらそれってやっぱり浮気ですよ。大石さん、闘わなくていいんですか」
「闘う、って小学生相手に?」
「当たり前ですよ。小学生といえども女ですから。あんなねっとりくっつかれて悔しくないんですか」
 小鼻を膨らませた植田さんの顔を、何だか納得して見つめた。そっか、悔しいって思って、いいんだ。
「植田さん、凄いね。いいこと教えてもらった。ありがとう」
「は?大石さん良く分かりません」
「行こ、植田さん」
「え、突撃しなくていいんですか」
「うん、そういう方法じゃなくて、彼をもう一度振り向かせるよ」
 その方法は、私には思いつかない。それなら学びに行かなければ。

「今晩は、お待たせしたかしら」
「あ、今晩は。いえ、あの、私も今、席についたところです」
 そう言って立ち上がりかけると、感情豊かな右手でその人はそれを制した。
「いいの、座っていてね」
「は、はい、あの、今日はわざわざお呼びだてをして、申し訳ありません」
「主人から話を聞いてびっくりしたけれど、力になってやってくれないか、と言われているの。私でお役に立てるのかは分からないわ。でも、気兼ねしないでお喋りしましょ」
 うふふ、と笑うとその人は微かな皺を目尻に作り、向かいの席に座った。仕事帰りのひとや、待ち合わせ、私達のような女性同士もいる夜のコーヒーショップは、それなりに混雑していた。
「ご注文は、お決まりでしたか」
「そうね、じゃ、アメリカンで」
「かしこまりました、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
 にっこりとウエイターさんに微笑む姿は、とても理想的に歳を重ねている女性像、そのものに見えた。まるでミセス雑誌から抜け出してきたような。実和子さんや聡のお姉さんに似た雰囲気のその人に私は頭を下げた。
「よろしくお願いします。山中さん」

 奥様に、お話を伺いたいことがあるんです、お手数ですがお時間を頂けないでしょうか。そう、席の隣に立って訴えると、美しい愛妻弁当を食べていた山中さんは、塗り箸をぽろりと落とした。
「カミさんに、かい」
「はい、奥様に、です」
「何を聞くことがあるんだぁね。陶芸のことかぁ」
「いえ、夫婦関係について、です」
 そう言うと山中さんは黙った。必死で言い募りたくなる気持ちをぐっと堪えて、沈黙を耐えるようにした。
「はー、そうか、カミさんにねぇ」
「はい」
「やっぱり、拗れてるのかぁい」
「……はい」
「まあ、そうだねぇ、うん、分かったよ、カミさんに伝えておくから」
「ありがとう、ございます」
「大石さん、うん、分かったよ」
 そう言うと山中さんはふう、と笑った。次の日、山中さんは奥様からの返事を伝えてくれて、都合の良い日を教えて貰った。そして今日、私はここにいる。

「主人は大石さんのことを、娘のように感じている様なのよ。何時もヤキモキしているわ。あのお小遣いにしてもそうなのよ」
 運ばれてきたアメリカンの入ったカップを持ち上げながら、山中さんの奥様は微笑んだ。娘のように、そう言われてじわ、と目が熱くなる。
「ありがとう、ございます。あの日はタクシーに乗りました」
「随分と悩んでいるように見えるわ。それで、お呼ばれしたのかしら」
「どうしたらいいのか、分からなくはなって、います」
「以前にお会いした方が、婚約者さんで良かったのかしらね」
「はい」
「そうなの、ええ、何と無く分かった気がするわ」
 そう言うと山中さんの奥様は、にっこりと笑って、話して、婚約者さんのことを、と促した。

 今までのことを、筋道を立てて話したつもりだった。でも話は時々脇道に逸れて、つっかえて、困ってだまって、優しい口調の奥様に助け舟を出して貰った。
 ここに居ることの、ここで働けることの喜びがあることを話したら言葉で、態度で追い詰められたこと、際まで来て気づいた、彼の本当の姿。そして初めての拒否。このまま進んで行っても、お互いに良くはない未来が待っているとしか、思えないこと。

「大石さんから見て、主人は婚約者さんのように心を縛るひとに見える?」
 にっこりと優しい微笑みの人に問われて、黙る。
 どう答えたら失礼に当たらないかを、とても真面目に考えるけれど、中々妙案はうかばなかった。
「いいのよ、感じたままに答えてくださって」
「時々、似ていると感じたことが、あります。一度、彼と一緒にいる時にお会いした時に似ていると、そう思いました」
「あの時、ね。あの後主人は笑顔なのに不機嫌だったわ。面白いから観察していたけれど」
 うふふ、と笑う奥様を思わずじっ、と見つめた。面白い、そう受け止められるなんて。
「山中さんは、ご主人が不機嫌な時に余裕を保てるのが、凄いと思います。私、それが出来なくて、それで」
「大石さんは、優しいのね」
「いえ、どうしていいか分からなくて、受け止めるので精一杯で、駄目です」
「それって、受け止める必要が、あるのかしら」
「え」
「大石さん、昔の私に似ているわ」
「昔、って」
「同じようなことで、悩んだことがあるのよ。だから、大石さんが私の所へ来たのは正しいの」

 何処かで山中さんと奥様は、大恋愛だったと聞いたことはあった。東京から来た山中さんは、奥様と出会ってここに窯を持っていた奥様と離れたくなくて、結局、県庁職員の試験を受け直してここにいる、それは知っていた。その後、そこからの話は現実的で、紆余曲折をしていた、そう感じられる話だった。
「県庁は主人は望んだ職場ではなくてね、ここで暮らすために選んだ職場だったの。今よりも昔は中途で入った人に厳しかったようで、あの人はプライドが高くて不満を溜め込むタイプだから、段々風船が膨らむように何かがパンパンになって、それが私に向けられてしまって。でも私には主人をここに残させてしまったという負い目があって、それを受け止めなければと、必死になったわ」
 彼に起きた真実の出来事を知って、理解して、力にならなければ。
 そんな想いを抱いて必死に向き合っているうちに、身体は動かなくなって、心も動かなくなって、ついに仕事にも身が入らなくなって、休みを取らざる得なくなって、塞ぎがちになってしまった、そう奥様は言った。
「真正面から主人を受け止めることが正しい、そう思っていたの。大石さんもそう思っているでしょう。婚約者さんの過去を受け止めて、力になりたいって」
「……はい」
「でも、どれだけ力を尽くそうとも、その人ではない人が頑張ってみても駄目なの。一緒になって苦しくなったら、共倒れする道しか残されていない」
 その人でない人が頑張っても駄目、その言葉に目の前が真っ暗になった気がした。聡に何も出来ないの、私は。目に涙が盛り上がっていく気配がした。
「だから、頑張るのを止めたのよ。理解をするの、止めたの。主人が選んだ道なんだから、それは主人の持つべき持ち物。私が持つ物ではないと割り切った」
 奥様はお茶目に笑った。まるで悪戯を見つけられて、照れている子どもみたいな、そんな可愛い笑顔。
「がんばるのやめたら、きらわれたら、そうしたら、どうしたらいいんですか」
「大石さん、頑張り過ぎよ。そんなに沢山涙が出るほど、思い詰めてはいけないわ。彼の苦しみは彼だけが抱えていたらいいのよ。あなたが持つ必要は、無いの。でも苦しんでいると感じたのなら、彼の望んでいることをしてあげたらいいの」
 柔らかなガーゼのハンカチで、頬は拭われた。彼の望んでいること。それは。
「余裕がなくて、頑張っている時って、私は本当に主人が望んでいることをしてあげられていなかった。こんなに頑張っているっていう気持ちが、それを知らず知らずのうちに拒否させていたようでね。これ以上そんなこともさせるの、そう思っていたの」
 その言葉に目を見張った。そうだ、大切だと思っていたのに何時の間にか、出来なくなっていたことが、ある。

 おめえ、昔から一人遊びが好きな奴だからな。でも少しは愛情注いで構ってやれ。首のやつは不安だ、っていう無言のサインなのかもしれんぞ。あまり責めてやるな。

 おじさんが言っていたそんな言葉。その通りだと思って、色々やってみた。その頃は聡もとても穏やかで、柔らかで、こんな生活を一緒にずっと過ごせるなら、それは嬉しいとそう思っていた。
 結婚の話が出るようになって、こころの底に何故、私はここを離れるという選択肢しか与えられないのか、そのことでもやもやして声を上げることも無いまま、追い込まれるようになって。結婚をするのならば何もかも受け止めて、そうして、頑張ってそうしないと、いけない気がして。
「大石さんは、婚約者さんのことを、好きなのね」
「……はい」
「でも、自分の望む道と婚約者さんが進みたい道が一緒にならないのなら、結婚は難しいわよ」
 ズバリと奥様は真実を突いてきた。薄々は感じていた、根本的な問題。
「一番大事なのは、これから大石さんがどう生きていきたいか、何が一番大切なのか、それを決めてその決めたことを後悔しないことだけれど、主人のように後悔しないと思っていても、大石さんの中に不満は溜まっていくかもしれないわよね」
「そうです、よね」
「どうしたら、いいと思う?」
 そう問われて直ぐに答えは出なかった。後悔しない方法なんて、あるんだろうか。
「婚約者さんについていくのなら、仕事への想いをどうするのか。仕事を取るのなら、婚約者さんとどうするのか。もしくは、私がしたようにこの地に留まって貰えるように、婚約者さんにお願いするか。どれを選んでも何かの犠牲は出るわ。大石さんは何を選んで、そして犠牲をどうやって消化するのか、そこに私、興味があるわ」
 犠牲を消化、それは難しいことだ。でも。
「山中さんは、どうやって、消化、したんですか」
「あら、私?そうね、一つは主人の荷物を放り出したこと、そして、もう一度主人を見つめ直してみたの。今度は客観的に、風船のガス抜きをどうしたら最小限の被害で出来るか、実験してみたの」
 うふふ、と奥様は笑った。お茶目に、まるでこれから誰かを悪戯で驚かそうと、そうしようとする子どものように。
 涙はすっかり止まっていた。なんてしなやかに強いひとなんだろう。わたしとは全く違う沢山の経験をして、時に苦しんでそれでもきっと、山中さんと一緒に一生を過ごしたくて、そんな覚悟にも似た想いを芯に持って。
「どんな実験を、したんですか」
 少しだけ笑顔が出た。それを見た奥様はあら、と優しく微笑んだ。
「本当は企業秘密、なのよ。でもこれって息子にも効いたのよね。いいわ、大石さんにも特別に教えてさしあげるわ」
 そう言うと奥様はチャーミングで完璧なウィンクをした。なんてそんな仕草が似合うのだろう。きちんと自分に向き合って、そうして歳を重ねる。こんなひとになりたい、そう思えるような。
 そうして教えて貰った奥様の紆余曲折をした実験結果は、唖然として、納得出来て、思いもよらないことだった。そして何故か、一番幸せに聡と抱き合った、その日の出来事を思い出した。何故か。
 ああ、私は、まだまだ世界をひっくり返すことが、足りていない。


 聡へ話があるから、金曜日に聡の家で待っていてもいい?、と尋ねるメールを送ると、珍しく半日後に一言だけ了解、と書かれたメールを受け取った。
 自分はどうしたいのか、それは決まっていた。ただ、犠牲をどう消化するか、それだけはなかなか決められなかった。
 隣が居ない通勤のバスの中で、毎日必死にスマホとにらめっこをした。何か糸口が欲しくて、乗車時間一杯一杯を使ってずっとスクロールをし続けた。時々揺れに気持ち悪くなったりもしたけれど。
 山中さんにはお礼と共に、奥様のファンになりました、そう言ったら珍しく面白くなさそうに照れて、一言だけあいつめ、と言って黙った。
 そんな山中さんの様子に、長い間夫婦として過ごして来た二人の絆を、垣間見た。奥様は山中さんの荷物を降ろしはしたけれど、向き合う事は止めていない。ただ手段を違えているだけで。
 そんなに簡単に、実験結果を教えて頂いて、本当に良かったのでしょうか。
 コーヒーショップからの帰り際、奥様が紆余曲折したものを易々と手にした私は、申し訳なくてそんなことを口にした。
 もし、これを役立ててみて、上手くいったのなら、いつの日にか同じような事で困っているひとに、大石さんが手を差し伸べてくださいな。そうして女性は、ひとは、助け合って生きてきたのだから。
 そう笑ったそのひとに、私はその言葉を身体に染み込ませるようにして、笑った。

 金曜は何時もよりも巻き巻き巻きで仕事をして、なおかつ一時間の年休も取らせて貰った。
 何時もなら聡と週末に向け、金曜の夕食の献立を一緒にバスの中で考えて、聡の家の冷蔵庫にはメニューに合った食材を用意してくれていたから、身体一つで行って作るので良かったのだけれど、今回はそうも行かない。
 西63番のバスを途中で降りて、大きなマンションの下にあるミニスーパーへ寄った。真っ先にお肉のコーナーを目指す。お目当ての品は何種類かあって、どれにしようか迷うけれど、うん、迷う事なく一番高い種類にした。今日だけは節約を返上して、美味しいモノを作りたい。だって。

 どのくらい食材があるかは分からないので、考えていた献立の使う予定の食材を全て買ったら、大荷物になった。うう、重い。
 紙袋と、今買った食材を入れたマイバックはかなりの重量で、足元はふらつく。
 腕時計を見ると、丁度次の西田口営業所前行きに乗れそうだった。
 爽やかな夏の日暮れ前、ふうふう言いながらバス停を目指して歩く。何やっているんだろう、私。
 聡に会うことを思ったら、自然と身体は震えた。本当は怖い。あの家に居て、もしも、一歩も出して貰えなくなってしまったら、あの、ハチミツ色の眼に囚われて、また恐ろしいほど身体を貫かれたら。
 私に刻み込まれている記憶は、ありもしない妄想を連れてくる。本当は怖い。
 でも、決めたことが、ある。そして、やってみたいこと。
 一番左のレーンを白と青のツートンカラーのバスは、停留所に向かいやって来た。目の前で開いた扉から、殆ど乗客のいない車内の入り口近くの席に座って、荷物は膝に乗せた。車内を色鮮やかにしている午後の日差しと、車がバスの横を追い抜いて行くたびにキラキラと天井に輝くひかりは、私を寂しくさせた。


 マンションのエントランスに入った途端、大荷物を見て何時ものコンシェルジュさんが私の所へ大慌てでやって来た。申し訳無くて断ろうとすると、させて下さい、ね、と懇願されるような声音で言われて、渋々お願いすることになってしまう。
 住人じゃない人間のお世話までして下さって、申し訳ないな、と思う。でも、助かる。
 五階の聡の家の前で、マイバックを受け取ってお礼を言ったら、コンシェルジュさんはほっとしたような笑顔を見せた。言葉はない。でも私のことを気に留めていてくれたんだ、と分かる雰囲気に嬉しくて、もう一度頭を下げた。
 気持ちを受け取って返す、どんな些細なことでも。それが、私には、足りていない。

 扉を開けると、聡の匂いがした。何時もの、でも懐かしいグリーンノートの香り。
 夏物のジャケットを脱いで大急ぎでバスルームへ行って、軽く浴槽を洗って、少しぬるめのお湯を張るべく、ボタンを押した。溜まり始めた浴槽を見て、よしっ、と呟く。
 鳥もも肉だけを残して他は冷蔵庫へ入れた後、紙袋から小さなステンレスの片手鍋とバットを取り出して、スポンジを使って綺麗に洗う。
 自分の家で練習した時は、初めては失敗気味だったけれど、二度目は上手く出来た。一人暮らしならそんなに量を食べないし、買った方が安い。でも。
 鳥もも肉を洗って、一口大に切り分けていく。切り終わった肉からポリ袋へ入れていき、どうだったっけ、と鞄からメモ紙を取り出した。
 実家のスーパーの秘伝の味、母に電話して教わった。私たち兄弟は、スーパーにあるいわゆるお惣菜が余り好きではなかった。仕事が忙しい父母は売れ残りを何時も食卓に上げていたものだから、見飽きたし、味も飽きる。
 大人になってからも、積極的に食べたいとは思わなかった。でも。
 調味料を順にポリ袋の中に入れていく。美味しくなりますように、そう願って空気を抜き口を閉めた。

 副菜を作り終えたころにバスルームへ行って、ラベンダーの入浴剤を入れる。自然派化粧品のお店のちょっとお高いものは、入れた瞬間に濃い香りがして徐々に落ち着いていく。
 準備は、これでいいかな。上手く、いくかな。

「大石さん、風船の中の空気を割らずに抜くには、どうしたらいいと思う?」
 オレンジのライトが落ち着いた雰囲気の、夜のコーヒーショップで山中さんの奥様は微笑みながら謎掛けをしてきた。
「え、ええと、良く手品とかでやる、セロファンテープを貼ってから、針で穴を開ける、ですか」
「そうよね、そうすると割れないで少しずつ、空気は抜けていって、風船はしぼむのよね。何もしないで針で刺すといきなり破裂するけれど、一手間掛けると風船は割れないわ」
 そう言うと奥様はにっこりした。一手間を掛ける、それは、どういうことなのか。
「沢山セロファンテープを貼って、色々な箇所から針を刺すと空気が抜けるのは早くなって、小さくなるわ。私が目指したのは、まさにその状態なのよ」


 七時半を過ぎた頃、玄関の扉は静かに開いた気配がした。帰って、きた。
 心臓がどくどくと鳴り出して、それでも口角を引き上げた。深呼吸を一度して、玄関に繋がる扉を開けた。
「お帰り、なさい」
「………ただいま」
 私の靴をじっと見ていた聡は、声を掛けられて顔を上げた。ああ、風船はパンパンに膨らんで、今にも割れそう。
 怖い。でも。
「ごはん、作っているの、だから、お風呂、先に入ってくれると、嬉しいの」
 言葉はつっかえた。聡は顔を歪めて黙ったまま。気持ちが通じますように、そう願って顔を見上げた。
「話をするのが、先じゃないのか」
「そう、だよね。でも、お腹減った時に話をしたら、やっぱり、その、良くないかも」
 緊張で言いたいことは空回っている。上手に説明が出来ない。耳まで赤くなるのを感じて、それでも目を逸らさないで何とか笑い掛けた。
 そんなに経っていないのに、沈黙は長く長く感じる。聡のハチミツ色の眼は、冷たい色に感じられて、拒否されているんじゃないか、と不安になりそうなこころを、ぐっ、と押し込めて笑い掛けた。
「美味しいの、作ったの。だから、ねっ」
「作っているって言っていたのは何」
「あ、出来立てを食べて貰いたくて、これからそれだけ揚げるから」
「揚げる?」
「竜田揚げ、だよ」
 聡は少し考えるようにしている。不安になるけれど、でも、奥歯を噛み締めて呼吸を深くした。
「余り慣れてなくて、時間、かかるかもなの、だから、ゆっくり湯船に、浸かっていて?」
「お湯、張ったの」
「う、ん。駄目だったかなあ」
 涙目になりかけるけれど、声は震えるけれど、目は逸らさない。聡も逸らさない。沈黙。
「…………分かった、入ってくる」
 ため息混じりにそう言うと革靴を脱いだ聡は、私の横を通り抜けて行った。思わず長い長い息が漏れる。崩れ堕ちそうになる身体を励まして、キッチンへ向かうと、小さなキャノーラ油を丸々一本入れたステンレスの小鍋を火に掛け、冷蔵庫から下ごしらえ済みの鳥もも肉を取り出して、なんとなく菜箸を持って身構えた。
 ああ、上手に出来ますように。美味しく出来ますように。
 お皿に下ごしらえ済みの鳥もも肉を出して、揚げやすいように広げて片栗粉をまぶす。小鍋に温度計を入れて、確認してからそっと油の中に少しずつお肉を入れた。
「美味しくなりますように」つい、こころの中の想いは呟きになって、出た。

「聡、あの、バスタオルとか、ある?持ってきた?」
 扉越しに声を掛けるとバスルームから、ぱしゃんと水音が響く。湯船に浸かっている気配がして、安心した。返事はない。でも、低い声を待ち続けた。
「どうしてそんなに、親切なんだ」
「親切、って、あの」
「綾乃が親切なのはどうしてなのか、分からない」固い声は、バスルームに響いた。
「あのね、私、決めたことがあるの。まだ、聡が私を受け入れてくれるかは、分からない。でも、ちゃんと話をして、ずっと一緒に、いたいの」
「一緒、って」
「どうしたらいいか分からなくて、悩んで、沢山考えたの。でも、ずっと、聡と一緒に居たいって想いは、変わらなかった。でも仕事も大切に思っているの」
 バスルームから返事は無かった。少しだけ待って、また声を掛ける。
「私、仕事を続けるっていう選択肢を無いものにされているんじゃないか、って思った時にちゃんと聡に聞けばよかった。どう思っているの、って。そうしないで溜め込んで爆発しちゃ、駄目だった」
「………いや、思いもよらなかったってこの間言ったけれど、無意識で綾乃を追い込んでいたと思う。綾乃が仕事を辞める方向に持っていきたかったのは、事実なんだ」
 ぱちゃん、と高い水音は響く。聡の固くて、それでいて自嘲するような言葉。
「新しい世界に行く時に、一緒について来て欲しいって、そう思っていた。辛いことがあっても家で綾乃が待っていてくれて、笑っていてくれたらきっと仕事を頑張れるって。それを押し付けていたかもしれない。本当は苦しい顔をしていたのは分かっていた。でも理想に拘り過ぎていた」
 そっとバスルームの前で膝を抱えて座った。バスタオルも一緒に抱えて。
「それでも自分がここに残る選択肢を、綾乃の為に選んではあげられないんだ。自分勝手だとは分かっている。それでもやりたいことがあるから、ここから違う場所に行かなければならない」
 バスタオルの中に顔を埋めた。ここから違う場所に行かなければならない、その淡々と話された言葉にやっぱり寂しい気持ちを覚えた。でも。
「そこが埋められないのなら、婚約は解消していい。 俺が悪かったことにすればいいから」
「一緒にいたいの、ずっと」
「でも、綾乃」
「ここに居なくても、出来ることがあるか調べたの。そうしたら、東京には色々この場所に関するお店や、出先機関もあったし、PRだけに特化するなら広告に関わって仕事する方法もあったの」
 また、沈黙。水音すらもしない。
「聡と一緒にいるために、今は一緒に行きたい。でも、私のやりたいことを認めて欲しいの。お家で待ち続けることは出来ない。出来るだけ聡が帰ってくるまでには、家に居たいとは思うけれど」
「海外に出ることになったら、どうする?」
「そうしたら、また違う道を探したい。私に出来ることを、いつでも。それが私のもう一つの望みなの」
 本当は、ここで暮らし続けたい。でも、聡と離れるのは、想像しただけでとても悲しくなった。怖い、そうも思っているのに、それ以上に歪な愛情も感じていた。
 私も聡も、お互いを想っている気持ちを持っているのに上手く相手に伝えられずに居たんだ、と山中さんの奥様の実験結果を知って、そう感じた。伝わらない愛情は、時として相手を苦しめて傷付ける。
 今日の、この実験が新しい一歩になるように、そうして、日々を穏やかに過ごせたら。

「俺は焼き餅焼きだし、心配性だし、綾乃が困るようなことは全て取り除きたいんだ。大切だから、誰にも見せたくない、でも、それじゃいけないんだよね」
「……聡は、私に同じことを言われたら、どう思うの」
「……ああ、そうか、困るね」
「それでもそうするのなら、多分一緒には、居られない」
 そこは絶対に譲れないギリギリの線だった。もっと早くにこうして話をすればよかったけれど、今からでも遅くは無いはず、なんだ。祈るような気持ちで答えを待った。不安になるけれどこれで駄目ならば、未来は良い結果にはならない。
「分かった。ただ、仕事の事を一人で決めないで、俺にも相談してくれないか。ちゃんと、聞くから」
「……うん」
「もう上がるよ、のぼせそうだ」
 大きな水音がバスルームに響いて、すぐに背中に湯気を感じた。湿り気を帯びた大きな手は、頭の上にそっと乗せられて、優しい声は後ろからやって来る。
「竜田揚げ、楽しみだな」
「……好きなの、竜田揚げ」
「嫌いだって言う奴の顔を、見てみたいけれど」
「私の実家に行ったら、勢揃いしているよ。長男から次女まで」
 ぷっ、と吹き出すような声。静かに笑っている気配がする。
「そうか、それで綾乃は揚げ物をしないんだ。何時も実家で食べていたの」
 頭の上に置かれた手ごと、ゆっくりと頷く。相変わらず聡は、一つを言うと色々なことを思い巡らすのが得意なよう。
「それが、今日はどういった風の吹き回し?」
「あ、あの、その……仲直り、したいなぁって、思って。何時もとは違うメニューに、してみたの……」
「そうなんだ」
 頭の上に置いてあった手は、ゆっくり動いて膝の上にあったバスタオルを取った。
「夕飯、何時になる?」
「あ、もう出来ているよ、食べよ」
 うん、と声がして、身体を拭いている気配を感じる。急いで立ち上がると、バットに粗熱を取るために置いていた竜田揚げを盛り付けるべく、立ち上がった。


「うん、美味いよ」
 東京タワーのように積んでいた揚げたての竜田揚げは、 あっという間に魔法のように消えていった。私は一つ位しか食べていない。無言で黙々と口を動かし続ける聡を、唖然として見つめた。
 育ち盛りの、男の子じゃないんだから。そうは思うけれど本当に竜田揚げが好きなんだな、と冷静に見つめた。私に足りないのは、そういう所。
「この、タルタルソースが、また美味い」
「あ、それね、作ってみたの」
 竜田揚げに添えたタルタルソースは、玉ねぎとピクルスをみじん切りした力作だった。一番時間、掛かったもの。
「作った、って凄いよ、あっさりしていて、凄く美味い」
 こんなに手放しで絶賛を受けるとは思わなかった。恥ずかしくなって俯くと、尚も褒める声は追い掛けてくる。
「綾乃が料理上手なのは知っていたけれど、今日のは特別美味いよ」
「そんなに褒めてくれなくて、いいよ」
 嬉しそうに笑っている気配がして、ますます恥ずかしくなる。
「また、作って」
「うん」
 ちらり、と見上げると、もぐもぐと口を動かして、茶碗を片手に箸は竜田揚げを摘もうとしている聡と目が合った。
「ビール、まだ、飲む?」
「いや、いいよ。綾乃は飲まないの」
「うん、そんなにビールは好きじゃなくて」
 そう答えると、聡は竜田揚げをまた口に入れた。見ているだけで胸焼けしそうで、お腹一杯になってくる。このひと、凄いなあ。こんなに竜田揚げを、食べられるなんて。

 茶碗洗いをしていると、いつの間にか聡は隣に立っていた。乾いた手巾を持つと、黙々と洗い上げて籠の中に入れていた食器を拭いてくれている。
「あ、あの、ありがとう」
 最後に小鍋を拭き終わったタイミングで声を掛けると、横目でチラリとこちらをみた聡はおずおずといった感じで尋ねた。
「あのさ、今日は、どうする」
「今日?」
「………泊まって、行く?」
 その口調に、聡も何かを怖がって、そうして怯えていることを知る。ああ、なんて私は無知だったんだろう。余裕があると、見えることは沢山ある。それが私には足りていなかった。
「お風呂から上がったら、肩揉みしてあげるね」
 柔らかく自分が笑っている、それを感じた。そうして見上げていると、驚いた顔をした聡は困ったように笑った。

「どうして、肩揉みまでしてくれるの」
 お風呂に入って、髪の毛は乾かして、眠る準備は全てして、照明を落とした寝室のベットの上で固い顔をしていた聡に有無も言わせず背中に回って、肩を揉んでいる。
「何時も聡は、私に色々してくれていたから、お礼にね」
「……いや、やりたいだけだから、別にいいのに」
「私も、やりたいの」
「別に、肩は凝ってない」
 確かに聡の広い肩は凝っていない。それならば、別の所を揉むまでだ。
「背中も凝っていないよ、綾乃、あのさ、どうしたんだ」
「……何時も、優しくして貰っているから、お返ししているの」
 撫でるように、掌の体温を伝えるように背中を揉んでみる。心地よくなるように、心を込めて。聡は戸惑いながらもされるがままになっている。時々振り返って、何かのタイミングを伺っているような様子に、立ち膝をして、今度は頭の地肌マッサージをしてみる。
「どーですかー聡さん」
「うん、絶妙な力加減でいいけれど」
 まだ、不服に思っていたんだ。そのまま頭を両手で後ろに倒すようにしてみると、わっ、と言って聡はびっくりした声を上げる。後ろへズレてそのまま聡を寝かせるようにして、膝枕にしてみた。
「綾乃」
「なあに」
「しなくて、いいから」
 そう言いながらも、聡のハチミツ色の目はとろみを持ち始めている。もう少し、あと一押しのような気がする。
「触れられるの、嫌い?」
「いや、好きだけれど」
「じゃあ目を閉じていて」
「このままだと、寝てしまいそうだよ。それは嫌だ」
 素直に自分の気持ちを教えてくれている聡の頬に、触れた。ゆっくりと、大きな手は私の手の甲へ重なる。
「何かして欲しいことは、ある?」
 そう言って微笑みかけると、不安そうな目で聡は見上げてくる。
「あ、痛いこととか、怖いことは、でっ、出来ないけど、その」
「抱き締めたい」
 ふうっ、と笑った聡は両腕を広げて、来て、と呟いた。久しぶりにこの中に入るのに、抵抗はなかった。ゆっくりと入り込むとごめん、と呟いた聡は私の身体を抱えるようにして、抱き締めて来た。
「もう、応えてはもらえないと思っていた」
「……あったかい」
「え?」
「聡に抱き締めて貰うの、好きだよ」
 ぎゅう、と抱きついた。 そんな照れてしまうようなこと、言うのは恥ずかしい。でも、それを聞いて聡の腕の力は強まった。絡まる脚の締め付けも。向かいあっているこのひとを喜ばせる、それが私には足りていなかった。とても単純で、素直な気持ちを向けるとストレートに喜びは返ってくる。
 怖い、という気持ちは消えてしまった訳じゃない。痛い位にこのひとに刻み込まれてしまった、それをお互いに分かっている。でも、そこを越えたい。
 許し合って、欲しがっているものを、分け合って補う。私たちに足りなかったのは、そういうこと。
「綾乃、キスしていい」
 覗きこんできた聡に躊躇わず口付けた。私からするキスは、ぎこちなくてとっても不恰好で、下手くそな筈なのに、 絡まってくる舌先からは聡の想いが流れ込んでくるよう。
 そっと目を開けると、とろりと溶けた優しいハチミツ色に出会う。良かった、風船の空気は順調に抜け続けて、あと少し。
 部屋着の前のボタンは、そっと、でも確実に開けられていく。外気をお腹で感じると、ウエストのくびれ辺りから暖かい手は皮膚の上を滑るようにして来て、正面から胸は包まれた。
「して、いい?」
 こんな状況なのに、切なそうな顔をして聴いてくるなんて、反則だよ。そうは思ったけれど、恥ずかしくて言えなかった。代わりに聡の着ているTシャツを何とか脱がせようとしてみる。胸をゆっくりと揉まれながら、私の部屋着も脱がされた。

 何時もと同じなのに、何時もと違う。触れようとして躊躇う、その吐息が焦れったくて堪らない。迷いなく指先が動き、吸い上げられていた時の何倍も、触れられた時の喜びは増す気がした。
 支配をしようと焦らすのではなくて、愛情ゆえに躊躇いがちになるそんな、微妙な、それでいて大きな違いは安堵にも似た快感を連れてきてくれる。胸の突起を吸い上げられて、舌で転がされて、快感は緩やかに高まっていく。
 気持ちいい、って、そのことで身体は一杯になったのに、出て行くのはあられもない声ばかり。感じているって、好きって言いたいのに、グズグズに濡れた所を舐められて、指先が中に入り込んだそれだけで、身体は、高みに登った。
 じんじんと幸せに頭は痺れて、それでも聡へ擦り寄って、何とか身体を起こして、そうして大きく立ち上がった聡のモノへ小さく口付けた。
「くっ、あ、やめろ、あやの」
 私だって、聡を気持ち良くしたい。一度してから、もう絶対しなくていいから、と念押されていた行為をして嫌われたら、と思う気持ちもある。でも、それでも。
 苦味がある先を含むだけで、口内は一杯一杯になった。割れ目沿って舌を這わせると、小さな唸り声がする。吸い上げるようにしたら、私の身体を一度引き寄せた聡は指先をまた、今度は容赦なく突き入れて来た。
「ふうっ、ん、っ!」咥えているから喉の奥からしか声は出でいかないのに、甘い鳴き声になった。くちり、と入口を丸くなぞられて広げられながら、胸の突起も摘まれた。段々口の中に集中出来なくなっていく。
 くち、くちと音を立てながら動く指に耐えきれず仰け反ったら、素早く再びグズグズになっている所を舐めとられて、一気に息は止まった。
「ふぁ、ん、あ、あーーーー!」
 強い刺激に、身体が痺れる。ぐったりとした疲れが、身体にのし掛かってくる気がした。
 すぐにぎゅう、と腕の中に抱き締められた。耳元でごめん、そう囁かれてゆるゆると首を横に振る。
「綾乃、ごめん、でも、したい」
 さっきまで咥えていたものを、聡は待ちわびて濡れた所へなぞるように動かした。
 したい、その意味が分からなくてうっすら目を開けて見ると、聡はトロトロに蕩け切った目で、まるで人生最後の望みなのか、と思える程切なそうにまた望みを口にする。
「このまま、入りたい、綾乃の中に」
 くちり、くちりと卑猥な水音は耳に響く。このまま、それって、何も隔てずに、私の中に入りたがっている、ってそういうこと、なの。
「だめ、かな」
 そう言いながら聡は、ひくひくしている入口に当てがい、ほんの少しだけ(つつ)き始める。なんて甘い脅迫を受けているんだろう。お互いの荒い息しか、寝室には響かない。
 ハチミツ色の目は真剣、だった。私を求めていて、全てが欲しいんだ、そう訴えられている気がして、息を呑む。
 それが、望みなの。視線は、長く、絡みあう。そっと腰は引かれた。
「駄目、だよな」
「いい、よ」
「……綾乃」
「き、て」
 聡に縋り付くと、一気に大きなモノは中に入り込んできた。長い唸り声が耳元で響く。
「や、まず、い、ごめ、イキそう、かも」
 そのまましっとりした身体に、隙間無く抱き締められた。奥の奥だけを小刻みに擦られて、そこから快感は立ち昇るようにして身体中を駆け巡っていく。
「や、あ、あっ、きもち、いぃ、っ!」
 そう叫んだ途端、聡は大きく腰を動かし始めた、嬌声しか、口からは出ない。ナカで聡を徐々に締め付けて、ついに身体は真っ白な世界を感じた時、ぐっと一際強く押し込められた先から、小刻みに何かが流れ込んでくるのを、感じた。広がるように鈍い痛みがじわじわと染みて、それすら心地いい。
 ぎゅうぎゅうに抱き締められて離されて、啄むような優しいキスを顔中に浴びた。ご褒美みたいに。
「俺と結婚して、ずっと一緒にいたいから」
「……ど、して」
「もう一回、言いたくなったんだ。大切にするから」
「ん」
 ありがとう、とかよろしくお願いします、とか言いたかった。でもふんわりと優しい眠りの気配があって、やっと出たのは小さな声だけ。
「すき」
「……ずるいよ、綾乃」
「え」
「そんな、可愛く言うな」
 もう一度強く抱き締められた。繋がったままでされる抱擁は、じんじんとした染みるような幸福感が身体の内側から湧き出てくる。だいすき、そうつぶやくと、愛おしそうに頬ずりされる気配を感じた。

 聡が私の中を出て行って、何も身に纏わないままで抱き締めあっていたら、いきなり聡の動きは止まった。
 眠たいのを堪えて、聡の背中を撫でる。その内に深い呼吸の寝息を感じた。
 ゆっくりと腕の中から抜け出すと、ぐっすり眠っている聡に出会う。思わず笑みがこぼれた。良かった、セロファンテープを貼って、針で空気を抜いて、しぼんだ風船は幸せそうな寝顔をしている。
 こんなに上手くいくとは思わなかった。溢れ出て来たことにびっくりして、慌てて拭き取り、部屋着を身につけてから思った。まるで聡を手の中に入れて思い通りにして、眠らせたことに、妙な快感が湧いた。
 ちょっと、楽しかった。今度は足揉みもしてみようかな。

 ぬるめのお風呂に長く入れて、揚げたての揚げ物とご飯を沢山食べさせて、お布団で心を込めてマッサージしてあげて。そうしたら大抵の場合、マッサージしている辺りで寝落ちるから。次の日はスッキリした顔して起きてくるわよ。
 山中さんの奥様は、風船の空気を抜くにはそんな直接的で、唖然とするようなことを言った。
 てっきり精神的にどう声を掛けたらいいか、とか、優しくするには、とかそういうことだとばかり思っていたのに、お風呂と揚げ物とマッサージ、だなんて。
 あまりにびっくりしすぎていたら山中さんの奥様は、鰻は胆力の強い人には元気になりすぎる場合もあるから、ここぞという時にねっ、とウィンクした。
 聡は胆力がある、と思われているんだ……と気は遠くなりそうだった。でも、確かに男の子、というか私の兄弟は皆カロリーの高いものは好きだった。でも揚げ物じゃなくて焼き肉系が好みだったけれど。
 そんなことをつらつら考えていたら、聡と一番幸せに抱き合った日の事を何故か思い出した。初めてのキャンプから帰って来て、日帰り温泉に行って、そこで聡はアジフライとエビフライのミックス定食を食べていた。
 その日、マッサージはしていないけれど、初めて聡の前で素直に甘えた。
 リラックスできる環境にして、栄養のあるものを食事に出して、スキンシップをする、ということですか、と改めて聞くと、それが私の主人攻略の基本ね、とにっこりされた。攻略、そんな気持ちを聞いて、目の前にいる人生の先輩は、冷静に観察して本当に必要なことを、大切にしている人にしているんだろう。そう感じた。そして、そうやって誰もが大切なひとの一助になっている。
 世界は、優しく、そして暖かくひっくり返る。こう、なりたい。聡と一緒に。

 聡の安らかな寝顔の傍に横たわり、お布団を掛け直した。本当はTシャツだけでも着せてあげたいと思ったけれど、眠っている大きな身体はビクともしなくて諦める。
 まあ、いいや。お布団をきちんと掛けたら、大丈夫、大丈夫。
 とろり、と眠気の気配は、充実感でいっぱいの身体にふうわり、と降りてきた。
 むにむにと口が動いて、深い呼吸で眠っている、大好きなひとのあどけない顔。
 私、聡の寝顔が好きかも。これからも、ずっと、私だけが見たい。
 顔は自然と綻び、柔らかい栗色の髪を撫ぜて、それから灯りを消した。

 それから私は長い長い年月、まさに生涯を掛けて、聡の『苦しかった一日』を知ることになる。
 突然、起こった事実を淡々と細切れに話して、いきなり止めてしまう、その繰り返しにも根気良く付き合った。時に、聞き逃しそうにもなった。時に車を運転していて、近くで起こったパンクの破裂音で、路肩に停車してから固まったようになった聡の大きな身体を、ずっと抱き締めていたこともあった。言い訳のように情けないな、俺は弱いと呟いても柔らかく微笑んで抱き締めた。

 愛されているという実感があるからこそ、ごくたまに見せる聡の脆さを、私はぬくもりと愛の言葉でそれが生きている意味だと示した。

 発砲音が近くで鳴り響いたら、迷わずにクロゼットなどに身を隠すよう教え込まれていた少年は、家の中で耳に張り裂けるような音を聞いた時、迷わずに一番近くの姉の部屋のクロゼットの、死角になる隙間へ滑り込んだ。階下にいた父親の安否を思い、近づいて来る複数の足音に身体は震え上がった。
 家探しする荒々しい音と、数度の発砲音。ついに姉の部屋のドアを開けられて、耳をつんざくような発砲音の後、低く『違う』と声がして、訛りの強い言葉で罵り合う声がした。
 証拠を消せ、くそっ、家を間違えた。壁を蹴り付け大きく穴が開く音がほんの近くで聞こえて、恐怖に震えていた少年は物音を立ててしまう。
 誰か居るのか、銃へ自分の時を止める弾が装填される音と、クロゼットの中に射した明るさ。

 死ぬのだ、と容赦なく理不尽に突きつけられた絶望を、私が正しく理解出来る日は多分来ない。無惨な姿に変わり果てた父親の遺体を見つめた時の慟哭も。

 気がついたら日本にいた、そう聡は言った。そして、子ども達も日本人として生きることを条件に母の実家へ戻った時に、もう一つの名前を失った。永遠に。

 身体を殺されかけて名前を殺された少年は、中々この国に馴染めなかった。年月を経て持ち前の賢さと器用さで立ち回ることは出来るようになるにつれて、本音は隠すようになった。何もかもを微笑みを浮かべ、何処か冷めた目で見ていた。
 森に入るときだけは違った。その濃い緑のむせ返るような匂いに、葉ずれの優しいさざめきに、優しく楽しかった父親との時間を穏やかに思い出した。大学に入ってからは実験の合間を縫って、時間を見つけては山々を巡った。この時だけ、失ったもう一つの名前の自分になれるのかもね。森の中へ一緒に行くたびに聡はそう言って笑った。悪戯っ子のような顔をして。

 寂しがりで、心配性で、理屈で物事を考え、口撃能力は高い、甘えたがりで、執着心は強め。プライドは高い方で、果てしなく大きな夢をもっている。
 貧しいひとも辛い目にあっているひとも、誰もが継続して冷え切った寒さを感じず過ごせる世界を作りたい。そして、森の緑を守ること。相反するような二つの事を成り立たせることが、聡の夢。

 それが叶ったのかどうかは、遠い遠い未来のまた別の話だ。


「ヴェールが重い、首もげる、ずぇったいもげる。もうやだ、前見えにくい」
「ぶつぶつ五月蝿いわ、あんたがそれでいいって言ったんでしょ。諦めなさいよ」
「丸め込まれたんだって!」
「はいはい御馳走様。あんたは下手くそよ。上手いこと煽てておけばいいのに、馬鹿正直に聡さんへ向き合うんだもの。口じゃあ敵わないのなら頭使いなさいよ」
「見たでしょ、煽てたらすぐネトネトくっ付いてくるのっ」
「それがあんたの旦那なのよ」
 本当に減らず口というか、我が母ながらイラッと来る。いつも髪の毛振り乱しているのに、今日は自前の黒留袖に美しく結い上げた髪で私の前へ立っていた。
 ああ苦しい、ウェディングドレスを美しく着こなすには寄せて上げて寄せて、の繰り返しで偽物の巨乳を作り出す作業が必要なのだと今朝知った。偽乳は総レースのオフショルダーの下で存在を主張しているけれども、偽物は偽物だよ!
「まあ、減らず口叩いていても幸せそうだから、いいんじゃないの。あんたが選んだひとなんだから文句ばっかり言わないで大事にしてやんなさいよ」
「お母さんだってお父さんを大事にしたら?」
「あのねぇ、お父さんは少し冷たい位じゃないと無謀な提案をボコボコ出して来るでしょう。今だってまた懲りずに支店出したいって五月蝿いのに、野放しにしたら何しでかすか」
 ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえて肩を竦めた。その父は今着替えの真っ最中だ。ギリギリまで店にいて、一人で急いでやって来た。この後リハーサルをして直ぐに本番だ。
 控え室をノックする音がして、予定を変更して先に少しだけ控え室で写真撮影をする、とウェディングプランナーさんが声を掛けて来て立ち上がる。どうやら父は派手なメッセージTシャツを着て来たらしく、下着が無いのは嫌だと騒ぎ、一番上の始兄がホテルの下にあるショッピングゾーンへ買い物に出たらしい。母は激昂して、控え室を出て行った。
 大きな白のドレッサーがある控え室は、フォトスタジオのように可愛らしい小物や家具がちりばめられている。小さなシャンデリアを見上げて、とか窓の外を、とか、カメラを持ったお姉さんに指示されながら、照明を当てられ、次々にシャッターを切られた。大きなビデオカメラを肩にしょったお兄さんもいて、やり過ぎだよ、と思いながらも、淡々と指示に従う。
 式の時、誓いのキスで聡は必ず濃くて長い酸欠になりそうなキスをしてきそうだ、と危惧を抱いた私は、ほっぺのキスにして欲しいとお願いをした。案の定、面白くなさそうな顔をしていたけれど、じゃあ、ビデオ撮影したい、そう言われて渋々譲歩した。密着に近い形で頼むと結構なお値段になるから、節約したかったのになぁ。
「ご新郎さま、入りまーす」プランナーさんの声に目線を上げると、鏡越しに聡の姿が見えた。最上級にニコニコして、生成りと茶のタキシードを着たひとが後ろ手にしながら近づいてくるのをしらーっと見つめた。
「とても綺麗だよ。可愛い」
「ソウデスカ」
「ドレス、似合っているよ。やっぱりこれを選んで正解だったね」
「……ソウデスネ」
「何で、片言?」
「これから始まる茶番にうんざりしているのっ。何なの、式の前にもう一度プロポーズとか、要らないからぁ!」
 叫んだ途端、ウェディングプランナーさんが慌てているのが目の端に入った。でも聡はお構いなしに私の前へ跪く。サプライズでされると聞いていた。でもそういうの嫌だって言ったのにっ。
「大石綾乃さん、結婚してください」
 両手で捧げるように瑞々しいブーケを差し出されて、悪びれない聡の顔を睨みつけた。ご新婦さま、笑って下さい、って促されても、笑えないよっ。断っちゃおうかなあ。
「今、キスは無しなら、結婚します」
「………勘が良くなったね、綾乃は」
「そんな記録映像、残したくないの」
「ほんの少しだけ」
 おねだりするような目線で聡は見上げて来る。このひと、最近こんな小狡い手を使うようになってきた。渋々受け取りブーケから一本、デコレーションした濃いピンクの薔薇を抜き出すと、立ち上がった聡の胸ポケットへ差した。びっくりしているけれど、私一人の時にプランナーさんと打ち合わせ済みですから。
「………何で、逃げ腰?」
「だって、どうして腰に手が回っているの。ほんの少しなのに」
「逃げられるとしにくいからだよ」
「すっごい最大限譲歩してるのっ。見られている中するの、嫌なのっ」
 ぐぐっ、と身体を反らすと、大きな手の力はふっ、と抜けた。
「じゃ、見えなければ、いいんだ」
「へっ?」
 それまで座っていた白い円形の大きなスツールの上へ、いきなり抱え上げられて立たされた。わらわらとプランナーさんやら介添えの方がやってきて、ブーケを受け取られ、美しいレースの裾を直してくれているのに気を取られているうちに、聡は後ろへ上げていたヴェールを素早く、私達二人がすっぽりと隠れるように被せた。
「これで見えないよ」
「…………そ、そういう問題じゃ、なあい!」
 丁度目線は同じになって、綺麗なはちみつ色の瞳が褒めて、褒めてと言わんばかりに輝くのを睨みつけた。なのに聡は両手の指と指を絡まり合わせ、柔らかく愛の言葉を囁く。
 私への永遠の愛を誓う、その表情は喜びに満ち溢れていた。気持ちは緩んでいく、穏やかに。細まったはちみつ色がゆっくりと近づいて来て、柔らかなキスを思わず期待してしまう。
「…………ん」
 でも結局こうなるのか、と思いながらも素早く侵入してきた舌を押しのけようと必死になった。物凄くシャッターを切る音が響いて、耳まで熱くなる。角度を変えて、喰むようなキスは何度も繰り返された。
「もう、ヤダぁ」
「もう?仕方ないな」
 ゆっくりとヴェールは上げられる。何故かその場に居合わせたスタッフの皆さんに拍手されて、目を伏せた。恥ずかし過ぎるよ、もう。


「あれ見てみれ、手繋いでるっぜ。かれん、じーちゃんを振ったな」
 腕を組んだ父の目線は、目の前のリングボーイをする聡の甥っ子、祥一郎くんとフラワーガールをする始兄の長女、かれんに注がれている。これから結婚する娘には何も無し。それどころか孫にやきもきしてるって、嫌になる。聡にそっくりな祥一郎くんと、私に目元が似ているかれんは、初対面なのにリハーサルの時から同い年な事もあってか仲良く遊び出し、さっき可愛らしく祥一郎くんが手を差し出したのを、かれんが嬉しそうに握っていた。
 別に自分達に似ているから二人を選んだのではなく、六歳から十歳位の小さい子をお互いの甥っ子姪っ子からチョイスしたら、たまたま偶然なんだけれど丁度歳の釣り合う二人になった。式場の扉が開くと大きなどよめきは起こった。分かるよ、新郎新婦に似たミニサイズが盛装して手を繋いでいたら、それはそうなる。
 聡との身長差を埋めるための厚底ヒールは、とても歩きにくい。裾を蹴り上げるように、なおかつ優雅に歩くことを心がけて下さいと言われて、それのみに集中する。それでもたまに客席をヴェール越しに見ると、高橋さんや平林さん、山中ご夫妻や植田さん、希の笑顔に出会う。東京から来てくれたアレクサンドルさんや、渡瀬さんと廣田さんも今日は笑っている。ニヤニヤだけれど。
バージンロードの上にはかれんが撒いてくれた花びらが色鮮やかにあった。その跡を父と腕を組みながら、辿っていく。
 緊張した様子もなく、胸を張って歩いている父と腕を組むのは初めてのような気がする。余り二人で過ごした思い出もない。何処かへ行ったこともないし、家にいるときは寝てばっかりだった。
 なのに、歩調は私へ合わせてくれているのか、ぴったりと合った。聡が嬉しそうな顔で待っている。ついに辿り着いた時、父は聡へ娘を宜しくな、と言い繋いでいた腕を差し出した。その肩越しに母や兄弟たちがみんな同じ顔をしていた。ちょっとだけ泣き出しそうな顔。
「大切に、幸せにします」聡の想いに父は一つ頷く。それだけで充分だった。聡と腕を組む時に聡のお父さんやお姉さんは感極まった表情なのに、実和子さんは静かに微笑んでいるだけだった。でも、その手には小さな折り畳みの写真立て。日本的にしてみたわ、と涼しげに控え室で微笑んでいた。
 健やかなる時も、病める時も。お決まりの誓いを立てて、祥一郎くんが持って来てくれたリングを交換した。
「それではこちらの宣誓の書類にサインをしましょう。お二人はこちらに、どうぞ」
 牧師さまの言葉に、二人で脇にある小さな演題へ移動して先に聡が名前を丁寧に羽ペンで書き込む。
『上條聡』とだけ書かれた宣誓書をそっと私の方へ動かしたのを見て、もう一度聡の前に戻した。
 びっくりした顔で聡はこちらを見ている。どうやら意味を分かってはいないよう。
「名前、書いて?」
「書いたよ。ちゃんと」
 普段はとっても勘がいいのに今日に限ってなのか、それとも本気で忘れているのか。忘れているのなら聡の中で、奪われて無くしたものなのだと改めて感じる。
「もう一つ、あるでしょう」
 笑いかけると聡の眉間に皺が刻まれた。聡の名前の欄だけ、プランナーさんに相談して特別に書く所を多く取って貰った。長い名前でも、書ききれるように。
 一度躊躇って、それからさらさらと流れるように書かれた名前のその人も、また彼の一部分なんだ。
 もう一度前に置かれた宣誓書にはきちんと二つの名前があった。上條聡とアンドルー・サトシ・マディスン。どちらも私の大切なひと。
 書き終えて聡を見上げると、複雑そうな顔でこちらを見ているはちみつ色と目が合った。ありがとう、低い声は少しだけ湿っているような気がしたけれど、笑いかけてみる。
「ほっぺ、だけにしてね、お願いね」
「分かっているよ、分かってる」

 でもこの直後長い長い、色々なひとの語り草になりプランナーさんにすら『初めてご新婦さまがギブアップ、とおっしゃったキスを拝見しました』と言われるくらいのほっぺキスをされたのは、余談だ。

 幸せな時も困難な時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し慈しみ、貞節を守り、そうして暮らしていく。そう誓った。

 二つの名前を持つ、愛するひとへ。

品88 天空橋経由 新宿駅南口行き

 ーーーーー二年後


「綾乃、身体がキツいと思ったらちゃんと早退させて貰うんだよ。それからバスには必ず座って。立ってよろめいて、転びでもしたら大変だからね。あと、貧血気味なんだから薬は忘れずに飲むこと、それから」
「……ねぇ、毎日毎日同じことを繰り返して言って、飽きないの」
「大事なことを言っているんだよ、ちゃんと聞いて」めっ、って怒られた。延々と注意事項は続く。長く、長く。うん……長すぎる。
 私の夫は、とにかく心配性でドSで、世界一私を愛しているようだ。たまにウザい時もあるけれど。

「あ、そうだ、私ね、今日は夜、飲み会だから」
「はあ?聞いていないよ。何時決まったんだ」
 お日様が柔らかく入って来ているリビングダイニングのテーブルに座って、タブレットの新聞を読みながら朝ごはんを食べていたスーツ姿の聡へさりげなく言ったのに……うん、ちゃんと聞いていたんだね。
 くわっ、と顔は上げられて、中身が空の汁椀はタンッ、と小気味良い音でテーブルに置かれた。
「一週間位前だよ。山中さんが出張でこっち来ていて東京事務所の人達と飲むっていう話で、その輪に入れて貰ったの」
「綾乃、そういうことは早く言って」
 ゴゴゴ、と音が鳴るように聡は黒いオーラを出し始めた。言ったらずっとドSを発揮するでしょう。そう思うけれどまあ、それは言わない。代わりにちゃんと奥の手は、ある。
「山中さん、県産品フェアのPRで来ていて、そこに出している牡蠣持ってきてくれるって、言っていたんだよね」
 ぴく、と聡は反応した。流石このひと賢い、すぐに意図は掴んだようだ。黒いオーラは霧散していく。
「取り寄せで案内しているあの牡蠣もいい物だけれど、山中さんの持って来てくれる牡蠣は、一級品、らしいんだよね」
 ちろり、と聡はこちらを見ている。うんうん、あと一押しだね。
「今の時期なら、牡蠣鍋もいいけれど」
 私の中途半端な言葉に、聡はごくり、と唾を飲み込んだ。
「牡蠣フライもいいかなぁ、なんて」
「牡蠣フライがいい」
 そう即答された。yes,I win. 揚げ物万歳!
「じゃあ、今日受け取ってくるね。飲み会の時に」
 笑顔でそう言ったら、聡は何とも面白く無さそうな顔をした。牡蠣フライだよー食べれるんだよーと目線で訴えると、仕方が無さそうに聡は言った。
「一次会だけで、帰っておいで。場所は何処?帰りは迎えに行くから」
「新宿の何処からしいけれど、付いて行こうと思っていたから、聞いてない」
「……じゃあ、必ずメールして。いい?」
「はい、お夕飯は冷蔵庫に入れておきます。明日のお夕飯は牡蠣フライだね」
 そもそも、仕事は忙しいようで帰りはいつも、とても遅い。なのに迎えに行くと言い張っているけれど、大丈夫なのかな。まあ、いい。やっぱり行けなくなった、タクシーで帰ってこいと言われるのがオチだろうね。
 でも、たまに早く帰ってきたりするから、油断はならないけれど。

「冷やさないように暖かくして外に出るんだよ、具合が悪かったら帰ってくるようにね」
「はいはい」
「ご飯ちゃんと食べるんだよ、水分も取って」
「うんうん」
「ヒールのある靴は履いたら駄目だからね、分かっている?」
「分かってる、分かってる」
「……じゃあ、今言った事を全部繰り返して、言って」
「あったかくして、バスには座って、ご飯食べて、ぺったんこな靴履け、でしょー」
「違うっ、具合悪くなったら帰ってこいが抜けている!」
 せっせ、せっせと茶碗を洗いながら、すっかり洗い物担当になった聡が叫ぶ。こういう時に、アイランドキッチンはとっても不便だなあ。部屋の中何処でも見渡せるって、逃げも隠れも出来ないし。
 知らんぷりして洗濯籠を持ってベランダへ出ると、洗濯物を低い置き型の固定された物干しへ掛けていく。階数が上になるにつれて、洗濯物を上から吊るすタイプだと、途端に風に持って行かれて行方不明になる。シーツなどの大物は非常に干しずらいけれど、まあ、文句は言えないね。風に当てるだけでも違う筈。
 南東向きのこの角部屋の2SLDKは、実和子さんの持ち家で、駅から徒歩五分のタワーマンションだ。家賃は、うう、この辺の相場を見てふらっと倒れそうになった程度の半額を実和子さんへお支払いしている。駐車場代だけで故郷ならば小さな部屋は借りられるけれど、最近その辺の感覚が何だか麻痺しつつあり、非常に恐ろしい所だ。
 最初、私はここに住むつもりは無くて、もっと郊外に部屋を借りるもの、と思っていた。でも、聡と聡の家族から東京に働くひとの通勤時間の長さと過酷さを聞かされて、半ば脅されて、ある家は利用なさいと言われて、結局ここへ落ち着いた。十八階からの眺めはなかなか良くて、遠くにお城跡の大きな緑の森が見える。夏は正面に神宮の花火も見える。crazyだ。いいお天気だな、今日も。
「寒いから、干し終わったら戻っておいで」
 リビングの窓から、聡は呼んでいる。籠を持って戻ると、それは聡にそっと取り置かれ、複雑そうな顔をしたまま両腕は広げられた。そこに入り込むと、軽く抱き締められる。ベランダへの窓は、後ろで閉まった。
「心配、しているだけ、だから」
「分かってる、大丈夫だよ」
 まだお化粧していなくて、良かった。ネクタイのすべすべした肌触りと、何時ものグリーンノートの香りにこころ安らいでいく。愛してるの、そう私が呟くと世界一大切な夫は、ぎゅう、と両腕の力を強くしてきた。

「お弁当持った?ハンカチ、ティッシュは」
「大丈夫、ある」
 玄関であちこち探った聡は、うんうんと頷いた。そう言いながらたまに、ぽっかり忘れ物があったりする。結婚して知った、聡のとぼけたところ。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
 そうして濃い口付けをされた。長く、熱心な毎朝のキスは、結婚直後から欠かさず続けられている。よく、飽きないなあ、と思うけれどコレをしなければ一日頑張れない、と迫られて、まあ、いいかと応えたのが運の尽きだ。これも朝からお化粧の出来ない理由。
「よしっ、行ってきます」
「……はい、行ってらっしゃい」
 雑紙が沢山入ったビニール袋を持って、スーツに恰好良いトレンチコートの聡は、くしゃ、と私の頭を撫ぜた。そして扉を開けて出勤して行った。
 ふう、と一息。さあ、お茶を飲んだら家事するかーとリビングに戻った。サイドボードの写真立ての中では、グレーのフロックコートの聡と、真白のウェディングドレスの私がいつも嬉しそうに笑っている。

 お昼を早めに食べ、通勤用の服へ着替えてお化粧をして、コートを羽織り荷物を纏めたら、戸締りを確認して家を出た。今日の聡の分の夕食は、鶏肉と大根の煮物と、ポテトサラダ、あとは常備菜を食べて貰えるように、皿へ盛り付けて冷蔵庫へ入れて置いた。帰ってくるかは微妙だけれど、まあ、いい。
 エントランスまで降りて、ニッコリ笑っているコンシェルジュさんに挨拶して頭を下げると、行ってらっしゃいませ、と声が響いて追いかけてくる。こういうのに未だに慣れない。多分慣れることは、ないね。
 外へ出るとお揃いのカラー帽子を被った小さな子供たちが、二列になって手を繋いで、目の前を通っていた。多分この先にある保育園の子どもたちのお散歩なのだろう、歩いている子どもたちに手を振られたので、振り返しながらのんびりと待った。一番最後を歩いてきた若い保育士さんの身体つきに、目は釘付けになる。この辺りに住んでいる人かな、でも違うかな、多分私と同じ位。お友達が、欲しい。切実に。
「こんにちは、すみません、通らせてもらってます」
「こんにちは」
 申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた保育士さんへ、笑顔を向けてみた。一瞬驚いた顔をした保育士さんはにっこりいい笑顔だ。列を見送ると、新宿通りに向けて歩き出す。
 交差点にある信号を向かい側へ渡ってバス停に近づくと、もうすぐバスがやって来る、というアナウンスが流れた。
 誰も居ないバス停で、バスを待つ。ラッシュがすっかり終わった時間でも、ここのバス停には十五分に一本の割合でバスがやって来る。品川駅を起点としてやってくるこの路線は、私の勤務している県産品を販売するショップのすぐ近くの停留所が終点だ。
 県庁を退職する時に、美人過ぎる知事から辞令を受け取り、ちょっとした雑談で結婚して東京へ行くこと、それでも県に関わる仕事がしたくて、東京へ行ってから求職しようと考えています、と言ったら、春の終わりに県庁と県内有名百貨店がコラボした、いわゆるアンテナショップが県の東京事務所の一階にオープンするけれど、観光案内コーナーで働かないか、と山中さんから連絡を貰った。
 聡に相談すると、一番いい職場じゃないか、と賛成されて、週に四日、パートタイマーとして一日八時間、出勤をしている。仲間も県の出身者や、所縁のあるひとばかりで、観光案内だったらのんびりまったりな雰囲気の仕事か、と思いきや結構忙しい。
 東京のひとたちは時間が限られている人ばかりなのか、そんなスケジュールで旅行したら移動だけで終わっちゃうよ!というような、強行突破型なタイムテーブルを組むひとは多くて、しかもそれをドヤ顔で見せられたりする。事実、東京の旅行会社が置いていく旅行パンフレットは、強行軍とも思えるスケジュールが載っていて、それが売れ筋なのだ、というから最初は頭を抱えたくなった。
 そんな来訪者の対応もしつつ、レジの応援もし、PRイベントの企画応援、県内の顔見知りの業者さんや、農家さん、漁業者さん、畜産家さん達と情報交換、旅のおすすめプランのパンフレット作成など、色々、色々仕事はある。
 でも、今迄外から故郷を見ることはなかったので、東京にいると客観的に良いところ、足りないところを感じることが出来たのは、いい経験だったと思えた。
 何より故郷に興味を持って貰い、お勧めした県産品を次に来店された時に、リピートしに来たの、と声を掛けてもらったり、逆にクレームを頂いたり、そうして都会に住むひと達の生の反応を知ることが出来るのは、何よりの刺激になった。

 四車線の一番左端を黄緑と黄色のラインの入ったバスが、遠くからやって来た。停留所から行き先を告げるアナウンスがあって、バスは静かに止まると後ろの扉は開く。ICカードをタッチして、ステップを上がると今日は満席だった。ま、いっか、十分程度で着くし。
「どうぞ、お座りになって下さい」
「あ、ありがとう、ございます」
 一人掛けに座っていたとても身なりのいい若いサラリーマン風のお兄さんが、爽やかに立ち上がり席を譲って下さった。遠慮なくよっこらしょ、と言いながら譲られた椅子へ座る。見上げて会釈をしたら、にこ、と笑顔を返された。東京って、こういうお兄さんが普通に居て、凄い。そう思うと出会ったバスの中で聡は目立っていたよなあ、と改めて思う。
 iPodを出してリスニングをしようか、と思ったけれど、まあ今日は止めておく。昨日、いきなり寝る前に英会話スクールのおさらいにと、スパルタを発揮した聡から英語で話しかけられて、とても疲れたし。
 英会話は最初、聡が教えるとやる気満々だった。が、あまりにも英会話をほぼ一日中強制され、和む筈の家に帰りたくない病になった私は、ある日聡の実家へプチ家出をした。
 気持ちに素直な娘は好きですよ、と実和子さんから不思議な歓迎をされて、まあ、色々振り回されつつ一日を過ごしたら、仕事を終えて血相変えて飛んできた聡へ、実和子さんはこう、にっこり笑って言い放った。
 あなたが浅はかさを出して下さったお陰で、綾乃さんとの楽しいひと時を頂いています。感謝致しますわ、アンドルー。
 ぐっさりと一撃で刺されて、絶望的な顔した聡をその時初めて見た。謝り倒され、それでも家出する時、俺の実家へ行くのだけは止めて、と懇願され、内心最後の砦はあそこだね、とこころに留めておいたのは、言うまでもない。

 バスは絵画用品を専門に扱うお店を通り過ぎ、老舗高級百貨店や、若い女性が沢山吸い込まれていくお洒落なファッションビルの間を通り抜けていく。
 テレビで遠い世界だと思っていた場所が日常になったけれど、私は何も変わらない。相変わらず節約しているし、すぐに悩むし、気は小さくて性格は悪い。それは聡も同じだ。相変わらずドSで、心配性で、スキンシップ大好きで、明後日の方向に優しい。それでも二人で手を繋いでいる。そして。
 まだ緩やかな膨らみを、そっと撫でる。
 聡はこの夏に社内の大きなプロジェクトに巻き込まれる形で中心メンバーとして関わることになり、海外への長期出張は増えたけれど、あと三年は東京の本社へいることになった、らしい。
 このタイミングを逃したくないから、と相談しあって、まあ主に聡が熱心に頑張った結果は、意外にすぐやって来た。
 春の終わりには、新しい生活が始まる。どうなるんだろう、楽しみのような、怖いような、想像のつかない世界だ。でもそれも日常になっていくんだろう。ここに暮らし始めた時のように。
『ご乗車おつかれさまでした。次は終点、新宿駅南口でございます。JR線、都営大江戸線、東京メトロ丸の内線へお乗り換えのお客様はーー』
 終点のアナウンスに一斉に乗客は動きだす。やがて、徐々にスピードを落としたバスは降車用と書かれた停留所に止まった。静かに進む列を座りながら眺めて、最後のひとが横を通り過ぎた後に、よっこらしょと立ち上がった。
「ありがとうございました」そう運転手さんに会釈して、バスを降りる。うん、今日はいい天気だ。さあ、仕事頑張ろう、年度末の引き継ぎまでにやっておきたいことは、沢山ある。
 歩くスピードが速い人波に乗るようにして歩くと、すぐ目の前にファションビルから伸びる白い陸橋が現れる。その脇にある幅の広い階段を、故郷より暖かい陽射しを受けて、胸一杯空気を吸い込むと、ゆっくりと登り始めた。

西63 成華園経由 県庁駅前行き

西63 成華園経由 県庁駅前行き

彼は朝の通勤のバスで毎日、私の隣にかならず座って来る。 そこから始まる、この世界の何処かにでもあるかもしれない恋のおはなし。 完結しています。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2014-12-26

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  1. 1
  2. 2
  3. sweet・surprise
  4. 彼がアウトドア系だったら、どうなる、こうなる。
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  11. たからさがし
  12. 或る日の午後
  13. 経由
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  15. 風船
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  22. 品88 天空橋経由 新宿駅南口行き